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特集1 – ものみの塔2011年10月号

古代エルサレムが滅ぼされたのはいつか

第一部 ものみの塔2011年10月号

ものみの塔 2011年10月と11月号には「古代エルサレムが滅ぼされたのはいつか」と題する記事が掲載されました。この記事には専門的な内容が含まれており、読者は用いられている引用文や協会側の主張の妥当性について独自に調査するのは難しいかもしれません。このような性質の記事であるからこそ、執筆者の誠実さや公平さが試されることになります。「ものみの塔」はどれだけこの問題に真摯に取り組んでいるでしょうか? 読者が公平に判断できるように資料を提示しているでしょうか?

ものみの塔はなぜ西暦前607年を支持するのか

西暦前607年という年にこだわることが、1914年に関連する協会の長年の公式見解を守ることにあるということはこの問題に精通する人なら誰もが知るところなのですが、記事の冒頭で執筆者は1914年という年との関連性にはいっさいふれず、純粋にその年に起きた出来事が重要であるがために特定の年代を擁護しているかのような説明をしています。

ものみの塔 2011年10月 P26
それにしても,バビロニアの王ネブ力ドネザル2世がエルサレムの都を破壊した正確な年に関心を抱くべきなのはなぜでしょうか。第一に,その出来事が神の民の歴史における重要な転換点となったからです。ある歴史家は,それが「破滅,それも究極の破滅」につながった,と述べています。…第二に,この「究極の破滅」が始まった実際の年を知り,エルサレムにおける真の崇拝の回復が正確な聖書預言の成就となったことを理解すれば,神の言葉の信頼性に対する確信が強まるからです。

これから「ものみの塔」の記事がいかに根拠のない主張を繰り広げているのかを解説します。変えることができない1914年という年が前提にあるということを理解していないと、ものみの塔がなぜここまで無謀な主張を展開できるのかも理解できません。

聖書的根拠

10月号の前半の要点は次のようになります。70年の終点は西暦前537年として確定できる、そしてエレミヤ書では70年間エルサレムが荒廃すると予言されていた、西暦前537年にエルサレムの荒廃が終わったと考えれば、エルサレムの荒廃が始まった年は70年前の西暦前607年に違いない、ということです。そして以下のように結論付けています。

ものみの塔 2011年10月 P28
「霊感のもとに記された聖書からの証拠がエルサレムの滅びは西暦前607年であったことをはっきり示している

上記の文章には問題点があります。まず第一に、関連する聖書の言葉は決して「西暦前607年であったことをはっきり示している」と言えるものではないということです。そもそもエレミヤの言葉をユダヤ人の流刑から復帰までの文字通りの正確な期間であると断言することさえできないはずです。70年に関するエレミヤの言葉は次のようになっています。

エレミヤ 25:11
そして,この地はみな必ず荒れ廃れた所,驚きの的となり,これらの諸国の民は七十年の間バビロンの王に仕えなければならない」』。

エレミヤは諸国の民を含めた国々がバビロンの支配に服する期間に関連して70年について語っていたということがわかります。ものみの塔の記事では、このような点をあいまいにするような記述の仕方をしています。確かにエレミヤの書を読んだダニエルが「エルサレムの荒廃が満了するまでの年の数を」知ったと述べています。しかし、ダニエルはエレミヤ書を元にして推論したわけですから、エレミヤ書に書かれている「諸国の民は七十年の間バビロンの王に仕える」という記述を読んで、そこから「エルサレムの荒廃が満了するまでの年の数を」知ったにすぎないと考えることができるのではないでしょうか?

それにしても不思議なのは、これほど70年の期間を特定の年代計算に使用することにこだわる協会が、別の聖句を説明する際には70年間という期間を字義どおりに解釈する必要はないとあっさり認めてしまうことです。

ものみの塔発行 イザヤの預言 – 全人類のための光(1) 253‐254ページ
エレミヤを通してこう言われます。「これらの諸国の民は七十年の間バビロンの王に仕えなければならない」。(エレミヤ 25:8‐17,22,27) 実際のところ,ティルスの島側の都市は,丸70年の間バビロンに服従するわけではありません。バビロニア帝国は西暦前539年に倒れるからです。この70年は,バビロニア王朝が自らの王座を「神の星」の上にまで上げたと誇る,バビロニアの支配の最盛期を表わしているようです。(イザヤ 14:13)その支配下にそれぞれの国が入った時期はまちまちです。

一方で聖書の中の70年という期間を「丸70年の間・・ではありません」「バビロニアの支配の最盛期を表しているようです」、「時期はまちまちです」と解説するのに対して、他方では70年は文字通りの期間で、西暦前607から同537年にのみ当てはまると解説することに矛盾を感じないでしょうか?

古代歴史書に対する攻撃

ものみの塔は次のように述べます。「多くの権威者たちが西暦前587年という年に固執しているのはなぜでしょうか。 それらの人が典拠としているのは,二つの情報源-古典史家の書いた物とブトレマイオスの王名表-です」(ものみの塔 2011年10月 P28)このような文章は誤解を与えます。多くの権威者たちは「古典史家の書いた物とブトレマイオスの王名表」に頼って年代を確定しているわけではないのです。C.T.ラッセルの時代はそう言えたかもしれませんが、そのような時代はもう何十年も前に終わっています。実際次の月に発行されたものみの塔の記事では、「ほとんどの学者はエルサレムの滅びを西暦前587年としています。・・・なぜそう結論づけるのでしょうか。それは、ネブカドネザル2世とその後継者たちについての詳細を記している,古代の楔形文字の文書に基づいて計算しているからです。」と認めています。(ものみの塔 2011年11月 P22)なぜ「ものみの塔」は学者たちが根拠としている情報源についてまとめて記述しないのでしょうか?実際には新バビロニアの年代に関してはプトレマイオスやベロッソスに依存することなく「楔形文字の文書」だけで年代を確証することができます。「楔形文字の文書」の中には「年代記」「王名表」「王碑文」そして数千にのぼる新バビロニアの統治年が記載された「商業文書」や「司法文書」が含まれており、それらを天体観測の記録と照らし合わせれば、各王の統治期間を定めることができます。

ポリュヒストルおよびヨセフスとの比較

ものみの塔は特に解説を含めることなく、以下の表を提示しています。ベロッソスやプトレマイオスの年代が信頼できないという印象を与えるためです。しかしものみの塔が読者に伝えていない点があります。ポリュヒストルはヨセフスやエウセビウスによる引用という形で断片が残っているにすぎないことを伝えるべきでしょう。またヨセフスは「アピオーンへの反論」の1章21節の中で、ネブカドネザルの第18年からエルサレムの神殿が荒廃していた期間が50年間であったと述べており、プトレマイオスやベロッソスと一致している証言をしていることも伝えるべきです。どの年数が正しいかを確認するのは難しいことではありません。この比較表に記載されていない多数の「バビロニア年代記」の碑文、あるいは粘土板の記録と比較すればプトレマイオスやベロッソスの年数が正しいということは一目瞭然だからです。

不正確な引用

ものみの塔の記事では多くの文献を引用していますが、それらはことごとく著者の意図とは違う意味に使用されている、もしくは文脈を無視して引用されています。少しの例を見てみましょう。

ものみの塔 2011年10月 P30
大英博物館のクリストファー・ウォーカーの述べているとおり,プトレマイオスの王名表は「天文字者たちに一貫した年代を提供するための人為的な工夫」であって,「歴史家たちに王たちの即位と死に関する正確な記録を提供するためのものではなかった」のです。

ものみの塔はウォーカーが述べる同じ記事の続きの言葉は省略しています。そこでウォーカーはプトレマイオスの年代は「信頼できる」と述べているのです。

「しかしながら、新バビロニアとアケメネス王朝時代の年代学にとって重要な役割を果たしており、それは信頼できるものである。」「現在入手可能な楔形文字の資料から得られる膨大なデータとプトレマイオスによる年代とを比較調査することは何も難しいことではない。」

CHRISTOPHER WALKER – Mesopotamia and Iran in the Persian Period (London: The British Museum Press, 1997), p. 18

続いてものみの塔の記事はプトレマイオスの資料に疑問をなげかけるためにレオ・デパウトの本から引用しています。

ものみの塔 2011年10月 P30
プトレマイオスの極めて熱心な擁護者の一人であるレオ・デパウトは,「昔からこの王名表は,天文学の分野では信頼できるものとして知られてきたが,だからといって必然的に歴史の分野でも信頼できるものになるわけではない」と書いています。この王名表に関してデパウト教授は,さらにこう述べています。「[新バビロニアの王たちを含め]初期の支配者たちに関して言えば,王名表は,各王の治世ごとに楔形文字の記録と対照して調べる必要がある」。

ものみの塔は「王名表は,各王の治世ごとに楔形文字の記録と対照して調べる必要がある」という言葉まで引用しておきながらレオ・デパウト自身が楔形文字の記録と対照したうえで王名表を年代計算上信頼できるものとしていることは言及しません。そもそも論点は「年代計算」ではなかったでしょうか?歴史の細かな部分をプトレマイオスは省いています。例えば、数か月しか統治していない王を表に載せないという方法をとっています。それは逆に言うと、プトレマイオスが正確な「年代」を提示することに強い関心を持っており、歴史的出来事に左右されて年数の計算にミスが生じないようにすることに注意を払っていたということを証明するものなのです。ものみの塔は中途半端な引用をすることにより読者を誤導しています。そしてレオ・デパウトが同じ節の中で次のように述べている部分は引用することはありません。

「わたしの知る限り、この王名表のどの面に関しても価値ある根拠に基づいて論駁できた者はいない」

ものみの塔に引用されたレオ・デパウト自身がこの件に関してどう考えているのかは以下のサイトにあるメールのやり取りから知ることができます。

http://adelmomedeiros.com/engrespostasdoseruditos587.htm#ldy

問い合わせのメールの趣旨

レオ・デパウト様、

2011年10月1日のものみの塔誌にエルサレムの崩壊が西暦前587年だとする資料が信頼できないという記事が出ていて、あなたの本が引用されています。

そこでお聞きしたいのが、プトレマイオス王名表が587年を支持する資料としては信頼できる源ではないということを示す情報をあなたの本は提示しているのでしょうか?

レオ・デパウト氏からの返事:

直接質問に答える代りに、最近同じような質問に対して返事をしたので、それを転送します。西暦前607年をエルサレムの崩壊の年とすることは論外です。証拠は明確なのです。

—— 転送メッセージ —–

王名表はバビロニア天体観測日誌などの資料や他の多くの証拠によって十分に確証されています。西暦前607年はエルサレム崩壊の年としては論外です。わたしの記事は王名表と楔形文字の資料をより明確に比較することを提唱していました。わたしはその記事のなかで王名表と楔形文字の資料に関しては「常に一致しているようだ」と話を進めているのです。天文学日誌に関するエイブラハム・サックスやハーマン・ハンガーの著作の一部に基づいてそのように言うことができます。王名表と日誌の間には数多く重なる部分があるのです。こうした証拠はもっと明確に提示することができるでしょうし、一般の人にも理解できるような仕方で提示できるにちがいありません。
一つの問題は多くの資料がここ20年くらい前から出版されるようになったことでしょう。しかし、わたしの記事が出てからもこの問題に関する系統立った注意が向けられてきました。(例としてカール・オロフ・ジョンソンが投稿しているすべてのの資料を参照できるでしょう。http://kristenfrihet.se/)

レオ・デパウト

 

実質のない主張

記事の30頁には「ウルクの王名表」と比較してプトレマイオスの王名表が一致していないので、プトレマイオスは信頼ができないという趣旨のことが書かれています。そして同じページの下には比較した表があり、実際の歴史はプトレマイオスの年代よりも長い年代を示すのではないかと錯覚するように書かれています(なぜか重要な年数を書いていません)。

ものみの塔 2011年10月 P30

しかし実際に対比表を記すのであれば以下のようなものになるでしょう。

年代を記載した対比表(ものみの塔は年代を省いている)

プトレマイオスの王名表 ウルクの王名表
カンダラヌ 22年 21年 カンダラヌ
1年 シン・シュム・リシル
シン・シャラ・イシュクン
ナボポラッサル 21年 21年 ナボポラッサル
ネブカドネザル 43年 43年 ネブカドネザル
アメル・マルドゥク 2年 2年 アメル・マルドゥク
ネリグリッサル 4年 3年+8ヵ月 ネリグリッサル
3ヵ月 ラバシ・マルドゥク
ナボニドス 17年 17年 ナボニドス
合計 109年 108年と11ヵ月 合計

上記のように各期間を記載すればウルクの王名表とプトレマイオスの王名表には年代的な差が出ないことがわかるでしょう。プトレマイオスがウルクに出ている3人の王を記していない理由については、ものみの塔の記事でも認めている通り、それらが年代計算に影響を与えないほど期間が短いかバビロンの正当な支配者として認められていないからです。実際、シン・シャラ・イシュクンは本来アッシリアの王です(Wikipedia:シン・シャル・イシュクン)。 ものみの塔はシン・シャラ・イシュクンの7年目の統治を記述した粘土板があると記事でほのめかしています(本文と脚注8)、しかし「ものみの塔」はそれらの粘土板のどれにも「バビロンの王」とは記述されていないことを読者に示しません。カンダラヌの21年の統治からナボポラッサルが正式に統治を始まるまでの間にバビロンに王がいなかった空白の1年間があることが知られていますが、その1年間にどれだけ王詐称者がいたとしてもプトレマイオスがそれらの詐称者を無視したところで実質年代には何の影響もありません。それにしても「ものみの塔」はなぜ「ウルクの王名表」に記載がある各王の統治年数を記事の中に記載しないのでしょうか?それは「ウルクの王名表」が実際にはプトレマイオスの王名表の年数が正しかったことを証明してしまうからです

ものみの塔は本文や脚注の中にバラバラに真実の一部を記載しているものの、読者に対して事実関係を明確に提示して読者自身が比較考慮できるようにするという本来あるべき誠実な態度は示さないのが現実なのです。

さらに「古代エルサレムが滅ぼされたのはいつか 第二部」をお読みください。

 

記事の終わり


 

補足情報

聖書的な解釈に関してはさらに以下のアドレスにある記事をお読みになることをお勧めします。

ものみの塔小異雑記 – エレミヤの70年
http://www.geocities.jp/sonotokisiran/jer70.htm

『異邦人の時再考』-要旨と抄訳 カール・オロフ・ジョンソン・著|村本 治・抄訳
http://www.jwic.info/gentim_3.htm

英文ですが以下のサイトも参照されることをお勧めします。

The Uruk King List(ウルクの王名表)
http://www.livius.org/k/kinglist/uruk.html

 

 

3 コメント

  1. アバター

    いのうただお

    このコメント欄を質問コーナーのように用いて良いものかと思いましたが、報告の意味も込めてお知らせしたいと思います。Wikipediaの「バビロン捕囚」の説明のところです。前607年~前537年とされているのです。以前は、一般的に認められている年代が記されていたと思いますが。Wikipediaはボランティアのまとめたものと言うことで、そのまま投稿すれば、無条件で載せてくれるものなのかどうか。あるいは、寄付を多額にでもすれば変更してくれるのか。非常に不愉快なので、敢えてコメントしました。

    • アバター

      caleb

      興味深い点 お知らせいただきありがとうございます。
      このような編集が行われているのは知りませんでした。
      数か月も放置状態になっているようです。

      以下に書き換えを行った人にむけて書きました。
      http://ameblo.jp/jwstudy/entry-12141545957.html

      英語のWikipediaではすぐに戻されるでしょうが
      日本は人材が少なすぎますね。

      エホバの証人やりたい放題になる可能性はありますが
      この状態はエホバの証人全体にとってはプラスマイナスでマイナスになると思います。

    • アバター

      あかちゃん

      確かにひどい書き換えですね。私も証人になります(笑)。

      でも他の部分には手をだせなかったようです。下記をご確認ください。
      紀元前586年 – 新バビロニアがユダ王国を滅ぼし、エルサレム神殿の破壊・バビロン捕囚が行われる

      紀元前6世紀
      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D6%E4%B8%96%E7%B4%80

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