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歴史4 – 根拠のない年代調整

古い「ものみの塔」を見るとエルサレムの崩壊の年が西暦前607年ではなく西暦前606年となっています。西暦前606年から「異邦人の時」とされる2520年を足すと1914年になると当初考えられていました。実際には西暦前と西暦後が両方とも1年からスタートしており、ゼロ年が存在しないため計算すると1914年ではなく1915年になってしまいます。この点に関して「啓示の書-その壮大な最高潮は近い!」の105ページで次のように説明しています。

自分たちの50年以上にわたる不注意を「神意」に置き換える大胆さを示しています。

しかし上記の説明は非常に不誠実なものです。なぜなら初期のものみの塔の指導者たちは、すでに問題を指摘されていたにも関わらず、この問題を長い間放置してにすぎないからです。

ところが、上記の書籍には「当時の聖書研究者たちは、「紀元前」と「紀元」の年代の間に0年という年がないことを理解していませんでした」という事実と異なる説明が加えられています。しかし実際にはラッセルは1912年の時点でゼロ年の問題を知らされていたのです。彼は「天文学者は西暦1年の前のゼロに注意している」と述べる百科事典に言及しているのです。(WATCHTOWER 1912 12/1参照 別ウィンドウで開く

ではなぜこの明らかになっている「西暦1年の前のゼロ」の問題をその後も無視し続けたのでしょうか?そこに「神意」などはありません。単にすでに公表している年代の間違いを認めるわけにはいかなかったからです。

これまで、ものみの塔協会は何度も読者が気が付かないところで巧みに調整を行ってきました。その一つの例を考えてみましょう。

見えないところで行う無理な調整

ものみの塔は当初、西暦前536年を「キュロスの第一年」とし、その年に70年のエルサレム荒廃が終了したと考えていました。ところが最新のものみの塔ではキュロスがバビロンを支配した最初の年は西暦前539年としています。

以前の説明は次の通りで、キュロスの第一年は西暦前536年であると主張していました

聖書研究第二巻 – 時は近づけり 51頁

70年続いた土地の荒廃の期間は、キュロスの第一年でバビロンからの復帰の時である 西暦前536年(歴代第二 36:20,23)まで続きました。その日付は世俗の歴史の中で十分に確立しています。そしてこれを無視して聖書の年代の時刻表を考えることはできません。

This brings us to the period of the desolation of the land, which lasted seventy years, and was ended by the restoration of its people from Babylon, in the first year of Cyrus, B.C. 536 (See 2 Chron. 36:20,23), a date well established in secular history, and beyond which the line of Bible chronology does not extend.

Studies In the Scriptures Series II – The Time Is at Hand p.51

 

以前の認識ではキュロスの第一年にすぐに帰還してバビロンでの70年が終了したと考えていました。ところが実際には当時すでに一般の考古学ではキュロスの第一年は西暦前538年(および539年)であるとされており、ラッセルが言う「その日付は世俗の歴史の中で十分に確立されている」というのは正確な記述ではありませんでした。 キュロスの第一年を西暦536年に設定することができたのは、ダニエル書に登場する「メディア人ダリウス」という人物をキュロスの前にバビロンを一時的に統治していたとすることができたにすぎません。これにより「キュロスの第一年」の始まりを遅らせることができていました。

1943年の「The Truth Shall Make You Free」151頁では次のように述べています。

「バビロンが西暦前538年にメディア人ダリウスと、彼の甥(おい)のペルシャ人キュロスによって征服されてから2年後にキュロスの単独統治の一年目が始まったことは十分確証されている。それは西暦前536年だ。」 – The Truth Shall Make You Free p.151

さらに翌年の1944年発行の「The Kingdom is at Hand」195頁では次のように述べています。

「最も正確な歴史によると、メディア人ダリウスと甥のペルシャ人キュロスは西暦前539年にバビロンの首都を共同で制覇した。ダリウスの短い統治の後、キュロスが西暦前537年に統治を始めた。その年がエルサレムの70年の崩壊の終わりを印づける年となった。」 – The Kingdom is at Hand p.195

話がころころ変わっているのが見て取れるでしょう。「十分確証されている」としていた話も「最も正確な歴史による」とされていた話もあっという間に消えてなくなっています。要するにそれらの主張は自分たちの1914年の教理を維持するための駒にすぎないのです。

その後の考古学的な発見が明らかになるにつれ、メディア人ダリウスがキュロスの前に統治していたという話が怪しいものになってゆきます。「洞察の本」ではその主張はかなり弱いものになり、最終的に「ものみの塔2011年10月号」で「メディア人ダリウス」は一切登場しなくなりました。登場させることができなくなったのです。なぜなら「要となる年」(西暦前539年)を最新の考古学に照らし合わせて説明するためには「メディア人ダリウス」は邪魔な存在になるからです。

「要となる年代」に関して考古学上の根拠を認めた結果、彼らの「神慮」の駒を使い果たしてしまった。以下は「ものみの塔2011年10月号」

 

さらに続く不誠実な調整

キュロスの第一年が西暦前539年に始まったことを否定することが難しくなるにつれ、ものみの塔は巧みに年代の調整を行うようになりました。

最近のものみの塔は次のように説明しています。

ものみの塔 2011年10月 28ページ

流刑を終わらせるその布告は,「ペルシャの王キュロスの第一年」に出されました。そのようなわけで,ユダヤ人は真の崇拝を回復するため,西暦前537年の秋にはエルサレムに帰還していました。-エズラ1:1-5; 2:1; 3:1-5.

上記の「そのようなわけで」という言葉の中には大きな不誠実さが隠されています。

「キョロスの第一年」は理論上は西暦前539年10月から西暦前537年の春までの範囲を含めることが可能です。「即位した年」を意味すると解釈することもできますが、即位した次の春から春までの「在位年」を意味すると解釈することもできるからです。

聖書にはユダヤ人が開放されたのは「キュロスの第一年」としか述べられていません。しかし、ものみの塔としては西暦前537年の秋にエルサレムに帰還したという解釈をしないと1914年の預言解釈との整合性がなくなってしまいます。 聖書が実際に示している通り、キュロスの第一年の早い時期、つまり西暦前538年の春に帰還を始めていれば、西暦前538年の秋(ユダヤ暦第七の月)にイスラエルに戻っていたことになってしまいます。しかしこれでは1914年という年が合わなくなってしまいます。そのため彼らは西暦前537年の秋に帰還したことにしなくてはならないのです。ここで、ものみの塔は「見えない部分」での調整を巧みに行っています。彼らは何も根拠がないにも関わらずユダヤ人の帰還が始まったタイミングを「キュロスの第一年」の早い時期ではなく遅い時期に設定しているのです。それによって西暦537年の秋に帰還したという話に帳尻をあわせるためです。

しかしエズラの聖句を参照すると、この方法に誤りがあることがわかります。

エズラの聖句はキュロスの第一年の第七の月に帰還が完了していることを示唆している。

(エズラ 1:1~) そして,ペルシャの王キュロスの第一年に,エレミヤの口から出たエホバの言葉が成し遂げられるため,エホバはペルシャの王キュロスの霊を奮い立たせられた・・・

(エズラ 3:1) 第七の月が到来したとき,イスラエルの子らは[それぞれの]都市にいた。そして民は一人の人のようにエルサレムに集まりはじめた。

エズラの1章は「キュロスの第一年」に起きた出来事について語られています。エズラ3:1はその流れで「第七の月が到来したとき」について言及しているのでその部分を読む人はユダヤ人がエルサレムに集合したのがキュロスの第一年の「第七の月」であると理解するのが自然です。ものみの塔が主張するようにこの出来事が西暦前537年の秋であるなら、それは春を超えているので、キュロスの第二年になってしまいます。そうであれば文脈のどこかに「キュロスの第二年の」あるいは「次の年の」という言葉が入らないと不自然です。

つまり聖書はユダヤ人はキュロスの第一年の第七の月である西暦前538年の秋に帰還していたことを示しているのです。

これは何を意味していますか?これはそもそも1914年の計算の起点の年に人間的な方法で調整しようとしても調整しきれない1年の間違いが存在しているということです。

ものみの塔にとっては年代を調整しやすい根拠があれば助かります。彼らは西暦/西暦前ゼロ年を使って1年分を無理なく調整することができました。これが「ものみの塔」のいう「神意」の意味するところでした。しかし「神意」は1年分しか存在していませんでした。

 


 
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