極めて客観的な商業関連の粘土板
客観性を否定できない古代の文書とは商取引の記録が記載されている「商業関連の粘土板」です。これらの文書は「領収書」「契約書」「約束念書」などを含んでいます。これらの粘土板の重要な点は日付の部分にバビロニア王の統治年が記載されているところです。
商業関連の粘土板
商業関連の粘土板は数万点残されています。これらは多くの場合「誰がいつ何を買ったか」といった記録です。
なぜこれらの記録に注目するのかというと、まず第一にこれらの記録の多くは、その当時に記載されたものであるということです。コピーされたものでもなければ歴史を振り返って記録されたものでもありません。商取引が行われた「その時」に記載されているのです。例えば下にある記録は、「ネリグリッサルの王位継承の年の第6の月29日」に税金を払うことを約束したメモです。この他にも例えば、「ラクダを何頭買った」「収穫の割り当て」「羊の受け渡し証明」など多岐にわたります。共通点は「○○王の第○年○○月○日」と記載されているところです。当時「西暦2012年」などの表記はありませんでしたので「王の統治年」を使って日付を記載しました。
どれほど強力な証拠なのか
D.J.ワイズマン教授は公開されていないものも含めると五万点ほどの粘土板が新バビロニアの期間(BC627-539)のものとして存在することを述べています。ワイズマンは新バビロニアの各年に対して平均して600ほどの粘土板が存在すると見積もっています。それはつまり、ネブカドネザルの43年、ネリグリッサルの4年、ナボニドスの17年などの各年に平均600枚の日付を確認できる粘土板があることを意味しています。しかもラバシ・マルドゥクのわずか二か月の統治期間の間でさえ多くの日付が記載された粘土板が存在するのです。
ものみの塔が主張するように20年間古代歴史家が記載していない期間が存在するなら、その期間に相当する数万にのぼる粘土板が発見されるはずなのです。
それが一つも発見されないということは、つまりそのような20年はもともと存在していないのです。
しかし念のために一つだけさらなる証拠を提示しておきたいと思います。ここでさらに証拠を提示するのは、もしかしたら「バビロニア人が一斉に特定の王の記録を20年分消去するような陰謀を企てたのではないか」と想像するエホバの証人がいるかもしれないからです。以下にあげる証拠は、そのような「陰謀」は存在しえないということを示しています。
王の統治年とは無関係な客観的な証拠
エホバの証人の中には特定の王の存在を歴史から消すために、関連する粘土板をすべて消去する陰謀があったと考える人がいるかもしれません。しかし以下にあげる「エギビ家の記録」は20年分の未知の王の記録は存在しえないことを示しています。なぜなら銀行を経営していた「エギビ家(Egibi family)」の記録(約2000の粘土板)の中にはバビロニアの王の統治年だけではなく、その期間の銀行の歴代の頭取の名前や親子関係の情報も記載されており、関係する期間の中に20年分を追加する余地がないことを示しているからです。しかもこれらの粘土板は、ツボの中に収められており、ツボはフタで封印されており、なおかつ土に埋もれた状態で発見されたものまであります。誰かが陰謀により銀行の記録を頭取の在任年数を含めて偽造するということはあり得ない話です。これに関連した内容はすでに別のサイトでわかりやすい解説が掲載されていましたので、それを引用することにします。
これらの商業文書の中で特に興味があるのは、ネブカドネザル王の治世を含めてバビロンで強力な銀行を経営していたエグビ家の、銀行取引の詳細な記録である。この銀行の「頭取」の歴史的記録が各王の治世の年を使って記録されている。この記録を辿ると、ネブカドネザル王の第三年目からペルシャのダリウス・ヒュスピスタス王の第一年目までの三人の頭取の名前と在任年数が記録されている。これらの在任年数を合計すると81年になる。ダリウス・ヒュスピスタス王の第一年目は、ものみの塔協会も認める紀元前521年と確立されているので(『聖書に対する洞察第二巻』166頁参照)、そこから逆算するとネブカドネザル王の第三年は紀元前602年、そして第一年は紀元前604年になる。これもまたベロッソスとプトレマイオスの記録と完全に一致するのである。このエグビ家の歴代の記録は、新バビロニア王朝の継続年数を疑いの余地を一切残さずに確立させている。そこにはものみの塔協会の主張を正当化させるための空白の20年間を説明する余地はないのである。またこのエグビ家の記録は、その他多数見つかっている年代を経た取引の記録などバビロニア王朝の王の在任期間を示す史料の中ほんの一例に過ぎない。 -カール・オロフ・ジョンソン著書の要約より http://www.jwic.info/gentim_2.htm
参考資料:
エグビ家の粘土板(写真) – メトロポリタン美術館
結論
新バビロニアの歴史は極めて客観的な証拠によって確証されています。現代の歴史家や考古学者はバビロニアによるエルサレムの滅びは西暦前587/6年であると判断しています。現代の学者たちは、そう「信じたい」から信じているわけではありません。ただすべての証拠がその年を指し示しているのです。しかもそれらは極めて客観的な証拠なのです。
これらの客観的な証拠に勝る証拠を「ものみの塔」は持ち合わせているのでしょうか?エホバの証人はこう答えるでしょう。
「聖書があります。聖書にキュロスの第一年*から七十年前にエルサレムは滅ぼされたと書かれています。」
*ものみの塔は途中でキュロスの第二年に変更している。
しかし、本当に聖書はエルサレムが滅んだ年として西暦前607年を示しているのでしょうか?
次の記事ではその点をとりあげます。
次の記事:結論3 誤解された聖句
特集ページ目次
- 特集1 – ものみの塔2011年10月号
- 特集2 – ものみの塔2011年11月号
- VAT4956 – 月の一連の13の観測結果に関する補足
- 特集3 – 弁護士のように
- 特集4 – VAT4956
- 特集5 – 目ざめよ誌2012年6月号
- 歴史1 – 間違いの原点 – C.T.ラッセル
- 歴史2 – 確信の根拠 – J.F.ラザフォード
- 歴史3 – 思い込み – J.F.ラザフォード
- 歴史4 – 根拠のない年代調整
- 歴史5 – 不誠実な記載
- 結論1 – 明確な新バビロニアの歴史
- 結論2 – 極めて客観的な証拠
- 結論3 – 誤解された聖句