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#1451 2023年04月07日 14:25:24

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ 聖書から著者について分かること (6)”で、聖書は神の言葉で、その解釈は組織だけができるので、組織に死ぬまで従えという内容です。」
「JWは聖書を学ぶと称して、実際は自分たちの出版物を学ばせているだけ。聖書は自分たちの教えの権威付けになればいいだけで、JWは本当は聖書に敬意を払っていない。だから、気楽に聖書を改ざんできるわけだ。」

「2節に“エホバはご自分のことを知ってほしいと思っています。”とありますが、違いますね。知ってほしくないとしか思えません。」
「神なら、自分を知らせる方法はいくらでもあるはず。なぜそうしない?それをしない以上、知ってほしくないという結論になる。」

「2節に“それでエホバはご自分のことを「書に記」させ,私たちが読めるようにしました。(エレミヤ 30:2)これはとても良い方法です。「真の神の道[方法]は完全」なのです。”とありますが、単なるプロパガンダですね。」
「聖書が読めるのは現代語に翻訳されているからだけれど、その翻訳は神がしているのかな?JWの場合、専門教育を受けたことのない人間が辞書を片手に英語に訳した。それをさらに、無知無学な人間が自分の考えを勝手に付け加えながら日本語に訳した。それが日本人信者がありがたがって読んでいる聖書だよ。完全とは程遠い。」

「原語から英語に翻訳する時点でかなりミスがありますし、英語から日本語に訳する時点でもかなりミスがあります。」
「それを神の言葉というのは無理だろう。」

「3節に“聖書は,はるか昔に書かれた本です。しかも朽ちやすい素材に書かれたので,原本は一つも見つかっていません。”と珍しく本当のことを書いています。これは予想される疑問をあらかじめ封じようという意図ですよ。」
「そんなに大事な神の言葉なら、なぜ原本がないの?神のスーパーパワーで保存できるはず、と誰もが思うよ。」

「数千年前の粘土板に書かれた文書が今でも大量に残っています。エジプトでは大昔に石に刻まれた象形文字を今でも見ることができます。なぜ聖書もそうしなかったのでしょう?原本を残すのにスーパーパワーは必要としないです。」
「聖書の神は間抜けな神で、文化レベルの低いイスラエル人に記録の保存方法を教えるのを忘れたんだね。」

「十戒は石に刻まれたので半永久的に残るはずなのに、途中で行方不明になっています。しかも、聖書の中では誰もそれを問題にしていません。」
「それこそ神の言葉でしょう。いいかげんだよね。」

「3節に、写本について、“ある学者もヘブライ語聖書についてこう言っています。「古典の中で,これほど正確に伝わってきたものはほかにないと言っても差し支えないだろう。”とありますが、不正引用です。誰が、どういう文脈で語ったのかがわからなければ評価しようがありません。」
「ウィリアム・ヘンリー・グリーンだよ。ものみの塔一般2016,No.4に出ている。“洞察”の“聖書の写本”に“「考古学と聖書歴史」,J・P・フリー,1964年,5ページ”と出典が示されている。相当古い本で、こんな昔の本を引用していることを知られたくないのだろうね。」

「ウィリアム・ヘンリー・グリーンは長老派の牧師です。自分に都合の良い護教論を述べただけです。」
「牧師という立場上、聖書の写本間の違いは相当あり、完全に同じものは存在しないという不都合な真実は知っていても言えないというだけ。」

「3節のまとめが“それでも私たちが持っている聖書には,著者であるエホバのお考えが書かれていると確信できます。”というものです。根拠がなく自信のない時に限って、“確信できます”と強弁するのがものみの塔の執筆スタイルです。」
「旧約聖書では本文がかなり破損して、何を言っているのかよくわからない箇所もけっこうある。例えばアベルとカインの物語。意味がよく分からない箇所が何か所もあり、恐らくこうだろうという推測に基づいて訳されている。つまり神の考えではなく、翻訳者の考えが書かれている。」

「5から10節が“聖書から分かるエホバの知恵”です。 6節に“聖書の著者であるエホバは,全能者で,永遠に生きていて,誰よりも知恵のある方だからです。”とあります。でも聖書には間違いがたくさんありますよ。聖書の著者は古代の平凡な知識しかなかったように思えますよ。」
「例えば、レビ14:33-53に家の中にカビが生じた場合に清める方法が長々と書かれている。最後は“一方の鳥を,きれいな水が入った土器の上で殺す。杉の枝,ヒソプ,緋色の布,生きている方の鳥を取って,水の上で殺した鳥の血に浸す。その血を家に7回はね掛けなければならない。”とある。このような行為はカビ対策としては無意味で、古代の呪術としか言いようのないものだ。」
「もし聖書の著者が神なら、なぜカビに対処するもっとまともな方法を教えないのか理解できません。」
「知らないから、教えようがないんだよ。これは医学分野でも同じ。聖書にはろくな医学的アドバイスがない。」

「7節に“でもエホバは,イスラエル人が定期的に集まり合って,神の言葉の朗読と説明を聞けるようにしました。(申命記 31:10⁻13。ネヘミヤ 8:2,8,18)その時エルサレムには,各地から何百万人もの人たちが集まったことでしょう。”とありえないことを書いています。」
「引照聖句の申命記31:10-11に“7年目ごとに,その免除の年の決められた時,仮小屋の祭りの間に,神が選んだ場所で,イスラエル全体がエホバ神の前に出る時,イスラエル全体が聞けるようにこの律法を読み上げるべきです。”とあるけれど、こんなことが実行できるわけないし、実行されていない。」
「音響設備がないのに、律法を読み上げたって周囲数十メートルしか聞こえません。」

「イスラエルの人口は現在約950万人でユダヤ人は700万人くらい。古代では多くても数十万人だろう。西暦1世紀でも、エルサレムはローマ帝国の辺境の町で、人口は1万人程度にすぎないとされる。そこに数百万人が集まったなんて、執筆者は何を根拠に言っているのだろうね?ちなみに1世紀の都市の人口は、ローマで約35万人、アレキサンドリアが約22万人とされる。」

「7節では“エホバはこのようにしてイスラエル人を一つにまとめていたのです。”といっています。本当に一つにまとめたければ、テレビ放送とかインターネットでも作ればよかったんじゃないですか?」
「一つにまとめていたというのもフィクション。執筆者は古代社会がとんでもない格差社会で、王族や祭司階級と奴隷、その日暮らしの労働者、貧しい農民の間に深刻な対立があったことなど知らないようだ。一つの宗教で結ばれた理想の共同体が古代イスラエルと誤解している。」

「7節に1世紀のクリスチャンのことが書かれていて、“話す言語も社会的立場も経済的状況も違っていました。それでも,みんな聖書を愛していたので,一つにまとまってエホバを崇拝することができました。”とあります。歴史の捏造です。」
「1世紀に聖書はあるかな?福音書が書かれるのは1世紀の終わりごろだけど、聖典として読まれてはいないよ。パウロの手紙も同じ。それが聖典とされるのはずっと後の話。1世紀のキリスト教は文書宗教じゃない。」

「1世紀のクリスチャンは一つにまとまっていませんよ。」
「様々な原始キリスト教があったね。それぞれの立場を反映した様々な福音書が書かれたけれど、聖典として認められた4つ以外は排除されていく。聖典となった4つの福音書だって、その中身はかなり違う。パウロの教えが主流になったのは、エルサレムが破壊され、クリスチャンが非ユダヤ人中心の宗教になってから。それでもパウロに批判的な人たちはいた。」

「9節に“エホバは聖書の多くの部分を,謙遜な人だけが理解できるようにしました。このことにもエホバの知恵が表れています。(ルカ 10:21を読む。)”とあるのですが、引照聖句はそんなことは言っていません。聖句の誤用です。」
「そこには“まさにこの時,イエスは聖なる力により喜びにあふれて言った。「天地の主である父よ,あなたを大いに賛美します。あなたはこのようなことを賢い知識人たちから注意深く隠し,幼い子供たちに啓示されたからです。”と書かれている。まず“このようなこと”とはなにかだけど、JWは聖書のことと解釈したわけだ。そう解釈するのはJWだけだろう。」

「ここは70人を派遣して、成果を上げて戻ってきた時のイエスの発言です。どうして当時存在しない聖書のことを言っていると解釈するのか理解できません。」
「ルカ10:11で、歓迎してくれない町では“この町で足に付いた土さえも,あなた方に向かって払い落とします。それでも,神の王国が近くに来たことを知っておきなさい。”と言いなさいとイエスは弟子たちに言っている。弟子たちのメッセージは神の王国が近づいていることだとわかる。それで“このようなこと”はそのメッセージを指していると解釈するのが普通だね。」

「“幼い子供たち”のことを“謙遜な人”と解釈していますが、違いますよ。」
「“幼い子供たち”は“賢い知識人”の反対のタイプの人間として使われている。無一文で薄汚いイエスの弟子たちを見てバカにしたり、嫌悪するような偏見を持たず、正しいことを正しいと素直に受け入れる開かれた精神の持ち主のことでしょう。JWとは大違いだね。」

「派遣した弟子の数ですが、JW訳では70人となっています。協会共同訳では72人です。聖書って不一致が多いですね。どっちが正しいのですか?」
「写本によって違う。旧約聖書では70という数字はよく出てくる数字。出エジプト1:5には、“ヤコブの子孫は合計70人だった。”とある。民数記11:16には“イスラエルの長老を70人集めなさい。”とある。サンヘドリンのメンバーも70人。そこで、もともとは72人だったけれど、写本家は70という数字になじんでいたので、うっかり70と誤写したのだろうと考えられる。その逆は考えにくい。」

「創世記10章に出ている民族の数は70人訳では72だそうですね。ルカは全ての民族に弟子たちを派遣したという意味で72という数字にしたという説があるようです。」
「新しい聖書で70としているのはJW訳ぐらいだよ。JWはダメだね。ちゃんと聖書研究しようよ。」

「11と12節が“聖書から分かるエホバの公正”です。 11節に、エホバは公正なので“1つの言語にこだわることはしなかったのです。”と珍説を述べています。聖書の言語と公正さは無関係ですよ。」
「もともとマイナーな言語だったヘブライ語は途中から使われなくなった。イエスだってヘブライ語を使わない。そんな言語で神の言葉を書かせた神様って、将来を全く見通せないダメな神様。」

「12節に“エホバはダニエルを通して,終わりの時に聖書の「真の知識が満ちあふれ[る]」と予告しました。たくさんの人が聖書を理解できるようになるということです。(ダニエル 12:4を読む。)”と珍説をまた披露しています。」
「そこには“ダニエル,終わりの時までこれらの言葉を秘密にしておき,この書を封印しておきなさい。多くの人が巡り歩き,真の知識が満ちあふれます。”とある。“この書”とはダニエル書のことだよ。ダニエル書はバビロニアからペルシャ時代に書かれたことになっているけれど、実際はずっとその後なの。遠い昔ダニエルという人物によって書かれた本という設定を本当らしくするためには、なぜこの書の発見が遅れたのかを説明する必要があり、それがダニエル12:4ということ。」
「ここで言う“終わりの時”は今ではないですよ。」

「“多くの人が巡り歩き,真の知識が満ちあふれます。”はヘンな訳。まるでJWが伝道と称してその辺をうろつきまわるのを予言しているかのようだ。“巡り歩き”と訳されている動詞はゼカリヤ4:10の“エホバの7つの目もそれを見る。その目は地上全体に行き届いている。”では、“行き届いている”と訳されている。」
「ダニエル12:4は書物のことを言っているわけで、その辺をうろつくということではなく、書物のあちらこちらを調べていき、真の知識が満ちるという意味ということですね。」
「協会共同訳では“多くの人々は探求して知識を増やす。”となっている。探求するのはダニエル書だ。」

「13から16節が“聖書から分かるエホバの愛”です。 13節に“ご自分と友になり,今幸せな生活を送り,将来永遠に生きるのに必要なことを含めました。でも,私たちが把握し切れないほど多くの情報を聖書に載せることはしませんでした。”とこれまた奇妙なことを言っています。聖書には現代人から見ればどうでもいいことがたくさん書かれています。例えば家系図です。うんざりするほどありますよ。あれは今幸せな生活を送るのにどう役立つのですか?」
「そんなことよりも医療や農業の知識とか天気を予測する方法を書いてくれた方が、古代イスラエル人の幸せに役立っただろうね。」

「旧約聖書には一夫多妻制、奴隷制、大量虐殺、女性蔑視、同性愛者差別、民族差別を非難する部分はありません。むしろそのようなことを推奨しています。野蛮であまりにも低い道徳性の本です。現代のよい子には勧められません。」
「子どもの人権を守るという思想もない。体罰賛美、暴力賛美のとんでもない本だね。」

「14節に“聖書に細かな規則を載せて,私たちの生活を何もかもコントロールしようとはしていません。”とおかしなことを書いています。聖書にはうんざりするほど細かな規則があって、エホバはコントロールマニアとしか言いようがありません。」
「JWの信者はどうせ聖書なんか読まないから、そういったウソが通用するんだろう。」

「16節に“エホバは罪を犯した人を見放すのではなく,間違いを正せるよう優しく助け,ご自分の元に戻ってくるよう励ましました。”と偏ったことを言っています。そういうこともあったかもしれませんが、エホバは気に入らない人間を殺すのが大好きです。」
「聖書の神は気楽に人を殺すよね。ノアの大洪水では乳児や妊婦とその胎児まで皆殺し。出エジプトの際には、ファラオがイスラエル人を解放しないということでエジプトの全ての初子を殺している。ファラオとは無関係な人なのに。」

「列王二2章で、エリシャの禿げ頭をからかった子ども42人をクマを使って殺しましたね。殺し方も工夫を凝らすのがエホバですね。愛のあるエホバはこの子たちに対して、“間違いを正せるよう優しく助け,ご自分の元に戻ってくるよう励ましました。”とは言えません。」
「民数記15章には安息日に薪を拾い集めた人のことが出ていて、“民全体がその人を宿営の外に連れていって石打ちにし,その人は死んだ。エホバがモーセに命じた通りである。”とある。これは過剰な刑罰で、人命尊重の精神がこれっぽっちもない。この人に対しても“間違いを正せるよう優しく助け,ご自分の元に戻ってくるよう励ましました。”ということはなかったね。」

「最後の17,18節が“聖書という「良い贈り物」を大切にする”です。 JWが引用するのは聖書のごく一部ですよ。JWだって、聖書のほとんどが役に立たない不要なものと思っているはずです。大事なのはJWの出版物で、聖書はその権威付けにすぎません。」
「18節で“聖書という「良い贈り物」を当たり前のものと考えるのではなく,感謝を表すようにしましょう。”とある。この記事も、感謝を押し付けて終わるといういつものパターンだね。」
「感謝を表すために、伝道しましょう、集会に参加しましょう、寄付しましょう、と言わないだけましです。」

#1452 2023年04月14日 14:20:23

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“聖書をどのように読んでいますか (7)”で、小学生レベルの信者にJW流の聖書の読み方を教えるという内容です。」
「“何を学ぶか”の所に、“その多くは内容を正しく理解できてはいません。”とある。その代表がJWと多くの人が思っていることには気づいていないのはイタイね。」

「1節に“イエスはたくさんの聖句を引用して教えます。”とありますが、そうとはいえませんよね。」
「イエスの教えは福音書から知るしかないけれど、その中のイエスの教えというものが本当にイエスの教えなのか、それとも福音書の作者の創作なのかはっきりしない。多くはイエスの教えではないと思うよ。」

「ヨハネ3章のイエスとニコデモの話は明らかにヨハネの創作ですね。両者がギリシャ語で会話していないと意味が通じません。」
「ヨハネ3:3でイエスは“再び*生まれなければ,誰も神の王国を見ることはできません。”という。“再び”と訳されているギリシャ語は“上から”という意味があって、イエスは“上から”という意味で使ったのに、ニコデモは“再び”という意味と誤解するという話。」
「それでニコデモは“年を取ってから,どうして生まれることができるでしょうか。母親の腹にもう一度入って生まれてくることなどできません。”と言ったのですね。」
「その後、イエスは霊的に生まれることを言っているのだと解説する。これはアラム語の会話では成立しない。ギリシャ語を話すヨハネの創作。」

「JW訳が“再び”と訳しているのは誤訳ですね。」
「ニコデモと同じ誤解をしているということ。注には“もしかすると,「上から」。”とあるから“再び”ではおかしいということには気づいているのだろう。JW訳には無数の誤訳があるね。」

「それに対してマタイ23:24の“目が見えない案内人たち,あなた方は,ブヨを取り除きながらラクダをのみ込んでいます!”はイエスの言葉とされるのはなぜですか?」
「イエスはアラム語を話していた。アラム語ではブヨはカルマで、ラクダはガルマ。似た言葉なわけ。マタイ23:24はアラム語の場合だけ韻を踏んだ掛詞になる。イエスは駄じゃれを言ったわけだね。福音書の作者はギリシャ語を使うので、このようなことを創作したとは考えられないので、イエスの教えとみなすわけだ。」

「2節に、”幼い時には,家族の会話の中でヨセフやマリアが聖書のことを話すのを聞いていたはずです。(申 6:6,7)また,安息日には家族と一緒に会堂に通っていたことでしょう。“とありますが、単なる推測です。イエスが住んでいたというナザレにその当時会堂のようなものはありましたか?」
「1世紀のそのようなものは発見されていない。」

「2節に“律法に詳しかった教師たちも,12歳のイエスと神殿で話した時,「[イエス]の理解力と答えにとても驚」きました。(ルカ 2:46,47,52)”とルカにある話を取り上げていますが、この話には史実性はないですよ。偉い人は子どもの時も偉かったというよくある創作話ですよ。」
「イエスの誕生の話も史実性はない。イエスは30歳くらいまで何をしていたかは全くわからない。仏教では釈迦は摩耶夫人の右脇から生まれたとされ、その直後に七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と言ったことになっているけれど、誰も史実とは思わないのと同じ。」

「4から8節が“読んだ内容を理解する”です。 4節にルカ10章の話が出ていて、“でもイエスに「私の隣人とはいったい誰でしょうか」と聞きました。この人は聖書の言葉を知っていましたが,その意味を十分に理解してはいなかったということです。”とあるのですが、違いますよ。」
「ルカ10:25に“さて,律法に通じた男性が立ち上がり,イエスを試そうとして言った。”とあるよ。この男は答えを知っていたということ。模範解答を聞いた後イエスは、“その通りです。それを行い続けなさい。そうすれば命を得ます。”と答える。」

「つまり、わかっているなら、実行しなさい、と言ったわけですね。」
「ルカ10:29で“しかしその男性は,自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「私の隣人とはいったい誰でしょうか」。”とある。実行するよう求められた男は言葉だけの人で隣人愛を本気で実行などしていない。そんな自分を正当化するために、それでは隣人とは?と質問したということ。知らないから質問したわけじゃない。」

「5節に“まず,読む前にエホバに祈ります。集中して読み,内容を理解できるよう,聖なる力を求めることができます。”とあります。この記事を書いている執筆者はそれを実行しているのでしょうが、あまり意味がないことがわかりますね。」
「そして“読み終わったならエホバにもう一度祈ります。聖書を与えてくださったことへの感謝を伝え,学んだことを実践できるように助けてください,とお願いすることができます。”だって。聖書を読むことは宗教儀式なわけだ。こうして余計な規則を作り、信者をコントロールしていく。」

「6節には“自分に問い掛けながら読む”、“メモを取りながら読む”とアドバイスしています。」
「JW訳以外のまともな訳と比較しながら読みましょうというアドバイスはないよね。」

「7節に“イエスは,聖書を理解するためには識別力が必要だと教えました。(マタイ 24:15を読む。)”とあり、その聖句には“聖なる場所に立っているのを見掛けるなら(読者は識別力を働かせなさい)”とあります。この聖句は“聖書を理解するためには識別力が必要だ”なんて言っていませんし、識別力という訳はへんですよ。」
「識別力なんて解釈入れすぎの訳。元のギリシャ語は理解するとか、わかるという意味。マタイ16:9に“まだ要点が分からないのですか。”とあるけれど、同じギリシャ語だよ。なぜ、まだ要点が識別できないのですかと訳さないの?」

「識別力と勝手に訳して、7節で“識別力とは,2つの考えの関連や違いを把握する能力のことです。”と解説しています。滑稽ですね。」
「協会共同訳では“読者は悟れ”となっているよ。この記事の読者もJWのおかしさを悟ってほしいね。」

「9から11節が“宝のような真理を見つける”です。 9節に“それに対してイエスはこう言いました。「モーセが書いたいばらの木に関する記述の中で,神がモーセに『私はアブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である』と言ったのを読まなかったのですか」。(マル 12:18,26)サドカイ派の人たちはこの聖句を何度も読んでいたはずですが,亡くなった人が復活するという大切な真理を受け入れていなかったのです。”とあります。イエスが引用した聖句は復活の存在を示すものですか?」
「“私はアブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である。”という聖句から、復活があることを示していると読み取るのは1000回読んでも無理だね。」

「復活があるという結論を先取りし、その根拠となる聖句を探したら、明確なものはサドカイ派が重視するモーセの5書にはないので、この聖句を無理やり深読みして復活の根拠とした、という感じです。」
「サドカイ派は納得しないよ。史実だとしたら、こいつ何くだらないことを言っているんだ、と思ったんじゃないかな。」

「ものみの塔2013年2月号の“この方は……生きている者の神なのです”によると、“そうです,エホバは,ご自分のすでに死んだ忠実な僕たちを復活させるという目的の成就が全く確かなので,その者たちを生きているかのように考えておられるのです。”と説明していますが、単なるこじつけですね。」
「その記事の中に“それでもエホバは,『わたしは彼らの神であった』とは言わず,「神である」と言われました。それら亡くなっていた族長3人のことを,まだ生きているかのように話されたのです。”とあるけれど、これは完全な間違い。ヘブライ語でもギリシャ語もこの聖句に動詞はないの。」
「直訳すると、“私、アブラハムの神、そしてイサクの神、そしてヤコブの神”ですね。“~の神である(あるいは、あった)”などとは言っていないわけです。」
「JWの執筆者も時には聖書の原文を見たほうがいいよ。そうしたらもっとましなことを書けるようになるかも。」

「11節に“テモテ第二3章16,17節によると,「聖書全体」は,(1)教え,(2)戒め,(3)矯正し,(4)指導するのに「役立ちます」。(読む。)”とあります。ここで言う聖書って、旧約聖書のことですよ。新約聖書ができるのはずっと後の時代です。」
「テモテの手紙を書いた偽パウロも自分の書いた偽名文書が聖書に含まれるようになるとは夢にも思っていなかっただろうね。」

「12から14節が“学んだことに合わせて自分を変える”です。 12節に“イエスは,聖書を間違った態度で読んでいたパリサイ派の人たちに,「読んだことがないのですか」と言いました。(マタ 12:1-7)この時彼らは,イエスの弟子たちが安息日を守っていないと批判しました。それに対してイエスは,聖書中の2つの出来事とホセアの聖句に触れ,パリサイ派の人たちが安息日の意味を理解しておらず,憐れみに欠けていることを指摘しました。”とありますが、これはイエスというよりマタイの創作ですよ。ここでのイエスはちょっとましなパリサイ派にしか見えません。」

「オリジナルはマルコ2:23-28だね。同じ話が出ている。こちらがイエスの教えだと思うよ。マタイはそれに納得できなかったので、自分の考えを入れて話を変えた。まずマルコでは弟子たちは空腹とは書かれていないのに、マタイは空腹と付け加えて、弟子たちの行為を正当化しようとしている。」
「マルコでは弟子たちはたまたま穀物畑を通ったので、むしって食べたというだけですね。」

「マルコでは“人のために安息日が設けられたのであり,安息日のために人が存在するようになったのではありません。人の子は安息日の主でもあるのです。”とイエスらしいインパクトのあるセリフで終わる。」
「これは人間が主であって、律法は人間の役に立つためにあるのだから、不必要に人間を拘束してはいけないという意味ですね。」

「しかし、律法順守主義のマタイはこれに納得できなかったので、この部分を削除して、代わりにホセア書からの引用を付け加えた。」
「マルコのイエスは、律法なんかたいして重要なものじゃないだろうと居直っているのに対し、マタイのイエスは、律法の絶対性を前提に、空腹だからとか、祭司がどうのこうのと律法の再解釈によってパリサイ派の批判にこたえる律法学者ですね。」
「そういうわけで、これはイエスの教えじゃなくてマタイの教え。」

「マタイのイエスは5:18,19で“はっきり言いますが,律法から最も小さな文字1つや文字の1画が消え去るよりも,天地が消え去る方がまだ早いでしょう。記されたことは全て起きるのです。ですから,小さなおきての1つを破り,そうするよう教える人は,天の王国にふさわしくない者と呼ばれます。”と、律法順守の重要性を言っています。これもマタイの思想ですね。」
「そんなマタイなので“人のために安息日が設けられたのであり,安息日のために人が存在するようになったのではありません。”というマルコのイエスのセリフはカットした。それを認めたら律法の絶対性が揺らいでしまう。」

「12節で、パリサイ派がダメなのは“謙遜ではなく,ほかの人を批判するような態度で読んでいたからです。それで,聖書を本当の意味で理解することができていませんでした。”とありますが、そんなことはないでしょう。」
「翻訳に問題があるね。英文ではBecause they read it with a critical and proud spirit.で、“批判的でおごり高ぶった精神で読んでいたからです。”という意味。 もともとCriticalは他の人を批判するという意味ではない。」

「つまり、何事もうのみにせず、その根拠や論理性を吟味し、その確からしさを検討しながら読むということですね。」
「Criticalは批判的と訳されるけれど、いろいろな角度から検討する、その根拠を問うてみる、別な考えをぶつけてみるという意味合い。しかし、盲目的服従を信者に強要するJWのようなカルト宗教にはそれが理解できないし、許せない。」

「13節に“聖書の「言葉を温和に受け入れ,それが心に植え付けられるようにしてください」。(ヤコ 1:21)”とありますが、“温和に受け入れ”は意味がよく分かりません。これは直訳ですよね。」
「直訳だね。余計な意味を付け加えて翻訳するのが大好きなJW訳が直訳している場合、翻訳者は意味が分からなかったということだね。協会共同訳では“謙虚に受け入れ”となっている。JWは謙遜は好きだけど、謙虚は嫌いなようだ。」

「14節に“パリサイ派の人たちは聖書の言葉が心に達していなかったので,「罪のない人を断罪し」ていました。(マタ 12:7)”とあります。現代のパリサイ派がJWと言われていることに気づいていないのが非常にイタイですね。」
「聖書に書いていない規則を作り、それを守らないと排斥したり、受けられる医療に制限を設けて、助かるはずの人を死なせているのはどこの宗教だったかな?」

「14節が強調しているのは“誰かが間違いをした時,進んで許すでしょうか。それとも,根に持ったり厳しく責めたりするでしょうか。”で、いつものように被害者泣き寝入り、加害者高笑いの勧めです。」
「JWはアメリカでは刑務所での伝道に力を入れているようだけど、加害者にやさしい宗教ということで、刑務所の囚人には人気があるのかもね。」

「最後の15,16節が“聖書を読んで幸せを味わう”です。 15節に“イエスは聖書を愛していました。そのことは,詩編 40編8節でこう預言されていました。「私の神,あなたの望まれることを喜んで行います。あなたの律法は私の奥深くにあります」。”とありますが、ここに出てくるのは律法です。聖書とは違います。イエスについての預言でもありません。」
「細かいことを気にしないのがJW流の聖書の読み方ということだね。」

「詩編40:8がイエスの預言としているのは、ヘブライ10:5-7からですよね。そこでは“私は来ました。巻物に私について書いてある通り,神よ,あなたの望まれることを行うためにです。”と詩編40:8のギリシャ語訳の70人訳を引用しています。」
「新約聖書の作者はヘブライ語を知らないから、ギリシャ語訳から引用するのだけれど、これが現在の旧約聖書とかなり違うんだよね。」

「新約聖書の作者が読んでいた旧約聖書と現代人が読む旧約聖書は中身が違いますね。どちらがオリジナルなんですか?」
「複数のバージョンがあったということ。旧約聖書は一つではなく、細部の異なる様々なものがあった。そのうちの一つがたまたま現代まで伝わった。それが旧約聖書と呼ばれるもの。その現在まで伝わったものも意味不明の箇所がかなりあり、その場合は70人訳の本文を利用して復元している。神の言葉とは思えない情けない状況だね。」

「15節で“私たちも聖書を心から愛するようになるなら,幸せを味わいつつエホバに仕えていくことができます。(詩 1:1-3)”とあるけれど、根拠がないね。引照聖句は律法のことを言っているだけ。律法など無視しているのがJWなのだから、こんな聖句は過去のもののはず。」
「それでもJWは幸福な民だというフィクションでこの記事を終わりたいという執筆者の意図はわかります。」

#1453 2023年04月21日 14:19:41

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“頭がさえた状態を保ち,油断なく見張ってください (8)”で、JWとして正しい見方や時間の使い方を学ぶという内容です。」
「信者の管理統制強化を目的とした記事だね。またポルノはダメだ、JW以外の人と付き合うなという記事だね。頭がさえた人はJWは続けられないよ。」

「3節で“今私たちは,邪悪な世界が終わろうとしている時代に生きています。それで頭がさえた状態を保ち,油断なく見張っている必要があります。”とあります。これが要点です。この3節で終わりでいいんじゃないですか?」
「頭がさえた状態で、油断なく見張るという要点に、JW流のひねりが加わり、どんな展開になるのかだけが興味深いね。」

「4から6節が“世界の出来事を見張りつつ,バランスの取れた見方を保つ”です。 JWのいうバランスの取れた見方というのは実は恐ろしいほど偏った見方のことですよ。まず5節では“聖書の預言について話題にする時には,臆測で話さないようにしましょう。会衆の一致を乱さないためです。”とあります。これは無理ですね。憶測であれやこれやとうわさ話をするのがJWですよ。」
「憶測で適当なことを言っても許されるのは統治体だけのようだ。終わりの時の終わりの終わりと統治体の誰かが言っていたよ。これって単なる憶測でしょう。」

「具体例がヘンですね。“例えば,政治指導者たちが紛争の解決や平和と安全の実現について語るかもしれません。それを聞いて,これはテサロニケ第一 5章3節の実現だ、と決め付けてしまわないようにしましょう。”とあります。今はそんな世界情勢じゃないですよ。」
「完全にずれている。執筆者は普通の人とは違う別の世界に住んでいるようだね。」

「6節に“ペテロ第二3:11-13を読む。”とあり、そこには“その日に天は燃えて滅び,さまざまな要素は極度の熱で溶けます。”とあります。ということは、地球は核戦争の後のようになるということですか?」
「ペテロ二の作者はそう思っているんじゃないの。でも、その部分の前の3:8で“エホバにとって1日は1000年のようであり,1000年は1日のようです。”といっているから、終わりの日は何千年も先と言っているのと同じ。」

「ペテロ一4:7には“全てのものの終わりが近づいています。ですから,健全な考え方をしましょう。”とあります。終わりが切迫しているといっています。ペテロ一の作者とペテロ二の作者は終末観が違いますね。」
「そういうわけで、ペテロ一と二の作者は違うと普通は考えられている。もちろん両方ともペテロではない。」

「ペテロ二は終わりの日が来ないことに不満が出ているという時代のものです。ということは2世紀ごろに書かれたと見ていいわけですね。ペテロ二3:2で“聖なる預言者たちによって以前に語られた言葉と,救い主である主から使徒たちを通して与えられたおきてを,忘れてほしくないからです。”と、使徒たちの時代は忘れ去れるほど遠い過去と著者が言っています。」
「一応著者はペテロのふりをしているんだけどね。でもペテロ二3:16に“パウロはどの手紙の中でもこれらのことについて述べていますが,中には理解しにくい箇所もあります。”とある。これはパウロの書簡集が存在することを前提とした文。パウロの手紙が集められて書簡集として流布するようになるのは2世紀の半ば。ペテロ二もその時代に書かれた偽名文書だろう。」

「引照聖句に“エホバの日が来るのを待ち望み,それについていつも考えましょう。”とありますが、誤訳じゃないですか?」
「“いつも考える”というのはあり得ないね。同じ単語がルカ19:6に使われているけれど、“ザアカイは急いで下り,喜んでイエスを客として迎えた。”と訳されている。JW訳なのに、ここでは“急ぐ”と正しく訳しているよ。」

「協会共同訳では“神の日の来るのを待ち望み、それが来るのを早めなさい。”となっていますが、こちらの方が正しいということですね。」
「この聖句はJWにとって不都合だ。JWは聖書の中に散らばっている数字を適当に足したり掛けたりすることによって終わりの日が計算できるという暗号解読的な聖書理解をしている。それなのに終わりの日が早めることができることをこの聖句は言っているので、とうていJWとしては受け入れられない。それで意図的に誤訳した。改ざん聖書ならではだね。」

「早めることができるなら、遅らせることもできることになりますよね。JWというおかしな宗教のせいで遅れているんじゃないですか?」
「ユダヤ人の思想に人間の罪ゆえにメシアが現れるのが遅れているというものがあった。ペテロ二の作者にはそれが念頭にあると思う。なぜ終わりの日が来ないのか?それは信者に問題があるからですよ、と言いたいようだ。それで3:14で“それで,愛する皆さん,これらのものを待ち望んでいるのですから,最終的に汚点も傷もない平和な人と神に認めていただけるよう,最善を尽くしてください。”という結論になる。」

「7から11節が“自分に注意を払う”です。 この記事の中心でしょうか。7節に“イエスは弟子たちに,世界の出来事だけでなく,自分にも注意を払うようにと教えました。そのことはルカ 21章34節から分かります。(読む。)”とあります。その聖句は“とはいえ,食べ過ぎや飲み過ぎや生活上の心配事で心が圧迫されないよう注意していなさい。”とあるのですが、訳がへんですよ。協会共同訳では“二日酔いや泥酔や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。”です。」
「“食べ過ぎ”は誤訳。これはJWの肥満した統治体向けかも。古代人で食べ過ぎを心配しなければならない人は王侯貴族のような特権階級だけ。普通の人ならお腹いっぱい食べられるのは年に数回程度じゃないかな。JW訳は誤訳だらけで、読んでいてイライラする。」

「10節に“どんな危険に注意する必要があるでしょうか。異性に対するなれなれしい態度,食べ過ぎや飲み過ぎ,人を傷つけるような話し方,暴力的なテレビや映画,ポルノなどです。”とあります。普通の信者はこんなことよりも、貧乏のあまり栄養不足になる危険に注意した方がいいと思いますよ。」
「欧米では食料品や家賃がかなり高騰しているようだ。低収入のJWは食べ過ぎに注意なんかしていないよ。」

「“異性に対するなれなれしい態度”と訳されている英語はflirtingですが、この訳でいいのですか?」
「ここは注意すべきことを列挙している部分だから、性的誘惑とでも訳すべきじゃないの。翻訳者は女性とは自然に会話できない緊張型の男で、女性と気安く会話できる男が憎くてたまらないのかも。」

「11節には、またもや小学生レベルの注意事項が出てきます。” 気付きにくい危険の1つは悪い交友です。”とあります。JWはJWしか付き合ってはいけないのです。」
「そこには“時々ランチに誘われ,一緒に食べるようになります。その回数が次第に増えていきます。話していると下品な話題になることもあり,初めは聞かないようにしていましたが,だんだんと気に留めなくなっていきます。そのうちに飲みに誘われ,一緒に行くことにします。過ごす時間が増えるにつれて,考え方も似ていきます。”とある。説得力ないね。詭弁だね。」

「“滑りやすい坂”という詭弁ですね。滑りやすい坂に一歩でも踏み出すと、必ず一番下まで滑り落ちてしまうから、一歩でも踏み出すことはダメだ、という論理ですね。」
「一度食事したり、一度飲みに行くと、その相手の考えに似てくる?そんなことないよ。居酒屋にいる人たちはみな同じ考えの持ち主なのか?変な宗教の信者以外、自分の考えを他人に押し付けたりしないよ。」

「要するに信者を周囲から隔離して、自分たちのコントロール下に置きたいだけですね。」
「カルト宗教らしいね。誰と話すか、誰と一緒に食事をするか、そんなことまであれこれ指図する。」

「12から16節が“時間を有効に使う”です。 伝道活動を熱心にやれということです。JWの伝道活動こそ時間の無駄の典型です。」
「伝道しているJWやカートの側にボーと立っているJWを見て、多くの人はよっぽどの暇人か、おかしな宗教のせいで人生を空費している人と思っているよ。」

「12節に“イエスの弟子たちは,体制の終わりが来るまで何もしないで待っていればよい,というわけではありませんでした。イエスから,良い知らせを「エルサレムで,ユダヤとサマリアの全土で,また地上の最も遠い所にまで」伝えるようにと言われていたからです。(使徒 1:6-8)”とあるけれど、引照聖句をみると、イエスから良い知らせを伝えるように言われたのは“使徒たち”で“弟子たち”ではないよ。」
「特別に選ばれた人たち向けの指示で、平信徒に向けて言っていないということですね。それなのに、この記事では平信徒に伝道はイエスの指示と思わせるために、“弟子たち”とすり替えているわけですね。詐欺的ですね。」
「全ての弟子が遠いところまで伝道活動なんかできないし、していないよ。パウロのような少数の特別な人の働きでキリスト教は広まった。統治体が率先して世界伝道旅行に繰り出せばいいんじゃないの?」

「引照聖句ではイエスは“私の証人になります。”といっていますが、JWはエホバなるインチキネームの神様の証人に過ぎません。」
「エホバの証人という名称はすっかりブラックなイメージになっているので、旧統一教会を真似して、ここらで名称変更するのもありうるよね。世界統一幸福教というのはどうかな?」

「14,15節の質問は” どうすれば時間を有効に使えますか。”です。答えは15節にある” 聖書の真理を伝えたり教えたりする活動を一生懸命に行います。この体制の終わりが来るまでずっと見張っているようにします。”なのです。それ以外は時間を無駄に使っていると非難されるわけですね。厳しすぎます。」
「14節に、一生懸命やれば“たとえ終わりの前に命を失うとしても,やり残したことがあると感じることはないでしょう。”とあるのは気になるね。高齢JWは終わりの日を迎えることなく、インチキ終末論宗教に一生をささげた愚か者として死亡する可能性が高いと言っているようなものだ。」
「そこまでは言っていないと思いますよ。」
「組織としては、役立たずの高齢JWは静かにお引き取り願おうといことなのだろう。」

「最後の16節で、“エホバは,サタンの世界を終わらせる日と時刻をすでに決めています。”と言っていますが、その根拠は示されていません。」
「旧約聖書には、神様が一度決めたことを変えたことがあるよ。自分の決定を後悔したりすることもあった。それなのになぜ、“すでに決めています”なんて断言できるのかな?」
「決めていないと、JWが困るのですよ。」
「どうせ根拠のない推論をするなら、人類滅亡を夢想するより、愛ある神なので、人類の99.9%を殺すようなことはとっくの昔に止めたと推論したらいいのに。」

「16節で” 私たちは終わりがなかなか来ないと感じることがあるかもしれません。でもエホバは,「遅くなることはない」と約束しています。(ハバ 2:3)”と強弁しています。遅くなることはないどころか、とっくに遅れていますよ。」
「ほとんどのJWは木が1本だけ立ついなか道で来るはずのバスを無意味なおしゃべりをしながら何十年も待ち続けているような状態だね。」
「JWの人生は不条理劇そのものですね。」

#1454 2023年04月28日 14:25:31

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“命という贈り物を大切にする(9)”で、命は大事だけれど、輸血をするな、永続的委任状を持て、というカルト宗教らしい内容です。」
「今週はJWらしい記事で、おもしろいかも。」

「2節に“私たちができる限りのことをして健康を守るようにと願っています。(コリント第二7:1を読む。)”とあるのですが、引照聖句は健康のことを言っていますか?」
「そこには“体と精神のあらゆる汚れを除き去って自分を清め”とあるけれど、これはよくお風呂に入れとか、体をきれいに洗えということじゃなくて、宗教的な汚れを取り除けということ。健康問題とは直接関係ない。執筆者はそんなこともわからないのかな?」

「ここで想定される汚れは、コリントの人たちが偶像に捧げられた肉を食べているとか、異教の儀式に参加していることですよ。」
「コリント一10:14に“ですから,愛する皆さん,偶像崇拝から逃げ去ってください。”とあるし、コリント一10:20には“異国の人々が犠牲として捧げる物は神にではなく邪悪な天使たちに捧げているということです。皆さんには,邪悪な天使と分け合ってほしくありません。”とある。こういうことをコリントの信者の問題としてパウロは認識していた。」

「3から5節が“命を大切にする”です。 ここはタテマエの部分で、命を大事に、健康を大事に、と言っています。4節で、詩編30:9を引用した後、“ダビデはできるだけ元気に長生きしてエホバを賛美したいと思っていました。”とありますが、そんなことを言っている詩ですか?」
「30:10で“聞いてください,エホバ,恵みを与えてください。エホバ,私を助けてください。”とあるよ。この詩の作者は絶望的な状況にあって、助けてくれと叫んでいる。30:11で“あなたは私の嘆きを踊りに変えてくださった。私の粗布を取り去り,喜びを着せてくださった。”と感謝の言葉に代わる。元気で長生きは出てこない。」

「この詩は“家を奉献する時の歌。ダビデによる。”と表題があるのですが、そういう内容の詩ではないですね。家というのは神殿のことですよね。」
「ダビデは神殿を奉納していないから、ダビデの詩ではないね。詩の表題は後の人が付けたもので、それを真に受けているJWはおかしいね。」

「6,7節が“健康に良くない習慣を避ける”です。 6節に“聖書は健康や食事の専門書ではありません。”とあります。そうですが聖書は神から人類へのかけがえのない貴重な贈り物というのがJWの立場ですよ。それなら聖書はもう少し健康に役立つことを教えてくれてもいいはずですよ。」
「民数記13章は皮膚病について扱っている。重い皮膚病患者に対する全知全能の神様の指示は“自分の衣服を裂き,頭を整えずにいるべきである。そして,口ひげを覆って,『汚れている,汚れている!』と叫ぶべきである その人はその病気の間ずっと汚れている。それで,ほかの人から離れて生活すべきであり,宿営の外に住む。(13:45,46)”というもの。単なる隔離政策。治療法の一つぐらい教えてあげるくらいの親切心はないのかな?」

「皮膚病に効く温泉がありますよね。イスラエルには温泉はないのですか?」
「死海の湖畔にエン・ゲジ温泉センターがあるよ。温泉は硫黄泉で、主に関節炎、皮膚疾患、呼吸器疾患に有効であるとされている。ガリラヤ湖畔にも温泉はある。こちらには古代ローマの遺跡があるよ。」
「聖書に温泉は出てきませんよね?温泉を勧めるだけでも、古代イスラエル人の健康に役立ったはずです。」
「温泉は出てこないね。聖書の作者は温泉の効能を知らないということ。ローマ人は知っていた。聖書は健康には役立たないね。」

「6節に“また,食べ過ぎや飲み過ぎを避けるようにとも教えています。(格 23:20)”とあるのですが、それは健康のためとは言っていませんよ。」
「格言23:21に“酔っぱらいや大食いは貧しくなり,居眠りしてぼろ切れをまとうことになる。”と説明している。それは貧乏になるからやめろと言っている。旧約聖書に健康という言葉は出てこないよ。」

「8,9節が“安全に気を配る”です。 8節に“律法によれば,胎児を傷つけてしまった場合でさえ罰せられることになっていました。(出 21:22,23)”とあるのですが、胎児を傷つけたら罰せられるのは当然ですよ。へんなこと書いていますね。」
「これは日本語訳の問題だね。The Law required that even those who unintentionally harmed an unborn child be punished.なので、意図せず胎児を傷つけてしまった場合でさえ罰せられるという意味。翻訳者は胎児の命を軽く見ているのか?」

「律法には行為者の意図を考慮して罰を決めるという発想はないですよ。」
「基本は目には目を歯には歯を。つまり同害報復の原則。これは古代の中東の法と同じで、何ら進んだ思想はない。」

「10から12節が“危険な状況が生じる時”です。 10節に“政府から出される外出規制や避難指示に従うなら,身の安全を守り,命を失うリスクを減らすことができます。(ロマ 13:1,5-7)”とサタンの政府の指示を信頼するように言っています。これって、おかしくないですか?」
「11節に“感染症が流行している時はどんなことができるでしょうか。政府からの指示に従いましょう。”とあるけれど、今回の新型コロナウイルス問題で、信頼できるのは政府からの指示だ、と感染症が怖くて仕方がなかった統治体の老人はつくづく思ったんでしょう。」
「新型コロナウイルス問題では様々なデマが飛びかいましたからね。政府の指示に従って統治体の老人は率先してワクチンを打ったのでしょう。それで太り過ぎで持病持ちの高齢者なのに統治体からは死者が一人もいない。祈ったってダメだ、とわかったと思います。」

「統治体の老人の命がかかっている場合は、サタンの政府から信頼できる政府に評価が180度変わるわけですね。」
「サタンのせいとかサタンが付いているなどというのは、単にJWにとって不都合なことに対するラベルにすぎないね。本気でサタンのせいだと思っているのはだまされやすい末端の信者だけ。」

「13から16節が“医療上の緊急事態に備える”です。 やっと本論に入りました。13節で“エホバの証人は血を神聖なものと考えているので,エホバの命令に従って血を避けます。医療上の緊急事態であっても,輸血を受け入れることはしません。”と高らかに宣言しています。」
「これを読んでJWをやめる人が現れることを期待するね。」

「14節で“この記事で考えた健康についてのアドバイスを実践するなら,大きな手術が必要になる可能性を下げられます。”とあります。要するに健康であれば輸血を避けられるので健康を保てということのようです。奇妙な論理です。」
「組織が末端の信者の健康を心配するはずがないからね。輸血問題で批判されるのが嫌なだけだね。」

「15節に“私たちは命という贈り物を大切にしているので,永続的委任状 を作成していつも携帯するようにします。”とありますが、理解できません。要するに輸血拒否しますという意思表明書ですよ。命を大切にしているので、組織の言いなりになって死を選ぶというわけですか?」
「JWのサイトには“継続的委任状記入のための指示”というのがあるね。永続的委任状のことなんだろうけれど、重要な書類なのに用語がいい加減でいいのかな。」

「母親がJWである弁護士のブログに継続的委任状のことが出ていて、“そもそも論として「継続的」委任状というのは,委任状として成り立つのでしょうか? 一般的に,印鑑証明書の有効期限は3か月程度ですし,委任を受けるプロの弁護士でも3か月以上前の日付の委任状を裁判所に提出すれば,新しい日付の委任状の取り直しを裁判所に指示されます。”とあります。」
「大丈夫かな?弁護士のくせに誤解しているね。永続的委任状はa durable power of attorneyの翻訳だけど、アメリカの法律ではdurableというのは、本人が意識を失うなど無能力状態になっても効力が続く委任状という意味。non-durableは本人が無能力状態になったら効力を失うという意味。」

「そもそも病院に提示する永続的委任状は行政文書ではないので、厳密な有効期間はないと思います。」
「病院としては患者の意思を推定できる文書なら、日付が古くても尊重する。ブログを書いた弁護士は医療分野に詳しくないね。心配だな。」

「15節に“このようにして自分の意思を書面にしておけば,ふさわしい治療をできるだけ早く受けられるでしょう。”とありますが、そんなことないですよ。無輸血手術を要求するのは勝手ですが、病院の側に相当な負担をかけますし、しかも無輸血手術を受ける権利というものはありません。ほとんどの病院は断ります。」
「これは翻訳がおかしい。Clearly expressing our wishes in writing will help to avoid causing unnecessary delays in our treatment.なので、意思を書面にしておけば、不必要な処置の遅れを避けるのに役立つでしょうと言っているだけ。“ふさわしい治療をできるだけ早く受けられる”などネツゾウだ。」
「日本の信者に委任状を書かせるために、ネツゾウしたんじゃないですか。」

「15節の上の写真の説明に“命という贈り物を大切にしているので,永続的委任状を作成し,いつも携帯する。”とある。いつも携帯しないといけないみたいです。」
「そんなものを持っているとろくなことはない。携帯はやめよう。」

「16節に“長老たちは書き方をよく知っていて,医療に関してどんな選択肢があるかや,自分の意思を伝えるためにどんな情報を含めたらよいかを教えてくれるでしょう。”とあるけれど、ウソだね。」
「長老はJWの教義さえあやふやで、ましてや医療に関してなど無知そのものです。」
「長老が信者に望むのは潔く輸血拒否して死んでくれ、ということでしょう。そんな人に相談するのは最悪だ。」

「最後の17,18節が“分別をわきまえる”です。 17節で“兄弟姉妹が自分とは違う決定をするとしても,愛の気持ちからその決定を尊重します。”とあります。輸血を受け入れるという決断をしてもいじめるなということですか?」
「それは個人の決定というタテマエだから、他人が口出すのはおかしいということになる。あくまでタテマエ。それからJWでも輸血を受け入れたケースはけっこうあるということだろうね。」

「18節の質問は“命という贈り物への感謝をどのように表せますか。”です。答えは“命という贈り物を大切にし,エホバに力いっぱい仕えるなら,エホバへの感謝を表せます。”です。“力いっぱい”というのがイヤらしいですね。」
「今週も、感謝を強要されておしまいということね。」

「“間もなく苦しみの原因を全てなくして,私たちがいつまでも生きられるようにしてくれます。”と久しぶりに“間もなく”が登場です。」
「老いた執筆者は決まり文句を無意味に繰り返すことでしか、必要な字数を埋められないということだね。」

#1455 2023年05月05日 14:16:16

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“バプテスマを受けるのはどうして?(10)”で、先延ばしせず、早くバプテスマを受けてJWの一員になりなさい、という内容です。」
「先延ばしにしている人はまるで邪悪な人間という印象を与えるように書かれているのがJWらしいね。」

「イエスは30歳でバプテスマを受けたのですよ。不完全な人間はそれ以前に受けるべきではありませんよ。」
「霊的成長をじっくり待って、完全な準備ができたと確信できるまで、バプテスマはすべきではないと、真の宗教なら言うよ。JWはその真逆だね。」

「とにかく早くバプテスマを受けさせようとするのは、会員数を増やすことしか頭にないねずみ講的宗教ということですよ。」
「イエスに見倣ってください、はJWの重要な教えのはず。若い人がバプテスマを受けるよう圧力を受けたら、イエスを見倣いたいのでまだ待ちますと言うと許してくれるのかな?」

「”何を学ぶか”の所に” バプテスマを受けたいと思う動機は愛です。”と断定しています。これがJWのタテマエで、模範解答のようですね。」
「それなら、バプテスマを受けるよう圧力をかけられたら、まだ愛が足りないので、バプテスマは先延ばしします、と言おう。」

「2節に“あなたもバプテスマを受けたいと思っていますか。もしそうなら,「エホバに導きを求める」あなたは,今の悪い世の中で光り輝く存在です。(詩 14:1,2)”とあるのですが、引照聖句がへんですね。」
「詩編14は、人間は全て腐敗している、この世界はダメだという嘆きの詩だよ。詩編14:3に“善いことを行う人は誰もいない。一人もいない。”と言っている。バプテスマを受けたら光り輝く存在です、という思想とは真逆の詩。」

「3から5節が“真実で正しいことを愛している”です。 バプテスマを受ける理由その①ですが、真実というのはJWの真実のことですね。例えば、エルサレムの破壊は前607年で、イエスの言った“世代”は重なる世代のことだというのがJWの真実で、それを愛するわけです。」
「本物の“真実で正しいこと”を愛するなら、JWのバプテスマを受けられないよ。」

「3節には“うそは,この世界を支配しているサタンの特徴です。”と断言していますが、自称・真の宗教であるJWもウソは多いです。サタンの支配下ということですか?」
「JWのウソは善意の、不完全さゆえの、時間が経てば正される、当然許されるべきウソで、JW以外のウソはサタンの支配下であることから生じる絶対許されないウソ。これがJWの主張だね。信者も理解できないね。」

「3節で、サタンは“エデンで人間を唆して以来,エホバについてのうそをずっと広めてきました。エホバのことを,うそつきで人間に良いものを与えてくれない利己的な神だ,と言っています。(創 3:1,4,5)”とありますが、これはウソですね。」
「創世3:1には“エホバ神が造った野生動物の中で蛇が最も用心深かった。蛇が女に言った。”とある。サタンなど出てこない。このヘビはサタンが操っているという解釈は後の時代の後知恵的解釈。旧約ではサタンは悪魔の王ではないよ。」
「ヘビは神のことを“うそつきで人間に良いものを与えてくれない利己的な神だ”などと言っていません。それはJWのうそです。」

「神様は、創世2:17で“善悪の知識の木の実は,食べてはならない。それを食べた日にあなたは必ず死ぬからである。”といっているのに、アダムとエバはその日のうちに死ななかった。最初にウソをついたのはサタンではなく神様だね。」
「それなのにサタンが嘘つきとされて気の毒です。蛇は“あなたたちは決して死にません。”と言いました。これは結果的にウソとなりましたが、この時点ではウソではないですよ。」
「この後、神様は創世3:22で“人が命の木からも実を取って食べて永遠に生きるということのないために”といって、アダムたちをエデンから追放し、ケルブたちと回転する炎の剣で命の木を守らせる。神様がこんなことをしなければ、アダムたちは命の木の実を好きなだけ食べて永遠に生きられたというのが創世記の含意するところ。」

「4節に“エホバは「真理の神」です。(詩 31:5)ご自分を愛する人たちに真理を惜しみなく教えてくれています。”とありますが、引照聖句の誤用つまりウソですよ。」
「詩編31:5には“真理の神エホバ”とあるけれど、元の英文は“O Jehovah, the God of truth”で、“おー、エホバ、真の神よ”という意味。the God of truthは真理を教えてくれる神という意味ではなく、ニセモノではない本当の神という意味。JWの聖書解釈はうそだらけ。」

「5節の結論は“真実で正しいことを愛しているなら,バプテスマを受けたいという気持ちになるでしょう。”ですが、どうしてそうなるのか理解できません。」
「ちょっと無理のある結論だね。真実を愛する人はJWの一員にはならないないし、JWの一員ならすぐ辞める。」

「6から10節が“イエス・キリストを愛している”です。 バプテスマを受ける理由その②ですが、これがJWのバプテスマを受ける理由とは驚きです。」
「JWほどイエスの扱いが酷い自称クリスチャンはいないよ。JWではイエスは統治体の老人と同格じゃないの?イエスを愛しているならJWにはならないよ。」

「6節にイエスを愛する理由が書かれています。“詩編45編4節にその理由が書かれています。(読む。)その聖句によると,イエスは真理と謙遜さと正義を大切にしています。もしあなたが真実で正しいことを愛しているなら,イエスに 魅力を感じることでしょう。”とあります。詩編45はイエスについての詩じゃありません。」
「詩編45は王の結婚を祝う詩で、その前半は王をあれこれとほめたたえている個所。この聖句はヘブライ1:8でイエスのこととして引用されていて、昔から詩編45はイエスのことだとキリスト教関係者は強引に解釈してきた。しかしそこでの引用はギリシャ語訳からの引用なので旧約聖書とは異なっていて、ヘブライ1:8には“真理と謙遜さと正義”なんて書かれていない。」

「詩編45:4は“輝きを帯びて勝利へと進みますように”とあって、王の軍事的な勝利をたたえている部分です。イエスと関係ないです。」
「詩編45:4に“真理と謙遜と正義のために乗り進みますように”とある。訳がヘンだからわかりにくいけれど、馬に乗って進むということで戦闘の場面。詩編45:5では“あなたの矢は鋭く,人々はあなたの前に倒れる。矢は王の敵の心臓に突き刺さる。”と続く。戦争賛美だね。どうしてこれがイエスのことなのか理解できない。」

「7節で“イエスは謙遜な方です。自分に注目を集めようとするのではなく,いつもエホバが賛美されるようにしています。”とありますが、ウソです。」
「ヨハネのイエスは謙遜じゃない。ヨハネ14:10に“私と父が結び付いていることを信じていないのですか。あなたたちに言うことは,独自の考えで言っているのではありません。私とずっと結び付いている父が私を通して行動しているのです。”とあるけれど、これは意図的な誤訳で、協会共同訳の“私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。私があなたがたに言う言葉は、勝手に話しているのではない。父が私の内におり、その業を行っておられるのである。”の方が正確。」

「つまりヨハネでは神とイエスは一体ということですね?」
「ヨハネ10:30には“私と父とは一つです”とうその多いJW訳でも一体となっている。時代とともにイエスは人間から神の子、そして神そのものと変わる。福音書の中で一番最後に書かれたヨハネではイエスは神そのもので、語ることと言えば自分のことで、やたらと尊大だよ。」

「10節が結論で“では,イエスへの愛をどのように示せるでしょうか。イエスの手本に倣うことです。(ヨハ 14:21)そのためには,エホバに献身してバプテスマを受けることが大切です。”とあり、イエスを愛しているなら、エホバに献身してバプテスマを受けろということです。理解できません。」

「イエスはJWの挿絵でも顎ひげを生やしている。でもJWでは顎ひげは禁止のようだ。なぜイエスに倣わないのか?」
「バプテスマの前に“エホバに献身”すると、聖書のどこに書いてありますか?どこにもないです。“エホバに献身”とは統治体に献身と同義です。単なるJWルールですよ。」

「“イエスのバプテスマと弟子たちのバプテスマの違い”という囲み記事があって、“イエスはエホバに献身したイスラエル国民の一員として生まれたので,改めて献身する必要はありませんでした。(出 19:4-8)”とあるけれど、イスラエル国民はいつ献身したの?」
「引照聖句は献身ではなく、神とイスラエル人との契約の話です。」
「執筆者は献身と契約の区別もつかないのか?」

「11から17説が“エホバを愛している”です。 バプテスマを受ける理由その③で、最大の理由だそうです。エホバを愛している人なんかそんなにいますか?」
「旧約聖書の神は最悪のキャラクターで、愛する対象ではなく、殺されないように恐れおののき、ひたすら服従する存在として描かれている。神様を愛する人はいないので、聖書の中では神様を愛するよう命令している。」

「12節に“エホバを愛する理由はいろいろあるでしょう。例えば,エホバは「命の源」です。「良い贈り物, 完全な贈り物は全て」エホバが下さったものです。”とあります。いろいろなものをくれたから愛するというのがJWの神学のようですね、」
「愛するというのは何かをくれたことに対する反応なのか?それなら両親をまず愛すべきということになるけれど、イエスはその逆のことを言っていたよ。」

「12節の上に3枚の写真がありますが、野菜や果物が出ています。エホバが与えてくれたものだそうですが、違いますよ。」
「現代人が食べている野菜や果物は6000年前に在ったものとは全然違う。人間が膨大な労力と知恵を使って改良したもの。エホバが与えてくれたのは人間にとっておいしくないものばかり。そもそも植物は人間に食べられるためにあるわけじゃないからね。」

「イタリア料理に欠かせないトマトの原種は南米産で、それをヨーロッパで200年ほどかけて改良したようです。初めは毒リンゴと言われて食用ではなく観賞用でした。」
「トマトが日本に入ったのは明治で、赤茄子と呼ばれていたけれど、青臭い臭いのする小型のもので全く人気がなかった。それが改良されて食べられるようになったのは昭和になってから。感謝するなら神様じゃなくて改良した人にしよう。」

「トマトはアメリカで最初に認可された遺伝子組み換え作物ですよ。現代のトマトは神様がくれたものとは大違いですね。」
「というわけで、おいしい野菜や果物を食べたからと言ってエホバに対する愛は強まらないね。」

「13節に“エホバにとってイエスが苦しんで死ぬのを見るのは本当につらいことでした。それでも,あなたを含め人類全てを心から愛しているので,永遠に生きられるようにイエスを犠牲として与えてくださいました。(ヨハ 3:16。ガラ 2:20)こうしたことを考えると,エホバにもっと引き寄せられることでしょう。”とありますが、同意できません。エホバは単なる傍観者です。」
「標準的なキリスト教ではイエスは神なわけ。神自らが人間となり十字架にかけられて人類の罪を贖ったことになっている。感動的だ!それに対してJWの教義ではイエスを死なせて、エホバなる神は高みの見物をしていただけ。傍観者エホバに対する愛は全く深まらないね。これは普通のキリスト教に比べるとJWの教義の問題点だね。」

「15節に“エホバを愛していることをどのように示せるでしょうか。特別な祈りを捧げ,エホバに献身します。(詩 40:8)そしてバプテスマを受け,献身したことをみんなの前で明らかにします。”と、バプテスマを受けろと圧力をかけています。」
「この言い方だと、バプテスマを受けないのはエホバを愛していないということになるね。JWの思考ではエホバかサタンのどちらかで、エホバを愛さないとなれば、サタンだ!となり、それでいいんですか、と問い詰められる。選択肢はない。」

「16節では“そして,エホバと同じようにいつまでも生きることができるのです。(詩編41:12を読む。)”と、永遠の命というエサをまいています。バプテスマを受けたら永遠の命が得られるなんて聖書のどこにも書いていませんよ。」
「そのエサに飛びつく人なんかいるの?飛びつくとどうなるかというと、17節で“献身してバプテスマを受ける時,私たちからもエホバに貴重なものを差し出す機会が開かれます。その貴重なものとは何でしょうか。私たちが自分の全てを尽くして喜んで行う奉仕です。”と書いてある。無給の宗教拡張員を死ぬまでやらされる。」

「18,19節が“先延ばしにする理由がありますか”です。 さっさとバプテスマを受けろ、この間抜け!ということです。」
「18節には3つのことを自問しなさい、それが“はい”ならバプテスマを受けるべきということを書いている。3番目の問いは“自分はエホバに仕えてエホバに喜んでもらいたいと思っているだろうか”だけど、誰かに仕えてその誰かを喜ばすという生き方を本当に望んでいる人はそう居ないよ。」
「特にエホバは仕える気がしませんね。エホバに仕えるというのは統治体に仕えると同義ですから。」

「統治体はよくJWの動画に登場するけれど、聖なるものとか偉大なものは全く感じない老人たちだからね。動画に出すのを控えて、神秘性のベールで包むという方針をとったらいいと思うよ。」
「しかも多くは太りすぎです。広報戦略上組織のトップが肥満体というのはマイナスです。統治体の一員になる基準に肥満度を加えて欲しいですね。モリスがいなくなったので、統治体の平均体重は少し減りましたね。」

「19節に“バプテスマをためらっているなら,ヨハネ 4章34節のイエスの言葉を考えてみてください。(読む。)そこでイエスは,エホバの望むことを行うことは食べ物に似ていると言いました。”とあるけれど、執筆者は引照聖句を読んだのかな?」
「そこには“私の食べ物とは,私を遣わした方の望むことを行い,与えられた仕事を成し遂げることです。”とありますから、イエスの食べ物は、遣わした方の望むことを行うことと、与えられた仕事を成し遂げることの2つですね。エホバの望むことを行うことは食べ物に似ているとはいっていません。」
「この聖句の力点は後者だよ。成し遂げること。いつ成し遂げたかというと、ヨハネ19:30に“イエスはそのぶどう酒を口にしてから,「成し遂げられた!」と言い,頭を垂れて息を引き取った。”とある。」

「ヨハネ4:34は、この記事にあるようにエホバの望むことを行うのは、おいしい食事のように私たちのためになるし楽しいことだ、というようなことは全く言っていないわけですね。」
「それなのに19節では“エホバの言う通りにして悪い結果になるということは決してありません。エホバは,私たちがバプテスマを受けることを望んでいます。”と言っている。甘言を弄して、とにかくバプテスマを受けさせようとしているだけ。聖句の本来の意味なんか気にしていないよ。」

「来週もバプテスマ関連の記事のようです。」
「嫌がる人に対してJWのバプテスマを受けさせるよう、巧みに誘導し圧力をかける方法を学ぶのかな?」

#1456 2023年05月12日 14:27:50

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“バプテスマに向けてできること(11)”で、バプテスマを受けたければ、組織の指示を忠実に実行しなさい、という内容です。」
「周囲から強い圧力にさらされて、耐えきれず、バプテスマを受けるしかないという人がいるからね。」
「今どき、それ以外の理由でバプテスマを受ける人はいないですよ。」
「この記事は21節もある。もっと短くしてよ。」

「3から7節が“受けられない理由が何かあるでしょうか”です。 使徒8章にあるエチオピアの高官とフィリッポと出会い、バプテスマを受けたという話がでてきます。」
「単に使徒8章の話をただ書き写しているだけの内容だね。でもJWらしいおかしなところがある。使徒8:35で“フィリポは話し始め,この聖句を手始めに,イエスについての良い知らせを告げた。”とあるように、フィリッポはイエスについて語った。それなのに6節では“エホバとイエスへの愛に動かされて,バプテスマを受けてイエスの弟子になるという大きな決断をしました。”とある。エホバなんか出てこないよ。」

「新約聖書にはエホバという単語は出てこないのに、JWはエホバと変えています。とんでもない改ざんです。次回の改訂版では“イエスについてのよい知らせ”の部分は“エホバについてのよい知らせ”に変えられると思います。」
「6,7節の質問は“高官のエホバへの愛はどのように深まっていきましたか。”で、この話はイエスについての話なのに、イエスは無視だ。エホバ教に早く改名してよ。」

「4節で“この人はユダヤ教に改宗していたのでしょう。”と言っていますが、申命記23:1で“睾丸を砕いて去勢された人や陰茎を切り取られた人は,エホバの会衆に入ることはできません。”とあります。エチオピアの高官は宦官とありますから、ユダヤ教徒ではないと思いますよ。」
「1世紀のユダヤ人が宦官がエルサレムで崇拝することをどう見ていたかは不明。この高官は宦官で、なおかつ外国人なので、ユダヤ教の浄・不浄観では不浄な存在で、歓迎される存在ではない。この高官が“私がバプテスマを受けられない理由が何かあるでしょうか”とフィリッポに尋ねたのは、イエスの唱えた宗教は自分のような者を受け入れてくれるのですか、それとも締め出すのですかという切実な問いなんだよ。」

「この記事の執筆者はそういう背景については知らないようで、的外れのことを書いていますね。7節で“このエチオピアの高官に倣うなら,バプテスマに向けて準備を整えることができます。あなたも,「私がバプテスマを受けられない理由が何かあるでしょうか」と言えるようになるでしょう。”とあります。歴史的な文脈を無視しています。」
「使徒8章は、宣教活動がユダヤ人が敵視しているサマリアにまで広がり、さらにユダヤ人が不浄としている外国の宦官まで広がっていったことを書いている章で、バプテスマの準備なんて関係ないよ。」

「8から13節が“真理を学び続ける”です。 JWのいう真理とはJWの出版物に書いてあることです。ここではその辺をはっきり述べていないので面白みに欠けますね。」
「8節では、“ヨハネ 17:3を読む。”とある。その引用は“「唯一の真の神……のことを知」り続ける必要があります。”なんだ。」
「そこには“永遠の命を得るには,唯一の真の神であるあなたと,あなたが遣わされたイエス・キリストのことを知る必要があります。”とあるのに、イエスの部分は“……”と省略されています。」
「エホバ教らしく、エスを抹殺している。」

「9節には“もちろん最初は,エホバについての基本的な教えから学び始めます。”とあります。ここでもイエスは無視されています。そのあと、“パウロは「ヘブライ人のクリスチャンへの手紙」の中で,そうした教えを「基礎的な事柄」と言いました。”と続きます。これはおかしいです。同語反復ですよ。基本的な教えを“基礎的な事柄”と言っていますか?」
「英語訳はthe elementary things.で、“初歩的な事柄”。聖書の翻訳の際に“基礎的な事柄”と適当に訳したので、おかしな文章になっている。」

「ここでいう“基礎的な事柄”とは何ですか?神のお名前はエホバです、というようなJWの出版物によく書いてあることですか?違いますよね。」
「神の名前なんかどうでもいいんだよ。それについてはヘブライ6:1、2に説明している。“基礎的な教えに逆戻りしてはなりません。すなわち,むなしい行いを悔い改めること,神への信仰, さまざまなバプテスマ,手を置くこと,死者の復活,永遠の裁きについての教えです。”現代人から見ればなぜこれが初歩的な教えなのか理解できないけれど、1世紀ではそうだったと思うしかないね。」

「“さまざまなバプテスマ”ってなんですか?全身水没する、顔だけ水につける、水をかけるだけ等々の色々な種類があったということですか?」
「バプテスマと訳されている単語が複数形なので、“さまざまなバプテスマ”と訳している。複数形なのは新約聖書ではこの部分だけ。しかも、使われている単語はbaptismosで通常のbaptismaと異なる。この単語が使われているのはヘブライ9:10の“食べ物や飲み物やさまざまな洗いの儀式に関連したものにすぎません。”で、ここでは“洗いの儀式”と訳している。」
「“さまざまなバプテスマ”ではなく、ユダヤ的な清めの儀式のことですね。“手を置く”というのもユダヤ的なものですよ。」
「そういうわけで新しい英語の聖書ではcleansing ritesとかwashingsとなっていて、“さまざまなバプテスマbaptisms”なんか訳していない。JWはダメだね。」

「協会共同訳では“種々の洗礼(バプテスマ)についての教え”ですが、これも誤訳ですね。」
「この部分はキリスト教の初歩の教えについて述べているところ。それなのにユダヤ的儀式が出てきてはキリスト教にとっては不都合なわけだ。護教的配慮からそう訳していると思うよ。キリスト教のおかげでメシを食っている人たちが訳しているわけだから、そういった配慮は当然働く。」

「9節では“でもパウロは,そうした基本的な教えだけで満足するのではなく,聖書の深い真理も学ぶ必要があると言いました。”と続きます。まずヘブライ書の著者はパウロではないですし、ヘブライ書では“聖書の深い真理も学ぶ必要がある”とは言っていません。」
「ヘブライ5:14に“固い食物は,十分に成長した人のためのものです。そのような人は,使うことによって識別力を訓練したので,正しいことも悪いことも見分けることができます。”とある。これも訳がわかりにくいので協会共同訳を紹介すると“固い食物は、習慣によって善悪を見分ける感覚を鍛えられた、大人のためのものです。”とある。」

「固い食物とは聖書の知識ではなく善悪を見分ける道徳的な鋭敏さと関連するものということはわかります。」
「クリスチャンとして成熟するというのは、幼児のように何をすべきか、何をしてはいけないかを教えてもらうのではなく、自ら道徳的判断ができるようになるということをいっている。」
「これはJWには無理ですね。JWで強調されるのは自分で考えるのではなく組織に服従することです。」
「JWは信者の成長を図るのではなく、永遠に無知無学な幼児状態にとどまらせようとしている。何年やっても人間的成長のない宗教はカルトだから、さっさと辞めよう。」

「10節で“最高の先生であるエホバが助けてくれます。”とあり、11節で“エホバは,自分は「偉大な教師」であると言っています。(イザ 30:20,21)”と調子のいいことを言っていますが、本当にそうならJWの子どもはみな学校ではトップレベルの成績になりますよ。エホバって勉強を教えてくれませんよ。」
「偉大な教師というのは道徳面での偉大な教師ということ。それも疑わしね。」

「14から16節が“学んだことを実行していく”です。 JWの教えを学んで、次は実行というのがバプテスマへの道です。伝道、集会参加が求められますが、14節ではノアの話が出てきます。ペテロ一3章が取り上げられています。こじつけ解釈ですよ。」
「そこには“ペテロは,クリスチャンにとって学んだことを実行するのは大切だと教えました。”とあるね。そんなこと言っていないだろう。」

「引用されているのはペテロ一3:20,21ですが、この部分はわけのわからないことが書かれていることで有名なところですよ。」
「ペテロ一3:18-22がひとまとまりだけれど、そこにはキリストが死んだあと、“捕らわれている天使たちの所に行って知らせを伝えました。その天使たちはノアの時代に不従順だった者たちです。”とあり、その後ノアの話になり、バプテスマの話になり、バプテスマを“肉体の汚れを除くことではなく,健全な良心を神に願い求めること”と説明し、キリストの話で終わる。確かにつながりがよくわからない理解困難箇所だね。」

「“捕らわれている天使たち”というテーマはエノク書や啓示などの黙示文学のお気に入りのテーマですよ。ユダ書14では“アダムから7代目の人エノクも,彼らについてこう預言しました。”とエノク書から引用しています。ペテロ一3:18-22もエノク書などの黙示文学の影響じゃないですか?」
「この部分の解釈が困難なのはこの背景となっている思想がどんなものかはっきりしないから。イエスがとらわれている天使に知らせを伝えたとあるけれど、そこはどこ?何を伝えたのか?それとノアはどう関係するの?よくわからないね。でも、当時のクリスチャンには説明されなくても、そのつながりがわかったのだろう」

「15節で“まず,自分の罪を心から悔い改めることが大切です。”とあり、“不道徳な生き方やたばこや汚い言葉遣いなど,エホバが嫌うことを行っていたなら,それをやめましたか。”と具体的に指示しています。」
「タバコを嫌うのは理解できるけれど、たばこに厳しすぎる。聖書で禁止しているわけでもないのだから。犯罪である児童性的虐待とか体罰は軽く扱っているわけで、バランスが取れていないよ。」

「16節で伝道と集会が出てきます。“伝道すればするほど 楽しくなっていくでしょう。”ととんでもないウソを書いています。本当にそうなら、この記事の執筆者はこんな駄文を書いてないで、伝道しているはずです。」
「組織の中で偉くなれば伝道などしないでしょう。あれは末端の信者の修行にすぎない。」

「17から21節が“エホバへの愛を深めていく”です。 18節で“エホバへの強い愛があるなら,問題にぶつかってもエホバに仕え続けることができます。”とあり、エホバへの愛がバプテスマへのカギのようです。」
「次の19節では“まず感謝の気持ちを持つことが大切です。”と、感謝の強要になる。愛を深めていくだけではダメなわけだ。」

「19節の上に写真があって、脚注で“エホバが与えてくださっているものについて,若い姉妹がエホバに感謝している。”と説明しています。小鳥を見ている写真ですね。この姉妹の所に虫が飛んで来たら、エホバに感謝しないで、殺虫剤で殺そうとするんじゃないですか?」
「神の創造物に感謝という決まりきった話だね。これ以外に感謝すべきことが思い浮かばないのだろう。自然界には不快な生き物や有害な生き物がたくさんいることについては何も触れないので説得力ないね。」

「19節では“私たちはエホバへの愛をどのように示せるでしょうか。誘惑に遭ったり問題にぶつかったりしても,諦めずに頑張ることです。エホバを崇拝する良い習慣をしっかり守ることも大切です。”とあります。愛と言っても、要するにバプテスマを受けるのに問題となるようなことはするなということです。」
「表面的によい子にすることが愛を示すことのようだね。」

「20節では“献身は,順調な時にもそうではない時にもエホバに仕えていくことを約束することです。これは一度限りの誓約で,本当に大きな決定です。それでも,エホバに献身すること以上に良い決定はありません。”とあります。献身がそんなに良い決定なら、JWはみな幸福で生き生きしているはずです。事実に反します。」
「この記事はだまされやすい人間をバプテスマに誘導するためのものだから、誇大宣伝やウソでも問題ないという判断なんだよ。」
「こんな重大な誓約は子どもには無理ですよ。バプテスマは30歳以上というルールを作るべきです。」
「そうしたら30歳までに、みんなやめるよ。」

#1457 2023年05月19日 14:35:59

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ 創造物からエホバのことをもっと知る(12)”で、自然観察の勧めという内容です。」
「珍しいテーマだね。前回はバプテスマを受けるように圧力をかけろ、という嫌な内容だったから、気分転換かな。伝道、集会と忙しいのに、その他に自然観察などしている暇はあるのかな?この記事は16節までしかなく、自然観察についてはあまり書くことがないようだね。」

「1節にヨブのことを取り上げていて、その引照聖句にヨブ39:13-16があるのです。その中には“ダチョウは卵を地面に残し,土の中でそれを温める。”とか、“ダチョウは自分のひなを荒く扱う。自分の子ではないかのように。”と明らかに間違ったことを書いてあるのです。」
「それが間違っていることを知らないのだよ。執筆者は自然のことには無知な男で、創造物から神のことを知るなんて、今までしたことがないんだよ。」

「3から5節が“創造物を観察するとよいのはどうしてか”です。 3節はエデンの園でのアダムについての話が出てきます。アダムが動物に名前を付けたことについて“これはとてもやりがいのある仕事だったことでしょう。”とあります。執筆者は聖書の登場人物の気持ちが何でもわかるのですね。」
「アダムがつけた名前はどこかに残っている?アダムが苦労して考えた名前はどこにも残ってないよ。」

「パンダをパンダと名付けたのはアダムと思っていました、というのはウソです。」
「語源を明らかにするのは困難だけど、パンダはネパール語で「竹を食べる者」を意味する「ニガリヤ・ボンヤ(nigalya ponya)」に由来する説が有力。アダムはネパール語を話したのか?」
「コアラは先住民族アボリジニの言葉で「水を飲まない」という意味ですし、カンガルーとは、先住民族アボリジニの言葉では、「わからない」という意味です。アダムはアボリジニ語を話していたのかも。」
「アダムの動物名づけ作業はむなしい仕事だったということ。神様が未来を見通せるとしたら、無駄に終わる仕事を意図的にさせたことになるよ。」

「3節の上にアダムがカタツムリを見ているというイラストがあります。なぜカタツムリなのでしょうか?カタツムリは雌雄同体で、一つの個体が、雄の生殖器も雌の生殖器も持っています。これってイラストを描いた人の隠れたメッセージが込められていますよ。」
「生殖や性の在り方は自然界では多様で、オスとメスが別個に存在し、それぞれが自分の遺伝子の半分ずつ子孫に伝える有性生殖だけが自然なものではない、という力強い主張をこのイラストから感じるね。」

「雌雄同体のカタツムリは交尾の時に、鋭い刃物みたいなものを突き刺すそうですね。」
「恋矢、英語でlove dartというものだね。カタツムリの歌に“つの出せ、やり出せ、あたま出せ”とあるけれど、“やり”のこと。恋矢が相手の体に刺さると、粘液が相手の体内に注入され、この粘液は、自分の精子が相手に分解されるのを防いだり、相手が別のカタツムリと再び交尾をするのを防いだりする働きがある。」
「恋矢を刺すことで、自分の精子をより多く相手の卵子と受精させることができわけですね。創造主の素晴らしい御業に感動しました。」
「刺された方は寿命は縮まるらしい。愛のある創造主のすることは理解できなね。」

「4節に、自然観察をする理由①として“エホバが望んでいることだからです。エホバはこう言いました。「天を見上げてみなさい。誰がこれらの物を創造したのか」。(イザ 40:26)”とあります。」
「引照聖句は天を見上げろと言っているだけ。膨大な数の星を見て神の活力と力を感じなさいと言っている。自然観察を勧めている聖句ではないよ。」

「5節に、自然観察する理由②として“それは,創造物を通してエホバがどのような方かを知ることができるということです。(ローマ 1:20を読む。)”とあります。」
「引照聖句は創造物から“神が永遠に力を持っていて,確かに神であるということが分かります。”といっている。協会共同訳では“神の永遠の力と神性”だ。それ以上のことは言っていないよ。」

「5節で“例えば,自然が見事に設計されていることについて考えると,エホバが知恵のある方だということが分かります。また,いろいろな種類の食べ物を楽しめるようにしてくださっていることを考えると,エホバが私たちのことを愛してくださっていることが分かります。”と書いていますが、これは拡大解釈ですね。」
「自然を神の設計したものとすると、人間にとって不快なもの、有害なものがありすぎて、神の悪趣味と底意地の悪さしか感じないという主張だってありうる。パンダやコアラが自然の代表じゃないよ。」
「現代でも全世界で、毎年約10万人前後が毒蛇にかまれて死亡しています。手足の切断や運動障害などの後遺症がある人は40万人前後です。世界保健機関(WHO)は、ヘビに噛まれる被害を世界最大の隠れた健康危機と位置付けているそうですよ。こんな危険なものをなぜエホバは造ったのですか?愛を感じません。」

「ヘビより多くの人間を死なせているのは蚊だね。蚊はマラリアをはじめとした様々な病気を媒介することによって、毎年数十万人を死なせている。」
「蚊は動物の血液を栄養としています。そういう吸血動物はたくさんいます。エホバってこういう動物を造ったにもかかわらず、なぜ輸血はだめなのでしょうか?全く理解できません。」
「蚊の血液を吸い込む仕組みを見事に設計した神が輸血を禁止するわけがないよ。自然観察は大事だね。」

「6から8節が“エホバは創造物を通してご自分について教えている”です。 3つのことが出ています。6節が①“エホバは時を定めている。”です。」
「JWらしく“私たちは渡り鳥を観察する時,エホバがご自分の「定められた時」に今の悪い世界を必ず滅ぼす,ということを確信できます。”と終末論につなげている。滑稽だね。信者の希望は早く人類大虐殺が始まって欲しいということだけのようだ。」

「7節が②“エホバは力を与えてくださる。”です。“エホバはワシに力を与えるのと同じように,ご自分に仕える人たちにも力を与えてくださいます。”」
「ワシが空を飛ぶのは神秘的な力が働いているからと古代人は思ったかもしれないけれど、普通の物理現象。そんなことまで神を持ち出すと、現代人はついていけないよ。」

「8節が③“エホバは信頼できる。”です。“私たちも創造物をじっくり観察すると,エホバが私たちよりはるかに賢くて力のある方であることを学べます。また,私たちが経験している問題全てを必ずなくしてくれることも確信できます。”とあります。創造物を観察すると、なぜ“私たちが経験している問題全てを必ずなくしてくれる”と確信できるのかわかりませんね。」
「具体的にどの動物を見ればいいのか教えて欲しい。蛇?蚊?それともワシ?具体性がないから説得力ゼロ。」

「おかしな宗教を押し付けられて困っているという問題に対処するには、タヌキを観察するのはどうでしょうか。死んだふりは危険に対処する有効な方法であることをエホバは人間に教えてくれているのですよ。」
「いわゆる狸寝入りという擬死だね。擬死は鳥やウサギ、昆虫や魚にも広くみられる危険対処法。人間なら、おかしな宗教の人からの電話にもラインなどにも出ない、話しかけられても何も答えないことで危険を対処できるかもね。」

「9から12節が“イエスは創造物からエホバについて教えた”です。 マタイの福音書から3つの教えを取り上げています。10節が①“エホバは全ての人に愛を示す。”です。マタイ5:45の“父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ,正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるのです。”が使われています。」
「ここでもJWらしいねじれがある。10節の結論は“そして,エホバに倣って全ての人に愛を示し,良い知らせを伝えたいという気持ちになります。”だ。結局伝道をもっとせよ、ということ。JWにとって愛を示すというのは伝道と同義で、非常に狭い意味しか持たないことがわかるね。」

「11節は②“エホバは生きていくのに必要なものを与えてくださる。”で、マタイ6:26の“それでも天の父は鳥を養っています。あなたたちはそれよりも価値があるのではありませんか。”が使われています。」
「現実は厳しくて、北国では冬の間に多くの鳥が餓死する。そうでなければ鳥が増えすぎて困ることになる。神が養っているのはある一定の数だけのようだね。JWはその数が多すぎるよ。」

「次が体験談で、“スペインに住むある若い開拓者の姉妹は,ふさわしい住まいが見つからなくてがっかりしていました。でも,鳥たちが木の実や種をついばんでいるのを見て,元気が出ました。”とあり、“それから間もなく,姉妹は無事ふさわしい住まいを見つけることができました。”というめでたい話です。」
「今欧米では家賃がものすごく上がっていて、都市部ではJWが借りることができる物件がなくなりつつあるという話がある。それを意識した体験談かも。」

「鳥にとって困難な時期は冬ですが、人間なら不況とかインフレの時期です。冬の間かなりの数の鳥が餓死するのなら、不況やインフレのときかなりの数のJWが餓死してもおかしくないですね。」
「神頼みだとそうなるね。」

「12節が③“エホバは私たち一人一人を大切に思っている。”です。“マタイ 10:29-31を読む。”とあり、“その1羽でさえ,天の父が知らないうちに地面に落ちることはありません。……あなたたちはたくさんのスズメより価値があるのです」。エホバが一人一人を大切に思ってくれているので迫害を怖がる必要はない,と教えました。”とあります。でも、この聖句はスズメは地面に落ちることはないとか、落ちるのを天使が防いでくれるとは言っていませんよ。エホバが気にかけてくれるというだけです。」
「迫害にあっても守ってくれないけれど、大切に思ってくれるということだね。あまり励まされないね。」

「13から15節が“創造物からエホバのことをもっと知るにはどうしたらいいか”です。 13節には“まず,創造物を観察する時間を取りましょう。”とあります。見ていればわかるものですか?」
「何の知識もない人が山を見たって高いとか低いとか思うだけ。一方、知識のある人が山を見れば、その成り立ちから、どういう地質かなど分かる。観察から何かを得ようとすれば、まず勉強すること。」
「JWにはそんな知識は不要です。無知無学の方がいいのですよ。あの山は高い、エホバは偉大だ、と思えればそれでいいのです。」

「14節で詩編8:3,4を引用した後、“ダビデは夜空を眺めて,宇宙の広大さに感動しただけではありません。月や星からエホバについて学べることをじっくり考え,エホバがどれほど偉大な方かを知りました。”とある。これってこの詩を正しく理解していないね。」
「“宇宙の広大さに感動した”とは言っていませんね。“あなたが指で造った天を仰ぎ,あなたが並べた月や星を眺めて思う。死にゆく人間が何者なのであなたは心に留めてくださるのか。”とあるだけです。」

「古代イスラエルでは日本と違って自然を賛美するとか、自然の移り変わりにもののあわれを感じるという思想は弱い。この詩のポイントは神が“指で造った”というところ。」
「空は大きいけれど、でも神はそれを指で造った。つまり神はとてつもなく大きいということですね。」
「そんな偉大な神に特別扱いされる人間ってすごいよね、と言っている。その次の詩編8:5では“あなたは,人を神のような者たちより少し劣る者とし,栄光に輝く冠を授けた。”と、人間を滅茶苦茶高く評価している。この詩は人間賛歌だね。」

「15節では“私たちも周りに少し目を向けるだけで,創造物からエホバについてたくさんのことを学べます。”と言って、いくつかの例が出ているのですが、“子犬が自分のしっぽを追い掛けている姿を見て,エホバのユーモアのセンスを感じます。”と数か月前に出てきた話をまた取り上げています。この例を気に入っているんですね。」
「犬はかわいらしい動物だけど、これも人間が行った品種改良の結果。今のところ、イヌは絶滅した東アジアのハイイロオオカミの集団から家畜化されたとされている。」

「つまりエホバは恐ろしいオオカミを造ったかもしれないですが、かわいい犬を造ったのは人間ということですね。」
「シリアのドゥアラ洞窟にあるネアンデルタール人の住居遺跡(約3万5千年前?)からイヌ科動物の下顎骨が見つかっている。そのほかにも3万年前の遺跡からも犬と思われる骨は見つかっている。犬を家畜化したのは6000年ほど前エデンの園を裸でぶらついていたアダムじゃなくて、別の人だね。」

「最後の16節には、“では親は,子供がエホバをもっと愛せるようになるために,創造物からどのように教えることができるでしょうか。その点については次の記事で考えます。”とあります。」
「子どもに特定の宗教の自然観を、判断力のまだない子どもに押し付けるのは、子どもの虐待だからやめてほしい。子どもにエホバが、エホバがとか言って何かと押し付ける親は最悪の親だ。」

#1458 2023年05月26日 14:29:10

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ 創造物を使ってお子さんにエホバについて教えましょう(13)”で、聖書ではなく周囲の自然を利用した子どもの洗脳の仕方を学ぶという内容です。」
「JWになる可能性の高い人と言えば、JWの子どもだからね。JWの子どもを狙うのは信者をふやす堅実なやり方だ。でも、JWの貧困・独身推奨政策のせいで、JWにあまり子どもがいないのは不幸中の幸いだね。」
「自然について教えたら、賢い子はJWにはなりませんよ。」
「だから、自然についても、JWは自分たちにとって都合の良いことだけしか教えないようにしている。」

「2節に“「格言の書」には,父親が子供を教えている様子が描かれています。創造物から分かるエホバの性質に注目するように,と教えているようです。(格 3:19-21)”とあるのですが、引照聖句がマズくないですか?」
「そこには“エホバは知恵によって地の土台を据えた。識別力によって天をしっかり定めた  神の知識によって深い水は分けられ,大空の雲は水を滴らせた。”とある。これは古代の世界観を表したものとして有名。もちろん正しくない。」

「地上は土台の上に乗っかっていて、水が海と天の二つに分けられて、天はドーム状になっている。そんな世界観ですよ。」
「古代人は空が青いのは海が青いのと同じで、水があるからと思っていた。水平線を見れば、空と海がくっ付いているように見える。古代人は実際にくっ付いていると思っていた。それなりに合理的な推論なんだよ。」

「格言の作者は地球の在り方について全く誤解をしていたことを示す聖句ですよ。こんな聖句をいきなり持ち出すのはヘンですよ。」
「先週もいきなりダチョウについてヨブ記の作者が無知なことを示す聖句が出てきた。そうすることによって執筆者は聖書は間違いだらけの本ですよ、とこっそりとメッセージを送っているのかもね。」

「3から7節が“創造物を使ってどのように教えるか”です。 4節に“イエスは創造物を使って弟子たちをどのように教えたでしょうか。ある時,ワタリガラスやユリをよく観察するようにと言いました。(ルカ 12:24,27-30を読む。)”とありますが、よく観察するようにと言っていません。“~について考えなさい”と言っています。」
「並行記事のマタイ6:26には“鳥をよく観察しなさい”とあるよ。マタイとルカを間違えたんだよ。情けないね。これがJWのレベル。」

「マタイでは鳥で、ルカではワタリガラスです。ワタリガラスなんて言われてもよくわかりません。ルカは生物の分類にこだわっていたのですか?」
「ワタリガラスの元の英語はravenで、辞書を引けば最初にワタリガラスと出てくる。それでワタリガラスと訳したのだろうけれど、ravenは詩の中でよく使われる言葉で、ワタリガラスと訳すると生物の分類上は正しいけれど、全然詩的じゃなくなる。せめて“鴉(からす)”と訳して欲しいね。エドガー・アラン・ポーの有名な詩にthe ravenがあるけれど、普通は“大鴉”と訳される。」

「4節で、イエスは“こうして創造物に注目させた後,エホバが親切に惜しみなく与える方だということを教えました。エホバはワタリガラスやユリを世話しているのであれば,ご自分に仕える人たちを養い,衣服を与えてくださるはずです。”とあるのですが、執筆者は引照聖句を誤解していますよ。そんなインチキ宗教家のカラ約束の話じゃないです。」
「ユリについて“神が,今日は生えていて明日火に放り込まれる野の草木にこのように服を与えているなら,ましてあなたたちには服を与えてくださるのです。”と述べている。ユリは明日火で燃やされると言っている。神はそれを止めることはしない。現実に対する非常に厳しい認識がある。」

「神様は面倒見てくれるから、楽観的に生きろという話じゃないですよ。」
「人生の困難さやはかなさを認めつつも、全ての生き物の根源には神の恵みと寛大さがあって、この世界をそういうものと見ようという提案だと思うね。」

「5節に“親の皆さんは,自分が好きな動物や植物についてお子さんに話すことができるでしょう。そうした物からエホバについてどんなことが分かるかを,ぜひ教えてください。”とあります。好きな動物はいますか?」
「今まで、いろいろな動物を飼ったことがあるけれど、飼えばみなかわいいよ。でも悲しいことに寿命が短い。飼っていた犬は15歳で死んだ。人間に比べたらはるかに短命だ。」
「そうしたことからわかるのはエホバって意地悪でけちくさい神ということですね。」

「人間が老いて死ぬのはアダムの不服従のせいというのがJWの教義。動物にはそんな事件はないから、病気になって死んでいくように創造されたと考えるしかない。なぜ命の木の実を犬や猫に食べさせないのかわからない。」
「ということは楽園でも動物は病気になりますよ。でもJWの楽園では獣医はいません。薬も注射器もないです。JWの楽園は犬や猫にとって楽園じゃないです。」
「楽園について聖書は何も語っていない。好きなように想像すればいいけれど、真面目に考えると悲惨な場所になるね。」

「6節に体験談が出ています。“山に行った時には,『見て,大きくてきれいな山ね。エホバって本当にすごいわね』と言いました。海に行くと,『波の力ってすごいと思わない? エホバも力の強い方なのよ』と言いました。”とあります。波が生じるのもエホバのせいなら、2011年に東北地方を襲った大津波もエホバのせいということですよね。エホバって本当に邪悪な方ですね。」
「神は正しき者にも邪悪な者にも、老人にも乳幼児にも等しく災害を引き起こし、死なせる。公平な方だね。」

「8から10節が“創造物を使ってどんな時に教えるか”です。 道を歩いている時、田舎に行った時、公園に行った時に教えろと言っています。子どもはどこに行っても、エホバってすごいわね、エホバってすごいわね、と絶えず言われるのですね。エホバ地獄です。」
「そういうわけで子どもはエホバと聞くだけど、吐き気がしてくるようになる。」

「9節に“インドの大都市に住むプニータ姉妹はこう言います。「家族で田舎に住む親族の所に遊びに行く時は,子供にエホバの創造物について教える良いチャンスだと思っています。”とあるのですが、ヘンですね。インドならハエとかゴキブリとかネズミが無数にいますし、道路を牛が歩いていたりしますよ。ヒンズー教では牛は聖なる動物です。」
「創造物と言っても、子どもの教育に使われるのは人間にとって無害で、見た目のよいごく限られた創造物のようだね。一面的で偏った教育はやめよう。」

「インドというと寄生虫ですよ。」
「ブタに寄生して、その肉を十分加熱せずに食べた場合、人間の腸の中で成虫となるのがいる。それが脳に寄生すると、体が痙攣したり、意識を失ったり、失明したり、場合によっては死亡する。なぜこういった創造物を子どもに教えないのかな?命にかかわるよ。自然賛美なんかしている場合じゃないよ。」
「エホバって本当にろくなものを造りませんね、と子どもに教えるわけにはいかないのでしょう。」
「子どもの寄生虫感染率が世界一高いのがインド。変な宗教教育ではなく、子どもの命を守る教育が必要だ。」

「9節の下にはアジア系の母子が蝶を見て微笑んでいるという写真があるのですが、この写真はどう思いますか?偏った自然教育ですよ。」
「蝶の仲間は鱗翅目といい、翅(はね)が鱗粉で覆われていることが最大の特徴で、世界に15万種くらいいるけれど、その90%以上は蛾で、蝶はわずか7%くらい。ここから創造者について何がわかるかな?」

「エホバは蝶より蛾が好きだということですね。エホバの美意識は理解できません。夜に灯りの周りをパタパタと飛び回る蛾は薄気味悪いですよ。」
「神は蛾が大好きで、10万種以上お造りになった。写真では蝶より蛾を使うべきだった。偏向した自然教育はやめろ!と今から抗議の電話をしたいくらいだね。」

「毛虫はたいてい蛾の幼虫ですよね。有害なものも多いですよ。エホバは毛虫も大好きということですね。理解できません。」
「最大の種の数を誇るのが甲虫。カブト虫とかクワガタが親しまれているけれど、35万種以上ある。それで昔から生物学では、神は甲虫をえこひいきしていると言われる。」

「11から14節は“神の見えない性質は……明らか”です。 11節に“エホバの愛についてお子さんに教えるために,動物が子供を愛情深く育てていることに注目させることができます。(マタ 23:37)”とあります。“愛”は太字になっています。JWにとって都合のいいことを動物を通して教え込もうという訳です。自然界を見てエホバの愛は感じませんね。」
「ヒメバチという寄生バチがいる。蛾の幼虫などに卵を産み付ける。卵からかえった幼虫は蛾の幼虫が死なない程度に食べながら成長し、蛾の幼虫が蛹になるとすべて食い尽くし、蛹になる。羽化すると蛾の幼虫が作った繭を食い破って外に出てくる。」

「愛ある神がこんな生物を造ったとは思えませんね。やっぱり進化してきたんですね。」
「ダーウィンは寄生バチをつぶさに観察して、神による創造説に疑いを持ったとされる。」

「12節ではエホバの知恵を教えろと言っています。“その点を教えるために,重たい水が雲になってふわふわと空に浮いている様子に注目させることができます。(ヨブ 38:36,37)”とあるのですが、引照聖句のヨブ38:36は“誰が雲の中に知恵を置いたか。誰が空の現象に理解力を与えたか。”で、意味不明ですよ。雲の中に知恵はありません。」
「協会共同訳では“誰が鴇(とき)に知恵を授け/誰が雄鶏に分別を与えたのか。”で、全然違うね。新改訳では“隠されたところに知恵を置いたのか。だれが、秘められたところに悟りを与えたのか。”でまた違う。」

「雲なのか鴇なのか隠されたところなのか?また空の現象なのか雄鶏なのか秘められたところなのか?という問題ですね。」
「こんなに違うのはそこで使われているヘブライ語の意味がよく分からないから。推測で訳している。現在のところ最有力なのが協会共同訳の鴇と雄鶏。鴇はナイルの洪水の時期を知らせ、雄鶏は雨の始まりを知らせてくれると信じられていた。その知恵は誰が与えたのかとヨブ38:36は問うているという解釈。」

「聖書は神の言葉のくせに意味不明の部分があるのですね。」
「たくさんあるよ。」

「12節に“人間の体が素晴らしく造られていることも話してあげられます。”とあります。まあそうなのですが、全知全能の神が作ったとしては問題がありますよね。」
「人間だと腰痛に悩む人が多い。膝の痛みに苦しむ人も多い。これは人間が二足歩行に十分適した体になっていないからだ。設計ミスと言えるかもね。」

「進化論では、もともと4足歩行をしていてそれが2足歩行に400万年ほど前に移行したことになっています。2足歩行は利点もあるけれど、様々な疾患の原因になっているわけですね。」
「二足歩行の人間は重力のせいで、痔、胃下垂、ヘルニアなどの疾患に罹患しやすい。人間以外の動物はこれらの病気になることは極めて稀なんだよね。二足歩行のため骨盤の形状が変わり、出産が困難になっている。楽園では出産はないね。」
「2足歩行なので転びやすいです。後頭部を打つと死にます。転んだだけで死ぬ動物は人間以外にはいないと思います。」
「楽園でも、不死ではないので、転んで死ぬ人はいるだろうね。」

「13節ではエホバの力を教えるように言っています。自然からエホバの愛、知恵、力がわかるようです。」
「14節で“創造物から,エホバがユーモアのセンスがある明るい方だということが分かります。学者によると,鳥や魚を含め,ほとんどの動物が遊ぶとのことです。”とあるのが面白い。JWは神様がユーモアのセンスを持っていると信者に思わせたいわけだ。動物の遊びとユーモアは関係ないよ。」

「14節には“お子さんは,子猫が毛糸玉を追い掛けたり子犬がじゃれ合ったりするのを見て,面白がることがありますか。そういう時には,エホバが幸福な神だということを教えてあげましょう。”とあります。理解できません。」
「子猫が毛糸玉を追い掛けるのは狩りの訓練という意味がある。単なる遊戯ではない。ネズミなどの小動物をその牙や爪で素早く殺すことを練習している。子犬のじゃれあいも同じ意味。将来の捕食者としての必要な殺しの技術を学んでいる。エホバは殺しが大好きな神だということを教えるべきだね。」

「楽園が来たら、猫も草を食べるのでしょうか?そうなったら毛糸玉も追わなくなりますよ。」
「草原にボーと立って、口をもぐもぐさせるだけになるかも。それは猫ではないね。」

「15から17節が“エホバの創造物を家族で楽しむ”です。 考えてみると、家族のいないJWは多いです。この記事は子どものいる少数派向けの記事ということですね。15節には“一緒に自然の中で過ごしている時の方が,子供に気持ちを話してもらいやすいと言う親もいます。”とあります。自然って本当に役立ちますね。」
「15節の体験談で“山にハイキングに行ったりビーチを散歩したりして外で過ごしていると,子供たちもリラックスしています。それで,自分の思っていることをよく話してくれます”とあるけれど、賢い子供はカルト信者の親に本音は漏らさないよ。」
「JWの親の思考のパターンは単純なので、こう言えば、こう答えるだろうと予想できます。相談する必要もないです。」

「16節に“山や海や自然保護区などに出掛けていって楽しんでいる家族もいます。”とあるけれど、そんなゆとりのある生活しているJWは少数じゃないの?」
「娯楽にうるさいJWです。自然の中で遊ぶことは問題ないよと言いたいようですが、子どもを山や海に連れて行くと、時間とお金がかかります。」

「最後の17節で楽園になったら、“動物を怖がる必要はもうありません。動物も人間を怖がることはなくなります。(イザ 11:6-9)”とあるけれど、引照聖句は楽園での生活を述べたものではない。」
「そこには“ライオンが雄牛のようにわらを食べる”などとあるのですが、これは文字通りなのか、比ゆ的な表現なのかで、JWの解釈は二転三転してきました。現在は文字通りという解釈のようですね。ということは楽園ではライオンの歯や消化器官など大きく変わり、ライオンの外見をした草食動物が誕生するわけですね。」

#1459 2023年06月02日 14:35:03

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“愛があれば,全ての人は,あなたたちが私の弟子であることを知ります(14)”で、JW流の愛の示し方を学ぶという内容です。」
「JWの愛というと、伝道しろ、加害者を許せ、被害者は泣き寝入りしろ、ということじゃなかった?また同じことを学ぶのかな。」

「1節が面白いです。“次のような場面を想像してみてください。”ではじまります。何を想像するかと言えば、初めて集会に参加した人が歓迎されて、“楽しかったね。あんないい人たち,なかなかいないよね。”という場面です。」
「どこのカルト宗教でもやる“愛の爆撃”ね。この言葉は統一教会の新しくやってきた人の歓迎ぶりを表す言葉だけど。」

「JWの集会を“楽しかった”と感じる人はよっぽど孤独か精神が少し病んでいる人じゃないですか。」
「質問と答えがセットになっている文章を学ぶというのは、多くの人には奇妙だよ。これは昔の教理問答という学習形態をそのまま模倣したもの。時代錯誤も甚だしいね。」

「2節には“兄弟姉妹と親しくなるにつれて相手の欠点や弱点も見えてくることでしょう。(ロマ 3:23)そうしたことが原因でエホバに仕えるのをやめてしまう人もいます。”とあります。初めはいい人を演じていても、いつまでも続けられませんからね。」
「信者が減少する中、信者同士もう少し仲良くしようよ、というのがこの記事の主旨かな。でもJWをやめる人が多いのはJWという宗教そのものに問題があるからでしょう。それには触れられないね。」

「3節に“この記事の主題聖句に注目してみましょう。(ヨハネ 13:34,35を読む。)”とあります。ヨハネは愛を強調していますよね。なぜですか?」
「ヨハネの中のイエスは他の福音書と違って神の国について語らないし、終末論も語らない。信者による共同体の建設を重視している。それで愛が強調されるわけだ。JWとは違う思想だね。」

「5から10節が“イエスの本物の弟子が愛によって見分けられる,と言えるのはどうしてか”です。 あまり内容はありません。7節で面白い論理を展開しています。“サタンは,間違ったことを教える宗教をたくさんつくって,人々を混乱させています。でも,国を超えて互いに愛し合う人たちのグループをつくることはできません。それができるのはエホバだけです。(略)だからこそ,イエスは自己犠牲的な愛によって本物のクリスチャンを見分けられると言いました。”とあります。」
「この部分に登場するのはサタン、エホバ、イエスだけど、イエスは付け足しで、サタンとエホバが激しく勢力争いをしているのがこの地球であるという世界観が前提としてある。そんな世界観自体がカルトなんだよね。」

「前半で“国を超えて互いに愛し合う”ことを真の宗教の基準にしているのに、結論は“自己犠牲的な愛”にすり替わっています。なんですか、これは?」
「前半と後半がつながっていないけど、そんなことを気にするJWなんかいないんだよ。もとの原稿に誰かが修正を加えたからじゃないの?」

「8節が体験談です。イアン兄弟がJWの大会に初めて出席した時の話で、“証人たちは身なりがきちんとしていて礼儀正しく,子どもたちも行儀良くしていました。……しかも,それらの人は満ち足りた平安な気持ちでいるようでした。”と言っています。JWの表面しか見ていませんね。どうせ捏造した体験談ですよ。」
「スーツにネクタイという姿に感銘を受ける人は会社員に劣等感でも持っている人なの?子どもの行儀がよいのはそれなりの恐ろしい理由があるのではと疑って欲しいね。基本的に保守的な価値観の人なのだろう。そういう人がJWに感銘を受けるわけだ。」

「この人は大会での醜い座席の取り合いとか、大会に出席するために宿泊する人に対してはホテルが指定されて、JWの幹部はそこにタダで泊まれるようホテルから便宜を図ってもらっているとか、ホテルに泊まるJWのマナーが悪いので子どもに対するような注意が毎回なされるとか、知らないですよ。」
「事情をよく知らない一人の観察は何かを証明するものではない。この人は北朝鮮のマスゲームを見ても、“それらの人は満ち足りた平安な気持ちでいるようでした。”と言うと思うね。」

「8節の結論が“私たちが兄弟姉妹に親切にし,敬意を表せるのは,お互いに心から愛し合っているからです。”とあります。一人の感想から一気にこんな結論に飛ぶなんて、おかしいです」
「サッカーのワールドカップの試合終了後日本人サポーターがゴミ拾いをしていたよ。この記事の執筆者なら、日本人のサッカーファンがこのように礼儀正しいのは、お互い心から愛しあっているからでしょう、と書くのかな?」

「9節はジョン兄弟の感想で、“出席しているどの人からも親しみ深さ……が感じられ,皆が聖人のように思えました。その純粋な愛を見て,これこそ真の宗教だと確信しました。”というものです。この人はそこに存在しないものを見てしまう特殊能力のある人ですよ。」
「単にJWにこびへつらっているだけ。早く長老になりたいんだろう。」

「結論は、“こうした例から,エホバの証人が本物のクリスチャンだということが分かります。”です。この執筆者は論理的に書くことを勉強して欲しいです。」
「いわば身内の人間のたった2つの感想が、JWが本物のクリスチャンであることの根拠になるとは、どんな間抜けな人でも思わないよ。その他にJWが本物のクリスチャンである根拠が見つからなかっただけ。」

「11から14節が“イエスはどのように使徒たちに愛を示したか”です。 マタイ20章の話を取り上げています。11節に“ある時,使徒のヤコブ とヨハネは母親を通して,イエスに王国での目立った立場を求めました。(マタ 20:20,21)”とあります。同じ話がマルコ10:35-45に出ていますが、マルコでは母親が出てきません。どういうことでしょうか?」
「マタイもルカもマルコを資料の一つと使っているけれど、自分の神学に合わせて書き換える。マルコの特徴は弟子たちに厳しいこと。マルコは弟子たちのダメっぷりを容赦なく描く。マタイとルカはそれが気に入らなくて、弟子たちのダメっぷりを修正する傾向にある。」

「マタイは母親を出すことによってヤコブとヨハネの悪い印象を和らげようとしたということですね。悪いのは親バカ丸出しで、おせっかいな母親ということにした。マタイは女嫌いということですね。」
「マタイでは母親は最初に出てくるだけ。母親が“この息子たちがあなたの王国で1人はあなたの右に,1人は左に座れるようにしてください。”とお願いしたのに、22節以降イエスは母親があたかも存在しないかのようにヤコブとヨハネに話しかけている。本来登場しない母親を登場させたために不自然な展開になっている。」

「12節では“ほかの使徒たちの反応についてこう書かれています。「ほかの10人はそのことを聞くと,その2人の兄弟に対して憤った」。(マタ 20:24)”とあります。それに対してイエスは“使徒たちが本当 は正しいことをしたいと思っていることが分かっていたので,辛抱強く教えました。(マタイ 20:25-28を読む。)”とあります。JWと違って、審理委員会を開いて排斥処分にしたり、みんなで口も利かないし挨拶もしないということもしなかったことがわかります。」
「JWの審理委員会なら、ヤコブとヨハネは即座に排斥だね。」

「引照聖句の訳ですが、20:28が“また多くの人と引き換える贖いとして自分の命を与えるために来ました。”とあるのですが、贖いという宗教用語がここに出てくるのはヘンですよ。贖いは人と交換するものではないです。」
「新約聖書ではイエスの命が交換するもの。イエスの死によって人間の罪が許され、永遠の命を得られるようになることが贖いだね。JWの翻訳者は贖いの意味を知らないね。」

「英語訳はransomなので“身代金”と訳すべきです。協会共同訳では“多くの人の身代金として自分の命を献げるために”となっていますよ。」
「元のギリシャ語は奴隷を自由にするために支払う金額という意味で使われる。一言でいうと身代金だね。JWの翻訳者は身代金というと身代金目的の誘拐事件を連想して、その言葉を使いたくなかったかも。」

「15から18節が“イエスにどのように倣えるか”です。 15節では、間違ったことをした人に対して、“自分がこんなに腹を立てているのはどうしてだろう。こういう反応をするのは,自分に何か足りないところがあるということだろうか。自分を傷つけたあの人は何か大変な問題と闘っているんだろうか。たとえ相手に落ち度があるとしても,愛を示して許すことができるだろうか。”と自問せよと言っています。」
「JWでは被害者の方がまず反省するわけだ。怒るのは何か問題があるからのようだ。聖書の神様はしょっちゅう怒るよ。神様こそ反省しろということかな。」
「怒りは正義が踏みにじられたときの正当な反応です。怒らない人は正義の感覚が欠如した人ですよ。」

「“自分を傷つけたあの人は何か大変な問題と闘っているんだろうか”と相手の事情を考慮するのは聖書的じゃないね。聖書ではそのようなことは考慮せず、結果から裁かれる。計画的な殺人も過失致死も、裁きに差はほとんどない。」
「JWは被害者に過剰な要求をしすぎです。」
「“愛を示して許すことができるだろうか。”と自問してみたものの、やっぱり絶対許せないという答えだったらどうするかは書かれていない。JWには許すしか選択肢はないということね。」

「17節に体験談が出ています。“気に障る言動をする兄弟”がいたけれど、よく知るように努力したら、“生い立ちがその兄弟の性格に大きな影響を与えているということ”がわかったとあります。どういうことかもっと具体的に書いて欲しいですね。」
「子どもの時からカルト宗教の一員で、世の中の常識を学ぶことがなかった、とかじゃないの。具体的に書くと差しさわりがあるんだよ。」

「そして“兄弟が生い立ちの影響を乗り越えるためにどれほど頑張ってきたかを知って,本当に立派だと思いました。私たちは良い友達になりました。”とあります。やはり具体性がないのでインパクトに欠けます。」
「この話で思い出すのはJWの子どもとして生まれた人だね。その生い立ちが性格に大きな悪影響を与えて、JWを辞めた後でもその悪影響を乗り越えるためにどれほど頑張ってきたか。本当に立派だね。」

「18節がまた被害者泣き寝入りの勧めです。あれこれ書いていますが、結論は“こうしたことを時間をかけて考えるなら,愛を示して水に流そうと思うかもしれません。”と、水に流せない人はまるで何か欠陥のあるような書きっぷりで、許せません。」
「執筆者は組織側の人間で、さんざん信者を騙してきた加害者なので、預言が外れたくらいで騒ぐ方が悪い、どうして水に流せないの、と言いたいのだよ。」
「自己保身から許すことを強調しているわけですね。」

「18節で“「話し合いに行くと,問題がもっと大きくなってしまわないだろうか」。(格言26:20を読む。)”とあるけれど、ひどい聖句の誤用だ。」
「そこには“まきがなければ火は消え,中傷する人がいなければ言い争いはやむ。”とありますね。中傷を辞めろといっているだけです。」
「とにかくJWでは被害者と加害者が話し合うのもいけないようだ。」
「JWも他の宗教をサタンの宗教などと中傷するのを止められたら、少しはまともな宗教になるんですけどね。無理ですね。」

「最後の19節で“エホバの証人はグループとして,イエスの本物の弟子であることを示しています。”と高らかに宣言しています。しかし、その根拠はJWの体験談しかありませんでした。」
「あくまでも自称・イエスの本物の弟子ね。言ったもの勝ちと思っているのかな。」
「単なるJWの自己宣伝でしたね。」

#1460 2023年06月09日 14:30:38

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“イエスの奇跡から学べること(15)”で、ヨハネ2章とルカ7章に出ている奇跡物語から、謙虚さと思いやりを学ぼうという内容です。」
「奇跡物語から学ぶのがそんなことなの?的外れだね。JWには謙虚さと思いやりが欠けているので再学習しようということなのか?」

「1節はヨハネ2章にある、結婚式でワインがなくなったけれど、イエスが水をワインに変えてくれたので、急性アルコール中毒患者が続出したという話を紹介しています。」
「“酔ったころ”とあるだけだよ。」

「1節に“マリアは急いでイエスの所に行き,「ぶどう酒がありません」と言います。(ヨハ 2:1-3)イエスはどうしたでしょうか。水を「上等のぶどう酒」に変えるという奇跡を行いました。(ヨハ 2:9,10)”とあるのですが、マリアは単なるゲストのイエスにワインがないことをなぜ言うのですか?不自然です。いうべきは結婚式の主催者ですよ。初めからイエスが奇跡を起こすと思っていたわけじゃないですよね。」
「イエスもそんなことを自分に言うなんて見当違いと思ったんじゃないかな。ヨハネ2:4に“それは私たちが心配することですか。私の時はまだ来ていません。”とかなりぶっきらぼうに答えている。でもこの訳はへんだね。」

「協会共同訳では“女よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません。”となっています。JW訳では“女よ”を省略しています。」
「イエスのぶっきらぼうな答えを和らげるために“女よ”を省略する訳はJW訳以外にもあるけれど、なるべく忠実に訳して欲しい。」

「ヨハネ2:11に“イエスはこれを最初の奇跡としてガリラヤのカナで行い,自分の力を明らかにした。”とありますが、意図的な語訳ですね。」
「英文では“Jesus did this in Caʹna of Galʹi·lee as the beginning of his signs, and he made his glory manifest”で、“奇跡”ではなく“しるし”で、“自分の力”ではなく“自分の栄光”だ。」

「ヨハネの特徴として“奇跡”という言葉は使わずに“しるし”という言葉を使うというのが有名なんですけれどね。しるしはヨハネの中で7回出てきます。これは意図的に完全数である7回にしたわけですね。」
「ヨハネにとって奇跡は単なる驚くような出来事を超えた象徴的意味を持つもの。それで“しるし”という用語を使っているのだろう。この話は書かれている通りのことが起こったと解釈すると、酔っぱらいをさらに酔っぱらわせたという実につまらない話になる。」

「ヨハネのしるしの話は一種のたとえ話のようなものですよ。結婚式でワインが不足するというのは、あることを象徴しています。」
「みずがめが6つというのも意図的だ。6は不完全数。水をみずがめのふちいっぱいに入れるというのも、最後に上等のワインが出てきたというのもあることを象徴している。」

「文字通りの、ある結婚式での出来事とすれば、奇跡がすごいとしかいいようがないですよ。でもつまらない奇跡です。」
「ヨハネは文字通りに読者が読むことを期待していないと思うね。これは第1のしるしで、重要な意味がある。この話は“3日目にガリラヤのカナで結婚の披露宴があり”(2:1)で始まる。イエスは3日目に復活した。この話にイエスの母が登場する。次にイエスの母が登場するのはイエスが死ぬとき。」

「この話でイエスは“私の時はまだ来ていません”とぶっきらぼうに言います。読者はその時とはいつなのか?と疑問に思います。そう思わせる意図ですね。」
「福音書はイエスの死に向かって話が進行する。その時とはイエスが死ぬとき。ヨハネは水をワインに変える話でその伏線を張っていると読めるね。」

「4から7節が“エホバとイエスについて学べること”です。 イエスの奇跡の話なのにエホバが出てくるというのはエホバ教らしくて笑えます。イエスの奇跡から3つの点が学べるそうです。」
「JWの完全数は3だね。」

「5節が①“イエスとエホバは私たちを深く愛している。”です。奇跡で病人を治したり、空腹の人に食べ物を与えたことを言っていますね。」
「でも、現代のJWには関係ないよね。JWは病人が多いし、食べ物に事欠く人もいる。」

「6節が②“エホバは人類の問題全てを解決する力をイエスに与えている。”で、7節が③“イエスが将来神の王国の王として素晴らしいことを行うと確信できる。”です。」
「イエスの行った奇跡から、イエスが“人類の問題全てを解決する力”があるとは断言できないでしょう。」

「イエスの行った奇跡というと病気を治す、悪霊を追い出す、死者を復活させる、水の上を歩く、嵐を鎮める、あとは食べ物関連の奇跡ですか。魚が大量に獲れたというのもありましね。このようなことで全人類の問題全てが解決できますか?」
「その他の奇跡としてイチジクの木を枯らすというのもあるよ。” もう二度と実を付けないように”と言ったら、枯れてしまった。」

「いろいろ奇跡物語がありますが、4つの福音書全てに出ている奇跡は5000人に食事をさせた奇跡だけです。ヨハネに出てくる奇跡は他の福音書には全く登場しないことが多いですよ。」
「5000人にパンを食べさせた後の話が重要で、ヨハネ6:15で“イエスは,人々が自分を王にするために捕らえに来ようとしているのを知り,ただ独りで再び山に去っていった。”とあり、ヨハネ6:26で、イエスは“はっきり言っておきますが,皆さんが私を捜しているのは,奇跡を見たからではなく,パンを食べて満足したからです。”と言っている。イエスは辛らつだね。」
「つまり、イエスの奇跡はイエスに対する信仰を生み出すことはなく、むしろイエスを利用しようというような邪悪な考えや、イエスに対する敵意を生み出したのですね。」

「ヨハネ9:16に“パリサイ派のある人たちは,「その人は神の所から来たのではない。安息日を守っていない」と言いだした。ほかの人たちは,「罪人だったら,どうしてこんな奇跡を行えるだろうか」と言った。こうして意見が分かれた。”とある。これは目の見えない人が見えるようになったことに対する反応。」
「ヨハネではイエスの話も奇跡も、それによって信仰を抱く少数の人と多数の敵意持つ人に分かれて行ったことを描いているわけですね。」
「そういう訳で、この記事のように、奇跡すごい、イエスすごい、という単純な話ではない。」

「9から12節が“謙遜さについて学べること”です。 イエスの奇跡話から教訓を学びます。それはJWが平信者に絶えず要求する謙遜さです。再びヨハネ2章の水をワインに変えた話を取り上げます。9節には“披露宴でぶどう酒がなくなってしまった時,イエスは奇跡を行う義務があったわけではありません。”とくだらないことを言っています。」
「9節に、飲みのものがなくなったら“イエス は,新郎新婦や家族が恥ずかしい思いをするのはかわいそうだと思ったのでしょう。それで,390㍑もの水を最高級のぶどう酒に変えるという奇跡を行いました。それほどたくさんのぶどう酒があれば,残った分を後で飲んだり,売ってお金に換えることもできたでしょう。”とあるけれど、これではイエスはおとぎ話に出てくる親切な魔法使いと一緒だね。」

「ヨハネではイエスは神ですよ。奇跡はイエスの中にある神としての性質を明らかにするためのたとえ話じゃないですか。」
「JWにとって聖書の話は安っぽい教訓話に過ぎないということ。」

「390㍑という数字は納得できません。ヨハネ2:6には“そこには,ユダヤ人の清めのしきたり通りに石の水がめが6つ置いてあり,各容量は五,六十リットルだった。”とあります。つまり300から360㍑で、間を取れば330㍑です。どうして390㍑になるのですか?」
「英文ではsome 390 liters (103 gal)とあるから、”390㍑“と訳しただけだね。問題は聖書本文の翻訳。”各容量は五,六十リットルだった。“ではなく、”各容量は44から66リットルだった。“とすべきだね。」

「66×6=396なので、この記事では水がめの容量をなぜか最大値の66㍑と見積もっているようです。イエスがたくさんのワインを作り出してあげた親切な魔法使いのおじさんという印象を与えようとしているわけですね。」
「数字が合わなくなったのは、聖書本文の翻訳をいつものごとく適当にやったから。JWであるということは本当に恥ずかしいことだね。」

「“最高級のぶどう酒”に変えたとあるのですが、高級ワインなんか当時あったのですか?」
「ヨエル1:5に“酔っぱらいたち,目を覚まして泣き悲しめ!ぶどう酒に溺れる者たち,皆,泣き叫べ。あなたたちの口に入る甘いぶどう酒はもうない。”とあるけれどこの“甘いぶどう酒”というのが高級ワインのようだね。普通のワインとは製法が違うようだ。」
「エゼキエル27:18に“ダマスカスも,豊かな産物を求めて,裕福なあなたと取引をし,ヘルボンのぶどう酒とツァハルの羊毛を運んできた。”とありますが、“ヘルボンのぶどう酒”は古代から有名だったようですね。」
「ヘルボンでは今もワインの産地だよ。」

「10節に” 水をぶどう酒に変えた後も,それを自分で宴会の幹事の所に持っていくのではなく,給仕たちに持っていかせました。(8節)”とあるのですが、”宴会の幹事”とありますが、日本の宴会と同じですか?」
「英文ではthe director of the feast。directorは管理者で幹事とは違うね。宴会の幹事というと世話役でしょう。英語の聖書ではthe headwaiter(給仕長)としているものが多い。」

「11節に“この奇跡から,謙遜さの大切さが学べます。イエスは,水をぶどう酒に変えたことを自慢したりしませんでした。実際,イエスは自分がしたことを自慢することなど一度もありませんでした。”とあります。というわけで、水をワインに変えた奇跡から学ぶことは謙遜さです。ズレていますね。」
「11節に“私たちもイエスに倣って謙遜であるなら,自分のしたことを自慢したりはしないでしょう。”とあるけれど、記事の中によくある体験談はほとんどが自慢話だよ。これからは、頑張ったら長老になれましたとか、バプテスマに100人導きましたとかと言った記事はなくなるのかな?」

「ヨハネのイエスは謙遜じゃないですよ。自分は神であると何度も言っています。」
「ヨハネ8:24に“私がその者であることを信じないなら,あなた方は罪を負ったまま死ぬことになるのです。”とあるけれど、協会共同訳では“『私はある』ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる。”となっている。“わたしはある”というのは旧約聖書の神のことだよ。同じ表現は8:28,8:58.13:19にも出てくる。」

「12節が面白いです。“イエスの謙遜さに倣う方法はほかにもあります。”とあるのですが、どんな話かというと、“若い援助奉仕者の兄弟が初めて公開講演をすることになり,ある長老が時間を取って助けてあげます。おかげで,若い兄弟は良い話をすることができ”た、という場合、手伝った長老は“謙遜であれば,自分がほかの人のためにしたことを得意げに話したりはしないはずです。”というのです。」
「年寄りはでしゃばるなということだね。組織は若い人を登用して、世代交代を早めなくては衰退していくだけと思っているからね。」

「大したこともしていないのに、若い兄弟を指導して育てていますというふりをしたがる長老が多いということですよ。」
「それでますます若い人がいなくなる。いいことじゃないか。」

「13から16節が“思いやりについて学べること”です。 水をワインに変えた話から、ルカ7章のナインで一人息子を復活させた話に変わります。」
「水をワインに変える話からはこれ以上教訓話を思いつかないので、別の奇跡を取り上げるわけだね。」

「15節に“イエスのこの奇跡から,悲しい思いをしている人に思いやりを示すことを学べます。”とあります。家族を亡くした人にもっと思いやりを示せという指示ですね。」
「JWは家族を亡くした人に冷淡な宗教だからね。お葬式の話でも故人について語るのは5分だけで、あとはJWの宣伝をするだけと言われている。」

「16節が実例です。集会で復活の歌を歌っていた時、最近幼い娘を亡くしたばかりの姉妹が泣いていたので、“隣に行き,肩を抱いて歌の残りを一緒に歌ってあげました。”というものです。珍しく人間らしい話です。」
「そんないい話じゃないよ。娘を亡くした姉妹は“あの時集会に行って良かったと感じています。”とある。家族を亡くした人でも集会に来させようという意図だね。家でひとり家族を失った悲しみに浸るということは許されないのがJWということ。家族が死んだくらいで集会、伝道をサボるのは許さないぞ、という組織のありがたい教えだ。」

「17,18節が“もっと調べてみましょう”です。 まとめと来週の予告です。17節に“イエスのほかの奇跡についても,個人研究や家族の崇拝で調べてみるのはどうですか。”とあります。でも、JWの出版物から学ぶのはやめた方がいいですね。」
「18節に来週はラザロの復活について学ぶことが書いてある。イチジクの木をからした奇跡について取り上げて欲しかった。」

#1461 2023年06月16日 14:15:24

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“あなたの兄弟は生き返ります(16)”で、ラザロの復活の話から復活の信仰を強めて、組織のために働けという内容です。」
「コロナで亡くなったJWが多かったから、こんな記事が書かれたのかな?」

「1節に重い病気の子どもの話がいきなり登場します。“マンスリープログラムを見終わった後,マシューは両親の手を握ってこう言いました。「パパ,ママ,もしぼくが死んでも必ず復活してくるからね。心配しないで待っててね」。”と言ったという悲しい話です。」
「信者の感情を操作しようとしているね。重い病気の子どもに復活信仰がいい影響を与えるかな?治療に真剣に取り組まなくなるようで、心配だね。」

「2節では“でも復活の希望があるなら,こうした大変な経験をしても耐えることができます。”と言っていますよ。でも、復活するからと、子ども自身が真面目に治療しないとか、お金がかかるので子どもに治療を受けさせないということが起きる可能性がありますよ。」
「復活のためには、重い病気でも伝道しないといけないと子どもに思い込ませることが心配だ。復活信仰は信者をコントロールする道具だね。」

「4から9節が“復活の約束を信じられるのはどうしてか”です。 4節で“誰かの約束を信じるためには,その人が約束を果たしたいという願いと,そうするための力や能力を持っていることを確信している必要があります。”とあります。エホバはその両方を持っていると言いたいようです。」
「意志と能力の両方があるということね。」

「5節に“まずはエホバの願いについて考えてみましょう。エホバは何人もの聖書筆者を聖なる力によって導き,将来起きる復活について書かせました。(イザ 26:19。ホセ 13:14。啓 20:11-13)”とあります。3つの聖句をあげていますが、JWの言うように、ハルマゲドン後に地上に復活することを明確に述べた聖句はありますか?」
「引照聖句のイザヤ26章だけど、26:1の“その日,ユダでこの歌が歌われる。”で始まる。災害などが起きた時の集会で歌われたもの。内容は神に対する懇願だよ。神様にお願いしているだけ。神の約束じゃないよ。」

「イザヤ26:19には“あなたの死者は生きる。私の民の死体は起き上がる。”とありますが、この詩の作者がそう言っているだけですね。生き返る対象はユダの民ですよ。JWじゃないです。」
「旧約聖書では復活の対象は個人というよりイスラエルという国であることが多い。旧約聖書の宗教は国家宗教で、個々人の救済にはほとんど無関心。国が滅亡した後に、預言者たちはイスラエルという国の復活を願った。イザヤ26章も国家の復活を願った詩だね。」

「2つ目に挙げられているホセア13:14は復活の約束ですか?そこには“私は墓から彼らを救い出す。死から彼らを取り戻す。死よ,さあ,とげで刺してみよ。墓よ,さあ,破滅させてみよ。私は同情を示さない。”とありますよ。ホセア13章は厳しい裁きを述べている部分で、13:14でもその結論は“私は同情を示さない。”ですよ。」
「復活の約束だと最後の文と一致しなくなるね。この聖句はパウロがコリント一15:54,55で死に対する勝利という意味合いで引用されているので、復活の聖句と思ったのだろうけれど、パウロの引用は曲解にもとづくもので、ここでは復活の約束などない。」

「協会共同訳では“私が彼らを陰府の手から救い出し/死から彼らを贖うというのか。/死よ、お前の災いはどこにあるのか。/陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。/憐れみはわが目から隠される。”でして、疑問文となっていますよ。」
「文法的には疑問文ではない。でもこうした方が意味が通るということ。」
「ホセア13:9に“イスラエルよ,あなたは滅ぼされる。あなたを助ける者である私に逆らったからだ。”とありますから、ホセア13章はイスラエル全体に向けられていて、個人向けじゃないですし、JWとも無関係ですよ。」

「5節に“エホバが約束を果たさなかったことは一度もありません。(ヨシュ 23:14)”とある。引照聖句ではヨシュアが“皆さんの神エホバが話した全ての良い約束のうち,果たされなかった言葉は一つもありません。”と言うけれど、事実に反するね。」
「ヨシュア1:3,4に“モーセに約束した通り,あなたたちが踏む所全てを,私はあなたたちに与える。 あなたたちの領土は,荒野からレバノンや大河ユーフラテスまで,また西の大海まで広がり,ヘト人の全土を含む。”とありますが、イスラエルの領土がそんなに拡大したことは一度もないですね。」
「ヨシュアはその頃は高齢で記憶力が低下して、神様の約束を忘れたんだよ。」

「6節に“ヨブは,たとえ死んでも,エホバが自分を生き返らせたいと願っていることをよく理解していました。(ヨブ 14:14,15)”とありますが、間違いですよ。」
「まずヨブ14:12で“人も,横たわり,起き上がりません。天がなくなるまで,目覚めることはなく,眠りから起こされることはありません。”とヨブは死の終極性を認める。しかしその後の14:14で“人は死ぬと,もう一度生きられるでしょうか。”と死後の生の可能性を問わずにはいられなかった、というもの。ヨブには復活信仰はないよ。」

「6節に“ご自分と友になり,地上で永遠に暮らしてほしいと思っているのです。(ヨハ 3:16)”とありますが、引照聖句には友となるとか、地上で、とかはありません。JWが勝手に付け加えているだけです。」
「JWの教義を裏付ける聖句は見つけられないようだね。」

「7,8節ではエホバが復活させる力があると書いています。その根拠は聖書にそう書いてあるというものです。他にはないです。」
「8節に“エホバに復活させる力があると言えるもう1つの理由は,無限の記憶力を持っているということです。(略)亡くなった人が生きている間に経験したことや,その人の記憶や遺伝情報といった細かなことさえ,エホバは覚えているのです。”とあって、復活というのは神様のデータベースに保存されているデータに基づいて死んだ人間のコピーを作ることだというのがわかるね。自分が死んだ後に自分のコピーが造られてもそれは自分ではないよ。」

「それは複製で、復活とは言えませんね。」
「厳密に言うと、JWの教義に復活はないね。自分は生きてハルマゲドンを通過し、自分の家族や友人の複製と楽しく過ごすというのがJWの夢の楽園生活。ハルマゲドン前に死んでしまうと、自分ではない自分の複製が自分の代わりに生きていることになる。」

「10から12節が“親友の死”です。 ヨハネ11章のラザロの復活の話です。これもよく取り上げられますね。10節に“残念なことに,使いがイエスの元に到着する頃にラザロは死んでしまいます。イエスはラザロが死んだことを知った後,そこに2日とどまってからベタニヤに向かいました。”とありますが、違いますよ。」
「ヨハネ11:6に“しかし,ラザロが病気だと聞いても,同じ所にさらに2日とどまっていた。”とある。死んだとは聞いていない。2日間もとどまっていたことの説明がうまくつかないので、死んだと聞いたことにしたのだろう。」

「病気と聞いたのに、すぐ駆け付けないのは確実に死ぬのを待っていたのですよね。」
「復活の奇跡を起こすにはまず死んでもらわなくてはいけないからね。のんびり2日間過ごせば、その間に死ぬだろうということだね。」

「死後直後に復活させるのは後々面倒ですよ。本当は死んでなかったとケチをつけられます。」
「最も早くても復活させるなら死後3日の時点だね。それで2日待ったともいえる。日本では死後24時間立たないと火葬できない。24時間待つのはその間に蘇生する可能性があるからだね。」

「11節に“この記述から,友情について大切なことを学べます。”とありますが、理解できません。」
「この話は友情についてではないね。そもそも聖書は友情には関心ないよ。」

「13から16節が“ラザロ,出てきなさい!”です。 13節で“イエスはマリアや周りの人たちが泣き悲しんでいるのを見て,胸が締め付けられるように感じ,涙を流します。”と説明しています。ヨハネ11:33に“イエスは,マリアが泣き,一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見ると,心の中でうめき,苦悩した。”を根拠にしているのですが、この最後の部分の訳はこれでいいのですか?」
「協会共同訳では“憤りを覚え、心を騒がせて”とある。かなり違うよね。embrimaomaiという単語の意味を巡って長い論争がある。元の意味は”鼻を鳴らして荒い息をする”という意味。それが怒りを意味しているという説とそうではないという説がある。多くは怒りの感情の現れと解釈している。JWのような解釈はあまり支持されないね。」

「14節で、エホバ教らしくエホバに触れます。“マリアが悲しんでいるのを見た時のイエスの様子から,エホバが温かい思いやりのある神だということが分かります。”とあります。余計な文章ですよ。執筆者はイエスばかり注目されるとエホバが嫉妬すると思ったんじゃないでしょうか。嫉妬深い神ですから。」
「エホバ教ではイエスを貶める必要があるんだよ。そうしないとキリスト教になってしまう。」

「15節でラザロが復活する場面が取り上げられます。ヨハネ11:44に“すると,死んでいたラザロが,手足に布を巻かれたまま出てきた。顔にも布が巻かれていた。イエスは言った。「ほどいて,歩けるようにしてあげなさい。”とあるのですが、訳に問題がありますよ。」
「JW訳だと、手足も顔も同じ細長い布でぐるぐる巻きになっていると解釈できる。しかし、手足の布と顔の布は別の単語で種類が違う。顔の布はsoudarionで、ハンカチーフという意味。使徒19:12に” それで,パウロの手拭いや前掛けを病人に持っていくだけで,病気は治り,”とあるけれど、”手ぬぐい”と訳されているのと同じ単語。」
「挿絵を見ますと、白い袋のようなものを頭にかぶせていますね。これもちょっと違いますね。」

「ラザロは布でぐるぐる巻きになっているのに、どうして墓から出てこられたのかが昔から疑問に思われてきたよ。」
「あらかじめラザロが歩けるように右足と左足を別々に布で巻いていたとしか考えられませんね。となると、復活することを前もって知っていたのかも。」

「ヨハネ11:44でイエスは“ほどいて,歩けるようにしてあげなさい。”と言っている。ということは、ラザロはピョンピョンと両足でジャンプしながら墓から出てきたということだ。ここは感動する場面なのに、こんな間抜けた動作でそれが台無しになると思ったイエスが、“歩けるようにしてあげなさい。”と言ったのだろう。」

「16節はまとめで“ヨハネ 11章の記述を読むと,復活の約束に対する信仰が強まります。”とあります。ラザロの復活の話の要点は11:25の“私は復活であり,命です。”ということですね。」
「私は○○だ、というイエスのセリフはヨハネの中で7回出てくる。その5番目が“私は復活であり,命です。”だね。ラザロの復活の話は、実話ではなく、この命題を解説した話と読むべき。」

「17から19節が“復活の希望をもっと現実的なものとするには”です。 3つのことが出ています。3はJWの完全数ですね。」
「執筆者は最低3つのことを書けば、仕事終了という約束なんだよ。」

「その①が“復活の記録を読んでじっくり考える。”です。逆効果になる場合がありますよ。」
「マタイ27:52,53にイエスが死んだあとに“墓が開いて,眠りに就いていた多くの聖なる人の死体が現れ,多くの人に見えるようになった。(イエスが生き返らされた後,墓場から出てきた人々は聖なる都に入った。)”とある。これって聖書の中で描かれている復活の話の中で一番大規模なものだよ。じっくり考えよう。」
「エルサレムはゾンビの大群に襲われたようですね。この話はJWからは完全に無視されています。この記録を読むと復活の話がバカバカしく思えるからでしょうか?」

「キリスト教の基本的な教えのひとつに使徒信条というものがあって、その中に、カトリック版だと“ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、”とある。これは金、土、日それぞれの日の出来事を言っている。イエスが死んだのが金曜日、土曜日にイエスは死者の世界に行き、日曜に復活したということ。」
「土曜日が陰府からの奪還という話ですね。」
「イエスの復活は義なるもの全てに報いを与えるためという思想があった。それが使徒信条にも存在しているということ。その思想によれば、イエスは一度死んで死者の世界に行って、義人を死者の世界から奪還してきた。それでマタイ27:52,53の奇妙な話が挿入されたわけだ。」

「ペトロ一3:18,19に“キリストは人間として死にましたが,天での命を受けました。  そして,捕らわれている天使たちの所に行って知らせを伝えました。”とあり、またペテロ一4:6に“良い知らせは死んでいる人たちにも伝えられました”とありますが、陰府からの奪還のことを言っているわけですね。」
「そう考えることもできるね。でも“捕らわれている天使たち”ではなく“捕らわれの霊たち”だよ。“知らせを伝えました。”というのは陰府からの霊の解放を知らせたということ。」

「復活の希望をもっと現実的なものとする方法②は“復活についての「崇拝の歌」を活用する。”で、③は“想像力を働かせる。”です。」
「JWの歌にそんな力があるの?JWは理屈では無理なので、感情に訴えて自分たちの教義を信じさせようということだね。」

「19節は“亡くなった愛する人と再会する時のことも考えてみてください。最初にどんな言葉を掛けますか。その人を抱き締める時,どんな気持ちになるでしょうか。喜びのあまり涙を流しているでしょうか。”と、感情にしつこく訴えています。集会では、涙を誘うようなセンチメンタルな音楽をここで流して欲しいですね。JWも書籍よりビデオが中心なるわけです。」

「次の“どんなことを聞いてみたいですか”という囲み記事は知性ある大人がまじめに考えるようなことではないね。小学生レベルの話。JWの知的レベルに合わせたものなのだろうか?」
「“新しい世界で復活してくる人たちにこんな質問ができるかもしれません。”と聖書中の人物名とそれに対する質問が出ています。例えば“イサク: まきを背負って山を登っていた時,どんな心境だったんですか。”とあります。」
「イサクは“まさか本当に殺すつもりだとは思いませんでした。宗教に狂った親を持つことは本当に危険なことです。”と答えるよ。」

#1462 2023年06月23日 14:32:00

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“思いも寄らない問題にぶつかっても,エホバが支えてくださる(17)”で、JWのつらい人生は当然だから、それくらいでJWをやめるな、という内容です。」
「英文のタイトルはJehovah Will Help You Deal With Life’s Uncertaintiesで、エホバは人生の不確実性に対処するのを助けてくれる。これは日本の無知無学なJWには難しすぎる表現と考えて、ここにあるようなくだけたタイトルにしたのだろうね。」

「3節に“詩編34:19を読む。この聖句から2つの重要な点が分かります。(1)正しい人は問題にぶつかります。(2)エホバは私たちを助け出してくださいます。”とあります。詩編34:19には“正しい人は多くの苦難に遭う”といっているのですが、正しくない人はもっと多くの苦難に遭いますよ。」
「JWは正しいから苦難に合うのだと思うように誘導しているわけだね。JWの苦難はJWのバカげた教義せいで、JWが正しいからじゃないよ。」

「5から14節が“聖書時代”です。 聖書の中の話から学ぼうというものです。最初に登場するのはイサクの息子のヤコブです。ヤコブの苦難が描かれています。5節に“ヤコブは父親から,エホバに仕える親族であるラバンの娘と結婚するようにと言われました。”とあります。ラバンはエホバに仕えていましたか?」
「ラバンは異教の人でしょう。創世31:30でラバンはヤコブに“あなたは父の家に帰ることを願って出ていきました。それなのに,どうして私の神を盗んだのですか。”と言うよ。」
「執筆者は、この神をエホバのことと思ったのでしょうか?エホバって簡単に盗めるものなのですね。」
「執筆者はもっと勉強してよ。」

「ヤコブがラバンの所に行くのは、結婚のためではなくて、創世37:42,43で“兄さんのエサウがあなたを殺して復讐しようとたくらんでいます。 今すぐ,私の言う通りにしなさい。ハランにいる私の兄ラバンの所に逃げなさい。”とリベカがヤコブに言ったからじゃないですか?」
「創世記によくあることで、複数の話を一つにまとめたことから生じた混乱だね。一つの話はエサウから逃れるために旅立つというストーリ、もう一つ嫁とりのために旅立つというストーリで、それを一つに合成したのが今の創世記のストーリということ。」

「6節に“愛する妻ラケルは2人目の子供を産んだ時に亡くなってしまいました。”とあります。ラケルの死んだ場所ですが、創世35:16に“それから一行はベテルを出発した。エフラトまでまだ距離がある場所で,ラケルが産気づいて出産し始めたが,ひどい難産だった。”とあり、ベニヤミンを産んでラケルは死にます。ラケルの死んだところはベテルの近くということになります。ところが、創世35:22-36でヤコブの12人の息子について述べているのですが、最後に“これらの人たちが,パダン・アラムで生まれた,ヤコブの息子である。”とあるのです。ベニヤミンが生まれ、ラケルが死んだ場所はベテル付近なのか、パダン・アラムなのか、どちらなのですか?」
「これも複数の話を一つに合成したことから生じた矛盾だね。後の部分は系図の資料を基にしたのだろう。そこにはパダン・アラムとなっていた。ベテル付近で死んだという初めの話と一致しないけれど、書き換えることはしなかったということ。創世記の作者の意図はイスラエルの祖先はみなカナンの地の外で生まれたと主張することと推測できる。」

「歴史的には、バビロン捕囚後バビロニア生まれのユダヤ人がカナンの地に戻ってきた時、カナン生まれのユダヤ人と対立が起こるわけですね。バビロニア生まれだから外国人だという非難に答えるために、イスラエルの祖先はみなカナンの外の生まれということにしたということでしょうか。」
「何気ない系図でもそこには政治的意図が込められていることがあるのが聖書だね。」

「7節がヤコブの話の教訓です。“私たちも思いも寄らない問題にぶつかるかもしれませんが,エホバとの絆をしっかり保つなら乗り越えることができます。”とありますが、そうは思いません。」
「ヤコブは特別でしょう。ヤコブに起きたことが現代のJWに起きると思う根拠は何だろう?なにもないよ。」

「8から10節がダビデを取り上げます。ダビデの苦難は神殿を建てられなかったことのようです。ほかにもいろいろ苦難はあったのに、なぜ神殿の話なのでしょう?」
「王国会館の建設の話と結びつけようとしているんじゃないの?」

「そうかもしれません。9節で、神殿建設を認められなかったダビデが“目標を調整しました。ソロモンが神殿を建てるのに必要なお金や資材を一生懸命に集めました。(代一 29:1-5)”とあります。その引照聖句の中でダビデは“私個人の財産である金銀も,神の家のために献じます。 (略) 今日,エホバのために供え物をしたい人はいますか。”と言っています。」
「統治体は、それを受けて、“私たちもすぐ王国会館が建設できなくても、建設のために必要な寄付を進んでしたいと思います。”という完全に洗脳された信者が集会でコメントすることを期待しているね。」

「10節がダビデの話からの教訓で、“たとえ自分の願っている奉仕が全部行えなかったとしても,エホバは私たちが思ってもみなかったような祝福を与えてくださる,ということを確信できます。”とあります。根拠のない時に限って、“確信できます”がでてくるのがJWの作文技法です。」
「やはり建設費に足りなくても、寄付を続けろということだね。少しでも信者から多く搾り取ろうという狙いだ。」

「11から14節が1世紀のクリスチャンの苦難の話です。飢饉の話を取り上げています。」
「11節に“そうした中でも,伝道に打ち込みました。”とさりげなく書いているけれど、伝道したのは特別選ばれた人で、大多数の信者はそんなことをしていないよ。歴史を捏造している。」

「12節でも“1世紀のクリスチャンはいろいろな変化に順応し,できることを行って伝道を続けました。そして,自分の持ち物をユダヤのクリスチャンと喜んで分け合いました。(使徒 11:29,30)”と、あたかも1世紀のクリスチャン全体が伝道していたかのように書いています。」
「引照聖句には“それで弟子たちは,それぞれが提供可能なものを提供し,ユダヤに住む兄弟たちを救援することに決めた。”とあるけれど、伝道の話は出てこないよ。」

「14節でも伝道を取り上げています。パウロとバルナバの話で、“迫害に遭っても2人が伝道をやめなかったので,とても良い結果につながりました。私たちも,エホバから委ねられている務めを一生懸命行い続けるなら,たくさんの祝福を経験できるでしょう。”とあります。」
「聖書から学ぶと言っても、結局学ぶことは伝道を熱心にやれば祝福されるという聞き飽きたことしかないようだね。」

「15から20節が“現代”です。 現代のJWの体験談が出てきます。預言の失敗、病気、貧困、迫害という苦難が出てきます。」
「組織は自分たちは迫害の被害者というイメージ作りに熱心だね。こんな宗教はほかにあるのかな?アメリカの調査でJWは悪魔崇拝、サイエントロジーに次ぐ好ましくない宗教の3位になっていた。」
「JWと比べるとモルモンやイスラム教の方がイメージはずっと良いですね。」
「統治体は自分たちの宗教を反省することはないから、この調査結果を見て、なぜなんだ、サタンの陰謀だ、迫害だ、と被害者意識を強めているのだろう。」

「15節はだいぶ昔の人の話で、“当時の大勢の人たちと同じように,兄弟はすぐにでも天に行けると考えていました。”とあります。でもそんなことはなく、1966年に亡くなったのですが、“高齢になっても集会に出席し続けました。”とあります。」
「組織に騙されても、死ぬまで奉仕しろといっているようなものだ。」
「この人は1996年に亡くなっていますから、集会に出席してもしなくても、楽園で復活するというのがJWの教義です。自分のやりたいことをして死んだ方がより幸せだったはずです。」

「JWの教義はまもなく終わりの日が来て、生きてその日を迎えられる人にしか訴える力を持たないもの。自分の死後に終わりの日が来る人はJWになる必要は全くない。復活してから1000年かけてJWになればいいみたいだよ。」
「JWになるチャンスがあったのにならなかった人は、死んだら地獄に行くと教義変更したらどうですか?」
「そうやって、普通のキリスト教に近づくわけだね。」

「16節が病気の話ですが、2000/12/1号の記事の再利用です。“兄弟はガーナでの宣教者奉仕を夫婦で楽しんでいたと書いています。でもやがて,重度の気分障害と診断されました。”とあります。気分障害とは何ですか?」
「元の記事には、そううつ病とある。そううつ病は気分障害のひとつだね。」
「JWにはうつ病が多いので、そういう言葉を使いたくなかったのですよ。」
「最新の診断基準であるDSM-5では、うつ病と双極性障害は別々のカテゴリーの「抑うつ障害群」と「双極性障害および関連障害群」になり、気分障害というカテゴリーはなくなったんだけどね。」

「元の記事には“私は医師の指示により,一定量の適切な投薬を定期的に受けて,かなり安定した健康状態を保っています。”とあります。祈ったら治りましたという感動的な話を期待したのですが、そんなことはないようですね。」
「この人は診断を受けた後、“私は本当にあ然としました。その後2年間,何とかしようと必死に努力しましたが,病状は徐々に悪化の一途をたどっていました。”とある。直ぐ治療を受けなかったということだろう。直ぐに治療を受けるべきだったね。」

「JWは精神科の治療を受けたがらない人が多いですよ。」
「医師にJWと言ったら、JWを辞めるように勧められるし、JWであることを言わなければ、見当違いの診断と治療になるからね。」

「18節が貧困問題ですが、感動しました。ナイジェリアの姉妹と子どもが食べ物がなくて困っていたのです。“すると,2人が昼に何を食べようかと考えもしないうちに,仲間が救援物資を届けに来てくれました。そこには2週間分以上の食糧が入っていました。”とあります。これこそ待ち望んでいた体験談です。」
「この記事を読んで、世界中のJWが感動したよ。しかも写真付きだよ。この話はこれから何度も登場すると予想するね。」

「この姉妹は“確かに食べ物もお金もないけれど,ザレパテのやもめのお手本に倣いましょう」と言いました。最後の食事を準備して,あとはエホバに全部お任せするということです。(王一 17:8-16)”とあるのですが、ザレパテのやもめの話を曲解していませんか?」
「パンをくれといったエリヤに対して、そのやもめは“私の所にパンはありません。大きなつぼに麦粉一握りと,小さなつぼに油が少しあるだけです。私は薪を幾つか拾い,この後,戻って自分と息子のために何かを作ります。私たちはそれを食べたら,あとは死ぬだけです。”と答えている。どこを見倣うのかな?」

「ザレパテというのはフェニキアの町ですよ。バール崇拝の盛んな所で、このやもめはエホバ教ではないです。」
「このやもめは死んだ息子を生き返らせてもらった後、エリヤに“私は今,本当に分かりました。あなたは確かに神に仕える人で,あなたが語るエホバの言葉は真実です。”という。この時点でエリヤの神を信じるようになったということ。」

「この話の教訓は、人間は自分が必要としている物を与えてくれる人にこそ信頼を置くものだということですね。」
「そういうわけで、いつか来るという楽園の夢物語しか語れないJWは信頼されない。JWは貧困問題にまじめに取り組めば、少しは印象がよくなるよ。」

「19,20節がロシアでの迫害を受けた人の話です。迫害の結果、20節で“エホバとの絆が強まりました。”といっています。それなら、よかったじゃないですか。」
「19節で“起訴内容は聖書に関心があるふりをして1年以上兄弟と接触していた人が撮った動画に基づくものでした。”とある。JWごときを起訴するために、潜入捜査を1年以上するとはロシアの警察も暇だね。」

「それだけロシアではJWは危険視されているということですよ。」
「大勢の信者に抗議の手紙を書かせたりしたからじゃないの?霊感を受けているわけでもない不完全な人間の集まりである統治体の誤った指導が迫害を招いているという面はあるよ。」
「それはそうなんですが、迫害を受けるとエホバとの絆が強まると言って、統治体は気にもしていませんよ。」
「こんな統治体に従っている限り、JWであることは苦労の連続ということだ。」

#1463 2023年06月30日 14:15:38

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“集会で励まし合いましょう(18)”で、集会に来て、もっとコメントしろ、という内容です。」
「コメントは一部の洗脳された信者がすればいいんじゃないの。こんな記事が出たということは、集会に来ない、来ても居眠りという信者が増えたのだろう。」

「3節で、“パウロは集まり合うことの大切さを教えた時,「励まし合」うようにと勧めました。(ヘブライ 10:24,25を読む。)”とあり、その引照聖句では“仲間と集まることを怠ってはなりません。よく欠席する人たちに倣わないようにし,いつも励まし合いましょう。”とあるのですが、これは酷い訳ですよ。JWの教義そのものじゃないですか。」
「“よく欠席する人たちに倣わないように”というのが笑えるね。協会共同訳では“ある人たちの習慣に倣って集会をやめたりせず、かえって励まし合いましょう。”だね。集会に参加しない人々がいたようだけど、それがどのような人たちかは全くわからない。」

「3節で“たとえ短くても確信のこもったコメントをするなら,それを聞いた兄弟姉妹は励みを受けます。”とあります。だらだらした長くてつまらないコメントはするなという指示ですね。」
「それなら、“自分の子どもが輸血をしないと死ぬと言われたら、エホバを喜ばすために死を選ぶべきです。”というコメントは、短くて確信のこもった良いコメントだね。」

「昔、ある姉妹が“ポケモンはポケットデーモンの略なので、良くないです。”とコメントしましたが、誰も何も言わなかったです。ポケモンはポケットモンスターの略ですよ。短くて確信のこもったコメントですが、ウソは励みになりません。」
「“統治体の兄弟たちはイエスのように謙遜な人です、”と誰かがコメントしたことに比べれば、罪のないウソだよ。」

「以前、精神に障害のある人がいて、コメントするために手を挙げたのですが、マイクを渡されたら、延々と歌いだしたのです。歌が途切れたところでマイクを取り上げました。励みになりませんでした。」
「コメントが他の人の励みになるなんて、ウソなんだから、自由に歌わせてあげたら。聖書には、集会でコメントしなさい、なんてどこにも書いていないよ。」

「5から8節が“小さな会衆で”です。 出席者の少ない会衆でのコメントの仕方を学びます。5節で“たくさん手を挙げるようにしましょう。”と指令が出ています。」
「6節で“コメントすることを考えただけでも緊張するかもしれません。そう感じている人は大勢います。”とある。コメントが少ないのは緊張のせいと執筆者は思っているようだ。」

「大多数の人はバカバカしくて、コメントする気にならない、とは思いつかないようですね。」
「質問に対する答えを本文から探して、読み上げるだけでしょう。まじめにやれるのは小学4年生までだね。」

「7節で緊張対策として提案されているのは、良く準備しろ、短いコメントをせよ、ということです。」
「次のようにアドバイスするのはどうだろう。“コメントをさせるのは、信者のマインドコントロールを強めるためなので、内容はどうでもいいのです、エホバですとか、サタンですとかでもいいのです、人前で声を出すことが大事なのです。”」

「8節で“こうした提案をやってみても,緊張してコメントするのがなかなか難しいと感じるならどうでしょうか。”とあります。そういう人はJWに向いていないので、JWをさっさと辞めましょう、とは書いていませんね。」
「ムチでたたきますとなぜ書いていないのかな?昔は子どもにコメントさせるために、体罰は普通でしょう。コメントしないとハルマゲドンで滅ぼされるというのがJWの教義じゃなかった?」

「9から16節が“大きな会衆で”です。 人の多い会衆でのコメントの仕方です。9節では、なかなか当ててもらえないという問題を取り上げています。」
「9節に“姉妹はコメントするのが好きで,集会でよくコメントしていました。それによって,エホバを崇拝し,仲間を励まし,聖書の 教えをさらに確信することができると感じていました。でも,大きな会衆に移動した後は,コメントできる回数が少なくなりました。一度も当たらないことさえありました。”とある。毎回くだらないことを長々しゃべるので、当てるのはやめようと長老の間で話し合った結果だとなぜ気づかないのだろう?」

「集会でコメントするのが唯一周囲の人から注目を浴びる機会という人もいますよ。そういう人はコメントに命を懸けているのです。」
「この姉妹も“わざとなんじゃないかという気持ちになります。”と言っている。自分が嫌われていることは薄々気づいているよ。最低1回当ててやれば満足するのだから、どうでもいい質問の時に当ててあげるという親切心が必要ということかな。」

「10節で当てられるための方法が出ていて、“幾つかコメントを用意しておくことができます。”とあります。数で勝負ですね。それから“説明しにくい聖書の深い真理について考える節でコメントを用意しておくこともできるでしょう。(コリ一 2:10)そうした節では,ほかと比べて手を挙げる人が少ないので,当ててもらいやすいかもしれません。”とあります。手を挙げる人が少ない質問を狙えということですね。」
「問題は“説明しにくい聖書の深い真理について考える節”なんてまずないことだよ。小学4年生でも答えることができる質問ばかりだよ。」

「10節で” 「ものみの塔」研究の予習をする時には”とありますが、”研究”とは笑えますね。」
「答えの所に線を引くだけだよね。それを研究と呼ぶのはJWだけだね。」

「10節で“集会前に,どの質問で答えたいと思っているかを司会者に伝えることができます。”とあります。個人的に頼むわけですね。コネを使えということですね。」
「その時手ぶらはダメだよ。司会者に頼むときは現金か商品券が必要だからね。相手が酒好きでも、ウィスキーは目立つからダメだよ。」

「12節でヘンな例えが出てきます。“友達と話をする時,自分ばかり話して会話を独占したりするでしょうか。そんなことはしないはずです。ほかの人たちの話もぜひ聞きたいと思うことでしょう。同じように,集会でもできるだけたくさんの人がコメントできたらいいと思いませんか。”とありますが、友だちとの会話と集会のコメントを同一視しているのがおかしいですよ。」
「コメントしないとハルマゲドンで滅ぼされというのがJWの教義でしょう。友達との会話と違って、命がかかっているので、コメントは他の人に譲れないね。」

「13節で“1つ目に,短いコメントを意識するようにしましょう。”と言っています。コメントは短ければ短いほどいいということですね。“2つ目に,1度のコメントでたくさんの点を含め過ぎないようにします。”とあります。一度のコメントに一つのことです。」
「でもハルマゲドンで滅ぼされないためには、長くていろいろなことを含んだコメントをする必要があるんじゃないの?短いコメントだと、それでは不十分ではないか、もし明日ハルマゲドンが来たら・・・と不安になり夜も眠れない人もいるよ。」

「14節に“同じ人が何度も手を挙げると,司会者はほかにまだ当たっていない人がいても,その人をまた当てなければいけないと感じるかもしれません。”とあります。司会者のことも考えて手を挙げろということのようです。たかが小学生でもできるコメントするだけなのに、そこまで気を使わないといけないのですね。」
「司会者は平信徒よりも何倍も偉いんだよ。偉い人の迷惑にならないように行動するのが平信徒の役割。」

「その下に、“司会者が意識できること”という囲み記事があります。気の利かない司会者が多いということですね。まず“できるだけたくさんの人がコメントに参加できるようにしてください。”とあります。難しい注文ですね。」
「最初に“話し過ぎないようにしましょう。”とある。司会者が話過ぎるというのはコメントがあまりないからじゃないの?それで司会者が自分でコメントしちゃうわけだ。司会者が黙っちゃうと、重苦しい沈黙が延々と続くという会衆もあるだろう。」

「“「まだコメントしていない人はいますか」などと言わないようにしましょう。”とあります。これはなぜですか?」
「コメントしない人に人前で圧力をかけるなということだろう。しかし個人的に陰で圧力をかけるのは問題ないよ。コメントしないと滅ぼされるよ、とこっそり言うわけだね。」

「15節で、頻繁に手を挙げるな、とあって、伝道3:7の“裂くのに時があり,縫うのに時がある。黙っているのに時があり,話すのに時がある。”が引照聖句になっていますが、これは集会のコメントと何の関係もありませんよ。」
「これは喪に服することについてだよ。死の知らせを受けた時に、悲しみを表現する手段として服を裂くことをいっている。2行で一つのことを言っている形式の文なので、“黙っている”は、死の知らせを受けて沈黙すること。縫うと話すは、悲しみが癒えて、裂いた服を縫う時もあり、話すこともあるという意味。いずれの時も自分では選べないというのがポイント。」

「17,18節が“励まし合うためにほかにできること”です。 17節に“親の皆さん は,お子さんが年齢に合った内容のコメントをすることができるように,一緒に準備しましょう。”とあります。子どもでもコメントすることが強要される恐ろしい宗教です。児童虐待です。」
「その後に“結婚や道徳についての記事を学ぶこともありますが,そういう時にも子供がコメントできる節が幾つかあるはずです。”と言っている。“結婚する前にセックスするとエホバが怒ります。”とか“ポルノはサタンです。”といったコメントを子どもはしなさいということかな?ひどい児童虐待だよ。」

「以前、コメントしようとすると、汗が吹き出し、呼吸困難になり、手が震えてしまう人がいました。その人は子どもの時からそうで、JWの両親はそれでも、コメントするよう絶えずその人に圧力をかけたそうです。」
「JWの教えでは、それは乗り越えなくてはならないし、乗り越えられるものというわけだ。」

「その人は両親の強い圧力のもと、無理やりコメントさせられたそうですが、大抵はうまくいかず、そのため自尊心はズタズタになり、中学生になると本当の精神病になった、と言っていました。」
「JWの人格破壊力は相当なものだね。その人は社交不安障害じゃないかな。そういう人は専門家に相談したほうがいいよ。自分で乗り越えられるものではない。」

「たかがコメントする程度でこれほどあれこれ言われる宗教は楽しくないですね。信者をとことん管理したがる宗教ということがよくわかります。」
「普通の信者は、コメントなどせず、洗脳された信者のトンデモコメントを楽しむことに専念しよう。」

#1464 2023年07月07日 14:15:37

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“将来についてのエホバの約束 どうすれば信仰を強められるか(19)”で、間もなく来る楽園というJWの怪しげな教義を信じて、JW活動に励めという内容です。」
「英文ではJehovah’s Promise of a New Worldで、新しい世界についてのエホバの約束だよ。それを“将来についてのエホバの約束”とあいまいにしているのは、自信がないからかな?」

「これも信者引き締め用記事ですね。終わりが来るというJWの教えには、もはや何のリアリティを感じられなくなりましたから。」
「終わりが遠い先の話だと、無理してJWである必要はないからね。JWでない人も、死んだら楽園で復活して、JW教育を無理やり1000年間受けるという教義でしょう。」

「1節で“それがいつ実現するのかについては知りませんが,世界の出来事を考えると,その時が近いということが分かります。(マタ 24:32-34,36。使徒 1:7)”といっています。高齢の信者は思わず苦笑いですね。150年間、時は近いと言い続けていますね。」
「引照聖句には有名な“はっきり言いますが,これら全てが起きるまで,この世代は決して過ぎ去りません。”が含まれているよ。この“世代”の解釈は十回くらい変わったんだよね?こんな組織の言うことを信じられる方が不思議だ。」

「その解釈の最新版は意味不明の“重なる二つの世代”です。終わりが来ないことに対する詭弁的解釈です。イエスがここでそんなことを言っているとはJWでも信じられないでしょう。」
「JWは終わりが来ると言って信者を集め、規模を大きくしていくという終末論宗教としては寿命が尽きたようだね。違うタイプの宗教に変身しないといけない時期ということ。」

「2節で“ですから,信仰が弱くならないようにするために,新しい世界がもうすぐ実現すると言える根拠についてよく考える必要があります。”といって、この記事の趣旨を説明しています。」
「根拠は、聖書の中の幾つかの聖句をJW流に解釈したらそうなったということ以外にあるの?ないよ。」

「4から7節が“どんな時に強い信仰が必要になるか”です。 4節に“次のように自問してみましょう。「自分の決定には,今の世界がもうすぐ終わり,新しい世界が来ると信じていることが表れているだろうか。それとも,死んだら全てが終わると考えている人たちの影響を受けてしまっているだろうか」。”とあります。カルト宗教らしい極端な思考ですね。」
「典型的な白黒思考。JWでは選択肢は2つしかないわけだ。実際には選択肢はたくさんあるのに、エホバかサタンかどちらかを選べというように信者に迫ってくるのがカルト宗教のやり方。」

「死後の世界についての考え方なんか無数にありますよ。なぜ“死んだら全てが終わる”という考えだけを取り上げるのか理解できません。」
「“もうすぐ終わり,新しい世界が来る”という考えだって、数年後、数十年後、100年後と色々あるでしょう。新しい世界に対する考えだって異なる考えが無数にあるよ。」
「とにかく、信者は“もうすぐ終わり,新しい世界が来る”と信じなくてはいけないようです。」

「6節にたとえ話が出ているのだけど、これまた変だよ。」
「そこには“例えで考えてみましょう。厳しい冬のさなかには,夏が遠い先のことのように感じるかもしれません。でも,夏は必ずやって来ます。同じように,ひどくがっかりしている時には,新しい世界が遠い先のことのように感じるかもしれませんが,強い信仰があるなら,エホバの約束は必ず実現すると考えることができます。”とあります。前半と後半がつながりませんよ。」
「前半と後半を“同じように,”でつないでいるけれど、全く同じじゃないでしょう。季節の変化はほぼ確実なことだけど、エホバの約束と呼んでいるJWの約束は全く確実じゃない。滅茶苦茶な例え。」

「8,9節が“贖いについてじっくり考える”です。 ここからは信仰を強める3つの方法という内容で、その①です。8節には“贖いはエホバの約束が実現すると信じる根拠となるからです。”とあります。」
「イエスの死のことを言っているのだろうけれど、JWはイエスを軽視しているので、信仰を強める材料にはならないでしょう。」

「イエスはJWの約束である“もうすぐ終わり,新しい世界が来る”と直接関係ないですよ。“もうすぐ終わり,新しい世界が来る”というのは、前607年、1914年、1919年のJW独自の教義と“世代”などについての聖書の語句に対するJW独自の解釈に基づくものなので、自分たちの教義の根拠について誰もが納得するように説明したらよいのです。」
「それができないから、キリスト教らしく見せるために、贖いなんて持ち出してきただけだよ。」

「10から12節が“エホバの力について思い巡らす”です。 信仰を強める方法その②です。10節に“信仰を強めるために,エホバの力について思い巡らすこともできます。”とあります。“実現不可能に思えた約束”という囲み記事があり、聖書中の6つの事例がイラスト付きで取り上げられています。」
「子ども向け聖書物語という趣でいいね。」

「約束、不可能に思えた理由、どのように実現したか、という3つに分けて書かれていますが、問題は約束です。JWの解釈が入っていておかしいです。」
「まず、2つ目の約束“アブラハムの子孫がカナン地方に住む。(創 17:8)”だけど、引照聖句は“つまりカナン全土を与える。そこはずっとあなたたちのものになる。”とあるよ。アブラハムの子孫がカナンを自分たちのものだと言えた期間はごく限られていた。“ずっと”という約束は守られなかったね。」

「3つ目に約束が“ダビデの子孫が永遠に王として治める。(サム二 7:8,16)”ですが、引照聖句では“あなたの王朝と王国はあなたの前で永遠に安定する。あなたの王座は永遠に揺らぐことがない。”と言っています。ダビデ王朝の安定と永続性の約束ですが、ダビデ王朝は不安定でしたし、滅びてしまいます。約束は守られていません。」

「4つ目の約束、“イスラエル人がバビロンで70年間捕囚にされた後,エルサレムに戻る。(エレ 29:10)”だけど、引照聖句は“バビロンで70年が満了したら,”とあるだけで、70年間捕囚が続くとは言っていない。捕囚期間が70年というのはJW独自の教義。」
「前607年から前537年という期間ですね。前607年がインチキ年代ですから、エレミヤは将来インチキ年代が使われるとわかって預言したということでしょうか。恐るべきエレミヤ。」

「13から15節が“エホバとの絆を強めるための活動を十分に行う”です。 集会、伝道、個人研究の3つが取り上げられます。ウソくさい体験談が続きます。」
「13節で、ある姉妹の発言が紹介されていて、“集会は,信仰を強めるために欠かせません。話し手がどれほど上手に教えてくれるかや,話される内容が自分にとって新しいものかどうかに関わりなく,聖書の理解を深め,信仰を強めることができます。”とある。ウソだろう。」
「これがウソだということは集会に参加しているすべての信者はわかりますよ。」
「誰もがウソだとわかっていることでも、これはウソです、と誰も言えないのがカルト宗教。」

「14節も伝道についてのある姉妹の発言が紹介されています。“伝道に出ると,本当に信仰が強まります。エホバの素晴らしい約束についてほかの人に語れば語るほど,その約束が必ず実現するという確信も強まっていきます。”とありますが、これもウソですよ。大多数の信者は伝道が嫌いで、時間も絶えず水増ししてごまかしていると思います。」
「伝道していると、相手から暇でいいですねとか、人生を無駄にしていますね、と言われた時の模範解答として、ここで紹介しているだけ。この発言は執筆者が作ったものだろう。」

「伝道中に、エホバの約束とは何ですかと聞かれたら何と答えるのでしょうね。間もなく楽園が来て、パンダと毎日遊ぶのです、とでも言うのですか?」
「エホバの約束とは、まもなくJW以外の人を皆殺しにするというものでしょう。その約束が実現する確信が強まるというのは、伝道した相手から常に冷たく扱われるので、相手に対して敵意が生れ、あんな奴らは早く焼き殺すべきだという確信が強まるということかな?恐ろしいね。」

「15節では個人研究について書いていますが、JWの言う研究とは、JWの出版物に書いてあることを暗記することですよ。研究とはそういうことには使わない言葉です。」
「つまらない雑誌の記事を読む程度のことを研究と称して、何か知的なことをしているかのような幻想を信者に与えようということだよ。」

「昔、“目覚めよ”誌を何年か読めば、大学教育を受けたのと同等の知識が得られるといったJWの偉い人がいたそうですよ。」
「その“目覚めよ”誌は今や事実上廃刊状態。JWの知的レベルが落ちるのも無理はないね。」

「15節には「“世界本部で何十年も働いてきたアイリーン姉妹は,聖書の預言を調べることが役立つと感じています。こう言います。「エホバの預言が細かなところまでその通りになっていることを考えると,本当にすごいと思います」。”とあって、個人研究の内容は預言が実現したことを確認することのようです。結局、JWの信仰は聖書の預言が実現することを信じることなんですね。」
「自分の信じたいことに都合のよいことだけを選んで学ぶというのがJWの研究と称するものということ。自分にとって不都合なことは一切シャットアウト。だから進歩はない。」

「“世界本部で何十年も働いてきたアイリーン姉妹”という表現には違和感があります。これは一種の権威主義ですね。」
「世界本部で働くことは、たとえトイレの清掃係でもJWにとって勲章なんだろう。こうやって信者の間に細かな序列を設けるのがカルト宗教だよ。」

「16から18節が“必ずその通りになる”です。 約束実現を死ぬまで待ち続けろと言っています。本当はもう待つのはやめて、違う人生を選ぶべきですよ。」
「世界の大勢の兄弟姉妹が聖なる力に導かれて続々とJWから離れています、とどこかに書いてなかった?」

「16節にハバクク2:3の“たとえ遅れるとしても,待ち続けよ。必ずその通りになるからである。遅くなることはない!”が引用されていますが、これはJWの楽園到来という約束とは無関係ですよ。」
「圧政に苦しむ古代イスラエルに向けて言われた言葉で、ハバクク1:13にある“不誠実な者たちを見過ごしておられるのはどうしてですか。悪い人が自分より正しい人を締め付けているのに,どうして黙っておられるのですか。”という問いに対する答えを待ち続けよと言っている。でもハバククの中でその問いに対する直接的な答えはない。」

「そのあと“パウロは聖なる力に導かれてこの言葉を引き合いに出し,新しい世界を待ち望んでいたクリスチャンを励ましました。(ヘブライ 10:36,37を読む。)”とあります。ヘブライ書はパウロが著者ではありませんし、ハバクク2:3を引き合いに出していませんよね。」
「ヘブライ10:37には“あと「ほんのしばらく」すれば,「来ることになっている方は到着します。遅れることはありません。”とあるけれど、“ほんのしばらく”はハバクク2:3にはないよ。これはイザヤ26:20の70人訳から来たもの。」

「ヘブライの著者はヘブライ語ではなくギリシャ語訳の70人訳から引用しているのですが、この部分のギリシャ語訳はヘブライ語本文とだいぶ違いますよ。意味が変わっています。」
「ヘブライ10:37の引用では、来るのは人物になっているけれど、元の文では来るのは人物ではない。しかも引用するときに正確に引用しないで、勝手に付け加えているものもある。」
「つまり①ヘブライ語の本文→②ギリシャ語訳→③ヘブライ書の作者の引用というわけです。①から②の段階でかなり変わり、②から③の段階でさらに変わっているということですね。」
「新約聖書での旧約の引用っていい加減なものなの。聖なる力に導かれとこうなるのかな?」

「17節の質問が“ある姉妹は,エホバがハバククに語った言葉をどのように自分に当てはめましたか。”です。そのある姉妹とは“1939年からエホバに仕えているルイーズ姉妹はこう言います。「当時私は,高校を卒業する前にハルマゲドンが来ると思っていました。・・・”という人なのですが、ハバククの言葉ってずーーーと待ちなさいということではないですよ。」
「“遅くなることはない!”と言っているから、しばらく我慢してね、程度のことを言っている。何十年も待ちなさいとは言っていないよ。ルイーズ姉妹は宗教詐欺にあって、自分の人生を無駄にしたことを認めたくないだけ。JW人生とは違う、よりまともな人生が自分にはあったかもしれないと思うと、気が狂いそうになるんだよ。」

「1939年からJWということは、もし生きているとすると90歳以上ですよ。間もなく終わりが来るというJWの言うことを真に受けて、恐らく進学もせず、定職にもつかず、結婚もせず、ただ待ち続けた人生だったということですね。」
「1939年は第二次世界大戦が始まった年。それで終わりが近いと思い込んでJWになったのかも。もしかしたら1975年には、今度こそ終わりが来ると信じて、全財産売り払ったかも。」

「ルイーズ姉妹は“私にとって助けになっているのは,エホバからの祝福を得るまで長い間待った人たちの聖書の記録を読むことです。例えば,ノアやアブラハムやヨセフなどです。”と言っています。聖書の世界に逃避していますね。」
「ノアやアブラハムやヨセフは架空のキャラクターだよ。だから彼らはいくらでも待てる。」

「18節で“確かに,今はまだ新しい世界は実現していません。でも,エホバがご予定の時に必ず実現してくださると確信できます。”と言っています。JWの教義では、新しい世界を造る前に、平和安全宣言や全ての宗教の禁止やJWに対する迫害があり、最後に乳幼児を含めてJW以外は皆殺しという大イベントがあります。JWは間もなくそうなると確信しているわけですね。危険な宗教です。」
「そんなに確信があるなら、カートの横でぼ~と立っていないで、そのメッセージをヒョウ・アラレのごとく触れまわって欲しいね。」

#1465 2023年07月14日 14:24:39

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“祈りをもっと良いものにするには(20)”で、JWの考える正しい祈りについて解説したという内容です。」
「この種の記事も定期的に出るよね。祈りぐらい好きにさせておけばいいのに、そうさせないのがカルトなんだろうね。」

「1節に“私たちはエホバに自由に近づき,毎日のいろいろな場面でアドバイスを求めて祈ることができます。(格 3:5,6)”とあります。そうだとしても、何も答えは与えられません。」
「祈ったらいいことが起きたということはないね。あったとしても偶然だ。でも祈らざるを得ない人もいるし、祈りたい人もいる。自由にさせればいい。」

「3から5節が“イエスは祈りのために時間を取った”です。 祈るための時間を確保せよという指令です。」
「3節が笑える。イエスは“地球に来るずっと前,ハンナやダビデ やエリヤといった忠実な人たちの祈りにエホバが答える様子をそばで見ていました。”とある。ということは、エホバが祈りに応えることは滅多にないということも見ていたということだね。」

「旧約聖書に見られる祈りは個人的な頼み事が多いのでは?そんなことにいちいち応えていられませんよ。」
「ここに出ているハンナの祈りは子どもが欲しいという訴えだ。個人の欲望に応えるのが神の仕事だとは聖書のどこにも書いていないから、例外的な特別サービスと理解するしかないね。」

「旧約聖書で祈りに応えたと言えば、何と言ってもヨシュアが“太陽よ、止まれ”といったら、太陽が止まったという話が一番すごいですよ。」
「JWでもこの話はバカバカしいと思っていて、なるべく触れたくないのだろう。ヨシュア10:14に“エホバが人間の声を聞き入れたこのような日は,後にも先にも一度もない。”とある。これは誤訳で、協会共同訳には“この日のように、主が人の声を聞き入れられたことは、後にも先にもなかった。”とある。神は人間の声など聞かない。」
「本当は人間の声を聞き入れた日はこの日だけという意味ですが、それでは不都合なので、JW訳では太陽が止まった日は後にも先にもないと解釈可能なように訳したわけですね。」

「ヨシュア記は、祈っている暇があるなら行動せよ、という思想が強い。ヨシュア記7章で、アイの町の攻略に失敗した後、ヨシュアは祈る。するとエホバは“立ちなさい! どうしてひれ伏しているのか。”と言い、祈りを止めさせ、“死刑にされるものをあなたたちの中から除き去ってしまわない限り,私は二度とあなたたちと共にはいない。”と宣言する。」
「すべきことをしないで、祈ったってダメだよ、ということですね。」

「5節で“イエスの手本から分かる通り,どんなに忙しくても祈りのために時間を取るのは大切なことです。”と言っています。忙しい時くらい祈りは省略できないのですか?」
「こういうふうに祈りを義務化するということは、JWは決められたことをきちんと実行するのが正しい信者の在り方だと思っているのだろう。パリサイ的な形式主義だね。」

「6から17節が“祈りに含めるとよい5つの点”です。 JW流の正しい祈り方が解説されます。6節に①“エホバを賛美する。”とあります。」
「統治体を賛美するというのが最初に来ると思ったけれど、違うのね。」

「でも、なぜエホバを賛美しなくてはいけないのでしょうか?エホバ、すごい、偉い、かっこいい、などと言うことにどういう意味があるのかわかりません。」
「組織から命令されて、賛美することに何の意味もないでしょう。エホバを賛美していれば、組織に忠実だと思われるという利点があるというだけ。独裁国家で独裁者を国民が賛美するのと同じだよ。」

「イエスに祈るのはJWでは禁止ですよね。クリスチャンと称しているのにヘンですね。」
「JWも1954年まではイエスに祈っていた。ところがエホバ教に目覚めたらしく、イエスに祈るのは偶像崇拝ということになったね。」
「使徒7:59に“そして石を投げ続けた。ステファノは,「主イエス,私の命を受け取ってください」と訴えた。”とあります。これはイエスに祈っていますよ。ステファノはJWなら偶像崇拝で排斥処分ですね。」

「ヘブライ1:6に“神はご自分の初子を再び世界に遣わす際,こう言います。「神の天使たちは皆,彼に敬意を表しなさい」。”とある。“敬意を表する”と訳されている単語は、普通は“崇拝する”と訳する。しかしJWはイエスに関連すると、崇拝するとは訳さない。自分たちに不都合だから。」
「マタイ2:2に“ユダヤ人の王として生まれた方はどこにおられますか。東方にいた時にその方の星を見たので,敬意を表するために来ました”とありますが、協会共同訳では“拝みに来たのです。”となっていますね。」
「一方、マタイ4:9はサタンのセリフだけれど、“ひれ伏して私を崇拝するなら,これら全てをあげましょう”と訳している。なぜ“敬意を表する”と訳さないの?」

「つまり同じ単語でも、イエスなら“敬意を表する”といったあいまいな訳にし、サタンなどイエス以外だと“崇拝する”と訳しているのが、JW訳ということですね。」
「JWの聖書は、自分たちの教義に合わせた改ざん聖書ということがよくわかるよね。」

「7節に“聖書を学ぶ時には,エホバがどんな方かに注目しながら読むようにしましょう。そして,感動したことをエホバに祈りで伝えることができます。”とありますが、聖書ってそんなに感動しませんよ。」
「聖書を注意深く読めば、一夫多妻制、奴隷制、大虐殺、民族差別、女性蔑視などが満ち溢れて、道徳的に問題のある本ということがわかると思うけれどね。どこに感動するのかな?」

「ノアの大洪水で、乳幼児を含め、パンダやコアラなどを溺死させたことに感動するのでしょうか?エホバは正しき者も不義なるものも平等に滅ぼすことに感動する?」
「創世記6章を読むと、大洪水が起こる経緯は、天使たちが地上に降りて、人間の女性を妻とし、ネフィリムたちが生まれて、地上が邪悪になったので、地上にいるものを皆殺しにすることにしたというもの。この滅茶苦茶な論理に感動した。」

「悪いのは天使たちですよ。どうして天使たちが地上に降りてくるのをエホバは放置したのでしょうか?無責任です。管理責任という思想はないのですね。天使たちは洪水では死にませんよね。天に帰ったのでしょうか?」
「聖書では、責任のある者に何のお咎めもなく、無関係な者が殺されるという話が多いね。神のいい加減さに感動する。」

「8節は②“エホバに感謝する。”で、祈りには“エホバ、感謝します、”というセリフが多ければ多いほど良いようです。」
「8節に“例えば,美しい地球を含め,素晴らしい物をたくさん造ってくださいました。”とあるけれど、ハエやゴキブリ、蚊もエホバが作ったのかな?これも感謝するのかな?」

「9節にいつもの偏見丸出しの文章があります。“多くの人は,感謝を示すことよりも,どうすれば自分の欲しいものを手に入れられるかということばかり考えています。”と、何の根拠もなく断定していますね。」
「物欲を罪悪視させようという意図だね。たいていの人は普通に暮らせればそれで満足するよ。軽自動車じゃイヤだから、どうすれば高級車が買えるかそればかり考えている人なんかいるかな?地方だと車は必需品だよ。」

「11節が③“大胆に伝道できるようにと祈る。”です。そう祈りなさいとは聖書のどこにも書かれていません。」
「12節に使徒4章の話が出ていて、“「あなたの奴隷たちができる限り大胆にあなたの言葉を語り続けられるようにしてください」。エホバはこの誠実な祈りに答え,弟子たちに勇気を与えました。(使徒4:29,31を読む。)”とあるけれど、これはドアからドアへの伝道のことではないよ。」

「引照聖句の使徒4:31は“弟子たちが祈願を終えると,集まっていた場所は揺れ動いた。そして一人残らず聖なる力に満たされて,神の言葉を大胆に語るのだった。”とありますから、語ったのは集まった場所でのことですね。近所の家を訪問しに行ったわけではないです。」
「大胆に伝道できるように祈るというのは、信者=無給の宗教拡張員であるJWならではの教えにすぎない。セールスマンが今日はいっぱい契約が取れますようにと祈るのと同じ。」

「14節が④“問題に立ち向かうための助けを求める。”です。これも個人的な頼み事です。困った時の神頼みのすすめですね。14節には“エホバは「あなたのために行動してくださ」います。(詩編37:3,5を読む。)”とありますが、事実に反します。」
「詩編37は公の場での祈りだね。神の約束とは違うし、祈ったところで何も変わらないのは多くの人が知っている。」

「15節には祈りが応えられたと言う体験談です。本当は応えられていないのに、応えられたと誤認していることがよくわかります。」
「そこでは“すぐに病気が良くなったわけではありませんでしたが,エホバは私の祈りに答えて,穏やかな気持ちでいられるように助けてくださいました。”とあるね。病気が治りますように祈っていたけれど、穏やかな気持ちになれたので祈りが応えられたと言っている。こんなことを言うから宗教の話は信用できないといわれる。薬が効いただけじゃないの?」

「病気が治らないのですから祈りは無視されたということですよ。こんな簡単な事実がなぜわからないのか不思議です。」
「自分に都合の良いように考えて、生きる気力をなんとか引き出しているということだね。病気を治したいなら、祈るより、ちゃんとした治療を受けた方がいいよ。」

「16節が⑤“誘惑に抵抗できるよう助けを求める。”です。JWの誘惑というとなんといってもポルノの誘惑のことですね。16節に、サタンは“不道徳なエンターテインメントを使い ます。”とあります。」
「娯楽の乏しいベテル内ではスマートフォンでポルノを楽しむのが普通になっているんじゃないの。それでやたらとそういった問題を取り上げる。」

「17節に“エスも模範的な祈りの中で,「私たちを誘惑に陥らせないで,邪悪な者から救い出してください」と祈るよう教えました。(マタ 6:13)”とありますが、協会共同訳では“私たちを試みに遭わせず/悪からお救いください。”です。“誘惑”という訳はどうなのですか?」
「元のギリシャ語は“誘惑”とも“試み”とも訳せる。イエスは毎日のパンにありつくのも困難で借金もある貧しい人のために模範的な祈りを教えたと考えられる。“誘惑”は生活に余裕のある人に生じやすいので、違う気がするね。イエスは、その日暮らしの底辺の人たちに向けて、神様、生きることそのものが試練なのです、これ以上試練に会わせないでくださいと、祈れと言っていると思うよ。」

「17節には“サタンの世の中に広まっている間違った考えにできるだけ触れないようにします。(詩 97:10)”とあります。カルトの特徴である“情報の遮断”ですね。」
「自分たちだけが正しくて、自分たち以外はサタンの支配下と言っている時点でカルトそのもの。こんな宗教のもとで育つ子どもは気の毒だね。」

「引照聖句は“情報の遮断”など言っていません。“エホバを愛する人たち,悪を憎め”と言っているだけです。」
「古代では、JWのように情報統制によって信者を操作するという思想がまだないからね。」

「この記事で、JWが推奨する祈りとは、エホバを賛美し、感謝し、伝道できますように、問題に立ち向かえますように、誘惑に抵抗できますように、という祈りだとわかりました。」
「個人的な頼みごとが多いね。祈りは本来そういうものじゃないけれど、JWという宗教ではそうなのだろう。」

「最後の18節で“この終わりの時代にエホバに忠実に仕えていくためには,ますます祈りが大切です。”と言っています。“終わりの時代”というのは終末宗教のJWには欠かせないフレーズということですね。」
「英文ではthese difficult last daysだから”困難な終わりの時代”だよ。”困難”を省略したらダメだよ。終わりは来ないけれど、JWにとってどんどん困難な時代になるのは間違いないよ。」

#1466 2023年07月18日 10:31:47

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

JWのエホバ解釈では、旧約ヨブ記を悪魔による全宇宙論争のようにめいっぱい誇大拡大解釈して、現在でも全能のエホバは「治したくても治せない」ことになっているかと思います。

でも祈ったら聖お父さんパワーで穏やかな気持ちになれる程度には助けてくれるらしいですが、それも論争違反では?悪魔はあなたの祝福をすべて取り去って、しかもあなたがやったことにして、それでもあなたを呪わないかどうかを見ましょうよ、と言っています。

ヨブはエルシャッダイは与え給い、奪い給うと言っているのに、そんな相手に「でもこの状況に耐えられるメンタルパワーはください」みたいに祈るとか、その祈りには答えてヨブが穏やかな気持ちでいられるようホーリーパワーで守ったとか、そんなぬるま湯思想は旧約にはないですよ。

聖書を読んだだけの人間が「自分の理解に頼って」後付け線引き理由を勝手にあれこれ妄想して神様を分かった気になってそれを唯一の真理だと全力で思い込むことでメンタルが強まるのはいいんですけど、自分たちの無知さ加減を自覚せず聖書のサタンとかハルマゲドンとかそんなワードだけを強調したがるJWのようなカルトが「宗教ってそういうものだよね、なんかあやしいよね」と思われる一因になっているんじゃないでしょうか。

しかも「穏やかな気持ち」のようなその人にしか分からない主観的なことなら、JW以外の神様も同じことをしてくれていますよね。

#1467 2023年07月21日 14:18:36

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバは祈りに答えてくださる どのように?(21)”で、エホバが祈りにこたえないことについてあれこれ言い訳をしているという内容です。」
「実に見苦しいね。言い訳がだらだら続くわけだ。」

「祈りが大事だという話は何度も取り上げられます。これは祈りはこたえられることはないし、祈りは本当は大事ではないとJWの大多数が思っているからですよ。」
「祈りが本当にこたえられるなら、何も言わなくても、みんな毎日熱心に祈るだろうね。」

「祈りがこたえられないことの言い訳は一般的にどのようなものですか?」
「祈る人間の方に問題があるというのが多い。例えば、祈り方に問題がある、熱心さが足りない、祈る内容が神の意志と反するので祈りはこたえられなかったと言い訳をする。」
「神は悪くない、悪いのは人間です、と神を弁護するわけですね。そういう弁護が必要な情けないのが神という存在な訳ですね。」

「“何を学ぶか”に“エホバは,ご自分の意志に沿った祈りに必ず答えると約束しています。”とある。祈りに答えられなかったのは神の意志に反するからという言い訳を用意している。」
「神の意志は何か知りようがありませんから、言い訳としてはどんな祈りにでも適用できますね。病気の子どもを助けてくださいと祈ったけれど死んだら、助けるのは神の意志ではなかったと言っておしまいということですね。JWだけでなく宗教が衰退するのは仕方がないですね。」

「そのほかの言い訳としては、人間の自由意思とか神の秘密の計画とか、人間を試すためとか。人間がさらによい事をするためとかがある。」
「でも祈りがこたえられない場合、神は存在しないか無力だと結論するのが合理的ですよね。」
「そういう結論を避けたい人たちが、昔からあれこれ言い訳を考えている。」

「3から8節が“期待通りの答えではないこともある”です。 言い訳です。5節にパウロの話が出ています。これは昔からよく使われる言い訳ですね。」
「5節に“パウロは「1つのとげ」を取り除いてほしいとエホバに3回お願いしました。エホバはこの祈りに答えたでしょうか。確かに答えました。でも,パウロが願っていた通りになったわけではありません。”とある。パウロがお願いしたのはエホバではなく、イエスだよ。こんなことを言うのはJWだけ。」

「コリント二12:8は“私は,このとげがなくなるようにしていただきたいと3度主に懇願しました。”とありますね。この“主”はイエスのことですね。」
「“主”と訳されるギリシャ語に冠詞がついている。パウロの場合、これはイエスをさす。冠詞なしの“主”は神を指す。」

「そもそもエホバに祈るというのは新約ではあまりないのでは?」
「エフェソス2:18に“それで,私たち両者がキリストを通して,同じ聖なる力によって自由に天の父に近づくことができます。”とある。ここでは、正式な祈りは聖霊の力によってイエスを通して神に届くと考えられている。イエスを通さないと神には近づけない。」

「5節では“エホバは問題そのものを取り除くのではなく,パウロが忠実に仕え続けるための力を与えました。”とありますが、エホバではなくイエスですし、力を与えていませんよ。」
「コリント二12:9では、“しかし主はこう言いました。「私はあなたに惜しみない親切をすでに十分に示している。人が弱い時にこそ,私の力は完全に発揮されるのである」。”とある。パウロはイエスの声をよく聞く男なんだよ。でも、ここではパウロの苦しみについて新しい見方、考え方を示したのであって、力を与えたというのは違うね。」

「7節が体験談です。強制収容所に入れられていた人が、出させてくださいと祈ったのですが、出られることはなく、次に“エホバ,私にどんなことを望んでいるのか,教えてください”と祈ったところ、収容所にいる兄弟たちを力づけるという使命に気づき、“エホバ,やるべきことを教えてくださってありがとうございます。”と感謝したという話です。」
「この種の話は他の宗教でもよくある。この体験談のどこに超自然的な力が働いているの?何も働いていない。出させてくださいと祈ったのに、この人は9年間も強制収容所に入れられていたとある。」

「8節に興味深いJW神学が出ています。“もしエホバが今さまざまな問題を解決するなら,サタンの支配がうまくいっているかのように見えてしまうでしょう。それで,私たちはエホバの約束が実現する時まで待つ必要があります。”とあります。それでエホバは何もせず、傍観しているだけなのだ、と弁護していますね。」
「もっとましな言い訳を考えた方がいいよ。エホバは愛の神でしょう。それなのに、大津波が来て大勢の人が死ぬという状況でも、助けたらサタンの支配がうまくいっていると見えてしまうのが嫌という理由で、なにもせず大勢の人を見殺しにするの?もし普通の人間が大津波を止める力を持っていたら、津波で被害を受ける地域が自分の大嫌いな国だとしても止めるよ。」

「普通の倫理観を持った人間なら、その国の体制が早く滅びて欲しいからといって、大津波を止める力があるのに傍観しているだけということはありませんね。エホバは人間以下の倫理観しかないということですね。」
「エホバは人間の死に無関心か、無力でなにもできないかのどちらかだね。無関心だとすると、愛の神ではないし、無力だと神とは言えない。」

「9から14節が“エホバはどんな方法で祈りに答えてくださるか”です。 祈りにこたえてくれたと誤認させるよう誘導しています。4つのことが書かれています。」
「珍しく3つじゃないのね。」

「9節は①“知恵を与えてくださる。”です。祈るとこたえてくれないけれど知恵を与えてくれて、良い決定ができるのだそうです。根拠は体験談です。JWの人生を見るといつも悪い決定をし続けているように見えるのは偏見でしょうか?」
「JWが言うと説得力ないよね。進学もせず、結婚もせず、定職にも就かず、開拓者をやり、年を取って病気がちで、金もなく、孤独死が待っている愚かなJWは一度も祈ることがなかった人なのかな?」

「10節が②“忍耐するための力を与えてくださる。”です。祈るとこたえてくれないけれど耐える力をくれるのだそうです。その根拠はまたもや体験談です。難民キャンプにいた人ですが、“エホバはその祈りに答えて,穏やかな心や伝道を続けるための勇気やエホバとの絆を強めるための出版物を与えてくださいました。”と言っています。」
「穏やかな心や勇気や出版物を与えてくれるけれど、難民にまともな生活は与えてくれないわけだね。」

「11節が③“仲間の兄弟姉妹を通して助けてくださる。”で、祈ると仲間が助けてくれるのだそうです。祈らなくても助けてくれるのが仲間じゃないですか?」
「JWの神学では、エホバに祈るとJW仲間へと祈りの内容が転送されるということ?人間の純粋な善意を信じないという立場のようで、いやな宗教だ。」

「12節が体験談で、夫を亡くした姉妹が、“泣きながら祈っている間に,電話がかかってきました。仲の良い長老からでした。”というものです。このことについて“姉妹は,エホバが兄弟を動かして電話をかけるようにしてくれた,と思いました。”とあります。単なる偶然ですね。」
「世界で800万人以上の信者がいるわけで、この種の偶然は毎日起きても不思議じゃないよ。もっとすごい体験談が欲しいね。例えば、“泣きながら祈っていたら、会衆の全員が列を組んで、エホバを賛美する歌を大声で歌いながら贈り物を山のように持ってやって来たのです。これはエホバの力です。”というのはどうだろうか。」

「13節が④“ご自分に仕えていない人たちを用いることもある。(格 21:1)”で、祈るとJW以外の人を使って祈りをかなえてくれるそうです。これは今までにない新しいアイデアですよ。」
「通常なら3つ例を挙げて、おしまいなのだけど、④を入れろと誰からか圧力がかかったのかな?社会的弱者のJWは福祉サービスを受けて、それでなんとか暮らしている人が多い。これもエホバからのものと思わせたいということだね。生活保護はエホバが役所を動かしてくれたおかげだとすれば、生活保護費の一部を組織に寄付するのは当然の手数料だということになる。」

「引照聖句は“王の心はエホバの手にある水の流れのようだ。神はそれをどこへでも意のままに導く。”です。それなら、プーチンのような独裁者もエホバに導かれて戦争を始めるわけですね。」
「この聖句は一神教の思想を述べたものだね。一神教ではよい事も悪いことも全て一人しかいない神のせいになる。悪いことは自分たちの罪に対する神の罰として受け止める。しかし、このような陰気で自虐的な考え方は次第に受け入れられなくなる。」
「そのような思想だと病気や障害は彼らの犯した罪に対する神の罰とされ、病人や障がい者差別を生みますね。それで悪いことの責任者として悪魔サタンを発明するわけですね。」

「世界は悪と善の戦いの舞台で、今はなぜか悪が勝っていて、正しい我々は苦難続きだけれど、最終戦争では善が勝つので、それまで耐えようというような思想が出てくる。黙示思想だね。」
「苦しみの原因が罪人だからではなく、正義の人だからに180度かわるわけですね。」
「だから黙示思想は一定の人気があるね。」

「JWはその思想を受け継いでいますが、不徹底ですよ。JW以外はサタンの支配下と敵視しながら、でもエホバはJW以外の人も用いるなんておかしいですよ。」
「これまではエホバはJWの仲間を用いてJWを助けるという主張にとどめていた。それが変わったのは、コロナ問題のせいじゃないの。」

「コロナ問題ではJWは何の役にも立たず、サタンの支配下にある政府や機関に頼らざるを得なかったという経験ですね。JW以外がサタンの支配下なら、なぜJW以外の人たちがJWを助けるのか?サタンはJWだけを医療から排除し、死なせるということをなぜしないのか?」
「滑稽だけれど、それはJWにとっては深刻な神学上の問題だ。その解答がエホバはJW以外の人を用いてJWを助けるというものだね。」

「14節が体験談です。“素卿姉妹は,かかりつけの医師を通してエホバが助けてくださったと感じました。”とあります。やはり医療問題ですね。」
「さらに“政府からの援助を受けることができ,手頃な値段で借りられる住まいも見つかりました。姉妹はこう言います。「エホバの支えを実感しました。エホバは確かに『祈りを聞く方』です」。”とある。バカなことを言っているね。エホバの支えではなく政府の支えだろう。税金を払っている国民の支えだよ。」

「こんなことを言うから宗教はバカにされるのです。政府からの援助は法律に則って行っているわけで、突然超自然的な力が働いたせいではないです。」
「この話を読んで、エホバに祈るよりも、役所に相談に行った方がよっぽど助けになると思った、まともなJWがたくさんいることを望むね。」

「この姉妹の祈りは個人的な頼み事です。それが実現したことによって、別の人の頼み事が実現しなくなったということには気づかないのですね。」
「仮に超自然的な力で本来入居できない安い住宅に入居できたとすると、そこに入居するはずだった人がそのおかげで入居できなくなったことになる。その人がかわいそうだね。」

「誰かの願いをかなえると、誰かの願いはかなえられなくなるという場合が世の中に多いということですね。」
「この世界は有限だからね。有限性の制約が働いている世界だ。住宅も医療も有限だ。誰かに与えられれば、誰かは与えられないか奪われる。公平な神なら個人的な頼みごとをかなえたりしないよ。」

「15から18節が“エホバからの答えを探して受け入れるには信仰が必要”です。 祈りのこたえは自分で探さないとわからないようです。これが祈りがこたえられない言い訳の最後です。」
「15節は洋子姉妹の体験談だけど、祈りをノートに書いて、あとから見てみると“エホバはほとんどの祈りにすでに答えてくださっていた,ということに気付きました。”とある。説得力ないね。具体的に何を祈って、どう実現したのかなぜ公開しないの?本当ならすごいことじゃないか。」
「タイ焼きを食べたいです、と祈ったら、1週間後タイ焼きを買って食べました。祈りがこたえられました。そんなものじゃないですか?食べ物関係の祈りが多くて、恥ずかしいので公開できないのですよ。」

「16節に“ヘブライ 11:6を読む。”とある。そこには“信仰がなければ,神に喜ばれることはありません。神に近づく人は,神が存在し,熱心に仕えようと努める人たちに報いてくださる,ということを信じなければなりません。”とある。この聖句を祈りに適用すると、祈りがかなえられないのは祈る人間に問題があるということになる。信仰がない人が祈ってもダメだというわけだけど、これは祈りがかなえられないことの言い訳の代表だね。」
「タイ焼きを食べたいですという祈りがかなうかどうかは信仰の問題なのですね。」

「16節には体験談が出ている。体験談は何かを証明するものではないけれど、JWはそう思っていないようで、この記事では体験談は7つもある。真偽不明の体験談がJWの教えの根拠という訳だ。」
「この体験談は、ベテル奉仕を祈ったけれど、それはかなわず、別の形で奉仕をしたというだけの話です。どこにでもある話ですが、“エホバはいつも私たちが思った通りの方法で祈りに答えてくれたわけではありません。でも,確かに祈りに答えてくださっています。そして,その答えは想像以上に素晴らしいものです。”という驚きの結論です。」
「だからJWはバカにされる。祈りはかなわなかったという事実をなぜ認めない?JWにとって不都合だからだろう。」

「医学部を目指して一生懸命祈ったけれど不合格になり、別の学部に進んだ人も、このJW論理だと“確かに祈りに答えてくださっています。”と言えるわけですね。」
「大学に行けなくて、アルバイト暮らしでも、“確かに祈りに答えてくださっています。そして,その答えは想像以上に素晴らしいものです。”と言えるよ。何が起きても、この理屈だと必ず祈りはかなえられる。100戦100勝の論理だ。」

「最後の18節に結論が出ています。“エホバからの祈りの答えが思っていたものと違う,ということもあるでしょう。でもエホバは,必ず私たちの祈りに答え,私たちが必要とするものをぴったりのタイミングで与えてくださいます。”とあります。JWの理屈ではどんな結果でも祈りはかなったと認定されるので、“必ず私たちの祈りに答え”と自信を持って言えるわけです。」
「この記事を読んで、もっと祈ろうと思った人はどれくらいいるのか知りたいね。」
「まずいないでしょうが、せめてエホバが迷惑するので、個人的な頼み事はやめましょうと、書いて欲しかったです。」

#1468 2023年07月28日 14:17:40

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“「神聖な道」を歩み続ける(22)”で、JWが教義変更を繰り返したことを正当化しようという内容です。」
「少しずつ整えてきたと言っているね。光が増すという教義を捨てたのかな?」

「光が増すというのは格言から取ってきたのですが、誰が見ても教義変更とは無関係な聖句でしたからね。」
「光が増すというのはJWをからかうときに使われるようになって来たから、変え時と判断したのかも。」

「1節で“バビロンで70年間捕囚になっていたユダヤ人がイスラエルに戻れるというのです。”と、いきなり歴史の捏造です。ユダヤ人の捕囚期間は70年じゃありません。」
「JWの教義では前607年から前537年の間を指すのだろうけれど、前607年にエルサレムが破壊されてバビロンに連れていかれたというのがインチキだからね。実際は前587から586年にかけての出来事。」

「1から5節は、ほとんどこの記事の論点と無関係なことが書かれています。イザヤ書にある“神聖な道”の話をしたいようですが、それは6節からで、最初の5節は単なる字数稼ぎです。」
「3節で“エホバを愛するユダヤ人は,どんな犠牲を払うことになるとしても,イスラエルに帰ることには大きな価値がある,と思っていました。”と何の根拠も示さず、断定している。気楽な作文だね。」

「実際はバビロニアには後の時代でもユダヤ人は相当な数いたのですよね。」
「5世紀の商業活動を記録した粘土板が発掘されている。そこには大勢のユダヤ人の名前が出てくる。つまり大勢のユダヤ人がバビロニアの地に根付き、商業活動をしていたことがわかる。」

「4節に“でもエホバは,障害となるものを道から除き去ると約束しました。預言者イザヤはこう書きました。「エホバの道を整えよ! 私たちの神のために,砂漠を通る真っすぐな街道を造れ。……でこぼこの地面を平らにし,険しい土地を谷あいの平原にしなければならない」。”とあります。イザヤの預言は比喩的なものですよ。でも、この記事では“想像してみてください。砂漠に真っすぐな街道ができ,険しい土地も平らになるのです。山や谷を越えるよりもずっと歩きやすく,そこを通る人たちは速く進んでいけるでしょう。”とありますから、本当に砂漠に立派な道ができたと執筆者は思っているようです。」
「そう思っているね。もとは建設業をやっていたのかな?引用されている聖句はイザヤ40章からだけど、40:3は“荒野で叫ぶ声がする。「エホバの道を整えよ!”で始まる。これは誤訳でしょう。」

「協会共同訳では“呼びかける声がする。/「荒れ野に主の道を備えよ。”ですね。荒野で叫ぶのか、荒野に道の作るのかの違いですね。」
「マルコ1:3に“荒野で叫ぶ声がする。『エホバの道を整えよ。その道路を真っすぐにせよ』」。”とイザヤ書が引用されている。これはギリシャ語訳の70人訳からの引用。ヘブライ語聖書からの引用ではない。JWは不一致を隠ぺいするために、イザヤ書の方を変えたわけだ。」

「呼びかけている声がするというのですが、これは誰の声ですか?」
「“私たちの神のために”と言っているので、おそらく天使の長のような立場の存在でしょう。」

「6から8節が“「神聖な道」 古代と現代の意味”です。 イザヤ35:8に出ている“神聖な道”を無理やり現代に関連付けるという内容です。」
「6節で“「汚れた人」,つまり不道徳や偶像崇拝などの罪深い行いを続ける人は,イスラエルに帰ることはできませんでした。”と断定しているけれど、そんなことはないでしょう。バビロニアとエルサレムは自由に行き来をしていたと思うよ。イスラエル宗教警察なんて言う組織があって、偶像崇拝者は通ってはならないと取り締まりをしていたと思っているのかな?」

「イザヤ35:8に“汚れた人がその道を通ることはない。”とあるので、そう思ったのでしょう。聖書に書かれていることがリアルな歴史と思い込んでいますね。」
「ペルシャ帝国の支配下にあるユダヤ人が誰を通し、誰を通さないということを決める権限なんかないよ。」

「8節で、“もしかすると,「確かに興味深い情報だけれど, はるか昔のユダヤ人の話が今の私たちとどんな関係があるんだろう」と思うかもしれません。”とあります。この記事を書きながら、自分でもそう思ったんですよ。自分でツッコミを入れています。」
「ここまでの文章は本当はいらないね。」

「突然“私たちも「神聖な道」を歩んでいると言えます。”と断定します。何の根拠もありません。」
「この文から始めてもよかったね。」

「“1919年以降,非常に大勢の人たちが大いなるバビロン(世界を惑わしている間違った宗教全体)を出て,「神聖な道」を歩み始めました。”と断定しています。要するにJWになることを、神聖な道を歩むと呼んでいるだけです。」
「おもしろいのは“100年ほど前にこの道は開通しました。とはいえ,整地作業は何百年も前から始まっていました。”といっていること。これはあまり見たことのない主張だね。」

「9から15節が“「神聖な道」の整地作業”です。 JWが恣意的に選んだJWの道を整地してくれた人の話です。9節で“エホバは1919年までの数百年の間,神を畏れる人たちによって大いなるバビロンから出るための道を整えました。”と言っています。」
「“神を畏れる人”というカテゴリーがあるわけね。JWじゃないけれど、JW的にはいい人のことね。」

「整地作業というのは、印刷、翻訳、聖書を理解するための助けの3つです。3はJWの完全数ですね。」
「13節にヘンリー・グルー、ジョージ・ストーズ、チャールズ・テイズ・ラッセルの3人がでている。ラッセルは整地作業員に格下げね。ラッセルは今から見れば馬鹿げたことをいっぱい書き残したからね。」
「JWの公式見解は、エホバの証人の創始者はイエスということになっています。自分たちは19世紀にアメリカで生まれた新興宗教ではないというタテマエですね。」

「ヘンリー・グルーとジョージ・ストーズがラッセルに影響を与えた人ということにしたいのだね。ラッセルは素人聖書研究者だから、他の人のアイデアを借りて寄せ集めることしかできない男だ。」
「ラッセルが影響を受けた人はたくさんいるのになぜこの二人だけ取り上げるのでしょうか?歴史の改ざんですね。」
「この二人は既存のキリスト教を批判していたからじゃないかな?ストーズは既存のキリスト教を“今のバビロン”と呼んだ人。JWは既存の宗教を“大いなるバビロン”と呼ぶけれど、それの元ネタ。」

「ストーズはその他にどんな影響をラッセルに与えたのですか?」
「ストーズはBible Examinerという雑誌を発行していて、ラッセルも一時期その雑誌に投稿していた。ラッセルはストーズから、1年に1回主の記念式を行うこと、死者は眠ったような状態であること、地上の楽園に復活するアイデアなどを学ぶ。ストーズの影響は大きいね。」

「ヘンリー・グルーはどんな影響を与えたのですか?」
「グルーは三位一体に反対し、クリスチャンが戦争に行くのも反対した。これは今のJWの教義と同じ。地獄で死者が永遠に苦しむという教義にも反対したけれど、これはJWも同じ。」

「ものみの塔2000/10/15の“「畑」で働く ― 収穫の前に”という記事がグルーとストーズを取り上げていて、そこでは“グルーやストーズといった人々は,収穫の準備のために「畑」で働いていたのです。”と言っています。整地作業とは言っていませんね。」
「“畑”というのは、マタイ13章にある“畑の雑草の例え”の畑のこと。この記事の見出しには“光が輝きを増す”、また“さらなる光が必要”とあり、光が増して徐々にJWの真理が見えてきたという“光増加説”に執着していることがわかる。」

「そこではグルーとストーズは収穫の前に働いた人という位置づけですね。それがこの記事ではその例えと関連付けるのをやめて、イザヤ書の“神聖な道”と結びつけ整地作業員に変えたわけですね。」
「JWの聖書解釈は単なる思い付きということがよくわかるよ。」

「ラッセルは再臨派として出発しましたから、再臨派の人たちから様々な影響を受けていますよ。」
「再臨派はキリストの再臨と至福千年の支配が間もなく迫っていると主張する一派。19世紀のアメリカで流行した。」

「アメリカはキリスト教系の新興宗教の一大産地ですね。」
「ラッセルに影響を与えた人は、セブンスデー・アドベンチスト教会の牧師ジョナス・ウェンデル、また『朝の先触れ (Herald of the Morning)』というセブンスデー・アドベンチスト教会の編集者のネルソン・H・バーバーがいるけれど、セブンスデー・アドベンチスト教会はJWのライバル組織なので、不都合ということで、歴史から抹殺するわけだね。」

「年代計算は誰のアイデアをいただいたのですか?」
「ジョン・ブラウンだろうね。ブラウンはダニエル4章の7つの時は2520年をあらわすとし、これをルカ21章の異邦人の時と結びつけた。この2つは本来無関係だよ。それなのに何の根拠もなく結び付けたわけだ。ブラウンは異邦人の時は前604年から1917年までとした。これはJWに決定的な影響を与えたね。」

「1917年を1914年に変更したのはラッセルですか?」
「それはバーバーだね。ラッセルはただそれをいただいただけ。JWの教義はいろいろな人の考えの寄せ集めということがわかるよね。」」

「15節に” 1919年,エホバに仕える人たちは大いなるバビロンに捕らわれていた状態から自由になりました。その年,「忠実で思慮深い奴隷」が任命されました。”とありますが、何の根拠もありません。」
「ものみの塔は単なるプロパガンダ雑誌だからね。根拠なんかなくてもいいのさ。」

「15節にはこの記事の主要な主張が出ています。“もちろんエホバは,何もかも一度に変えるよう求めていたわけではありません。時間をかけて,自分に仕える人たちを少しずつ整えていきました。(「 エホバはご自分に仕える人たちを少しずつ整えてきた」の囲みを参照。)”というものです。」
「これがJWの教義変更を繰り返してきたことの新しい言い訳ね。」

「囲み記事に出ている事柄は、クリスマス禁止、十字架禁止、エホバの証人という名前採用、輸血禁止、排斥の導入、結婚の規則の変更、長老の選出方法の変更、喫煙の禁止、仕事の選択の制限強化、血液分画の許可、ポルノ禁止です。JWから見てこれらのことが歴史的に重要ということなのでしょうね。このような記事を載せればJWの教義は時代とともに変わることが明らかで、わざわざこんなことを書く必要があったのですか?」
「1919年にJWは真の宗教としてイエスに選ばれたというのがJWの主張だけど、その時はクリスマスも十字架も輸血も喫煙も問題なかった。それなのになぜJWはそれらを禁止するのか?と文句を言う人がいたのかも。その答えが、一度に変えるのではなく少しずつ整えたのです、という言い訳だ。」

「最後の“2006年,2012年 忌まわしい種類のポルノを見ることが重大な罪であることが強調される。”がおもしろいです。ポルノをものすごく重大視しています。エホバの敵はポルノようですね。」
「ポルノは取り上げるのに、数々の預言の外れとか世代の解釈の数々の変更はなぜ取り上げないのかな?せめて“1975年、何事も起こらず、信者の数が激減しました。”ぐらいは入れて欲しいね。」

「16から18節が“今からでも「神聖な道」を歩み始めることができる”です。 16節で“どんな道も,定期的なメンテナンスが必要です。”と言って、“忠実で思慮深い奴隷は,この仕事を一生懸命に行っています。”とあります。」
「メンテナンスって具体的になにかというと、各種の出版物のことなんだ。“最近私たちは,「いつまでも幸せに暮らせます」という素晴らしい出版物を使って聖書レッスンをしています。”と自慢している。メンテナンスになっていないよ。」
「JWの道は穴ぼこだらけで、すぐつまづき、歩く人も減る一方です。」

「18節の最後は“では,後ろを振り返ることなく,新しい世界へと続くこの道を最後まで歩み続けていきましょう。”だけど、この道はもうすぐ着くとずっと昔から言われているけれど、いまだに終わりの見えない道だ。違う道を行った方がいいよ。」
「後ろを振り返ってみると、誰も歩いていないことに気がつかれるのが恐ろしいのですよ。それで“後ろを振り返ることなく”と警告しています。」

#1469 2023年08月04日 14:30:28

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“「ヤハの炎」を燃やし続けるために(23)”で、JWの夫婦はもっと仲良くしなさい、という内容です。」
「タイトルはソロモンの歌8:6の” 愛の火は燃え盛る火,ヤハの炎。”からきたものなんだけど、脚注に、” ここでは,いつまでも続く本物の愛のことを「ヤハの炎」と表現しています。エホバがそうした愛の源だからです。”と説明している。違うと思うよ。この説の根拠は何か教えて欲しいな。」

「“ヤハの炎”というのは“ヤハゥエの炎”という意味ですよね。神の名前はエホバではないことがわかります。協会共同訳では“愛の炎は熱く燃え盛る炎”となっています。“ヤハの炎”はどうしたんですか?」
「“ヤハの炎”というのはヘブライ語では“炎”の最後にyahが付いた形になっている。神の名前の一部が付くことによって、比較級の中の最上級をあらわすという解釈。」

「日本語ですと“神童”という言葉がありますが、これは神の子という意味ではなく、神のような極めて優れた子どもという意味ですから、神が最上級をあらわす言葉になっています。これと似たような使い方ですね。」
「ソロモンの歌で神の名前がでてくるのは8:6だけ。ソロモンの歌の作者は神にあまり関心のない人。ヤハというのを最上級の意味で使っていると思うね。」

「2節に“でも時には,お互いへの愛が弱くなっているように感じることがあるかもしれません。経済的な問題や病気を抱えたり,子育てに追われたりしている時は,特にそうかもしれません。”とあります。貧困や病気が夫婦関係を悪くすることを認めているのがおかしいですね。」
「JW推奨の生き方が貧困や病気を生み出す面が相当ある。夫婦関係をよくするには一緒にJWをやめるというのが一番だね。」

「3から8節が“エホバとの絆を強める”です。 ヨセフとマリア夫婦についての空想が書かれています。」
「3節で“エホバとの絆を大事にしている人は,エホバに見習って親切や辛抱を示し,快く許すよう努力します。”と言っている。要するに、我慢し許せということ。簡単に言うけれど、人にはどうしても我慢できないことや許せないことがあるんじゃないの?」
「JWには、我慢し許せ、以外にアドバイスはないですよ。ですから信者は精神的に病むのです。」

「4節で“たくさんいたダビデの子孫の中から,この2人が選ばれたのはどうしてでしょうか。2人ともエホバとの強い絆を持っていたからです。”と言っている。マリアとヨセフのことだけど、この二人がどんな人か、本当はよくわからない。」
「5節で“夫の皆さん,ぜひヨセフの手本に見習ってください。聖書のアドバイスを調べ,それを当てはめましょう。”と言っています。夫がどうすべきかについて聖書はほとんど語っていませんよ。」
「そんなことないよ。申命記24:1に“男性が女性と結婚したものの,女性に恥ずべき点があるのが分かって好きでなくなったなら,離婚証書を書いて手渡し,家から去らせなければなりません。”なんかいいアドバイスだよ。いやな妻には紙切れ一枚渡して離婚しようというアドバイスだね。」

「5節では、マタイ1と2章の話が出ています。イエスの誕生に関する話ですが、これは全く史実性はありませんよね。」
「史実ではないし、お話としても、できはよくない。細部がいい加減だ。マリアが妊娠した後、マタイ1:19に“夫のヨセフは正しい人であり,マリアに恥をさらさせたくなかったので,ひそかに離婚しようと思った。”とある。ヨセフはマリアの不倫を前提として離婚しようとしている。なぜマリアはヨセフに奇跡的な妊娠の経緯を話さなかったの?納得いかないね。」

「ヨセフたちは小さな村に住んでいたことになっています。そんな狭い社会で、どうやって“ひそかに離婚”するつもりだったのでしょうか?無理ですよ。」
「マタイの作者はもっと細部にこだわらないと、本当らしさは生まれないよ。」

「婚約していたというのは正式な夫婦関係の成立を意味するのでは?」
「そのとおり。だからマタイ1:19も“夫ヨセフ”と呼んでいる。夫婦なのだから、妻が妊娠しても何も問題はない。マリアに恥をかかせないために離婚するなどというのは意味不明。実にできの悪いお話だ。」

「ルカにはヨセフがマリアの妊娠を不審に思ったという話は出てきません。なぜ余計なことをマタイは書いたのでしょうか?」
「神的な存在が誕生する話は古代中東にはたくさんある。その基本構造は分離―啓示-回帰というもの。」
「夫は妻から一度離れようとするが、神からメッセージが夫に送られ、夫は妻のもとに戻る、というストーリ展開ですね。」
「マタイはそういう構造にするため、初めに分離のエピソードが必要だった。それで、ヨセフは妻の不倫を疑うという、できの悪い話を挿入したと推測される。」

「6節はマリアの話で、ルカからの引用です。“マリアは聖書の内容をよく知っていました。(ルカ 1:46の注釈を参照。)”とあります。実際のマリアは十代前半の読み書きのできない少女という可能性が一番高いですよ。」
「古代ユダヤ社会で女の子に読み書きを教えることはない。ルカ1章にあるマリアの賛歌はマリアではなくルカ自身が作ったものでしょう。無学な十代の少女の作品ではない。」

「7節に結論が出ていまして“でも,エホバへの崇拝を何よりも大切にしましょう。そうするなら,エホバとの絆も夫婦の絆も強めることができます。”というものです。何の説得力もありません。ヨセフとマリアの話と何の関連もありません。」
「だから8節に“では,もし夫婦の関係がぎすぎすしているように思える場合はどうでしょうか。そういう場合,一緒に家族の崇拝をするのはなかなか気が進まないかもしれません。”といっている。夫婦関係が悪い人にエホバへの崇拝は勧めていない。」

「かわりに、“もしそうなら,2人の興味があるものや,短くて楽しめる内容のものを考えることから始めるのはどうでしょうか。”と言っています。それならヨセフとマリアの話をなぜ長々と書いたのか理解できません。」
「執筆者は夫婦関係をよくする方法など何も知らないから、無関係なことを長々と書いたのさ。」

「9から14節が“一緒に過ごす”です。 夫婦は一緒に過ごせと言っています。JW夫婦は一緒に過ごさないようですね。忙しすぎるからでしょうか。」
「別々に過ごすことによって、かろうじて夫婦関係が維持されているという場合もあるでしょう。その場合、一緒にいるとかえって関係が悪くなる。」

「夫婦で旅行する場合、無理して一緒に行動するな、と何かの本に書いていました。」
「夫婦でも、趣味や関心は別々だから、旅行先で行きたい場所は違う。それなのに無理して一緒に行動するとどちらかに不満がたまる。JWにも教えてあげたいね。」

「11節に“1世紀のクリスチャンから愛された,アクラとプリスキラについて考えてみましょう。(ロマ 16:3,4)”とあります。ローマ16:3には“プリスカ”となっていますよ。どっちが正しいのですか?」
「プリスカが正式な名前で、プリスキラはその指小辞形で、親しみを込めた呼び名のようなもの。例えば、“ヘンゼルとグレーテル”というグリム童話があるけれど、ヘンゼルはハンスの指小辞形。」

「引照聖句のローマ16:3で“キリスト・イエスに従って共に働く仲間,プリスカとアクラに,私からのあいさつを伝えてください。”とパウロは書いています。妻の方が先に来ています。他の所でも妻の名前が先に来ることが多いのですが、妻の方が地位が高いからですか?」
「そのようだ。アクラはユダヤ人とあるがローマ人の名前。小アジアのポントス生まれと使徒18:2にある。それで、アクラは元はローマで奴隷だったと推測されている。奴隷から解放されて、アクラというローマ名を名乗って、プリスカと結婚した。プリスカは裕福な家庭出身で、ローマ追放後はプリスカの資金でコリントのお店を経営していたようだ。そこへパウロが現れ、テント職人として雇われたという関係。」

「この夫婦は各地で活躍していますが、裕福だったからできたわけですね。」
「ローマ16:4では“この2人は私のために命を懸けてくれた人たちで,私だけでなく国々の全ての会衆も感謝しています。”とパウロは最大級の賛辞を送っている。ここまでほめるということはパウロは相当お金の面でお世話になったね。初期のキリスト教はパウロのような無一文の伝道者とそれを支える金持ちの信者によって広まっていった。」

「12節では“アクラとプリスキラにどのように見習うことができるでしょうか。”と問いかけています。そして“一緒に伝道に出掛けることができますか。 (中略) 家事を一緒に行うことができるでしょうか。”と言っています。」
「どうも家事を一緒にすることを勧めているみたいだね。ある夫婦の発言として“正直言って,私たちは夫婦で一緒に出掛けたり,趣味を楽しんだりする時間はあまりありません。”とある。でも家事なら一緒にできる。」

「男性が家事をするというのは夫婦円満に役立ちますか?」
「役立つよ。ある調査によると、夫婦関係をよくするのに必要なのは、経済的な安定と夫の家事参加だったそうだ。家庭で何もせず、偉そうに威張り散らすだけ、しかも稼ぎが悪い、というJWによくいる夫は家庭不和のもと。」

「13節に“兄弟はこう言います。「夫婦で時間を過ごす時には,携帯電話を近くに置かないようにして,2人の時間を楽しんでいます」。”とありますが、嘘くさいです。こういうのがアメリカ的理想の夫婦像なんでしょうが。」
「新婚なんじゃないの?長年夫婦をやっていれば、会話することもなくなる。でもそれが大きな問題だとも思わないよ。」

「14節で“夫婦で一緒に過ごすことが楽しくないと感じる 場合,どうしたらいいでしょうか。”とあります。答えは“夫婦で少しの時間一緒に過ごすことから始めてみるのはどうでしょうか。”です。まず5分程度から始めて、それを少しずつ延ばしていくということですか?」
「大人になるとそう性格も好みも変わらない。合わない相手と無理に付き合ったって、相手を変えることはできないし、苦痛な時間になるだけ。楽しくない相手はやっぱり楽しくない。別々でいいじゃないか。」

「ここには夫婦は一緒に楽しく過ごすべきだという思想がありますよ。そんな夫婦観は世界の主流ではないです。アメリカの文化にすぎません。」
「ネクタイ愛好からわかるように、JWはアメリカの中流白人の文化を前提とした宗教だからね。」

「15から18節が“お互いに敬意を込めて接する”です。 15節で“敬意は結婚生活に欠かせません。”とあります。女性蔑視のJWには難しいのでは?」
「妻にも敬意を払うけれど、夫の命令には従ってもらう、ということだね。」

「16節にはアブラハムとサラの話が出ています。“アブラハムはサラの話をよく聞き,問題を解決しようとしました。(創 16:5,6)”とありますが、そんな美談ですか?」
「創世記16章の話は、サラの女奴隷ハガルが妊娠したので、サラとの立場が逆転したことに不満を持ったサラがアブラハムに文句を言ったら、アブラハムはお前の好きなようにしていいよと言ったので、サラはハガルをいじめて、ハガルは逃げ出すという嫌な話だ。」
「アブラハムは“あなたが良いと思う通りにしなさい”と無責任な発言をしています。妊娠中のハガルに対する思いやりは全くありません。ひどい男です。」
「JWの夫も妻が何か文句を言ってきたら、アブラハムに倣って“あなたが良いと思う通りにしなさい”と言えばいいということだね。」

「しかし、“妻がストレスを感じて話を聞いてもらいたいと思っている時には,妻の気持ちを大切にし,よく耳を傾けるようにします。(ペテロ第一3:7を読む。)”とあります。アブラハムみたいに、好きにすればいいよと突き放すのはダメみたいです。」
「ここでペテロ一3:7が登場だね。“女性はより繊細な器ですから,妻を大切にしましょう”とある。女は弱いから大切にしないとすぐぶち壊れるという男性優位を前提としたありがたい教訓だ。これはいわゆる家庭訓のひとつ。家庭訓はコロサイ3章、エフェソス5、6章、テモテ一2、6章、テトス2章に見られる。みな偽名文書だけど。」

「家庭訓はどれもよく似ています。その中で一番古いのはコロサイですから、コロサイをベースにしたということでしょうか?」
「おそらくそうだろう。特にエフェソスはコロサイ全体を利用している。コロサイの作者はパウロの手紙に書かれていることを基に、当時のギリシャ―ローマ世界に合致するキリスト教の家庭訓を作ったのだろう。」

「この記事ではコロサイとかエフェソスなどの家庭訓は引用されていません。どうしたのでしょうか?」
「そういった家庭訓は現代では非常に評判が悪いからじゃないの?さすがのJWも妻は夫に従え、奴隷は主人に従えとは言いにくいのだろう。でもJWにとって聖書は神の言葉なのだから、時代が変わっても、どんなに評判が悪くても言い続けるべきじゃないの。」

「17節で、再びサラの話を持ち出し、“妻の皆さん,サラに見習って,夫の決定に協力するようにしましょう。そうするなら,夫婦の絆を強めることができます。(ペテロ第一3:5,6を読む。)”といっています。引照聖句で“例えば,サラはアブラハムを主人と呼んで従っていました。”とありますが、いつ主人と呼んだのですか?」
「創世記18:12に“そのためサラは心の中で笑いだしてこう言った。「私はすっかり衰え,主人も年老いているのに,そんなにうれしいことがあるのかしら」。”とある。ここ1か所だけ。この聖句一つでサラは模範的な女性になったようだ。」

「新約での旧約の登場人物の評価はいい加減ですよ。」
「何のとりえもないロトを義人と呼んだりしているくらい、いい加減だ。サラだって特別アブラハムに従順ということもないし、神の約束を笑い、笑ったことをとがめられると“私は笑っていません!”と強弁した。結構アブナイ女性だよ。」

「最後の18節で“サタンはクリスチャンの夫婦の愛の絆を壊そうとしています。”とあります。サタンも結構つまらないことに時間を使っているのですね。知りませんでした。でも聖書的根拠はありませんね。」
「JWの離婚率が高いのは、JWのせいではなく、サタンのせいと思わせたいわけだ。サタンはJWにとって本当に役に立つキャラクターだね。」

#1470 2023年08月11日 14:17:34

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“クリスチャンとしての目標 あなたも達成できます(24)”で、やる気のないJWに対して、もっとまじめにやれと叱咤激励するという内容です。」
「統治体は湖畔のリゾートホテルみたいな所で信者の寄付によってのんびり過ごしているのに、末端の信者は彼らのためにあくせく働かないといけないわけだ。不条理だね。」

「1節に“クリスチャンとしての目標”の具体例が出ています。“フィリップ兄弟は,祈りの内容をもっと良いものにし,回数も増やしたいと思っていました。”、“エリカ姉妹は野外奉仕のための集まりに遅れずに行くことを目標にしました”、“トマーシュ兄弟は聖書を最後まで読み通すことに何度かチャレンジしました。”とあります。たいした目標ですね。」
「祈りの内容をよくする、遅刻しない、聖書を最後まで読む。これが“クリスチャンとしての目標”だって?違うだろう。怠惰でやる気のないJWの目標だよ。」

「英文ではSpiritual Goalsなので、霊的目標で、クリスチャンとしての目標”ではないです。」
「翻訳者は自分たちをカルト宗教のJWとしてではなく、クリスチャンと見て欲しいと思っているね。」

「聖書を最後まで読むことは大した意味はないですよ。小説じゃないのですから。」
「JWは聖書に基づく宗教というタテマエがあるから、JWは全員聖書を通読しましたと対外的に宣伝できるようにしたいのだろう。」

「2節に“エホバは私たちにできないことを求めたりはせず,頑張っている姿を見て喜んでくださいます。(詩 103:14。ミカ 6:8)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「仮に神様はそうだとしても、JWという組織は違うね。それが問題だ。」

「3から7節が“意欲を高める”です。 3節で“目標を達成するためには強い意欲が必要です。”といっています。そのための方法が4つ出ています。最初は4節の①“意欲を求めて祈る。”です。」
「祈りを含めるのはJWとして必須なのだろうね。なんにでも出てくる。」

「体験談が出ているのですが、これがいい加減な話です。“意欲を与えてください,と毎日エホバに祈りました。そして,教える技術を磨くよう努力しました。数カ月後には,誰かに聖書を教えたいという気持ちになっていました。その年,2人の人と聖書レッスンを始めることができました。”とあります。こんなに簡単にうまくいくなら誰も苦労しません。」
「毎日祈ったら、“数か月後には”とあるよ。数か月も毎日同じことを祈ったの?信じられないね。いかにも適当に創作したという体験談だね。」

「5節が②“エホバがしてくださったことについてじっくり考える。”です。“私たちも同じように,エホバがしてくださったことについてよく考えるなら,目標を達成するためにもっと頑張ろうという気持ちになるでしょう。(詩 116:12)”とあります。引照聖句はそんなこと言っていません。」
「そこでは“私は何をしてエホバにお返ししよう。私のためにしてくださった全ての良いことに対して。”と言っている。お返しを考えているわけで、JWのようにあと目標達成まで10時間頑張ろうという気持ちにはなっていないよ。」

「詩編116は病気から回復した作者が感謝の気持ちをあらわした詩ですよ。そういうことを無視して、一部だけ切り取って、都合のよいように利用する。JWのやり方は不誠実ですね。」
「昔からそうやってきたよ。今さら変わらないよ。」

「詩編116:3,4に“死の綱が私に巻き付き,墓が私を捕らえた。苦難と悲しみに圧倒された。その時,エホバの名を呼んだ。「エホバ,助け出してください!」”とありますから、作者は死ぬ直前まで行ったということですよ。」
「この作者がしようとしているお返しは、116:17に“私はあなたに感謝の犠牲を捧げ”とあるから、動物だ。」

「JWがいい加減に聖句を引用しているのがよくわかります。」
「正しく引用するなら、“エホバがしてくださったことについてよく考えるなら,おかえしをするために、動物をもっとたくさん飼おうという気持ちになるでしょう。(詩 116:12)”となるね。」

「6節が③“どんな良い結果になるかを考える。”です。“エリカ姉妹は,時間を守るとどんな良い結果になるかを考えたので,目標を達成することができました。”とあります。それまでは遅刻してもしなくても何も変わらないと思っていたということですか?非常識な女ですね。」
「そこには“時間に余裕を持って行くなら,兄弟姉妹とあいさつしたり話したりできます。”とあるよ。それがイヤだからわざと遅刻して行ったんじゃないの?遅刻問題をこんなに取り上げるということは、JWではほとんどの人が時間を守らないのかな?」

「統治体の言うことを信じて、人生をJWに捧げるとどんな結果が待っているかをじっくり考えると、JWを続ける意欲がなくなりますね。」
「JW活動がどんな結果になるかは、老いさらばえたJWを見れば一目瞭然だ。」

「7節が④“意欲を高めてくれる人たちと一緒に過ごす。(格 13:20)”です。そういう人が身近にいないJWは多そうです。」
「引照聖句が泣けるね。“賢い人たちと共に歩むと賢くなり,愚かな人たちと関わり合うと苦しい目に遭う。”だよ。つまりJWと共に歩むと愚かになり、JWと関わりあうと苦しい目に遭うということだね。」

「7節の体験談で、“いいアドバイスをもらえました。”とありますが、そんなことは滅多にないですよ。
「JWのアドバイスと言えば、エホバを待つとか、不完全だから許せとか、意欲を高めるようなアドバイスはないよね。」

「8から13節が“意欲が湧かない時”です。 8節には“意欲が湧かない時にも,目標に向けて努力する必要があります。”とあります。厳しすぎます。JWの人生には休息はないようです。」
「JWが休むのは死んでから。生きている限り、組織のために働く。」

「10節で“では,意欲が湧かない時,具体的にどんなことができるか,考えてみましょう。”と言って、3つのことが出ています。」
「どうせ最初は祈りだろう。」

「そうですが、10節に興味深い文があります。“目標に向けて行うこと自体を楽しめないとしても,エホバへの愛の気持ちから行うなら,エホバは喜んでくださるのです。”とあります。これは伝道のことを言っているようです。」
「伝道はつまらないけれど、エホバのために頑張れということね。無理だね。」

「その後に“ポーランドのルツィーナ姉妹はこう言います。「疲れている時には特に,なかなか伝道に行く気になれないことがあります。でも出掛けると,大きな喜びを味わうことができ,幸せな気持ちになります」。”とあります。これはウソですね。伝道で喜びを感じるとしたら、伝道をやめた時です。」
「この発言はなんにでも当てはまる、無意味な発言だよ。例えば、“疲れている時はなかなかトイレ掃除をする気になれないことがあります。でもきれいに掃除をすると、大きな喜びを味わうことができて、幸せな気持ちになります。”こう変えても何の違和感もないよ。」

「11節は①“自制を祈り求める。”です。“自制とは,感情や行動をコントロールする力のことです。”と説明しています。理解できません。祈るならもっと直接的に意欲が湧きますようにと祈ればいいのでは?なぜ自制を祈り求めるのですか?」
「誰もがそう思うよね。意欲が湧かないときどうするかでしょう。突然なぜ自制が出てくるのか理解できない。祈ったって、意欲は湧かないことを知っているからだろうね。」

「12節が②“状況が完璧に整うのを待たない。”です。要するに、言い訳を言っていないですぐやれ、ということのようです。JWには無理です。」
「JWは何もしないことの言い訳を考える達人だからね。今だと、暑すぎる!というのはいい言い訳だ。こんな暑い中、何もできないよ。」

「13節が③“小さな目標から始めてみる。”です。意欲がなくてもできる小さなことからやれ、ということのようです。“聖書全体を読むことを目標にしているなら,短い時間読むことから始められるでしょう。”とあります。最初は1節だけ読んで、少しずつ増やしていくということですか?うまくいきませんよ。」
「どうしても聖書全体を読ませようとしているね。系図の所も読むのね。苦痛だね。」

「14から17節が“壁にぶつかってもがっかりしない”です。壁を乗り越えるために3つのことが出ています。」
「祈りは今度は出てないね。」

「14節に“がっかりさせられるような大きな問題にぶつかって,力がなくなることもあります。(格 24:10)”とあるのですが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「そこには“苦難の時に落胆するなら,力が失われる。”とあるけれど、元のヘブライ語には接続詞はない。協会共同訳では“苦難の日には心が萎え/力が弱まる。”だけど、接続しがないこちらの方が原文により忠実。“~なら”という条件文にしたのは翻訳者の解釈だね。」
「“~なら”という解釈でも、“力が失われる”はヘンです。元のヘブライ語には動詞はないです。“力が小さい。”ですよ。」
「この部分の翻訳は難しいね。解釈を入れないとできない。聖書は神の言葉らしいけれど、不完全な文が多く、人間の推測なしには理解できない箇所が結構あるよ。」

15節は①“壁にぶつかるとしても,それで終わりではない。”です。七転び八起きの精神で頑張れということのようです。根性論ですね。」
「15節の最後に“目標に向けて頑張るあなたの姿を見て,エホバは満面の笑みを浮かべているに違いありません。”とある。気持ち悪い。高校球児を暖かく見守る高校野球の監督か?」

「英文はHow happy Jehovah must beで、満面の笑みを浮かべるとはありませんね。」
「翻訳者はエホバなる神をもっと親しみやすいものにしたいと思っているんじゃないの?でも逆効果だね。」

「16節が②“壁にぶつかった経験から学ぶ。”です。同じ失敗を繰り返すなということですね。」
「“壁にぶつかったのは,目標が現実的なものではなかったからかもしれません。”といって、目標の変更を勧めている。それなら、将来、楽園で永遠の命を得るというJWの目標は現実的なものではないので、今の人生を幸せに過ごすという目標に変更するのがいいということだね。」
「“現実的ではない目標を達成できなかったとしても,エホバから見てそれは失敗ではありません。(コリ二 8:12)”とあるので、JWの非現実的な目標を放棄しても、問題ないということですね。」

「コリント二8:12が引照聖句だけど、コリント二8章はエルサレムへの献金問題について書いてある部分で、目標達成できなくても、エホバから見て失敗ではありませんというJWの主張の根拠にはならないよ。そこでは“進んで与える気持ちがあるなら,受け入れられます。持っている物を与えればよいのです。持っていない物までは期待されていません。”となっているけれど、訳がヘンだよ。パウロはこんなことを言っていない。」

「英文ではit is especially acceptable according to what a person has, not according to what a person does not have.ですから、持っていないものではなく、持っているものに応じて受け入れられると言っていますね。」
「8:11で“進んで行う気持ちを貫き,資力に応じて与えましょう。”と言って、次の8:12で“資力に応じて与えましょう”の意味を説明しているという文章の流れ。ここでは“持っている物を与えればよいのです。”ではなく、例えば収入の10%といったような寄付の決め方を提案している。」

「17節が③“これまでどんな目標を達成してきたかを思い起こす。”で、過去の目標達成を思い出し、自分ならできると信じてやれということのようです。」
「過去の目標達成としてどんなものが挙げられているかというと、“エホバと親しくなること,エホバについて語ること,バプテスマを受けることなどがあるかもしれません。”とある。こんなものが目標達成といえる?JWには具体的に達成した目標というとバプテスマを受けることぐらいなんだね。」
「いまや幼児でもバプテスマを受けさせています。」
「となると、JWには他人に誇れる目標達成経験がないということ?」

「最後の18節で、“諦めてしまわないなら,やがて目標を達成し,もっと大きな喜びを味わえることでしょう。”とありますが、JWの目標はどんなに頑張っても達成できませんよ。」
「ここで言っているのは、祈りがうまくなるとか、遅刻しないとか、聖書を通読するというささやかな目標で、誰でも実現可能だよ。早く目標が実現できるといいね!」

#1471 2023年08月18日 14:54:54

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“長老の皆さん,ギデオンを見習いましょう(25)”で、ギデオンの話を持ち出して、長老にあれこれと要求事項を並べたという内容です。」
「ギデオンの話から、慎みと謙遜さ、従順と勇気、そして忍耐を学ぶみたいだけど、無給の長老に要求多すぎだろう。増々長老の成り手がいなくなるよ。」

「長老が学ぶべきことは、このような徳目じゃないですよ。」
「法律を学んでほしいね。不法行為は、損害賠償の対象になるし、場合によっては逮捕されるからね。その場合は組織は何もしてくれないよ。自分で自分を守るしかない。」

「2節に“アメリカで長老として奉仕しているトニー兄弟は,仕事を引き受ける時に慎みが必要でした。”とあるのですが、その後とうまくつながりません。」
「誤訳だね。“自分が引き受ける仕事の量に関してもっと慎み深くあることを学ばなければなりませんでした。”という意味。オーバーワークを避けよと言っている。」

「4から8節が“慎みと謙遜さ”です。 ギデオンに見倣うべきことが3つ出ています。4節に、ギデオンは“天使を通して,ミディアン人からイスラエルを救うために選ばれた,と言われた時, 謙遜にこう言いました。”とあるのですが、英文ではJehovah’s angelで、協会共同訳では” 主の使い”です。これは天使とは違いますよ。」
「例えば、創世記32:1に“ヤコブは旅を続け,やがて神の天使たちに出会った。”とある。主の使いのこと。ヤコブは32章で、その一人と夜の間格闘する。そして創世32:28でその相手は“あなたの名前はもうヤコブではなく,イスラエルとなります。あなたは神と,また人と闘って優位に立ったからです。”という。創世32:30では“ヤコブはその場所をペニエルと名付けた。彼が言うには,「神と顔を合わせたのに,まだ生きている」からだった。”とある。」

「このヤコブの話では、主の使いは神と区別されていないわけですね。」
「主の使いが神と区別されない場合もあり、区別される場合もある。主の使いは何者なのか?よくわからないけれど、神のメッセンジャである天使とは違うね。」

「裁き人6:22では“ギデオンは,それがエホバの天使だったことを悟った。直ちにギデオンは言った。「ああ,主権者である主エホバ,私はエホバの天使を面と向かって見てしまいました」。”と嘆きます。これはエホバの天使=エホバなので顔を見ると死ぬとギデオンは恐れているわけですね。」
「普通の天使ではそういう反応はしないので、エホバの天使は単なる天使ではないね。でもJWはそのような区別はしないね。」

「6節から、具体的指示が出てきます。まずは①” ほかの人に助けてもらう。”という指示です。要するに自分一人で仕事を抱えず、他の人にやらせろと言っています。仕事を頼める人がいればいいですが、現実にはいないのですよ。」
「長老に余計な仕事を押し付けられる人は大変だね。うまく断り、なるべく引き受けないようにしないとJWとしてやっていけないよ。」

「7節は②“悪く言われる時も穏やかに接する。”という指示です。“悪く言われる時”というのはへんですよ。」
「英文ではRespond mildly if criticized.だから、”批判されたら穏やかに答える”でしょう。批判=悪口というのが翻訳者の理解なんだね。」
「組織をよくしたいので批判する場合がありますよ。建設的批判というものです。」
「でもJWではそれは悪口ととらえ、どこかの政党みたいに除名処分になりかねないということだね。」

「8節が③“エホバが賛美されるようにする。”という指示です。8節には“ギデオンは戦いでミディアンに勝って称賛された時,みんなの注意をエホバに向けました。”とありますが、ギデオンはエホバ崇拝者とは言い切れませんよね。」
「ギデオンは裁き人6から8章に登場するけれど、古い資料に後からいろいろな文章が追加されてつじつまが合わない箇所がある。裁き人7:1に“エルバアルつまりギデオン”とあって、ギデオンはエルバアル(バアルは戦うという意味?)というバアル崇拝に関係した名前を持っていることが示されている。裁き人9:1でも“やがてエルバアルの子アビメレクは”と、ギデオンのことをエルバアルと呼んでいる。ギデオンはバアルも崇拝していた多神教主義者なのだろう。」

「サムエル二11:21に“エルベシェトの子アビメレクを討ったのは誰だったか。”とあるのですが、エルベシェトというのはギデオンのことですよね。3つも名前があるのですか?」
「エルバアルというバアル崇拝に関連した名前を嫌った写本家がバアルをベシェット(恥という意味)と変えたと推測されている。このような事例は他にもあるよ。ギデオンという名前よりもエルバアルの方がよく知られていたということだね。」

「裁き人8:27には“ギデオンはその金でエフォドを作り,自分の町オフラに展示した。イスラエル全体は,そこでエフォドを崇拝するという不忠実なことをした。”とあります。偶像崇拝ですよ。」
「複数の神を崇拝したり、偶像を作ったりというのは古代ではごく普通のこと。ギデオンもすぐ怒る聖書の神様によって罰せられたりはしていない。息子は70人もいたと書かれている。子孫繁栄は神の祝福だ。」

「裁き人6:7、8に“イスラエル人がミディアンからの救出をエホバに求めると, エホバはイスラエル人に1人の預言者を遣わし,その人はこう言った。”とあるのですが、危機の時代に、預言者を使わすというのは、後の時代によく出てきますが、この時代では他にないですよ。」
「時代錯誤だね。後の時代の人が付け足した文章だね。死海の側で発見された死海文書の中に“裁き人”もあるけれど、そこには6:7-10は存在しないからね。この部分がないほうが話の流れはすっきりする。」

「8節に“例えば,教え方が上手だと褒められる時には,聖書や組織の訓練の素晴らしさについて話すことができるかもしれません。自分に注目させてしまっていないだろうか,と時々考えてみましょう。”とあります。単なるお世辞です。真面目に反応すればバカだと思われます。」
「長老を平信徒が褒めるのはお世辞に決まっているよ。ここでのおかしな点は“組織の訓練の素晴らしさ”を話せと言っていること。組織崇拝者じゃやないと長老はやれないということだね。」

「統治体は動画によく出てきますが、統治体の老人には“自分に注目させてしまっていないだろうか,と時々考えてみましょう。”という教訓は適用されないのですね。」
「統治体は地上の神の代理人だから、注目されて当然と思っているよ。でも不祥事や裁判の時は雲隠れするけどね。」

「9から13節が“従順と勇気”です。 3つの具体的指示が出ています。9節に、ギデオンは“例えばエホバから,父親のものであるバアルの祭壇を壊すようにと言われました。”とありますが、ギデオンの父親の名前はヨアシュです。名前から言ってエホバ崇拝者ですよ。」
「“ヤハウエは強い”という意味。それがバアル崇拝者という設定というのはへんだね。ギデオンの話はへんな所がたくさんある。」

「裁き人7:12に“ミディアンとアマレクと東方の人々はバッタの大群のように谷あいの平原を覆っていた。ラクダは数限りなく,海辺の砂のように多かった。”とありますが、これはひどい誇張ですね。」
「民数記31:7に“彼らは,エホバがモーセに命じた通りミディアンと戦い,男性を全員殺した。”とある。モーセの時代にミディアン人の男全員殺したのに、どうして250年ほどたつとバッタの大群のようになるのか、理解できないね。ミディアン人は男なしでも子どもができるのかも。」

「9節の上にあるイラストは、片膝をついて手で水をすくって飲んでいる人と両ひざをついて犬のように水を飲む人が描かれていますが、このイラストでいいのですか?」
「裁き人7:5には“犬が水を飲む時のように警戒しながら水を飲む人全員を,膝を突いてかがんで飲む人と別にしなさい。”とあり、7:6には“手で水を口に持っていって飲んだ人は300人で,残りの人は膝を突いてかがんで飲んだ。”とある。7:5と7:6が一致しないんだよ。イラストは7:6を描いている。」

「協会共同訳では“犬のように舌で水をなめる者と、膝をついてかがんで水を飲む者とを、すべて別にしなさい。”そして“手を口に当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの兵は皆、膝をついてかがんで水を飲んだ。”となっています。こちらが正しいですね。JW訳の“犬が水を飲む時のように警戒しながら”というのは訳者の解釈が入った訳ですが間違いです。」
「それから両方とも“飲む”としているのも誤訳だ。水をなめるか飲むか。いい加減なJW訳だ。」

「7:5は水をなめるのか飲むのかで2つに分けなさいといっています。ところが7:6は選ばれた300人は手で水を口に持って行って、なめた人です。エホバの命令通りじゃありませんよ。水をなめた人は全員水を手で口に持っていた人なのでしょうか?」
「命令と実行が一致しない。そこで7:5は本来は“犬のように舌で水をなめる者、すなわち、膝をついてかがんで水を飲む者を、すべて別にしなさい。”だったのではないかと推測されている。」

「なぜ水をなめる方がいいのかも理解できません。」
「その理由は書かれていないから、推測するしかない。JWではそれは警戒して水を飲むことと結びつけているけれど違うだろう。」
「水をなめるのは動物的な動作です。動物的な野生の戦士を選んだということじゃないですか?例えば怪力サムソンのような。」
「それは有力な考え方の一つだね。」

「10節が恐ろしいです。長老には“「本当にうまくいくんだろうか」と思えるような指示や,場合によっては逮捕される危険が伴う指示を与えられることもあります。”と言っています。長老なんかやるものではないということですね。」
「長老に必要なのは法律の知識と順法精神なのに、組織は逮捕されても組織の指示に従えと言っている。自分たちは反社会的なカルトです、と言っているようなもの。さっさと辞めよう、JW。」

「11節は①“指示に注意深く従う。”です。“ギデオンは疑ったりせずに,この指示通りにしました。”とありますが、違いますよ。執筆者は聖書を読んだことがないですね。」
「ギデオンは裁き人6:17で“もし今私があなたの好意を得ているのでしたら,私と話しているのがあなただというしるしを見せてください。”と言っている。また6:36で“約束なさった通り私によってイスラエルを救われるのでしたら,・・・”と言って、さらなるしるしを求めている。それでも満足せず6:39で“私に対して怒りを燃やされませんように。もう一度だけお願いします。どうか,もう一度だけこの羊毛で試させてください。”とさらなるしるしを求める。これって“疑ったりせずに,この指示通りにしました。”と言えるの?いえないよ!」

「JWもギデオンに見倣って、統治体に本当にエホバの意志を行っているというしるしを求めるべきですね。」
「そういう話の展開になると困るので、この記事ではギデオンがしるしを求めたことは無視している。」

「ギデオンの性格は臆病で弱虫という設定ですよ。執筆者はその点を全く理解せず、架空の模範的人物に仕立て上げていますね。」
「ギデオンがバアルの祭壇を壊すのは、6:10に“父の家の人たちや町の人たちを恐れて日中には行わず,夜中に行った。”とある。ギデオンが周囲の人を恐れて、夜中にコソコソと行動している情けない男。」

「ギデオンが神から選ばれたのはその弱さゆえですよ。」
「JWはそういうことは理解していないよね。ギデオンを勝手に英雄に仕立て上げている。」

「12節が②“調整に進んで応じる。”です。“長老たちもギデオンを見習って,エホバの組織からの調整に進んで応じることができます。”と気楽に書いています。ギデオンは神に何度もしるしを求めて、神であると確かめたうえで行動しています。JWもそうすべきというなら理解できますが、言っているのは組織に従えです。ギデオンと何の関係もありません。」
「神=組織という公式を押し付けようとしている。ある兄弟が“格言 3章5,6 節から,エホバを信頼することの大切さを思い起こしました。本当に素晴らしい結果になりました。たくさんの王国会館が建てられましたし,こういう方法で均等を図ることができるんだと気付かされました。”と間抜けたことを言っている。引照聖句はエホバに頼れと言っているけれど、エホバの組織に頼れとは言っていない。」

「それに王国会館を立てろ、と聖書は言っていません。」
「無給の労働力を使って王国会館を建てるのは、土地や建物の売買を重要な収入源にしている組織の要請にすぎないよ。」

「13節が③“エホバが望まれることを勇気を持って行う。”です。“エホバの証人の活動が禁止されている地域の長老たちは,ギデオンを見習っています。逮捕されたり,尋問されたり,暴力を受けたり,仕事を失ったりする危険があっても,集会や伝道に率先しています。”とあります。長老が逮捕されたら、残された家族はどうなるのでしょうか?組織が支えるとは一言もありません。」
「すべて個人の選択であり、個人の責任です、でおしまい。」

「13節には“大患難の時,長老たちは危険が伴うような指示を受けることでしょう。”とまるで明日にでも大患難になるかのように、危機意識をあおっています。JWであることは常に何かに脅かされているということですね。」
「恐怖心をあおるのはカルトの基本テクニック。でもJWの教義では、大患難になるには、平和安全宣言がでて、JW以外の宗教が禁止されるというありえない前提条件がある。大患難は遠い先だね。」

「14から17節が” 忍耐”です。 ここでは1つの指示だけです。16節に” エホバが力を与えてくださることを信じる。”とあります。ギデオンには力を与えたので、JWにも力を与えてくれるという滅茶苦茶な論理です。」
「17節に“医療機関連絡委員会で奉仕しているマシュー兄弟”が“疲れてもう続けられないと感じることが何度もあります。そのような時には熱烈に祈り,兄弟姉妹を助けるのに必要な体力や気力をエホバに求めるようにしています。そうすると,エホバが力を吹き込んでくださるのを感じます。”とウソ臭いことを言っている。医療機関連絡委員会はあまり仕事をしていない、もっとまじめにやれと言いたいのか?」

「医療機関連絡委員会は何の役にも立たない、という意見は多いみたいですよ。」
「医療の素人がそんな仕事を引き受けるのはやめた方がいいということだね。」

「最後の18節はまとめです。“長老たちはギデオンの手本からたくさんの役立つ点を学ぶことができます。”とありますが、実際はギデオンとはほとんど関係ない指示ばかりでした。」
「この記事から学べるのは、長老というのは、上からの指示に疑問を持たず、忠実に実行するロボットであれ、ということだね。」

「でも、最後に“このようにして一生懸命働く長老たちを「いつも敬[い]」,これからも感謝を示していきましょう。”と、平信者には長老に敬意と感謝を示すことを強要しています。平信者もつらいです。」
「それでも長老より平信者の方がまだましだね。2節に出ていた長老の発言は“いくらやっても終わりが見えませんでした。”、“この方法で本当にうまくいくんだろうかと感じました。”、“時には,兄弟姉妹を助ける力が出てこないくらい疲れ切ってしまうことがありました。”というもの。一日も早く長老をやめよう。」

#1472 2023年08月25日 14:34:58

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年が暑さの中、汗まみれでやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバの日に向けて用意をしておく(26)”で、テサロニケ一5章をもとに、終末論をあおり、生き延びたければ組織に従えという内容です。」
「JWは終末論が唯一のセールスポイントの宗教だから、終わりクルクル教とバカにされても、終末論はやめられないよね。でもこの記事の終末論は信者でもまともに受け取らないだろう。」

「1節に“聖書の中で「エホバの日」とは,エホバが敵たちを滅ぼし,ご自分に仕える人たちを救い出す時のことを指しています。”と言っています。そして“「エホバの日」は大いなるバビロンに対する攻撃で始まり,ハルマゲドンの戦いで終わりを迎えます。”と続くのですが、これ以上読むのは時間の無駄ですね。」
「あまりにも非現実的だね。大いなるバビロンはJW以外の宗教を指しているのだろうけれど、それよりも先にJWへの攻撃が始まりそうだよ。シナリオが狂ってしまう。」

「2節で“パウロはこの裁きの日がすぐに来るわけではないということを知っていました。(テサ二 2:1-3)”とあります。引照聖句は“神からのものに思える言葉や,口伝えの知らせ,また私たちから送られたかのような手紙により,エホバの日が来ているという趣旨のことを聞いたとしても,すぐに動揺して分別を失ったり,慌てたりしないでください。”とあります。これってJWのやっていることじゃないですか。」
「テサロニケ一では終わりがすぐ来るかのように書かれているけれど、テサロニケ二はそのような考えを否定している。終末論が違いすぎることもあって、テサロニケ二はニセモノのパウロが書いた偽名文章と思われている。」

「テサロニケ一では不意の終末に備えることが強調されているのに対し、テサロニケ二では、終末が近いと慌てふためくのではなく普段通りの生活をすることが求められています。同一の著者が書いたとは思えません。」
「JWはテサロニケ二を無視して、テサロニケ一を自分たちの教義の中心に据えているとうこと。」

「テサロニケ一4:17では“その後,私たちのうち生きている者が雲に包まれて引き上げられ,彼らと一緒になって空中で主に会い,こうして常に主と共にいることになります。”とありますが、“私たち”とはパウロやその仲間のことですよね。パウロは自分が生きているうちにイエスと出会うと思っていたわけですね。」
「パウロは本当にそう信じていたようだ。実現しなかったけれどね。」

「3から5節が“エホバの日はどのように来るか”です。 3つのことが出ています。①夜に忍び込む泥棒のよう、②妊婦に起こる陣痛と同じように、③夜明けのよう、だそうです。」
「3節に“エホバの日も,多くの人にとって予期していない時に来ます。あまりにも早く物事が進展するので,エホバに仕える人でさえ驚くかもしれません。”とあるね。JWの教えと一致しないよ。JWでは、今は終わりの日の終わりの終わりでしょう。明日来たって、予期しない時とはいえない。」
「150年くらいずっと予期していますね。」

「4節に“実際,陣痛は突然起こり,痛みを伴うものです。そして一度始まると,止めることはできません。”とあるけれど、英文ではthe labor will likely be sudden, painful, and unstoppableで、この場合、主語は陣痛じゃなくて”分娩”でしょう。」
「分娩とは子どもを産むことですね。要するに誤訳ですね。」
「陣痛は4節でbirth painという言葉を使っているので、laborは陣痛じゃないよ。」

「5節に“でもここでパウロは,エホバの日を夜明けに例えているようです。(テサ一 5:4)”とあり、引照聖句には“皆さんは暗闇の中にはいませんから,不意に夜が明けて驚く泥棒のように,急にその日が来て驚く,ということはありません。”とあるのです。この訳はヘンですよ。英文ではyou are not in darkness, so that the day should overtake you as it would thievesです。」
「the dayは“夜明け”じゃなくて、“その日”、つまりエホバの日のこと。あなた方は暗闇にいない、それで泥棒と同じようにその日が突然襲うということはありません、と言っている。」

「JW訳ではthievesと複数形です。他の訳を見るとa thiefと単数形です。JWの方が間違っているわけですね。」
「複数形の写本もあるけれど、それは写本家のミスと理解されている。普通は単数。」

「6,7節は“どんな人は生き残ることができないか”です。 眠る人と酒に酔う人だそうです。テサロニケ一5:6,7から来ています。」
「6節に“眠っている人は,自分の周りでどんなことが起きているのかも,どれほど時間がたったのかも分かりません。重要な出来事が起きても,それに気付くことも反応することもできません。現代の多くの人たちは眠っているような状態です。”と、JW流の“眠る”ことについて解説だけれど、要するにJWの終末論を受け入れないと“眠る”人になるようだね。」
「6節では“エホバの裁きの日が来ることを信じてはいても,それはずっと先だと考える人もいます。”とあり、これも眠る人のようです。重なる世代の教義からすれば、ずっと先と考えるのは仕方がないですよ。」

「7節で“アルコールを飲むと反応が鈍くなり,良くない決定をしてしまうことがあります。同じように,邪悪な人たちは神の警告を無視し,滅びに至る道を選んでいます。”と“酒に酔う”ことについて解説しています。要するにJWの終末論を無視することのようだ。」
「これも自分たちに都合の良いように解釈しているだけですね。」

「7節に“この表現についてある学者は,・・・と説明しています。”とあるけれど、引用元は明かしたくないわけだね。」
「いつもの不正引用です。」
「JWは唯一の真の宗教なのに、なぜある学者の説明を引用する必要があるのか、不思議だね。自分たちの解釈に自信が持てないのだろう。」

「一方、昔に書かれたJWの書籍は廃棄処分しています。引用されたらまずいことがいっぱい書かれているからですよ。」
「昔の学者の方がまともなことを言っているということね。」

「8から14節が” エホバの日に向けてどんな用意ができるか”です。 2つのことが出ています。最初は①” 胸当てを着け……かぶとをかぶりましょう”です。テサロニケ一5:8からです。信仰、愛、希望です。」
「具体的な話となると、いつもと同じことを言っている。9節には“生活をシンプルにして王国を第一にしている人たちにも見習えます。”といつもの貧乏の勧めだ。」
「一層のこと、働かなくて済むよう、JW全員、生活保護を目指しましょうといったらどうですか?」

「10節は愛についてだけど“人々への愛があれば,電話や手紙などいろいろな方法で,できるだけ多くの人に良い知らせを伝えたいと思うはずです。”といつもの伝道の勧めだ。電話や手紙を例に挙げているのが珍しいね。」
「英文ではwe keep preaching and keep working our territory, even witnessing by telephone and by letter.です。訳がヘンですね。」
「“宣べ伝え続け、区域で働き、電話や手紙で証言さえすることもあります。”といっているよ。翻訳者は伝道をしたくないので、前半をカットしたね。」

「11節には面白いことが出ています。“大患難が近づくにつれて,長老たちに頼ることはますます大切になります。世界本部や支部からの指示を受け取れなくなるかもしれないからです。それで,長老たちへの愛や敬意を今深めておくようにしましょう。”とあります。本部や支部との連絡が途絶えるなんてことを想定しているのですね。これはすごい迫害ですね。」
「携帯も使えなくなるということかな?サタンの攻撃か?核戦争の影響か?」

「本部や支部と連絡が途絶えるかもしれないから、長老に愛や敬意を深めろという主張は理解できません。長老にその時どうするか具体的な指示を与えるべきですよ。」
「本気でそんなことが起こると思っていないよ。恐怖をあおって、長老の権威を高めようというだけだよ。」

「11節には“長老たちのできていないところではなく,エホバがイエスを用いて長老たちを導いている,ということに注目するようにしましょう。”と怪しい主張が出ています。エホバがイエスを用いて長老を導くなんて、聖書のどこにも書いていません。」
「本当は統治体が支部を通して長老を動かしているだけ。支部も長老も自分だけでは意思決定はできない。」

「エホバは長老が性犯罪をしないようになぜ導かないのですか、とアメリカなら質問されそうです。」
「アメリカでも一般の信者はJWの犯罪については無知のようだよ。何も調べずに、真の宗教と盲信している人が大多数。」

「12節に“強い希望があるなら,今の世の中にあるものには何の価値もないということをはっきり理解できます。”と危険なことを言っています。過激な思想ですね。」
「それは平信者向けの話。幹部は平信者の寄付でこの世の中にあるものを味わい、楽しんでいる。」
「この世のお酒に価値を見出し過ぎているJWは多いようですよ。」

「13節が②“聖なる力の火を消してはなりません”です。これはテサロニケ一5:19からきているのですが、そこには“聖なる力の働きを妨げてはなりません”となっています。この節の見出しと合いませんが、英文ではDo not put out the fire of the spiritなのです。聖書を適当に訳していることがわかります。」
「霊の火を消すな、と訳せばいいのに、日本語翻訳者は“霊”が大嫌いだから、そう訳したくなかったのだろう。」

「13節には“では,どうすれば聖なる力を与えてもらえるでしょうか。祈ること,聖書を学ぶこと,エホバの証人としての活動を熱心に行うことが大切です。”とあります。これも訳に問題がありますね。」
「“エホバの証人としての活動を熱心に行う”はassociate with his spirit-directed organizationだから、”神の霊に導かれた組織と交わる”だね。翻訳者はこの組織が神の霊に導かれていないダメな組織であることを十分知っているので、そう訳すのが嫌だったのだろう。」

「14節に“さらに,「預言を軽く扱」わないようにする必要もあります。 (テサ一 5:20)ここで言う「預言」とは,エホバが聖なる力を用いて私たちに伝えるメッセージのことです。それには,エホバの日に関することや,終わりが近いことも含まれています。自分が生きている間にハルマゲドンが来ることはない,と考えないようにしましょう。”とあります。ということは、自分が生きているうちにハルマゲドンは来ないと思う信者が増えているということですね。重なる世代の教え以降は、それが正常な反応ですよ。」

「預言とは具体的に何のことかな?重なる世代に関係する預言のこと?」
「JWの預言では、ハルマゲドンはとっくの昔に来ているはずですよ。それで苦し紛れに重なる世代というものを持ち出して、失笑を買ったわけです。」
「それに代わるアイデアを出さないと、いよいよJWの終末宗教としての寿命もつきるよ。」

「最後の15,16節が“全てのことを確かめてください”です。 15節で“間もなく,神に逆らう人たちは「平和だ,安全だ!」という宣言を出します。”とロシアとウクライナの戦争が続いているのにこんなことを言っちゃっていますよ。そんな宣言が間もなく出ると言う霊感でも受けたのでしょうか?」
「現実感覚を失っているね。ロシアとウクライナの戦争は何年続くかわからない。中国が台湾を攻めるという可能性も高く、北朝鮮の核やミサイルによる挑発も続いている。“平和だ,安全だ!”宣言は出ないよ。」

「そして“邪悪な天使の影響を受けたこの宣言は世界中に広まり,大勢の人がだまされます。”と言っています。JW以外の人は平和安全宣言を信じてしまうようです。実際はJWだけが騙されそうですけど。」
「“私たちはどうでしょうか。「全てのことを確かめ」るなら,だまされることはありません。(テサロニケ第一5:21を読む。)”だって。引照聖句には“全てのことを確かめてください。”とあるけれど、これは平和安全宣言のこととは関係ないよ。」

「平和安全宣言は5:3ですから、5:21とはあまりにも離れています。文脈を無視して、聖書を適当に切り貼りして、終末のストーリを組み立てるのがJWですね。」
「テサロニケ一5:19,20で“聖なる力の働きを妨げてはなりません。 預言を軽く扱ってはなりません。”とあり、それを受けての5:21。」
「つまり聖霊の働きや預言と称されるものを侮ったり、軽視したりしてはいけませんが、それを鵜呑みにするなということですね。平和安全宣言とは関係ないですね。」
「聖霊の働きや預言は天からの賜物とは限らないから、確かめないといけないと言っている。」

「“周囲の人たちの言葉をそのまま信じるのではなく,思考力を働かせましょう。そうした情報と聖書や組織が言っていることを比べて確認するようにします。”とあります。要するに、改ざんした聖書と怪しげな組織の出版物に書いてあることを鵜呑みにしなさいということです。」
「長年JWをやっている人はとっくの昔に思考力は失っているからね。できるのはそんなことだけ。」

「最期の16節では、無事ハルマゲドンを通過し、楽園で会いましょう、と言うのかと思ったのですが、“生きて大患難を通過するとしても,その前に亡くなるとしても,エホバに忠実に仕え続けるなら,永遠の命を得ることができます。”と、信者の死についてさりげなく触れています。気持ちが落ち込みますね。」
「14節で“自分が生きている間にハルマゲドンが来ることはない,と考えないようにしましょう。”と言ったばかりなんだけど、それはタテマエということだね。」
「信者の高齢化が進み、頻繁に葬式が行われている会衆もあります。この世の終わりではなく、自分の人生の終わりに備えるようにという指示ですね。」

#1473 2023年09月01日 15:03:18

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバを畏れることが大切なのはどうしてか(27)”で、エホバを畏れて、組織の言いなりになりなさい、という内容です。」
「“畏れる”とあるけれど、英文ではfearなので、“恐れる”だね。エホバを畏れるのは大事というのは旧約聖書の思想そのものだね。JWは旧約聖書を中心にした独自のエホバ教という宗教だね。」

「1節に“この記事の主題聖句にある通り,エホバと親しい友になりたいと思うなら,エホバを「畏れる」必要があります。(詩編25:14を読む。)”とあります。」
「引照聖句は旧約の世界を背景とした詩だから、今のJWには適用困難だね。25:12で“エホバを畏れる人は誰か。”と問う。25:13で“その人は良いことを経験し,子孫は地上に住み続ける。”と言う。」
「25:13の訳はへんですね。“良いことを経験し”はないですよ。詩らしくないです。」
「要するにエホバを畏れる人は良い人生を送り、子孫は繁栄するという旧約的な幸福に恵まれる、と言っている。JWとは無関係でしょう。」

「3から5節が“エホバを畏れるとはどういうことか”です。 3節に“エホバを畏れるとは,エホバが悲しむようなことを行うのを怖いと感じることです。”と説明しています。小学4年生にもわかる説明ですが、ちょっと違う気がします。」
「英語版にはそのような文はない。翻訳者が付け加えたもの。」
「次の“何かを怖がるというのはネガティブな感じがするかもしれませんが,私たちのためになる場合があります。”も英語版にはない文ですね。」
「翻訳者を弁護すると、この記事は、神を畏れるとは何か、説明していない。これではまずいと思った翻訳者が付け加えたのだろう。もとの記事がダメなんだよ。」

「それでは、神を畏れるとはどういうことですか?」
「旧約には信仰という言葉がない。それに代わるものとして、神を畏れるという言い方が使われている。具体的には、神を畏れるとは、神の命令に従い、神の道を歩み、罪を避け、などなどを実践していく、というようなこと。」

「新約では、恐れるよりも愛が強調されています。」
「新約では、神は恐怖の対象から、人間を自分の子として無条件で愛し、許す父親へと変わる。JWはそれ以前の、神への恐怖の段階の宗教だ。」

「4節で“サタンは人々にエホバへの正しくない恐れを持たせようとしています。”と、根拠のないサタン攻撃です。聖書のどこにもそんなことは書かれていません。サタンはJWにとって都合の悪いこと全ての原因ですね。」
「サタンを悪の支配者とみなすのは旧約にはない思想で、その点ではJWは旧約的ではないね。」

「4節で“「エホバはすぐに怒る神で,私たちに罰を与えようとしている。人間がエホバを喜ばせることなんてできない」と思わせようとしています。(ヨブ 4:18,19)”とあるのですが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「旧約ではサタンはヨブ記以外ほとんどセリフもないわき役だからね。でもヨブ記のサタンは天の神の組織の一員で、人間の悪を告発する検察官のような役割で、悪の支配者ではない。」

「5節で“エホバを畏れる人は,エホバを愛し,エホバとの友情を傷つけるようなことは決してしたくないと思うものです。”と飛躍した論理を展開しています。エホバを畏れる人は、罰を受けないようにひたすら従順にふるまおうと思うものです、と書くべきですよ。」
「恐怖から愛へ飛躍している。どうしてそうなるのか不思議だね。恐怖こそ宗教の源ですと言えばいいのに。JWはハルマゲドンで滅ぼされる、排斥されていじめにあうといった恐怖からJWにとどまっているだけで、エホバなる神に愛や友情など感じていないよ。」

「6から8節が“畏れの気持ちを強める”です。 畏れを強める具体的方法が3つ出ています。6節には①“創造物を観察するなら,この畏れの気持ちを強めることができます。”とあります。確かにそうですね。この世界には恐ろしい生物がたくさんいます。」
「ベネズエラヤマユガの幼虫は恐ろしいよ。体から木の形をした毛のようなものがたくさん生えているけれど、それは毒液を注ぎ込む針で、その毒は、抗凝血性の出血毒で、刺されると傷口からの出血が止まらなくなり、内臓出血や脳内出血をも引き起こし、腎臓を破壊され腎不全で人を死に至らしめる。一匹だけでも恐ろしいのに、たいていは集団で生活しているので、刺される場合は一度に数匹から刺されてしまう。」

「JWならこう尋ねますよ。このような複雑な人間を殺す仕組みを持った幼虫が偶然進化したのでしょうか?それとも愛に満ちた創造者の御業によるものなのでしょうか?」
「悪意に満ちた人間嫌いの創造者の御業じゃないの?創造者に対する恐怖心が強まったね。」

「7節が②“よく祈ることによっても,エホバへの畏れの気持ちを強めることができます。”とあります。理解できません。祈ると恐怖心が増すわけですか?」
「罪の許しを求める祈りだよ。今日もポルノを見てしまいましたとか、今日もウィスキーを飲みすぎましたとか、今日も子どもをひっぱたきましたとかグダグダメソメソ祈っていると、このままでは滅ぼされると突然恐怖心が湧いて、心臓が苦しくなってくるんじゃないの。」

「エホバは些細なことでも死刑にする神様ですから。」
「今まで何人ものJWが祈りの最中に心臓発作で死んでいるかもよ。統治体の一員で、日本支部の監督を25年間も勤めたロイド・バリーは、1999年、大会で講演中に突然倒れ死亡したけれど、話しているうちにエホバへの恐怖心が強まったのかも。」

「8節は③“聖書中の良い例や悪い例を調べることも,エホバへの畏れの気持ちを持ち続ける上で助けになります。”とあります。これは納得できますね。」
「恐怖をあおる話は旧約聖書にはたくさんあるからね。この記事では3人が登場だ。」」

「9から11節が“オバデヤのように勇気を示す”です。 マイナーな人ですね。9節に“聖書によると,オバデヤは「エホバを非常に畏れる人」でした。 (列王第一18:3,12を読む。)それで,オバデヤは正直で信頼できる人になり,王家の管理人としての仕事を王から任されました。”とあります。」
「引照聖句には“オバデヤはエホバを非常に畏れる人だった。”とあるけれど、これはエホバを崇拝していた人という程度の意味だと思うよ。」

「列王18:3のJW訳では“家の人たちをまとめていたオバデヤ” とあるのですが、“家の人たちをまとめていた”というのは何ですか?もっとましな訳はできなかったのでしょうか?協会共同訳では“宮廷長オバドヤ” です。」
「“家の人たちをまとめていた”というのは文字通りの訳。それは宮廷の長をあらわすヘブライ語なんだけど、そのことを知らなかったんじゃないの。初期のころは王のそばで様々なサービスをする人たちの長だったけれど、時代とともに、王の第一の側近、首相のような地位をあらわすようになる。」

「英語では首相のことをprime ministerとよびますが、元の意味は“第一の小さき者”です。それと似ていますね。」
「ministerはminimumと同じmini(小さい)からきた言葉。JWなら首相と訳さないで、“第一の僕”とでも訳すのだろう。」

「11節が教訓で、“現在,多くの兄弟姉妹はエホバの証人の活動が禁止されている地域で暮らしています。(中略)エホバを畏れているの で,人間ではなくエホバに従っています。”とあります。オバデヤと同じように命がけで、JW活動をしなければいけないようです。」
「JWが禁止されている地域で暮らしているJWはJWのほんの数%じゃないかな。事実と違うことを言うのはやめよう。」

「11節のアンリ兄弟の体験談では“エホバへの深い敬意があったからこそ,勇気を持って行動できたんだと思います。”とあるのに、“私たちもエホバを畏れているなら,アンリ兄弟と同じように勇気を示すことができます。”となっています。敬意respectと畏れfearは違いますよ。」
「体験談なんて、99%は創作でしょう。どうしてこの記事に合わせて、“滅ばされるのではと、エホバへの強い恐れがあったからこそ・・・”という風に創作しなかったのかな?」

「12から15節が“大祭司エホヤダのように揺るぎない愛を示す”です。 歴代誌二22から24章に基づいた話を紹介していますが、これは問題ですよ。エホヤダは列王記二11章にも描かれていますが、内容が一致しません。」
「13節に“レビ族と氏族長たちの支えもあり,エホヤダはエホアシュを王にし,アタリヤを処刑しました。(代二 23:1-5,11,12,15; 24:1)”とある。ところが、列王二11:4に“7年目に,エホヤダは人を遣わして,王室護衛官と宮殿護衛との百人長たちを呼び,エホバの家の自分のもとに連れてこさせた。エホヤダは彼らと合意を結び,”とあり、レビ族なんか出てこない。歴代誌の作者はエホヤダのクーデタをレビ人を中心とした宗教改革かのように描きたかったのだろう。」

「歴代誌が書かれたのは、バビロン捕囚後で、前400年頃ですから、書かれていることの信ぴょう性は列王記よりも劣ると考えるのが普通ですよ。」
「歴代誌二23:2に“彼らはユダ全域を回り,ユダの全ての町からレビ族とイスラエルの氏族長たちを集めてエルサレムに来た。”とある。クーデタを起こそうというのに、こんなに大々的に人を集めていたら、すぐその計画が漏れて、つぶされてしまう。」
「非現実的ですね。」
「“王室護衛官と宮殿護衛との百人長たち”だけでクーデタを行ったという列王記の記述の方が信ぴょう性が高い。」

「“王室護衛官”というのは脚注には“直訳,「カリ人」”とあります。なぜ“カリ人”としないのですか?」
「英文ではthe Caʹri·an bodyguardとなっているね。日本語翻訳者は、エホバが応援しているユダの王を守っているのが外国人傭兵ということを日本の信者に知られたくないのでしょう。それで“王室護衛官”と適当に訳したのだろう。」

「14節に“確かにエホバは,エホヤダのために素晴らしいことを行いました。(サム一 2:30)例えば,エホヤダの立派な行いが聖書に記録されるようにしました。”とあります。ということは、良くない行いが記録されている人はエホバが意地悪をしているということですね。」
「いいことをしたら報いがあると、信者に思わせたくて、適当なことを書いただけだよ。」

「その後、“さらに,「真の神と神の家に関してイスラエルで良いことを行った」ので,「『ダビデの町』に王たちと共に葬られ」ました。これはとても名誉なことでした。(代二 24:15,16)”とありますが、引照聖句には“エホヤダは長生きし,年老いて死んだ。死んだ時,130歳だった。”とあります。これはあり得ないでしょう。」
「長生きは神の恵みというのが旧約の思想。それで思い切り誇張しただけ。数字をバカバカしいほど誇張するのは旧約では普通のこと。」

「15節が教訓です。これがエホヤダとはほとんど関係がないものばかりです。」
「クーデタを勧めるわけにはいかないからね。」
「この節の最後に“私たち全てはエホヤダを支えたレビ族や氏族長たちから学ぶことができます。私たちも,「教え導いている人たち」に従い,心からサポートするようにしましょう。”とあり、上の人には従えという服従の精神が教訓のようです。」
「どんな話もそういう教訓に落ち着くのがJWだよね。」

「16から18節が“エホアシュ王のようになってはいけない”です。 歴代誌に基づいて、エホアシュ王を背教者、殺人者とし、17節に“エホアシュの「軍勢は非常に多かった」にもかかわらず,シリアの小さな軍隊に敗れ,エホアシュは「重傷を負」いました。その後,シリア軍は引き揚げていきましたが,エホアシュはゼカリヤを殺したことで家来たちに暗殺されました。エホアシュはとても悪い王だったので,「王たちの墓地」に葬られることもありませんでした。”と締めくくっています。これは単なる因果応報史観ですね。」
「列王記二12章を読むと違った印象を受けるよ。神殿修理にかなり情熱を注いでいる。このことは王による神殿への献金を呼びかけを記した陶片が発掘されていて、この史実性は確認されている。」
「シリア軍は小さな軍隊とか、重傷を負ったとか、祭司を殺したとかも列王記には書いていませんね。」

「列王二12:3に“しかし高い場所は取り除かれなかった。民は依然として高い場所で犠牲を捧げたり,犠牲の煙を立ち上らせたりしていた。”とあるけれど、庶民の信仰を妨害しなかったということで、いい王様じゃないの?エホバ教の人から見れば悪い王様というだけ。」
「聖書を書いている人は王や権力者に近いエリート層で、エホバ教もエリート層の宗教にすぎないということですね。庶民には庶民の素朴な信仰があったわけです。」
「歴代誌の記述は史実と言うより、エホアシュ王が暗殺されたという事実から、因果応報史観に基づいて、こんな悪いことをしていたから最後は暗殺されたというストーリを何百年も後に作ったとみるのが適切だろう。」

「18節が教訓で” 杭のような存在だったエホヤダがいなくなり,背教の嵐が吹き付けると,エホアシュは倒れてしまいました。この例から,エホバへの畏れを持ち続けるためには家族や仲間の兄弟姉妹に頼りきりではいけないということが分かります。”というものです。自立の進めですか?」
「JWをやめたいけれど、家族がJWなのでやめられないという人がかなりいる。そういうJWは熱心なJWから見ると、家族や仲間に頼り切ったダメな人にみえるからね。それでこんな記事がかかれたのかも。」

「エホアシュ王は乳児の時、アリタヤの殺害から逃れるために6年間隠れて生活をし、7歳で王になりますが、権力はなく、大祭司エホヤダの言いなりでしょう。よく耐えたと思いますよ。」
「その点はJW2世と似ているよね。自分に選択権はなく、特定の宗教や生活を押し付けられている。」

「最後の19節に“エホバが求めていることは,伝道の書 12章13節にまとめられています。そこには,「真の神を畏れ,その方のおきてを守りなさい。人の務めはそれに尽きる」とあります。”と書いていますが、これでいいのですか?」
「神を愛する、隣人を愛する、はどうなったの?JWはキリスト教と言うより、恐怖と服従の宗教ということだね。」

#1474 2023年09月08日 14:10:28

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバを畏れる人はいつまでも幸せでいられる(28)”で、格言9章の話からポルノを避けよ、という内容です。」
「ポルノはJWにとって人類3大悪の一つだからね。何度も取り上げるわけだ。」
「倫理観がヘンですよね。老人ばかりのJWにこんな記事は必要ですか?」
「老人だってポルノには興味があるよ。特にJWの老人は。」

「1節にロトの話が出てきます。酔っぱらって娘二人とセックスして子どもを設けた男です。“ロトは,お父さんエホバが悪い行いを嫌っていることを知っていたので,「不法な人々の恥知らずな行いに非常に苦しんでい」ました。(ペテ二 2:7,8)”とあります。引照聖句にはそうありますが、創世記にロトが苦しんでいたなんて書いてありましたか?」
「ないよ。ロトはソドムの町で家が襲われた時、創世記19:8で“お願いです。私には,男性と関係を持ったことがない娘が2人います。2人を差し出しますから,どうぞいいようにしてください。”と言っている。この時少しは苦しんだかもね。」

「3から6節が“エホバへの畏れは私たちを守る”です。 3節に“エホバは心を調べる方です。人の見えるところではなく,内面に注目しています。(格言17:3を読む。)”とあります。引照聖句は“るつぼは銀のため,炉は金のため,エホバは心を調べる方である。”なのですが、これでは前半と後半がつながりません。誤訳じゃないですか?」
「協会共同訳では“銀の精錬にはるつぼ、金には炉/心を精錬するのは主。”となっている。前半と後半がうまくつながった訳だね。“心を調べる”は誤訳だろう。」

「心とありますが、実際は心臓です。JW訳を使うと、心臓を調べると言っているわけですよ。古代のヘブライ語において、心臓は心つまり人間の内面性を表す言葉なのですか?」
「心臓は多義的だね。心臓は感情の座だけでなく、道徳心や知性の座でもある。良心や自己意識という意味でも使われる。格言のような短い文だと、その意味を確定するのは難しい。」

「3節の質問は“. 格言 17章3節によると,私たちが心を守るべきなのはどうしてですか。”なのですが、どう答えればいいのでしょうか?格言17:3には「心を守る理由など書いていません。」
「心を守っていないと、不道徳な考えやポルノが心に入り込んで来るからです。そうなると、間もなく来るハルマゲドンで滅ぼされて、死体は鳥に食べられるからです。というのが模範解答じゃないの?でも聖句とは無関係だけど。」

「4,5節が体験談です。4節では“姉妹は,悪い決定をしたらどんな結果になるかをじっくり考えました。私たちも同じようにすることができます。”とあり、JWが禁じることをしたら排斥、断絶、集団絶交という恐ろしい結果になることを考えろ、という指示です。恐怖をあおる作戦です。」
「排斥は信者が悪いことをしないための仕組みというわけだ。悪いことをした信者には聖書に倣って皆で石をぶつけることにしたら、抑止力は一層強まるのに。」

「5節では“でもすぐに友達の悪い影響を受けて,アルコールにおぼれ,不道徳なことを行うようになってしまいます。やがて,クリスチャンの親から教わったことや,以前の幸せな日々についてじっくり考えるようになり,再び正しい考え方ができるようになりました。”とあります。この人は“今では,長老また特別開拓者として奉仕を楽しんでいます。”とJWの体験談によくあるパターンそのものです。」
「一度堕落するけれど、何かのきっかけで立ち直り、最後は“今では,長老また特別開拓者として奉仕を楽しんでいます。”で、締めくくるというパターンだね。」

「これが本当だとすると、この人はJWからすればいけないことをしていた時、たまたま、あまり楽しくなかったというだけじゃないですか?それで昔はよかったと思って、JWに戻った。」
「友人のせいにしているのがダメだね。もっといい友人がいたら、今頃はJWからきっぱり足を洗い、JW時代は毎日が苦痛でしたとか言っているかも。人生の偶然性だね。」

「6節に“サタンの世界は,性的な不道徳やポルノであふれています。”と根拠なく断定しています。JWだって、そう変わらないと思いますよ。」
「JWは同性愛を許さないという点で、優れていると思っているよ。でも児童性的虐待という性犯罪には他の宗教以上に無関心で、アメリカでは逮捕者をたくさん出している。」

「7から13節が“愚かな女性の誘いを退ける”です。 格言9章の話になります。7節には“「愚かな女性」の誘いについて考えてみましょう。(格言9:13-18を読む。)”とあります。」
「これらの聖句を性的不道徳を避けなさいという意味と解釈しているのね。ずいぶん狭い解釈だね。」

「9節で“「愚かな女性」は,「盗んだ水は甘[い]」と言っています。この「盗んだ水」とは何でしょうか。”とあります。答えは“これは正しくない性関係を指しているようで,多くの場合隠れて行われます。”だそうです。」
「英文では  illicit, immoral sexで違法で不道徳なセックスだよ。結婚している男が妻以外の女性と性的関係を持つことを言っているとJWは解釈しているようだ。」

「盗んだ水というのは、人妻のことじゃないですか?旧約聖書の世界では妻は夫の所有物です。」
「そうかもね。昔の諺に“一盗二婢三妾四妓五妻”というのがあって、これは男が性的興奮の高い順に相手を並べたもの。」

「“一盗”というのは人妻のことですね。やはり人妻が一番興奮するものなんですか?」
「これは昔の諺で、昔は姦通罪というものがあって、江戸時代では人妻と性行為をすると両者死罪となった。つまり命がけだ。だから興奮するんじゃないかな。」

「“五妻”というのは妻相手では少しも興奮しないということですね。」
「それで不倫はなくならないね。こういう人間の性質は愛ある創造者が設計したというのがJWの解釈だよね。文句があるなら神様に言おう。」

「9節には“でも実際には,エホバが全てを見ています。”とあります。エホバは不倫行為をのぞくのが好きということですか?」
「エホバは何でも見ているという聖句はないよ。全能の神がいるなら、恐らくそうだろうという推測。実際は人間のことなど関心ないと思うよ。ましてや人間の性生活などには全く関心ないでしょう。」

「10節では性の不道徳がもたらす害悪について述べています。“恥ずかしい気持ちや自分には価値がないという気持ちになるかもしれません。”とあります。本当ですか?」
「信ぴょう性をもたらすために、得意の体験談があるとよかったね。“日本に住む○○兄弟は開拓者で長老でしたが、牧羊訪問と称して、若い姉妹たちの家をたびたび訪問し、その度に性的関係を持っていました。お金がないので避妊具を使うのを控えていたところ、一人の姉妹が妊娠し、○○兄弟の性的不品行が明らかとなったのです。○○兄弟は長老を削除され、妻とは離婚し、恥ずかしい気持ちや自分には価値がないという気持ちになりました。”というのはどうだろう?○○には好きな名前を入れていいよ。」

「そこまでばれちゃうと、いくら鈍感なJWでも恥ずかしい気持ちになるかもしれませんね。」
「最後はJWの体験談のフォーマットに従い、“○○兄弟は今では,長老また特別開拓者として奉仕を姉妹たちと一緒に楽しんでいます。”で終わる。いい話だとみんな喜ぶ。」

「11節はポルノの攻撃です。JWにとっては、ポルノが人類の問題の中で一番重要なんですね。」
「JWは人類の病気や飢餓、戦争、環境の悪化、差別や不正等々の問題は全く無関心で、ポルノに関心を集中させている。性にこだわりすぎ。ポルノと同性愛者がいなくなれば、JWとしては素晴らしい世界になるのだろう。」
「この世界からJWがいなくなった方が、素晴らしい社会になるのでは?」
「JWがある日突然いなくなっても、社会的損失はほとんどないね。」

「12節に“クリスチャンである私たちは,ポルノが目に飛び込んできたならどうすべきでしょうか。すぐに目を背けるべきです。”と言っています。笑えますね。」
「英文ではWhat should we as Christians do if a pornographic image shows up on our electronic device?とあるので、スマートフォンなどでポルノが出てきたらどうするか、と問うている。これってポルノ大好きJWに対して非常に配慮した言い方だね。自分で積極的に検索して見ているのに、”目に飛び込んできたら”と、あたかも偶然かのような言い方だ。」

「ポルノを見ているJWに、タマタマそれが出てきただけですよね、すぐ目を背けましょうね、と猫なで声で言っているわけですね。でも実際は、お前みたいな変態野郎は排斥だ、と言いたいわけですね。」
「そこまで言うと男性の信者がいなくなる。」

「12節に“一般的にはポルノと考えられていない画像であっても,不道徳な欲望を湧き上がらせる場合があります。そうしたものも避けるべきなのはどうしてでしょうか。たとえ小さなことであっても,心の中で姦淫を犯すことにつながるようなことはしたくない,と思っているからです。”とJWの大好きな詭弁を展開しています。」
「滑りやすい坂の詭弁だね。一歩でも踏み出すと、滑って転んでしまうから、一歩も踏み出してはいけないという主張。ミニスカートの女性の画像を見ると、どんどんエスカレートしていき、最後は強姦魔になってしまう!だからそれは絶対ダメと言いたいわけだ。」

「それが本当だと、この世は強姦魔だらけですね。」
「滑りやすい坂の詭弁は何でも禁止したがる組織が愛用するもの。JWもつまらないことを禁止して、信者を管理統制する宗教ということだ。」

「14から18節が“賢い女性の招待を受け入れる”です。 14節に“格言9:1-6を読む。これは,創造者であり全ての知恵の源である,エホバからの招待です。”とありますが、違うでしょう。」
「格言1から9章は知恵についての詩集で、9章はその結論部。知恵と愚かさを女性として擬人化し、その結末を述べている。知恵の擬人化である女性はソフィアと呼ばれることがあるよ。ソフィアはギリシャ語で知恵という意味ね。招待しているのはソフィアで、エホバじゃないよ。」

「イエズス会が設立した上智大学の英語名はSophia Universityですね。大学名は「聖マリアの連祷」のなかにあるSedes  Sapientiae (上智の座)から名づけられたそうです。」
「JWのソフィアというと、動画に出てくる、アイスクリーム代まで組織に寄付したJWに120%洗脳された女の子だよね。」

「15節に“この女性は,肉をしっかり用意し,ぶどう酒に香料を混ぜ,食卓も整えました。(格 9:2)”とあります。英文ではmixed her wineで、ワインに香料を混ぜたとは書いていません。」
「引照聖句には“ぶどう酒に香料を混ぜ”とあるから、この記事でもそれに合わせたわけだ。でもこれは誤訳。英文ではIt has mixed its wineなので、ぶどう酒を混ぜた、でしょう。もっとも、この英訳も正しくない。主語は彼女だよ。」

「混ぜたとあるので、香料を混ぜたと勝手に推測したわけですね。」
「香料を混ぜる場合もあるし、複数のワインを混ぜる場合もある。量を増やすために水を混ぜる場合だってある。70人訳では、器に入れて混ぜるとあるので、複数のワインをブレンドして、好みの味のワインを作ったという説を取りたいね。」

「16節は体験談です。JWの体験談によくある、あり得ない極端なケースです。“長老で学校の教師をしているアラン兄弟の例を考えてみましょう。兄弟はこう言います。「同僚の多くは,ポルノ映画も性教育の一部だと考えていました」。”とあります。こんな教師がいますか?」
「アラン兄弟の周りに、なぜかそういう変わった教師ばかりが集まったということだろう。サタンの陰謀じゃないの?」

「アラン兄弟はポルノをきっぱりしりぞけます。すると“何人かの同僚は,兄弟のきっぱりとした態度に感心し,聖書レッスンを始め,集会にも出席するようになっています。”とあります。これもJWの体験談のよくあるパターンですね。」
「ポルノを退けるだけで、ほめられるのはJWだけだね。評価基準が低いんだよ。」

「18節に“また,「真の知恵」を学ぶよう人々に勧めることから喜びを味わっています。”とあります。JWのバイブルレッスンが真の知恵を学ぶことですか?違いますよ。」
「格言9:11に“知恵によって,あなたの日々は多くなり,あなたは長く生きられる。”とある。JWのバイブルレッスンを受けると、確実に寿命が縮まると思うよ。JWの教えは真の知恵の反対じゃないの。」

「最後の19節は“伝道の書12:13,14を読む。”とあります。そこには“真の神を畏れ,その方のおきてを守りなさい。人の務めはそれに尽きる。”とあります。統治体を恐れ、そのおきてを守りなさい。JWの務めはそれに尽きる。という意味ですね。」
「最後に“そして,この畏れの気持ちは,「真の知恵」について学ぶようできるだけ多くの人に伝えていく力ともなるでしょう。”だって。結論は、もっと伝道しろ、だったね。どんな記事でも結論は同じだ。」

#1475 2023年09月15日 14:50:47

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“大患難のために用意をしていますか(29)”で、間近に迫った大患難に準備するために忍耐,思いやり,愛が必要という内容です。」
「最近は、ハルマゲドンに代わって、大患難がお気に入りの言葉だね。来そうもない大患難のために用意するのは難しいね。」

「塔2020/5の“終わりの時の対抗する王たち”にある年表の⑪には“国々は,平和と安全を実現したと主張する。その後,国際連合を支持する国々が,間違った宗教の組織を滅ぼす。この出来事が大患難の始まりとなる。”とあります。こんなことを聖書が預言し、しかも間近に迫っていると統治体は本気で思っているのですか?」
「時々“終わりがぁぁぁー”と言わないと、信者が怠けると思って、引き締めを図っているだけだと思いたいね。」

「2節に“イエスは2000年ほど前に,用意をしておくようにと言っていました。(マタイ 24:44を読む。)”とあります。引照聖句には“ですから,あなたたちも,用意ができていることを示しなさい。人の子は予期しない時刻に来るからです。”とあります。これはイエスの再臨の話ですよ。JWの教義ではイエスは1914年に見えない天の王国を設立したのじゃないですか?」
「1914年に終わりが来るはずだったのに来なかったから、見えない天の王国設立にすり替えたわけだね。それで、マタイ24:44を大患難の到来のこととしたのかな?」

「3節が面白いです。まず“反対がある中で裁きについての厳しいメッセージを伝えなければいけないとしたら,どうでしょうか。(啓 16:21)”とあります。引照聖句には“大きなひょう”がでてきます。これがJWが行う厳しいメッセージをあらわすという珍解釈ですが、それを行うためには忍耐が必要と言っています。」
「“兄弟姉妹が持ち物を失ってしまったとしたら,どうしますか。(ハバ 3:17,18)思いやりがあるなら,必要な物を喜んで分け合うことができます。”とあるけれど、これは無理があるね。引照聖句は大患難にも仲間限定の思いやりにも関係ないよ。」

「そして、“諸国家の連合体からの攻撃を受けて,仲間と狭い所でずっと一緒に過ごさなければいけないとしたら どうでしょうか。(エゼ 38:10-12)強い愛があるなら,そうした大変な時を乗り切ることができます。”と締めくくります。」
「諸国家の連合体がJWを攻撃するという妄想はいいとしても、狭い所で一緒に過ごすのを乗り切るために、強い愛が必要というのは笑えるね。JWはよっぽどお互いが嫌いなのだろう。」

「忍耐、思いやり、愛の3つを登場させるために、無い知恵絞って作った話のように思えます。引照聖句は大患難と関係ないですよ。」
「狭い天井裏や、地下室に潜んでいるというイラストはこの記事の中にも使われている。これがお気に入りのようだけど、子どもに不必要な恐怖心を植え付ける点で有害だね。小さな子どもに対する配慮がないのがJWだ。」

「5から8節が“忍耐力を鍛える”です。 鍛える方法①は6節の“私たちも,聖書や出版物に載せられている手本を学んでじっくり考えるなら,忍耐することができます。”です。こんなことでは鍛えられませんよ。」
「翻訳が手抜きなんだよ。We too can endure if we regularly study examples of endurance in God’s Word and in our publications and meditate on them.で、聖書とJWの出版物の中の忍耐の手本を定期的に学び、黙想するならば忍耐できると言っている。」

「聖書と出版物を同列に扱う点で、JWは聖書を軽く見ていますよね。」
「聖書はJW出版物の単なる権威付けにすぎない。だから自分たちの教義に合わせて聖書の翻訳を変える。」

「6節には家族からの激しい反対を耐えた姉妹の話が出ていて、“ヨブについて学んで,とても感動しました。(中略)ヨブについてじっくり考えると,自分の問題はそれほど大きくないと思えるようになりました。”と言っています。ヨブ記は感動するものですか?」
「単に苦難に絶えた偉人の物語として読んで、カンドーした!と言っているだけじゃないかな。ヨブ記は知恵文学というジャンルの作品で理屈っぽくて、感動するものではないよ。」

「7節では“忍耐力を鍛える別の方法は,真剣に何度も祈り,心配事をエホバに打ち明けることです。(フィリ 4:6。テサ一 5:17)”とあります。祈りはなんにでも効く万能薬です。」
「これもよくわからないね。祈ると忍耐力が増す根拠はなんなのかな?引照聖句はそんなことは何も言っていない。説得力ないね。」

「8節にはミラ姉妹の話が出ていて、“エホバから離れちゃだめだ。これまでエホバのおかげでいろんな問題を乗り越えてきたんだから,それを無駄にしちゃいけない。”と自分に言い聞かせるのだそうですが、これは埋没費用(サンクコスト)の誤謬という思考の誤りですよ。」
「埋没費用とは、すでに発生した、将来的に回収できる見込みのないコストのこと。すでに支払われており、回収の見込みがなく、それ自体が変化することがないため、将来の方針を決めるに際して通常は考慮しない。それなのに、うまくいきそうもない計画に、過去にこれだけお金を使ったのだから、それを無駄にしないためにもこの計画は止めるべきではないという人が出てくる。そしてさらにお金を無駄にする。これが埋没費用の誤謬だね。」

「つまり、JWとして過去にどれだけ時間とお金を無駄にしたとしても、それは戻ることはないので、将来について決めるときにJWとして無駄にした費用を考慮すべきじゃないわけですね。」
「JWには“損切”という言葉はないようだね。この記事では“それを無駄にしちゃいけない。”とJWという損ばかりの人生を続けるように仕向けている。将来のことを決めるのに、過去に支払った費用を重視すると、泥沼から抜け出せなくなる。組織はそれを狙っているんだろうね。」

「9から12節は“思いやりを示す”です。 具体的に推奨されているのは、10節では“例えば,救援活動に参加できるかどうか長老に尋ねることができます。世界的な活動のために寄付することや,被災している仲間のために祈ることもできます。”とあります。」
「これって、大患難とどう関係するの?大患難のときに救援活動とか寄付ができるの?大患難を口実にして、無給の労働力と現金を要求しているだけ。」
「災害と大患難は違いますよ。意図的に混同させようとしていますね。本気で大患難に準備しようという気持ちがないことがわかりますね。」

「11節で“災害の時に思いやりを示すなら,私たちの行動は人々の目に留まります。”といっている。目立つところで祈るのを好むパリサイ派そのものだね。」
「救援活動でJWの宣伝をせよということですね。それを思いやりと呼ぶ価値観がおかしいです。」
「11節では“世界中のほとんどの人は,エホバのことをよく知りません。でも,エホバの証人がどんなことをしているかはよく見ています。私たちが思いやりを行動で表すなら,「憐れみ深い神」であるエホバに引き寄せることができるのです。”とある。統治体の頭の中にあるのは、救援活動ではなく、災害を利用した宣伝で、信者が増えることのようだ。」

「13から16節が“愛を強める”です。 13節に“パウロは「互いを迎え入れてください」と勧めていました。(ローマ 15:7を読む。)ここで「迎え入れ[る]」と訳されている言葉には,人に優しく接し,家に招いたり友達の輪に入れたりするという意味があります。”とありますが、これは正しいのですか?」
「引照聖句は“キリストが皆さんを迎え入れてくださったように,互いを迎え入れてください。”で、英文はSo welcome one another, just as the Christ also welcomed youだ。迎え入れるはwelcomeの訳語だけけど、welcomeは誤訳だろう。Welcomeとしている英語の聖書はないと思うよ。」
「単に、受け入れる、ですね。協会共同訳では“あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。”ですね。JW訳は自分たちの説教に仕えるように訳しているということですね。」

「JWはwelcomeと訳している所を見ると、お互いに家に招待してもてなすような意味と理解しているようだけど、そういうことじゃないよ。」
「引照聖句は、キリストが受け入れたように、お互いを受け入れなさいといっているわけですが、キリストは自分の家に信者を招いて、ごちそうしたなんてことはありませんね。」

「ローマ14:1に“信仰に弱いところがある人を迎え入れてください。異なる意見の善しあしを決め付けてはなりません。”とあり、その後食べ物の話が長々と続く。」
「ローマ14:3で“食べる人は食べない人を見下してはならず,食べない人は食べる人を批判してはなりません。神がその人を迎え入れたのです。”とありますね。」
「ローマ14章のまとめに当たるのが、ローマ15:7で、そこでは信仰の弱い人たちも信仰の強い人たちも、お互いに偏見を持たず、相手を変えようとせずに受け入れなさいと言っている。ホームパーティをしようという話じゃない。」

「13節には“アクラとプリスキラも,キリスト教についてよく知らなかったアポロを自分たちの家に「連れてい」きました。(使徒 18:26)”とありますので、どうしてもホームパーティをしたいようですよ。」
「これは翻訳がヘンだね。引照聖句は“プリスキラとアクラは彼が話すのを聞き,連れていって,神の道をより正確に説明した。”とあるだけで、家に連れて行ったとは書いていない。英文もtaking “him into their company.”だから、家に連れて行ったとは書いていない。」

「日本語の翻訳者が“家に”を付け加えたわけですね。」
「翻訳者が翻訳以上のことをするのはダメでしょう。」

「14節は、兄弟姉妹と友達になろうと言って、アナ姉妹の体験談がでています。コロナ問題の時に“兄弟姉妹とビデオ通話をして,よく知り合いたいと思っていることを伝えました。すると,兄弟姉妹はその愛に心を動かされ,電話やメールをくれるようになりました。”というものです。時代遅れですね。」
「この記事の原稿を書いていた時は、コロナ問題がまだまだ続くと思っていたということだろうね。JWには将来を見通す能力はないね。」

「15節はバネッサ姉妹の話です。“姉妹は,会衆の中のある人たちの個性が気になって,仲良くやっていくのを難しく感じたことがありました。”とあります。しかし、“主人が巡回監督になり,私たちは個性が異なる兄弟姉妹と時間を過ごすことが増えました。今ではそうした人たちの違いを楽しめるようになり,仲良くすることができています。”というものです。これって褒めたたえるような話ですか?」
「この不寛容で偏屈な姉妹は、巡回監督の妻というJWの女性の中では高い地位についたから、周りがこの姉妹に合わせてくれるようになっただけでしょう。それがわからないバカな姉妹としか思えないね。」

「自分が個性豊かな姉妹たちの悪口の対象になっているのも気づいていないでしょうね。」
「巡回監督の定年までに、巡回監督の権限を利用して会衆からあくどく金を集めないと悲惨な老後が待っていることにも気づいていないだろう。」

「16節が、新解釈の登場です。“古代バビロンが攻撃を受けた時にエホバがどんな指示を出したか考えてみましょう。こうあります。「私の民よ,行って,奥の部屋に入り,扉を閉めなさい。少しの間,隠れていなさい。憤りが過ぎ去るまで」。(イザ 26:20)この言葉は私たちにとっても大切です。大患難が目前に迫っているからです。この「奥の部屋」は会衆を表しているようです。”とあります。全て間違っていると思います。」
「“この言葉は私たちにとっても大切です。大患難が目前に迫っているからです。”とは言っていない。It seems that those words also apply to us who will face the great tribulation.とあり、これらの言葉は大患難に直面するであろう私たちにも当てはまるようです、と言っているのだけれど、翻訳者はとてもそうは思えないので、”大切です”と変えたね。」

「イザヤ26章はバビロンが攻撃を受けた時の話ですか。どこにそんなこと書いています?」
「26:1-19がひとまとまりで、神に対する賛美と嘆願の詩。26:20以降がそれに対する神の応答という構成。引照聖句の26:20は出エジプト12章にある“過ぎ越し”をほのめかしていると通常は解釈される。」
「出エジプト12:22に“鉢に入れた血にヒソプの束を浸し,その血を戸口の上部の横木と2本の柱に付けなければなりません。朝になるまで誰も家の入り口から出てはなりません。”とありますね。」

「それなのに“この「奥の部屋」は会衆を表しているようです。”と言っている。根拠は示されていない。」
「英文ではThe “inner rooms” may refer to our congregations.ですから、会衆をあらわしているかもしれません、と訳して欲しいです。」
「イザヤ26章は現代のJWとは何の関係もないよ。でもJWなら、奥の部屋はJWが隠れる地下室をあらわしています、皆さん地下室を作りましょうとか言い出しそうだね。」

「最後の17節が“今,用意をしておく”です。 まとめです。忍耐、思いやり、愛が再び登場します。」
「大患難のために用意となるような具体的な指示はなかったね。記事のタイトルと合致していないよ。出エジプトの時みたいに具体的に、羊の血を戸口に塗れとか指示して欲しいと思っている信者はたくさんいるよ。」
「具体的な指示がない方がいいですよ。地下室を作れと言われても困りますからね。組織は本気で大患難が来るなんて思っていないということですよ。」

「最後は“私たちが永遠に生きられるようにしてくださいます。(イザ 65:17)”でおしまい。これ以外に信者を走らせるために信者の目の前にぶら下げるニンジンはないようだね。」
「そのニンジンはだいぶしなびてますね。」

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