ものみの塔は1998年の記事の中でエホバの証人が「偽りの非難の標的にされ」ていることを取り上げ、次のように述べました。
*** 塔98 12/1 14ページ 4節 わたしたちの信仰について弁明する ***
輸血を拒否したためにエホバの証人の子供が毎年大勢死んでいるという非難には,全く根拠がありません。
しかし4年前の自らの雑誌の中では輸血を拒否して亡くなった若者たちを称えて次のように述べています。
*** 目94 5/22 2ページ ***
昔,多くの若者は神を第一にしたために死にました。今でも若者たちは神を第一にしていますが(*),今日では輸血を争点として,病院や裁判所を舞台にドラマが繰り広げられています。(* 英文では「今でも彼らはそうしている」つまり前の文章の神を第一にして死を選択するという点を述べている。そして、この雑誌の表紙には輸血拒否による”殉教”の死を遂げた若者と思われる写真が複数掲載されている。)
エホバの証人は医学的な面と宗教的な面を分けて考えることができない傾向があります。それは「ものみの塔」の教育の影響のためです。輸血に代わる「最善の医療」があるので輸血は必要ないと考えるのです。しかし実際には輸血が唯一の救命手段であるというケースは多く存在します。「輸血を拒否して死ぬ」という事実を認めたくないのは一種の防御反応のようなものなのかもしれません。しかし防御反応が出ないときには多くの若者が輸血拒否を貫いて死んでいるという事実を認めるのです。それが二つ目の引用に表れています。
子どもたちが示す信仰
子どもたちは大人と同じような信仰を表すことはあるでしょうか?確かにあります。イスラム教徒の一人の女性は「わたしは子供たちを愛しています。しかしムスリムとして私たちは無理してでも祖国の益のために自分の感情を犠牲にしなくてはなりません。個人の関心事よりも、より偉大な関心事を優先しなくてはならないのです」と述べました。そして彼女の子供のうち3人が自爆テロで命を犠牲にし、そのうちの一人は17歳でした。
エホバの証人の子供たちの中にもたとえ死ぬことがあっても輸血は拒否するという立場を自ら表明する子がいるかもしれません。しかし考えなくてはならないのは、そのような未成年の子供たちが下した判断がどれだけ決定的なものかということです。子供のころに親と共にエホバの証人として生活していた人が成人してから親の選択していた組織を離れるということは非常に多くみられることなのです。なぜその子供たちは大人になってから組織を離れるのでしょうか?その一番大きな要素は子供のころは知ることができなかった事実を知り、信仰を否定するようになるということです。それは何を意味するでしょうか?それは子供のころに選択していた事柄は決して「インフォームド・コンセント」や「インフォームド・チョイス」ではなかったということです。
選択の余地をもたない子どもたち
ものみの塔協会は、エホバの証人の子供たちが国歌斉唱や誕生日の祝いに加わらない理由を説明することができるように「訓練」するように教えています。そして実際の場面でどのように答えることができるのか「親子での練習を行う」ように励まされています(塔10 12/15 3ページ 「お子さんは何と答えますか」を参照)。そして「正しい」返答ができるように訓練されるのです。そのような訓練を受けた子供は大人に対しても雄弁に答えることができます。次の例を見てみましょう。
*** 塔91 6/15 31ページ 読者からの質問 ***
■ 裁判所が輸血を命令もしくは許可した場合,クリスチャンはどれほど必死に抵抗すべきですか。
・・・ですからわたしたちは,17ページで取り上げた若いクリスチャンが裁判所に対し,『輸血は私の体に対する侵害で,強姦のようなものだと思う』と述べた理由を理解できます。たとえ性的暴行による淫行が法的に認められたとしても,クリスチャンの女性が年齢のいかんにかかわらず,抵抗もせずにおとなしく強姦されるということがあるでしょうか。同様に,同じページで取り上げた12歳の少女は,次のようにすることについて一点の疑問も残しませんでした。『裁判所が輸血を許可しても,全力を振り絞って闘います。叫んだり暴れたりします。腕から注入器具を引き抜き,ベッドのわきにある血液バッグを処分するつもりです』。彼女は,神の律法に従うことを堅く思い定めていました。
裁判という特別な場で輸血が「強姦のようなものだと思う」と述べたり、「輸血を許可しても、全力を振り絞って闘います」といった誇張表現を使う個人がいても構いません。しかし驚くのは、「ものみの塔」の執筆者が「裁判所が輸血を命令もしくは許可した場合,クリスチャンはどれほど必死に抵抗すべきですか」という質問のもとに、その対応の代表例としてこれらの言葉を書き記しているところです。しかも「叫んで暴れ」「腕から注入器具を引き抜く」と述べているのは12歳の少女です。
近年ヨーロッパの国も含め、幾つかの国でエホバの証人を法的に認可することを疑問視する動きが見られます。どこにおいても共通している懸念事項に輸血拒否を信者に強要し、それに従わない者を排斥処分にしているという点があります。ものみの塔の代表者は輸血拒否は信者が自分で選んでいるにすぎないと主張します。しかし上記の記事を見る限り、信者である以上、その人に輸血拒否以外の選択肢などないのは明らかです。
政府が輸血拒否とそれに伴う排斥の教えに問題視する際に、エホバの証人は自分たちが「義のために迫害されている」などと思うべきではありません。政府は健全な社会を守る義務を感じており、信仰の自由を最大限認めつつも、許容できない非社会的行動というものを輸血拒否の教理の中に見出しているのです。それは皇帝崇拝を強要してクリスチャンを迫害した古代ローマ世界とは全く異なります。
「腕から注入器具を引き抜き,ベッドのわきにある血液バッグを処分する」と述べた12歳の少女は生涯エホバの証人として生きるのでしょうか?そうかもしれません。しかし親の影響から離れ、物事を自分自身の目で見ることができるようになったとき、違う歩みを始める可能性は十分あります。確実に言えるのは彼女がもし死亡したら、その時点で選択肢が失われるということです。このような事を考えると、未成年の子どもたちは時に社会が守る必要があるということを感じざるをえません。
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