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#1576 2025年05月30日 14:45:17

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“信仰によって歩んでいますか(12)”で、これからも組織の言いなりの人生を歩みなさい、という内容です。」
「4節に“これから信仰によって歩むことが大切な3つの分野を考えてみましょう。仕事を選ぶとき,結婚相手を選ぶとき,神が責任を委ねている人たちからの指示を受けるときです。”とある。信者の人生を管理統制しようというわけだ。カルトらしいね。」

「JWには自分の人生を自分で決めることは許されないのですね。気の毒です。」
「一度も会ったことのないニューヨークにいる老人たちに自分の人生を決めてもらうなんて、カルト信者以外ありえない。」

「2節に“パウロは,自分と仲間の兄弟姉妹が「見えるものによってではなく信仰によって歩んでいる」と言いました。(コリ二 5:7)何を言おうとしていたのでしょうか。”と問いかけます。その答えは“信仰によって歩む人は,エホバを信頼して決定します。また,聖書に書かれているエホバのアドバイスに従えば,エホバが必ず支えてくれて良い結果になる,と信じています。”というものですが、パウロはそんなことを言っていません。」
「JW流の聖書の珍解釈がよくわかって、勉強になるよ。」

「コリント二5:6で“この体を住まいとしている間は主から離れていることを知っています。”とあります。その状態を5:7で“見えるものによってではなく信仰によって歩んでいるのです。”と言い換えたというのが文章の流れです。」
「今の状態がイエスから離れた状態だというと、今の状態はイエスから離れたダメな状態と誤解される。そこで、信仰によって歩んでいるものにとっては見えないけれどイエスは身近にいる、と補足した。そして5:8では“この体から離れて主のもとに住まいを持ちたいと思っています。”と将来のことを語るわけ。」

「JWでは144000人だけが天への希望を持つとさらなる珍解釈をしています。」
「もちろん、パウロはそんなことを言っていない。この144000人の教義も新しい光によって、いつかは捨てると思うよ。」

「3節で“信仰によって歩んでいくなら,将来いつまでも生きられるようになります。(コリント第二 4:18を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。そこには“私たちは,見えるものではなく見えないものに目を留めます。見えるものは一時的ですが,見えないものは永遠だからです。”とあるだけです。」
「見えるもの=一時的、見えないもの=永遠という関係を言っているだけだね。この場合、見えるものは今の世界のことで、見えないものは来るべき新しい世界のこと。したがって今の苦難は一時的だけれど、来るべき世界でのご褒美は永遠と、信者を励ましている。」

「5から9節が“仕事を選ぶとき”です。  信仰によって歩むと仕事も制約を受けるようです。6節に“信仰によって歩んでいるなら,仕事を選ぶとき,エホバとの絆にどう影響するかも考えます。”とあります。“その仕事をすると,エホバが嫌うことに関わることになるでしょうか。(格 6:16-19)エホバへの崇拝がおろそかになったり,家族と長い間離れ離れになったりするでしょうか。(フィリ 1:10)もしそうなら,その仕事には就かない方がいいでしょう。”と言っています。他に仕事がなかったらどうするのですか?組織は責任を取ってくれませんよ。」
「答えは6節にある。“たとえ仕事を見つけるのが大変だとしても,エホバが必ず養ってくれると信じて決定します。(マタ 6:33。ヘブライ 13:5を読む。)”とある。エホバが養ってくれることを前提に、職をえり好みしなさいということらしい。」

「読むように指定されているヘブライ13:5には“神はこう言っています。「私は決してあなたを離れず,決してあなたを見捨てない」。”とありますが、これは聖書のどこに書いてあるのですか?」
「このとおりに書かれている所はない。新約聖書の作者の旧約聖書からの引用は、ギリシャ語訳からだけど、極めていい加減なものなの。神はそんなこと言っていないよ。」

「7,8節はハビエル兄弟の話です。よくあるパターンの話で、給料の高い仕事があったけれど、それを断り、開拓者になったというものです。こうやって一人の信者の人生が破壊されていくわけです。」
「JWには給料の高い仕事と開拓者の2つの選択肢だけで、その他の選択肢はないのが不思議だ。」

「8節で“数カ月後にはパートの仕事が見つかりました。兄弟はこう言っています。「エホバは私の祈りを聞いて,開拓奉仕がしやすい仕事を与えてくれました。・・・”とあります。パートの仕事を見つけるのに数カ月かかったのですね。その間エホバが養ってくれたのか、それとも失業保険で暮らしていたのか知りたいです。」
「エホバが与えてくれた“開拓奉仕がしやすい仕事”が具体的に何か知りたいね。愛に満ちたエホバの御業をなぜ詳しく書かないのか不思議だ。」

「全知全能の神が与えてくれた仕事がパートの仕事とは・・・。短時間で高収入で安定して、福利厚生も充実している仕事を与える能力はないのですね。」
「エホバよりも、転職サイトの方が役に立つということだね。世界中で悲惨なことがたくさん起きても助けることはないのに、JWにパートの仕事をあっせんする神というのは理解できないね。」

「9節はトレゾール兄弟の話です。“兄弟は残業のせいで集会を休みがちになりました。会社では,不正を隠すようにとプレッシャーをかけられました。”とあります。そしてこの兄弟は仕事を辞めます。」
「たいていの会社はなぜかJWに不正を隠すように指示するね。JWはパート労働者じゃないの?不思議だな。」

「この兄弟は“雇い主はたいてい従業員に対して,良い給料を払っているんだから,家族や宗教などどんなものも犠牲にして働くのは当然だ,と考えます。”と言っていますが、偏見に満ちた発言です。この人は法律無視のブラック企業でしか働いたことがないのでしょう。」
「JWという宗教ゆえに職場で差別などの不当な扱いがあったとすると、組織はすぐに裁判に訴えるよ。訴訟好きの組織だからね。でもそんな裁判は聞いたことないな。」

「この兄弟の結論は“エホバとの絆を一番大切にしようとすると,お金の面で苦労することもありますが,エホバは必ず支えてくれます。”というものです。この兄弟がそうだったからと言って、様々な条件が違う他のJWがそうだということにはなりません。年齢が進むと、パートの仕事だってなかなか難しいですよ。」
「この結論を一個人の発言としているのがズルいね。組織は仕事を辞めて開拓奉仕をしなさいとか、仕事を辞めてもエホバが支えてくれるなんて言っていません、その種の発言があったとしたらそれは一個人の発言です、と何か問題があっても逃げられるようにしている。」

「10から12節が“結婚相手を選ぶとき”です。  JWは自由に結婚相手を決めることはできません。11節に具体的な話が出てきます。まず“例えば,聖書のアドバイスの通り,「若さの盛り」を過ぎてから結婚について考えるようにしている兄弟姉妹がいます。(コリ一 7:36)”とあります。若すぎる結婚はJWに多いようですが、それをたしなめていますね。“早すぎる結婚→早すぎる離婚”が普通になっている国もあるようです。」
「欧米では20歳前後で結婚する人が多いようだ。結婚前についついイケナイことをしてしまって、排斥になるのを避けるためでもあるし、女性の場合は早く結婚相手を見つけないと年を取ってからは見つけるのが困難ということもある。」

「でも一番強調しているのは“「主に従う人とだけ」結婚するようにというコリント第一 7章39節の言葉の通りにします。(読む。)”ということです。JW同士で結婚しなさい、ということですね。」
「そうなるとJWには男性が少ないので、女性の半分は結婚できない。結婚は女性の生活を安定させるという面があるわけで、組織の言うことを聞いて一生独身パートで年金支払い猶予の開拓者だったら、年取った時、悲惨なことになるよ。組織は偉そうなことを言うだけで、その責任は取らない。」

「12節はロサ姉妹の話です。JWでない男性から好意を持たれていたが、その男性との関係を断ち、“今では特別開拓者として奉仕しています。姉妹はこう言っています。「エホバは私の心を幸せでいっぱいにしてくれました」。”というものです。決まりきったパターンの話ですね。」
「これではJWは結婚するか、特別開拓者の2つの選択肢しかないかのようだ。この話の終わりは、今では素晴らしいJWの男性と結婚し、一緒に特別開拓奉仕を楽しんでいます、というものに変えた方がいいよ。だいたい独身の特別開拓者というのがそんなに幸せいっぱいなものじゃないでしょう。負け惜しみを言っているだけと思われる。」

「13から16節が“神が責任を委ねている人たちからの指示を受けるとき”です。  JWは、決して優れた人とはいえないアブナイ人でも長老とか巡回監督という役職についていたら、その人の指示に従わなくてはいけないということです。14節には“信仰によって歩む人は,・・・どんな指示にもすぐに前向きな姿勢で従えます。(ヘブライ 13:17を読む。)”とカルト丸出しのことを言っています。」
「指導者に対する盲目的服従はカルトの特徴。本当にアブナイ宗教だね。」

「引照聖句には“皆さんを教え導いている人たちに従い,進んで応じてください。・・・その人たちが喜んで働けるようにしてください。もし嘆きながら働くことになれば,それは皆さんのためになりません。”とあります。これはどのような人に向けて言っているのですか?」
「恐らく大きな会衆の中の考え方の違う人たちで、指導者としばしば対立するような人に向けてと思われる。」

「JWなら排斥されてしまう人ですね。」
「この当時は指導者と意見が違うからとか、従わないからといったことでJWみたいに追放し、集団で無視するなんてことは行われていないからね。1,2世紀ではキリスト教と言っても多様で様々な考え方があったから、当然指導者とは異なる意見を持ち、指導者と対立する人もいたわけだ。」

「14節では“そして指示に従うなら,会衆のみんなが心を一つにすることができます。(エフェ 4:2,3)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。訳もヘンです。そこには“聖なる力による一致を保つよう真剣に努力してください。”とありますが、英語訳ではto maintain the oneness of the spiritで、霊の一致を保つ、です。」
「日本語の翻訳者は霊という言葉を避けるからね。でも“聖なる力による一致”は全く誤訳。それなら一致を保つのは聖なる力の仕事になってしまう。“霊の一致”という概念が理解できなかったのだろうね。」

「14節ではさらに“指示を出している兄弟たちが完璧ではないとしても,私たちが従うならエホバは喜んでくれます。(サム一 15:22)”とあります。カルト的です。引照聖句はそんなことを言っていません。」
「誤った指示に従うことを正義の神は喜びません、という当たり前のことをなぜ言えないのかな?組織を維持することを最優先しているからでしょう。」

「14節ではさらに“もし本当に正されなければいけないことがあるなら,エホバは一番いい時に必ず正してくれます。(ミカ 7:7)”とあります。引照聖句はそんなことを言っていません。“私の救いの神を辛抱強く待つ。私の神は聞いてくださる。”とミカが言っているだけです。」
「JWが正すときは、税金をかけられそうになった時やお金が減った時や、裁判に負けそうな時でしょう。エホバが正したわけではない。そういうことがなければ、何も変えず、文句を言う人を排斥して終わり。」

「体罰推奨から体罰反対に正されたのは、多くの国で体罰が禁止されるようになったからです。聖書では体罰推奨にもかかわらずです。昔はワクチン接種反対だったのに、多くの国で予防接種を義務付けるようになってから、個人の決定に任せるように正されました。エホバなんか関係ありません。」
「JWは非戦闘員としての任務や代替任務を含む兵役に従事することを許されず、その結果、多くの若者が投獄されたけれど、これも正された。理由はブルガリアがJWの宗教登録を拒否したから。宗教登録を許可してもらうために、代替任務を認めることにしたわけだ。エホバなんか関係ない。」

「15,16節がケビン兄弟の体験談です。ケチュア語という少数言語を話す人に伝道していたのですが、政府の規制を守るように言われたというものです。16節に“ケビン兄弟は新しいやり方に取り組んでみることにしました。どうなったでしょうか。「こんなに良い結果になるとは思ってもみませんでした。これまでは伝道でたくさん歩いても,ケチュア語を話す人に1人か2人会えればいい方でした。でも,ケチュア語を話す人が多くいる区域で重点的に奉仕することにしました。そうしたら,前よりも会話できるようになり,再訪問や聖書レッスンも増えました。集会に来る人も増えています。”とあります。よく理解できません。なぜ今まで“ケチュア語を話す人が多くいる地域で重点的に奉仕”しなかったのでしょうか?単に頭が悪いせいでしょうか?」
「本当は一人か二人に会えればそれで時間が入り、JWとしてはそれで十分よかったからだよ。本気で伝道したいなんて思っていないのがJW。」

「最後の17節がまとめです。“何を決めるときも,見えるものだけに頼るのではなく,エホバとの絆を大切にしましょう。”とあります。エホバ=組織ですから、組織のいうことに従え、ということです。」
「この記事で、JWの言うとおりにしてはいけないのが、就職と結婚ということがわかったから、多少役立ったかも。来週は経済的問題と老後の問題を取り上げるようだけど、これもJWの意見を聞かない方がいい問題だ。」

#1577 2025年06月06日 14:24:37

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバの手はあなたのところにも届きます(13)”で、エホバを信じて貧乏に耐えろ、という内容です。」
「JWの大好きな旧約聖書の話を取り上げ、それを現代のJWに無理やり適用し、後は真偽不明の体験談を付け加え、エホバは○○です、と能天気なことを言って終わり、というよくあるタイプの記事だね。」

「でも多少は現実的になっています。13節では“できるなら将来のために貯金をしておくのも賢明なことです。”とあります。本当に今は終わりの終わりなら、将来のための貯金なんかいりませんよ。」
「終末カルトのJWも自信を失っているね。こんな宗教は直ちにやめて、真面目に働いて老後に備えよう、ということだね。」

「2節に“でも,エホバはモーセにこう言います。「それはエホバにできないことだろうか」。(民数記 11:21-23と23節の脚注を読む。)この表現は,元のヘブライ語では「エホバの手はそんなに短いのだろうか」とも訳せ ます。”とあります。これはへんですね。」
「英語訳ではIs the hand of Jehovah too short?で、エホバの手は短すぎるのかとあるよ。ヘブライ語なんか持ち出しているのは、英文を忠実に訳していなことをごまかすため。」

「日本語訳は小学4年生にもわかるように、改変していますからね。英語訳とは相当ずれた訳が多いですよ。」
「適当に訳した聖句がものみの塔の記事で使われると、記事の内容とつじつまを合わせるために余計な文を入れたり、不都合な文を削除したりするよね。聖書より重要なものみの塔の記事でも改変している。」

「そのあとに“「エホバの手」とは,聖なる力,つまりエホバが望むことを行うために使う力のことです。”とありますが、英文ではGod’s holy spirit(神の聖霊)です。」
「聖霊はおかしい。聖霊という思想は旧約聖書にはない。エホバの手は短すぎるのか?ということは、単にエホバにはできないことなのか?という意味の慣用句に過ぎない。」

「4から9節が“モーセとイスラエル人が経験したこと”です。  出エジプト後、荒野をさまよっているときの食糧問題を取り上げています。4節で“荒野でマナを食べることに飽き飽きした外国人は文句を言い始め,イスラエル人もそれに加わります。(民 11:4-6)”とあります。引照聖句には“民の中にいたさまざまな外国人が利己的な願望を口にし”とありますが、“利己的な願望”はヘンですよ。異民族差別が露骨すぎます。」
「協会共同訳では“民の一部の輩が飢えと渇きを覚え”となっている。これは旧約聖書の異民族差別的なところを弱めようという訳だね。それに対して、JWは差別に鈍感なので、JW訳は原文以上に異民族差別をしている。」

「5節では“イスラエル人は,エホバへの感謝の気持ちが欠けた外国人から影響を受けてしまったようです。私たちにも同じようなことが起こり得ます。周りには感謝の気持ちが足りない人が多いので,・・・”とあります。JW以外の人を差別し侮辱しています。」
「英文ではそんなことを言っていないよ。We too could be influenced by the ungrateful spirit of others(私たちも他の人の感謝のかけた気持ちに影響を受けることがあるかもしれません。)と言っているだけ。それを日本語翻訳者が下品な差別的な文に変えた。」

「翻訳者は単にcould beという表現の意味を知らないだけかも。Couldを単にcanの過去形と思っているだけです。それで“起こり得ます。”と訳しているのですよ。」
「Could beは「そうかも」「たぶん」「おそらく」など、ハッキリ断定できないときに使われる表現なんだけどね。」

「6節には“私たちも今の体制で手に入らないものにではなく,新しい世界で与えるとエホバが約束しているものに気持ちを向けるようにしましょう。”とあります。JWは未来の贅沢を想像して今の貧困に耐えろということですね。」
「新しい世でエホバが与えると約束しているものというと、具体的になんなの?ものみの塔に出てくる楽園の想像図からは果物が豊富にある18世紀程度の技術レベルの社会としかわからない。電気はないようだから、近代的な生産設備はなく、当然パソコンも携帯電話もない。今以上に物のない世界だよ。」

「8節は民数記11章のエホバがウズラを与えた話を取り上げます。“エホバは「利己的な渇望を示した人々」に対して激怒し,処罰しました。(民 11:31-34)”とありますが、引照聖句には“処罰しました”とは書いていません。“民に対してエホバの怒りが燃え,エホバは民を打ち始め,非常に大勢の人を滅ぼした。”とあります。怒りのあまり、エホバの大好きな大虐殺をやらかした、というだけです。」
「処罰なら、違反行為のある人を罰し、そうでない人は罰しない。文句を言ったことがそれに該当するなら、文句を言った人だけを処罰すべきだけど、そうは書いていない。それから処罰は違反行為の程度によって変えられるべきもの。些細な違反には小さな罰、大きな違反には大きな罰というのが通常の正義の原則。ところが旧約聖書の神は文句を言った程度のことでいきなり死刑にしてしまう。頭のおかしい残忍な独裁者にしか見えないね。」

「9節は現代のJWについてです。“お金や物を失ったり,ひもじい思いをしたりすることは絶対にないのでしょうか。そうではありません。たとえそういう経験をするとしても,エホバが私たちを見捨てることは決してありません。大変なときも必ず支えてくれます。”とあります。何を言っているかよくわかりません。こんなあいまいなことでは人生設計できません。」
「お金が無くなり、食べ物もなくなることはあるけれど、支えてくれるらしい。どうやって支えるのか、どの程度支えてくれるのかは誰も知らない。神のみぞ知る。」

「10から12節が“生活が苦しいとき”です。  ここから具体的な困難を取り上げます。10節では“この世界が終わりに近づくにつれ,経済事情は悪くなっていくはずです。”とデタラメを言っています。100年前と比べれば、多くの国では人々は豊かで健康になっています。」
「経済事情が悪くなっているのはJWだね。組織の言いなりの人生を送っていることが原因。それなのに経済的困難をこの世が終わり日に近づいているせいにしているだけ。」

「11節が対処法です。“まずできるのは,不安な気持ちをエホバに伝えることです。(格 16:3)”とありますが、訳をだいぶ変えています。要するに祈ればよいということですね。」
「英文ではA primary and effective step is to take your concerns to Jehovah.(最も大切で効果的なことは心配事をエホバに伝えることです)だね。そんなことが最も大切で効果的なこととは思えなかった翻訳者が“まずできるのは”と当たり障りのない表現に変えたね。」

「12節では、良い仕事えようとして家族が離れ離れになるのはダメといっています。大きなお世話ですよ。生活の面倒を見ない組織が個人の生活の仕方にあれこれ口を出すのはやめて欲しいです。実例が出ていて“西アジアに住むトニーは,外国での仕事の話を幾つか持ち掛けられました。でもエホバに祈り,妻とも話し合った後,その打診を断り,節約を心掛けました。”とあります。こうして貧困から抜け出すチャンスを失うわけです。」
「日本にはあまりないかもしれないけれど、欧米にはアジアやアフリカから出稼ぎにきたJWがけっこういる会衆もある。そういう人は12節を読んで、信者の寄付で安楽に生活している奴に何がわかるんだ!俺たちの苦労を知っているのか!と怒鳴って、JWをやめて欲しいね。」

「13から16節が“老後の暮らしが心配になるとき”です。  間もなく終わりが来るから老後の心配など無用です、若い人は老後を迎えることなど絶対にありません、と終末カルトらしく言って欲しかったのですが、そうは言っていません。かといって、老後に備えて貯金をしましょうとも言っていません。どっちつかずのあいまいなことを言っています。」
「13節には“聖書は,先のことも考えて一生懸命働くよう勧めています。(格 6:6-11)できるなら将来のために貯金をしておくのも賢明なことです。”とあるよ。これは終わりが間もなく来ると信じて、宗教道楽に励んだ結果、貧困に苦しむJWに、なんで先のこと考えて一生懸命働かなかったの?自業自得だね、と傷口に塩を塗っているようなもの。詐欺的で冷酷な宗教だ。」

「組織は今までは収入のよい仕事をやめ、開拓奉仕を始めた人を模範的な人とほめたたえてきました。その結果貧乏暮らしにあえいでいる人は組織に騙された!と怒っていいわけですね。」
「そういう人には引照聖句の“怠け者よ,アリの所へ行け。そのやり方を見て,賢くなれ。アリには司令官も,役人も,支配者もいないが, 夏の間に食物を用意し,収穫の時に食糧を集める。”を読んで、聖書にこう書かれているのを知らなかったのですか?と冷淡に言って、おしまいなのがJW。」

「14節はカルト的です。“イエス は自分の弟子になりたいなら,持ち物全てに「別れを告げ」なければいけない,とも言いました。(ルカ 14:33)”とあります。老後のための貯金を奪い取るつもりですよ。」
「引照聖句には“同じように,持ち物全てに別れを告げない人は誰も私の弟子になることができません。”とあるけれど、これってその前のたとえの結論部分だけれど、つながりが悪いんだよね。」

「その前は戦争の話です。勝てそうもないなら使節団を送って和平を求めますとあって、そのあとに、“同じように・・・”と続きます。全く同じではありません。」
「本当の結論部分は、同じようにキリストの弟子は戦うのではなく、神にゆだねます、というようなものだったと推測される。それがのちに今のようなものに変えられて、つながりが悪くなったと考えられている。」

「15節では“文化圏によっては,年を取ってから経済的にサポートしてもらうことを期待して子供を持つことにする人たちもいます。”と、子どもについてです。組織としては、“でもクリスチャンの親にとって一番うれしいのは,子供がエホバに仕えるようになることです。子供が老後の安心材料になることではありません。(ヨハ三 4)”というものです。子どもを頼りにするな、子どもは開拓者にでもさせろ、という指示です。」
「そんなこと言わなくても、JWの息子・娘は年老いたJWの親の面倒なんか見ないよ。まず組織を喜ばすことを考え、親のことは少しも気にかけないのが、模範的なJW。」

「それで排斥された、非JWの息子・娘が年老いたJWの親の面倒をみるというケースがよくあるわけですね。なぜエホバに任せないのか不思議です。」
「その場合、排斥された人なのに親も組織も文句は言わないようだね。エホバが面倒みるから、排斥された人は近寄らないでください、と言って欲しいね。」

「16節は子どもについてです。“一生懸命働くことの大切さを小さい時から教えましょう。(格 29:21。エフェソス 4:28を読む。)学校でしっかり勉強するようにも教えてください。”と、これまた終末カルトらしくないことを言っています。子どもには、学校を卒業する前にハルマゲドンが来るから、勉強などせずに伝道しましょうといったのが昔のJWですよ。終わりの日は遠くになりにけり、ですね。」
「勤労の美徳を説くなんてJWらしくない。最低限の労働、最大限のJW活動、というのがJWが言ってきたこと。JWの子どもはまじめに勉強しない、まじめに働かないという悪評が定着しつつあるのかな?」

「最後の17節では“エホバは腕を伸ばして,その力強い手で必ず支えてくれます。”とまとめています。本当にそうなら、こんな記事は必要ありません。」
「この記事にあったエホバが支えた事例は、古代イスラエルでウズラをくれたということだけだったね。しかもその後は大虐殺。エホバはろくに支えてくれません、というのが妥当な結論でしょう。」

「現代のJWの嘘くさい体験談もありませんでした。お腹を空かしていたら、会衆の人たちが行列を作ってご馳走をもってやって来たとか、仕事がなくて困って、エホバに祈ったら、今までの3倍の給料の仕事にありつけたとか、エホバが支えてくれた話の2つや3つがあってもよさそうなのに・・・。」
「その種の話はだまされやすいJWさえ、もはやまじめに受け取らなくなったことを、組織は知っているのだろう。」

#1578 2025年06月07日 20:15:10

匿名
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

昔は大学教育を否定していたと聞きましたが本当でしょうか?16節に「親が聖書をよく調べ 子供がどんな教育を受けるか賢く選択できるようにサポートしてあげましょう」
とあります 子どもが大学教育を選択するのも可能という事ですね 噂では昔は大学教育を受けること自体 白い目で見られたと聞きましたが。180度変わったということですか?

#1579 2025年06月08日 08:51:26

AIの回答
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1578さんの質問にGoogle AI Studioに答えてもらいましょう。

============
はい、エホバの証人が大学に行くことはできます。

ただし、これを理解するにはいくつかの重要な背景を知る必要があります。単純な「はい/いいえ」で答えられる問題ではなく、組織の教えと個人の選択が複雑に絡み合っています。

結論から言うと、**「公式に禁止されてはいないが、組織としては強く推奨しておらず、大学進学には多くの霊的な危険が伴うと教えている」**というのが最も正確な答えになります。

以下に詳しく解説します。

ものみの塔組織の公式な見解と指導

エホバの証人の指導部(統治体)は、大学進学(特に4年制大学)に対して、長年一貫して否定的な見解を示してきました。その理由は主に以下の点です。

1.霊的な危険

悪い交わり: 大学は、エホバの証人の信条や道徳観とは異なる考えを持つ人々との密接な交わりを増やす場所だと見なされます。
世俗的な哲学: 進化論、人間主義、唯物論、批判的思考といった「世の知恵」に触れることで、聖書に基づく信仰が揺らぐ危険があると考えられています。
不道徳な環境: 大学のキャンパスは、性的不道徳、薬物乱用、過度の飲酒などが蔓延する場所として警告されます。

2.時間の使い方

エホバの証人は、現在の「終わりの日」において最も重要な活動は「伝道活動」であると信じています。
大学での勉強や課題、サークル活動に多くの時間を費やすことは、集会、奉仕、個人研究といった霊的な活動の時間を奪うと教えられます。

3.物質主義への懸念

高等教育の主な目的は、高い地位や収入を得るためであると見なされることが多く、これは物質主義的な考え方につながり、霊的な目標から目をそらす危険があるとされています。

近年の変化とニュアンス

かつては大学進学がほぼタブー視されていた時代もありましたが、近年ではその語調に若干の変化が見られます。

・生活のための技術: 現代社会では高校卒業だけでは生計を立てるのが難しい場合があることを組織も認識しています。そのため、生活を支えるための実用的な技術を身につけるための短期大学や専門学校、技術学校など、限定的な高等教育は容認される傾向にあります。

・目的の重要性: 大切なのは「なぜ高等教育を受けるのか」という動機です。自己実現や富のためではなく、「家族を養い、開拓者(全時間奉仕者)として自分を支えるため」といった霊的な目的がある場合は、比較的理解されやすいかもしれません。

大学に進学した場合に起こりうること

大学進学は、血液の問題や喫煙のように**「排斥」の対象となるような罪ではありません**。しかし、進学を選択した信者は、会衆内で以下のような経験をする可能性があります。

・「霊的に弱い」と見なされる: 周囲の信者や長老から、霊的な事柄よりも世俗的な成功を優先していると見なされることがあります。
・「特権」を失う: 会衆内で与えられる奉仕の割り当て(マイク係、朗読、注解など)や、開拓者、長老、奉仕の僕といった立場に就くことが難しくなる場合があります。
・長老からの「助言」: 心配した長老たちが家庭訪問し、大学進学の危険性について話し合うことがあります。これは善意からですが、本人にとっては大きなプレッシャーとなります。

まとめ

・ルール上の禁止ではない: 大学に行ったからといって、自動的にエホバの証人でなくなるわけではありません。
・強いプレッシャーがある: 組織の出版物や集会では、大学進学のデメリットが繰り返し強調されるため、信者は進学を思いとどまるよう強い心理的圧力を感じます。
・個人の選択だが、結果が伴う: 最終的な決定は個人とその家族に委ねられますが、その選択は会衆内での立場や人間関係に影響を与える可能性があります。

そのため、エホバの証人の若者の多くは、大学進学の代わりに、高校卒業後にすぐに全時間奉仕(開拓奉仕)を始めたり、生活のために職業技術を身につける専門学校などを選んだりする傾向があります。
============

#1580 2025年06月08日 15:40:13

匿名
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

御回答 ありがとうございます

#1581 2025年06月13日 14:23:05

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“誰に仕えるかを……自分で選びなさい(14)”で、組織に死ぬまで仕えなさい、というよくある内容です。」
「大多数のJWは2世、3世でしょう。JWの家庭に生まれたからJWになったわけで、自分で選んだとは言えない。にもかかわらず、JWを選んだことになっているのかな?気の毒。」

「JW1世の人でも精神的に弱っていた時や生活上の悩みに苦しんでいた時に、作り笑いで近づいてきたJWの話をついつい聞いてしまって、それから抜けられなくなり、気づいてみたら兄弟姉妹と呼ばれるようになってしまったという人が多いと思いますよ。」
「インターネットのない時代ではJWについて十分な情報を知ることなく、JWの都合の良いプロパガンダだけを与えられてJWになったわけで、自分で選んだといえるかどうか微妙だね。」

「1節に“優しい天のお父さんエホバは,私たちのことをとても愛していて,今も将来も幸せに生きてほしいと願っています。(伝 3:12,13)”とありますが、英文ではenjoy life now and in the future(今も将来も人生を楽しむ)です。”幸せに生きる”とは違いますよ。」
「翻訳者は、JWは今は人生を楽しむことなく組織の奴隷として生きる、楽しむのは楽園で、と信じているので、そう変えたのだろう。」

「引照聖句には“人は皆,食べ,飲み,一生懸命働いて充実感を得るとよい。”とありますが、JWの場合は、飲まず食わずで、一生充実感ゼロのJW活動をするという生き方です。この聖句に従っていません。」
「伝道の書の主張は旧約では例外的なもの。旧約の勧める生き方の基本は律法を遵守しなさい、というもの。そうすれば幸せになれると主張されている。JWも律法主義者なので、旧約とは相性がいいけれど、伝道の書とは相いれない。伝道8:14に“地上でむなしいことが起きている。正しい人が,悪を行ったかのように扱われ,悪人が,正しいことを行ったかのように扱われている。”とある。行動の善悪とその結果には何の関係もない、というのが伝道の書の思想。」

「伝道の書8:9が引照聖句となっています。“私はこの全てを見た。地上で行われた全てについて真剣に考えた。これまでずっと,人は人を支配し,人に害を及ぼしてきた。”とあるのですが、訳がヘンです。」
「協会共同訳では” 今は、人が人を支配し、災いを招く時代である。”となっている。この聖句は人類のすべての歴史を言っているのか、作者の生きている時代のことを言っているのかという問題だ。もちろんJW訳が間違っている。伝道の書の作者は自分の観察に基づいて語るという姿勢の人。普遍的な法則のようなものを言う人ではない。JW訳はJWの教義に合わせた訳だから、原文とは違う。」

「JWは律法主義者なので、1節に“人間が本当に幸せになるには,エホバに仕え,エホバが決めた基準に沿って生きていくことが必要です。”とあるわけですね。」
「JWのよく変わる規則を神の定めた律法と信じて、それを守り続けて行けば“本当に幸せになる”というのが、組織の主張だけど、誰もまじめに受け取らないでしょう。」

「昨年、奉仕時間を報告しなくてよくなったり、髭を生やしてよくなったり、女性はスカートでなくてもよくなったりと長年続いたエホバの基準が変わりました。この変更の前と後ではどっちが本当に幸せなのでしょうか?」
「基準が変わっても、JWでありつづければ、不幸だ。」

「2節に“サタンは人間に,エホバがいなくても幸せになれる,自分のしたいように生きていけばいい,と信じ込ませようとしています。(創 3:4,5)”とあります。引照聖句はそんなことは言っていません。JWの創作です。」
「そのあとに“エホバはサタンのその主張が間違っていることを証明するため,人間が一定期間,自分たちを治めることを許してきました。”とあるけれど、聖句がないことからわかるように、これもJWの創作。“一定期間”とあるけれど、6000年以上たったよ。」

「エデンの園の話を事実を考えて、それをもとに最重要の教義を作っている時点でJWはダメですよ。」
「エデンの話を真実と思っているのはJWみたいなキリスト教原理主義者だけ。そもそも人類は6000年ほど前に始まったわけじゃないよ。」

「3から5節が“イエスがエホバに仕えることを選んだのはどうしてか”です。  マタイ4章にある悪魔からの誘惑の話です。3節に“イエスがエホバに仕えることを決意していたのはどうしてでしょうか。理由を幾つか考えてみましょう。”とあり、4節には“エホバを愛していたからです。”、“エホバに仕えるのは正しいことだと分かっていました。”とあります。5節には“ほかの理由もあります。イエスは自分がエホバに忠誠を尽くすならどんな良い結果になるかを見つめていました。”とあります。聖書にはそんなことは書かれていません。」
「誘惑を拒否したイエスは、その理由として“○○と書いてあるのです。”と言っているだけ。後の節で、愛、正しい、よい結果の3つをエホバに仕える理由として使うための伏線にすぎない。」

「6から9節が“エホバを崇拝するのが当然といえるのはどうしてか”です。  7節に“エホバは「1人の人から全ての国の人を造っ[た]」創造者です。それで,エホバを崇拝するのは当然のことといえます。(使徒 17:25,26,28)”とあります。いつものように、引照聖句はエホバを崇拝するのは当然だとは言っていません。」
「引照聖句はパウロがアテネで伝道したときの話。神は“人が造った神殿などには住まず, 人間に世話してもらう必要もありません。・・・神のことを金や銀や石のように,人間が考え出して作った彫刻のように考えるべきではありません。”とパウロは言っている。その後復活の話をして、アテネの人からあざ笑われてしまい、アテネの伝道はうまくいかなかったという結末。」

「造ったから崇拝されるのは当然だという理屈は説得力がありません。家を作った人はその家の住人から崇拝されるのは当然ですか?誰もそうは思いません。」
「神を崇拝するのが当然だという理由がほかに思いつかなかったというだけでしょう。“造ること=造ったものを永遠に支配する”という公式があるかのようだね。」

「8節に“エホバは1人でも多くの人に永遠に生きて,自分との友情を楽しんでほしいと思っています。(テモ一 2:3,4)”とあります。引照聖句には友情なんて出てきません。神との友情なんて言っているのはJWだけですよ。」
「引照聖句には“神は,あらゆる人が救われて,真理の正確な知識を得ることを望んでいます。”とあるけれど、訳がおかしいね。“真理の正確な知識を得る”ではなく、“真理を知る”だよ。原文には“正確な”に相当する語はない。協会共同訳では“真理を認識する”となっている。」

「これは、聖書を知るだけでは不十分です、聖書のここに正確な知識を得ることの重要性が書かれていますよね、正確な知識はエホバの出版物でしか得られません、と宣伝するための改ざんですね。」
「信者の新規獲得こそがJWの主な仕事だからね。それに合わせて聖書も変えた。」

「8節に“そのためにエホバは私たちをトレーニングし,・・・”とあるのですが、イライラする文章です。エホバじゃなくて組織ですよ。ウソをついています。」
「エホバというのは組織あるいは統治体の隠れ蓑でしょう。統治体が命じていると言うかわりに、エホバが・・・とごまかすわけだね。エホバはサタンの次に便利なキャラクターだ。」

「9節ではエホバが全ての人を愛していると言っています。その根拠は“エホバはそのような人たちにも必要なものを与えるだけでなく,生活を楽しめるようにもしてきました。”ということのようです。これは事実に反しますね。十分な食料や水を得られない人は現代でもたくさんいますよ。」
「その理屈だと、国民に生活に必要なものや娯楽を供給しているなら、残忍な独裁者も国民を愛しているということになるね。」

「10から16節が“私たちがエホバに仕えたいと思うのはどうしてか”です。  そうしないと周りからいじめられるからとか、ハルマゲドンで滅ぼされると脅かされるからということは書かれていません。10節では“私たちもイエスのようにエホバを心から愛しています。それがエホバに仕える一番の理由です。”とあります。これが模範解答のようです。11節では、それが正しいことで良い結果をもたらすと書かれています。」
「愛、正しさ、よい結果。これが組織が認めるエホバに仕える理由なんだね。」

「12、13節がジェーンとパムの体験談です。12節でジェーンは“エホバの証人から聖書を学んでいて本当に良かったです。学校の子たちはドラッグを使ったり,不道徳なことをしたりしていましたが,私はそういう同調圧力に負けずに済みました。”と言っています。JWの子どもが通う学校はスラム街の犯罪地区にある学校と決まっているようです。」
「これも定型文だね。JWの体験談では、JW以外の子どもはセックスと麻薬に夢中ということになっている。」

「13節には“数年後,2人は伝道者になり,その後開拓奉仕を始めました。高齢になった親の世話をしながら開拓奉仕を続けました。”とあります。これも定型文です。」
「“高齢になった親の世話をしながら”というのが新しいよ。高齢の親などはかまわず、必要性の高いところで開拓奉仕するというのがJWの生き方だったはず。それに対する非難を気にしているのかも。」

「13節で、ジェーンは“エホバが親身になって支えてくださることを実感しました。”といっているのですが、英文ではI learned firsthand that Jehovah faithfully cares for his friends(エホバはご自分の友を誠実に気遣っておられることをじかに学びました)です。”友”を省略しています。」
「エホバ=信者の友達というJWの教えに翻訳者は違和感をおぼえたのだろう。まだ十分洗脳されていないようだ。」

「14節には“サタンとサタンにいいように使われている人たちも,エホバについてのうそを広めてエホバの評判を傷つけています。それで私たちはエホバのために声を上げ,エホバについて本当のことをみんなに知らせたいと思います。”とあります。サタンの手先に敢然と立ち向かうようですが、そんなJWは滅多にいません。大抵は沈黙しています。」
「JWに反対する人はサタンの手先というわけだけど、カルト的でいいね。JWが関わる児童性的虐待の裁判では自分たちの正当性を主張しないで、和解交渉を選ぶことが多い。なぜエホバのために徹底的に戦わないのかな?」

「15節では“私たちはいつもエホバに喜んでもらえるような生き方をしたいと思っています。”とありますが、英文ではWe willingly adjust our goals in life(人生の目標を喜んで調整します)ですよ。これもカルト色を薄めようということですか?」
「表現はどうであれ、組織は信者が進学もせず、定職にもつかず、組織の奴隷として無給で働き続けることを望んでいるので、そうしなさいということだね。」

「15節ではパウロについて“当時の社会での高い地位を喜んで手放し,キリストの弟子としてエホバに仕えることを選びました。(ガラ 1:14)”とありますが、パウロは高い地位についていましたか?引照聖句もそんなことは言っていません。」
「英文ではprominence in his communityとあるので、地域社会での名声という意味。」

「パウロの例だけなのはズルいです。JWお気に入りのダビデはどうですか?王をやめたりしていませんよ。ソロモンはどうですか?エホバに仕えるのに高い地位を喜んで手放したりしていません。」
「一つの例は一つの例にすぎない。組織の都合で恣意的に選んできた聖書の人物の話を全ての人が見倣うべきものと利用するのがJWのやり方というだけ。」

「16節がジュリアの体験談です。これもよくある話です。ジュリアは“音楽を学ぶために名の知れた学校”に通っていたのですがJWに出会い、“やがてジュリアは音楽の世界でキャリアを積むのではなく,エホバのために自分の人生を捧げることを決意しました。”とあります。ジュリアは“全然後悔していません。そしてエホバが将来,私の心の願いを全てかなえてくれることを楽しみにしています。”といっています。」
「有名なプロの歌手ではなく学生でしょう。プロになれるのはごく少数だからね。でもJWになったのは最悪の選択。ジュリアの将来は集会で、大声で歌う歌自慢の孤独な老婆じゃないの?」

「17から20節が“これからもエホバに仕え続ける”です。  まず終末論をあおります。17節には“今の世界の終わりが近づいています。使徒パウロはこう書いています。「あと『ほんのしばらく』すれば,『来ることになっている方は到着します。遅れることはありません』」。(ヘブ 10:37)”とあります。ヘブライ書が書かれてから2000年近くたっています。」
「英文ではWe live in urgent times.で、緊急の時代と言っている。翻訳者は緊急性なんかないと思ってのんびり暮らしているので当たり障りのない言い方に変えたのだろう。」

「19節で“エホバに仕えるなら人生を楽しめなくなると思う人もいます。”とあります。それはそうです。集会や奉仕に追われ、つまらない規則に縛られ、絶えず批判的な信者に監視されて楽しみなんか全くありませんよ。」
「英文ではserving Jehovah involves too much sacrifice.で、エホバに仕えるには犠牲が多すぎる、とあるのに、だいぶやわらげた訳にしているのが笑えるね。JWという人生はどんな犠牲を払おうとも、それをはるかに上回る素晴らしい人生です、と書いて欲しかったね。」

「19節にはジーンの話が出ています。“裏で悪いことをするようになりました。最初は楽しかったですが,だんだん気持ちは冷めていきました。”とあります。これもよくある定型文です。結局“エホバに心から仕えようと決めました。エホバとの距離がぐっと縮まって,自分の祈りに全部答えてくれているように感じています。”とあります。メデタイ話ですが、“祈りに全部答えてくれているように感じています。”はあいまい過ぎます。“祈りに全部答えてくれました。”となぜ書かないのか不思議です。」
「真の幸せは組織の奴隷として生きるこという話ね。説得力ゼロだね。正常な精神状態なのか心配だ。」

「最後の20節で“次のように言ったヨシュアと同じ決意を持つようにしましょう。「私と私の家の者はエホバに仕えます」。(ヨシュ 24:15)”とあります。ここまで真面目に読んできた信者はエホバ=組織という公式ができていますから、組織のために一生捧げるぞ、と気持ちを新たにするだろうという計算ですね。」
「こんな記事を真面目に読んでいる信者なんかいないよ。」

#1582 2025年06月14日 17:19:26

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

「造ったから崇拝するのは当然」

造られた存在である=目的がある、希望がある

造られた存在ではない=目的がない、希望もない

J2として洗脳されるとこのような公式というか演繹前提を勝手に刷り込まれますが、どこから湧いて出てきたんでしょうか。しかもなぜか造った存在を崇拝して無条件に服従までしなければならないおまけつきで、さらにJWは造った存在の代理人だと言っているだけの方々への絶対服従です。


エウレカセブンの受肉したデューイは自分が「創造された存在」であることに絶望して、創造主を消し去ることで自身の尊厳を守ることに存在理由を見出してるぽいです。

「造られた存在である」ほど恐ろしく絶望的なものはない、という公式があったらどう反論するんでしょうか。思うか思わないかの話でどっちも証明しようがなさそうですが。

#1583 2025年06月20日 14:43:29

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“神に近づくのは良いこと(15)”で、組織の一員であることは得だし良いことなので、死ぬまで組織のためにタダ働きしよう、という内容です。」
「ここで言う“神に近づく”というのは組織に服従し、組織の言いなりになるという意味。面白い点といえば根拠のない暴論が出ていることぐらいかな。」

「2節に“エホバとの友情も同じように時間をかけて育てていくことが大切です。”とあります。またもやエホバ=友達です。JWの神は安っぽいものですね。」
「英文ではour best Friend, Jehovah(最良の友、エホバ)とあるけれど、“最良の友”は省略しているね。翻訳者は、お金に困っても1円も貸してくれないのに、常に寄付を要求する人を最良の友とは決して言わないことぐらいの常識があるのだろう。」

「細かい規則を作り、それに従わなければ殺すと脅す人も最良の友とは呼びません。」
「旧約聖書の神は極悪非道の最悪のキャラクターと呼ばれているので、少しでもイメージアップを目指してour best Friend, Jehovahという宣伝工作をしているのだろう。」

「2節に“この記事では,エホバに近づくためにはどうしたらいいか,そうするとどんな良いことがあるかについて考えます。”とあります。JWを見れば、エホバに近づくとろくなことはないことがすぐわかります。エホバだけは避けましょう。」
「JWの家庭に生まれた人でそのままJWになる人は3人に1人という調査がアメリカであった。定着率が極めて低い宗教だけれど、それはJWにとどまっても損ばかりで、何もいいことがないからでしょう。」

「5から7節は“「神に近づく」と幸せになれる”です。  でもJWという組織に近づくと不幸になります。5節に“エホバに近づけば近づくほど私たちは幸せになれます。(詩 65:4)”とありますが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「そこには“幸せです,あなたに選ばれて近くに招かれ,あなたの庭に住む人は。”とある。ここで直接言っているのは神殿で奉仕する祭司のこと。今のJWとは何の関係もない。この聖句以外に、神に近づけば幸せになれるという主張の根拠となりそうなものはなかったのだろうね。」

「5節で挙げられている幸せになれる理由というのが“例えば,聖書に書かれているエホバのアドバイスの通りにすれば,賢くなり良い判断ができます。”というものです。説得力ありませんね。」
「具体的にどんなアドバイスか教えて欲しい。具体性がないから説得力ゼロ。」

「格言21:14に“ひそかな贈り物は怒りをなだめ,秘密の賄賂はすさまじい怒りをなだめる。”とあります。これなんかよい判断ですか?」
「長老や巡回監督にわいろを渡すのはよいけれど、公務員にわいろを渡すと捕まるよ。聖書のアドバイスは現代では適用できないものが多い。」

「格言13:24の“むちを控える人は子供を憎んでいる。子供を愛する人は懲らしめを怠らない。”に従うのは、良い判断ですか?児童虐待ですよね。」
「暴力的で体罰推奨の聖書のアドバイスに従っていると捕まってしまう。正しくは“むち”ではなく“杖”。JW英語訳ではrodになっている。古代の羊飼いはムチなんか使わない。杖と訳すると、木刀で子ども殴り殺す日本人JWが現れることを心配して、ムチに変えたのだろう。」

「6,7節が詩編73の話です。詩編73は最近よく取り上げられます。詩編73の作者は悪が栄えていることで落ち込んでいるのですが、7節で“でも,この人はいつまでも落ち込んだままではいませんでした。「神の偉大な聖なる所に入[って]」エホバに考えを正してもらいました。(詩 73:17-19)”とあります。引照聖句には“神の偉大な聖なる所に入るまでは。そして悪人の将来を知った。”とあるだけです。エホバは出てきません。」
「ここで使われている動詞は、神から啓示を受けたというものではなく、単に理解した、知った、という意味。聖なる所に入って、忘れていたことを思い出した、悪は裁かれることを、といった意味。」

「7節で“私たちが落ち込む時,親友であるエホバはそれに気付いています。エホバにアドバイスを求めて祈るなら,聖書や会衆を通して助けてくれます。”とあります。ここではエホバ=親友となっています。」
「英文ではJehovah, our best Friend(エホバ、最良の友)となっているよ。最良の友であるエホバは、自分では何もしないで、会衆を通して助けてくれるだけのようだね。でも会衆を通して助けるなんて、聖書のどこにも書いていない。」

「8から11節は“「神に近づく」と生きる意味が分かり,希望を持てる”です。  9節で“神を信じていない多くの人は,人が何のために生きているかを知りません。”と、根拠もなく断定しています。人類の大多数は現在でも神のようなものを信じていますよ。無神論者は少数です。」
「わら人形論法というやつだね。架空の攻撃しやすい敵を設定し、それを攻撃することにより、自分が正しいかのように見せかけるというJW得意の論法。JW以外は邪悪で、人生に目的もなく、金銭に目がくらみ、快楽にふけっているだけの人間と断定し、それに比べてJWは道徳的で、幸福です、とJWはよく主張する。」

「9節では“人間はエホバに仕えるとき,幸せになれるように造られています。それで,エホバとの友情を築くことは本当の幸せにつながります。(申 10:12,13)”とあります。引照聖句はそんなことを言っていません。そもそも旧約聖書にエホバとの友情を築くという思想はありません。」
「英文ではEven today, we live happier lives because・・・(今日でも、より幸福な生活を送っています。なぜなら・・・)となっていて、“本当の幸せにつながります。”じゃないよ。翻訳者はJWの大多数は少しも幸福じゃないことを知っているので、より妥当な表現に改変したのだろう。」

「人間はエホバに仕えると、脳の中の幸せスイッチがオンになるようにデザインされていると本気で思っているのでしょうか?」
「思っていないよ。それ以外にエホバに仕えると幸せになる理由が思いつかなかっただけ。」

「10節では“多くの人は今の生活に追われています。働き,結婚し,子供を育て,老後の蓄えをしています。”とあります。これはJWでない人を非難していますよ。でも、この何がいけないのですか?老後のたくわえのないJWより、よっぽどましですよ。」
「多くのJWは今の生活に終われています。奉仕、集会、低賃金の労働、結婚もせず、子どももなく、老後のたくわえもありません、となぜ書かないのか不思議だね。」

「しかも訳がヘンですよ。」
「For many, their hope is limited to this life・・・(多くの人は・・・という今の人生での希望しか持っていません。)とある。それなのに、“今の生活に追われています。”と訳している。翻訳者は英文の意味が分からなかったのだろう。」

「それに対して、JWは楽園での永遠に生きるという希望を持っているから幸せだと言いたいわけですね。説得力ないです。」
「現世でも来世でも幸せに過ごせるという宗教の方が幸せでしょう。JWは今は不幸でも将来幸せになるから、自分たちは幸せだと無理に思い込もうとしているようで、気の毒だ。」

「12から15節が“これからも「神に近づく」には”です。  13節に3つのことが出ています。“(1)これからも聖書を読んで学び続けます。・・・(2)エホバがどれほど自分のことを愛してくれているかをじっくり考え,信仰を強めます。(3)エホバが嫌うことを嫌い,そういうことをする人たちと親しくならないようにします。”の3つです。要するにJWの奉仕や集会を熱心に行い、JWの規則に従い、排斥者をきちんと無視しなさいということですね。」
「そうすると、エホバではなく、JWが神のように崇める統治体に近づけるわけだね。」

「14節には“コリント第一 10:31を読む。”とあります。そこには“それで,食べるにしても,飲むにしても,ほかのどんなことをするにしても,全てのことを神の栄光のためにしましょう。”とあり、これを受けて、“健康な生活習慣を心掛け,食べ過ぎたり飲み過ぎたりしないようにします。”とあります。パウロは健康についてのアドバイスをしたわけですか。」
「コリント一10章は、偶像にささげられた食べ物を食べてよいか、という問題を論じているところ。健康問題とは関係ない。」

「不健康な生活をしているJWが多いということで、こんな記事を書いたのでしょうね。それを聖書と関連させるからヘンな文章になるのです。」
「統治体の老人を見ると病気を抱えているようだったり、太りすぎの人が多いよ。まず統治体から健康的な生活習慣始めるべき。太った人は排斥にするという規則を作ったらいいかも。」

「健康的な食生活にはお金がかかります。貧乏なJWは安いインスタント食品ばかり食べるなど栄養面で問題のある生活をせざるを得ません。そういう人はどうすればいいのですか?」
「早死にする前に、楽園が来ることを期待するしかないね。」

「15節では“それで私たちは,エホバについて知らない人たちのことを見下げるようなことはしません。(テモ二 2:23-25)”とあります。これって引照聖句とあっていません。そこには“愚かで無意味な議論を避けなさい。”と言っているだけです。」
「訳に問題がある。we do not look down on others simply because they do not share our beliefs.(自分たちと同じ信仰を持っていないというだけで他の人を見下しだりはしません。)とある。聖書やJWについてJWと異なる意見を持っている人のことを言っている。今のJWは聖書やJWの教義について突っこまれたら、何も言えない人が多いでしょう。だから、そういう人から逃げることを勧めているんだよ。」

「これはJWだけが正しい、JWだけが救われる、とJWは独善的で排他的な主張をしているという非難に対して、そんなことはありませんと弁明できるように、あらかじめ防御線を張っておこうというものですよ。」
「組織は今や衰退期で、以前のように周りに攻撃的にふるまうのは諦めて、いかに周りの非難から自分たちを守るかに頭を使っている。」

「16から17節が“がっかりすることがあっても「神に近づく」”です。  16節で“もしかすると,自分にはエホバに愛される価値がない,と思うことがあるかもしれません。”とあります。組織から離れて精神的に病んでいるJW向けですね。再び詩編73が取り上げられます。17節で“私たちも自分の弱さを痛感したりがっかりしたりする時は,岩のように頼れるエホバに目を向けましょう。(詩 73:26; 94:18)”とあります。要するに、組織に戻ってこい、ということですね。」
「引照聖句の詩編73:26に“神は私の心の岩,永遠に私の全て。”とあるけれど、“私の全て”はないだろう。“私の受くべき分”だよ。神は必要な物を与えてくれる存在という意味。これだとわかりにくいからといって“私の全て”に変えたらダメだよ。気楽に聖書を改ざんしているね。」

「詩編16:5に“エホバが私の全て。良いものを与えてくださり,私の財産を守ってくださる。”とありますが、これも“私の全て”ではないですね。“私の受くべき分”ですね。」
「この訳はひどいね。JW英語訳ではJehovah is my portion, my allotted share, and my cup. You safeguard my inheritanceだよ。意味が分からなかったので勝手に変えたのだろう。協会共同訳では“主はわが受くべき分、わが杯。/あなたこそ、私のくじを決める方。”となっている。こちらの方が原文に忠実。」

「17節には“気持ちがふさいで,もう駄目だと感じる時こそ,エホバに近づいてください。(詩 103:13,14)”とあるのですが、この記事の最後にある注には“憂鬱な気持ちや不安や悲しみが長引く場合には,専門家に相談するとよいかもしれません。”とあります。これも珍しいです。新しい光ですか?エホバに祈れば何でも解決すると思っていました。」
「アリバイ的な文章。JWは信者が精神科に行くのを妨害すると思われているから、もしそんなことを言う人がいたらこの文章を見せて、私たちはどの医療を受けるべきとか受けるべきではないといった指示はしていません、というわけだね。組織の防衛術。」

「18,19節は“「神に近づく」ことに終わりはない”です。  組織ために働くことには終わりがないという意味ですね。多くの信者はますます落ち込みます。」
「JWは終末論カルトなのだから、間もなく終わりが来ます、と景気よく書かないと信者は元気が出ないよ。」

#1584 2025年06月27日 13:47:00

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“兄弟姉妹との友情を深めるのは素晴らしいこと(16)”で、会衆は一致して、組織の言うことに従いなさい、という内容です。」
「友情を深めるというのは、異論は認めず、全員一致団結しなさいという意味だね。」

「1節で隣人愛をとりあげるのですが、“この言葉は,エホバに仕えていない人にも親切にするように,ということでもあります。”と、珍しいことを言っています。」
「災害救援活動ではJW以外は助けない組織なのに、こんなことを言うのは、批判を受けた際のアリバイ作りのためでしょう。」

「2節では“エホバは全ての人を愛していますが,エホバから見て正しいことをする人を特に愛しています。(ヨハ 14:21)”と、いつものJWだけを愛しましょう、それ以外の人はどうせ滅ぼされる人なので無視しましょう、という教えに戻っています。」
「引照聖句にはエホバなんか出てこない。全てイエスの語ったこと。」

「3節に“植物が元気に育つには世話が必要なように,愛が成長するには努力が必要です。”とありますが、植物は人間が世話しなくても元気に育ちます。空地は何もしなくても雑草だらけになって困ります。」
「翻訳の問題。英文ではlike a houseplant(室内用の鉢植えのように)とあり、植物とは言っていない。」

「JWの愛とはそういうひ弱なものと言いたいわけですね。」
「せいぜい持つのは3か月で、すぐ枯れる。」

「4から7節が“仲間との友情を深めるのが大切なのはどうしてか”です。  ウソ臭い話が続きます。4節に“詩編 133:1を読む。エホバを愛する人たちとの友情は「素晴らし[く]」,「心地よい」ものです。”とあります。この聖句に友情などという言葉は出てきません。友情とは無関係です。」
「そこには“兄弟たちが一致して共に住むのは,何と素晴らしいことだろう。何と心地よいことだろう。”とあるだけ。この詩が言っているのは、エルサレムへ巡礼する人たちのこと。各地からやって来た様々な人たちが、エルサレムの神殿で一緒に神を崇拝することは、何と素晴らしいことだろうといっている。文字通り一緒に住んでいるわけではない。」

「協会共同訳では“兄弟が共に住むことは/何という幸せ、何という麗しさ。”です。“一致”はありません。」
「一致に相当するヘブライ語はない。“共に”とあるだけ。それを“一致して共に”と訳するのは、異論を許さず“一致”を強調するJWの教えに合うようにするため。」

「4節に“兄弟姉妹との絆”とありますが、英文ではthe beauty of our Christian unity(我々クリスチャンの一致の美しさ)です。だいぶ変えていますね。」
「翻訳者はJWはクリスチャンではないと思っているので、兄弟姉妹に変えたね。また一致していないことも知っているので絆というあいまいな言葉に変えた。あからさまなウソは書きたくないのだろう。」

「5節が笑えます。“初めて集会に来て,エホバの証人が互いを愛し合っている様子に心を打たれ,「確かに本物のクリスチャンだ」と思う人もいます。”とあります。そう思うのは世間知らずの騙されやすい人だけです。」
「新しく来た人を大げさに歓迎するのはどのカルトでもやっていること。信者獲得に熱心なだけで、本物かどうかとは無関係。」

「5節にはチャイトラの体験談があります。初めて大会に行ったチャイトラは“これまで親からハグされたことなんて一度もないのに,今日1日だけで52回もハグされました。私もこの家族の1人になりたいです。”と言っています。ハグされるたびに数えたんですか?1日に知らない人から52回もハグされるなんてカルトそのものです。新しい人にはハグをどんどんしなさいということですね。」
「チャイトラってどこの国の人?恐らくハグなんてしない文化圏の人でしょう。日本だって親子でハグなんかあまりしないよ。それがハグされて感激し、JWになったの?新しくJWになる人にはこの程度の人が多いということかな?」

「5節にはチャイトラがバプテスマを受けたとあります。チャイトラは今もハグされているのか気になります。」
「今頃はエホバのために十分奉仕していない、もっとやれるはずだ、と長老や姉妹たちから批判にさらされているよ。」

「6節には“兄弟姉妹との友情を深めると,正しい道からそれないように守ってもらえます。”とあります。カルト特有の相互監視、密告システムのことですね。」
「JWに疑問を持つと、ハグしてくれなくなるよ。簡単にやめられないのがカルトの特徴。チャイトラはそのことをわかってJWになったのか心配だ。」

「7節で“私たちの集会には他のどこにもないような心地よい雰囲気があります。”と、デタラメを言っています。ちゃんとした調査もなしに、都合のよい事を断定すると、ますますインチキ宗教と言われます。」
「この節に来ると、王国会館中に白けた雰囲気が漂うのだろうね。中には気分が悪くなって帰る人がいるかも。」

「8から12節は“仲間を敬う”です。  信者同士で足の引っ張り合いはするな、ということですね。8節に“弱くて完璧ではない私たちが国を超えて一つに結ばれていることは,本当にすごいことです。”とあります。英文ではThe global unity we enjoy is a miracle.(私たちが享受している世界的な一致は奇跡です。)で、だいぶトーンを弱めていますね。奇跡と言っているのに、残念です。奇跡ならもっと宣伝すべきですよ。」
「現代の奇跡、JWの一致、と宣伝しても、頭がおかしいと思われるだけ。同じ記事でも英語版と日本語版では内容、用語、狂信度などなどが違う。奇跡のような世界的な一致なんてないでしょう。」

「会衆ごとでも一致はありません。ある会衆には奇妙な独自の規則があったりします。ある会衆でよいことが、別の会衆ではよくないとされたりします。世界的な一致は単なるプロパガンダです。」
「大学進学も問題にならない国や会衆がある一方、重大な問題とされ、父親が長老だったら降格されるところもある。」

「9節に“ローマ 12章9-13節にあるパウロの言葉を見てみましょう。(読む。)特に注目したいのは,「自分の方から進んで人を敬ってください」という表現です。どういう意味でしょうか。自分の方から「優しい愛情」を示す必要があるということです。”とあります。これはヘンですよ。」
「まず“自分の方から進んで人を敬ってください”のギリシャ語原文は3つの単語からなり、直訳すると、敬意に関して、お互いに、先導する、という意味。つまり、他人から敬意を払ってもらうのを待つのではなく、進んで敬意を払いなさい、という意味。敬意は愛情とは違う。」

「愛情は相手の個人的な特徴に基づくものです。見た目がよいとか性格がよいとかなどなど。敬意はそうではないですよ。」
「ここで言う敬意は何に基づくかというと、相手がクリスチャンであることそれ自体。ローマ12:5で“私たちも人数は多いものの,キリストと結ばれた1つの体であり,一人一人は器官として互いを必要としています。”とある。信者同士の関係をこのように理解すれば、どんな人でもクリスチャンというだけで敬意に値するというわけだ。」

「10節では“パウロは,自分の方から進んで人を敬うようにと勧めたすぐ後,興味深いことにこう続けました。「怠けたりせず,よく働いてください」。これは与えられた仕事を一生懸命誠実に行う,ということです。”とあります。ここでいう与えられた仕事とはJWの仕事のことですね。JWの仕事を一生懸命やりなさいとパウロが言ったことにしています。聖句の誤用ですね。」
「これはローマ12:11の“怠けたりせず,よく働いてください。聖なる力によって熱意に燃えましょう。エホバに一生懸命仕えてください”の一部だけど、訳が問題だ。JW英語訳はbe industrious, not lazy(勤勉であれ、怠けるな)で、何に対して勤勉であれと言っているかというと、イエスに仕えること。エホバじゃないよ。」

「協会共同訳では“怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。”です。“聖なる力によって熱意に燃えましょう”は完全に誤訳ということですね。」
「日本語翻訳者は聖霊を聖なる力と機械的に変えるけれど、ここは単なる霊spirit。聖なる力じゃない。“霊において熱心であれ”だ。聖書においてもJWは世界的な一致なんかないよ。日本のJWは霊のないJW。」

「11節では“傷つけられた時,すぐに許すことによっても 人を敬うことができます。”とあります。許すことが強調されていますが、それなら許さないことによっても、人を敬うことができるのでは?」
「ここで言う“敬う”の意味があいまいだから、どうとでも言えるということだね。」

「11節に“エフェソス 4章26節にはこうあります。「怒ったまま日が沈むことがないようにしましょう」。なぜでしょうか。続く27節にあるように,「悪魔に隙を与え」ないようにするためです。”とありますが、間違いですよ。」
「エフェソス4:27はmédeという接続詞で始まる。意味はand notで、理由を説明する接続詞ではない。協会共同訳では“また、悪魔に隙を与えてはなりません。”となっている。JWは単純な聖句も理解できない。」

「エフェソス4:26全体は“腹が立っても,罪を犯してはなりません。怒ったまま日が沈むことがないようにしましょう。”です。怒ったまま日沈んで夜になると、暗闇に紛れてついつい罪を犯しやすくなるからじゃないですか?」
「ここではこの記事のようにその日のうちに許せとは言っていない。怒りがもたらす危険性を警告している。」

「11節に“そうするなら「平和という絆で結ばれ,聖なる力による一致を保つ」ことができます。(エフェ 4:3)”とありますが、これも誤訳です。“霊による一致”です。聖霊ではありません。」
「日本語訳は聖霊も霊も全て“聖なる力”としているようだ。別の宗教だね。」

「12節は適当に聖書を翻訳したせいで、英文と対応しなくなっていますね。“聖句には「聖なる力によって熱意に燃えましょう」とあります。ここでいう「熱意に燃え[る]」とは,「神の『聖なる力』……を受けて,熱意や熱心さがあふれていることやそれらを発揮している」という意味です。”とありますが、英文では“熱意に燃える”ではなくBe aglow with the spirit(霊に燃えなさい)です。その意味は “overflowing with or radiating zeal and enthusiasm as a result of the influence” of holy spirit.(聖霊の影響によって熱意と感激にあふれているあるいは放射している)です。」
「日本版JWはキリスト教を自称しているのに聖霊を抹殺したのはまずかったね。本家のJWと一致していないよ。」

「13から16節が“分裂があってはなりません”です。  全員一致を目指せ、個性などいらない、ということです。13節には“例えば,服装や身なり,エンターテインメント,医療の選択などです。気を付けていないと,そういう違いがきっかけで仲間との絆にひびが入ってしまうことがあります。・・・自分の基準や好みにこだわらないようにしましょう。”とあります。要するに、生活の細部にいたるまで自分では決めず、統治体の指示に従いましょうということです。恐るべき全体主義ですね。」
「髭を生やしてよいかどうかを決めるのは統治体。女性がスカート以外の服装でもよいかどうかを決めるのも統治体。どんな医療を受けてよいかを決めるのも統治体。JWとは昔からこんな宗教だよ。幻想を持たないように。」

「14節に“最近,会衆から除かれていた人やしばらく伝道に出ていなかった人が,たくさんエホバの家族に戻ってきています。”とあります。本当ですか?奉仕時間を報告しなくてよくなったので、書類上伝道者になっているだけじゃないですか?」
「以前排斥した人に長老たちが作り笑いを浮かべながら復帰するよう促しているらしいね。排斥されてから20年ぶりに会いたくもない長老が訪ねてきたという人もいるようだ。」

「14節には体験談が出ています。“10年ほどエホバの証人としての活動をしていなかったある姉妹は,久しぶりに集会に来てこう言いました。「みんなが笑顔で私の所に来て握手してくれました」。”とあります。不活発なひとにはこのようにしなさいという指示ですね。」
「排斥された人には軽く挨拶をして、後は無視。愛のある宗教だね。」

「15節では“絆を強めるためにできる別のことは,話す前によく考えることです。”とあります。悪口や暴言を吐いて、会衆の一致を妨げる人が多いということですね。」
「言葉に気をつけましょう、というのはよく出てくるね。長老や巡回監督の質がますます低下し、講演などでくだらないことをいって信者を呆れさせることも多いみたいだよ。」

「最後の17節は“「行いによって誠実に」愛しましょう”です。  具体的には“兄弟姉妹と一緒に時間を過ごせば過ごすほど,その人のことをもっと身近に感じ,もっと好きになります。集会や伝道で仲間と過ごす時間を大切にしましょう。家に立ち寄ることもできます。”とあります。集会と伝道がやっぱり出てきました。この2つはなんにでも効く魔法の薬です。」
「実際は、一緒に時間を過ごせば過ごすほど、JWが嫌になり、集会や伝道など耐えられなくなりました、という人の方が多いような気がするけどね。」

#1585 2025年07月04日 14:28:00

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“あなたは独りではありません(17) ”で、エホバが4つの方法で信者を助けてくれる、という内容です。」
「導き、養い、守り、慰める、の4つだけど、神のスーパーパワーで助けてくれるわけでないようだね。」

「珍しく、この記事ではJW以外の人にも親切にするようにと言っています。政策変更ですか?」
「JWはJWだけしか助けない、隣人愛のない、非キリスト教的組織と言われているのを気にしているのだろう。重要なのは何を言うかではなく、行動。」

「3から6節が“エホバは導いてくれる”です。  まず3節に“エホバは,人間が自力で正しい判断をすることはできない,ということを知っています。”とあります。これって聖書のどこに書いていますか?翻訳がおかしいですね。」
「英文ではJehovah does not expect us to guide ourselves.(エホバは私たちが自分で自分を導くことを期待してはおられません。)というもの。自力で正しい判断ができないとは言ってない。翻訳者の創作。」

「どう導くかというと、3節に“1つの方法は聖書です。・・・聖書のアドバイスの通りにするなら,今も将来もずっと幸せでいられます。”とあります。そんなことはありません。もし本当なら証拠を示すべきです。」
「聖書は古代に書かれた宗教本で、幸福になるためのハウツー本じゃないし、社会や経済の在り方、家族の在り方が全く異なる現代人の幸福にはあまり役に立たない。」

「5節に“エホバは兄弟姉妹を通しても私たちを導いてくれています。”とあります。結局エホバの導きというのは、大昔に書かれた本と頭が良いとは言えない人が多い信者の導きにすぎないわけです。別な方法でお願いしたいです。」
「つまりエホバは頼りにならないということね。それでJWには不幸そうな人が多いわけだ。」

「6節に“格言 3章5,6節にはこうあります。「心を尽くしてエホバに頼れ。自分の考えに頼ってはならない。……そうすれば神が真っすぐに進ませてくださる」。自分ではなく神に頼るなら,エホバは私たちが厄介な問題に巻き込まれず,幸せに生きていけるようにしてくれる,ということです。”とありますが、この解説はデタラメですね。」
「英文ではhe will make [our] paths straight(彼は道筋をまっすぐにして下さる)で、“真っすぐに進ませてくださる”とは違う。これは厄介な問題に巻き込まれないとか幸せに生きるとは無関係で、正しい生き方を導いてくれるという意味。」

「旧約聖書では正しい道というのは律法に従った生き方ということですね。幸福な生き方とは違いますよ。」
「旧約聖書は個人の幸福など関心がない。幸福という言葉は聖書にはほとんど出てこない。」

「7から11節は“エホバは養ってくれる”です。 もちろんそんなことはないわけですが、どう信者をうまく言いくるめるかが興味深いです。まず7節で“フィリピ 4:19を読む。エホバは私たちを養ってもくれます。”とあります。元の英文はそこまで断定していません。」
「Jehovah blesses our efforts to obtain the food, clothing, and shelter that we need.(エホバは必要な衣食住を得ようとする努力を祝福してくださいます。)とあり、養ってくれるかどうかは曖昧。今やホームレス同様の生活をしている高齢JWがたくさんいるのがアメリカだからね。気楽にエホバが養ってくれます、なんて書けないんだよ。」

「引照聖句には“あらゆるものを豊かに持っている神は,キリスト・イエスを通して,皆さんが必要としているものを十分に与えてくださいます。”とあります。今までだと、聖書に十分与えてくれると書いてあるから、エホバは養ってくれるんだよ、と強弁して終わりだったのにだいぶ変わりましたね。」
「これはパウロの手紙の終わりの部分で、きわめて個人的なことを言っている所。4:16で” 私がテサロニケにいた時,皆さんは私に必要な物を送ってくれました。それも1度だけではなく,2度もです。”とあり、4:18で” 私は今,必要な物を十分過ぎるほど持っています。”と言っている。そして4:19で、そんな親切で愛に満ちた皆さんも必要なものは十分与えられるでしょう、という流れだね。」

「エホバは信者を養ってくれるという約束がここで書かれているわけではないですね。」
「パウロの手紙の多くは特定の相手に向けて書かれているわけで、そのメッセージも特定の相手に向けられている。現代のJWに向けて書かれたわけじゃない。」

「7節の最後は“必要なものを与える,と約束しているエホバのことを信頼しましょう。”です。信頼しなくても、真面目に働けばたいていの人は必要なものは得られますよ。」
「信者が働いてお金を稼ぐのを妨害しているのが組織。このエホバの約束を真に受けて、組織の言いなりにしていると、悲惨な結果になるよ。」

「8節はくだらないです。“エホバがダビデをどのように支えたか,考えてみましょう。”とあります。ダビデの出来事は現在のJWには何の関係もありません。」
「旧約聖書の例を一つ入れろと統治体から指示があったんじゃないの?」

「8節では、詩編37:25が引用されていて、“「若かった私も,今は年老いた。だが,正しい人が見捨てられるのを見たことも,その子供たちがパンを探すのを見たこともない」。(詩 37:25)あなたも,エホバに仕える人がエホバからいつも養われているのを見てきたことでしょう。”とありますが、最後の文は誤訳ですね。いつも養われているなんてことはありません。」
「Likely during your own lifetime, you too have seen Jehovah lovingly provide for his devoted servants.(あなたも生涯を通じて、エホバがご自分の忠実な僕たちを愛情深く養われるのを目にしたことがあるでしょう。)といっているだけ。一生のうち一回くらいは目にするかもしれませんということじゃないの。”いつも養われている”というあからさまなウソは書いていない。」

「でも、本当に困窮した人は集会にも来られませんし、JWも続けられませんから、王国会館に来て、この記事を読んでいる信者は、貧しくともエホバに養われていると感じられる人ばかりじゃないですか?」
「本当に生活に困った人は集会に来て、みんなに助けてくれと頼めばいいよ。エホバが養ってくれるかどうかがわかる。」

「9節が災害のことです。“エホバは,災害の時も必要なものを与えてくれます。”とあります。組織は被害にあったJWに必需品を供給し、家を修復し、感情面や霊的な面で支えるようです。JWのプロパガンダですね。」
「神様なら信者が災害に会わないようになぜしてくれないのかな?信者を災害に会わせて、その後多少の援助をする神様って、あたまが悪いのか、性格が悪いのか、その両方なのか、どっちなんだろうね。」

「10、11節では、JW以外の人にも親切にするよう書かれています。間もなく滅ぼされる人に親切にする必要はありませんよ。」
「終末論は放棄したのかな。組織はこの世界で細く長く生きながらえるつもりかも。」

「10節ではJWではないボリスの話が出ています。“ウクライナで戦争が激しくなったため,ボリスは国内のもっと安全な場所に避難することにしました。その時,エホバの証人にとても親切にしてもらいました。後にボリスはキリストの死の記念式に出席しました。”とあります。残念ながら長老として奉仕はしていないようです。」
「信者集めのためにJWでない人に親切にしようというわけだ。これは営業戦略であって、隣人愛とは関係ないね。」

「11節では“私たちも優しいお父さんエホバに倣い,困っている人に親切にしたいと思います。その人がエホバに仕えているかどうかにかかわらず,そうしたいと思います。”とあります。JWでない人にも親切にするようです。これも信者集めのためでしょうが、どんどんやって欲しいです。」
「カート奉仕の横でホームレスの人が倒れているのに、JWはただ突っ立っているだけ、という写真があった。これからは助けるのかな?」

「12から14節が“エホバは守ってくれる”です。  12節の設問が“エホバは私たちをグループとしてどのように守ることを約束していますか。”です。個々人は守らないけれど、グループとしては守ってくれるという教義のようです。12節に“エホバは,私たちがエホバとの絆を守れるように助けると約束しています。”とありまして、これが答えなのでしょうが、英文とかなり違いますね。」
「英文ではspiritual protection(霊的な保護)を与える、と言っている。日本のJWでは”霊”は使ってはいけない言葉なので、別な言葉に置き換える。」

「13節ではさらに“「大患難」の時も,エホバが私たちを守ってくれると確信できます。強い信仰を持てるよう助け,グループとして生き残れるようにしてくれます。”とありますが、これもかなり英文を変えていますよ。」
「we can have absolute confidence that Jehovah will fulfill his promise to safeguard his people not only spiritually but also physically.(わたしたちはエホバがご自分の民を霊的にだけでなく身体的にも守るという約束をはたしてくださることを絶対的に確信できます。)だから、”霊的”があるので正しく訳せないし、”絶対的な確信を持つ”というのが狂信的で嫌だったのだろう。」

「13節が一人一人をどう守るかです。“聖書を通して,正しいことと悪いことを見分けられるよう教えてくれています。”とあります。また“エホバは会衆を通しても守ってくれます。(イザ 32:1,2)”とあります。聖書と会衆によって守ってくれるらしいですが、頼りないです。」
「引照聖句のイザヤ32:1、2は会衆通して信者を守るなんてこととは無関係。聖句の誤用。」

「14節はJWの神学が出ています。なぜ愛ある神がいるのに忠実なJWが苦しむのかという問題です。“エホバに仕える人が迫害に遭い,命を落とすこともありました。エホバは止めに入ることはありませんでした。サタンがうそつきだということを証明するためです。(ヨブ 2:4-6。マタ 23:34)”とあります。サタンがウソつきと証明するために、人類の不幸が延々と続いても神は傍観している、という神学ですね。本当にひどい神です。JWの神は人類に対して冷淡で無関心ということです。」
「引照聖句はそんなことは言っていない。これはJWの神学にすぎない。」

「ヨブ2:6で“エホバはサタンに言った。「いいだろう,あなたの手に委ねよう。ただし,命を奪ってはならない!」”とあります。神はヨブの命は守っているのですから、他の人にもなぜそうしないのでしょうか?」
「ヨブ記のサタンは悪魔の王サタンではない。サタンには冠詞が付いている。ということはサタンは職名で固有名詞ではない。ヨブ記のサタンは神に仕える僕で、神の許可なしには行動しない。」

「15から18節が“エホバは慰めてくれる”です。 15節によると、祈り、聖書、集会によって慰めてくれるようです。“集会に行くと,仲間から力をもらえます。聖書の話を聞いたり,兄弟姉妹から優しい言葉を掛けてもらえたりするからです。”とありますが、そんなことは滅多にありません。これは想像上の集会ですね。」
「集会で子どもたちが大人のJWから性的な虐待をうけたことなど、なかったかのようだね。アメリカでは元JWに次々と有罪判決が出ているのにね。」

「16節はネイサンとプリシラの体験談です。伝道者として、もっと必要な場所に引っ越したものの、“体調を崩し,仕事を見つけるのにも苦労しました。結局,2人は以前いた所に帰ることにしました。その後もお金の苦労は続きました。”とあります。よくある話ですよ。」
「早く戻ってこられてよかったよ。エホバのおかげでしょう。地元で伝道したくないからと言って、安易に必要の大きい場所に行くなという警告だよ。」

「ネイサンは“そのつらい時期ずっと,聖書はまるで信頼できる友達のように,いつも的確なアドバイスをし,励ましの言葉を掛けてくれました。”といっています。聖書には魔法の力があるようです。どんなアドバイスか知りたいです。そして“つらい状況そのものではなく,エホバがどのように助けてくれているかに目を向けることは大切だと思います。”とあるのですが、抽象的過ぎて意味が分かりません。」
「現実から逃避し、楽園でパンダと遊ぶことに目を向けるということじゃないかな。」

「17節はヘルガの話です。“姉妹は何十年もいろいろなつらい経験をしました。”とあります。そして仲間の兄弟姉妹から“ぴったりのタイミングで,温かくねぎらってくれるメッセージやカードを受け取ったことが何度もありました。”と言っています。何十年も苦しんだ人に対する慰めがメッセージやカードとは情けないです。お金でもあげようという人はいないようです。冷たい兄弟姉妹ですね。」
「困った人には、言葉による慰めだけでは全く不十分。なぜもっと実際的な援助をしないのかな?お金は組織の寄付に回せということかな。JWは仲間の信者に対して冷淡なのは本当のようだ。」

「18節に、“つらい目に遭っている人がいるなら,慰めてあげましょう。相手がエホバの証人であっても,そうでなくてもです。近所に不安や悲しみを抱えていたり,病気で苦しんでいたりする人がいれば,家を訪ね,話を聞き,聖書から力が湧いてくる言葉を伝えるようにしましょう。”とあります。近所の不幸そうな人に慰めると称して勧誘活動をしなさいということです。迷惑ですね。ますますJWは嫌われますよ。」
「東に病気の子ども有れば、楽園の話をし、西につかれた母あれば、聖書の話をし、南に死にそうな人あれば、復活の話をし、北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろというわけだ。そういうものにJWはなりたいのか?」

「最後の19節は“エホバはいつもそばにいてくれる”です。  “私たちが苦しい思いをしている時,エホバはすぐそばにいてくれます。”とありますが、根拠となっているのはイザヤ41:10の“恐れてはいけない。私があなたと共にいる。”だけです。」
「これはイスラエルに向けられた言葉。現代のJWとは何の関係もない。この記事を読む限り、実際に頼りになるのは仲間の信者だけのようだ。ということは、信頼できて頼りになる信者が多い別の宗教に入った方がましだ、ということだね。」

#1586 2025年07月11日 14:16:37

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“若い兄弟たち,マルコとテモテの手本に倣ってください(18)”で、若い信者はマルコとテモテに倣って、組織のために働け、という内容です。」
「若い信者をこき使うことしか考えていない。やめる若者が多くなるのも無理ないよね。」

「1節に“あなたはエホバや会衆の仲間のためにもっとできることがないだろうかと思っていますか。そういうやる気があるのはとても立派です。”とあります。つまり、もっとできることはないかと思っていない人はやる気のないダメな人ということですね。」
「こうやって、絶えず信者にお前はダメだ、不十分だ、やる気がない、と思わせて自信を奪い、組織に従属させようとするのがカルトのやり方。」

「2,3節にマルコとテモテのことが出ていますが、この二人の記録は限られていますよね。」
「ペテロ一にマルコが出てくるけれど、これはペテロの名をかたった偽名文書。テモテ一と二、コロサイにテモテが出てくるけれど、これらはパウロの名をかたった偽名文書。著者がペテロあるいはパウロらしく見せかけるために、マルコやテモテの名前を使っているだけで、本当の著者がこの二人を知っていたとは思えない。」

「4から7節が“マルコはエホバと人のために進んで働いた”です。  マルコ(別名ヨハネ)の話です。4節は英文をかなり変えていますね。According to one reference, serving, or ministering to, others implies reaching out to help them “with diligence and persistence.”(ある文献によると、他の人に仕える、あるいは奉仕するということは、助けるために”勤勉に粘り強く”手を差し伸べることを意味しています。)を、” 誰かのために進んで働く人は,相手に尽くし,そうするのが大変なときも諦めません。”に変えています。」
「日本語翻訳者はこのような引用元を隠した不正引用をすることが、真の神の組織としてふさわしくないと思ったのだろう。あるいは、翻訳者はこれは小学生向けの本からの引用と思ったのかも。さすがにそれは恥ずかしいと思って削除した。」

「4節で” パウロが2回目の宣教旅行に連れていってくれなかった時,きっと傷つき,落ち込んだことでしょう。(使徒 15:37,38)”とありますが、これがマルコの主な出来事ですね。」
「使徒13:13に“次いでパウロの一行はパフォスから船に乗って,パンフリアのペルガに着いたが,ヨハネは2人から離れてエルサレムに帰った。”とあり、マルコ(ヨハネ)がパウロたちから離れてエルサレムに帰ってしまったことが書かれている。このためパウロは2回目の宣教旅行ではマルコを連れて行くのを拒否した。」

「6節はマルコとペテロの関係です。“マルコはローマでパウロといくらか時間を過ごした後,バビロンで使徒ペテロと奉仕しました。ペテロが「私が愛するマルコ」と呼んでいることから,2人の強い絆が読み取れます。(ペテ一 5:13)”とあります。ペテロ一も二も作者はペテロじゃありません。それから引照聖句にバビロンという地名が出てくるのですが、これは通常ローマのことを指すと解釈しませんか?」
「ペテロはローマで死んだことになっている。またペテロがバビロンで活動したという記録はない。啓示に大いなるバビロンは倒れました、とあるように、バビロンはローマを指す単語として使われていた。それで、ペテロ一に出てくるバビロンはローマのことだと考えられている。」

「6節には“マルコは,おそらくペテロからイエスの生き方や伝道について詳しく話を聞き,それを福音書にまとめたのでしょう。”とありますが、これは言い伝えに基づく推論ですね。」
「マルコの福音書の作者は不明。マルコの福音書は福音書の中でもっともペテロをダメな弟子として描いている。ペテロのことが嫌いだったのかも。」

「7節がマルコからの教訓です。“自分のしたい奉仕をなかなかさせてもらえないように感じる時,がっかりして諦めたくなるかもしれません。でも,踏みとどまってエホバと仲間のためにできることがないか探しましょう。”というものです。」
「無理やりでっちあげた教訓だね。ダラダラとダメな組織に踏みとどまるのではなく、この組織はダメだ、やめよう、と早く決断すべき。」

「長老の勝佑(スンウ)兄弟の話が出ています。ダメな組織を早くやめられなかった人です。“長老からいろいろな仕事を任されている人たちがいる中で,自分にはそういうチャンスが与えられていないと感じました。”とあります。」
「長老にゴマをするのが下手な、真面目な人なんだろうね。」

「それでどうしたかというと“集会に来るための交通手段がない仲間や,高齢の仲間を助けてあげることにしました。”とあります。それで長老になったようですね。」
「もちろん長老になってからはそんな雑用はしていないよね。今は21歳から長老になれる。苦労して長老になった人は面白くないだろう。」

「8から11節は“テモテは仲間に優しく寄り添った”です。  8節に“また,テモテは仲間を心から気遣う人でもありました。(フィリピ 2:19-22を読む。)”とあります。引照聖句には“テモテほど皆さんのことを心から気遣える人は,ほかにいません。”とあります。偉い人ですね。」
「テモテはパウロから立派な人物と評価されているのに、偽パウロ文書であるテモテ一と二では、全く頼りない若者かのようにテモテに細々とした指示が書き連ねられているよ。」

「テモテ一5:23では“胃のため,また度々かかる病気のために,ぶどう酒を少し飲むとよいでしょう。”とあります。健康に関する真偽不明のアドバイスが必要なほど、頼りない男なんですよ。」
「テモテ二2:22では“若い時に抱きがちな欲望から逃れ,清い心で主に頼る人たちと共に,正しさと信仰と愛と平和を追い求めなさい。”とある。これだとテモテは模範的というより、かなりアブナイ人物だね。」

「10節は長老である佑在(ウジエ)兄弟の話です。この兄弟は話すのが苦手で、長老から“兄弟姉妹のどんなところに感謝しているかを伝えると,もっと会話が弾むよ”とアドバイスを受けたそうです。感謝するようなことがなければどうするのですか?」
「これは訳がヘンだね。元の英文はtelling his fellow believers what he appreciated about themで、appreciateという動詞は、感謝するという意味もあるけれど、ここではほめるということでしょう。相手の何か素晴らしい点を見つけてそれをほめてあげなさい、そうすれば会話が弾むよ、という意味。」

「11節では“若い兄弟たちも人にもっと関心を持ち,人をもっと好きになることができます。”とあります。具体的には“例えば,JW Library®の使い方を教えてほしいと思っている年配の人がいるかもしれません。”とあります。組織が老人のことを考えずに、勝手に電子化したので、ついていけない老人がたくさんいるわけです。そのしりぬぐいを若い人にやらせようというわけです。」
「JW Libraryの使い方を教えるような重要なことは長老にお願いします、と言えばいい。」

「12から17節が“親心のあふれたパウロのアドバイスから学ぶ”です。  テモテ一と二から学ぶというものです。13節は“神への専心をいつも示せるように自分を訓練しなさい」。(テモ一 4:7,後半)”です。そして“神への専心とは何でしょうか。エホバから絶対に離れたくない,いつもエホバの喜ぶことをしたい,という気持ちのことです。”と説明しています。これはヘンですね。勝手に意味を膨らませています。」
「元のギリシャ語の意味は、信心深い、敬虔というもので、協会共同訳では” 敬虔のために自分を鍛えなさい。”となっている。組織は信者を管理統制することを重視しているので、単純な表現を” 神への専心をいつも示せるように”と過大な要求に変える。組織は少しも親心がない。」

「14節が具体的な要求です。“聖書を毎日読むことです。聖書を読む時は,エホバともっと親しくなることが目標だということを忘れないようにしましょう。”とあります。一日でもさぼると滅ぼされるのでしょうか?」
「英文には毎日読め、なんて書かれていない。日本語版だけ。エホバと親しくなるのではなく、エホバに近づくのが目標と言っている。エホバは親しい友達という思想は日本のJWに目立つ思想で、元のJWの思想からだいぶ逸脱している。世界的一致はどうした?」

「聖書の読み方の例が出ているのですが、面白いです。“例えば,イエスと若くて裕福な男性のやりとりから,エホバについて何が学べるでしょうか。(マル 10:17-22)”と問いかけています。イエスの話なのに、エホバについて学ぶことを強要しています。まともな聖書の読み方ではありません。エホバ教の読み方です。」
「イエス=エホバなんでしょう。イエスとエホバは一体なので、イエスの行いや発言はすべてエホバと読み替えましょう、と説明すべきだね。」

「15節が“忠実な人たちの手本となってください」。(テモテ第一 4:12,13を読む。)”です。そこには“言葉や振る舞い,また愛,信仰,清さの点で,忠実な人たちの手本となってください。”とあります。若い人もこれらの点で手本になれ、というわけですね。それは過大な要求です。自分には無理なのでJWをやめよう、と思うだけですね。」
「テモテは若い人と想定されているけれど、当時の有名なクリスチャンだよ。使徒16:2で“ルステラとイコニオムの兄弟たちから良い評判を得ていた。”とある。2つの町で名が知られているわけで、その辺のJWの若者とは立場が異なる。」

「16節が具体的な要求事項です。“例えば,「言葉……の点で」手本になるにはどうしたらいいでしょうか。”と問いかけ、“周りの人を元気づけるためにどんなことを話せるか,考えてみましょう。”とあります。親には感謝の言葉を、集会で講演や実演した人には誉め言葉を、集会ではコメントすることが求められるようです。」
「そうすると21歳で長老になれるでしょう、と書いてくれればやる気が出るのにね。要求が多すぎるよ。」

「17節が“若い時に抱きがちな欲望から逃れ,……正しさ……を追い求めなさい」。(テモテ第二 2:22を読む。)”です。具体的には“例えば,スポーツやネットサーフィンやゲームにどれぐらいの時間を使っているでしょうか。その時間をエホバや仲間のために使えるでしょうか。王国会館のメンテナンスやカートの奉仕に参加できますか。”とあります。要するに、若い人を組織のためにタダでこき使おうということです。」
「欲望から逃れ、正しいことを追い求めると、暑い中、何時間もカートの横でボーと立っている人間になるわけだ。それが若い人が目指す理想の人生なのね。」

「18,19節が“仲間に尽くす生き方は素晴らしい”です。  これまでのまとめです。18節で“エホバは,仲間に尽くしたマルコとテモテのことをとても喜んだに違いありません。”と断言しています。」
「元の英文はObviously, Jehovah was pleased with the self-sacrificing spirit shown by Mark and Timothy.(明らかに、エホバはマルコとテモテの示した自己犠牲の精神を喜んでおられました。)で、エホバが喜んでいたのは自己犠牲の精神。自己犠牲を賛美するのは、いかにも危険なカルト的なので訳を変えたのだろう。」

「それに“明らかに”とある文は、根拠のない決めつけというのが明らかですから、忠実に訳したくなかったんですよ。」
「自己犠牲の先に何があるかというと、19節に“そうするなら,今最高の人生を送り,「真の命をしっかり捉えることができ」ます。(テモ一 6:18,19)”とある。何時間もカートの横でボーと立っている“最高の人生”なんて、誰も興味ないよ。」

#1587 2025年07月18日 14:38:18

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバに仕える天使たちに倣う(19)”で、天使を見倣って、なぜか組織の言いなりになりなさいという内容です。」
「いつもは旧約聖書の登場人物を取り上げるのだけど、もうネタが尽きたのか?それで天使をとりあげたのか?」

「3節に“この記事では,エホバに仕える天使たちの謙虚さ,人への愛,忍耐,会衆を清く保つための働きについて考えます。”とあります。天使はそんな存在とは知りませんでした。」
「ここでのポイントは“会衆を清く保つ”でしょう。組織への密告・排斥・忌避をまじめに実行しなさいという、カルトらしい内容となっている。」

「天使がどんな存在かについて、聖書はほとんど何も語っていません。」
「ヨブ4:18には“何と,神はご自分に仕える人のことを信じていない。ご自分の天使をとがめる。”とあるよ。ヨブ5:15にも“何と,神は天使たちを信じていない。神から見れば,天でさえも清くない。”とある。天使はあまり信頼されていないようだね。人間も天使もダメなのが多いのかも。それであまり聖書に登場しないのかな。」

「天使の外見としては、JWでは白髪で白いひげで、翼のある白人男性として描かれることが多いのですが、聖書的根拠はないでしょう。」
「聖書に出てくる天使は人間と同型でしばしば人間と間違われる。すべて男性だね。それから翼なんかないよ。啓示14:6に“また私は,別の天使が空高く飛んでいるのを見た。”とあるけれど、翼を使って飛んでいたとは書いていない。翼を天使につけるようになったのは後のキリスト教美術だね。有翼の天使は異教が起源だからやめるように支部に電話しよう。」

「信者を守る“守護天使”なんかも、聖書ではなく異教が起源ですよ。」
「JWは“守護天使”なるものを積極的に言わないけれど、否定はしない。守護天使という考えは現代アメリカでは人気があるからね。」

「4から7節は“天使たちは謙虚”です。  天使が謙虚という聖書的な根拠は、4節にある“自分たちの名前が知られることにならなかったとしても,神が望んでいることを喜んで行います。 (創 32:24,29。王二 19:35)”だけですね。」
「引照聖句の創世記32章はヤコブが川の側である人物と闘う場面だけれど、創世32:30に“ヤコブはその場所をペニエルと名付けた。彼が言うには,「神と顔を合わせたのに,まだ生きている」からだった。”とあり、ヤコブと闘った人は天使ではなく、神だよ。」

「この話は多神教的な古代の宗教の残滓ですよ。ヤコブは川の神と闘ったのです。」
「それを後の人が後の時代の宗教にあうようにあいまいな形に変えたわけだね。」

「5節は啓示19章の話です。” 幻を見たヨハネはどう反応したでしょうか。その天使を崇拝しようとしました。でもその忠実な天使は,すぐにこう言ってやめさせます。「気を付けなさい! そうしてはなりません! 私は,あなたや……あなたの兄弟たちの,仲間の奴隷にすぎません。神を崇拝しなさい!」(啓 19:10)本当に謙虚な反応です。”とあります。」
「コロサイ2:18に“見せ掛けの謙遜さや天使の崇拝を好む人のせいで,賞を得られなくなることがないようにしてください。”とあるように、天使崇拝が当時はあったようだ。それを止めるようにというのが啓示19:10のメッセージで、天使が謙虚だったからではないよ。」

「6節が“謙虚な天使たちにどう倣えるか。”で、“割り当てられたことを果たした時,それを誇ったり,自分の手柄にしたりしないようにします。(コリ一 4: 7)”とあります。割り当てられたことをきっちり果たすのはあたりまえだということですね。」
「引照聖句には割り当てのことなど出てこないよ。いちばん謙虚さを学ぶ必要があるのは統治体の老人たちでしょう。神の代理人かのように振舞っている。」

「8から10節が“天使たちは人を愛している”です。  特に美しい女性を愛しているのでしたよね。」
「創世記6:2に“真の神の子たちは,人の娘たちが美しいことに気付くようになった。そして気に入った女性たちを妻にしていった。”とあるね。でもこの記事ではこれは不都合なので、触れないね。」

「8節に“直接伝道することはありませんが,神について知りたいと思っている人の所に伝道者を導くことがあります。もちろん,天使たちが具体的にどの場合に関わっていたか,はっきりしたことは分かりません。”といいかげんなことを書いています。聖書的な根拠はありません。」
「伝道の時天使が見守っている、と信じるように誘導しているけれど、断定は避けたということだね。根拠は聖書ではなく個人の体験談でしょう。」

「8節の後に“祈りが聞かれた”という囲み記事がありまして、“次のようなエピソードから,天使たちが私たちのためにいろいろな場面で働いている様子が想像できます。”といってから、3つの体験談が出ています。どんな宗教でもありそうな、天使の働きにしてはつまらないものばかりです。」
「英文ではIs it possible that the angels were involved in any of the following experiences?(天使が以下のいずれかの経験に関わっていた可能性はあるでしょうか?)とあるだけで、天使がJWの伝道を助けているといった迷信じみたことは言っていないよ。」

「3つ目の体験談では“男性は,神様が祈りを聞いて,エホバの証人の夫婦と出会わせてくれたんだと感じました。”とありますが、英文ではHe viewed this chance meeting as an answer to his prayer.(彼はこの偶然の出会いを祈りの答えと見なしました)です。偶然(chance)と言っています。天使は関わっていないということですよ。」
「ごく普通のことでも、エホバのおかげ、天使のおかげと考えるように条件づけられているのがJWなんでしょう。偶然でも天使のおかげなんだよ。文句を言うやつは排斥だ。」

「伝道で知らずに殺人犯の家に言ったけれど、天使が守ってくれたので無事だったとか、冬道で滑って車が3回転したけれど天使が守ってくれたので誰もかすり傷一つ負わなかったとか、もっとインパクトのある話を書いて欲しかったですね。」
「そういうミエミエのウソ話は会衆の長老が講演で話すネタにするけれど、記事にはしない。」

「9節が“人を愛している天使たちにどう倣えるか。”で、“伝道活動のためにベストを尽くすことによっても天使に倣うことができます。(伝 11:6)”とあります。伝道をまじめにやれという指令ですね。もちろん引照聖句は伝道とは関係ありません。」
「旧約聖書に不特定多数に伝道するという思想はないよ。でもJWでは、天使の話も伝道の話に変わるわけだね。」

「10節はインドに居る病気で寝たきりになったサラ姉妹の話です。これは結構すごいですよ。“できるのは電話での伝道に限られました。それで,再訪問をしていた人たちに電話して,聖書に興味のある別の人たちを紹介してもらいました。どうなったでしょうか。数カ月のうちに70件の聖書レッスンを始めることができました。”というものです。この調子だとインドは間もなく世界一JWが多い国になりますね。」
「この話が本当だと、天使はインドに沢山いると思ってしまうけれど、インドも中国も人口大国なのに、JWはほとんどいない。」

「JWの多い国って、もともとキリスト教の国ですよ。イスラム教の国にはまずいません。天使はイスラム教が嫌いなわけですね。」
「JWの伝道方法は、聖書を学びましょうと呼びかけるもので、この方法が有効なのはキリスト教の国というだけ。天使なんか関係ないよ。」

「11,12節は“天使たちは忍耐している”です。  天使が忍耐しているという聖句はありません。単なる推測です。」
「天使たちは天での暮らしを楽しんでいるとばかり思っていたよ。天は髭面のむさくるしい男しかいないことを除けばいい所なんじゃないの?」

「12節は“忍耐している天使たちにどう倣えるか。”で、“神が一番良いタイミングで悪いことを全て取り除いてくださることを天使たちと同じように確信しています。”とあります。ハルマゲドンが遅いと文句を言うなということですね。」
「ハルマゲドンという言葉も使うのをやめたんじゃないの?それは直接触れたくない話題のようだよ。まじめなJWだって間もなくハルマゲドンなんて信じていないでしょう。」

「13から15節は“天使たちは会衆の清さを保つために働いている”です。  13節には“終わりの時代にエホバは天使に特別な任務を与えています。(マタイ 13:47-49を読む。)”とあります。そこには“体制の終結の時にもそのようになります。天使たちは出ていって,正しい人の中から邪悪な人をより分け,”とあります。」
「そこで引用をやめるはズルいね。より分けた後、どうなるかというと13:50には“火の燃える炉に放り込みます。彼らはそこで泣き悲しんだり歯ぎしりしたりします。”とある。天使は悪い人を燃やしてしまうんだよ。そんなこと全然していないよ。」

「この聖句の意味について“これは,会衆の清さが守られるよう助けているということです。”と解説していますが、違うでしょう。13節の最後には“私たちは天使が会衆の清さを保つために一生懸命働いているということを確信できます。”とあります。根拠もなく勝手に確信しているだけです。」
「JWの中には児童性的虐待で有罪になった人が何人もいるよ。それは警察が動いたから。天使は何もしていない。JWの排斥や忌避を正当化するために、それは天使の働きです、と言いたいだけでしょう。」

「これはイエスの言ったことになっていますが、イエスの時代に会衆なんかありませんよ。」
「イエスは会衆を単位とした組織宗教を作っていない。それができるのはイエスの死後。イエスが会衆の清さについて語るはずがない。」

「14節が“会衆の清さを気に掛けている天使たちにどう倣えるか。”で、密告を勧めています。“例えば,兄弟姉妹が重大な罪を犯していることに気付いたなら,どうすべきでしょうか。その人を愛しているので,長老たちに話すよう勧めます。もし本人がそうしようとしないなら,私たちがそのことを長老たちに伝えます。”とあります。密告は愛ゆえの行いというのがカルトらしくていいですね。」
「天使は密告するって、聖書のどこに書いてあるの?密告と天使は何も関係ないよ。」

「15節には“会衆から除かれた人と交友を持たないようにすることは,その人にとっても親切なことです。”と言っています。排斥・忌避=親切というカルトらしいねじ曲がった主張です。」
「これって天使と何の関係があるの?何の関係もないけれど、排斥した人と交流を持つふとどきなJWが結構いるので、それをやめさせようとしたいだけだね。」

「最後の16節には“私たちは信仰の目で天使たちの様子を見ています。そして,一緒に働くことができています。”とあります。天使はJWと一緒に働いているようです。カートの横でぼ~と立っているJWの隣には、目には見えないけれど天使がぼ~と立っているわけですね。」
「気の毒な天使。」

#1588 2025年07月25日 14:41:37

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“慰めの神エホバは私たちを安心させてくださる(20)”で、バビロン捕囚の話を利用して、不安や恐怖をあおり、組織に従属させようという内容です。」
「3節に“この記事では,エホバが当時の人々に安心感を与えた3つの方法を考えます。エホバは,(1)悔い改めた人たちを許すことを約束し,(2)ご自分に仕える人たちに希望を与え,(3)不安を和らげ ました。”とあるけれど、この記事では不安をあおっているよ。恐怖と不安はカルトのエネルギーだからね。」

「4から7節が“エホバは憐れみ深く許してくださる”です。  お前たちは許しが必要なダメな人間だけど、エホバは許してくれるというわけです。気が滅入りますね。4節では“ユダヤ国民は罪の結果を身に招きましたが,ずっとバビロンにとどまるわけではないとエホバは約束しました。捕囚の期間には終わりがありました。(イザ 40:2)”とあります。エホバはバビロン捕囚は防いでくれないけれど、その期間に制限を設けてくれたので、憐れみ深いようです。」
「バビロン捕囚が罪の結果というのは当時の宗教原理主義者の解釈にすぎない。実際は古代の中東によくあった強い国が弱い国を征服して、役に立つ人材を自国に連れて行ったということ。宗教的な罪と罰の話ではない。」

「古代人の考えではユダヤ国家が滅ぼされたのはユダヤ人の神が無力だからというものです。神を擁護し、その結論を避けるための手段が、ユダヤ人は罪深いから罰を受けているという思想なわけですね。」
「さらにユダヤ人の神は単なるひとつの民族の神ではなく、宇宙全体を支配していて、他の民族も自由にコントロールしているという思想も生み出すわけだ。こうしてバビロン捕囚以降に旧約聖書の宗教が出来上がる。」

「4節の最後に“悔い改めた人たちは,こうした言葉を聞いて慰められ,安心したに違いありません。”とありますが、何の根拠もありません。」
「自分の死んだ後の何十年かあとに帰れると知っても、慰められないでしょう。今のJWだって、自分が死んだあとの何十年後にハルマゲドンが来てもうれしくないよね。」

「5節からは“学べること。”です。 なんと3節も続きます。学べることが多すぎますよ。」
「聖書の話は、本当はどうでもいいんだよ。組織の特定の考えを押し付けるのが、ものみの塔の記事の主な目的。」

「5節では“エホバは本当に憐れみ深い神です。”とあります。これが学べることの①です。でも聖書の他の部分では、好戦的で残虐な神ですよ。」
「そういう不都合な部分は取り上げず、信者獲得につながる愛と憐れみの神という宣伝に仕える部分だけを取り上げるのがJWのやり方。」

「6節には“エホバは,罪を一度許したなら,後からそれを思い出すようなことはしません。(エレミヤ 31:34と比較。)”とあります。それに倣うようにということのようですが、引照聖句はユダヤ人に向けて言ったもので、JWとは関係ないですよ。」
「エレミヤ31:31に“私がイスラエル国民およびユダ国民と新しい契約を結ぶ時が来る。”とあり、誰に向けた言葉かは明らかなのに、それは無視だね。」

「エレミヤ31:34では“私は彼らの過ちを許し,彼らの罪をもはや思い出さない。”とありますが、これは出エジプトの際に結んだシナイ契約をイスラエル人たちが守らなかった罪について言っているものですよ。その罪は許そう、忘れようと言っているだけです。」
「神はイスラエル人以外の異民族は許さないよ。申命記7:1,2に“それは,ヘト人,ギルガシ人,アモリ人,カナン人,ペリジ人,ヒビ人,エブス人で,あなたより人口が多くて強い7つの国民です。エホバ神は彼らをあなたに渡し,あなたは彼らを打ち破ります。必ず滅ぼし尽くしなさい。”とある。ある集団にたまたま生まれただけで、それがどんなに良い人でも殺すべきだというのが旧約聖書の神。」

「6節では“エホバは,私たちがこれまでにどんな間違いをしたかではなく,今何をしているかに注目しています。(エゼ 33:14-16)”とありますが、これも聖書の誤用ですね。エホバは些細なことでも許さず、人間を滅ぼす神ですよ。」
「引照聖句には“その人は,犯したどの罪についても責められることはない。公正で正しいことを行ったために,必ず生き続ける。”とあるけれど、これは、エゼキエル33:10に“人の子よ,イスラエル国民に言いなさい。”とあるように、バビロンに捕らわれているイスラエル国民を励ますための言葉。歴史的状況を無視して、現代JWに当てはめるのは滑稽だから、やめて欲しいね。」

「7節には” 罪を隠していて良心の痛みを感じているなら,どうすべきですか。聖書は,長老たちに助けを求めるよう勧めています。(ヤコ 5:14,15)”とあります。引照聖句は病気の人のことに触れているだけで、” 罪を隠していて良心の痛みを感じている”人のことなど出てきません。
「そこには“病気の人がいますか。その人は会衆の長老たちを呼んでください。そして,自分のために祈ってもらい,エホバの名によって油を塗ってもらってください。”とあるよ。これは古代ユダヤの慣習にすぎない。」

「5:15の最後には“また,その人が罪を犯したのであれば,許されます。”とありますが、これは病気の背後に罪を犯したことがあるという古代的信念を反映したものですよ。長老に相談したら罪が許されるなんてことはありません。」
「マルコ2:5に“イエスは彼らの信仰を見て,まひした男性に言った。「あなたの罪は許されています」。”とあるように、病気と罪は関係しているという思想が古代ユダヤでは普通だった。それで病気が治ったなら、罪も許されたという発想が出てくる。」

「7節にはアーサー兄弟の話が出てきます。“約1年にわたってポルノを見ていました。でも,良心に関する話を聞いて,妻と長老たちに自分の罪を打ち明けました。”というものです。罪というのはポルノ鑑賞なんですね。これは滅ぼされるに値する重大な罪なんでしょうね。そしてその後どうなったかというと“今アーサー兄弟は援助奉仕者で,開拓奉仕を楽しんでいます。”というお決まりの結末です。」
「ポルノを見たくらいで大人が罪悪感に打ちひしがれて、無知無学な長老に相談するなんて、JWだけでしょう。JWであるということは余計な重荷をたくさん背負わされることがよくわかる。カルトが利用するのは罪悪感だからね。」

「8から12節が” エホバは希望を与えてくださる”です。 8節では捕らわれていたユダヤ人にエホバは再び帰れるという希望を与えたとあります。” イザヤはこう書いています。「希望を抱いてエホバを待つ人は,再び力を得る」。(イザヤ 40:29-31を読む。)”とありますが、この聖句の訳はヘンですよ。」
「英語訳ではThose hoping in Jehovah will regain power.(エホバを待ち望むものは再び力を得る)だね。”希望を抱いて”は翻訳者が付け加えたね。」

「9節では“エホバは当時の人たちに,ご自分の約束を信じられる根拠も与えました。すでに実現した預言です。”、“全てエホバが予告した通りになりました。”とあります。でも、実現しなかった預言はたくさんありますよ。」
「そうなんだけど、JWはそれは無視して、聖書の預言はすべて実現したというプロパガンダを続けている。」

「10から13節が“学べること。”で、希望を持てということです。でもJWの希望は現実逃避の妄想です。10節には“新しい世界でどんな素晴らしい生活を送れるか,時間を取って考えることを習慣にできます。”とあります。悲しいですね。パンダと遊ぶことですか?」
「“希望を思い描くのに役立つ記事やビデオ,歌を活用しましょう。”とあるから、“楽園での夢の生活”というビデオがつくられるかもよ。落ち込んだらそれを見るように指導される。」

「11節は“慢性的な病気を抱えているジョイ姉妹の例”です。“姉妹は「『私は病気だ』と言う住民はいなくなる」という約束が実現する時,新しい世界で自分がどんな生活をしているかをイメージするようにもしています。(イザ 33:24)”とあります。病気のJWはこの姉妹に倣えということのようですね。でもイメージトレーニングで病気がよくなることはないですよ。」
「イザヤ33:24はJWの想像する楽園のことを言っていない。その一つ前の33:23には“その時,たくさんの戦利品が分けられ,足が不自由な人も多くの略奪品を手に入れる。”とあるよ。」

「JWはハルマゲドン後に金持ちの家から略奪するつもりなんですよ。」
「JWは伝道しながら、そういうことを考えているらしいよね。恐ろしいね。」

「12節では“今実現している預言について考えてみましょう。例えば,英米世界強国には確かに「強い部分ともろい部分」があります。(ダニ 2:42,43)また,「あちらこちらで……地震が」起きています。そして,私たちは「世界中で」良い知らせを伝えています。(マタ 24:7,14)”とあります。これって実現した預言ですか?違うでしょう。」
「信者向けのプロパガンダだけど、これを真に受けて、JW以外の人にしゃべってしまう間抜けなJWが居そうで、心配だね。」

「どんな国にも“強い部分ともろい部分”がありますし、地震はいつでも起きます。JWが伝道していない国や地域はたくさんあります。」
「実現した預言の例として、このようなものしか思いつかないわけだ。これはダメだね。希望なんか持てないよ。」

「13から16節は“エホバは不安を和らげてくださる”です。 14節には“エホバはご自分の無限の力や知恵を思い起こさせることによっても,捕囚にされていた人たちの不安を和らげました。その人たちに夜空の星を見上げるように勧めました。そして,ご自分が星を創造しただけでなく,その名前も全て知っているということを伝えました。(イザ 40:25-28)”とあります。そのあとに“エホバは,ご自分に仕える一人一人の名前も当然知っているに違いありません。エホバが星を造る力を持っているのであれば,ご自分に仕える人たちを助ける力を持っていることも確実です。”と解説しているのですが、これは違いますよ。全く理解していませんね。」
「JWの執筆者は無学だからね。古代の中東において天体は神であり、人間の運命を支配するものとして崇拝されてきたけれど、星はユダヤの神が作ったもので、40:26に“星の軍勢を数え上げて率いている者である。”とあるように、星々はユダヤの神の兵卒にすぎないと、異民族の神に対してユダヤの神の優越性を主張している部分。」

「15節も珍解釈が出てきます。“同じイザヤ書の中でエホバはご自分の民にこう言っていました。「奥の部屋に入り,扉を閉めなさい。少しの間,隠れていなさい。憤りが過ぎ去るまで」。(イザ 26:20)この言葉はバビロンがキュロス王によって征服された時に最初に実現した可能性があります。”とあります。ずいぶん自信なさげですね。“可能性があります”とはなさけない。イザヤ26章はバビロンが攻撃を受けた事とは関係ないですよ。」
「イザヤ26:1-19がひとまとまりで、神に対する賛美と嘆願の詩。26:20以降がそれに対する神の応答という構成。引照聖句の26:20は出エジプト12章にある“過ぎ越し”をほのめかしていると通常は解釈される。」

「15節には” 古代ギリシャの歴史家によると,キュロスはバビロンに入った時,兵士たちに「屋外にいる者は,見つけ次第,皆殺しにするようにとの命令を与え」ていました。”とあります。これまた不正引用です。出典を明らかになぜしないのでしょうか。」
「クセノポンの「キュロスの教育」からの引用でしょう。バビロン陥落からおよそ200年後に書かれたもので、歴史の資料的価値はないことを知っているのだろう。それで出典を隠した。」

「キュロスは本当に皆殺し命令を出したのですか?」
「そんな非合理な命令を出すのは聖書の神様だけかも。同時代の記録としてナポニドゥス年代記があるのだけど、そこにはバビロンは戦うことなく陥落し、バビロンの市民はキュロスが平和をもたらしてくれたと歓迎した。キュロスの円筒形碑文にも平和的な征服だったことが記録されている。」

「つまり、イザヤの預言は実現した可能性があるという根拠は信頼性の低い文献一つにすぎないわけですね。」
「JWは緻密に聖書解釈をするわけでもないし、誠実に歴史を調べるわけでもない。自分たちの教義を正当化するためなら、聖書の珍解釈でも、歴史の捏造でも、何でもするということ。」

「16節が“学べること。”で、ここでは不安をあおります。“間もなく,私たちは人類史上最大の患難に遭うことになっています。その時,人々は恐怖を感じ,混乱します。”とあります。“人類史上最大の患難”というあいまいな書き方がいいですね。伝染病でも戦争でも大地震でも、何でも当てはめ可能です。」
「恐怖をあおって、信者をつなぎとめようとしているわだけ。」

「16節には“エホバは,天使たちを使って私たちを保護することに加え,命を救うための指示を与えます。その指示はどのようにして伝えられるのでしょうか。私たちにはまだ分かりません。恐らくそうした指示は会衆を通して与えられるでしょう。”とあり、“与えられる指示に進んで従いましょう。”と指示しています。でも会衆から与えられる指示はろくなものではないことが、コロナ騒動のときに明らかになりましたからね。食糧難には家庭菜園で対処するとか。」
「組織にはいかなる分野の専門家はいないので、せいぜい政府の指示を繰り返すだけ。JWは科学を敵視してきたので、反ワクチンの人も多いのに、組織はワクチンを推奨して、反感を買った。」

「最後の17節には“これからどんなことが起きるとしても,慰めの神エホバに頼るなら安心感を得ることができます。本当に憐れみ深い神を信頼しましょう。”とありますが、この記事の本当の目的は信者を大患難で脅かし、もっと不安にさせて、組織に依存するようにさせるということでした。」
「エホバに頼ろうが、JWに安心感などないことは、長年JWやっていればわかるよ。」

#1589 2025年08月01日 14:25:22

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“「永続する都市」を待ち望む(21)”で、大患難が来るから、統治体の指示に従え、という内容です。」
「1世紀のローマ軍によるエルサレムの滅亡をとりあげて、その際クリスチャンは山に逃げたと、それが歴史的事実であるかのように書いている。その根拠は4世紀に書かれたエウセビオスの“教会史”だけ。それが本当かどうかはわからない。」

「エウセビオスはJWが日頃から非難しているサタンの支配下にある偽りの宗教・キリスト教の司教です。いつから大いなるバビロンの指導者の著作がJWの信頼できる情報源になったのですか?」
「それでこの記事では単に“歴史家”としている。JWは無知だから、それでごまかせると思ったのだろう。」

「聖書のどこにも、エルサレム滅亡のとき信者が山に逃げたとは書かれていません。」
「1世紀に“ユダヤ戦記”を書いたヨセフスもイエスの弟子たちが集団でエルサレムから脱出したなどと一言も書いていない。JWは聖書や同時代の記録よりも、200年以上たってから書かれたカトリックの司教の本を信頼するわけだ。」

「4から7節が“どんなときも私たちを見捨てないエホバを信頼する”です。 4節で早速歴史の捏造です。“西暦33年にクリスチャン会衆ができたのも,統治体がいたのも,エルサレムでした。”とあります。統治体ってそんな昔からあったわけですね。でも聖書のどこにもそんなことは書いていません。」
「JWの統治体の権威付けのための歴史の捏造だね。初代統治体は使徒たちで、今の統治体はその後継者と言いたいのだろう。統治体はローマ教皇よりも古いわけだね。」

「6節にはヘブライ人への手紙について触れ、“エルサレムとユダヤに住んでいたクリスチャンにとって,とても力になる言葉でした。この手紙を受け取ったすぐ後に,家も仕事も財産も手放して逃げなければいけなかったからです。”とありますが、納得できません。JWの“洞察”によるとこの手紙が書かれたのは61年です。ローマ軍がやって来たのは66年です。5年後です。余裕を持って逃げられます。しかもローマ軍は一度撤退します。」
「JWの記事はいい加減なものだけど、特に時間に関する言葉、“すぐ後”とか“まもなく”とか“もうすぐ”なんて言葉は特にいい加減ということ。」

「7節が“学べること。”で、“「大患難」が始まり,今の世界は滅ぼされます。(マタ 24:21)1世紀のクリスチャンと同じように,私たちもしっかり心の準備をしていなければいけません。”とあります。不安と恐怖をあおります。健康によくないですね。」
「終末カルトらしい文章だ。不安と恐怖をあおれば、信者はますます従順になると思っているのだろう。」

「そのあとに“大患難の時,大切にしていたものを 手放さなければいけなくなるかもしれません。”と続けます。これは英文の表現をだいぶ和らげていますね。」
「英文ではwe may have to leave behind some or all of our belongings(持ち物の一部あるいは全部をあとに残していかなければならないかもしれません)で、全財産捨てるかもなんて言っている。これは不安と恐怖をあおりすぎ、と翻訳者は思ったのかも。」

「これは裕福なJWに寄付を促すための作戦ですね。大患難が来たら財産を失うのだから、早めに組織に寄付しましょうというわけです。」
「財産のあるJWに限って、そんなバカなことはしないよ。そもそも大患難は世界平和安全宣言があり、JW以外の宗教が滅ぼされた後というのがJWの教義。全く非現実的なシナリオで、多少の知性と経験があれば本気にしない。」

「8から13節が“教え導いている人たちに従う”です。 この記事の中心です。8節に“その周辺には山はたくさんありました。どの山に逃げたらいいのでしょうか。”とあります。」
「ルカ21:21に“その時,ユダヤにいる人は山に逃げ始めなさい。”とあるけれど、英文ではthe mountainsで複数形。もとのギリシャ語も複数形。イエスは特定の山に行けと言いたいのではなく、攻撃対象となる都市から離れなさいといっているわけで、どこの山でもいいんだよ。」

「9節には“例えばガムラという町は,高い山の険しい尾根の上に立っていて,簡単にはたどり着けない場所でした。そこに逃げたら安全だと思った人もいたことでしょう。しかし,ガムラではユダヤ人とローマ人の激しい戦闘が起き,多くの住民が命を落とすことになりました。”とあります。誰がガムラが安全と思ったのですか?クリスチャンですか?単なる推測です。」
「戦争の経緯をあまり理解していないようだね。ルカ21:20には“エルサレムが陣営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら”とある。まずローマ軍はガムラのあるガラリア地方を攻略してから、エルサレムに向かった。エルサレムが包囲された時点ではガムラでの戦いは終了している。ガムラはその時点ではローマの支配下で安全だったかもしれないよ。」

「10節で“エホバは会衆で教え導く人たちを通して,どうすればよいか伝えたようです。”とあります。“ようです”とありますから単なる推測です。そして“歴史家エウセビオス”がここで登場します。」
「カトリックの司教だね。それは不都合なので隠ぺいする。」

「10節には“歴史家エウセビオスはこう書いています。「エルサレム会衆の人たちは神慮により,資格ある男子たちへの啓示を与えられた。……彼らは戦争の前に都市を離れ,ペレア地方のペラという町に住むよう命じられた」。”とあります。これを歴史的事実として信者に教えるわけです。相変わらず出典は隠していますが“教会史“の第3巻ですね。」
「“資格ある男子たち”とあるけれど元の英文はapproved men(承認された人々)で、訳に問題がある。秦剛平訳では“敬虔な人々”。長老などの資格のある人に導かれたなんてことは書かれていない。」

「エウセビオスは4世紀の人ですから、直接このことを知ることはできないのですが、このペラに逃げた話を裏付ける資料など一切示していません。」
「言い伝え程度の話でしょう。もしそういうことがあったら、エルサレム滅亡後に書かれたヨハネの啓示あたりに出てくると思うけど。」

「10節に“ペラは逃げるのに理想的な場所でした。”とありますが、英文ではPella seems to have been an ideal choice.(ペラは理想的な選択だったようです)で、断定していません。」
「この記事は推測に推測を重ねたもの。でもそれを知られたくないようだね。JWの言うエルサレムの統治体がペラに移ったのなら、ペラはキリスト教の中心になったはずだけれど、そんなことはない。」

「11節では“山に逃げたクリスチャンは,会衆で「教え導いている人たちに従[う]」ようにというパウロのアドバイスの通りにしました。(ヘブライ 13:7,17を読む。)そのおかげで生き残ることができました。”とありますが、これも単なる推測です。ヘブライ書と山へ逃げる話は直接関連ありません。」
「包囲下のエルサレムから逃げることができたかどうかは不明。ヨセフスのユダヤ戦記を読むと、エルサレムを支配していたユダヤ人グループは住民が勝手に逃亡することを許さなかったよう。最悪の場合は逃げようとして処刑されたかも。」

「戦争が近づいたら、都市から逃れて田舎に行くのは誰でも思いつくことです。指導者なんかいりません。実際はそれぞれが自分の判断で、親せきや友人を頼って、様々な地へ逃げたと思いますよ。指導者の指示を待っていたらかえって逃げるタイミングを逃しますよ。」
「この記事では指導者に従えば生き残るということを言いたいだけ。そのためにあれこれ推測し、史実をでっちあげている。」

「12節が“学べること。”で、“エホバは教え導く人たちを通して,私たちに具体的な指示を与えます。”とあります。1世紀のあやふやな出来事を持ち出して、現代でも統治体の命令は神の命令だから従えというわけです。」
「カルトとはそういうもの。指導者が毒薬を飲めと言ったら、黙って飲むのがカルト信者。」

「13節が具体例です。“例えば,コロナがはやり始めた時,「教え導いている人たち」は必要な指示を与えました。”と歴史を捏造しています。コロナが始まってから何か月も間、電話や手紙ではなく、戸別訪問の仕方を教える動画が流れていましたよ。コロナにどう対処してよいかわからなかったんですよ。」
「13節には“パンデミックが始まってからわずか数カ月後には,インターネット,テレビ,ラジオを使って500以上の言語で地区大会が開かれました。”とあるから、数か月間は必要な指示が与えられなかったことは認めているよ。神はあらかじめ統治体の老人に、間もなく大きな疫病が起こるから、○○を準備しなさい、という指示は出してくれなかったわけだね。統治体は神の導きなんか受けてないからね。」

「英文ではa landmark convention(画期的な大会)です。地区大会は誤訳です。」
「landmarkの意味が分からず適当に訳したね。今、その画期的な大会がどんなものだったか思い出せるJWはほとんどいないよね。何が画期的だったんだろう?誇大宣伝だ。」

「新型コロナによる死亡率はJWのほうがJW以外の人より高いですよ。必要な指示が与えられなかったということです。」
「適切な指示を与えてもJWは守らないでしょう。手を洗わない、マスクをしない、ワクチンを打たない、狭い場所に集まりあう。どんなことでも祈ればなんとかなると思っているような人たちだからね。」

「14から17節が“兄弟姉妹を愛し,もてなす”です。  困ったことが起きても、組織は何もしないので、自分たちで相互に助け合え、ということです。14節には“大患難の時,互いに愛し合うことはかつてなく大切になります。”とあります。」
「兄弟愛を一番示して欲しいのは統治体だね。統治体が信者の寄付で安楽に暮らしている一方、その日の食べ物を心配しなくてはならない信者がいる。そういう人にあなた方は何をしてくれるんですか、と問いたいね。祈りをささげてくれるだけ?」

「16節が“学べること。”で、“私たちは仲間を愛しているので,困っているならぜひ助けたいと思います。これまで兄弟姉妹は,戦争や災害で家を追われた仲間に,進んで助けの手を差し伸べてきました。”とあります。その後にウクライナの姉妹の話が出ています。仲間しか助けないJWということがよくわかります。」
「統治体はウクライナのJWに戦争開始前に逃げるように指示を出したの?ロシアの戦車が来る前に山に逃げなさいなんて言う指示は出してないよね。真の神の代理人ならなぜそれができないのかな?大患難は平和安全宣言の後というのがJWの教え。戦争がある間は大患難は来ないということで、それまでJWから離れた生活をしても大丈夫だよ。」

「最後の18節が“これから待ち受けていること”です。  まず“山に逃げたクリスチャンは,エルサレムが滅びた時,生き延びることができました。”と根拠のないことを言っています。」
「英文ではAs history confirms(歴史が証明しているように)という文言があるのに、それを省略している。翻訳者の方が多少理性的だね。執筆者は完全に別の世界の住人だ。エルサレム滅亡の時クリスチャンがどうなったかについて歴史は沈黙しているし、聖書も沈黙している。」

「18節では“私たちはこれからどんなことが起きるのか,詳しくは分かりません。でも,イエスは,いつでも従う心構えをするようにと教えています。(ルカ 12:40)”とあります。盲目的服従の教えですが、イエスはそんなことは言っていません。引照聖句もそんなことは言っていません。」
「日本語訳の問題だね。We do have Jesus’ warning to be ready to act(イエスは行動を起こす用意をするようにと警告しておられます)だけど、翻訳者は意味が分からなかったのだろう。」

「引照聖句には“あなたたちも用意をしていなさい。思ってもいない時刻に人の子は来るからです。”とあり、警戒を怠るなといっているわけで、“いつでも従う心構えをするように”と教えていません。翻訳者は本文と聖句が一致しないと思わなかったのでしょうか?」
「本文と聖句が一致しないのはよくあるから、気にしなかったのだろう。」

「この記事は“「永続する都市」を待ち望む”という題でしたが、ほとんど無関係な内容でした。」
「これは一度書かれた原稿が大幅に修正されたものかも。5月号の表紙だって、昨年に使用する予定だったのに、急遽差し替えられて、この号で使用されている。いろいろ混乱があったのかもね。」

#1590 2025年08月02日 17:13:07

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

1~2世紀の迫害期からエウセビオス時代のローマ公認に至るまでに、初期キリスト教の教導権が収れんしたのはローマ、アンティオキア、アレクサンドリアなどの、後に五本山としても知られる個別の都市教会(共同体)で、キリスト信仰発祥の聖地エルサレム共同体がペラに集団移動したなら、そこにキリスト教の活動中心が移ったはずですが、そんな話はローマ史にも、同時期の初期教父文献にも、新約聖書にも、どこにもありません。

初期キリスト教最高指導者評議会だったらしい統治体(笑)の天啓により中心聖地エルサレム教会が強力に一致団結して救われた!はずなのにその後の記録が一切なく統治体ごと雲散霧消したのでしょうか。

アンティオキアの非ユダヤ人割礼問題でユダヤ人教会(エルサレム)側との折衝を図る臨時会合があったことが使徒行伝に1回だけ書かれていますが、ローマ帝国内の全信者に首位教導権を持つ「統治体」などもとから存在しません。


も塔は「歴史家」ヨセフスが書いた話も都合のいい箇所だけ切り取って、ユダヤ人がアレクサンドロスに「あなたのことが予言されていたんですよ」とダニエル書を見せたという伝承を事実のように書いていますが、ヨセフスのユダヤ古代誌は、他にもモーセのエチオピア遠征など、どこまでが物語なのか史実なのかさっぱり分らない、裏を取りようがない何百年も前の旧約にまつわる伝承がローマ人向けに盛られているのに、そのヨセフスさえ書いてない話です。

「歴史家」のカトリック司教が他に裏付け資料もなく、何百年も後になって書いただけの伝承を事実扱いするのも、やめる気配がないですね。

#1591 2025年08月08日 12:25:22

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバの名前はイエスにとってどれほど大切か(22)”で、エホバの名前は大事なんだ、信者はエホバという奇妙な名前を恥じるな、という内容です。」
「この記事はJWの独自の奇妙な神学を信者に教え込もうとしているね。エホバの名前が重要だなんて、エホバ教の教えで、キリスト教とも聖書とも関係ない。」

「3から5節が“私はあなたのお名前を彼らに知らせました”です。 3節に“イエスは祈りの中で,「私はあなたのお名前を彼らに知らせました」と言っています。イエスは同じような表現を2回使っています。(ヨハネ 17:6,26を読む。)”とあります。これがこの記事の中心的な聖句です。神の名前を知らせるというのは、神を知らせたということの婉曲表現ですよ。」
「その基本がわかっていないのがJWだね。ヨハネ17章はイエスの祈りが書かれているところ。イエスの祈りとしては最長のもので、1-5節は自分のための祈り、6-19節が弟子たちのための祈り、20-26節はこれから弟子になる人たちへの祈りと3つの部分からなる。」

「3節で“弟子たちはユダヤ人だったので,神の名前がエホバであることはすでに知っていました。その名前はヘブライ語聖書中に何千回も出てきます。”といきなりとんでもないウソを書いています。歴史の捏造です。」
「神の名前はエホバではないことはJWだって知っているよね。ユダヤ人は、神の名をみだりに唱えてはならないという戒めを守り、神の名を呼ぶ代わりに、アドナイ(我が主)とかハシェム(御名前)呼んでいた。後にYHWHを表わす子音と、アドナイの母音とが組み合わされて、誤ったエホバという発音が生じたことは、キリスト教関係のたいていの本に書いてあるからね。」

「そのあと“それでイエスは,単に神の名前がエホバだと教えたわけではありません。その名前を持つ神がどんな方かを教えました。”とあります。神の名前を教えるというのは、神がどのような方かを教えることですよ。」
「イエスは神の名前を口に出して言ったことはない。そうしたら冒とく罪で処刑されていた。」

「4、5節がたとえ話とその説明です。医師の長老がいて、その名前は以前から良く知っていますが、その長老に手術をしてもらい一命をとりとめたら、その人は単なる長老ではなく命を救ってくれた医者です、とあります。そして5節では“同じように,弟子たちもエホバの名前は以前から知っていました。でもイエスのおかげで,エホバという名を持つ方についてもっとよく分かるようになりました。”とあるのですが、少しも“同じように”とは言えません。例えと説明が一致していませんよ。」
「例えは医師と自分との2項関係だけど、説明はイエス-エホバ-自分の3項関係になっている。エホバが余計なんだよ。余計なエホバを入れ込もうとしてヘンなことになるのがJWのたとえ。」

「6から8節が“私に託してくださったお名前”です。  6節に“イエスは弟子たちのためにこう祈りました。「あなたは私にあなたのお名前を託してくださいました。そのお名前のためにこの人たちを見守ってください」。(ヨハネ 17:11,12を読む。)”とあります。聖句の日本語訳に問題がありますね。」
「JW英語訳ではyour own name, which you have given me(私に与えてくださったあなた自身の名)で、“託して”ではない。名前をくれたと言っている。」

「“そのお名前のためにこの人たちを見守ってください”は日本語訳としてはよいですが、元の英訳が間違いです。意味がよく分かりません。」
「元のギリシャ語を直訳すると、名前のうちにお守りください(keep in the name)。協会共同訳では“御名によって彼らを守ってください。”となっている。ここでは名前は名前が差し示すもの、つまり神の婉曲表現。」

「そのあと聖句の解説です。“イエスは,神の代理として神のメッセージを伝えてきました。また,天の父の名によって地上に来て,その名によって奇跡を起こしました。(ヨハ 5:43; 10:25)”とあります。これもヘンですね。」
「ヨハネ17章はイエスと神が一体であることを強調している部分で、イエスが神の代理ではないことを言っているんだけど。ヨハネ17:11でイエスは神との関係を“私たちが一つであるように”と言っている。」

「最後に“さらに,イエスという名前には「エホバは救い」という意味があるので,イエスの名前とエホバの名前には深い関係があります。”とありますが、これも正しくないです。」
「ヘブライ語のヨシュア(Yhowshuwa)のギリシャ語訳がイエス―スで、それが日本ではイエスになった。ヤハウエは救う、あるいはヤハウエは救いという意味。エホバは無関係。」

「8節はJWのイエス論です。JWではイエスの地位が低いことがよくわかります。まず“イエスは聖書の中で言葉と呼ばれています。ほかの天使たちや人間に神からのメッセージや指示を伝える,ということです。(ヨハ 1:1-3)”とあります。イエス=メッセンジャボーイです。軽い扱いです。」
「ヨハネ1:1に“初めに,言葉と呼ばれる方がいた。言葉は神と共にいて,言葉は神のようだった。”とあるけれど、これはJWの聖書の改ざんでは非常に有名な箇所だね。協会共同訳では“初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。”で、こちらが正しい。JWはイエスが神であると認めないので、“神のようだった。”と変えている。」

「言葉であったというのは、イエスはメッセージャボーイという意味と説明するJWがいかに無知でバカかよくわかります。」
「ここでいう言葉(logos)は難解な概念で、説明するのは難しいね。専門書を読んでくださいとしか言えないね。」

「その後、さらに“イスラエル人を導くためにエホバが遣わした天使はイエスだったと思われます。エホバはイスラエル人にその天使に従うように命じ,そうすべき理由についてこう言いました。「彼は私の名によって行動するからである」。(出エジプト記 23:20,21を読む。)”とあります。イエスは神の言葉を伝えるメッセンジャーだったというわけですが、無理がありますね。」
「“彼は私の名によって行動するからである”ことが出エジプト記23章の天使がイエスである根拠なわけだ。でも訳がヘンだね。英文ではBecause my name is in him(私の名が彼の中にあるからだ)だよ。それは神の代理という意味ではなく、彼は神そのものという意味。それで、これは特別な天使で、イエスのことだ、という主張が三位一体を唱えるキリスト教の側から出てきた。でも出エジプト記を書いた人はイエスなんか知らないよ。」

「そもそも出エジプト記では神と天使の区別があいまいですよ。13:21では“エホバは民の前を進んだ。昼は雲の柱で道案内し,夜は火の柱で照らし,民が昼も夜も進めるようにした。”とあります。ここではイスラエル人をエホバが導いています。それが23:20では“私はあなたの前を行く天使を送り,道中あなたを守らせ,私が用意した場所に連れていかせる。”と天使に変わり、この天使の中に神の名があるというわけです。神も天使も似たような存在です。」
「天使思想が発展するのはペルシャ帝国に支配されるようになってから。出エジプト記が書かれた時代では天使思想は未熟なんだよ。」

「出エジプト3:2では“その時,エホバの天使が,いばらの木で燃える炎のうちに彼に現れた。”とあるのに、モーセが炎に近づくと、3:4では“エホバは,モーセが調べようとして近づいたのを見て,いばらの木から呼び掛け,「モーセ,モーセ」と言った。”とあり、天使がエホバに変わっています。」
「出エジプト記以外でも天使と神の区別があいまいで、同一と思える箇所が何か所かある。」

「9から11節が“父よ,お名前を栄光あるものとしてください”です。  10節で“イエスは,エホバの名前が栄光あるものとされるには,エホバの名前が神聖なものとされ,名誉が回復されなければいけないということを知っていました。”とあります。」
「名誉が快復?英文ではhis reputation vindicated(エホバへの非難が不当であることを立証される)だけど。まず、エホバはダメな神という非難が間違っていることを証明するわけで、名誉回復はその後のできごと。」

「11節はJWの神学です。“エデンの園で悪魔サタンがエホバ神のことを悪く言ったことが始まりです。サタンは,エホバがうそつきでアダムとエバに良いものを与えていないと主張しました。(創 3:1-5)”とありますが、デタラメです。そんなことは言っていません。」
「まず、創世記にサタンは出てこない。3:1には“て,エホバ神が造った野生動物の中で蛇が最も用心深かった。蛇が女に言った。”とある。野生動物の蛇が言ったんだよ。古代のお話では動物が喋ったりするのはよくあること。古代では動物と人間の区別もあいまい。」

「ヘビが喋ることで、これは寓話であるということを示しているわけですね。」
「エデンの話は聖書の他の箇所で引用されたり言及されることのないどうでもいい話。エデンの園はエデンの東にあったそうだけど、エデンという地名だって数回しか出てこない。後の時代の人が書かれていないことを付け足して、この話に過剰な意味を見出していった。JWもその仲間ということ。」

「そのあと“ヨブの時代にサタンは,人間がエホバに仕えているのは自分にメリットがあるからに過ぎない,とも言いました。”とあります。ヨブ記は文学作品ですよ。あれを史実と思っているわけですか?」
「ヨブ記のサタンは固有名詞ではなく官職名で、JWの考える悪魔サタンとはちがう。ヨブ記のサタンは神の部下に過ぎない。」

「そして“本当にうそつきなのは,エホバとサタンのどちらでしょうか。そのことをはっきりさせるには時間が必要でした。”と締めくくります。これがJWの宇宙神権論争というものです。」
「JWの神学の中心である宇宙神権論争は創世記のエデンの話とヨブ記の2つのお話だけを根拠にしているわけだ。そんなに重要なことならなぜイエスはそのことを弟子たちに言わなかったのか不思議だね。」

「創世記2:17で神は“しかし,善悪の知識の木の実は,食べてはならない。それを食べた日にあなたは必ず死ぬからである。”と言っていますが、食べてもその日のうちには死にませんでした。アダムは930年生きました。聖書の中では4番目の長生きです。最初のうそつきは神というのははっきりしています。」
「そうなんだけど、神が嘘をついたとなると不都合なので、いろんな人がいろいろ言い訳を考えている。でも、アダムたちは食べた後、なんだ、死なないや、神様のうそつき、と思ったよ。」

「12,13節は“私は命をなげうつ”です。  12節に“イエスはエホバの名前のためなら命を犠牲にすることもいといませんでした。 こう言っています。「私は命をなげうつ」。(ヨハ 10:17,18)” とありますが、引照聖句はそんなことは言っていません。聖句の誤用です。」
「そこには神の名前なんて言葉は出てこないよ。いつ神の名前のために命をなげうつことになったの?」

「13節に“イエスは自分の生き方によって,エホバではなくサタンがうそつきであるということを,疑いの余地なく証明しました。(ヨハ 8:44)”とあります。それならもう決着がついたのですから、さっさとサタンを滅ぼして地球を楽園にすればいいのに、なぜぐずぐずしているのか不思議です。」
「不思議だよね。本当はどっちがうそつきかなんて、宇宙的な問題ではないということ。」

「引照聖句に“その者はその始まりから人殺しで,真理から離れました。真理を好まないからです。”とありますが、英語訳はhe did not stand fast in the truth, because truth is not in him.(彼は真理に堅く立っていませんでした。真理が彼のうちにないからです。)です。テキトウナ訳です。」
「“真理から離れた”、“真理を好まない”と訳することで、JWをやめた人はサタンと同じだ、とこの聖句を使って攻撃できるようにしたね。聖書はJWにとって単なる道具だから、使いやすいように改変するわけだ。協会共同訳では“悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。”となっている。」

「14から18節が“私は,あなたから委ねられたことを成し遂げ……ました”です。  イエスがこれから何をするかが書かれています。15節には“イエスはハルマゲドンの時に神の敵たちと戦い,悪い人たちを滅ぼします。(啓 16:14,16; 19:11-16)”とあります。」
「久しぶりにハルマゲドンという単語を見た。もう死語にしたのかと思ったよ。」

「ものみの塔に前回出たのは2024年9月号です。」
「8か月ぶりだね。JWは終末カルトなのだからハルマゲドンという言葉はいくら手あかにまみれた忘れたい嫌な言葉でも大事にして欲しい。」

「英文ではIn the near future(近い将来)といっているのに、日本語訳では省略しています。信仰心がない翻訳者ですね。」
「翻訳者はハルマゲドンが当分来ないと思っているんだろう。偽預言者と呼ばれるのが嫌なんだよ。」

「16節では千年王国の話です。“亡くなった人たちは生き返っているので,墓は空っぽです。生きている人は一人残らず完全になっています。(コリ一 15:25,26)”とあります。」
「引照聖句に、千年王国なんて言葉は出てこない。それから人間が完全になるとも書かれていない。聖書を超えたJWの推測だね。」

「17節では千年統治の終わりに“エホバの名前を巡る問題に決着がつきます。エホバの名前について悪く言う人はもう一人もいません。”とあります。論争の決着を1000年統治後に持って行くのがJWの教えなんですね。理解できません。前の節ではサタンがうそつきと証明されたとありましたよ。」
「1000年統治なんて出てくるのは啓示に1回だけ。それがどんなものかなんか誰もよくわからない。JWが好きなことを言っているだけ。」

「最後の19節で“エホバの名前をここまで大切にしているイエスに,私たちはどのように倣えるでしょうか。次の記事で考えます。”とあります。来週は信者にあれこれ要求するわけですね。」
「イエスに倣って、命をささげろという記事がいつ出るか、心配だね。そんな記事が出る前にさっさとやめよう、JW!」

#1592 2025年08月12日 17:56:29

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

「忠誠」を奪い去らない(JW訳)と誤訳しているが、後半になるにつれ因果応報的なことを言われて逆上し、ヨブは自分の「潔白」を奪い去らない(聖書協会共同訳)と言っているだけ


しかも神は善人も悪人も滅ぼすのだ!と神を呪いだしており、「あなたは自分を神よりも正しい者とした」と叱られたのはヨブの方で、サタン本人は一切のお咎めなし


仮にサタンが負けたとしてそこで済む話で、 他の人間でリベンジマッチさせてくれとは言ってないし、新約でもキリストの死は「多くの人の身代金として命を捧げるため」で、ヨブ記の延長戦に決着をつけるためにキリストは来たとは、イエスもパウロも言っていない

#1593 2025年08月12日 18:41:34

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ヨブ記の神は「ただし(ヨブの)命は奪ってはならない!」(jw訳)と言っていて「死ぬまで」試すことだけは最後まで許可していません(お題の対象ではないヨブの子どもは皆〇しにされていますが)。


ユングは、キリストの死が「贖い」のためだったとする、キリスト死後に書かれたパウロや福音書の解釈について、神を宥めるために動物を屠る古代宗教の慣わしさえ残酷だというのに、「神が人間の犠牲による他なく究極的に宥められない程に非和解的である、愛の神についてのおしゃべりを咎めるこのまばゆい光が見えないとしたら、それはもう盲目としかいいようがない」と言っていますが、まさに至言です。


しかも旧約の神さえ死ぬまで試すのは許さない!と言っているのに、新約では無実のキリスト教徒が次々に〇されても何もしゃべらなくなり、それがjw解釈によると「愛の神が自分の正しさを証明するために許可している」とは、これは盲目を通り越して何とも言い難いですね...

#1594 2025年08月15日 14:28:03

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバの名前は私たちにとってどれほど大切か(23)”で、エホバというインチキな名前をどんどん使え、エホバの証人であることを恥じるな、という内容です。」
「JWは伝道においても正体を隠す、なかなかJWと名のらない、クリスチャンのボランティアですとか聖書を学んでいるものですとか詐欺まがいのことを言う、と悪名高いからね。開き直ってエホバ、エホバと前面に出そうということだね。」

「2節では“イエスがここまでエホバの名前を大切にしているのであれば,イエスの弟子だと言う人も当然神の名前を知っていてそれを使うはずです。”と攻撃モードになっていますね。エホバの名前を使わなければイエスの弟子にあらず、と決めつけています。」
「これを言いたくて先週、イエスはエホバという名前を大切にしたというインチキ記事を信者に学ばせたわけだね。」

「3節に” この記事では,「王国の良い知らせ」を伝えている人たちがどうしてエホバの証人と呼ばれるかを考えます。(マタ 24:14)”とありますが、それは2代目会長のラザフォードが勝手に決めたからですよ。」
「エホバの証人と名のるようになったのは1931年から。新しい名前を採用することにした理由は、2代目会長に異議を唱えて元の組織から離脱した多くの聖書研究グループがあったこと。それらと区別するためにエホバの証人という奇妙な名前を採用したといわれている。でもこの記事ではラザフォードのことは出てこないね。」

「この名前の根拠はイザヤ43:10の“エホバはこう宣言する。『あなたたちは私の証人である』”とされるのですが、本当は違うのですよね。」
「1931年10月日号のThe watch towerの記事にはイザヤ62:2の“あなたは新しい名で呼ばれることになる。エホバ自らが名付ける名で。”を引用して、エホバの証人という名前が神の導きによるものと宣伝していた。」

「でもそれが後に間違いと認めて、修正されるわけですね。」
「それは組織も認めている。“エホバの証人-―神の王国をふれ告げる人々”の11章の脚注に“証拠は,エホバの証人という名称の選択にエホバの導きがあったことを強力に示していますが,後に「ものみの塔」誌(1944年2月1日号[英文],42,43ページ。1958年1月1日号,19ページ)や『新しい天と新しい地』という本(232-238ページ)は,その名称がイザヤ 62章2節,65章15節,啓示 2章17節に出て来る「新しい名」ではないことを指摘しました。”とある。要するにエホバの証人という名はイザヤ62:2の新しい名前ではないと後でわかったと言っている。この間抜けなところがJWらしい。」

「それでも“証拠は,エホバの証人という名称の選択にエホバの導きがあったことを強力に示していますが”と強弁しているのは情けないですね。」
「イザヤ62:4に“あなたは『私の喜びのもと』と呼ばれ”とあるわけで、新しい名は“私の喜びのもと”つまりHephzibahと書いてある。それで後からイザヤ43:10を根拠にしたことに変えたわけだ。歴史の改ざんは得意中の得意だね。」

「4から8節が“ご自分の名のための民”です。  4節に“弟子になる人たちはイエスの証人になるだけでよいということでしょうか。エホバの名前は知らなくてよいのでしょうか。使徒 15章に書かれていることを読むと,答えが分かります。”とあります。」
「使徒15章はいわゆるエルサレム会議の場面だね。ここでは改宗した異邦人をどう扱うか、特に割礼が必要かどうかが主な議題となる。」

「5節で“ヤコブはアモスの預言を引用して,こう続けます。「残っている人たちが,全ての国の人々,私の名で呼ばれる人々と共に,心からエホバに仕えるためである。私エホバがそう言っている」。(使徒 15:14-18)クリスチャンになる人たちは,エホバについて学ぶだけでなく,「[エホバ]の名で呼ばれる」ことになっていました。”とあります。これっておかしいですよ。新約聖書に神の名前は一度も出てこないという事実を無視しています。JWが勝手にエホバという名前を挿入しているだけです。」
「聖書に勝手に神の名前を挿入し、クリスチャンは“「[エホバ]の名で呼ばれる」ことになっていました。”と言ったって、誰もがウソだろうと思うよ。」

「エホバを勝手に挿入しているという大問題もありますが、聖書の訳の問題もありますよね。」
「“私の名で呼ばれる人々”は“私の名で呼ばれる異邦人”が正しい。これはユダヤ教に改宗した異邦人のことをいっている。イスラエル人も異邦人も、と言っているだけ。ここはアモス9:11,12からの引用で、その時代にクリスチャンはいない。」

「この引用もいい加減ですよ。アモス9:12は“そうして彼らはエドムの残っているものと,私の名で呼ばれる全ての国の民を所有する』と,このことを行うエホバが宣言する。”です。使徒15章での引用と全然違います。エドムはどうしたんですか?」
「引用しているのはヘブライ語聖書ではなく、ギリシャ語訳である70人訳からと思われる。でも70人訳とも結構違うんだよね。別バージョンのアモス書からかも。」

「使徒15章でアモスを引用したのはイエスの兄弟のヤコブです。なぜギリシャ語訳から引用するのですか?」
「本当は“使徒の活動”の著者が引用したからでしょう。新約聖書で旧約が引用される場合はギリシャ語訳からが原則で、しかもかなり適当に引用することが多い。」

「6節では“イエスの名前には「エホバは救い」という意味があります。”とあります。先週にもありましたが、これもおかしいですよ。」
「先週と同じことを繰り返すと、ヘブライ語のヨシュア(Yhowshuwa)のギリシャ語訳がイエス―スで、それが日本ではイエスになった。ヤハウエは救う、あるいはヤハウエは救いという意味。エホバという名前は無関係。」

「7節で“でも,そもそも人類が救われる必要があったのはなぜですか。それはエデンの園で起きたことと関係があります。”と真面目に言っています。そして“でもこの時,もっと重要な問題が持ち上がっていました。エホバの名誉がひどく傷つけられたので,エホバの名前つまり評判が回復されなければいけなくなりました。(創 3:4,5)”とむきになって言っています。」
「ここはJW神学の重要ポイントだからね。リキんで何度でも繰り返すべきことなんでしょう。」

「人類が救われるより、エホバの名誉回復がより重要だなんて、聖書のどこにも書いていません。エホバ教ならでは考えですよ。」
「聖書の中では名誉はどこから来るの?全ての良いことは神から来るんだよ。例えば詩編84:11に“エホバ神は太陽,盾。恵みと栄光を与えてくださいます。”とある。神が名誉回復が必要な情けない存在という思想は聖書にはない。エホバ教独自の思想。」

「8節では、イエスに信仰を持つ人は“イエスと同じように,エホバの名前で知られることになります。エホバの名前を神聖なものにすることがどれほど大切かも理解しなければいけませんでした。”とあり、クリスチャンならエホバの証人という名前を使うべきだと主張しています。もちろんそんなことは聖書のどこにも書かれていません。」
「新約聖書には神の名前は一度も出てこない。出てくるのはJWの改ざん聖書だけ。」

「9から13節が” あなたたちは私の証人である”です。  9節で” エホバの名前を何よりも大切に思っていることを行動で示さなければいけません。”と、信者に圧力をかけています。11節では” 言葉と行動によって,エホバ以外に本当の神はいないということを証明できます。(中略)私たちはサタンからどんなプレッシャーをかけられても,エホバから決して離れず,エホバを心から愛し続けます。そういう生き方をすれば,私たちもエホバの名前を神聖なものとすることができます。”とあります。要するに組織の言いなりになって、余計なことを考えなければいいようです。」
「サタンからの圧力を初めから想定しているのもカルトらしくていいよね。カルトは周囲の人から反対されるのが普通だけど、それをサタンの圧力だと教えて、迫害されることが真の宗教の証拠と思わせるわけだね。」

「13節で“私たちもイエスと同じくエホバの証人です。エホバの名前を背負い,エホバがどれほど素晴らしいことをしているかをみんなに知らせます。”と高らかに宣言しています。JWもイエスの弟子で、エホバ教の信者ではないという自己主張です。」
「JWは普通エホバの人とかエホバと呼ばれていて、誰もクリスチャンなんと呼ばない。それを気にしているわけだ。」

「そのあとに“エホバの名前を神聖なものとするために,イエスがどんなことをしているのかも人に知らせなければいけません。(使徒 1:8)イエスはエホバの最高の証人なので,私たちはイエスの手本に倣います。(啓 1:5)”とあって、イエスもエホバの証人と言っています。驚きです。」
「イエスの地位の低さはJWの特徴。ものみの塔の記事は旧約聖書中心でイエスに言及されることは少ない。でも、これからは記事の中でイエスをもっと登場させるつもりなのかも。」

「14から18節が“エホバの名前は私たちにとってどれほど大切か”です。  具体的な指令が5つ出ています。14節は①“私たちはエホバの名前を誇りに思っている。”です。具体的には“自分がエホバの証人であることを,同僚,学校の友達,近所の人たちに知らせることを恥ずかしく思ったりはしません。悪魔は私たちがエホバの名前を知らせることをやめさせようとします。(エレ 11:21。啓 12:17)”とあります。引照聖句はそんなことは言っていません。」
「エレミヤ11:21には“エホバはアナトテの人たちに対して語る。彼らはあなたの命を奪おうとしており,こう言う。「エホバの名によって預言するな。さもないと,われわれの手に掛かって死ぬことになる」。”とある。予言するなと言っているのは悪魔ではなく、エレミヤの故郷であるアナトテの人。」

「エレミヤ11:22、23には“それで,大軍を率いるエホバはこう言う。「私は彼らに責任を問う。若者たちは剣によって死に,息子や娘たちは飢餓によって死ぬ。 そこに残る者は一人もいない。”といっていますが、これは実現したのですか?」
「してないよ。やたらと全員死刑だ!というのが聖書の神だけど、実行力はない。言うだけのことが多い。ネヘミア11:2,3に“ベニヤミン族が以下の場所にいた。ゲバ,ミクマシュ,アヤ,ベテルと周辺の町, アナトテ・・・”とあり、バビロン捕囚後にもアナトテに住人がいるよ。」

「啓示12:7には“それで竜は女に対して激怒し,彼女の子孫のうちの残っている人たち,すなわち,神のおきてを守り,イエスについて証言する務めを与えられている人たちと戦うために去っていった。”とあります。エホバの名前を知らせる人と闘うなんて書いていません。」
「そこには“イエスについての証言する務めを与えられている人たち”とあるから、どう見てもエホバについて証言しているJWとは別の人だね。」

「ほとんどのJWは自分がJWであることを恥ずかしく思っていますよ。周囲の人に自分がカルト信者であることを隠し、周囲に溶け込もうとしています。」
「統治体はそれが気に入らないんだよ。自分がカルト信者ということを周囲の人に告げて、周囲から完全に孤立することを統治体は望んでいる。そうすると信者は組織に頼るしかなくなる。孤立させ、情報を遮断させれば忠実なカルト信者が出来上がる。」

「15節が②“私たちはエホバの名前を呼ぶ。”で、16節が③“私たちはエホバの名前のために喜んで苦しみに耐える。”です。16節には“苦しい目に遭ってもエホバから離れないなら,サタンがうそつきだと証明することができます。”とあります。“証明する”とはどういう意味で使っているのでしょうか?証明の意味が分かっていないと思います。」
「迫害にあっても一人の信者が死ぬまでJWだったらそれは何を証明したことになるの?何も証明しないよ。苦しくてつらいJW人生が無意味なものではなく、サタンに対する勝利という意味があるのだと思わせて、苦しくてもJWをやめるなと言いだけ。」

「17節が④“私たちはエホバの名前に恥じない生き方をする。”で、18節が⑤“私たちは自分がどう思われるかよりも,エホバの名前がどう思われるかを気に掛ける。”です。18節には“エホバの名前を愛していると,ほかの人から悪く言われることがあるからです。”とあります。これはウソです。JWが悪く言われるのはエホバの名前とは関係なく、それなりの理由があるからですよ。」
「休日に勝手に人の家に来るとか、家族を破壊する排斥制度とか、自分たちの信仰の自由を主張するけれど、他の宗教の信仰の自由を認めないとか・・・、いろいろ悪く言われる理由はあるね。」

「最後の19節は要約です。“私たちはエホバの名前を誇りに思っていて,エホバの証人と呼ばれることをうれしく感じています。エホバの名前を何よりも大切にしているので,周りからばかにされるとしてもエホバをたたえ続けます。自分がどう思われるかは大切ではありません。エホバの名前や名誉が回復されることの方がもっと大切です。”とあります。実際のJWとは全く違いますね。」
「実際のJWはこうだと思うよ。“私たちはエホバの名前が恥ずかしく思っていて、エホバの証人と呼ばれることはできるだけ避けたいと感じています。エホバの名前を何より大切にしているのですが、周りからばかにされるのでエホバのことは黙っています。自分がどう思われるかは社会で生きていくうえで大切で、カルト信者と思われると社会的信用を無くします。エホバの名前や名誉が回復されることが重要だという教えは少しも理解できません。”」

#1595 2025年08月22日 14:26:05

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“ヤコブの臨終の預言から学べること パート1(24)”で、ヤコブが12人の息子たちに残した言葉から教訓を得るという内容です。パート1は4人を取り上げます。)
「なぜ今どきそんなことを学ぶのか理解できないね。」

「ヤコブ一族の顔のイラスト付きです。子ども向けの聖書物語みたいで、やる気がでませんね。」
「みな同じような顔をしていているのがいただけないね。個性的に描くほどの技術がないのか。」

「JWの好きな性的な話がたくさん出てきます。大人向けなんでしょうね。」
「それを除くと、小学生2年生レベル。」

「3節に“この時ヤコブが語った言葉は臨終の預言と呼ばれています。”とあります。誰が呼んでいるのですか?普通は預言とは呼ばれていません。」
「普通はヤコブの祝福だね。英文ではJacob was a prophet.(ヤコブは預言者でした)とある。だから、ヤコブの言ったことは預言なんじゃないの?でも翻訳者はそれはヘンだと思ったのか、ヤコブは預言者でしたとは訳していない。」

「5から8節が“ルベン”です。   第1子です。6節に“創世記 49:3,4を読む。”とあり、そこには“荒れ狂う水のように奔放なため,秀でることはない。父のベッドに上がったからだ。”とあります。これは“ヤコブのそばめのビルハと性関係を持ったからです。”と説明しています。しょうもない話ですね。」
「これについて6節では“ルベンがしたことはエホバにとってもヤコブにとっても,とても悪いことでした。”とあるけれど、エホバは余計でしょう。ヤコブはそばめをルベンに取られて腹が立ったというのはわかるけれど、エホバはなにも怒っていないよ。もし怒ったら、ルベンは焼き殺されているよ。」

「創世記では性道徳はあってなきがごとしです。やりたい放題やっていますよ。」
「JWは神は変わらないと言うけれど、聖書を読む限りかなり変わる。性道徳もそうだね。」

「8節が“学べること。”です。“私たちは間違った欲望と闘い,性的に不道徳なことを一切避ける必要があります。”だそうです。拡大解釈しすぎです。」
「後で出てくるユダは義理の娘タマルを売春婦と間違えて性関係を持つけれど、お咎めなしだよ。創世記の神は性的なことにこだわる神じゃないんだよ。」

「ルベンは父親の所有物である女に手を出したことが問題だったわけです。」
「だから学べることは、おやじのものには手を付けるな、でしょう。それを性的に不道徳なことを一切避けると拡大解釈するのは、信者を罪と恥の意識でコントロールするためでしょう。」

「9から12節が“シメオンとレビ”です。   第2子と第3子です。9節に“創世記 49:5-7を読む。”とあり、そこには“彼らのひどい怒りと激しい憤りは,災いを受けよ。彼らをヤコブの中に追い散らし,イスラエルの中に散らそう。”とあります。創世記34章でシメオンとレビは妹のディナが強姦されたことに対して復讐したわけですが、そのことをヤコブは怒っているわけです。」
「これも納得いかないよね。創世記34:27-29には“ヤコブのほかの息子たちも,殺された人たちの所にやって来て,町の物を略奪した。妹を汚されたからである。羊,牛,ロバ,町や野原にあった物を全て奪った。人々の所有物を全て奪い,小さな子供や妻たちを皆捕らえ,家々にあった物を残らず強奪した。”とある。シメオンとレビが主導的な役割を果たしたかもしれないけれど、他の兄弟だってひどいことをしている。でもそれは問題にしないわけで、全く不公平。」

「10節で“この預言は,200年以上後にイスラエル国民が約束の地に入った時に実現しました。シメオン族は,ユダ族の領地に点在する土地を相続地としてもらいました。(ヨシュ 19:1)レビ族にはイスラエル各地の48の町が与えられました。(ヨシュ 21:41)”とありますが、シメオンについての訳がヘンですね。」
「元の英文はThe tribe of Simeon received as its inheritance isolated portions of land inside Judah’s tribal territory.(シメオン族はユダ族の領内の孤立した土地を相続地として受け取りました。)とある。これだと”イスラエルの中に散らそう。”という預言が実現したことにならないと思った翻訳者が”点在する土地”と変えて、見事予言が実現したことにしたわけだ。でも引照聖句には” 彼らの土地はユダの土地の中にあった。”とあるだけ。」

「その後シメオンの子孫たちはどうなったのですか?ほとんど聞きません。」
「シメオンに割り当てられたとされる土地はユダ族に奪われ、シメオン族はユダ族に吸収されたのだろう。バビロン捕囚後のことを書いてあるネヘミア書にはシメオン族が帰還したことは触れられず、シメオン族に割り当てられたとされる町はユダ族のものとなっている。」

「北王国が10部族からなり、北王国が滅亡後その10部族が失われたという話は間違いなわけですね。」
「それは伝説。架空の歴史。失われた10部族にシメオンも入っているけれど、シメオンの土地は南のユダ族の中で、北に属しているわけがない。シメオンはユダに吸収された。ヤコブの予言は実現したのかな?」

「12節が“学べること。”です。” 怒りに任せて行動することがないようにしましょう。(中略)腹立ち紛れに何かを言ったりしたりすることをエホバは喜びません。”とあります。まとはずれなことを言っていますね。シメオンとレビは怒りに任せた行動なんかしていません。やったのは計画的なだまし討ちです。」
「ディナと結婚したいのなら割礼を受けろと要求し、割礼を受けた3日目、痛みで苦しんでいる時を見計らって襲ったわけだ。そして男たちを皆殺し。学べることは、十分計画を練ってから行動することの重要性でしょう。」

「このときエホバは怒ったりしていません。」
「ヤコブは“私は,この地方に住むカナン人やペリジ人から憎まれてしまった。私の方は人数が少ない。彼らはきっと束になって私を攻め,私と家族を滅ぼしてしまうだろう。”という。要するに戦いを恐れているということ。道徳的に非難をしていない。すると創世記35:1で、神は“立ってベテルに行き,そこに住みなさい。”と言う。つまり逃げろというだけ。道徳的な非難はない。」

「創世記35:5には” 旅の道中,神が周辺の町を恐怖に陥れたため,ヤコブの息子たちが人々に追跡されることはなかった。”とあります。大量殺人をやらかしたヤコブの息子たちを保護しています。」
「神にとって大量殺人なんか大した問題じゃないということがわかるね。」

「ゴッドファーザーの冒頭のシーンを思い出します。葬儀屋の男性がマフィアのボスに自分の娘が暴行されたから、犯人を殺してくれと頼みます。マフィアのボスは殺すのはダメだ、痛めつけるだけで十分だといいます。聖書の神より暴力に対して抑制的で、まともです。」
「創世記34章では、ヤコブの息子たちは強姦された仕返しに、男は皆殺し、女と子供、家畜は略奪する。神はそれをとがめるどころかむしろ保護する。暴力的で血なまぐさい恐ろしい神だね。」

「13から18節が“ユダ”です。   第4子ですが、ユダが事実上の後継者に指名されるわけです。」
「ユダを後継者に指名したいので、ユダより年上の兄弟に対して難癖をつけたわけ。」

「13節にはユダの悪行が出ています。“例えば,シェケムの町の略奪に関わっていました。(創 34:27)兄弟たちと一緒にヨセフを奴隷として売り,そのことで父親にうそをつきました。(創 37:31-33)息子の嫁のタマルを娼婦だと思って,関係を持ったこともありました。(創 38:15-18)”とあります。けっこう悪い男です。」
「でもユダの場合は問題視しない。めちゃくちゃ不公平。正義という概念はない。」

「15節では“ヤコブは,ユダが指導者として兄弟たちを率いると予告しました。”とあります。これは事後預言なわけですね。」
「ダビデ王がユダ族出身なので、それがヤコブの時代に予言されていたものだとするために、書き加えられた部分でしょう。」

「16節が問題です。そこには“ヤコブは,ユダの子孫の1人が人類を永久に統治することを予告しました。(創世記 49:10と脚注を読む。)ヤコブがシロと呼んでいるその統治者とは,イエス・キリストのことです。”とあります。引照聖句には“王笏はユダから離れず,司令官のつえも足の間から離れない。ついにシロが来て,あらゆる民が彼に従う。”とあります。永久に統治するなんて書いていませんよ。訳もヘンです。」
「協会共同訳では“シロが来るときまで、もろもろの民は彼に従う。”だから、意味が違うね。“シロが来て”は誤訳でしょう。」

「16節でシロをキリストと断定していますが、根拠を示していません。シロは人名ですか?」
「旧約聖書の他の部分でシロが人名を表したり、救世主を表したりする個所はない。地名でシロというところがあるけれどヘブライ語の綴りが違う。この個所の解釈は難しい。」

「17節が“学べること”です。“仲間の兄弟姉妹が特別な奉仕をすることになった場合,その人の短所に目が向き,「どうしてあの人が?」と思うかもしれません。でも,エホバはいつも人の良いところを見ています。私たちも同じようにしましょう。”とあります。問題のある人が長老になっても、文句を言うなということですね。でもユダの話と関係ないですよ。」
「神は売春婦と関係を持つのは気にしないようだけど、JWによると、ポルノをみるのは憎むんだよね。でも良いところがあれば問題なしということかな?理解しがたいね。」

「18節では“ユダの例から,辛抱して待つことの大切さも学べます。エホバは必ず約束を果たす方ですが,私たちが望む方法やタイミングでそうするとは限りません。”とあります。簡単にいうと、エホバの約束などあてにならないということですね。」
「無茶苦茶なことを言っている。約束が実現したというためには方法やタイミングが重要でしょう。借金を返しますと約束して中古車を持ってきたらどうなの?中古車を売って、現金持ってこいというよ。また、借金を返しますと約束して、貸した人がとっくの昔に死んでいる100年後にその子孫に返しても約束を守ったことになるかな?ならないよ。」

「最後の19節はまとめです。“ヤコブの臨終の預言からどんなことを学べたでしょうか。「人間の見方と神の見方は違う」ということです。(サム一 16:7)”とあります。要するにヤコブの息子についての評価はおかしいということですね。それをおかしいとはいえないので“人間の見方と神の見方は違う”と強弁して、信者を納得させようというわけです。」
「引照聖句はエッサイの息子の中から王を選ぶ場面で、エリアブについて“彼の容姿や背の高さに注目してはいけない。私は彼を選んでいない。人間の見方と神の見方は違う。人間は目に見えるものを見るが,エホバは心の中を見る。”と神は言うわけだけど、神が選んだダビデは見た目がよいけれど、結構悪い男。」

「神は心の中を見るというのは、神のはったりに過ぎないようですね。」
「JWでも表面的には善人そうでも、結構邪悪な長老がいるでしょう。神は心の中を見るのになぜなのだろうと思った人は聖書の神を誤解しているね。」

#1596 2025年08月22日 14:59:31

1,000時間奉仕者
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1597 2025年08月29日 13:33:11

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“ヤコブの臨終の預言から学べること パート2(25)”で、創世記49章にあるヤコブが12人の息子たちに残した言葉から教訓を得るという内容です。パート2では8人を取り上げます。」
「先週の続きで、8人を取り上げて、いちいち“学べること”と言ってヘンテコな教訓を垂れる。ものすごく退屈。なぜこんなことを取り上げるのか理解できない。」

「2、3節が“ゼブルン”です。  全く聞いたことないです。ヤコブの第10子です。ヤコブの言葉は“ゼブルンは海辺に,船が止まる岸辺に住む。遠い側はシドンの方に向く。”です。2節には“その預言通り,200年以上後にゼブルン族はガリラヤ湖と地中海の間にある土地を与えられました。”とあります。ゼブルンの割り当てられた町は海辺ではありません。預言は実現していません。そして訳がヘンですよ。」
「協会共同訳では“その境はシドンに至る。”となっている。シドンはフェニキアの都市で、今のサイダ。レバノンにある。ゼブルン族の土地がシドンにまで広がらなかったことを翻訳者は知っているので、“シドンの方を向く”と訳したのだろう。」

「3節は“学べること”で、“持っているもので満足することが大切です。”とあります。ゼブルンとどう関係するのですか?」
「関係ないけれど、何か教訓めいたことを書かなくてはならないから、ひねり出しただけ。」

「4、5節は“イッサカル”です。 第9子です。ヤコブの言葉は“イッサカルは骨太なロバ,2つの荷物の間で身を伏せる。彼にとって,休み場は良く,土地は好ましい。彼は肩を下げて重い荷を担い,強制労働に服する。”です。4節で“イッサカルがよく働くことを褒めました。”と説明しています。本当ですか?」
「これは言葉遊びと考えられている。イッサカルという名前を二つに分けると、雇われた働く男という意味が出てくる。それでイッサカルを働き手として描いている。」

「5節は“学べること”で、“エホバはイッサカル族がよく働くことを喜びました。同じように,私たちがエホバのためによく働くときに喜んでくれます。”とあります。イッサカル族がよく働くのでエホバが喜んだなんてことは聖書のどこにも書いていません。」
「エホバのために働くというのは、事実上組織のために無給で働くという意味だね。そんなことは学びたくないね。」

「6、7節は“ダン”です。  第5子です。ヤコブの言葉は“ダンはイスラエルの1部族として民を裁く。ダンは道端の蛇,道沿いの角蛇となれ。馬のかかとをかんで乗り手を後ろへ落とすのだ。”ですが、6節では民を裁くという部分を飛ばしています。」
「ダンは裁くという意味がある。これも言葉遊びだね。“まもる”と言う名前の子供に、将来家族をまもるだろうといっているようなもの。でもダン族が裁くなんてことをしていないのでこの記事では無視した。」

「6節では民数10:25に飛んで、“約束の地に向かう途中,ダン族は「後衛」を務めてイスラエルを守りました。”とあります。これが予言の成就だそうです。無理がありますね。ダン族と言えばもっと有名な話がありますよ。」
「裁き人18章だね。ライシュという町を襲って、住民を殺し町を焼いた後、町を再建しダンと名付けた。そして彫像をたてた。とんでもない悪いことをしている。どうせならこちらの方を予言して欲しかったね。」

「啓示7章にJWの大好きな144000人の話が出てきます。12部族それぞれ120000人選ばれるわけで、部族名が列挙されていますが、その中にダンは含まれていません。これは裁き人18章にある偶像崇拝ゆえに排除されたわけですね。」
「そう言われているけれど、12部族の中身は一定しない。どれが12部族に当たるかは聖書の中でも変わっている。」

「7節が“学べること”で、“ほかの人からはほとんど気付かれないような奉仕をしたことがありますか。王国会館の掃除やメンテナンス,大会での奉仕を手伝ったことがあるかもしれません。それはとても立派なことです。”とあります。タダ働きの勧めですが、ダンとどう関係あるのですか?」
「ダンは後衛を務めたということから、思いついた教訓でしょう。」

「8、9節が“ガド”です。  第7子です。ヤコブの言葉は“ガドは略奪隊に襲われる。だが,彼らのかかとに襲い掛かる。”です。短いですね。8節では“200年以上後にガド族に与えられたヨルダン川東側の領地 は,敵の国々と境界を接していました。敵の襲撃を受けやすい場所でした。”と解説しています。これで預言が成就したようです。」
「これも言葉遊び。略奪隊、襲い掛かるというヘブライ語はガドという音が含まれる。ガドという音が含まれる単語を並べて文を作ったわけだ。」

「9節が“学べること”で“今でも,エホバを信頼して献身的に働いている兄弟姉妹がいます。建設プロジェクトに参加したり,もっと奉仕者が必要な場所に引っ越したり,ほかにもいろいろな奉仕に取り組んだりしている人がいます。”と、またもやタダ働きの勧めです。しつこいです。」
「ここまでくると、JWは宗教ではなく、タダの労働者に依存する悪徳企業だね。」

「10、11節が“アシェル”です。 第8子です。ヤコブの言葉は“アシェルのパンは豊かになる。彼は王にふさわしい食事を出す。”です。10節で“裕福になったことと,カナン人の悪い影響を受けたことが原因で,エホバの望むことをしたいという気持ちは弱くなっていったようです。”とあります。単なる推測ですね。」
「アシェル族は戦争をしていない。平和的にカナンに浸透して行ったようだ。現地の人と仲良く共存していたわけで、異民族排除・民族浄化を強硬に主張する狂信的なエホバにはついていけなかったのかも。」

「11節は“学べること”で、“世の中の多くの人のように,お金や物が一番大切という考え方をしてはいけません。(格 18:11)”また、“本当に必要ではないものを手に入れるために一生懸命働いて,エホバへの奉仕がおろそかになってしまわないようにしましょう。”とあります。何度も出てきますが、貧乏に耐え、組織のためにタダで働け、です。」
「英文では世の中の多くの人はお金や物が一番大切と思っているとは書いていない。そういうウソはやめよう。」

「引照聖句には“裕福な人の富はその人の要塞。その人の想像の中では防壁である。”とあるのですが、訳がヘンです。これでは富が想像上の防壁に過ぎないと、富に対する否定的な意見を言っているかのように読めますが、そんなことは言っていません。」
「協会共同訳では“富める者は財産を/砦の町、高くそびえる城壁と考える。”とある。その考えが間違っているとは言っていない。ここでは格言10:15を引用して欲しかったね。“裕福な人の富はその人の要塞。貧しい人たちの破滅は貧しさによる。”とあるよ。貧しいことはよくないことで破滅につながると言っているよ。」

「12、13節は“ナフタリ”です。  第8子です。ヤコブの言葉は“ナフタリはすらりとした雌鹿。優美な言葉を話す。”です。12節で“ヤコブはナフタリが「優美な言葉」を話すと言いました。イエスが宣教期間中,どんな話し方をするかを預言していたのかもしれません。”と無理のある解釈をしています。ヤコブの言葉を預言とみなすからヘンなことになるのです。預言じゃありません。」
「バカバカしい解釈。訳も問題がある。協会共同訳では“ナフタリは放たれた雌鹿。/美しい子鹿を産む。”となっている。これは雌鹿が一行目にきているのに、二行目で言葉へと話題が変わるのは詩の構成上おかしいという判断からきている。それで二行目は言葉ではなく小鹿と読むわけだ。最近の訳は小鹿になっている。JW訳は古い聖書を参考にしている。」

「13節が“学べること”で、“うそをついたりせず,いつも本当のことを話すことです。(詩 15:1,2)”とあります。うそをつかず、本当のことを言って欲しいのは組織の方ですよ。都合の悪いことを隠ぺいせず、信者に率直に語ってほしいものです。裁判など勝った場合はカッタカッタ宣伝しますが、負けた場合は沈黙するだけです。」
「そういう情報隠蔽体質だからカルトと呼ばれる。」

「14、15節が“ヨセフ”です。  第11子です。ヤコブの言葉は“ヨセフは実を結ぶ木の枝,泉のそばで実を結ぶ木の枝。その木の枝は塀を越えて伸びる。・・・”と続き、とても長いです。14節に“ヨセフの息子エフライムとマナセはそれぞれの子孫が部族になり,こうして2つの部族が領地を受けました。(創 49:25。ヨシュ 14:4)”とあります。これで予言実現だそうです。」
「ヨセフに対する言葉はユダへの言葉と内容はそう変わらない。しかし詩的表現のため具体的に何を言っているのかはよくわからない。」

「15節で“ヤコブは「弓を射る人たちが[ヨセフ]を……狙い撃ち,敵意を抱き続けた」とも言いました。(創 49:23)「弓を射る人たち」とはヨセフをねたんだ兄たちのことで,”とありますが、何の根拠もありません。ヨセフの兄弟たちが弓を射る人と聖書のどこに書いていますか?書かれていませんよ。」
「JW流の聖書解釈は根拠などいらないということでしょう。組織の偉い人がそう言ったら、それが正しいとして、信者は盲従するだけ。」

「16節が“学べること”で、“つらい目に遭っても,エホバや仲間の兄弟姉妹から離れてしまわないようにしましょう。”とあります。会衆の中でいじめられても我慢して、JWを続けなさいということですね。」
「ヨセフはエジプトに売られてから成功した人物。どうして仲間から離れてしまわないようにしましょうという教訓になるのか理解できない。ヨセフから学べるとしたら、嫌な家族とはさっさと縁を切って、自力で生きてみよう、ということじゃないの。」

「17、18節が“ベニヤミン”です。 第12子です。末っ子です。ヤコブの言葉は“ベニヤミンはオオカミのようにかみ裂く。朝には獲物を食い,晩には奪った物を分ける。”です。17節で“ヤコブは,ベニヤミン族がオオカミのような強い戦士になることを預言しました。”とあります。ベニヤミン族からサウルとエステル、モルデカイが出たことにより予言成就したそうです。」
「JWの予言成就の基準が甘すぎる。」

「ベニヤミンについて創世記に書かれていることは混乱がありますよね。」
「創世記35:16に“それから一行はベテルを出発した。エフラトまでまだ距離がある場所で,ラケルが産気づいて出産し始めたが,ひどい難産だった。”とある。この時生まれたのがベニヤミン。ラケルは死ぬ。ところが、その10節後の創世記35:26でベニヤミンを含めた12人の息子達について“これらの人たちが,パダン・アラムで生まれた,ヤコブの息子である。”と言っている。ベニヤミンはパダン・アラムで生まれていない。」

「創世記44章の話もへんです。エジプトで偉くなったヨセフは兄弟たちに自分の正体を明かさず会うわけです。ヨセフはある策略でベニヤミンをエジプトにとどめようとするのですが、兄弟たちはヤコブのセリフとして“この子まで私の前から連れていかれ,この子にもしものことがあれば,白髪の私はあなたたちのせいで苦しみながら墓に入ることになる。”というのです。まるでベニヤミンが小さな子供のようですが、この時ヨセフはエジプトに来てから相当立っていますので40歳前後で、ベニヤミンはその数歳下です。つまり30代の立派な大人です。極めて不自然です。」
「創世記の作者はこの時ベニヤミンの年齢を忘れているね。生まれた場所も忘れるくらいだから。この辺のいい加減さは創世記によくある。」

「ソロモンの死後、国が南北に分裂します。列王一12:20に“ユダ族以外は,誰もダビデ家に従わなかった。”とあります。ところが次の節の12:21では“ソロモンの子レハベアムはエルサレムに着くと,直ちにユダ族全体とベニヤミン族の中から訓練された戦士18万人を集めた。”とあります。ベニヤミン族は立場をころりと変えたということですか?」
「ベニヤミンはユダの一部と考えられて頭数に入っていなかったのかも。“ベニヤミンはオオカミのようにかみ裂く。”と言う予言が実現するならこの時でしょう。でもそんなことはなかったね。ユダとベニヤミンの南の王国はパレスチナの弱小王国として大国から無視されることで命を細々と永らえる。」

「18節が“学べること”で、“何十年も後にイスラエルの10部族が反逆した時も,ユダ族と,エホバが選んだ王にしっかり付きました。(中略)私たちも,エホバが教え導くために選んだ人たちに心から協力したいと思います。”とあります。指導者に服従せよといういつもの教訓です。」
「“オオカミのようにかみ裂く”はどうなったの?それが羊のように従順に従う、にいつの間にか変わっている。いいかげんすぎる。」

「やっと最後の19説です。“ヤコブの臨終の預言からたくさんのことを学べます。その預言がどのように実現したかを考えると,聖書の預言は全てその通りになるという信仰が深まります。”とあります。でもヤコブの預言じゃないですよ。」
「ヤコブが12人の息子に最後の言葉をかけた後、創世記49:28には“イスラエルの12部族がこれらの人から生まれた。父は彼らのために祝福を願い求めた時に以上の事柄を語った。一人一人にふさわしい祝福だった。”とあるよ。ヤコブの言葉は“祝福”というもので、“預言”ではない。」

「JWにとって聖書に書かれていることは基本的に預言なのですね。そして自分たちに無理やり当てはめる傾向があります。予言成就の基準はあってなきが如くで、必ず成就したことにします。」
「聖書ってそういうものじゃないけれど、そういう風に終末論カルトに悪用されてきたし、これからも悪用されるのでしょうね。」

#1598 2025年09月04日 08:23:16

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“全てを知らないことを謙虚に認めましょう(26)”で、終わりがいつ来るか知らないけれど、明日かもしれないので、組織に服従しなさい、という内容です。」
「統治体の一人のレットが今は終わりの終わりの終わりと言ったのが5年前。コロナ問題でいよいよ終わりの時が来たと早とちりしたわけだけど何も起こらず、多くの信者は失望している。そういう失敗に対するダメージコントロールを狙った記事だね。」

「3節で“この記事では,私たちがどんなことを知らないか,知らないとどんな気持ちになることがあるかを考えます。”とあります。“私たち”じゃないですよ。統治体がどんなことを知らないか、ですよ。」
「“私たち”という言葉がやたらと出てくる。統治体が指導して、“私たち”は盲目的に従っているだけなのを忘れたのかな?統治体の失敗なのに、あたかも“私たち”の失敗かのようにごまかしているのが不誠実だ。」

「4から7節が“終わりがいつ来るかを知らない”です。  いつ来るか知らないのに、今は終わりの終わりなどと言っていたわけですか?謝罪と賠償を求めます。」
「謝罪など一切しない。都合の悪いことは黙り込んで、忘れ去られるのを待つのが組織のやり方。」

「4節では“マタイ 24:36を読む。私たちは今の世界がいつ終わるのかを知りません。イエスでさえ,地球にいた時はその「日と時刻」を知りませんでした。”とあります。今ごろになってやっとわかったんですか?無能の極みです。」
「そこには“その日と時刻については誰も知りません。天使たちも子も知らず,父だけが知っています。”とあるけれど、こんな聖句があることに統治体は今まで気づかなかったようだね。組織にとっては驚異の大発見なのかも?」

「ヘンな注があります。“イエスは,サタンの世界を終わらせるために先頭に立って戦うことになっています。それで,いつハルマゲドンで「征服を完了する」かを今は知っているはずです。”とあります。イエスは2000年前は終わりの日を知らなかったけれど、今は知っていると主張しています。何を根拠に?イエスに聞いたのですか?」
「統治体はエホバの気持ちもイエスの気持ちも何でも知っているんだよ。エホバはポルノを憎むと断言しているぐらいだから、イエスが何を知っているかもわかるのだろう。」

「5節に“家族や周りの人から終わりはいつ来るのかと,ばかにされることもあるでしょう。”と他人事のように書いています。信者をバカにされるようにしたのは終わりがクルクルとあおってきた統治体のせいです。それなのに責任感ゼロです。」
「キリスト教は終末論から離れていくことで宗教として成熟していった。JWは100年以上たっても終末カルトのまま。成熟しようがない。」

「6節では“エホバが,終わりが来る日付を知らせていないことには良い面があります。私たちは日付を知らないからこそ,エホバを心から愛し,信頼していることを証明できます。”とあります。良い面を見なさいということのようです。とんでもない詭弁です。」
「学校の先生がテストの日にちを教えないのは、君たちはテストのために勉強するのではなく、本当に勉強が好きということを証明するためだと言っているようなもの。こんな教師は生徒を精神的に虐待していると言われるよ。」

「JWは“間もなく”とか、“すぐに”とかいう言葉を乱発して、期待をあおってきました。そのことに対する謝罪も反省もないですね。」
「間もなく終わりが来ると宣伝すると、信者が増えるからね。組織の主な関心は信者を増やし、寄付を増やし、立派な本部を作ることなので、信者集めに有効なことはウソでも何でもするということだろう。それで信者をさらに増やそうと20世紀末まで終末論をエスカレートさせてきたわけだ。」

「でもその終末論も期限切れになったわけですね。」
「世代の解釈があまりにもバカバカしいものになったからね。1914年を見た世代は決して過ぎ去らないと言ってきたのに、過ぎ去ってしまって、それに対処するために“重なる世代”という訳の分からないことを言い出して、完全に失敗した。世代のことはもう触れないようにしている。」

「7節は“今,知っていること”です。“例えば,私たちは1914年に終わりの時代が始まったことを知っています。”とあります。“私たち”は知らないですよ。そんなこと。統治体の老人がそう言い張っているだけです。」
「今のJWで1914年の計算方法を説明できる人はどれだけいるのかな?起点となっている前607年がインチキ年代ということはどれだけ知っているのかな?607ことは最近ほとんど触れないね。」

「JWの教義では終わりの日が始まったのは1914年の10月です。たとえば塔2014/7/15の“あなた方は……わたしの証人となるでしょう”には“しかしエホバは,イエスを人類に対する王として即位させます。1914年10月のことです。”とあります。でも第一次世界大戦は6月28日のオーストリア皇太子の暗殺事件をきっかけに始まったわけで、そうすると第一次世界大戦は終わりの日の前の出来事ですよ。」
「JWの教義では天で神の王国設立に伴って、サタンが地に投げ落とされ、その結果“地に災い”がもたらされるというシナリオ。1914年が終わりの時代の始まりという根拠となっているのは第一次世界大戦の開始だけれど、JWの教義からするとそれはおかしい。戦争の始まる時期が早すぎだね。」

「7節では“さらに エホバが今,私たちに何をしてほしいと思っているのかも知っています。できるだけ多くの人に「王国の良い知らせ」を伝えることです。(マタ 24:14)”とあります。知りませんでした。組織が信者集めのために伝道して欲しいだけかと思っていました。」
「JWとして知っているのは、今は終わりの時代で、王国の良いたよりを伝道するのがエホバなる神の意志であるということだけなの?輸血は禁止というのはどうなの?排斥に関するルールとか誕生祝い禁止とかはどうなの?それらはエホバが私たちにして欲しことだと自信を持って言えないの?」

「7節の最後に“その「日と時刻」を知らなければ,熱意を持って伝道できないわけではありません。”とありますが、そんなことはないです。終わりの日が迫っていると言われてきたから、自分の人生を投げ捨てて、伝道に打ち込んだ信者がたくさんいますよ。そういう信者はいまごろ騙されたと心の中で思っています。」
「終わりがクルクル詐欺で信者を働かせてきたのがJWでしょう。そうしないと信者は熱意をもって伝道しないことを組織は知っているよ。高校を卒業するまでにハルマゲドンが来ると言われて、小学生の時から伝道をやらせられた人もいるよ。高校を卒業してから40年たっても終わりの日が来ないことをはじめから知っていたらそんなことしなかったよ。」

「8から11節が“エホバがどんなことをするか,全ては分からない”です。  聖書の神は情緒不安定で何をやらかすか予測しがたい神であることは間違いないです。8節には“私たちは「真の神の行い」をいつも理解できるわけではありません。(伝道の書 11:5を読む。)”とあります。“真の神の行い”と言う訳はヘンですよ。」
「協会共同訳では“すべてをなす神の業は知りえない。”で“真の”はないね。もとのヘブライ語にもない。JWが勝手に付け加えた。」

「人間は神のすることは知らないわけです。でも、JWの教義ではそうではないですよ。」
「統治体は神の喜怒哀楽をよく知っていることになっている。それで信者の生活の細部に至るまで、あれはエホバが喜ばれないとか、悲しむとか言って制限したり禁止したりしてきた。」

「9節で“エホバが私たちを助けるために何をしてくれるかが分からないと,不安になってしまうことがあります。”と信者の不安感に理解を示しています。不安感を持つのは当然です、なぜならエホバは何もしてくれないからです、と断言したらどうですか?」
「そんなことないでしょう。食べ物がなくて祈ったら誰かが食べきれないほどの食糧を持ってきてくれた、なんていう話は、よくものみの塔の記事に出ているよ。エホバは決して信者を見捨てない、不安を持つのは信仰が足りないからです、と断言したらいいね。」

「10節では“エホバの行いを全て理解することはできないと認めると,もっと謙虚になれます。”とあります。具体的には“宣教や何かのプロジェクトで成果を上げたときも,エホバのおかげだと考えます。(詩 127:1。コリ一 3:7)自分の期待通りにいっていないように感じるときも,物事を動かしているのがエホバだと思い出すと,穏やかな気持ちでいられます。”とあります。これって謙虚な態度ですか?単に無責任なだけじゃないですか?開拓者なら時間が入ればそれでいい、結果なんか気にしない、という態度です。」
「無責任というより、傍観者的だね。何事もどうでもいいという投げやりな態度に見える。JWってそんな人たちでしょう。」

「11節はエホバについて知っていることで、“エホバはいつも優しく,正しいことを行う賢い方です。また,私たちがエホバや兄弟姉妹のためにすることを何一つ見逃したりせず,喜んでくれます。エホバを深く愛する人たちに必ず報いてくれます。”とありますが、そんな神とは知りませんね。それは単なるJWの宣伝じゃないですか?」
「神は人間の理解を超えた存在なはず。でもJWの宣伝する神は優しくて気の利く金持ちのお父さん程度の便利な存在に過ぎないようだ。」

「12から15節は“明日がどうなるかは分からない”です。  12節には“現実として,この世界では「思いも寄らないことがいつ誰にでも起き」ます。(伝 9:11)”とあります。それでどうすべきかというと、14節で“でも大変な時こそ,自分がエホバに仕えているのはエホバを愛しているからだということを証明できます。”とあります。思いもよらない不幸にあったら、エホバへの愛を証明できる良い機会なので、JW活動をこれまで以上に熱心にしなさい、と言っているようです。過酷な宗教ですね。」
「信者はやたらと○○を証明することが求められているようだけど、神ではなく組織の他のメンバーに対して、私は立派なJWです、と証明する必要があるだけ。周りからどう見えるかが重要な宗教というだけで、神とは無関係。」

「14節では“本当の幸せは,エホバに導いてもらい,エホバの言う通りにすることに懸かっています。”と断言しています。エホバ=組織ですから、要するに組織の言うとおりにすれば幸せになれるわけです。」
「14節の下に、災害にあってテント暮らしをしているという写真が2枚あって、その説明は“エホバに導いてもらい,エホバの言う通りにするなら,守られる。”とある。エホバが実際に災害にあったJWにあれこれ指示をしたという話はものみの塔にも出ていないので、実際は組織の指示に従えば守られるということだけど、ウソだろう。」

「コロナの時でも、統治体は感染を防いだり、感染した信者の治療をしたりする点で、特別何も貢献していません。」
「組織の言うことを聞くより、専門家の言うことを聞こう。その方が守られるよ。」

「15節が将来について知っていることで、“将来いつまでも生きられるとエホバが約束していることです。”とあります。そして、“エホバは偽ることができず,どんなことがあっても必ず約束を守る方だと知っています。(テト 1:2)”とあります。でも、偽ることができないというのは神らしくないですよ。正しいことしか言えない論理ロボットみたいな存在ということですか?」
「訳がおかしい。JW訳では“神は偽ることができません”だけど、協会共同訳では“偽ることのない神は”となっている。“偽ることができない”というのは古い聖書にはあるけれど、最近の訳は“偽らない”が多い。」

「アダムに善悪の知識の木の実を食べたらその日のうちに死ぬとウソを言ったのはエホバですよ。偽る神ですよ。」
「アダムは930歳まで生き、聖書の中では4番目の長寿者。」

「16から19節が“エホバが私たちのことをどれほどよく分かっているかは理解できない”です。  16節では“詩編 139:1-6を読む。人間を創造したエホバは私たちのことを誰よりもよく分かっています。そして私たちをいつも見守ってくれています。”とあります。エホバは優しく見守ってくれる神というイメージを植え付けようという宣伝ですね。でも詩編139全体からはそんなイメージは浮かびません。」
「詩編139の後半がすごいよ。139:19では“神よ,どうか悪人を殺してください。”とある。139:22,23では“その人たちに対して感じるのは憎しみだけです。紛れもない敵だからです。神よ,私の全てを探り,私の心を知ってください。私を調べ,不安な気持ちを知ってください。”とある。優しく見守る神じゃないよ。」

「私のことを知っているなら、私が嫌っている人を殺してください。あいつらのせいで私は不安なのですから、と言っているわけですね。」
「私のことをよく知っているなら、私の敵を殺すぐらいして欲しい、という祈りだね。見守るだけの神なんかいらない。」

「17節では“エホバのことをいつも温かく見守ってくれるお父さんと見るのが難しい人もいます。”と、組織のイメージ戦略があまりうまく言っていないことを認めています。JWが求めているのは1日も早くハルマゲドンで、自分の嫌いな連中を皆殺しにしてくれる神です。見守る神じゃないです。信者のニーズに合っていません。」
「組織の描く神は優しく見守るのではなく、信者の生活の細部にまであれこれ干渉し、過度に要求的で余計な重荷を背負わす不快で搾取的な神。信者が増えないのも無理はない。」

「医療にまで口出しし、信者を死なせ、排斥制度を振りかざし家族は破壊する神です。なぜ温かく見守れないのでしょうね。」
「7節に“どうしてありのままの自分を受け入れてくれないんだろう。どうして,ここまで大変なことを要求するんだろう。”と感じる人がいるとあるけれど、これはLGBTの人のことじゃないの?性的志向にも干渉する神だから、温かく見守ることが苦手なのかも。」

「18節では“エホバは私たちの成長の可能性を見ています。そう考えると,前向きな気持ちでエホバのために一生懸命頑張っていく力が湧いてきます。”とあります。“成長の可能性”と言っていますが、結局、組織の望むように一生懸命頑張って変わらなければいけないということですね。」
「温かく見守る神というのはウソで、組織が気に入るように変わらなければ、ハルマゲドンで殺されるというのがJWの教え。でも、そのハルマゲドンもいつかは知らないというわけで、力が全く湧いてこないね。」

「18節の下にイラストがあって、“今,先行きに不安を感じるとしても,エホバが約束している明るい将来について考えると,前向きになれる。”と言う説明文がついています。結局楽園幻想しか信者がすがるものはないということですね。」
「組織の言いなりの人生だと、そうなる。先行きに不安を感じたら、まじめに働いてお金を貯める、自分を支えてくれる人間とよい関係を築く、宗教ではなく社会のことを勉強するなどなどしたほうが、幻想にすがるよりまし。」

「19節ではエホバについて知っていることです。“エホバは愛です。これは疑いようのない事実です。(ヨハ一 4:8)エホバは私たちを愛していて,私たちのことを思っているからこそ,はっきりした基準を設けています。”と、組織の細々した規則を擁護しています。組織のすることは全て愛に基づくという宣伝です。」
「“はっきりした基準”は誤訳。his righteous standards(義の基準)だ。とても義の基準とは恥ずかしくて訳せなかったのだろう。」

「輸血禁止も排斥制度も誕生日祝いの禁止も同性愛嫌悪も貧乏暮らしの開拓者生活推奨もエホバの義の基準とは思えませんからね。」
「ネクタイや髭やスカート、高等教育に関する基準みたいにいつ変わるかもしれない、いい加減な基準でしょう。」

「最後の20節では“エホバは私たちが本当に知るべきことは全て教えてくれています。大切なのは,それを謙虚に認めることです。そうすると,知らないことについてあれこれ考えて心配し過ぎたりせず,知っている大切なことに注意を集中していられます。”とあります。要するに、組織にあれこれ質問をして困らせるなということですね。エルサレムは本当に前607年に滅亡したのですかとか、楽園では電力はどうするのかとか携帯電話は使えるのかといったことは誰も知らないから質問するなということです。組織が与える情報だけを感謝して暗記しなさいというわけです。」
「結局、組織は偉そうなことを言うけれど、何も知らないわけだ。こんな頼りない宗教は早くやめよう。」

#1599 2025年09月12日 14:19:04

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“聖書レッスン生がエホバのために生きていきたいと思えるよう助ける(27)”で、聖書レッスン生をいかにして伝道者に仕立て上げるか、という内容です。」
「聖書レッスン生とは変な言い方だね。JWが教えるのは聖書を素材にしたエホバ教の教えでしょう。今どきJWの子供以外でレッスン生なんかいないでしょう。情報弱者の中には、JWと聖書の勉強してみようという人がまだいるのかな?」

「2節に、この記事で学ぶことが出ています。“(1)どんなことが成長を妨げる壁になっているかを知る,(2)エホバへの愛を深める,(3)優先順位を見直す,(4)反対されても上手に対応する。”です。」
「壁になっているものといえば、JWの教えそのものじゃないの?エデンの園で蛇がどうしたこうしたとか、ノアの大洪水でノアの家族以外は全て溺死しましたとか、まともな大人がまじめに受け止めるようなものじゃないでしょう。」

「3から6節が“どんなことが壁になっているかを知る”です。  まずニコデモが取り上げられます。3節に“すでにニコデモはイエスが神から遣わされたことを認めていました。(ヨハ 3:1,2)でも,人目を避けてイエスに会いに行きました。「ユダヤ人たちを恐れていた」からです。”とあります。4節で“イエスはニコデモをどのように助けましたか。夜にやって来たニコデモとゆっくり話し合い,弟子になるために何をする必要があるかをはっきり教えました。”とあります。このイエスのやり方を学びましょうということですね。」
「こういうことぐらいだね。イエスを取り上げるのは。」

「4節の引照聖句にヨハネ3:5がありまして、そこには“水と聖なる力によって生まれなければ,誰も神の王国に入ることはできません。”とあるのですが、イエスはこんなことは言っていません。」
「JW英語訳ではborn from water and spirit(水と霊から生まれる)となっている。日本語訳は霊と聖霊の区別もなくし、みな聖なる力にしているわけだ。」

「次のヨハネ3:6もひどいですよ。JW英語訳ではWhat has been born from the flesh is flesh, and what has been born from the spirit is spirit.(肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。)なのに、日本語訳では“人間の親によって生まれるのは人間の子供であり,神の聖なる力によって生まれるのは神の子供です。”となっています。霊とは神の子供という意味ですか?勝手な解釈を加えています。」
「日本語の翻訳者風に訳すれば、聖なる力によって生まれるのは聖なる力です、となるはずだけど、これはヘンだと思い、勝手に“神の子供”に変えたね。聖書の改ざんを何とも思っていない邪悪な人間だ。」

「5節では“聖書をよく理解しているレッスン生でも,なかなか成長していないように見えることがあります。仕事や家族からの反対がネックになっているのでしょうか。”とあります。そういうときには“お茶をしたり散歩したりして一緒に時間を過ごしましょう。”とあります。これって効果ありますか?」
「JWに大事なのは結果じゃない。開拓者なら時間が入ればいいわけだ。それから、レッスン生と親しくなれば、相手もJWの言うことを断りにくくなるということはあるね。」

「レッスン生がなかなか成長しないように見えるのは、“エホバ”で検索するからじゃないですか?検索すると、JWはキリスト教とは認められていないとか、輸血禁止とか、クリスマス禁止などと出てきて、これはあまり関わらない方がいいと思うわけですよ。」
「そういうことはこの記事では一切触れられていない。楽園でパンダと遊ぶというJWの素晴らしい教えに一度でもふれた人は、周囲の反対さえなければ自動的にJWになると思っているようでおかしいね。」

「6節では自信を持たせろと指示しています。“単にエホバが何を望んでいるかを教えるだけではなく,エホバがいれば必ず壁を乗り越えられるという自信をレッスン生が持てるようにしましょう。”とあります。」
「あなたならできる、と強調するわけね。そうやってカルトに引きずり込むわけだ。」

「7から9節が“エホバへの愛を深める”です。  エホバへの強い愛を育てろと指示しています。8節で“エホバの素晴らしさや魅力的な性格についてよく話すようにしましょう。”とあります。具体例としては“例えば,贖いについて教える時,それが自分への贈り物だと思えるよう助けましょう。”とあります。」
「8節の最後にある引照聖句のガラテア5:20には“人間としての今の命を,神の子への信仰によって生きているのです。神の子は私を愛し,私のために自分を差し出してくださいました。”とあるよ。キリスト教というのは神の子であるキリストを中心にした宗教。エホバ、エホバと連呼するとキリスト教ではなく、改ざん聖書に基づくエホバ教の教えにしか聞こえないよ。」

「聖書レッスン生と呼ぶくらいですから、JWのたわごとではなく聖書を学んでいるのだと思わせる必要があるわけです。エホバ教的なことは最初はなるべく避けた方がいいと思いますけど。」
「基本的には聖書に無知だけど、聖書に関心のある人が聖書レッスンの対象ということだね。エホバが神の名前ですと言われたら、違和感なく受け入れられる人だね。エホバなんてインチキネームで、JWしか言わない名前だ、という程度の知識がある人は対象外。」

「9節が体験談です。マイケルは“「いつまでも幸せに暮らせます」のレッスン27の「もっと調べよう」を学んだ時,マイケルは心を揺さぶられました。”とあります。そして“贖いに深く感謝するようになったマイケルは,ぜひ生き方を変えたいと思えるようになり,バプテスマを受けました。”とあります。今ごろは長老として奉仕活動を楽しんでいますね。」
「どうも“贖い”の話をセールスポイントにしたいようだ。“いつまでも幸せに暮らせます”というのは薄っぺらな内容だけど、心揺さぶられる人もいるわけだ。驚いた。」

「10から12節が“優先順位を見直す”です。  10節はペテロとアンデレがイエスの弟子になった時の話です。“でもペテロ とアンデレは「網を捨て」,漁業を後にしました。家族をきちんと養えるような計画を立てた上でそうしたようです。”とあります。そんなこと聖書に書いていません。何を根拠にイエスの弟子と家族の扶養を両立する計画があったなんていうのですか?あきれます。」
「今のレッスン生に仕事をやめてJWになりなさいとは言えないから、イエスの弟子たちも宗教と家族の扶養の両方を考えて行動していたんですよ、とウソを教えるつもりなんでしょう。」

「10節では“イエスが起こした奇跡を見て,エホバが必ず養ってくれるという確信を持てるようになったからです。(ルカ 5:5-11を読む。)”とあります。引照聖句には奇跡的な大漁の話が出ているのですが、それを見てからイエスの弟子になったとしたら、結構計算高い男だったんですね。」
「ペテロとアンデレが弟子になった経緯はヨハネ1章では全く違う。アンデレはバプテスマのヨハネの弟子でイエスを発見する。そのあとペテロに“私たちはメシア(「キリスト」という意味)を見つけた。”といい、イエスの所に連れて行く。イエスは“ヨハネの子シモン,あなたはケファ(「ペテロ」と訳される)と呼ばれます。”という。その後ガリラヤへ向かう。どっちが本当なんだろうね?レッスン生にはどう説明するのか知りたいね。」

「ヨハネは福音書の中では最後に書かれたものです。ルカの福音書も知っていたと思います。ヨハネはルカの奴、でたらめを書きやがって、俺が本当のことを書いてやる、と思ってペテロとアンデレが弟子になる場面を書いたんじゃないですか?」
「そうかもしれないし、何か神学的な理由があってそう書いたのかもしれない。矛盾など気にするのは近代人の特徴で、古代人は気にしなかったのかもしれない。」

「11節では“レッスン生に,エホバへの崇拝を優先するとエホバがどのように支えてくれるかを話すことはできます。”とあります。具体例として“集会に行きたいので残業できないと上司に伝える必要があったかもしれません。エホバのために一歩踏み出した時,どのようにエホバがサポートしてくれたか,そしてその経験を通してどれほど信仰が強くなったかを話してあげてください。”とあります。要するに適当な作り話をしてレッスン生をだましなさいということですね。詐欺的な宗教です。」
「そこまでは言っていないけれど、そうするように誘導しているよね。具体例を書いて欲しかったね。例えば、アンドレは集会に行くので残業できませんと言ったところ、それならクビだと上司に言われたのですが、エホバを優先して集会に行きました。いったい何が起きたでしょう。集会中に勤め先で火事が起きて上司が焼け死んだのです。クビの話はうやむやになりました。エホバが助けてくれたのです。アンドレは今では長老として奉仕活動を楽しんでいます。というのはどうかな?」

「12節では“レッスン生にとって,兄弟姉妹がどのように優先順位を見直したかを知るのは良いことです。それで,いろいろなバックグラウンドの兄弟姉妹にレッスンに参加してもらいましょう。”とあります。複数の人間の作り話を聞かせるわけですね。」
「エホバを第一に生きてきたお年寄りなんかがいいね。必要とされる所に行って奉仕活動を長年してきたけれど、苦労ばかりであんなことはするもんじゃなかった、と言ってくれたら励みになる。」

「ベテルで長年働いたあと、高齢で追い出されたJWもいいですよ。さっさとJWをやめた知り合いは快適な家に住み退職金と年金でのんびり暮らしているのに、自分はエホバを第一にしたせいでボロアパート暮らしで75歳になっても朝から夕方まで痛む背中と腰に湿布薬を張りながら毎日のように働かなくてはいけない、と言ってくれたら励みになると思います。」
「そういうわけで“いろいろなバックグラウンドの兄弟姉妹にレッスンに参加してもらいましょう。”だね。」

「13から18が“反対されても上手に対応する”です。  JWには周囲の反対がつきものですからね。反対されることをあらかじめレッスン生に伝えるわけですね。14節には“反対に遭った時どうすればよいか,できるだけ早く考えておけば,実際そうなった時にうまく対応できるようになります。”とあります。」
「そうやって、反対する人はサタンの手先と教え込むわけだね。自分は善で正義、反対する人は悪で不正義という単純な二分法、白黒思考に誘導する。そう信じ込ませれば迫害されてもそう簡単には考えを変えない。」

「15節では“レッスン生が家族から反対されているなら,家族の身になって考えてみるよう勧めることができます。だまされているのではないかと心配しているのかもしれませんし,エホバの証人に偏見を持っているのかもしれません。”とあります。家族が反対するのはJWが反社会的なカルトだからですよ。」
「輸血禁止の教義はいつ教えるのかな?それを家族が知ったら、JWにならないように言うよ。輸血をすれば助かるのに、輸血を拒否して死を選ばせるという宗教には絶対入ってはいけないとしかいいようがないよ。」

「16節では“jw orgを紹介するのも一つの手です。”と言っています。17説では“そういう時に備えてjw orgの「よくある質問」を使って,どんなふうに答えられるか一緒に考えることができます。”とあります。“よくある質問”に書かれていることはJWのことをよく知らない一般人を誤解させるような内容のことが多いですよ。」
「例えば“エホバの証人は自分たちだけが救われると考えていますか”の答えは“いいえ”となっている。“救われる”はあいまいで多義的だから、いいえと言ってごまかせるかもしれない。しかし、JWにとって“救われる”とはハルマゲドンを生きて通過すること。そのように意味をはっきりさせると、“救われる”のはJWだけ。」

「“エホバの証人ではなくなった人を避けますか”も面白いです。1段落目の答えは“バプテスマを受けてエホバの証人になったものの伝道をやめ,仲間との交友から遠のいている人たちを避けることはしません。”です。“しません”は太字で強調しています。これだけ読むと避けないのかと思いますが、2段落目では“バプテスマを受けたエホバの証人が聖書の道徳規準を破って悔い改めないなら,排斥されます。”とあります。排斥された人は避けられるわけですよ。でもそれは書いていません。」
「質問に率直に答えず、カルト的言葉遣いで誤解するように書かれている。ハイはハイではないし、イイエはイイエではない。様々な留保条件を付けて、そのうえでイイエといったり、カルト特有の特殊用語をちりばめて一般人に誤解させるように書く。」

「18節では伝道者にさせる方法です。“伝道者になれるようにレッスン生をどんなふうに助けられますか。記念式や地区大会の招待キャンペーンについて会衆で知らされたら,レッスン生に伝道者になるよう勧めましょう。”とあります。記念式や招待キャンペーンにはこういう目的があったのですね。」
「まず参加しやすいことから参加させて、それからは後戻りできないようにほめたり、脅したりするわけだね。そうやって新しいJWが出来上がるわけだ。」

「19,20節が“レッスン生を信じる”です。  19節ではイエスが弟子たちを信じたように信じなさいとあります。20節が体験談です。カトリックを攻撃しています。“アリナフェーという若いカトリック教徒の女性と聖書レッスンをしていました。姉妹はレッスン14を学び終えた時に,像を使って崇拝することについてどう思うか質問しました。アリナフェーは感情的になって,「それは私が決めることです」と言いました。”とあります。この女性を信じて教え続けた結果、“しばらくしてアリナフェーは像を使うのをやめ,バプテスマを受けました。”とあります。今では巡回監督の妻として奉仕を楽しんでいるかもしれませんね。」
「カトリック教徒は世界で12億人以上いて、JWの主なターゲット。それでこんな記事が出るのだろう。」

「カトリックの側はどう反論するのですか?」
「カトリックは偶像崇拝を認めていない。カトリック教会にはマリア像やイエスが十字架にかかっている彫刻などが飾られているけれど、それは像を崇拝するのではなく、像が思い出させる聖なる者に祈っているだけ。」

「カトリックは聖書の権威をあまり認めませんよね。」
「それはそうだよ。今の聖書を決めたのは神ではない。カトリック教会だよ。福音書なんかいっぱいあるけれど結局4つに限定した。聖書より聖書を決めたカトリック教会の方が上なんだよ。プロテスタントはカトリックに対抗するために“聖書のみ”という主張をした。」

「最後の21節はまとめです。“単に,神が何を望んでいるかを教えるだけではありません。エホバへの愛が深まるように助けます。その愛に動かされて優先順位を見直すよう勧めます。反対された時にどのようにエホバに頼って対応できるかを教えます。レッスン生を信じていることを伝え,やる気を引き出しましょう。”とあります。これがカルトの新しいメンバーの作り方です。」
「そうやってJWになる人って、精神的に病んでいたり、社会から落ちこぼれていたりしているような人が多いような気がするけれど、大丈夫なのかな?そういう人は排斥されやすい。排斥されてJWにうらみを抱いて、とんでもない事件を引き起すことだってあるよ。無理な信者獲得はやめよう、JW!」

#1600 2025年09月14日 19:52:11

サタン姉さん
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

そう、ものみの塔2025年6月号研究記事27はどう考えても研究生ををどうすれば信者に引っ張れるかの教えにしか思えません。聖書研究ではないよね。信者を増やす方法を教え込む教育記事。信者を増やす=資金を増やす金目当て。こんな宗教、神は必ず滅ぼされます。

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