英国のチャールズ・ダーウィンと重なる時代、フランスのジャン・アンリ・ファーブルは当時話題になっていた”進化論”に関して批判的な立場の文章を書き残しています。ファーブルは日本では「ファーブル昆虫記」でよく知られており、児童用の絵本や伝記で多く用いられています。
しかしキリスト教の伝統的な”創造論”の中でファーブルの主張が用いられることはそれほど多くはありません。その理由としてはファーブルの主張が必ずしも聖書的創造論にとって好都合とは言えないという点があるかもしれません。聖書は”人間の堕落”あるいは”ノアの洪水”以降に人間の罪のせいで弱肉強食が起きてしまったという設定がされているのに対して、ファーブルは弱肉強食、捕食者と非捕食者、そしてそれに付随する本能が最初から組み込まれていたという点を強調しているからです。
さらにクリスチャンの創造論の中であまり利用されない理由はファーブルの進化論批判自体が現代の進化に対する理解の面で時代遅れを感じさせるからとも言えます。(ファーブルが幾つかの箇所で批判の対象にしているのはチャールズ・ダーウィンの著書に対するものではなく、ファーブルより100年も前のエラズマス・ダーウィンの著書に対してです。)
進化論批判の要点
ではファーブルの進化論批判の中の一つの要点を見てみましょう。この部分は現代の進化論も対象になっています。日本では「ファーブル昆虫記」として翻訳されている岩波文庫の第三巻のなかでファーブルは「進化論へのお灸」と題して一つの章を割いています(*1) 。8ページほどになりますが、要点は至ってシンプルなものです。
ファーブル昆虫記〈3〉 (岩波文庫) 15章 進化論へのお灸
簡単に説明すると次のようになります。狩りバチには多くの種が存在するが、その幾つかは極度の偏食(狭食性あるいは単食性とも呼びます)である。それらの種は共通の祖先をもっていて本当に”進化”してきたのなら、なぜそのような偏食が生まれるのか。一番強者になれるのは選り好みをしない雑食であるはずだ。彼らは種ごとに特定の昆虫ばかりを餌にする偏食になっているのは言ってみたら馬鹿でしかない、もし選り好みしない昆虫から偏食に変化したと仮定してもそれはただの馬鹿になったにすぎないし、特定の偏食から別の偏食に枝分かれして移り変わったと仮定しても何も”進化”とは言えない。そもそも偏食が”進化”で生まれるはずがない、であるから”進化論”は間違っている…
ファーブルは狩りバチの偏食という習性を擬人化描写の皮肉をこめた例え話で語ります。人は自分が知っている事柄に関連付けられた擬人化された例えとして語られると、本論の概念を理解する助けを得ることができます。しかし肝心の例えの土台部分の前提が間違っているならその例え話は全く意味をもたなくなります。ファーブルの場合、その例えの肝心な部分で誤りを犯しています。
その点を説明する前に、ファーブルがどのような点を述べていたのか具体例を挙げます。
狩りバチの偏食(狭食・単食)とは
具体的に狩りバチの偏食とは、以下のように各ハチの種によって餌にする昆虫が異なるということを意味します。
クモを餌にするベッコウバチ
アオムシをターゲットにするジガバチ
キリギリスを主に狙うタイプのジガバチ(巣穴の手前に餌を置いている写真)ファーブルは同じジガバチでもコオロギばかりを狙う種とキリギリスばかりを狙う種があることを指摘しています。
写真はWikipedia「Hunting wasp」から
このように狩りバチはそれぞれの種で特定の昆虫を餌に狙うという極度の偏食性をもちます。狩りバチに限らず昆虫類はそのような偏食性が強い生物です。鳥類や哺乳類は偏食は少なく臨機横転に餌を選ぶことができます。それに比べると昆虫は極度なまでの偏食性をもつと言えます。この点はファーブルの観察した通りです。
的外れな例え
ファーブルはハチの偏食に関する擬人化した例え話は以下のように始まります。
ここでファーブルは”進化とはこういうものであるはずだ”という前提を人間の感覚を土台にして語りますが、それは ── つばめなどの鳥類は動く虫なら何でも食べる、さらに人類は新しい料理を開発して生き残ってきたではないか、人類に当てはまることは昆虫にも当てはまるはずだ ── というものです。
ファーブルは昆虫が鳥類や人間と同じような脳をもつかのように同じ土俵にのせています。しかし人間および鳥類の脳と昆虫の脳は異なります。また体の作りにも大いに異なっています。つばめにとって”何でも見つけた昆虫を食べる”という行為にはコストもなければ、リスクもほとんどありません。消化器系が発達している鳥類にとって動く昆虫を何でも食べる習性を持つことは、かなりの高確率で生存に有利になります。さらに鳥類には記憶と学習の能力を併せ持った脳を持っており、過去に失敗した食事から学習して次の捕食行動に生かすことができます。ですから脳や体が全く異なる”つばめ”をハチと比べたり、さらには食べられないものを”調理して”新たな食物に加える適応性をすでに持っている人間とハチを比較することは全く的外れなことです。
では昆虫にはどのような特徴があるでしょうか?昆虫の脳は大きさも機能も限られているため、昆虫には鳥類や哺乳類に見られる応用力が欠けています。それは次の実験からも理解できます。
ささやかな知のロウソク – リチャード・ドーキンス「怠け者よ、アナバチのところへ行け」の章から
「狩りバチが獲物をもって巣穴に戻ってきたとき、それをすぐには地中に引き込まない。 そうではなく、入り口の近くに獲物を置き、それから手ぶらで巣穴に入っていき、ふたたび姿を現し、それからやっと獲物を引き込む。 これは、獲物を引き込む前に障害がないかどうかをおそらくチェックしているのだろうという考えから、巣穴の「点検」と呼ばれてきた。これは再現性の髙い実験で確かめられた発見であるが、ハチが巣穴に入って「点検」しているあいだに、実験者が獲物の位置を数インチ動かしてやると、ふたたび姿を現したとき、ハチはその獲物を探す。そしてそれを見つけると、まっすぐ巣穴に引き込む代わりに、もう一回「点検」をおこなうのだ。実険者かこの嫌がらせを継続して数十回繰り返してみた。その都度、「愚かな」ハチは、自分がたったいまその巣穴を「点検した」ばかりで、したがってもう一度繰り返す必要のないことを「覚え」られなかった。」
一つの行動にとらわれた昆虫の習性は人間の基準で判断すると「愚かな」習性に見えるかもしれませんが、狩りバチの立場からすると限られた脳のポテンシャルで最大の能力を発揮しているとも言えます。極端な偏食は哺乳類や鳥類を基準にすると、生存に不利で”馬鹿な”習性に見えるかもしれません。しかし昆虫の中では極端な偏食が最もコストが低く、かつ最大の能力の発揮につながっているとも言えるのです。
さらに偏食性の強い狩りバチ(狭食性)と、偏食性が弱い狩りバチが存在しています(*2)。どのハチもその環境の中では最も適応しているという共通点があります。フランスの狩りバチと日本の狩りバチは同じではありません。餌にするバッタに変異があれば狩る側のハチにも変異が見られます。ある地方で緑色のキリギリス”専門家”の狩りバチが見られる場合、そのような地方では緑色のキリギリスが常に存在していたということを意味します。そして恐らく茶色のコオロギ”専門家”のハチもすでにそこにはいることでしょう。人間の観点からすると、緑色のキリギリスと茶色のコオロギも両方をターゲットにするハチが一番有利なのだから、そのようなハチにすべてのハチが”進化”していなければおかしいと考えるかもしれません。しかし2種類以上の昆虫をターゲットにする昆虫は1種類をターゲットにする”専門家”より有利になるとは限りません。なぜなら学習能力や判断能力が欠けている時点で2種類の昆虫をターゲットにすることは進化論上、より多くのコストを払うことになるからです。
昆虫の進化
ファーブルの時代やその時代以降にも多くの人が昆虫の観察を熱帯アマゾンや孤立した島々などで行いました。彼らは昆虫の多様性から、むしろ進化論の正しさを導き出しています。イギリスのヘンリー・ベイツ(1825年-1892年)やドイツのフリッツ・ミューラー(1821年-1897年)など世界を旅行して昆虫の生態を観察した学者は皆進化論を支持しています。同じく昆虫を含めて生物の生態を調べたイギリスのアルフレッド・ラッセル・ウォレス(1823年-1913年)もチャールズ・ダーウィンと時を同じくして、ほぼ同様の結論に達しています。
彼らは熱帯アマゾンや孤立した島々で、それぞれの地域や島で固有の種が存在することを発見しています。それらは例外なくそれぞれの土地に環境に適応した擬態や食性を持っています。それらの多様な昆虫がいつどのように枝分かれしたのかを正確に言える人はいません。しかしそれぞれの地域や島で適用しながら多様性を見せている昆虫の生態はそれぞれの土地で進化が実際に起きてきたことを示すのには十分です。ファーブルの”進化論”に対する”お灸”は現代の進化論に対して致命的な問題を何も提起してはいません。
今後、昆虫の進化の事実と根拠については別の記事で取り上げる予定です。関心がある方はご自分で以下の本をお読みになることをお勧めします。
・「進化とはなんだろうか」長谷川眞理子著 101~108ページ
種分化のメカニズムについて具体例をあげて説明しています。昆虫の中で「同所的種分化」がなぜ起きやすいのかなど興味深い説明があります。
・「擬態の進化」大崎直太著 14、17ページ
ベイツ型擬態など昆虫の中に見られる進化の証拠について書かれています。
記事の終わり
*1 英文では「More Hunting Wasp」という別冊になっており、8章が該当する章になります。
*2 「スズメバチの採餌習性」(外部リンク)
最新のコメント
caleb
"オオカミの子供が永久凍土から発見されて、その胃の中から14,000年前頃に絶滅したケブカサイの皮が見つかっています。 https://www.sciencealert.com/puppy-preserved-in-the-permafrost-ate-a-chunk-of-one-of-earth-s-last-woolly-rhinos 他にも人類の出現前には絶滅した恐竜の化石の中には胃の中にあるトカゲが一緒に化石になって発見されてもいます。 客観的な証拠は聖書が示す人間の歴史よりもずっと昔から肉食動物は獲物を探して生きていたことを示しています。 古代の動物が「何を食べていたか知りたい」とのことですが、肉食動物は古代から肉食動物であったことを示す 証拠は多くあります。 それらの証拠はなぜ受け入れないのでしょうか? 数千年前のノアの洪水の前に、すべての動物が草食であったという話は、何の根拠もない空想の話にすぎません。 "
山猫
"ノアの大洪水の可能性は、ゼロだと言い切るのは無理があると思います。逆にそこまで否定するのには、何かあるのかな、と思ってしまいます。洞穴ライオンの発見から既に7年、8年経ちますが、研究結果を報告しません。胃の中の物を調べれば何を食べていたか分かる、と研究者は言っていました。なのに全然音沙汰が無い、何を食べていたか知りたいのです、世の中に公表出来ないのでは?と思ってしまいます。 "
あるぱか
"僕が見た子供向けの絵本にも「船という漢字の中にノアの大洪水の歴史が記録されているんだよ」的なことが書いてあって、なんで日本の漢字に全く関係ないイスラム?ローマ?のことが入ってんだよwって思ったけどほんとに合ってて草。他にも無菌状態で培養液入れても生物は発生しなかった=進化論は否定されたとか言う謎理論も噛ましててビックバンとか諸々はどうしたw(適当に言ってるだけだから間違えてるかも())とか、こういう本は間違い探ししてる分には楽しいですねwただ子供とかこう言うので刷り込まれそう。昔言ってた教会でもしれっとこんな本渡されてたんで宗教って怖いなって思いましたまる(皆がこんなガバガバ理論だとは思ってないですけどこの本の作者さんはあとがき見る限り上に上げた理論?を本気で信じてそうで怖いなって思ったのでコメしました。超長文失礼しました "
caleb
"質問の要点部分にお答えいたします。 >calebさんの生き方の中に、真の喜びと希望と平安は有るのでしょうか? 普通程度にあります。 誰かと比べてどうかという話ではないですが、 わたしが見てきた範囲では クリスチャンとノンクリスチャンにおいて 喜び、希望、平安の度合いにおいて差はほとんどないと思っています。 クリスチャンが優位になる場合は、人が病気で死に直面している場合、 あるいは他の絶望的な境遇に直面している場合など、幾つか考えられます。 しかし生まれてから死ぬまでの日本人の平均的な人生を総合的に見ると、 死後の命の教理(そして死後の裁きの教理がもれなくついてくる) への信仰が人に対して 喜び、希望、平安を持たせる面で 大きな役割を果たしてきているとは思えません。 最後に 科学に対して「過信をする事も禁物です」という点ですが それは全くその通りで、クリスチャンが聖書や神の存在に対して 同じ程度に冷静になれれば、聖書の中の間違いを認めるのも ずっと容易になるかと思います。 "
鈴木 志
"今日は、私はエホバの証人でも無く、どのような宗教団体にも属さない一人のクリスチャンです。 殆どの記事を読ませていただきました。大変の詳しいのにびっくりしました。私の見解と異なるものが多くあるものの、それに対して反論の術のないものもいくつかあります。私もいろいろと調べましたが、結局のところ科学と言うものには限界が有り、全ての事象を正確に説明する事は出来ないと言う事です。 科学をまじめにやっている方ほど、「科学はOOは正しい、とは断定してくれません。科学的に正しい、科学的に証明されていると言うフレーズを使うのは、科学の事を良く解っていない人か詐欺師かのどちらかでしょう。」とまで言っています。例えば京都大学理学・研究科・理学部でも、「科学的に正しいは、絶対的真実と言う事ではありません。」とコメントしています。科学は決して軽んじてはなりませんが、100パーセントの正しさを保障してくれるものでもありまんので、過信をする事も禁物です。 質問をしたいのです。calebさんにとって自分の人生とは一体何ですか?自分とは何ですか?人間の命の尊厳はどこから来るのですか?死に対して真っ正面から向き合えますか?死に対して勝利の叫びを持って望めますか?死の先に希望は有りますか?calebさんの生き方の中に、真の喜びと希望と平安は有るのでしょうか。「主イエス・キリストを信じる私には有ります。」 "