#1 2025年01月08日 11:14:10
- ゆずポン
- メンバー

罪と死、永遠の命
いまいち整理ができていないように思うので、教えてください。
罪の代償は死ですが,神が与える贈り物は,私たちの主であるキリスト・イエスによる永遠の命なのです。ーロマ6:23
このような訳で,1人の人によって人類に罪が入り,罪によって死が入り,こうして,全ての人が罪人になったために,死が全ての人に広がったように―。ーロマ5:12
エホバの証人は上記のような聖句を引用し、「人は生まれながらに罪人なので死ぬ」と教えます。つまり、罪に対する罰として死があるということです。(塔15 4/1 12–14ページ)
しかし、私はこれは間違いだと思っています。
エホバ神は,食べられる実を付けるさまざまな美しい木が地面から生えるようにし,庭園の真ん中に命の木を生えさせた。また,善悪の知識の木を生えさせた。ー創2:9
それからエホバ神は言った。「人は私たちのように善悪を知るようになった。人が命の木からも実を取って食べて永遠に生きるということのないために,―」。(略)こうして神は人を追い出し,ケルブたちと,回転し続ける炎の剣とをエデンの園の東に配置して,命の木への道を守らせた。ー創3:22-24
神は善悪の知識の木とは別に命の木を生えさせ、その木から実を取って食べることが永遠の命につながることを示唆しています。
そしてその木から実を取ることができないように、ケルブたちに守らせました。
つまり、アダムははじめから永遠の命を有していたのではなく、命の木から食べることを神から許されるときにはじめて、永遠の命を享受できるはずだったということです。
ですから、罪のない完全性がイコール永遠の命なのではありません。
エホバの証人も、「千年統治の最終段階で、完全性へと引き上げられた時点で試みがあり、その試みを通過した人だけが永遠の命を得る」とも教えており、つまりそういうことです。完全性へと引き上げられた時点で永遠の命が与えられるわけではないのです。
そうしますと、「罪の罰として死ぬ」という説明は本質をとらえていないように思います。
動物は不完全ではないとされていますが、同じように寿命を迎えて死にます。永遠の命とは神が与える賜物であって、人も動物も完全であろうとなかろうと、もともと死ぬように造られているということではないでしょうか。つまり、死は罪に対する罰なのではなく、それが本来の造りなのでしょう。
そして天使たちさえもこの点は同じように考えます。
生き返らされたキリストはもう死なない,ということを知っています。死はもはやキリストの主人ではありません。ーロマ6:9
贖いを備えたキリストについて、「死はもはや主人ではない」と書かれており、つまりそれまではキリストに対してさえも死は主人だったということではないでしょうか。死に至るまで神への忠実を示したキリストに、神は賜物として永遠の命をお与えになったということでしょう。
ですから、天使たちも単に人よりずっと寿命が長いのであって、本来は死ぬように造られているのであり、神への忠実に対する報いとして最終的に永遠の命が与えられるのだと思います。彼らも、神への忠実を人と同じように試されているのです。
確かに、結果的に罪人には永遠の命が与えられないので最終的に死ぬわけですが、罪イコール死という単純な説明ではないはずです。
そうしますと、冒頭の「罪の代償は死」や「罪によって死が入り」という聖句は、実際には何を教えようとしているのでしょうか?
説明できそうで、うまく言語化できないので教えてください。
オフライン
#2 2025年01月09日 18:38:42
- jj
- ゲストユーザー

Re: 罪と死、永遠の命
命の実を定期的に取り入れることで寿命を伸ばし続けることができるってイメージですかね?
罪とその罰として命の
実を接種させないことで死ぬことになると。
死が入り込んだという言葉は…本来は命の実を定期的に摂ることで永遠の命を可能にするシステムだったけどその実を摂らせないということを詩的(かどうかわかりませんか)に表現したとか?そんな感じになるでしょうか。
#4 2025年01月13日 07:43:16
- アノニマス
- ゲストユーザー

Re: 罪と死、永遠の命
一御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、二都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。口語訳黙示録22;1~2
一四いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。22;14
一八知恵は、これを捕える者には命の木である、 これをしっかり捕える人はさいわいである。箴言3;18
おじゃまします。黙示録と箴言の命の木です。箴言三章は知恵について書かれています。
#5 2025年01月17日 15:50:36
- Venturi
- ゲストユーザー

Re: 罪と死、永遠の命
こんにちは。元JW2世のVenturiと申します。ちょうどカール・バルトの「ローマ書講解」をコツコツ読み進めていたところにゆずポンさんのスレッドをお見かけし、時宜を得たりと思い切って書き込みいたします。
(※以下の引用聖句は新共同訳による)
私なりに言語化するなら、「生命とは神の恵みであり、罪とは神からの離反である。生命の源である神から離れて人は生き続けられない」といったところかと思います。
使徒パウロはローマ人への手紙における信仰義認論の展開に際して、補論としてキリストの十字架における死が贖罪死であったこと(ヘブライ的伝承の受容)を示しました。それには当然ながら「罪の報いは死」であることが前提となります。
これは目新しい話ではなく、律法における刑罰の規定や動物の犠牲の祭儀に見られるように、罪を贖うために命が求められることは旧約聖書を通して一貫して示されています。さらに律法が与えられる以前から、アダムの違反以来人類は死の支配下にあったと主張されます。(ロマ5:13-14)
その前提があるゆえにキリストの死は「贖い」であり、神と人との「和解」をもたらすものとして理解されたのです。(ロマ3:25,26,コリ二5:18-21)
ローマ5章の後半のテーマは「恵み」であり、人類に恵みをもたらすキリストの予型として罪のアダムを対置するという構図が示されます。これもラビ文献に見られる「アダムの秘義はメシアの秘義である」思想との関連が指摘されます。
続くローマ6章においては信仰義認論の行き過ぎを防ぐための当て舵がなされており、罪深い肉体において十字架におけるキリストと共に「死に」、復活のキリストと共に新たに生きるべきことが語られます。「死はもはやキリストの主人ではありません。(死者のなかから復活させられたキリストはもはや死ぬことがない)」とは、信者が受けた赦しの恵みのゆえに古い肉の業に逆戻りするのではなく、むしろ新生し聖化のプロセスを歩むべきことを論証する中での寓意です。
ローマ6章の主題とは、恵みを受けた信者がなおも罪のうちにとどまることが「できない」というものであり、その論拠が信者もキリストとともに十字架につけられた、というキリストと信者の共同性なのです。
この主題に立脚して「罪に対して死に、神に対して生きる」という結論に至る文脈を理解することを前提として、あえて本論から外れてイエス・キリストご自身と「死」との関係はどう見るべきでしょうか?彼の地位については他の聖句でこう述べられています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(ピリ2:6-11)」
「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。(コロ1:15−17)」
「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。
御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。(ヘブ1:2-3)」
以上に示される本来のキリストの立場から、彼が初めから死の支配下にあったと考える理由はありません。
むしろ、キリストは死に対する征服者として描かれています。(ヘブ2:14-15)
加えてイエス・キリストを信じる者は、キリストと同じ復活にあずかることが示されています。それはアダムと同じ肉と血の体ではなく、「朽ちないもの」へと「瞬く間に変えられる」復活です。(コリ一15章,コリ二5章)この真理はキリストの死と復活の後にようやく啓示され、使徒パウロはそれが旧約予言の成就であると主張します。これが使徒たちの伝えた「福音」なのです。
以上の論考の結論として特に申し上げる必要を感じるのは、聖書における「罪と死」は「赦しと救い」とセットで、いわば二項対立として理解する必要があるということです。その前項のみを捉えて世界を解き明かそうと試みても、おそらく啓示された目的を無にしてしまうことでしょう。
さらに言を加えるならば、元JWとしての経験からも、聖書をイエス・キリストへと導くものとして読むのでなければ、重大な錯誤を生む危険を感じます。
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。(ヨハ5:39)」
キリストを論じる上で、聖書の中でもとりわけ重要な箇所をより深く耕す機会を与えられたことに感謝いたします。
願わくはゆずポンさんをはじめ私達の学びの上に「真理の霊」が臨みますように。これからも共に粘り強く知識の戸口を叩き続けましょう。
#6 2025年01月17日 20:57:29
- ゆずポン
- メンバー

Re: 罪と死、永遠の命
Venturiさん、詳しい論考をありがとうございます。
まだ十分に咀嚼できておりませんので、聖書と照らし合わせながらゆっくりと考慮させてください。
不躾ながら一点お考えをお聞きしたいのですが、創世記の示す「完全な人間」像は、完全な命=永遠の命ではないことを示しているようにしか思えません。
アダムは当初完全な人でしたが、結局彼は永遠の命を有していたのではなく、その無償の賜物を受けることなく死にました。
イエスは贖いを備えるために地上に来られ、ご自分の命を投げ打たれたわけですが、贖いとは身代金のことであり、アダムが失ったものに完全に対応しているものかと思います。
イエスが初めから死の支配下にいなかったのであれば、イエスの支払われた代価とアダムのそれとは価値が釣り合わない(命の価値が異なる)ように思えるのですが、ここはどう考えますか?創世記の解釈に問題があるのでしょうか?
オフライン
#7 2025年01月18日 19:24:52
- Venturi
- ゲストユーザー

Re: 罪と死、永遠の命
ゆずポンさん、いささか独断的になりがちな長文をお読みくださり感謝申し上げます。
疑問点の本丸はむしろそちらでしたね。私自身は主に新約の福音理解に必死で創世記には自信がありませんが、ゆずポンさんに触発されて自分なりの理解を記述してみようと思います。
「永遠の生命」とは「神との交わりにおける」生命であると考えます。例えばヴォイジャー探査機が打ち上げ後に地上から何の補給も受けずに活動を続けるように、造り主の手を離れて完全に自立して生きる、そのように人は造られていないという理解です。
ですからアダムが失ったのは永遠の生命の「見込み」であったとは言えるでしょう。創造主のもとを離れなければ永遠に生きる「はず」だった、という仮定でしか語れないのは、すでに堕罪した後の人類に対して現在的な苦難や死の原因が説明されているのが創世記だからです。「失われた以上、永遠の生命ではなかった」というのはパラドックスではあります。
ただし、それをもってアダムは初めから「死の支配下にあった」というのは妥当性を欠くと言わざるを得ません。エデンの園の物語では、「死」の概念はもっぱら神への反逆と結びついているからです。
「生命の木」が何を意味するかを断言することはできませんが、jjさんの意見や他の方が紹介されている黙示録において救済の完成した世界に登場する「生命の木」の説明は参考になります。
救済論的には、生命の木は十字架の予型として見ることになります。この説明をとってもやはり永遠の生命の「見込み」ではあり、神との交わりが生命そのものということになります。
ところでキリストと違いアダムは初めから「死の支配下」にあり、それならキリストの贖いは価値が高すぎて釣り合わない、というのは面白い問題提起ですね。小銭が用意できないから万札を叩いて解決した、みたいな豪快な話でまことに神の過分の恵みであります。
真面目な話をすると、キリストにより贖われたのは「堕落した人類」であり、アダムその人ではありません。イエスとアダムが天秤上で平衡を取っている絵を思い出しますが、贖罪論におけるアダムは堕罪した(罪を犯す傾向を持つ)人類の象徴かつ代表であり、「義のキリスト」と「罪のアダム」が対比されているのです。
そもそも贖罪論自体が「十字架の躓き」の後に使徒たちが築き上げたものですから、イエスの死と復活から帰納的に考える必要があります。
思考実験として、仮にアダムを復活させて改めて処刑したとしても人類を贖うには到底不十分でしょう。創世記でもアダムは寿命を迎えましたが、それで人類は贖われていません。
ではアダムとキリストの決定的な相違点はなんでしょうか?
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。(ヨハ1:1−2)」
「私と父とは一つである。(ヨハ10:30)」
御子が「神と等しい者(ピリ2:6)」でありながら、地に降られ贖いを成し遂げられたのは、人類と「神との交わり」の回復のためでした(ヨハ一1:3)。
旧約においても「知恵」としてその存在が示唆され(箴言8:22−27)、イエスご自身も明らかにされた通り、御父と御子は世界の創造以前から完全な交わりのうちにおられました。
「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。(ヨハ17;5)」
これこそが「真の生命」であり、その交わりのうちに人類をも再び招く手段が十字架による贖いなのです。
神との完全な交わりという「永遠の生命」を持つ存在を御子以外に求めることはできませんから、畢竟キリストの犠牲が必要とされたのです。
結論として、「完全性」も「永遠の生命」も神との交わりにおいてのみ成り立つものであり、人が神から全く独立した存在として成り立つという概念は、おそらくグノーシス思想に類するものと言えるかもしれません。
関心をお持ちの「生命の木」についてもユダヤ神秘主義の分野では多く語られているようですから、その線から調べてみると視野が広がるのではないでしょうか。私も興味が出てきました。
内省してみましても、「生命」をもっぱら即物的に考えがちなのは元JWの宿痾なのかもしれません。「神との交わり」こそが生命であるというのはキリスト教を学び直す上で福音理解として反芻し続けてはいましたが、贖罪論にまで適用する考えは個人的に持ってはいませんでしたし、そういう解説を読んだ記憶もありませんでした。
急に降ったインスピレーションなのですがこれがゆずポンさんと私のために与えられた説明なのか、単なる個人の思いつきとして棄却されるかは今後の学びで明らかになることでしょう。穴があるとすれば、他の霊者はどうなの?反逆した御使いには寿命があるの?という問題でしょうか。前者であることを願望としては持ちつつ、謙遜に取り組んで行きたいものです。
ゆずポンさん、貴重な学びの機会に感謝いたします。
#8 2025年01月19日 09:47:20
- ゆずポン
- メンバー

Re: 罪と死、永遠の命
Venturiさん、とても参考になる論考をお寄せいただき、本当にありがとうございました。
どうも私の場合、「神との交わりが生命そのもの」という視点がまだまだ欠けているようです。エホバの証人的な考え方や発想が抜けていないのでしょうね。
ここで提起した疑問は元々、エホバの証人が教える「油注がれた者たちは天で、み使いたちですら得られない不滅の命を得る」という不可解な教えについて考察していた際に、付随して沸いてきた疑問でした。
彼らは「不滅の命と永遠の命は違う」「不滅の命は単なる終わりのない命ではなく、変質や分解の及ばない、また滅びの及ばない命です」などと教えますが、本質的には同じなのではないかと。
「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着る」(コリ一15:53新共同訳)という聖句が示しているのは、「朽ちる体」という地上における肉体を捨て、「朽ちない体」という霊的な体を身に着け、天で永遠に生きることであると考えます。
エホバの証人は同じ聖句を「朽ちるものは不朽性を身に着け,死んでいくものは不滅性を身に着けなければなりません」(コリ一15:53新世界訳)と訳しており、イエスが有しておられるこの不滅性を、「キリストの復活と似た様にあずかる」自分たちも得るのだと説明しています。そのイエスの復活については、「復活に際してイエスに与えられた不滅の命は単なる終わりのない命ではなく,変質や分解の及ばない,また滅びの及ばない命です」と述べており、要するに「不朽」という言葉は「滅びたりしない」という考えが含まれているので、滅びる可能性のあるみ使いたちが得ている命とは異なっている、ということです。
自分たちはイエスと同じと述べているようで「いや、なんでやねん」という突っ込みを入れたくなるのですが、Venturiさんが示してくださっている「神との交わりが生命そのもの」という視点があれば、理解できそうですね。「不滅の命」と「永遠の命」などという表現にこだわるあまり、「神を離れては誰も生きられない」という本質を見失っていたようです。
不躾な質問に、時間をかけて丁寧に考察をお寄せいただき、本当にありがとうございました。
オフライン
#9 2025年01月19日 19:14:17
- Venturi
- ゲストユーザー

Re: 罪と死、永遠の命
ゆずポンさん、私なりの解釈に理解を寄せてくださり感謝いたします。
「永遠の命」の概念そのものが新約時代になって啓示されたものですから、創世記に遡って定義づけるには神学上の解釈としてある程度の幅は生じるのでしょう。
アダムが「条件付きの不死」であった、とする解釈はプロテスタントの歴史上たびたびなされてきたようです。あるいはアウグスティヌスあたりまで遡れば更に解釈の変遷があるのかもしれません。
前回は贖罪論と救済論の反復横跳びになってしまいましたので、創世記に立ち返って基本的なことを改めて確認させていただきたいのです。恐縮ですが、あと少しだけご容赦ください。
創世記の物語では、神が規則と死の罰則を定め(創2:16,17)人は違反を犯し(3:6)神は死刑判決を下した(3:19)その後アダムは死んだ(5:5)という流れを把握します。
もし仮にアダムには初めから寿命があったと仮定すると、神の掟も裁きも効力を発揮していないことになります。アダムは寿命で死んだわけですから、なぜか執行段階で死刑が終身刑や流刑に減じられたことになってしまい、神の権威に疑問符がついてしまいます。
「生命の木」の難解な記述がその仮定を支持するかに見えますが、やはり文脈に立ち返る必要があると思います。
個人的には、「生命の木」は人類がより神に近しい立場を得るために神が与えた手段を象徴しており、それがキリストにおいて成就した、というくらいの説明で現状は納得しています。
誤解を恐れずに言えばこの「人間神化」の問題はゆずポンさんがこの件で疑問を抱かれるに至った原因とも深く関連していると気付かされ、懲りずに再び筆を取った次第です。
新約聖書における「不朽性(アフタルシア)」と「不滅性(アタナシア)」を峻別し、後者を特定の信者に排他的に適用し彼らだけがキリストと同じ復活にあずかるという教理がもたらす破壊的な影響については、私自身も向き合わねばならない問題です。その巧妙な詐欺性に憤りつつ、問題点を整理し改めて指摘する義務に駆られました。
人、キリスト、神の不死性に言及する聖句のうち鍵となるものを以下に示します。
・信者が賜る不死性(コリ一15:53,54)
「この朽ちるべきもの(フタルト)が朽ちないもの(アフタルシア)を着、この死ぬべきもの(タナト)が必ず死なないもの(アタナシア)を着ることになります。この朽ちるべきもの(フタルト)が朽ちないもの(アフタルシア)を着、この死ぬべきもの(タナト)が死なないもの(アタナシア)を着るとき…」
・復活したキリストの不死性(ヘブ7:16)
「この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない(アカタリュトス)命の力によって立てられたのです。」
・神の不死性(テモ一1:17)
「永遠の王、不滅(アフタルトー)で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」
このように、信者が不死性を賜ることについての記述では明らかに反復話法として「アフタルシア(朽ちない)」と「アタナシア(不死・不滅)」の語が繰り返されています。
一方で復活のキリストについては別の語「アカタリュトス(分割されない)」が用いられており、ゆずポンさんが引用された「変質や分解の及ばない」との説明がこの語を指しています。
しかし別の聖句で神ご自身については救われた人と同じ「アフタルシア(朽ちない)」の語が用いられているのですから、それぞれの語彙の違いを基準に不死性のランク付けを試みること自体に無理があると思われます。
加えて不朽と不滅を切り離し、後者を排他的にキリストと結びつけるフックと思しき聖句が見つかりましたので以下に示します。
新共同訳:
「神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の(アタナシア)存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。(テモ一6:15,16)」
新世界訳:
「幸福な唯一の統治者は,定められた時に現れます。その方は王として支配する者たちの王,主として支配する者たちの主であり,ただひとり不滅性(アタナシア)を持ち,近づくことができない光の中に住んでいます。人は誰もその方を見たことがなく,見ることができません。この方が栄誉を受け,偉大な力を永遠に保ちますように。アーメン。(テモ一6:15,16)」
実際のところ、ギリシャ語写本では「神」の語はこの聖句で用いられていません。「彼」とだけ書かれているため、対象が神かキリストかが一概に断定できないのです。その点では「その方」とする新世界訳のほうがより原義に忠実な訳と言えます(フランシスコ会訳も同じ)。
ものみの塔はこの聖句を復活のキリストに当てはめ、「不滅性」を一部の信者に独占的に適用する手がかりとしているのです。
そのようにして、キリストの持たれる「アカタリュトス(分割されない)」の不死性をも一部の信者にのみ適用し、驚くべきことに彼らが「神に依存しない」存在になるとすら主張しています。
やはりここでも文脈に立ち戻る必要があります。不死性を表す語彙で「アカタリュトス」の語以外は神にも人にも自由に用いられているのですから、反復話法をわざわざ分解して「不朽性」と「不死・不滅性」に本質的な差があると考える理由はありません。
確かに不死性を意味する複数の語彙が新約聖書において用いられており、その使い分けに意味を見出そうと試みるテクニカルな原語理解は一見興味深く思えます。しかし、「キリストの復活」にあずかるという賜物を独占する「異なる福音」を支える論拠として用いられる限り、退けるほかはありません。
「わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の力に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ(コリ二10:4,5)」
ゆずポンさんと共に偽教師に対する勝利を味わえたことに感謝いたします。霊的に恵まれた週末となりました。明日から少なくとも関東は暖かくなるようですが、お互いに流行り病など貰わぬよう注意してまいりましょう。