根拠のない主張をする際によく使われる方法があります。それはまず論点となっている話の要点をぼかすという方法です。それから論点があいまいなまま主張する内容が正しいという”印象”を与えることに時間を費やすのです。何かを主張するときの本来あるべき態度は、まず論点となっている点をはっきりさせ、それから賛成論なり反対論なりを明確に提示するというものでしょう。ものみの塔の不誠実な主張の仕方について、2011年10月号の記事から一つの例をとりあげてみましょう。(関連記事:「特集1 – ものみの塔2011年10月号」)

20年を追加しなくてはならない期間はどこか?

ものみの塔のBC607年説が正しいと仮定した場合、一般の歴史と衝突する部分ははっきりしています。問題になる点はかなり狭い範囲に絞り込むことができます。関連するのは一般に「新バビロニア王朝」と呼ばれる比較的短い期間です。それはナボポラッサルからナボニドスまでのわずか86年の期間であり、実質的に関係しているのはそのうちのネブカドネザルからナボニドスまでの期間だけです。まずは以下の図をご覧ください。

新バビロニア王朝の前でも後ろでもなく、このわずかな期間の中に20年を追加しなくてはならないのです。ものみの塔誌を読んでいると、この事実をつい忘れてしまうのではないでしょうか?その期間に20年を追加することは不可能であるという点は「結論1 – 明確な新バビロニアの歴史」「結論2 – 極めて客観的な証拠」からご覧ください。

では、ものみの塔誌がどのように要点をぼかしているか実例を見て考えてみましょう。まずは以下の部分を読んでください。

ものみの塔2011年10月号30ページ

すべてがバビロニアがアッシリア強国の支配から独立する前の時代のことを語っていることに注目してください。

この記事は本来なら指摘するであろう要点を読者に提示していません。ものみの塔の記事だけを読んだ人は以下にあげる要点を把握することはできないに違いありません。

本来伝えるべき点

  1. ウルクの王名表の年数はプトレマイオスの王名表の年数とほぼ完璧に一致している。
  2. ナボポラッサル(Wikipedia)より前はアッシリアが世界強国の時代でありプトレマイオスがアッシリアの君主をバビロニアの支配者のリストに含めているのは自然である。
  3. シン・シャラ・イシュクン(Wikipedia)は世界強国アッシリアを10年以上治めており、7年目の商業文書がバビロニアの地方で発見されているが、「バビロンの王」とは記載されていない。
  4. アシェル・エテル・イラニ(Wikipedia)の4年分の商業文書はどれも「バビロニアの王」とは記載されていない。彼はアッシリアの君主である。
  5. ナボポラッサル(Wikipedia)が反乱によって新バビロニアを設立したものの西暦前612年にアッシリア王朝が完全に滅ぼされるまでの間は一部の地域でアシェル・エテル・イラニ(Wikipedia)やその兄弟シン・シャラ・イシュクン(Wikipedia)が支配力を維持していた。
  6. プトレマイオスが省いたラバシ・マルドゥク(Wikipedia)は幼くして王位につき間もなく暗殺され継承年を足してもわずか9か月しか治めていない人物である。
  7. プトレマイオスが1年に満たない王を除外している理由は年代計算において正確さを図るためであり、年代的な信頼性に何の影響もない。
  8. プトレマイオスの”年代”に誤りがあるという実質的な根拠は何もない。

上記の点を把握していれば、プトレマイオスの王名表に対してものみの塔が実質的に何も論駁する材料をもっていないということがわかるでしょう。しかも、冒頭で述べた通り、20年を追加しなくてはならないのはネブカドネザルとナボニドスの間の期間です。ものみの塔が多くの紙面を割いて問題視しているアッシリア強国時代に関しては、そこに年数を加算したところでユダヤ人捕囚の期間を20年延ばすことにはならないのです。

ではなぜ、ものみの塔は新バビロニアの部分に対して20年を加算する根拠を何一つ提示していないのでしょうか?理由は簡単です。新バビロニアの王たちの年代は楔形文字の粘土板によってことごとく確証されており、20年どころか1年たりとも追加するような根拠は存在していないからです。

読者が勘違いするような仕組み

上に引用したものみの塔の記事を読むと、プトレマイオスがバビロニア王の一部を省いてしまっており年代的に信頼できないという”印象”を与える書き方になっていることがわかります。プトレマイオスがバビロニアの王の数を少なく見積もっているという印象を与えることさえできれば、その主張の正当性は「ものみの塔」の執筆者にとっては重要ではないのです。ものみの塔にとっては読者に事実関係を提示することは目標ではないのです。例えば脚注の10の以下の文章を見てください。

脚注10: 商取引に使われた粘土板,楔形文字の書簡,碑文などには,アシュル・エテル・イラニ,シン・シュム・リシル,およびシン・シャラ・イシュクンがバビロニアを支配したことが明示されている。

ここだけ読むと3人もの正当なバビロニア支配者をプトレマイオスが省いてしまっていると読者は感じてしまうかもしれません。ものみの塔の執筆者はここで記されている3人の支配者がアッシリアを支配していた君主であり、ナボポラッサルと同時期の君主(つまりバビロン捕囚とは無関係な時代)であること、そしてプトレマイオスが王名表に載せていないのがごく自然であることを理解しているはずです。少なくとも協会が引用しているような専門書をきちんと読んでいれば十分事実関係は把握できているはずです。それにも関らず読者の勘違いを促すような文面を掲載するところに不誠実さを感じます。

 

これらの君主については、グラント・フレイム著 1995年発行の「バビロニアの王たち」(左写真)にある説明を見ると事実関係を理解することができます。

アシェル・エテル・イラニ
アッシュールバニパルは息子のアシェル・エテル・イラニにアッシリアの支配を引き継いだ。アシェル・エテル・イラニを「バビロンの王」や「バビロンの総督」あるいは「シュメールとアッカドの地の王」とする刻印は一つもない。そしてバビロニアのどの王名表の中にも含まれていない。王名表はシン・シュム・リシルもしくはナボポラッサルをカンダラヌの後に記載している。しかしながらバビロニア出土のアシェル・エテル・イラニの王族碑文が幾つか存在し、そこにはバビロニアの土地での活動が記載されているのでここに掲載する。関連する10数点の商取引文書がこの人物の統治年に関連してニップールから出土している。それらは「アッシリアの王」もしくは「土地の王」と記載されている。これらは彼の継承年、第1年、第2年、第3年、そして第4年のものである。
Grant Frame, Rulers of Babylonia From the Second Dynasty of Isin to the End of Assyrian Domination (1157-612 BC) (Toronto, Buffalo, London: Univeristy of Toronto Press, 1995), p. 261

 

シン・シュム・リシル
バビロニアの王族碑文でシン・シュム・リシルのものは一つも存在しない。少なくとも7つのバビロニアの商取引文書が彼の継承の年のものとして存在する。これらのなかでは何も代名詞付されていないか「アッシリアの王」もしくは単に「王」と述べられている
Grant Frame, Rulers of Babylonia. From the Second Dynasty of Isin to the End of Assyrian Domination (1157-612 BC) (Toronto, Buffalo, London: Univeristy of Toronto Press, 1995), p. 269

 

シン・シャラ・イシュクン
アッシリアの王で何らかの支配力を少なくともバビロニアの一部に行使したのはシン・シャラ・イシュクンである。この人物はアシュバニパルの息子である。彼がいつアッシリアの支配者になったのかは厳密にはわからない。そしてバビロニアに対する権限をいつ持っていたかも確かではない。しかし彼のアッシリア支配は西暦前612年には終わっている。ウルクの王名表だけは彼をバビロニアの支配者の中に含めている。そしてカンダラヌとナボポラッサル(西暦前626)の間に入れている。そしてシン・シュム・リシルとシン・シャラ・イシュクンを共同統治者のように記している。彼を「バビロニアの王」「バビロニアの総督」あるいは「シュメールとアッカドの地の王」とする碑文は一つも知られていない。・・・
シン・シャラ・イシュクンに属するバビロニアの王族碑文は存在しない。彼のアッシリアの碑文はメソポタミア王族碑文集のどこかに含まれることになる。およそ60の商取引文書が彼のバビロニアでの統治年と関連して存在する。これは彼がバビロン、ニップール、シッパル、そしてウルクにおいて支配力をもっていたことを示唆している。それらは彼の継承年から第7年までのものがある。しかしながらどの商取引文書も彼を「バビロニアの王」とは呼んでいない。その代わりに「アッシリアの王」「土地の王」そして「世界の王」と記載している
Grant Frame, Rulers of Babylonia. From the Second Dynasty of Isin to the End of Assyrian Domination (1157-612 BC) (Toronto, Buffalo, London: Univeristy of Toronto Press, 1995), p. 270

ナボポラッサルに重なる上記のアッシリアの君主がバビロニアに何らかの力を及ぼしていたとしても、プトレマイオスがそれらを王名表に記載していないのは自然なことであり、プトレマイオスの年代の信頼性を落とす面で何の根拠にもなっていません。それに加えてエルサレムが荒廃していた期間とは全く無関係であるということも覚えておくべきでしょう。実際ネブカドネザルより前の部分に年代を加算してしまうと逆にエルサレムの荒廃していた期間を短くしてしまうのです。

結論

ものみの塔の罪を重くしているのは、間違った主張を学術的な装いのもとに行うという点です。ものみの塔の記事の中には多くの学者の引用、参照が掲載されています。しかし記事の最初から最後まで正当な方法で引用されている箇所は一つもないのが現状です。実際に存在しない20年を立証するのは不可能なことです。

 

記事の終わり

補足情報:

日本語ものみの塔の翻訳ミスについて

上に引用したものみの塔誌の脚注9は英文と日本語文では以下のようになっている。

(英文) 9. …. Also the Harran Inscriptions of Nabonidus, (H1B), I,
line 30, has him listed just before Nabopolassar…..

(日本語版) 9. … また,ナボニドスのハラン碑文,(H1B),I,第30行でも,ナボニドスがナボポラッサルの直前に挙げられている。

ここは、本来であれば以下のように訳すべきです。

9. …. また,ナボニドスのハラン碑文,(H1B),I,第30行でも,彼(アシュル・エテル・イラニ)がナボポラッサルの直前に挙げられている。

日本語ものみの塔は「彼」という単語を「ナボニドス」を指しているものと勘違いして訳しています。ハラン碑文については「結論1 – 明確な新バビロニアの歴史」をご覧ください。ハラン碑文に記載されているアダ・グッピはアッシリア王の支配のもとで生まれ、アシェル・エテル・イラニの第3年の時点でバビロニアに移住したと解釈されています。この碑文は新バビロニアの全期間の合計数を確証する証拠にもなっています。