もしあなたがエホバの証人で、ここまでの記事のすべてを真剣に読んでいただいたのであれば、エルサレムの滅んだ年と新バビロニアの年代に関して「ものみの塔」が20年分の計算間違えをしているということをご理解いただけたと思います。(まだお読みでない場合は「BC607年と1914年」シリーズも合わせてお読みください。)
しかし、ここでもう一つだけ解説が必要ではないかと思える分野があります。それは1914年と「終わりの日のしるし」に関する問題です。次のように考える人がいるかもしれません。「1914年についてはエホバの証人が前もって予告をしていた。そしてその年に第一次世界大戦が勃発したのであるから、ものみの塔の言うことは正しかったのではないか?」
そのような考えは本当に妥当なものでしょうか?ここでは幾つかの要点にしぼって考えてみたいと思います。
いつの間にか塗り替えられる歴史
1914年から16年が経過した1930年に出版された「光」と題する書籍のなかに1914年当時の状況が説明されています。この時はまだ1914年当時の出来事を見ている人たちが大勢いました。ですから比較的状況を正直に説明せざるを得ませんでした。
光 第一巻 194頁 – J.F.ラザフォード 1930年
すべての主の民は1914年を喜びの期待を抱いて待ち望んでいました。その時が到来し過ぎ去った時、大変大きな失望が生じ、悔しさと落胆が存在しました。そして主の民は大いに非難されました。彼らは僧職者たちとその仲間たちからは特に笑い物にされ、軽蔑的に後ろ指をさされました。なぜなら1914年について沢山のことを語り、その時までに起きるであろうことを伝えていたのに、彼らの「預言」は成就しなかったからです。
All of the Lord’s people looked forward to 1914 with joyful expectation. When that time came and passed there was much disappointment, chagrin and mourning, and the Lord’s people were greatly in reproach. They were ridiculed by the clergy and their allies in particular, and pointed to with scorn, because they had said so much about 1914, and what would come to pass, and their ‘prophecies’ had not been fulfilled. [Light I, p. 194]
ところが1985年になると同じ話が全く違う話のように説明されています。
*** 塔85 9/1 24ページ 11節 神の奉仕者は自分たちの資格を証明する ***
エホバの民は1876年以降,この世,特にキリスト教世界に対して,異邦人の時は1914年の秋に終わるという知らせを与えました。(ルカ 21:24,ジェームズ王欽定訳)僧職者は,バプテスマを施す人ヨハネの業に相当する40年にわたるこの予備的な業を無視できず,警告通りのことが何も起きずに1914年が過ぎた場合には本誌の編集者に襲いかかろうと手ぐすねを引いていました。ところが,1914年7月28日に第一次世界大戦が勃発して平和が打ち砕かれるに及び,彼らは沈黙せざるを得ませんでした。
1930年の説明と1985年の説明ではまるで違う説明になっています。なぜこのような違う説明に切り替わるのでしょうか?「歴史5 – 不誠実な記載」の記事では、ものみの塔が読者に対して不誠実な仕方で自分たちの歴史を提示していることについてはすでに説明しました。ものみの塔は1930年代の初めころまでに1799年(終わりの日)、1874年(キリストの臨在)、1878年(キリストの王国と天の復活)などの年代を1914年や1918年に動かす作業を完了させました。そして昔の話を知る人が少なくなると、人々の記憶と思いを書き換える作業に入ります。(詳しくは「歴史5 – 不誠実な記載」をご覧ください)
Carl Sagan(1934~1996)
自分たちの敗北を勝利に書き換えることは古代にはしばしば行われた手段です。しかしインターネットが普及しているような時代にはそのような手は通用しません。ものみの塔が最初に言っていた事をいつの間にか変更するという点は、科学者のカール・セーガンは皮肉をこめて次のように語っています。
カール・セーガン サイエンス・アドベンチャー(下)201頁
予言しない教理は、正しい予言をする教理にくらべて人をつかむ力は弱いが、誤った予言をする教理よりは成果をあげられるものなのである。
ところが、いつもそうだとは限らない。ある有名なアメリカの宗教が、この世は1914年に終わるだろうと自信たっぷりに予言したことがある。さて1914年という年が明け、そして暮れた。その年に起こった事件はかなり重大なものではあったが、少なくとも私の目にはこの世が終わってしまったようには見えない。このような大変な予言がはずれた場合に宗教法人がとる態度は、少なくとも三とおりある。問題の宗教法人は「おや、”1914年”と言いましたか?失礼、実は”2014年”でした。計算に少し誤りがありまして。何かご迷惑をかけていなければいいのですが」と言うこともできたはずだが、実際にはそうは言わなかった。あるいは「私ども信者が神様に熱心にお祈りを捧げて地球をお救いくださるようお願いしなかったら、この世はもう終わっていたはずです」とも言えたはずだ。しかし、そうも言わなかった。その代わり、ずっと巧妙な手を使ったのだ。自分たちの預言通り1914年にこの世は終わってしまっていて、皆さんがそれに気がつかないでいるとすれば、それは皆さんの責任である、と発表したのである。こんな見えすいた言い逃れをしても、この宗教に依然として信者がいるというのは驚くべきことだ。確かに、宗教はそう簡単に滅びはしないものだ。反論を受けるような論争は避けて沈黙しているか、あるいは反論されたら、いち早く教理を練り直してしまう。宗教がこれほどまでに恥知らずで不誠実で、信者の知能程度を見くびっていながら、依然として信者を集めている事実は、信者たちの知力があまり強靭ではないことを物語っている。だが、敢えて注釈をつければ、宗教的体験の核心には合理的な調査研究を頑強につっぱねる何かがあるということを、この事実は明らかに示しているのである。
(英文は「Carl Sagan – Broca’s Brain」に収録)
カール・セーガンは1874年の教理を1914年に差し替えたという詳細な点を省いていますが、「ものみの塔」がしばしばとってきたやり方を皮肉を交えて上記のように説明しました。カール・セーガンは「信者たちの知力」の問題にも言及していますが、これはあまり公平ではないと思います。なぜなら「ものみの塔」は信者たちから事実関係を確認する機会さえ奪っている場合が多いからです。
1914年が「歴史の転換点」になったという錯覚
現代のエホバの証人は、1914年になると突然それまでの平和な1913年までの世の中が一転したと信じる傾向があります。これは「ものみの塔」がそう思わせるような新聞記事や一般人のコメントの切り抜きを提示してきたからです。そして「ものみの塔」は1914年以降に劇的に世界が悪くなってきており、それは悪魔サタンが天から地上に落とされたからであると説明します。
第一次世界大戦は悪魔サタンが天から地上に落とされたために生じたものなのでしょうか?もしそうであれば合理的な説明は、1914年の6月にオーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が襲撃されて大公が暗殺されたのは悪魔サタンの仕業であるということになります。その出来事がきっかけで第一次世界大戦が誘発されたからです。そのような主張が仮にあるとしても、それを肯定あるいは否定する証拠などは提示しようがないので、ここでは話を進めることはしません。しかし少なくとも第一次世界大戦は1914年よりもずっと前から存在していたヨーロッパの不安定な情勢に基づいているという点は指摘する必要があります。
1912年や1913年にはすでにバルカン戦争が起きていました。(バルカン戦争 Wikipedia)日本とロシアの間での戦争も1904年に勃発していました。(日露戦争 Wikipedia)ものみの塔が1913年までが平和で、1914年から戦争の歴史が始まったという印象を読者に与えようとするならそれは事実と異なります。以下のラッセルの記述のほうがまだ真実の歴史に近いものです。
ものみの塔(Zion’s Watch Tower) 1887年 2月号
ヨーロッパではすべての権力者と多くの一般人が恐れと心配で満たされています。・・・イギリス政府は長い間保持していた力を失っています。・・・ドイツとフランスは今、税収の通常の割合以上のお金を軍事費に費やしています。・・・トルコとの関係におけるロシアの政策は修正されました。・・・
このすべてを見ると次の夏にはヨーロッパのすべての国が参加する戦争が起きてもおかしくありません。フランスはすでにドイツ国境付近に軍隊の宿営を配置しはじめています。そしてオーストリアは余分な医療補給品や器具を発注しはじめています。3月には軍隊の移動ができるように準備を始めています。一方、イギリスにいるドイツ人には軍の必要に応じて帰国できるように緊急通知を受ける準備をするようにとの通達が出でいます。
上記の記述を見ると19世紀の後半には、ヨーロッパが戦争に突入してもおかしくない情勢になっていたことをラッセル自身が認めていたということを理解できます。決して1914年が突然世の中を変えたのではないのです。
統計学的証拠は?
ものみの塔は、1914年以降に戦争、地震、病気、飢饉、犯罪などが劇的に増加したような「印象」を与えるコメントを多く出しますが、なぜか統計学的証拠を提示することはありません。数字を出すとしても部分的なもので、全体像をつかめるようなデータを出してくることはありません。統計学的データを提出することは何か不利にでもなる状況があるのでしょうか?確かに以下に示されるような統計データは読者に見せたいものではないに違いありません。
地震の統計データ
地震の被災者の比較 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
1715年~1783年 | 1915年~1983年 | |||||
年 | 場所 | 死亡 | 年 | 場所 | 死亡 | |
1715 | アルジェリア | 20,000 | 1915 | イタリア | 29,970 | |
1717 | アルジェリア | 20,000 | 1920 | 中国 | 180,000 | |
1718 | 中国 | 43,000 | 1923 | 日本 | 143,000 | |
1719 | 小アジア | 1,000 | 1927 | 中国 | 200,000 | |
1721 | イラン | 100,000 | 1932 | 中国 | 70,000 | |
1724 | ペルー(津波) | 18,000 | 1933 | 米国 | 115 | |
1725 | ペルー | 1,500 | 1935 | インド(パキスタン) | 60,000 | |
1725 | 中国 | 556 | 1939 | チリ | 30,000 | |
1726 | イタリア | 6,000 | 1939 | トルコ | 23,000 | |
1727 | イラン | 77,000 | 1946 | トルコ | 1,300 | |
1730 | イタリア | 200 | 1946 | 日本 | 2,000 | |
1730 | 中国 | 100,000 | 1948 | 日本 | 5,131 | |
1730 | 日本 | 137,000 | 1949 | エクアドル | 6,000 | |
1731 | 中国 | 100,000 | 1950 | インド | 1,500 | |
1732 | イタリア | 1,940 | 1953 | トルコ | 1,200 | |
1736 | 中国 | 260 | 1953 | ギリシャ | 424 | |
1737 | インド | 300,000 | 1954 | アルジェリア | 1,657 | |
1739 | 中国 | 50,000 | 1956 | アフガニスタン | 2,000 | |
1746 | ペルー | 4,800 | 1957 | イラン(北部) | 2,500 | |
1749 | スペイン | 5,000 | 1957 | イラン(西) | 2,000 | |
1750 | ギリシャ | 2,000 | 1960 | チリ | 5,700 | |
1751 | 日本 | 2,000 | 1960 | モロッコ | 12,000 | |
1751 | 中国 | 900 | 1962 | イラン | 10,000 | |
1752 | シリア | 20,000 | 1963 | ユーゴスラビア | 1,100 | |
1754 | エジプト | 40,000 | 1964 | アラスカ州 | 131 | |
1755 | 中国 | 270 | 1966 | トルコ | 2,529 | |
1755 | イラン | 1200 | 1969 | イラン | 11,588 | |
1755 | ポルトガル | 60,000 | 1970 | トルコ | 1,086 | |
1755 | モロッコ | 12,000 | 1970 | ペルー | 66,794 | |
1757 | イタリア | 10,000 | 1971 | 米国 | 65 | |
1759 | シリア | 30,000 | 1972 | イラン | 5,057 | |
1763 | 中国 | 1,000 | 1972 | ニカラグア | 6,000 | |
1765 | 中国 | 1,189 | 1973 | メキシコ(西) | 52 | |
1766 | 日本 | 1,335 | 1973 | メキシコ(中央) | 700 | |
1771 | 日本(津波) | 11,700 | 1974 | パキスタン | 5,200 | |
1773 | グアテマラ | 20,000 | 1975 | 中国 | 200 | |
1774 | ニューファンドランド | 300 | 1975 | トルコ | 2,312 | |
1778 | イラン(カーシャーン) | 8,000 | 1976 | グアテマラ | 23,000 | |
1780 | イラン(タブリーズ) | 100,000 | 1976 | イタリア | 900 | |
1780 | イラン(コーラサン) | 3,000 | 1976 | バリ | 600 | |
1783 | イタリア(カラブリア) | 60,000 | 1976 | 中国B | 242,000 | |
1783 | イタリア(パルミ) | 1,504 | 1976 | フィリピン | 3,373 | |
1783 | イタリア(レオン) | 1,191 | 1976 | トルコ | 3,790 | |
1977-1983 | 44,623 | |||||
合計1715-1783: | 1,373,845 | 合計1915-1983: | 1,210,597 | |||
年間平均: | 19,911 | 年間平均: | 17,545 |
(he “Sign” of the Last Days — When? – Jonsson and Herbst)
「世の中はどんどん悪くなっている」という意見は一般的にもよく聞かれます。しかし多くの場合、そのような感想は主観的な意見であり、事実とは異なる場合が少なくありません。例えば以下の表は日本の殺人事件の件数の推移を表していますが、殺人などの凶悪犯罪は増加よりもむしろ減少傾向にあり、人口の増加と比較すればその点はより明確になります。
日本の殺人事件の推移
年度 | 人口 | 殺人 |
---|---|---|
1926 | 60,741,000 | 2,516 |
1927 | 61,659,000 | 2,495 |
1928 | 62,595,000 | 2,350 |
1929 | 63,461,000 | 2,064 |
1930 | 64,450,000 | 2,315 |
1931 | 65,457,000 | 2,415 |
1932 | 66,434,000 | 2,700 |
1933 | 67,432,000 | 2,713 |
1934 | 68,309,000 | 2,595 |
1935 | 69,254,000 | 2,484 |
1936 | 70,114,000 | 2,491 |
1937 | 70,630,000 | 2,226 |
1938 | 71,013,000 | 1,957 |
1939 | 71,380,000 | 1,692 |
1940 | 71,933,000 | 1,513 |
1941 | 72,218,000 | 1,424 |
1942 | 72,880,000 | 1,175 |
1943 | 73,903,000 | 1,112 |
1944 | 74,433,000 | 933 |
1945 | 72,147,000 | 919 |
1946 | 75,750,000 | 1,791 |
1947 | 78,101,000 | 1,938 |
1948 | 80,002,000 | 2,495 |
1949 | 81,773,000 | 2,716 |
1950 | 84,115,000 | 2,892 |
1951 | 84,541,000 | 2,865 |
1952 | 85,808,000 | 2,871 |
1953 | 86,981,000 | 2,944 |
1954 | 88,239,000 | 3,081 |
1955 | 90,077,000 | 3,066 |
1956 | 90,172,000 | 2,617 |
1957 | 90,928,000 | 2,524 |
1958 | 91,767,000 | 2,683 |
1959 | 92,641,000 | 2,683 |
1960 | 94,302,000 | 2,648 |
1961 | 94,287,000 | 2,619 |
1962 | 95,181,000 | 2,348 |
1963 | 96,156,000 | 2,283 |
1964 | 97,182,000 | 2,366 |
1965 | 99,209,000 | 2,288 |
1966 | 99,036,000 | 2,198 |
1967 | 100,196,000 | 2,111 |
1968 | 101,331,000 | 2,195 |
1969 | 102,536,000 | 2,098 |
1970 | 104,665,000 | 1,986 |
1971 | 106,100,000 | 1,941 |
1972 | 107,595,000 | 2,060 |
1973 | 109,104,000 | 2,048 |
1974 | 110,573,000 | 1,912 |
1975 | 111,940,000 | 2,098 |
1976 | 113,094,000 | 2,111 |
1977 | 114,165,000 | 2,031 |
1978 | 115,190,000 | 1,862 |
1979 | 116,155,000 | 1,853 |
1980 | 117,060,000 | 1,684 |
1981 | 117,902,000 | 1,754 |
1982 | 118,728,000 | 1,764 |
1983 | 119,536,000 | 1,745 |
1984 | 120,305,000 | 1,762 |
1985 | 121,049,000 | 1,780 |
1986 | 121,660,000 | 1,676 |
1987 | 122,239,000 | 1,584 |
1988 | 122,745,000 | 1,441 |
1989 | 123,205,000 | 1,308 |
1990 | 123,611,000 | 1,238 |
1991 | 124,101,000 | 1,215 |
1992 | 124,567,000 | 1,227 |
1993 | 124,938,000 | 1,233 |
1994 | 125,265,000 | 1,279 |
1995 | 125,570,000 | 1,281 |
1996 | 125,859,000 | 1,218 |
1997 | 126,157,000 | 1,282 |
1998 | 126,472,000 | 1,388 |
1999 | 126,667,000 | 1,265 |
2000 | 126,926,000 | 1,391 |
2001 | 127,316,000 | 1,340 |
2002 | 127,486,000 | 1,396 |
2003 | 127,694,000 | 1,452 |
2004 | 127,787,000 | 1,419 |
2005 | 127,768,000 | 1,352 |
2006 | 127,770,000 | 1,309 |
2007 | 127,771,000 | 1,199 |
警察庁. 犯罪情勢
「ものみの塔」は悪魔がどのように食糧不足や地震、犯罪、病気を増大させているのかという点については合理的な説明をすることはありません。本当にこれらの災いは悪魔サタンに起因しているのでしょうか?
*** 塔03 6/15 7ページ イエス・キリストが地上に存在した証拠 ***
大規模な戦争,食糧不足,地震,偽預言者の出現,不法の増大,深刻な疫病などが含まれていました。災いとなるそのような出来事は予期すべきものでした。悪魔サタンが追放されることは『地にとって災い』を意味するからです。
現代科学はここで述べられている事象のメカニズムを説明しています。 地震はプレートの変動によって歴史の中でコンスタントに起きています。病気は細菌やウィルスが原因であることが分かっています。災いを悪魔サタンに起因するものとし、1914年以降にそれらが増大していると主張するのであれば、それなりの根拠を提示するべきでしょう。
結論
事実を確認するために、このような統計データに注目するのは不信仰なことでしょうか?戦争や犯罪、場合によっては地震さえも悪魔サタンが引き起こしているということを認めるためには「信仰の目」が必要なのでしょうか?「ものみの塔」の主張を考えると、ベンジャミン・フランクリンが述べた次の言葉が思い出されます。
信仰の目で見るというのは論理の目を閉じるということである。
The way to see by faith is to shut the eye of reason
ベンジャミン・フランクリン(1706-1790)
記事の終わり
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