#1451 2023年04月07日 14:25:24
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ 聖書から著者について分かること (6)”で、聖書は神の言葉で、その解釈は組織だけができるので、組織に死ぬまで従えという内容です。」
「JWは聖書を学ぶと称して、実際は自分たちの出版物を学ばせているだけ。聖書は自分たちの教えの権威付けになればいいだけで、JWは本当は聖書に敬意を払っていない。だから、気楽に聖書を改ざんできるわけだ。」
「2節に“エホバはご自分のことを知ってほしいと思っています。”とありますが、違いますね。知ってほしくないとしか思えません。」
「神なら、自分を知らせる方法はいくらでもあるはず。なぜそうしない?それをしない以上、知ってほしくないという結論になる。」
「2節に“それでエホバはご自分のことを「書に記」させ,私たちが読めるようにしました。(エレミヤ 30:2)これはとても良い方法です。「真の神の道[方法]は完全」なのです。”とありますが、単なるプロパガンダですね。」
「聖書が読めるのは現代語に翻訳されているからだけれど、その翻訳は神がしているのかな?JWの場合、専門教育を受けたことのない人間が辞書を片手に英語に訳した。それをさらに、無知無学な人間が自分の考えを勝手に付け加えながら日本語に訳した。それが日本人信者がありがたがって読んでいる聖書だよ。完全とは程遠い。」
「原語から英語に翻訳する時点でかなりミスがありますし、英語から日本語に訳する時点でもかなりミスがあります。」
「それを神の言葉というのは無理だろう。」
「3節に“聖書は,はるか昔に書かれた本です。しかも朽ちやすい素材に書かれたので,原本は一つも見つかっていません。”と珍しく本当のことを書いています。これは予想される疑問をあらかじめ封じようという意図ですよ。」
「そんなに大事な神の言葉なら、なぜ原本がないの?神のスーパーパワーで保存できるはず、と誰もが思うよ。」
「数千年前の粘土板に書かれた文書が今でも大量に残っています。エジプトでは大昔に石に刻まれた象形文字を今でも見ることができます。なぜ聖書もそうしなかったのでしょう?原本を残すのにスーパーパワーは必要としないです。」
「聖書の神は間抜けな神で、文化レベルの低いイスラエル人に記録の保存方法を教えるのを忘れたんだね。」
「十戒は石に刻まれたので半永久的に残るはずなのに、途中で行方不明になっています。しかも、聖書の中では誰もそれを問題にしていません。」
「それこそ神の言葉でしょう。いいかげんだよね。」
「3節に、写本について、“ある学者もヘブライ語聖書についてこう言っています。「古典の中で,これほど正確に伝わってきたものはほかにないと言っても差し支えないだろう。”とありますが、不正引用です。誰が、どういう文脈で語ったのかがわからなければ評価しようがありません。」
「ウィリアム・ヘンリー・グリーンだよ。ものみの塔一般2016,No.4に出ている。“洞察”の“聖書の写本”に“「考古学と聖書歴史」,J・P・フリー,1964年,5ページ”と出典が示されている。相当古い本で、こんな昔の本を引用していることを知られたくないのだろうね。」
「ウィリアム・ヘンリー・グリーンは長老派の牧師です。自分に都合の良い護教論を述べただけです。」
「牧師という立場上、聖書の写本間の違いは相当あり、完全に同じものは存在しないという不都合な真実は知っていても言えないというだけ。」
「3節のまとめが“それでも私たちが持っている聖書には,著者であるエホバのお考えが書かれていると確信できます。”というものです。根拠がなく自信のない時に限って、“確信できます”と強弁するのがものみの塔の執筆スタイルです。」
「旧約聖書では本文がかなり破損して、何を言っているのかよくわからない箇所もけっこうある。例えばアベルとカインの物語。意味がよく分からない箇所が何か所もあり、恐らくこうだろうという推測に基づいて訳されている。つまり神の考えではなく、翻訳者の考えが書かれている。」
「5から10節が“聖書から分かるエホバの知恵”です。 6節に“聖書の著者であるエホバは,全能者で,永遠に生きていて,誰よりも知恵のある方だからです。”とあります。でも聖書には間違いがたくさんありますよ。聖書の著者は古代の平凡な知識しかなかったように思えますよ。」
「例えば、レビ14:33-53に家の中にカビが生じた場合に清める方法が長々と書かれている。最後は“一方の鳥を,きれいな水が入った土器の上で殺す。杉の枝,ヒソプ,緋色の布,生きている方の鳥を取って,水の上で殺した鳥の血に浸す。その血を家に7回はね掛けなければならない。”とある。このような行為はカビ対策としては無意味で、古代の呪術としか言いようのないものだ。」
「もし聖書の著者が神なら、なぜカビに対処するもっとまともな方法を教えないのか理解できません。」
「知らないから、教えようがないんだよ。これは医学分野でも同じ。聖書にはろくな医学的アドバイスがない。」
「7節に“でもエホバは,イスラエル人が定期的に集まり合って,神の言葉の朗読と説明を聞けるようにしました。(申命記 31:10⁻13。ネヘミヤ 8:2,8,18)その時エルサレムには,各地から何百万人もの人たちが集まったことでしょう。”とありえないことを書いています。」
「引照聖句の申命記31:10-11に“7年目ごとに,その免除の年の決められた時,仮小屋の祭りの間に,神が選んだ場所で,イスラエル全体がエホバ神の前に出る時,イスラエル全体が聞けるようにこの律法を読み上げるべきです。”とあるけれど、こんなことが実行できるわけないし、実行されていない。」
「音響設備がないのに、律法を読み上げたって周囲数十メートルしか聞こえません。」
「イスラエルの人口は現在約950万人でユダヤ人は700万人くらい。古代では多くても数十万人だろう。西暦1世紀でも、エルサレムはローマ帝国の辺境の町で、人口は1万人程度にすぎないとされる。そこに数百万人が集まったなんて、執筆者は何を根拠に言っているのだろうね?ちなみに1世紀の都市の人口は、ローマで約35万人、アレキサンドリアが約22万人とされる。」
「7節では“エホバはこのようにしてイスラエル人を一つにまとめていたのです。”といっています。本当に一つにまとめたければ、テレビ放送とかインターネットでも作ればよかったんじゃないですか?」
「一つにまとめていたというのもフィクション。執筆者は古代社会がとんでもない格差社会で、王族や祭司階級と奴隷、その日暮らしの労働者、貧しい農民の間に深刻な対立があったことなど知らないようだ。一つの宗教で結ばれた理想の共同体が古代イスラエルと誤解している。」
「7節に1世紀のクリスチャンのことが書かれていて、“話す言語も社会的立場も経済的状況も違っていました。それでも,みんな聖書を愛していたので,一つにまとまってエホバを崇拝することができました。”とあります。歴史の捏造です。」
「1世紀に聖書はあるかな?福音書が書かれるのは1世紀の終わりごろだけど、聖典として読まれてはいないよ。パウロの手紙も同じ。それが聖典とされるのはずっと後の話。1世紀のキリスト教は文書宗教じゃない。」
「1世紀のクリスチャンは一つにまとまっていませんよ。」
「様々な原始キリスト教があったね。それぞれの立場を反映した様々な福音書が書かれたけれど、聖典として認められた4つ以外は排除されていく。聖典となった4つの福音書だって、その中身はかなり違う。パウロの教えが主流になったのは、エルサレムが破壊され、クリスチャンが非ユダヤ人中心の宗教になってから。それでもパウロに批判的な人たちはいた。」
「9節に“エホバは聖書の多くの部分を,謙遜な人だけが理解できるようにしました。このことにもエホバの知恵が表れています。(ルカ 10:21を読む。)”とあるのですが、引照聖句はそんなことは言っていません。聖句の誤用です。」
「そこには“まさにこの時,イエスは聖なる力により喜びにあふれて言った。「天地の主である父よ,あなたを大いに賛美します。あなたはこのようなことを賢い知識人たちから注意深く隠し,幼い子供たちに啓示されたからです。”と書かれている。まず“このようなこと”とはなにかだけど、JWは聖書のことと解釈したわけだ。そう解釈するのはJWだけだろう。」
「ここは70人を派遣して、成果を上げて戻ってきた時のイエスの発言です。どうして当時存在しない聖書のことを言っていると解釈するのか理解できません。」
「ルカ10:11で、歓迎してくれない町では“この町で足に付いた土さえも,あなた方に向かって払い落とします。それでも,神の王国が近くに来たことを知っておきなさい。”と言いなさいとイエスは弟子たちに言っている。弟子たちのメッセージは神の王国が近づいていることだとわかる。それで“このようなこと”はそのメッセージを指していると解釈するのが普通だね。」
「“幼い子供たち”のことを“謙遜な人”と解釈していますが、違いますよ。」
「“幼い子供たち”は“賢い知識人”の反対のタイプの人間として使われている。無一文で薄汚いイエスの弟子たちを見てバカにしたり、嫌悪するような偏見を持たず、正しいことを正しいと素直に受け入れる開かれた精神の持ち主のことでしょう。JWとは大違いだね。」
「派遣した弟子の数ですが、JW訳では70人となっています。協会共同訳では72人です。聖書って不一致が多いですね。どっちが正しいのですか?」
「写本によって違う。旧約聖書では70という数字はよく出てくる数字。出エジプト1:5には、“ヤコブの子孫は合計70人だった。”とある。民数記11:16には“イスラエルの長老を70人集めなさい。”とある。サンヘドリンのメンバーも70人。そこで、もともとは72人だったけれど、写本家は70という数字になじんでいたので、うっかり70と誤写したのだろうと考えられる。その逆は考えにくい。」
「創世記10章に出ている民族の数は70人訳では72だそうですね。ルカは全ての民族に弟子たちを派遣したという意味で72という数字にしたという説があるようです。」
「新しい聖書で70としているのはJW訳ぐらいだよ。JWはダメだね。ちゃんと聖書研究しようよ。」
「11と12節が“聖書から分かるエホバの公正”です。 11節に、エホバは公正なので“1つの言語にこだわることはしなかったのです。”と珍説を述べています。聖書の言語と公正さは無関係ですよ。」
「もともとマイナーな言語だったヘブライ語は途中から使われなくなった。イエスだってヘブライ語を使わない。そんな言語で神の言葉を書かせた神様って、将来を全く見通せないダメな神様。」
「12節に“エホバはダニエルを通して,終わりの時に聖書の「真の知識が満ちあふれ[る]」と予告しました。たくさんの人が聖書を理解できるようになるということです。(ダニエル 12:4を読む。)”と珍説をまた披露しています。」
「そこには“ダニエル,終わりの時までこれらの言葉を秘密にしておき,この書を封印しておきなさい。多くの人が巡り歩き,真の知識が満ちあふれます。”とある。“この書”とはダニエル書のことだよ。ダニエル書はバビロニアからペルシャ時代に書かれたことになっているけれど、実際はずっとその後なの。遠い昔ダニエルという人物によって書かれた本という設定を本当らしくするためには、なぜこの書の発見が遅れたのかを説明する必要があり、それがダニエル12:4ということ。」
「ここで言う“終わりの時”は今ではないですよ。」
「“多くの人が巡り歩き,真の知識が満ちあふれます。”はヘンな訳。まるでJWが伝道と称してその辺をうろつきまわるのを予言しているかのようだ。“巡り歩き”と訳されている動詞はゼカリヤ4:10の“エホバの7つの目もそれを見る。その目は地上全体に行き届いている。”では、“行き届いている”と訳されている。」
「ダニエル12:4は書物のことを言っているわけで、その辺をうろつくということではなく、書物のあちらこちらを調べていき、真の知識が満ちるという意味ということですね。」
「協会共同訳では“多くの人々は探求して知識を増やす。”となっている。探求するのはダニエル書だ。」
「13から16節が“聖書から分かるエホバの愛”です。 13節に“ご自分と友になり,今幸せな生活を送り,将来永遠に生きるのに必要なことを含めました。でも,私たちが把握し切れないほど多くの情報を聖書に載せることはしませんでした。”とこれまた奇妙なことを言っています。聖書には現代人から見ればどうでもいいことがたくさん書かれています。例えば家系図です。うんざりするほどありますよ。あれは今幸せな生活を送るのにどう役立つのですか?」
「そんなことよりも医療や農業の知識とか天気を予測する方法を書いてくれた方が、古代イスラエル人の幸せに役立っただろうね。」
「旧約聖書には一夫多妻制、奴隷制、大量虐殺、女性蔑視、同性愛者差別、民族差別を非難する部分はありません。むしろそのようなことを推奨しています。野蛮であまりにも低い道徳性の本です。現代のよい子には勧められません。」
「子どもの人権を守るという思想もない。体罰賛美、暴力賛美のとんでもない本だね。」
「14節に“聖書に細かな規則を載せて,私たちの生活を何もかもコントロールしようとはしていません。”とおかしなことを書いています。聖書にはうんざりするほど細かな規則があって、エホバはコントロールマニアとしか言いようがありません。」
「JWの信者はどうせ聖書なんか読まないから、そういったウソが通用するんだろう。」
「16節に“エホバは罪を犯した人を見放すのではなく,間違いを正せるよう優しく助け,ご自分の元に戻ってくるよう励ましました。”と偏ったことを言っています。そういうこともあったかもしれませんが、エホバは気に入らない人間を殺すのが大好きです。」
「聖書の神は気楽に人を殺すよね。ノアの大洪水では乳児や妊婦とその胎児まで皆殺し。出エジプトの際には、ファラオがイスラエル人を解放しないということでエジプトの全ての初子を殺している。ファラオとは無関係な人なのに。」
「列王二2章で、エリシャの禿げ頭をからかった子ども42人をクマを使って殺しましたね。殺し方も工夫を凝らすのがエホバですね。愛のあるエホバはこの子たちに対して、“間違いを正せるよう優しく助け,ご自分の元に戻ってくるよう励ましました。”とは言えません。」
「民数記15章には安息日に薪を拾い集めた人のことが出ていて、“民全体がその人を宿営の外に連れていって石打ちにし,その人は死んだ。エホバがモーセに命じた通りである。”とある。これは過剰な刑罰で、人命尊重の精神がこれっぽっちもない。この人に対しても“間違いを正せるよう優しく助け,ご自分の元に戻ってくるよう励ましました。”ということはなかったね。」
「最後の17,18節が“聖書という「良い贈り物」を大切にする”です。 JWが引用するのは聖書のごく一部ですよ。JWだって、聖書のほとんどが役に立たない不要なものと思っているはずです。大事なのはJWの出版物で、聖書はその権威付けにすぎません。」
「18節で“聖書という「良い贈り物」を当たり前のものと考えるのではなく,感謝を表すようにしましょう。”とある。この記事も、感謝を押し付けて終わるといういつものパターンだね。」
「感謝を表すために、伝道しましょう、集会に参加しましょう、寄付しましょう、と言わないだけましです。」
#1452 2023年04月14日 14:20:23
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Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“聖書をどのように読んでいますか (7)”で、小学生レベルの信者にJW流の聖書の読み方を教えるという内容です。」
「“何を学ぶか”の所に、“その多くは内容を正しく理解できてはいません。”とある。その代表がJWと多くの人が思っていることには気づいていないのはイタイね。」
「1節に“イエスはたくさんの聖句を引用して教えます。”とありますが、そうとはいえませんよね。」
「イエスの教えは福音書から知るしかないけれど、その中のイエスの教えというものが本当にイエスの教えなのか、それとも福音書の作者の創作なのかはっきりしない。多くはイエスの教えではないと思うよ。」
「ヨハネ3章のイエスとニコデモの話は明らかにヨハネの創作ですね。両者がギリシャ語で会話していないと意味が通じません。」
「ヨハネ3:3でイエスは“再び*生まれなければ,誰も神の王国を見ることはできません。”という。“再び”と訳されているギリシャ語は“上から”という意味があって、イエスは“上から”という意味で使ったのに、ニコデモは“再び”という意味と誤解するという話。」
「それでニコデモは“年を取ってから,どうして生まれることができるでしょうか。母親の腹にもう一度入って生まれてくることなどできません。”と言ったのですね。」
「その後、イエスは霊的に生まれることを言っているのだと解説する。これはアラム語の会話では成立しない。ギリシャ語を話すヨハネの創作。」
「JW訳が“再び”と訳しているのは誤訳ですね。」
「ニコデモと同じ誤解をしているということ。注には“もしかすると,「上から」。”とあるから“再び”ではおかしいということには気づいているのだろう。JW訳には無数の誤訳があるね。」
「それに対してマタイ23:24の“目が見えない案内人たち,あなた方は,ブヨを取り除きながらラクダをのみ込んでいます!”はイエスの言葉とされるのはなぜですか?」
「イエスはアラム語を話していた。アラム語ではブヨはカルマで、ラクダはガルマ。似た言葉なわけ。マタイ23:24はアラム語の場合だけ韻を踏んだ掛詞になる。イエスは駄じゃれを言ったわけだね。福音書の作者はギリシャ語を使うので、このようなことを創作したとは考えられないので、イエスの教えとみなすわけだ。」
「2節に、”幼い時には,家族の会話の中でヨセフやマリアが聖書のことを話すのを聞いていたはずです。(申 6:6,7)また,安息日には家族と一緒に会堂に通っていたことでしょう。“とありますが、単なる推測です。イエスが住んでいたというナザレにその当時会堂のようなものはありましたか?」
「1世紀のそのようなものは発見されていない。」
「2節に“律法に詳しかった教師たちも,12歳のイエスと神殿で話した時,「[イエス]の理解力と答えにとても驚」きました。(ルカ 2:46,47,52)”とルカにある話を取り上げていますが、この話には史実性はないですよ。偉い人は子どもの時も偉かったというよくある創作話ですよ。」
「イエスの誕生の話も史実性はない。イエスは30歳くらいまで何をしていたかは全くわからない。仏教では釈迦は摩耶夫人の右脇から生まれたとされ、その直後に七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と言ったことになっているけれど、誰も史実とは思わないのと同じ。」
「4から8節が“読んだ内容を理解する”です。 4節にルカ10章の話が出ていて、“でもイエスに「私の隣人とはいったい誰でしょうか」と聞きました。この人は聖書の言葉を知っていましたが,その意味を十分に理解してはいなかったということです。”とあるのですが、違いますよ。」
「ルカ10:25に“さて,律法に通じた男性が立ち上がり,イエスを試そうとして言った。”とあるよ。この男は答えを知っていたということ。模範解答を聞いた後イエスは、“その通りです。それを行い続けなさい。そうすれば命を得ます。”と答える。」
「つまり、わかっているなら、実行しなさい、と言ったわけですね。」
「ルカ10:29で“しかしその男性は,自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「私の隣人とはいったい誰でしょうか」。”とある。実行するよう求められた男は言葉だけの人で隣人愛を本気で実行などしていない。そんな自分を正当化するために、それでは隣人とは?と質問したということ。知らないから質問したわけじゃない。」
「5節に“まず,読む前にエホバに祈ります。集中して読み,内容を理解できるよう,聖なる力を求めることができます。”とあります。この記事を書いている執筆者はそれを実行しているのでしょうが、あまり意味がないことがわかりますね。」
「そして“読み終わったならエホバにもう一度祈ります。聖書を与えてくださったことへの感謝を伝え,学んだことを実践できるように助けてください,とお願いすることができます。”だって。聖書を読むことは宗教儀式なわけだ。こうして余計な規則を作り、信者をコントロールしていく。」
「6節には“自分に問い掛けながら読む”、“メモを取りながら読む”とアドバイスしています。」
「JW訳以外のまともな訳と比較しながら読みましょうというアドバイスはないよね。」
「7節に“イエスは,聖書を理解するためには識別力が必要だと教えました。(マタイ 24:15を読む。)”とあり、その聖句には“聖なる場所に立っているのを見掛けるなら(読者は識別力を働かせなさい)”とあります。この聖句は“聖書を理解するためには識別力が必要だ”なんて言っていませんし、識別力という訳はへんですよ。」
「識別力なんて解釈入れすぎの訳。元のギリシャ語は理解するとか、わかるという意味。マタイ16:9に“まだ要点が分からないのですか。”とあるけれど、同じギリシャ語だよ。なぜ、まだ要点が識別できないのですかと訳さないの?」
「識別力と勝手に訳して、7節で“識別力とは,2つの考えの関連や違いを把握する能力のことです。”と解説しています。滑稽ですね。」
「協会共同訳では“読者は悟れ”となっているよ。この記事の読者もJWのおかしさを悟ってほしいね。」
「9から11節が“宝のような真理を見つける”です。 9節に“それに対してイエスはこう言いました。「モーセが書いたいばらの木に関する記述の中で,神がモーセに『私はアブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である』と言ったのを読まなかったのですか」。(マル 12:18,26)サドカイ派の人たちはこの聖句を何度も読んでいたはずですが,亡くなった人が復活するという大切な真理を受け入れていなかったのです。”とあります。イエスが引用した聖句は復活の存在を示すものですか?」
「“私はアブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である。”という聖句から、復活があることを示していると読み取るのは1000回読んでも無理だね。」
「復活があるという結論を先取りし、その根拠となる聖句を探したら、明確なものはサドカイ派が重視するモーセの5書にはないので、この聖句を無理やり深読みして復活の根拠とした、という感じです。」
「サドカイ派は納得しないよ。史実だとしたら、こいつ何くだらないことを言っているんだ、と思ったんじゃないかな。」
「ものみの塔2013年2月号の“この方は……生きている者の神なのです”によると、“そうです,エホバは,ご自分のすでに死んだ忠実な僕たちを復活させるという目的の成就が全く確かなので,その者たちを生きているかのように考えておられるのです。”と説明していますが、単なるこじつけですね。」
「その記事の中に“それでもエホバは,『わたしは彼らの神であった』とは言わず,「神である」と言われました。それら亡くなっていた族長3人のことを,まだ生きているかのように話されたのです。”とあるけれど、これは完全な間違い。ヘブライ語でもギリシャ語もこの聖句に動詞はないの。」
「直訳すると、“私、アブラハムの神、そしてイサクの神、そしてヤコブの神”ですね。“~の神である(あるいは、あった)”などとは言っていないわけです。」
「JWの執筆者も時には聖書の原文を見たほうがいいよ。そうしたらもっとましなことを書けるようになるかも。」
「11節に“テモテ第二3章16,17節によると,「聖書全体」は,(1)教え,(2)戒め,(3)矯正し,(4)指導するのに「役立ちます」。(読む。)”とあります。ここで言う聖書って、旧約聖書のことですよ。新約聖書ができるのはずっと後の時代です。」
「テモテの手紙を書いた偽パウロも自分の書いた偽名文書が聖書に含まれるようになるとは夢にも思っていなかっただろうね。」
「12から14節が“学んだことに合わせて自分を変える”です。 12節に“イエスは,聖書を間違った態度で読んでいたパリサイ派の人たちに,「読んだことがないのですか」と言いました。(マタ 12:1-7)この時彼らは,イエスの弟子たちが安息日を守っていないと批判しました。それに対してイエスは,聖書中の2つの出来事とホセアの聖句に触れ,パリサイ派の人たちが安息日の意味を理解しておらず,憐れみに欠けていることを指摘しました。”とありますが、これはイエスというよりマタイの創作ですよ。ここでのイエスはちょっとましなパリサイ派にしか見えません。」
「オリジナルはマルコ2:23-28だね。同じ話が出ている。こちらがイエスの教えだと思うよ。マタイはそれに納得できなかったので、自分の考えを入れて話を変えた。まずマルコでは弟子たちは空腹とは書かれていないのに、マタイは空腹と付け加えて、弟子たちの行為を正当化しようとしている。」
「マルコでは弟子たちはたまたま穀物畑を通ったので、むしって食べたというだけですね。」
「マルコでは“人のために安息日が設けられたのであり,安息日のために人が存在するようになったのではありません。人の子は安息日の主でもあるのです。”とイエスらしいインパクトのあるセリフで終わる。」
「これは人間が主であって、律法は人間の役に立つためにあるのだから、不必要に人間を拘束してはいけないという意味ですね。」
「しかし、律法順守主義のマタイはこれに納得できなかったので、この部分を削除して、代わりにホセア書からの引用を付け加えた。」
「マルコのイエスは、律法なんかたいして重要なものじゃないだろうと居直っているのに対し、マタイのイエスは、律法の絶対性を前提に、空腹だからとか、祭司がどうのこうのと律法の再解釈によってパリサイ派の批判にこたえる律法学者ですね。」
「そういうわけで、これはイエスの教えじゃなくてマタイの教え。」
「マタイのイエスは5:18,19で“はっきり言いますが,律法から最も小さな文字1つや文字の1画が消え去るよりも,天地が消え去る方がまだ早いでしょう。記されたことは全て起きるのです。ですから,小さなおきての1つを破り,そうするよう教える人は,天の王国にふさわしくない者と呼ばれます。”と、律法順守の重要性を言っています。これもマタイの思想ですね。」
「そんなマタイなので“人のために安息日が設けられたのであり,安息日のために人が存在するようになったのではありません。”というマルコのイエスのセリフはカットした。それを認めたら律法の絶対性が揺らいでしまう。」
「12節で、パリサイ派がダメなのは“謙遜ではなく,ほかの人を批判するような態度で読んでいたからです。それで,聖書を本当の意味で理解することができていませんでした。”とありますが、そんなことはないでしょう。」
「翻訳に問題があるね。英文ではBecause they read it with a critical and proud spirit.で、“批判的でおごり高ぶった精神で読んでいたからです。”という意味。 もともとCriticalは他の人を批判するという意味ではない。」
「つまり、何事もうのみにせず、その根拠や論理性を吟味し、その確からしさを検討しながら読むということですね。」
「Criticalは批判的と訳されるけれど、いろいろな角度から検討する、その根拠を問うてみる、別な考えをぶつけてみるという意味合い。しかし、盲目的服従を信者に強要するJWのようなカルト宗教にはそれが理解できないし、許せない。」
「13節に“聖書の「言葉を温和に受け入れ,それが心に植え付けられるようにしてください」。(ヤコ 1:21)”とありますが、“温和に受け入れ”は意味がよく分かりません。これは直訳ですよね。」
「直訳だね。余計な意味を付け加えて翻訳するのが大好きなJW訳が直訳している場合、翻訳者は意味が分からなかったということだね。協会共同訳では“謙虚に受け入れ”となっている。JWは謙遜は好きだけど、謙虚は嫌いなようだ。」
「14節に“パリサイ派の人たちは聖書の言葉が心に達していなかったので,「罪のない人を断罪し」ていました。(マタ 12:7)”とあります。現代のパリサイ派がJWと言われていることに気づいていないのが非常にイタイですね。」
「聖書に書いていない規則を作り、それを守らないと排斥したり、受けられる医療に制限を設けて、助かるはずの人を死なせているのはどこの宗教だったかな?」
「14節が強調しているのは“誰かが間違いをした時,進んで許すでしょうか。それとも,根に持ったり厳しく責めたりするでしょうか。”で、いつものように被害者泣き寝入り、加害者高笑いの勧めです。」
「JWはアメリカでは刑務所での伝道に力を入れているようだけど、加害者にやさしい宗教ということで、刑務所の囚人には人気があるのかもね。」
「最後の15,16節が“聖書を読んで幸せを味わう”です。 15節に“イエスは聖書を愛していました。そのことは,詩編 40編8節でこう預言されていました。「私の神,あなたの望まれることを喜んで行います。あなたの律法は私の奥深くにあります」。”とありますが、ここに出てくるのは律法です。聖書とは違います。イエスについての預言でもありません。」
「細かいことを気にしないのがJW流の聖書の読み方ということだね。」
「詩編40:8がイエスの預言としているのは、ヘブライ10:5-7からですよね。そこでは“私は来ました。巻物に私について書いてある通り,神よ,あなたの望まれることを行うためにです。”と詩編40:8のギリシャ語訳の70人訳を引用しています。」
「新約聖書の作者はヘブライ語を知らないから、ギリシャ語訳から引用するのだけれど、これが現在の旧約聖書とかなり違うんだよね。」
「新約聖書の作者が読んでいた旧約聖書と現代人が読む旧約聖書は中身が違いますね。どちらがオリジナルなんですか?」
「複数のバージョンがあったということ。旧約聖書は一つではなく、細部の異なる様々なものがあった。そのうちの一つがたまたま現代まで伝わった。それが旧約聖書と呼ばれるもの。その現在まで伝わったものも意味不明の箇所がかなりあり、その場合は70人訳の本文を利用して復元している。神の言葉とは思えない情けない状況だね。」
「15節で“私たちも聖書を心から愛するようになるなら,幸せを味わいつつエホバに仕えていくことができます。(詩 1:1-3)”とあるけれど、根拠がないね。引照聖句は律法のことを言っているだけ。律法など無視しているのがJWなのだから、こんな聖句は過去のもののはず。」
「それでもJWは幸福な民だというフィクションでこの記事を終わりたいという執筆者の意図はわかります。」
#1453 2023年04月21日 14:19:41
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Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“頭がさえた状態を保ち,油断なく見張ってください (8)”で、JWとして正しい見方や時間の使い方を学ぶという内容です。」
「信者の管理統制強化を目的とした記事だね。またポルノはダメだ、JW以外の人と付き合うなという記事だね。頭がさえた人はJWは続けられないよ。」
「3節で“今私たちは,邪悪な世界が終わろうとしている時代に生きています。それで頭がさえた状態を保ち,油断なく見張っている必要があります。”とあります。これが要点です。この3節で終わりでいいんじゃないですか?」
「頭がさえた状態で、油断なく見張るという要点に、JW流のひねりが加わり、どんな展開になるのかだけが興味深いね。」
「4から6節が“世界の出来事を見張りつつ,バランスの取れた見方を保つ”です。 JWのいうバランスの取れた見方というのは実は恐ろしいほど偏った見方のことですよ。まず5節では“聖書の預言について話題にする時には,臆測で話さないようにしましょう。会衆の一致を乱さないためです。”とあります。これは無理ですね。憶測であれやこれやとうわさ話をするのがJWですよ。」
「憶測で適当なことを言っても許されるのは統治体だけのようだ。終わりの時の終わりの終わりと統治体の誰かが言っていたよ。これって単なる憶測でしょう。」
「具体例がヘンですね。“例えば,政治指導者たちが紛争の解決や平和と安全の実現について語るかもしれません。それを聞いて,これはテサロニケ第一 5章3節の実現だ、と決め付けてしまわないようにしましょう。”とあります。今はそんな世界情勢じゃないですよ。」
「完全にずれている。執筆者は普通の人とは違う別の世界に住んでいるようだね。」
「6節に“ペテロ第二3:11-13を読む。”とあり、そこには“その日に天は燃えて滅び,さまざまな要素は極度の熱で溶けます。”とあります。ということは、地球は核戦争の後のようになるということですか?」
「ペテロ二の作者はそう思っているんじゃないの。でも、その部分の前の3:8で“エホバにとって1日は1000年のようであり,1000年は1日のようです。”といっているから、終わりの日は何千年も先と言っているのと同じ。」
「ペテロ一4:7には“全てのものの終わりが近づいています。ですから,健全な考え方をしましょう。”とあります。終わりが切迫しているといっています。ペテロ一の作者とペテロ二の作者は終末観が違いますね。」
「そういうわけで、ペテロ一と二の作者は違うと普通は考えられている。もちろん両方ともペテロではない。」
「ペテロ二は終わりの日が来ないことに不満が出ているという時代のものです。ということは2世紀ごろに書かれたと見ていいわけですね。ペテロ二3:2で“聖なる預言者たちによって以前に語られた言葉と,救い主である主から使徒たちを通して与えられたおきてを,忘れてほしくないからです。”と、使徒たちの時代は忘れ去れるほど遠い過去と著者が言っています。」
「一応著者はペテロのふりをしているんだけどね。でもペテロ二3:16に“パウロはどの手紙の中でもこれらのことについて述べていますが,中には理解しにくい箇所もあります。”とある。これはパウロの書簡集が存在することを前提とした文。パウロの手紙が集められて書簡集として流布するようになるのは2世紀の半ば。ペテロ二もその時代に書かれた偽名文書だろう。」
「引照聖句に“エホバの日が来るのを待ち望み,それについていつも考えましょう。”とありますが、誤訳じゃないですか?」
「“いつも考える”というのはあり得ないね。同じ単語がルカ19:6に使われているけれど、“ザアカイは急いで下り,喜んでイエスを客として迎えた。”と訳されている。JW訳なのに、ここでは“急ぐ”と正しく訳しているよ。」
「協会共同訳では“神の日の来るのを待ち望み、それが来るのを早めなさい。”となっていますが、こちらの方が正しいということですね。」
「この聖句はJWにとって不都合だ。JWは聖書の中に散らばっている数字を適当に足したり掛けたりすることによって終わりの日が計算できるという暗号解読的な聖書理解をしている。それなのに終わりの日が早めることができることをこの聖句は言っているので、とうていJWとしては受け入れられない。それで意図的に誤訳した。改ざん聖書ならではだね。」
「早めることができるなら、遅らせることもできることになりますよね。JWというおかしな宗教のせいで遅れているんじゃないですか?」
「ユダヤ人の思想に人間の罪ゆえにメシアが現れるのが遅れているというものがあった。ペテロ二の作者にはそれが念頭にあると思う。なぜ終わりの日が来ないのか?それは信者に問題があるからですよ、と言いたいようだ。それで3:14で“それで,愛する皆さん,これらのものを待ち望んでいるのですから,最終的に汚点も傷もない平和な人と神に認めていただけるよう,最善を尽くしてください。”という結論になる。」
「7から11節が“自分に注意を払う”です。 この記事の中心でしょうか。7節に“イエスは弟子たちに,世界の出来事だけでなく,自分にも注意を払うようにと教えました。そのことはルカ 21章34節から分かります。(読む。)”とあります。その聖句は“とはいえ,食べ過ぎや飲み過ぎや生活上の心配事で心が圧迫されないよう注意していなさい。”とあるのですが、訳がへんですよ。協会共同訳では“二日酔いや泥酔や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。”です。」
「“食べ過ぎ”は誤訳。これはJWの肥満した統治体向けかも。古代人で食べ過ぎを心配しなければならない人は王侯貴族のような特権階級だけ。普通の人ならお腹いっぱい食べられるのは年に数回程度じゃないかな。JW訳は誤訳だらけで、読んでいてイライラする。」
「10節に“どんな危険に注意する必要があるでしょうか。異性に対するなれなれしい態度,食べ過ぎや飲み過ぎ,人を傷つけるような話し方,暴力的なテレビや映画,ポルノなどです。”とあります。普通の信者はこんなことよりも、貧乏のあまり栄養不足になる危険に注意した方がいいと思いますよ。」
「欧米では食料品や家賃がかなり高騰しているようだ。低収入のJWは食べ過ぎに注意なんかしていないよ。」
「“異性に対するなれなれしい態度”と訳されている英語はflirtingですが、この訳でいいのですか?」
「ここは注意すべきことを列挙している部分だから、性的誘惑とでも訳すべきじゃないの。翻訳者は女性とは自然に会話できない緊張型の男で、女性と気安く会話できる男が憎くてたまらないのかも。」
「11節には、またもや小学生レベルの注意事項が出てきます。” 気付きにくい危険の1つは悪い交友です。”とあります。JWはJWしか付き合ってはいけないのです。」
「そこには“時々ランチに誘われ,一緒に食べるようになります。その回数が次第に増えていきます。話していると下品な話題になることもあり,初めは聞かないようにしていましたが,だんだんと気に留めなくなっていきます。そのうちに飲みに誘われ,一緒に行くことにします。過ごす時間が増えるにつれて,考え方も似ていきます。”とある。説得力ないね。詭弁だね。」
「“滑りやすい坂”という詭弁ですね。滑りやすい坂に一歩でも踏み出すと、必ず一番下まで滑り落ちてしまうから、一歩でも踏み出すことはダメだ、という論理ですね。」
「一度食事したり、一度飲みに行くと、その相手の考えに似てくる?そんなことないよ。居酒屋にいる人たちはみな同じ考えの持ち主なのか?変な宗教の信者以外、自分の考えを他人に押し付けたりしないよ。」
「要するに信者を周囲から隔離して、自分たちのコントロール下に置きたいだけですね。」
「カルト宗教らしいね。誰と話すか、誰と一緒に食事をするか、そんなことまであれこれ指図する。」
「12から16節が“時間を有効に使う”です。 伝道活動を熱心にやれということです。JWの伝道活動こそ時間の無駄の典型です。」
「伝道しているJWやカートの側にボーと立っているJWを見て、多くの人はよっぽどの暇人か、おかしな宗教のせいで人生を空費している人と思っているよ。」
「12節に“イエスの弟子たちは,体制の終わりが来るまで何もしないで待っていればよい,というわけではありませんでした。イエスから,良い知らせを「エルサレムで,ユダヤとサマリアの全土で,また地上の最も遠い所にまで」伝えるようにと言われていたからです。(使徒 1:6-8)”とあるけれど、引照聖句をみると、イエスから良い知らせを伝えるように言われたのは“使徒たち”で“弟子たち”ではないよ。」
「特別に選ばれた人たち向けの指示で、平信徒に向けて言っていないということですね。それなのに、この記事では平信徒に伝道はイエスの指示と思わせるために、“弟子たち”とすり替えているわけですね。詐欺的ですね。」
「全ての弟子が遠いところまで伝道活動なんかできないし、していないよ。パウロのような少数の特別な人の働きでキリスト教は広まった。統治体が率先して世界伝道旅行に繰り出せばいいんじゃないの?」
「引照聖句ではイエスは“私の証人になります。”といっていますが、JWはエホバなるインチキネームの神様の証人に過ぎません。」
「エホバの証人という名称はすっかりブラックなイメージになっているので、旧統一教会を真似して、ここらで名称変更するのもありうるよね。世界統一幸福教というのはどうかな?」
「14,15節の質問は” どうすれば時間を有効に使えますか。”です。答えは15節にある” 聖書の真理を伝えたり教えたりする活動を一生懸命に行います。この体制の終わりが来るまでずっと見張っているようにします。”なのです。それ以外は時間を無駄に使っていると非難されるわけですね。厳しすぎます。」
「14節に、一生懸命やれば“たとえ終わりの前に命を失うとしても,やり残したことがあると感じることはないでしょう。”とあるのは気になるね。高齢JWは終わりの日を迎えることなく、インチキ終末論宗教に一生をささげた愚か者として死亡する可能性が高いと言っているようなものだ。」
「そこまでは言っていないと思いますよ。」
「組織としては、役立たずの高齢JWは静かにお引き取り願おうといことなのだろう。」
「最後の16節で、“エホバは,サタンの世界を終わらせる日と時刻をすでに決めています。”と言っていますが、その根拠は示されていません。」
「旧約聖書には、神様が一度決めたことを変えたことがあるよ。自分の決定を後悔したりすることもあった。それなのになぜ、“すでに決めています”なんて断言できるのかな?」
「決めていないと、JWが困るのですよ。」
「どうせ根拠のない推論をするなら、人類滅亡を夢想するより、愛ある神なので、人類の99.9%を殺すようなことはとっくの昔に止めたと推論したらいいのに。」
「16節で” 私たちは終わりがなかなか来ないと感じることがあるかもしれません。でもエホバは,「遅くなることはない」と約束しています。(ハバ 2:3)”と強弁しています。遅くなることはないどころか、とっくに遅れていますよ。」
「ほとんどのJWは木が1本だけ立ついなか道で来るはずのバスを無意味なおしゃべりをしながら何十年も待ち続けているような状態だね。」
「JWの人生は不条理劇そのものですね。」
#1454 2023年04月28日 14:25:31
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Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“命という贈り物を大切にする(9)”で、命は大事だけれど、輸血をするな、永続的委任状を持て、というカルト宗教らしい内容です。」
「今週はJWらしい記事で、おもしろいかも。」
「2節に“私たちができる限りのことをして健康を守るようにと願っています。(コリント第二7:1を読む。)”とあるのですが、引照聖句は健康のことを言っていますか?」
「そこには“体と精神のあらゆる汚れを除き去って自分を清め”とあるけれど、これはよくお風呂に入れとか、体をきれいに洗えということじゃなくて、宗教的な汚れを取り除けということ。健康問題とは直接関係ない。執筆者はそんなこともわからないのかな?」
「ここで想定される汚れは、コリントの人たちが偶像に捧げられた肉を食べているとか、異教の儀式に参加していることですよ。」
「コリント一10:14に“ですから,愛する皆さん,偶像崇拝から逃げ去ってください。”とあるし、コリント一10:20には“異国の人々が犠牲として捧げる物は神にではなく邪悪な天使たちに捧げているということです。皆さんには,邪悪な天使と分け合ってほしくありません。”とある。こういうことをコリントの信者の問題としてパウロは認識していた。」
「3から5節が“命を大切にする”です。 ここはタテマエの部分で、命を大事に、健康を大事に、と言っています。4節で、詩編30:9を引用した後、“ダビデはできるだけ元気に長生きしてエホバを賛美したいと思っていました。”とありますが、そんなことを言っている詩ですか?」
「30:10で“聞いてください,エホバ,恵みを与えてください。エホバ,私を助けてください。”とあるよ。この詩の作者は絶望的な状況にあって、助けてくれと叫んでいる。30:11で“あなたは私の嘆きを踊りに変えてくださった。私の粗布を取り去り,喜びを着せてくださった。”と感謝の言葉に代わる。元気で長生きは出てこない。」
「この詩は“家を奉献する時の歌。ダビデによる。”と表題があるのですが、そういう内容の詩ではないですね。家というのは神殿のことですよね。」
「ダビデは神殿を奉納していないから、ダビデの詩ではないね。詩の表題は後の人が付けたもので、それを真に受けているJWはおかしいね。」
「6,7節が“健康に良くない習慣を避ける”です。 6節に“聖書は健康や食事の専門書ではありません。”とあります。そうですが聖書は神から人類へのかけがえのない貴重な贈り物というのがJWの立場ですよ。それなら聖書はもう少し健康に役立つことを教えてくれてもいいはずですよ。」
「民数記13章は皮膚病について扱っている。重い皮膚病患者に対する全知全能の神様の指示は“自分の衣服を裂き,頭を整えずにいるべきである。そして,口ひげを覆って,『汚れている,汚れている!』と叫ぶべきである その人はその病気の間ずっと汚れている。それで,ほかの人から離れて生活すべきであり,宿営の外に住む。(13:45,46)”というもの。単なる隔離政策。治療法の一つぐらい教えてあげるくらいの親切心はないのかな?」
「皮膚病に効く温泉がありますよね。イスラエルには温泉はないのですか?」
「死海の湖畔にエン・ゲジ温泉センターがあるよ。温泉は硫黄泉で、主に関節炎、皮膚疾患、呼吸器疾患に有効であるとされている。ガリラヤ湖畔にも温泉はある。こちらには古代ローマの遺跡があるよ。」
「聖書に温泉は出てきませんよね?温泉を勧めるだけでも、古代イスラエル人の健康に役立ったはずです。」
「温泉は出てこないね。聖書の作者は温泉の効能を知らないということ。ローマ人は知っていた。聖書は健康には役立たないね。」
「6節に“また,食べ過ぎや飲み過ぎを避けるようにとも教えています。(格 23:20)”とあるのですが、それは健康のためとは言っていませんよ。」
「格言23:21に“酔っぱらいや大食いは貧しくなり,居眠りしてぼろ切れをまとうことになる。”と説明している。それは貧乏になるからやめろと言っている。旧約聖書に健康という言葉は出てこないよ。」
「8,9節が“安全に気を配る”です。 8節に“律法によれば,胎児を傷つけてしまった場合でさえ罰せられることになっていました。(出 21:22,23)”とあるのですが、胎児を傷つけたら罰せられるのは当然ですよ。へんなこと書いていますね。」
「これは日本語訳の問題だね。The Law required that even those who unintentionally harmed an unborn child be punished.なので、意図せず胎児を傷つけてしまった場合でさえ罰せられるという意味。翻訳者は胎児の命を軽く見ているのか?」
「律法には行為者の意図を考慮して罰を決めるという発想はないですよ。」
「基本は目には目を歯には歯を。つまり同害報復の原則。これは古代の中東の法と同じで、何ら進んだ思想はない。」
「10から12節が“危険な状況が生じる時”です。 10節に“政府から出される外出規制や避難指示に従うなら,身の安全を守り,命を失うリスクを減らすことができます。(ロマ 13:1,5-7)”とサタンの政府の指示を信頼するように言っています。これって、おかしくないですか?」
「11節に“感染症が流行している時はどんなことができるでしょうか。政府からの指示に従いましょう。”とあるけれど、今回の新型コロナウイルス問題で、信頼できるのは政府からの指示だ、と感染症が怖くて仕方がなかった統治体の老人はつくづく思ったんでしょう。」
「新型コロナウイルス問題では様々なデマが飛びかいましたからね。政府の指示に従って統治体の老人は率先してワクチンを打ったのでしょう。それで太り過ぎで持病持ちの高齢者なのに統治体からは死者が一人もいない。祈ったってダメだ、とわかったと思います。」
「統治体の老人の命がかかっている場合は、サタンの政府から信頼できる政府に評価が180度変わるわけですね。」
「サタンのせいとかサタンが付いているなどというのは、単にJWにとって不都合なことに対するラベルにすぎないね。本気でサタンのせいだと思っているのはだまされやすい末端の信者だけ。」
「13から16節が“医療上の緊急事態に備える”です。 やっと本論に入りました。13節で“エホバの証人は血を神聖なものと考えているので,エホバの命令に従って血を避けます。医療上の緊急事態であっても,輸血を受け入れることはしません。”と高らかに宣言しています。」
「これを読んでJWをやめる人が現れることを期待するね。」
「14節で“この記事で考えた健康についてのアドバイスを実践するなら,大きな手術が必要になる可能性を下げられます。”とあります。要するに健康であれば輸血を避けられるので健康を保てということのようです。奇妙な論理です。」
「組織が末端の信者の健康を心配するはずがないからね。輸血問題で批判されるのが嫌なだけだね。」
「15節に“私たちは命という贈り物を大切にしているので,永続的委任状 を作成していつも携帯するようにします。”とありますが、理解できません。要するに輸血拒否しますという意思表明書ですよ。命を大切にしているので、組織の言いなりになって死を選ぶというわけですか?」
「JWのサイトには“継続的委任状記入のための指示”というのがあるね。永続的委任状のことなんだろうけれど、重要な書類なのに用語がいい加減でいいのかな。」
「母親がJWである弁護士のブログに継続的委任状のことが出ていて、“そもそも論として「継続的」委任状というのは,委任状として成り立つのでしょうか? 一般的に,印鑑証明書の有効期限は3か月程度ですし,委任を受けるプロの弁護士でも3か月以上前の日付の委任状を裁判所に提出すれば,新しい日付の委任状の取り直しを裁判所に指示されます。”とあります。」
「大丈夫かな?弁護士のくせに誤解しているね。永続的委任状はa durable power of attorneyの翻訳だけど、アメリカの法律ではdurableというのは、本人が意識を失うなど無能力状態になっても効力が続く委任状という意味。non-durableは本人が無能力状態になったら効力を失うという意味。」
「そもそも病院に提示する永続的委任状は行政文書ではないので、厳密な有効期間はないと思います。」
「病院としては患者の意思を推定できる文書なら、日付が古くても尊重する。ブログを書いた弁護士は医療分野に詳しくないね。心配だな。」
「15節に“このようにして自分の意思を書面にしておけば,ふさわしい治療をできるだけ早く受けられるでしょう。”とありますが、そんなことないですよ。無輸血手術を要求するのは勝手ですが、病院の側に相当な負担をかけますし、しかも無輸血手術を受ける権利というものはありません。ほとんどの病院は断ります。」
「これは翻訳がおかしい。Clearly expressing our wishes in writing will help to avoid causing unnecessary delays in our treatment.なので、意思を書面にしておけば、不必要な処置の遅れを避けるのに役立つでしょうと言っているだけ。“ふさわしい治療をできるだけ早く受けられる”などネツゾウだ。」
「日本の信者に委任状を書かせるために、ネツゾウしたんじゃないですか。」
「15節の上の写真の説明に“命という贈り物を大切にしているので,永続的委任状を作成し,いつも携帯する。”とある。いつも携帯しないといけないみたいです。」
「そんなものを持っているとろくなことはない。携帯はやめよう。」
「16節に“長老たちは書き方をよく知っていて,医療に関してどんな選択肢があるかや,自分の意思を伝えるためにどんな情報を含めたらよいかを教えてくれるでしょう。”とあるけれど、ウソだね。」
「長老はJWの教義さえあやふやで、ましてや医療に関してなど無知そのものです。」
「長老が信者に望むのは潔く輸血拒否して死んでくれ、ということでしょう。そんな人に相談するのは最悪だ。」
「最後の17,18節が“分別をわきまえる”です。 17節で“兄弟姉妹が自分とは違う決定をするとしても,愛の気持ちからその決定を尊重します。”とあります。輸血を受け入れるという決断をしてもいじめるなということですか?」
「それは個人の決定というタテマエだから、他人が口出すのはおかしいということになる。あくまでタテマエ。それからJWでも輸血を受け入れたケースはけっこうあるということだろうね。」
「18節の質問は“命という贈り物への感謝をどのように表せますか。”です。答えは“命という贈り物を大切にし,エホバに力いっぱい仕えるなら,エホバへの感謝を表せます。”です。“力いっぱい”というのがイヤらしいですね。」
「今週も、感謝を強要されておしまいということね。」
「“間もなく苦しみの原因を全てなくして,私たちがいつまでも生きられるようにしてくれます。”と久しぶりに“間もなく”が登場です。」
「老いた執筆者は決まり文句を無意味に繰り返すことでしか、必要な字数を埋められないということだね。」
#1455 2023年05月05日 14:16:16
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Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“バプテスマを受けるのはどうして?(10)”で、先延ばしせず、早くバプテスマを受けてJWの一員になりなさい、という内容です。」
「先延ばしにしている人はまるで邪悪な人間という印象を与えるように書かれているのがJWらしいね。」
「イエスは30歳でバプテスマを受けたのですよ。不完全な人間はそれ以前に受けるべきではありませんよ。」
「霊的成長をじっくり待って、完全な準備ができたと確信できるまで、バプテスマはすべきではないと、真の宗教なら言うよ。JWはその真逆だね。」
「とにかく早くバプテスマを受けさせようとするのは、会員数を増やすことしか頭にないねずみ講的宗教ということですよ。」
「イエスに見倣ってください、はJWの重要な教えのはず。若い人がバプテスマを受けるよう圧力を受けたら、イエスを見倣いたいのでまだ待ちますと言うと許してくれるのかな?」
「”何を学ぶか”の所に” バプテスマを受けたいと思う動機は愛です。”と断定しています。これがJWのタテマエで、模範解答のようですね。」
「それなら、バプテスマを受けるよう圧力をかけられたら、まだ愛が足りないので、バプテスマは先延ばしします、と言おう。」
「2節に“あなたもバプテスマを受けたいと思っていますか。もしそうなら,「エホバに導きを求める」あなたは,今の悪い世の中で光り輝く存在です。(詩 14:1,2)”とあるのですが、引照聖句がへんですね。」
「詩編14は、人間は全て腐敗している、この世界はダメだという嘆きの詩だよ。詩編14:3に“善いことを行う人は誰もいない。一人もいない。”と言っている。バプテスマを受けたら光り輝く存在です、という思想とは真逆の詩。」
「3から5節が“真実で正しいことを愛している”です。 バプテスマを受ける理由その①ですが、真実というのはJWの真実のことですね。例えば、エルサレムの破壊は前607年で、イエスの言った“世代”は重なる世代のことだというのがJWの真実で、それを愛するわけです。」
「本物の“真実で正しいこと”を愛するなら、JWのバプテスマを受けられないよ。」
「3節には“うそは,この世界を支配しているサタンの特徴です。”と断言していますが、自称・真の宗教であるJWもウソは多いです。サタンの支配下ということですか?」
「JWのウソは善意の、不完全さゆえの、時間が経てば正される、当然許されるべきウソで、JW以外のウソはサタンの支配下であることから生じる絶対許されないウソ。これがJWの主張だね。信者も理解できないね。」
「3節で、サタンは“エデンで人間を唆して以来,エホバについてのうそをずっと広めてきました。エホバのことを,うそつきで人間に良いものを与えてくれない利己的な神だ,と言っています。(創 3:1,4,5)”とありますが、これはウソですね。」
「創世3:1には“エホバ神が造った野生動物の中で蛇が最も用心深かった。蛇が女に言った。”とある。サタンなど出てこない。このヘビはサタンが操っているという解釈は後の時代の後知恵的解釈。旧約ではサタンは悪魔の王ではないよ。」
「ヘビは神のことを“うそつきで人間に良いものを与えてくれない利己的な神だ”などと言っていません。それはJWのうそです。」
「神様は、創世2:17で“善悪の知識の木の実は,食べてはならない。それを食べた日にあなたは必ず死ぬからである。”といっているのに、アダムとエバはその日のうちに死ななかった。最初にウソをついたのはサタンではなく神様だね。」
「それなのにサタンが嘘つきとされて気の毒です。蛇は“あなたたちは決して死にません。”と言いました。これは結果的にウソとなりましたが、この時点ではウソではないですよ。」
「この後、神様は創世3:22で“人が命の木からも実を取って食べて永遠に生きるということのないために”といって、アダムたちをエデンから追放し、ケルブたちと回転する炎の剣で命の木を守らせる。神様がこんなことをしなければ、アダムたちは命の木の実を好きなだけ食べて永遠に生きられたというのが創世記の含意するところ。」
「4節に“エホバは「真理の神」です。(詩 31:5)ご自分を愛する人たちに真理を惜しみなく教えてくれています。”とありますが、引照聖句の誤用つまりウソですよ。」
「詩編31:5には“真理の神エホバ”とあるけれど、元の英文は“O Jehovah, the God of truth”で、“おー、エホバ、真の神よ”という意味。the God of truthは真理を教えてくれる神という意味ではなく、ニセモノではない本当の神という意味。JWの聖書解釈はうそだらけ。」
「5節の結論は“真実で正しいことを愛しているなら,バプテスマを受けたいという気持ちになるでしょう。”ですが、どうしてそうなるのか理解できません。」
「ちょっと無理のある結論だね。真実を愛する人はJWの一員にはならないないし、JWの一員ならすぐ辞める。」
「6から10節が“イエス・キリストを愛している”です。 バプテスマを受ける理由その②ですが、これがJWのバプテスマを受ける理由とは驚きです。」
「JWほどイエスの扱いが酷い自称クリスチャンはいないよ。JWではイエスは統治体の老人と同格じゃないの?イエスを愛しているならJWにはならないよ。」
「6節にイエスを愛する理由が書かれています。“詩編45編4節にその理由が書かれています。(読む。)その聖句によると,イエスは真理と謙遜さと正義を大切にしています。もしあなたが真実で正しいことを愛しているなら,イエスに 魅力を感じることでしょう。”とあります。詩編45はイエスについての詩じゃありません。」
「詩編45は王の結婚を祝う詩で、その前半は王をあれこれとほめたたえている個所。この聖句はヘブライ1:8でイエスのこととして引用されていて、昔から詩編45はイエスのことだとキリスト教関係者は強引に解釈してきた。しかしそこでの引用はギリシャ語訳からの引用なので旧約聖書とは異なっていて、ヘブライ1:8には“真理と謙遜さと正義”なんて書かれていない。」
「詩編45:4は“輝きを帯びて勝利へと進みますように”とあって、王の軍事的な勝利をたたえている部分です。イエスと関係ないです。」
「詩編45:4に“真理と謙遜と正義のために乗り進みますように”とある。訳がヘンだからわかりにくいけれど、馬に乗って進むということで戦闘の場面。詩編45:5では“あなたの矢は鋭く,人々はあなたの前に倒れる。矢は王の敵の心臓に突き刺さる。”と続く。戦争賛美だね。どうしてこれがイエスのことなのか理解できない。」
「7節で“イエスは謙遜な方です。自分に注目を集めようとするのではなく,いつもエホバが賛美されるようにしています。”とありますが、ウソです。」
「ヨハネのイエスは謙遜じゃない。ヨハネ14:10に“私と父が結び付いていることを信じていないのですか。あなたたちに言うことは,独自の考えで言っているのではありません。私とずっと結び付いている父が私を通して行動しているのです。”とあるけれど、これは意図的な誤訳で、協会共同訳の“私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。私があなたがたに言う言葉は、勝手に話しているのではない。父が私の内におり、その業を行っておられるのである。”の方が正確。」
「つまりヨハネでは神とイエスは一体ということですね?」
「ヨハネ10:30には“私と父とは一つです”とうその多いJW訳でも一体となっている。時代とともにイエスは人間から神の子、そして神そのものと変わる。福音書の中で一番最後に書かれたヨハネではイエスは神そのもので、語ることと言えば自分のことで、やたらと尊大だよ。」
「10節が結論で“では,イエスへの愛をどのように示せるでしょうか。イエスの手本に倣うことです。(ヨハ 14:21)そのためには,エホバに献身してバプテスマを受けることが大切です。”とあり、イエスを愛しているなら、エホバに献身してバプテスマを受けろということです。理解できません。」
「イエスはJWの挿絵でも顎ひげを生やしている。でもJWでは顎ひげは禁止のようだ。なぜイエスに倣わないのか?」
「バプテスマの前に“エホバに献身”すると、聖書のどこに書いてありますか?どこにもないです。“エホバに献身”とは統治体に献身と同義です。単なるJWルールですよ。」
「“イエスのバプテスマと弟子たちのバプテスマの違い”という囲み記事があって、“イエスはエホバに献身したイスラエル国民の一員として生まれたので,改めて献身する必要はありませんでした。(出 19:4-8)”とあるけれど、イスラエル国民はいつ献身したの?」
「引照聖句は献身ではなく、神とイスラエル人との契約の話です。」
「執筆者は献身と契約の区別もつかないのか?」
「11から17説が“エホバを愛している”です。 バプテスマを受ける理由その③で、最大の理由だそうです。エホバを愛している人なんかそんなにいますか?」
「旧約聖書の神は最悪のキャラクターで、愛する対象ではなく、殺されないように恐れおののき、ひたすら服従する存在として描かれている。神様を愛する人はいないので、聖書の中では神様を愛するよう命令している。」
「12節に“エホバを愛する理由はいろいろあるでしょう。例えば,エホバは「命の源」です。「良い贈り物, 完全な贈り物は全て」エホバが下さったものです。”とあります。いろいろなものをくれたから愛するというのがJWの神学のようですね、」
「愛するというのは何かをくれたことに対する反応なのか?それなら両親をまず愛すべきということになるけれど、イエスはその逆のことを言っていたよ。」
「12節の上に3枚の写真がありますが、野菜や果物が出ています。エホバが与えてくれたものだそうですが、違いますよ。」
「現代人が食べている野菜や果物は6000年前に在ったものとは全然違う。人間が膨大な労力と知恵を使って改良したもの。エホバが与えてくれたのは人間にとっておいしくないものばかり。そもそも植物は人間に食べられるためにあるわけじゃないからね。」
「イタリア料理に欠かせないトマトの原種は南米産で、それをヨーロッパで200年ほどかけて改良したようです。初めは毒リンゴと言われて食用ではなく観賞用でした。」
「トマトが日本に入ったのは明治で、赤茄子と呼ばれていたけれど、青臭い臭いのする小型のもので全く人気がなかった。それが改良されて食べられるようになったのは昭和になってから。感謝するなら神様じゃなくて改良した人にしよう。」
「トマトはアメリカで最初に認可された遺伝子組み換え作物ですよ。現代のトマトは神様がくれたものとは大違いですね。」
「というわけで、おいしい野菜や果物を食べたからと言ってエホバに対する愛は強まらないね。」
「13節に“エホバにとってイエスが苦しんで死ぬのを見るのは本当につらいことでした。それでも,あなたを含め人類全てを心から愛しているので,永遠に生きられるようにイエスを犠牲として与えてくださいました。(ヨハ 3:16。ガラ 2:20)こうしたことを考えると,エホバにもっと引き寄せられることでしょう。”とありますが、同意できません。エホバは単なる傍観者です。」
「標準的なキリスト教ではイエスは神なわけ。神自らが人間となり十字架にかけられて人類の罪を贖ったことになっている。感動的だ!それに対してJWの教義ではイエスを死なせて、エホバなる神は高みの見物をしていただけ。傍観者エホバに対する愛は全く深まらないね。これは普通のキリスト教に比べるとJWの教義の問題点だね。」
「15節に“エホバを愛していることをどのように示せるでしょうか。特別な祈りを捧げ,エホバに献身します。(詩 40:8)そしてバプテスマを受け,献身したことをみんなの前で明らかにします。”と、バプテスマを受けろと圧力をかけています。」
「この言い方だと、バプテスマを受けないのはエホバを愛していないということになるね。JWの思考ではエホバかサタンのどちらかで、エホバを愛さないとなれば、サタンだ!となり、それでいいんですか、と問い詰められる。選択肢はない。」
「16節では“そして,エホバと同じようにいつまでも生きることができるのです。(詩編41:12を読む。)”と、永遠の命というエサをまいています。バプテスマを受けたら永遠の命が得られるなんて聖書のどこにも書いていませんよ。」
「そのエサに飛びつく人なんかいるの?飛びつくとどうなるかというと、17節で“献身してバプテスマを受ける時,私たちからもエホバに貴重なものを差し出す機会が開かれます。その貴重なものとは何でしょうか。私たちが自分の全てを尽くして喜んで行う奉仕です。”と書いてある。無給の宗教拡張員を死ぬまでやらされる。」
「18,19節が“先延ばしにする理由がありますか”です。 さっさとバプテスマを受けろ、この間抜け!ということです。」
「18節には3つのことを自問しなさい、それが“はい”ならバプテスマを受けるべきということを書いている。3番目の問いは“自分はエホバに仕えてエホバに喜んでもらいたいと思っているだろうか”だけど、誰かに仕えてその誰かを喜ばすという生き方を本当に望んでいる人はそう居ないよ。」
「特にエホバは仕える気がしませんね。エホバに仕えるというのは統治体に仕えると同義ですから。」
「統治体はよくJWの動画に登場するけれど、聖なるものとか偉大なものは全く感じない老人たちだからね。動画に出すのを控えて、神秘性のベールで包むという方針をとったらいいと思うよ。」
「しかも多くは太りすぎです。広報戦略上組織のトップが肥満体というのはマイナスです。統治体の一員になる基準に肥満度を加えて欲しいですね。モリスがいなくなったので、統治体の平均体重は少し減りましたね。」
「19節に“バプテスマをためらっているなら,ヨハネ 4章34節のイエスの言葉を考えてみてください。(読む。)そこでイエスは,エホバの望むことを行うことは食べ物に似ていると言いました。”とあるけれど、執筆者は引照聖句を読んだのかな?」
「そこには“私の食べ物とは,私を遣わした方の望むことを行い,与えられた仕事を成し遂げることです。”とありますから、イエスの食べ物は、遣わした方の望むことを行うことと、与えられた仕事を成し遂げることの2つですね。エホバの望むことを行うことは食べ物に似ているとはいっていません。」
「この聖句の力点は後者だよ。成し遂げること。いつ成し遂げたかというと、ヨハネ19:30に“イエスはそのぶどう酒を口にしてから,「成し遂げられた!」と言い,頭を垂れて息を引き取った。”とある。」
「ヨハネ4:34は、この記事にあるようにエホバの望むことを行うのは、おいしい食事のように私たちのためになるし楽しいことだ、というようなことは全く言っていないわけですね。」
「それなのに19節では“エホバの言う通りにして悪い結果になるということは決してありません。エホバは,私たちがバプテスマを受けることを望んでいます。”と言っている。甘言を弄して、とにかくバプテスマを受けさせようとしているだけ。聖句の本来の意味なんか気にしていないよ。」
「来週もバプテスマ関連の記事のようです。」
「嫌がる人に対してJWのバプテスマを受けさせるよう、巧みに誘導し圧力をかける方法を学ぶのかな?」
#1456 2023年05月12日 14:27:50
- 聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“バプテスマに向けてできること(11)”で、バプテスマを受けたければ、組織の指示を忠実に実行しなさい、という内容です。」
「周囲から強い圧力にさらされて、耐えきれず、バプテスマを受けるしかないという人がいるからね。」
「今どき、それ以外の理由でバプテスマを受ける人はいないですよ。」
「この記事は21節もある。もっと短くしてよ。」
「3から7節が“受けられない理由が何かあるでしょうか”です。 使徒8章にあるエチオピアの高官とフィリッポと出会い、バプテスマを受けたという話がでてきます。」
「単に使徒8章の話をただ書き写しているだけの内容だね。でもJWらしいおかしなところがある。使徒8:35で“フィリポは話し始め,この聖句を手始めに,イエスについての良い知らせを告げた。”とあるように、フィリッポはイエスについて語った。それなのに6節では“エホバとイエスへの愛に動かされて,バプテスマを受けてイエスの弟子になるという大きな決断をしました。”とある。エホバなんか出てこないよ。」
「新約聖書にはエホバという単語は出てこないのに、JWはエホバと変えています。とんでもない改ざんです。次回の改訂版では“イエスについてのよい知らせ”の部分は“エホバについてのよい知らせ”に変えられると思います。」
「6,7節の質問は“高官のエホバへの愛はどのように深まっていきましたか。”で、この話はイエスについての話なのに、イエスは無視だ。エホバ教に早く改名してよ。」
「4節で“この人はユダヤ教に改宗していたのでしょう。”と言っていますが、申命記23:1で“睾丸を砕いて去勢された人や陰茎を切り取られた人は,エホバの会衆に入ることはできません。”とあります。エチオピアの高官は宦官とありますから、ユダヤ教徒ではないと思いますよ。」
「1世紀のユダヤ人が宦官がエルサレムで崇拝することをどう見ていたかは不明。この高官は宦官で、なおかつ外国人なので、ユダヤ教の浄・不浄観では不浄な存在で、歓迎される存在ではない。この高官が“私がバプテスマを受けられない理由が何かあるでしょうか”とフィリッポに尋ねたのは、イエスの唱えた宗教は自分のような者を受け入れてくれるのですか、それとも締め出すのですかという切実な問いなんだよ。」
「この記事の執筆者はそういう背景については知らないようで、的外れのことを書いていますね。7節で“このエチオピアの高官に倣うなら,バプテスマに向けて準備を整えることができます。あなたも,「私がバプテスマを受けられない理由が何かあるでしょうか」と言えるようになるでしょう。”とあります。歴史的な文脈を無視しています。」
「使徒8章は、宣教活動がユダヤ人が敵視しているサマリアにまで広がり、さらにユダヤ人が不浄としている外国の宦官まで広がっていったことを書いている章で、バプテスマの準備なんて関係ないよ。」
「8から13節が“真理を学び続ける”です。 JWのいう真理とはJWの出版物に書いてあることです。ここではその辺をはっきり述べていないので面白みに欠けますね。」
「8節では、“ヨハネ 17:3を読む。”とある。その引用は“「唯一の真の神……のことを知」り続ける必要があります。”なんだ。」
「そこには“永遠の命を得るには,唯一の真の神であるあなたと,あなたが遣わされたイエス・キリストのことを知る必要があります。”とあるのに、イエスの部分は“……”と省略されています。」
「エホバ教らしく、エスを抹殺している。」
「9節には“もちろん最初は,エホバについての基本的な教えから学び始めます。”とあります。ここでもイエスは無視されています。そのあと、“パウロは「ヘブライ人のクリスチャンへの手紙」の中で,そうした教えを「基礎的な事柄」と言いました。”と続きます。これはおかしいです。同語反復ですよ。基本的な教えを“基礎的な事柄”と言っていますか?」
「英語訳はthe elementary things.で、“初歩的な事柄”。聖書の翻訳の際に“基礎的な事柄”と適当に訳したので、おかしな文章になっている。」
「ここでいう“基礎的な事柄”とは何ですか?神のお名前はエホバです、というようなJWの出版物によく書いてあることですか?違いますよね。」
「神の名前なんかどうでもいいんだよ。それについてはヘブライ6:1、2に説明している。“基礎的な教えに逆戻りしてはなりません。すなわち,むなしい行いを悔い改めること,神への信仰, さまざまなバプテスマ,手を置くこと,死者の復活,永遠の裁きについての教えです。”現代人から見ればなぜこれが初歩的な教えなのか理解できないけれど、1世紀ではそうだったと思うしかないね。」
「“さまざまなバプテスマ”ってなんですか?全身水没する、顔だけ水につける、水をかけるだけ等々の色々な種類があったということですか?」
「バプテスマと訳されている単語が複数形なので、“さまざまなバプテスマ”と訳している。複数形なのは新約聖書ではこの部分だけ。しかも、使われている単語はbaptismosで通常のbaptismaと異なる。この単語が使われているのはヘブライ9:10の“食べ物や飲み物やさまざまな洗いの儀式に関連したものにすぎません。”で、ここでは“洗いの儀式”と訳している。」
「“さまざまなバプテスマ”ではなく、ユダヤ的な清めの儀式のことですね。“手を置く”というのもユダヤ的なものですよ。」
「そういうわけで新しい英語の聖書ではcleansing ritesとかwashingsとなっていて、“さまざまなバプテスマbaptisms”なんか訳していない。JWはダメだね。」
「協会共同訳では“種々の洗礼(バプテスマ)についての教え”ですが、これも誤訳ですね。」
「この部分はキリスト教の初歩の教えについて述べているところ。それなのにユダヤ的儀式が出てきてはキリスト教にとっては不都合なわけだ。護教的配慮からそう訳していると思うよ。キリスト教のおかげでメシを食っている人たちが訳しているわけだから、そういった配慮は当然働く。」
「9節では“でもパウロは,そうした基本的な教えだけで満足するのではなく,聖書の深い真理も学ぶ必要があると言いました。”と続きます。まずヘブライ書の著者はパウロではないですし、ヘブライ書では“聖書の深い真理も学ぶ必要がある”とは言っていません。」
「ヘブライ5:14に“固い食物は,十分に成長した人のためのものです。そのような人は,使うことによって識別力を訓練したので,正しいことも悪いことも見分けることができます。”とある。これも訳がわかりにくいので協会共同訳を紹介すると“固い食物は、習慣によって善悪を見分ける感覚を鍛えられた、大人のためのものです。”とある。」
「固い食物とは聖書の知識ではなく善悪を見分ける道徳的な鋭敏さと関連するものということはわかります。」
「クリスチャンとして成熟するというのは、幼児のように何をすべきか、何をしてはいけないかを教えてもらうのではなく、自ら道徳的判断ができるようになるということをいっている。」
「これはJWには無理ですね。JWで強調されるのは自分で考えるのではなく組織に服従することです。」
「JWは信者の成長を図るのではなく、永遠に無知無学な幼児状態にとどまらせようとしている。何年やっても人間的成長のない宗教はカルトだから、さっさと辞めよう。」
「10節で“最高の先生であるエホバが助けてくれます。”とあり、11節で“エホバは,自分は「偉大な教師」であると言っています。(イザ 30:20,21)”と調子のいいことを言っていますが、本当にそうならJWの子どもはみな学校ではトップレベルの成績になりますよ。エホバって勉強を教えてくれませんよ。」
「偉大な教師というのは道徳面での偉大な教師ということ。それも疑わしね。」
「14から16節が“学んだことを実行していく”です。 JWの教えを学んで、次は実行というのがバプテスマへの道です。伝道、集会参加が求められますが、14節ではノアの話が出てきます。ペテロ一3章が取り上げられています。こじつけ解釈ですよ。」
「そこには“ペテロは,クリスチャンにとって学んだことを実行するのは大切だと教えました。”とあるね。そんなこと言っていないだろう。」
「引用されているのはペテロ一3:20,21ですが、この部分はわけのわからないことが書かれていることで有名なところですよ。」
「ペテロ一3:18-22がひとまとまりだけれど、そこにはキリストが死んだあと、“捕らわれている天使たちの所に行って知らせを伝えました。その天使たちはノアの時代に不従順だった者たちです。”とあり、その後ノアの話になり、バプテスマの話になり、バプテスマを“肉体の汚れを除くことではなく,健全な良心を神に願い求めること”と説明し、キリストの話で終わる。確かにつながりがよくわからない理解困難箇所だね。」
「“捕らわれている天使たち”というテーマはエノク書や啓示などの黙示文学のお気に入りのテーマですよ。ユダ書14では“アダムから7代目の人エノクも,彼らについてこう預言しました。”とエノク書から引用しています。ペテロ一3:18-22もエノク書などの黙示文学の影響じゃないですか?」
「この部分の解釈が困難なのはこの背景となっている思想がどんなものかはっきりしないから。イエスがとらわれている天使に知らせを伝えたとあるけれど、そこはどこ?何を伝えたのか?それとノアはどう関係するの?よくわからないね。でも、当時のクリスチャンには説明されなくても、そのつながりがわかったのだろう」
「15節で“まず,自分の罪を心から悔い改めることが大切です。”とあり、“不道徳な生き方やたばこや汚い言葉遣いなど,エホバが嫌うことを行っていたなら,それをやめましたか。”と具体的に指示しています。」
「タバコを嫌うのは理解できるけれど、たばこに厳しすぎる。聖書で禁止しているわけでもないのだから。犯罪である児童性的虐待とか体罰は軽く扱っているわけで、バランスが取れていないよ。」
「16節で伝道と集会が出てきます。“伝道すればするほど 楽しくなっていくでしょう。”ととんでもないウソを書いています。本当にそうなら、この記事の執筆者はこんな駄文を書いてないで、伝道しているはずです。」
「組織の中で偉くなれば伝道などしないでしょう。あれは末端の信者の修行にすぎない。」
「17から21節が“エホバへの愛を深めていく”です。 18節で“エホバへの強い愛があるなら,問題にぶつかってもエホバに仕え続けることができます。”とあり、エホバへの愛がバプテスマへのカギのようです。」
「次の19節では“まず感謝の気持ちを持つことが大切です。”と、感謝の強要になる。愛を深めていくだけではダメなわけだ。」
「19節の上に写真があって、脚注で“エホバが与えてくださっているものについて,若い姉妹がエホバに感謝している。”と説明しています。小鳥を見ている写真ですね。この姉妹の所に虫が飛んで来たら、エホバに感謝しないで、殺虫剤で殺そうとするんじゃないですか?」
「神の創造物に感謝という決まりきった話だね。これ以外に感謝すべきことが思い浮かばないのだろう。自然界には不快な生き物や有害な生き物がたくさんいることについては何も触れないので説得力ないね。」
「19節では“私たちはエホバへの愛をどのように示せるでしょうか。誘惑に遭ったり問題にぶつかったりしても,諦めずに頑張ることです。エホバを崇拝する良い習慣をしっかり守ることも大切です。”とあります。愛と言っても、要するにバプテスマを受けるのに問題となるようなことはするなということです。」
「表面的によい子にすることが愛を示すことのようだね。」
「20節では“献身は,順調な時にもそうではない時にもエホバに仕えていくことを約束することです。これは一度限りの誓約で,本当に大きな決定です。それでも,エホバに献身すること以上に良い決定はありません。”とあります。献身がそんなに良い決定なら、JWはみな幸福で生き生きしているはずです。事実に反します。」
「この記事はだまされやすい人間をバプテスマに誘導するためのものだから、誇大宣伝やウソでも問題ないという判断なんだよ。」
「こんな重大な誓約は子どもには無理ですよ。バプテスマは30歳以上というルールを作るべきです。」
「そうしたら30歳までに、みんなやめるよ。」
#1457 2023年05月19日 14:35:59
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Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ 創造物からエホバのことをもっと知る(12)”で、自然観察の勧めという内容です。」
「珍しいテーマだね。前回はバプテスマを受けるように圧力をかけろ、という嫌な内容だったから、気分転換かな。伝道、集会と忙しいのに、その他に自然観察などしている暇はあるのかな?この記事は16節までしかなく、自然観察についてはあまり書くことがないようだね。」
「1節にヨブのことを取り上げていて、その引照聖句にヨブ39:13-16があるのです。その中には“ダチョウは卵を地面に残し,土の中でそれを温める。”とか、“ダチョウは自分のひなを荒く扱う。自分の子ではないかのように。”と明らかに間違ったことを書いてあるのです。」
「それが間違っていることを知らないのだよ。執筆者は自然のことには無知な男で、創造物から神のことを知るなんて、今までしたことがないんだよ。」
「3から5節が“創造物を観察するとよいのはどうしてか”です。 3節はエデンの園でのアダムについての話が出てきます。アダムが動物に名前を付けたことについて“これはとてもやりがいのある仕事だったことでしょう。”とあります。執筆者は聖書の登場人物の気持ちが何でもわかるのですね。」
「アダムがつけた名前はどこかに残っている?アダムが苦労して考えた名前はどこにも残ってないよ。」
「パンダをパンダと名付けたのはアダムと思っていました、というのはウソです。」
「語源を明らかにするのは困難だけど、パンダはネパール語で「竹を食べる者」を意味する「ニガリヤ・ボンヤ(nigalya ponya)」に由来する説が有力。アダムはネパール語を話したのか?」
「コアラは先住民族アボリジニの言葉で「水を飲まない」という意味ですし、カンガルーとは、先住民族アボリジニの言葉では、「わからない」という意味です。アダムはアボリジニ語を話していたのかも。」
「アダムの動物名づけ作業はむなしい仕事だったということ。神様が未来を見通せるとしたら、無駄に終わる仕事を意図的にさせたことになるよ。」
「3節の上にアダムがカタツムリを見ているというイラストがあります。なぜカタツムリなのでしょうか?カタツムリは雌雄同体で、一つの個体が、雄の生殖器も雌の生殖器も持っています。これってイラストを描いた人の隠れたメッセージが込められていますよ。」
「生殖や性の在り方は自然界では多様で、オスとメスが別個に存在し、それぞれが自分の遺伝子の半分ずつ子孫に伝える有性生殖だけが自然なものではない、という力強い主張をこのイラストから感じるね。」
「雌雄同体のカタツムリは交尾の時に、鋭い刃物みたいなものを突き刺すそうですね。」
「恋矢、英語でlove dartというものだね。カタツムリの歌に“つの出せ、やり出せ、あたま出せ”とあるけれど、“やり”のこと。恋矢が相手の体に刺さると、粘液が相手の体内に注入され、この粘液は、自分の精子が相手に分解されるのを防いだり、相手が別のカタツムリと再び交尾をするのを防いだりする働きがある。」
「恋矢を刺すことで、自分の精子をより多く相手の卵子と受精させることができわけですね。創造主の素晴らしい御業に感動しました。」
「刺された方は寿命は縮まるらしい。愛のある創造主のすることは理解できなね。」
「4節に、自然観察をする理由①として“エホバが望んでいることだからです。エホバはこう言いました。「天を見上げてみなさい。誰がこれらの物を創造したのか」。(イザ 40:26)”とあります。」
「引照聖句は天を見上げろと言っているだけ。膨大な数の星を見て神の活力と力を感じなさいと言っている。自然観察を勧めている聖句ではないよ。」
「5節に、自然観察する理由②として“それは,創造物を通してエホバがどのような方かを知ることができるということです。(ローマ 1:20を読む。)”とあります。」
「引照聖句は創造物から“神が永遠に力を持っていて,確かに神であるということが分かります。”といっている。協会共同訳では“神の永遠の力と神性”だ。それ以上のことは言っていないよ。」
「5節で“例えば,自然が見事に設計されていることについて考えると,エホバが知恵のある方だということが分かります。また,いろいろな種類の食べ物を楽しめるようにしてくださっていることを考えると,エホバが私たちのことを愛してくださっていることが分かります。”と書いていますが、これは拡大解釈ですね。」
「自然を神の設計したものとすると、人間にとって不快なもの、有害なものがありすぎて、神の悪趣味と底意地の悪さしか感じないという主張だってありうる。パンダやコアラが自然の代表じゃないよ。」
「現代でも全世界で、毎年約10万人前後が毒蛇にかまれて死亡しています。手足の切断や運動障害などの後遺症がある人は40万人前後です。世界保健機関(WHO)は、ヘビに噛まれる被害を世界最大の隠れた健康危機と位置付けているそうですよ。こんな危険なものをなぜエホバは造ったのですか?愛を感じません。」
「ヘビより多くの人間を死なせているのは蚊だね。蚊はマラリアをはじめとした様々な病気を媒介することによって、毎年数十万人を死なせている。」
「蚊は動物の血液を栄養としています。そういう吸血動物はたくさんいます。エホバってこういう動物を造ったにもかかわらず、なぜ輸血はだめなのでしょうか?全く理解できません。」
「蚊の血液を吸い込む仕組みを見事に設計した神が輸血を禁止するわけがないよ。自然観察は大事だね。」
「6から8節が“エホバは創造物を通してご自分について教えている”です。 3つのことが出ています。6節が①“エホバは時を定めている。”です。」
「JWらしく“私たちは渡り鳥を観察する時,エホバがご自分の「定められた時」に今の悪い世界を必ず滅ぼす,ということを確信できます。”と終末論につなげている。滑稽だね。信者の希望は早く人類大虐殺が始まって欲しいということだけのようだ。」
「7節が②“エホバは力を与えてくださる。”です。“エホバはワシに力を与えるのと同じように,ご自分に仕える人たちにも力を与えてくださいます。”」
「ワシが空を飛ぶのは神秘的な力が働いているからと古代人は思ったかもしれないけれど、普通の物理現象。そんなことまで神を持ち出すと、現代人はついていけないよ。」
「8節が③“エホバは信頼できる。”です。“私たちも創造物をじっくり観察すると,エホバが私たちよりはるかに賢くて力のある方であることを学べます。また,私たちが経験している問題全てを必ずなくしてくれることも確信できます。”とあります。創造物を観察すると、なぜ“私たちが経験している問題全てを必ずなくしてくれる”と確信できるのかわかりませんね。」
「具体的にどの動物を見ればいいのか教えて欲しい。蛇?蚊?それともワシ?具体性がないから説得力ゼロ。」
「おかしな宗教を押し付けられて困っているという問題に対処するには、タヌキを観察するのはどうでしょうか。死んだふりは危険に対処する有効な方法であることをエホバは人間に教えてくれているのですよ。」
「いわゆる狸寝入りという擬死だね。擬死は鳥やウサギ、昆虫や魚にも広くみられる危険対処法。人間なら、おかしな宗教の人からの電話にもラインなどにも出ない、話しかけられても何も答えないことで危険を対処できるかもね。」
「9から12節が“イエスは創造物からエホバについて教えた”です。 マタイの福音書から3つの教えを取り上げています。10節が①“エホバは全ての人に愛を示す。”です。マタイ5:45の“父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ,正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるのです。”が使われています。」
「ここでもJWらしいねじれがある。10節の結論は“そして,エホバに倣って全ての人に愛を示し,良い知らせを伝えたいという気持ちになります。”だ。結局伝道をもっとせよ、ということ。JWにとって愛を示すというのは伝道と同義で、非常に狭い意味しか持たないことがわかるね。」
「11節は②“エホバは生きていくのに必要なものを与えてくださる。”で、マタイ6:26の“それでも天の父は鳥を養っています。あなたたちはそれよりも価値があるのではありませんか。”が使われています。」
「現実は厳しくて、北国では冬の間に多くの鳥が餓死する。そうでなければ鳥が増えすぎて困ることになる。神が養っているのはある一定の数だけのようだね。JWはその数が多すぎるよ。」
「次が体験談で、“スペインに住むある若い開拓者の姉妹は,ふさわしい住まいが見つからなくてがっかりしていました。でも,鳥たちが木の実や種をついばんでいるのを見て,元気が出ました。”とあり、“それから間もなく,姉妹は無事ふさわしい住まいを見つけることができました。”というめでたい話です。」
「今欧米では家賃がものすごく上がっていて、都市部ではJWが借りることができる物件がなくなりつつあるという話がある。それを意識した体験談かも。」
「鳥にとって困難な時期は冬ですが、人間なら不況とかインフレの時期です。冬の間かなりの数の鳥が餓死するのなら、不況やインフレのときかなりの数のJWが餓死してもおかしくないですね。」
「神頼みだとそうなるね。」
「12節が③“エホバは私たち一人一人を大切に思っている。”です。“マタイ 10:29-31を読む。”とあり、“その1羽でさえ,天の父が知らないうちに地面に落ちることはありません。……あなたたちはたくさんのスズメより価値があるのです」。エホバが一人一人を大切に思ってくれているので迫害を怖がる必要はない,と教えました。”とあります。でも、この聖句はスズメは地面に落ちることはないとか、落ちるのを天使が防いでくれるとは言っていませんよ。エホバが気にかけてくれるというだけです。」
「迫害にあっても守ってくれないけれど、大切に思ってくれるということだね。あまり励まされないね。」
「13から15節が“創造物からエホバのことをもっと知るにはどうしたらいいか”です。 13節には“まず,創造物を観察する時間を取りましょう。”とあります。見ていればわかるものですか?」
「何の知識もない人が山を見たって高いとか低いとか思うだけ。一方、知識のある人が山を見れば、その成り立ちから、どういう地質かなど分かる。観察から何かを得ようとすれば、まず勉強すること。」
「JWにはそんな知識は不要です。無知無学の方がいいのですよ。あの山は高い、エホバは偉大だ、と思えればそれでいいのです。」
「14節で詩編8:3,4を引用した後、“ダビデは夜空を眺めて,宇宙の広大さに感動しただけではありません。月や星からエホバについて学べることをじっくり考え,エホバがどれほど偉大な方かを知りました。”とある。これってこの詩を正しく理解していないね。」
「“宇宙の広大さに感動した”とは言っていませんね。“あなたが指で造った天を仰ぎ,あなたが並べた月や星を眺めて思う。死にゆく人間が何者なのであなたは心に留めてくださるのか。”とあるだけです。」
「古代イスラエルでは日本と違って自然を賛美するとか、自然の移り変わりにもののあわれを感じるという思想は弱い。この詩のポイントは神が“指で造った”というところ。」
「空は大きいけれど、でも神はそれを指で造った。つまり神はとてつもなく大きいということですね。」
「そんな偉大な神に特別扱いされる人間ってすごいよね、と言っている。その次の詩編8:5では“あなたは,人を神のような者たちより少し劣る者とし,栄光に輝く冠を授けた。”と、人間を滅茶苦茶高く評価している。この詩は人間賛歌だね。」
「15節では“私たちも周りに少し目を向けるだけで,創造物からエホバについてたくさんのことを学べます。”と言って、いくつかの例が出ているのですが、“子犬が自分のしっぽを追い掛けている姿を見て,エホバのユーモアのセンスを感じます。”と数か月前に出てきた話をまた取り上げています。この例を気に入っているんですね。」
「犬はかわいらしい動物だけど、これも人間が行った品種改良の結果。今のところ、イヌは絶滅した東アジアのハイイロオオカミの集団から家畜化されたとされている。」
「つまりエホバは恐ろしいオオカミを造ったかもしれないですが、かわいい犬を造ったのは人間ということですね。」
「シリアのドゥアラ洞窟にあるネアンデルタール人の住居遺跡(約3万5千年前?)からイヌ科動物の下顎骨が見つかっている。そのほかにも3万年前の遺跡からも犬と思われる骨は見つかっている。犬を家畜化したのは6000年ほど前エデンの園を裸でぶらついていたアダムじゃなくて、別の人だね。」
「最後の16節には、“では親は,子供がエホバをもっと愛せるようになるために,創造物からどのように教えることができるでしょうか。その点については次の記事で考えます。”とあります。」
「子どもに特定の宗教の自然観を、判断力のまだない子どもに押し付けるのは、子どもの虐待だからやめてほしい。子どもにエホバが、エホバがとか言って何かと押し付ける親は最悪の親だ。」
#1458 2023年05月26日 14:29:10
- 聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ 創造物を使ってお子さんにエホバについて教えましょう(13)”で、聖書ではなく周囲の自然を利用した子どもの洗脳の仕方を学ぶという内容です。」
「JWになる可能性の高い人と言えば、JWの子どもだからね。JWの子どもを狙うのは信者をふやす堅実なやり方だ。でも、JWの貧困・独身推奨政策のせいで、JWにあまり子どもがいないのは不幸中の幸いだね。」
「自然について教えたら、賢い子はJWにはなりませんよ。」
「だから、自然についても、JWは自分たちにとって都合の良いことだけしか教えないようにしている。」
「2節に“「格言の書」には,父親が子供を教えている様子が描かれています。創造物から分かるエホバの性質に注目するように,と教えているようです。(格 3:19-21)”とあるのですが、引照聖句がマズくないですか?」
「そこには“エホバは知恵によって地の土台を据えた。識別力によって天をしっかり定めた 神の知識によって深い水は分けられ,大空の雲は水を滴らせた。”とある。これは古代の世界観を表したものとして有名。もちろん正しくない。」
「地上は土台の上に乗っかっていて、水が海と天の二つに分けられて、天はドーム状になっている。そんな世界観ですよ。」
「古代人は空が青いのは海が青いのと同じで、水があるからと思っていた。水平線を見れば、空と海がくっ付いているように見える。古代人は実際にくっ付いていると思っていた。それなりに合理的な推論なんだよ。」
「格言の作者は地球の在り方について全く誤解をしていたことを示す聖句ですよ。こんな聖句をいきなり持ち出すのはヘンですよ。」
「先週もいきなりダチョウについてヨブ記の作者が無知なことを示す聖句が出てきた。そうすることによって執筆者は聖書は間違いだらけの本ですよ、とこっそりとメッセージを送っているのかもね。」
「3から7節が“創造物を使ってどのように教えるか”です。 4節に“イエスは創造物を使って弟子たちをどのように教えたでしょうか。ある時,ワタリガラスやユリをよく観察するようにと言いました。(ルカ 12:24,27-30を読む。)”とありますが、よく観察するようにと言っていません。“~について考えなさい”と言っています。」
「並行記事のマタイ6:26には“鳥をよく観察しなさい”とあるよ。マタイとルカを間違えたんだよ。情けないね。これがJWのレベル。」
「マタイでは鳥で、ルカではワタリガラスです。ワタリガラスなんて言われてもよくわかりません。ルカは生物の分類にこだわっていたのですか?」
「ワタリガラスの元の英語はravenで、辞書を引けば最初にワタリガラスと出てくる。それでワタリガラスと訳したのだろうけれど、ravenは詩の中でよく使われる言葉で、ワタリガラスと訳すると生物の分類上は正しいけれど、全然詩的じゃなくなる。せめて“鴉(からす)”と訳して欲しいね。エドガー・アラン・ポーの有名な詩にthe ravenがあるけれど、普通は“大鴉”と訳される。」
「4節で、イエスは“こうして創造物に注目させた後,エホバが親切に惜しみなく与える方だということを教えました。エホバはワタリガラスやユリを世話しているのであれば,ご自分に仕える人たちを養い,衣服を与えてくださるはずです。”とあるのですが、執筆者は引照聖句を誤解していますよ。そんなインチキ宗教家のカラ約束の話じゃないです。」
「ユリについて“神が,今日は生えていて明日火に放り込まれる野の草木にこのように服を与えているなら,ましてあなたたちには服を与えてくださるのです。”と述べている。ユリは明日火で燃やされると言っている。神はそれを止めることはしない。現実に対する非常に厳しい認識がある。」
「神様は面倒見てくれるから、楽観的に生きろという話じゃないですよ。」
「人生の困難さやはかなさを認めつつも、全ての生き物の根源には神の恵みと寛大さがあって、この世界をそういうものと見ようという提案だと思うね。」
「5節に“親の皆さんは,自分が好きな動物や植物についてお子さんに話すことができるでしょう。そうした物からエホバについてどんなことが分かるかを,ぜひ教えてください。”とあります。好きな動物はいますか?」
「今まで、いろいろな動物を飼ったことがあるけれど、飼えばみなかわいいよ。でも悲しいことに寿命が短い。飼っていた犬は15歳で死んだ。人間に比べたらはるかに短命だ。」
「そうしたことからわかるのはエホバって意地悪でけちくさい神ということですね。」
「人間が老いて死ぬのはアダムの不服従のせいというのがJWの教義。動物にはそんな事件はないから、病気になって死んでいくように創造されたと考えるしかない。なぜ命の木の実を犬や猫に食べさせないのかわからない。」
「ということは楽園でも動物は病気になりますよ。でもJWの楽園では獣医はいません。薬も注射器もないです。JWの楽園は犬や猫にとって楽園じゃないです。」
「楽園について聖書は何も語っていない。好きなように想像すればいいけれど、真面目に考えると悲惨な場所になるね。」
「6節に体験談が出ています。“山に行った時には,『見て,大きくてきれいな山ね。エホバって本当にすごいわね』と言いました。海に行くと,『波の力ってすごいと思わない? エホバも力の強い方なのよ』と言いました。”とあります。波が生じるのもエホバのせいなら、2011年に東北地方を襲った大津波もエホバのせいということですよね。エホバって本当に邪悪な方ですね。」
「神は正しき者にも邪悪な者にも、老人にも乳幼児にも等しく災害を引き起こし、死なせる。公平な方だね。」
「8から10節が“創造物を使ってどんな時に教えるか”です。 道を歩いている時、田舎に行った時、公園に行った時に教えろと言っています。子どもはどこに行っても、エホバってすごいわね、エホバってすごいわね、と絶えず言われるのですね。エホバ地獄です。」
「そういうわけで子どもはエホバと聞くだけど、吐き気がしてくるようになる。」
「9節に“インドの大都市に住むプニータ姉妹はこう言います。「家族で田舎に住む親族の所に遊びに行く時は,子供にエホバの創造物について教える良いチャンスだと思っています。”とあるのですが、ヘンですね。インドならハエとかゴキブリとかネズミが無数にいますし、道路を牛が歩いていたりしますよ。ヒンズー教では牛は聖なる動物です。」
「創造物と言っても、子どもの教育に使われるのは人間にとって無害で、見た目のよいごく限られた創造物のようだね。一面的で偏った教育はやめよう。」
「インドというと寄生虫ですよ。」
「ブタに寄生して、その肉を十分加熱せずに食べた場合、人間の腸の中で成虫となるのがいる。それが脳に寄生すると、体が痙攣したり、意識を失ったり、失明したり、場合によっては死亡する。なぜこういった創造物を子どもに教えないのかな?命にかかわるよ。自然賛美なんかしている場合じゃないよ。」
「エホバって本当にろくなものを造りませんね、と子どもに教えるわけにはいかないのでしょう。」
「子どもの寄生虫感染率が世界一高いのがインド。変な宗教教育ではなく、子どもの命を守る教育が必要だ。」
「9節の下にはアジア系の母子が蝶を見て微笑んでいるという写真があるのですが、この写真はどう思いますか?偏った自然教育ですよ。」
「蝶の仲間は鱗翅目といい、翅(はね)が鱗粉で覆われていることが最大の特徴で、世界に15万種くらいいるけれど、その90%以上は蛾で、蝶はわずか7%くらい。ここから創造者について何がわかるかな?」
「エホバは蝶より蛾が好きだということですね。エホバの美意識は理解できません。夜に灯りの周りをパタパタと飛び回る蛾は薄気味悪いですよ。」
「神は蛾が大好きで、10万種以上お造りになった。写真では蝶より蛾を使うべきだった。偏向した自然教育はやめろ!と今から抗議の電話をしたいくらいだね。」
「毛虫はたいてい蛾の幼虫ですよね。有害なものも多いですよ。エホバは毛虫も大好きということですね。理解できません。」
「最大の種の数を誇るのが甲虫。カブト虫とかクワガタが親しまれているけれど、35万種以上ある。それで昔から生物学では、神は甲虫をえこひいきしていると言われる。」
「11から14節は“神の見えない性質は……明らか”です。 11節に“エホバの愛についてお子さんに教えるために,動物が子供を愛情深く育てていることに注目させることができます。(マタ 23:37)”とあります。“愛”は太字になっています。JWにとって都合のいいことを動物を通して教え込もうという訳です。自然界を見てエホバの愛は感じませんね。」
「ヒメバチという寄生バチがいる。蛾の幼虫などに卵を産み付ける。卵からかえった幼虫は蛾の幼虫が死なない程度に食べながら成長し、蛾の幼虫が蛹になるとすべて食い尽くし、蛹になる。羽化すると蛾の幼虫が作った繭を食い破って外に出てくる。」
「愛ある神がこんな生物を造ったとは思えませんね。やっぱり進化してきたんですね。」
「ダーウィンは寄生バチをつぶさに観察して、神による創造説に疑いを持ったとされる。」
「12節ではエホバの知恵を教えろと言っています。“その点を教えるために,重たい水が雲になってふわふわと空に浮いている様子に注目させることができます。(ヨブ 38:36,37)”とあるのですが、引照聖句のヨブ38:36は“誰が雲の中に知恵を置いたか。誰が空の現象に理解力を与えたか。”で、意味不明ですよ。雲の中に知恵はありません。」
「協会共同訳では“誰が鴇(とき)に知恵を授け/誰が雄鶏に分別を与えたのか。”で、全然違うね。新改訳では“隠されたところに知恵を置いたのか。だれが、秘められたところに悟りを与えたのか。”でまた違う。」
「雲なのか鴇なのか隠されたところなのか?また空の現象なのか雄鶏なのか秘められたところなのか?という問題ですね。」
「こんなに違うのはそこで使われているヘブライ語の意味がよく分からないから。推測で訳している。現在のところ最有力なのが協会共同訳の鴇と雄鶏。鴇はナイルの洪水の時期を知らせ、雄鶏は雨の始まりを知らせてくれると信じられていた。その知恵は誰が与えたのかとヨブ38:36は問うているという解釈。」
「聖書は神の言葉のくせに意味不明の部分があるのですね。」
「たくさんあるよ。」
「12節に“人間の体が素晴らしく造られていることも話してあげられます。”とあります。まあそうなのですが、全知全能の神が作ったとしては問題がありますよね。」
「人間だと腰痛に悩む人が多い。膝の痛みに苦しむ人も多い。これは人間が二足歩行に十分適した体になっていないからだ。設計ミスと言えるかもね。」
「進化論では、もともと4足歩行をしていてそれが2足歩行に400万年ほど前に移行したことになっています。2足歩行は利点もあるけれど、様々な疾患の原因になっているわけですね。」
「二足歩行の人間は重力のせいで、痔、胃下垂、ヘルニアなどの疾患に罹患しやすい。人間以外の動物はこれらの病気になることは極めて稀なんだよね。二足歩行のため骨盤の形状が変わり、出産が困難になっている。楽園では出産はないね。」
「2足歩行なので転びやすいです。後頭部を打つと死にます。転んだだけで死ぬ動物は人間以外にはいないと思います。」
「楽園でも、不死ではないので、転んで死ぬ人はいるだろうね。」
「13節ではエホバの力を教えるように言っています。自然からエホバの愛、知恵、力がわかるようです。」
「14節で“創造物から,エホバがユーモアのセンスがある明るい方だということが分かります。学者によると,鳥や魚を含め,ほとんどの動物が遊ぶとのことです。”とあるのが面白い。JWは神様がユーモアのセンスを持っていると信者に思わせたいわけだ。動物の遊びとユーモアは関係ないよ。」
「14節には“お子さんは,子猫が毛糸玉を追い掛けたり子犬がじゃれ合ったりするのを見て,面白がることがありますか。そういう時には,エホバが幸福な神だということを教えてあげましょう。”とあります。理解できません。」
「子猫が毛糸玉を追い掛けるのは狩りの訓練という意味がある。単なる遊戯ではない。ネズミなどの小動物をその牙や爪で素早く殺すことを練習している。子犬のじゃれあいも同じ意味。将来の捕食者としての必要な殺しの技術を学んでいる。エホバは殺しが大好きな神だということを教えるべきだね。」
「楽園が来たら、猫も草を食べるのでしょうか?そうなったら毛糸玉も追わなくなりますよ。」
「草原にボーと立って、口をもぐもぐさせるだけになるかも。それは猫ではないね。」
「15から17節が“エホバの創造物を家族で楽しむ”です。 考えてみると、家族のいないJWは多いです。この記事は子どものいる少数派向けの記事ということですね。15節には“一緒に自然の中で過ごしている時の方が,子供に気持ちを話してもらいやすいと言う親もいます。”とあります。自然って本当に役立ちますね。」
「15節の体験談で“山にハイキングに行ったりビーチを散歩したりして外で過ごしていると,子供たちもリラックスしています。それで,自分の思っていることをよく話してくれます”とあるけれど、賢い子供はカルト信者の親に本音は漏らさないよ。」
「JWの親の思考のパターンは単純なので、こう言えば、こう答えるだろうと予想できます。相談する必要もないです。」
「16節に“山や海や自然保護区などに出掛けていって楽しんでいる家族もいます。”とあるけれど、そんなゆとりのある生活しているJWは少数じゃないの?」
「娯楽にうるさいJWです。自然の中で遊ぶことは問題ないよと言いたいようですが、子どもを山や海に連れて行くと、時間とお金がかかります。」
「最後の17節で楽園になったら、“動物を怖がる必要はもうありません。動物も人間を怖がることはなくなります。(イザ 11:6-9)”とあるけれど、引照聖句は楽園での生活を述べたものではない。」
「そこには“ライオンが雄牛のようにわらを食べる”などとあるのですが、これは文字通りなのか、比ゆ的な表現なのかで、JWの解釈は二転三転してきました。現在は文字通りという解釈のようですね。ということは楽園ではライオンの歯や消化器官など大きく変わり、ライオンの外見をした草食動物が誕生するわけですね。」
#1459 2023年06月02日 14:35:03
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Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“愛があれば,全ての人は,あなたたちが私の弟子であることを知ります(14)”で、JW流の愛の示し方を学ぶという内容です。」
「JWの愛というと、伝道しろ、加害者を許せ、被害者は泣き寝入りしろ、ということじゃなかった?また同じことを学ぶのかな。」
「1節が面白いです。“次のような場面を想像してみてください。”ではじまります。何を想像するかと言えば、初めて集会に参加した人が歓迎されて、“楽しかったね。あんないい人たち,なかなかいないよね。”という場面です。」
「どこのカルト宗教でもやる“愛の爆撃”ね。この言葉は統一教会の新しくやってきた人の歓迎ぶりを表す言葉だけど。」
「JWの集会を“楽しかった”と感じる人はよっぽど孤独か精神が少し病んでいる人じゃないですか。」
「質問と答えがセットになっている文章を学ぶというのは、多くの人には奇妙だよ。これは昔の教理問答という学習形態をそのまま模倣したもの。時代錯誤も甚だしいね。」
「2節には“兄弟姉妹と親しくなるにつれて相手の欠点や弱点も見えてくることでしょう。(ロマ 3:23)そうしたことが原因でエホバに仕えるのをやめてしまう人もいます。”とあります。初めはいい人を演じていても、いつまでも続けられませんからね。」
「信者が減少する中、信者同士もう少し仲良くしようよ、というのがこの記事の主旨かな。でもJWをやめる人が多いのはJWという宗教そのものに問題があるからでしょう。それには触れられないね。」
「3節に“この記事の主題聖句に注目してみましょう。(ヨハネ 13:34,35を読む。)”とあります。ヨハネは愛を強調していますよね。なぜですか?」
「ヨハネの中のイエスは他の福音書と違って神の国について語らないし、終末論も語らない。信者による共同体の建設を重視している。それで愛が強調されるわけだ。JWとは違う思想だね。」
「5から10節が“イエスの本物の弟子が愛によって見分けられる,と言えるのはどうしてか”です。 あまり内容はありません。7節で面白い論理を展開しています。“サタンは,間違ったことを教える宗教をたくさんつくって,人々を混乱させています。でも,国を超えて互いに愛し合う人たちのグループをつくることはできません。それができるのはエホバだけです。(略)だからこそ,イエスは自己犠牲的な愛によって本物のクリスチャンを見分けられると言いました。”とあります。」
「この部分に登場するのはサタン、エホバ、イエスだけど、イエスは付け足しで、サタンとエホバが激しく勢力争いをしているのがこの地球であるという世界観が前提としてある。そんな世界観自体がカルトなんだよね。」
「前半で“国を超えて互いに愛し合う”ことを真の宗教の基準にしているのに、結論は“自己犠牲的な愛”にすり替わっています。なんですか、これは?」
「前半と後半がつながっていないけど、そんなことを気にするJWなんかいないんだよ。もとの原稿に誰かが修正を加えたからじゃないの?」
「8節が体験談です。イアン兄弟がJWの大会に初めて出席した時の話で、“証人たちは身なりがきちんとしていて礼儀正しく,子どもたちも行儀良くしていました。……しかも,それらの人は満ち足りた平安な気持ちでいるようでした。”と言っています。JWの表面しか見ていませんね。どうせ捏造した体験談ですよ。」
「スーツにネクタイという姿に感銘を受ける人は会社員に劣等感でも持っている人なの?子どもの行儀がよいのはそれなりの恐ろしい理由があるのではと疑って欲しいね。基本的に保守的な価値観の人なのだろう。そういう人がJWに感銘を受けるわけだ。」
「この人は大会での醜い座席の取り合いとか、大会に出席するために宿泊する人に対してはホテルが指定されて、JWの幹部はそこにタダで泊まれるようホテルから便宜を図ってもらっているとか、ホテルに泊まるJWのマナーが悪いので子どもに対するような注意が毎回なされるとか、知らないですよ。」
「事情をよく知らない一人の観察は何かを証明するものではない。この人は北朝鮮のマスゲームを見ても、“それらの人は満ち足りた平安な気持ちでいるようでした。”と言うと思うね。」
「8節の結論が“私たちが兄弟姉妹に親切にし,敬意を表せるのは,お互いに心から愛し合っているからです。”とあります。一人の感想から一気にこんな結論に飛ぶなんて、おかしいです」
「サッカーのワールドカップの試合終了後日本人サポーターがゴミ拾いをしていたよ。この記事の執筆者なら、日本人のサッカーファンがこのように礼儀正しいのは、お互い心から愛しあっているからでしょう、と書くのかな?」
「9節はジョン兄弟の感想で、“出席しているどの人からも親しみ深さ……が感じられ,皆が聖人のように思えました。その純粋な愛を見て,これこそ真の宗教だと確信しました。”というものです。この人はそこに存在しないものを見てしまう特殊能力のある人ですよ。」
「単にJWにこびへつらっているだけ。早く長老になりたいんだろう。」
「結論は、“こうした例から,エホバの証人が本物のクリスチャンだということが分かります。”です。この執筆者は論理的に書くことを勉強して欲しいです。」
「いわば身内の人間のたった2つの感想が、JWが本物のクリスチャンであることの根拠になるとは、どんな間抜けな人でも思わないよ。その他にJWが本物のクリスチャンである根拠が見つからなかっただけ。」
「11から14節が“イエスはどのように使徒たちに愛を示したか”です。 マタイ20章の話を取り上げています。11節に“ある時,使徒のヤコブ とヨハネは母親を通して,イエスに王国での目立った立場を求めました。(マタ 20:20,21)”とあります。同じ話がマルコ10:35-45に出ていますが、マルコでは母親が出てきません。どういうことでしょうか?」
「マタイもルカもマルコを資料の一つと使っているけれど、自分の神学に合わせて書き換える。マルコの特徴は弟子たちに厳しいこと。マルコは弟子たちのダメっぷりを容赦なく描く。マタイとルカはそれが気に入らなくて、弟子たちのダメっぷりを修正する傾向にある。」
「マタイは母親を出すことによってヤコブとヨハネの悪い印象を和らげようとしたということですね。悪いのは親バカ丸出しで、おせっかいな母親ということにした。マタイは女嫌いということですね。」
「マタイでは母親は最初に出てくるだけ。母親が“この息子たちがあなたの王国で1人はあなたの右に,1人は左に座れるようにしてください。”とお願いしたのに、22節以降イエスは母親があたかも存在しないかのようにヤコブとヨハネに話しかけている。本来登場しない母親を登場させたために不自然な展開になっている。」
「12節では“ほかの使徒たちの反応についてこう書かれています。「ほかの10人はそのことを聞くと,その2人の兄弟に対して憤った」。(マタ 20:24)”とあります。それに対してイエスは“使徒たちが本当 は正しいことをしたいと思っていることが分かっていたので,辛抱強く教えました。(マタイ 20:25-28を読む。)”とあります。JWと違って、審理委員会を開いて排斥処分にしたり、みんなで口も利かないし挨拶もしないということもしなかったことがわかります。」
「JWの審理委員会なら、ヤコブとヨハネは即座に排斥だね。」
「引照聖句の訳ですが、20:28が“また多くの人と引き換える贖いとして自分の命を与えるために来ました。”とあるのですが、贖いという宗教用語がここに出てくるのはヘンですよ。贖いは人と交換するものではないです。」
「新約聖書ではイエスの命が交換するもの。イエスの死によって人間の罪が許され、永遠の命を得られるようになることが贖いだね。JWの翻訳者は贖いの意味を知らないね。」
「英語訳はransomなので“身代金”と訳すべきです。協会共同訳では“多くの人の身代金として自分の命を献げるために”となっていますよ。」
「元のギリシャ語は奴隷を自由にするために支払う金額という意味で使われる。一言でいうと身代金だね。JWの翻訳者は身代金というと身代金目的の誘拐事件を連想して、その言葉を使いたくなかったかも。」
「15から18節が“イエスにどのように倣えるか”です。 15節では、間違ったことをした人に対して、“自分がこんなに腹を立てているのはどうしてだろう。こういう反応をするのは,自分に何か足りないところがあるということだろうか。自分を傷つけたあの人は何か大変な問題と闘っているんだろうか。たとえ相手に落ち度があるとしても,愛を示して許すことができるだろうか。”と自問せよと言っています。」
「JWでは被害者の方がまず反省するわけだ。怒るのは何か問題があるからのようだ。聖書の神様はしょっちゅう怒るよ。神様こそ反省しろということかな。」
「怒りは正義が踏みにじられたときの正当な反応です。怒らない人は正義の感覚が欠如した人ですよ。」
「“自分を傷つけたあの人は何か大変な問題と闘っているんだろうか”と相手の事情を考慮するのは聖書的じゃないね。聖書ではそのようなことは考慮せず、結果から裁かれる。計画的な殺人も過失致死も、裁きに差はほとんどない。」
「JWは被害者に過剰な要求をしすぎです。」
「“愛を示して許すことができるだろうか。”と自問してみたものの、やっぱり絶対許せないという答えだったらどうするかは書かれていない。JWには許すしか選択肢はないということね。」
「17節に体験談が出ています。“気に障る言動をする兄弟”がいたけれど、よく知るように努力したら、“生い立ちがその兄弟の性格に大きな影響を与えているということ”がわかったとあります。どういうことかもっと具体的に書いて欲しいですね。」
「子どもの時からカルト宗教の一員で、世の中の常識を学ぶことがなかった、とかじゃないの。具体的に書くと差しさわりがあるんだよ。」
「そして“兄弟が生い立ちの影響を乗り越えるためにどれほど頑張ってきたかを知って,本当に立派だと思いました。私たちは良い友達になりました。”とあります。やはり具体性がないのでインパクトに欠けます。」
「この話で思い出すのはJWの子どもとして生まれた人だね。その生い立ちが性格に大きな悪影響を与えて、JWを辞めた後でもその悪影響を乗り越えるためにどれほど頑張ってきたか。本当に立派だね。」
「18節がまた被害者泣き寝入りの勧めです。あれこれ書いていますが、結論は“こうしたことを時間をかけて考えるなら,愛を示して水に流そうと思うかもしれません。”と、水に流せない人はまるで何か欠陥のあるような書きっぷりで、許せません。」
「執筆者は組織側の人間で、さんざん信者を騙してきた加害者なので、預言が外れたくらいで騒ぐ方が悪い、どうして水に流せないの、と言いたいのだよ。」
「自己保身から許すことを強調しているわけですね。」
「18節で“「話し合いに行くと,問題がもっと大きくなってしまわないだろうか」。(格言26:20を読む。)”とあるけれど、ひどい聖句の誤用だ。」
「そこには“まきがなければ火は消え,中傷する人がいなければ言い争いはやむ。”とありますね。中傷を辞めろといっているだけです。」
「とにかくJWでは被害者と加害者が話し合うのもいけないようだ。」
「JWも他の宗教をサタンの宗教などと中傷するのを止められたら、少しはまともな宗教になるんですけどね。無理ですね。」
「最後の19節で“エホバの証人はグループとして,イエスの本物の弟子であることを示しています。”と高らかに宣言しています。しかし、その根拠はJWの体験談しかありませんでした。」
「あくまでも自称・イエスの本物の弟子ね。言ったもの勝ちと思っているのかな。」
「単なるJWの自己宣伝でしたね。」
#1460 2023年06月09日 14:30:38
- 聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“イエスの奇跡から学べること(15)”で、ヨハネ2章とルカ7章に出ている奇跡物語から、謙虚さと思いやりを学ぼうという内容です。」
「奇跡物語から学ぶのがそんなことなの?的外れだね。JWには謙虚さと思いやりが欠けているので再学習しようということなのか?」
「1節はヨハネ2章にある、結婚式でワインがなくなったけれど、イエスが水をワインに変えてくれたので、急性アルコール中毒患者が続出したという話を紹介しています。」
「“酔ったころ”とあるだけだよ。」
「1節に“マリアは急いでイエスの所に行き,「ぶどう酒がありません」と言います。(ヨハ 2:1-3)イエスはどうしたでしょうか。水を「上等のぶどう酒」に変えるという奇跡を行いました。(ヨハ 2:9,10)”とあるのですが、マリアは単なるゲストのイエスにワインがないことをなぜ言うのですか?不自然です。いうべきは結婚式の主催者ですよ。初めからイエスが奇跡を起こすと思っていたわけじゃないですよね。」
「イエスもそんなことを自分に言うなんて見当違いと思ったんじゃないかな。ヨハネ2:4に“それは私たちが心配することですか。私の時はまだ来ていません。”とかなりぶっきらぼうに答えている。でもこの訳はへんだね。」
「協会共同訳では“女よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません。”となっています。JW訳では“女よ”を省略しています。」
「イエスのぶっきらぼうな答えを和らげるために“女よ”を省略する訳はJW訳以外にもあるけれど、なるべく忠実に訳して欲しい。」
「ヨハネ2:11に“イエスはこれを最初の奇跡としてガリラヤのカナで行い,自分の力を明らかにした。”とありますが、意図的な語訳ですね。」
「英文では“Jesus did this in Caʹna of Galʹi·lee as the beginning of his signs, and he made his glory manifest”で、“奇跡”ではなく“しるし”で、“自分の力”ではなく“自分の栄光”だ。」
「ヨハネの特徴として“奇跡”という言葉は使わずに“しるし”という言葉を使うというのが有名なんですけれどね。しるしはヨハネの中で7回出てきます。これは意図的に完全数である7回にしたわけですね。」
「ヨハネにとって奇跡は単なる驚くような出来事を超えた象徴的意味を持つもの。それで“しるし”という用語を使っているのだろう。この話は書かれている通りのことが起こったと解釈すると、酔っぱらいをさらに酔っぱらわせたという実につまらない話になる。」
「ヨハネのしるしの話は一種のたとえ話のようなものですよ。結婚式でワインが不足するというのは、あることを象徴しています。」
「みずがめが6つというのも意図的だ。6は不完全数。水をみずがめのふちいっぱいに入れるというのも、最後に上等のワインが出てきたというのもあることを象徴している。」
「文字通りの、ある結婚式での出来事とすれば、奇跡がすごいとしかいいようがないですよ。でもつまらない奇跡です。」
「ヨハネは文字通りに読者が読むことを期待していないと思うね。これは第1のしるしで、重要な意味がある。この話は“3日目にガリラヤのカナで結婚の披露宴があり”(2:1)で始まる。イエスは3日目に復活した。この話にイエスの母が登場する。次にイエスの母が登場するのはイエスが死ぬとき。」
「この話でイエスは“私の時はまだ来ていません”とぶっきらぼうに言います。読者はその時とはいつなのか?と疑問に思います。そう思わせる意図ですね。」
「福音書はイエスの死に向かって話が進行する。その時とはイエスが死ぬとき。ヨハネは水をワインに変える話でその伏線を張っていると読めるね。」
「4から7節が“エホバとイエスについて学べること”です。 イエスの奇跡の話なのにエホバが出てくるというのはエホバ教らしくて笑えます。イエスの奇跡から3つの点が学べるそうです。」
「JWの完全数は3だね。」
「5節が①“イエスとエホバは私たちを深く愛している。”です。奇跡で病人を治したり、空腹の人に食べ物を与えたことを言っていますね。」
「でも、現代のJWには関係ないよね。JWは病人が多いし、食べ物に事欠く人もいる。」
「6節が②“エホバは人類の問題全てを解決する力をイエスに与えている。”で、7節が③“イエスが将来神の王国の王として素晴らしいことを行うと確信できる。”です。」
「イエスの行った奇跡から、イエスが“人類の問題全てを解決する力”があるとは断言できないでしょう。」
「イエスの行った奇跡というと病気を治す、悪霊を追い出す、死者を復活させる、水の上を歩く、嵐を鎮める、あとは食べ物関連の奇跡ですか。魚が大量に獲れたというのもありましね。このようなことで全人類の問題全てが解決できますか?」
「その他の奇跡としてイチジクの木を枯らすというのもあるよ。” もう二度と実を付けないように”と言ったら、枯れてしまった。」
「いろいろ奇跡物語がありますが、4つの福音書全てに出ている奇跡は5000人に食事をさせた奇跡だけです。ヨハネに出てくる奇跡は他の福音書には全く登場しないことが多いですよ。」
「5000人にパンを食べさせた後の話が重要で、ヨハネ6:15で“イエスは,人々が自分を王にするために捕らえに来ようとしているのを知り,ただ独りで再び山に去っていった。”とあり、ヨハネ6:26で、イエスは“はっきり言っておきますが,皆さんが私を捜しているのは,奇跡を見たからではなく,パンを食べて満足したからです。”と言っている。イエスは辛らつだね。」
「つまり、イエスの奇跡はイエスに対する信仰を生み出すことはなく、むしろイエスを利用しようというような邪悪な考えや、イエスに対する敵意を生み出したのですね。」
「ヨハネ9:16に“パリサイ派のある人たちは,「その人は神の所から来たのではない。安息日を守っていない」と言いだした。ほかの人たちは,「罪人だったら,どうしてこんな奇跡を行えるだろうか」と言った。こうして意見が分かれた。”とある。これは目の見えない人が見えるようになったことに対する反応。」
「ヨハネではイエスの話も奇跡も、それによって信仰を抱く少数の人と多数の敵意持つ人に分かれて行ったことを描いているわけですね。」
「そういう訳で、この記事のように、奇跡すごい、イエスすごい、という単純な話ではない。」
「9から12節が“謙遜さについて学べること”です。 イエスの奇跡話から教訓を学びます。それはJWが平信者に絶えず要求する謙遜さです。再びヨハネ2章の水をワインに変えた話を取り上げます。9節には“披露宴でぶどう酒がなくなってしまった時,イエスは奇跡を行う義務があったわけではありません。”とくだらないことを言っています。」
「9節に、飲みのものがなくなったら“イエス は,新郎新婦や家族が恥ずかしい思いをするのはかわいそうだと思ったのでしょう。それで,390㍑もの水を最高級のぶどう酒に変えるという奇跡を行いました。それほどたくさんのぶどう酒があれば,残った分を後で飲んだり,売ってお金に換えることもできたでしょう。”とあるけれど、これではイエスはおとぎ話に出てくる親切な魔法使いと一緒だね。」
「ヨハネではイエスは神ですよ。奇跡はイエスの中にある神としての性質を明らかにするためのたとえ話じゃないですか。」
「JWにとって聖書の話は安っぽい教訓話に過ぎないということ。」
「390㍑という数字は納得できません。ヨハネ2:6には“そこには,ユダヤ人の清めのしきたり通りに石の水がめが6つ置いてあり,各容量は五,六十リットルだった。”とあります。つまり300から360㍑で、間を取れば330㍑です。どうして390㍑になるのですか?」
「英文ではsome 390 liters (103 gal)とあるから、”390㍑“と訳しただけだね。問題は聖書本文の翻訳。”各容量は五,六十リットルだった。“ではなく、”各容量は44から66リットルだった。“とすべきだね。」
「66×6=396なので、この記事では水がめの容量をなぜか最大値の66㍑と見積もっているようです。イエスがたくさんのワインを作り出してあげた親切な魔法使いのおじさんという印象を与えようとしているわけですね。」
「数字が合わなくなったのは、聖書本文の翻訳をいつものごとく適当にやったから。JWであるということは本当に恥ずかしいことだね。」
「“最高級のぶどう酒”に変えたとあるのですが、高級ワインなんか当時あったのですか?」
「ヨエル1:5に“酔っぱらいたち,目を覚まして泣き悲しめ!ぶどう酒に溺れる者たち,皆,泣き叫べ。あなたたちの口に入る甘いぶどう酒はもうない。”とあるけれどこの“甘いぶどう酒”というのが高級ワインのようだね。普通のワインとは製法が違うようだ。」
「エゼキエル27:18に“ダマスカスも,豊かな産物を求めて,裕福なあなたと取引をし,ヘルボンのぶどう酒とツァハルの羊毛を運んできた。”とありますが、“ヘルボンのぶどう酒”は古代から有名だったようですね。」
「ヘルボンでは今もワインの産地だよ。」
「10節に” 水をぶどう酒に変えた後も,それを自分で宴会の幹事の所に持っていくのではなく,給仕たちに持っていかせました。(8節)”とあるのですが、”宴会の幹事”とありますが、日本の宴会と同じですか?」
「英文ではthe director of the feast。directorは管理者で幹事とは違うね。宴会の幹事というと世話役でしょう。英語の聖書ではthe headwaiter(給仕長)としているものが多い。」
「11節に“この奇跡から,謙遜さの大切さが学べます。イエスは,水をぶどう酒に変えたことを自慢したりしませんでした。実際,イエスは自分がしたことを自慢することなど一度もありませんでした。”とあります。というわけで、水をワインに変えた奇跡から学ぶことは謙遜さです。ズレていますね。」
「11節に“私たちもイエスに倣って謙遜であるなら,自分のしたことを自慢したりはしないでしょう。”とあるけれど、記事の中によくある体験談はほとんどが自慢話だよ。これからは、頑張ったら長老になれましたとか、バプテスマに100人導きましたとかと言った記事はなくなるのかな?」
「ヨハネのイエスは謙遜じゃないですよ。自分は神であると何度も言っています。」
「ヨハネ8:24に“私がその者であることを信じないなら,あなた方は罪を負ったまま死ぬことになるのです。”とあるけれど、協会共同訳では“『私はある』ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる。”となっている。“わたしはある”というのは旧約聖書の神のことだよ。同じ表現は8:28,8:58.13:19にも出てくる。」
「12節が面白いです。“イエスの謙遜さに倣う方法はほかにもあります。”とあるのですが、どんな話かというと、“若い援助奉仕者の兄弟が初めて公開講演をすることになり,ある長老が時間を取って助けてあげます。おかげで,若い兄弟は良い話をすることができ”た、という場合、手伝った長老は“謙遜であれば,自分がほかの人のためにしたことを得意げに話したりはしないはずです。”というのです。」
「年寄りはでしゃばるなということだね。組織は若い人を登用して、世代交代を早めなくては衰退していくだけと思っているからね。」
「大したこともしていないのに、若い兄弟を指導して育てていますというふりをしたがる長老が多いということですよ。」
「それでますます若い人がいなくなる。いいことじゃないか。」
「13から16節が“思いやりについて学べること”です。 水をワインに変えた話から、ルカ7章のナインで一人息子を復活させた話に変わります。」
「水をワインに変える話からはこれ以上教訓話を思いつかないので、別の奇跡を取り上げるわけだね。」
「15節に“イエスのこの奇跡から,悲しい思いをしている人に思いやりを示すことを学べます。”とあります。家族を亡くした人にもっと思いやりを示せという指示ですね。」
「JWは家族を亡くした人に冷淡な宗教だからね。お葬式の話でも故人について語るのは5分だけで、あとはJWの宣伝をするだけと言われている。」
「16節が実例です。集会で復活の歌を歌っていた時、最近幼い娘を亡くしたばかりの姉妹が泣いていたので、“隣に行き,肩を抱いて歌の残りを一緒に歌ってあげました。”というものです。珍しく人間らしい話です。」
「そんないい話じゃないよ。娘を亡くした姉妹は“あの時集会に行って良かったと感じています。”とある。家族を亡くした人でも集会に来させようという意図だね。家でひとり家族を失った悲しみに浸るということは許されないのがJWということ。家族が死んだくらいで集会、伝道をサボるのは許さないぞ、という組織のありがたい教えだ。」
「17,18節が“もっと調べてみましょう”です。 まとめと来週の予告です。17節に“イエスのほかの奇跡についても,個人研究や家族の崇拝で調べてみるのはどうですか。”とあります。でも、JWの出版物から学ぶのはやめた方がいいですね。」
「18節に来週はラザロの復活について学ぶことが書いてある。イチジクの木をからした奇跡について取り上げて欲しかった。」