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これはエホバの証人が子ども向けの教材として使用している「わたしの聖書物語の本」の中の挿絵です。これは裁き人の書11章に出てくる旧約聖書の物語からとられています。

ものみの塔2007年5月15日号9ページにはこの物語の場面が父親の立派な模範として描かれています。次のように語られています。

*** 塔07 5/15 9ページ エフタはエホバへの誓約を守る ***
神からの指示を切に望んでいたエフタは,神にこう誓約します。「もしアンモンの子らを間違いなくわたしの手に与えてくださるならば,わたしがアンモンの子らのもとから無事に戻って来た時にわたしの家の戸口から迎えに出て来る者,その出て来る者はエホバのものとされることになります。わたしはその者を焼燔の捧げ物としてささげなければなりません」。それにこたえて,神はエフタを祝福し,エフタがアンモン人の20の都市を討ち,「大いなる殺りく」を行ない,イスラエルの敵を従えることができるようにされます。―裁き人 11:30‐33。

エフタはアンモンの大量殺戮に成功したら、自分の家の者から一人を「焼燔の捧げ物としてささげる」と誓いました。ところがエホバの証人や現代の一部のクリスチャンはこれは焼燔の犠牲のことではなくて神殿での奉仕のことだと述べ、次のように説明を加えます。

*** 塔07 5/15 9–10ページ エフタはエホバへの誓約を守る ***
エフタがその誓約を行なったときには,神の霊がエフタの上に働いていましたし,エホバはエフタの努力を祝福されました。エフタはその信仰と,神の目的に関係して果たした役割のゆえに,聖書の中で褒められています。(サムエル第一 12:11。ヘブライ 11:32‐34)ですから,エフタが人間を犠牲としてささげて殺人を犯すことなど,とても考えられません。では,エフタはどのようなつもりで人間をエホバにささげると誓約したのでしょうか。
エフタは自分の出会った人を神への全き奉仕にささげるつもりだったようです。

今日のクリスチャンは旧約聖書の残虐性を認めることに困難を覚えます。娘を焼燔の犠牲にするなど最悪のことであり、神の民の指導者がそのような行動をとりながら神が戒めずに信仰の模範として扱うはずがない、そして神は人間の犠牲を要求する律法を与えたこともないし、むしろ他の神々へ捧げられていたそのような犠牲を忌み嫌っていることが述べられているという点がしばしば指摘されます。

しかしエフタが娘を焼燔の犠牲としてささげたことを否定する人は幾つもの点を見過ごしています。まずエフタが「焼燔の捧げ物」を「神殿での奉仕」のように唱えていたのであれば、それは異例な言葉の使い方で、それこそ明確に説明がなされるべき内容であるということです。

エフタはその直前に「はなはだ大いなる殺りくを行なった」(裁き人 11:33) と文脈の中で述べられています。ものみの塔は「エフタが人間を犠牲としてささげて殺人を犯すことなど,とても考えられません」と述べていますが、直前の記述を忘れています。エフタによって殺戮された人々、その中には無抵抗の女や子どもたちが含まれていたことでしょう。旧約聖書はイスラエルに対して神が殺戮が命令されたとする記述の中で動物や人間を「滅びのためにささげられたもの」、つまり神に奉納されたものとして描写しています。

1世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスの記述

真実の答えは明確です。エフタの”焼燔の捧げ物”の約束が文字通りの意味であったことは1世紀のユダヤ人の歴史家ヨセフスの記述から覆しようがなくなります。これが当時のユダヤ人の理解であり、”焼燔の捧げ物”に特別な意味などなかったことを示しています。

フラウィウス・ヨセフス
ユダヤ古代誌 第5巻 7:10
ついで彼は神に勝利を祈願し、もし自分が無事に戻ることができれば、最初に出会った生き物を犠牲として捧げると約束した。そして、彼は敵と戦って徹底的にこれを打ち破り、殺戮を重ねながらミンニテの町まで追撃した。彼はアンモンの土地を横断し、多くの町を破壊して戦利品を獲得し、また一八年もの間彼らの奴隷になっていた同胞たちを解放した。彼がこのような嚇々たる戦果をあげて帰って来ると、そこには思いもかけぬ不幸な運命が待ち受けていた。というのは、彼が帰って最初に出会ったのが彼の娘だったからである。彼女はまだ生娘で彼の一人娘であった。
悲しみに打ちひしがれた父親は、その衝撃があまりにも大きかったために、なぜあわてて会いに出て来たかと娘をはげしく叱りつけた。神に彼女を犠牲として捧げなければならなかったからである。しかし彼女は、父親の勝利と同胞市民の解放の代償として自分が死なねばならぬのを知っても、その運命に不平を言わなかった。ただ、彼女は友だちと自分の青春を惜しむために二か月の猶予を乞い、それがすめばいつでも父親が神への誓約を実行してもかまわないと言った。父親は娘にその猶予期間を与え、それがすむと、娘を播祭の犠牲として捧げた。このような犠牲は、律法に適うものでも、神に喜ばれるものでもなかったが、彼は自分の行為がそれを聞いた者にどのように受け取られるかを洞察できなかったのである。

ユダヤ古代誌〈2〉ちくま学芸文庫 から

ヨセフスは少なくともエフタの行動を無思慮な一面があったことをほのめかしていますが聖書自体にはそのような指摘があるわけではありません。さらにヘブライ11章の中では信仰の模範として列挙されていますがエフタを咎める記述は何もありません。

ユダヤ人の理解を確認するための資料はヨセフスの資料だけではありません。他にも1世紀頃に書かれたとされる作者不明の「聖書古代史」(間違ってフィロンの作とされていた)にはさらに興味深い点が述べられています。

続きは「裁き人エフタの約束 – ユダヤ人文書にみられる理解」からご覧ください。

 

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