オリンピアードとは、古代歴史家が連続した年代を記述するにあたりどの時代にも通用する統一した年代を記載するために用いたものです。それは西暦前776年を第1期とし、その後の4年を1期として計算しています。
ものみの塔協会の執筆者は古代歴史家のオリンピアード(オリンピア紀)の記録と粘土板の記録を用いて「要となる年代」を算定することができると述べています。以下の通りです。
*** 塔71 12/1 731ページ ナボニドス年代記の証言 ***
また,トレミーの規準を含め,他の資料もバビロン倒壊の年を西暦前539年としています。たとえば,ディオドロス,アフリカヌス,ユーセビウスなどの古代史家は,ペルシア王としてのクロス治世第1年は第55オリンピア紀第1年(西暦前560‐59年)にあたり,クロスの治世の最後の年は第62オリンピア紀第2年(西暦前531‐30年)になることを示しています。(オリンピア紀の1年はだいたい7月1日から翌年の6月30日とされた。)楔状文字の刻板はクロスがバビロンを9年統治したとしています。このことはクロスがバビロンに対する支配を開始した年代として一般に受け入れられている西暦前539年と調和します。
前述の「ものみの塔」は古代歴史家のユリウス・アフリカヌス(Julius Africanus c.160–c.240)の記述を参照しています。これ自体は問題ありません。
しかしアフリカヌスの文献を見てみると、ものみの塔の執筆者が決して言及しない興味深い事実を見出すことになります。
アフリカヌスの文献の英訳は以下のサイトから「PDF」をダウンロードすることができます。
The Ante-Nicene Fathers, Volume 6
https://archive.org/details/antenicenefather06robeuoft
135ページを見ると16章3節(XVI.3.)を見つけることができます。以下の通りです。
「エルサレムを建てるよう派遣された、それはペルシャ帝国の115年目にあたり、オリンピアード第83期の4年目、そしてアルタクセルクセス自身の治世の第20年目であった。」
ユリウス・アフリカヌス 16章3節 日本語訳
このようにアルタクセルクセスの第20年が「オリンピアード第83期の4年目」に相当すると明確に記述しています。
では「オリンピアード第83期の4年目」は何年になるでしょうか? 以下の表にあるように、オリンピアード第83期の4年目は西暦前445年に当てはまります。これはキュロスの即位から115年目にもあたりアフリカヌスの述べる通りです。
期 | 1年目 | 2年目 | 3年目 | 4年目 | 出来事 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 776 | 775 | 774 | 773 | |
2 | 772 | 771 | 770 | 769 | |
3 | 768 | 767 | 766 | 765 | |
・ | ・ | ・ | ・ | ・ | |
・ | ・ | ・ | ・ | ・ | |
52 | 572 | 571 | 570 | 569 | |
53 | 568 | 567 | 566 | 565 | |
54 | 564 | 563 | 562 | 561 | |
55 | 560 | 559 | 558 | 557 | オリンピアード第55期第1年 キュロスの第1年 |
56 | 556 | 555 | 554 | 553 | |
57 | 552 | 551 | 550 | 549 | |
58 | 548 | 547 | 546 | 545 | |
・ | ・ | ・ | ・ | ・ | |
・ | ・ | ・ | ・ | ・ | |
80 | 460 | 459 | 458 | 457 | |
81 | 456 | 455 | 454 | 453 | |
82 | 452 | 451 | 450 | 449 | |
83 | 448 | 447 | 446 | 445 | オリンピアード第83期の4年目 アルタクセルクセスの第20年 |
84 | 444 | 443 | 442 | 441 | |
85 | 440 | 439 | 438 | 437 | |
86 | 436 | 435 | 434 | 433 | xxxii anno Artarxerxis regis |
87 | 432 | 431 | 430 | 429 | |
・ | ・ | ・ | ・ | ・ |
もしアフリカヌスのオリンピアードの計算が正しいのであれば、アルタクセルクセスの第20年は明確に西暦前445年であると特定されます。そしてこれはアルタクセルクセスの第20年を西暦前455年であると断定している「ものみの塔」が間違っていることを明らかにします。しかしものみの塔はこのような自分たちに不利になる情報を読者に提供することを避けています。
ものみの塔の執筆者は古代歴史家の記述を自分たちの解釈に当てはまるように断片的に利用する一方、それ以上に明確な記述、自分たちに不利になるような情報を読者が把握できないようにしてます。
記事の終わり
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