[我々の年代が間違っている
かもしれないという考えは] 少しの考慮にも値しない。
―チャールズ・テイズ・ラッセル
Watchtower 1904 10/1
ものみの塔誌創刊から30年ほどが経った1904年の時点でBC607年のエルサレム荒廃説(*1)の誤りが指摘されていました。仲間の聖書研究者から「一般の歴史が正しいとしたら我々の年代学も調整する必要がないか」という趣旨の問い合わせが来ていたのです。 ところがチャールズ・テイズ・ラッセルはこの指摘をあっさり切り捨てます。
*1 当時のものみの塔によるとBC606年。
千年紀黎明とシオンのものみの塔の著者へ:
拝啓 ・・・皆さんはユダの最後の王ゼデキヤが打ち倒された出来事とともに始まったユダヤ人のバビロニア捕囚を70年としてカウントしています。ところが私は欽定訳聖書の脚注にある「アッシャー大司教の年代計算」及び「プトレマイオスの王名表」に基づいて70年の開始が19年早い時期、つまりネブカドネザルの第一年から始まっていることに気が付きました。その年にダニエルや他の主だったユダヤ人が捕囚になっており、さらにユダヤ人の国は強制的な貢物が要求されるようになりました。それで、もしこの一般的な計算が正しいとするならば、異邦人の時は皆さんが算定している年の19年後に始まったことになります。つまり西暦前606年ではなく西暦前587年です。もしそうであれば、この期間が終了する年も19年ずらして計算する必要が出ます。西暦1914年10月ではなく西暦1933年10月です。皆さんはこれにどう答えますか?皆さんはこの新たな光を謙遜に認めて、この黎明誌の読者が暗闇の中を間違って歩んでいるということを認めますか?我々はこう答えます。上記の問いには「もし」という前提が多すぎます。それは事実と聖書に対して矛盾を多く含んでいます。それゆえに我々にとっては少しの考慮にも値しません。・・・我々は見解を変える理由を何も見出しません。もしこの変更を行うならば、ユダヤ人時代と福音時代の際立った調和と相似性を壊してしまうのです。
シオンのものみの塔 1904年10月1日号
ラッセルは読者からの指摘を「少しの考慮にも値しない」と自信をもって語っているにも関わらず、この問題に対して何も弁解となる根拠を提示していません。ラッセルにとって不運であったのは、 この時代はまだプトレマイオスの年代を裏付けることになる粘土板の研究は始まったばかりで、早い段階で自分たちの見解の誤りを正すことができなかったことです。それゆえに彼らが二十年近く触れ告げていた聖書解釈の「調和と相似性を壊してしまう」という理由で読者からの指摘を払いのけることになりました。
それにしてもラッセルが自信をもって語っている「ユダヤ人時代と福音時代の際立った調和と相似性」とはいったい何を指しているのでしょうか?
これはラッセルとその仲間たちが大切にしていた年である1874年という年に関係したものです。彼らは1874年にキリストの臨在が始まっており、さらにその40年後である1914年にピークを迎える「苦難の時(大患難)」が自分たちの時代に進展していると信じていました。
彼らが述べている「事実と矛盾する」という表現は、つまり自分たちが聖書預言の成就に関わっているという「事実」を否定してしまうという意味なのです。
ラッセルを頑なにしたさらなる理由
さらにものみの塔の記事を読み進めると、ラッセルがどうしても一般の考古学の見解を受け入れられなかった理由を見出すことができます。
次のように述べられています。
ものみの塔1904年10月1日号 製本3437頁
示唆されている年代の変更によって、どれだけ混乱が生じるか考えてみなさい。それはヨベルが象徴する19年にも影響が及び、主の臨在と”回復の時”が紀元1874年に起きたという点までもが19年プラスされてしまい、紀元1893年になってしまうのである。そして逆もしかりで、ユダヤ時代(the Jewish age)を19年短くしてしまうと、それに対応する福音時代(the Gospel age)も19年短くなってしまう。それは19+19つまり38年も前倒しすることになり、1874年10月より38年前の1836年に福音の”収穫”が始まったという考えになってしまうのだ。これでは主の臨在が1874年ではなく紀元1836年に始まったという考えにいたってしまう。そして1878年の代わりに1840年が眠っていた聖なる者たちが集められた時になってしまう。さらに世界の艱難の時に雑草が燃やされて”小麦”の収穫が終わる時も1914年ではなく、1876年になってしまうのだ。
以下は上の説明を図にしたもの。彼らにとって重要なのは1874年からの「収穫」に関連する見解であった。
上記の文面を見てわかる通り、ラッセルにとって重要であったのは、19世紀末の自分たちの時代の「預言の成就」でした。西暦前606年の誤りを認めることは自分たちの活動とこれまで公表してきた見解(特にここではヨベルの年に関する預言で、エホバの証人の間ではすでに捨て去られている)を否定することになるのです。ラッセルは激しい思い込みの中、「明らかにされた真理」という考えのとりこになりました。
現代のエホバの証人が認めざるを得ない点は、上記のラッセルの見解のすべてが現代のエホバの証人の誰もが否定している内容であるということです。唯一現代でも残っている主張がバビロンに関係する「70年」の解釈のみです。しかしラッセルにとって最も重要だったのは当時の預言の成就に関する解釈でした。それら全ては現在破棄されているものです。
しかし、ラッセルは続けてこのように語ります。
暗闇の中を好む者たちのことは放っておき、我々は理解の目が開かれた者として真の光をいっそう受けて喜ぼうではないか。 – C.T.ラッセル Watchtower 1904 10/1
そして、このようなラッセルのスタンスはエホバの証人の歴史に引き継がれることになります。
記事の終わり
特集ページ目次
- 特集1 – ものみの塔2011年10月号
- 特集2 – ものみの塔2011年11月号
- VAT4956 – 月の一連の13の観測結果に関する補足
- 特集3 – 弁護士のように
- 特集4 – VAT4956
- 特集5 – 目ざめよ誌2012年6月号
- 歴史1 – 間違いの原点 – C.T.ラッセル
- 歴史2 – 確信の根拠 – J.F.ラザフォード
- 歴史3 – 思い込み – J.F.ラザフォード
- 歴史4 – 根拠のない年代調整
- 歴史5 – 不誠実な記載
- 結論1 – 明確な新バビロニアの歴史
- 結論2 – 極めて客観的な証拠
- 結論3 – 誤解された聖句