この記事を投稿するにあたり、以下の固定記事を一部修正しました。今回の記事と合わせてお読みください。
- 間違いの原点 – C.T.ラッセル(ものみの塔読者がラッセルに対して間違いを指摘している文面の日本語訳を追加)
- 確信の根拠 – J.F.ラザフォード(文体や文面を多少変更)
- 思い込み – J.F.ラザフォード(文体や文面を多少変更)
- 根拠のない年代調整(メディア人ダリウスを使って協会が年代調整を行ってきた点の説明を追加)
- 結論3 – 誤解された聖句(わかりにくい部分を多少修正)
聖書に忠実であるからですか?
古代エルサレムが滅ぼされた年として、考古学的な証拠が豊富な西暦前587年を退け、代わりに西暦前607年という年を採用する理由は何でしょうか? エホバの証人は「わたしたちは考古学的な証拠よりも聖書を信頼しているからです」と答えられることでしょう。しかし、本当にそうなのでしょうか?
ここで一つの問題を提起します。その時のあなたの心の中に生じる反応がどのようなものなのかを見つめ、本当に自分は「聖書に忠実である」という動機によって年代の選択を行っているのかを吟味してください。
ここで考慮するのは聖書の中に記されている「70年」という言葉が何を意味するのかというものではなりません。「70年」に関してはどの聖句を強調するのかによって解釈が異なるため、恐らく不毛の議論になるでしょう。一つの聖句に基づいた結論は別の聖句によって反論を受け、また相手側の結論も同じように別の聖句によって反論を受けて覆されるからです。ゆえに「70年」に関するものみの塔の間違った解釈についてはあえて触れず、ものみの塔が主張している通り「70年」の期間はユダヤ人がバビロニアに強制移住させられたために「ユダの地が荒廃し,耕作されなくなった」期間であることを前提に話を進めます。
聖書的にも考古学的にもミスをおかしている教理
以下の部分でエホバの証人が1914年の年代の算出の土台としている根拠に致命的なミスがあることを示します。これを考慮することによってエホバの証人が西暦前607年を擁護するときの動機が「組織を擁護する」あるいは「1914年を擁護する」のいずれかであるということが明らかになります。これまでものみの塔協会が行ってきた1914年を擁護するために行ってきた年代調整については「根拠のない年代調整」のページで説明しています。
では事実を確認しながら順を追って考えてみましょう。
1.スタート地点を決める
ものみの塔は西暦前607年に「古代エルサレムが滅ぼされた」とする根拠として「歴史の要となる年代」を挙げています。「塔11 10/1 28ページ の囲み記事」では最新の考古学の証拠に合わせて説明がなされています。つまりキュロスは西暦前539年にバビロンを征服し、キョロスの第一年は西暦前539から始まっているという見解です。(そしてキュロスの第一年はBC538年春からBC537年春までも含みます。後述)
この見解は考古学上の証拠と一致しています。これはこの「ものみの塔」記事の中で正当な仕方で証拠が掲載されている唯一の箇所とも言えます。
では、キュロスの第一年が西暦前539年から始まったという事実を明確にした上で次に進んでください。
2.ユダヤ人の帰還の年を算定する
ご存じのとおり、「西暦1914年-西暦前607年」という年を算出するためには、西暦前537年という年を出さなくてはなりません。なぜなら西暦前607年という年はユダヤ人がエルサレムに帰還した年から70年前にあたるという前提があるからです。
ものみの塔の預言解釈を正当化させるためにはキョロスの第一年(西暦前539年秋から始まる)の二年後の西暦前537年秋に帰還を果たしたという条件を付ける必要が出てきます。では聖書は何と述べているでしょうか?
(エズラ 1:1‐3) 1 そして,ペルシャの王キュロスの第一年に,エレミヤの口から出たエホバの言葉が成し遂げられるため,エホバはペルシャの王キュロスの霊を奮い立たせられたので,彼はその全領域にあまねくお触れを出させ,また文書にしてこう言った。 2 「ペルシャの王キュロスはこのように言う。『地のすべての王国を天の神エホバはわたしに賜わり,この方が,ユダにあるエルサレムにご自分のために家を建てることをわたしにゆだねられた。3 すべてその民の者で,あなた方の中にいる者はだれでも,その神がその人と共にいてくださるように。それゆえ,その人はユダにあるエルサレムに上って行き,エルサレムにあったイスラエルの神エホバ―この方は[まことの]神であられる―の家を建て直すように。
ここにあるようにキュロスの第一年のどこかの時点で王からの通達が出されたことがわかります。ではキュロスの第一年とはどの範囲を指すのでしょうか?先ほども明らかにしましたがバビロニアを征服してキュロスの第一年が始まったのは西暦前539年(同年10月)です。バビロニアでは春から春までを一年の周期として計算しますので、支配を開始した年の翌年である西暦前538年の春から西暦前537年の春までの期間もキョロスの第一年に含めることになります。しかし西暦537年の春を超えた時点で「次の年」つまりキュロスの第二年と呼ばれるようになります。
ではイスラエル人はエルサレムとその周辺都市にいつ帰還したのでしょうか?その答えは聖書に明確に記されています。
(エズラ 2:70‐3:1) ・・・こうして,祭司,レビ人,民の一部の者,歌うたい,門衛,ネティニムはそれぞれの都市に住むようになり,すべてのイスラエルの人々はそれぞれの都市に住むようになった。 3 第七の月が到来したとき,イスラエルの子らはそれぞれの都市にいた。そして民は一人の人のようにエルサレムに集まりはじめた。
キュロスの第一年の第七の月、つまり西暦前538年の10月には帰還を果たしていたことが記されているのです。このようにエホバの証人が設定している「要の年」と聖書の記述を合わせるとことによって簡単にエホバの証人の設定している年代の間違いが明らかになります。
3.たかが1年、されど大きな1年
ではユダヤ人のエルサレム帰還が西暦前538年の10月であることが明らかになることが、なぜそれほど重要なポイントになるのでしょうか?それはエホバの証人が主張している1914年10月という年が無効になるからです。たかが1年ですが、エホバの証人はこれまで教えていた1914年の教理が実は間違いであり、もし強情に「ダニエル書の七つの時」に関する教理を推し進めるのであれば、彼らは1913年を触れ告げなくてはならないのです!
ここで考えていただきたいのは、エホバの証人であるあなたが誰かに聖書的な根拠とともに「1914年ではなく1913年が正しい年代である」ということを提示されたときに、どのような心の反応を示すかという点です。もし動揺して「そんなはずはない1914年が正しいはずだ」という気持ちがわいたのであれば、それはつまりあなたにとって聖書も考古学上の証拠もどちらも重要ではなく、自分の属する宗教組織が正しいと信じることが重要であることを物語っているのです。
それは「ものみの塔聖書冊子協会」を運営してきた歴代の指導者たちが示してきた態度と同じものです。
しかし、次のように述べる人もいるかもしれません。「エズラ 3:1 は第七の月と書かれているが、その節にはキュロスの第一年とは書かれていない。であるから、この第七の月はものみの塔が言うように西暦537年の秋を指しているのではないか?」
この点はエズラ1章から3章までの文脈を見れば第七の月が「キュロスの第一年」を指していることを確認できるのですが、次の部分には別の客観的な証拠を提示します。
4.さらなる客観的な証拠
エズラ 3:1 が「キュロスの第一年」の出来事を指していることは、1世紀の歴史家のフラビウス・ヨセフスがその翌年に起きた出来事を「キュロスの第二年」としているところからも明確になります。
ヨセフス – アピオーンへの反論 1巻 21章
「キュロスの第二年に神殿の土台が据えられた。そしてダリウスの第二年になり神殿が再建された。」http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=J.+Ap.+1.21&fromdoc=Perseus%3Atext%3A1999.01.0216
ヨセフスは「神殿の土台」が据えられた出来事が「キュロスの第二年」の出来事であるとしています。これはエズラ書では3章8節から13節までの出来事と一致しています。
(エズラ 3:8‐13) 8 そして,エルサレムのまことの神の家に彼らが来た次の年,その第二の月に,・・・一団として立ち上がって,まことの神の家で仕事をする者たちの監督者を務め,またレビ人である,ヘナダドの子ら,その子らとその兄弟たちもそうした。 10 建築者たちがエホバの神殿の土台を据えたとき,・・・エホバを賛美するために立ち上がった。・・・民もみな,エホバの家の土台が据えられたことでエホバを賛美し,大声で喜び叫んだ。
上記のようにエズラ書では神殿の土台が据えられたのはエルサレムに戻ってきた年の次の年であると述べられており、ヨセフスはそれが「キュロスの第二年」であるとしています。
つまりエルサレムに帰還したのは、忠実に解釈するなら西暦538年の秋ということになるのです。そして次の年である西暦537年の5月頃に神殿の土台を据えたことになります。エルサレム帰還を西暦537年の秋に設定することは不可能です。
この点でものみの塔は問題を理解した上で嘘をついているのでしょうか?ものみの塔はこの件を記事の中で説明していないので、意図的な嘘と断言することはできませんが、自分たちの見解の正しさを示そうとする努力の量から考えると、相当な程度に不誠実な態度が裏にあると思えます。
本当に真理を愛しているからですか?
古代エルサレムが滅ぼされた年として西暦前607年を信じている人は、C.T.ラッセルや現代のエホバの証人のように西暦1914年に関わる教理を信じている人以外には一人もいません。こう断言できるのは、特別な動機が存在しなければ西暦前607年を信じる理由がないからです。
しかし、それは「真理を愛する」態度とはかけ離れた態度です。ものみの塔の執筆者としても働いていたレイモンド・フランズも執筆や調査を行っていた時代の自分の心の苦しい状態を次のように語っています。
良心の危機 – レイモンド・フランズ著 37,38頁
何とか我々の一九一四年を算出するのに決定的であるこの紀元前六〇七年を証明するような、あるいは歴史的に支持するような証拠を見つけようとして、かなりの時間と労力を費やした。協会本部のスタッフ、チャールズ・プレーガーは当時私の秘書を務めてくれていたのだが、ニューヨーク市近辺の図書館を回って、少しでもこの年代を歴史的に裏付けるものがないかと探し回ってくれた。ところが紀元前六〇七年を裏付けるものはまるで何も見つからなかったのである。歴史家たちは口をそろえてその二十年後の年代を示していた。私は『聖書理解の助け』で「考古学」の項目を書くまでは、メソポタミア付近で発見され、古代バビロンにまでさかのぼる粘土板に記されたくさび型文字の記録が何万という数に及ぶことなど知らなかったが、その何万という記録のどれを見ても、(ネブカドネザルが統治を行なった)新バビロニア帝国の期間は、エルサレム破壊の年が紀元前六〇七年になってくれる長さにならない。どれを見ても、協会が言っているよりも二十年短い期間になる。
これを見て私の心は穏やかでなかったが、反証があろうと我々の年代計算はとにかく正しいのだと信じたかった。そこでこの記事を『聖書理解の助け』に書くに当たっては、紀元前六〇七年を誤りとするような、つまり終わりの年が一九一四年にならないような、考古学・歴史学上の証拠を何とか弱めることに時間と紙幅を費やす結果になった。
チャールズ・プレーガーと私は、ロードアイランド州プロヴィデンスのブラウン大学に行き、古代くさび型文字文献の専門家アブラハム・ザックス教授を訪ねた。紀元前六〇七年という年代を誤りとする膨大な古代資料のどこかに何か間違い、あるいは弱点がないかどうかを知りたかったのである。その結果、もしどうしても我々の年代が正しいとするならば、まったく理由もなく古代文献の著者たちがそろって事実をゆがめて伝えようと申し合わせたことになる、ということが明らかになった。私は、まるで動かぬ証拠を前にしつつも弁護を続ける弁護士のように、新バビロニア帝国に関する歴史資料という証拠の信憑性を何とか弱めようと努力した。
この記事は、「BC607年と1914年」で特集した記事から多くの部分をとっています。
目的は様々な事実を提示されていもBC607年や1914年の教理を弁護する人がいるのはなぜなのか。そしてこの点を個々のエホバの証人の方々に自己吟味してもらいたいと思い、一つの記事としてまとめました。
記事の終わり
- 特集1 – ものみの塔2011年10月号
- 特集2 – ものみの塔2011年11月号
- 特集3 – 弁護士のように
- 特集4 – VAT4956
- 特集5 – 目ざめよ誌2012年6月号
- 歴史1 – 間違いの原点 – C.T.ラッセル
- 歴史2 – 確信の根拠 – J.F.ラザフォード
- 歴史3 – 思い込み – J.F.ラザフォード
- 歴史4 – 根拠のない年代調整
- 歴史5 – 不誠実な記載
- 結論1 – 明確な新バビロニアの歴史
- 結論2 – 極めて客観的な証拠
- 結論3 – 誤解された聖句
yangmask
なるほど。大変勉強になりますね。
–
カレブさんの今回の理論は、結局、ヨセフスの「キュロスの第二年に神殿の土台が据えられた」に帰結するように思います。
では、本当に、ヨセフスのその証言は絶対正確だと言えるのかというと、それはまた別の話になるのではないでしょうか。
–
例えば、エズラ3:8には、「・・・彼らが来た次の年、その第二の月に、・・・(工事に)着手した」とありますね。それは工事を始めた、スタートした時のことでした。
では、その工事はどれほどの速さで進められたのでしょうか。今とは違って、その多くが人力か動物の力による作業ですから、がれきを撤去し、土台の石を運び・・・、どれほどの人数で行なったかにもよると思いますが、本当に1年以内で終えたのだろうかと疑問に感じます。
※比較データとしては、例えば、ソロモンの時代、あれほどの富と権力をもってしても、神殿完成までに7年もかかりました。(列王第一6:38)。多分、流刑から帰還したばかりの民はそれよりももっともっと少ない労働力しか持ち合わせていなかったことでしょう。
ですから、ヨセフスの証言にあるように、キュロスの第二の年の年内(工事をスタートして1年以内)に、神殿の土台を据え「終えた」というのは、現実的ではないように思えます。
エズラ3:8-9の工事スタートと、エズラ3:10-13の工事完成(土台部分のみ)の間にはかなりの時間差があると考えるのが当然だろうと思いますね。
–
もしそうなると、ヨセフスが言う「キュロスの第二年に神殿の土台が据えられた(土台が完成した)」という証言の信憑性が問われることになるか、あるいは、ヨセフスの述べた意図を我々が正しく解釈していないのか、という問題が発生することになりますね。
そして、ヨセフスの証言が「?」ということになると、今回のカレブさんの今回の理論も「?」ということになると思います。もちろん、この反証をもって、自動的にJW見解が正しいとなるわけでもありませんが。
その辺りをもう少し精査する必要があるのではないでしょうか。とはいえ、一方で、私もまだまだ勉強しなきゃなと実感させられました。問題提起には感謝しています。
JWSTUDY
あの・・ よく読んでくださいね。
ではキュロスの第二年が「着手した年」なのであれば
エルサレムに到着した年はキュロスの第何年になりますか?
はい。お次の答えをお願いします。
そして今回のあなたのコメントを忘れずに次に進んでくださいね。
つまり次のコメントではまた「細切れ」の主張をするのはやめてください。
yangmask
???
その「第二年」に始まったというのは、どこにあるんですか?
JWSTUDY
結局あなたは
1.ヨセフスが述べた「キュロスの第二年」という証言
2.聖書の文脈がエスラ3:1がキュロスの第一年(エズラ1:1)を示唆している
この二つを聖書の中に「キュロスの第二年」という直接的な言葉がないことで
否定するわけですね?
しかし天照大御神の何かが自分(yangmask)の上に成就していると
信じているわけですよね?
あなたは自分が非常に客観性に欠けている推論をしているとは感じませんか?
yangmask
1については、最初のコメントでその信憑性が問われるべきことを指摘しましたね。
2については、今回のカレブさんの記事の中では、その正当性が何も説明されていません。
–
カレブさんの論拠は、主にヨセフス証言に基づいていると思えたので、その信憑性はどうなのか?と、かなり具体的に問いかけたのですが、どうだったでしょうか?
JWSTUDY
2の点「聖書の文脈がエスラ3:1がキュロスの第一年(エズラ1:1)を示唆している」は
ブログでさらっとですが書いてると思います。
そして1のヨセフスの証言は2の点を補強するものです。
上記の点はズバリ「キュロスの第二年」という年が
聖書に書かれていなくても、それ相当の重要性をもって尊重される根拠だと思います。
では質問ですが、
ものみの塔は キュロスの第二年にエルサレムに帰還して
キュロスの第三年に神殿の基礎が据えられたという設定していますが
これに1mmでも根拠を提示していますか?
率直に答えてください。
yangmask
すみませんが、私が最初にコメントした点はどうなんでしょうか? ヨセフスの証言の信憑性についてですが。議論の流れ的にはまず、それに対するお返事をいただきたいところです。
JWSTUDY
*わかりにくい文面訂正しました*
「ヨセフスの証言」は
少なくとも1世紀の標準的なユダヤ人が
ユダヤ人の帰還はキュロスの第一年の第七の月であり
キュロスの第二年に神殿の基礎が据えられたと
判断していたことを証明しています。
つまりエズラ書を自然に読むとそう解釈する。
あるいは別の伝承でそのような記録がある。
あるいはその両方のいずれかだと思います。
そして
そのような解釈を否定するような根拠を ものみの塔もあなたも持っていません。
違いますか?
yangmask
すみません。すでに、最初のコメントで述べているのですが。
工事がわずか1年以内に終えたと考えるのは現実的でしょうか。
JWSTUDY
>すみません。すでに、最初のコメントで述べているのですが。
>工事がわずか1年以内に終えたと考えるのは現実的でしょうか。
あなたの頭の中では
ヨセフスの証言を否定できれば、
ものみの塔を肯定できるという
図式になってますよね。
正直ここまで通じないとは予想できなかったですが
もう少し続けてみます。
では工事が2年かかったとします。
2年かかったのに
ヨセフスが神殿の基礎を据えたのが
キュロスの第二年だと証言したのはなぜですか?
それは少なくともエズラ書(つまり聖書)を
読んで神殿の基礎に手を付けたのがキュロスの第二年だと
判断したからですよね?
エズラ3:8「エルサレムのまことの神の家に彼らが来た次の年,その第二の月に,(神殿の土台工事に)着手した」
ヨセフスはこのエズラ3:8の神殿の土台工事に着手した年を「キュロスの第二年」だと判断したことはわかりますよね?
では
あなたと ものみの塔が エズラ3:8の出来事を「キュロスの第三年」に設定する判断理由はなんですか?
yangmask
実際に、シミュレーションしてみました。ちょっと長いですけどお付き合いください。
●539年10月 バビロン陥落
●?年?月 キュロス王による布告
●?年秋 エルサレムでの崇拝が再開される
キュロスの布告は、少なくとも537年春(キュロスの第一年)までには出されたはずですが、問
題は、どの時点で布告が出されたか?ですよね。
①多分、バビロン陥落後、キュロスはまず、バビロンにおける占領統治を安定化させるために日夜奔走していたと思われます。ユダヤ人の捕囚民の扱いは二の次だったでしょう。多分、安定化までに数ヵ月はかかったかもしれません。
ある程度、占領統治が安定化した頃、ユダヤ人の教師が、イザヤ書を示して、キュロス王の活躍があらかじめ名指しで預言されていたことを知らせたものと思われます。それに応えて、キュロスはユダヤ人に神殿再建を命じる布告を出したのでしょう。
②そして、ユダヤ人は布告後、すぐさまバビロンを出発したわけではありません。まず年長者会などが協議し、エルサレムに帰還する人々を募集し、集めるために数ヵ月を要したでしょう。
③その後、約4か月をかけてユダヤに旅をします。
④また、エズラ3:1には、「第七の月」にユダヤにたどり着いたとではなく、それが贖罪の日、祭りの季節だったので、エルサレムに集まったことを示しています。つまり、彼らがユダヤの自分たちの町に到着したのは、それよりも少し前で、廃墟と化した町々をある程度、住めるような状態にしなければならなかったことでしょう。
ですから、
●バビロン陥落
①占領統治の安定化(?カ月以上)
●布告
②帰還民の募集(2か月以上)
③帰還の旅(4か月)
④町々の復興(2か月以上)
●エルサレムでの崇拝再開
つまり、②③④だけでも、8か月はかかりますよね。もし、帰還して10月にエルサレムでの崇拝が再開されたという場合、少なくとも、バビロンを占領してから4か月以内に布告が出されたと考えねばなりません。しかも、この場合、夏の暑い時期(7、8月含む)に4か月もの旅をしたことにもなります。
多分、C・T・ラッセルも同じようにシミュレーションしたのでしょう。最近のものみの塔にその詳しい説明がないのは不可解ですが。
–
私が考えた現実的なプランとしては、やはり、4か月の旅を、最も旅をしやすい春の時期に設定するべきだろうと思います。つまり、そろそろ暖かくなってくる3月から、まだ酷暑には達しない6月の間がベストプランでしょう。命の危険さえある旅だったのですから・・・。そこここに水道や自動販売機がある現代とは訳が違いますよね。取り立てて急ぐわけでもなかったのですから、そのようなベストな時期に旅を計画したと考える方が筋が通っています。
3月に出発するという場合、その旅に参加する人々を募集し、組織する時間が必要ですね。それは恐らく、少なくとも2か月以上は必要だったと思います。参加者は5万人ほど(大体東京ドームいっぱい)で、その他に動物たち数千頭、荷物多数という大規模なものでした。
そうなると、バビロン陥落後、わずか3か月以内に、つまり、翌年の1月には布告が出ていなければなりません。多分、その時期は、まだ占領統治の調整の真っ只中で、そういう布告を出す余裕があっただろうか?と思いますね。返還された神殿の器具など一つ考えても、バビロンの宝物庫の中の膨大なコレクションの中から、手書きで記録をとりつつ調査し・・・、どれ程時間がかかったかしれない作業です。
–
ですから、現実路線では、占領して1年ほど経過した538年の秋(キュロスの第一年)までに布告が出され、その冬の間に、ユダヤ人たちは旅行のための準備をし、翌年537年の春、3月にエルサレムに向けて出発した・・・・、と考える方が妥当のように思います。
まとめるとこうなります。
●バビロン陥落 (539年10月)
①占領統治の安定化 (約1年)
●布告 (538年秋までに)
②帰還民の募集
③帰還の旅 (537年3~6月)
④町々の復興
●エルサレムでの崇拝再開 (537年10月)
どうでしょうか?
JWSTUDY
ここまで空想の世界で生きられる人がいるのがすごいなと思いました。
ラッセルがどんな主張をしていたのか、すでに書いてますから読んでください。
http://www.jwstudy.com/docs/bc607_1914/history4_divineadjustment/
ラッセルは布告後すぐに帰還したと考えてました。彼はキュロスの第一年をBC536だと根拠がなく主張していただけです。ネルソンバーバーがそう言ってたという理由です。
とにかく自分でもっと勉強してから主張してください。
ヤングマスクさんのご自分で動機を分析できるように質問します。
ラッセルが主張しなかったエズラ記に隠された謎のタイムラグをヤングマスクさんが主張する動機は何ですか?
質問の内容を記憶してから返信してくださいね。
yangmask
・・・で、C・T・ラッセルはともかく、お示しした私の独自のシミュレーションに対するご評価は?
JWSTUDY
1914年を移動させたくないのに必死なんだなと思いました。
ラッセルもラザフォードも1世紀のヨセフスも、エズラ書を素直に読んで、キュロスの第一年に帰還を果たしたと判断しているのは理解できましたか?
シミュレーションの評価は、こじつけを作る能力という点ではある意味評価してます。
ラッセルもラザフォードも主張しなかったタイムラグを yangmaskさんが主張するのはなぜなんでしょうね?
なぜ、今になってタイムラグを設定する必要を感じ始めたんでしょうか?
1914年に標準を合わせたいだけだという自分の気持ちには正直になれていますか?
あなたの主張
「キュロスはまず、バビロンにおける占領統治を安定化させるために日夜奔走していたと思われます。ユダヤ人の捕囚民の扱いは二の次だったでしょう。多分、安定化までに数ヵ月はかかったかもしれません。」
「ユダヤ人は布告後、すぐさまバビロンを出発したわけではありません。まず年長者会などが協議し、エルサレムに帰還する人々を募集し、集めるために数ヵ月を要したでしょう。」
「その後、約4か月をかけてユダヤに旅をします。」
これらの推論はエズラ書を自然に読むと否定されるのはわかりますよね。
ラッセルもラザフォードもヨセフスもユダヤ人はキュロスの第一年に帰還を終えたと判断してるわけです。
そして2011年のものみの塔が「そのようなわけで」という言葉で重要なミスをさらっと流して
あなたがここで主張している点は論じてさえいない不自然さも見てますよね。
この点は「根拠のない年代調整」のところで指摘しています。
http://www.jwstudy.com/docs/bc607_1914/history4_divineadjustment/
もう一度質問を書いておきますね。
ラッセルもラザフォードもヨセフスもユダヤ人はキュロスの第一年に帰還したと判断しました。
ラッセルもラザフォードも主張しなかったタイムラグを yangmaskさんが主張するのはなぜですか?
JWSTUDY
ヤングマスクさん
その後の返信いただきましたが
内容は以下の掲示板で主張された内容と同じものと判断しました。
http://www.jwstudy.com/bbs/viewtopic.php?id=61
議論打ち止めとのことでしたが、わたしもそれが良いと思います。
ものみの塔はいずれ1914年の教理を捨て去ると思います。
ヤングさんがその時に生きていればの話ですが、
その時にヤングさんは ものみの塔を差し置いてBC607年を主張し続けるとは思えませんが、とても空しい思いになるとは思います。
あるいは今回の「予型と対型」について ものみの塔が態度を変えてもヤングさんが相変わらず自分は「ヤコブ級」だとか言い続けているときと同じになるでしょうか。(詳しく見てないので誤解してたら指摘してください)
ものみの塔の中に何らかの真理があると考えて可能性を探ることは構いませんが、怪しい教理と気が付いたら早めに弁護することからは引き下がるのが賢明だと思います。
まずは教理面でも ものみの塔には欺瞞的な部分が多々あるということを実感することが必要だと思います。