習慣と信条 – 乾杯

日本を含めて世界の様々な地域で、人が集まるパーティーや宴会の席では「乾杯」をする習慣があります。乾杯は食事を開始するきっかけとして行われるに過ぎず、一種のマナーのようなものとみなされています。

ものみの塔協会は「エホバの証人は乾杯をしない」(塔07 2/15 30ページ)と述べています。乾杯は小さな事柄のように思えますが、人が集まり楽しくパーティーを始めようとする際に「乾杯をしない」ということがどれほど奇異に映るかを考えるならば、明確な説明が必要とされるのは当然のことです。

ではこの戒律を守るエホバの証人は、その理由をどのように説明することができるでしょうか?

神の愛 13章 154ページ 神を不快にさせる祝祭 
乾杯―宗教的な意味がある?
・・・ 多くの人には,乾杯が宗教的あるいは迷信的な行為であるという意識はないようです。しかし,ワイングラスを天に向けて掲げることは,“天”つまり超人間的な力に祝福を求める行為とみなせるでしょう。そのような求め方は聖書が述べている事柄とは調和しません。―ヨハネ 14:6; 16:23。

上記の文章は、まず多くの人にとって乾杯は「宗教的あるいは迷信的な行為であるという意識はない」と述べています。しかしすぐ次の文章では「超人間的な力に祝福を求める行為とみなせるでしょう」と述べています。

非常に不明瞭な文章に思えます。乾杯を宗教的な行為と“みなす”人とは誰なのでしょうか?結局のところ、ものみの塔協会が答えを定めて線引きをしており、乾杯を宗教的な行為と”みなす”ように信者に求めているにすぎません。

「神の愛」の本では「塔07 2/15 30ページ」が参照されています。そこでは「ギリシャ人やローマ人は食事のとき,神々におみきを献じ,また儀式的な宴の席で神々や死者に乾盃した」とされ、エホバの証人が乾杯をしない理由を指摘しています。しかしなぜかその直後に「結婚指輪にもかつては宗教的な意味合いがありました。しかし今日,ほとんどの人はそのことを知らず,結婚指輪をするのは結婚していることのしるしである,とみなされているにすぎません。」と述べて筋の通らない説明がなされています。

続いてメキシコの伝統的な習慣である「ピニャータ割り」についての協会の説明を見てみましょう。

ピニャータ

ピニャータは日本のスイカ割りに似ていますが、宗教的な起源があります。上の写真:Wikipediaより

*** 目03 9/22 22-24ページ ピニャータ―古来の伝統 ***
アステカ族は,太陽と戦争の神ウィツィロポチトリの誕生日を祝うため,一年の終わりに,その神殿の柱の上に陶器のつぼを置きました。つぼは色とりどりの羽で飾り付けられ,中には小さな宝物が詰められました。その後,つぼは棒で割られ,こぼれ落ちた宝物はその神の像への捧げ物となりました。マヤ族の間にも,ひもにぶら下げた陶器のつぼを,目隠しをした人たちがたたくという遊戯がありました。・・・

クリスチャンは,社交的な集いにピニャータを取り入れるかどうかを考慮する際,他の人の良心に気を配るようにします。(コリント第一 10:31‐33)おもに考えるべきなのは,その慣行が何百年も前にどんな意味を持っていたかではなく,現在,自分の住んでいる地域でどのようにみなされているかということです。言うまでもなく,その見方は場所によって異なるでしょう。ですから,そうした事柄を大きな問題にしないのは賢明なことです。聖書はこう述べています。「おのおの自分の益ではなく,他の人の益を求めてゆきなさい」。―コリント第一 10:24。

上記の説明を見ると、乾杯のときの説明と全く一貫性がないということがわかるでしょう。実際、それぞれの説明を入れ替えて全く逆の結論に導くことさえできてしまうのです。

このようなあいまいな基準は個々の信者に困難な状況をもたらすことも考えられます。場合によっては、このような小さな事がきっかけで仕事上の関係や親せき関係、あるいは夫婦関係にさえ支障をきたすことがあり得るのです。

しかし、あいまいな基準を作る側の人は、乾杯の習慣などが実際の社会でどのように一般化されているのかを日ごろ体験することがないベテルと呼ばれる施設で暮らす人たちです。それを考えると個々の信者に対する以下のような説明は無責任のようにも見えます。

塔98 3/15 19ページ 4節
エホバの証人は誤解を避けるため,自分たちの考えを述べる際には努めて慎重な態度を取ります。多くの証人たちは,「協会はこう教えています」と言う代わりに,「聖書はこのように言っています」とか,「私は,聖書がこのように教えていると理解しています」といった言い方を好みます。そう言うことにより,証人一人一人が個人的な判断のもとに聖書の教えを受け入れたことを強調でき,同時に,何となく証人たちはある宗派の命令に縛られているように思える,という誤った印象を与えずにすみます。もちろん,言葉遣いに関する提案が議論の対象になるようなことがあってはなりません。結局のところ,言葉遣いが重要だと言っても,誤解を招かないようにできればそれでよいのです。

 

 

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