#1551 2024年12月27日 14:13:23
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“「人々という贈り物」に感謝を表す(42)”で、平信者は組織内の役職者に感謝を示せという、内容です。」
「役職者に感謝を示せという記事がないと誰も感謝しないということかな?役職者不足の組織だから、役職者になれば感謝されて、承認欲求が満足されますよ、長老を目指しましょう、と言いたいのかも。」
「2節に“パウロによると,イエスは天に行った後,「人々という贈り物」を与えてくれました。(エフェソス 4:7,8を読む。)パウロが説明しているように,それは会衆をいろいろな面でサポートするためです。(エフェ 1:22,23; 4:11-13)現代,「人々という贈り物」には,援助奉仕者や会衆の長老や巡回監督が含まれています。”とあります。先週もありましたが、“人々という贈り物”は誤訳です。恥ずかしいです。」
「正しくは“人々に贈り物を分け与えられた。”で、詩編68:18の誤った引用に基づくもの。キリストは信者に様々な贈り物をくださったという主旨の聖句。」
「エフェソスの作者はパウロではないですよ。エフェソスはパウロの名をかたった偽名文書です。」
「コロサイ書を基に、その内容を改変したもの。でもコロサイも偽名文書なんだよね。エフェソスの作者はそれを知らず、コロサイの語句や表現を真似している。コロサイの作者にだまされた。」
「コロサイの書き出しは“神の意志によってキリスト・イエスの使徒となったパウロと,私たちの兄弟テモテから,コロサイにいる,キリストと結ばれた聖なる人たち,忠実な兄弟たちへ。”ですが、エフェソスの書き出しは“神の意志によってキリスト・イエスの使徒となったパウロから,エフェソスにいる,キリスト・イエスと結ばれた忠実な聖なる人たちへ。”です。そっくりです。」
「エフェソスでは発信者はパウロ一人にしている。これはエフェソスこそパウロの考えを反映していると思わせるためだろう。その他に二つの書簡には似た部分はたくさんある。」
「3節に” 私たちはみんな,そうした兄弟たちが大切な責任を果たせるようにサポートすることができます。”とあります。平信者は援助奉仕者や長老や巡回監督をサポートしなくてはならないようです。平信者は要求が多すぎて、疲れ切っていますよ。」
「3節にはさらに“また,そうした兄弟たちや「人々という贈り物」を与えてくれたイエスにどのように感謝を表せるかを考えます。”とあって、サポートするだけでなく、感謝することも平信者には強要されている。カルトらしいね。」
「4から7節が“「役立つ仕事を行う」援助奉仕者”です。 援助奉仕者の仕事を列挙し、その重要性を強調しています。6節には“ボリビアのベバリー姉妹はこう言っています。「集会を十分に楽しむことができるのは,援助奉仕者の兄弟たちのおかげです。集会中に歌ったりコメントをしたり話を聞いたりビデオや画像から学んだりできるのは,援助奉仕者たちが働いてくれているからです。兄弟たちは集会の安全を見守り,ビデオ会議システムでつながっている人たちを気に掛けています。集会後には率先して清掃を行い,会計をまとめるのを手伝ったり,必要な文書を手に入れられるように手配してくれたりします。本当にありがたいです」。”とあります。これらの仕事を援助奉仕者は率先してしなさいという指示ですね。疲れ切ってしまいます。」
「若い人なら集会が終わったらさっさと帰りたいよ。女性蔑視のJWだから、清掃などは女の仕事で、男はしなくてよいと言えばいいのに。男性信者は喜ぶよ。」
「7節で“私たちは援助奉仕者の働きをありがたいと感じているかもしれません。でも,聖書は「感謝を表しましょう」と勧めています。(コロ 3:15)”とあります。引照聖句は援助奉仕者とは何の関係もありません。」
「それはいつものこと。聖句は本当はどうでもいい。」
「7節で、クシシュトフ兄弟は“カードやメールを送る ようにしています。聖句を書いて,自分にとって兄弟の働きがどのように力になっているか,またどんなところに感謝しているかを伝えるようにしています”と言っています。パスカル兄弟は“最近,私たちは祈りの中で,会衆の援助奉仕者の兄弟たちへの感謝を伝えたり,兄弟たちを助けてくれるようにお願いしたりするようにしています。”と言っています。こういうふうに書かないと感謝の表し方がわからない信者がいるのでしょうね。現金を渡して感謝を表すのはだめなのでしょうか?現金が一番喜ぶでしょう。」
「援助奉仕者ごときにはカード、メール、祈りで十分ということ。」
「8から11節が“「皆さんの中で一生懸命に働[く]」長老たち”です。 今度は長老に感謝ですね。8節に“1世紀において,長老たちは会衆のために一生懸命働きました。(テサロニケ第一 5:12,13を読む。テモ一 5:17)”とあります。読むように指定されている聖句には“兄弟たち,次のことをお願いします。皆さんの中で一生懸命に働き,主に仕えつつ皆さんを監督し助言を与えている人たちに,敬意を払ってください。”とありますが、この訳はヘンじゃないですか?」
「問題となるのは“監督し”でしょう。協会共同訳では“導き”だね。元のギリシャ語には両方の意味がある。どちらが良いかは辞書的には決められず、テサロニケ一が書かれた当時の信者の組織がどうだったかを知る必要がある。」
「JWみたいに中央集権的な命令系統が出来上がった組織なら、監督がよいですし、もっと緩やかな組織なら導くがよいというわけですね。」
「テサロニケ一が書かれたのは50年前後で、新訳の中では最も古く、初期のキリスト教の様子がわかる手紙。パウロが会衆を創設したばかりのころで、きちんとした組織などなかった時代。この頃は信者を監督をするための人材も規則も整備されていない。」
「9節には長老の仕事が出ていまして、“伝道を熱心に行い”、“裁く”、“神の羊を世話する”とあります。長老は伝道を熱心に行わないといけないとは知りませんでした。伝道など平信者のすることという態度の長老がいますけど。」
「タテマエとして書いているだけ。巡回監督が来た時だけ真面目にやっているふりさえすればよい。」
「10節に“エホバは,私たちが牧者の手厚い世話を受け,「もはや恐れることもおびえることもなくな[る]」と預言していました。(エレ 23:4)”とありますが、聖書の誤用ですね。」
「現代のJWのことを言っているのではないよ。」
「10節で、母親が重病になったヨハンナ姉妹が“私は自分の気持ちを伝えるのが得意ではありません。でも,ある長老が辛抱強く私の話を聞いてくれました。その長老とはまだあまりよく知り合っていなかったのですが,一緒に祈ってくれて,エホバに愛されていることを確信させてくれました。兄弟が何を言ったかはあまり覚えていませんが,とても安心したことは覚えています。エホバは本当にぴったりのタイミングで兄弟を遣わして私を助けてくれました。”と言っています。長老ならこうしなさいという指示ですね。」
「このケースでは長老が話を聞いて、祈るだけで効果があったようだけど、いつもうまくいくわけじゃないよね。でも長老にできるのはその程度だからそれ以上は期待するな、ということかな。」
「11節では長老に感謝しなさいと言っています。ヘンリエッタ姉妹は“兄弟は本当にいい長老だと思います。兄弟のような長老がいてくれて,本当にうれしいです。いつもありがとうございます。”と言い、セラ姉妹は“それで感謝を伝えるために,カードを書いたり,食事に呼んだり,一緒に奉仕に出掛けたりできます。”と言っています。」
「援助奉仕者とは違って、食事に誘えとある。長老になるとタダ飯にありつけるようだ。」
「12から15節が“会衆を力づける巡回監督”です。 12節に“エルサレムにいる長老たちはイエスの指導の下,パウロやバルナバなどの兄弟たちを旅行する監督として遣わしました。(使徒 11:22)”とあります。これはウソですね。巡回監督なんか聖書的根拠はありませんよ。単なるJWの制度です。」
「引照聖句は“その話がエルサレムの会衆に伝わり,バルナバがアンティオキアにまで遣わされた。”とあるだけ。バルナバが監督として遣わされたなんて書いていない。この聖句を巡回監督の根拠とするのは、無理があるね。パウロが巡回監督だなんて、何を根拠にそんなことを言うの?パウロは使徒なんじゃないの?」
「出エジプト1:6の“やがてヨセフは死に,兄弟たちとその世代の人々も皆死んだ。”という聖句を重なる世代の根拠としたJWですから、自分たちに都合が良ければどんな聖句でも自分たちの主張の根拠にしてしまうのですよ。」
「JWに言わせれば、パウロとバルナバが史上初の巡回監督なわけだ。パウロがウソはやめろと怒っているよ。」
「14節で“巡回監督が訪問すると,会衆はどのように力づけられますか。”と誘導的な質問をしています。力づけられない会衆だってありますよ。」
「おそらく報告書には、巡回監督の訪問で全ての会衆が力づけられ、奉仕活動が150%増加したとあるんだよ。執筆者は実際の会衆のことなど知らない。」
「14節で、トルコのある兄弟が“今までたくさんの巡回監督が訪問してくれましたが,近づきにくいとか忙し過ぎるという印象を持ったことはありません。”と個人の感想を述べています。“このように,巡回監督たちに親しみや愛情を感じている兄弟姉妹は少なくありません。”とありますが、これは何の根拠にもなりません。」
「巡回監督とその妻の悪口なら良い評判の100倍もあるよ。それを無視しているだけ。」
「15節には“巡回監督を食事に招待したり,巡回訪問中の野外奉仕に参加したりすることも良い方法です。”とあります。食事を平信者に強制的に割り当てる会衆が多いと思いますよ。そうしないと巡回監督を食事に招待する人がいないからです。」
「強制しておいて、あなたの自由意志で決めましたというのがJW。」
「さらに“あなたが優しい言葉を掛けたり,ちょっとしたプレゼントをしたりする時,巡回監督は自分の祈りが聞かれたと感じることがあるかもしれません。”とあります。言葉だけでなく、ちょっとしたプレゼントが必要なようです。」
「現金のことかな?巡回監督は定年があるから、それまでせっせとお金を貯めないと悲惨な老後になる。組織の衰退が進むと、巡回監督という制度が突然廃止されるかもしれないしね。」
「15節の下には“奥さんたちのことも忘れないでください”と言う囲み記事があります。奥さんたちに感謝せよと言っています。女性に対する配慮とは珍しいです。」
「平信者は援助奉仕者、長老、巡回監督とそれらの妻に感謝しなくてはならないわけだ。こんなに感謝ばかりさせられる平信者はつらいね。さっさとやめよう。」
「そこには、ある姉妹の発言が出ていて、“奥さんたちは,自分の夫をエホバに貸しているようなものです。エホバはそうした姉妹たちのことを娘のように大切に見ていると思います。”とあるのですが、これこそ個人の感想です。何の意味もありません。こういうふうに思えという指示なんでしょうね。」
「別の姉妹は、“奥さんたちは、自分の夫を組織に貸しているようなものです。組織はそうした姉妹たちのことを夫の人質として大切に監視していると思います。”と言っているよ。」
「最後の16,17節は“私たちには「人々という贈り物」が必要”です。 16節に組織の本音が出ています。“「人々という贈り物」として奉仕できる兄弟たちが世界中でもっと必要とされています。”とあります。これを第1節に持ってくるべきでした。16節までまじめに読むJWはほとんどいません。」
「でも、17節には“イエスが「人々という贈り物」である兄弟たちを与えてくれたことは,終わりの時代に私たちのことを導いてくれている証拠です。”と力強く言っている。イエスが必要な兄弟を与えてくれるようだから、間違っても援助奉仕者や長老になろうなんて考える必要はないよ。」
#1552 2025年01月03日 14:24:34
- 聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回の2025年最初のものみの塔は、“疑いの気持ちに負けないために(43)”で、JWであることに後悔や疑問を持っても、楽園を夢見て貧乏JWを続けなさい、という内容です。」
「この記事によく出てくる言葉は“穏やかな気持ち”。必要なものはエホバが備えてくれるとは言わず、エホバに頼れば“穏やかな気持ち”になれると言っている。これでは信者は励まされないね。」
「1節に“中年の兄弟の中には若い時に,世の中でキャリアを積むのではなく王国の活動を優先するという生き方を選んだ人がいます。でも家族を養うのに苦労していて,自分の選択は本当に正しかったんだろうかという考えがよぎるかもしれません。”とあります。組織も信者のキビシイ現実を理解しているようですが、具体的な援助については何も言っていません。」
「英文ではWith the family budget now stretched to the limitで、家計が限界に達している、という意味。”苦労していて”はJWの窮状をかなりごまかした言い方。物価上昇と景気後退に苦しむ国が増えて、生活が破綻しつつあるJWは増えているよ。」
「1節では、あなたも“これまでエホバのために頑張ってきたことに意味があるんだろうか”と考えたことがあるかもしれません、と言っています。英文ではHave the sacrifices that I have made for Jehovah been worth it?で、エホバのために払ってきた犠牲は価値があっただろうか?ですよ。犠牲という言葉を避けていますね。」
「進学をあきらめ、安定した給料の良い仕事をあきらめ、結婚をあきらめ、子どもを持つことをあきらめ、自分のしたいことをあきらめてきたのがJW人生。払った犠牲に見合ったものは得られていないよ。そう思わせないために楽園幻想を振りまくわけだ。」
「3から6節が“疑いの気持ちを取り除くためにできること”です。 3節では“疑いの気持ちを取り除く1つの方法は,聖書から答えを見つけることです。”と言っています。答えは聖書にあるようです。」
「4節で“テサロニケ第一 5:21を読む。聖書には「全てのことを確かめ」るようにと書かれています。”とあるけれど、5節では“そして,エホバが用意してくださっているいろいろな調査ツールを使って詳しく調べることができます。”とあるわけで、結局組織に誘導されて、組織に都合の良い結論にたどり着くだけだね。」
「“エホバが用意してくださっている”はおかしいですよ。エホバは何もしません。」
「英文ではthe extensive study tools that Jehovah’s organization provides.で、エホバの組織が用意したツールと言っている。それをエホバが用意したというのは誤訳だけど、翻訳者にとってエホバの組織=エホバなんだろう。」
「引照聖句には“全てのことを確かめてください。立派なことを行い続けてください。”とありますが、文字通りすべてのことを確かめろという意味ではありませんよ。JWは文脈を無視して聖書を引用することをやめられないようです。」
「テサロニケ一5:19,20に“聖なる力の働きを妨げてはなりません。預言を軽く扱ってはなりません。”とありその後に“全てのことを確かめてください。”と来る。霊的な賜物に対して確かめなさいと言っている。霊感を受けていないJWには関係ない聖句。」
「引照聖句の後半の“立派なことを行い続けてください。”は誤訳ですよ。笑ってしまいます。」
「英語のJW訳では“hold fast to what is fine.”で、良いものを堅持しなさい、という意味。全てのことを確かめた後、良いものは大事にしましょうと言っている。日本語翻訳者は文のつながりがわかっていない。協会共同訳では“すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい。”となっている。」
「6節では“エホバが語り掛けてくれている言葉を集会で聞くこともできます。集会に毎回出席するなら,話やコメントを通して,疑問に思っていたことの答えを見つけられるかもしれません。”とあり、集会に毎回出席することを求めています。」
「これも英文とは違うね。We also “hear” Jehovah speaking to us at our meetings.だから、集会でエホバが語り掛けるのを”聞きます。”だよ。集会で語られることは神の声なんだね。カルトそのもので驚いたね。翻訳者は英語力はないけれど、多少常識があるので、”聞くこともできます”に変えたね。」
「7から9節が“エホバは本当に気に掛けてくれているんだろうか”です。 7節に“エホバは自分のことを本当に気に留めてくれているのだろうかと思ったことがありますか。”とあり、この問題を扱います。8節に“サムエル第一 16:6,7,10-12を読む。”とあり、そこはエッサイの8人の息子の中から末っ子のダビデが選ばれたという場面です。選ばれた理由として“ダビデの心の中を見ていて,エホバを本当に愛する人であることを知っていたからです。”と言っています。」
「サムエル一16:12には“その子は血色が良く,美しい目をしていて,姿がりりしかった。”とあるので、ダビデは見た目もよかった。一方後に様々な問題を起こすわけで、神が本当に心の中を見て選んだのか、疑問だね。」
「エホバは心の中を見るかもしれませんが、組織は外見を見て判断します。」
「建設奉仕に申し込む際に全身写真を送れ、と要求する支部があるそうだ。これって見た目で判断するということだよ。組織が特に嫌うのは太りすぎの人らしい。JWで太っていいのは統治体だけ。」
「9節では“エホバがぴったりのアドバイスをくれた,と感じたことがきっとあるでしょう。”とあり、“はい”と言う答えを誘導しています。」
「そんな経験は一度もなくても、ありませんとは言ってはダメということね。それでJW全員がピッタリのアドバイスをもらった経験があることになってしまう。」
「9節では“エホバのアドバイスに従って行動し,良い結果になるのを経験すると,エホバが本当に気に掛けてくれているということを確信できるようになります。”とあります。JWの多くはエホバのアドバイスなるものに従った結果、貧困、離婚、親子の断絶、様々な病気や怪我等々という問題を抱えているわけです。その人たちは良い結果を経験していないので、確信できないわけです。」
「1節にあるように犠牲は大きく、得たものは少ないのがJW人生なので、確信など持ちようがない。当然やめる人が増える。」
「10から13節が“以前の決定は正しかったんだろうか”です。 この記事の中心部分ですね。10節に“あの時チャンスをつかんでいたら,もっと余裕のある暮らしができたんじゃないか」と考えるようになるかもしれません。”とあります。経済問題がJWの信仰を揺るがす問題のようです。多くの国では物価も上昇して生活が苦しくなって、奉仕や集会どころじゃない信者が増えているのでしょうね。」
「特に組織の言いなりになって、たいして働かず、困ればエホバが助けてくれると信じてきたJWにはお金の問題で行き詰まる人が多いのだろう。当然、以前の決定は正しくなかったと言いうことだね。」
「11節は、詩編73の話になります。“一見成功しているような人たちを見て,エホバに一生懸命仕える生き方をむなしく感じました。ネガティブな思考になって「一日中思い悩」みました。(詩 73:13,14)”とあります。“思い悩む”という訳はおかしいのでは?」
「協会共同訳では“日ごと、私は打たれ/朝ごとに懲らしめを受けた。”だね。元のヘブライ語に思い悩むという意味はないよ。」
「12節で“詩編 73:16-18を読む。詩編作者はエホバの聖なる所に行き,その穏やかな場所で物事を冷静に考えることができました。”とあります。そこには“あなたは確実に悪人を滑りやすい土地に置く。滅びに陥れる。”とあります。悪人は滅びると思って慰めを得たということですね。嫌な奴です。」
「なぜ詩編73:19まで読むことにしないのかな?“悪人は急に破滅する。突然に終わりを迎える。恐ろしい結末を。”とあるよ。でも現実は違うことがすぐわかるね。」
「伝道の書7:15に“私はむなしい生涯の間に全てを見た。正しい人が,正しいことを行っていても死んでいき,悪人が,悪いことを行うにもかかわらず長生きする。”とあります。必ずしも善人が報いられ、悪人が罰せられるわけではないことを認めています。」
「伝道の書では、詩編や格言にあるような善行には良い結果、悪行には悪い結果という通俗道徳を否定している。旧約の中でも相当後期の作品だね。JWの思想は伝道の書より昔の思想だね。」
「12節では“エホバに仕えることを優先する生き方が一番良いということを理解し,穏やかな気持ちになりました。”と詩編73を説明しています。穏やかな気持ちの元の英語はpeace of mindで、心の平和です。」
「詩編73は悪人が栄え、善人が苦しむのはなぜか、と問うわけだけど、答えは出ず、ただ悪人は滅びると考えて慰めを得、自分は神と共にいると考えて心の平和を得るという内容。穏やかな気持ちではなく心の平和として欲しかったね。」
「13節は現在のJWに向けてのメッセージです。“神に仕えていない人たちは,そうした宝を持っていません。あるのは,この世の中で得られるものだけです。将来の希望がないので,今の生活で成功するしかありません。一方,エホバは私たちの想像をはるかに超える素晴らしい将来を約束してくれています。”とあります。JWはこの世ではみじめな一生だけれど、想像上の未来では素晴らしい人生を約束されているから、穏やかな気持ちになれるというわけですね。」
「それを説明したのが13節の下にある窓ふきの老人が楽園の生活を想像しているという写真だね。この写真は多くのJWを暗い気持ちにさせると思うよ。生活の困難さに対して組織が示す解決策は、楽園を思え、しかないわけだからね。空想への逃避。」
「アメリカではJWの代表的な職業は窓ふきのようです。以前もJWがレストランの窓ふきしながら、窓越しに贅沢な食事をしている人をうらやましそうに見るという写真がありました。」
「この窓ふきの老人の楽園の想像図というのが、夫婦で手押し車いっぱいの果物を運んでいるというものなの。本当にそういう生活を望んでいるなら、今でも田舎で農業を始めれば実現するよ。」
「ヘンなのは服装です。妻はブラウスに長めのスカートです。農業をするのにこの服装ですか?楽園では誰がこの服を作っているのですか?」
「JWの楽園ではそういう服装に関する規則があるんだよ。それを破ると石打の刑。」
「14から17節が“自分はエホバの役に立てているんだろうか”です。 エホバではなく、組織に役立っているだろうかという疑問ですね。エホバは誰の助けも必要としません。」
「組織にとって役立たずの人は、霊性が低いとかいちゃもん付けられて、会衆から見捨てられるから、それは切実な問題だね。」
「14節では“エホバに仕えている人たちの中には,高齢だったり,体調が優れなかったり,体が不自由だったりして,思うようにエホバに奉仕できないと感じている兄弟姉妹がいます。”とあります。間もなく組織から使い捨てにされる人たちです。」
「本当は今ごろ楽園で元気に暮らしているはずだった人だよね。カルトに騙された人生だったけれど、人生をやり直すには遅すぎるということはないよ。」
「15節に“エホバは,できることが限られているとしても,ベストを尽くしてご自分に仕える姿を見て喜ぶ,ということを詩編作者は知っていました。(詩 37:23-25)”とありますが、引照聖句にはそんなことは書かれていません。ベストを尽くすことが大事というのは聖書の思想ではありません。アメリカ人の思想です。」
「引照聖句には“正しい人が見捨てられるのを見たことも,その子供たちがパンを探すのを見たこともない。”とあるよ。その聖句が正しいのなら、正しいJWは老後のことや子どものことを心配する必要は全くありません、となぜ書かないのかな?」
「16節では“体が思うように動かなかったとしても,忠実に仕えることができるようエホバは助けてくれます。(詩編 92:12-15を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「詩編92:12に“正しい人は”とある。正しい人が主語で、“年を取っても衰えない。元気ではつらつとし”とある。正しい人は“体が思うように動かなかった”ということはない、と言っている。聖句の誤用だね。」
「英文ではHe can help you to thrive spiritually even though you may be struggling physically.ですから、肉体的に苦労しているとしても、霊的に成長できるよう助けてくれます、と言っているわけで、日本語訳とだいぶ違います。」
「spirituallyとphysicallyを比べて、後者が衰えても、前者は成長し続けると言いたいようだけど、翻訳者は霊が嫌いだからね。」
「17節では他の人と比べるな、と言っています。“マリアはとても高価な香油をイエスの足に注ぎました。(ヨハ 12:3-5)一方で,貧乏なやもめはごく小額の小さな硬貨2枚を神殿に寄付しました。(ルカ 21:1-4)イエスは信仰を表したどちらの女性のことも褒めました。”とあります。これはへんですね。イエスはマリアをほめていません。“マリアをそのままにしておきなさい。”とイエスは言っていますが、マリアは偉いとか見倣えとは言っていません。貧乏なやもめに対しても同じです。」
「貧乏なやもめに対してイエスは何も言わず、弟子たちに“はっきり言いますが,この貧しいやもめは,彼ら全てよりたくさん入れました。”というだけ。ほめたりしていないよ。ほめたとするとイエスはJWのように貧乏人からも金を巻き上げる悪徳宗教家に過ぎないことになる。」
「最後の18節で“疑いの気持ちを取り除くように努力していきましょう。”と言っていますが、まともな知性がある人ならそれは無理ですね。」
「JWが正しければ、今頃楽園で暮らしているはずで、生活の苦労なんか味わうこともなかったはず。年老いたJWの多くは、今JWをやめると、今までの人生を全否定することになるから、騙された!と苦い思いを抱えながら、JWを続けているだけでしょう。」
#1553 2025年01月10日 14:22:42
- 聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“不当な扱いを受けた時に心に留めておきたいこと(44)”で、不当な扱いを受けた時の対処法を学ぶ、という内容です。」
「JWは組織からも、仲間からも不当な扱いを受けることが多いからね。対処法といっても、我慢して、耐えて、祈るくらいでしょう。読まなくてもわかるよ。」
「2節に“今の世の中では偏見や不平等や抑圧がよく見られるので,不当な扱いを受けても私たちは驚きません。(伝 5:8)”とあります。“偏見や不平等や抑圧がよく見られる”のはJWの方ですよ。女性差別、性的少数者差別、奇妙な階級制度、信者を抑圧する様々な禁止事項の多さはJWの特徴です。」
「この引照聖句は場違いだね。そこには“もし,貧しい人が虐げられ,辺りで公正や正義が侵されているのを見ても,そのことで当惑してはならない。高官は,さらに位の高い者の監視下にあり,その位の高い者の上にはさらに位の高い者がいるからだ。”とあるけれど、これは政府の役人の腐敗をいっているもの。官僚制度がいかに腐敗しやすいかを言っているわけで、世の中全般のことを言っているわけではない。」
「2節では“兄弟姉妹から不当なことをされると深く傷つくかもしれません。もちろん,反対者たちとは違い,兄弟姉妹はわざとひどいことをしようとは思っていません。でも,完璧ではないので失敗してしまうことがあります。”とあります。わざとではないがひどいことをしてしまう兄弟姉妹の方が問題ですよ。自然にふるまうと他人を傷つけるということじゃないですか?」
「いつも正しいことをしていると確信している独善的なバカはJWに多いのだろうね。でも“完璧ではない”から仕方がないということのようだね。その理屈が正しいなら全ての人は完璧じゃないから、殺人も性犯罪も仕方がないのだろうね。」
「4節に“私たちは正しいことが行き渡る時代が来るまで待つ必要があります。でもそれまでの間,エホバは私たちが不公正なことを経験するとしても上手に対処できるよう助けてくれています。”とありますから、楽園が来るまで仕方がないというのがJWの基本的な態度のようです。」
「問題に直面した時のJWの正しい態度は、エホバを待つ、でしょう。なにもしないで耐えるだけ。でも統治体は裁判闘争を繰り返し、エホバを待つことはないけれどね。」
「5から8節が“不当な扱いにどう反応するかに注意する”です。 エホバを待つのが正しいJWの態度ですから、自分で何とかするのはいけないみたいです。6節に“私たちは不当な扱いを受けた時,自分の力でなんとかしようとして,間違ったことをしてしまうことがあります。”と警告しています。」
「裁判に訴えていいのは統治体だけで、それ以外の信者は泣き寝入りするべきということのようだね。」
「6節にはアブサロムの話が出てきます。“アブサロムは妹のタマルが異母兄弟のアムノンにレイプされた時,激怒しました。”とあります。そして、“だが,自分の力でなんとかしようとするべきではありませんでした。アブサロムにはそうする権限はありませんでした。”と言います。ではどうすればよかったのかは、この記事では何も言いません。」
「サムエル二13:21に“ダビデ王は一部始終を聞き,非常に怒ったが,アムノンを責めるようなことはしなかった。長男であるアムノンを愛していたからである。”とある。ダビデのダメっぷりがここでも炸裂だ。こんな男をなぜ王にしたのか理解できない。エホバって最低だね。」
「最高権力者の王が何の処罰もしないのなら、アブサロムは泣き寝入りするしかないというのがJWの見解でしょうか。」
「これはJWに多い性犯罪の犠牲者に向けられた文章でしょう。被害に遭っても、自分の力で何とかしないでください、逮捕・処罰する権限のある警察に直ちに通報してください、と読めるよ。」
「ダビデが何もしなかったせいで、アブサロムはアムノンを殺します。アブサロムは後にダビデに反逆し、戦死します。エホバを待っているとろくなことにはなりませんね。」
「長老なんかはダビデ以上に無能だろうから、会衆内でなにかあったら逮捕・処罰する権限のある警察に通報しよう。」
「7節では“不公正なことをしている人が罰を受けていないように見えると,正しいことを行うことに意味があるのだろうか,と感じるかもしれません。”と、悪事を犯しても罰を受けない人がいることを認めています。表面的には善人ぶることが上手なJWですから、JWにはそういう人は多いでしょう。」
「性犯罪者の長老が何の処罰も受けず、長老として偉そうに振舞っているのを見ると、被害者は絶望するよね。そういう悪人は間もなく滅ぼされると信じて我慢するのがJWなのだろう。」
「7節では詩編73が出てきますが、詩編73の作者は“悪人は急に破滅する。突然に終わりを迎える。恐ろしい結末を。”と言っています。JWもそれを信じて、我慢するわけですね。」
「詩編73は悪が栄えるのを見て、信仰の試練を受けている人の詩だけれど、そう思う以外の解決策は思いつかなかったようだね。」
「8節はアルベルト兄弟の体験談です。“アルベルト兄弟は,会衆の基金からお金を盗んだと誤解され,非難されました。その結果,長老ではなくなり,会衆の多くの人からも誤解され,敬意を失いました。”とあります。JWによくある冤罪事件ですね。」
「アルベルト兄弟は“怒りが込み上げ,がっかりしました。”と言っている。当然の反応だ。このときJWを去るべきだったね。ところがなぜかそうしなかったようだ。」
「この話の結論は“兄弟の例から,ひどい扱いを受けた時に怒りの気持ちを放っておくなら,どんな危険があるかがよく分かります。”という奇妙なものです。ひどい扱いをした人に対する非難は一切なく、被害者を責めています。」
「性犯罪でも、犯人より被害者を責めるのがJWだからね。その点は一貫している。」
「9から13節が“イエスの手本に倣う”です。 9節に“イエスはこのように本当にひどい扱いを受けましたが,仕返しをしたりせず,忍耐しました。”とあります。要するに、耐えろということですね。」
「無力な立場であれば、それ以外の選択肢はないからね。でも今のJWは耐える以外の選択肢はあるよ。」
「10節では“ペテロ第一 2:21-23を読む。イエスが残してくれた完璧な手本は,私たちが不公正に対処する上で役立ちます。”とあります。引照聖句に“キリストは罪を犯さず,欺きを語ったこともありませんでした。”とあるのですが、この訳はヘンですよ。」
「JWの英語訳ではHe committed no sin nor was deception found in his mouth. で主語はキリストではない。これはイザヤ53:9の“何も間違ったことをしておらず,欺きを語ったこともないのに”の引用だから。でも翻訳者はそのことを知らないので、Heをキリストと訳してしまったのだろう。」
「11節では“ちょっとしたことであれば見過ごしましょう。”とあります。また“でも,ひどい扱いを受けている人を守ったり,私たちの信条や真理について正しく伝えたりするために,話す必要がある場合もあります。”とも言っています。」
「でもマスコミには“私たちの信条や真理について正しく伝えたりする”ことをしていないよ。女性JWがグアテマラで殺された時、日本支部は本人が勝手に行ったと語ったよ。体罰について質問された時は、体罰を推奨したことはないと言ったよ。非難されたらウソを言って、その場をごまかしましょう、となぜ言わないのかな?」
「11節の下には逮捕され、裁判を受け、刑務所にいるという3枚の写真がありますが、国家的な迫害を想定しているようでおかしいです。」
「JWゆえに刑務所送りになるような国にいるJWはJWの1%にもならないでしょう。不必要に恐怖心と危機意識をあおっている。無知無学な信者はこの写真を真に受けて、脅えながら暮らすのだろうね。」
「12節が結論です。“イエスのように,「正しく裁く方に自分を委ね」ましょう。”とあります。JWらしくていいですね。簡単に言えば何もせず、エホバを待つと言って済ますわけです。」
「“全てをエホバにお任せするなら,怒りや憤りの気持ちを募らせずに済みます。”とあるけど、統治体はあちこちで裁判を起こしているから、怒りや憤りの気持ちを募らせて毎日を過ごしているということかな?」
「14,15節は“神の憤りに任せましょう”です。 14節に“ローマ 12:19を読む。”とあります。その聖句は“愛する皆さん,復讐してはなりません。神の憤りに任せましょう。「『復讐は私がすることであり,私が報復する』とエホバは言う」と書いてあるからです。”というものです。」
「15節がその解説だけど、“「私が報復する」というエホバの約束を信じているなら,エホバが一番良い方法で問題を扱ってくれるという確信を持ってエホバに任せることができます。”とある。エホバを待つという一見無気力な態度の背後には、エホバの報復を信じるという復讐感情があるとは知らなかった。JWは恐ろしいね。」
「エホバは復讐してくれるかもしれませんが、被害者は被害の回復、補償、謝罪を求めているわけです。それについてはエホバには何もしてくれないということですね。あまり役に立ちませんね。」
「復讐してくれると言っても、いつとは書いていないからね。もしそれが自分の死後だとすれば、何もしてくれないのと同じだ。」
「16から19節が“善によって悪を征服し続けましょう”です。 これはローマ12:21からの引用です。その後、“山上 の垂訓の中でイエスも,「敵を愛し続け,迫害する人のために祈り続けなさい」と言っていました。(マタ 5:44)”とあります。“迫害する人のために祈り続けなさい”は太字になっていて、この部分を強調したいようです。敵を愛するのは難しいですが、祈るくらいならできますからね。」
「敵を愛し、迫害する人のために祈れ、という部分の結論は、マタイ5:48で“ですから,あなたたちは,天の父が完全であるように完全でなければなりません。”というもの。マタイの解釈によれば、敵を愛し迫害する人のために祈れ、というのは、それができたら完全だ、つまり倫理的に完成するという究極の目標ということ。」
「不完全な人間にそれを要求するのは無理がありますね。」
「でもJWはできるのだろう。」
「17節にイエスは“ローマの兵士たちに罰が与えられることを願うのではなく,こう祈りました。「父よ,彼らをお許しください。自分たちが何をしているのか知らないのです」。(ルカ 23:34)”とあるのですが、この祈りの部分は初期の重要な写本にはなく、後から書き加えられたという疑いの強い部分ですよね。」
「例えば協会共同訳では、この部分は〔 〕でくくられている。この意味は、“新約聖書においては、後代の加筆と見られているが年代的に古く重要な個所を示します。”と説明されている。つまりこの祈りは後代の加筆と見ている。」
「JWではローマ兵のためにイエスは祈ったと解釈しているようですが、ローマ兵に責任はないですよ。」
「ルカ23章では、ピラトは“この男がどんな悪事をしたというのか。死に値することは何も見つからなかった。それで,彼を懲らしめてから釈放する。”という。しかし、“それでも群衆は引き下がらず,イエスを処刑するよう大声で要求した。”とある。イエスの処刑に責任があるのはローマ人ではなく、ユダヤ人というのがルカの立場。この祈りは文脈に合わないね。」
「18節は体験談で“祈ることが助けになりました。”というものです。そうやって被害者は許すことを強要されるわけです。」
「何を祈ったかというと、“怒りの気持ちを捨てられるよう助けてください”というもの。加害者を早く罰してください、とは祈れないようだね。祈りは許し専門のようだ。」
「最後の19節でも” でもどんなときも,祈ってエホバに頼ることをやめないでください。”と言っています。それ以外に不当な扱いに対する対処法はないようで、悲しいです。」
「そんなわけで、JWに相談しても、祈ってください、以外の助言は期待できないということ。全く役立たずだね。」
#1554 2025年01月17日 14:24:28
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“神に仕えた人たちが残した言葉から学ぶ(45)”で、組織に服従していれば成功し、永遠の命がもらえるという、誰もまじめに受け取らない内容です。」
「エホバに従うといっているけれど、実質的には組織に従うということだからね。永遠の命とは関係ないね。」
「2節に、モーセ、ダビデ、使徒ヨハネの“3人が残した言葉について調べ,そこからどんなことを学べるかを考えます。”とあります。どんな言葉を残したのか楽しみです。」
「この記事はかなり幼稚な内容で小学3年生程度のレベル。面白そうなものと言えば、体験談かな。」
「3から8節が“長く生きていける”です。 モーセの話です。3節に“ヨブ記もモーセが書いたと思われます。”とありますが、違うでしょう。」
「“洞察”には“ユダヤ人の学者たち,および初期クリスチャンの学者たちによると,筆者はモーセ。”とある。大昔の学者の意見を取り入れただけ。学問は進歩するということを知らないようだ。現在でヨブ記の著者はモーセだという学者はいない。」
「モーセは実在したかどうかも不明の人です。」
「実在したとしても、聖書の著者ではない。旧約聖書は主にヘブライ語で書かれているけれど、ヘブライ語はカナン地方の方言のようなもので、カナン定着後の時代に書かれたもの。」
「5節が“モーセは何と言ったか。(申命記 30:19,20を読む。)”です。その中では“あなたは生きるために,命を選ばなければなりません。あなたもあなたの子孫もです。すなわち,あなたの神エホバを愛し,神の言うことを聞き,神にしっかり付くのです。”とあります。神から神を愛するよう命令されるという奇妙な状況ですね。」
「奇妙じゃないよ。ここで言う“愛する”とは、服従するということだから。」
「申命記が書かれたのは相当後の時代で、もちろんモーセが作者ではありませんよ。」
「申命記のヘブライ語は前7から6世紀のもので、その時代に書かれたのだろう。古代イスラエルでは、律法は神がモーセに与えたものという建前があったから、新しい律法もモーセが書いたことにする必要があったわけだ。」
「申命記は全体がモーセの遺言として編纂されていますね。」
「申命記はモーセが死ぬその日に起きた出来事が書かれているというありえない設定だけど、それによって、モーセの別れの言葉としての重みを申命記にもたせているわけだ。」
「5節には“イスラエル人はエホバから素晴らしい見込みを与えられていました。エホバが約束していた土地で長く生きることができるのです。しかも,そこは美しくて肥沃な土地でした。”とありますが、そんなに素晴らしい見込みでしたか?その土地は既に人が住んでいて、その人々を殺戮し、土地を暴力的に奪わなくてはならないというものですよ。単なる侵略行為です。」
「神様なら、海の中に新しい島をつくり、そこにイスラエル人を住まわせることぐらいできるはず。そうしないのは人間を殺すのが大好きだからじゃないの。イスラエル人がカナンの住民を殺すのをゲーム感覚で楽しんでいたのかも。」
「過去のキリスト教国はこの旧約聖書の話を持ち出して、自分たちの侵略行為を正当化してきました。イスラエル人の侵略行為を褒めたたえるJWの倫理観は狂っています。」
「アメリカ人は先住民を殺しまくったけれど、それをイスラエル人のカナン征服になぞらえて正当化してきた。JWもアメリカの歴史を美化する右翼的な歴史観の持ち主ということ。」
「6節に“でも,イスラエル人はエホバに従いませんでした。それで,アッシリア人やバビロニア人に征服され,捕囚にされました。”と、歴史を単純化していますが、因果関係は反対ですよ。」
「イスラエルの宗教指導者は自分たちの悲惨な運命の原因を自分なりに考えた。その結論は、自分たちは神の言うことを聞かなかったから神に罰せられたのだというもの。そういう歴史観を申命記史観という。それは申命記から列王記まで貫く歴史観となっている。国家の盛衰に対する政治的経済的軍事的分析は古代の宗教指導者にはできないからね。」
「7節が結論です。“どんなことを学べますか。従うことは命につながるということです。”とあります。服従こそ最大の美徳というわけです。そして“エホバに従うなら,パラダイスとなった地球で,たった数百年ではなく永遠に生きることができるのです。(詩 37:29。ヨハ 3:16)”と楽園幻想の大安売りです。」
「楽園幻想の根拠としている聖句はJWの言うような楽園の約束じゃないよ。詩編37:29には“正しい人は地上に住み続け,そこで永遠に暮らす。”とあるだけで、JWのバプテスマを受けて、JWの雑多な規則に従い、伝道・集会・建設工事・寄付などなどを死ぬまで行ったら、楽園に行けるとは全く言っていない。」
「訳もヘンです。“地上に住み続け”ではなく“土地を受け継ぎ”ですよ。土地を受け継ぎ、所有すると言っているだけです。JWは天に行く人を想定しているから、その対比で“地上に住み続け”という珍訳になるわけですよ。」
「JWの英語訳では“The righteous will possess the earth”で、土地を所有するという意味。“地上に住み続け”と言う意味ではない。またthe earthは不適切で、the landとするのが普通。JWの教義に合うように改変している。」
「“永遠”も問題です。無限の時間という概念は古代イスラエルにありません。非常に長い時間をさすだけです。」
「“永遠に暮らす。”ではなく、ずっと暮らす、程度の意味。おとぎ話の最後の決まり文句に、二人はいつまでも幸せに暮らしました、というのがあるけれど、そんなニュアンス。JW訳にだまされるな、ということ。」
「もう一つの根拠としている聖句はヨハネ3:16ですが、“独り子に信仰を抱く人が皆,滅ぼされないで永遠の命を受けられるようにしました。”とあるだけで、地上の楽園なんか出てきません。」
「結局、JWの楽園を根拠づける聖句はないね。」
「9から14節が“あなたは成功する”です。 ダビデの話です。11節に“ダビデは何と言ったか。(列王第一 2:2,3を読む。)ダビデはソロモンに,エホバに従うなら成功すると言いました。”とあります。12節が結論で、“従うことは成功につながるということです。”とありまして、服従こそ最高の美徳というものです。」
「ダビデの言葉はソロモンに向けられたもので、現代のJWとは何の関係もないけれど、JWという宗教では、とにかく従っていれば、永遠の命と成功が手に入ると主張しているということはわかった。」
「13節が体験談です。反高等教育のプロパガンダです。まず“モザンビークに住むカルメン姉妹は,高い教育を受けることが成功の鍵だと考えていました。それで,建築を学ぶために大学へ行きました。”とあります。“朝の7時半から夕方の6時まで学校にいました。”と言っていますが、そんな大学がありますか?」
「10時間半も大学にいるの?通学時間を含めると12時間以上になるでしょう。そんな大学あるかな?」
「それで、“長老たちや母親から良いアドバイスをもらい,エホバに全時間仕えるために大学をやめることにしました。人生の中でも本当に良い決定ができたと思います。後悔はまったくありません。”というものです。こんな過酷な大学では誰も卒業できませんよ。」
「組織は信者が大学に行くのを嫌っているようだけど、低学歴の統治体が大卒の人間から内心バカにされていると被害妄想に陥っているせいかな?」
「40年後はどうなるかというと、大学時代の友人たちは建築家として活躍し、家族にもお金にも恵まれ、老後についても何の心配もなく暮らしているのに対し、カルメンは開拓者として結婚もせず、子ども持つこともなく、低賃金のパート労働を長時間し続けたおかげで体はボロボロですが、病院に行くお金もなく、これからどうやって生活していこうかと不安におびえて暮らしています、ということになりますよ。」
「今の高齢JWがそうでしょう。JWの生き方は、間もなく終わりがくることを前提とした極めて短期的な見通しのもとに成り立っている。ところが、終わりは来ないわけで、40年後のことを考えると悲惨な結果しか待っていない。」
「15から19節が“[これ]ほど,うれしいことはありません”です。 使徒ヨハネの話です。17節に“ヨハネは何と書いたか。(ヨハネ第三 4を読む。)ヨハネはエホバに従うことから味わえる喜びについて書きました。”とあります。ヨハネ三4は“私の子供たちが真理に従って歩み続けているのを聞くことほど,うれしいことはありません。”というものです。」
「ヨハネ三は“年長の者から,愛するガイオへ。”で始まる。使徒ヨハネとは名のっていない。作者が使徒ヨハネという根拠はないよ。」
「18節が結論で“どんなことを学べますか。忠実でいることは喜びにつながるということです。(ヨハ一 5:3)”というものです。」
「今度は忠実ね。ヨハネ三の作者はガイオが自分に忠実だから喜んでいるだけで、そのことから忠実であれば喜びにつながるという結論はでてこない。」
「19節が体験談です。“ドミニカ共和国に住むレイチェル姉妹は,エホバという魅力的な神について他の人に教えられるのは本当に素晴らしいことだと感じています。”とあります。そして“この喜びは言葉では言い表せません。どんな努力や犠牲も払う価値があります。”と言っています。こんなウソくさい話をわざわざ持ち出してくるということは、レイチェルみたいな人がほとんどいないからですよ。」
「エホバが輸血を禁じていることを教えるのも喜びなのかな? 輸血をしたら長生きできる人を死なせる教えだよ。それでも“この喜びは言葉では言い表せません。”なの?危険な宗教だ。」
「最後の20、21節が“神に仕えた人たちの最後の言葉から学ぶ”です。 まとめです。この記事も、いつものように組織が言いたいことに使える聖句を選んで並べて、ウソくさい体験談を加えて、もっともらしい話をつくったというものでしたね。」
「最後の21節は景気がいいよ。“そうするなら,私たちの行うことは全て成功します。そして,命を得て「長く生きていけ[ます]」。しかも永遠にです。(申 30:20)また,愛する天のお父さんエホバに喜んでもらうことができ,喜びを味わえます。”というもの。組織に従っていると、成功、永遠の命、喜びが得られるのだそうだ。景気のいい話だね。」
「子どもでもおとぎ話と思いますよ。」
「だからエンディングは、JWはいつまでも、いつまでも幸せにくらしました、となる。」