生活のあらゆる分野を規定する

パリサイ人と呼ばれるユダヤ教の宗派に属する人は、モーセの律法には書かれていない細かい規則を規定するようになりました。そのような試みが及ぼした影響について「聖書辞典」の説明がものみの塔の記事に引用されています。

*** 塔82 6/1 9ページ 「重い荷」を軽くしてくださったかた ***

ジェームズ・ヘイスティングズ編の「聖書辞典」の中に次のように書かれています。…

考え得るあらゆる事例を律法のわく内に収めようとする試みはこうして行なわれた。法的な細かい規則が増えてゆき,宗教が商売にまでなり,生活は耐え難い重荷になっていった。人は道徳的な機械人間になりさがってしまった。良心の声は押し殺され,神の言葉の生きた力は骨抜きにされ,延々と続く規則の塊の下に埋もれてしまった。

では次に、ものみの塔の本部がまとめた「支部事務所の問い合わせに答えるための助け」と題する本の目次(索引)を見てみましょう。(レイモンド・フランズの In Search of Christian Freedom 242頁からの引用)

ここでは生活の多岐にわたる面がマニュアルとして規定されていることがわかります。上記のようなマニュアルがなぜ必要になったのでしょうか?1970年代に統治体の成員であったレイモンド・フランズは次のように説明しています。

「神権的」律法主義の期間
1950年代にエホバの証人のための徹底した律法が形作られました。ルールや律法の法体系はほとんどすべての生活を網羅するようになりました。このような事態は主に1944年以降に導入された排斥制度」が強調されるようになってから10年の間に進展しました。

レイモンド・フランズ – In Search of Christian Freedom p.247

排斥制度が導入されると今までになかった現象が生じます。各地で起きる様々な宗教裁判の事例に対して会衆の長老は支部に、支部は本部に対して「○○の事例は排斥処分に値するのか」という問い合わせを行うことが相次ぎ、細かな規定が必要になったのです。

実際、「統治体会議」の中ではしばしば細かな法体系を作成するための話し合いに時間が費やされていたことをレイモンド・フランズは証言しています。

「会議では次第に次のような議題を扱うようになっていった。子供が十八歳にしかならないのに結婚を認めるような父親に長老としての資格があるかどうか。子供が高等教育を受けるのを認めるような人に長老としての資格があるかどうか。交代制の仕事をしていて(夜勤の時)会衆での集会に出られない人がいるが、その人に長老としての資格があるかどうか。長老は、不貞の状況証拠、あるいは夫が不貞を自分に告白したという妻の証言を受け入れるべきか。この場合、このことが聖書的な離婚、そして再婚を許すのに足るものか。不貞があった場合でも、離婚を求めているのが不貞をされた方ではなく、不貞を自ら行なった方であるような場合、離婚は聖書的に受け入れられるのか。不貞以外の理由で離婚してしまい、その離婚の後になって離婚前の不貞の事実が明らかになった場合、この離婚の正当性はどうなるか。また、その離婚の後に不貞があった場合、一体どうなるか。夫婦の二人のうち一方が不貞を行なった場合、不貞を行なっていない方が(その不貞について知っていながらも)夫婦として性的交渉を持った場合、この不貞を行なっていなかった方は相手に離婚を求めたり、他の相手と再婚したりする権利を失うか」 -良心の危機(日本語版) 57頁

1970年代には規制の対象が夫婦間の性の営みという極めてプライベートな分野にも及んでいました。レイモンド・フランズは、その影響について「良心の危機」の中で次のように語っています。

 性的な行為に関する報告や告白を受けて、長老たちは数多くの「審理」を行なった。自分たちの結婚生活の極めてプライベートな側面について長老たちの質問に答えるに際し、女性たちはひどい恥辱を味わうことになった。どちらか一方がエホバの証人でない夫婦では、そのエホバの証人でない方がプライバシーの侵害であると言って強く抵抗し、事態が紛糾することが多かった。結婚が破綻し、離婚に至った例もあった。 – 良心の危機(日本語版) 59頁

以下のサイトの「寝室に入り込むエホバの証人の規制」をご覧ください。
http://www.jwic.info/franzbio.htm#8

1978年になって協会は夫婦間の性行為に対する見解を変えます。「聖書の明確な指示がない」問題に首を突っ込むべきではないということにようやく気がついたのですが、訂正の記事を執筆することになったレイモンド・フランズは「統治体の最初の決定が人にもたらした困惑、狼狽、心痛、痛恨の念、そして結婚生活の破綻といったすべてを償うことなどできはしない」という感想を述べています。

*** 塔78 6/1 30–31ページ 読者からの質問 ***
聖書はこうした基本的な指針以上のことを述べてはいないので,わたしたちにできることといえば聖書の述べる事柄に従って助言を与えるぐらいのことです。これまで当誌には,夫婦間の口腔性愛などある種の異常な性行為について幾らかの注解が載り,そうした行為はゆゆしい性の不道徳と同一視されてきました。この考えに基づいて,そのような行為にふける者は,悔い改めないなら排斥の対象になるという結論が出されていました。それで,会衆の長老たちには,夫婦間のそうした行為について審理委員としての資格で調査し,行動する権限があるという見解が取られてきました。
しかし,この問題をさらに注意深く比較考量した結果,聖書の明確な指示がないことを考え,こうした問題は夫婦が神のみ前で自ら責任を負わねばならない事柄であると確信するに至りました。また,夫婦間の親密な行為を規制したり,その事だけを根拠として排斥の措置を取ったりすることは会衆の長老たちの務めではないことをも確信するに至りました。

 

現代のものみの塔協会が行なっていることは、旧約聖書時代のユダヤ人が行った「考え得るあらゆる事例を律法のわく内に収めようとする試み」(塔82 6/1 9ページ) とかなり類似する精神を元にしているように思えます。

 

律法を適用する

ユダヤ人の宗教指導者は導入した律法主義により業に重きを置く傾向を人々に持たせ、憐れみや同情心といった心の重要な要素を損なわせる影響を与えました。この点でものみの塔は次のように述べています。

*** 塔98 10/1 15ページ 9節 エホバの憐れみに倣いなさい ***
ユダヤ人の宗教指導者たちはこ…法典に固く付き従っているゆえに自分たちは神に対して忠節である,と考えていました。確かに,従順は肝要です。(サムエル第一 15:22)しかし,彼らは業に重きを置きすぎたため,神に対する崇拝を,堅苦しい決まり事,形だけで真の霊性の伴わない専心にしてしまいました。彼らの思いは伝統にとらわれ,心は愛に欠けていました。

ものみの塔はイエスの時代のパリサイ人の影響力について次のように解説しています。

*** 塔76 3/1 131ページ 道理をわきまえていることは生活に喜びを加える ***
道理をわきまえないパリサイ人はその伝統的な解釈に従って律法の字句にこだわった結果,苦しんでいる人々に対しても無慈悲な態度をとりました。―マタイ 23:23。

上記のようなものみの塔のコメントを読むと、組織が同情心のある態度を信者に対して示していることを期待するでしょう。では、不況の中家族を養うために苦闘している父親に対して以前に書かれた組織のメッセージを読んでみましょう。

*** 塔98 9/1 19ページ 第一にすべきものをぜひ第一にしてください ***

今晩は集会があります。ところが,しなければならない仕事もあります。あなたは何を第一にしますか。

あなたは夫であり父親です。長くてきつい一日の仕事が終わりに近づくと,晩に予定されている会衆の集会に思いが向きます。すぐに退社すれば,シャワーを浴び,着替えをし,急いで夕食を済ませて集会に行くだけの時間がちょうどあります。ところが突然,雇い主がやって来て,残業してほしいと言います。雇い主は残業手当を弾むと約束します。あなたもお金が必要です。

上記の文章を読むと状況が思い浮かびます。1990年代の日本でもバブル景気の崩壊に伴い不況状態に陥りました。アメリカで起こった「リストラ」「ダウンサイジング」と称した整理解雇ブームが日本でも起きていました。そのような中ですが、早く退社して家族と合流できれば父親にとってどれだけ良いことでしょう。しかし上記の記事が認めているようにこの家族は「お金が必要」な何らかの状況があります。残業を断ることによってリストラの対象になりやすくなることも知っています。あなたは読者として、このような状況の中で苦闘している父親に同情心を覚えることでしょう。

しかしものみの塔の記事の続く部分は聖書を使って驚くべき解説を行います。

塔98 9/1 19-20ページ 続く部分
イスラエル人に十戒が与えられて間もなく,ある男が安息日に木切れを集めているところを発見されました。それは律法で固く禁じられていることでした。(民数記 15:32‐34。申命記 5:12‐15)あなたなら,どのようにこの事件を裁いたでしょうか。この人は結局,ぜいたくな生活様式を維持するためではなく,家族の必要物を備えるために働いていたのだと主張して,その男を許したでしょうか。一年を通じて安息日を守り行なう機会はたくさんある,その人は前もって予定を立て損なったのだろうから,一度ぐらい守らなくてもたぶん許される,と考えたでしょうか。
エホバはこの件をもっと重大なこととお考えになりました。聖書はこう述べています。「やがてエホバはモーセにこう言われた。『その者は必ず死に処せられるべきである。宿営の外で全集会がこれを石撃ちにする』」。(民数記 15:35)

…木切れを集めるのは悪いことではありませんでしたが,エホバを崇拝するために取り分けておくべき時にそれを行なうのが間違っていたのです。クリスチャンはモーセの律法下にはいませんが,この事件は,今日わたしたちが優先順位をきちんと定めるうえで教訓となるのではないでしょうか。―フィリピ 1:10。

ものみの塔は「家族の必要物を備えるために」残業を行い集会を欠席することになる父親をモーセの律法の処刑された人物の例を用いて断罪するのです。

旧約聖書の中に記載されている物語や律法の中に示されている原則から学ぶことはもちろん問題ありません。しかし、安息日の規定に違反して処刑された人の話を家族のために残業して働く会社員に適用する仕方は的外れとしか言いようがありません。興味深い事にモーセの律法は600ほどの律法で成り立っているにも関わらず、新約聖書にはそれを参照するような節はほとんど見当たりません。イエスは人々を教える際に旧約聖書の律法や物語から引用することがまれにありましたが、それは人々を裁くためではなく、むしろ人を裁く指導者たちに対して人々を擁護する形で旧約の物語や律法に言及しています。(マタイ 12:3,5をご覧ください)

わたしはエホバの証人の多くが、ここで組織が示しているような同情心のない態度に比べて、ずっと憐み深く、親切で人々の状況を思いやることができる人たちであることを知っています。

しかし上記のものみの塔を読むと、本来憐れみ深いはずの人をさえ、冷たい態度で人を裁くように促す律法主義的影響力が組織内にあることを感じさせます。

そして、組織への疑念を口にした人や、もはや「兄弟と呼ばれる」ことを望んでなく社会的に普通の生活をする元信者を「あいさつのことばをかけてもならない」人として無視しつづけることを正当化できるような組織構造を見るときに非常に残念な思いがします。

 

記事の終わり