2013年10月5日 ものみの塔協会の年次総会が開かれ,その中で「新世界訳 2013年改訂版(英語)」が発表されました。このページでは改定された内容の目立っている部分を紹介します。
現時点でこの改訂版は英語でのみ発表されています。そのため日本語は独自に訳したものを掲載しています。記事の内容は随時アップする予定です。
ヨハネ17:3
ヨハネ 17:3 新世界訳(旧)
彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています。
ヨハネ 17:3 新世界訳(新)
彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたが遣わされたイエス・キリストについて知るようになること,これが永遠の命を意味しています。
英文:coming to know you
解説
ここで「知識を取り入れること」と訳されていた「ギノスコー」の現在形は ヨハネ第一 5:20 でも使われています。そこでは「神のみ子が来て,真実な方について知ることができるよう」になったと訳されています。 ヨハネ17:3に関しては新世界訳以外のほぼすべての訳が「知ること」と訳しています。
魂(ネフェシュ,プシュケー)
解説
新世界訳はヘブライ語ネフェシュとギリシャ語プシュケーを一律「魂」と訳していました。しかし今回の改定で文脈に合わせてわかりやすい単語を割り当てるようになっています。これは新世界訳以外のほぼすべての訳が行なっていたことと同じです。
創世記 2:7 新世界訳(旧)
それからエホバ神は地面の塵で人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き入れられた。すると人は生きた魂になった。創世記 2:7 新世界訳(新)
それからエホバ神は地面の塵で人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き入れられた。すると人は生きた人になった。
民数記 6:6 新世界訳(旧)
エホバのために分けられた者となっている日々の続いている限り,その者は死んだ魂にいっさい近寄ってはいけない。民数記 6:6 新世界訳(新)
エホバのために分けられた者となっている日々が続いている間,その者は死んだ人にいっさい近寄ってはいけない。
マタイ 2:20 新世界訳(旧)
こう言った。「起きて,幼子とその母とを連れ,イスラエルの地に行きなさい。幼子の魂を求めていた者たちは死んだからである」。マタイ 2:20 新世界訳(新)
こう言った。「起きて,幼子とその母とを連れ,イスラエルの地に行きなさい。幼子の命を求めていた者たちは死んだからである」。
マタイ 26:38 新世界訳(旧)
それから彼らにこう言われた。「わたしの魂は深く憂え悲しみ,死なんばかりです。ここにとどまって,わたしと共にずっと見張っていなさい」。マタイ 26:38 新世界訳(新)
それから彼らにこう言われた。「わたしは深く憂え悲しみ,死なんばかりです。ここにとどまって,わたしと共にずっと見張っていなさい」。
墓(シェオル,ハデス)
解説
これまでヘブライ語のシェオル,ギリシャ語のハデスは現代語を割り当てないでそのまま表記されていましたが,今回の改定で「墓」と訳されるようになりました。
詩編 16:10 新世界訳(旧)
なぜなら,あなたはわたしの魂をシェオルに捨て置かれないからです。あなたはご自分の忠節な者が坑を見ることを許されません。詩編 16:10 新世界訳(新)
なぜなら,あなたはわたしを墓に捨て置かれないからです。あなたはご自分の忠節な者が坑を見ることを許されません。
ルカ 16:23 新世界訳(旧)
そして,ハデスの中で目を上げると,自分は責め苦のうちにありましたが,はるか離れた所にアブラハムがおり,ラザロがその懐の位置にいるのが見えました。ルカ 16:23 新世界訳(新)
そして,墓の中で目を上げると,自分は責め苦のうちにありましたが,はるか離れた所にアブラハムがおり,ラザロがその隣にいるのが見えました。
出エジプト記 3:14
解説
ほとんどの聖書翻訳はこの部分を「I AM THAT I AM」と訳しています。この部分のヘブライ語は非常に短い文章で構成されており,意味については様々な解釈を与えることができます。ですから本来は元々のヘブライ語の通りに短い文章で訳出し,その後の解釈は読者にゆだねるべきです。新世界訳はこの節において神学的な解釈も含めて訳出しているという問題があります。(日本語訳は英文よりはシンプルです)今回の改定に関しては日本語訳を推測することが困難であるため掲載しません。
出エジプト記 3:14(旧) すると神はモーセに言われた,「わたしは自分がなるところのものとなる」。そしてさらに言われた,「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『わたしはなるという方がわたしをあなた方のもとに遣わされた』」。
英文比較
出エジプト記 3:14(旧) At this God said to Moses: “I SHALL PROVE TO BE WHAT I SHALL PROVE TO BE.” And he added: “This is what you are to say to the sons of Israel, ‘I SHALL PROVE TO BE has sent me to YOU.'”
出エジプト記 3:14(新) So God said to Moses: “I Will Become What I Choose to Become.” And he added: “This is what you are to say to the Israelites, ‘I Will Become has sent me to you.’”
現行の日本語新世界訳の時点ですでに英文新世界訳をそのまま訳すことができていません。今回の改定では「わたしは自分が望むところのものとなる」という訳になるかもしれません。
以下はヘブライ語の原文になります。(右から左に読む)
ここにあるように原文では「I am」もしくは「become」に相当する一つの単語だけを用いていることがわかります。
民数記 35:37-33:22
年次総会での発表では二重三重のチェックが行われたことが強調されていました。民数記のページの右上を見ると・・・ 民数記35:37 !!! すでに50万冊以上が印刷されています。
その他 続く・・・
hk
お邪魔します。早速の情報ありがとうございます。管理人さんの情報、過去のものから新しい物まで本当に勉強になりますし、いかに自分の頭(思考)を使って考えていなかったか反省させられています。
これからの情報も楽しみにしています。ありがとうございました。
匿名
付録見ました?pdfのp1767
About 1914 C.E.ってプラスマイナス何年なんでしょう?
エホバの証人研究
興味深い指摘ありがとうございます。About 1914 C.E は
「1914年の事を細かく詮索するな」という意味かもしれません。
プラスマイナス1年でもあるとしたらエホバの証人にとっては衝撃的だと思います。不思議な表現ですね。
匿名2
ヨハネ17:3
「知ること」と「知るようになること」では意味が全く異なると思いますが…
そもそも今回の改訂は読者の読みやすさのためであって、他の翻訳に合わせることが目的ではないと思います。
また、ネフェシュ(「魂」)については、単に現行版の本文語句と欄外語句が入れ替わっただけです。
そもそも、貴殿が意図的に(?)省いてますが、今回の改訂で「エホバ」の訳出回数が増えていますので、他の翻訳に迎合する意図はないと思います。
エホバの証人研究
コメントありがとうございます。
ヨハネ17:3は他の翻訳に合わせるための改定ではなく,言語が伝える意味を正しく表現したら他の翻訳に近づいただけのことです。
「エホバ」の訳出回数が増えている点は取り上げようと思っていた点です。意図的に省く理由はなにもありません。
今回の改定で新世界訳聖書は一般的な翻訳に近づきました。
その理由はより読みやすく,そして言語の意味をより正確に伝えられるようにしたら,一般の聖書に近づいたにすぎません。わたしは記事の中で「他の翻訳に迎合した」などと述べておりません。
誤解されているようでしたら,思いを切り替えていただければうれしく思います。
匿名2
「ニュース論評 – ノルウェー 盲目的従順」(http://www.jwstudy.com/docs/newsreview_norway_blind_obedience/)について
事実歪曲も甚だしいと思います。2013年11月15日号20ページのひどい惡引用です。正確なものはこうです。
「長老の皆さんは,これまで考慮した内容から次のような有益な結論を導き出すことができます。……[サタン]の攻撃の際,エホバの組織から与えられる指示は,奇妙で異例なものに思えるかもしれない。しかし,わたしたちは皆,同意できるかどうかにかかわらず,どんな指示にもすぐに従うべきである。」
上の正確な引用からわかるように「盲目的な従順」が求められているのは「長老」であり、一般信者ではありません。長老は組織から任命されているわけですから、従順が求められるのは当然であり、それがいやならやめればいいだけです。
上記の記事はまるで一般信者が「盲目的な従順」を求められているような誤解を与える記事であり、記事を修正すべきです。
エホバの証人研究
「ニュース論評 – ノルウェー 盲目的従順」
http://www.jwstudy.com/docs/newsreview_norway_blind_obedience/
大変興味深い指摘だと思いました。
この「ものみの塔」の記事が述べている点はおっしゃる通りです。
盲目的な従順が求められているのは「長老」たちです。
しかし,一般信者が「長老」たちに逆らうことはできるのでしょうか?
わたしの理解と匿名2さんの理解に違いがあるようですがいかがですか?
匿名2
あなた方の間で指導の任に当たっている人たちに従い,また”柔順”でありなさいーヘブライ13:17
確かに聖書は長老に「柔順」(submissiveness)であるように(すすんで従うよう)勧めていますが、「従順」(obedience)であるように(つまり服従するように)とは言っていません。日本語は同音ですが意味が全く違います。
いずれにしても、上記の記事とは無関係なので記事を修正すべきです。
エホバの証人研究
匿名2 さんが指摘された ヘブライ13:17 は聖書の言葉です。(補足 聖書は盲目的な柔順を求めているわけではありません。)
もし 統治体が聖書にのっとった教えを雑誌に掲載していれば,そもそもノルウェーの報道記事は世の中に出ないのです。
匿名2 さんの前のコメントと合わせて考えると,統治体は長老たちに「盲目的な従順」を求めているが,長老たちは「盲目的な従順」を信者に期待することはできない,ということになります。
矛盾していませんか?
匿名2
>もし 統治体が聖書にのっとった教えを雑誌に掲載していれば,そもそもノルウェーの報道記事は世の中に出ないのです。
いや、該当記事はどう見ても「聖書にのっとっ」ていますが……
http://www.jw.org/ja/%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/%E9%9B%91%E8%AA%8C/w20131115/%E4%B8%83%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%89%A7%E8%80%85%E3%81%A8%E5%85%AB%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%90%9B%E4%BE%AF/
論拠としているミカ5章5、6節やペテロ第一5章2節は聖書でないと仰りたいのか……
>統治体は長老たちに「盲目的な従順」を求めているが,長老たちは
>「盲目的な従順」を信者に期待することはできない,ということになります。
ですから、長老は組織から任命されている人ですから一般信者とは違って組織に従う責任があって当然でしょう。それがいやなら辞めればいいだけでは。
エホバの証人研究
匿名2 さんは 長老たちに「盲目的な従順」を求めていることが聖書的であるとして 根拠として ミカ5章5、6節とペテロ第一5章2節 を指摘されました。
では,この聖句のどこが長老たちに「盲目的な従順」が求められる根拠になるのかを説明してください。
わたしはこの二つの聖句であなたが結論をどのようにして導かれたのか関心があります。
iris
ヨハネ17:3の「知識を取り入れる」という不思議な日本語はどんな英語から訳されたのか
興味があります。「知識を取り入れる」という言い回しはほかの部分にもあるのでしょうか?
この聖句にだけこの表現が使われているとすれば、なにか意図があるのでしょうね。
この聖句の「知る」という語は、単に知っているという意味ではなく、親しい関係であるという意味だと
聞いています。知識として知っているのではなく、体験として知っているということです。
そうであれば、「知識を取り入れる」というのは完全に誤訳ということになりますね。
カレブ
irisさん おはようございます。
英文新世界訳の「taking in knowledge 」からです。
同じギリシャ語の現在形は聖書中には他に二か所だけあります。
ヨハネ 17:23 わたしは彼らと結びついており,あなたはわたしと結びついておられます。それは,彼らが完全にされて一つになり,あなたがわたしを遣わされたこと,そして,わたしを愛してくださったと同じように彼らを愛されたことを世が知るためです。
ヨハネ第一 5:20 しかしわたしたちは,神のみ子が来て,真実な方について知ることができるよう,わたしたちに知的な能力を与えてくださったことを知っています。そしてわたしたちは,み子イエス・キリストによって,真実な方と結ばれています。この方こそまことの神であり,永遠の命です。
上の二つです。日本語ではちゃっかり「知ること」と訳しています。
ヨハネ17:3の「知識を取り入れる」を他より良い訳だと信じているのはエホバの証人だけです。
おっしゃる通り このギリシャ語は「親しい関係」という意味があります。ヨハネ17:3は「親しい関係」という意味があるのは文脈から明らかです。現在は協会も「知識を取り入れる」という訳が失敗だったということには気が付いていると思います。
iris
カレブさんお返事ありがとうございます。
taking in knowledge → 知識を取り入れること
と日本語に訳した人は責められないということがわかりました。
なぜ英訳した人は taking in knowledge と訳したのかが謎です。
新世界訳は、全体として訳というより原文を軽視した翻案という感じですが。
日本語の出版物には変な日本語が結構ありますが、やっぱり直訳せざるを得ないような
変な原文が多いのでしょうかね。
カレブ
iris さん
>なぜ英訳した人は taking in knowledge と訳したのかが謎です
新世界約はギリシャ語動詞の現在形に変なこだわりがあるんです。
ところが英語の knowing を know の現在進行形でふつうは使わないので
素直に know にすればいいところを無理に現在進行形にしてしまったのだと思います。
「知識を得る」と訳すのも文法的に間違いではないでしょうが
この文脈ではお粗末すぎると思います。
匿名2
「知識を取り入れること」も改訂版の脚注にあります。
「知るようになること」に変更したのは、文法的な間違いと考えたからではなく
単にそちらの方が読者にとって理解しやすいからです。
これは現行版(参照資料付き)の本文と脚注が入れ替わっただけです。
お二人とも勘違い甚だしいよ。
カレブ
匿名2さん
匿名2さんは「知識を取り入れる」という訳しかたが正しいと
思っている根拠としてあげたのは以下の点だけですね。
「「知識を取り入れること」も改訂版の脚注にあります。」
つまり今回の改正によって協会は今までの翻訳が良い訳ではないと
認めたわけではないといいたいわけですよね?
つまり「協会は考えを変えてない,だから正しい」という主張以外の何も見えてきません。
それに対して IRISさんとわたしは そもそもこの文脈で
「知識を取り入れることが永遠の命を意味する」と訳すこと自体が
おかしいと指摘しているのです。そしてその根拠も述べています。
ちなみに「taking in knowledge」と「coming to know」は
かなり意味合いが違います。そのことは理解されてますか?
あと「盲目的従順」の件も お答えお待ちしています。
コメントありがとうございました。
匿名2
「知識を取り入れる」ないしは「知るようになる」と訳される原語のギリシャ語ギノースコーの原義は「知り続けること」、すなわち継続的な過程であり、単に「知ること」ではありません。『バインの解説辞典』(英語)によれば、これは、「知る側と、知られる側との関係を示唆している。この点で言えば、知られるものは、知る者にとって価値があり、重要である。こうして相互の関係が構築される」のです。
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2013767
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2001562
今回の改訂でこの見解を変えたわけではありません。
カレブ
匿名2さんは
バインの辞書を引用されました。
「『バインの解説辞典』(英語)によれば、これは、「知る側と、知られる側との関係を示唆している。この点で言えば、知られるものは、知る者にとって価値があり、重要である。こうして相互の関係が構築される」のです。」
では「知識を取り入れる」という表現を読んで「知る側と、知られる側との関係」を思い浮かべるでしょうか?
一般の聖書翻訳者は文脈からして,ここのギノスコーは「知る」と訳すほうがバインが示唆する点を強調できると考えているのです。
NWTは「継続的な過程」というギリシャ語の現在形の特徴を普通以上に意識しすぎています。
しかもギリシャ語現在形をすべての箇所で「~ing」と訳しているわけでもありません。
主張のわりには日和見主義的です。
結局,匿名2さんは「今回の改訂で見解を変えたわけではありません」という点を主張したいわけですね?
匿名2
ギノースコーを「知る」と訳すと、「知られるものは、知る者にとって価値があり、重要である。こうして相互の関係が構築される」という原語のニュアンスが読者につかめません。やはり、改訂版の「知るようになる」がベストかと思います。
>ギリシャ語現在形をすべての箇所で「~ing」と訳しているわけでもありません。
それは英語の言語的な制約によるのでは。「~ing」を用いなくとも「いつも」などの修飾語を用いれば
原語のニュアンスがつかめるという判断かと思います。
カレブ
「知る」という言葉は「単なる知人」なのか「相互の関係」の構築が関係しているのかを
文脈によって読者は判断します。それに対して「知識を取り入れる」という言葉は文脈による判断も無視して
ずばり「知識を取り入れる」という意味にしかとれません。
「知るようになる」という訳は「知識を取り入れる」よりはずっと良い訳だとは思います。
匿名2さんは他の翻訳が「知るようになる」と訳していて
NWTが「知識を取り入れる」と訳していたとしたらどう答えたでしょう?
改訂版が出る前であれば
「やはり「知識を取り入れる」がベストかと思います」と言われたのではないでしょうか?
つまりJWの思考はNWTだから良い訳に決まってるし
擁護しなくちゃいけないものだと考えているように見えます。
匿名2
他の翻訳は「知るようになる」ではなくて「知る」ですよね。現状「知るようになる」と同じように訳しているのは、市販されているのは岩波版だけのようです。なぜなら、キリスト教神学は「イエスを知りさえすれば救われる」と教理ですから。いずれにしても、英語改訂版は1984年版(日本語1985年版)参照資料付きの本文と脚注を入れ替えただけです。「知識を取り入れる」も改訂版の脚注にあるので、この訳が間違えていたから改訂したわけではないのです。
カレブ
>キリスト教神学は「イエスを知りさえすれば救われる」と教理ですから
「知りさえすれば」の意味を匿名2さんがどう捉えてるのかよくわかりませんが
「イエスの知識を取り入れさえすれば救われる」という考えを伝える文章よりは「イエスを知りさえすれば救われる」という文章のほうが初期のクリスチャンの認識に合ってると思います。
ただし ヨハネ福音書が書かれた当時のグノーシス派に影響を受けていたと解釈するなら「知識を取り入れる」という意味で書かれていたと考えてもおかしくはないですね。
匿名2さんは新世界訳が間違っていたから改定されたという考えに抵抗があるようですね。そもそも翻訳に白か黒かでの判定はできるもんではないです。
Jack
NWT2013年版のヨハネ17:3の「知るようになる」は決して悪くないと思います。能動的な努力が求められることが感じ取れます。以前の「知識を取り入れる」では「知識」という漢語の響きは「知的行為」を重視するいささか冷たい趣がありました。一方「知る」という和語にはもっとパーソナルなある種肉感的な響きを感じます。
愛読している新エルサレム聖書のヨハネ17:3 脚注にはヨハネ10:14を参照するように促されています。そこには ” I am the good shepherd; I know my own and my own knows me” (私は良い羊飼いです。自分の羊を知り、羊も私をを知っています)とあります。ギリシャ語動詞ギノースコーの三人称単数変化形ですが、脚注には、’knowledge’ in not merely the conclusion of an intellectual process, but the fruit on an ‘experience’ ,a personal contact; when it matures, it is love.(知識は単なる知的行動の結果ではなく、個人的接触という経験の結実である。その実が熟すとそれは愛となる)とありました。ギリシャ語動詞ギノースコーの見事な説明です。
これも愛読している岩波書店版のヨハネ17:3ですが「[よりよく]知るようになることです」となっていました。これも好いですね。
横レス失礼しました。
SUE
ヨハネ17章3説についてはこちらにたいへん詳しい説明がでています。
http://biblia.holy.jp/43-joh-17-03.html
ギノースコーの現在形は80例ほどあるそうです……。
JWSTUDY
SUEさん コメントありがとうございます。
ご指摘のサイトはエホバの証人の立場で新世界訳を擁護しているサイトですね。
今でも更新されているのですね。
ヨハネ17:3の説明がいろいろ書いてありましたが、SUEさんはどのあたりを興味深く感じたのでしょうか?
わたしもざっと読んでみましたが、ヨハネ 12:50の説明の部分で新世界訳のことをほめて「原典のニュアンスを厳密に見極めたうえで丁寧に訳出する」と書かれていますが、わたしはむしろ、そこが聖書翻訳者の問題点だと思っています。新世界訳はとくに字義訳や意訳を好きなように使い分けているところがよくないと思います。ヨハネはそもそも不安定な文章を書いているのですから、不安定な文章のままにすべきなのです。つまり幾通りも解釈できるような文章を聖書筆者が書いているのであれば、それはそのまま訳して、各注釈者が自分なりの解説を加えるのが本来の望ましいスタイルだと思います。
以下、気になった部分の引用です。
「 たとえばこの聖句の場合、新共同訳聖書などに見られる訳文では文意がかなり不安定です。文意を誤ると、神は人に死ぬなと命令しているのだということになりかねません。
これらの聖句の場合に限らず、原典のニュアンスを厳密に見極めたうえで丁寧に訳出するということについて、新世界訳聖書には他の邦訳聖書と比べて卓越したところがあるようです。」
http://biblia.holy.jp/43-joh-17-03.html
思うのですが、かつて新世界訳が卓越していると述べていた箇所で、改訂版で結局、他の翻訳と同じような翻訳になってしまったケースでは、以前「卓説していた」と説明していた点はどう切り返すんでしょうね?
通りすがり人
ふむ ふむ。匿名2さん。あれから2年以上、今もエホバの証人なのだろうか。私はかつてその「長老」だった。長老は、一般信者の模範となるべき人であった。だから「盲目的な従順」を組織(エホバの地上の代理支配社たち)が長老に求めているなら、一般信者は当然、模範的長老たちと同じことを目指すべきなのだ。
従順がいやなら、やめればいい。その通りだ。しかし、マインドコントロールされている人は、その「やめる」事が、死ぬこと以上に怖いのだ。心が盲目的にされているから。自分で考えることをやめて、眠っているから。目覚めて、見ることをやめているから、見てしまうと怖いことになるから、目をあけてはならないのだ。恐ろしいことなのだ。心が奴隷になっているのだ。真の神が、本当にそういう人間を望んでいるのかなど、正直に考えることなど、恐ろしくて、決して深く考えてはいけないことなのだ。自分の良心が苦しんでも、叫んでも、決してやめてはならないのだ。万が一にも、疑問にとらわれたどうしようと、怖い事が浮かぶのだ。そこが、エホバの証人の、いや宗教の恐ろしいところであり、イエスがユダヤ教と当時戦った事の難しさを知るのである。
「知ること」や「知識を取り入れる事」などという、言葉遊びはどうでもよい。大切な事は、聖書は完全であると信じている事だ。組織の指示は自分の良心よりも正しいのだと信じている事だ。聖書は本当に完全な神の言葉か。神とは何か。人間とは何か。真理とは何か。エホバの組織の中で、私は求め続けたが、得られなかった。(今は得ている)
自ら組織を出て、私は客観的に調べた。長い間「訓練された心」と戦いながら、勇気をもって考え、自分に正直に、頭を使って、考えた。調べた。苦しみを経験しなくなるまで、数年が必要だった。麻薬の後遺症は長いのだ。
あれから12年、私は今、本当に自由であり、人間として生きていると実感している。私は今、神を、人間を、世界を、そして長年身を捧げてきたエホバの証人を、宗教を、正しく理解出来るようになった。真の真理を知るようになった。
12年前に「もし今、真に愛を示されたイエスが来て検閲したら、エホバの証人である自分は立っていられない」と、そう正直に答えが出た時があった。「組織に従っては、神の前に立っていられない」という答えが出た時があった。私は幸運だった。
このブログの管理人には、いいたい事がたくさんあるだろう。あってあって、どう伝えたらいいのかもどかしいほどではないかと思う。私もそうだから。どうやって、かつての仲間だった人間たちを開放できるだろうかと、そう願うものの、難しいものである。それほど、エホバの証人の組織は、人間の精神的弱さをうまく利用する有能な者たちだと思う。身も、心も、お金も、時間もすべて、「神ではなく」組織に、捧げさせるのだ。
いつか、彼らは神からその代償を求められるだろう。盲人が盲人とともに穴に落ち込む前に、目を開けて、周りを見渡してほしいと、切に願うのみである。その実を見れば何の木か知るのなら、信者たちが自由で幸福で輝いて、本当に神の人たちかどうか、生み出しているたくさんの実を、腐った実がたくさん隠されている事を見てほしい。そして、木を判断してほしいと、そう願うのである。
tensoba
出エジプト3:14について
カレブさん、初めまして
とてもよく研究されたサイトですね。感心するばかりです。
出エジプト3:14の問題の個所は、神がご自身の名前の由来を語る有名な場面ですね。
「ありてあるもの」と昔の日本語訳聖書で訳されていたこの部分は、ヘブライ語では、画像を貼っていただいたように、「エヒエ・アッシェル・エヒエ」。
毎年必ず神学者たちが、何か論文のネタにする箇所でもあるようです。
「本来は元々のヘブライ語の通りに短い文章で訳出し,その後の解釈は読者にゆだねるべきです」とのカレブさんのご指摘はその通りでしょう。
ただ、本来の元々のヘブライ語通りに訳せない個所でもあります。その最大の理由は、「アッシェル」にあります。アッシェルはヘブライ語の関係詞であり、英語等と違い、関係詞はこれ一つしかないからです。ほとんどの英訳はthatと当たり障りのない語を当てているのですが、それ自体、問題でしょう。that以外に、who,where,when,which,how,等、関係詞ならなんとでも解釈可能ですね。
仮に「エヒエ」(=動詞ハーヤーのQal形、一人称、単数、未完了)を「私はなる」と訳したとしても、
私はなろうとするものになるものである(who)
私はなろうと思う場所になるものである(where)
私はなろうと思う時になるものである(when)
私はいかなるしかたでもなれるものである(how)
など、さまざまな意味を含蓄した言葉です。
新世界訳聖書は、一つの可能性としての訳なのでしょう。
ここからは私見なのですが、文脈から判断して、「私はなる」(エヒエ)というものが、出エジプトをなさしめるわけですから、「エヒエ」を「わたしはかならず(奴隷解放を)なす」と訳して考えるのがよいのではないかなと思っています。
また、2017年「めざめよ!」No6.14-15頁に「神様の名前にはどんな意味がありますか」という記事の中で、「ヘブライ語のエホバという名前には,『彼はならせる』という意味があると考えられています。」とありますが、これは問題かもしれません。
なぜなら、「エヒエ」はQal形であり、使役形ではありません。あくまで、単純に「わたしはなる」でしょう。