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#1 Re: 親睦・相談 » 脱党後の婚活指南します(仮称)月下氷人さん募集。 » 2017年11月18日 11:13:27

わたしもエホバ松蔵さんの意見に賛成です。
開拓に参加し、注解も活発で、
霊的な事柄に多く参加していれば、
結婚できるというのは幻想だと思います。

わたしも25歳ぐらいのときから、
霊的であれば、結婚できると言われ続けましたが、
配偶者になってくれる人には全く出会えませんでした。
もちろんJW社会においてです。

そのようにわたしに話していたのは
長老夫人で美人の自称霊的な姉妹だったのです。
彼女は長いこと開拓をしていて、
当時巡回大会ごとにバプテスマを受けられる
研究生がいたということでした。
彼女が自分で言うには
結婚の話がふるようにあったそうです。

今から振り返ると彼女は自信過剰だったと思います。
だれそれ兄弟とだれそれ姉妹は
わたしたち夫婦が紹介して結婚した、
だから、兄弟が結婚したいときには相手を探し、
紹介くれるとまでひんぱんに言っていました。

それから10年近くたち、
相手を見つけてくれるように頼みましたが、
忙しいという理由で二年以上待たされました。
あまりにも待たされるので、理由を聞いたのです。
「兄弟が障害者だから難しい、
わたしたちは兄弟の障害を理解できるけれど、
相手の人にそれを理解させるのは困難だから」だと
聞いてあきれるような言い訳でした。

わたしに障害があるなどということは、
最初からわかっていたことです。
おそらくわたしに利用価値がなくなったので、
そのようなどうしようもない理由をつけたのでしょう。
彼女は大きな期待を抱かせて、
わたしを失望させたことに一言も謝りませんでした。
わたしがうぶだったせいもあります。

当時わたしは1,000時間奉仕を降りたばかりでしたが、
奉仕の僕であり、区域の係などもして、
霊的なことには十分携わっていたのです。
でも、結婚には結び付きませんでした。

実際霊的には思えないような人でも結婚している人もいます。
まるりんさんの年齢はわかりませんが、
配偶者探しにキリスト教世界の教会に足を踏み入れると
会衆にばれた場合、審理委員会にかけられて
うっかりすると排斥になるかもしれません。
十分注意してほしいと思います。
未信者と結婚しても排斥にはなりませんが、
未熟な人として扱われ開拓の特権は
剥奪される可能性はあります。

とにかくJWのいう霊的であれば
結婚できるというのは、幻想に近いものですから、
それに振り回されないでほしいと思います…。

#2 Re: 親睦・相談 » 脱党後の婚活指南します(仮称)月下氷人さん募集。 » 2017年11月14日 15:57:47

まりりんさん、書き込みありがとうございます。
書き込みを読む限り、まりりんさんに
軽くても知的障害があると思えないほど
しっかりしていらっしゃいますね。
わたしも養護学校卒業生ですが、
卒業とほぼ同時にJWと関わってしまったので、
結婚について養護学校卒業の女性に考えが及びませんでした。
でも、卒業生同士で結ばれた人を知っています。
決してあきらめる必要はありません。

でも、まりりんさんのいう
高めの兄弟ってどのような男性でしょうか…。

#3 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~ » 2017年11月14日 15:48:24

JWサロンに出席したおり、
「霊的な虐待」のあることを知りました。
そのことについて話してくれたもとJWが
それを記載している書籍を貸してくれたのです。
持ち帰り読んでみると手に入れておく価値が
ありそうなので、同じものを購入しました。
すべて読み切っていませんが、
「霊的な虐待」について次のように述べられています。

霊的な虐待は議論の別れるところであり、
めったに話し合われることはないながらも、
現実的な問題です。たとえば、子どもを、
無神論者や狂信的宗教の信者に育て上げることは、
ある親にとっては霊的な虐待のように思われるかもしれませんが、
他の親にとってはそうではありません。
より微妙なところでは、既成宗教のなかには、
罪悪感や恥辱感を課する怒れる神といった強い信条を教えたり、
他の宗教はすべて邪悪で劣っていると唱えるものがあります。
後者は、ある原理主義キリスト教派のなかに容易に見出せますが、
これは彼らにだけ限ったことではありません。
こうした特徴は、
世界の宗教体系の隅々にまで行き渡っています。
実際、それが原因で世界中で戦争が起こり、続いているのです。
-「内なる子どもを癒す」p57、誠信書房-

この部分だけ読んでみても
「霊的」という意味がJWとずいぶん違うと思いました。
ここで述べられている「霊的な虐待」というものを
JWはずっとおこなってきています。
現役だった時はそのような内容の教育が
虐待だとは考えず、正義そのものだと思っていました。
恐ろしい宗教に関わってしまったと反省する次第です。

#4 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~ » 2017年11月14日 15:15:08

#682の続きです。
第三章 「神学プロレゴメナ」について
「人間が世界を認識するための枠組み」です。
どうぞお楽しみください。
https://1drv.ms/b/s!AvwG6dj2GBi7rCQmvKOMJqjfaWTf

#5 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~ » 2017年11月03日 13:07:34

#679の続きです。
第三章 「神学プロレゴメナ」について
「歴史・物語に焦点を当て、複合的に」です。
どうぞお楽しみください。
https://1drv.ms/b/s!AvwG6dj2GBi7rCbk7zSNb3ntXjWd

#6 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~ » 2017年11月03日 12:58:42

三太郎さん、コメントありがとうございます。

わたしは歴史に限らず、物事を客観的に見て、
ありのままを伝えることは非常に難しいと考えています。
それは、人間の知力と表現力に限界があるからです。

現役時代から次のように考えてきました。
一例として、茶筒のことを考察してみます。

ある人に茶筒を真上からだけ見せます。
すると茶筒の上蓋のところを観察することになり、
その人は茶筒というのは正円形なんだと報告するでしょう。
二人目には真横からだけ見せます。
すると二人目は茶筒というのは長方形なんだと報告するでしょう。
三人目には斜めから見せます。
すると三人目は茶筒というのは円筒形なんだと報告するでしょう。
茶筒の中身を見せなければ、内容物は不明です。
見せると茶葉が入っています。

これらの人たちは誰が正しく客観的でしょうか。
おそらく三人とも正確に報告しています。
でも、観察する角度が異なっているので、
報告内容も異なっているわけです。

そして、観察者の茶筒に関する解釈が
言葉上の表現になって表れてきます。

だから、三太郎さんが理解されたように
物事の真実に近づくためには
検証を繰り返す必要があるのだと思います。

ちなみにわたしは「被造物管理の神学」を知って、
すべての報告は報告した人の解釈が入り混じった、
事実に基づく「物語」であることに気が付きました…。

その中には妄想や虚偽である場合も、もちろんありますが…。

#7 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~ » 2017年10月29日 15:24:48

これはわからなかったことシリーズのふたつめの投稿です。
ちょっと気恥しいですが、そのようなことも真剣に
考慮し続けてきたことを思い出します。

(2004/04/21)
先月は、わたしが組織に交わっていた頃、疑問に感じていたことを
いくつか書き連ねてみた。一度では書ききれなかったことを
再度書き出してみたのが今月の投稿である。

以前の投稿で「エホバの証人と性の問題」として性に関しての考察を
書いてみたので、今回のもそれに該当するかもしれないが、
罪として感じさせてわたしたちの人間としての存在を卑しめることについて
述べたところが、異なる点だと思う。

今回ふれたことは、兄弟のあいだでも、たとえ個人的にも
話し合ったことはなく、心に秘めてきたことだ。
年若い二世の研究生でこれらについての疑問を持ちかけてきた人もいたが、
わたしは自分の立場を守るために、あいまいな返事をしてきたので、
その彼に対する返事の意味も含まれている。

彼は不幸にして交通事故で亡くなったと聞いているので
彼に読んでもらうことはできないが、これを読んでくださる、現役、
非現役の方にはそのように柔軟に考えていた者のいたことを知って欲しい。


最初の人であるアダムが罪を犯したのでその結果として、わたしたちにまで罪が及び、
キリストが血を流して贖う必要が生じたということは、聖書にはっきりと
記されているのでキリスト者であれば否定のしようがないと思う。
これはこれで純粋にキリスト教という宗教の教義だろう。

わたしにとって不思議だったことは、出版物で人間は不完全で、受け継いだ罪のゆえに
罪人であり、間違いを避けることはできないと、呪文のごとく教えられているのに
自分自身の内側に、罪人だという意識や、感覚を感じられなかったことだ。

わたしも聖書を真理だとして受け入れてきたので、直接聖書に述べられていることを
否定したいわけではないが、組織の言うように人間というものが罪人で
アダムの原罪を背負い込んでいるのがほんとうであれば、そうした感覚や感じを
現在に至るまで持ち続けているのではないだろうかと思ってきた。

でも、自分が誤りや失敗を犯すことが多々あっても、罪の意識や感覚を
感じ取ることはなかった。これは現在でも同じだ。
こう述べたからといっても聖書の教えを否定したいというわけでもない。

その罪の意識を感じない理由は、自分が日本という非キリスト教の国で成長して、
根本の土台にキリスト教がなかったためであろうか。
要するに背景がキリスト教国とぜんぜん違っているということだと考えた。

また、わたしたちがエホバの証人になってから自分が悪いことをしたと
感じさせられるのは聖書の原則に触れたというよりは組織が出版物で
はっきりと、あるいは暗に聖書的に罪だと判断したことについてだった。

先回の投書でも書いたことだが、学級委員になること、宝くじを買うこと、
投票に参加すること、誕生日を祝うことなど際限がないほどたくさんあった。
現在でもほとんどこれらの聖書解釈は有効とされている。
それらは他の人に目撃されてしまうので、発覚すれば長老たちからの
助言の対象となって、いやな気分を味わうことになる。

レイモンド・フランズ兄弟の書いた“良心の危機”でも取り上げられているが、
夫婦が寝室でおこなう性的なたわむれにまで聖書的だとされる制限が
課されたときもあった。
また、独身者、特に男子を大いに苦悶させるのがマスターベーションの
禁止だろうと思う。女子よりも男子のほうが苦しいそうである。

わたしが研究を始めた十代後半の頃、イエスが言われた「女を見続けて
情欲を抱くものは姦淫を犯したことになる」とか「霊と肉の汚れから
清めて…」というパウロの言葉を読んで、自分なりにこれらは
マスターベーションにも当てはまると考えて避けるよう努力したが、
これはとてもつらすぎることだった。

そうして研究を続けているうちに出版物にもマスターベーションを
禁じていることがあるのを知った。
わたしも純粋だったから必死になってこの聖書解釈を守ろうとしたが、
苦しすぎてどうしても守ることができなかった。
バプテスマを受けて兄弟になっても同じだった。それをおこなったときは、
エホバに罪を犯したと思い、惨めさに浸って自分を責めた。

自分を責める理由として、組織は出版物でそれを克服した人の例を
たくさん載せているので、克服できない自分は信仰が弱くて
モーセのごとく神を目の前においたような行動ができないと考え、
無理矢理にでも罪の意識を感じるようにさせられたと思う。

しかし、わたしはあるときからこう考えるようになった。
もし、マスターベーションというものがほんとうに神から見て
悪いことであるのなら、聖書に直接、禁じる聖句がないのはどうしてか?

ある時には死ぬほど辛い思いをして克服の努力をしている
自分がどうしてその行為を避けることができないのか。
神の組織が述べている助言を必死に守ろうとしているのに
どうして神は助けてくれないのか、などなどである。

聖書は日本語訳でも2000ページ近くあるので、たかだかマスターベーションのことに
ひとことぐらいふれることができないはずはない。だから、述べられていないことは
神から見てどうでもいいことだったのだろうと考え始めた。

それから、体から排出される体液や便についても考察した。どの排出物でも
溜まれば自然にか人為的にか必要に応じて流れ出るようになっている。
わたしは組織の出版物でマスターベーションについて述べているものを
たくさん読んだが、そのひとつに精液は体に溜まれば夢精という形で
自然に排泄され、溜まったからといって体に害はないというものがあった。

害はないかもしれないが、これは自然なことだろうか。
よく考えてみれば、大便も排尿もあるところまで自制しコントロールできる。
排尿については夜中眠っている間にもらしてしまうこともあるわけだが、
だからといって眠る前にトイレに行かないであろうか。
だれも、自然に出るものはそれにまかせればよいなどとは考えない。

女性だって神による自然の摂理というべきだが、毎月の生理の時不要になった
血液が排泄されてくる。人為的な処置を講じなければ、止めることはできない。

体から出るべきものは、せきやくしゃみ、鼻水、汗だってある。
他にもあるがどれも、必要だから出てくるのだ。

このような考察を通して、聖書的原則と称しマスターベーションを禁止するのは
非常に不自然で自然の摂理に反していると考えるようになった。
男女ともに手の長さもそこに届くようになっている。
聖書が述べるように、こうしたように創造されたのは神なのだから。

そのような考察の結果、直接聖書と自分の良心に反しなければ、
他の人、特に仲間に知られなければよいと考えるようになった。

わたしが献身したのは神に対してであり、仲間でもなく
ものみの塔でもないのだから神が直接悪いと言うのでなければ、
人間のこしらえたつまらない規則で自分を苦しめることをやめたら、
ほんとうに気が楽になった。もし見つかって責任を追及されるのなら、
聖書の根拠を強く要求するつもりだった。神に献身したのに、どうして
人間性の解釈による規則で自分を縛って苦しめる必要があるだろうか。おかしい!

そこで不思議に思ったのは、どうしてそのような不自然な規則、
まったく個人的なことまで無理矢理抑制させようとするのだろうか、ということだった。
それはきっと、性的に不能な人間がひがんでこしらえた規則だろうと、推測した。
こうして考えてくると、罪でもないものを罪と感じさせ、
規則を守りきれない人間を、自分たちよりも低めて支配しようとしたのだろう。

さらに、わたしにとってもっともわからなかったことのひとつは、
自分はなぜ幸福ではないのだろうかというものだった。
いや、幸福感に乏しいというべきか。なぜむなしさ、空虚感があるのか。

日常生活において収入面で満たされ、霊的には奉仕の僕であり、
聖書や出版物もすべて読むことができ、
公開講演、奉仕会、神権宣教学校、群の書籍研究の司会の割り当て
適度な伝道活動、こうした活動に十分参加できているのに、
どことなく空虚で満たされない感覚があるのが不思議だった。
なぜそのようであるのかわからなかった。

聖書そのものも出版物もエホバの民であれば世界一幸福であり、幸いだと
述べられているのに、なぜ自分にはそうした感覚がほとんどないのか。
自分の信仰に欠陥があり、弱いからだとも考えた。はたしてそうなのか。

わたしの人生において自分が行き詰るのは、わたしが霊的でないからだ、
と言ってわたしを責めた仲間もいた。わたしは霊的でないとなぜ行き詰るのかと
彼に説明を求めたが、彼は答えずにわたしを悪魔の考えを持っていると言った。

エホバの証人の立場から考えれば、聖書の登場人物である
モーセ、ダビデ、ヨブなどはきわめて霊的な人々だったであろう。
でも、モーセは一度の失敗で約束の地にはいれなかった。
ダビデは殺人・姦淫・盗み・人口調査をおこなった。
ヨブはサタンの攻撃で妻以外の所有を失い、死ぬほど健康を害した。

彼らはきわめて霊的な人物であるはずなのに失敗をし、失意に沈んで
行き詰まらなかったと主張できるだろうか。
だのに、霊的でないから行き詰まると言えるのだろうか。
わたしを責めた仲間はこのような疑問にも答えなかった。

あるいは、結婚できないから幸福ではないと言う仲間もいた。
これもおかしいとわたしは感じた。
組織で結婚できている人は大勢いる。わたしはその男女を観察して
どのように考えても見ても、幸福そうに感じられなかったのが多かったからだ。

わたしにとって幸福そうに見える人々は、たとえ未信者の配偶者がいても
愛されていることを感じている、感じ取ることができている人々だった。
集会で見られる多くの表情は、うなだれ、疲れきっている印象があった。
口元は笑みがあるようだが、目は疲労しているように見えた。
何かを訴えたそうで押し黙っているようにも見えた。
これが聖書的に世界一幸福なはずの民なのか?

こうして振り返ってみると、組織から離れた現在のわたしのほうが
精神的に安定しており、空虚感も少なくなった。
やはり、聖書にこじつけて自分の心に無理を強いてきたということかもしれない。

組織を離れてもわからないことはまだまだあるので引き続き書いてみたい。

《編集者より》
毎回斬新な視点から、様々な問題提起をしていただきありがとうございます。
まず、戒律と罪の問題ですが、これらの多くは、宗教が形成した時代と
その場所の伝統やタブーが反映されていると思います。
血の例がその典型だと思います。
時代と場所が異なれば、そのようなタブーが
全く不自然で無理な戒律であるのは当然であると思います。
あなたも指摘していられるように、昔の多くの宗教的戒律は、
人間の生理的な現象に関係しています。
それらは「欲」、仏教では「煩悩」などとされ、
克服されなければならないものとされました。
しかし、人間が知恵を増すにつれ、それらの生理的現象は
人間の健康にとって必要なものであることがわかってきました。
一生を童貞や処女で通すことを戒律としている宗教もまだありますが、
現代ではそれが全く不健康であるばかりか、
社会全体としても有害にしか働かないことがわかり、
多くの宗教では僧職者でも立派に妻帯しています。

あなたが取り上げたマスターベーションは、
聖書にはっきり書かれていないのに、
なぜものみの塔協会がこれを禁じたのか、
あなたも色々推察していますが、私もわかりません。
ただ、個人的な生活に介入するものみの塔宗教の無数の戒律を見れば、
その姿勢から理解できるのではないでしょうか。
つまり、それは戒律や禁則(タブー)を出来るだけ沢山つくり、
それを達成させることに信者の時間とエネルギーを費やさせることにより、
常に地上の楽園の目標に向かって自分は努力しているという
幻想を与えることだと私は思います。
ものみの塔宗教が最も嫌うのは、
「信じることで直に救われる」という多くのキリスト教や、仏教などの教義です。
このような教義では、一見余りにも達成が容易に見えるために、
組織の権威が不要になります。
ものみの塔にとって望ましいのは、
努力を要する難しい目標を沢山信者に与えて、決してゴールが達成しない、
無限のマラソンを走らせることなのです。
そして、このものみの塔宗教の本質が、あなたに決して幸福感を与えず、
何かいつも空虚で物足りない気持ちを与えた理由なのではないでしょうか。
心理学の実験では、ボタンを押すと必ず餌がもらえる装置に入ったねずみは、
自分のペースに合わせてボタンを押して、
必要な餌を食べる分だけボタンを押します。
しかし、装置のプログラムを変えて、ボタンを押しても餌が出たり出なかったり、
ねずみにとって全く予想がつかず、
何時になったら空腹がいやされるかわからないようにしますと、
ねずみは装置の奴隷になったように、餌が出ても出なくても、
ただひたすらボタンを押し続けるだけになります。
私はこのねずみの姿が、組織の教義に没入している
エホバの証人の姿と二重写しになって見えます。
ところで、このねずみの行動は、
人間のどのような行動のモデルとして使われていると思いますか。
これは人間のギャンブルに対する嗜癖のモデルなのです。
人がギャンブルに耽るのに特別に大きな儲けは必要ありません。
少しでも儲かりそうだという希望があり、時々少しのお金が出てくるだけで、
ある人々はひたすら(スロットマシーンの)ボタンを押し続けるのです。
ものみの塔協会は、このような人間の心理を知っているのかどうか私は知りませんが、
見事にこのメカニズムを使って信者を奴隷化していると思います。

#8 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~ » 2017年10月28日 16:45:59

#675の続きです。
第三章 「神学プロレゴメナ」について
「歴史はそれだけでは存在し得ない」です。
どうぞお楽しみください。
https://1drv.ms/b/s!AvwG6dj2GBi7rCe53bRFVwJMmxgG

#9 Re: 総合フォーラム » アブラハムの神の限界 » 2017年10月22日 17:09:45

うまく説明できませんが、
科学というのはその物事がどのように成り立っているのか、
ということを説明し、この説明が正しいかどうかを
実験を繰り返すことによって証明する学問だと思います。
言い換えると繰り返すことによって確認が不可能であれば、
科学という学問の分野からはずれていることになります。

科学は「どのように」という問いに答えてくれます。

一方、宗教は「なぜ」に答えてくれるものだと思います。
なぜ人間は存在するのか。
なぜ地球は丸いのか。
なぜ悪は存在するのか。
なぜ人間は死ぬのか。

その宗教の答えで誰でも満足できるかは別です。

一つの事例として人間の創造とか進化を
科学的に証明するのは無理かもしれません。
というのは、繰り返すことによって確認不可能だからです。
現在存在している無数の生物や化石などから
推測する以外に確認するすべがありません。

だから、科学によって宗教の正しさを証明することも、
逆に宗教によって科学に正しさを証明することも
分野違いで無理があるのだろうと
最近のわたしは考えています…。

#10 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~ » 2017年10月22日 16:35:20

三太郎さん、

とても有益でためになる感想をありがとうございました。
三太郎さんの言われるように書かれた文章の
当時の状況をよく知り理解することはとても重要ですね。
わたしは中澤啓介氏による
「被造物管理の神学」で公開されているものは
すべて読んでいて中澤氏から感想を求められます。
でも、三太郎さんのように的確な表現はできていません。
その説明を書かれたのは中澤氏ですから、
三太郎さんの感想を彼に読んでいただこうと思います。

わたしもそのような感想をいただけると励みになります。
これからもよろしくお願いしますね…。

#11 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~ » 2017年10月16日 10:57:00

#672の続きです。
第三章 「神学プロレゴメナ」について
「文学技法を知り歴史物語を理解する」です。
どうぞお楽しみください。
https://1drv.ms/b/s!AvwG6dj2GBi7rCXQ0XpRpAqxDoB8

#12 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~ » 2017年10月11日 16:36:57

たしかにてつてつさんが言うような内容でした。
わたしは脱塔した直後の2014年ごろ読んでいると思います。
そのころ、脱塔直後ということもあって、
現役の姉妹がヘルパーに来てくれていたのです。
彼女に現役の姉妹の経験が述べられているから、
読んでみるようすすめたのですが、読もうとはしませんでした。
だから、商業ルートに乗せられている出版物は、
JWに忠実な人が書いても、
統治体メンバーの推薦があっても読まないものなんだと
不思議なような、感心したような感覚が
あったことを思い出しました。

JWっていうのは摩訶不思議な世界ですね。
理解不可能っていうのか…。

#13 Re: 総合フォーラム » 最近のjw事情 » 2017年10月07日 15:54:08

苺みるくさんの
「病気の人はほんとうに結婚できないのか」
ということに関する考察を書いてみました。
これはJWにも非JWにも非常に悩ましい問題です。
わたしもずっと苦しんできましたから、
こころない長老の発言に傷ついたでしょう。
はたして苺みるくさんの慰めになるかはわかりませんが、
同じ苦しみにあった人間の説明だと考えてお読みください。
こちらに書き込んでもよかったのですが、
酸いも甘きもわたしのJW人生ですから、
下記のURLに記録しまいた。
http://www.jwstudy.com/bbs/viewtopic.ph … 883#p23883

#14 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~ » 2017年10月07日 15:47:03

「病気の人はほんとうに結婚できないのでしょうか」
という質問を真剣に考え続けてきました。

わたしは脳性まひという障害者ですから、
現役時代を含めて現在までこの答えを模索してきました。
わたしは現役時代、仲の良い兄弟から
「兄弟は障害者だから結婚できないんですよ」と、
苺みるくさんがS長老から言われたことと
そっくり同じことを言われています。

その言葉を聞いたわたしは次のように言いました。
障害者だって結婚している人がいるのだから、
障害を理由にして結婚できないのはおかしいって。
このとき、彼は自分の発言を撤回していたと思います。

障害者だから、病人だから結婚できないという回答は
おそらく、イエスでありノーでしょう。

実際のところ、障害者であっても、病人であっても
結婚できている人たちはたくさん存在するからです。
わたしが最近所属するようになった団体は
障害者の男性で三人も奥さんをもらっている人がいます。
あるいは、わたしと同じように結婚していない人もいます。
もしかすると結婚しないことを選択しているのかもしれません。
こうした事情はプライベートの関わることですから、
自分から話してくるか仲良くなるまで触れられないと思います。

また、現実問題として
障害があったり、病気であったりするなら
結婚に至る道の大きなハンディになることを
認めないわけにいきません。

日本の現状を考慮するならたとえ健常者であっても、
結婚できない人やしない人もいるわけですから、
障害や病気が直接の原因で結婚できないと助言することは
人として思慮に欠け、思いやりが不足していると思います。

ここにすべてを述べることはできませんが、
わたしのJW人生というのはある意味失恋の人生でした。
この現状は脱塔してからも変えることができていません。

自分から交際を申し込んだこともありました。
あるいは親身になって仲を取り持ってくれた
母親のような姉妹もいたのです。
別のときには、交際相手を紹介してもらったこともあります。
交際はしばらく続けることができたのですが、
相手の女性の話してくることや態度から、
この女性と結婚することは人生の破綻を招くと
結論せざるを得なくなり、両者合意の上で交際中止にしました。

思い出してみると気分が悪くなるようなことが多かったです。
わたしが人を見る目がなかったこともあるでしょう。
この人たちはほんとうに聖書やエホバの特質を
知っているのだろうかと幾度も当惑させられました。
楽園が来ることも信じていないようだとさえ、
思わされることも多々あったのです。

わたしは現在のところ聖書の神を信じていません。
一つだけ実感として感じていることはあります。
それはなにか人知を超えた力、計り知れない導きがあり、
-Something Great-と考えているのですが、
それが、わたしの人生全体を最善の方向へ
導いてくれているようなのです。

これまでの人生行路を振り返ってみると、
自分が何か得たい、実現させたい願望があったのですが、
それらが実現しないほうがよかったということが、
たくさん存在していたことに気が付きました。
現在でも結婚願望はあるのですが、
もしかするとそうできないほうが、しないほうが
わたしにとって最善なので、実現できないのかもしれない、
という考えに徐々に移行しつつあるところなのです。

たぶん、自分の心から結婚願望を削除できないでしょう。
でも、実現しないことが最善であれば、
それはそれで受け入れようと思いつつあります。

それぞれの人にとって何が最善か人間にはわかりませんから、
自分自身の人生を振り返って、自分自身で
最善とは何かを模索する必要があると思います。

最後にもう一度書きます。
障害があるから、病気だから結婚できないんだという
発言をする人は浅はかで軽率な人物だということです。

#15 Re: 総合フォーラム » 最近のjw事情 » 2017年10月07日 14:57:14

匿名希望さんの書き込み削除されたんでしょうか。
わたしはとても良い内容だと感じていました。
ちょっと残念です…。

#16 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~ » 2017年10月07日 08:25:23

#671の続きです。
第三章 「神学プロレゴメナ」について
「作品と作者の意図を読み解くには」です。
どうぞお楽しみください。
https://1drv.ms/b/s!AvwG6dj2GBi7rCiKUb7g7WraiAhK

作品としての聖書と聖書の著者の意図を
正しく読み解くことは果たして可能なのでしょうか。
JW組織の大きな誤りの一つは
聖書の著者の意図を捻じ曲げて解釈し、
それを一種の脅迫の手段として、
多くの人を支配しようとしたことだと思います…。

#17 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~ » 2017年10月05日 16:10:29

(2014/03/23)
JWICに投書した、わからなかったシリーズ三部作の
最初のものですが、13年以上たって読み返しても
まったくその通りだと思いますね…。

わたしにとってわからなかったこと-その一

最近、とある大きな書店に入ってユダヤ人関係の書籍を眺めていたら、見覚えのある
少女の白黒写真が表紙にあるのに目が留まった。どこかで見たような気がするなあと
思いながら、ぱらぱらと本をめくって最後に、その少女の現在の写真があり、
奥付などを読んでみると、やはり雑誌に掲載されたことのある姉妹の写真で、
少女時代の写真は2003・3・1号のものみの塔 9ページにあるものと同じだった。

この本は「ライオンに立ち向かって」というのが日本語タイトルで、
そのタイトルの上に「ナチ占領下で良心に従って生きた少女の記録」という
ことばもつけられていたので直感的にエホバの証人の本だと感じた。
なぜなら、エホバの証人は迫害されたときの表現で「ライオン」という
ことばを、ダニエル書から連想して好んで使うからだ。

この本は“FACING THE LION Memoirs of a Young Girl in Nazi Europe”という
英語タイトルがある。日本語版はドイツ語から翻訳されたことがあとがきに
記されており、著者は“シモーヌ・A・リープスター”という
現役で忠実なエホバの証人の姉妹である。そして、巻頭の謝辞のところには
統治体の成員であったロイド・バリー、ジョン・E・バーが本に書くことを
熱心に勧めたことが記されており、ブルックリンの協会にある保存資料からも協力を
得たことが述べられているので、エホバの証人公認の商業ルートの本だと思う。

組織を離れて、協会の出版物をほとんど読まなくなったわたしが
この本に興味を持ったのは、子どものときの記憶というものに関心があるからだ。
わたしは成人してからエホバの証人になったので、子どものころに
組織の主張する聖書の原則を守ろうとして、周囲の子どもから嫌がらせを受けたり、
大人から圧力を受けたことはないが、別の面でいじめや、大人からの
圧迫を受け大いに苦しんだので、それを書き記したら、原稿用紙で300枚を超えた。
形は違えど圧迫や圧力を受けたもの同士の共通点を知りたかったのである。
またどのようにして精神的にも生き延びることができたのかをも…。

しかしながらこれを購入しようとしたとき、組織を離れたわたしがこれを読むことに
よって、逆戻りさせられることになりはしないかという懸念も持った。
まあそのときはそのときで考えることにし、とりあえず読むことにした。
日本語訳で忠実なエホバの証人に関する本が発行されるのは極めてまれだと思っ
たからだ。

さて、日本語でエホバの証人の年鑑が発行されたのは1975年版が最初であり、
これには、第二次世界大戦当時のドイツでエホバの証人が受けた
迫害の記録が掲載され、わたしも夢中になって読んだ覚えがある。
そこには、リープスターが述べるように、幼い子どもたちが学校から
放校処分を受けたり、親から引き離されたことが記録されていたと思う。

そのような処置がなされたのは、ドイツ国旗に敬礼しないとか、
“ハイル・ヒトラー”などと、周囲の子どもたちといっしょに叫ばないという
理由だったと思うが、ほかにもあったかもしれない。
現在でも、学校生活で学級委員-今はクラス委員であろうか-を選ぶ選挙に参加しないとか、
校歌や国家を歌わないということが、聖書の原則にかなっているとされ、
その子どもが良心的に参加できないことだとされている。

聖書を学び始めたわたしは、ドイツの兄弟たちがとった行動は、聖書そのものの
原則にかなっていると思い込み夢中になって年鑑を読んだ。
でも、組織にいる時間が長くなり、聖書そのものを読み始めると、
組織が出版物で主張する聖書の原則はどこのどの聖句に基づいており、
それはいったい聖書のどこに書かれているのかと考え始めるようになった。

“ハイル・ヒトラー”と叫ぶときの-ハイル-ということばの意味は正確にわからないが、
万歳であるとか賛美だとか聞いている。国旗に対する敬礼は偶像崇拝だと言われている。
これの掲揚の参加については出版物は多くのことを述べている。

もし、ものみの塔の主張を聞かないで、聖書から直接これらの考えを示すように
求められたら、おそらく不可能であろう。直接は何も書かれていないのだから。
学齢期の子どものいる姉妹に学級委員を選ぶ選挙になぜ参加しないのかを
子どもに説明できるかどうかを質問してみたら、彼女は正直に自分もなぜそうなのか
わからないと述べていた。彼女は子どもにどうするのかを任せているそうだ。
長老に聞いても、出版物に書いてあることしか言わず、答えは決まっているので
聞かないとも言っていた。賢いと思う。

要するに、出版物にそう述べられているだけで、聖書の根拠はないのである。
それは当然で、聖書時代に学級委員などはなかったはずだ。
偶像については聖書には多く述べられており、バアルやタゴン、ネブカドネザルの建てた
像などがある。これを知らないエホバの証人がいるだろうか。
聖書に忠実でありたいなら、偶像は崇拝するべきではないが、何を偶像というかは
かなり難しく、個人によって判断はかなり違うだろう。

何しろ聖書は人間の欲望までいきすぎると偶像だと教えている。
貪欲だとか性欲などとうてい物理的には見えないものまで含んでいるのである。
国旗は過去において国家の象徴であったので敬礼することは国家崇拝だと
聞かされてきたが、現在の日本でもそうした意味合いがあるのであろうか。

結局“良心に従って”とは主張するが、いったい誰の良心なのか、わからなかった。
これらを考えていたときはJWICのことは知らなかったが、うすうす、
出版物を書いた人の良心、最終的には統治体の人々の良心だと思っていた。

当時小学校3年生の女の子が、学級で席がえをするときにくじ引きで決めることに
参加しないというのを聞いたことがある。くじ引きが聖書に反していると言っていた。
親もいたこともあって、わたしはものみの塔の中で、商店が景品としてくれる
くじはもらっても良心状の問題だと認めていること、箴言の書では
くじによって得られる結果はエホバからだと述べていることや、イスカリオテの
ユダが死んでから後任の使徒がくじによって選ばれたことなど、
悪い例ばかりでないことを話してあげたら、彼女たちは驚いていたと思う。

結局、エホバの証人は聖書を研究して信じていると主張するが、
普段からの会話を通しても、組織による聖書解釈を信じているのであって、
聖書そのものですらまともに読んでいないと思う。
わたしが奉仕会のプログラムで、毎日の聖書通読や全巻を読んだという人の
インタビューを扱うときに、これに応えてくれる人はほとんどいず、
奉仕の僕クラスでもいなかったのが現状である。

リープスターの本は500ページ以上あるので、読み終わってから
感想は後日ゆっくり書いてみたい。しかし、当時彼女たちが書いたという
楽園の絵画がたくさん掲載されていることは興味深い。

わたしは、組織の聖書解釈をひとつ残らず否定しているわけではないが、
個人として聖書を読んで、組織の聖書解釈に無理がある、あるいは、
根拠がどこにあるのかと思うことが多くなっていった。

たとえば、楽園についてである。わたしとしては休日に人々が海や山に出かけること、
つい近年までは自然と調和して生きてきたことを考慮すると、楽園の状態で
生活するほうが自然だと思うし、大好きだった死んだ祖母にも会いたいので、
復活もあってほしいという気持ちが今でもある。

エホバの証人がヘブライ語聖書と呼んでいる旧約聖書には楽園の情景を
心に描かせ、その到来を思わせる記述がいっぱいあるが、おもしろいことに
クリスチャンギリシャ語聖書-新約聖書-にはそうした記述がほとんどないのは
いったいなぜだろうか。もし指摘できるとしたら、ルカ23:43や啓示21:3,4ぐらいだろう。
わたしには「楽園が来る」という直接的な聖句を読んだ記憶がないのである。

アダムが禁じられた木の実を食べなければ、彼は死なずに永遠に生きたはずだと
いう主張がある。しかしその創世記の記録を読んでみると、食べると死ぬということだけ
述べられており、食べなければ永遠に生きられて死なないという記述もない。
だから、逆に解釈したい気持ちは理解できるが、その解釈が
神の意図や目的に、かなっているかどうかはわからないと思った。

太陽の寿命は100億年とか言われ、現在は50億年ぐらいだとか聞いている。
これが真実であれば、人間はそれをはるかに飛び越えて永遠にいたるわけだから、
太陽の寿命が尽き果て、なくなってしまうことになってしまう。
太陽が地球を飲み込むほど膨張するかどうかは別にして、物理的には
エネルギーがなくなってしまうわけだから、人間はどうなるのかという
考えが浮かんできた。しかし、エホバ神の全能性を考えて心配するのをやめたが、
これもわたしにはわからなかった。

ギリシャ語聖書を読むと、イエス・キリストや弟子たちが多くの奇跡をおこない、
死んだ人を生き返らせ、病気の人をいとも簡単に治している。
こうしたことが現在でもあればいいのにとわたしは思う。
組織の解釈ではそのような奇跡はイエスによる王国支配が始まったときに
大規模な仕方でおこなわれる奇跡の証拠だということになっている。

それはそのように考えれば、そうとも主張できるが、その聖書的な根拠は
何ですかと問われれば、わたしは聖書からの答えがわからない。

わたしがなかなか奉仕の僕や長老になれないので、どのような努力をすれば
よいのかを、巡回監督や会衆の長老に聞きにいっても、あいまいな返事しかなく、
出版物には彼らに援助を求めるように述べられているのに、
理解不可能な助言をされる理由がわからなかった。
しかし、いまとなってみればわたしが彼らにとって、その矛盾した物事の
扱い方を指摘するので、都合の悪い存在だったからだと気がついた。

結局、聖霊による任命などと神がかり的なことを言うけれど、
彼らの指図に盲従し、お気に入りにならなければいけなかったということだ。

組織は1919年にキリストが地上の組織を検閲してものみの塔の役員が
ご自分にかなっているとして判断し、忠実で思慮深い奴隷の代表として
任命したとか主張していることはずっと聞かされてきた。そうかもしれない。
聖書によれば、モーセの時代もイエスの時代も誰もが認識できて
理解できるような出来事があり、彼らには天からの声が聞こえていた。
だから、彼ら自身にもまわりの人々にもはっきりわかったはずである。

しかしながら、それ以降は天からのしるしや神からの声がはっきり聞こえたことは
確かめられていないのではなかろうか。だのに、彼らは自分たちが神やキリストから
任命されたなどということがどうしてわかるのだろうか。
自分で勝手に思い込む以外にないのではなかろうか。

末端のエホバの証人は善良な人が多いと思う。
しかし、自分の体験もネットで公表されている情報も組織の上層部に行くほど、
不思議なぐらい、偽善が蔓延していることを証明していると思う。
聖書に示されている全能の神はそうした偽善的な上層部の人間が運営する
組織を用いなければ、ご自分の意志や目的を知らせることができなかったのだろうか。
聖書に示されている神の善良さを考慮するとこれはわたしにとって大きななぞだ。

なぞだったことはたくさんあるので、再び書いてみたいと思う。
振り返ってみるとなぞだらけのことのかくも深くはまっていたのかというのも
大きな疑問ではあるが、自分で自分の気持ちを押し殺し、
疑問を感じさせないようにしてきたのであろうと思う。

《編集者より》
「ライオンに立ち向かって」という本は、
エホバの証人の第二次世界大戦中のドイツでの活動を賞賛する本として書かれ、
エホバの証人の間で広く読まれているようですが、
私は読んだことはありません。
ただ、エホバの証人とヒットラー政権との関係については、
ものみの塔協会の宣伝が余りに一方的で、
ヒットラーとの裏取引があったことに沈黙を守っている以上、
いかに「立ち向かった」と言っても、私には宣伝広告以上の意味は見出せません。
あなたも指摘している通り、末端のエホバの証人はドイツでも苦しんで、
永遠の命を信じて殺されたのかも知れませんが、
当時から上層部は偽善と腐敗が横行していました。
これは今も変わらないと思います。

永遠の命の希望ですが、これは私が何度も言ってきたことですが、
一見理論上は素晴らしいことに見えるが、
実際に人間が永遠に生きられるようになったら、
そのこと自体が最大の災いとなって人類は滅びるでしょう。
全てのいい事は「過ぎたるは及ばざるがごとし」なのです。
最高においしいご馳走でも、いつまでもたらふく食べ続ければ病気になるし、
人間が生きて行く上に不可欠の水も余りに多くなれば洪水で人は死に絶えます。
人生は確かに素晴らしいものですが、それが限りなく続いたら、
人口過剰で住む所も仕事もなく、食べる物もなくなるでしょう。
どんなにいい事でも、人生でもご馳走でも、
「もうちょっと」という所で終わるから本当の素晴らしさがあるのです。

「生」が続くためには「死」が不可欠なのです。
「死」は生物の世界で不可欠な重要な働きがあります。
私の住むオレゴンの川には、太平洋から鮭が産卵にのぼってきますが、
彼らは必死の思いで川を遡り、浅瀬で産卵をして死に絶えます。
そしてその死体は幼魚たちの重要な栄養源となります。
親魚の「死」は、幼魚たちの「生」にとって絶対に必要なことなのです。
「生」と「死」は、生物の存在にとって不可欠な「抱き合わせの」二つの現象です。
その抱き合わせの二つの現象から、「死」を取り除き
「生」だけを永遠に続けようというのは、
昔からある不老長寿の欲望の極端を行ったものであり、
私はこれは物質欲にかられて現実を見失った妄想だと思っています。
私は適当な時期が来たら、ご馳走を腹八分で終えて満足するように、
「人生ご馳走様」と言って感謝して死を迎えたいと思っています。
私たちが死に絶えて新しい世代が主役になること、
それが私たちの子孫にとって私たちができる最大の贈り物なのです。

#18 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~ » 2017年10月02日 17:19:03

#669の続きです。
第三章 「神学プロレゴメナ」について
「学者たちの高慢、抵抗する人々の高慢」です。
どうぞお楽しみください。
https://1drv.ms/b/s!AvwG6dj2GBi7rClQ4vOyzXlmJbKG

#19 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~ » 2017年09月26日 16:24:28

期待するような内容が得られるのかわかりませんが、
大野教会でもJWサロンやJWTCのとき、
相談に乗ってもらうこともできます。
教会に足を運ぶのは現役JWには抵抗があるでしょうが、
ご自分の未来がかかっているので、
活用できるものは何でも活用するのが最善だと思います…。

#20 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~ » 2017年09月22日 10:13:24

2004/2/28
JWICへの投書です。
わたしが組織に失望し、
去ろうとした理由が如実に述べられています…。

「組織における身体障害者の扱い方のひとつの実例」

エホバの証人の組織にも他の宗教と同じように身体に障害のある人が大勢交わっ
ています。わたしにも障害のある兄弟たちと親しい人がいましたが、そのひとり
の兄弟は最近集会に出席しなくなり、いつの間にか引っ越したのですが、彼が手
紙をくれたのです。

わたしの親しい友人として彼ら、障害者が異口同音に述べる事柄は、障害者に
とって仲間の証人たちよりも聖書を知らない世の人のほうが理解を示してくれ
て、親切であり、組織の中で障害者としての生活に息苦しさを感じ、不当に扱わ
れているというものです。

彼の手紙にはその一部が現れており、彼の許可を得ましたので、彼が特定されな
いように調整を加えて、投書してみることにしました。

なお、この手紙で述べられている、K兄弟は主催監督で、T兄弟は書記です。

また、決議の様子は偶然にもテープに録音され、それに基づいた彼の報告の内容
は以下のようなものです。

≪このときの決議の採り方ですが、最初に決議の内容が説明され、採決を取ると
きに『この決議に賛成でない方はおられますか?』と言われ、誰の手も上がりま
せんでした。その後『賛成でない方がおられないので、全員賛成でよろしいです
ね』と聞き返され、賛成の挙手が確認されずに全員賛成にされてしまったのです。

  二つ目は法的なもので、王国会館を建設するのでそれを公にする看板を立て
るというものでした。これをおこなうために法人団体である会衆の信者の賛成が
必要だという説明でした。このときも『この決議に賛成でない方はおられます
か』と言われ、誰の手も上がりませんでした。しかし、こちらの場合『賛成の
方、手を上げてください』と言われ、おおかたの手が上げられました。

  この後質問を受けるということでしたのでわたしは『これまで決議を採ると
きは伝道者の人数を数えておこなっていたのに今回から採り方が違うのはどうし
てでしょうか?』と質問しました。

  このようにして賛否の確認を確実に行う方法はK兄弟も以前からおこなって
いましたし、これまでの長老兄弟たちもずっとおこなってきたのです。しかし、
彼の返事は『兄弟のする質問の聖書的な根拠は何ですか?』とステージの上から
問い返してきました。そこでわたしは『根拠は別にありませんが、以前とは違う
のはどうしてかと思ったのです』と答えました。ここで一瞬ですが、彼は怒った
ような表情で顔を下に背けていました。

  その答えは『王国宣教に“大多数が賛成ならそれでよい”と書かれている』
というものでした。このときT兄弟も出席していましたが一言もありませんでし
た。これらは70人ほどの出席者のいる中でなされたものです。

  こうした返答に当惑したわたしは王国宣教84・7と94・2の質問箱を見つけました。ここには決議文を入念に準備して読むこと、質問を受けてから賛否の挙手を
おこなうことが記されています。この王国宣教以外に組織の指示があれば別です
が、この質問箱に照らし合わせてみた限り、明らかに採決の仕方は組織の指示と
は違うと思います。もしもこの決議の採り方が誤りであれば、このまま放置して
おくことは疑問を感じざるを得ません≫

O兄弟へ

  O兄弟には黙って転居してしまったことをたいへん申し訳なく思っていま
す。でも、わたしの心が落ち着いたら連絡するつもりであったこともたしかなこ
とです。また、わたしとしては会衆の人々に対して別れを告げずに転居するなど
というやり方がよいなどということは少しも考えておりません。しかしながら、
このような形にする以外に自分を精神的、もしくは身体的に廃人への道を突き進
んでしまうことを避ける手段を見つけることができませんでした。

  わたしはO兄弟がわたしのことをほんとうに気遣い、心配してくださってい
ることがよくわかりますので、長くなりますが、兄弟の人間性を信じて真実なこ
とをお話しておこうと思います。ただ、この手紙の内容が他の人、特に長老たち
に知られるとわたしを背教者扱いにし排斥に追い込もうとするかもしれません。
聖書的な観点に立てば、神とキリストに対する反逆が背教なのですが、組織に対
する反逆が背教であると言えば、わたしが背教したという解釈も出来るからで
す。わたしは断絶することや排斥されることを望んでいません。

  わたしが精神的におかしくなるような出来事はK会衆から分会したS会衆に
なってから、こまごましたことはたくさんありました。しかし、決定的に変化が
始まったのは、兄弟もご存知の出来事である、新王国会館建設の決議のときのこ
とでしょう。これはわたしの精神に大きな打撃を加えることになりました。

  わたしは王国会館の建設はよいことであり、賛成でした。わたしには反対す
る理由など何もないからです。でも、わたしは聖書と組織のやり方にしたがって
決議を採択してほしかったのです。それで、K兄弟の決議の取り方がどうしても
納得できなかったわたしは、索引を調査してそれに関する王国宣教をふたつ見つ
けました。

  それで、翌週その資料を持参してT兄弟にほんとうにあの決議のとり方でよ
いのかということを聞いたのです。彼の答えは、お金に関して銀行を移動させる
ことだけなので問題ないだろうということだったのです。わたしはそれでも、王
国宣教に書かれているようにしたほうがよいだろうと告げると、「書かれている
のなら仕方がない、兄弟は自分の気持ちに忠実なのはいいが、みんなが王国会館
のことで盛り上がっているのに、どうしてその意気をくじくようなことを言うの
か」と言い返してきたのです。

  この日、K兄弟は集会を休んでいました。こう言い返されてから、しばらく
話し合ったのですが内容は忘れてしまいました。徒労に終わったと思います。偶
然ですがその決議のときの内容はテープに録音されていたので、巡回のY兄弟に
これまでのいきさつを説明するときに用いました。

  A兄弟は断絶しましたが、このときまでK・Tの両人から不当な扱いを受け
ていましたし、二人が会計のことでも王国宣教や協会の指示通りおこなっていな
いことを知っていました。彼は彼で二人の長老に進言していたのですが、ことは
正されませんでした。それで、わたしと彼は連名で巡回監督に手紙を書き送った
のですが、やはりほとんど取り上げられなかったと思います。

  そのすぐ後の巡回訪問中にわたしは2時間ほど、Y兄弟と話し合いました。
彼の答えは決議を取らなかったわけではないので、いいのではないか。それにい
まさらやりなおすこともできない、というものでした。そして長老たちを徐々に
指導していくとも話しておられました。

  わたしはこの巡回訪問のあといくどか決議の採択に参加していますが、とて
も王国宣教どおりだと思えず、巡回監督が指導しているとも思えませんでした。
わたしにとっては信じがたい方法なのです。 

  さて、去年のX月にいきなり群の司会を交代させられたことについてです
が、わたしは交代になったこと自体に不平や不満があるのではありません。わた
しが不当だと思うのは、はっきりした理由を告げずにいきなり交代させるという
行為についてなのです。

  これはA兄弟が理由を告げられずにいきなり会計を交代させられたことと同
じで、この事件を彼から直接聞いているわたしは、大きな不信感を持ちました。
そして長老たち4人に集まってもらい、理由を聞きだす前に、C兄弟に相談した
ところ、聞いておいたほうがよいということもあったのです。しかし彼はこの時
点では長老に任命されたばかりでしたので、話し合いではただの一言も発言しま
せんでした。

  このときのいきさつについては電話でお話ししたとおりです。でももう一度
詳しく記してみたいと思います。わたしは4人の長老たちに時間を割いてくだ
さったことに感謝を述べてからだいたい次のようなことを言いました。

  わたしはバプテスマから25年、僕の任命をいただいてから14年以上、群の司
会者として7年以上奉仕してきたが、そのあいだ、3日ぐらいしか司会を休んでい
ない。高齢の兄弟たちの送り迎えもおこなってきた。王国会館で集会がなされて
いるときで、どうしても自分を背負ってくれる兄弟のいない場合は、階段を這っ
てあがったことも幾度かある。自分はエホバの預言者とは違うけれどもエホバで
すらご自分が事をおこなわれる前に、知らされる(アモス3:7)のであるから、
わたしが大切にしてきた奉仕を交代させる前にその理由を教えてほしい。そして
黙って交代させるのが神権的だと言うのであれば、その聖書的な根拠を聖書から
示してほしい。

  これについては誰も直接的にこたえませんでした。こののち、T兄弟は新し
い王国会館のトイレのことを持ち出してきたのです。このトイレの話というのは
わたしの人格に対する攻撃だと思います。

  わたしが初めて新しい王国会館に行ってトイレを見たとき失望したことはた
しかです。というのは、男子トイレのほうを最初に見たのであり、ここは車イス
が入ると扉が閉まらないほど狭かったからです。また、聖書をあれほど学んでい
るのに、わたしたち障害者はこの世界でトイレのことでも恥ずかしい思いをせね
ばならないのかと思いました。実際、E兄弟という人が車イス使用者のおとうさ
んを連れてきたときにそのトイレに入ったのですが、狭くてやりにくかったそう
です。それでしばらくわたしは古い王国会館で用を足しました。

  初めてトイレを見たときはドアに男子用女子用のマークは張っておらず、現
在のようにベビーや車イスのマークもありませんでした。それでわたしが、K兄
弟にこれらを聞くと、なんと女子トイレが車イス用もかねていることがわかった
のです。マークが貼られてから、そのトイレが障害者用もかねていて、男性も使
用する場合があることを大勢の兄弟姉妹たちに聞いてみましたが、誰も知らな
かったのです。S会衆以外の会衆の兄弟たちもその事実を知りませんでした。

  そのようなわけでわたしが初めて新しい王国会館に行った集会後にT兄弟か
ら、トイレはどうですかと聞かれたとき、非常に困惑してしどろもどろになって
しまいました。いくら使いようのないトイレでも、善意で作られたものに悪い返
事をしたくなかったのです。でもこうした気持ちを彼は気付きませんでしたし、
このときの困った様子を彼は悪い態度だと解釈したようです。こうしたいきさつ
は4人の長老たちのいるところで説明しましたが、彼らからは何のコメントもあ
りませんでした。

  このようなやり取りがあった後、K兄弟はわたしが司会を交代になった理由
について、自分で考えればわかるはずだとか、祈ればエホバが教えてくださるは
ずだとか言っていました。また、神権的だという聖書的な根拠については、それ
ほど長く聖書を学んでいるのにわからないのはおかしいと言って、第二会場を出
て聖書を持ってきたのですが、机の上にぽんと置き、ここに書かれているはずだ
と述べただけでそれを開きませんでした。

  実は、洞察の本によると、その神権的ということばはユダヤ人の歴史家ヨセ
フスが最初に用いたものです。彼は出版物にもよく登場しますが、クリスチャン
ではありませんでした。それにこのことばは聖書にはないのですから根拠はない
ことになります。

  この話し合いで、K兄弟はいろいろな質問をわたしにおこない、わたしの疑
問を別の方向に持っていこうとしましたので、わたしは、「わたしが質問してい
るのです、わたしの質問に答えてください」と強く主張して、決して話を刷りか
えられないようにしたのです。彼らは、自分が答えたくない質問をされると、よ
くこうしたことをします。

  実際、D兄弟は「わたしの以前いた会衆でも僕の兄弟が群の司会をしていた
が、仕事場が八王子になって集会に間に合わなくなってしまったところ、司会を
交代になった。彼は、時間に余裕ができたので、講演の準備が十分にできるよう
になって助かったと言っていた」という話をし始めたのです。

  このような話は、そうしたことがあったというだけでわたしの質問の答えに
はなっていません。このときの3人の態度を見て、わたしはこれ以上彼らを相手
にするのは無駄だと思い、話し合いをやめました。失望したのです。

  わたしはこうして集会に出席することや野外宣教に参加する意欲をなくして
ゆきました。

  この司会を交代すると同時におこなわれたのは群の配属の転換でした。わた
しは近所の群から3Kmぐらい離れた群に変更になり、これも何の断りもなくなさ
れたことです。以前の群のときはH兄弟のところでしたので車イスでも5分ぐら
いで行くことができ、体力的にも非常に助かっていました。

  でも配属になった群のほうはというのなら、まず自動車のあるところまで
350メートル(これはH兄弟の家よりも遠い)ぐらいを車イスで移動し、さらに
自動車で10分ほどかかります。しかも、夜の7時半からでした。長老たちの言い
分では駐車場もあるのでいいだろうということだったのですが、正直を言えばわ
たしにはきつい変化でした。ことさら雨でも降れば、傘を差して駐車場まで車イ
スで行くことはたいへんなことです。 

  わたしにはS県にわたしと同じ年で同じ障害を持つ、仲のよいエホバの証人
であった友人の兄弟がいます。ここで“であった”と書くのは去年のX月以来、
集会に行くことをやめ、エホバの証人としての活動をやめたからです。しかし、
彼は断絶や排斥ではありません。

  組織はものみの塔や王国宣教でインターネットにはポルノがはびこっていた
り、背教者などの情報がたくさんあるといって警告しています。わたしもそれを
信じていたのと、エホバの証人という項目を見るのがつまらなかったので、見る
ことはありませんでした。

  しかし、彼のところで、インターネットを見ているうちにほぼ30年前に扱わ
れた、ものみの塔の読者からの質問に関しての話が出てきたのです。わたしもそ
の質問についてはよく知っていました。そこで彼は言ったのです“兄弟が真実を
知りたければ見たほうがいいよ、でも、組織に忠実でありたいなら見ないほうが
いいよ”と。

  その話というのはもと統治体の成員であったレイモンド・フランズという人
の書いたものを英文から短く翻訳したものでした。わたしたちは出版物という形
で聖書の理解を与えられていますが、統治体でどのように討議されて、どのよう
に与えられるのかを知りませんので非常に興味を持ちました。エホバの証人は使
徒15章に記されている記録が1世紀の統治体の会合であると理解しています。

  でも、新世界訳聖書を読んでいても、ライニングヘッド以外には統治体とい
うことばは出てきませんし、数多くの書簡を書いたパウロも統治体には一言も言
及していません。使徒15章に記されている記録では、どのようないきさつで教義
が定められたのか、誰がどのような発言をしたのか述べられていますが、現代の
統治体ではそのようなことはわたしたちにはぜんぜん知らされません。そのよう
なわけで、インターネットで公表されていることに興味を持ったわけです。

  その情報の中には、組織が過去130年近くにわたって出版し、おこなってき
た事柄でわたしたちには知らせない事柄が非常に多く公表されていました。そし
て多くの兄弟や姉妹たちの苦痛や苦悶の叫びも記されており、わたしのこうむっ
てきた苦しみが特別なものではないことを知りました。その経験の中には長老た
ちから不当な扱いを受けたというものが多く、奉仕の僕からというのは見ること
がありませんでした。

  わたしはインターネットで公表されていることがすべて真実であるとは思い
ません。わたしは自分の知ったことを最初は否定したかったのです。自分が長年
真理だと信じていたことを覆されるのは非常に怖かったです。そして、公表され
ていることの真実性を確認する方法もありません。

  わたしはインターネットで公表されていることが自分の経験してきた事柄に
反していれば、その情報を否定することができたと思いますが、現実にはなぜ自
分が不当だと思える苦しみに会うのかということの裏づけになってしまいまし
た。それを真実なものとして受け入れざるを得なかったのです。それで、わたし
の得た結論は、末端の会衆の長老たちによっておこなわれているあさましい事柄
は組織の上層部から来ている体質で染み付いたものであり、事実上変化を望むべ
くもないというものになってしまいました。まったく残念です。 

  わたしは組織の提案によって(ものみの塔95.5.1 p13からの記事)聖書を
毎日読み、しかも新世界訳も含めて、他の翻訳を加え10冊分ぐらいは読み続けた
と思います。このうち新世界訳は3回以上全部通読していると思います。こうし
た行為を通じて組織がわたしたちに教えた聖書の理解と聖書そのものの述べてい
る事柄の違いを悟るようになってしまいました。

  いまでも聖書自体が述べる真実なことを愛する気持ちはあります。現在でも
毎朝聖書通読はおこなっているのですから。でも、自分が聖書に反しているとわ
かっている事柄を会衆の面前や伝道することが良心的にできなくなってしまった
のです。もし、演壇から、組織の聖書解釈と大幅に違ったことを聖書そのものか
ら説明させたとしても、背教者扱いされることはわかりきったことです。だから
わたしの良心は葛藤して破裂しそうでした。 

  そのようなわけで、神と他の人に対する責任から、良心的に考えて、自分と
兄弟姉妹たちを欺き続けることはできないという結論になりました。自分の気持
ちにうそを強要し続けることはうつ病などの精神障害を抱えることになり、O兄
弟も言われたように自殺願望を抱くことになるかもしれません。自分をそのよう
な状態にゆだねるわけにはいかないのです。

  それで、わたしとしては外部から組織が聖書的にも社会的にもどのように健
全になって行くのかを見守りたいと思います。そして、わたしの生きている間に
そのような状態に改善され、もどる必要性があれば、わたしは自分から戻るかも
しれません。

  ここに述べられたことはF兄弟もご存知です。もし、質問したいことがあれ
ば、お電話ください。よろこんで正直にお答えします。でも、決してエホバの証
人たちにはこの手紙を見せたりしないでください。O兄弟のこれまでのご親切に
深く深く感謝いたします。

《編集者より》
この身体障害を持つ方は幾つかの会衆内の問題を提起しています。まず身体障害者への配慮の問題があります。アメリカのエホバの証人の社会では、障害者への配慮は他の団体と比べて特に問題があるとは思えませんが、これは日本に特有な問題なのでしょうか。日本の社会は一般的に言って、障害者への配慮がアメリカなどに比べると少ないようですが、最近は改善されていると聞いています。

質問に対する率直な答えが与えられず、ごまかしたり、逆に質問者に対して差別や攻撃に出る体質は、エホバの証人の指導部の伝統的な体質です。これは、ある意味で日本的な風潮でもあり、特に日本で顕著なのではないでしょうか。つまり、「出る釘は打たれる」というか、「お上に逆らうな」というような態度は、長老や監督が組織の指導部として、エホバに通じているという観念に根付いているのでしょう。そのような権威的な指導部に対して、率直な質問をすることは失礼であるし、実際に指導部が答えられない時にその権威が失墜することになるので(そうははっきり言いませんが)、質問を控えるように、という暗黙の了解が社会の中に出来上がっているのではないでしょうか。疑問を持つより、盲目的に従うことが美徳とされる社会なのです。やはり日々の問題の中に、組織全体の本質的な問題が反映していると思います。

#21 Re: 総合フォーラム » 生きてくのに「人生の目的」は必要か? » 2017年09月22日 09:50:15

てつてつさん、
よいお話は何度聞いてもいいものですね。
「良心の危機」の引用箇所はわたしももっとも好きな部分です。
人間としてそれぐらいしかできないだろうと思うからです。
「愛と心理療法」もとても良い本です。
現役のころ20年以上前から読んでいました。
だから、JWの生き方の間違いも気が付きやすかったかもです。
脱塔を考えている人たちにも、
現役で人生を再考しようという人にも
ぜひ、お読みいただきたい本です…。

#22 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~ » 2017年09月22日 09:41:00

#668の続きです。
第三章 「神学プロレゴメナ」について
「聖書解釈の歴史と世界観の変遷」です。
どうぞお楽しみください。
https://1drv.ms/b/s!AvwG6dj2GBi7rCof7ulhkIYYqz3s

#23 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~ » 2017年09月16日 15:26:09

#662の続きです。
第三章 「神学プロレゴメナ」について
「歴史を批判的に検討し全体像を描く」です。
どうぞお楽しみください。
https://1drv.ms/b/s!AvwG6dj2GBi7rC3qK7NOxw7SxkeP

#24 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~ » 2017年09月08日 16:06:22

#659の続きです。
第三章 「神学プロレゴメナ」について
「哲学的な前提に基づいた聖書理解」です。
どうぞお楽しみください。
https://1drv.ms/b/s!AvwG6dj2GBi7rCtFdgsV_D89UpqZ

#25 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~ » 2017年09月08日 16:00:54

聖書を物語として読むことを知り、
しばらくしてからすべての記録が物語であり、
歴史を正確に記述して記録することが
不可能であることに気づきました。

一例として自分史があります。
わたしは40歳を過ぎてから30年以上前、
施設で生活していた7年近くのことを
原稿用紙で320枚以上書いたことがあります。
誠実さを込めて正確な記述になるよう挑戦したのです。
それから10年以上経過して、
当時の事情を知っている関係者と話し合うチャンスがあり、
確認してみるとわたしの思い込みや
間違いも多々記述されていたことがわかりました。
7歳からの記憶をたどったのですが、
幼いこともあって、名称が不明のことや、
起きた出来事の意味もわからないことがありました。

重要だと思うことは、その施設でわたしの身に
起きていたことと同時進行で生じた出来事は多くあり、
ひとりの人間の能力では把握しきれないということです。
だから、自分に起きた出来事を思い出し、
何を記述するのか取捨選択する必要がどうしてもあります。

個人に関することでも正確に記録することは
不可能なのですから、まして世界の歴史などは
とうてい不可能なことでしょう。

ですから、伝えたいということを
物語にして残すほうが優れていると思いました。
最近のわたしは、ニュースでも報道番組でも、
伝達者が伝えたいという情報を取捨選択して、
物語風に伝えていると考えるようになりました。
けっきょく出来事のすべては伝えられないので、
それぞれの人が必要だと判断したことを
情報媒体を用いて記録する以外にないのだろうと思います。

たぶん、聖書もそのようなものでしょう…。

実に、イエスの行われた事はほかにも多くあるが、
仮にそれが事細かに記されたとすれば、
世界そのものといえども、その書かれた巻き物を
収めることはできないであろうと思う。
-ヨハネ21:35

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