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#551 2017年03月16日 14:27:11

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

#561の続きです。

-無誤性は聖書的か_その2-

二つ目の目的は「神の人が、すべての良い働きのために
ふさわしい十分に整えられた者となる」ことです。
「神の人」とは「神に属する人」の意で、
キリストの救いを受けたクリスチャンのことです。
「すべての良い働き」とは、
クリスチャンそれぞれが神から託されている使命のことです。
クリスチャンがその使命を果たすには、
「教えと戒めと矯正と義の訓練」が必要です。
これら四つの意味の違いについては説明を省きますが、
類似した四つの言葉が繰りかえされているのは、
クリスチャンの使命遂行には「熟練工のような厳しい
訓練を旧約聖書から受けねばならない」ことが暗示されています。
(ローマ15:4、Ⅰコリント10:1-13)
実際、初代のクリスチャンたちは、
旧約聖書を「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために」用いながら、
自分の働きを展開しています。
(使徒1:16、1:16、2:16、13:40など多数)

この聖句について、
さらに二つの大切なことを付け加えておきましょう。

一つは、パウロがここで言及している聖書は、
テモテが幼いころから親しんできた(Ⅱテモテ1:5)
「ギリシャ語訳旧約聖書(七十人訳聖書)」だったということです。
福音派はしばしば、この聖句に基づいて論じながら、
「霊感された原典ヘブル語聖書」のことを問題にします。
パウロはここで翻訳された聖書について言及しているのですから、
その議論がおかしいことは明らかです。
二つ目は、この聖句は「聖書の霊感」について述べていますが、
「誤りがない」とまでは述べていないことです。
ペテロも「聖霊に動かされた人たちが、
神からのことばを語った」(Ⅱペテロ1:20,21)と、
聖書の霊感について言及していますが
(「動かされる(ノェロメノー)」とは「運ばれる」が原義で、
聖霊が主導権をもって神のことばを語らせたことを示唆する)、
「誤りがない」ことには触れていません。
結局、「誤りがない(無謬であれ、無誤であれ)」という概念は、
聖書が直接説いている教えではなく、
聖書の霊感と権威を擁護するための「神学的な告白」なのです。

オフライン

#552 2017年03月17日 13:55:09

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

#564の続きです。
みなさんもご存じのようにJW組織は聖書に誤りがないことを
証明しようとして、学術文献を文脈から切り離して
まったく異なる意味を説明しようとすることが非常に多いです。
そういう意味では聖書の「無誤性」を強く証明しようと
しているグループの一つと言えるでしょう。
そのような教育を受けてしまい、聖書には誤りがないと
思い込まされてきたわたしたちが、聖書について
どのように考えることができるか参考にできます。
いただいたコピー文書最後の部分です…。

-無誤性は聖書的か_その3-

最後に、私は聖書の霊感と権威を固く信じる者ですが、
「無誤」という用語は使わない方が賢明だと思っています。
その理由は四つあります。
まず、もし「無誤性」を主張すると、
「聖書に出てくる様々の矛盾(これを「聖書の現象」と言います)」に対し、
様々の詭弁を弄しながら弁護しなければならなくなります。
第二に、
「無謬性」という言葉は福音派内に無用な混乱を招いた歴史を持ち、
否定的なイメージがつきまとっています。
そして第三は、
権威は神にのみ帰されるべきもので、聖書の無誤性ではないからです。
パウロは「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、
神によって立てられた」(ローマ13:1)と述べています。
イエスも同様です(ヨハネ19:11、マタイ28:19)。
クリスチャンは聖書ではなく、
聖書を与えた神ご自身に権威を置かねばなりません。
最後に、「聖書は物語」だからです(この点については後でふれます)。
物語には、無誤か無誤でないかといった議論は意味をなしません。
プロテスタントは伝統的に、聖書の権威を擁護するのに
「無謬性」という用語を使ってきました。
従って,様々な問題をはらんでいる
「無誤性」という言葉を使う必要はありません。
しかし最近の福音派の学者たちは、もっと賢い表現を提唱しています。
詩篇119篇の作者のように、
「真理」「まこと」「真実」などの積極的な言葉を使うことです。
イザヤは「私たちの神のことばは永遠に立つ」(40:8)と述べていますし、
イエスもまた「あなたのみことばは真理です」(ヨハネ17:17)、
「すたれることはありません」(マタイ5:18)、
「減びることがありません」(マタイ20:35、マルコ13:31)、
「廃棄されるものではない」(ヨハネ10:35)などと、
積極的な表現を使っています。

オフライン

#553 2017年03月19日 18:37:33

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

#562の補足事項です。

中沢啓介氏の著作を公開することについてです。
わたしは氏の信奉者ではありませんし、
中沢氏もN/T/ライトのファンではないとおっしゃっていました。

わたしが、聖書を物語として読むことに感動し、
納得しやすい論議であることを出席者の前で述べてから、
著作をWeb上などで公表する許可を求めたのですが、
そのときのご返事は「自分は公人なので名前を公表することはかまわない、
著作物も自由に使ってよい。質問があれば、ここに来てくれれば、答える」
ということでした。「ここに来てくれれば」というのは
おそらくJWTCに出席して質疑応答することか、
あるいは、氏に対面し直接質問することでしょう…。というのは、
メールでは答えられないというコメントがあったのです。
最近、JWTCのサイトに1,000単位のアクセス数があり、
急上昇しているということでした。
たった一人の人間が、1,000人単位の事細かな質問事項に
返信することは物理的に無理なことは、だれでもわかりそうです。

だから、どうしても質問したいことがあるのでしたら、
それなりの努力が必要だということですね…。

オフライン

#554 2017年03月21日 16:40:31

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

#565の最後の部分で
マタイ20:35が引き合いに出されていますが、
わたしの所蔵している聖書で確認したところ、
その節は存在しませんでした。愛嬌かもしれません…。
機会があったら著作者に確認しようかと思っています…。

オフライン

#555 2017年03月24日 18:00:35

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

「N/T/ライトの神学とは」はクリスチャン新聞に
61回にわたり掲載された中沢氏によるライトの主張の要約です。
エホバの証人とかかわったわたしたちは「神学」と聞くと
なんだかバビロン的な響きを感じて警戒心が
湧き上がってくるかもしれませんね。
でも、それほど心配する必要はありません。
「神学」というのは「神(GOD)」あるいは「神(a god)」に
関する研究であると説明されていました。
エホバの証人であっても、洞察の本など神に関する
項目はたくさん記述されていました。特に「エホバ」については…。
だから、別の方面から神や聖書に関する説明を聞くことができます。

実のところ、クリスチャン新聞のコラム記事をコピーされて、
61ページ分を300円で二組購入したのです。
スキャンしてOCRで読み取ることを試みたのですが、
コピーされた文字が不鮮明でPDFからメモ帳にコピペしたとき、
文字化けしてしまって何が何だか全く読めなかったのです。
だから、コピーを見ながら文字入力しました。
どの程度できるかわかりませんが、できるだけご紹介するつもりです…。

編集者 ラハム (2017年03月24日 18:56:50)

オフライン

#556 2017年03月24日 18:02:11

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

-16 (1)-
第二章 聖書について 聖典の権威の源はどこにあるのか?

キリスト教界は、いつの時代であっても、
聖書を土台に信仰や教理、神学を構築してきました。
プロテスタントのほとんどの教派では、
「聖書は神の霊感によって記された聖典であり、
信仰と生活の唯一の規範である」と告白しています。
では、聖書はそもそもどのような書物なのでしょうか。
なぜ神の権威をもつ書物なのでしょうか。
聖書をどのように解釈するのがよいのでしょうか。
ライトはどのように考えているのでしょうか。
従来の福音派が主張していることと、違いがあるのでしょうか。
ライトの語ることを聞いてみたいと思います。

1. 聖書は「神の物語」
すべての民族や社会は、生きていくにあたり、
様々な疑問にぶつかりました。
この世界は、なぜ、どのようにして出来上がったのか。
この世界はどのような構造をしているのか。
どのような意味や目的があるのか。
人間とは何者か。永遠の世界は存在するのか。
神とはどのような方か。
神はお一人か、たくさんいるのか。
普段は何をしているのか…。

それぞれの民族や集団は、この種の質問に対し、
彼らなりの答えを見出してきました。
そして、通常は仲間内において、
それを物語の形式で世々に伝承してきました。いつの時代でも、
どこの世界でも、誰でも理解できる普遍的な伝達形式は物語です。
物語は大抵は宗教的な意識や装いをまとっていました。
それが宗教の起こりでもありました。
近代合理主義の時代には、
そのような問題を解明する「宗教学」が発展しました。

キリスト教の聖典である聖書も、
そのような宗教的な背景をもつ文書の一つと見なすことができます。
ユダヤ民族は、古代中近東の様々な民族や国家の中で誕生しました。
この世界の創造者であるヤハウェなる神は、
アブラムという一家系を呼び出し、
唯一の神の宗教国家を形成しようと目論まれました。
しかも神は、その中からある人々を「神の器」として選び、
神ご自身が意図された「創造と贖いのご計画」を、
ご自分の民に明らかにされました。それが聖書です。
ですから、語るように選ばれた人も、そして語られた神の民も、
神のご意思をよく理解できたはずです。ということは、
神は、彼らが日常使っていた言語や表現様式を通して語られた、
ということに他なりません。

オフライン

#557 2017年03月27日 11:16:12

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

#569の続きです。

-16 (2)-
第二章 聖書について 聖典の権威の源はどこにあるのか?

ところで、聖書はこのような特殊な性格をもつ書物ですから、
他の宗教的な文書と全く同じ類の書物とはいえません。
それは、人間を超えた神が「息を吹きかけられ」生み出された文書です。
(テモテ第二3:16)。
聖書の著者は神であり、神がその書物を集め、
聖典として教会に与えられました。しかし、ある人々は、
「聖書の各書物を結集し、聖典として承認したのは教会だから、
聖書の権威は教会のもとにあり、
教会の権威の方が上である」と主張しています。
特に、教会の伝統を重んじるカトリック教会には、
このような考えが強く見られます。

さらに、ニュアンスは全く異なりますが、
ポストモダンの懐疑主義者たちもまた、歴史的経緯を重要視し、
社会的なパワーゲームの理論を基に、同じような考え方をしています。
しかし、彼らの理屈には根本的な欠陥があります。
例えば、兵士が上官から手紙によってある命令を受けたとします。
手紙の配達者は、その手紙を上官から受け取り、宛先人の兵士に届けます。
このプロセスを見て、兵士は手紙の配達人から命令を受けたと
理解する人はいるでしょうか。教会の権威を上に置く人は、
同じようなことをしているのです。

新約聖書の聖典化のプロセスは、
「使徒的権威の認められるものが集められた」と、
ひと言で片づけられるような簡単なものではありません。
新約聖書のそれぞれの書物は、
神が歴史において着々と実現している「神の物語」のフレームに沿いながら、
聖霊の働きをとおして、記されたものです。初代のクリスチャンたちの中には、
ローマ皇帝の権力による迫害を受け、逮捕され、投獄され、
殉教する道をたどった人々がたくさんいました。
彼らが神の贖いの恵みの中で生かされ、読み続けてきた書物が聖書です。
マタイやマルコの福音書を読み、パウロの手紙を読んで信仰に生きていたのです。

懐疑主義者たちの中には、トマスの福音書の方が四福音書より古いと考え、
聖書以上に権威があると主張する人がいます。
しかし、それは極めて不正確な歴史認識です。トマスの福音書を
読んで命をかけた信仰者は一人もいません。
聖書は、この世界に神の国を生み出す原動力になった書物です。
そこに聖書の権威があるのです。

オフライン

#558 2017年03月28日 12:07:01

ルツとリカ
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

お久しぶりの書き込みです。
4月から忙しくなって書き込みにくる余裕がなくなると思うので、、、

ツイッターで、虹はなぜあのような形なのか、なぜ人間は虹の足元にさえ近づけないのか、不思議だと言っている人がいました。
人生残り40年ほどのうちに理解したいと。

私は「クリスチャン時代に聖書で読んだことがある」と言ってノアの日の大洪水のエピソードをその人に話してあげました。

彼は、「へぇ。神様は粋なことをするんだね」と言っていましたが、虹の構造や神秘を物理学的証明だけではなく、なぜ虹を見ると人は感動するのか、虹を考えたのは誰なのかを「心で理解したい」のだと言っていました。

それと、今回は栃木の春山登山で事故に遭った高校生が残念な結果になりました。
東大の教授はそのことについて、ご自身の登山事故の経験を話し、「山にはもう登ってはならぬ」という声が聞こえたと言います。
その声がどこから聞こえたのかは分からないが、間違いなく「何か大きな存在からくる警告の声だったに違いない」と話していました。

我々JWは、それを「エホバ」という固有名詞を持つ神だと教えられ信じてきました。
聖霊の力、み使いの力など色々教わりました。

今はそれらについて考えると結局宗教臭く感じて白けてしまうので(笑)、固有名詞だの何だの具体的に探りたいとは思いませんが、無神論は否定します。

組織には二度と戻りたくありませんが、学んだことで実際に役立ったり心が納得できることもたくさんあるのですね。

虹の答え、私も知りたいなぁ。

#559 2017年03月28日 13:09:26

ラッピー
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

ルツとリカさん

ステキな投稿ですね。涙が出ました。

「頭で理解したい。」ではなくて「心で理解したい」なんて、ステキな人がいるもんですね。

「神とイエスに関する正確な知識」、「真理」などと言われて、ものみの搭のへりくつを散々たたき込まれた私達は「心」なんてどこかに置き忘れて来てしまいました。
そしてその事にさえ気がつかずにいるのです。(現役です)

聖書をハウツー本のように見なし、「答えはすべてここにあります。」と言って搭の論理をたくさん暗記して話せる人が「霊的な人」と讃えられるのです。

何だかね。

#560 2017年03月28日 14:51:46

鬼太郎
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

JW教理特有の、聖書は科学的にも歴史的にも絶対一致する、そんな見方で洗脳されてしまうと、、
聖書を、神様から数千年前の人々にも理解できるように与えれた物語として読み、心で理解することを
忘れてしまいます。
というか、自分で理解解釈することは独立の精神 背教の罪 そんなタブーを叩き込まれたJW達は本当に悲惨ですね。

ラハムさん 続き楽しみにしています。

オフライン

#561 2017年03月29日 08:45:08

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

「虹」についてのお話、とても興味深いです。
でも「虹」ってどうして「虫」がつくのかなあって思いました。

以下の説明を見つけました。

『「虫」はヘビの形を字にした象形文字。
もとはヘビを指すものである。その「虫(ヘビ)」に、
「つらぬく」という意味の「工」を添え、
「大空(天空)をつらぬく大蛇」に見立てた呼び名』だそうです。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/ … 1000166159

漢字の原産地の中国人には虹が大蛇に見えたのでしょうね…。
ルツとリカさんのお話、心温まるものを感じます…。

編集者 ラハム (2017年03月29日 08:46:05)

オフライン

#562 2017年03月29日 09:31:17

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

総合フォーラムのほうで
ノアの大洪水が史実かどうかの激論が続いていました。
それが史実であるかどうか別にして、
「虹」というものの存在を否定する人はいないでしょう。
何しろ、視覚に障害がない限り、すべての人が見られますから。

聖書を物語として理解することを紹介していますので、
大洪水を物語としてどのように考えることができるのか、考えてみました。
まず、見ることのできる虹の存在意義を説明するためではないでしょうか。
大洪水後、神が人類を滅ぼすことを二度としないということを
思い起こすために虹を生じさせると宣言されました。
一般には「虹の契約」と呼ばれているようです。
暑さ寒さ、種まき時や刈り入れ時も絶えないと宣言されています。
神様は人間が悪に向かう傾向のあること、
どうしようもない弱さのあることを認めてくださいました。
その傾向を戒めるための大洪水物語かもしれません。
それでわたしたち人間は虹を見ると平安を感じるのかもしれません。
全地球を水で覆い尽くし、ノアの家族以外は溺死させたというのは
上記のお話に結び付けるための物語かなあと、思いました。

こういうのを「ラハム神学」というのかもしれません。

オフライン

#563 2017年03月31日 13:42:40

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

#570の続きです。

-17 (1)-  第二章 聖書について

堕落から新創造へ向かう「神の愛の物語」

2. 物語の五つのモチーフ

聖書は、万物の創造者なる神が一人の家系を選び、
その家系をとおして全人類に豊かな祝福を注ごうとする
「神の物語(narrative)」です。
下から上へではなく、上から下への物語です。
神がこの世界を愛され、その世界を治めるために
「神のかたち」に造られた人間を限りなく愛され続けているという、
神の「愛の物語」です。
この物語は五つのモチーフから成り立っています。
創造、堕落、イスラエル、イエス、そして教会です。
これら五つのモチーフは、五つの舞台、
あるいは五つのモデルと言ってもよいでしょう。
五つの分類したのは私自身(ライト)です。
それは、絶対的なものではありません。
ある人は、ヨハネの黙示録の最後(21~22章)の出来事を加え、
六つに分類するほうがよい、と主張するかもしれません。
そのように理解しても構わないのですが、
私自身は、新天新地の希望は六番目の最後の舞台というより、
新しい「新創造の物語」の最初の舞台と
位置付ける方がよいと考えています。

またある人々は、
創世記3章しか出てこない「堕落」の出来事を、
特別一つのモチーフとして取り上げる必要はないのではないかと
疑問を呈します。
むろん、創造のすばらしさを奪ってしまう
「悪の起源」について、
一世紀のユダヤ世界に別の考えがあったことを承知しています。
しかしそれでも、聖書物語全体として、創世記3章の堕落記事が
極めて重要な意味を持っていることを強調しないわけにはいきません。
旧約のイスラエルの歴史においても、
人類の堕落という出来事が絶えずつきまとっているからです。

五つのモチーフから成り立っている「神の愛の物語」は、
交響曲に例えるなら五つの楽章をもって
展開されていると行ってよいでしょう。
各楽章が追いかけ合いながら、
最後のクライマックスに向かって進むのです。
それは、完全であった神の創造が人間の堕落によって混乱に陥るが、
イエスの贖いを通して回復への道へと進み、
ついに新創造へと完成されてゆくという「神の物語」です。
イエスはこの世界を滅ぼすためではなく、
回復し新しい世界を導入するための来られるのです。
イエスによる救出劇は、
神の民をこの世界から逃避させるものではありません。
むしろ、ご自身の民を新たなるものに造り替え、
世界に派遣するものでした。

オフライン

#564 2017年04月08日 16:58:11

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

現役のJWにとても多いことです。
何か良いことがあると「エホバからだ」と言い、
何か不都合なことが生じると「サタンだからだ」ということです。
現役のころこうした発言にとても不自然さを感じて、
そんなことを簡単に言ってもいいのかなあと思ったものです。
最近知り合った現役JWはN/Tライトの著作
「クリスチャンであるとは」を読み「悪魔サタン」について
何も書かれていなかったと興奮気味に話してくれました。
実のところ「新約聖書と神の民」はちょっと前に読み終え、
しばらくライトの著作から離れようと思っていたところです。
でも、彼の言葉を聞き、読む気がわいてきました。
「神の民」のほうは普段使わない漢字やカタカナ語が
ひんぱんに出現し、辞書が手放せないほどいでしたが、
「クリスチャンであるとは」のほうはすらすら読めました。
やはり、彼が言うようにサタンについては一言も出てきません。
アーマンさんのほうがサタンについては多かったですね。

やはり、JWは二元論が大好きで、神に敵対する相手を設定して
不完全さの言い訳にしているのかななどと考えてしまいます。
JWでないキリスト教関係者は
サタンのことを気にしないのでしょうか。
あまりにもサタンを相手にしていないような感じです。

わたしは現役のころサタンも多少は気になりましたが、
最近はまったく気にしなくなってきています。
それからエホバのこともですね。
ライトの著作は聖書がどのような書物か
再認識するために読む価値はあるだろうと思っているのです。

編集者 ラハム (2017年04月09日 05:56:28)

オフライン

#565 2017年04月08日 19:17:14

鬼太郎
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

悪魔サタン抜き、、、、、これでショックを受けるのはJWだけかもしれませんね。
常に、会話も割り当ても、、講演も含めて、悪魔サタンは必ず出てきます。
記憶では、悪魔サタンを強調しないのは、家族生活の話くらい、、、。
つまり悪魔サタンの存在はJW教理、JWの話には不可欠、無しでは何も成り立たない、、、
思えば、相当極端な教理でマインドコントロールされていたものですね。

オフライン

#566 2017年04月09日 09:09:17

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

#576の続きです。

-17 (2)-
第二章 聖書について
堕落から新創造へ向かう「神の愛の物語」

この「神の愛の物語」の作者は神でした。
物語の主人公もまた、神ご自身です。
そして舞台は、創造の初めから、古代イスラエル史、
イエス時代を通って初代キリスト教史へと進みます。
聖書の物語は、ここで終わっています。
ところが、驚いてはいけません。
この「神の愛の物語」は、そこで終わるわけではありません。
その物語は、今に至るまでずっと続いています。
しかも、その物語には隠れた主役がいます。
それは、「あなた」です。
聖書を読んでいる「あなた」自身が、
神の物語の主役として抜擢されているのです。
聖書は、過去の歴史物語で閉じているわけではありません。
また、未来の新創造の物語に
勝利のファンファーレを響かせている、というだけでもないのです。
現に今、歴史のまっただ中で苦闘している
「私」、そして「あなた」に、神は傍らで声援を送り続けています。
クリスチャンは皆、神の民として、神とともに働きながら、
神の物語を描き続けているのです。
私たちは、五番目の「教会」という舞台で活動している、
今の時代の主人公です。
その五幕は、イースターとペンテコステをもって始まりました。
そしてその最後は、全被造物の贖いと新天新地の到来で幕を閉じます。
その最後の光景は、ローマ人への手紙8章、
コリント人への手紙第一15章、
黙示録(啓示)21から22章において明らかにされています。

聖書は、神が主導された「神の愛の物語」です。
物語の権威は、語り手である「神」にあります。
さらに、いつの時代の人々にも神からの
深いメッセージを届け続けた「物語」そのものにあります。
その物語は、創造から新創造までのストーリーを
様々な角度から繰り返し語り続けることによって、
読者を異なる世界観に対峙させ、変えていく力をもっています。
それが聖書の権威です。
教会は聖書の権威を巡って様々な論争を展開しました。
しかし、聖書の権威を、語り手なる神から切り離し、
物語のメッセージがもたらす権威から離れて論じるなら、
結局、無益な論争に終始するでしょう。

オフライン

#567 2017年04月14日 15:44:32

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

13年以上箱詰め保管していたものみの塔出版物の
整理を始めてみたら、ブックカバーをしたままの書籍が、
10冊以上あることに気が付きました。
おもにポケット版書籍でした。
カバーだけ残っているものもあります。
どの書籍カバーか思い出せないものもあります。
デラックス版聖書カバーは
チャックで閉まるようになっていますが、
誰かにあげてしまったようで、聖書はありませんでした。
そう、革表紙で、本の小口が金ぴかのやつです。
かっこうよかったですね。

普段、集会や奉仕のとき持ち歩く書籍は、
痛みやすいので、カバーをしていたものです。
JW兄弟でものみの塔専門の
カバーを手作りで製造販売している人と知り合ったので
よく注文していました。

箱詰めされていたので、表面が白っぽくなり、
カビ臭くなっていました。カビは生えていません。
赤・青・緑・茶・えんじ・黒など豊富な色です。
表面をふいて白くなったところをとり、
椿油を手に塗った後、素手で油をすり込むと、
皮の表面がつやつやと光るようになりました。
もう、協会の文書は持ち歩かないので、
ほかの本につかえないかとはめようと試しました。

ものみの塔書籍にぴっちり合うようになっているので、
案の定、使うことができません。
本革ですから捨てるのはもったいないしなあ…。
マウスパッドにはどうかと試したのですが、
でこぼこして動きが悪いです。
何かの敷物につかえると思いますが、
ゆっくり考えましょう…。

作ってくれた兄弟は当時70歳ぐらいだったから、
もう90歳ぐらいになっているでしょう。元気ならです…。
どうしているだろうか、忠実なJWやっているのかな…。
遊びに行くと真っ先に将棋の相手をさせられた…。
ボケていなければいいけれど…。

こうして振り返るとほんとうにものみの塔
信じていたんだなあって思いますね…。
これに裏切られるとは夢にも思わなかった…。
命がけで信じ続けていた人生も
徐々に遠い過去の出来事になりつつあるのでしょう…。

編集者 ラハム (2017年04月14日 15:49:51)

オフライン

#568 2017年04月15日 17:36:59

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

#579のつづきです。

-18 (1)-
第二章 聖書について 私たちにとっての各幕の読み方と意味
3. 物語におけるクリスチャンの位置

聖書は、創造、堕落、イスラエル、イエス、教会の
五つの舞台から成り立つ物語の中に生きている人々を描いています。
イエスのよって贖われたクリスチャンは、第五幕に生きる人々です。
第一幕から第四幕までの登場人物と深い関わりがありますが、
その生き方をそのまま模倣することはできません。
私たちは、第一幕(創世記1から2章)の創造やエデンの園に登場する
「人類の祖」であるアダムとエバを、第五幕に登場する
クリスチャンの創造時の人間像として読まなければなりません。

といっても、クリスチャンや教会が罪のなかったエデンの園に
戻って生きることができるなどと考えてはなりません。
現代に生きるクリスチャンが、創世記一章と二章の世界から
「こうあるべきだ」と論ずることは構いません。
しかしそこには、わずかなヒントがあるだけで、
今の私たちが必要としているものはほとんどありません。
クリスチャンは、エデンの園にモデルを求めて戻ろうとするのではなく、
新創造に向かって変革していくのであり、
神の全体のご計画を知って行動していかねばなりません。

第二幕(創世記3~11章)は、人間の堕落の出来事を伝えています。
そこにはキリストの贖い以前の悲惨世界の姿が描かれています。
現代社会とほとんど変わらない状況を見いだし、驚くでしょう。
しかし、現代のクリスチャンは、既にキリストの贖いを受けています。
第五幕の生き方を、第二幕の世界と同一視することはできません。
たしかに悪はこの世界に満ちています。
しかし、キリストに贖われたものに対しては何もできません。
今や私たちは、勝利者イエスのもとに歩む恵みを備えられているのです。

第三幕(創世記12章からマラキ書まで)は、
イスラエルの歩みを報じています。
クリスチャンはイスラエルの民ではないので、神殿に行ったり、
犠牲をささげたりはしません。律法や預言者のメッセージは、
古代イスラエルの民に向かって語られたものです。
クリスチャンは、第三幕のイスラエルの民をモデルにして
生きることをしません。ただし、ここに難しい問題があります。
第四幕のイエスも同じですが、第五幕で生きるクリスチャンの中には、
ユダヤ人と接触して生きることを余儀なくされた人々がいたことです。
例えばパウロは、ユダヤ教の中で育てられ、
ユダヤ人の仲間とユダヤ教の会堂に入って伝道を展開しました。
ここでは、「ユダヤ人には、ユダヤ人のように」という
行動原理が求められました。この問題は、ガラテア人への手紙第3章や
ローマ人への手紙第4章で扱われています。

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#569 2017年04月17日 16:46:32

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

脱塔分室のほうには視覚障害者のJWに起こった出来事を
書いたわけですが、今回はわたしについて記述しようと思います。

先日行われた記念式の前日、JW長老から記念式に誘われました。
電話口で「雨が降らなければ行きます」と返事したのです。
もしかしたら、「雨降りだったら僕が迎えに行くけど、どう」、
なんて甘い言葉を期待していたのですが、それはありませんでした。
わたしだったら送迎を自分から申し出るところですが…。
わたしも自力で自動車を運転できますから、
王国会館まで自力で行くことは可能ですが、駐車場の問題があり、
王国会館に自動車で行くことは避けています。
だから、電車で行くつもりでした。でも…。
雨降りで傘もささずに駅から15分も車いす移動はしたくないのです。

さて、わたしは現役時代奉仕の僕で、群れの司会者でした。
この群れは特殊な集会だったのです。
それは「午後の群れ」という名称でした。
知っての通りJWの集会は週中であれば午後7時ごろから開かれます。
主婦や幼い子どものいる人がその時間帯に出席するのはたいへんです。
だから書籍研究だけでも時間帯を変更して、
主婦や子どもたちの負担を緩和し、帰宅するご主人たちとの
関係も改善できるような変更が加えられていました。
とても、優れた方策だったと思います。

出席者には80代、90代の姉妹もいましたし、小学生以下の
子持ちの主婦もいたわけで、
その送迎もわたしが自分から申し出てしていました。
この群れの時間設定は素晴らしかったのですが、
裏を返すと働いている兄弟たちはほとんど出席できません。
王国会館はマンションの二階にあり、
外階段から上がってゆく必要がありました。
エレベーターや昇降機などありませんので、通常の集会では、
力持ちの兄弟たちに背負ってもらっていました。
でも、午後の群れのなると背負ってもらえないこともあり、
わたしはその階段を自力で這い上がっていたのです。
ズボンも汚れていいように二重にはいて、
司会するときは汚れたほうは脱げるようにしたのです。
車いすは人間ほど重くないので女性でも運べます。

いま、振り返ると7年以上もよくやって来たと思いますね…。
ガソリン代をもらった覚えもありません…。
でも、理由も説明されず司会者は降ろされてしまいました。
脱塔直前、集会出席が少なくなっても、
群れのメンバーからの電話などほとんどありませんでした。
わたしのはらった努力っていったい何だったのだろうって
よく思ったものです。

JWは自分たち以外を「世の人、世の人」っていい、
自分たちより情の薄いことを強調します。
でも、離れてみるとそんなことはありませんでした。
助けてくれる人も大勢いたからです。
年に一度の記念式なのに
出席するためのサポートの申し出もないなんて冷たいなあって
思うのはわたしだけでしょうか。

前にも、その長老に事情を話したことがあるのですが、
「それは言ってくれなくちゃあ、わからないよ」という返事でした。
わたしとは感性がまったく違うなと思ったものです…。

オフライン

#570 2017年04月18日 15:28:57

1,000時間奉仕者
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

>それは「午後の群れ」

現在のように集会が週二日になり、書籍研究のためにもう一晩確保しなくてもよくなる直前まで、全国各地でこの手の取り決めはありました、数は多くありませんが。

需要は高かったですね、未信者の夫持ちの姉妹たちと学校帰りの子たちの両方を救うために、17:00とか17:30とかが多かったかな。世俗の仕事で昼間が空かない長老たちに代わってペーペーの奉仕のシモベが司会していたこともありました。

私が小学生だったころの昼の群れは閉会後かならずお茶菓子が振る舞われて、それが楽しみだったことを覚えています (^^♪)

よそでも書きましたが大昔、半年ごとの2日間の巡回大会は土曜日が「朝の部(野外奉仕」「昼の部」「晩の部」に分かれていました。当時は週休二日制が一般的でなく、土曜日が半ドンの学校や企業が多くて、授業や仕事を急いで終えて会場に駆け付け、14:00からの部を二時間半、中休みを二時間挟んで晩の部が18:30~20:45、というアーカイブ資料がいま手元に残っています。大会終わったら外は真っ暗だわ。いや~、懐かしい(ちなみにこの頃のプログラムには講演者の名前がちゃんと載ってて、当時の現役宣教者たちや現支部委員を務めるお歴々たちがド田舎の巡回大会に名を連ねています)。

あのころって、ホントに今みたいにガチガチじゃなくて土地や雰囲気によって臨機応変に対応していたよな~と当時をうらやましく思い出しました。

>わたしのはらった努力っていったい何だったのだろう

うーん、こうして問わず語りに経験を分かち合えること、「情の薄い世の人たちばかりじゃないよ」と確たる裏付けを持って話してあげられることぐらいでしょうかねぇ…。ラハムさん、記念式はほんとお気の毒さまでした。

ちなみに今年の式の話は特筆すべき内容はありませんでした。勤務明けでクタクタに疲れていた私は、表象物のワインが隣に届いた瞬間、睡魔に襲われて「ちょっ、1,000時間兄弟!」と小声で起こされるという失態を犯して、クリスチャン人生で最大の赤っ恥をかいてしまいました (*_*)

#571 2017年04月18日 18:44:45

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

野の花 さんの発言:

聖書教育と言いますが 持って生まれた気質や受け継いでいる家風のようなものまでは再教育できないと感じています。

野の花さん、コメントありがとうございます。
わたしも含めて聖書の言う「新しい人格」なんて
入れ替えることはできないんだって、ずっと思っていました。
「生まれついた気質や受け継いだ家風」に上塗りしていて、
自分にとって都合いいときや悪いときに
上塗りの「新しい人格」を「古い人格」が突き破って出てきていました…。
とても、醜いものです。
ほんとうにこの人は聖書を勉強しているのだろうかって
わたしは狼狽させられましたよ…。気が狂いそうだったです…。

「聖書教育」だなんてかっこういいこと言いますが、
「ものみの塔の奴隷教育」だったのですね…。
今の組織も同じことの繰り返しだと思いますよ…。

オフライン

#572 2017年04月18日 19:01:10

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

1,000時間奉仕者 さんの発言:

需要は高かったですね、未信者の夫持ちの姉妹たちと学校帰りの子たちの両方を救うために、17:00とか17:30とかが多かったかな。世俗の仕事で昼間が空かない長老たちに代わってペーペーの奉仕のシモベが司会していたこともありました。

わたしが司会させていただいていたのは16:00だったと思います。
最初は王国会館でしたが、わたしを負ぶいあげてくれる
人材が見つけられなくなったので、公営で使用できそうな
一階の施設を借用するようになりました。
車いすは自力で移動し利用できる…。
この事前予約もわたしの担当でしたね。
誰かに代理してもらえばよかったと今になって悔やんでいます…。

編集者 ラハム (2017年04月19日 05:45:22)

オフライン

#573 2017年04月19日 10:01:12

鬼太郎
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

ラハム兄弟 たとえ間違った教理と組織であっても、、、
兄弟の労苦や犠牲を神様はご覧になっていたと思いますよ。
ご苦労様でした。

オフライン

#574 2017年04月23日 16:46:16

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

鬼太郎兄弟
ねぎらいの言葉をありがとうございます。
先日のJWTCで「交流分析」について話してくださいましたね。
その手法を使うとJWが精神的に幼児状態に
おかれ続けていることがよく理解できました。
わたしは現役時代周囲の人々について、
現在考えれば、よい方法ではないのですが、
自分で聖書や出版物を読んで自分なりにもっと考えれば
いいのにといくどもいくども思いました。
そうした人間としての判断力も曇らされていることを
悔んで残念に思ったものです。
ヘブライ人の手紙でパウロがクリスチャンたちが
知覚力を訓練して円熟するよう励ましているのですが、
JWたちはクリスチャンとしての円熟、
いや人間としての円熟に決して達しないのだと思います…。

編集者 ラハム (2017年04月24日 06:50:40)

オフライン

#575 2017年04月23日 21:05:07

鬼太郎
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

研究生は少しは反論も反抗も無視もできる自由がありますが、JWになると周りからの圧力には抗うことはできません。その結果として、懸命に『いい子になろう』と努力するものです。
自己犠牲イコール自己否定イコール自分を捨ててひたすら会衆と組織に従う それが真のクリスチャン
という構図が叩き込まれるためです。

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