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結論1 – 明確な新バビロニアの歴史

 

結論1 – 明確な新バビロニアの歴史

歴史の中には不明確な部分と明確な部分があります。新バビロニアの歴史は明らかに「明確な」部分に属しています。ところがエホバの証人はいつか新たな発見によって新バビロニアの歴史理解が覆され「ものみの塔」の年代の正しさが証明されるのではないかという期待を持つ傾向があります。そのような期待を持たせるように「ものみの塔」は記事を執筆し続けてきました。まずはその主張とその正当性について考えてみましょう。

不正確なものみの塔の主張

ものみの塔協会は「王国が来ますように」の附録で以下のように述べています。

*** 王 186ページ 14章の付録 ***
発見された証拠がたとえ正確なものであっても,現代の学者がそれを誤って解釈したり,証拠そのものが不備であったりして,これから発見される資料によってその時代の年表は大幅に変えられることもあり得る
エドワード・F・キャンベル2世教授はそのことを認めているらしく,新バビロニアの年表を含む一つの表を紹介するに当たって慎重を期し,こう述べている。「これらのリストが仮のものであることは言うまでもない。古代近東の年代学上の問題の複雑さを知れば知るほど,どんな発表も最後的なものとは考えられなくなる。そういうわけで,およそという語はもっと自由に使われても差し支えない」―「聖書と古代近東」(1965年版),281ページ。

ものみの塔は新バビロニアの年表が「大幅に変えられることもあり得る」という考えを著名な学者の「エドワード・F・キャンベル2世教授」が「認めているらしい」と述べています。「認めているらしい」という言葉はとても気になりますが、すでに本人に問い合わせがされてその返信が公開されていますので紹介します。

エドワード・F・キャンベル2世教授は上記の引用に関する問い合わせに答えて以下のように述べています。

あなたが感じられたとおり、エホバの証人はわたしの意図を完全に曲解しています。年代はほぼ正確なものであり、新バビロニア時代に関して言うならば「およそ」などという言葉は使うことはできません。
「およそ」という言葉は十年ほどの差があるような意味で使われているでしょう。しかし新バビロニアの年代に関してはその言葉を使うということはあり得ません。エホバの証人は自分たちの味方になるものを一つでも見つけられればと思って探していて、一つも見つからないのでしょう。エルサレムの滅びの年としては西暦前587/6年は1年以上の誤差はないのが確かなことですから。 -Edward F. Campbell, Jr 引用元

さらに、キャンベル氏の共同著者のデイビッド・ノエル・フリードマン氏は以下のように答えています。

[新バビロニア」の期間は古代世界の中でも最も良く把握されている部分の一つです。我々はその期間中の日付を1年に満たない誤差で正確に知ることができます。むしろ多くの場合、月や日単位で正確だと言えるくらいです。ですから私たちの著書でいう「日付の不確かさ」は、ものみの塔協会が解説や判断の根拠として使うべきものでは全くありません。 -David N. Freedman 引用元

どの学者も「新バビロニア」の年代は歴史の中でも最も明確になっている部分であることを認めています。ものみの塔が示唆するような20年はおろか、1年でさえ加えることができないほど確証されているのです。

そして、ものみの塔協会が読者にはっきり伝えていない点があります。エドワード・F・キャンベル2世教授が「聖書と古代近東」(1965年版)で提示している年表は紀元前3800年から始まる年表で、エジプト、パレスチナ、シリア、小アジア、アッシリアそしてバビロンの歴史を含んでいます。キャンベル教授はこの膨大な期間を含む年表の多くの統治年の部分で「およそ」という言葉を使っているものの、新バビロニアの王に関しては一度も「およそ」という言葉を付けていないのです

これから新バビロニアの期間に1年でさえ追加することはできないということを証明する客観的な証拠を提示します。 
補足:20年を追加する副作用

 

次々と明らかになる新バビロニアの証拠

ものみの塔協会の期待に反して、20世紀以降に発見される考古学的証拠は、次々とベロッソスやプトレマイオスが語っていた新バビロニアの年代が正しかったことを証明することになります。

ナボニドス No.24 NABON.H1B (Adad-guppi Stele)

1956年にメソポタミア北部のハランで貴重な石柱が発見されました。これはナボニドス王の第9年に亡くなったナボニドス王の母親の記念碑です。ナボニドスの母(アダ・グッピ)は新バビロニアのかなりの期間を高齢になるまで生存した人物です。そこに以下のような記載があることが確認されました。

NABON.H1B
私はアッシリア王アッシュールバニパルの第20年に生まれた。
アッシュールバニパルの第42年まで、その息子、アッシュール・エティル・イラニの第3年、
ナボポラッサルの第21年、ネブカドレザルの第43年、
アウェル・マルドゥクの第2年、ネリグリッサルの第4年まで
この95年間のすべてにおいて天と地の神々の王、シンの神、偉大なる神の神殿を探し求めた。

http://www.bibliotecapleyades.net/sitchin/Adda_Guppi_Harran.htm

この記念碑の特徴は新バビロニアの各王の統治年数を記載するとともに、その合計数も記載していることです。上の記述の中ではアッシュールバニパルの第20年からネリグリッサルの第4年までは95年間となっており、さらに別の箇所ではナボニドス王の母がナボニドス王の第9年に亡くなったとき「104歳であった」と述べられています。これらの記述はプトレマイオスの王名表と一致していますし、他の楔形文字の粘土板の記録とも一致しています。ものみの塔協会が示唆するような20年を加える余地はないのです。

ものみの塔は「王国が来ますように」の付録の中でこの粘土板の存在を認めています。しかしこれに関しては何の反論も記載していません。恐らくこの粘土板に対して反論するのはかえって不利になると考えたのでしょう。

*** 王 186ページ 14章の付録 ***
ナボニドスのハラン石柱(NABON H 1,B): 同時代のこのステラ,すなわち碑文の刻まれた石柱は1956年に発見されたもので,ネブカデネザル,エビル・メロダク,ネリグリッサルなど新バビロニアの王たちの統治について記している。この3人に関係した数字はプトレマイオス王名表のそれと一致している。

以下はこの碑文の実物写真です。1956年のこの発掘は、ものみの塔にとっては改ざんされた品であると主張しなくてはならない古代の記録がまた一つ追加されたことを意味します。

ウルクの王名表

 

1959年のウルク遺跡発掘の際に貴重な粘土板が発見されました。この粘土板は歴代の王とその統治年が記載されていたため、「ウルクの王名表」と呼ばれるようになります。ウルクの王名表も、ものみの塔が主張する新バビロニアの20年の追加分が存在しないことを証明することになります。以下の図は左がプトレマイオスの王名表、右がウルクの王名表を表しています。ものみの塔は2011年10月号でウルクの王名表を掲載したものの、肝心な年数を記載していません。その表に年数を記載すると以下のようになります。

 左側のプトレマイオスの王名表は1年に満たない王を一覧から省いています。しかし年代に関して1年の誤差もないことがウルクの王名表によって明らかにされています。

政治的記録が改ざんされているという主張

前述のとおり新バビロニアの各王の統治年数やその合計年数がバビロニア年代記や他の碑文によって明確になっています。そして複数の天文学的記録と合わせると1年の誤差もなく新バビロニアの年代を確定することができています。バビロニアの記録を記す書記官が客観的に歴史を記録していたことはよく知られています。A.K.グレイソンは次のように述べています。

アッシリアの書記官とは違ってバビロニア人はバビロニア側の敗北のことも伝えていますし、それらを勝利の記録に塗り替えるようなことはしませんでした。 -A. K. Grayson, “Assyria and Babylonia,”  1980, p. 171.

バビロニア人が20年分の記録を書き忘れたか、あるいは20年分をこぞって抹消したと考えるのは非現実的です。例えば、長寿を祝されたナボニドス王の母アダ・グッピは「104歳で亡くなった」と記載されていますが、20年の統治書き忘れがあるとしたら、彼女は124歳で亡くなったということになってしまいます。そしてこれらの碑文に加えて、以下に示すとおり複数の天体観測の記録により年代を確証することができています。

要(かなめ)となる年代は一つではない

エホバの証人は旧約聖書時代の要の年(確証されている絶対的な年代)はキュロスがバビロニア帝国を打ち破った西暦前539年しか存在しないと考える傾向があります。(これはものみの塔がそのような説明をしているためです) そして西暦前539年を絶対年として、そこから聖書に出てくる年数を足し算したり引き算したりして、その他の年数を相対的に割り出すことが正しい方法であると考えるのです。 しかし実際には複数の「絶対年」が存在しています。以下の例はそのうちの一つであり、エルサレムの崩壊の年が西暦前607年ではあり得ないということを証明するものでもあります。

天体観測日誌 BM32312

 

この粘土板は水星、土星、火星の位置の詳細を記録している粘土板です。記載されている独特の惑星の位置を現代の天文学的計算から割り出すと、そこに記されている記録は西暦前652年の惑星観測記録であると確証することができます。この粘土板には、王の統治年の記述部分が壊れて欠損しています。しかし幸い、その年に起きたとされる出来事が記載されており、それを別の粘土版と照合させることにより、年代を特定することができます。

 

BM32312(西暦前652年)
シッパル地方のヒリツでバビロニアの軍隊とアッシリア軍が戦った、バビロニアの軍隊は撤退し大いなる敗北をきした。

これと全く同じ出来事がアキツ年代記とも呼ばれる BM86379 粘土板にも記載されています。そしてこちらの粘土板には王の統治年が記載されています。

BM86379(上記のBM32312と同じ出来事を述べている)
シャマシュ・シュム・ウキンの第16年、アダルの月の27日、アッシリア軍とアッカド(バビロニア)軍がヒリツで戦った。アッカド軍は戦線から撤退し、大規模な敗北が彼らの上に臨んだ。

この二つの粘土板を比較することによって「シャマシュ・シュム・ウキンの第16年」が西暦前652年に始まったということを確証することができます。これにより必然的に以下の王の年代は不動のものになります。

統治年数 年代
シャマシュ・シュム・ウキン 20年 BC667~648年(確定)
カンダラヌ 22年 BC647~626年(確定)
ナボポラッサル 21年 BC625~605年(確定)
ネブカドネザル 43年 BC604~562年(確定)

そしてエルサレムは滅ぼされた年は「ネブカドネザル王の第18年(19年目)」ですから必然的に西暦前586/7年となります。

エルサレムの崩壊の年はちょうど二つの絶対年、西暦前652年と西暦前539年に挟まれる形で前にも後ろにも動かすことができない年であることが理解できます。そしてこの二つの絶対年に加えて VAT4956 により定められる西暦前568年(ネブカドネザルの第37年)が存在します。VAT4956 についてはVAT4956のページですでに解説しています。

 

結論

新バビロニアは古代の歴史の中でも極めて明確になっている部分です。「エルサレムの崩壊の年」が西暦前607年であるということはあり得ません。証拠は豊富に揃っています。

エホバの証人で考古学的な証拠について中立的な視点で調べる人は少ないでしょう。ほとんどの場合、「ものみの塔」の誌面を通して考古学的情報や学者の言葉の引用を見るだけです。それでも豊富な「考古学的証拠」を見ても、ものみの塔の主張する年代を信じる人がいるとしたら、何がその根拠となるでしょうか? 恐らく、「70年間エルサレムが崩壊していた聖書が述べている」と信じていて、「世俗の証拠より聖書を信じること」が正しいことだと考えておられるからでしょう。

しかし考えてみてください。それはどこかガリレオの時代の人々に似ていませんか?

コペルニクスやガリレオの時代に地球が太陽のまわりを回っているという科学的な証拠が提示されました。しかし人々は聖書の記述を理由に、客観的証拠を受け入れることができませんでした。確かに聖書にはヨシュアの時代に「太陽が止まった」という記述、「地は動かされることはない」という記述、その他にも地球が不動の立場で周りの天体が地球を中心にして回っていると思わせるような記述があります。

しかし、それらの記述に対する「解釈」は絶対的なものだったでしょうか?

客観的な考古学的証拠が提出されている今、それらの証拠が問題なのではなく、自分たちの聖書の「解釈」に問題があるのではないかと再吟味する必要はないでしょうか?

肖像:ガリレオ・ガリレイ

 

 
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