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#501 2017年04月15日 19:51:25

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

てつてつさん、心で理解してくださり、ありがとうございます。
てつてつさんも、脳性マヒで重度障害のJW兄弟を
サポートされていたと聞いていますので、
わたしの述べる経験談を真実な出来事として
分かち合ってくださったのですね。
わたしのとってJW時代の悲しい一面でした…。

オフライン

#502 2017年04月16日 09:35:10

三太郎
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

ラハムさん こんにちは。

ラハムさんが述べられたように、”心の無感覚さ”と、それに気がつかなくなってしまったという状態は、非常に残念なことだと思います。

無感覚や無関心というのは、ある意味、間違ったことを信じて突っ走るよりも怖いかもしれないですね。感情や思考を失った人間など、もはや人間とはいえないわけですから。

今にして思えば、正しいことも書いてあるが、間違ったことも書いてある教科書を基に、身勝手な解釈で書いた参考書を使って勉強しても、試験に合格することなどはない。
むしろその結果として、”心の無感覚さ”を生み出してしまったのだと思います。

ガチガチの現役の方には、出来れば自分自身でそこに気がついてもらいたいものです。
今はインターネットからの情報で目が覚める信者が圧倒的かと思いますが、それがなかった時代に、その異常さに気づき、自らの頭で考え、自ら行動を取った脱塔者の方の心の強さに、私は尊敬の念すら覚えます。

遅れましたが、ラハムさん、お誕生日おめでとうございます。
祝ってもらって嬉しくない人間なんていませんよね。
それが素直な人間の感情だと思います。
実は私も先月の誕生日に、行き付けの飲み屋で祝ってもらったのですが、いい歳こいてもやっぱり嬉かったです。マッカラン12年をプレゼントにもらって、ボトルキープしました。
(結局、金払ってまた通うようです。アホです)

#503 2017年04月16日 18:37:34

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

三太郎さん、コメントありがとうございます。
お互い人間を取り戻すことができてよかったですね。
人間本来の感情というのか、気持ちというのかですが…。
感じるところはとても大切にしたいものです。
「マッカラン12年」ですか。わたしは初めて聞きました。
チャンスがあれば味見したいです。
わたしは必要なところで「アホ」になれれば、
人間として自分にも必要なことだと思っています。
おいしいお酒、楽しんでください…。

オフライン

#504 2017年05月08日 17:09:38

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

2003/11/19 JWICに投稿したものです。
JWの歪んだ聖書解釈と統治体の気分によって
信者が振り回されていることに気が付いてほしかったのです。

「エホバの証人と性の問題‐その二」-ラハムより-レイプについて

  わたしがバプテスマを受けて2、3年たった25年ほど前、女性がレイプを受け
た場合の扱いについて聞いたときショックを受けたことがありました。それは、
レイプのときに声を上げて抵抗しなければ、排斥になるということだったので
す。

  このときに聞いたことはこのことだけだったのですが、なぜそんなにきつい
処置がなされるのかわからなくて厳しすぎると思いました。このときわたしは聴
覚・言語障害の人々とわずかながらの接触がありましたし、声がどうにも出せな
い場合のことを考えると、物理的に声を出さなければ排斥だということが、どう
しても理解できなかったのです。また、聖書的な、出版物的な根拠もぜんぜん知
りませんでした。

  そのようなある日、古い年配の姉妹から1960年代のものみの塔をもらうこと
ができて、それらの中に理由を発見したのです。その記述は1964年3月1日号191
ページ、読者よりの質問で扱われていました。これは日本語版のCD-ROMであるラ
イブラリーには記載されていませんが、近年製本が再版されましたので多くの人
は実際に読むことができるでしょう。しかし、参考にOCRで読み取って全文を提
供させていただきます。このころの雑誌は縦書きでしたので、漢数字を算用数字
に置き換えました。



≪●申命記22章23-27節によると、婚約したイスラエルのおとめは、強姦されそ
うになった時叫ぶことが要求されていました。もしクリスチャンの婦人が今日同
じような事態に直面したならどうしますか。暴漢が武器で殺すとおどしても叫ぶ
べきですか。‐アメリカの一読者より



神の律法によると、イスラエルのおとめは叫ばねばなりませんでした。「もし処
女である女が、人と婚約した後、他の男が町の内でその女に会い、これを犯した
ならば、あなたがたはそのふたりを町の門にひき出して、石で撃ち殺さなければ
ならない。これはその女が町の内におりながら叫ばなかったからであり、またそ
の男は隣人の妻をはずかしめたからである」。しかし、もし野でおそわれて、女
がのがれようとして叫んだなら、その女を石で打ってはなりませんでした。なぜ
なら彼女は力で負け、救う者がいなかったからです。‐申命、22:23-27。



しかし男が武器をもっていて、一緒に寝ないなら殺すとおどすならどうします
か。これらの聖句は女が叫ばなくてもよい場合をあげてその趣旨を弱めたり変え
たりしていません。事情がどうあろうと女は叫ぶことによって暴行に反対しなけ
ればならないことをはっきり示しています。もし彼女が力に負け、あるいはたた
かれて無意識になり、彼女の叫び声に応じて助けが来るまえに犯されたなら、彼
女に責任はありません。この聖句の趣旨は明らかに、たとえ暴漢が、おとなしく
言うとおりにしないなら殺すとおどかしても、娘が叫んで近所の人の注意を引く
なら暴漢は驚いて逃げ、娘は救われることにあります。聖書のそういう判例は、
「不品行を避けなさい」という戒めのもとにあるクリスチャンにも適用されま
す。(コリント第一6:18)したがって、もしクリスチャンの婦人が叫ぶことをせ
ず、また逃げるためにあらゆる努力をしないなら、暴行に同意したものと見られ
るでしょう。身を清く保って神の戒めに従うことを望むクリスチャンの婦人が、
今日このような事態に直面したならば、勇気をふるって聖書の提案どおりに行動
し、叫ばねばなりません。実際のところこの戒めは、クリスチャンの婦人の福祉
になるものです。というのは、もし男の欲望に従うなら
ば、彼女は淫行あるいは姦淫に同意することになるばかりでなく、恥ずかしい思
いをしなければなりません。そのいやな経験からばかりでなく、配偶者以外の者
と性関係を結ぶことによって神の律法を破ったということから恥ずかしい思いを
します。そればかりでなく、未婚の母親になるかも知れず、その堕落した暴漢か
ら病気をうつされないとも限りません。暴漢がおどしを実行する危険に女が直面
することは事実です。しかしそういう逆上した犯人が欲情を満足させたのち女を
殺さないという保証がどこにありますか。事実、そういう男は恐らくすでにおた
ずね者になっているので、暴行を働いたのち女を殺す可能性が大きいとみねばな
りません。というのは女はその男を観察する機会がかなりあるために、警察に彼
のことをくわしく説明できるからです。そういう場合、聖書の助言に従って叫ぶ
なら、人々の注意を引き、また相手は、あとで証言されると困るから殺してしま
おうという殺意を抱くすきもなく最初から逃げるので、女の命は助かるでしょ
う。

ほとんどの場合、問題は、暴漢のおどしにはのらないということを見せつけるこ
とにあるのはたしかです。娘が叫べば暴行未遂で逮捕される恐れがあるからで
す。また、もしそのおどしを実行して殺人をしたなら、男はそのためにもっと重
罪に問われることを心配するかも知れません。もちろん暴漢は、すぐに逃げず
に、叫ぶのを止めさせようとしてたたいたり、ちょっとした傷を負わすかも知れ
ません。しかし、不道徳な男に従う恥辱とくらべるなら、そういう肉体的な傷を
がまんするのはささいなことではないでしょうか。

クリスチャンの婦人は、自分の処女性あるいは貞操を最後まで守る権利がありま
す。自分を犯そうとする者から、どれほどよく自分を守るかは、その人の勇気と
気転にかかっています。すでに述べたように、まず少なくとも叫び声をあげ、助
けを得るためにできる限りさわぎ立てて、暴漢を追い払わねばなりません。それ
が役に立たないなら、ほかのあらゆる手段を用いて自分の貞操を守る権利があり
ます。

この世代の道徳は、聖書がこの終りの時代について預言したとおり前例のないほ
ど低下しています。アメリカだけでも、一年に15000人-半時間に約ひとり-の婦
人が強姦されるという事実をみてもわかります。またそれは、危険を避けるよう
に注意しなさい、という婦人への警告です。婦人が襲われるのはほとんどの場合
ひとりのときです。ですから、とくに暗くなって外を歩くときは、連れと一緒に
歩くようにしなければなりません。昼間でも危険とされている地区では、婦人は
必ずほかの人と一緒に歩かねばなりません。神のことばはこう述べています。
「人がもし、そのひとりを攻め撃ったなら、ふたりで、それに当るであろう。三
つよりの綱はたやすくは切れない」。(伝道、4:12、新口)女の人がしばしば襲
われる都市とか地区にひとりで行くと言い張るクリスチャンの婦人は、わざわざ
問題を起し、不必要に命を危険にさらす人です。特定の状態のもとで何が起るか
を考慮し、それに対して警戒することは知恵です。賢明な人は危険を見てそれを
避ける手段を講じます。「さとき者は自分の歩みを慎む」。

-箴言14:15、新口。≫

 

  わたしはついに長老にはなることができませんでしたので、ここに記述され
ている聖書的な根拠とされるものによって、実際に排斥された人が存在するのか
を確認できません。しかし、融通性がほとんど利かず、杓子定規に人を扱う組織
のことですから、これを根拠にして排斥処置をとられた人のいることは想像に難
しくありません。

  しかし、ここに示されている原則は変更されたと思います。それは2003年2
月1日号の読者からの質問で何らかの理由で声が出せなくてもやむをえない事情
があることが認められているからです。わたしの調査した限りでは実に39年ぶり
の変更なのです。CD-ROMで検索しても、このたぐいの出版物は見つけられません
でした。

  やむをえない事情のあることが認められてよい方向に向けられたのだからそ
れでいいじゃあないかという人がいるかもしれません。でも物事はそれほど簡単
ではありません。わたしは以前に主宰監督だった兄弟と食事をしたときに次のよ
うなことを話しました。



  わたしは研究生だったときにマスターベーションを淫行だと思い込み、自分
を非常に罪深い人間だと考えていた。でも、後ほどその思い込みが間違っている
ことを知った。だから、このように間違って理解し、思い込んでいる人は大勢い
るだろう。もし誰かが、審理問題として淫行の罪に問われ、本当はマスターベー
ションをおこなっているだけで、他の人が関係していないのに、あるいはまった
く性的な問題ではないのに、当人は淫行であると告白して排斥になり、後日その
審理が誤りだとわかった場合、無条件で復帰させてくれるのか?

  これを聞いて元主宰監督だった兄弟は、確かに調べてみると誤った審理のた
め無実で排斥された事例があったことを認めていましたが、無条件で復帰させて
くれるかどうかについては返事をしませんでした。

 

  わたしは今年の2月1日号を読んだときこれらのことを思い出したのです。39
年の長期にわたっておこなわれてきた、人を傷つける処置をあたかも新しい解釈
のように指し示し、以前の変更点を伝えずにこっそり変えてしまうとは!こうし
たことは近年おこなわれてきた、選挙について、兵役の代替勤務、成分輸血など
数えればきりがありません。

レイプなどはほんとうに恐ろしい経験で、出版物を読んで声をあげて抵抗しなく
てはいけないことを頭で知ってはいても、恐怖で身がすくんでしまい大声をあげ
ることさえできない場合もあるのではないでしょうか。今回の記事ではそうした
ことのあることが、はっきり認められています。今年の読者からの質問ではそう
した事情もあることが考慮され、39年前の記事と比べると非常に柔軟な考え方や
対応が示されています。最近の記事ですので部分的に引用してみたいと思いま
す。ものみの塔2003.2.1号31ページです。



≪申命記22章23-27節がどう適用されるかを理解するにあたって,この短い記述が
あらゆる状況を想定しているわけではないことを認識しなければなりません。例
えば,襲われた女性が叫べない状況については何も述べられていません。その女
性は口のきけない人かもしれず意識を失っていたり,恐怖で身がすくんでいたり,
叫べないように手やテープで口を無理やり覆われていたりする場合もあるでしょ
う。しかしエホバは,人の動機を含め,すべての要素を考慮できるので,理解と公
正をもってその種の事例を扱われます。「そのすべての道は公正である」ので
す。(申命記32:4)エホバは,実際に何が生じたかということも,被害者が力を尽く
して相手を退けようとしたこともご存じです。ですから,叫ぶことはできなかっ
たものの,その状況下で出来る限りのことをした被害者は,物事をエホバのみ手に
ゆだねることができます。一詩編55:22。ペテロ第一5:7≫



この記事で述べられていなくても、39年前はおろか人間の歴史が始まって以来、
口の聞けない人や耳の聞こえない人がいたのは当然のことです。聖書時代のイス
ラエル人の社会にもいましたし、何よりイエスがそのような障害のある人を奇跡
によって癒したことが聖書には記録されています。また、恐怖や何かの理由で声
を出すことができない場合もあるでしょう。わたしとしては、そのようなわかり
きった当然の事柄がなぜ過去において一言も言及されないのだろうかと思うので
す。そのようなわかりきった当然の事柄が考慮されずに排斥処置がとられたこと
があるのなら、恐ろしいことです。



冤罪、つまり無実の罪で排斥されることがあるのだろうかということを最初のほ
うで書いたわけですが、わたしの友人の親友にその処置が取られたということを
知りました。彼の親友が排斥されたということですが、この親友のところにひと
りの姉妹が訪ねてきて、その姉妹が玄関先で泣き出してしまい、彼に抱きついて
きたので両肩を抱いて引き離したそうです。ところが後日この姉妹は自分の会衆
の長老に“彼に抱かれた”と話したということなのです。そして、この出来事の
次の日に長老たちから呼び出されて、彼女を抱いたのだから排斥だと一方的に告
げられ、気の弱かった彼は自己弁護することもできず、その処置がなされたとい
うことでした。

後日彼は事実を報告して復帰することができたのですが、長老たちは審理問題の
誤りを認めることもなく、当然会衆にも復帰以外の発表はなされませんでした。

また別に、本人には実際に直接事実を確認もせずに排斥処置がとられたという例
もあります。

  わたしたち日本人の場合、ちょっとでも触れるとかなりの疑いの目で見られ
ますが、同じJWでも、外国人の場合は両肩を抱くぐらい何でもないことが多いも
のです。たしかに性的な関係を持つことを“抱く“とか“寝る”などと表現しま
すが、この場合は実際文字通り抱いたわけで、性行為をしたわけではありませ
ん。そうしたことの確認もせずに排斥に追い込むというのは、いったいどういう
精神構造の長老団なのだろうといぶかりたくなるのです。そういえば、JWの用語
で信者同士や未信者と交友関係を持つことを“交わる”といいますが、これなど
は、一般的には性関係を持つときに使用されると思います。中学生だったか、二
世の女の子が学校でこの言葉を用いたらまわりの人が驚いたといっていました。
わたしもJWと“交わり”はじめたころこれを聞いて、いったいなんだろうと思っ
た覚えがあります。

JWの組織がおこなう排斥処置のあり方についてもわたしなりに別の機会に考慮し
てみたいと思いますが、人間として生活し、生きている以上は個々の人としてど
うしようもやむをえない事情のあることは当然のことです。それを理解して思い
やりや憐れみという特質を十分に発揮して物事に対応していくことこそ、人間の
人間らしい生き方であり、キリストの特質を真に反映させた組織のあり方ではな
いでしょうか。

一世紀当時、パリサイ人たちは旧約聖書の律法を細部に渡って守ろうとして細か
い規則を作り上げ、人々をうんざりさせ、生活を息苦しいものにしてしまい、自
分では負わない重たい荷物を他の人に負わせました。キリストはこのことを非難
して、ほんとうの神の愛や憐れみを教えました。彼の教えた必要な原則はわたし
の読み取る限り三つぐらいしかないと思います。

「良心の危機」でも詳しく記載されていますが、統治体が読者からの質問を用いて
さまざまな性に関する規則を作り上げ変更していったいきさつがあります。それ
によって離婚問題に発展し、必要でない排斥措置や夫婦不和が多くもたらされま
した。規則がよい方向に改善されても、これらの感情的な痛みは元に戻せませ
ん。冤罪で排斥された人の無条件での復帰は聞いたことがありません。結局は組
織が神の教えにないことを、神の言葉を踏み越え、定めて実行したことに問題が
あったのでしょう。上のように記した性に関する事柄もJWの歪んだ教理と規則の
一面だと思います。


《編集者より》
この、レイプの被害者が叫んで抵抗する必要性の教えは、
私も大変興味があり、これについて記事を書こうと思っていましたが、
時間がなくてそのままになっていました。
ラハムさんも言及されていると思いますが、
排斥になった事例は、叫ばなかったことそのことを理由にしたのではなく、
叫ばないことが淫行をしたことに当たるとして排斥になったのでした。
この規則は上に引用されたように、
2003年2月の記事で、はっきりと撤回されたようですが、
その前にも幾つかの記事で、
叫ばないことが淫行には必ずしも当たらないという記事は出ています。
たとえば、1993年3月8日の目ざめよ誌、4ページは次のように述べています。

*** 目93 3/8 4 レイプの実態 ***

レイプ神話と真実
次に挙げるのは,昔からあるレイプに関する誤った考え方です。
こうした考え方があるため,被害者は非難され,
加害者の肩を持つような見方はいつまでたってもなくなりません。

<中略>

神話: 体を激しく動かして抵抗しなければ,レイプの被害者にも責任がある。

事実: 定義からすればレイプは,暴力や脅迫によって
相手の意思に反した性交を行なう,
またはそれに類する行為をする時に成立します。
嫌がる相手に暴力を振るえば,その人はレイピストです。
したがって,レイプの被害者は淫行の罪には問われません。
近親相姦の犠牲者と同様に,相手が振りかざした力に圧倒されて
望まない行為を無理やりさせられることもあります。
恐怖におののいたり,気持ちが混乱したりしたために
レイピストの思いどおりになったとしても,
女性がその行為に同意していることにはなりません。
同意とは,脅されずに行なった選択に基づく能動的なものであって,
受動的なものではありません。

ここでは、直接「叫ぶ」ことを述べていませんが、
レイピストの言いなりになったとしても、
淫行ではないとはっきり述べていることで、
1964年の教義を否定しています。
恐らく、目ざめよの筆者は、その29年前の教義をうっかり忘れて、
「次に挙げるのは、昔からあるレイプに関する誤った考え方です」と
言い切っていることです。ここにもまた、人間が作った、
言ってみればいい加減で都合によって勝手に変えられる教義によって、
無数の人の人生が左右された、
あわれなエホバの証人の実態が見事に出ているのです。

しかし、このレイプの教義はこれだけでは終わりません。
なぜなら、この十年も前に、既にものみの塔誌で
次のようにはっきりと述べられているからです。

*** 塔83 6/15 30 敬虔な結婚を誉れあるものとしなさい! ***

無理やりに強姦された男性あるいは女性はポルネイアの
罪があるものとはされません。
しかしその二年後には、レイプされかけたが叫んで抵抗して、
怪我をしながらもレイプされなかったエホバの証人の体験談を掲載して、
次のようにこのエホバの証人の口を通して教えています。

*** 目86 5/22 23 「よし,殺してやる!」 ***

でも,私は勝ったのです! 強姦されなかったのです!
勝利者であって,犠牲者ではないのです!
良心も汚されず,自尊心も尊厳も傷つきませんでした。
そして全能の神エホバに対して忠誠を保ちました。
ここで上の申命記22章23-27節を引用した上で、
目ざめよ誌は、この女性の口を通して次のように教えています。

私はこの簡明な言葉を知っていたことを心の底から感謝しました。
この言葉は私に道徳的義務を教えてくれました。
この言葉のおかげで,混乱することも,
あいまいな態度を取ることもしなくてすみました。
この言葉を知っていたために,なすべきことは正確に分かっていました。
私は叫び,反撃も加えました。聖書の教えを信頼し,
それが堅固な基盤であることに気づいていました。
つまり、この目ざめよの記事の主旨を裏返しにすれば、
叫んで抵抗せずに強姦された女性は、
「全能の神エホバに対して忠誠を保ちました」とは言えなくなるわけで、
この記事を読む限り、たとえ強姦が二年前のものみの塔誌が
教えるようにポルネイアの罪ではなくても、
エホバの証人の女性は命がけで叫んで
抵抗しなければならないということになります。
これもまた、ものみの塔協会の見解が全く一貫していない、
指導者の気分でどうにでも変えられるよい例と言えるでしょう。

オフライン

#505 2017年05月08日 22:41:23

鬼太郎
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

1980年に友人のK兄弟から聞いた話ですが、、
某会衆の姉妹達が労働者達がたむろする所に二人で再訪問し、強姦されてました。
姉妹達は恥ずかしくて告白できませんでしたが、その後発覚。
一人は悔い改めが見られて許されましたが、他の姉妹は排斥処分。
その後見解が調整されましたが、、、
酷い組織、、、としか表現できません。
当時も、理解できない思いでしたが、『いずれ楽園で全てが正される 全ての涙がぬぐわれる』と
自分に言い聞かせて思考停止していました。

その後特権をいただいた時も、、、時折、排斥された姉妹はどうなったのか?と考えました。
それでも全能者エホバ神が最終的には公平に扱われる、とまたも思考停止。

都合の悪いことは、『全能者で愛の神エホバが全てを適切に扱うことを信じることが信仰』と
いうWT組織に都合のよい論理で解決する この思考回路がJW教育教理の最大の問題点です。

オフライン

#506 2017年05月09日 14:47:55

野の花
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

ラハム さんの発言:

この親友のところにひとりの姉妹が訪ねてきて、その姉妹が玄関先で泣き出してしまい、彼に抱きついてきたので両肩を抱いて引き離したそうです。
ところが後日この姉妹は自分の会衆の長老に“彼に抱かれた”と話したということなのです。
そして、この出来事の次の日に長老たちから呼び出されて、彼女を抱いたのだから排斥だと一方的に告げられ、気の弱かった彼は自己弁護することもできず、その処置がなされたということでした。


この話聞いたことがあります。肉食系の気の強い姉妹が気の弱い兄弟に強引に既成事実を作って結婚に持ち込もうとしたけれど想いを果たせなかったので腹いせに長老に訴えたんですね。

”抱かれた”ではなくて”肩を掴まれ引き離された”ですよね。
男女がトラブルになると長老たちは姉妹のほうに肩入れしがちです。
淫行を犯しても女のほうは開拓を降ろされ男は排斥というのがありました。その始まりは女の方が積極的だったのにです。

審理委員の前では泣くという演技も通用するらしいです。

編集者 野の花 (2017年05月09日 17:50:34)

オフライン

#507 2017年05月09日 16:32:52

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

わたしは現役時代からずっと不思議に思っていたことがあります。
JWは性的な不道徳行為を表現するのに「淫行」という言葉を使います。
わたしはずっと聖書を読んできました。
最近もちょっと元気が回復し聖書朗読を再開しています。
でも、いくら読んでみても聖書にはこの「淫行」という言葉が、
何をどのように行なうことなのか説明書きを発見できません。
長いこと出版物を読んできても、
聖書注釈書などの引用から淫行の定義を知らされてきただけです。
たぶん、聖書時代の人々は淫行という表現を聞くと、
何がしのことだと理解できたので、パウロなども
説明する必要がなかったんでしょうね。
協会の説明を読んでいるとさまよう風のように淫行の定義が変更され、
場合によっては排斥になり、離婚問題に発展した歴史もあります。
良心の危機でフランズ氏も報告していました。
聖書に書かれていないことを人間が自前で識別しようとすると
他の人の人生を狂わせるという実例だと思います…。

オフライン

#508 2017年05月20日 16:46:10

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

2003/10/13、JWICに投書したものです。
お二人の投書に対するご返事になっています。
お二人の投書も合わせてお読みいただきたいので
リンク先も表示しました。
わたしの投書は古い順に並べてきたのですが、
読んでいただきたい順がありましたので、
投書の日付が前後しています。

脱塔するべきかどうかについて、
情報の開示についてですが、
編集者の意見は、今読み直してみても
非常にすぐれた指針だと思います。


「バプテスマ問題」と「レイモンド・フランズ事件を知って」に対して

(10-13-03)
真実兄弟と物事兄弟に質問された方へ ならびに
http://www.jwic.info/forum03/090403a.htm

フランズ事件に関して投書された方へ-ラハムより
http://www.jwic.info/forum03/090703a.htm

  わたしは9月にエホバの証人と性の問題に関しての投書をさせていただきま
した。今月はその二を投書するはずでしたが、10月の投書を読んでいて上記の二
つの投書に関してどうしても気になってしまい、こちらのほうを書いてみたくな
りました。

  わたしは物事兄弟や真実兄弟ほど分析力はありませんが、集会の出席に関し
て知っている限りのことを記してみたいと思います。

  まず最初におよそ20年の長期にわたり、辛抱してこられた姉妹とご主人に深
い敬意とねぎらいのことばをお送りしたいと思います。ほんとうにこれまでよく
耐えてこられました。

  組織が研究生に対してバプテスマを受けるための条件を記してある主な出版
物は「わたしたちの奉仕の務めを果たすための組織」1983年版、1989年版です。
それ以前には「王国を宣べ伝え、弟子を作るための組織」1973年版です。これら
二冊はライブラリーのCD-ROMには収録されていませんので書籍を直接見ることが
できます。これら以外は王国宣教やものみの塔で公表されていると思います。わ
たしは長老ではありませんので見ることができませんが、協会から長老団宛に来
る手紙にそうした指示があるのではないでしょうか。

  まず「奉仕の務め」のp99では「その人は、会衆の集会でエホバの民と交わ
るようにという聖書の命令に従っていますか(健康その他の事情から見てそれが
できる立場にいるなら)」と記されています。

  姉妹のご主人はご自分のほんらい行くべき会衆の集会に出席できず、かつ神
権宣教学校の割当が果たせないということで、伝道者になれず、バプテスマをも
受けられないということでした。聖書を直接読む限り、そうした条件をしるして
ある箇所はありませんが、JWの組織と交わる人々は研究生が俗に進歩して伝道者
になる前にすべての集会に定期的な出席をしていることを期待し、また望んでい
ます。

  実は、わたし自身がこの集会に関して定期的な出席というのは、どの程度の
出席であるかを20年ほど前に出席した開拓奉仕学校で教訓者の兄弟に直接尋ねた
ことがありました。それは、週に一度、五つある集会のどれかひとつに定期的に
出ていればよいということに変更はないはずだ、というものでした。その根拠と
してお聞きしたのが、わたしの記憶違いでなければ「弟子を作るための組織」の
ほうだったのです。この記述は「務め」のほうにはありませんでしたので、「弟
子」のほうで確認してページまで教えていただいたのです。

  要するにどれかの集会ひとつおよそ1時間を定期的に出ていればよいという
ことでした。姉妹の投書を読んでこうしたやり取りのあったことを思い出し、自
分で根拠の出典をもう一度確認しようと努力したのですが、どうしても見つけら
れませんでした。

  もちろん、二冊の書籍に出ているように健康や他の事情がよければというこ
とですが、わたしはこれらの実例を知っています。ただし、老齢と生まれつきの
障害で自力で動くことが困難であった場合ですので、すべてが姉妹のご主人に当
てはまらないであろうと思いますが、週に一度だけの出席だったことは共通して
いる事例です。

  もう25年ほど前の1978年ごろでした。その方は70代のおばあさんでしたが孫
のような開拓者の姉妹と研究してバプテスマを受けました。高齢だということで
通常日曜日に開かれている、公開講演とものみの塔研究だけ定期的に出席し、夜
の集会には出たことはありませんでした。バプテスマを受けてから、わたしは一
度だけ神権宣教学校の割当を果たしたのを目撃したことを覚えていますが、この
割当のときに話の資料の箇所を間違えてまったくちがった内容の割当を果たした
ことが印象的でした。この姉妹の場合、神権宣教学校に入校せずともバプテスマ
を受けることができたのです。

  さて、姉妹のご主人は20年ほど前から研究されているということですが、わ
たしの友人である姉妹たちは二人とも同じ施設で生活しているときに研究に応じ
バプテスマを受けました。それは1983年ごろですのでちょうど20年ほど前です。
彼女たちは、生まれつきの障害のため自力で起き上がることができずに、他の人
に介助されて横になった状態で車椅子に乗せてもらう必要があります。施設の時
間制限で夜の外出は無理だったようです。神権宣教学校は特例で、日曜日の集会
のあとに10分ほどの時間を割いて彼女たちだけの割当を果たすことができるよう
にされていました。

  さらに、大学の寮に入っている姉妹たちも門限があり、どうしても割当を果
たすことができませんでしたが、バプテスマを受けて献身することが可能でした。
わたしの所属している会衆で幾人もこうしたことはあったのです。

  たしかにこれらの例は仕事によって集会に出られなかったわけではありませ
んから、姉妹のご主人には直接当てはまりませんが、それでも、全部の集会に出
席することや神権宣教学校の割当を果たすことが、伝道者になりバプテスマを受
けることの絶対的な条件ではないことをあきらかにしているのではないでしょうか。

  組織が定期的な集会の出席を奨励する聖句としてヘブライ10:23から25がた
びたび引用されますが、そこではある人々が集まりあわないことを習慣としてい
るので、そのようなことをせず、集まりあって励ましあおうではないかというこ
とだと思います。組織は自分たちの行なっていることが一世紀のクリスチャン会
衆にいかに倣っているかということを強調して、多くの聖句を引用し、集会の型
を例示しますが、神権宣教学校のような話し方の訓練の例は聖書にあるとは思え
ません。まして、ものみの塔出版物のようなものを配布することなどはまるであ
りません。印刷技術なんてほとんどない時代のことですから、もしその技術が
あったら一世紀に人々も用いたであろうと強調するだけです。もし当時に倣うの
であれば、巻物の聖書はあったでしょうから、聖書だけ使えばいいのにと思うのです。

  わたしも20代初めにバプテスマを受け、会社勤めをしましたが、仕事の内容
や遠いことから夜の集会に遅刻ばかりをして悲しかったことをよく覚えていま
す。おいそれと仕事を変えることもできませんでしたので長老に相談に行って冷
たくきつい助言をされたことがありました。結局提案はするけれど、実際的な助
けは得られないのです。

  姉妹の投書からご夫婦が長老たちから好まれていない、いやむしろ嫌われて
いるような印象さえ受けました。この是非はともかくとして、わたし自身も聖書
に述べられていないことと、聖書には直接記されていはいないが聖書的な根拠が
あると主張する組織の提案のはざまで多くの良心の葛藤を経験して苦しみまし
た。それで、結局のところ、聖書に忠実にしたがって、いや人間として良心的に
生きたいと願う人はエホバの証人ではいられないというのが、現在のわたしの結
論です。それで、エホバの証人の組織として公表していることと、隠されてきて
わたしたちが知ることのできなかった事実を慎重に吟味してバプテスマを受ける
ことを検討することをおすすめしたいと思います。


  レイモンド・フランズ事件を知って投書された兄弟の質問について深く考え
させられました。以下のように問いかけておられますね。

《でも、組織の中枢部にいる”イエスの兄弟たち?”の実体を見過ごして本当に
いいのでしょうか?時の経過と共に忘れ去って良いものでしょうか?

冷酷な扱いを受けた聖書研究に熱心だった方々のことを自分に関係のない人たち
と考えたり、あるいはそれと同等の態度を示したままで、純粋な動機を抱きなが
らこの組織の指示に従って奉仕を続けることをどう考えるべきなのでしょうか?
ましてや、長老の立場で良心的に奉仕できるのでしょうか?

繰り返しますが、大部分の仲間たちは何も知りません。ただ聖書そのものの希望
の音信に喜びを見出しているだけです。その人たちは知らないまま、いわば、
“だまされたまま”の方が幸福なのでしょうか?お願いです。教えてください!
どうすべきかというよりもどう感じておられるかにまず関心があります。》

  わたしは去年の今頃、仲のよい仲間の兄弟からこのウェブを知らされ、読み
すすめるうちに呆然としたことを覚えておりますので、兄弟の気持ちはよく理解
できます。そのころから、集会に出席しても話など聞いておらず、腕組みをして
じっと考え込んでおりました。また、奉仕の僕として書籍研究の司会者でしたの
で、自分が偽りだと気がついたことを教える立場にいることが苦しく、当たり障
りのないしかたでこの立場を退く方法がないものかと模索していたのです。

  わたしも自分が知った事実を声を大にして話したいという衝動はあります。
しかしながらそれは非常に危険なことです。わたしの経験したことで、ひとつの
会衆内においてさえ、その会衆で長老たちが行なっていることが聖書でなく、王
国宣教の指示とは違うことを指摘して質問することでさえ、物議をかもし出し、
悪者扱いされる雰囲気が生じるのです。ましてや、統治体に対する疑念を話すこ
となどは、よほど柔軟な考え方の長老たちに恵まれない限り、審理問題にされ、
背教者のレッテルを貼られるでしょう。

  内部改革の傾向がどこかにあるとは聞いていますが、現時点では会衆内でさ
えも内部改革は無理だとわたしは感じています。でも、これはできることが何も
ないということではありません。わたしにも会衆内の矛盾を話してくる人がいま
すので、それについて当人が感じていることの正当性について認め、背教者であ
ると感じさせない程度に組織の矛盾点を話してあげることにしています。わたし
としては、人間として良心的に生きようとし、自分に感情障害を生じさせないた
めに、この組織にとどまり続けることは無理であると判断していますので、まも
なく去っていく予定です。わたしにとって、自分と仲間の兄弟姉妹たちをだまし
続けることはできないことだと感じています。

  ウェブで組織がわたしたちに隠してきた事柄を知ったとき、どうせなら死ぬ
までだまし続けてくれれば楽だったのに、とさえ感じたのを覚えています。多く
の人は真実から目をそむけて、目をつむりたいという傾向があると思います。真
実を知って、それを認めて受け入れ自分を調整していこうとするのは苦難と苦悶
の連続でしょう。大きな葛藤と苦しみがあると思います。困難に立ち向かってい
く勇気と努力が必要です。組織から出ようとする人はこのような特質を持ってい
る人が多いと思います。

  世の中には実にさまざまな宗教があります。JWもそのひとつですが、それら
の宗教内で幸福を見出している人がいるようにJWの組織で幸福な人もいるようで
す。わたしは自分が組織について感じていることを長年の友人に話しましたが、
彼女はこの組織にいて幸福に感じているということでした。多くの人はだまされ
ているのかもしれませんが、人々の精神的な特質や傾向によってはJWのような組
織に所属することが必要なのかもしれません。JWの組織事情を知ってしまうと他
の宗教組織と大差はなく、きわめて人間的、世俗的だという結論になるのです
が、そこで幸福に感じている人のいることも事実ですから、それらの人であれば
自分たちの望むようにすればよいと思います。わたしは組織で幸福に感じている
人にやめさせようと仕向けるつもりはありません。

  それで直接的には改革することは危険ですので、
インターネットという文明の利器を大いに活用して事実を
公表し続けることが安全で懸命だと思います。

《編集者より》
エホバの証人の組織の中にいて幸福な人が多くいることは間違いありませんし、
組織に入っていることがその人の最大の心の支えになっている人、
組織がなければまともに生きていけないであろう人がいることも間違いないと思います。
それだからこそ、私はエホバの証人の組織は今後も決して消滅はしないし、
今後も一定の勢力を保ち続けるであろうと思っています。エホバの証人に限らず、
どんな宗教もそれを力によっても言論によっても排除することはできませんし、
そのような努力は無駄に終わると思っています。
より大事なことは、最近の社会で一般的になってきた「情報の開示」という
ことでしょう。役所や会社と同じ様に、宗教団体も内部を完全に開示し、
その上で選択の自由を常に保障することが大事なのだと私は思っています。
その情報を見るかどうか、それをどう解釈するか、それも個人の自由ですが、
少なくとも情報は求める人には直ぐに与えられるようにしておくべきでしょう。
その意味でインターネットは画期的な道具なのです。
そしてその上でその宗教に留まるか出るかは、全て個人が自由に
決めるべきことだと私は思っています。

編集者 ラハム (2017年05月21日 05:59:51)

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