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鬼太郎
2017年04月23日 21:05:07

研究生は少しは反論も反抗も無視もできる自由がありますが、JWになると周りからの圧力には抗うことはできません。その結果として、懸命に『いい子になろう』と努力するものです。
自己犠牲イコール自己否定イコール自分を捨ててひたすら会衆と組織に従う それが真のクリスチャン
という構図が叩き込まれるためです。

ラハム
2017年04月23日 16:46:16

鬼太郎兄弟
ねぎらいの言葉をありがとうございます。
先日のJWTCで「交流分析」について話してくださいましたね。
その手法を使うとJWが精神的に幼児状態に
おかれ続けていることがよく理解できました。
わたしは現役時代周囲の人々について、
現在考えれば、よい方法ではないのですが、
自分で聖書や出版物を読んで自分なりにもっと考えれば
いいのにといくどもいくども思いました。
そうした人間としての判断力も曇らされていることを
悔んで残念に思ったものです。
ヘブライ人の手紙でパウロがクリスチャンたちが
知覚力を訓練して円熟するよう励ましているのですが、
JWたちはクリスチャンとしての円熟、
いや人間としての円熟に決して達しないのだと思います…。

鬼太郎
2017年04月19日 10:01:12

ラハム兄弟 たとえ間違った教理と組織であっても、、、
兄弟の労苦や犠牲を神様はご覧になっていたと思いますよ。
ご苦労様でした。

ラハム
2017年04月18日 19:01:10
1,000時間奉仕者 さんの発言:

需要は高かったですね、未信者の夫持ちの姉妹たちと学校帰りの子たちの両方を救うために、17:00とか17:30とかが多かったかな。世俗の仕事で昼間が空かない長老たちに代わってペーペーの奉仕のシモベが司会していたこともありました。

わたしが司会させていただいていたのは16:00だったと思います。
最初は王国会館でしたが、わたしを負ぶいあげてくれる
人材が見つけられなくなったので、公営で使用できそうな
一階の施設を借用するようになりました。
車いすは自力で移動し利用できる…。
この事前予約もわたしの担当でしたね。
誰かに代理してもらえばよかったと今になって悔やんでいます…。

ラハム
2017年04月18日 18:44:45
野の花 さんの発言:

聖書教育と言いますが 持って生まれた気質や受け継いでいる家風のようなものまでは再教育できないと感じています。

野の花さん、コメントありがとうございます。
わたしも含めて聖書の言う「新しい人格」なんて
入れ替えることはできないんだって、ずっと思っていました。
「生まれついた気質や受け継いだ家風」に上塗りしていて、
自分にとって都合いいときや悪いときに
上塗りの「新しい人格」を「古い人格」が突き破って出てきていました…。
とても、醜いものです。
ほんとうにこの人は聖書を勉強しているのだろうかって
わたしは狼狽させられましたよ…。気が狂いそうだったです…。

「聖書教育」だなんてかっこういいこと言いますが、
「ものみの塔の奴隷教育」だったのですね…。
今の組織も同じことの繰り返しだと思いますよ…。

1,000時間奉仕者
2017年04月18日 15:28:57

>それは「午後の群れ」

現在のように集会が週二日になり、書籍研究のためにもう一晩確保しなくてもよくなる直前まで、全国各地でこの手の取り決めはありました、数は多くありませんが。

需要は高かったですね、未信者の夫持ちの姉妹たちと学校帰りの子たちの両方を救うために、17:00とか17:30とかが多かったかな。世俗の仕事で昼間が空かない長老たちに代わってペーペーの奉仕のシモベが司会していたこともありました。

私が小学生だったころの昼の群れは閉会後かならずお茶菓子が振る舞われて、それが楽しみだったことを覚えています (^^♪)

よそでも書きましたが大昔、半年ごとの2日間の巡回大会は土曜日が「朝の部(野外奉仕」「昼の部」「晩の部」に分かれていました。当時は週休二日制が一般的でなく、土曜日が半ドンの学校や企業が多くて、授業や仕事を急いで終えて会場に駆け付け、14:00からの部を二時間半、中休みを二時間挟んで晩の部が18:30~20:45、というアーカイブ資料がいま手元に残っています。大会終わったら外は真っ暗だわ。いや~、懐かしい(ちなみにこの頃のプログラムには講演者の名前がちゃんと載ってて、当時の現役宣教者たちや現支部委員を務めるお歴々たちがド田舎の巡回大会に名を連ねています)。

あのころって、ホントに今みたいにガチガチじゃなくて土地や雰囲気によって臨機応変に対応していたよな~と当時をうらやましく思い出しました。

>わたしのはらった努力っていったい何だったのだろう

うーん、こうして問わず語りに経験を分かち合えること、「情の薄い世の人たちばかりじゃないよ」と確たる裏付けを持って話してあげられることぐらいでしょうかねぇ…。ラハムさん、記念式はほんとお気の毒さまでした。

ちなみに今年の式の話は特筆すべき内容はありませんでした。勤務明けでクタクタに疲れていた私は、表象物のワインが隣に届いた瞬間、睡魔に襲われて「ちょっ、1,000時間兄弟!」と小声で起こされるという失態を犯して、クリスチャン人生で最大の赤っ恥をかいてしまいました (*_*)

野の花
2017年04月18日 12:50:39

>前にも、その長老に事情を話したことがあるのですが、
「それは言ってくれなくちゃあ、わからないよ」という返事でした。


わからないではなく ”気付きたくない” でしょうね。多分。
「クリスチャン」と聞くと 誠実な人とか純粋で優しい人というイメージを与えますが一般人と何も変わらず そのような人も計算高い人も普通にいました。

聖書教育と言いますが 持って生まれた気質や受け継いでいる家風のようなものまでは再教育できないと感じています。
特にJWの場合は本音と建て前を分ける傾向にあるのは皆さんご存知でしょう。

戒律の厳しい宗教ほどウソをつく人間が多くなりますね。

ラハム
2017年04月17日 16:46:32

脱塔分室のほうには視覚障害者のJWに起こった出来事を
書いたわけですが、今回はわたしについて記述しようと思います。

先日行われた記念式の前日、JW長老から記念式に誘われました。
電話口で「雨が降らなければ行きます」と返事したのです。
もしかしたら、「雨降りだったら僕が迎えに行くけど、どう」、
なんて甘い言葉を期待していたのですが、それはありませんでした。
わたしだったら送迎を自分から申し出るところですが…。
わたしも自力で自動車を運転できますから、
王国会館まで自力で行くことは可能ですが、駐車場の問題があり、
王国会館に自動車で行くことは避けています。
だから、電車で行くつもりでした。でも…。
雨降りで傘もささずに駅から15分も車いす移動はしたくないのです。

さて、わたしは現役時代奉仕の僕で、群れの司会者でした。
この群れは特殊な集会だったのです。
それは「午後の群れ」という名称でした。
知っての通りJWの集会は週中であれば午後7時ごろから開かれます。
主婦や幼い子どものいる人がその時間帯に出席するのはたいへんです。
だから書籍研究だけでも時間帯を変更して、
主婦や子どもたちの負担を緩和し、帰宅するご主人たちとの
関係も改善できるような変更が加えられていました。
とても、優れた方策だったと思います。

出席者には80代、90代の姉妹もいましたし、小学生以下の
子持ちの主婦もいたわけで、
その送迎もわたしが自分から申し出てしていました。
この群れの時間設定は素晴らしかったのですが、
裏を返すと働いている兄弟たちはほとんど出席できません。
王国会館はマンションの二階にあり、
外階段から上がってゆく必要がありました。
エレベーターや昇降機などありませんので、通常の集会では、
力持ちの兄弟たちに背負ってもらっていました。
でも、午後の群れのなると背負ってもらえないこともあり、
わたしはその階段を自力で這い上がっていたのです。
ズボンも汚れていいように二重にはいて、
司会するときは汚れたほうは脱げるようにしたのです。
車いすは人間ほど重くないので女性でも運べます。

いま、振り返ると7年以上もよくやって来たと思いますね…。
ガソリン代をもらった覚えもありません…。
でも、理由も説明されず司会者は降ろされてしまいました。
脱塔直前、集会出席が少なくなっても、
群れのメンバーからの電話などほとんどありませんでした。
わたしのはらった努力っていったい何だったのだろうって
よく思ったものです。

JWは自分たち以外を「世の人、世の人」っていい、
自分たちより情の薄いことを強調します。
でも、離れてみるとそんなことはありませんでした。
助けてくれる人も大勢いたからです。
年に一度の記念式なのに
出席するためのサポートの申し出もないなんて冷たいなあって
思うのはわたしだけでしょうか。

前にも、その長老に事情を話したことがあるのですが、
「それは言ってくれなくちゃあ、わからないよ」という返事でした。
わたしとは感性がまったく違うなと思ったものです…。

ラハム
2017年04月15日 17:36:59

#579のつづきです。

-18 (1)-
第二章 聖書について 私たちにとっての各幕の読み方と意味
3. 物語におけるクリスチャンの位置

聖書は、創造、堕落、イスラエル、イエス、教会の
五つの舞台から成り立つ物語の中に生きている人々を描いています。
イエスのよって贖われたクリスチャンは、第五幕に生きる人々です。
第一幕から第四幕までの登場人物と深い関わりがありますが、
その生き方をそのまま模倣することはできません。
私たちは、第一幕(創世記1から2章)の創造やエデンの園に登場する
「人類の祖」であるアダムとエバを、第五幕に登場する
クリスチャンの創造時の人間像として読まなければなりません。

といっても、クリスチャンや教会が罪のなかったエデンの園に
戻って生きることができるなどと考えてはなりません。
現代に生きるクリスチャンが、創世記一章と二章の世界から
「こうあるべきだ」と論ずることは構いません。
しかしそこには、わずかなヒントがあるだけで、
今の私たちが必要としているものはほとんどありません。
クリスチャンは、エデンの園にモデルを求めて戻ろうとするのではなく、
新創造に向かって変革していくのであり、
神の全体のご計画を知って行動していかねばなりません。

第二幕(創世記3~11章)は、人間の堕落の出来事を伝えています。
そこにはキリストの贖い以前の悲惨世界の姿が描かれています。
現代社会とほとんど変わらない状況を見いだし、驚くでしょう。
しかし、現代のクリスチャンは、既にキリストの贖いを受けています。
第五幕の生き方を、第二幕の世界と同一視することはできません。
たしかに悪はこの世界に満ちています。
しかし、キリストに贖われたものに対しては何もできません。
今や私たちは、勝利者イエスのもとに歩む恵みを備えられているのです。

第三幕(創世記12章からマラキ書まで)は、
イスラエルの歩みを報じています。
クリスチャンはイスラエルの民ではないので、神殿に行ったり、
犠牲をささげたりはしません。律法や預言者のメッセージは、
古代イスラエルの民に向かって語られたものです。
クリスチャンは、第三幕のイスラエルの民をモデルにして
生きることをしません。ただし、ここに難しい問題があります。
第四幕のイエスも同じですが、第五幕で生きるクリスチャンの中には、
ユダヤ人と接触して生きることを余儀なくされた人々がいたことです。
例えばパウロは、ユダヤ教の中で育てられ、
ユダヤ人の仲間とユダヤ教の会堂に入って伝道を展開しました。
ここでは、「ユダヤ人には、ユダヤ人のように」という
行動原理が求められました。この問題は、ガラテア人への手紙第3章や
ローマ人への手紙第4章で扱われています。

ラハム
2017年04月14日 15:44:32

13年以上箱詰め保管していたものみの塔出版物の
整理を始めてみたら、ブックカバーをしたままの書籍が、
10冊以上あることに気が付きました。
おもにポケット版書籍でした。
カバーだけ残っているものもあります。
どの書籍カバーか思い出せないものもあります。
デラックス版聖書カバーは
チャックで閉まるようになっていますが、
誰かにあげてしまったようで、聖書はありませんでした。
そう、革表紙で、本の小口が金ぴかのやつです。
かっこうよかったですね。

普段、集会や奉仕のとき持ち歩く書籍は、
痛みやすいので、カバーをしていたものです。
JW兄弟でものみの塔専門の
カバーを手作りで製造販売している人と知り合ったので
よく注文していました。

箱詰めされていたので、表面が白っぽくなり、
カビ臭くなっていました。カビは生えていません。
赤・青・緑・茶・えんじ・黒など豊富な色です。
表面をふいて白くなったところをとり、
椿油を手に塗った後、素手で油をすり込むと、
皮の表面がつやつやと光るようになりました。
もう、協会の文書は持ち歩かないので、
ほかの本につかえないかとはめようと試しました。

ものみの塔書籍にぴっちり合うようになっているので、
案の定、使うことができません。
本革ですから捨てるのはもったいないしなあ…。
マウスパッドにはどうかと試したのですが、
でこぼこして動きが悪いです。
何かの敷物につかえると思いますが、
ゆっくり考えましょう…。

作ってくれた兄弟は当時70歳ぐらいだったから、
もう90歳ぐらいになっているでしょう。元気ならです…。
どうしているだろうか、忠実なJWやっているのかな…。
遊びに行くと真っ先に将棋の相手をさせられた…。
ボケていなければいいけれど…。

こうして振り返るとほんとうにものみの塔
信じていたんだなあって思いますね…。
これに裏切られるとは夢にも思わなかった…。
命がけで信じ続けていた人生も
徐々に遠い過去の出来事になりつつあるのでしょう…。

ラハム
2017年04月09日 09:09:17

#576の続きです。

-17 (2)-
第二章 聖書について
堕落から新創造へ向かう「神の愛の物語」

この「神の愛の物語」の作者は神でした。
物語の主人公もまた、神ご自身です。
そして舞台は、創造の初めから、古代イスラエル史、
イエス時代を通って初代キリスト教史へと進みます。
聖書の物語は、ここで終わっています。
ところが、驚いてはいけません。
この「神の愛の物語」は、そこで終わるわけではありません。
その物語は、今に至るまでずっと続いています。
しかも、その物語には隠れた主役がいます。
それは、「あなた」です。
聖書を読んでいる「あなた」自身が、
神の物語の主役として抜擢されているのです。
聖書は、過去の歴史物語で閉じているわけではありません。
また、未来の新創造の物語に
勝利のファンファーレを響かせている、というだけでもないのです。
現に今、歴史のまっただ中で苦闘している
「私」、そして「あなた」に、神は傍らで声援を送り続けています。
クリスチャンは皆、神の民として、神とともに働きながら、
神の物語を描き続けているのです。
私たちは、五番目の「教会」という舞台で活動している、
今の時代の主人公です。
その五幕は、イースターとペンテコステをもって始まりました。
そしてその最後は、全被造物の贖いと新天新地の到来で幕を閉じます。
その最後の光景は、ローマ人への手紙8章、
コリント人への手紙第一15章、
黙示録(啓示)21から22章において明らかにされています。

聖書は、神が主導された「神の愛の物語」です。
物語の権威は、語り手である「神」にあります。
さらに、いつの時代の人々にも神からの
深いメッセージを届け続けた「物語」そのものにあります。
その物語は、創造から新創造までのストーリーを
様々な角度から繰り返し語り続けることによって、
読者を異なる世界観に対峙させ、変えていく力をもっています。
それが聖書の権威です。
教会は聖書の権威を巡って様々な論争を展開しました。
しかし、聖書の権威を、語り手なる神から切り離し、
物語のメッセージがもたらす権威から離れて論じるなら、
結局、無益な論争に終始するでしょう。

鬼太郎
2017年04月08日 19:17:14

悪魔サタン抜き、、、、、これでショックを受けるのはJWだけかもしれませんね。
常に、会話も割り当ても、、講演も含めて、悪魔サタンは必ず出てきます。
記憶では、悪魔サタンを強調しないのは、家族生活の話くらい、、、。
つまり悪魔サタンの存在はJW教理、JWの話には不可欠、無しでは何も成り立たない、、、
思えば、相当極端な教理でマインドコントロールされていたものですね。

ラハム
2017年04月08日 16:58:11

現役のJWにとても多いことです。
何か良いことがあると「エホバからだ」と言い、
何か不都合なことが生じると「サタンだからだ」ということです。
現役のころこうした発言にとても不自然さを感じて、
そんなことを簡単に言ってもいいのかなあと思ったものです。
最近知り合った現役JWはN/Tライトの著作
「クリスチャンであるとは」を読み「悪魔サタン」について
何も書かれていなかったと興奮気味に話してくれました。
実のところ「新約聖書と神の民」はちょっと前に読み終え、
しばらくライトの著作から離れようと思っていたところです。
でも、彼の言葉を聞き、読む気がわいてきました。
「神の民」のほうは普段使わない漢字やカタカナ語が
ひんぱんに出現し、辞書が手放せないほどいでしたが、
「クリスチャンであるとは」のほうはすらすら読めました。
やはり、彼が言うようにサタンについては一言も出てきません。
アーマンさんのほうがサタンについては多かったですね。

やはり、JWは二元論が大好きで、神に敵対する相手を設定して
不完全さの言い訳にしているのかななどと考えてしまいます。
JWでないキリスト教関係者は
サタンのことを気にしないのでしょうか。
あまりにもサタンを相手にしていないような感じです。

わたしは現役のころサタンも多少は気になりましたが、
最近はまったく気にしなくなってきています。
それからエホバのこともですね。
ライトの著作は聖書がどのような書物か
再認識するために読む価値はあるだろうと思っているのです。

ラハム
2017年03月31日 13:42:40

#570の続きです。

-17 (1)-  第二章 聖書について

堕落から新創造へ向かう「神の愛の物語」

2. 物語の五つのモチーフ

聖書は、万物の創造者なる神が一人の家系を選び、
その家系をとおして全人類に豊かな祝福を注ごうとする
「神の物語(narrative)」です。
下から上へではなく、上から下への物語です。
神がこの世界を愛され、その世界を治めるために
「神のかたち」に造られた人間を限りなく愛され続けているという、
神の「愛の物語」です。
この物語は五つのモチーフから成り立っています。
創造、堕落、イスラエル、イエス、そして教会です。
これら五つのモチーフは、五つの舞台、
あるいは五つのモデルと言ってもよいでしょう。
五つの分類したのは私自身(ライト)です。
それは、絶対的なものではありません。
ある人は、ヨハネの黙示録の最後(21~22章)の出来事を加え、
六つに分類するほうがよい、と主張するかもしれません。
そのように理解しても構わないのですが、
私自身は、新天新地の希望は六番目の最後の舞台というより、
新しい「新創造の物語」の最初の舞台と
位置付ける方がよいと考えています。

またある人々は、
創世記3章しか出てこない「堕落」の出来事を、
特別一つのモチーフとして取り上げる必要はないのではないかと
疑問を呈します。
むろん、創造のすばらしさを奪ってしまう
「悪の起源」について、
一世紀のユダヤ世界に別の考えがあったことを承知しています。
しかしそれでも、聖書物語全体として、創世記3章の堕落記事が
極めて重要な意味を持っていることを強調しないわけにはいきません。
旧約のイスラエルの歴史においても、
人類の堕落という出来事が絶えずつきまとっているからです。

五つのモチーフから成り立っている「神の愛の物語」は、
交響曲に例えるなら五つの楽章をもって
展開されていると行ってよいでしょう。
各楽章が追いかけ合いながら、
最後のクライマックスに向かって進むのです。
それは、完全であった神の創造が人間の堕落によって混乱に陥るが、
イエスの贖いを通して回復への道へと進み、
ついに新創造へと完成されてゆくという「神の物語」です。
イエスはこの世界を滅ぼすためではなく、
回復し新しい世界を導入するための来られるのです。
イエスによる救出劇は、
神の民をこの世界から逃避させるものではありません。
むしろ、ご自身の民を新たなるものに造り替え、
世界に派遣するものでした。

ラハム
2017年03月29日 09:31:17

総合フォーラムのほうで
ノアの大洪水が史実かどうかの激論が続いていました。
それが史実であるかどうか別にして、
「虹」というものの存在を否定する人はいないでしょう。
何しろ、視覚に障害がない限り、すべての人が見られますから。

聖書を物語として理解することを紹介していますので、
大洪水を物語としてどのように考えることができるのか、考えてみました。
まず、見ることのできる虹の存在意義を説明するためではないでしょうか。
大洪水後、神が人類を滅ぼすことを二度としないということを
思い起こすために虹を生じさせると宣言されました。
一般には「虹の契約」と呼ばれているようです。
暑さ寒さ、種まき時や刈り入れ時も絶えないと宣言されています。
神様は人間が悪に向かう傾向のあること、
どうしようもない弱さのあることを認めてくださいました。
その傾向を戒めるための大洪水物語かもしれません。
それでわたしたち人間は虹を見ると平安を感じるのかもしれません。
全地球を水で覆い尽くし、ノアの家族以外は溺死させたというのは
上記のお話に結び付けるための物語かなあと、思いました。

こういうのを「ラハム神学」というのかもしれません。

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