日本でも12月になると赤や白、緑、そして美しいイルミネーションやクリスマスのデコレーションで街が飾られます。クリスマスの起源については諸説ありますが、12月25日が選ばれたのは「ミトラ教の冬至の祭を転用 – クリスマス(Wikipedia)」と考えられています。

いずれにしてもキリストが誕生した日付は聖書の中に記載がなく、聖書を起源とすることはできません。

 

 

エホバの証人の信条

エホバの証人は毎年12月になるとしばしば「クリスマスの間違い」について人々に啓蒙する活動を行います。目ざめよ!2010年12月号では以下のように痛烈にクリスマスの習慣を批判しています。

クリスマスに関する真実 目 10/12 5–8ページ
聖書の光に照らすと,クリスマスはほぼすべての面で,異教の慣習や,聖書の記述の歪曲に基づいていることが分かります。ですから,クリスマスは実際にはキリスト教のものではありません。…聖書はそうした「偽教師」についてこう警告しています。「彼らは……まやかしの言葉であなた方を利用するでしょう。しかし彼らに対して,昔からの裁きは手間どっているのではなく,その滅びはまどろんでいるのでもありません」。(ペテロ第二 2:1‐3)

しかし、日本で行われるエホバの証人のクリスマス啓蒙活動は一つの矛盾を生じさせることになります。エホバの証人は異教の習慣に基づいていたとしても受け入れている習慣が幾つかあります。その一つである結婚指輪をはめる習慣について、ものみの塔協会がどのように説明しているか見てみましょう。

*** 塔72 4/15 255 読者からの質問 ***
● 結婚記念指輪をはめるのはクリスチャンにとってふさわしいことですか。―ギリシアの読者より

…結婚記念指輪を最初に用いたのは異教徒だったということがたとえ事実だとしても,そのためにクリスチャンはそれを用いてはならないということになりますか。必ずしもそうとはいえません。今日の服飾品や生活上の諸形態の多くは異教の国々に由来しています。時間を時,分,秒に分ける今日の時法は昔のバビロンの方式に基づいています。それでもクリスチャンがそうした時間の区分法を用いることには異存はありません。なぜなら,それを用いても,偽りの宗教の慣行を続けることとは関係がないからです。

 

ここで疑問が生じます。少なくとも日本ではクリスマスを偽りの宗教と関連付けて祝うことはしていません。そしてクリスマスにまつわる習慣が宗教的なものであるという意識さえありません。では、なぜその人々にクリスマスの起源についてだけ啓蒙するのでしょうか?結婚指輪の起源や、その他の異教の習慣から取り入れられた習慣のうち、エホバの証人が受け入れている習慣については異教の起源について啓蒙しないのはなぜでしょうか?そこに合理的な説明はありません。

皮肉なことですが、日本の中でクリスマスを最も宗教的な祝い事だと信じているのはエホバの証人なのかもしれません。

そしてエホバの証人と話をしてはっきり識別できるのは、エホバの証人は世の中の習慣について受け入れるかどうかを考える際に「現在,自分の住んでいる地域でどのようにみなされているか」(目03 9/22 22-24ページ)などと自分では考えていないということです。むしろエホバの証人は、「この習慣について協会は何と言っているのだろうか」とまず考えるのです。乾杯の習慣、喪服を着る習慣、女性のパンツスーツ、口髭、どれをとってもそうです。

ご都合主義の説明

クリスマスが異教の習慣であり、それを祝わないとするクリスチャンの立場は何も問題ありません。しかし、こうした立場について説明する際のご都合主義にはいら立ちを感じます。例えばクリスマスの習慣について子どもに寂しい思いをさせていないということを説明する際の協会の説明を見てみましょう。

「真理はあなた方を自由にするでしょう」! 目 10/12 8–9ページ

日本 「子どもたちは,プレゼントを当然のように期待する落とし穴にはまらずに済んでいます」と浩と理恵は述べています。「子どもたちがプレゼントは心からのものであるべきだと理解しているのは,親としてうれしいことです」。

恵子はこう言います。「以前は家族でクリスマスを祝っていました。息子が寝たのを確認したら枕元にプレゼントを置いて,翌朝,『いい子だったから,サンタさんが欲しい物をプレゼントしてくれたんだよ』と言って驚かせ,夫婦で喜んでいました。真理を学んで,クリスマスについて本当のことを話した時,息子はショックを受けて泣いてしまいました。その時,クリスマスは世の中で美しく描かれているようなものではないこと,子どもにうそをついて裏切るものだということを痛感しました」。

クリスマスについてどのように説明したのかは書かれていませんが、それによって子供を泣かせたのであれば、それは間違いなくその親の責任です。それをクリスマスの習慣の責任にするのは親の傲慢さとしか言いようがありません。

クリスマスとエホバの証人

エホバの証人は1920年代後半になるまでクリスマスを祝っていました。ものみの塔は12月25日が聖書的な日付ではないということを理解していましたが、「日付の問題で屁理屈を述べる」べきではないと説明していました。

ものみの塔 1904年10月1日号 364頁

クリスマスが私たちの主の誕生の本当の記念日ではないとしても、布告のための日、あるいは[キリストの]人類再生の日付としてはふさわしいものです(ルカ1:28)。しかし、私たちの主の誕生を祝うことは神の取り決めもしくは命令ではなく、キリストに敬意を表する行いにすぎません。ですから私たちは特に日付の問題で屁理屈を述べる必要はありません

英文

“Even though Christmas is not the real anniversary of our Lord’s birth, but more properly the annunciation day or the date of his human begetting (Luke 1:28), nevertheless, since the celebration of our Lord’s birth is not a matter of divine appointment or injunction, but merely a tribute of respect to him, it is not necessary for us to quibble particularly about the date.” – Zion’s Watch Tower 1904 Dec 1 p.364

 

ものみの塔によると西暦1919年にイエス・キリストが地上に来られてクリスチャンを称する者たちの間で清めを行い、忠実で思慮深い奴隷が任命されたとされています。しかし1919年にも、またそれ以降にもクリスマスの習慣は協会の本部で大切に守られ、ベテルでは12月25日に特別な食事の機会とプレゼント交換の機会が備えられていました。以下は1926年のクリスマスの朝に撮られた写真です。テーブルの上にはクリスマスのプレゼントがずらりと並んでいるのがわかります。

ブルックリンベテル 1926年クリスマスの朝の写真

 

 

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