子育ての方法については様々な意見があります。子どもにも親にも個性があるのですから、しつけの仕方にも様々な提案があるのは自然なことです。

懲らしめのむち

 

子育ての専門家で「放任主義」を提唱する人はいません。しかし日常的なしつけの方法としての体罰は、ほとんどの専門家が否定的な意見を述べています。しかし原理主義的な思考を持つ人の体罰に対する見方は多くの場合、短絡的です。

 

聖書に書いてあるから

協会の出版物は専門家の意見をあまりに短絡的な思考で否定します。

*** 塔73 12/15 749ページ 20-21節 子どもにはどんな訓練が必要ですか ***
子どもの養育に関する世の権威者は,『いや,決して子どもをたたいてはならない。そのような強い処置を取って子どもの自然な性向を変え,それによって子どもに欲求不満をいだかせるようなことは避けなければならない』という趣旨の発言をよくします。1972年4月5日付ニューヨーク・タイムズ紙の論説記事は次のように述べました。「…体の大きな強い者によって加えられる,痛みを伴う故意の処罰が,力こそ勝利という哲学以外の何かを教え込むとは考え難い」。しかし,このような見方は正しいですか。子どもの誤った行為を正す目的で身体的な処罰を用いることは誤りですか。 神は人間の創造者です。神に勝る権威はありません。神のことばはこの点できわめて明瞭です。それはこう述べています。『子を懲らすことをせざるなかれ むちをもて彼を打つとも死ぬることあらじ もしむちをもて彼を打たばその魂を〔シェオール〕[墓]より救ふことをえん』。(箴 23:13,14,〔新〕)・・・「エホバは自分の愛する者を懲らしめる……事実,自分が子として迎える者をすべてむち打たれるのである」と聖書は述べています

上記の文面を分析してみましょう。まず「子どもの養育に関する」専門家の意見があげられています。専門家は体罰の問題点を具体的に述べ、「痛みを伴う故意の処罰」が子どもに与える心理的な影響をあげています。それに対して後半の体罰を推奨する協会の文面はどうでしょうか?体罰を推奨する理由はただ「聖書が述べている」からであるとされています。専門家の意見を否定するのであれば、せめて専門家が述べるその意見に対して具体的な反論をあげるべきでしょう。

懲らしめのむちを否定する者は自由放任主義

さらに体罰に対して否定的な意見を述べる児童心理学者に対しては「自由放任主義 対 懲らしめのむち」という図式を無理やり当てはめて間違った印象を与えています。

*** 目87 5/22 11ページ お子さんを正しい方法で訓練してください―しかも,幼い時から! ***
自由放任を擁護する心理学者たちは,我が子の尻をたたく親は子を憎んでいる,と言います。これは正しくありません。自由放任は憎むべきです。それによって全世界に青少年の非行や犯罪の洪水が押し寄せ,幾百幾千万という親が悩みを抱えるようになっています。箴言 29章15節に,「したい放題にさせて置かれる少年はその母に恥をかかせる」とあるとおりです。

わたしは体罰に否定的な意見を述べる専門家で自由放任主義を提唱している人を見たことがありません。上記の文面を読んだ読者は、体罰の否定はつまり自由放任主義であると考えてしまうでしょう。しかし実際には専門家が体罰に対して否定的な意見を述べるときは、それが及ぼす心理的な影響を考えてのことであり、放任主義を擁護しているわけではないのです。「放任 もしくは むち」という考え方が短絡的です。(協会の出版物の1990年代以降は、このような短絡的思考の文面が減っています)

補足記事:「ベンジャミン・スポック博士」も御覧ください。

日本のエホバの証人の反応

子育てに関する協会の出版物は一般の児童心理学の本に比べて優れた事を述べているとは思えません。しかし聖書による権威づけがなされていることが魅力の一つなのかもしれません、日本では体罰を伴った厳格なしつけが大方受け入れられました。日本では出版物の文面以上に誇張されて受け入れられているようにも思えます。以下の日本からのコメントはそのことを表しています。

*** 目77 11/8 27ページ 日本の「喜びに満ちた働き人」地域大会 ***

大会でバプテスマを受けた一人の主婦は次のように語りました。「真理にはいる前あるサークルに属し,子供に決して体罰を加えてはならずほめて育てるようにと教えられていました」。しかしプログラムを通して幼い時からエホバの懲らしめと精神の規整によって育てるよう学びました。

ここでは「ほめて育てる」子育てが厳格な子育ての基準からして間違っているかのように語られています。

集会で静かに座らせるという目的

*** 目92 1/22 30ページ 読者の声 ***

子育て 「世界各地の子育て―親の愛,懲らしめ,手本,霊的な価値観」という記事(1991年9月22日号)は,聖書研究を始めて日の浅い私にとって大きな励ましとなりました。クリスチャンの集会に出席し始めたころ,いつも息子は暴れ,激しく泣いていました。でも,司会者の姉妹の助けと,皆様が出版してくださった雑誌の励ましのおかげで,今では報いを刈り取っています。現在,息子は2歳半ですが,集会中は静かに座っていますし,注解も少しできるようになりました。 M・T 日本

上記の日本からの「読者の声」はエホバの証人が「懲らしめ」を行う一つの理由を明らかにしています。2歳半の子どもが1時間以上の集会で静かに座っていられるようになったことが誇らしく書かれています。しかし、そのためにどれだけの「懲らしめ」がなされたのかはわかりません。この目標に到達したことは単純に「報いを刈り取った」と喜べるものなのでしょうか? 子どもが早い段階で秩序正しく振舞える様子は大人にも感銘を与えるものになるかもしれません。しかしこの考え方には潜在的な問題があるように思えます。一般的には2歳半の子どもを1時間おとなしく座らせることを子育ての目標にはしません。通常は年齢に応じた適応性を認めます。その目標のために体罰を用いるのであれば、恐らく集会に行くことや伝道に連れて行くことなどの宗教的な活動を行わせるためにも体罰が行われることでしょう。そして「奉仕に出たくない」という罪のためにお尻を叩かれることが日常的に行われるかもしれません。究極的には子どもをエホバの証人にするということが体罰の目的になる可能性があります。

児童虐待につながる恐れ

エホバの証人の親が行う子どもの訓練は将来社会に出た時にプラスになるものもあると思います。厳格なルールに慣れているほうが社会の秩序にもなじみやすいかもしれません。しかし宗教的な動機ゆえに行われる子育てが児童虐待につながる場合があります。「子ども家庭総合研究事業」の報告は次のように述べています。

親の信仰が影響した児童虐待 

愛情はあっても不適切な養育や厳しい躾により心身の健康を損ない治療を要する状態に至る場合もある。このような虐待例の中に親の信仰によるものがある。

http://www.niph.go.jp/wadai/mhlw/1999/h1121010.pdf

エホバの証人が持つ独特な考え方には次のような問題があるように思えます。

  • 聖書至上主義が持つ問題

単に「聖書が述べているから」という理由で「懲らしめのむち棒」に特別な力があると思うかもしれません。その結果、厳格なしつけが及ぼす副作用に目がむかないという恐れがあります。

  • 宗教教育がしつけの目標になる

子どもたちは親とは別人格として扱われる必要があります。親が自分の宗教を受け入れさせるために体罰を利用するのは親の権威の乱用と言えます。

  • ハルマゲドンを生き残るという基準

エホバの証人の親は子どもが宗教的に異なる立場をとった場合に間近に迫ったハルマゲドンで滅ぼされるという考えを抱きます。そのため子どもの「教育」に熱心になるかもしれませんが、その教育方法は極端なものになるかもしれませんし、「真理から離れた」子どもを差別的に扱う可能性もあります。

宗教教育の限界

親は宗教を選んだ時、何かの理由があったに違いありません。宗教を選ぶ自由はすべての人に与えられています。そして自分の持つ宗教的信条をもとに子どもを教育することも認められています。しかし宗教教育には限界があることも認めるべきです。子どもは親と同じ見方をしないかもしれません。その場合、親がどんなに強い信仰を持っていたとしても、別の人格を持つ子どもがその宗教を選ばなかったということを受け入れるべきです。

目ざめよ!誌は次のように述べています。これを自分たちにも当てはめるべきです。

*** 目86 11/22 13-15ページ なぜ親の宗教を受け入れなければならないのか ***

公平であるためには,正当な理由があって両親の宗教に従わない人たちもいるという点に触れなければなりません。

親が強い信仰を持っている場合、子どもの宗教の選択に関して冷静な対応をすることが難しいかもしれません。しかし以下のものみの塔に述べられているエホバの証人の女性が自分の宗教を子どもが選ばなかったときに示したような態度は取るべきではありません。

*** 塔07 1/15 17ページ 子どもが反抗の道に進んでも堅く立つ ***
ジョイというクリスチャンの女性は,息子がエホバ神を愛する人になるよう一生懸命育ててきました。しかし,その息子は十代後半になると,親に反抗し,家を出て行きました。ジョイはこう言います。「今まで経験したことがないほど深く傷つきました。裏切られたように感じ,挫折感に襲われました。悲しくてどうしようもなく,消極的な考えばかりが浮かんできました」。

深く傷つくのはわかります。しかし裏切られたように感じたと述べるのは自己中心的な考えが背景にあるように思えます。子どもも深く傷つき、裏切られたように感じているかもしれないことを忘れているように思えます。子どもは親の管理下に置かれて、自分で宗教を選ぶことが出来なかったかもしれません。もしかしたら親の宗教の偽善を見たか、聖書理解の間違いを認識したか、あるいは何か別の正当な理由があって親の宗教に従わなかったのかもしれません。

このような時こそ、親は子どもの目線に立ち、自分が真理と確信していた事柄がなぜ子どもに説得力がなかったのかを考える必要があります。

親が宗教教育にとらわれて子どもとの健全な関係を築けないことがあるとすれば、それは親が考えを正すべきときなのかもしれません。

 

記事の終わり