#26 2015年09月26日 10:55:40
- Kohelet
- ゲストユーザー
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
もんもんさん、応答いただきありがとうございました。
>普段は天におられますが、雲の形で、ホレブの山に下ってくることもあります。
なるほど、エホバはやはり「(天の)天」にじっと座しておられるわけではなく、何かの形になって地上界に来られる場合があるのですね。これはJWの教理にもみられることでしょうか?
私見では、「雲」は「雲の柱」の場合のように神の臨在の象徴であり、エホバが「雲」に化したというのは、釈義的には無理な感じがします。
しかし、仮に、エホバが「雲の形で、ホレブの山に下」ったのだとしたら、創世記17章および18章でも、エホバが「人の形で、アブラハムの前に現れた」のだと読まないとバランスがとれないのではないでしょうか?
原文では同じく「エホバ」と書いてあるのに、創世記17:1や18:1は、エホバではなく「み使い」が来たのだと言い、出エジプト記34:5では、書いてあるとおり「エホバ」が来たのだと言うなら、なぜ創世記では「エホバ」を「(エホバの)み使い」と読み替えなければいけないのか・・・その理由が問われます。
このスレッドのテーマに限って言えば、JWの公式見解では18章でアブラハムを訪れた三人のうちの一人を「(エホバの)み使い」と解釈するそうですが、書かれているとおり「エホバ」が人の形になってアブラハムの前に現れたと読んでもいいのではないでしょうか?
ちなみに、出エジプト記で「エホバが(天から)おりてくる」といった表現は他に19:11,18,20。
編集者 Kohelet (2015年09月26日 11:03:11)
#27 2015年09月26日 11:45:13
- カレブ
- Administrator
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
>原文では同じく「エホバ」と書いてあるのに、創世記17:1や18:1は、エホバではなく「み使い」が来たのだと言い
コヘレトさん おはようございます。
要するに18章でアブラハムを訪れた三人は
三位一体の「父と子と聖霊」であるという
結論ですかね。
ちなみに1世紀のユダヤ人のヨセフスも
アブラハムを訪問したのは「み使い」であると
述べていますので、エホバの証人のこの部分の理解、
つまり「エホバ」がみ使いを通して現れたという解釈は
特別不自然なものではないと思います。
逆にロトが二人の「み使いたち」に対して「エホバ」と呼びかけているのはどのように説明するのでしょうか?
創世記19:18
「そのときロトはその人々に言った,「エホバ,どうかそのようにではなく! …」」
オフライン
#28 2015年09月26日 12:38:11
- 通りすがり
- ゲストユーザー
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
この“み使い”は高慢か、あるいはこの部分の創作者は全巻との調和に欠けていると思います。
というのも、「善い師よ」と呼びかけるだけでイエスはそれを拒んで間違いを叱責されたのに、このみ使いは「エホバ」という固有名称で呼びかけられているのを受け入れています。
スレの観点からはズレていますが、この点気になります。結局、聖書の記述は日和見的であり、「エホバ」というのも概念にすぎず、イエスの指摘も恣意的かあるいは論議の主導権を取るための揚げ足取りに思えてきます。
やはり聖書の記述の一字一句を不謬として神聖視するのは聖書自身が禁じている偶像礼拝になります。聖書そのものはもともと、ローマ帝国時代に皇帝から各植民地の賢者たちにその土地その土地の聖典をまとめさせて表面的に自治尊重を演出したときの遺産であり、その時、ユダヤ地方の賢者たち(正確にはエルサレムから追放されてエジプトに逃れ、苦虫を噛み潰していつか終わらせてやる!と終末思想にたどりついた“学者たち”)が、他の諸国の聖典より拍のつく内容に祭り上げて書かれた粉飾にすぎません。(その証拠に、シリア地方の賢者たちが自分たちの歴史の古さを強調した聖典の報告をローマ皇帝に伝えたため、ユダヤの賢者たちはユダヤの歴史の古さを水増しするためにメトセラが900才だとか有り得ない年齢を主張する結果となったのです。)
古代の記録の写本伝承の正確さはやはり、我が国のヲシテ文献のほうが上手です。古代ヲシテ仮名で五七五七音で数百アヤ記録されたわけで、書き写す際に音の制約があるため間違えようがありません。
いずれにせよ、聖書を神聖視して間違いないものとするのは偶像礼拝であり、本来は参考程度にすべきです。そして、聖書よりも古い時代のあらゆる古代社会の研究もバランスよく行うことで、機転の利く理解が進むのです。聖書創作者を教え導いた古代社会があるかもしれないのですから。
古代の
#29 2015年09月26日 12:51:09
- 通りすがり
- ゲストユーザー
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
古代の(有史以前の)理解を深めるまえに、上の投稿の根拠となる「 乗っ取られた聖書 [ 秦剛平 ]」(京大)が有益です。
#30 2015年09月26日 13:34:58
- さやか 666
- ゲストユーザー
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
神様からの手紙として 言葉や文脈のひとつひとつに細心の注意をはらっておられるかたもいらっしゃるのですよ
神様のメッセージの益をもらさず尚且つ誤解せず受けとりたいという誠実な願いでしょう
「そもそも聖書ってのは」というそもそも論になっちゃうと 議論が尻すぼみになることもありますから(ワタシが語る資格はありませんが)
聖書信仰者は繊細で発言の場所を入念に選ぶ傾向があるのかなと感じています
たとえ 他者からは空騒ぎに見えても 解釈を巡って盛り上がるのをそっとしておくのも紳士淑女の心配りなのかな……
と、 一番言う資格の無い私が敢えて言います。
#31 2015年09月26日 20:08:29
- akame
- ゲストユーザー
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
さやかさん
>聖書信仰者は繊細で発言の場所を入念に選ぶ傾向があるのかなと感じています
私から見れば、組織を信仰をする方と似ています。
自分が傷つかないように気をつけている、という意味では繊細ですが、
人情においては鈍感になっていると思います。
#34 2015年09月26日 22:11:42
- もんもん
- メンバー
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
通りすがりさん
>いずれにせよ、聖書を神聖視して間違いないものとするのは偶像礼拝であり、本来は参考程度にすべきです。そして、聖書よりも古い時代のあらゆる古代社会の研究もバランスよく行うことで、機転の利く理解が進むのです。聖書創作者を教え導いた古代社会があるかもしれないのですから。
聖書を一字一句、間違いないものとしては無理があります。ですから、当時の聖書研究者が行ったように、聖書の各巻を調べて、それぞれの、言葉や思想の関連づけから、全体のテーマを、調べたほうがよいように感じます。そうすれば、聖書が何を伝えたいために書かれたのかという目的を知ることができます。そのテーマが見えれば、聖書を、首尾一貫させて読むことができます。決して、日和見な書物ではありません。
編集者 もんもん (2015年09月26日 22:12:44)
オフライン
#35 2015年09月26日 22:13:43
- akame
- ゲストユーザー
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
>いつでも上から目線なんですか。
もんもんさんこそ、そのようにして
上から見ておられますよ。
私は原理的な信仰は人間の敵だと考えていますから、そのような考えを抱く方には遠慮なく発言します。
また、その種の信仰は多少の反論にも耐えながらの説明責任があると感じています。
あまり長く書けないので丁重さに欠けるとは思いますが、それ以外の方にそうしたいと考えたことはありません。
私の考え方が間違いなら具体的にご指摘をしていただけますか?
#36 2015年09月26日 22:16:17
- Kohelet
- ゲストユーザー
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
もんもんさん、度重なるご返答を感謝します。
>雲(という存在)になって出現したという僕の言い方は、誤解がありました。そこから、神の声が聞こえてくるという感じです。
恐縮です。誤解だなんて・・・私の言い方も独断的で失礼があったと気づかされました。申し訳ございません。聖書の解釈には多様性があると思います。お互いに穏やかにいきましょう。
それにしても神の声が聞こえてくる感じというのは、私の理解では典型的な人格神観だと思います。私の神観と一致します。
ただ、私は「神の声」を聞いた体験はありません。そういう体験を持っている人がおられますが、私はエホバの声を聞いたこともなければ、もちろん、その姿の一部も見たことはありません。臨在を感じたこともありません。エホバ神との距離は、つかず離れずです。
#37 2015年09月26日 22:52:33
- Kohelet
- ゲストユーザー
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
>要するに18章でアブラハムを訪れた三人は三位一体の「父と子と聖霊」であるという結論ですかね。
カレブさんは、私のことを誤解しておられるようです。私はクリスチャンではありますが、「三位一体」の教義を盲信するクリスチャンではありません。特に。創世記18章の「三人の訪問者」に「三位一体の神」を読み込むのは、プロテスタントの中でも「福音派」と呼ばれる連中です。正統的キリスト教の教義を刷り込まれている人々です。私はこれらの人々とは違います。もし私が「福音派」のクリスチャンなら、この掲示板に参加していることはないし、参加しているとしてもJWに対して好意的な書き込みはしないでしょう。この掲示板の問答の中でも述べていますが、私は創世記18章の「三人」の一人が「エホバ」ではなく、その「み使い」であるとの解釈は、自分の信仰とは一致するのです。しかし聖書釈義としては無理があると述べています。信仰内容と、聖書解釈とは必ずしも一致しません。それは原典釈義にはそれ相応の学問的ルールがあるからです。例としては不適切かも知れませんが、自民党を支持している憲法学者も、安保法案の集団的自衛権については憲法違反であると言わざるを得ないのと似ています。いかにJWを支持し、その教理が自分の信仰内容と一致していても、神学的にみればJWの教理に無理があることを認めざるを得ないのです。それが良心というものでしょう。
>逆にロトが二人の「み使いたち」に対して「エホバ」と呼びかけているのはどのように説明するのでしょうか?
ロトが「二人の『み使いたち』に対して『エホバ』と呼びかけている」などと、聖書のどこにも書いてありません。簡単な話なのです。そのまま受け取ればよろしい。ロトは「み使いたち」に対してではなく、まさしく「エホバ」(原文では「彼」)に言ったのです、福音派のクリスチャンは、そもそも「三人」を「み使いたち」とは信じていません。
今、ちょっと酔っているんで、何かおかしなことを書き込んでいましたら、御容赦願います。
#38 2015年09月26日 23:28:36
- カレブ
- Administrator
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
カレブさんは、私のことを誤解しておられるようです。私はクリスチャンではありますが、「三位一体」の教義を盲信するクリスチャンではありません。特に。創世記18章の「三人の訪問者」に「三位一体の神」を読み込むのは、プロテスタントの中でも「福音派」と呼ばれる連中です。正統的キリスト教の教義を刷り込まれている人々です。私はこれらの人々とは違います。
コヘレトさん
ご自分の立場の説明ありがとうございます。
わたしもトピックの内容をあまり読み込んでいないので、いろいろ勘違いあるかもしれません。実はまだ要点がわかっていません。汗
いま少し調べて気が付いたのですが
アメリカ標準訳(ASV)は創世記19:18を「my load」と訳していますね。
結構あるんですが、ものみの塔は原文が「アドナイ」となっていても”復元”と称して勝手にYHWHがアドナイに変えられたのだと判断して「エホバ」に訳している部分があるので、この聖句自体があやしい感じがしました。
もしかしたらYHWHと出ている古代の写本があるのかもしれないですが、現時点では怪しい感じがしました。
もしYHWHとなっている写本が一つもないのに「エホバ」と”復元”している箇所であるなら、それはそれでエホバの証人側の大きな問題ですね。そうなるとわたしの創世記19:18の指摘も無効になります。
オフライン
#39 2015年09月26日 23:34:44
- さやか 666
- ゲストユーザー
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
聖書談義の場でしたね
貴重な場を奪うつもりはございません
上から目線は男性の上司からもたまに指摘されますが ニュアンス的に誉め言葉として言われますので もんもんさんに言われても「また言われたか」という程度です
ただ年相応の人間性を身に付けたいなという願いはありますので精進して参りたいと思います
談義お続け下さい
#40 2015年09月27日 06:01:53
- run
- ゲストユーザー
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
Koheletさん、もんもんさん、はじめまして。
出エジプト記を通して、火や雲(たとえば、燃える芝、雲の柱)というのは、エホバの出現をあらわす象徴となっています。
そうですね。出エジプト記でも次のように書かれています。
出エジプト記13:21
そしてエホバは彼らの前方を行かれ,昼は雲の柱のうちにあってその道を導き,夜は火の柱のうちにあって彼らに光を与え,こうして昼も夜も進めるようにされた。
エホバは雲の柱のうちにあってイスラエルの民を導かれました。
ところが新約聖書では、そのイスラエルの民を導いたのはキリストだったと言われています。
Ⅰコリント10:1~4
兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。
パウロは、イスラエルの民に離れずについて来たお方は【キリストだった】と明確に述べておられます。
また、サムエル第二22:32では、
【主(エホバ)のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない】とあります。
エホバだけがイスラエルの【岩】です。
ところがパウロは、【この岩こそキリストだったのです】と教えています。
そしてイスラエルの民は、イスラエルの岩なるイエスを信じることができず、
【つまずきの石/妨げの岩】につまずいたのです。
書き逃げゴメン。C= C= C= ┌(;・_・)┘
#41 2015年09月27日 06:19:33
- akame
- ゲストユーザー
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
>精進して参りたいと思います
そうではあっても、さやかさんらしさを失わないように願います。
心では「世の人」とか思いながら、丁寧でネットリとした言い回しはJWの偽善活動でウンザリです。
#42 2015年09月27日 10:38:12
- Kohelet
- ゲストユーザー
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
カレブさん、おはようございます。ためになる御返信をありがとうございました。
アメリカ標準訳(ASV)は創世記19:18を「my load」と訳していますね。結構あるんですが、ものみの塔は原文が「アドナイ」となっていても”復元”と称して勝手にYHWHがアドナイに変えられたのだと判断して「エホバ」に訳している部分があるので、この聖句自体があやしい感じがしました。もしかしたらYHWHと出ている古代の写本があるのかもしれないですが、現時点では怪しい感じがしました。もしYHWHとなっている写本が一つもないのに「エホバ」と”復元”している箇所であるなら、それはそれでエホバの証人側の大きな問題ですね。
RSVやNRSVも「アドナイ」(わが主よ)を「my load」と訳しており、日本の聖書では新改訳、新共同訳、月本(岩波版)訳がいずれも「主よ」で、協会(口語)訳は「わが主よ」でした。
原文では「YHWH」ではなく「アドナイ」なので、私が書いたことはおかしなことでした。訂正します。新世界訳が19:18で「アドナイ」を「エホバ」と訳していること自体は、この場合の「わが主よ」の「主」は文脈的にみて「エホバ」だとみるのが自然であって、一般的には「(エホバの)み使い」ではないという意味で書きました。
しかしJWの教理に従えば、ここは「エホバ」と訳していても「エホバご自身」ではなく、「エホバの代理としてのみ使い」、あくまでも「み使い」なんですよね。17~18節の発言者は15節の発言者である「み使いたち」の「そのひとり」だからです。原文では17節の主語は「彼」になっており、一般のキリスト教ではこの「彼」を神ご自身であると理解し、天使とは解しません。しかし、18節でロトが語りかけている相手は「彼ら」なので17節の「彼」は古代訳の多くが「彼ら」であり「み使いたち」を示唆します。
JWの説に有利なのは、15節と17節には「あなたが滅びないように(ペン ティサーフェー)」という共通句があることです。これは発言者の同一性を示唆するからです。
いずれにしても、信仰的には「三人」をすべて「み使い」と解し、そのうちの一人をエホバの代理とみなすJW説に私は賛成です。逆にこの「三人」を父と子と聖霊の「三位一体」と解する正統主義者の説は比喩とか類比にもならず、ただ教義を読み込んだだけだと思います。でも解釈である以上、どちらも絶対化することはできません。しかし繰り返しになりますが、17節の「わが主よ」の「主」を神ご自身だと解釈することが釈義的にはいちばん無理がないように感じます。そこに自分にとって信仰と聖書解釈とが必ずしも一致しないという現実があります。・・・昨夜は、以上のような趣旨で書き込みました。
編集者 Kohelet (2015年09月27日 10:38:56)
#43 2015年09月28日 22:11:20
- もんもん
- メンバー
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
akameさん
>いつでも上から目線なんですか。
もんもんさんこそ、そのようにして
上から見ておられますよ。私は原理的な信仰は人間の敵だと考えていますから、そのような考えを抱く方には遠慮なく発言します。
また、その種の信仰は多少の反論にも耐えながらの説明責任があると感じています。
あまり長く書けないので丁重さに欠けるとは思いますが、それ以外の方にそうしたいと考えたことはありません。
私の考え方が間違いなら具体的にご指摘をしていただけますか?
スレッドのタイトル「創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。」ということと、質問者様の意図と、聖書談義の掲示板ということを、もうすこし考慮していただけませんか。
akameさんの思想や考え方を批判しているのではなくって、自分と異なる感じ方の人が話をしていることを、考慮してほしいということです。
言葉づかいは、失礼しました。すいません。
編集者 もんもん (2015年09月28日 22:23:54)
オフライン
#46 2015年09月29日 06:07:16
- run
- ゲストユーザー
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
パウロがキリストといっているのは、モーセが杖をつかって、水がでた岩のことじゃないですか???
ではパウロは、単に物質的な岩について語っていたのか、
もう一度聖書箇所を確認してみましょう。
出エジプト記13:21
そしてエホバは彼らの前方を行かれ,昼は雲の柱のうちにあってその道を導き,夜は火の柱のうちにあって彼らに光を与え,こうして昼も夜も進めるようにされた。
Ⅰコリント10:1~4
兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。
先ず、【エホバは彼らの前方を行かれ,昼は雲の柱のうちにあってその道を導き】とありますが、
誰がイスラエルの民から離れずについて来たのでしょうか。
それは【キリストだった】とパウロは教えております。
と同時に、イスラエルにとって霊的な岩はエホバだけですが、
イスラエルの民に離れずについて来た霊的な岩はキリストだったとパウロは教えているのです。
というわけで、パウロは単に物質的な岩について語っているのではないということが解ります。
#47 2015年09月29日 06:08:37
- さやか 666
- ゲストユーザー
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
確かに
聖書にとって書き出しの創世記は大切ですからね
もんもんさん 引き続き頑張ってください
#48 2015年09月29日 16:33:24
- 1,000時間奉仕者
- ゲストユーザー
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
ずいぶん進んだ論議になってしまったので、今さら持ち出すのも気が引けるのですが……。
大阪に住む私の姪っ子の中学校入学式の式次第の中に「大阪市長挨拶」とあったのを見て、妹が「げ、ナマ橋下を見られるのん?‼」と興奮したら、市長代理の誰かさんの弁論でガッカリ……という笑い話を聞きました。
ま、要するに、日本国を代表して天皇陛下が、とか、本人が忙しいので首相代理として官房長官や外相が、といった具合に、「エホバが」という主語を見てもそれが即、エホバご本人が、と受け取る必要はない……と論じたかっただけです。
エホバは全披造物を管理?しておられるお忙しい方です。地球の事だけに関わっらってはいられません。代理を立てて当然じゃないですか?
なんか、レベルの低い発言で恐れ入ります……。皆さん三位一体が△△、みたいな高度なディベートになってて、恐縮です f(^_^;)
#49 2015年09月29日 22:58:00
- Kohelet
- ゲストユーザー
Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。
1,000時間奉仕者さん、ありがとうございました。この問答はそろそろ潮時のようですね。
>エホバは全披造物を管理?しておられるお忙しい方です。地球の事だけに関わっらってはいられません。代理を立てて当然じゃないですか?
そう思えば気がラクになります。実はある旧約聖書の専門家から以下の指摘を受けました。
アブラハムに現れた3人の天使は「神意のメッセンジャー」としての「神の使い」で、旧約の表象世界では、被造者的な「み使い」と「神」との間が曖昧です。「流動的」と言うのがよいでしょう。そこで、変幻自在に、「み使い」として現れたり、「神」として意味づけられたりする。アブラハム物語はまさにその揺らぎを示しています。神の権威で対話する「使い」は神としか言いようがないので、アブラハムとの対話を終えて、ソドムに赴くときには、「み使い」は2人に減る。19:15では「み使いたち」がロトに呼びかける。しかし、ロトはこのみ使いたちに語りかけるときには、「あなた」と、単数扱いに変化する。21では、この2人の使いは「わたしは」と、1人称で語り出し、ツォアルを「滅ぼさない」という。まさに処罰を下す、1人なる神として行動する。聖書の読み手がファンダメンタルな人ほど、神と被造者(み使い)のどちらかをはっきりさせたいという、合理主義的な欲望を働かせます。神の自由と書き手の想像力を重んじましょう。
そうなんです・・・結局、主旨は1,000時間奉仕者さんがおっしゃるとおりです。「エホバ」か「み使い」か、いずれかに決めないと気が済まないというのが私の傲慢だったんですね
編集者 Kohelet (2015年09月29日 23:00:06)