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#1376 2022年05月27日 14:35:39

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバを崇拝するならいっそう幸せになれます(13)”で、エホバ崇拝に含まれる8つのことを信者に要求する内容です。」
「要求が多すぎる。せめて2つくらいにして欲しいというのが信者の実感でしょう。」
「8つ中には、建設作業や寄付が含まれています。」
「それをどのように聖書的に根拠づけるのかが楽しみだね。JW流の聖書のこじつけ法を知ることができるわけだ。」

「4から6節が“エホバは聖書時代にどんな崇拝を受け入れたか”です。 5節で“クリスチャンは,新しい律法である「キリストの律法」に従うことになったのです。(ガラ 6:2)”とあります。キリストの律法って何ですか?」
「引照聖句のガラテア6:2には“仲間同士,重荷を負い合いましょう。そうすればキリストの律法を実践していることになります。”とある。仲間同士重荷を背負うこと、別の言い方をすると兄弟愛を実践することだね。ヨハネ13:34に“私はあなたたちに新しいおきてを与えます。それは,互いに愛し合うことです。私があなたたちを愛した通りに,あなたたちも互いを愛しなさい。”とある。イエスの要求は単純だけど、難しいもので、JWには無理だね。」

「JWの細々とした律法主義とは正反対ですね。それなのに、5節では“現代のクリスチャンも同じように,エホバに喜んでいただきたいという気持ちから,ベストを尽くしてキリストに従い,「爽やかさを感じ」ています。”と事実に反することを書いています。」
「ここでいう“現代のクリスチャン”ってJWのこと?悪い冗談だね。普通は子どもに対する愛の行いとされる子どもの誕生日を祝うことを屁理屈をつけて重大な罪としている唯一の宗教団体がJW。キリストの律法よりも、信者を管理統制することが優先し、爽やかさを全く感じない宗教だよ。」

「7から14節が“エホバへの崇拝には何が含まれるか”です。 8つの要求事項が列挙されています。爽やかというより、重苦しい気分になります。」
「7節が、①“エホバに祈ること。”で、“私たちが心からの祈りをエホバに捧げる時,特別な言葉を使わないとしても,それはエホバにとって「喜び」となります。(格 15:8。申 33:10)”とある。引照聖句はそんなことは言っていない。」

「格言15:8は“悪人の犠牲はエホバにとって忌まわしく,正しい人の祈りは神にとって喜びである。”です。悪人なら高価な動物の犠牲でも受け入れられず、正しい人なら祈るだけでも受け入れられるという意味ですよ。」
「崇拝が受け入れられるかどうかは条件付きといっている。心から祈ればよいとか、ベストを尽くせばよい、というのが現代アメリカ人の発想のようだけど、聖書にそんなことは書いていない。」

「8節は②“エホバを賛美すること。”です。ここでもJWらしいねじれがあります。“伝道は,「神に賛美の犠牲を捧げ」るとても良い機会です。そのようにして,「言葉で神を賛美する」ことができます。(ヘブ 13:15)”とあります。知りませんでした。へんなのは引照聖句の翻訳です。JWの教義に合わせた訳じゃないですか?」
「ヘブライ13:15は“イエスを通して,絶えず神に賛美の犠牲を捧げましょう。神の名を人々に伝えて,言葉で神を賛美するのです。”となっている。“神の名を人々に伝えて”の部分はJWの教義そのものだね。」
「協会共同訳では“だから、イエスを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。”です。だいぶ違います。」
「JW訳の英文は“Through him let us always offer to God a sacrifice of praise, that is, the fruit of our lips that make public declaration to his name.”で、“the fruit of our lips”(唇の実)とあるのだけれど、日本語翻訳者がこれを勝手に“言葉”に変えた。」

「英文の“make public declaration to his name”は“神の名を人々に伝えて”とは少し違いますよ。伝道活動ではなく、宣言するとか告白するということじゃないですか?」
「英文の意味はそうだね。でも、ここで使われているギリシャ語は通常の意味なら“告白する”だけど、与格の目的語(彼の名前)が続くので、“賛美する”と言う意味になるんだ。JWの英語訳は間違い。」
「伝道が神の賛美になるなんていう聖句はないということですね。」
「日本語版のJWの聖書だけが“神の名を人々に伝えて,言葉で神を賛美するのです。”と言っている。」

「9節が③“集会に出席すること。”です。これも崇拝のようです。この根拠は“古代のイスラエル人は次のように命じられていました。「年に3回,全ての男性はエホバ神が選ぶ場所で神の前に出るべきです」。(申 16:16)”というものです。クリスチャンはモーセの律法とは無関係ですよ。」
「それなら集会に出席するのも、年3回にして欲しい。しかも男性だけで女性は免除する。みんな喜ぶよ。」

「9節に“エホバを心から信頼していたイスラエル人は,年に3回,祭りに参加しました。”と見てきたようなことを書いていますが、事実じゃないですよ。」
「エルサレムに行く費用は神様が負担してくれるの?エルサレムに行くなんてことは貧しいイスラエル人にとって一生に一回あるかないかでしょう。申命記に書かれているのは現実ではなく、宗教原理主義者の考えるあるべき姿にすぎない。ものみの塔の記事に書かれていることと同じ。」

「10節が④“賛美の歌に加わること。”で、11節が⑤“聖書を学び,エホバについて子供に教えること。”です。根拠となっているのはまたもや旧約聖書です。JWは旧約に基づく律法主義的宗教ですね。」
「11節で、安息日に“忠実な人たちはこの機会に,エホバが素晴らしい神であることを子供たちに教えました。”と書いてある。恐らく、これを実行していたのは、人口千人当たり一人か二人でしょう。子どもに教えるとすれば、神がいかに恐ろしいかだね。JWも同じ。子どもにハルマゲドンと排斥処分の怖さを叩き込んで、JWに繋ぎとめるのが正しいJWの親だよね。」

「11節で“また,家族で一緒に聖書を勉強するなら,新しい世代である子供たちが愛情深い天のお父さんエホバとの友情を深めるよう助けることができるでしょう。(詩編 48:13を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「そこには“その土塁に心を留めよ。その防備された塔を調べよ。後の世代に話すために。”とある。これはエルサレムのことを言っている。詩編48:12で“シオンの周りを歩き,一回りせよ。その塔を数えよ”と言っていることからわかるよ。家族の聖書の勉強とは関係ない。」

「JW訳では“土塁”ですが協会共同訳では“城壁”です。城壁だからこそ、のちの世代に語り継ぐ価値があるわけで、土で持っただけのものなんてそんな価値はありません。」
「JWの英語版ではrampartsとなっている。洞察では“塁壁(rampart)”という項目があり、“ある土地の周囲に要塞として築かれた土や石の塚。城壁を指すこともあります。”と説明している。日本語翻訳者はJWが誇る“洞察”を調べて、土塁より城壁と訳すべきと気付いて欲しいね。」

「12節が⑥“崇拝で用いる建物を建てたりメンテナンスしたりすること。”で、“現代でもエホバは,王国会館などの神の組織が用いる施設の建設を神聖な奉仕と見なしています。”と、断定しています。聖書的な根拠はありません。」
「無給・無保証で働かせるために、建設業を“神聖な奉仕”に格上げしただけ。でも無意味な伝道活動よりはやりがいを感じる人も多いだろうね。」

「13節が⑦“王国の活動を支えるために寄付をすること。”です。これらは大事な崇拝行為と主張しているのですが、こんなことを言うまともな宗教はありますか?」
「寄付は寄付でしょう。組織を維持するには金がかかるから、皆さん寄付をお願いしますと言えばいいのに、“私たちはどのようにしてエホバへの愛やエホバがしてくださっている全ての良いことに対する感謝を示せるでしょうか。”と問いかけて、寄付を半ば強制している。感謝の気持ちをお金で表す。それはいいとして、それが崇拝であるというのは無理があるね。」
「寄付=崇拝と言うなんて、JWも落ちぶれたということですね。」
「13節には“私たちが心を込めて寄付をする時,たとえそれが少額であっても,エホバは高く評価してくださいます。”とある。一見まともそうだけど、この主張を子どものアイスクリーム代を巻き上げて、寄付することにつなげるのがJWなんだよ。」

「14節が⑧“困っている仲間を助けること。”です。“私たちが困っている仲間を助ける時,エホバはそれをご自分に対する贈り物と見てくださいます。(格言 19:17を読む。)”とあるのですが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「そこには“立場が低い人に親切にする人はエホバに貸しており”とあるね。贈り物じゃなくて“貸し”だ。貸しだからあとで返してもらえるわけ。贈り物だとそうはいかない。」
「神に貸すというのが、現代人から見ると理解しがたいので、“贈り物と見てくださいます。”と改変したのですね。」

「しかも、親切にする対象は“仲間”と限定していないよ。“立場が低い人”とあるだけ。」
「仲間しか助けないのが、JWの基本的態度ですから。それが聖句の解釈にも影響しているということですね。」
「ほかの点では結構変わるのに、その点は一貫しているのには感心する。自分たち以外の人は、ハルマゲドンで早く死んでほしいという態度だよね。」

「15から17節が“エホバを崇拝するなら幸せになれる”です。 そういう事実はないので、なんとかそのウソを信じ込ませようとしています。」
「15節で“エホバを崇拝するためには時間や努力が必要ですが,そうすることは決して重荷ではありません。”と断言して、それをへんな例えで証明しようとしている。JW活動は重荷という明らかな事実を認めない点で、まともじゃないよ。」

「そこには“幼い子供がお父さんにプレゼントをしようとして,絵を描いています。出来上がるまでに何時間もかかるかもしれません。それでも,子供は時間を無駄にしたなどとは決して考えません。”とありますね。同じようにJWもエホバ崇拝を重荷と感じないそうです。」
「例えは、複雑なことをわかりやすく説明するのに用いるもので、決して何かを証明するものではないことが、執筆者にはわからないようだね。子どものお絵かきとJWに押し付けられる様々な終わりのない奉仕活動は同列には論じられないよ。」

「子どもはまず暇ですよ。暇な時間を使って、絵を描くわけです。JWは違います。しかも、それは1週間に何回?ひと月に何時間?子どもが描くお父さんへのプレゼントの絵はせいぜい1年に1回じゃないですか。」
「普通の信者にとってエホバを崇拝するというのはとてつもない重荷になっている現実を認めないために作られたインチキ例えだね。」

「17節でもとんでもないことを言っています。“個人研究や野外奉仕などを行うことが苦手だと感じる場合,何ができるでしょうか。繰り返し行っていくなら,いっそう楽しくなり,多くのものを得られるでしょう。”とありますが、これも何か調査を行って、それに基づいて言っているわけじゃありません。信者を言いくるめようとしているだけです。」
「常識的に考えて、いやなことを繰り返されると、一層つらくなり、何も得られないだろう。ひどくなれば心を病むまでになる。そうじゃないというなら、根拠を示して欲しい。」

「ここでもくだらない例えが出てきます。“エホバへの崇拝に関係した活動は,楽器の練習や運動に例えることができます。”とあります。練習すると上達し、上達すると練習が楽しみになると言っていますが、それは最もうまく言ったケースにすぎません。楽器を習おうと思う人は結構いますが、たいていは途中で投げ出します。」
「楽器の練習で上達が感じられるのは最初のころで、途中からは上達が感じられなくなるのが普通だ。練習とその効果は直線的な関係はない。練習の効果は時間とともに低くなる。こういうのを収穫逓減の法則というね。」

「収穫逓減の法則とは、土地からの収穫は投入される労働力に比例せず、追加労働1単位当たりの収穫量は逓減する、つまり次第に減ってくるという意味ですね。」
「エホバ崇拝が楽器の練習と同じようなものなら、多くの人はこれ以上やっても無駄という限界点に達したよ。このへんでJWをやめるのが賢明ということだね。」

#1377 2022年06月03日 14:30:01

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“長老の皆さん,パウロの手本に倣っていきましょう (14)”で、組織の期待する長老になりましょう、という内容です。」
「無給の長老に対して要求が多すぎる。長老なんかさっさと辞めて、そのまま静かにJWを去るというのがベストの生き方でしょう。」
「長老に対して不満がたまっている信者はコメントするふりをして、長老をさりげなく攻撃するかもしれません。」

「長老のなり手が不足して、20代前半の若造でも長老にしてもよいという統治体からのお達しがあったんだよね。」
「世界各地で21歳の長老が誕生しているようです。若くても、組織の命令に忠実であればいいということです。世間知らずな若造のほうが、組織の指示に盲目的に従いますよ。」

「3節に“多くの長老たちがぶつかる4つの問題について考えます。”とあるけれど、もっとよくぶつかる問題を避けているね。」
「ものみの塔の研究で、司会者の長老が質問を読んでも、誰も答えないという問題ですね。」
「そうじゃなくて、信者の大多数は長老を小うるさいだけの無能で役立たずの中間管理職とみているという問題だよ。長老の質の確保という問題だよ。」

「4から8節が“伝道と他の責任とのバランスを取る”です。 多くの長老がぶつかる問題の1番目です。」
「バランスをとると言っても結論は、4節にある“長老たちも会衆の兄弟姉妹と同じように,伝道を一番大切にするべきです。”というもの。長老は長老特権を使って伝道をできるだけさぼろうとしていると組織は判断しているということだ。」
「たいして役に立たないのだから伝道くらいはまじめにやれということですよ。」

「5節が“パウロの手本”だけれど、“パウロの成功の鍵は,フィリピ 1章10節にあります。そこでパウロは,「より重要なことを見極め」るようにと述べています。”とあるけれど、理解できないね。フィリピ1:10は“皆さんがより重要なことを見極め,キリストの日までずっと純粋でいて,人の信仰を妨げることがありませんように。”とある。これは祈りだ。どうしてここから、パウロの成功の鍵を読み取れるの?」
「最初から結論があって、それに使える聖句を探したら、フィリッピ1:10が見つかったというだけですよ。聖句の文脈や背景など無視するのがJWです。」

「5節にパウロは“「人々の前で,また家から家へと」伝道しました。(使徒 20:20)”とあるけれど、問題だね。」
「引照聖句は“人々の前で,また家から家へと,皆さんを教えました。”です。伝道したとは言っていません。当時は個人の家が集会場所で、そのような家で信者を教えたという意味ですね。」

「7節が“学べること”だけど、“長老たちはパウロに倣って,家から家に伝道するだけでなく,あらゆる機会に良い知らせを伝えることができます。”とある。そうしていない長老がいたら、この記事を読んであげるべきということだね。」
「長老ともなれば、組織の言うことなど適当に聞き流せばいいことぐらいわかっています。」

「7節で“例えば,買い物の時や職場にいる時に語ることができます。建設奉仕を行っている場合は,現場の近所に住んでいる人や業者の人に語ることができるでしょう。”とある。何も知らない執筆者のたわごとだね。こんなことをしても聞いてくれるのは最初の1回だけで、それ以降は誰も聞いてくれない。」
「職場でJWのことを語るのはまずくないですか?働いている人を簡単に解雇できる国もありますからね。」
「アメリカがそうだよ。」
「せっかく得た仕事を数分のくだらない宗教宣伝で失いたくないですよ。」

「8節で“長老たちは,会衆や巡回区の務めに忙しくするあまり伝道する時間がなくなってしまう,ということがあってはいけません。”と、伝道第一ということをまた繰り返している。よっぽど長老ともなると伝道なんかしないのだろうね。」
「8節に“時にはバランスを取るために,何かの割り当てを断らなければならないこともあるでしょう。”といっています。伝道のためには割り当てを断れ、ということですね。でも長老が少ない会衆は困りますね。」
「使えない長老ばかりのところも困るでしょう。その場合、まともな長老になんでもやってもらうことになる。この記事は、どの会衆にも優秀で元気な長老が大勢いるという前提だよ。現実は違うでしょう。」

「9から12節が“時間を取って兄弟姉妹を励ます”です。 長老がぶつかる問題の2番目です。忙しくて時間が足りないようです。時間がなくても、兄弟姉妹を励ますのが正しい長老のようです。」
「今はeメールとかあるあるから、時間の節約は可能でしょう。12節に“小まめに連絡を取り,機会を捉えて褒めることができます。”とあるけれど、これってeメールなどを使えということだよね。」

「そう言えば、集会を1回でも休むと、eメールを必ずよこすくせに、大きな地震があった時に連絡をくれた長老は一人もいなかったと憤慨していた姉妹がいましたね。」
「そういう時は、むしろJW以外の人の方が心配して連絡してくれるね。長老がその姉妹を思い出すのは、集会を欠席したときと奉仕時間を報告するときだけ。独身中年の貧乏姉妹なら例外なくそうなる。」

「12節では“長老たちは,仲間と一緒に時間を過ごすことによって,パウロに倣うことができます。”とあり、やはり“一緒”が強調されています。そのためには“集会に早めに行って,会話で仲間を元気づけることです。”とあります。長老は働く時間の融通の利くパートタイムの仕事をするしかありませんね。」
「時間の融通が利く代わりに低賃金の仕事ね。悲惨な老後を迎えるのは確実だ。」

「長老の励ましって、ろくなものがありません。健康問題だと、“新しい体制ではすべての人が健康になります。奉仕に集中しましょう”ですし、経済的な問題では、“できるだけ仕事を少なくし、エホバを第一に生活しましょう。”です。子どもの時にJWから性的な虐待を受けた女性が、その当時長老から受けた励ましは、“永遠の命を得るには、許すことが重要です。”だそうです。加害者は別の会衆に移動しただけで何のお咎めもなし。」
「長老は信者の友人ではなくて、奇妙な宗教組織の利益代弁者なの。そのため彼らができる励ましは、その宗教のレベルを反映した役立たずのたわごとにならざるを得ない。」

「13から15節が“自分の弱さと闘う”です。 誰にも弱点はありますからね。酒に弱いとか、お金に弱いとか、美人に弱いとか・・・。」
「13節で“失敗した時にすぐに言い訳をしたり大したことはないと考えたりして,必要な改善を図ろうとしない人もいるかもしれません。”と長老のことを言っているけれど、これによく当てはまるのは統治体でしょう。」
「児童性的虐待の問題では、大したことはないと考えて、いまだに必要な改善を図ろうとしていません。弱点があるというより、無能だからですね。」

「14節に“そして,エホバの助けを得て,愛や同情心にあふれる謙遜な長老になりました。”とパウロのことを述べている。パウロっていつ長老になったの?パウロは使徒とは言っているけれど、長老だとは言っていない。」
「英文では、shepherd(羊飼い)です。それを長老と訳したのですね。なぜですか?」
「日本のJWの中には、パウロが文字通り羊飼いになったと思い込む人が出てきそうだと心配して、長老に変えたと思うね。」

「15節に“でもエホバは,長老たちが自分の間違いを認め,クリスチャンとしての人格を磨いていくことを願っています。”とあります。もしそうなら同じことを統治体にも願っているはずですよ。」
「統治体は特権階級だから間違いなんか認めなくていいと思っているよ。間違いを認めて反省するような組織ではないことは、長年JWをやっていればわかるでしょう。」

「16から19節が“仲間の不完全さに対処する”です。 JWには問題だらけの人が多いけれど、過度に批判的になるなと言いたいようですね。」
「18節に“パウロがフィリピ会衆の2人の姉妹をどのように助けたか考えてみましょう。(フィリピ 4:1-3を読む。)”とある。“パウロは2人に対して前向きな見方を持っていたので,仲直りするよう勧めました。”と説明している。違うだろう。」
「パウロは会衆の分裂を恐れて、有力者である二人の関係を修復しようとしたわけです。二人に対する見方なんか関係ありません。」
「“前向きな見方”と訳しているけれど、英文ではpositive viewで、“肯定的な見方”でしょう。前向きとは“物事に対する姿勢が積極的、建設的であること”だよ。パウロは二人の女性に積極的だったの?」

「パウロが手紙の中でわざわざ名前を挙げて“同じ思いを持ってください”といっているのは、フィリピ4:3に“良い知らせを広めるために私と一生懸命働いてきました。”とあるように、パウロと対等な関係の同僚だからですよね。」
「パウロの下で従属的な仕事をしたのではなく、“肩を並べて”働いてきたからから、パウロは二人の女性のことを最大限尊重している。」
「JWの女性とは大違いということですね。JWだと、女性は従属的な二流の人間にすぎません。」

「18節の下に、王国会館清掃中の若い兄弟がさぼってスマホをみている写真が出ていて、“長老は批判的になっていない。”と説明している。でも、こいつはダメだな、と批判的になっていいケースだよ。」
「JWによくいそうな兄弟です。でもボランティア活動ですから、注意するとか文句をいうのはダメということですね。無給のボランティア活動なんですから。」

「英文の説明では、この兄弟がさぼっている仕事についてa task he had volunteered for(彼が志願した仕事)と説明している。ボランティア活動ということ。ところが日本語版では”清掃の奉仕”となっている。ボランティア=奉仕と思っているようだけど、違うよ。」
「ボランティアは自発的なものですが、奉仕は必ずしも自発的とは限りません。長老から指示されて行っている清掃は奉仕ですが、ボランティア活動ではないですよ。」
「英語版では、JWが求めているのはボランティア活動だけど、日本語版では奉仕だ。ということは日本ではさぼっている奴は厳しく叱責しても構わないということになるよ。日本のJWはつらいね。」

「19節に“長老の皆さん,兄弟姉妹の良いところを見つけるようにしましょう。完全な人は一人もいませんが,誰にでも良いところがあります。”と言っています。しかし、JWは信者を無給で働く宗教拡張員という面でしか評価しないですよ。全時間奉仕者とかカイタク者がJWの目標で、そうでない平信徒はごみ扱いです。」
「評価されるためには、ウソでもカイタク者を目指しますというべきということだね。」

「最後の20、21節が“パウロの手本に倣っていく”です。 20節に“「ものみの塔出版物索引」の「パウロ」という主な見出しの中にある,「長老のための模範」という項目を調べることができます。”と言っています。結局組織のお膳立てした資料を読んで、組織の言いなりになりましょう、ということですよ。」
「21節に“エホバが長老の皆さんに期待しているのは,完璧であることではありません。忠実であることです。”とある。というわけで、組織に忠実以外何のとりえもない男が長老に任命され、のさばるのがJWという組織なんだね。」

#1378 2022年06月10日 14:25:30

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“あなたは言葉の点で手本となっていますか (15)”で、JWとしてのしゃべり方についての注意事項を並べたという内容です。」
「口のきき方を知らない非常識なJWが多いということなんだろうね。」

「1節に“私たちが持っている話す能力は,愛情深いエホバ神からの贈り物です。”とありますが、人類最初の言語はヘブライ語ですか?JWはそう思っているようです。」
「違うよ。聖書にある古いヘブライ語はカナン地方の言語をもとにした混合言語あるいはカナン地方の方言といったもの。文法もよくわからない点があり、あまり洗練されているとは言えない言語で、翻訳が難しい。」

「1節に、アダムとエバの話が出ていて、“そして,美しい妻エバと初めて話した時には,感激したことでしょう。”とありますが、いい大人がまじめに学ぶことじゃないですよ。」
「アダムとエバの話を文字通りの出来事と読むのは幼児期で止めようよ。」
「文字通りの出来事として読むのがJWです。ですから、聖書に書かれていることは事実ではないとわかると、少なくとも精神的にはJWを続けられなくなります。」
「JWになるには無学無教養で、幼児のように偉そうな大人に言われたことを無批判に受け入れられる精神レベルであることが必要だね。」

「4から7節が“エホバは私たちの言葉に深い関心を持っている”です。 4節に“私たちの言葉から,私たちがエホバをどれほど愛しているかが分かります。”とあります。エホバは心を読む方であるとJWはよく言いうのですが、あれは違ったということですか?」
「この記事は、言葉の重要性がテーマだからそういっているだけ。JWに一貫性を求めても、風を追うようなもの。」

「6節に、体験談が出ているのですが、結論は“私たちが人々を真理に引き寄せるような良い話し方をするなら,エホバはそれを見てとても喜んでくださいます。”というもので、宗教拡張員として新規会員確保につながるよい言葉を使えということです。」
「ギャングや麻薬密売人がうろついている犯罪多発の貧困地区に住んでいたら、良い話し方をしているだけでよい人間と思われるかもね。体験談に出てくるJWはそういう地区の住人なんだよ。日本のJWには参考にならないね。」

「8から11節が“宣教で手本となる”です。 話題はやっぱり宣教と集会になります。2つのことが出ています。初めは“ひどいことを言われても,親切に敬意を込めて話す。”です。」
「8節には“ひどいことを言われても,言い返したりしてはいけません。”とあるね。言い返すとかえって墓穴を掘ることになるからだろう。」
「外れた預言のこととか、歴史のねつ造のこととか、子どもを輸血させないで死なせていることとか、児童性的虐待で多額の賠償金を払っているとかについては、言い返さない方がいいですね。」

「8節の上に、JWにひどいことを言っている家の人の写真があるけれど、スキンヘッドで顎髭を生やし、穴の開いたジーンズを着ている。これってJWにひどいことを言うのはこういう人なんだという偏見丸出しの写真だ。」
「JWは偏見のかたまりですから。」
「教養のあるきちんとした身なりの人がJWにひどいことを言うはずがない、JWに文句を言うやつはどうせ社会のクズで、間もなく滅ぼされるゴキブリ野郎だ、と思わせるためのプロパガンダだよ。」

「9節がおかしいです。サム兄弟が“私は,この家の人は真理を聞く必要があるということや,変化する可能性があるということを考えるようにしています。”と言っているのですが、聞いてもらう必要性があるのはJWのほうですよ。新規会員獲得のための活動をしているわけですから。」
「9節には“ルシア姉妹は,ひどいことを言われた時に,短く祈り,穏やかな気持ちを保てるよう,また不親切な言葉や失礼な言葉を言ったりしないよう,エホバに助けを求めます。”とある。伝道は相当なストレスだね。そうまでして伝道という不毛な活動をしなくてはいけないの?これでは精神が病むのも当然だ。」
「タフな人か、かなり鈍感な人じゃないとJWは勤まらないということです。」

「10節では“教える技術を磨く。”とある。的外れだよ。宣教活動で相手からひどいことを言われるのは、宣教技術の問題ではなくて、JWという宗教そのものが多くの人から嫌われているという問題だ。」
「突然訪問して、興味もない宗教の話を聞かされる側の立場になれば、JWが歓迎されない理由もわかりますよ。話し方なんか関係ないですよ。聞いて欲しければ物でも配ればいいのです。」

「10節で“よく準備して宣教を行うなら,緊張せずに自信を持って語ることができるでしょう。”とある。緊張と自信の欠如が問題の原因かのような書きっぷりで、違和感だらけだね。」
「家の人の反応が悪いのはお前のせいだと信者に思わせるためですよ。信者の自信を奪い、罪悪感を持たせる。その方が信者をコントロールしやすいですから。」
「家の人の反応が悪いのは、JWという宗教そのものに原因があると気づかせないためでもあるよ。」

「12から15節が“集会で手本となる”です。 “心を込めて歌う。”と、“毎回の集会でコメントする。”が手本になる方法です。」
「これは多くの人がまじめに歌っていないということだね。歌詞やメロディーに問題があるということじゃないの?」
「JWの人材も枯渇したのか、歌の質は低下しています。歌詞は英語からの翻訳ですから、翻訳した日本語を元のメロディーにのせるには、相当意味を簡略化する必要が出てきますよね。」
「簡略化するだけでなく、意味も変わる。歌ぐらい、各国独自のものにしたら?」

「数年前にはやったディズニーアニメの“アナと雪の女王”の歌が“Let it go ありのままに”となっていましたが、訳としては正しくないですよね。」
「Let it goは”それを解き放とう”という意味。それとは魔法の力のことね。意味は違うけれど、メロディーにのせるためにそうしたのだろうね。人材豊富なディズニーでもそうだから、人材難のJWでは適当に歌詞を作っているよ。」

「14節で毎回の集会のコメントをしなさいとあるのですが、これもほとんどの人がコメントしないということですよ。」
「まともな知性があれば、そうなるよ。そもそもあらかじめ書かれていることを読むだけの行為をコメントとは呼ばないよ。」

「15節で“私のコメントなんて,短いし,どうせ大したものではない,と思うと,手が挙がらないことがあります。”とジュリエット姉妹が言っています。これは正しい認識ですね。」
「ジュリエット姉妹という名前、どうにかならなかったの?どうせ偽名でしょう。長々としたたわごとより、短くて無内容なコメントのほうが神は喜ぶと、格言32章に書いていなかった?」

「16から19節が“普段の会話で手本となる”です。 一番大事な普段の会話が最後に来るのがJWらしいですね。4つのことが書かれています。最初は①“あらゆる種類の「暴言」を避ける。”です。」
「16節で“悪気はないのですが,面白いことを言おうとして相手の気持ちを深く傷つけてしまうことがあるんです。”とある兄弟が言っている。こういう人は治らないよ。感覚がどこかずれているんだ。」

「暴言というと、旧約聖書には下品な暴言がたくさん出ています。それは問題ないのですか?」
「思い出すのはエゼキエル23章かな。サマリヤとエルサレムを二人の姉妹になぞらえて、下品な悪口雑言を長々と書き連ねている。23:19,20には“オホリバ(*エルサレムのこと)は,若い頃にエジプトで売春を行った時のことを思い起こし,ますます売春を行っていった。ロバや馬のような生殖器を持つ男たちに情欲を燃やした。まるで彼らのそばめのようにである。あなたは,エジプトで人々があなたの胸を,若い頃の乳房をなで回した時の,みだらな行いを渇望した。”とある。これは神様のお言葉。」
「“ロバや馬のような生殖器を持つ男たちに情欲を燃やした。”という下品な文章は有名じゃないですか?聖書は子どもには無理ですね。」
「神様は悪気はないのだけれど、面白いことを言おうとしたんじゃないの。」

「17節が②“励みとなる言葉を語る。”で、“不満や不平を言うのではなく,人を褒めるようにしましょう。”とあります。不平・不満の言えない宗教のようです。」
「お互い良い点を見つけて励ましあう、褒めあうようにしようということね。でもこういうのを“有害なポジティブさ toxic positivity”と言う。どんな状況でも幸せで楽観的な状態でいることを過度に強調し、その結果本当の感情を否定し、矮小化したりすることだ。」
「必要なのは信者の不平・不満を拒絶しないで、耳を傾け、共感し、受け入れることですよ。でもJWには無理です。」

「17節に” 一方,褒め言葉には人を元気づける力があります。エフタの娘は,友たちからの褒め言葉のおかげで,自分の務めをしっかり果たそう,という気持ちを強めることができたに違いありません。(裁 11:40)”とある。エフタの娘はエフタによって犠牲として捧げられたのに、JWはそれを否定するんだ。”洞察”の”エフタ”の項には” エフタは,当時シロにあった聖なる所に自分の娘を連れて行った時,娘を差し出すと共に動物の焼燔の捧げ物をささげたに違いありません。”と勝手な推測をしている。」
「これは聖書の人道主義化というものですね。残酷な聖書の話を現代人により受けられやすいように変えていくのですよ。」

「引照聖句の裁き人11:40には“年に4日ギレアデの人エフタの娘を褒めるのだった。”とあるけれど、これは個人的に励ますということではなく、記念するとか公的にたたえるという意味。ある種の祭りを指している。」
「ここで使われているヘブライ語の動詞は聖書の中で2回しか出てこない、意味がよくわからないレアな単語ですよね。」
「11:40以外では裁き人5:11で使われ、“そこで語っていたのは,エホバの正しい行い,イスラエルの村人たちの正しい行い。”と言う部分。ここでは“語っていた”と訳している。これに倣えば、“年に4日ギレアデの人エフタの娘のことを語るのだった。”とすべきでしょう。でも、エフタの娘は生きているというのがJWの教義だから、イスラエル人が実際にエフタの娘にあって、あんたは偉いねとほめまくったというありえない話に変えようとしている。」

「18節が③“正直に語る”です。JWには嘘つきが多いということですね。19節が④“有害なうわさ話を広めないようにする。”です。これは無理でしょう。うわさ話という形で周りの信者を攻撃することによって、ストレス発散をしているのですから。」
「18節に“現代では,多くの人がうそをつくことを普通のことと考えています。”とあるけれど、でたらめを言うなよ。その根拠示してよ。嘘をつくのが普通だなんて言う人に会ったことはないよ。」
「JW自身がうそをつくのが普通のことと思っているので、周りの人もそうだろうと思い込んでいるだけですよ。」

「19節の引照聖句になっている格言25:23には“北風は大雨をもたらし,うわさをする舌は怒りを招く。”とあるのですが、イスラエルでは雨をもたらす風は地中海から吹いてくる西風です。北風じゃありません。」
「列王一18:44に“7回目に従者はこう言った。「ご覧ください! 人の手くらいの小さな雲が海から上ってきています」。それでエリヤは言った。「アハブに,『兵車を準備しなさい。大雨で足止めされないよう,下っていきなさい』と言いに行きなさい」。”とある。地中海で蒸発した水が雲となって、イスラエルに雨をもたらすことが示されているよ。」

「どうして北風が大雨をもたらすと言っているのですか?」
「この格言の元はエジプトだからだよ。エジプトでは雨をもたらすのは北風。エジプトの格言を何も考えずにパクったのが格言25:23ということ。」
「格言のかなりの部分は文明がすすんだエジプトからいただいていますからね。」

「最後の20節には“神を敬わないこの体制は,間もなく終わります。その時が来れば,言葉でエホバを賛美するのは今よりずっと楽になることでしょう。”とある。JWらしい決まり文句だけど、誤訳だろう。」
「When the influence of this ungodly system of things finally comes to an end, it will be much easier to honor Jehovah with our speech.ですから、finallyと言っているだけで、間もなく終わるとは言っていませんね。」
「年老いた日本のJWを喜ばせるために、ちょっとうそをついたのだろう。JWにとってこれくらいのうそは普通のことだよね。」

#1379 2022年06月17日 14:29:42

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“一生懸命エホバに仕えて喜びを味わう(16)”で、年を取って老害と言われても組織のために働けという内容です。」
「3節に“この記事では,エホバに仕える面で自分にはできることが限られている,と感じる時に何が役立つかを考えます。”とあるけれど、病人と老人のことなのね。若い人は休みということでいいかな。」

「1節からカルト色全開です。質問は“どうすれば大きな喜びを味わうことができますか。”です。答えは“宣教を熱心に行ったり仲間をさまざまな方法で助けたりするなら,私たちは幸福になり,大きな喜びを味わうことができます。”というものです。全く事実に反したことを真理かのように信者に押し付けています。」
「喜びを味わうのも条件付きというのがカルトらしい。カルトは安心感や幸福感を無条件には与えない。必ず○○をしたら、という条件が付き、その○○をしなければ、不幸になると脅かす。JWも同じということ。」

「2節に“健康や才能に恵まれ,良い訓練を受けたおかげで何かを成し遂げることができたとしても,私たちはエホバに感謝するべきです。私たちが持っているものは,全てエホバから与えられているものだからです。”とありますが、これってどうですか?」
「こんな事を安易に言うべきじゃないよ。この論理だと、生まれつきの障害や病気も“全てエホバから与えられているものだからです。”ということになるよ。JWの神様はある人には健康と才能を与え、ある人に障害と病気を与える滅茶苦茶不公平な神様ということね。」

「4から6節が“できることが限られていると感じる時”です。 いつも感じると思いますが、病人や老人のことを言っているようです。」
「4節は病気の姉妹の話だね。“でも,自分はクリスチャンとして十分にできていない,と感じることがあります。”とあるけれど、事実誤認だね。クリスチャンではなく、要求の多い宗教の一員として十分できていないと感じているだけ。伝道、集会、聖書研究、建設奉仕等々の要求はアメリカのニューヨーク州に本部がある宗教団体の要求にすぎない。クリスチャンはそんなこと要求されていない。」

「4節の上に写真がありまして、“1人の兄弟は若い頃,ベテルで奉仕していた。やがて結婚し,夫婦で開拓奉仕を行った。子供ができた後は,上手に伝道できるよう子供たちを教えた。年を取った今も手紙で伝道し,自分にできることを一生懸命に行っている。”と説明しています。リアリティのないプロパガンダ写真です。」
「このような人生を送ったとすると、貯金ゼロの極貧老人だろう。でも写真では裕福そうに見えるように作っているね。」
「手紙伝道の場合、切手代がかかりますが、それは自分で払います。この写真の人は切手代が惜しいので、すぐごみ箱に捨てられる手紙を、ひと月に1通、10時間かけて書いていると思います。」
「考えようによっては、このプロパガンダ写真は無意味で空虚なJWの人生をよく表しているともいえるね。」

「5節に“エホバが期待しているのは,私たちが自分に今できることを一生懸命に行うことです。”とありますが、聖句は引用されていません。これは聖書ではなくJWの主張ということですね。」
「ベストを尽くせば結果がどうでもよいのだという思想は聖書にない。旧約聖書の倫理は動機ではなく結果を重視する。計画殺人も誤って人を死なせた過失致死でも刑罰に差はない。」
「動機を重視する倫理は後の時代の思想ということで、古代では結果にもとづいて判断されるわけですね。」
「サムエル二6:6,7に“牛が真の神の箱をひっくり返しそうになったため,ウザは手を出してそれをつかんだ。するとウザに対してエホバの怒りが燃え,真の神はその場でウザを打った。彼が不敬な行為をしたからである。彼は真の神の箱のそばで死んだ。”とある。ウザに悪意はないでしょう。でも神の箱をつかんだという行為の結果死刑になっている。これが旧約聖書の倫理。ベストを尽くしたかどうかなんて問題じゃない。」

「5節の最後に“私たちが自分にできることを一生懸命に行うなら,エホバは「よく頑張りました!」と言ってくださるのです。(マタイ 25:20-23と比較。)”とあります。誤読です。引照聖句はタラントのたとえですが、一生懸命やったから誉められたという話ではありません。」
「3人の奴隷のうち2人は、託されたお金を2倍にしている。それでほめられた。執筆者は聖書を読んでいないよ。」

「6節はJWというものがよくわかる体験談が出ています。マリア姉妹が寝たきりの姉妹を助けたという話ですが、“私はその姉妹と電話や手紙で一緒に伝道することにしました。毎回,奉仕を終えて家に帰ると,今日も姉妹の助けになることができた,とうれしい気持ちになります。”とあります。マリア姉妹は喜んでいるようですが、寝たきりの姉妹は喜んでいるとは書いていません。自己満足に浸っているだけです。」
「寝たきりの人なら、食事の世話とか家を掃除するとか、して欲しいことはたくさんあるよ。ところがマリア姉妹はそんなことはしないで、寝たきりの姉妹の枕元に電話機を持って行って、伝道するよう言っただけ?本人は悦に入っているけれど、非人間的な対応で、驚くよ。」


「7から10節が“持っている能力を「生かして」ください”です。 持っている能力を生かして、組織のために無給手弁当で働けということです。」
「ペテロ一4:10の“その能力を生かして仕え合ってください。”が引照聖句で、見出しもここからとられたのだけれど、英文ではuse itで、単にその能力を“用いて”と言っている。力点は“仕え合う”ことだよ。」
「日本語訳者が勝手に“能力を生かせ”といっているだけですね。」

「7節に“周りの人がねたんだりがっかりしたりするのではないかと考えて,自分の能力を十分に生かすことをためらわないようにしましょう。”だって。JWというのはお互い嫉妬しあい、足の引っ張り合いをする人たちということだね。」
「出る杭はたたかれるのがJW。バカなふりをしている方がJWとして無難に過ごせます。」

「7節で“誇ることがないように”と言っている。その具体例が“1人の姉妹が雑誌を配布できたことを話しています。姉妹は雑誌を配布できました。あなたは新しい聖書レッスンを始めました。では,どうしますか。”というもので、正解は“雑誌を配布した姉妹をがっかりさせないために,別の時に話すことにします。”というもの。理解できないね。雑誌配布について話すことはよくて、聖書レッスンはなぜだめなのか?」
「他人の気持ちに対しての過剰な配慮を要求されているということですよ。このような抑圧的で息苦しい集団の一員として生きていくとすれば、聞かれない限り沈黙を保つことで無難に過ごすしかありません。」
「うれしいことがあれば、それをみんなの前で披露する。それが自然な反応だよ。それもダメというなら、感情のないロボットになるしかないね。」

「11から14節が“聖書中の人物や仲間の手本から学ぶ”です。 普段ならこの部分が無駄に長いのですが、この記事では短めです。」
「聖書の登場人物の話と真偽不明のJWの体験談がこの雑誌の記事の主な材料だからね。」
「この記事では、JWが大好きな無法者のダビデ王がまたもや登場です。」
「11節で“私たちにとって一番の手本はイエスです。”とあるけれど、具体的な話は何もなし。イエスから学ぼうとする姿勢はほとんどないね。」

「12節では“それでも,私たちの良い手本となっています。なぜそう言えますか。ダビデは矯正を受けた時,言い訳したりしなかったからです。”とあり、“ダビデの手本=いいわけをしない”ということのようです。」
「ダビデの場合は、実際に悪いことを行ったし、相手は恐ろしい神様で言い訳なんかできる相手ではない。」
「JWでは、長老に気に入られていない場合、自分の正当性を主張すると、言い訳をするな、謙遜さが足りない、といじめられます。」
「JWとして生きていくには、目立たず、しゃべらず、感情を押し殺すということね。」

「13節には恐ろしいことが書いてあります。“自分は助言を受けた時,どのように反応するだろうか。すぐに自分の間違いを認めるだろうか。それとも,言い訳するだろうか。”とあります。」
「つまり助言を受けた時、JWには選択肢が2つしかない。有罪と認めるか無駄な言い訳をするかの2つだ。どちらにしても有罪となる。」
「助言を受けた時点で有罪なのですよ。物事の真実など問題ではないのです。中世の異端審問所と同じです。」

「14節は訳がへんだね。“例えば,会衆の中には,仲間からの圧力や家族からの反対や病気などの試練を粘り強く忍耐している人たちがいます。”とある。問題は“仲間からの圧力”。」
「この文だと、会衆の仲間からもっと伝道しろとか、もっと寄付をしろとかという圧力に耐えているという意味にしか取れません。それが事実だからそう訳してしまったのでしょう。」
「“仲間からの圧力”と訳されている英文はpeer pressureだけど、仲間からの圧力ではなくて、同調圧力だよ。」
「職場や学校で誕生日とかクリスマスを祝うから、参加するように言われるようなことを指している言葉ですね。JWはそれに抵抗しなくてはいけないわけです。」
「仲間からの圧力ならpressure from peerで、peer pressureはある集団内である特定の意見や特定の行動をするように暗黙の裡に誘導されること。翻訳者は大学に行って、勉強してね。」

「15,16節が“エホバに仕えることに喜びを見いだす”です。 まとめです。15節には“会衆の平和と一致に貢献するために,私たち一人一人は自分にできることを一生懸命行う必要があります。”とあります。結局集団の利益のために個人は犠牲になりなさいという集団優先・個人抑圧の倫理を振りかざしています。」
「たまたま所属しているだけの会衆なるもののために個人が犠牲になる必要なんかないよ。」

「引照聖句のコリント一12:10に“ある人にはさまざまな言語を話す能力が,ある人には通訳する能力が与えられています。”とありますが、これは訳がへんですよ。」
「協会共同訳では“ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。”となっている。通常の言語ではなく異言というもの。突然数か国語もしゃべれるようになるとか、通訳できるようになるということではないよ。JWは現代人に受け入れやすいように聖書を改変しているということだね。」

「JW訳だと、コリント一14:5は“私は皆さん全員にさまざまな言語を話してほしいと思いますが,それよりも皆さんが預言することを願います。さまざまな言語を話す人は通訳しない限り,会衆を力づけることはできないので・・・”とありますが、滑稽ですね。これだとパウロは外国語の習得を勧めていることになります。」
「協会共同訳では異言だね。外国語を勉強しようではない。」

「JW訳だと、コリント一14:13は“別の言語を話す人は,自分で通訳できるように祈ってください。”となっています。コリントの人は意味も分からず外国語をしゃべっているということになります。」
「前のJW訳では異言となっていたのにね。コリント一14:2に“別の言語を話す人は,人にではなく神に話します。聖なる力によって神聖な秘密を話しますが,誰も理解できません。”とある。外国語のことではないでしょう。意識の変容が起こり、人間には理解できないことを口走る。そんな言葉のことでしょう。」
「JWは聖霊も悪霊も排除していますし、さらに神秘的な出来事も排除し、宗教の合理化を図っているようです。」
「でも、アダムとエバの話も、ノアの洪水も史実ということには執着しているわけだから、その程度では現代人に受け入れやすい宗教とはならないよ。」

「最後の16節に“イエスから学び,イエスの手本に倣うように努力していきましょう。”と言っていますが、口先だけですね。この記事ではイエスの具体的な話はありませんでした。」
「インチキ臭い体験談がJWの主要な教化手段ということがよくわかる記事だったね。」

#1380 2022年06月24日 14:27:32

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“母親の皆さん,ユニケの手本から学びましょう (17)”で、子どもをJWにするためどのように洗脳するか、という内容です。」
「ユニケって、テモテの母ということ以外だと、夫はギリシャ人だったことが聖書に書かれているね。」
「この記事は、主として、夫がJWでない母親だけがJWという家庭を対象にしたものということですね。」
「ほとんど知られていない人を手本にして学ぶということは、執筆者の想像した空想話を学ばされるわけだ。お気の毒。」

「1節に“聖書には,テモテのバプテスマのことは何も書かれていません。それでも,その日に母親のユニケが味わった喜びについて想像することは難しくありません。”といきなり架空のバプテスマ話が登場します。」
「この記事はバカバカしさで今年1番かもね。」

「“大きな水しぶきと共に,テモテが満面の笑みを浮かべて水の中から現れるのを見て,ユニケは涙をこらえることができません。”とあります。くだらないですが、いずれ大金をかけてそのような動画が作られると思いますよ。」
「その場合、水の中から現れたテモテの顔には水草がまとわりつき、テモテが口の中に入ったオタマジャクシを吹き出したのを見て、ユニケは爆笑しました、という子どもでも安心してみられるコメディーにして欲しい。」

「2節に“テモテは,両親の宗教が異なる家庭で育ちました。父親はギリシャ人でしたが,母親と祖母はユダヤ人でした。”とあります。テモテの母親はユダヤ人であるにもかかわらず、異教のギリシャ人と結婚したとのことですが、これは模範的ではありませんね。」
「ユダヤの法によれば、この結婚は認められない。決して模範的なユダヤ人女性ではない。テモテは割礼も受けていないので、ユダヤ人社会からはテモテの母親は差別されていただろう。それで早々とキリスト教に改宗したんじゃないのかな。」

「テモテの父親は早くに死んだと考えていいのでしょうか?」
「恐らくそうだろう。テモテはパウロと一緒に宣教旅行に行っている。父親がいたら無理でしょう。使徒16:3に“彼の父親がギリシャ人だ。”とあって、英文ではhis father was a Greek.と単なる過去形だけれど、ギリシャ語の動詞の時制は未完了過去という時制で、かつては・・・だった、というような意味になる。これはこの時点で死んでいることを示唆するね。」

「2節で、テモテは“父親の宗教を選ぶでしょうか。子供の頃からずっと教えられてきたユダヤ教の伝統を引き続き守るでしょうか。それとも,母や祖母と同じように,クリスチャンになるでしょうか。”とあるのですが、全く的外れということですね。」
「執筆者は父親が生きていると想定している。テモテ一家はギリシャ化していて、ユダヤ教の伝統を無視しているよ。テモテは割礼を受けていないわけだからね。」
「父親が生きていたら、キリスト教に改宗するなんてできませんよね。」
「この時代、宗教は個人が自由に選択するものではなく、家長が決めるもの。そういう時代背景を全く無視して、この記事が書かれているのが滑稽だね。」

「4節に、ある姉妹が“主人はとても良い父親で,家族思いの人でしたが,私がエホバの証人になるよう子供たちを教えることには強く反対しました。”と言っています。良い父親なら子どもがカルト宗教に取り込まれていくことに反対しますよ。」
「正しくは、” 主人はとても良い父親で,家族思いの人でしたので,私が危険なカルト宗教のエホバの証人になるよう子供たちを教えることには強く反対しました。”でしょう。そのおかげで子どもたちはJWにならず、幸せな人生を歩んでいます、となればいいよね。」

「6から11節が“言葉によって子供を教える”です。 架空のユニケとテモテの話が続きます。」
「6節に“そして,イエスについての真理を「納得して信じるようにな」りました。そうできたのは,母親からの助けがあったからに違いありません。(テモテ第二 3:14,15を読む。)”とある。引照聖句には“幼い時から聖なる書物に親しんできました。その書物はあなたを賢くし,”とあるけれど、執筆者はこれを母親による教育と誤解しているね。」
「ユダヤ人社会では女性が律法などを学ぶことはありませんし、そもそも字が読めません。」
「テモテが教育を受けたとしたら、シナゴーグ(会堂)で旧約聖書のギリシャ語訳を学んだのだろう。使徒15:21には“モーセの書は安息日ごとに会堂で朗読されていて,それを教える人が昔からどの町にもいます。”とあるよ。」

「7節は架空のユニケの心配事が出ています。“悪い友達と付き合うようになってしまわないでしょうか。アテネの学校に行って,異教の哲学を信じるようになってしまわないでしょうか。裕福になることに思いを奪われて,時間や体力や若さを無駄にしてしまうことはないでしょうか。”と、まるで現代のJWのようです。」
「ユニケを、自分たち以外の人間を嫌悪・差別し、高等教育を忌避し、まじめに働くことを罪悪視するJWそのものと、執筆者は想像したわけだ。」

「8節が“子供と一緒に聖書を勉強する。”です。夫が子供に教えるのをサポートせよといっています。夫がJWなら、母親が主な役割を果たすのはいけないみたいです。女はサポート役以上のことをするなというわけです。」
「10節に“いろいろな機会にエホバについて教える。”とあるけれど、365日24時間エホバ、エホバと教えるのがJWの理想のようだ。」
「その結果、子どもはエホバと聞いただけで汗があふれ出し、心臓が苦しくなり、呼吸困難になります。」

「10節で“長老を批判したりしてはいけません。親が長老についていつも良いことを語っているなら,子供は助けが必要な時に長老に頼ろうとするでしょう。”というのは笑えるね。JWは子どもの前でも、ついつい長老の悪口を言ってしまうということだね。」
「悪口はだめでも、真実を語るのは問題ないですよ。」
「あの長老は女の子だけにやたら親切で、体を触りたがるとか、あの長老は無責任、無能のダメ男であるとか、子どもに正直に語るのは長老批判には当たらないよ。」

「12から17節が“行いによって子供を教える”です。 12節に“ユニケはテモテに良い手本を示しました。本物の信仰には行動が伴うということを教えたはずです。”と想像で書いています。」
「12節では“テモテは,ユニケがエホバへの強い愛に動かされて行動していることや,エホバに仕えることによって幸せを味わっているのを目にしたに違いありません。”と空想したことを断定している。いいかげんにしろよ。」

「13節が“エホバとの友情を何よりも大切にする。”で、要するに“エホバに祈り,聖書を勉強し,集会に出席するようにしましょう。”ということです。子どもの大嫌いなことばかりです。」
「14.15節が体験談で、“母の手本のおかげで,強い信仰を持てるようになりました。”とあるね。こういう家庭はたくさんあるのだろう。母親の影響力を利用して、思考力が育つ前の子どもを信者にするというのは、どの新興宗教団体もやっている。」
「子どもに特定の宗教を教えるのを禁止して欲しいです。子どもは親が教えることを無批判に信じてしまうものです。」
「それは無理だね。できるのは、幼い時から恐怖をあおるような教義を熱心に教え込む宗教は、ろくでもない宗教だと多くの人に伝えることだね。」

「15節の体験談が泣けます。“私は子供の頃,何かをしようと思っても,ほかの人から何と言われるかを気にして,できないことがありました。でも,母の勇気や,母が生活の中でエホバを第一にしている様子を見て,私も人への恐れを乗り越えることができました。”とあります。子どもの時から嫌でたまらないことを、狂信的な母親から押し付けられ、拒否することもできず、耐えに耐えてきたということですよ。」
「その結果、ある種のあきらめと無感覚に陥ったということだね。」

「16節に“パウロは,テモテの偽善のない信仰は「ユニケがまず」抱いたものだった,と書きました。(テモ二 1:5)”とありますが、テモテへの手紙はパウロが作者ではありません。」
「パウロが作者ではない根拠はたくさんあるけれど、一つだけ挙げると、作者と受取人の状況がパウロについて書かれた他の書と一致しない点。テモテ一1:3に“私はマケドニアに行こうとしていた時,エフェソスにとどまるようあなたに勧めましたが,また同じことを勧めます。”とある。」
「パウロとテモテはエフェソスで一緒に活動していたけれど、パウロだけマケドニアに行き、テモテはエフェソスに残っているという状況ですね。」
「テモテ一4:13で“私がそちらに行くまで,朗読と説き勧めることと教えることに励んでください。”と、パウロは再びエフェソスに戻る予定だ。」

「使徒19章によりますと、パウロはエフェソスに2年ほどいて、マケドニアに向かったとありますが、テモテは、19:22に“そして,助手のうちテモテとエラストの2人をマケドニアに遣わしたが,自分はしばらくアジア州にいた。”とあるように、パウロより一足先に先遣隊としてマケドニアに行っています。」
「使徒20章で、パウロの一行は、エフェソスに戻らず、エルサレムに向かう。20:4に“プロの子でベレアのソパテロ,テサロニケのアリスタルコとセクンド,デルベのガイオ,テモテ,アジア州からはテキコとトロフィモが同行した。”とあり、テモテはパウロと行動を共にしている。」
「つまり、テモテだけエフェソスにとどまっていて、旅先のパウロから手紙を受け取るというテモテ一が想定している状況はないということですね。」
「テモテの手紙の作者が、パウロの手紙を創作するために作り出した状況と見なすしかない。」

「テモテ一3:14、15に“私は間もなくあなたの所に行きたいと思いながら,これらのことを書いています。 私が遅れたとしても,あなたに神の家族の一員としてどのように行動すべきかを知ってもらうためです。”と手紙を書いた理由を説明していますが、書かれている内容は、基本的・一般的な話で、緊急に伝えなくてはならないことは含まれていません。」
「テモテがパウロとエフェソスに一緒にいたとすれば、当然知っているはずのことしか書かれていない。このタイミングでわざわざこのような手紙を書く理由がない。」

「17節が“子供を助ける面での自分の努力が実を結んでいないように感じる場合”について扱っているのですが、問題はその上の挿絵です。少年がサッカーボールを持って立っているのですが、これがJWとしては問題のようです。」
「サッカーなどのスポーツだけでなく、子どもが熱中しそうなことは、全てふさわしくないとして、子どもを抑圧するのがJWの教育法だね。まともな子どもなら、ある程度の年齢になると、JWを嫌悪し、やめるのは当然だ。」

「最後の18,19節が“助けを求めてエホバに頼る”です。 18節に“聖書の時代から現代に至るまで,エホバはご自分の友となるよう大勢の若い人たちを助けてきました。”とあります。本当でしょうか?」
「聖書には、神が特定の集団に、かなり恣意的な仕方で介入したことがよく描かれている。それが本当だとしても、現代でもそのようにしているかどうかは誰も知らないでしょう。」

「19節で“あなたの子供がどんな決定をするとしても,あなたに対するエホバの愛は変わりません。”と、慰めています。JWの子どもの大多数はJWをやめてしまうということは、組織も知っていますからね。」
「親と子どもは別の存在。親は、親子で楽園に行こうなんて馬鹿げたことは思わず、子どもには子どもの望む人生を歩ませるべきだよ。そうしないから、JWは親子を引き裂く宗教と言われる。」

#1381 2022年07月01日 14:27:10

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“クリスチャンとしての目標を立てて達成するには(18)”で、先週に引き続きテモテの話を素材に、組織のために今以上働け、という内容です。」
「クリスチャンではなく、無給無保証の宗教拡張員として目標を立てて達成せよということ。一般の企業みたいだけれど、JWは無給無保証の信者にこのような圧力をかけるわけで、異常だね。信者に過大な要求をするのはカルトの特徴だよ。」

「3節に“テモテ第一 4:12-16を読む。”とあり、“パウロがテモテに2つの面で進歩してほしいと思っていたことが分かります。 1つは,クリスチャンとしての人格を磨き,愛や信仰や清さなどを身に着けること,もう1つは,朗読や説き勧めることや教えることといった技術を磨くことです。”と説明しています。テモテ一4:13に,“私がそちらに行くまで,朗読と説き勧めることと教えることに励んでください。”とありますが、その“技術を磨く”なんてことは言っていません。」
「JWは宗教拡張員を育てて信者の新規獲得を図ることを主な目的としたねずみ講的団体だから、拡張員としての“技術”が大事なのだろう。それで、聖書も自分たちに都合の良いように読み替える。」

「“説き勧める”と“教える”の違いは何ですか?」
「“説き勧める”は英文ではexhortationで宗教用語としては”教誨(きょうかい)”と訳すべきだろう。日本のJWはキリスト教色を払拭したいと思っているので、そういう言葉は避ける。」
「刑務所で受刑者に教え諭す人のことを教誨(教戒)師と言いますね。」
「教誨は信者の徳性を高めるような話をする、教えるは主として教義などを教えるという意味だ。JWの教えは主に宗教拡張員としてのお手軽なハウツーだね。」

「4から6節が“クリスチャンとしての人格を磨く”です。 4節に“テモテがエホバにとって用いやすい人だったのはなぜでしょうか。”とあるのですが、これは訳がへんですよ。」
「What made Timothy a useful servant of Jehovah?の訳だけど、直訳すれば、何がテモテをエホバの役に立つ(あるいは有能な)奉仕者にしたのか、で、”用いやすい”とは言っていない。」
「翻訳者はusefulを“用いやすい”という意味と勘違いしているということですね。中学生ですか?」
「This book is useful for students.なら、この本は学生には有益だという意味で、この本は学生には用いやすいという意味ではない。有益だけれども用いにくい本はたくさんある。」

「5,6節が“具体的な目標を立てる。”、“目標に向かって努力する。”という話なのですが、例としてでているのが、“人と仲良くし,快く許すこと”です。このテーマも定番ですね。よっぽどJW内の人間関係に問題があるということですね。」
「被害者に許すことを強要し、問題をもみ消すのがJWのやり方だね。」

「6節に“その一方で,イエスの時代のパリサイ派の人たちは「他人をさげす」んでいました。(ルカ 18:9)”とありますが、JWはパリサイ派とそっくりだと言われていることに気づいていないようですね。」
「細かな規則を作り出しては信者を苦しめるとか、自分たちだけが救われて他の人は滅びると“他人を下げす”んでいる点がよく似ているのに気づかないとは不思議だ。」

「7から11節が“役立つ技術を学ぶ”です。 素人の建設・メンテナンス技術者を目指せといっています。」
「ただ働きさせて作った建物を売れば、利益は大きいよね。JWの主な収入源は不動産売却でしょう。主な売却先は他の宗教団体だ。」

「7節で“格言 22:29を読む。”とあります。“仕事に熟練した人を見たことがあるか。その人は王たちの前に立ち,庶民の前には立たない。”とありますが、“王たちの前に立つ”というのは、王たちに雇われるという意味ですよね。」
「立つだけじゃ、バカみたいだ。王に仕えるために召し抱えられるといっている。JWとは何の関係もない格言だよ。」

「7節の上に写真があるのですが、何をしているかというと、蛍光灯の取り換えです。この程度のことを、メンテナンスの技術と呼ぶのですか?」
「その程度のことをするのに、目を保護するためのゴーグルをしている。笑える写真が多いのが最近のものみの塔だね。」

「7節では“写真から分かる通り,兄弟であっても姉妹であっても,大会ホールや王国会館をメンテナンスするための技術を学ぶことができます。”とあり、女性をこき使うつもりです。」
「女性を二流の人間と扱いながら、仕事は男性並みにさせる。女性にとって最悪の宗教だね。」

「7節に” 「永遠の王」であるエホバと,「王として支配する者たちの王」であるキリスト・イエスは,技術を持つ奉仕者たちを用いて本当に素晴らしいことを行っています。”とありますが、そうでもないですよ。」
「王国会館を売ろうとしたら、いろいろ建築上の問題点が見つかり、売れなかったとか、安く買いたたかれたという話は聞くよね。素人が早く完成させようと無理をして作った時代があったようで、その時代の建築物には問題が多いと聞く。でもこの記事では“本当に素晴らしいことを行っています”というわけで、いつもの自画自賛の宣伝だね。」

「12から18節が“さまざまな方法で仲間に仕える”です。 仲間の役に立つよう目標を立てて、実行せよ、と言う指令です。」
「14節で“パウロは仲間を助けるという目標を諦めるのではなく,状況に合わせて柔軟に対応しました。後に,テサロニケのクリスチャンの信仰を強めるためにテモテを遣わしました。(テサ一 3:1-3)”とある。引照聖句のテサロニケ一3:1、2に“私たちは,皆さんに会えないことに耐えられなくなった時,自分たちだけアテネに残ることにし,テモテを遣わしました。”とあるけれど、これは訳がへんだよ。」
「意味が通りませんね。会えないことに耐えられなくなったのに、パウロはアテネに留まって、テモテを派遣するだけとは。なぜパウロが行かないのですか?」
「英語版ではSo when we could bear it no longer, we thought it best to stay on alone in Athens and we sent Timothyで、” 会えないことに耐えられなくなった”とは書いていない。”もはやこれ以上耐えられなくなった時”とあるだけ。」

「いつもの誤訳ですね。協会共同訳では“そこで、これ以上我慢できず、”となっています。何が我慢できなかったのですか?」
「テサロニケ一3:3に、テモテを使わした目的が書かれている。“誰にもこのような苦難によって動揺してほしくないからです。”とある。テサロニケの信者はある種の迫害にあっていて、それに対して何もしないで傍観しているのにパウロは耐えられなくなり、貴重な戦力であるテモテを派遣したということ。」
「日本語訳者は、単に会えなくて寂しいというように解釈して、勝手に書き足したわけですね。どうしようもないバカですね。」

「この時のことが使徒17章にあるけれど、テサロニケ一と一致しない。」
「使徒17:14,15では“それで,兄弟たちはすぐにパウロを港へと送り出した。しかしシラスとテモテはとどまった。パウロに同行した人たちは彼をアテネまで連れてきた。そしてパウロから,シラスとテモテはできるだけ早く自分のもとに来るようにという指示を受けて,去っていった。”とあります。テモテはテサロニケに残してきたのですが、早くアテネに来るようにいっています。状況が合いませんね。」
「テサロニケ一では、パウロとテモテはアテネにいて、テモテをテサロニケに派遣する。使徒では、パウロはアテネで、テモテはテサロニケにいて、テモテはすぐにアテネに来たことになっている。おかしいね。そこで昔からあれこれと書かれていないことを推測し、なんとか調和させようしてきたんだ。使徒に書いてあることは創作だね。」

「15節で、“テッド兄弟とハイディー姉妹はまさにそうしました。2人は健康上の問題のためにベテルを出なければなりませんでした。”とあります。普通の企業なら病気を理由に解雇は困難じゃないですか?」
「そうだね。でもベテルでは病人を簡単に追い出すわけだ。退職金もないので、この夫婦は無一文で追い出されたのだろう。アメリカの話だとすると病気の治療は最低限のものしか受けられなかっただろう。」
「それでも二人はJWであり続け、“テッド兄弟は代理の巡回監督として奉仕するための訓練も受けました。しかしやがて,巡回監督として奉仕できる年齢に上限が設けられました。”とあります。コロコロ変わるJWの規則に翻弄されたわけです。」
「70歳定年制が設けられたんだよね。巡回監督になれば、各会衆からお手当をいただき、蓄財に励むことができたのに、ついていないね。」

「でもこんな人が巡回監督になると、おねだりがひどくなりそうで、各会衆からすればよかった、エホバね、ということですよ。」
「元JWの経験談で、ある巡回監督から、兄弟は私の車の修理費用を払う余裕がありますでしょうか?と、車の修理代を請求されたことがあるといっていた。人にたかるのを何とも思わない品性下劣な巡回監督も中には居るようだけど、そうしないと老後は悲惨なものになるからね。」

「17節で“援助奉仕者になることを目指しているなら,野外奉仕に参加する時間を増やしたり,会衆内の病気の人や年長の人を訪問したりできるでしょう。”とあります。エホバは時間にうるさい神様ということですね。1000年が神にとって1日なのですから、数時間の違いなんて気にしないと思います。」
「若い兄弟が病気の人や年長の人を訪問するというのは、思いやりではなくて下心のせいだから注意するようにと、高齢JW向けに親切心でこう書いているんだよ。」

「18節に、病気や障がいがあってもがんばっているというよくある体験談が登場します。“75歳のビバリー姉妹の例を考えてみましょう。姉妹は重い病気のために,歩くことが非常に困難でした。それでも姉妹は,記念式のキャンペーンにできる限り参加したいと思いました。”とあります。こんな人でも働かせないとエホバの目的は達成されないということですね。」
「この種の体験談を繰り返し載せる理由が書かれている。“姉妹の様子を見た周りの人たちは,自分も宣教をもっと頑張ろう,という気持ちになりました。”とある。あんな人でもがんばっているんだ、お前たちはもっとやれるはずだ、と信者を追い込んでいくためということ。」
「頑張れない人には罪悪感をもたせるわけです。」
「不必要な罪悪感はカルトのワナ。自分を責めれば、責めるほど、カルトのワナから抜け出せなくなるので、それはやめよう。」

「最後の19節で“達成可能な目標を立てましょう。”とあります。いいアドバイスですね。それなら、楽園で永遠に楽しく暮らすというJWの目標はどうですか?達成不可能ですよ。」
「そういうバカげた目標は忘れて、安定した収入の得られる職業に就くとか、就職に備えて資格を取るといった目標を立てなさいという親切な指示と解釈しよう。」

#1382 2022年07月08日 14:29:16

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ 「ヨハネへの啓示」と現代の私たち(19)”で、啓示2,3章に出てくる7つの会衆と11.12章についてJW流の解釈を学ぶという内容です。」
「JWの啓示に対する解釈はこれまで目まぐるしく変わってきた。これらもどうせ変わるから、まじめに学ぶ必要なんてないよ。」

「“啓示の書 ― その幸福な最高潮!”という本が1988年に出されていますが、その8ページに“ものみの塔協会は,早くも1917年に,「終了した秘義」という題の本を発行しました。(略)その後,世界の出来事が引き続き聖書預言の成就として展開するにつれて,「光」と題する,時宜にかなった2巻の書物が準備され,1930年に発表されました。光は引き続き『義なる者のためにきらめいた』ので,エホバの証人は1963年に,「『大いなるバビロンは倒れた!』神の王国は支配する!」(英文)という題の704ページの本を発行しました。(略)その後,特に会衆の活動に関して,『義なる者たちの道筋が一層明るくなる』につれ,啓示の書の初めの十三の章について論じた,『その時,神の秘義は終了する』という題の384ページの書籍が,1969年(日本語,1976年)に出されました。”とあり、それ以前に啓示の解釈に関する本を1917年、1930年、1963年、1969年と出していることがわかります。新しい本が出るたびに、解釈が大きく変わりました。情けないです。呆れます。」
「” 終了した秘義“は”神から与えられた“と言っていたけどね、今見たら爆笑ものだよ。“啓示の書 ― その幸福な最高潮!”だって、2006年9月号の”王国宣教“で70か所変更した。JWは啓示の書について語らない方がいいと思うよ。恥の上塗りをするだけ。」

「1,2節の質問が“私たちが「啓示」の書に注意を向けるべきなのはなぜですか。”で、その答えは“まず1つ目に,「啓示」の書は私たちのために書かれました。”と、“2つ目の理由は,この預言がいつ実現するかということと関係があります。高齢の使徒ヨハネはその点についてこう述べました。「私は聖なる力によって主の日に連れていかれ……た」。(略)聖書 の預言によると,主の日が始まったのは,イエスが天の王国の王となった1914年のことです。(中略)私たちは今まさに「主の日」に生きているのです。”なのです。」
「要するに、啓示の書は今のJWのために書かれたと、トンデモナイことを言っているわけだ。それで今の時代に合わせて解釈しなおすことが必要になる。」

「インチキ年代の1914年が出てきます。教義を適当によく変えるJWでも、この1914年はJWの教義の中心的なものなので、変えたくても変えられないようですね。」
「第一次大戦が勃発した1914年の教義は終末論宗教であるJWの信者獲得に大きく貢献したけれど、その計算の根拠となった前607年がインチキなので、JWの教義の致命傷になっている。つまりJWは自分で歴史を調べる能力のない無知無学な人向けの宗教ということ。多少でも学のある人には、JWは歴史捏造のインチキ宗教で、ついていけない。」

「3節によると、啓示は使徒ヨハネによって96年ごろに書かれたそうですが、本当ですか?」
「作者はヨハネとあるだけで、使徒ヨハネとは書かれていない。普通は使徒ヨハネではないヨハネと考えられている。書かれた時期は不明だけど、81年から96年の間で、恐らく90年代という説が有力。」
「JWが96年に書かれたとする根拠は、イレナエウスの著作に“ドミティアヌスの治世の終わりごろのことである。”とあることですね。ドミティアヌスの治世は81から96年なので、JWは96年ごろと推定しているわけです。」
「イレナエウスは130年ごろ生まれて200年ごろに殉教したとされるリヨンの司教。この人の著作は2世紀のキリスト教を知る上で貴重な資料だけれど、啓示が書かれたのはイレナエウスの生まれる前の話だから、啓示についての記述は伝聞に過ぎない。」

「5から11節が“エホバに受け入れられる崇拝を捧げる”です。 7つの会衆の話です。5節に“イエスが小アジアの7つの会衆に向けて述べた言葉から分かります。”とありますが、イエスは会衆に向けて述べていないと思いますよ。」
「啓示2:1に“エフェソスにある会衆の使者に書き送りなさい。”とある。英文では“To the angel of the congregation in Ephʹe·sus  write”で、エフェソス会衆の天使に書き送りなさいといっている。angelを使者と訳したのは意図的な語訳だね。日本語訳者は霊とか天使とかが嫌いなようだ。」

「6節は“啓示 2:3,4を読む。エホバに対して初めの頃に抱いていた愛を失ってはいけない。”で、エフェソス会衆の話です。」
「6節で“彼らはエホバに対して初めの頃に抱いていた愛を失っていました。”とあるけれど、違うよ。」
「啓示2:4では“あなたが,初めの頃に抱いていた愛を失ったことです。”とありますが、エホバへの愛とは書いていませんね。」
「正確に訳すと“初めの愛”。これは信者間の愛を指すというのが多数説。エフェソス1:15で、パウロは“皆さんが主イエスに抱いている信仰や,聖なる人たち全てに示している愛について聞き”と言っている。聖なる人とはクリスチャンのこと。エフェソスは初め信者間で愛があったけれど、お互いに対する愛が失われたということ。」

「JWもお互いは冷ややかな関係ですから、エフェソスと似ているわけですね。」
「啓示2:2に“あなたが悪い人たちを容赦せず,使徒だと自称するものの実は違う人たちを試して,彼らがうそつきだと見抜いたことも知っています。”といっている。要するに、エフェソスの人たちは異端と闘ってきたということ。その過程で、信者同士敵対関係になり、お互いの愛が冷めてきたと思われる。JWも排斥とか忌避とかが大好きだから、愛は冷める一方だね。」

「7節は“啓示 3:1-3を読む。いつも目覚めていなければいけない。”で、サルデス会衆の話です。」
「“彼らは,以前はエホバに仕える面で活発でしたが,手を緩めるようになっていました。”と解説しているけれど、違うだろう。」
「啓示3:3で“あなたが受けたものや聞いたことについて常に考え,それを守り続けて,悔い改めなさい。”とあります。これはサルデスの人たちが使徒たちから受けた教えを守っていないということです。手を緩めたというのとは違います。」
「サルデス会衆は、啓示3:2で“あなたは生きているといわれていますが,実は死んでいます。”と非常に厳しい評価を下されている。手を緩めただけでそこまで言われないよ。」

「8節は“啓示 3:15-17を読む。エホバへの崇拝を熱心に心を込めて行わなければいけない。”で、ラオデキア会衆の話です。“彼らはエホバへの崇拝の面で「生ぬるく」なっていました。”と解説しています。」
「その後で、“彼らは,エホバへの熱い思いを抱き,エホバへの崇拝を熱心に行う必要がありました。”と言っているから、ラオデキアの人たちは熱心さが欠けていると解釈しているようだけど、違うよ。」

「啓示3:15で“あなたは冷たくも熱くもありません。冷たいか熱いかのどちらかであってほしいと思います。”といっています。これを熱心さに欠けていると解釈すると、熱い方はいいとして、冷たい方が問題です。ここでは熱いか冷たいかのいずれかになってほしいと言っています。全く熱心さを欠いた方が多少の熱心さがある方がいいということになりますね。」
「ここの意味は熱心さに欠けているということではなく、何の役に立たないという意味。水は冷たければ暑い時に役立つし、熱ければ入浴できる。生あたたかい水は爽やかにもならないし、体が温まりもしない。
「ラオデキアは温泉で有名なところで、それでこういう表現が出てきたのですね。」
「生あたたかいというのは、冷たい水とあたたかい水を混ぜた状態。ラオデキアの人たちは、異教的なものを拒否せず、妥協的にふるまっている。そういう信仰は無益だということ。」

「8節の最後に“快適な生活を追い求めるあまり,エホバへの崇拝を二の次にするようなことがあってはいけません。”と、いつもの貧乏の勧めですが、これは啓示3:17の“あなたは,「私は裕福で,富を得た。何一つ必要なものはない」と言いますが”を受けた文章です。執筆者は文字通りラオデキアの人たちが金持ちと解釈しているようですね。」
「みんなが金持ちということはあり得ないので、普通は、霊的に豊かであるという意味と解釈される。JWは自分たちの都合に合わせて、比ゆ的な所を文字通りと解釈したり、文字通りの所を比ゆ的と解釈したりするよね。」

「9節は“背教者の教えを退けなければいけない。”で、10節は“どんな不道徳も行ったり大目に見たりしてはいけない。” です。ペルガモンとテアテラの会衆の話です。」
「10節がへんだね。“イエスは,それらの会衆の一部の人が不道徳を退けなかったことをとがめました。(啓 2:14,20)”とあるけれど、引照聖句の言う不道徳は一般的な不道徳じゃないよ。」
「啓示2:14では“彼らが偶像に犠牲として捧げられた物を食べ,性的に不道徳な行為をするようにしたのです。”とありますね。」
「これは、異教の崇拝でのことを言っている。神の像に食べ物をささげた後、それを食するというのはよくある習慣。性的不道徳というのは神殿娼婦とのことを言っている。文脈を考えてほしいね。」
「不道徳はいけないというのは、信者を統制管理するための道具ですから、10節にあるように“私たちは,不道徳を行ってもエホバは大目に見てくださる,などと考えるべきではありません。”という信者を脅す説教に持っていければそれでいいのですよ。まじめに聖書を勉強しているわけじゃありませんから。」

「12から16節が“喜んで迫害を忍耐する”です。 スミルナとフィラデルフィアの会衆の話で、迫害を覚悟せよと言っています。そして、13節では、啓示12章に飛びます。」
「“啓示 12章によると,神の王国が設立された直後,天で戦争が起きます。ミカエル(栄光を受けたイエス・キリスト)が忠実な天使たちと共に,サタンや邪悪な天使たちと戦います。(啓 12:7,8)サタンと邪悪な天使たちは戦いに敗れ,地の近辺に投げ落とされます。その結果,地とそこに住む人たちに大きな苦しみがもたらされます。”と説明しているけれど、非常にへんだね。」
「ここに出てくるミカエルがイエスだなんて言っているのはJWだけです。」

「JWでは、このミカエルは何を指しているかという解釈もコロコロ変わってきた。初めは天使、次はローマ教皇とその支持者、次はイエス、次はローマ教皇、そして、現在はイエス。」
「光が増したなんて嘘ですね。コインの表が出たり裏が出たりしているという感じです。」

「啓示12:10で“今や,私たちの神の救いと力と王国,またその方のキリストの権威が実現しました!”あるように、天での戦いはもうすでに起きたことで、JWの解釈のようにこれから起こることではない。」
「ヨハネの思想では、キリストの出現とその働きによって、悪魔が天から投げ落とされたということですね。啓示12章は、イエスの誕生から昇天までを黙示文学的に描いたものというのが普通の見方じゃないですか。」

「14節で“サタンはもはや天に行くことができないので,自分の怒りを,天に行くクリスチャンのうち地上に残っている人たちに向けます。”とあるけど、これもJW独自の解釈。」
「引照聖句の啓示12:17には“それで竜は女に対して激怒し,彼女の子孫のうちの残っている人たち,すなわち,神のおきてを守り,イエスについて証言する務めを与えられている人たちと戦うために去っていった。”とありますが、これは1世紀の迫害されたクリスチャンのことを述べているわけで、現代のJWとは関係ないですよ。」

「15節からは啓示11章の話になるけれど、非常にバカバカしいもので、JWでもついていけないでしょう。」
「啓示11:3に“私は,私の2人の証人に粗布をまとわせ,1260日の間預言させます。”“とあり、この2人の証人は啓示11:7では殺されますが、これを”1918年,大きな責任を担っていた8人の兄弟たちが,偽りの告発によって有罪とされ,長期間の刑を言い渡されました。人間の観点からすれば,彼らの活動は“死んだ”かのように見えました。”と、自分たちについての預言と強引に解釈しているのです。」

「12節の上にあるイラストのなかに8人の男が身長順に並んでいるという写真があるけれど、それが、この8人だよ。」
「どの観点からも、懲役刑は懲役刑で、死刑とは違います。しかも2人ではなく8人です。無理やり自分たちの出来事に当てはめて、俺たちのことは聖書に預言されていたのだ、俺達ってすごいよね、と自己満足に浸っているのですよ。」

「1900年ほど前に書かれた啓示の書が、アメリカのちっぽけな宗教団体のことを預言していたなんて、真面目に信じられる方がおかしい。しかも啓示11章に書かれていることと一致する点はほとんどない。正常な判断力を失っている。」
「例えば11:9に“さまざまな種族や民族や言語や国の人々は,3日半の間その遺体を見る。” とありますが、8人の投獄の話が世界的なニュースになりましたか?」
「誰も知らないよ。“3日半遺体を見る”はどのように実現したというのかな?」
「自分たちは神に選ばれた特別な存在であり、はるか大昔に聖書の中で預言されていたと信じて疑わない誇大妄想的なアブナイ人たちがJWという宗教団体の教義を作ったということですね。」

「16節も同じ調子だ。“啓示 11章の預言によると,「2人の証人」はしばらくして生き返ることになっていました。この預言の通り,兄弟たちが投獄された次の年に驚くべきことが起きました。1919年3月,8人の兄弟たちは釈放され,後に告発が取り下げられたのです。”とある。刑務所から釈放されたことが復活だそうだ。釈放されたのは第一次世界大戦が終わったからで、別に驚くことじゃないよ。」
「要するに、投獄されたものの短期間で釈放されたというだけです。それが啓示11章の預言の成就とする根拠なのですよ。正気じゃないですね。」
「世界的に見れば、投獄された経験のある宗教団体は結構あるよ。死刑になった人だっているだろう。そういう宗教は全て啓示11章は自分たちのことを預言していたと言っていいわけだね。」

「1999年発行の“ダニエルの預言に注意を払いなさい”の“17章 終わりの時における真の崇拝者たちを見分ける”では、“1918年,忠実なクリスチャンたちの少数の残りの者が甚だしい攻撃にさらされ,組織的な公の宣教が甚だしく妨げられたことは,歴史の事実です。その後1919年,全く意外なことに,残りの者たちは霊的な意味で生き返りました。これらの事実は,ダニエル 12章2節に予告されている復活に関する描写に適合します。”とあり、1918から1919年の出来事はダニエル書に予言されていたことになっています。それが、啓示11章に予言されていたことに変更になったということでしょうか?」
「もっと前の1976年発行の“その時,神の秘義は終了する”の“第19章「ふたりの証人」の死と復活”では啓示11章の預言の成就としている。JWの聖書解釈のいい加減さがよくわかるね。自分たちは聖書に予言されている特別な集団という自己満足に浸れれば、どっちでもいいんじゃないの。」

「17から19節が“エホバから委ねられている活動に励む”です。 おもしろいのは、19節に“啓示 8章から10章に出てくる天使たちの活動もサポートする必要があります。それらの天使たちは,神の王国を退ける人たちにどんな災いが臨むかを告げています。”とあって、恐ろしい災いが来ると宣伝せよと言っていることです。」
「家族の在り方や子育てについて聖書から学びませんか、などと作り笑いを浮かべながら猫なで声で話しかけるのはダメということかな。」

「19節では“とはいえ,このメッセージは受けの良いものではありません。ですから,このメッセージを伝えるには勇気が必要です。”といっています。ラザフォードの時みたいに、他の宗教に対して攻撃的に振舞うつもりでしょう。」
「それなら世界各地のカトリック地区に行って、カトリックは悪魔の手先で、間もなく滅びるとマイクでがなり立てて欲しいね。」

「最後の20節は“預言の言葉を守る”です。 啓示の書について、さらに2週にわたって取り上げると予告しています。」
「終末論をあおって、コロナで落ち込んだ士気を高めようということだろうね。」

#1383 2022年07月15日 14:30:47

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ 「ヨハネへの啓示」と神の敵たち(20)”で、啓示13章と17章のJWの珍解釈を学ぶという内容です。」
「野獣と大娼婦の話ね。野獣は“これまで人類を支配してきた全ての政府”で、“子羊のような2本の角があり,竜のように話”す別の野獣は“7番目の頭である英米世界強国”らしいね。大娼婦は“世界を惑わしている間違った宗教全体”で、啓示17章の緋色の野獣は国連だそうだ。もっと笑えるような解釈で楽しませてほしいね。」

「3から5節が“神の敵を表す「しるし」”です。 3節に“啓示 1章1節によると,「啓示」の書は「しるしによって」,つまり象徴的な言葉で書かれています。”とあります。啓示1:1に“イエスは天使を遣わし,その天使を通して,しるしによって自分の奴隷ヨハネにこの啓示を伝えた。”とありますが、協会共同訳では“それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。”となっていて“しるしによってin signs”なんて言う言葉はありません。」
「元のギリシャ語にはそんな言葉はないからね。新改訳でも“そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。”となっている。in signsが入っている英語訳もまずないよ。JWの意図的な誤訳だろう。」

「象徴的な言葉で書かれているのなら144000人だって、象徴的な数字と解釈すべきなのに、これは文字通り144000人きっかりとしているわけで、恣意的な解釈を乱発しています。」
「啓示1:1には“間もなく必ず起きる事柄”とあることを重視して欲しいね。啓示に書かれていることはヨハネが生きていた時代のすぐ後に起こるはずのことで、それから2000年後のことじゃないよ。」

「6から13節が“神の敵の正体が明らかにされる”です。 6節は“7つの頭がある野獣は何を表しているか。(啓示 13:1-4を読む。)”で始まります。」
「それで“この野獣は,これまで人類を支配してきた全ての政府を表しているに違いありません。”とある。脚注には“7つの頭がある野獣に「10本の角」があることからも,これが全ての政府を表していることが分かります。10という数字は聖書の中で,全体性を表すためによく用いられています。”と説明しているけれど、違うだろう。全体を表すとしたら7のほうだ。7は完全数と言われる。」
「野獣について細かく色々書かれていることはほとんどは無視しています。結論ありきですね。」
「野獣は啓示11:7で“底知れぬ深みから上ってくる野獣”と表現されている。底知れぬ深みというのは悪魔的力の源とされる所。旧約聖書では、海には悪魔的な怪物レビやタンとかラハブがいることになっている。地上の政府を表しているなんて断定できるわけない。」

「7節は“7つの頭のそれぞれにはどんな意味があるか。”で、答えとしては“それは,神に仕える人たちに大きな影響を与えてきた世界強国のことです。”とありまして、エジプト,アッシリア,バビロン,メディア・ペルシャ,ギリシャとローマ、そして7番目は英米世界強国だそうです。」
「ギリシャとはアレキサンダー大王が支配した国のこと?“神に仕える人に大きな影響”なんて与えていないでしょう。聖書の中にはペルシャ王は色々出てくるけれど、アレキサンダー大王なんか出てこないよ。国の選び方が恣意的なんだよ。」

「ローマから現代までの歴史は無視しているのがおかしいですし、英米世界強国などという概念は西洋史の中に存在しません。JWの創作です。」
「7節に“啓示 13章に出てくる野獣の像についての説明があります。17章10節にはこう述べられています。「7人の王がいるということです。5人はすでに倒れ,1人は今おり,もう1人はまだ来ていません。”といっているのに、同じ7節では7つの世界強国です、と断定している。理解できないね。素直に読めば7人の王だよ。」

「ダニエル書の解釈をそのまま啓示に無理やり当てはめているわけですね。」
「ダニエル7章は4匹の獣が一頭ずつ登場するのに対し、啓示13:2では“わたしの見た野獣はひょうに似ていたが,その足は熊の[足]のようであり,その口はライオンの口のようであった。”とあるわけで、ダニエル書とは相当違う。」

「複数の頭を持つ怪物は中東ではなじみ深いものじゃないですか?」
「詩編74:14に“レビヤタンの頭を砕き,砂漠に住む民に食物として与えた。”とあるけれど、頭はheadsで複数形。レビヤタンは複数の頭を持つ怪物だね。バビロニアの遺跡には7つの頭を持つ怪物が描かれているものがある。ギリシャ神話のヒドラは9つ、あるいは100の首をもつ。」
「ヒドラをヒントに日本で造られた怪獣がキングギドラで、頭が3つあって、ゴジラと戦います。」
「複数の頭がある怪物はごくありふれたもので、その一つ一つが何を表しているかという問い自体が成立するか怪しい。キングギドラの3つの頭は何を表していますかと質問したら、制作者は苦笑するだけだよ。」

「9節に“啓示 13章の続く部分では,7番目の頭である英米世界強国が「子羊のような2本の角があ」る野獣として描かれています。この野獣は「竜のように話し始め」,「大きな奇跡を行い,人類の前で火を天から地に降らせることさえ」します。(啓 13:11-15)”とありますが、滅茶苦茶です。英米世界強国は最初の野獣の7つの頭の一つと言っていたのに、ここでは2番目の野獣のことになっています。」
「野獣は2頭いる。一頭は海から上がってきた7つの頭を持つ野獣で、2頭目は啓示13:11に“さらに見ていると,別の野獣が地から上ってきた。その野獣は,子羊のような2本の角があり,竜のように話し始めた。”と描かれているもの。2頭目の地上から来た野獣は海から上がってきた1頭目とは別の存在。少なくともこれくらいは理解して欲しいね。」
「1頭目の野獣の頭の一つが英米世界強国だとしたら、2頭目の野獣は英米世界強国であるはずがありません。この簡単な理屈がどうしてわからないのか不思議です。」
「9節では“啓示 16章と19章で,この野獣は「偽預言者」とも述べられています。(啓 16:13; 19:20)”と言っている。それでも、これは英米世界強国ではないとは思いつかないんだね。結論が先にあるからだよ。」

「9節の中で最もバカバカしいのは、“このことは,第2次世界大戦の時に,実際に起きました。この戦争を終わらせる上で大きな役割を果たした2つの原子爆弾は,イギリスとアメリカの科学者によって造られたものでした。こうして,英米世界強国はいわば「火を天から地に降らせ」たのです。”という部分です。原爆=天からの火だそうです。」
「これは啓示13:13の“さらに,大きな奇跡を行い,人類の前で火を天から地に降らせることさえする。”のことを言っているけれど、こじつけの極みだ。」
「ノストラダムスの大予言から思いついたんじゃないですか。」
「原爆開発には、カナダの科学者も加わっていたけれど、それは無視するわけだね。史実を捻じ曲げている。」

「日本ではヒロシマ・ナガサキは政治問題化しやすいですから、慎重に取り扱わないと、オオゴトになりますよ。」
「広島や長崎でアホなJWが原爆投下は聖書に予言されていたことをご存じですかといって、啓示13:13を読み上げたりしないか心配だね。」
「原爆をネタに宗教の勧誘をするなと怒鳴られれば多少は懲りるでしょう。被爆者団体にJWが原爆をネタに勧誘活動して、被爆者を侮辱していますと電話したいですね。」

「啓示11:5に“2人に害を加えようとする者がいれば,火が2人の口から出て,敵たちを焼き尽くす。”と先週登場した2人の証人について書いています。こちらは真の預言者で、啓示13章の2番目の野獣は偽預言者ですが、こちらも真の預言者と似て、天から火を降らせることさえができるので、真の預言者と偽の預言者の区別が困難なことを言っているわけです。」
「天から火を降らせるというと、列王一18章にあるエリヤとバアルの預言者の対決の話が有名。18:38、39には“すると,エホバの火が降ってきて,全焼の捧げ物とまきと石と土を焼き尽くし,溝の中の水もなめ尽くした。 民は皆それを見るとすぐにひれ伏し,「エホバこそ真の神です! エホバこそ真の神です!」と言った。”とある。この話を前提にして、2番目の野獣は、天から火さえ降らせる本物そっくりの偽預言者だと警告しているわけだ。原子爆弾なんか持ち出すなよ。無神経だな。」

「10節も理解できません。“この野獣は,「野獣の像」,また「8人目の王」と呼ばれています。(啓示 13:14,15; 17:3,8,11を読む。)”とありますが、野獣=野獣の像はありえません。」
「啓示13:14では2番目の野獣が地上の人たちに1番目の野獣の像を作るように命令している。野獣の像は野獣じゃないよね。滅茶苦茶だね。」

「啓示17章の緋色の野獣と野獣の像は別なのに、JWは同一のものと誤解していますね。」
「啓示17章の緋色の野獣は“7つの頭と10本の角があった。”とあることから、啓示13章の最初の野獣だよ。」
「啓示17:11に“かつていたものの今はいない野獣は,8人目の王でもあります。7人の王から生まれて,やがて滅びます。”とありますが、この野獣は啓示13章の初めの野獣とみていいのですか?」
「そうだよ。啓示13章の最初の野獣は、海から上がってくるものの、13:3で“野獣の頭の1つが傷つけられ,死んだかのように見えた。しかし,その致命的な傷は治り,全世界の人々は感服して野獣に従った。”とある。かつてはいたけれど今はいないが、やがて生まれるという3段階を経るわけだから同じとわかる。」

「ところが10節では、“この表現は,世界的な政治体制のために活動している国際連合機構にぴったり当てはまります。この組織は,初め国際連盟として登場し,第2次世界大戦の時に存在しなくなり,現在,国際連合として再び現れています。”と、啓示17章の野獣=国際連合という珍説を言っています。」
「国際連盟が存在しなくなったというのは事実に反するよ。戦争中も細々と存在していて、国際連盟の下部機関、例えば国際労働機関(ILO)なんかも活動していた。」

「11節で“政治勢力を表しているこれらの野獣は”とあります。この解釈は政治好きのJWらしいですよね。」
「JWに課された重大な使命はエホバの宇宙主権の正当性を立証すること、というような教義があったよね。主権はどこにあるかは政治問題そのもので、全く宗教団体らしくないよ。」
「啓示は宗教的な書物なのに、JWが政治闘争の本と決めつけている点が理解できません。」
「JWは世界中の政府とサタンを相手に宇宙的な政治闘争をしているという妄想を抱いている奇妙な宗教団体だからだよ。」

「13節が“私たちは何をすべきか。”で、“政治的な事柄に関して中立を保つ必要があります。”とあるのですが、その後に“この圧力に負ける人は野獣の印を受けます。(啓 13:16,17)”と続きますが、JWは啓示を政治的に解釈するので、政治的中立が何より大事ということになるわけですね。」
「啓示13:17には野獣のしるしを受けなかった人がどうなるか書かれているけれど、“売り買いできないようにする。”とあるよ。これは無視だね。」
「JWは野獣のしるしを受けていない人なんですよね。売り買いができなくなったということはありますか?ないでしょう。」
「JWは政府からの迫害を想定しているようだけど、売り買いができなくなるというのは、政府からではなく地域住民からの迫害だね。JWだけを対象にした売買禁止法なんてできるわけないよ。」

「14から18節は“大娼婦の不名誉な最期”です。 啓示17章の大いなるバビロンの話です。15節は“「大いなるバビロン」とは何か。”で、答えは16節で“世界を惑わしている間違った宗教全体”だそうです。」
「啓示17:18には“あなたが見た女は,地上の王たちを支配している大きな都市を表しています”とあるのに、これは無視。大娼婦は都市だよ。」

「17節は“大いなるバビロンはどうなるか。”で、結局滅びるのですが、どのように滅びるかというと“エホバは,国々が緋色の野獣つまり国際連合を用いて,世界を惑わしている間違った宗教全体を攻撃し,それを完全に滅ぼすようにします。(啓 18:21-24)”と解説していますが、実現しそうもないですね。」
「国連にはそのような権限も力もないことがわからないのかな。国連が主権国家に何かを命令し、その実行を迫ることなんかできない。」
「エホバが超自然的な力を発揮するということじゃないですか?でもそれなら国連という機関を使用する必要はありませんね。」
「啓示の書に対する珍解釈は色々あるけれど、国連、国連といっているのはJWだけ。いったい誰が思いついたのかな?」

「19、20節が“神の最大の敵に対する裁き”です。 啓示12:3の“火のような色の大きな竜”がサタンで、20節は、“竜はどうなるか。”で、1000年間閉じ込められた後、永遠に滅ぼされるらしいです。めでたいですね。」
「JWの教義では、人間の99.9%は乳幼児を含めて間もなく永遠に滅ぼされるのに、サタンは1000年間も生かされるとは、そのあまりの不公平に驚くね。」
「ある凶悪な独裁国家を核攻撃して国民の99.9%を殺したのに、その独裁者だけは懲役10年でそのあと釈放するといったくらい不公平で、馬鹿げでいます。」

「ここで啓示12章の話に戻るのはへんだと感じてほしいね。ここまでは啓示13から19章の話だったのに、サタンが天から落とされるのは12章の話だよ。時系列が滅茶苦茶だ。」
「啓示12章の竜たちがミカエルたちと戦って、敗北し、天から地へ投げ落とされるのは、13章以降の野獣に関する出来事の前ですよ。JWの解釈の適当さがよくわかります。」

「この1000年間についても、大昔からいろいろな解釈がなされてきたけれど、JWは文字通り1000年間地上でキリストの統治が続くと解釈しているわけだ。」
「最後の21節に“では,神の敵たちが滅ぼされた後,忠実な人たちにはどんな祝福が与えられるのでしょうか。この点については次の記事で考えます。”とあります。来週も啓示の書についてのJWの珍解釈を学びます。」

#1384 2022年07月22日 14:22:18

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ 「ヨハネへの啓示」と私たちの将来(21)”で、主に啓示20,21章を取り上げ、楽園幻想をあおって、信者をさらにこき使おうという内容です。」
「自分たちだけが楽園で楽しく暮らし、ほかの人類は神に無残に殺されると夢想して、自分たちを慰めようということだね。」

「1節がいいですよ。“今,人々は重大な決定を迫られています。宇宙を治める正当な権利を持っているエホバ神を支持するか,神の敵である邪悪な悪魔サタンを支持するか,という決定です。”とアジっています。JWのやっていることは政治運動なんですね。」
「アジるというのは、左翼系の労働運動の言葉なんだよ。アジテーション(扇動)から作られた日本語。サボるも同じように労働運動の言葉で、サボタージュから来たんだけど、その意味はストライキ中に工場の機械などを破壊することで、怠けるという意味ではなかった。」

「JWの大好きな中立という立場はどうなんですか。サタンもエホバも支持したくないです。」
「JWは、次の選挙ではエホバと書かないと殺すぞと脅かす危険な政治団体のようなもので、中立は許さない。」

「2節で“あなたがエホバの統治を支持することにしたのは,賢いことです。そして今度は,ほかの人が正しい決定をできるように助けたいと思っていることでしょう。”とあります。これは同志を増やせという指示で、オルグというやつですね。」
「オルグはオルガナイザー(組織者)からきた言葉で、元は左翼系の労働組合用語で、運動を組織、拡大したりするという意味。メッセージの中身は違うけれど、JWは左翼系の労働運動とやっていることはほとんど同じということ。どちらも現代では衰退しつつある。」

「共産党のHPに“入党の呼びかけ”という所がありまして、共産党に入党する気はないですが読んでみたら、JWとよく似ているので驚きました。」
「“党員みんながとりくむ「4つの大切」”というのは、そのままJWにも使えるね。」
「そこには、① 支部会議に参加します、② 党費をきちんと納めます、③ 「しんぶん赤旗」日刊紙を読みます、④ 学習につとめ、活動に参加します、とあります。JWなら集会に参加し、寄付をきちんとおさめ、組織の出版物を読み、学習に勤め、奉仕活動に参加します、となりますね。」
「党費は“実収入の1%”とあるよ。それから“日刊紙は月3497円(税込)です。家計が苦しくても、支部で相談して購読できるようにしましょう。”とあるのは、泣けるね。共産党員も貧乏な人が多いのだろう。それでも、赤旗は購読して読めという命令だ。間違ってもJWをやめて共産党に入るのはやめよう。」

「4から7節が“忠実な人たちを待ち受けていること”です。 144000人の話です。4節に“1つ目のグループの人数は,14万4000人です。(啓 7:4)”とあります。その引照聖句には“それは14万4000人であり,イスラエルの子孫の全部族の中から人々が証印を押された。”ですが、イスラエルということを全く無視しています。」
「新約聖書でイスラエルというと、ユダヤ人のこと。救われるのはユダヤ人では144000人と言っているだけ。象徴的なら12×12×1000なので、全てということになる。」

「5節には“大患難の間のある時点で天に取られ,死に至るまで忠実を保ってすでに天に復活している者たちに加わります。そして,神の王国でイエスと共に統治を行います。(マタ 24:31。啓 5:9,10)”とあります。引照聖句はそんなことは言っていません。」
「天に行く144,000人と地上で暮らす大群衆の教義はJW独自の教義だから、聖書とは関係ないよ。JWのたわごと。」

「8から10節が“神に反対する人たちを待ち受けていること”です。 JW独自の終末予想です。8節で“この世界の政治体制は間もなく,大いなるバビロン(世界を惑わしている間違った宗教全体)を攻撃します。(啓 17:16,17)この攻撃によって大患難が始まります。”といっています。これでは“間もなく”とありますが、大患難は当分来ませんね。JWが大患難で苦しむということはなさそうです。よかったじゃないですか。」
「9節で“そして,諸国家の連合体は,エホバに仕える世界中の人たちを攻撃します。この行動は,聖書の中で,マゴグのゴグによる攻撃として描かれています。(エゼ 38:14-16)”となぜか、エゼキエル書に跳ぶ。新約旧約どこからでも、終末論に使えそうなものなら、無節操に聖句を引っ張ってくるのがJWだ。」

「でも、エゼキエル書ではマゴグのゴグは終末論と無関係ですよ。」
「ゴグはイスラエルに攻め込むものの敗北することになっているから終末論とは無関係だね。エゼキエル書ではマゴグは地名なのに、啓示20:8で“ゴグとマゴグを惑わし”とあるように、なぜか人名になっている。ヨハネの勘違いだろう。」

「10節で“エホバは,ご自分に仕える人たちを守り,敵を打ち負かすために,独り子イエスを遣わします。イエスは,忠実な天使たちと14万4000人から成る「天の軍勢」と共に戦います。(啓 17:14; 19:11-15)その結果,エホバに反対する人たちと組織全てが,完全に滅ぼされます。(啓示 19:19-21を読む。)”と、再び啓示19章に跳びます。」
「“忠実な天使たちと14万4000人から成る「天の軍勢」”なんて聖書のどこにも書いていない。JWの創作だよ。それにしても暴力が大好きだね。」

「11から13節が“戦いの後,子羊が結婚する”です。 12節で“子羊が結婚するのは,ハルマゲドンの戦争が終わり,神の敵全てが除かれた後です。(詩編 45:3,4,13-17)”と言っています。その根拠に詩編を持ってくる点でインチキですね。恣意的な引用です。」
「啓示18章で大いなるバビロンが倒れる。19:1-5が大いなるバビロンが倒れたことに対する感謝の言葉で、19:6-10が子羊の結婚に対する感謝の言葉という内容。子羊の結婚は大いなるバビロンが倒れた後だよ。子羊の結婚後に、19:11-21で白馬軍団が野獣や偽預言者を生きたまま火の湖に投げ込むという展開。」
「JWの教義では、多いなるバビロン(偽りの宗教)が倒れた後、マゴグのゴグ(諸国家の連合体)がJWを攻撃し、天の軍勢がやってきてそれらを打ち破るというもので、大いなるバビロンの滅亡はこのシナリオの最初のほうなので、勝手に結婚されては困るのです。」

「13節に“「花嫁」である14万4000人”とあるけれど、そんなことは聖書のどこにも書かれていない。新約では花嫁は信者集団あるいは教会のこと。」
「パウロはコリント二11:2で“私が皆さんを,1人の夫つまりキリストと婚約させました。皆さんを貞潔な処女として差し出したいと思っています。”と書いていますね。」
「エフェソス5:31,32では“「それで,男は父と母から離れて妻にしっかり付き,2人は一体となります」。この神聖な秘密は奥深いものです。私はキリストと会衆について述べています。”とある。キリストの花嫁は144000人の選ばれた信者なんてどこにも書いていない。」

「啓示20:4,5に” 私が見たのは,イエスについて証言し,神について語ったために処刑された者たちだった。野獣も野獣の像も崇拝せず,額と手に印を受けなかった者たちである。彼らは生き返り,1000年の間キリストと共に王として治めた。”とあります。要するに殉教者ですよ。JWの自称・天に行く人って、これから殉教するつもりなんですか?」
「そんな人は統治体の老人にはひとりもいないだろう。うまいものをたらふく食って、うまい酒をたらふく飲んで、膨らんだ腹をなでながら長生きするつもりだよ。」

「14から17節が“輝かしい都市とあなたの将来”です。 啓示21章の話です。JWは啓示21章にかかれていることは千年統治の出来事としていますが、違いますよね。」
「千年統治の話は20章で終わっていて、21章は千年統治後の話だよ。」

「14節で“啓示 21章では,14万4000人が「新しいエルサレム」と呼ばれる非常に美しい都市としても描かれています。(啓 21:2,9)”とありますが、違いますよね。」
「“新しいエルサレム”は花嫁となっている。JWの教義では14万4000人はキリストの花嫁と決めつけているので、14万4000人=新しいエルサレムということなんだろう。」
「14万4000人の教義がJWの聖書解釈をいかにゆがめてしまったかということですね。でも今さら変更できないのでしょうね。」

「15節で“この象徴的な都市は,ほかの都市とは全く異なっています。”といって、啓示21:15-21が引照聖句になっている。“天使がアシで都市を測ると,2220キロだった。長さも幅も高さも等しい。天使は都市の城壁も測った。それは人間の尺度によると64メートル”となっているけれど、この数字の表記は問題だ。」
「協会共同訳では、それぞれ一万二千スタディオン、百四十四ペキスとなっています。12の倍数ということに意味があるのですね。」
「象徴的な都市なので、それが象徴しているものが大事で、実際の長さなんてどうでもいいの。12というのは完全性をあらわす数字なので、12の倍数からできている都市ということで、その完全性を示したいだけ。」
「144000人と関連するからじゃないですか?144000は12×12×1000なわけで、どう見ても象徴的な数字で、実際の数をあらわしているわけではないと信者に気づかれそうなので、現代の単位で表記したということですよ。」

「16章に“千年統治の期間中に地上に生きている人たちは全て,こうした祝福を経験します。エホバに従う人たちは,徐々に完全さへと引き上げられます。病気も苦痛も悲しみの涙ももはやなくなるのです。(啓 21:3-5)”と、啓示21,22章のことを千年統治期間のことと誤解している。」
「“徐々に完全さへと引き上げられます。”なんてことは、聖書のどこにも書いていません。」
「不完全から完全になるとはどういうことなのかな?脳細胞が変化するのか?遺伝子の配列が変わるのか?具体的に説明はどこにもないよ。」

「17節に” 誰がこうした祝福を経験するのでしょうか。まず挙げられるのは,ハルマゲドンを生き残った大群衆と,新しい世界で生まれてくるであろう子供たちです。”とあります。新しい世界でも、子どもが生まれるようです。」
「そうやって婚期を逃し、子どものいない年老いたJWに希望を与えているわけだ。以前は、新しい世界では結婚はないと言っていたのに、その後結婚があるかどうかわからないというふうに変えたからね。あいまいにして希望を持たせる作戦だね。」
「2014年8月15日号の“読者からの質問”ですね。“イエスはサドカイ人に,復活した人は「めとることも嫁ぐこともありません」と言いました。(ルカ 20:34-36)この時イエスは,地上での復活について述べていたのでしょうか。”という質問に対して、“新しい世で地上に復活する人が結婚できるかどうかについて,イエスの言葉からは何も分かりません。”が答えですね。」
「楽園での生活がどうなるかなんて、誰もわからないよ。適当に想像しているだけ。」

「17節で“では,死んだ人全てが復活してくるということでしょうか。そうではありません。生きている間にエホバに仕えるチャンスがあったにもかかわらず,それをあえて退け,楽園となった地球で生きるのにふさわしくない者であることを自ら示した人たちは,復活することはありません。”と書いていますが、これも滅茶苦茶な教義ですよ。」
「イスラム圏やインド、中国の人はエホバなんか知らないから全員復活。アメリカやヨーロッパでは一度くらいJWと出会ったことがある人が大勢いるので、復活する人は少ないということだね。新しい世界では白人はほとんどいないということかな。」

「小学生の時、同級生にJWがいた人はどうなんでしょうか?その後JWに接することなく死亡した場合、エホバに仕えるチャンスがあったといえるのですか?」
「もちろんあったよ。その人は復活しないね。これが正しいとすると、子どもの時からJWだった人は、周りの子どもから復活できるチャンスを奪ったことになる。罪深い人だ。」
「伝道なんかしない方がよかったわけですね。なまじ伝道なんかするから、楽園で復活できなくなる。」
「そういうわけで、JWは復活して欲しくない人たちを主な対象に伝道しているんじゃないの。」

「18,19節が“最後の試練”です。 18節に“アダムが犯した罪の結果生じたさまざまな悪いことは全て除かれています。こうして,地上の人たちは1000年の終わりにいわば「生き返」り,完全な人間となっているのです。(啓 20:5)”とあるのですが、これってへんですよ。」
「啓示20:5は“(残りの死者は1000年が終わるまで生き返らなかった。)これは第一の復活である。”というもので、前半部分の解釈だね。1000年かけて完全な人間になるから、1000年が終わるまで生き返らないという意味と解釈したようだ。」

「1974年5月1日のものみと塔の“読者からの質問”に“啓示 20章5節は,「残りの死人は千年が終わるまで生き返らなかった」となっています。この聖句は,キリストの千年統治後,死人の復活があることを示すものですか。”というのがありまして、答えは“いいえ”で、“義とされた,つまり義と宣せられて永遠の命を与えられたという意味で「生き返る」のです。”と言っています。つまり比ゆ的に生き返るというわけですが、納得いきませんね。」
「自分たちの教義でうまく説明できないことは、比喩的とするか、全く無視するのがJWということ。」

#1385 2022年07月29日 14:24:03

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“幸せに生きるための知恵 (22)”で、お金、仕事、自分自身について、ソロモン王とイエスからJW的に正しい見方を学ぶという内容です。」
「つまり、この記事に書かれていることの反対が正しいこととして読むべきということだね。」

「4から7節が“お金に対する見方”です。 お金ではなくエホバが大事だといういつもの説教です。」
「この記事で話題になっているのは車が出てくる写真。左側にはポルシェ911、右側にはトヨタRAV4XLEが写っている。脚注には“ジョン兄弟は自分の車の手入れのために多くの時間を使っている。一方,トム兄弟は自分の車を使って,兄弟姉妹が伝道に参加したり集会に出席したりできるよう助けている。”とある。」
「トヨタRAV4は350万前後の価格です。奉仕活動に熱心なトム兄弟はどうやってこの車を手に入れたのでしょう?」
「アメリカでは、多くのJWは車のローンを申し込んでも審査に通らないよ。」
「ポルシェを磨いているジョン兄弟は幸せそうです。人の幸せにケチをつけるなんて、いやな宗教です。」

「二人乗りのスポーツカーではなく、多くの兄弟姉妹を乗せられるような車を買えという指示だろうけれど、この兄弟は、ただ乗りするだけで、感謝もろくにしないJWを乗せたくないから、二人乗りのポルシェを買ったんだよ。」
「プロパガンダ用の写真でも、トヨタRAV4ではなく、もっと安い車にすれば本当らしさが出たと思います。でもJWの誇りと見栄がそれをさせなかったんでしょう。謙遜さって大事ですね。」
「写真のポルシェはけっこう古いタイプ。お金がなくて、撮影用に最新のポルシェを借りられなかったんだろう。お金って大事だね。」
「こんなところにも組織の衰退がうかがわれますね。」

「5節に“ソロモンは,お金は「身の守り」である,と述べています。(伝 7:12)”とあるけれど、引用の仕方が問題だ。7:11、12がひとまとまりだよ。7:11,12で“知恵に加えて財産があるのは良いことであり,人にとって役に立つ。お金は身の守りであり,知恵も身の守りである。しかし知識や知恵の利点は,人の命を保たせることだ。”とある。」
「知恵プラス財産がよいことだというわけですね。JWの多くは知恵もないし財産もないという悲惨な状況ということですね。」
「伝道6:8に“貧しい人が生き抜く方法を知っているからといって,何の得があるだろう。”とあるように、お金とそれを賢明に使うための知恵があればよいけれど、知恵だけあっても無意味だというわけだ。」

「翻訳ですが、協会共同訳では7:12は“知恵の陰は銀の陰。/益となるのは/知恵がその持ち主を生かすと知ること。”となっていて、JW訳と相当違います。」
「協会共同訳は字義通りの訳。JW訳はそれに解釈を入れて“お金は身の守りであり,知恵も身の守りである。”とした。でも“陰”が“守り”という意味かどうかははっきりしない。伝道6:12に“人は,短くてむなしい生涯を送り,それは影のように過ぎる。”(JW訳)とあり、陰も影も同じ単語だけど、ここでは短くて空しいことの比喩となっている。」

「6節には、JW定番の“王国を第一にするなら,必要なものはエホバが必ず与えてくださる,とも教えました。(マタイ 6:31-33を読む。)”という説教が出ています。JWは“王国を第一”を伝道活動や集会参加や建設プロジェクトを熱心に行うことと誤解し、そうしていれば必要なものが天から降ってくると信じているようで、非常に滑稽です。」
「7節にダニエル兄弟の話がでているけれど、“生活をシンプルにしてきたので,自分の時間や能力や技術を用いてエホバの組織のさまざまなプロジェクトに参加することができています。”と言っている。統治体の吹く笛に踊らされているだけ。嘆かわしいね。」

「ダニエル兄弟が建設に関わった王国会館の中には売却されて、今や別の宗教の集会所になっているものもあると思いますよ。“いま得ている友情や,王国を第一にすることから来る満足感は得られなかったことでしょう。”と言っていますが、JWの友情など条件付きのもので、今得ている満足感はやがて徒労感に変わることを知らないようです。」
「この男は怪我でもして、働けなくなったらどうするつもりなんだろうね。何も考えていないよね。嘆かわしい。若い人はマネしないようにね。」

「8から11節が“仕事に対する見方”です。 8節に“ソロモン自身,勤勉に働く人だったからです。家を建て,ブドウ園や庭園や池を造り,町を築くこともしました。(王一 9:19。伝 2:4-6)”とあります。根拠となる聖句は伝道2:4-6の“私は大きな仕事に取り掛かった。自分のために家を建て,ブドウ園を造った。 自分のために庭園や公園を造り・・・”なのですが、ソロモンがそんなことしますか?」
「伝道の書の著者をJWはソロモンと決めつけているからね。実際は違う。伝道の書は格言にあるような善人は栄え、悪人は滅びるといった通俗的な道徳観を否定している。これはかなり後の時代の思想。使われているヘブライ語は旧約聖書の中で最も新しい時代のもので、アラム語やペルシャ語の混用やギリシャ文化の影響もうかがえる。およそ前300から250年頃に書かれたと推定される。」

「8節に“ソロモンは,一番大切なのはエホバへの崇拝に関係した活動だ,ということを理解しました。それでこう述べました。「全てを聞いた今,結論はこうだ。真の神を畏れ,その方のおきてを守りなさい」。(伝 12:13)”とありますが、本当の結論は伝道12:7の“こうして,人は土に戻る。元々,土でできているからだ。生命力も真の神のもとに戻る。神が与えたものだからだ。”じゃないですか?」
「そうだろうね。伝道12:8-14の最後の7節は後から書き加えられた編集句でしょう。12:8-10に“招集者は言う。「何とむなしいことか! 全てはむなしい」。招集者は賢くなっただけでなく,知っていることをいつも人々に教えた。また,多くの格言をまとめるために,思い巡らし,徹底的に調査した。 招集者は,喜ばれる言葉を探し,真実を正確に記録しようと努めた。”とあるけれど、作者のことを招集者と呼んで、作者を賛美している部分。作者自身がこんなことを書くわけがない。」

「9節に“イエスは大工としての仕事を楽しんでいたに違いありません。”と勝手な推測をしていますが、どうですか?」
「イエスの前半生については何もわからない。大工の仕事なんかしてなかったと思うよ。若くして家を飛び出し、バプテスマのヨハネか誰かの弟子となっていたんじゃないの。イエスは福音書では最初から完成された人間として登場し、周囲の人を驚かしている。」

「その続きで“それでも,その仕事に勤勉に打ち込みつつ,エホバに仕えるための時間をきちんと取り分けました。(ヨハ 7:15)”とあるのですが、引照聖句はそんなことは言っていません。ただ“ユダヤ人たちは非常に驚いて言った。「どうしてこの人は,学校で学んだこともないのにこんなに聖書の知識があるのだろう」。”といっているだけです。」
「イエスは大工の仕事に熱心だったと勝手に決めつけて、仕事の合間に熱心に勉強したとさらに推測しているだけ。推測に基づく推測。聞き流していいよ。」

「9節の下に2枚目の写真があり、脚注には“ジョン兄弟は残業をしている。上司を喜ばせたいと思っているので,残業を頼まれた時にはいつも引き受けている。同じ晩,援助奉仕者であるトム兄弟は,長老の牧羊訪問に同行している。”とあります。でも、トム兄弟はトヨタRAV4を買うお金をどうしたのかが気になって、これ以上本文を読む気がしなくなります。」
「トム兄弟は長老を喜ばせたいと思っているので,同行を頼まれた時にはいつも引き受けている、だけ。本質は何も変わらない。でもジョン兄弟は残業代が入り収入が増えるのに対し、トム兄弟は無給で、さらにただで車を使われるという違いがある。自分の働きに正当な敬意も報酬も払わない人を大事にする必要はないよ。」

「11節の経験談ですが“[その兄弟]は,仕事に関してバランスの取れた見方をする点で良いお手本です。一生懸命に働く人で,いい仕事をするので顧客との関係もばっちりです。”とあるのですが、“ばっちりです”とは変な訳ですよ。ふざけてんのか、と言いたいです。」
「勉強不足だね。he has a good rapport with his clientsだけど、rapportという単語の意味がよくわからなかったのかもね、ラポートを築く、といういい方は日本語化しているけれど、翻訳者は無知で知らないのだろう。それで“ばっちりです”なんて、バカ丸出しの翻訳をしたんだろう。」

「12から15節が“自分に対する見方”です。 13節に“「他の全てのものは,天のものも地上のものも,[イエス]を通して創造された」とあります。(コロ 1:16)”と書いていますが、これは問題のある部分ですね。」
「イエスを通して創造されたという訳が問題だ。コロサイ1:16はイエスによって万物が創造されたと言っている。それはJWのイエス観と一致しないので、イエスを通してエホバが創造したという意味になるよう訳を変えた。教義に合わせて聖書を変えた例の一つだね。」

「13節に、イエスは“また,自分からは何一つ行えないことを慎み深く認めました。(ヨハ 5:19)本当に素晴らしい謙遜さです。”とあります。引照聖句には“子は自分からは何一つ行えず,父がしていることを見て行えるにすぎません。”とありますが、これは謙遜した言葉ですか?」
「どういう文脈かというと、イエスは安息日に病気の男を癒したことで、敵意を持たれた。それに対してイエスは、5:17で“私の父は今までずっと働いてきました。それで私も働き続けています。”と答える。5:18で“このため,ユダヤ人たちはますますイエスを殺そうとするようになった。安息日を破っているだけでなく,神を自分の父と呼んで自分を神のような者としている,という理由だった。”という事態に発展する。それに対して5:19で“子は自分からは何一つ行えず,父がしていることを見て行えるにすぎません。”とイエスが言うというもの。」

「謙遜した発言ではなく、自分に向けられた非難に答える発言ですね。自分のしていることはすべて神に由来しているのだから、文句があるなら神に言えというような意味ですよね。」
「イエスは神との一体性をいっている。ヨハネではイエスはほとんど神と同一の存在。ヨハネ14:8で、フィリッポが“主よ,私たちに父を見せてください。それで十分です”というと、イエスは14:9で“私を見た人は,父をも見たのです。どうして,『父を見せてください』と言うのですか。”と答えている。」

「14節がへんです。“イエスは弟子たちに,自分に対してバランスの取れた見方をするよう教えました。ある時,「あなたたちは髪の毛まで全て数えられています」と言いました。(マタ 10:30)これはつまり,天のお父さんエホバが,私たちのことを深く気に掛け,高く評価してくださっている,ということです。”とあるのですが、聖句の誤用ですよ。」
「マタイ10:30はどういう文脈の言葉かというと、人を恐れるな、神を畏れよと言った後、その理由を述べている部分。初めはスズメの話で、“その1羽でさえ,天の父が知らないうちに地面に落ちることはありません。”という。その後に髪の毛の話となる。」
「あなたはスズメ以上の存在でしょう、あなたの生死だけでなく髪の毛の数こと、つまり非常に些細なことまで神様は気にしておられるというのが、10:31の“ですから,恐れることはありません。あなたたちはたくさんのスズメより価値があるのです。”の意味なわけですね。」
「“高く評価してくださっている”というのは不正確で、スズメより高く評価してくださっているならいいよ。当時は、スズメは貧しい人の食料だった。」
「日本でもすずめ焼というのがありますよね。千葉県佐原市では魚の料理でしたけれど。」

「自分に対してバランスの取れた見方をするといっているけれど、JWはそれが難しいということだね。」
「JWでいると、もっと頑張れ、もっと努力しろと絶えず要求されて、それにこたえられない自分を責めたり、罪の意識を持つようになりますね。それで、自己評価は低くなります。」
「カルト宗教は意図的に信者の自尊心や自立心を奪い、宗教に依存させようとするわけだけど、JWはそれが効きすぎて、高い確率でうつ病を発症するまでになり、組織のお荷物となっているので、自分に対するバランスの取れた見方をするようにと言っているのだろう。」

「14節の下に3枚目の写真がありまして、脚注に“ジョン兄弟は自分のことばかり考えている。一方,トム兄弟はエホバを第一にしているので,大会ホールの改装の際に新しい友達をつくることができている。”とあります。この写真を見ると、トム兄弟は無給の仕事ばかりしていて、トヨタRAV4を買うお金をどうしたのかが気になって、これ以上本文を読む気がしなくなります。」
「ジョン兄弟は自分の人生を楽しんでいるのに対し、トム兄弟はおかしな宗教のいいなりになって搾取され、人生を空費している、と普通の人は評価するよ。」
「トム兄弟は3人で写真を撮っていますが、10年後もJWに留まっているのは、せいぜい一人でしょう。」

「最後の16節に“エホバを第一にするなら,賢い生き方ができ,最高の幸せを味わうことができます。”とあります。この逆が正しいですよ。」
「そのとおり。エホバを第一にすることは愚かで不幸な生き方です、と読み替えて欲しい。」

#1386 2022年08月05日 14:44:45

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“親の皆さん,エホバを愛するようお子さんを助けてください (23)”で、子どもをうまく手なずけて、JWにならせる方法を学ぶという内容です。」
「新しい信者を獲得するには、信者の子どもを信者にするのが確実だからね。でも子どものいないJWの方が多いでしょう。統治体は、もっと前から、産めよ、育てよ、JWにせよ、と子作りを義務化しておけばよかったと悔やんでいるよ。」
「それは間もなく終わりが来るから、全てを投げ捨てて奉仕活動に集中すべき、というJWのタテマエと両立しませんよ。」
「ということは、JWは新規加入者が増え続けなければ持続不可能な宗教で、新規加入者が望めなくなると、信者の高齢化とともに衰退するしかないということだね。」

「3節に“とはいえ皆さんは,エホバについて単に伝えるだけでなく,エホバを心から愛するよう教えたいと思っていることでしょう。”とありますが、そうでないJWの親も結構いると思いますよ。特に2世のJWは自分の子どもに自分と同じ苦労をさせたくないと感じていますよ。」
「自分の子どもが輸血が必要になっても、輸血を拒否して死なせます、と自信をもって言える人だけが、自分の子どもをJWにさせる資格があります、とこの記事で言って欲しいね。」

「4から15節が“親の助けとなる4つの教え”です。 安直なアドバイスが4つ出ています。4-6節が“(1)エホバに導きを求める。”です。要するに組織が出している出版物を読めということです。」
「聖書の推奨する子育てというと、格言13:24“むちを控える人は子供を憎んでいる。子供を愛する人は懲らしめを怠らない。”でしょう。子どもは動物とそう違わないから、ビシビシとムチでたたいて教育するのがいいという思想。」
「格言23:13,14も“少年を懲らしめるのを控えてはならない。むちで打つ場合,彼は死なない。 彼をむちで打つべきである。彼を墓から救うためである。”と、体罰万歳と言っています。」

「格言29:15では“懲らしめと戒めは知恵を与えるが,しつけられていない子供は母親に恥をかかせる。”とある。“懲らしめ”と訳しているけれど、元のヘブライ語は“杖”。杖でたたくのも聖書的には推奨だね。」
「古いJW訳では“むち棒”と意味不明の訳をしていましたが、“懲らしめ”は誤訳ですよ。体罰はよくないと聖書に反する考えを悪魔から吹き込まれたとしか思えません。」
「英語版では、新しいJW訳でもrodで、杖か棒としか訳せないね。“世の人”から非難されないように、日本語の翻訳者は意図的に誤訳している。」

「聖書から子育てを学ぶとろくなことはないということですね。」
「聖書の推奨する子育てや家族観は、古代の中東の文化に基づくもので、現代では有害なことが多い。」

「6節に“エホバが組織を通して与えてくださっている助けに,多くの親たちが心から感謝しています。”と、自画自賛しています。バカですね。」
「本当に感謝の言葉がたくさん寄せられるんじゃないの。不平不満を抱いた人は沈黙するだけだから。統治体には偏った良い情報しか届かない仕組みができているだろうから、恐らく自分たちのしていることの正しさに100%自信を持っているよ。独裁者によくあるうぬぼれだね。そして、うまくいかないのは末端の信者が悪いということで片付けられる。」

「7-9節が“(2)手本によって教える。”です。親自身がよきJWになれということのようです。」
「7節で“子どもはスポンジのように親の言うことやすることをすべて吸収します。言うこととすることが少しでも違うと,そこをついてきます。”とあるけれど、親に言うこととやっていることが違うじゃないか、と文句の言えるJWの子どもはそれほど多いとは思えないな。JWは子どもに盲目的な服従を要求しているだろう。」
「聖書の権威を振りかざして、批判を封じるのがよくあるJWの親ですよ。」
「そうなると、初めのころは親に文句を言っていた子どもも、いうだけ無駄と知り、やがて沈黙するようになる。」

「10-13節が“(3)子供とよく会話する。”です。10節では“エホバは,ご自分について子供にどんな時にも教えるよう,古代のイスラエル人に命じました。(申命記 6:6,7を読む。)”とあります。“家で座るときも,道を歩くときも,寝るときも,起きるときも”とありますが、そんなこと実行できませんよ。」
「座るときも歩く時も、寝るときも起きる時もというのは、正反対あるいは両極端のことを対にして述べるという文学的技法で、merismという。新約でもアルファからオメガまでという表現がある。文字通りの意味ではないよ。」

「申命記6:6,7を引用するなら、次の6:8,9の“それを思い起こすためにあなたの手に結び,額にある帯のようにしなければなりません。それをあなたの家の戸口の柱と門に書きなさい。”も引用して、JWに実行させるべきですよ。」
「今でもユダヤ人の中に、テフィリンと呼ばれるものを身に着け、それを実行している人がいるよ。まずは統治体の老人から実行して欲しい。」
「JWは聖句を恣意的に選んで、信者に圧力をかける道具に使うだけですね。」
「だから信者は聖書嫌いになる。」

「10節では古代イスラエルを美化しています。“イスラエル人の親には,一日の中で,子供と話し,エホバを愛するよう子供を教える機会がたくさんありました。”とあります。見てきたようなウソですよ。」
「7節に“親は,こうして子供と一緒に働く時に,大切なことについて話し合うことができました。”とあって、昔は親と子どもが一緒に働いたから、その時いろいろ教えたはずと推測している。教育というものを誤解しているね。」

「親が意図的に子供に教えるということは前近代的な社会では、極めてまれなんですよね。7節に“例えば,男の子は,作物を植えたり収穫したりして,父親と一緒に長い時間働いたことでしょう。”といっていますが、執筆者は農作業の前に父親が黒板を使って農作業の仕方を子どもに講義すると思っているんじゃないですか?」
「前近代的な社会の教育は、親のすることを真似ろ、やりながら覚えろ、というもので、言語的な説明はまずない。今の日本でも職人の世界では似たようなものでしょう。」

「それから執筆者は古代の労働の厳しさを理解していませんよ。おしゃべりしながらダラダラとやるJWの奉仕活度と同じようなものと誤解していますね。」
「おしゃべりしていたら、口を動かさずに手を動かせ、と殴られるのが古代の社会じゃないかな。」

「11節では家族の崇拝を熱心にやるように、12節では家族の崇拝を楽しい時間になるように指示しています。」
「12節で“子供が聖書の教えに沿わないことを言うとしても,怒ったりしないようにしましょう。”と言っている。これは素晴らしいね。JWの子どもはどんどんJWのおかしな点を言ってみよう。怒られたら、この記事を見せればいい。」
「怒らないかもしれませんが、殴られます。JWの親を甘く見てはいけません。」

「13節のリサ姉妹の話がバカバカしい。」
「“私たちは,創造物を活用して,エホバのことを子供たちに教えました。例えば,うちの犬の面白いしぐさを見て子供たちが笑った時には,エホバがユーモアのセンスがある方で,私たちと同じように楽しいことが好きな方だ,ということを伝えるようにしました。”とありますね。犬の面白いしぐさとエホバって何か関係あるのですか?」
「犬は神の創造物じゃないでしょう。犬の祖先はオオカミ。オオカミを人間が品種改良して今の多様な犬ができた。」

「犬って自分のお尻をなめたりします。その場合、子どもにエホバがどういう方と教えたらいいのかリサ姉妹に質問したいです。犬はフンを食べたりするけれど、それについても聞きたいです。」
「犬の交尾では、いつまでもくっついているよ。あれはエホバがどういう方であると教えるのか、リサ姉妹に聞きたね。そういう訳で、創造物を通して創造者を教えるというのは、無知無学な人向けの教育方法で、賢い大人に育てたいならやめた方がいいよ。」

「14-15節が“(4)良い友達をつくるよう助ける。”です。JW以外の人と付き合うなという指示です。でも子どもが同年代のJWを見つけるのは難しくなっていますよ。JWは今や子どものいない宗教ですから。」
「15節のトニー兄弟の話では、“さまざまな経験を持ついろいろな年齢の兄弟姉妹を家に招いてきました。”とある。子どもはいないのでおとなのJWを家に招こうということだね。でもそれは友達じゃないでしょう。」
「“また,巡回監督や宣教者などに家に泊まってもらう機会もありました。そうした兄弟姉妹の経験や熱意や自分を進んで差し出す態度から,子供たちは多くのことを学び,エホバを身近に感じるようになりました。”とありますが、疑わしいですね。鋭い子どもなら巡回監督からは偽善者とか二重人格とかニセ物といった印象を受け、JWを嫌うきっかけにさえなりますよ。」
「そうなの?JWの女の子の将来の夢は巡回監督の妻というバカバカしいものじゃないの?」

「14節の上にある写真の脚注に“1人の父親が,息子の友達と知り合うために,一緒にバスケットボールをしている。”とあります。その結果、父親がふさわしくない友達と判断したら、もう付き合うなというのでしょうね。」
「JWの子どもと友達になってくれる人はそう居ないでしょう。こうやって楽しいはずの若い時代をJWは孤独と不満を抱えたまま、毎日苦々しい思いで過ごすわけだ。気の毒だね。」

「16,17節が“諦めないでください”です。 結構いいことが書かれていまして、16節には“エホバは全ての人に,あなたのお子さんにも自由意思を与えています。ですから,エホバに仕えるかどうかはそれぞれが決めるべきことです。”とあります。」
「単なるタテマエ。そう言いながらも、やめると決めたら、家族の縁を切ると脅す。未成年で親の扶養義務があるにもかかわらず、家を出て行けと迫害する。JWの子どもにやめる自由は存在しない。」
「でも本当にJWが嫌なら、家族と離れ離れになったとしても、やめるしかないですよ。でも、これって自由意思じゃないですよ。強制された選択ですよ。JWをやめるか死ぬかというところまで精神的に追い詰められる場合だってあります。死にたくなければJWをやめるしかないわけです。JWの子どもはそうでない子どもの100倍は苦労します。」

「17節にイーリー兄弟の話が出ているけれど、脚注を見ると2012年の記事の使いまわしだ。最近過去の記事を再利用することが増えたね。」
「一度家を飛び出したけれど、悪の世界に落ち込み、結局JWに戻ったという話です。でもこれは極端なケースですよ。」
「2012年の記事には“わたしは家を出た後,薬物を使うようになり,マリファナを大量に栽培して売ることまでしました。また,不道徳な生活を送り,ナイトクラブでのパーティーに多くの時間を費やしました。さらに,気も短くなりました。だれかが気にくわないことを言ったりしたりすると,すぐにかっとなり,どなったり殴ったりしたものです。”とある。こんな生活は初めのころは面白いかもしれないが、ある程度の思考力があれば、こんなことを続けていれば30歳まで生きられないことに気づくよ。この人はしょせん小心者のJW少年で、家が恋しくなったんだろう。」

「JWの出版物では、JWをやめると必ず麻薬中毒の犯罪者になるという法則があるみたいです。これはJWの子どもに、JWをやめたらこんなことになるぞと恐怖を植え付けるための作り話ですよ。」
「JWをやめた後、どん底の生活に落ち込まなければJWに戻ろうと思う人はいないという現実があるから、ヤク中の犯罪者の話になるんだよ。」

「最後の18節に“親の皆さんには,エホバに仕えるよう新しい世代を育てるという素晴らしい務めがエホバから与えられています。”とあります。“新しい世代”は本当は存在しないはずだったんじゃないですか?」
「年老いたJWが若い頃には、高校を卒業する前にハルマゲドンが来ているとか、大学に行っても卒業前にはハルマゲドンが来ているから、大学に行く必要はないと言われんじゃないの?カルトにだまされる世代はまだまだ続くようだね。」

#1387 2022年08月12日 14:35:55

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバは快く寛大に許してくださる(24)”で、エホバは許してくれるので、不真面目なJWでも辞める必要はない、という内容です。」
「信者の減少がこたえているのかな。弱気だね。」

「4から7節が“エホバは快く許してくださる”です。 いくつかの聖句が引用されて、エホバは寛大に許してくれる神だと宣伝しています。」
「4節に“聖書には,エホバは快く許してくださる方である,と述べられています。”とあるけれど、そんなことはないよ。」

「旧約聖書を読むと異民族に対する敵意は相当なものですよね。」
「申命記23:6でアンモン人とモアブ人に対して“あなたは生涯ずっと,決して彼らの平和や繁栄を求めてはなりません”とイスラエル人に命令している。またエズラ9:12では、周辺の異民族に対して“あなたたちの娘をその人々の息子に与えてはならず,その人々の娘をあなたたちの息子のために迎えてもならない。また,決してその人々の平和と繁栄を望んではならない。”とイスラエル人に命令している。異民族に対しては結婚も仲良くすることも禁止。永久に憎むことこそ正しいというわけだ。そんなわけでイエスはマタイ5:43で“あなたたちは,こう命じられたのを知っています。『隣人を愛し,敵を憎まなければならない』。”と旧約聖書の教えを要約しているよ。」

「6節に“エホバが快く許したいと思っていることは明らかです。エホバは,最初の人間アダムのせいで私たちが皆,罪を犯し,死を経験するということを理解しています。”とあるります。それならなぜアダムを許さなかったのでしょうか?なぜアダムの行為の責任を、なぜ全人類まで及ぶようにしたのでしょうか?」
「神が許すと言えば、それで済むのにね。」
「アダムの話は人間がなぜ年老いて死ぬのかを説明するための物語ですよ。要点は命の木の実を食べ損なったということです。神はアダムたちがその実を食べないようにするため、エデンから追放し、門番を置いたのです。」
「その単純な話に、後の時代のキリスト教神学者が原罪とか、大げさな理屈をつけた。JWもそれに負けじと、宇宙主権論争なんてバカバカしい話をでっちあげたわけだね。」

「7節で、“聖書には,エホバから寛大に許してもらった人たちの例が幾つも収められています。”と言って、マナセ王とダビデの話が登場します。」
「7節に“マナセが心から悔い改めた時,エホバはマナセのことを寛大に許しました。そして,王位に復帰させることさえしました。”とあるけれど、これは一面しか見ていない。」

「列王記ではマナセ王はユダ王国滅亡とバビロン捕囚の原因を作った王という位置づけですね。エホバはマナセの罪の責任を後の時代の無関係な人に負わせたわけです。エホバって、責任者は処罰せず、無関係な人を処罰するという滅茶苦茶な神ですよ。」
「列王二23:26,27に“エホバがマナセの不快な行為のことでユダに対して燃やした怒りは,収まらなかった。エホバは言った。「私はイスラエルと同じようにユダも私の前から取りのける。私が選んだこの都市エルサレムも,『私の名はずっとそこにある』と言った家も退ける。”とあるし、また列王二24:3、4にも“エホバは,ユダをご自分の前から取りのけるため,こうしたことがユダに起きるよう命じたのだった。マナセが犯したさまざまな罪のゆえ,マナセが流した無実の人の血のゆえである。”とある。」

「これはユダ王国の滅亡を説明するための物語ですよね。何世代前の王の罪ゆえに、神が怒り、国が滅びたのだという古代の宗教原理主義者が思いついた物語ですよ。」
「実際は、バビロニアの力を甘くみた外交・軍事上の誤りが、国が滅びた大きな原因。外交・経済・軍事的面を分析する能力のない古代人は、神の怒りという単純な原理で国家の滅亡を説明するしか思いつかなかったということ。」

「ダビデ王の話は何度も出てきますが、ダビデは許され、代わりに別の人が死ぬという結果になっています。神は責任を無関係な誰かに取らせる点では一貫していますよ。」
「それなのに7節では、“こうした例から,エホバが確かに快く許してくださる方だということが分かります。”と言っている。バカバカしいね。結論ありきの文章だね。」

「エホバは快く許すことはなく、許すためには誰かの血を流さなければならないというルールを決めているようですよ。ヘブライ9:22に“このように,律法によれば,ほとんど全てのものが血によって清められます。血が注ぎ出されなければ,罪が許されることはありません。”とあります。」
「そうとは限らないよ。レビ4:31に“共食の犠牲から脂肪を取るのと同じように,脂肪を全て取る。祭司はそれを祭壇で焼いて煙にする。それはエホバにとって心地よい香りとなる。こうして祭司はその人のために贖罪を行い,その人は許される。”とある。神様は脂肪が焼ける臭いが大好きだから、脂肪をジュージューと焼けば許される。古代の単純な神だね。JWは週に1回は焼肉屋に行って、神様を喜ばそう。」

「8から13節が“エホバの許しは際立っている”です。 エホバの裁きは完全だといっています。8節には“エホバは誰よりも優れた正邪の感覚を持っています。”と言っていますが、そう思う人はそんなにいませんよ。」
「アダムの罪で全人類が罰せられるというのは正しいこと?大洪水を起こして、乳幼児からパンダやコアラまで溺死させるのが正しいこと?王が罪を犯すと代わりに国民が罰せられるのは正しいこと?焼き肉屋の匂いでなぜ許さないの?」

「申命記23:2に“嫡出ではない子はエホバの会衆に入ることはできません。その人の子孫は10代目でも,エホバの会衆に入ることはできません。”とありますが、これも優れた正邪の感覚の現れですか?出自によって差別することは正しいですか?しかも10代に渡ってです。」
「現代人が聖書を読めば、理解できない、狂っている、偏見に凝り固まっている、残酷すぎると思う個所が何か所もあるよ。例えば、ホセア13:16に“サマリアは有罪とされる。神に逆らってきたからだ。彼らは剣によって倒れる。子供は打ち砕かれ,妊婦は切り裂かれる。”とある。子どもも妊婦も皆殺しということだけど、妊婦はわざわざ切り裂いて胎児もろとも殺すのが、優れた正邪の感覚なのか?」

「9節で“誰かの行動の背後にある遺伝や生い立ちや環境といった要素に加えて,その時の精神状態もよくご存じです。また,エホバは心を読むこともできます。”とありますが違いますよ。律法は個々の事情など考慮することはありません。死刑に値する犯罪なら一律に死刑になります。」
「現代の日本の裁判では、被告人の生い立ちまで調べて、悲惨な環境で育った場合情状酌量されることがあるけれど、律法は違うよね。例えばレビ21:9に“もし祭司の娘が売春をして自分を汚すなら,自分の父を汚している。その娘は火で焼かれるべきである。”とある。この規定に“遺伝や生い立ちや環境といった要素に加えて,その時の精神状態”を考慮したことがうかがえる?家父長制度の下、父親の名誉が何よりも重要で、それを汚した娘は事情の如何を問わず残酷な仕方で処罰されるべきとしているだけ。」

「10節に“エホバの裁きはいつも正しく公平なものです。エホバは決してえこひいきをする方ではありません。”とありますが、これも納得できません。エホバはえこひいきのかたまりです。女性差別は酷いです。」
「申命記22:28,29に“ある男性が,婚約していない処女と出会い,彼女を捕まえて一緒に寝て,2人が見つかった場合,  娘と寝た男性は彼女の父親に銀570グラムを渡さなければなりません。娘はその男性の妻になります。”ある。強姦された未婚の女性は強姦魔と結婚しなくてはならない一方、強姦魔はお金を払うだけでお咎めなしというもの。これは“正しく公平なもの”か?男尊女卑の価値観に凝り固まっているだけ。」

「10節でエホバは“圧力に負けたり買収されたりすることもありません。”とありますが、動物の犠牲を捧げれば許されるというのは、裁判官に贈り物をして無罪にしてもらうのと、そんなに違いますか?」
「レビ19:22に“祭司はその雄羊によって,その人のためにエホバの前で贖罪を行い,その人は犯した罪を許される。”とあるけれど、罪を許してもらう人からすれば、裁判官に賄賂を贈るのとそんなに違わないよ。」

「10節で、エホバは“怒りに任せて,あるいは感情に流されて決定するということもありません。”と言っていますが、そんなことはありませんよ。」
「出エジプト32:9,10で“私はこの民が強情であることが分かった。それで今,私を止めるな。私は怒りに燃えて彼らを根絶やしにし,代わりにあなたから偉大な国民が生まれるようにしよう。”と言っている。怒りの感情に流されて民族絶滅をしようとしている。」
「それを止めたのがモーセですよ。モーセがエホバに演説をぶった後、出エジプト32:14で“それでエホバは考え直し,先に言った災難を民にもたらさなかった。”という展開です。情けない神様です。」
「同じようなシーンは何度もある。モーセがなだめなければ何をするかわからない非常に怒りっぽい危険な神様。」

「11節で“ヘブライ語聖書を書いた人たちは,エホバの許しが際立ったものであることをよく知っていました。”と言っています。その根拠が“彼らが時折用いたあるヘブライ語の単語について,参考文献はこう述べています。「この語は神が罪人を許す場合にのみ用いられており,人が人に対して示す程度の許しを指して用いられている箇所はない」。”なのです。これってへんですよ。神が許すときに用いる単語が特別な単語だから、エホバの許しが際立ったものという根拠にはなりません。」
「Kapharやcalahという単語のことを言っていると思うけど、神の許しを表すのに一般的な許すと違う単語を用いているというだけ。それは神は特別な存在ということを意味しているかもしれないけれど、神の許しが人間の許しと違うかどうかについては何も言えない。」

「13節で“エホバは,いったん許したなら,その罪を再び持ち出して罰したりはしません。(イザ 43:25。エレ 31:34)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていますか?」
「イザヤ43:25は“私,この私が,私自身のためにあなたの違反を消し去っており,あなたの罪を思い出さない。”とある。これは捕囚後のイスラエルに向けられたもので、罪の許しに関する一般原則を述べたものではない。」
「一つ前の43:24には“あなたは自分のお金で私のために香りの良いショウブを買うことをせず,犠牲の脂肪で私を満足させなかった。代わりに,多くの罪で私を悩ませ,数々の過ちで私を煩わせた。”とあります。要するに、エホバの大好きな贈り物を持ってこなかったので罪を許してやることはできないけれど、43:25で、エホバ自身が罪の記録を抹消してやったと言っているということですね。」
「ここには許しは各人の行いによって得られるものではなく、神が一方的に与えるものという思想が背後にある。JWとは相いれないけどね。エレミヤ31:34は新しい契約について述べているところで、一般原則ではない。」

「14から17節が“エホバに許していただけるのはどんな人か”です。 エホバは快く許して下さる方と言いながら、実は許すためにはいろいろ条件があるという矛盾した展開です。」
「今までは序論でこれからが本論ということ。」
「15節に“エホバが考慮に入れる1つの要素は,罪を犯した人が自分の行いが悪いと分かっていたのかどうかということです。”とあります。16節で“罪を犯した人が心から悔い改めているかどうかということです。”とあり、17節では“生き方を変えているかどうかということです。”とあります。」
「エホバは悔い改めて行動を変えたら許してくれるそうだけれど、JWは違うよね。長老マニュアルに従って、社会的経験も見識もない無知無学な長老による不公平な秘密裁判で簡単に排斥が決まるからね。」

「18,19節が“エホバが許してくださることを心から信じる”です。 19節に“「聖書に対する洞察」第1巻775ページには,次のような慰めとなる言葉が載せられています。”と洞察の本が聖典化されています。」
「自分たちの主張の裏付けとなるものは、自分たちの過去の出版物以外ないということ。カルト化が進むとそうなる。」

#1388 2022年08月19日 14:22:36

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“寛大に許す人はエホバから祝福される (25)”で、許してよい罪と長老に密告すべき罪について学ぶという内容です。」
「信者同士監視させて、何かあれば密告させるというのはカルト宗教の特徴だね。JWでも、仲間の信者について密告し、陥れることは盛んだよね。」

「JWの歴史を振り返れば、組織は多くの信者をニセ預言や不必要な禁止事項で苦しめてきました。一番許してもらう必要があるのは、絶対謝らない統治体ですよ。」
「悪事に対する罰は上に甘く、下に厳しいのが、ダメな組織の一般原則。ダメな組織では、重大な罪でも上の人間は見逃され、些細な罪でも下の人間は厳罰に処される。JWもそのようなダメな組織ということ。」

「1節に“愛の気持ちから,預言者イザヤを通してこう約束しています。「あなたたちの罪は緋のようだが,雪のように白くされる」。(イザ 1:18)”とありますが、これは当時のイスラエルに向けての言葉ですよ。JWと関係ありません。」
「イザヤ1:18の重点は前半にあるという解釈もあるよ。罪は重大だというのが主旨だというもの。JWはそう解釈して自分たちのことに当てはめて欲しいね。」

「4から7節が“クリスチャンが重大な罪を犯した場合”です。 4節で“誰かが重大な罪を犯した場合,私たちはそのことを長老たちに伝える必要があります。”と、密告がJWの義務であることを確認しています。」
「その後に“重大な罪とは,神のおきてを大きく踏み越えることです。コリント第一 6章9,10節には,その例が挙げられています。”とあって、“性的に不道徳な人,偶像を崇拝する人,姦淫をする人,同性愛行為に身を任せる人,同性愛にふける人, 盗む人,貪欲な人,酩酊する人,ののしる人,脅し取る人”が列挙されているけれど、パウロはそういう人を見つけたら密告しろとは言っていないよ。」

「翻訳の問題ですが、“同性愛行為に身を任せる人,同性愛にふける人”の違いが判りません。協会共同訳では“男娼となる者、男色をする者”とあり、これなら違いが分かります。」
「同性愛者のことを嫌悪しているJWなので、なるべく正確に訳して欲しいね。“同性愛行為に身を任せる人”と訳されているギリシャ語の元の意味は“柔らかい”という意味。マタイ11:7,8に“皆さんは何を見に荒野に出ていったのですか。風に揺れるアシですか。 でなければ,何を見に出ていったのですか。上等な服で装った人ですか。”とあるけれど、“上等な服”の”上等”と訳されているのが同じギリシャ語。直訳すれば“やわらかい服”」
「柔らかいというのであれば、プヨプヨと太った人ですか?」
「違うよ。女性的という意味。金をもらって同性愛者の相手をする女性的な男性を指すと推測される。それで協会共同訳では男娼と訳されている。」

「5節で排斥制度を弁護しています。“罪を悔い改めない人を会衆から除くことによって,エホバが大切にしている羊を守ることができるからです。”と言っています。取り除くだけでなく、集団で無視するのも、エホバの羊を守るためなんですか?」
「恐怖を与えるためだよ。カルト信者を支配するのに用いられる道具は恐怖。独裁国家と同じ。」

「6節では“その人が国や地域の法律を破った場合,長老たちはその人が罰を受けないようにかばうことはしません。”とあります。ということは、今まではかばってきたということですね。特に性犯罪者を。」
「まず犯罪を知った場合、警察に通報するとは言っていない。会衆内の子どもや女性を守るために犯罪と戦うという姿勢は全くない。」
「警察に聞かれたら、知らないとか、答えたくないと言ってかばうことはしないと言っているだけですね。」
「児童性的虐待に関するアメリカの裁判では長老が証言を拒否するということがよくあった。これは訴えられたJWが罰を受けないようにかばう行為だ。そういうことがなくなるのか注目したいね。でも、これからも犯罪者をかばい続けると予想するね。」

「7節では被害者に対して“私たちは相手を許すことにし,その人に対する憤りや怒りを捨てるよう努力できます。”と、いつもの泣き寝入りを勧めて、問題の隠ぺいを図ろうとしています。」
「“クリスチャンにとって,許すとはエホバを信頼して,そのみ手のうちに問題を委ねることを意味します。”と説明している。でも裁判に訴えて損害賠償を請求することは問題ないはず。JWは過去も現在も繰り返し裁判闘争をしてきた。」

「8から12節が“私たちが快く許すことをエホバが願っているのはなぜか”です。 5つの答えが出ています。」
「8節でマタイ18:23-35にある王が借金の清算を求めたというたとえ話を取り上げている。“イエスは何を教えようとしていたのでしょうか。私たちは,エホバから示していただいている大きな憐れみに心から感謝しているなら,人を許そうとするはずです。”と、許すことの重要性を示したたとえ話と理解しているようだけど、違うよ。」

「このたとえ話はペテロが何回許すべきかを質問し、イエスが“7回ではなく77回です。”と言った後に始まり、結論は18:35で“もしあなたたち各自が仲間を心から許さないなら,天の父もこの主人と同じようにします。”とありますから、許しに関する話のようですが、その話の中では誰も繰り返し許すことなどしていないという、奇妙なものになっています。」

「これは導入と結論はマタイが作り、イエスのたとえをその中に組み込んだということ。王は初め許すも、最後は拷問にかけるという話。許していない。」
「マタイ18:34では“その男性を牢番たちに引き渡しました。”とありますが、協会共同訳で“拷問係に引き渡した。”とあるように、“拷問係”と訳す方が正しいわけですね。」
「たとえ話の中で王はたいてい神をあらわすけれど、この話の王は異邦人の王で、一度は許すもの、その後に考えを変えて拷問するという恐ろしい男。この例えの意味は単純ではない。」

「10節で“憤りを抱き続けることは,心にも体にも良くありません。(格 14:30)”とあるけれど、引照聖句はそんなこと言っていません。“穏やかな心は体に良く,嫉妬は骨を腐らせる。”と言っているわけで、怒りではなく嫉妬が体に良くないと言っています。」
「怒りと嫉妬は違うよ。こういういい加減な所はJWらしい。」

「同じ10節で、“ですから,人を許すことは自分のためになります。(格 11:17)”とありますがへんです。引照聖句は“親切であることは自分のためになり,残酷な人は自分を苦しい目に遭わせる。”で、人を許せとは言っていませんよ。」
「残酷に人を扱うより優しく思いやりを持って扱う方が自分にとってもよいといっているだけ。情けは人のためならず、自分のためだというのと同じ思想。」

「12節に“物事をエホバに委ねるなら,私たちはエホバへの確信を示せます。”とありますが、組織はエホバにゆだねないで裁判に訴えるのが大好きです。」
「ダブルスタンダードの典型だね。平信徒は被害にあっても、エホバにゆだねると称して泣き寝入りを強いられ、組織は弁護士費用を惜しまず裁判闘争を繰り返し、責任と賠償を何とか逃れようとする。」

「弁護士費用は惜しんでいますよ。JWの幹部の子どもを組織のお金で大学に行かせて、弁護士にしています。その方が安く済むからですよ。」
「アメリカだと大規模な裁判になると弁護士費用だけでも1億円を超えるから、そうした方が安くなるのは理解できる。でも実際の裁判では名の知れた弁護士事務所に弁護を依頼しているよ。JWの弁護士では能力不足なのだろう。」

「12節では“エホバが約束している新しい世界では,つらい記憶はもはや「思い出されることも,心に浮かぶこともない」のです。(イザ 65:17)”とあります。楽園が来るまでは、エホバは何もしてくれないということですね。」
「イザヤ65:17は“私は新しい天と新しい地を創造している。”とあるけれど、65:20では“100歳で死んだ者も少年と見なされるのである。”とあるように、JWが間もなく来る来ると言っている、人間が永遠に生きる楽園を想定したものではないことをわかって欲しいね。」

「13から17節が“人を許すことから得られる祝福”です。 ここからはJWに都合のいい体験談が続きます。」
「14節は自分の兄を殺した犯人をゆるしたという話で、15,16節は1985年に王国会館に仕掛けられた爆弾で負傷したけれど犯人を許したという話だけど、その理由が面白い。」
「15節で“エホバは,怒りや憤りを持ち続けるなら,心にも体にも良くないと教えてくれています。”と言っていますね。自分の健康を考えて許したということですね。健康第一という価値観なんですね。」
「この事件の犯人は逮捕され終身刑となっている。それを前提にした発言だ。サタンの政府がしっかりと犯人を逮捕し刑罰を与えてくれたことに、まず感謝しようよ。」

「心にも体にもよくないのはJW活動です。健康を考えるなら、JWを辞めた方がいいですよ。」
「でも16節で“間もなくエホバが私たちの痛みや苦しみを全て除き去ってくださる,ということを知っているので,本当に慰められています。”と言っている。完全に騙されている。この人に重複する世代の教義の意味を質問しても答えられないよ。」

「17節の体験談は“マイラ姉妹は,真理を学んだ時,すでに結婚していて,幼い子供が2人いました。夫は真理を受け入れず,やがて姦淫を犯し,家を出ていきました。”というものです。これだと夫が極悪人のようですが、JWの妻の側の一方的な言い分でしかありません。」
「妻がおかしな宗教に熱中し、伝道と称して幼い子供を連れて街中を歩きまわる。やめるように言っても聞く耳を持たず、悪魔だのサタンだのと罵られる。薄気味悪い宗教仲間が妻に悪知恵をつけさせ、まともな会話が成立しない。一人でさみしく晩飯を食べるようになり、昔の妻とは別人になってしまったと涙を流して嘆いていたところに、まともな女性が現れ、ついつい親しくなったということじゃないの。同情に値するよ。」

「マイラ姉妹もJWになりさえしなければ、平凡な幸せを味わえたでしょうに。気の毒です。もっと気の毒なのはその子どもたちです。JWの母子家庭と言えば、絵にかいたような貧乏暮らしで、おかしな宗教を押し付けられ、絶えず父親の悪口を聞かされて、母親のストレスのはけ口としての陰湿なしつけを受けながら子ども時代を過ごさざるを得なかったと思います。」
「“今では怒りの気持ちを捨て,以前の夫に対して悪感情を持ってはいません。”とあるけれど、そもそも悪いのはJWの妻だし、怒りの気持ちは長続きしないものだよ。JWだからそうなったというより、人間として普通の反応だよ。」

「18,19節が“エホバの裁きは完全”です。 18節に“エホバは必ず,善悪に関する完全な基準に従って裁きを行ってくださいます。(創 18:25。王一 8:32)”とありますが、創世記18章の話は逆のことを示していると思います。」
「神様がソドムの住民を核ミサイルで皆殺しにしようとしたところ、アブラハムが義しい者を悪い者と一緒に殺し、義しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを神様がすることはあり得ないはずだと虐殺大好きな神様に向かって堂々と演説し、50人の義しい者がいれば町全体を助けるとの答えを得る。そこからアブラハムはさらに交渉し、ついには、義しい者が10人いれば住民皆殺しはしないとの約束を勝ち取るという話。善悪に関する基準でまともなのは神様ではなくアブラハムの方でしたということだよ。」
「この話では、エホバは部下の意見に左右される気まぐれな独裁者にすぎません。完全な基準などなく、交渉次第で変えるということです。」
「こんな話を引照聖句に持ってくるわけだから、執筆者は聖書を知らないということがよくわかる。」

「最後の19節に“私たちは,エホバが不完全さや罪の結果生じた悪いこと全てを除き去ってくださる時を心待ちにしています。”とあります。JW的には、自分たちは何もせず、エホバが解決してくれるのをじっと待つという受動的無気力が正しい態度のようです。」
「要点は、会衆の誰かの犯罪の被害者になっても裁判に訴えたりするなよ、ということ。そうしてくれれば統治体も安心してうまい酒が飲める。」

#1389 2022年08月23日 02:32:03

質問さんへ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん。
聖書その他関連冊子のレビューのトピックで匿名さんという方が、アイオーンの語をもとに問題提起しておられます。

複数の意味を持つ言語は珍しくもなく、アイオーンは世とか、世々、ならわし、永遠、終わり、世々限りなく、いつも、限りない継続、いつまでも等の意味で用いられています。

しかし匿名さんの考えでは、有限の限られた期間しかほとんど考えていないらしく、失礼ながら解釈が明らかに違うと思います。

滅びるというアポルミーというギリシャ語もあまり理解しておられないようなので、匿名さんは質問さんを詳しい人だと慕っておられるようですのでひとつ質問さんから詳しく説明をして頂けないでしょうか?
よろしくお願い致します。

そもそも、英語圏の神学者とかは英語を理解しているのはもちろん、その上でヘブライ語やギリシャ語を学んだ研究者ならばいくらでもいて積み上げてきたものが違うのですから体系的に学んだのでもない人の独学というか食いかじり程度(匿名さんすみません)では間違いの指摘をしたつもりが自分の理解のほうが間違いだという場合さえあるのではないでしょうか。

まぁ、匿名さんだけでなく他の方にも参考になると思いますので解説をお願い致します。

#1390 2022年08月23日 16:00:35

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1389さんの質問に答えたいと思います。

問題となっている、別スレッドの匿名さんの書き込みを読んでみました。

その論点はいろいろあるようですが、#975に” エホバかサタン、イエス様か地獄を選びなさいというこの両極端なカルト思想はどう考えても有害です。また地獄に関してもおそらく日本人で数人くらいしかギリシャ語やヘブライ語観点から正しく解き明かすことはできてません。海外ではすでにたくさんの方が正しい解釈を広めておられます。またおいおい気が向いたら書くかもしれませんが、死後の裁きは確かにありますが、永遠と訳される原語の本来の意味は、有限の意味を含んでいるので結局永久の拷問ではないこともよくわかってきます。”というのが主な主張のようです。

#1389さんの“独学というか食いかじり程度(匿名さんすみません)では間違いの指摘をしたつもりが自分の理解のほうが間違いだという場合さえあるのではないでしょうか。”という意見には同感です。

でも、匿名さんもいろいろ苦しんでいるようで、答えを見つけようと一生懸命努力している最中なのでしょう。それは素晴らしいことなのですが、妙に独断的な点が気になりますね。

匿名さんの主張の中で、問題となるのは“永遠と訳される原語の本来の意味は、有限の意味を含んでいるので結局永久の拷問ではない”という部分です。これは正しくないでしょう。

言いたいことは、恐らく①永遠と訳されている語は元々は有限の期間を指す語であった。②ゆえに、永遠と訳するのは間違いだ、③従って、永遠の刑罰などない、と思います。この3つを分けて論じてみましょう。

①    永遠と訳されている語は元々は有限の期間を指す語であった。・・・これは正しいです!

聖書の中で使われているヘブライ語もギリシャ語も長い期間を指す言葉でしかありません。なぜなら無限に続く時間という概念は古代の中東にはなかった、あるいはそれを一言で表す言葉はなかったからです。

無限という概念は古代のインド数学で始まったとされています。そこでは全ての数は可算、不可算、無限の3種類に分類できるという数の集合論が述べられています。その後も無限というのは数学的な概念として発展していきます。

無限という概念が成立してから、その対立概念として有限という概念が成立するわけで、そのレベルに達する以前の社会に、有限対無限の二分法は存在しません。有限か無限かという問いは、あまりにも近代的なもので、古代人には成立しません。

②    ゆえに永遠と訳するのは間違いだ・・・これは正しくないでしょう。

なじみのある日本語で説明しましょう。古代の日本語には“とこいわ”という言葉がありました。常に変わらない岩という意味です。それが短くなったのが“ときわ”です。漢字は“常盤”があてられています。ときわでは常に変わらない岩という意味が転じて、常に変わらないという意味が派生します。また“とこいわ”から“とこしえ”という言葉が生まれ、漢字は“常し方”ですが、現在では“永久”という漢字があてられることが多いです。

永久という単語は永い、久しいという語を2つ重ねて、ずっと続くという意味を強調したものですが、永い、久しいという言葉自体に無限の時間という言う意味はありませんね。

そこで、誰かが、永久あるいは永遠の本来の意味は、有限の時間を指すのだから、無限の時間を指しているのではないという主張したとします。これは匿名さんの主張と同じです。正しいでしょうか?正しいとする人はあまりいないでしょう。なぜなら、現代人は、本来の意味とは無関係に、無限の時間の意味でそう言う言葉を使っているからです。

今の例はヘブライ語にもギリシャ語にも当てはまります。辞書にある単語の意味を調べるだけで、その言葉がどのように使われていたかは断定できません。永遠と訳していい場合もありうるのです。

そういうわけで、辞書に書かれている言葉の意味からいろいろ類推して、宗教でも哲学でも歴史の問題でも何でもいいのですが、何か大きな主張をするというのは正しくありません。

JWが十字架ではなく“杭”が正しいというのは、使われているギリシャ語に杭の意味が含まれているからというのが根拠なのですが、匿名さんと同じ論理です。しかし杭ではありません。当時の習慣や記録などを全く無視して、辞書に答えを求める点で方法論的におかしいわけです。

③    従って永遠の刑罰などない・・・②が否定されるのでこの結論は成立しません。

匿名さんの主張は別にして、聖書の中に永遠の刑罰が存在するかと言えば、永遠の刑罰が地獄での苦しみを意味しているとすれば、そのような思想は存在しないでしょう。匿名さんは③だけを主張すればよかったのです。聖書の中の永遠の刑罰は単なる死です。

新約聖書にだけ限定して考えてみましょう。マタイ10:28には“そして,体は殺せても命を奪えない人たちを恐れてはなりません。命も体もゲヘナで滅ぼせる方を畏れなさい。”とJW訳ではなっていますが、“滅ぼす”と訳されているギリシャ語には、罰するとか苦しめるという意味はありません。単に無になるだけです。

マタイ7:13には“狭い門を通って入りなさい。滅びに至る門は広くてその道は広々としており,それを通って入っていく人は多いからです。”とありますが、単に滅びるだけで、永遠に苦しむとは言っていません。

一方、マタイ25:46に“この人たちは永遠の死を迎え,正しい人たちは永遠の命を受けます。”といJW訳ではなっていますが、“永遠の死”ではなく“永遠の罰”が正しい訳です。協会共同訳では“永遠の懲らしめ”となっています。

しかし、“永遠の罰”とは復活することのない死を意味し、永遠に苦しむことではないのです。復活することなく死んだままでありつづけることが永遠の罰です。

しかし、ルカ16章にはアブラハムと裕福な男とラザロの死後のたとえ話が出てきます。裕福な男は“私はこの燃え盛る火の中で苦しんでいます。”と言います。この話は裕福なものと貧しいものの対比で、善と悪の対比ではないのですが、このたとえ話が、死後、邪悪なものが永遠に苦しむという後のキリスト教のアイデアの始まりとされているものです。

パウロはどうでしょうか?テサロニケ一5:2に“人々は,「平和だ,安全だ!」と言っている時に,突然滅ぼされることになります。”と言っていますが、滅ぼされるだけで、永遠に苦しむなどとは言っていません。存在しなくなり、二度と戻らないということです。

残酷な描写が多い“啓示”はどうでしょうか?啓示19:20,21に“野獣も偽預言者も生きたまま,硫黄が燃える火の湖に投げ込まれた。ほかの者たちは,馬に乗っている方の口から出ている長い剣で殺された。全ての鳥が彼らの肉で満腹になった。”とあります。ここも単に死があるだけです。火の湖で永遠に苦しむとはありません。

“硫黄が燃える火の湖に投げ込まれた。”を文字通り解釈することはできません。これはソドムとゴモラの話を踏まえた表現で、神による裁きをあらわしています。

というわけで、新約聖書では、邪悪なものが死後永遠に苦しむという思想はありません。その様な思想がキリスト教に現れてくるのは3世紀頃です。

その時代になると、肉体とは別に魂が存在する。魂は喜びや痛みを感じる存在だ。人間は死後直ちに魂となる。人間は死後その行いによって褒美か罰が与えられる。というような聖書にはあまりなじみのない思想がキリスト教のなかで標準的な教えになり、今日に至ります。

#1391 2022年08月26日 14:54:08

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“愛によって恐れを乗り越える (26)”で、不安や心配事は早く忘れてJW活動をまじめにやれ、という内容です。」
「この記事も生活に困窮しているJWの話だ。気が滅入るね。」
「ここで恐れと言っているのは、まともな人間なら当然感じるべき不安のことです。それを恐怖ということによって、個人の弱さやサタンの攻撃という問題にすり替えています。」
「サタンはJWにとって本当に役立つキャラクターだよね。」

「JWなら、カルトにだまされているのではないだろうか、このままでいいのだろうか、このまま自分の人生が終わっていいのだろうかと考え、恐怖に襲われることは誰にでもありますよ。その時じっくりと考えるべきなのに、サタンなど持ち出して、考えさせまいとするのがJWということですよ。」
「JWを辞めたら、時間はかかるかもしれないけれど、それまでの不安や恐怖から解消されて、晴れ晴れした気分になれるよ。」

「5から9節が“家族を養えないのではないかという恐れ”です。 JWとは切っても切り離せない貧困問題です。JWって本当に貧乏人が多い宗教ということですね。」
「5節で“サタンはこうした恐れに付け込んで,かなりの成功を収めてきました。”とあるから、信者の貧困問題がかなり組織にダメージを与えているということなのだろうね。」
「JW=貧乏となれば、そんな宗教に新しく入ろうとする人はいなくなりますからね。」
「しかし、いつものようにエホバは必要なものを与えてくれるという話を繰り返すだけ。まじめに働きましょうとは絶対言わないのがJWだ。」

「5節の上に東南アジアのどこかで投網で漁をしている男性のイラストがありますが、楽しそうに描かれています。本文の内容と一致しませんよ。」
「貧困で悩み苦しんでいる、みじめなJWを描いてほしいね。」
「投網で魚はたいして取れませんよ。本当の職業は別にあって、趣味で投網漁をしているようにしか見えないです。あまりリアルなJWの姿は信者の気持ちを落ち込ませるだけなので、避けたんでしょうね。」

「7節で“エホバが家族の頭として,テモテ第一 5章8節の教えの通りに行動してくださる,と確信することができます。”とある。エホバは家族の頭だそうだ。おかしいよ。」
「引照聖句は“もしもある人が,自分の家族,特に一緒に住んでいる人たちに必要な物を与えないなら,クリスチャンの信条を否定していることになり,信仰のない人より悪いといえます。”というものですが、これがエホバに適用されますか?どう見ても人間を対象にしたものとしか思えませんね。」
「JWはこの聖句で攻撃されてきたんだよ。家族に貧乏生活を強いて、何が真のクリスチャンだ、笑わせるな、宗教道楽もいい加減にしろ、と言われて来た。それでこれはエホバの問題ですとすり替えようとしているんじゃないの。」

「貧困問題は神頼みでOKというのがJWの変わらない姿勢ということです。信者の貧困に対して組織は何もしないということですよ。」
「高等教育に反対し意図的に低賃金労働に追い込み、集会や奉仕活動を強いることにより労働時間を奪い、大会に出席を認めてくれない職場は辞めるように指示し、失業状態を作り出すのがJWだよ。組織の責任は大きいのにね。自己責任で片付けるわけだ。」
「JWという人生を組織の言うとおりにやれば、貧困のうちに一人寂しく死ぬことが運命づけられているということですよ。それが嫌ならJWをやめることですね。」

「7節の下にある写真の説明には、“エホバは,私たちが必要な物を必ず得られるようにしてくださる。そのために仲間の兄弟姉妹を用いるかもしれない。”とある。エホバと言いながら結局は仲間が助けろということだ。」
「8節には“最低限のものがあるということに思いを向けるのは良いことです。エホバは,私たちに必要な物を必ず与えてくださいます。”とあります。“ある”はなんと太字です。これは自分にはなくても他の人のところには”ある”から、それを恵んでもらえということですね。」
「JWは相互に生活を支えあう宗教共同体ではなく、相互に監視しあう宗教拡張員の集まりにすぎないわけだから、ほかの信者を頼りにできないことはわかっているよ。」

「サタンと敵視している政府からの援助のほうが頼りになりますね。」
「10万円の給付はサタンの政府からだったよね。サタンにできて神様はなぜできないのかな?JW特別給付金を神様にお願いしてみたら?」

「9節が体験談です。その話というのは“給料の良い仕事を辞め,家を売り,伝道者の必要の大きな地域に移動しました。”というもので、結論は“まさに,マタイ 6章33節の言葉の通りになりました。必要な物がなかったことは一度もありません。前よりもずっと幸せです。”というよくある内容です。具体性が欠けているためインパクトがなく、また同じ話かとあくびが出ます。」
「都合の良い体験談なんて何も意味しない。必要なのは統計だよ。カイタク者と称する人がひと月どれくらいの収入で生活しているのか、一日平均消費カロリーや健康状態はどうなのかなどを数値で示してくれれば、なるほどエホバは必要なものを与えてくれていると誰もが納得する。」

「10から14節が“人への恐れ”です。 政府からの迫害にも触れていますが、主なのは家族からの反対問題です。JWの解釈ではどちらもサタンのせいなのです。」
「11節に“サタンの世界では,人々がエホバの証人に対する間違った情報や悪意のあるうそを広めたりします。私たちは,こうしたうそを信じた人たちからあざけられるかもしれません。暴力を振るわれることさえあるかもしれ ません。”とある。都合の悪い情報を“悪意のある噓”と言って片付けようとするのはカルトや独裁国家のいつものやり方。サタンなんか関係ないよ。」
「ウソなら真実を語ればいいだけです。JWは反論できないので周囲の人をウソつき呼ばわりして、ごまかすだけです。」
「JWに対する非難で、あれは嘘だったというものがどれくらいあるか教えて欲しいね。例えばJWは自分たちだけが救われると思っているという主張に対しては、そんなことはないと反論している。しかし、ものみの塔ではJWのバプテスマを受けないとハルマゲドンで生き残れないと言っているよ。どちらが嘘つきかは明らか。この種の例はたくさんあるよ。」

「13節に“エホバが私たちをどれほど愛してくださっているかを忘れないなら,家族から反対されるとしても安心感を抱くことができます。”とあります。家族よりエホバを選べということですが、エホバは私たちをどれほど愛しているかなど知りようがないですよ。」
「聖書を読む限り、人類には無関心という結論になる。人類とかかわったのは、大昔の限られた期間の限られた地域に住むごく少数の人だけ。しかも懲罰的で破壊的なかかわりが多い。このような記録から、エホバが私たちをとても愛しているという結論は出てこない。」
「自分が子供の時のわずかな間しかかかわらなかった暴力的な父親の愛を信じて、今の家族を捨てろと言っているようなものですね。」
「でもそうやってJWになった人は大勢いるんだろうね。今からでも遅くないから、元の家族の元に戻ろう。」

「14節が体験談です。“迫害は,想像していたよりも厳しいものでした。でも,私が政府からの迫害以上に恐れたのは,家族からの反対でした。エホバの証人になったら,エホバの証人ではない父親をがっかりさせるのではないか,家族からだめな人間と思われるのではないか,と思いました。”とあります。結論は“私は何度も逮捕され,ひどい暴行を受けたこともありましたが,エホバが忠実を保つ人たちを必ず助けるということを,身をもって経験しました。”というものです。自分が大丈夫だったからといって“エホバが忠実を保つ人たちを必ず助ける”というニセ宣伝をするのはよくないですね。」
「過去に数多くのJWが殺されたり、暴行されたりしたことは忘れたのかな?グアテマラで殺された日本人女性JWは無視されている。記憶力が悪いのか、そういった人は自分とは違って本当はエホバに忠実ではなかったと言いたいのか、どちらなんだろう。」

「15から18節が“死に対する恐れ”です。 主な話は輸血か死かという場合には死ねというものです。」
「16節に“サタンが医療上の緊急事態に付け込んで,私たちを妥協させようとすることもあります。医師やエホバの証人ではない家族が,輸血を受け入れるよう圧力をかけてくるかもしれません。でも,輸血をするなら,神のおきてを破ることになってしまいます。”と言っている。輸血を選ぶことはサタンを選ぶことだというバカげた考えを吹き込もうとしている。」
「そこまで言うなら、10万円の給付金を貰うことはサタンを選ぶことだといって、拒否してほしかったです。」
「10万円欲しさにJWをやめる人がたくさん出てきそうなのでそれは無理だろう。」

「とにかく、これは命よりも神のおきての方が大事というカルト丸出しの主張ですよ。律法は私たちのためにあるのであって、私たちは律法のためにあるのではないという原則がわからないようです。」
「輸血はダメなんて聖書とは関係のないJW独自のルールにすぎない。聖書時代に輸血はないのだから、存在しないものを禁止することはできない。聖書のバカげた拡大解釈を乱発し、誕生日もダメ、母の日もダメ、輸血もダメと安易に禁止してきただけ。」
「輸血禁止の危険な宗教としてJWがあまりにも有名になったので、輸血禁止はワクチン禁止や臓器移植禁止などのほかの禁止事項のようにこっそり取り下げられなくなっただけですよ。」
「17節に具体的にどうするか書いてある。“病気になったり死ぬ恐れがあったりする時にも,エホバを捨てるのではなく,慰めや知恵や力を求めてエホバに頼ります。”だそうだ。これも単なる神頼みということだ。それ以上の知恵はないようだね。」

「18節が体験談です。珍しい進行性のがんで手術には輸血が必要と言われた姉妹の話ですが、“エホバに喜んでいただきたい。サタンには負けたくない』という気持ちが強くなりました。やがて,無輸血での手術を受けることができました。”とあります。輸血=サタンという公式があるようです。そう信じ込まされているわけです。」
「この姉妹がどうなったのか知りたいね。今頃は亡くなっているんじゃないの?そうだとしても周りのJWから輸血を拒否することによって褒めちぎられて、いい気分で死ねただろう。信仰の英雄というより、周りの評判を気にして、排斥者として生きるだけの気力がないだけかもよ。」
「JW以外の世界しか知らなければそうせざるを得ません。多くのJWはJW集団の同調圧力には勝てませんよ。」
「それなのに、輸血拒否は個人の決定で、組織は関与しないというのが公式見解だ。」

「19,20節が“恐れを乗り越える”です。 それにはJWを辞めるのが一番いい方法ですね。」
「でもJWを辞めると、滅ぼされるという恐怖に苛まれるように信者をコントロールしているからね。JWであることはハルマゲドンとか迫害とか大患難とか、とにかく何かに脅えて一生を過ごすということのようだ。」

「19節で“間もなくイエスと共同統治者たちは,エホバからの指示を受けて「悪魔の行いを終わらせ」ます。”とあり、150年間使い古した“間もなく”の登場です。」
「英語ではなんとVery soonとあるよ。“間もなく”じゃなくて“今日明日にも”と訳して欲しい。どうしてそう訳さないのか不思議だね。」
「翻訳者はそんなことは少しも信じていないからです。苦笑いしながらVery soonだって、だからJWはバカにされるんだよ、とつぶやいたはずですよ。」
「JW的には10万円給付も悪魔の行いなのかな?あれは終わらせないで欲しいと、貧困に苦しむ多くのJWは思っているよ。」

#1392 2022年08月29日 23:13:14

ありがとう
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

#1389さんの質問に答えたいと思います。

問題となっている、別スレッドの匿名さんの書き込みを読んでみました。

すばやいご回答にまずは感謝致します。



聖書についての質問 さんの発言:

聖書の中で使われているヘブライ語もギリシャ語も長い期間を指す言葉でしかありません。なぜなら無限に続く時間という概念は古代の中東にはなかった、あるいはそれを一言で表す言葉はなかったからです。

無限という概念は古代のインド数学で始まったとされています。そこでは全ての数は可算、不可算、無限の3種類に分類できるという数の集合論が述べられています。その後も無限というのは数学的な概念として発展していきます。

無限という概念が成立してから、その対立概念として有限という概念が成立するわけで、そのレベルに達する以前の社会に、有限対無限の二分法は存在しません。有限か無限かという問いは、あまりにも近代的なもので、古代人には成立しません。

無限の概念が明確にならないと(この場合はインド数学で)有限が成立しないという主張はおっしゃる事は分かりますが、人の地上の生涯その他は有限なのは分かりますし、神が世々限りなく生きておられるとか、計り知れない期間、いにしえからとか、永遠の神とか旧約の時代から既に見られると思います。

ヘブライ人への手紙では、メルキゼデクは、

彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。

と言われています。また、創世記では、

創世記/ 21章 33節
アブラハムはベエル・シェバに一本のタマリスクの木を植え、そこで永遠の神、主の名を呼んだ。

ともあります。
ですので、古代ユダヤ人には有限と無限の考えはあったと思うのですが、どのように思われますか


聖書についての質問 さんの発言:

辞書にある単語の意味を調べるだけで、その言葉がどのように使われていたかは断定できません。永遠と訳していい場合もありうるのです。

私もそう思います。



聖書についての質問 さんの発言:

そういうわけで、辞書に書かれている言葉の意味からいろいろ類推して、宗教でも哲学でも歴史の問題でも何でもいいのですが、何か大きな主張をするというのは正しくありません。
JWが十字架ではなく“杭”が正しいというのは、使われているギリシャ語に杭の意味が含まれているからというのが根拠なのですが、匿名さんと同じ論理です。しかし杭ではありません。当時の習慣や記録などを全く無視して、辞書に答えを求める点で方法論的におかしいわけです。新約聖書にだけ限定して考えてみましょう。マタイ10:28には“そして,体は殺せても命を奪えない人たちを恐れてはなりません。命も体もゲヘナで滅ぼせる方を畏れなさい。”とJW訳ではなっていますが、“滅ぼす”と訳されているギリシャ語には、罰するとか苦しめるという意味はありません。単に無になるだけです。

ギリシャ語アポルミーは当時の習慣や記録から、滅びるだけでなく、失われた羊、失われた硬貨、失われた息子を指して聖書で実際に用いられています。
それらが「消滅」や「絶滅」を意味していないのは明らかです。
本来の所有者から切り離された本来の用をなさない、役に立たない状態を指して用いられています。神から離れた霊的な死も実際には生きていて無存在ではないですね。
「単に無になるだけ」というのは、先の、羊や硬貨、息子の場合は消えたりいなくなったのは所有者の所からだけで、消えて無になったわけではないですよね。また戻って来るわけですから。
つまりこの、無くなるとか滅びるとかで用いられるアポルミーは、無存在にはならないという事です。銀貨は別にしても(銀貨も消滅してはいませんが)羊も人も他の場所で存在していて決して無意識ではないという事です。聖書の言う『滅び』は『絶滅』ではない事を明確に示しているわけですが、それについてもどう思いますか?




聖書についての質問 さんの発言:

匿名さんの主張は別にして、聖書の中に永遠の刑罰が存在するかと言えば、永遠の刑罰が地獄での苦しみを意味しているとすれば、そのような思想は存在しないでしょう。匿名さんは③だけを主張すればよかったのです。聖書の中の永遠の刑罰は単なる死です。



第二の死である最終的なゲヘナの裁きが単なる死であるとしたら、イエスが右目や右手を捨ててでもゲヘナに行くよりはマシなんて事は言わないでしょう。
そして、「裁きの日には、この町よりもソドムとゴモラの地のほうが軽い罰で済む。」
とか、

「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。 しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます」
と与えられる罰に差があるなどという事もないでしょう。
さらに、罰の軽重の差はあっても罰の後に消滅して消え去るという事も聖書は述べていません。

聖書についての質問 さんの発言:

マタイ7:13には“狭い門を通って入りなさい。滅びに至る門は広くてその道は広々としており,それを通って入っていく人は多いからです。”とありますが、単に滅びるだけで、永遠に苦しむとは言っていません。

滅びると訳されています語は消滅や絶滅ではないですし、その箇所でも無になるとは書いてありません。その箇所で永遠に苦しむと書いてなくても、他の多くの箇所で死後の苦しみが示されています。



聖書についての質問 さんの発言:

一方、マタイ25:46に“この人たちは永遠の死を迎え,正しい人たちは永遠の命を受けます。”といJW訳ではなっていますが、“永遠の死”ではなく“永遠の罰”が正しい訳です。協会共同訳では“永遠の懲らしめ”となっています。

しかし、“永遠の罰”とは復活することのない死を意味し、永遠に苦しむことではないのです。復活することなく死んだままでありつづけることが永遠の罰です。

クリスチャンが与えられる『栄光の体』に復活する事はないというのであればそうでしょう。しかし、不義者は裁きの復活があるわけですから、不名誉な体で復活します。そしてその後、死も陰府さえも火の池に投げ込まれるわけですから、死にたくても死ねない刑罰になるというのが聖書的な読み方でしょう。どこにも無意識、無存在になる事が永遠の罰とは書いてありません。



聖書についての質問 さんの発言:

しかし、ルカ16章にはアブラハムと裕福な男とラザロの死後のたとえ話が出てきます。裕福な男は“私はこの燃え盛る火の中で苦しんでいます。”と言います。この話は裕福なものと貧しいものの対比で、善と悪の対比ではないのですが、このたとえ話が、死後、邪悪なものが永遠に苦しむという後のキリスト教のアイデアの始まりとされているものです。

イエスの語られる例えには特定の名前はないですが、ここでは「ラザロ」とあります。例え話とするには無理があると思います。
善と悪の対比ではないとおっしゃいますが、金持ちは門前に病気で食べ物もなく非常に貧しいラザロに憐れみをかけることなく贅沢三昧な暮らしをしていたわけです。アブラハムに対して父と呼んでますからユダヤ人でしょう。しかし隣人への愛はありませんでした。それで死後にハデスの苦しみの場所に行っています。ラザロは死んですぐに御使いたちによってアブラハムの懐と呼ばれるハデスの聖徒たちの場所(後の天のパラダイス)に連れて行かれました。死後、邪悪なものが永遠に苦しむという後のキリスト教のアイデアというよりは、最初から単純明快に示されていると言えるでしょう。この話を深読みするのは無理があります。




聖書についての質問 さんの発言:

パウロはどうでしょうか?テサロニケ一5:2に“人々は,「平和だ,安全だ!」と言っている時に,突然滅ぼされることになります。”と言っていますが、滅ぼされるだけで、永遠に苦しむなどとは言っていません。存在しなくなり、二度と戻らないということです。

アポルミーが、「存在しなくなり、二度と戻らない」という事なら、帰ってきた失われた羊や硬貨や息子に対して用いられるはずはありません。突然滅ぼされるとあるだけで、存在しなくなるとは書かれていません。



聖書についての質問 さんの発言:

残酷な描写が多い“啓示”はどうでしょうか?啓示19:20,21に“野獣も偽預言者も生きたまま,硫黄が燃える火の湖に投げ込まれた。ほかの者たちは,馬に乗っている方の口から出ている長い剣で殺された。全ての鳥が彼らの肉で満腹になった。”とあります。ここも単に死があるだけです。火の湖で永遠に苦しむとはありません。

“硫黄が燃える火の湖に投げ込まれた。”を文字通り解釈することはできません。これはソドムとゴモラの話を踏まえた表現で、神による裁きをあらわしています。

硫黄は文字通りじゃないかもしれませんし、文字通りかもしれません。ソドムとゴモラの裁きにおいても天から火と硫黄が降って裁かれたのですから。
それは置いときましても、

黙示録
『14:9また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、 14:10そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。 14:11そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。

ヨハネの黙示録/ 20章 15節
命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。 』

※ 野獣と偽預言者だけでなく、獣の刻印を受けた人、命の書に名がない人も
『火と硫黄とで苦しめられる』、『火の池に投げ込まれた』とありますから、ほかの殺される人々も火の池で永遠に苦しむ事がはっきりと示されています。

ダニエル書/ 12章 02節
地の塵となって眠る人々の中から/多くの者が目覚める。/ある者は永遠の命へと/またある者はそしりと永遠のとがめへと。

※ 永遠にとがめられるわけですから意識のない状態とは言えません。

ローマの信徒への手紙/ 10章 11節
聖書には、「主を信じる者は、誰も恥を受けることがない」と書いてあります。

※ 魂が消滅するのなら恥などかけないでしょう。

黙示録14:11そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。

※ 苦しみは永遠で、昼も夜も休めないという事です。

20:10そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。

※ ここでも永遠に昼も夜も苦しむとあります。


マタイ8:11あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。 8:12しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」

※ 死後に暗闇で、泣いたり歯ぎしりするのであって、意識が無くなるとも、その後に消滅するとも書いてありません。
泣いて歯ぎしりするのです。




聖書についての質問 さんの発言:

というわけで、新約聖書では、邪悪なものが死後永遠に苦しむという思想はありません。その様な思想がキリスト教に現れてくるのは3世紀頃です。

その時代になると、肉体とは別に魂が存在する。魂は喜びや痛みを感じる存在だ。人間は死後直ちに魂となる。人間は死後その行いによって褒美か罰が与えられる。というような聖書にはあまりなじみのない思想がキリスト教のなかで標準的な教えになり、今日に至ります。

3世紀まで待たなくても実際に聖書のあちこちで不信者の死後の苦しみや恥辱が書かれていますから、新約聖書に邪悪な者が死後に永遠に苦しむ思想はないとは言えない結果になりました。最初から分かってましたけど。

それでも時間を割いて真摯に回答くださりありがとうございます。m(._.)m

#1393 2022年09月01日 20:39:24

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1392さんの書き込みについて、ひとつひとつを扱っていると時間がかかるので、主な論点についてのみお答えしましょう。

#1392さんの主な主張はここですね。

ギリシャ語アポルミーは当時の習慣や記録から、滅びるだけでなく、失われた羊、失われた硬貨、失われた息子を指して聖書で実際に用いられています。それらが「消滅」や「絶滅」を意味していないのは明らかです。本来の所有者から切り離された本来の用をなさない、役に立たない状態を指して用いられています。神から離れた霊的な死も実際には生きていて無存在ではないですね。

「単に無になるだけ」というのは、先の、羊や硬貨、息子の場合は消えたりいなくなったのは所有者の所からだけで、消えて無になったわけではないですよね。また戻って来るわけですから。

つまりこの、無くなるとか滅びるとかで用いられるアポルミーは、無存在にはならないという事です。銀貨は別にしても(銀貨も消滅してはいませんが)羊も人も他の場所で存在していて決して無意識ではないという事です。聖書の言う『滅び』は『絶滅』ではない事を明確に示しているわけですが、それについてもどう思いますか?

ギリシャ語アポルミーの意味にこだわっていて、“それらが「消滅」や「絶滅」を意味していないのは明らかです。本来の所有者から切り離された本来の用をなさない、役に立たない状態を指して用いられています。”とのことですが、同意できません。

アポルミーつまりapóllymiのapóは分離する、離れるというような意味です。

何から離れているかというと、#1392さんは“本来のことから離れている”という意味と主張していますが、時間的に離れている、空間的に離れているなども含み、そのような限定はありません。

Apostacy(背教)の語源は離れて(apo)立つという意味です。Apocalypse(啓示、ヨハネの黙示録)の語源は隠すことをしない(apo)ことという意味です。英語でいうとfrom やawayやoffに近い意味です。

またapóllymiのollymiは意味を強める接尾語です。それでapóllymiは“完全なる分離”という意味になり、完全に破壊するとか消滅すると訳されます。

新約聖書ではこの言葉は92回出てくる一般的な単語で、死んだけれど無存在にはならないといった死後の状態を指すような特殊な単語ではありません。その訳は文脈から判断し、殺す、失う、死ぬなど様々です。

マタイ9:17 「新しいぶどう酒を古い革袋に入れません。もしそうしたら,革袋は張り裂け,ぶどう酒はこぼれて,革袋は駄目になってしまいます。」

ここでは“駄目になる”と訳しています。このように日常会話に出てくる普通の単語です。

“「単に無になるだけ」というのは、先の、羊や硬貨、息子の場合は消えたりいなくなったのは所有者の所からだけで、消えて無になったわけではないですよね。また戻って来るわけですから。” とありますが、これは少し的外れです。私が問題にしているのは、聖書では死後についてどのように想定しているかです。

羊がいなくなったといったような、死後どうなるかを扱っていない文章でapóllymiという単語がどのように使われているかは、今の問題とは関係ありません。

“つまりこの、無くなるとか滅びるとかで用いられるアポルミーは、無存在にはならないという事です。”という主張は違いますね。

言葉はいろいろな意味で用います。失われた羊のように無存在にはならないという意味で使う事例があったからと言って、それがすべての意味だとか、無存在になることを意味しないとはいえません。。特に本来の意味が完全なる破壊とか消滅という意味の単語の場合は。

“聖書の言う『滅び』は『絶滅』ではない事を明確に示しているわけですが、それについてもどう思いますか? ”という質問には、そんなことは明確に示していない、が答えです。

前回も引用したマタイ7:13の“狭い門を通って入りなさい。滅びに至る門は広くてその道は広々としており,それを通って入っていく人は多いからです。”の“滅び”は#1392さんが問題にしているapóllymiではなく、apóleiaという単語です。

Apóleiaは聖書に18回出てきますが、永遠の滅び、喪失という意味です。

新約聖書に邪悪な者が死後に永遠に苦しむ思想はないとは言えない結果になりました。最初から分かってましたけど。

二重否定のわかりにくい文章ですね。聖書では悪人は地獄で永遠に苦しむと書いてあると、最初から分かっていたよ、と書けば意味がすぐ分かりますよ。イエスは拷問が大好きなんですね。

#1394 2022年09月01日 20:56:59

転載です(仰天)
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

#1392さんの書き込みについて、ひとつひとつを扱っていると時間がかかるので、主な論点についてのみお答えしましょう。

#1392さんの主な主張はここですね。

ギリシャ語アポルミーは当時の習慣や記録から、滅びるだけでなく、失われた羊、失われた硬貨、失われた息子を指して聖書で実際に用いられています。それらが「消滅」や「絶滅」を意味していないのは明らかです。本来の所有者から切り離された本来の用をなさない、役に立たない状態を指して用いられています。神から離れた霊的な死も実際には生きていて無存在ではないですね。

「単に無になるだけ」というのは、先の、羊や硬貨、息子の場合は消えたりいなくなったのは所有者の所からだけで、消えて無になったわけではないですよね。また戻って来るわけですから。

つまりこの、無くなるとか滅びるとかで用いられるアポルミーは、無存在にはならないという事です。銀貨は別にしても(銀貨も消滅してはいませんが)羊も人も他の場所で存在していて決して無意識ではないという事です。聖書の言う『滅び』は『絶滅』ではない事を明確に示しているわけですが、それについてもどう思いますか?

ギリシャ語アポルミーの意味にこだわっていて、“それらが「消滅」や「絶滅」を意味していないのは明らかです。本来の所有者から切り離された本来の用をなさない、役に立たない状態を指して用いられています。”とのことですが、同意できません。

アポルミーつまりapóllymiのapóは分離する、離れるというような意味です。

何から離れているかというと、#1392さんは“本来のことから離れている”という意味と主張していますが、時間的に離れている、空間的に離れているなども含み、そのような限定はありません。

Apostacy(背教)の語源は離れて(apo)立つという意味です。Apocalypse(啓示、ヨハネの黙示録)の語源は隠すことをしない(apo)ことという意味です。英語でいうとfrom やawayやoffに近い意味です。

またapóllymiのollymiは意味を強める接尾語です。それでapóllymiは“完全なる分離”という意味になり、完全に破壊するとか消滅すると訳されます。

新約聖書ではこの言葉は92回出てくる一般的な単語で、死んだけれど無存在にはならないといった死後の状態を指すような特殊な単語ではありません。その訳は文脈から判断し、殺す、失う、死ぬなど様々です。

マタイ9:17 「新しいぶどう酒を古い革袋に入れません。もしそうしたら,革袋は張り裂け,ぶどう酒はこぼれて,革袋は駄目になってしまいます。」

ここでは“駄目になる”と訳しています。このように日常会話に出てくる普通の単語です。

“「単に無になるだけ」というのは、先の、羊や硬貨、息子の場合は消えたりいなくなったのは所有者の所からだけで、消えて無になったわけではないですよね。また戻って来るわけですから。” とありますが、これは少し的外れです。私が問題にしているのは、聖書では死後についてどのように想定しているかです。

羊がいなくなったといったような、死後どうなるかを扱っていない文章でapóllymiという単語がどのように使われているかは、今の問題とは関係ありません。

“つまりこの、無くなるとか滅びるとかで用いられるアポルミーは、無存在にはならないという事です。”という主張は違いますね。

言葉はいろいろな意味で用います。失われた羊のように無存在にはならないという意味で使う事例があったからと言って、それがすべての意味だとか、無存在になることを意味しないとはいえません。。特に本来の意味が完全なる破壊とか消滅という意味の単語の場合は。

“聖書の言う『滅び』は『絶滅』ではない事を明確に示しているわけですが、それについてもどう思いますか? ”という質問には、そんなことは明確に示していない、が答えです。

前回も引用したマタイ7:13の“狭い門を通って入りなさい。滅びに至る門は広くてその道は広々としており,それを通って入っていく人は多いからです。”の“滅び”は#1392さんが問題にしているapóllymiではなく、apóleiaという単語です。

Apóleiaは聖書に18回出てきますが、永遠の滅び、喪失という意味です。

新約聖書に邪悪な者が死後に永遠に苦しむ思想はないとは言えない結果になりました。最初から分かってましたけど。

二重否定のわかりにくい文章ですね。聖書では悪人は地獄で永遠に苦しむと書いてあると、最初から分かっていたよ、と書けば意味がすぐ分かりますよ。イエスは拷問が大好きなんですね。


転載します。



「滅び」は絶滅ではなく「取り消し」であるという聖書的根拠
まず、「滅び」という語について、ポピュラーな一例として、マタイ7:3を最初に引用 します。
「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。」 - マタイ 7:13
¢pèleian ō ここで使われている「滅び」という単語は、ギリシャ語     [ap leia]( アポレイア )
で、聖書中に 684 回見出されますが、この語の字義は [cut off (En)](切断、切り離され る)という意味であり「バインの旧新約聖書用語解説辞典」では、『 絶滅(消滅)を意味 するものではなく 。むしろ、完全な「 取り消し 」に伴う結果的な損失を強調する。』と説 明されています。
つまり、広い門を通った人々は必ずしも「滅ぼされる(命を絶たれる)」わけではなく、 天の王国に入ることから退けられるということです。 このレポートでは、ほとんどの場合「滅び」と訳される [apōleia] がどのように文脈で使 用され、他の訳語にどんなものがあるかを見ながら、このことを検証してみたいと思いま す。
「狹い門」に関するルカの記述の方では実際、最後は、こうした表現になっています。
「皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブや すべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そ こで泣きわめいて歯ぎしりする。」- ルカ 13:22-29
この、広い門の話のすぐ後で語られている次の聖句も同様の結末を見ることがわかります。
「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく・・・ 不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」- マタイ 7:21-23
受け入れられない故に、離れ去るようにと告げられます。
王国に入ろうと願って来たのに、主に受け入れられず、締め出される、つまり、文字通り
「門前払い」にされるということです。
しかし消滅するわけでも、滅亡するわけでもありません。
また、同様の記述として、「王の婚宴」に関する記述の中でも、席に着けず外に出される という結果で終わります。

転載終わり。


これは一部ですので全文はこちら



http://yoberu-t.com/pdf/128horobihatorikeshi.pdf



消滅を意味していません。

#1395 2022年09月02日 12:08:28

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1394さんへ

その資料の出典を教えてください。それを書いたのはどの宗派の方ですか?標準的なキリスト教の教義を弁護する意図があきらかな護教論です。
単純な単語に、自分たちの教義に合わせて過剰な意味付けをするのは賛成できません。

「バインの旧新約聖書用語解説辞典」を引用していますが、その内容を否定している辞典もあります。JWと同じで、自説に都合の良いものを選んで、引用しているだけです。

また、マタイとルカをつなげて説明していますが、それはいただけませんね。マタイとルカの死後についての思想は違うからです。

反論するために、どこかから資料を持ってきて、そのままはり付けるというのもいただけませんね。論点がずれていくことになります。

問題は死後の世界について聖書はどう言っているかです。どこかの宗派がどう主張しているかではありません。

#1394さんはどうしても悪人は地獄で苦しんで欲しいという考えなのはよくわかりました。

#1396 2022年09月02日 12:38:20

それなら(仰天)
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

それならば、絶滅説を信じる人ややバインの旧新約聖書用語解説辞典とは反対の立場をとる人というのは、霊魂消滅説をとる教派もしくは人物の護教論ではないですか。

論点はずれていないと思います。聖書自体で魂が消滅すると書いてある箇所がない以上(魂は死ぬという表現はありますが他の箇所から魂に意識があるのが分かります)そしてラザロと金持ちの例、切り離された者の苦悩、後悔、恥辱等を見るとき絶滅とは言えないわけです。

質問さんは霊魂消滅説の確かな根拠を聖書から示しておられません。バインの辞典に反対する学者の説も具体的に誰の意見か書いてください。それでもその立場の人の護教論だと思いますが。

悪人をイエスが拷問するのが好きとか、悪意のある書き方ですね。
イエスは多くの人を永遠の刑罰から救うために身代りになられました。地獄で苦しんでほしいとかほしくないとかの問題ではなく、聖書がどのように教えているかなのです。自分の意見や解釈に合わせて語っているというのは質問さんに当てはまる場合もありますね。

#1397 2022年09月02日 13:12:22

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

どこかで見たのような、なつかしいリンク貼り付けとコピペですが、その資料を書いたのはおそらく元JWで、現在は「無所属」で個人的に聖書を調べているだけの方のようですよ。本人でなければ、本人に許可を取っているのか気になりますが。


聖書についての質問さんの解説通り、言葉にはいろいろな意味があって「文脈から判断して訳し方が幾つかある」のはごくあたりまえのことです。だから辞書を引いても、複数の説明や用例がありますよね。


革袋が「駄目になる」(破れた瞬間に消滅するわけではない笑)のように使われることもあれば、その人のレポートに書いてあるように、滅亡の同義語のような意味合いで使われることもある、そんなに難しいことでもないと思うのですが。


聖書そのものも、コヘレトの著者にはコヘレトの著者の思想があり、パウロにはパウロの思想があり、ヨハネ福音にはヨハネ福音の思想があり、書いてあることをそのままに読めば(魂は死ぬって書いてあったりなかったり笑)難しい本でもないのですが、聖書内部に「異なる思想」が混在することを絶対に認めたくない人たち(JW含む)がよくやることは、自分の解釈に合う特定の辞書の一つの説明だけをコピペしてどんな文脈やどんな場合でも「これ以外の意味はない」かのように説明してしまうことです。


文脈によって訳し方が変わるのは普通のことなのに、ここの文脈(用例)ではこういう意味で使われているから(まったく別のトピックについて書いている)こっちの文脈(用例)でもこう理解すべき、だから苦しい説明になります。

#1398 2022年09月02日 13:43:07

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

アポルミーとアポレイアは別の言葉でしたね。

言葉には基本的な意味があるのはそうですが、文脈やトピックによって幾つかのニュアンスや訳し方がある、だからそんなに難しく考えなくてもいいのでは、というただの感想でした。

#1399 2022年09月02日 15:24:24

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1396の書き込みについて

護教論と言われたことが気に入らなかったようで、そっちこそ護教論だ、と言っています。売り言葉に買い言葉ですね。

もともとは、#1396さんから、ある人の意見についてどう思うか答えて欲しいと求められたので、自分の見解を述べただけです。尋ねられなければ、だまっていましたよ。空気を読まず、#1396さんの気に入らなかった答えをしてしまったようです。

「それならば、絶滅説を信じる人ややバインの旧新約聖書用語解説辞典とは反対の立場をとる人というのは、霊魂消滅説をとる教派もしくは人物の護教論ではないですか。」と言っていますが、違います。

古代ギリシャ語の文献は膨大で、単語の意味は特にホメロスのイリアスとかオデッセイなどでどのように使われているかを調べることが重要で、キリスト教関係者だけが古代ギリシャ語研究しているわけではありません。

キリスト教関係者はキリスト教とは無関係の古代ギリシャ語の専門家の研究成果を借用していることが多いのです。というわけで、キリスト教のある宗派の教えに否定的だからと言って、キリスト教の特定の宗派の味方というわけではありません。

「バインの辞典に反対する学者の説も具体的に誰の意見か書いてください。」とありますが、ルール違反です。私が引用文献の出典は何かと聞いたのに、何も答えず、そっちこそ出典をはっきりしろといっているわけです。フェアプレイを心掛けたいものです。

「悪人をイエスが拷問するのが好きとか、悪意のある書き方ですね。」といっていますが、イエスには死後の拷問などという思想はないと言ったことに対して、そうではない、間違いだと主張するわけですから、イエスは拷問好きと考えているのですね、としみじみ思った次第です。

#1400 2022年09月02日 15:33:15

フェア?(仰天)
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

>キリスト教のある宗派の教えに否定的だからと言って、キリスト教の特定の宗派の味方というわけではありません。

という事は独自解釈という事でしょう。
「滅びは無になるだけ」とか、「ラザロと金持ちの話は例え」と述べておられるだけで、そう思うの域は出ていません。
こちらはラザロという実名が用いられているので個人名はイエスの例えには出てこないから例えとは言い難いと根拠を出しましたが返答はありません。
もちろん、質問さんがどう思われるか聞いたわけですので、あなたが絶滅説の絶滅に立つという事は分かりました。

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