ほかの羊の実態について
「この表現を地的なクラスに当てはめないとしたら、
例え話のどこに彼らは出てくるのか?」セオドア・ジャラズ
上記の言葉は ヨハネ10:16 にある「ほかの羊」の意味について統治体会議の中で話題になった際にセオドア・ジャラズが語った言葉です。
初期クリスチャンを含め,伝統的なクリスチャンの解釈ではヨハネ10:16の「ほかの羊」は異邦人クリスチャン(非ユダヤ人クリスチャン)を表していると考えられていました。(この点は協会の創設者 C.T.ラッセルも同じです)
そして,イエスの宣教対象であったユダヤ人という枠が除かれて,後にユダヤ人以外も集められるという点は,パウロの著書の中でも表現されており,当時のクリスチャンの理解と一致しています。
(ヨハネ 10:16) 「また,わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります。
統治体の成員であったレイモンド・フランズは,彼が出会ったエホバの証人の中で複数の人がこの節のことを「明らかに異邦人に当てはまる」と感じていると指摘しました。(その中にはヨーロッパの支部委員会の成員も含まれる)
その時の様子をレイモンド・フランズは次のように語っています。
統治体会議で「ほかの羊」の適用についての話題になり,ジャラズは「この表現を地的なクラスに当てはめないとしたら,例え話のどこに彼らは出てくるのか?」と述べました。決議を行う直前にレオ・グリーンリースは「少なくとも,これが異邦人に当てはまる可能性について検討すべきじゃないだろうか」と述べます。しかし,その話し合いの余地は認められませんでした。 – クリスチャンの自由 p.466
セオドア・ジャラズの語った言葉は,典型的な循環論法です。
循環論法とは以下のように定義されます。
循環論法
ある命題の証明において、その命題を仮定した議論を用いること。証明すべき結論を前提として用いる論法。
つまり,ジャラズの言葉からすると以下のような推論になります。
- ものみの塔協会の教理が真理であるという前提がある。(この場合,クリスチャンには天的級と地的級が存在すること)
- その教理は聖書から証明されなければならない。
- であるから,ヨハネ10:16がその証明に用いることができないのであれば,別の聖句を見つけなければならない。
- もし別の聖句が見つからないのであればヨハネ10:16の我々の解釈は真理である。
ということです。
しかし,このような推論の仕方は正しいものではありません。
記事の終わり
コメントを残す