エホバの証人は今日、唯一の「神が任命された経路」が存在し「霊的な食物は神権組織を通してでなければ得られない」と信じています(宣 02/9 8ページ 5節)。

この「神権組織」という考え方は、新しいものではありません。聖書は1世紀にも排他的な精神で神の権威を主張していた人々がいたことを示しています。

(ルカ 20:1‐2) イエスが神殿で民を教え,良いたよりを宣明しておられたある日のこと,祭司長と書士たちが年長者たちと一緒に近づいて来て,彼に向かってこう言い立てた。「どんな権威でこうしたことをするのか,まただれがあなたにこの権威を与えたのか,わたしたちに言いなさい」。

「神権政治(Theocracy)」という言葉は1世紀に造られた言葉であると考えられています。しかしその言葉を考えだしたのはクリスチャンではありませんでした。

*** 塔94 3/15 31ページ 興味をそそるヨセフスの年代記 ***
ヨセフスが「神権政治」という用語を造り出したらしいことは注目に値する興味深い点です。ユダヤ民族に関しては,「権威と権力とを神に帰することにより,わたしたちの統治形態を神権政治と呼べるもの」にした,と彼は書いています。

ヨセフスが「神権政治」という用語を造り出したことは興味深いことですが、1世紀のクリスチャンの誰もそのような言葉を造らなかったことも同じように興味深いことです。

クリスチャンがなぜ「神権組織」といった言葉を使わなかったのでしょうか?次のイエス・キリストの教えが影響していたかもしれません。

(マタイ 23:10) また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなた方の指導者はキリスト一人だからです。

民主主義と比較される神権政治

エホバの証人が考える神権組織を表現する際に、民主主義との比較が行われます。

*** 鑑76 246–247ページ 第3部―アメリカ合衆国 ***
エホバの組織は決して民主主義的なものではありません。エホバは至高のかたであり,その政府もしくは組織は全く神権的なものです

通常は民主政治の逆になるものは独裁政治です。神権政治という表現だけを見ると神の直接の支配を感じさせるかもしれません。ところが、この言葉は実際には上に立つ人間の絶対的な権威を強調するものになっています。

クリスチャンに関して「神権組織」と称されるような人間の権威に重きを置くようなものを聖書が示唆しているようには思えません。例えばコリントの会衆にあった問題についてパウロは次のように述べたことがあります。

(コリント第一 1:10‐12) さて,兄弟たち,わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなた方に勧めます。あなた方すべての語るところは一致しているべきです。あなた方の間に分裂があってはなりません。かえって,同じ思い,また同じ考え方でしっかりと結ばれていなさい。 というのは,わたしの兄弟たち,あなた方について,クロエの家の者たちからわたしに打ち明けられたのですが,あなた方の間には争論があるとのことです。 あなた方がそれぞれ,「わたしはパウロに属する」,「いや,わたしはアポロに」,「わたしはケファに」,「わたしはキリストに」と言い合っていること,そのことをわたしは言うのです。

コリント会衆が分裂している問題をとりあげた際、パウロは「統治体の見解に従いなさい」とか「組織に忠実でありなさい」などと助言することはありませんでした。パウロは「杭につけられたキリスト」に従うように教えました。(コリント第一 2:1‐2)

忠実な奴隷に仕える奴隷

slave大半のエホバの証人は忠実で思慮深い奴隷に従うことによって神とキリストに従っていると考えています。個々のエホバの証人に聖書を読んで解釈したり、その解釈を人に話す自由は与えられていません。しかし協会は、個々のエホバの証人が協会から教えられた通りに教義を受け入れているという印象を与えないように言葉の表現に注意するように述べています。

塔98 3/15 19ページ 4節
エホバの証人は誤解を避けるため,自分たちの考えを述べる際には努めて慎重な態度を取ります。多くの証人たちは,「協会はこう教えています」と言う代わりに,「聖書はこのように言っています」とか,「私は,聖書がこのように教えていると理解しています」といった言い方を好みます。そう言うことにより,証人一人一人が個人的な判断のもとに聖書の教えを受け入れたことを強調でき,同時に,何となく証人たちはある宗派の命令に縛られているように思える,という誤った印象を与えずにすみます。もちろん,言葉遣いに関する提案が議論の対象になるようなことがあってはなりません。結局のところ,言葉遣いが重要だと言っても,誤解を招かないようにできればそれでよいのです。

「証人たちはある宗派の命令に縛られている」という印象は本当に間違っているのでしょうか?協会の教えに誤りがあると感じる場合どれだけの証人がそのことを口にすることができるでしょうか?そもそも聖書を学んで自分の判断で何が正しい解釈なのかを選べる自由があるなら「私は,聖書がこのように教えていると理解しています」という言葉は自然に出てくるのであって人々に「誤った印象」などは与えないのです。

パウロがコリントの従順なクリスチャンに対して述べた次の言葉を思い浮かべずにはいられません。

(コリント第二 11:20‐21) 事実あなた方は,あなた方を奴隷にする者,…あなた方に対して自分を高める者,あなた方の顔を打つ者を,だれであろうと忍んでいます。

 

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