古代エルサレムが滅ぼされたのはいつか
第二部 ものみの塔2011年11月号
「古代エルサレムが滅ぼされたのはいつか」と題する記事は 2011年10月と11月号の2回に分けて掲載されました。歴史年代を算定する場合、学者たちは入手可能なすべての資料を比較考慮して結論を出します。その結論の確証の度合は資料の量や証拠の客観性に多く依存します。
では、新バビロニア(聖書に出てくるバビロン)の歴史に関してはどうでしょうか?幸いバビロニアの独特な文化ゆえに、その国の歴史、特に王の統治に関する年代は一般的に期待できる以上の豊富な証拠が残されています。
ではそれらの粘土板の記録は何を示しているでしょうか?
商取引関係の粘土板 – 空白のない歴史
バビロニアには粘土板に刻まれた商業文書(補足:古代の商業文書とは?)が数多く残されており、今回の問題に関連する新バビロニアの70年に関連する記録だけでも数千点の粘土板が残されています。この点はものみの塔も認めていて、24頁の脚注のところには小さな文字で次のように記載されています。
ものみの塔 2011年11月 24ページ 脚注
*商取引関係の粘土板は、幾つかの例外を除けば、これまで新バビロニアの王たちの時代とされてきたどの年のものも現存しています。それらの王たちの支配した年月を合計して、新バビロニアの最後の王ナボニドスから起算すると、エルサレムの滅びは西暦前587年に起きたことになります。
上記の点は、論議になれば「ものみの塔」にとっては大変不利になる事実を含んでいます。しかし無視するとかえって不利になると考えたのか、上記のように脚注の中に控え目に記載されました。いずれにしても、この点は出来れば読者に注目してほしくない点であるに違いありません。なぜなら粘土板に記載されている王の統治年は見事にプトレマイオスやベロソッスの年代と一致しているからです。ものみの塔の立場からすると、バビロンに20年の「空白の」期間があり、その期間中誰も商取引関係の粘土板を残さなかったという無謀な主張をしなければならないのです。間違えないでください、残されている粘土板は数点ではなく数千から数万点に及びます。
数千から数万の記録が残されているにも関わらず20年分だけ奇麗に記録が存在しないということが考えられるでしょうか?ものみの塔協会の初代会長のC.T.ラッセルの時代には粘土板の研究が行われおらず、歴史家の記述との比較研究が乏しかったのは事実です。ですからラッセルが一般の歴史家の見解が間違いであると考えて聖書に記載のある70年を単純に逆算して年代を割り出すことを選んだのは理解できなくもありません。しかし現在は事情が異なります。古代の商業文書を参照すれば、新バビロニアの歴史に20年を加えることは不可能になるのです。
無意味な主張 – バビロニア年代記の空白
ものみの塔は「古代の商業文書」と同じページに「バビロニア年代記 – 空白のある歴史」と題して年表を大きく掲載しています。年代記がすべての年の出来事を扱っていないというのはごく当たり前のことです。それでもバビロニア年代記は例えば、「ナボポラッサルは21年間バビロンを支配した。彼はアブの月の8日目に死んだ。ネブカドネザルバビロンに戻り次の月の第1日にバビロンの王座に就いた。」(BM21946)というような記載があり、各王の統治年数を確認するには十分な証拠を提出しているのです。年代記がナボポラッサルの統治したすべての年に関する詳細な記述を扱っていなくても、その王が21年間統治したということ、さらにネブカドネザルがその後を引き継いだことは明確です。またネブカドネザル王の統治の後半の部分の出来事に関しては詳細はわかっていませんが、彼が43年間統治したことははっきりしています。ものみの塔の批判は例えるなら、「昭和天皇の在位のすべての年の記録が手元に残っていないので、昭和天皇が64年在位されたことは疑わしい」と主張するようなものなのです。
商取引関係の文書に空白がないという事実の重要性をほとんど無視している協会が年代を判定する上で何の影響もない年代記の「空白」を大きな表にして掲載しているところに不誠実さを感じないでしょうか?
(年代記の一つ NABON.H1B ついて「結論1 – 明確な新バビロニアの歴史」の中で説明しています。)
読者に錯覚を与える試み
ものみの塔は、バビロン周辺から出土している商業取引の粘土板の客観的な証拠から目を逸らさせるために以下のような主張をしています。
この主張がどのような意味を持つかを考えてください。新バビロニア時代の商取引関係の粘土板は数千以上にのぼります。これらの文書は並べると新バビロニアの歴代の王の統治年に該当する商業文書がきれいに並びます。つまりネブカドネザルは43年分、アメル・マルドゥクは2年分、ネリグリッサルは4年分の該当文書がきれいに存在します。しかし王が交代する年の中の特定の月に関しては数千点ある粘土板のうちの数点に重複する記録があります。ものみの塔はそのような粘土板の存在によって歴史が覆されるかのような印象を与えるコメントをしているのです。しかし実際には統治した年数に関しては数千点の粘土板によって強固に確証されているのであり、年代に疑いを与えるような粘土板は一切存在しないのです。この点を理解するために以下の表をご覧ください。これは「ものみの塔」が主張しているアメル・マルドゥクからその後継者ネリグリッサルに王権が移行した時期に商業文書の日付に矛盾があるとするものの実態を表しています。
アメル・マルドゥクからネリグリッサルに王権が移行した年の各月の現存する商業文書
アメル・マルドゥク | 前年に続く | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | |
ネリグリッサル | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 翌年に続く |
紫色の月は商取引文書が存在する月を表しています。公平に考えれば、ネリグリッサルの王位継承の年の2月の文書やアメル・マルドゥクの同年10月の文書は写字上のミスであることは明らかです。仮にアメル・マルドゥクが10月まで統治していたのであれば、なぜ6,7,8,9の月の商業文書が抜けているのでしょうか?
どう考えてもこのような「矛盾」を示す数点の商業文書は「年代」に影響を与えるものではありません。これらの「矛盾」についての「ものみの塔」の続くコメントは驚くべきものです。
王位継承の年の中で重複する月の商業文書(領収書のようなもの)のことを問題視しておきながら、その流れで「それらの王たちの間に他の王たちが支配した可能性があります」という結論に導こうとしているのです。
ものみの塔は例えるなら、「昭和64年1月7日に昭和天皇が亡くなり1月8日からは平成元年が始まっているはずなのに昭和64年の6月の領収書が一枚見つかった。ゆえに昭和天皇と平成天皇の間に別の天皇が在位していたはずだ」という奇妙な主張をしているようなものです。もし6月の領収書が一枚見つかったにもかかわらず、昭和64年2,3,4,5月の領収書が一つも存在しなければ、6月の領収書は何らかのミスと考えるのが普通です。
上の引用の最後の一文をもう一度見てください。「新バビロニアには幾年か追加しなければならないことになります」と結論付けています。ものみの塔の主張からすると新バビロニアの年代に「幾年か」ではなくて20年追加しなくてはならないのですが、そのことを執筆者は理解しているのでしょうか?
お知らせ(2012年5月):商業文書に関しては新たに「結論2 – 極めて客観的な証拠」のページを用意しました。
VAT 4956
協会は今回の記事で天体観察日誌の VAT 4956 を自分たち側の「証拠」のようにして採用しました。この VAT 4956 はかつて協会自身が信頼できないものとして退けていたものです。(目72 7/8 29ページ)
協会が VAT 4956 を検討違いの年(20年ずらして)に割り当てていることは簡単に証明できます。VAT 4956 に記述のある「月食」は、ものみの塔によると西暦前568年ではなく西暦前588年に起きた月食であると解釈しています。そして月食はその年の7月15日に生じたものであるとしています。では以下の事実について考えてください。
1.VAT 4956 は月食が第三の月(シマヌ)の15日に生じたと記載されている。
2.協会は西暦前588年の7月15日の月食が当てはまると主張している。
3.協会の主張が正しければ第一の月(ニサン)が5月に始まったことになる。
4.ニサンが始まるのは3月か4月であり5月に始まることはない。(うるう年の直後であっても)
当時バビロンではニサン1日は3月と4月の範囲内でしか変動しませんでした。5月に新年(ニサン1日)が来るようなタイミングで「うるう月」を入れることはなかったのです。(ものみの塔の記事では脚注17で「うるう月」が加えられたので月が遅く始っているという弁解をしているが、実際には「うるう月」が追加されても5月になることはない。)*1 補足
さらに強力な証拠があります。西暦前588年の7月15日の月食は偶然にも別の粘土板(BM 38462 [LBAT 1420])に記述があるのです。しかし、BM38462はネブカドネザルの第37年ではなく、第17年に起きた月食とされており、その月食は第三の月ではなく第四の月に生じたと述べられていて、7月に起きたとされる月食と一致しています。そしてBM38462 には同じ年(バビロニア歴)に起きた別の月食、第十の月に起きた月食の記録が詳細に記載されており、これも計算通り西暦前587年1月8日に起きた月食と一致しています。
もし VAT 4957 に記述のあるネブカドネザル王の第37年を20年ずらして計算するなら、BM 38462 のほうも20年ずらして計算しなくてはならなくなります。ところが年をずらしてしまうとそこに記載されている月食は該当するものがなくなってしまいます。ちょうど、合わないパズルのピースを無理やり当てはめても別のピースが合わなくなるのと似ています。
補足ページ:VAT 4956 に見られる月の一連の13の観測結果について
お知らせ(2012年5月):VAT4956に関しては新たに「特集4 – VAT4956」のページを用意しました。
では一般の研究者たちは協会の主張についてどのように見ているのでしょうか?
ものみの塔の記事の中で引用されているジョン・スティール教授自身の考えがメールの返信として以下のサイトに掲載されています。
http://adelmomedeiros.com/engrespostasdoseruditos587.htm#js
ジョン・スティール教授の返信
アリー様、
最近のものみの塔の記事にわたしの本から引用がなされている件をメールしてくれてありがとうございます。ご指摘の通り、この記事の筆者はわたしが書いていることを完全に間違って引用しています。
わたしが述べている月に関する三つの時間のコメントも月食が後から計算された可能性に関する部分も間違った仕方で引用しています。月食に関してはごく限られた古代文書を対象にわたしはコメントしていたのであり、彼らが論議している観測日誌のことではないのです。
ものみの塔の記事を少し外観しただけでも、彼らが他の学者たちの見解も文脈を無視して引用することにより、事実を曲げて話を展開していることがわかりました。
わたしは VAT 4956 の日付についても何度か調査したことがありますが、一般的に理解されている日付以外の日付を当てる可能性を見出したことはありません。
敬具
ジョン・スティール
以下原文
Dear Ms Alley,
Thank you for your email concerning the citation of my work in the
recent Watchtower article. As you suggest the author of this piece is
completely misrepresenting what I wrote, both in what they say about
the lunar three measurement, and in what I say about the possibility
of retrocalculation of eclipses (my comments on the latter were
restricted to a distinct and small group of texts which are different
to the Diary they are discussing). Just glancing through the
Watchtower article I can see that they have also misrepresented the
views of other scholars by selective quotation out of context.
I’ve looked at the date of VAT 4956 on several occasions and see no
possibility that it can be dated to anything other than the
conventional date.
Regards,
John Steele
最後にものみの塔の主張の問題点がどのような性質のものなのかが、ものみの塔の記事にも登場するファン・デル・スペク教授の言葉に的確に表されていますので、それを引用します。この引用は以下のサイトに公開されています。
http://adelmomedeiros.com/engrespostasdoseruditos587.htm#rjs
メデイロスさん、
メールありがとうございます。オランダからも同じ内容で問い合わせが来ていました。
わたしの記事からの引用文そのものは正確なのですが、文脈を無視して引用されてしまっています。わたしが論議していた主張は実際には全く正反対のものなのです。バビロニアの学者たちは良い科学者ですし天体の現象に関して正確な記録を残してくれています。それは現代の天文学者によっても確認できることなのです。天体日誌からの歴史的情報に関しても他の資料によって裏付けを取ることがしばしばできるのであって、ほとんどの場合それは正確です。
・・・
もちろん古代の日誌からの歴史的情報は注意深さをもって扱う必要があるでしょう。それは、どの歴史的情報においても同じことです。学者たちの関心は言わば天空からの情報を地中の情報と一緒に収集することから行い、それからバビロンでの出来事や王の歴史に特別の関心を向けるのです。そして彼らは驚くべき正確さでこれらのことを成し遂げてきたのであり、彼らは「言い伝え」情報による出来事を集めているのではありません。そしてそのような「言い伝え」はバビロンの歴史ほど正確さをもって日付を算定できないでしょう。20年も年代を前にずらすということなどは全くもって不可能なことです。この種の(ものみの塔のような)論議はしばしば次のような事になります。まず著者は小さな問題を短い文章の中に見つけます。そして一般的な日付とは異なる日付を割り当てて解決しようとするのです。そしてさらに多くの新しい問題を生み出すのです。そして彼らはそれを解決することができません。伝統的な年代の元になる文献資料は圧倒的なので論議をすることさえ時間の無駄に思えるほどです。
敬具
R.J.ファン・デル・スペク
アムステルダム大学 古代歴史学教授
ここまでの一連の指摘で、ものみの塔が挙げている西暦前607年のエルサレム崩壊説がいかに空しい主張であるかがご理解いただけたでしょうか?ものみの塔は正当に提示できる証拠が何一つないため、歪んだ仕方で学者の意見を提示し、実質の伴わない主張で紙面を埋めているのです。
ものみの塔の執筆者はどのような心境で、このような記事を書くことができるのでしょうか?続く記事「動かぬ証拠を前にしつつも弁護を続ける弁護士のように」を御覧ください。
英文ですが以下のサイトも参照されることをお勧めします。
WHEN WAS ANCIENT JERUSALEM DESTROYED? – PART2
http://kristenfrihet.se/vtsvar/vtsvar2.pdf
以下のページではものみの塔に引用されている学者たちの返事の多くを見ることができます。
http://adelmomedeiros.com/engrespostasdoseruditos587.htm
特集ページ目次
- 特集1 – ものみの塔2011年10月号
- 特集2 – ものみの塔2011年11月号
- VAT4956 – 月の一連の13の観測結果に関する補足
- 特集3 – 弁護士のように
- 特集4 – VAT4956
- 特集5 – 目ざめよ誌2012年6月号
- 歴史1 – 間違いの原点 – C.T.ラッセル
- 歴史2 – 確信の根拠 – J.F.ラザフォード
- 歴史3 – 思い込み – J.F.ラザフォード
- 歴史4 – 根拠のない年代調整
- 歴史5 – 不誠実な記載
- 結論1 – 明確な新バビロニアの歴史
- 結論2 – 極めて客観的な証拠
- 結論3 – 誤解された聖句
コメントを残す