古い光はどこから来たのか
過去のエホバの証人の独特な聖書解釈は現在までにかなりの割合で「新しい光」(新しい教え)によって置き換えられてきました。しかし置き換えられた「古い光」に関して言うならば、発表された際には「エホバが新しい光を与えられた」と宣伝されていました。つまり協会はかなりの割合で偽りの宣伝をしていたことになります。そして協会が解釈を変更する際には「神が与えたわけでもないのに間違ってエホバからの光として宣伝してしまった」と率直に語ることが決してないという点では協会の設立以来終始一貫しています。
ものみの塔2015年3月号では「イエスの例えに関する、より簡潔な説明」という見出しのもとに、1924年当時の解釈が新しい解釈によって置き換えられてきたことが説明されています。そして「わたしたちの出版物」は「エホバ」によって導かれているのであるとされています。こうした記述を読んでエホバの証人の読者は「では1924年にラザフォードに与えられた光はエホバからでなければ何だったのだろうか」と率直に疑問を持たないでしょうか?
ものみの塔 2015年3月15日号 11ページ 14節
例え話に関する解釈 – 「キリスト教世界」との違いがなぜ生まれるか
主流キリスト教会の聖書解釈と ものみの塔の聖書解釈を比べると根柢の部分で大きな違いがあります。イエスの例え話の解釈やマタイ24章、25章の解釈にも顕著に表れているのが次の点です。
- ものみの塔は解釈する際は第一に協会の権威を守ること、そして二次的にキリスト教世界を攻撃するという動機がうかがえる。そのため初期クリスチャンが理解したであろう解釈とは程遠い独自の解釈を作り上げる。
- キリスト教会は宗派としての権威を守るという動機が少ないため、聖書の例え話の解釈をより自然に、そして著作が書かれた当時と同じ仕方で解釈する。
かつて協会の執筆者の一人であったレイモンド・フランズ(F.W.フランズの甥)は一貫性のあるキリスト教世界の聖書注釈書と自分たちの出版物を比較して次のように語っています。
「何年も経たないうちに「無効」になり、もう出されなくなってしまう自分たちの出版物と比べずにはおれなかった」(良心の危機 p.30)
特定の動機は正しい解釈を曇らせます。ものみの塔が自分たちの権威の守ることを動機としている限り、正確な聖書解釈にいたることは難しいと言えます。
ものみの塔 2015年3月15日号の最初の研究記事は聖書中の物語やイエスの例え話を簡潔に理解することが「エホバ」によって導かれたとしています。確かに聖書は簡潔明瞭に理解するべきものであることは間違いありません。しかし、それを最初から行ってきたのは彼らが攻撃するキリスト教世界の側であると言わざるを得ません。
ものみの塔に関しては同じ号の雑誌の中を実際に読み進めていくと自分たちの権威を守るという点では相変わらず複雑な解釈をイエスの例え話に対して行っています。全体としては根本的な点での変化がありません。
上に引用した「親切なサマリア人」の例え話に関する理解に関していうならば、現在でも「わたしたちの出版物でこの例えは,困窮している人たち,とりわけ霊的な面で困窮している人たちを分け隔てなく援助しなければならない,ということを思い起こさせるために用いられています」と述べられています。
しかし、「親切なサマリア人」の例えは「とりわけ霊的な面で困窮している人たちを」という意味に解釈するように示唆していません。これは根柢には自分たちの権威を正当化する目的、つまり布教活動に時間を費やす特徴をもつエホバの証人の教義の優位性を高める意図があることが見え隠れしています。
神が是認された教え方
上記で引用した研究記事は「神が是認された教え方」という主題になっています。この主題は自分たちの権威を主張したいがために複雑な解釈をしてきた ものみの塔に対する皮肉のようにも見えてしまいます。
ものみの塔 2015年3月15日号 7ページ
この中では次のように問われています。
どのように答えますか
エホバが,明快で簡潔な教えを是認しておられることは,最近のどんな例から分かりますか
つまり協会はこれまで神に是認されない複雑な聖書解釈を行っていたということになります。そして現在の協会の権威を守るための聖書の恣意的で複雑な解釈も神が是認されるはずがありません。
協会の聖書解釈は「忠実」や「思慮深い」という特質とは真逆の性質を持っているように思えます。それにも関わらず 9ページ 10節では次のように述べられています。
「明確な聖書的根拠がない」解釈を続けてきたのは他ならない ものみの塔協会なのであり、本当に思慮深ければ最初からそのようなことはしないのです。
「エホバは ~ してこられた」という言葉は無責任な言葉に思えてなりません。
記事の終わり
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