自己中心的な解釈
ものみの塔は「忠実で思慮深い奴隷」に関する例え話を自分たちの権威を証拠づけるものとして使用してきました。ものみの塔はこれまで何度も「真理」を変更してきましたが,その度に聖書の言葉のチェリーピッキング(つまみ食い)をしてきました。例えば22ページの10節では以下のような説明をしています。
なぜ例え話の中に出てくる登場人物が単数形であることが「集合体として」の意味があるという結論になるのでしょうか?イエスの例え話は多くの場合に単数形の登場人物あるいは物を使っています。それらも「集合体として」の意味を持つと説明すべきでしょう。結局のところ,ものみの塔は新たな見解に合わせて聖句のつまみ食いをしているにすぎません。そのような手法は自己中心的な解釈をもたらします。
説明が反転する「よこしまな奴隷」
マタイ24章の45節から51節までを通して読むと,後半部分で「よこしまな奴隷」が登場することに気がつきます。この比喩は例え話全体の半分を占めており,十人の処女の例えの中の「愚かな処女」あるいはタラントの例えの中の「無精な奴隷」と同じように例え話の中の重要な位置を占めているように思えます。以下にあるように「よこしまな奴隷」に関する説明は後半部分すべてにまたがっています。
(マタイ 24:45‐51) 「主人が,時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため,彼らの上に任命した,忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。46 主人が到着して,そうしているところを見るならば,その奴隷は幸いです。47 あなた方に真実に言いますが,[主人]は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。 48 しかし,もしそのよこしまな奴隷が,心の中で,『わたしの主人は遅れている』と言い,49 仲間の奴隷たちをたたき始め,のんだくれたちと共に食べたり飲んだりするようなことがあるならば,50 その奴隷の主人は,彼の予期していない日,彼の知らない時刻に来て,51 最も厳しく彼を罰し,その受け分を偽善者たちと共にならせるでしょう。そこで[彼は]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするのです。
これまで,ものみの塔誌は「よこしまな奴隷」をラッセルの死後にラザフォードに抵抗した協会の役員や本部職員であるとしていました。実際にはラザフォードに抵抗した人たちはラッセルの死後は複数人からなる委員会で協会を運営するようにとのラッセルの遺言を守ろうとしていたにすぎません。ラザフォードがラッセルの死後その意思を完全に無視し独裁運営を始めていました。ラザフォードは自分に抵抗する役員を本部から追い出し(その中にはラッセルが生前に指名していた人もいた),自分に従うものだけを本部に残しました。
ラザフォードは事実上会長としての全権限を持つようになりました。そして上記の例え話に出てくる「よこしまな奴隷」を自分に抵抗した者たちに当てはめました。この時期に野心的で独裁的なラザフォードの協会運営を見て組織を離れた人が大勢いました。ものみの塔誌は逆に彼らのことを「野心を抱いた」者たちであるとして糾弾し続けました。(鑑76 88ページ)
しかし,今回の2013年7月15日号では「忠実で思慮深い奴隷」を ものみの塔本部の「統治体」に当てはめてしまったため,「よこしまな奴隷」についての定義を変更する必要が出ました。ものみの塔は以下のように説明しています。
2013年7月15日号 24ページ 囲みの記事
「よこしまな奴隷」は例え話の一部であり「仮定の話」であることは間違いありません。しかしそれを言うなら,「忠実で思慮深い」ことを示す奴隷も「仮定の話」にすぎません。実際,聖句の中では「主人が到着して,そうしているところを見るならば,その奴隷は幸いです」と述べられています。
それにしても,敵を糾弾するために用いられていた聖句は自分たちに適用するとなると,なぜこれほど解釈が変わるのか不思議でなりません。
主人の行動をあらかじめ決める奴隷
さらに25ページの結論の部分では奇妙にも見える文章が続きます。将来のイエスの行動をあらかじめ決めて書いています。「イエスが来る時,~を見ます」「イエスは二度目の…任命を喜んで行います」。自分たちで評価を決めて,まるで主人は自分たちの評価に従って行動すべきであるかのような言い回しにも見えます。
最後の節ではさらに,イエスがエホバの証人の統治体が選ばれるためになすべきことを忠実に果たしているかのような説明が続きます。
ものみの塔は「忠実で思慮深い奴隷」に関する例えを「終わりの日の預言」であると説明し,結論としてクリスチャンに求められていることは,忠実で思慮深い奴隷(統治体)を忠節に支持することであるとしています。
しかし聖書は同時に以下のような警告も与えています。
(ルカ 21:8) …多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがそれだ』とか,『その時が近づいた』とか言うからです。そのあとに付いて行ってはなりません。
記事の終わり
[2013.08.13 全体が短くなるように編集しました]
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