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#1351 2022年01月28日 13:16:42

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“信仰をさらに強くしましょう (47)”で、辛く苦しいことばかりでも、それは信仰の試みと思ってJWを辞めるな、という内容です。」
「1節に“間違った宗教の滅びや,マゴグのゴグの攻撃や,ハルマゲドンの戦いといった,これから先に起きることについて考えて,不安になることがありますか。”とあるけれど、そんなことを心配しているのはJWだけ。組織は不安をあおっている張本人。カルトは不安や恐怖をあおって、信者をコントロールするものということがよくわかる。」

「2節に“この記事では,イエスの弟子たちにさらに信仰が必要であることを明らかにした状況のうち,4つを取り上げます。”とあります。貧困、災害、迫害、家族の死の4つですが、JWをやっていると不幸ばかり続くということですね。」
「不幸が多いのがJWなので、この記事では、信者の不幸は終わりの日がますます近づいている証拠と思うように誘導しているね。」

「3から6節が” 神が必要なものを与えてくださるという信仰”です。 これは無理です。統治体の老人だって、神が必要なものを備えてくれないとわかっているから、信者に寄付のおねだりをしつこくするわけです。ましてや末端の信者に神が必要なものを与えてくださるということはありませんし、そんな信仰を持つべきではありません。」
「世界各地で王国会館を売り払って資金を作っている状況をどう説明するの?神が必要なものを与えて下さるというのは幻想にすぎない。」

「3節の上にある写真は悲惨だね。左半分の写真は、両親と子どもからなる3人家族の食事の前の祈りのシーンだけど、食卓にあるのはパン3枚だけ。飢え死にするだろう。」
「その割には3人ともやや太り気味ですね。このような食事だと子どもの脳の発達は遅れます。」
「右半分の写真は、3人で戸別訪問しているものだけど、物乞いをしているのかと思った。」
「物乞いのようなボロをまとったJWは確かにいますよ。」
「親が子どもに十分食べさせず、宗教活動に連れ回すなら、児童虐待で、親権を取り上げるべき。子どもにとって最悪の宗教だ。」

「3節で“クリスチャンにふさわしくない仕事を断らなければならない人もいるでしょう。”と言っています。しかし、王国会館を別の宗教組織、JW的に言うとサタンの組織に買ってもらっている例がたくさんあります。これはクリスチャンにふさわしくない売却先として断らなければならないケースですよ。でも高く買ってくれるなら喜んで売ります。」
「組織がすることは問題視せず、末端の信者だけ規制する。少し前の記事に、教会の建物を修理する仕事もやめろと言っていたね。」

「4、5節は体験談です。4節に“エホバに仕えることを第一にしているので,エホバはこの家族が必要なものを得られるように助けています。”とありますが、エホバファーストでないと助けないのがエホバという神ということがわかります。」
「これは宗教がよく使う言い訳だよ。現実は助けなど得られない人が多い。そういう人には、あなたはエホバを第一にしていましたか、そうでないでしょう、だから助けを得られないのですと言う。信者は納得がいかなくても同意するしかない。」

「4節に出ている、カストロ家の体験談はかなり悲惨なものです。普通の宗教団体なら、彼らを助けよう、となると思います。しかし、JWは絶対そうなりません。」
「JWの教義では、4節にあるけれど、“エホバに仕えることを第一にしているので,エホバはこの家族が必要なものを得られるように助けています。”というもの。つまり人間が助ける必要はないわけだ。統治体の老人たちは、信者を助けることなく高級ウィスキーをがぶ飲みしていても、なにも問題がないとする宗教だね。」

「5節に、実際得られた助けが出ているのですが、“エホバは,この家族が仲間の兄弟たちを通して生活に必要なものを得られるようにしたり,ミゲル兄弟が仕事を見つけられるようにも助けたりしました。そして,支部の救援を通して生活に必要なものを得られるようにもしました。”と、実際は全て人間が行った援助です。それをあたかもエホバがさせたように言っているだけです。」
「これは、人間は神の操り人形にすぎないと言っているようなもの。JWの大好きな、人間には自由意思があるという主張と整合性が取れない。」

「7から11節が“「大嵐」に耐えるための信仰”です。 7節にはマタイ8章にある、イエスが嵐を鎮めた話が出ています。」
「そのことについて、“弟子たちは,エホバがイエスやイエスと共にいる人たちを守れることを理解しているべきでした。”とある。これはエホバ教だけの解釈だね。嵐を鎮めたのはイエスだよ。」
「マタイ8:26には、イエスが“それから起き上がって風と湖を叱りつけた。すると湖面はすっかり穏やかになった。”とあります。にもかかわらずイエスではなく、エホバが守ったと考えるのはJWだけですよ。」
「JWにとってイエスはエホバに操られる人形にすぎないようだね。」

「8,9節が体験談です。“アネル姉妹によると,難しい状況を乗り越える上でほかにも役立ったことがあります。それは従順です。”とあります。災害にあっても、大事なのは組織に従うことのようです。」
「元の単語はobedienceだから、服従だね。JWは洪水が起きても組織の指示を待つだけで何もせず、溺れ死ぬということになりそう。」
「自分で考える能力を失っているJWは組織から指示されないと何もできないのですよ。」

「11節に“試練に立ち向かう上で,ほかにも何が役に立つでしょうか。アネル姉妹が言っていた通り,従順であることです。”とあるけれど、これはおかしいよ。従順はもう一回取り上げられているのに、ほかにもあるでしょうか?従順です、はないだろう。」
「それだけ従順を強調したかったのでしょう。服従こそ最大の美徳というのがJWです。」

「その次の文章はカルト丸出し。“教え導いている人たちから出される指示の中には,理解できないようなものもあるかもしれません。それでも,エホバは従順な人たちを祝福してくださいます。”だって。理解できなくても従えと言っている。」
「不完全な人間に過ぎない統治体の指示に盲目的服従を要求するとは、危険な宗教ということですね。」
「でも、どんな結果になっても責任は取らないのがカルトの指導者だからね。」

「12から14節が“不公正に耐えるための信仰”です。 不公正はJWの組織の特徴ですからね。不公正を正すのではなく、ひたすら耐えないといけません。」
「英文ではinjusticeだから不正とか不当な仕打ちと訳した方がいいよ。」

「12節にルカ18章にある“不正な裁判官”のたとえが出ています。“正しくない裁判官に公正を求め続けたやもめの話です。このやもめは,粘り強く求め続けるなら必ず助けてもらえる,という確信がありました。やがてこの裁判官は,やもめの願いを聞き入れました。”と要約しています。へんな要約ですね。」
「やもめが“粘り強く求め続けるなら必ず助けてもらえる,という確信がありました。”なんて聖書のどこにも書かれていない。この裁判官は“神への畏れも人への敬意もない裁判官”と描かれている。こんな裁判官に助けてもらえるという確信は持てないよ。」

「ルカ18:3で“訴訟の相手との間で公正な裁判がなされるようにしてください。”とやもめが言ったことになっていますが、訳はこれでいいのですか?協会共同訳では“相手を裁いて、私を守ってください。”になっています。」
「やもめは公正な裁判を求めているのか、相手を裁くことを求めているのかという問題だね。JW訳は公正な裁判を求めているとなっている。ここで使われているギリシャ語の意味は、正しさを証明するとか復讐するという意味。ローマ12:19に“愛する皆さん,復讐してはなりません。”とあるけれど、“復讐する”と訳されているのはルカ18:3と同じギリシャ語。」
「つまりJW訳は間違いで、やもめは公正な裁判を求めているのではなくて、相手を罰してくださいと求めているわけですね。」
「想定できる状況としては、裁判官は相手からわいろを貰っていて、やもめの訴えを無視している。やもめはお金がないので、しつこく裁判官に裁判を要求するしか方法がないという状況。」

「12節で“私たちは不公正を経験する時,辛抱や粘り強さを示し,例え話に出てきたやもめと同じような強い信仰を示す必要があります。”とありますが、的外れですね。」
「やもめは強い信仰を示していない。しつこさを示しているだけ。」

「この例えはルカ18:1で“イエスは弟子たちに,常に祈り,諦めてはならないことについて,さらに例えを話した。”と解説されているのですが、例えの内容と合致していないと思います。例えの中の裁判官は神をあらわしていることが多いですが、ここでは裁判官は悪人で神をあらわしていません。裁判官はやもめの要求を受け入れるわけですが、それも愛や公正とは無関係の理由からです。」
「この例えが祈りに関するものなら、裁判官は神をあらわしていることになり、しつこく祈れば神が根負けして祈りを聞いてくれる、というバカバカしい結論になってしまう。この例えは、もともとは祈りとは無関係だったのだろう。ルカの作者がルカ18:1の解釈を付け加えて、祈りについての奇妙なたとえ話にしてしまったということ。」

「13節が体験談で、兵士に殺されそうになったけれど、祈ったら助かったというコンゴ共和国での話です。」
「兵士じゃないよ。the militiaとあるから民兵だ。助けたのは民兵の指揮官でエホバではない。神はそのような争いごとに介入し、この人は助ける、この人は助けないと祈られるたびに決めているとJWは考えるのかな?」

「14節で“もう少しすれば,エホバは私たちに豊かな祝福を与えてくださいます。これまでのつらい経験を思い出すことはもはやなくなるのです。”とありますが、これはへんですよ。エホバは記憶を消してしまうのですか?」
「ついつい筆が滑ったというところでしょう。引照聖句にもそんなことは書いていない。」

「15から17節が“問題を乗り越えるための信仰”です。 15節に“イエスは弟子たちに対して,強い信仰があれば問題を乗り越えることができる,と教えました。(マタイ 17:19,20を読む。)”とあります。これは悪霊退治の話ですが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「“からしの種ほどの信仰があるなら”と言っているね。“からしの種”は小さいものの代表。“強い信仰”なんて要求していない。英文では“faith would help them overcome obstacles.”で“強い信仰”ではなく、単に“信仰”と言っている。」
「翻訳上のミスですね。翻訳者は聖句を知りませんね。問題の乗り越えるのだから“強い信仰”なのだろうと勝手に思い込んだのでしょう。」
「イエスの言葉は逆説的な表現が多いからね。思い込みで訳してはダメだよ。翻訳者は交代だね。」

「16節で“グアテマラのゲイディー姉妹の例を考えてみましょう。姉妹の夫のエディー兄弟は,集会から家に帰る途中に殺されてしまいました。”とあるのですが、日本のJWならグアテマラで殺された日本人女性JWのことを思い出して、暗い気持ちになりますよ。」
「JWは死んだ人のことなどすっかり忘れているよ。JWって、そんな人たちでしょう。」

「17節に“家族の誰かが排斥されてつらい思いをしていますか。もしそうなら,聖書や出版物を調べ,エホバがいつも最善の方法で矯正を与える,という確信を強めてください。”とあります。エホバ=組織と思い込んでいる人以外は無理ですね。」
「排斥制度はJWの作った制度に過ぎない。排斥は矯正の方法というより、信者を脅かし、JWをやめるのを防ぐ組織防衛の手段。」

「最後の18、19節が“さらに信仰を与えてください”です。 信仰があれば大丈夫だそうです。」
「18節には“この記事に出てきた経験についても考えましょう。”とあり、JWの信仰は、組織の都合に合わせて作られた真偽不明の経験談で深められるんだね。」
「“ベロ姉妹の娘やアネル姉妹のように,エホバに心からの祈りを捧げましょう。”とありますが、心からの祈りを何度もしたにもかかわらず、異国の地で無残に殺されたJWのことをすっかり忘れた人だけが、信仰を強められる経験談にすぎませんよ。」

#1352 2022年02月04日 14:43:23

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“あなたたちは聖なる人でなければならない(48)”で、レビ記19章を無理やり現代のJWに当てはめて、信者の私生活をあれこれ管理するという内容です。」
「“聖なる人でなければならない”という話が、なぜレビ記19章の話になるのか多くの人は理解できないよ。」
「主題聖句のペテロ一1:15,16でレビ記の“あなたたちは聖なる人でなければならない。私は聖なる者だからである”を引用しているからですね。それでレビ記19章に飛ぶのです。」
「レビ記17から26章を“神聖法典”というのだけれど、それは“私はあなたたちの神エホバである。あなたたちは自分を神聖なものとし,聖なる人とならなければならない。”が繰り返し出てくるから。でも、なぜ19章なの?理解できないな。組織のご都合主義だね。」

「3,4節が“聖なる人であるとはどういうことか”です。 3節の冒頭の部分が理解できません。“多くの人は聖なる人と聞くと,特別な服を着て信心深げな顔をしている宗教家のことを思い浮かべるかもしれません。しかし,それは正しい理解ではありません。聖なる方エホバは「幸福な神」であり,エホバに仕える人たちは「幸せ」である,と述べられているからです。”とありますが、いわゆる聖職者は聖なる人でないと言いたいようですが、その理由がへんです。」
「これは日本語訳に問題がある。英文では、宗教家はa joyless person(喜びのない人)と言っている。だから幸福な神であるエホバに仕える人ではないという理屈のようだ。」
「JWの他の宗教に対する悪意と偏見に満ちた文章ですね。翻訳者は、それが恥ずかしくてその部分を削ったので、つじつまが合わなくなったということでしょうか。」
「単に見落としたんじゃないの。」

「4節で“聖書では,「聖なる」や「神聖さ」という言葉は,道徳的また宗教的に清いことを意味しています。また,エホバへの奉仕のために取り分けられていることも指します。”とありますが、違いますよ。“聖なる”=“清い”ではないですよ。」
「“清い”は宗教儀式を行う上で適切か不適切かということに関係した概念。犠牲としてふさわしい動物は清いけれど、ふさわしくない動物は清くない。清い動物=聖なる動物ではないね。後は食物規定だね。清い食べ物とそうでない食べ物がある。」
「病気にも清くない病気がありますよね。病人差別ですね。」
「出産も清くない。レビ12章では、“男の子を産んだ場合,7日間,汚れた人となる。”とあるけれど、“女の子を産んだ場合,女性は14日間,月経の時と同じように汚れた人となる。”とあり、女の子の場合は男の子の2倍の期間清くないのだそうだ。くだらない女の子差別だね。」
「というわけで、“聖なる”=“清い”は間違いですね。」

「“聖なる”と訳されているヘブライ語の元の意味は、“切る、分離する”という意味なので、“取り分けられていること”というのは妥当な説明だね。」
「出エジプト3:5で、エホバはモーセに“それ以上近づいてはいけない。サンダルを脱ぎなさい。あなたが立っているのは聖なる場所だからだ。”というわけですが、聖なる場所というのは特別に取り分けられた場所という意味で、特別美しいとか神秘的な場所ということとは全然関係ないのですね。」
「出エジプト19:6でイスラエル人は“聖なる国民となる。”とあるけれど、これも他の民族集団から分離したものとなるという程度の意味。」

「“聖なる”が“切る、分離する”という意味なら、なぜエホバは聖なるものなのですか?」
「なぜ聖書の神は聖なのか?その答えは、出エジプト15:11に“エホバ,神々の中に,あなたのような方が誰かいるでしょうか。極めて聖なるあなたのような方が誰かいるでしょうか。”とある。聖書の神は他の神々と切り離された存在、つまりユニークな存在だから。それが聖なるという意味。」
「多神教世界を前提にし、その中でエホバは特別な神様だ、というのを、一言で言うと聖なる神となる。」
「神は一人しかいないと考えるようになるのはバビロン捕囚以降の話で、それ以前に書かれた聖書の部分の多くは多神教世界を前提にしている。」

「5から8節が“聖なる方,聖なる方,聖なる方,……エホバ”です。 6節に“偽の神々に対するエジプト人の崇拝行為は,清さとは懸け離れたものでした。”とあり、執筆者が神聖さと清さを混同しているのがよくわかります。」
「6節に“エホバは極めて聖なる方です。そのことは,大祭司のターバンに付けられた金の板に彫られた言葉から分かります。その板には,「神聖さはエホバのもの」と記されていました。”とあるけれどバカバカしいね。金の板にそう彫られているからと言って、何の証拠にもならない。」

「7節に“イスラエル人の男性,女性,子供たち全てには,律法の書の朗読を聞く機会があったからです。(申 31:9-12)”とありますが、本当ですか?」
「引照聖句の申命記3:11に“この律法を読み上げるべきです。”とあるけれど、これは申命記自体を指しているわけで、律法全体を指しているわけではない。申命記自体はずっと後の時代のもので、モーセの後の時代から、延々とこのようなことが行われてきたという史実はない。」

「8節に“ペテロが語った言葉から,レビ記 19章2節にある通り,エホバが聖なる方であり,エホバを愛する人たちも聖なる人であるよう努力する必要があることが分かります。”とあるのですが、しかし同じペテロ一1:2には“皆さんは,父である神の予知に基づいて選ばれ,聖なる力によって神聖なものとされました。”とあります。“聖なる人であるよう努力する必要がある”のでしょうか?すでに“神聖なものとされました”と言っていますよ。そもそも努力すれば聖なる人になれるものでしょうか?」
「イスラエルが聖なるものとされたのは神が選んだからであって、イスラエル人が何か努力をしたからではない。コリント一1:2でパウロも“皆さんはキリスト・イエスと結ばれて神聖なものとされ,招かれて聖なる人となりました。”と何かと問題の多いコリントの人たちでも神聖なものとされたと言っている。努力したので神聖なものになりました、とは言っていない。」

「9から13節が“何をするにしても聖なる人であってください”です。 9節に“どうすれば聖なる人になれるかをぜひ知りたいと思います。エホバは,そのことに関するアドバイスを私たちに与えてくださっています。その幾つかがレビ記 19章に収められています。”とあります。ウソですね。」
「こうすれば聖なる人になれますというハウツーなど聖書のどこにも書かれていない。」

「レビ記19章を取り上げる根拠は“ヘブライ語学者のマルクス・カーリシュはこう述べています。「この章は,レビ記だけでなく,モーセ五書の中でも,最も包括的かつ多角的で重要な章であると言えるだろう」。”という言葉です。出典が出ていない不正引用です。」
「この人(Marcus Kalisch)は19世紀の人だよ。あまりにも古すぎて恥ずかしいので、出典を明らかにできないんだよ。」

「10節によると、聖なる人になるための第一歩は親を敬うことです。親を敬うことを3つの節を使って強調しています。親孝行はそんなに大事なのですね。しかし、JWの両親を敬うというのは難しいですよ。」
「JWの高齢化が進み、貧困老人JWの問題が大きくなってきたからだろう。自分の親が飢え死にしない程度に援助してあげなさいということだね。」
「過酷な体罰という虐待を繰り返し、過剰な要求を絶えず行い、ハルマゲドンで滅ぼされると恐怖心をあおり、幸福であるべき子ども時代を破壊したにもかかわらず、謝罪も反省もしない親を敬うのは難しいですよ。」
「そんなことができる人がいたら、栄養不足と体罰のせいで脳に障害を受けているのではと心配になるね。」

「12節で“例えば,親と過ごす時間をもっと増やすことができるでしょうか。親が必要としている物を買ってあげることができますか。エホバに仕え続けるよう助けることができますか。話をよく聞いてあげたり,褒め言葉を掛けたりすることができるでしょうか。”とあります。JWは貧乏でまともな生活もできない親を行政任せにして、宗教活動ばかりしているという非難を、組織も多少は気にしているということですよ。」
「そういいながらも、組織は、海外で奉仕せよとか、開拓者になれとか、親不孝を勧めてきた。排斥制度で家族を破壊したのも組織の方針だ。」

「13節が安息日の話です。“レビ記 19章3節の「私の安息日を守りなさい」というエホバの言葉について考えると,毎日の生活の中で,エホバについて学んだり伝えたりするための時間を取り分けるよう動かされます。”とあります。安息日を奉仕活動に結びつけています。こじつけです。」
「こじつけるために、“それでイエスは,毎週の安息日に会堂に行き,聖書を読みました。(出 31:12-15。ルカ 4:16-18を読む。)”と言っている。でも、ルカはそんなことは言っていない。」
「ルカ4:16に“安息日の自分の習慣通り,会堂に入り,朗読のために立ち上がった。”とありますね。習慣にしていたのは会堂に行くことで、朗読することではないですよ。」
「これだけの記述なので、イエスが以前に公に朗読をしたことがあるのか、それとも初めてなのかはわからない。イエスはイザヤ書を読むのだけれど、イエスがそれを選んだのか、安息日にはその部分を読むことが習慣だったのか、もわからない。」

「安息日というと、民数記15:32-36の話を取り上げてほしかったです。“イスラエル人は,荒野にいた間に,安息日に薪を拾い集めている人を見つけた。薪を拾い集めているのを見つけた人たちは,その人をモーセとアロンおよび民全体の所に連れてきた。その人は拘禁された。その人をどうすべきか,はっきり述べられていなかったからである。 エホバはモーセに言った。「その人は必ず死刑にされるべきである。民全体が宿営の外で石打ちにすべきである」。 民全体がその人を宿営の外に連れていって石打ちにし,その人は死んだ。”とあります。」
「旧約聖書によくある残酷で不条理な話の典型だね。こんな神が愛のある神となぜいえるのかな?薪を集めるのは火を起こして料理するためだよ。安息日では、子どもがお腹を空かせて泣いたら殴りつけて黙らせればよいというのが神の考えのようだね。」

「14から18節が“エホバとの絆を強める”です。 16節に“聖なる人であるためには,周りの人たちと異なっている必要があります。”、さらに“聖書に反する考え方や行動をする人たちと同じようになることはしません。”と言っています。JWは、自分たちは聖なる人だから、周りの汚れた人間とは同じことはしないそうです。」
「“聖書に反する考え方や行動”ではないよ。組織の命令に反するだけ。自分たちは特別だと思わせるのはカルト宗教の常套手段。また周囲の人間に敵意を持つようにさせ、信頼できるのは自分の指導者、仲間だけと思わせ、周囲から孤立させるのもカルトのやり方。」

「17,18節はレビ記 19章23-25節の話です。“食べ物を得るために木を植えた場合,最初の3年間はその実を食べてはいけませんでした。4年目に実った物は,聖なる所で用いるものとして捧げるために取り分けられました。そして,5年目になってようやく,その実を食べることができました。このおきては,自分のことを一番に考えてはいけない,ということをイスラエル人に教えるものでした。”とありますが、違いますよ。」
「日本でも“桃栗三年柿八年”というよ。これは植えてから収穫まで何年かかるかを述べていて、ことわざとしては、物事は一朝一夕にできるものではない、時間がかかるものだという意味。そもそも木を植えて次の年に収穫なんかできないよ。3年間待った方が収穫量は増える。」

「レビ19:25に“5年目に,その実を食べてよい。収穫は増える。”とありますが、これは神秘的な力で収穫が増えるということではなく、木がある程度大きくなるまで待ってから収穫した方が得だよ、と言っているわけですね。」
「執筆者はそのことがわかっていない。17節で“彼らは,エホバが必要な物を与えてくださることを信頼し,エホバへの崇拝を第一にする必要があったのです。そうすれば,イスラエル人はエホバから食べる物を十分に与えられることになっていました。”といい加減なことを言っている。」

「18節が信者への指令です。“私たちは,エホバが必要な物を与えてくださることを信頼しています。それで,困っている人たちに「憐れみの施し」をし,さりげなく助けます。また,会衆のために喜んで寄付をします。”とあります。」
「先週の写真にパン3枚しか食卓にないというのがあったけれど、あれは必要なものを与えられたというのかな?」
「“また,会衆のために喜んで寄付をします。”という文は、統治体の老人たちが絶対この文章を入れろと命令したと思いますね。」
「いっそのこと、聖なる人になるにはお金が必要です、とはっきり書いたらいいのに。」

#1353 2022年02月11日 16:06:52

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“人との接し方についてレビ記から学べること (49)”で、先週に引き続きレビ記19章に書かれていることを、無理やりJWに当てはめよう、という内容です。」
「末端の信者は、今週も組織からあれこれと要求を突きつけられるわけだね。」

「3から5節が“体が不自由な人たちに思いやりを示す”です。 レビ19:14の“耳が聞こえない人をののしったり,目が見えない人の前に障害物を置いたりしてはならない。”に基づいています。しかし、協会共同訳では“耳の聞こえない人を呪ってはならない。”とあります。どちらが正しいのですか?」
「元のヘブライ語は“呪ってはならない”という意味。JW訳は現代人に受け入れやすいように改変し、元の意味に忠実でないことが多いけれど、これもその一つだね。」
「相手に聞こえなくても、呪う行為自体悪なので、呪うことをするなという意味ですね。体の不自由な人に対する思いやりとは関係ない聖句ですね。」

「4節に“ある資料によると,「古代の中東では,体が不自由な人は食い物にされたり虐げられたりすることが多かったよう」です。”とあるけれど、いつもの不正引用。ある資料が何なのかわからなければ、その主張の真実性は評価できない。」
「障がいのある人がいじめられるのは、中東に限りませんし、古代だけでもありません。」

「5節になると、突然レビ記からイエスの話に飛ぶ。旧約聖書では障がい者を嫌悪しているから、イエスの話に話題転換だ。」
「例えば、レビ記21:21-23に“祭司アロンの子孫で体に障害がある人は誰も,エホバへの火による捧げ物を捧げるために近づいてはならない。その人は障害があるので,神のパンを捧げるために近づいてはならない。その人は,神のパン,すなわち聖なるものや極めて聖なるものを食べてもよい。しかし,幕の近くに来ても祭壇に近づいてもならない。体に障害があるからである。私の聖なる所を汚してはならない。私はエホバであり,人々を神聖なものとしている。”とありますね。」
「神様は障がい者を、汚れたもの、清くないものとみているということだね。」
「JWでも、障害があると、恐らく統治体の一員にはなれないと思います。でも肥満は問題ないみたいですね。」

「5節に“その良い知らせとは,パラダイスで人間が皆,健康になり,エホバとの絆を持つことができる,というものです。(ルカ 4:18)”とあるけれど、引照聖句はそんなことは言っていない。」
「ルカ4:18はナザレの会堂でイエスがイザヤ書を朗読している部分ですね。そこには“目が見えない人に視力の回復を知らせ”とありますが、地上のパラダイスでそうなるとは一言も言っていません。」
「地上のパラダイスで健康で永遠に暮らすというのは、JWの信者集めのための教義であって、聖書的な考えじゃないよ。」
「そのような考えは古代人でさえ受け入れにくかったようですね。」
「人間の肉体は極めて弱く、傷つきやすい。肉体の脆弱性を考えれば、この肉体で永遠に生きるのはとうてい無理と古代人でさえ直感的に理解した。現代のJWはそれがわからないのが不思議だね。」

「6から10節が” 仕事の面で正直である”です。 8節に” 「仲間からだまし取ってはなら[ない]」とあります。それで,仕事で不正なことを行うなら,盗んでいることになります。”とありますが、JWではJWを対象にした商売をする人がいます。怪しげな商品をもっともらしいことを言って売りつけるのです。」
「そうやって信者同士搾取しあうのがカルト宗教。」

「末端の信者よりも悪質なのは統治体ですよ。統治体は信者から王国会館や寄付金をだまし取っています。」
「王国会館やその他の不動産の売却を世界的に進めているけど、そのやり方は強引で説明不足。不動産の売却収入が相当あるにもかかわらず、さらに寄付を要求している。」
「裁判に負けて賠償金を支払わなければならないことを信者に説明していません。意図的な情報隠しです。末端の信者は世界的な業のために使われると思って寄付していますよ。統治体は仲間からだまし取っています。」
「統治体は末端の信者のことを仲間ではなく愚鈍な羊としか思っていないよ。だから良心は痛まない。」

「10節に“雇い主の中には,働いている人がほかに仕事を見つけられないという弱みに付け込んで,本来の額よりはるかに少ない給料しか払わない人もいます。”とありますが、これは組織のことじゃないですか?」
「ベテル奉仕者を大量解雇したことがあるよね。」
「アメリカ人ですが、ベテルを解雇された後Youtubeに投稿していましたが、相当怒っていました。」
「低賃金で働かせて、不要になったら退職金も年金も与えず追い出す。特別開拓者を大量に解雇したこともある。神の組織は雇い主としては最低だね。奴隷制度が当たり前だった古代に書かれた本の基準さえ守っていればよいと思っているのだろう。」

「11から16節が“人を自分自身のように愛する”です。 仲間を自分自身 のように愛さなければならないということですが、統治体の仲間は統治体のメンバーだけで、他の信者は搾取の対象で、仲間じゃないようです。」
「殺すなとか愛せよという掟はあくまで自分の所属する集団内の掟にすぎないからね。自分が所属する集団以外の人は殺しても奴隷にしてこき使っても問題ないというのが古代の倫理観。JWも同じだよね。」

「例えば、民数31:1に“エホバはモーセに告げた。 「イスラエル人のためにミディアン人に復讐しなさい。”とあります。その結果、“彼らは,エホバがモーセに命じた通りミディアンと戦い,男性を全員殺した。”(31:7)で、さらに“ミディアンの女性と子供を捕虜として連れ去った。また,ミディアンの全ての家畜,全ての所有物を奪い取った。 そして,ミディアン人が定住していた全ての町と宿営を火で焼いた。”(31:9,10)と復讐と称して殺戮と略奪と破壊を行っています。」
「これはミディアン人が隣人ではないからだね。隣人を愛するとか殺すなという命令が平和をもたらすものではないことがわかる。」

「民数記31章を読むと、ミディアン人は滅びたはずです。しかし、裁き人6:2では“ミディアンはイスラエルを支配した。それでイスラエル人は,山の中や洞窟や簡単には行けない所に隠れ場を作った。”とあり、完全にイスラエルがミディアンに負けています。」
「ミディアン人は驚いたことに女だけで子どもが生まれるということだね。」

「13節に“隣人に愛を示す1つの方法は,レビ記 19章18節の言葉を当てはめることです。そこには,「復讐をしたり,恨みを抱いたりしてはならない」とあります。”とありますが、その後突然ヨセフの話が出てきます。」
「ヨセフはJWお気に入りのキャラクターだからね。JWにとっては、なんにでも使える便利な男。」

「13節に“ヨセフは,兄たちに仕返しできる立場になった時,そうするのではなく憐れみを示し,恨みを抱きませんでした。こうして,レビ記 19章18節に沿った行動を取ったのです。”と、ヨセフをほめまくっています。」
「創世記45:5に“しかし今は,私を売ったことで心を痛めたり,互いに責め合ったりはしないでください。皆さんが生き続けられるよう,神が私を先に遣わしたのです。”とヨセフは述べている。人はなぜ苦しむのかという問題のひとつの答えを示すことがヨセフ物語の目的に一つなんだよ。」
「苦しみは、実は良い結果に至るための神の計画の一部なのだというものですね。だから苦しみに耐えよう、誰かを恨むのはよそう、という思想になるわけです。」
「つまり隣人愛の思想とは根本的に違う。」

「15節に“心の傷を文字通りの傷に例えて考えてみましょう。”とその例えが延々と続くのですが、ものみの塔の典型的な駄文で、嫌気がしてきます。」
「“傷口をいじったりつついたりするなら,傷は良くなるどころか悪化してしまうでしょう。”だから、傷つけられても人を恨むな、ということのようだけど、そのことを言うのに、“傷には,小さなものもあれば,大きなものもあります。例えば,・・・”とだらだら続く。字数を増やすためにそうしているんだよ。」
「ものみの塔の記事は1時間の集会に使うためのものですから、短いと集会が早く終わりすぎて、困るのですよ。1行で済むことを10行くらいかけて書いています。」
「言っていることは、いつものように加害者を許せ、訴訟なんかするなという組織防衛のための被害者泣き寝入りを勧めているだけ。」

「16節に“外国人を愛するようにという教えは,現代のクリスチャンにも当てはまります。(ルカ 10:30-37)非常に大勢の人たちが外国で生活するようになっています。近所にもそうした人たちが住んでいる かもしれません。そのような人や家族みんなに敬意を示し,親切にするのは,とても大切なことです。”とあります。これは外国人移民が伝道の対象として重要視されているということですね。」
「今時JWに入ろうという人の一つのタイプは、情報が乏しく、社会的に孤立して、寂しい思いをしている人。外国から来た移民はこのタイプに当てはまる人が多い。JWが狙うのも無理ないね。」

「最後の17,18節が“レビ記 19章には述べられていない大切なこと”です。 それは何かというと、18節に“それは,「活動に備えて思考を整え」ることです。(ペテ一 1:13,15)”と説明しています。」
「その活動が何かというと、“聖なる人として,伝道や教える活動をいつも熱心に行うことができています。”とあるので、いつもの伝道などの奉仕活動というのがJWの解釈のようだけど、これはへんだね。」

「ペテロ一1:13には“それで,活動に備えて思考を整え,常に頭がさえた状態を保ってください。”とありますが、協会共同訳では“それゆえ、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、”です。大きく違います。後者には活動なんて言葉はありません。」
「英文では“So brace up your minds for activity; keep your senses completely”。“思考を整え”じゃなくて、“心を引き締め”だろう。元のギリシャ語は文字通りには“心の腰を引き締める”という意味。心のベルトをきっちり締めなさい、つまり準備する、警戒するという意味。」
「“活動”に相当する言葉は、元のギリシャ語にはなくて、後から付け加えたわけですね。」
「そう。だから18節にある“この活動には何が含まれるでしょうか。”という問いはおかしいね。活動という言葉は聖書にない。」

「gird up one's loins(腰を引き締める)は気を引き締めるという意味の英語の慣用表現ですね。」
「列王一4:29に“エリシャはすぐにゲハジに言った。「服をまくって腰に留め,私のつえを持ち,行きなさい。”とある。この表現から、腰を引き締める(gird up one's loins)は、何かに備えるために気を引き締めるという慣用表現になったと言われている。」
「そんな言葉の歴史を知らない、間抜けな日本語翻訳者が“活動に備えて思考を整え”という誤訳をしたわけですね。」

「日本語でも、褌を引き締めてとか、たすきをしっかりかけてとか、鉢巻をしっかり結びとか、似たような表現があるよ。」
「JW訳は、元の言葉から英語に直す過程でミスがあり、その英語を日本語に直す過程でさらにミスが加わるという問題だらけの訳ですね。」
「それでもJWの教義に都合の良いようになっているから、JWとしては世界で最も良い聖書なんだろうね。」

#1354 2022年02月13日 09:28:51

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

大きな傷は縫ってもらったり包帯をまいたりとあるようですが、JW長老がどんな手当をしてくれるんでしょうか。この記事みたいに忘れなさい、許しなさい、と言うだけで、結局は大した傷ではない、ほっておけば治ると何もしないのと同じです。

2人の証人(JWはマタイ7の12よりもこっちがゴールデンルール)を盾に一対一の状況に持ち込めばやりたい放題、言いたい放題、一人の訴えでは何もしない、訴え続けると逆に和を乱す問題人物と助言対象にされる、適切な処置をせず一生残るような後遺症になっても、自分は組織の指導に基づいてふさわしい=正しいアドバイスをした、と思い込める共感力のなさがJW長老を長く続ける秘訣のようです。

そういう共感力のなさを極めた人たちが書くとこういう記事になりますね。

#1355 2022年02月13日 10:59:08

あめぶろ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

JW在籍中は真摯に神を愛し心ある共感力のある長老にも出逢えましたけど、大抵はメンタルやられて病んだり、文字通り体調壊して病んだり、言い方悪いですが何故か早死にしたりでしたね。
まともな人なら、良心が咎め苦しくて続けられないのでは?と感じます。
長く長老続けるには、ある意味感情を殺さないと無理と思います。

#1356 2022年02月18日 15:37:47

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“立派な羊飼いの声を聞く(50)”で、生きていくのに必要な物について心配するのをやめることと、他の人を裁くのをやめることを学ぶという内容です。」
「貧乏生活とJW生活のストレスに苦しんでいても、八つ当たりをせずに仲良くしなさいということね。」

「4から10節が“心配して気をもむのをやめなさい”です。 ルカ12:29の“それで,何を食べるのか,何を飲むのかとばかり考えるのをやめ,心配して気をもむのをやめなさい。”からの引用です。」
「5節に“新型コロナウイルスが流行したせいで,失業したり収入を得られなくなったりしたかもしれません。(伝 9:11)”とある。“かもしれません。”じゃないだろう。低学歴無資格のJWはコロナのせいで大量に失業しただろう。」
「パート労働者は不景気になれば、真っ先に首を切られます。」
「引照聖句の伝道9:11には“思いも寄らないことがいつ誰にでも起きるからだ。”とあるけれど、コロナ下で失業するのは思いもよらないことじゃないよ。組織は信者を不景気に弱い経済弱者に意図的に追い込んでいるよ。」
「ゲーム機がたくさん売れたソニーみたいにコロナ下で最高の利益を上げた企業はたくさんありますが、JWがそのような企業の正社員ということはまずないですからね。」

「6節に、ペテロが水の上を歩こうとして溺れそうになるというマタイ14章の話を取り上げているけれど、なかなか面白い。でも、“心配して気をもむのをやめなさい”というテーマとほとんど繋がりがないよ。」
「“注目すべきなのは,ペテロがイエスに目を向けていた間は大荒れの水の上を歩けた,ということです。”という部分ですか?」
「7節に“ペテロはイエスに目を向け続けることができませんでした。”とあるから、ペテロが沈んだのは目をそらしたことが原因と解釈しているようだ。おかしいよ。」
「マタイ14:30でイエスはペテロに“信仰の少ない人よ,なぜ疑いに負けたのですか。”といっていますから、ここで問題にしているのは信仰ですよ。それをどこを見るかという問題にすり変えているのですね。」
「そして7節で“エホバやエホバの約束から目をそらしてしまうなら,私たちも“沈み”始めてしまうでしょう。”ともっともらしい事を言う。」

「6節の上のイラストは、スーツを着たJWが沈みかけているというものだと思うのですが、単に浅いところを歩いているようにしか見えません。」
「確かに下手な絵だ。もっと深い所に入るように描いて欲しいね。マタイ14:24には“舟は陸から何百メートルも離れていたが”とわざわざ書いている。それはイエスは水の上を歩いたのではなく、浅いところを歩いてきただけではないかという批判を考慮してだよ。」
「イラストの脚注には“1人の兄弟が仕事を失い,家族を養うお金に困っており,別の家に引っ越さなければならなくなっている。こうした問題について心配し過ぎると,エホバに仕えることが二の次になってしまうかもしれない。”とあります。そんな悲惨な状況なら宗教は二の次にすべきですよ。」
「何の役にも立たず、個人の困難な状況を少しも配慮せず、要求ばかりする宗教とは、引っ越しを機にやめた方がいいよ。」

「イエスが水の上を歩くというのはマルコ、ヨハネにもありますが、ペテロが水の上を歩いて沈みそうになったというのはマタイだけですね。」
「マタイはマルコを資料にしているけれど、元にしたマルコ6:45-52には、ペテロの話はないし、結末も違う。マルコをだいぶ改変している。」
「マルコ6:51,52には“そして舟に乗り込むと,風はやんだ。弟子たちはすっかり驚いた。 先ほどのパンの意味を把握しておらず,まだ心が鈍くて理解できなかったのである。”となっていますが、マタイ14:32,33では“2人が舟に乗り込んでから,暴風はやんだ。 その時,舟にいた弟子たちは,「確かにあなたは神の子です」と言って,敬意を表した”となっています。」
「マルコでは弟子たちのダメっぷりが描かれているのに対し、マタイでは弟子たちはここでイエスが神の子という理解に達したことに変えている。」

「8節に“愛情深いお父さんエホバは,私たちがエホバに仕えることを第一にするなら,生きていくのに必要な物を与える,と約束しています。(マタ 6:32,33)そして,その約束をこれまでずっと守ってきました。”とありますが、事実に反します。神がお金を天から降らしたなどという話は聞いたことはありません。」
「組織のことを盲信して仕事をやめ、無給のJW活動を熱心に行う中で貧困に陥り、病気になってもお金がなくて病院にも行けず早死にした人は大勢いるよね。」

「引照聖句は“私たちがエホバに仕えることを第一にするなら,生きていくのに必要な物を与える”と言っていませんよ。」
「マタイ6:33は“王国と神から見て正しいこととをいつも第一にしなさい。そうすれば,こうしたほかのもの全ても,あなたたちに与えられます。”だけど、“王国”を第一にするというのは、エホバに仕えること、つまりJWの伝道や集会を熱心に行うことではないよ。」
「イエスの言う王国あるいは神の国とは何かというのは、イエスの教えを理解する上で非常に重要なことですが、JWの理解はまるっきり的外れですよね。」
「最近の理解では、イエスは遠い未来に神の国が超自然的な力で到来すると信じていたのではなく、今ここに神の国は来つつあると考えていたようだ。その場合、王国を第一にするとは、必要なものが全ての人に与えられ、誰も搾取されることもない神の国が実現するよう生き方を改めなさい、というような意味になる。伝道や集会が大事だよということではない。」

「9節に、必要なものが与えられたという、ある夫婦の体験談が出ています。食べ物が届けられた、それから自分の故障した古い車が高く売れたという話です。全能の神にしてはけち臭いですね。できるなら車を故障しないようにして欲しいです。」
「9節の最後に“これは決して偶然ではありません。エホバが助けてくださったんです。”とあるけれど、どう見ても偶然でしょう。こんなことにいちいち神が介入すると思っているのかな?」
「こんなことに介入するのなら、JWが殺されそうになっている時や輸血を拒否して死んでいく時に助けるべきですよ。でもそういう時には何もしない。」
「この種の体験談は他の宗教でも無数にあるの。この種の体験談をいくら繰り返しても、JWが神様から特別扱いされているなんてことは少しも意味しない。」

「JWの神様は人間でもできるような援助しかできないということですね。この体験談でエホバが助けたのは食べ物と車の問題です。どれもお金さえあれば解決することです。やっぱりお金は大事だね、という結論になりますよ。」
「この体験談ではエホバという神様は親戚の裕福なおじさん程度の存在ということ。そういう親戚がいればエホバはいらないね。」

「9節に“2人には車がどうしても必要でしたが,修理するためのお金はありませんでした。修理工場に車を持っていくと・・・”とあります。これはへんですよ。修理するお金がないのに、修理工場に車を持って行きますか?修理代を踏み倒すつもりだった?」
「そうだとするとJWらしい話だけれど、これは誤訳でしょう。英文はWhile the car was being looked over at a nearby garageで、”近くの車庫で車を点検していると”という意味だよ。garageは修理工場という意味もあるけれど、ここでは車庫でしょう。日本語訳をしている人は何も考えていないということだね。」

「10節に“エホバはこれまで,家族の頭や雇い主を通して,私たちが毎日必要な物を得られるよう に助けてくれたことでしょう。”とあります。やはり直接は助けないのがわかります。」
「家族の頭といっても、以前はJWでない家族の頭のことが多かった。これもエホバの助けなの?それに雇い主の背後に神はいないでしょう。でも働く態度もよくないし、有能でもないのに、やたらと休みたがるそんなJWを雇ってくれる人がいれば、その背後にはエホバがいると感じるのかもね。」

「11から17節が“裁くのをやめなさい”です。 がらりと話題が変わります。マタイ7:1からの引用です。しかし、12,13節はダビデの話に跳びます。」
「そのダビデの話もおかしな話。12節に“エホバの手本について考えるのは良いことです。エホバは人の良いところに注目しています。”とあるけれど、エホバなんか手本にできない。やっていることは滅茶苦茶だよ。」

「ダビデはバテシバの件と人口調査の件で罪を犯したけれど、エホバは、13節によると、“ダビデがそれまで示してきた忠実さや,本当に悔い改めている様子に目を向けました。そして,重大な罪を犯したダビデを許したのです。”と言っています。」
「エホバはダビデを許したかもしれないけれど、罪のないバテシバの子どもを死なせ、“7万人ものイスラエル人が伝染病で死にました。”と12節にあるように無関係なイスラエル人を大量虐殺している。死んだ7万人の人たちにはいいところは一つもなかったということなの?ダビデには憐れみをかけるけれど、無実のその他大勢には厳しい裁きを与えた神様を手本にすべきなの?」

「ダビデは悪党だけど、聖書のストリー上死なせるわけにはいかないし、かといって何も罰しないわけにもいかないので、代わりに別の人間を死なせるわけですね。」
「統治体が悪いことをしたので、エホバが怒ったけれど、統治体は何の罰も与えられず、代わりにJW7万人が伝染病で死にましたということが起きたても、死んだJWの家族は納得するのか?」

「12節の引照聖句のサムエル二24:1に” エホバの怒りがイスラエルに向かって再び燃えた。ある者がダビデを駆り立てて,「さあ,イスラエルとユダを数えなさい」と言った時のことである。”とありますが、誤訳ですよね。協会共同訳では” 主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主はダビデを唆して民に向かわせ、「すぐにイスラエルとユダの人口を調べよ」と言われた。”とあります。」
「人口調査をさせたのは神様。それだとJWとしては不都合なので、“ある者”に変えた。歴代誌一21:1に“さて,サタンがイスラエルに対して立ち上がり,イスラエルを数えるようダビデを駆り立てた。”とあるのに矛盾しないようにするという目的もある。」
「初期の思想では神は悪も行うわけですね。ところが時代が進むと、神が人をそそのかせて悪を行わせるというのは受け入れ難くなり、捕囚以降に書かれた歴代誌ではエホバをサタンに変えたのですよね。」

「サムエル記では人口調査はダビデ王の晩年に1度だけ行ったことになっているけれど、史実性はないね。」
「人口調査の目的は徴税と徴兵が目的ですから、国家成立後直ちに人口調査が行われたことが予想されます。」
「徴税と徴兵につながるので人口調査は民衆からは嫌われた。それがこの話に反映している。」

「14節もへんだね。ダイヤモンドのたとえの後、結論は“私たちはエホバとイエスに倣って,人のできていないところではなく,良いところに注目する必要があります。”となっているけれど、そんなことは言っていない。原文はwe need to look beyond appearances and see people’s good qualities.で、”外見に惑わされず、人の良い性質を見る必要があります。”という意味。」
「JWをダイヤモンドの原石に例えています。原石は見た目はよくないけれど、価値がわかる人にはとても貴重なものです。同じようにJWも見た目はよくないけれど、いい人なのだから、裁いたりするなと言いたいわけですね。」

「15節では、人を裁くのをやめるために“どんな生活を送っているかを想像してみることです。”とあります。その程度のことができないJWが多いということなのでしょうね。」
「16節にある、一人で自閉症の息子を育てている姉妹の話は悲しいね。ベロニカ姉妹は“その親子は集会や奉仕にいつも参加しているわけではなかったので,私はあまり良い印象を持っていませんでした。”と言っている。何があっても集会と奉仕こそ最優先にすべきというJWのおかしな価値観がベロニカ姉妹のような単純バカを作り出している。」

「17節で“もし自分が仲間の誰かを裁いていることに気付いたなら,どうしたらよいでしょうか。”と問いかけ、具体的な方法が出ているのですが、“祈ることに加えて,自分の方から近づいてその人に話し掛けるようにしましょう。(中略)奉仕に誘ったり食事に招待したりするのも良いことです。”とあります。日ごろ自分の悪口を言っているような人から食事に誘われても断るんじゃないですか?」
「まず、今までの態度を反省し、謝罪することが必要でしょう。そういうこともせず、何事もなかったかのように気安く話しかけられる人は、どこかおかしい人。」

#1357 2022年02月25日 13:39:55

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“彼の言うことを聞きなさい (51)”で、狭き門の話とお互い仲直りしようという話です。」
「JWの人間関係は本当に悪いようだね。また仲良くしましょうという小学生並みの話が登場だ。」

「3から5節が“狭い門を通って入りなさい”です。 マタイ7:13,14からの引用です。“狭い門を通って入りなさい。滅びに至る門は広くてその道は広々としており,それを通って入っていく人は多いからです。一方,命に至る門は狭くてその道は狭められており,それを見つける人は少ないのです。”というものです。」
「3節で、“イエスは,2つの門があると言いました。1つは「広々とし」た道につながっていて,もう1つは「狭められ」た道につながっています。”と解説しているけれど、不正確だ。単に“2つの門がある”と言っているのではなく“狭い門”と“滅びにいたる門”があると言っている。」

「門自体に違いがあるのに、この記事ではそれは無視して、狭い道と広い道の話しかありません。門の違いの方が重要と思います。」
「ルカ13:24に“狭い戸口を通って入るため,精力的に励みなさい。あなた方に言いますが,入ろうとしても入れない人が多いからです。”というのがある。マタイ7:13とよく似ているけれど、道は出てこない。このルカのほうが元の話で、マタイはそれを改変したと考えられる。そうだとすると道より門が重要となる。」

「門と道の関係ですが、この記事では門があってその後道が延々と続くと解釈していますが、道があって、そこを進むと門があり、門を通るとゴールという関係じゃないですか?」
「どちらかは難しいね。この話が想定しているのは、正面に豪華で広々とした門と玄関に通じる道がある宮殿のような建物と思うね。そこへ多くの人が行くけれど、建物にたどり着いてもドアは閉まったまま。ところが正面とは違う所に狭い門があり、そこから狭い道が続き、苦労してその道を行くと建物にたどり着ける。」
「やはり門があり、道があるということですね。門は狭いわけですから、最初から入れる人は制限されているわけですね。」
「7:13の“狭い門”と7:14の“その道は狭い”と“狭い”が2回出てくるけれど、使われているギリシャ語は違う。後者の狭いには迫害されるという意味合いもある。それで、この部分は、キリストの弟子となることは狭い、つまり制限されている。なぜならそれは迫害と苦労の道を歩むことになるからだ、というような意味だろうね。」

「4節で“「広々とし」 た道は歩きやすいので人気があります。多くの人がこの道を選ぶのは,非常に大勢の人が歩んでいるからです。しかし,そうした人たちは,この道を歩むよう唆しているのが悪魔サタンであり”とあるのですが、単なる見当はずれの推測です。」
「5節に“世界には非常に多くの宗教があります。そのほとんどは,自分たちが正しいと主張しています。それで,大勢の人たちは困惑し,命に至る道を探すことを諦めてしまっています。”というのはもっとひどい推測だ。何の根拠もない。」
「JWにとって“命に至る道”とはJWの道です。JWになる人が少ない理由は、JW以外の宗教が多すぎるせいという理解のようです。」
「自分たちの過去の発言や行為をじっくり考えてみれば、JWになる人が少ない理由がよくわかると思うけどね。責任転嫁は見苦しい。」

「6から9節が“狭められた道を歩み続けるためには”です。 山の中の、狭いですがしっかりガードレールに守られた道を車が進むというイラストがあります。これって評判悪いですよ。」
「6節に“聖書に載せられているエホバの基準は,このガードレールのようなものです。私たちが狭められた道を歩み続ける上で助けになります。”とあるから、イラストの中の車はJWをあらわしていることになるけれど、この車がJWらしくないというわけだろう。」
「イラストの赤い車はランドローバー・ディフェンダーですよ。600万円以上はします。JWをあらわすのなら錆びた安物の小型車ですよ。」
「これだけでかい車だと、どんな道も狭く感じるよ。まじめなJWならこんな車は買えないでしょう。単なる宣伝用イラストだね。」

「イラストの脚注に“神が与えてくださっている“ガードレール”に守られ,「狭められ」た道を進み続けるなら,いろいろな危険を避けられる。例えば,ポルノや,不道徳な交友や,高等教育を受けるようにという強い圧力など。”とあります。高等教育に対する反対の姿勢をこれほど露骨に示すとは驚きです。」
「カルト化が進んでいるということだね。ポルノと高等教育が同列に危険視されているのは笑えるね。こんな宗教は他にないよ。」

「狭い道にはガードレールがあるなんて、聖書のどこにも書いていません。バカバカしい話です。」
「組織のバカバカしい基準を信者に守らせるのにどんな理屈がいいか考えていたら、ガードレールを思いつき、そこから狭い道を連想して、この記事ができたということじゃないの。」

「7節に“若い皆さん,エホバの基準は厳し過ぎる,と感じることがありますか。サタンはまさにそう感じさせたいと思っています。”とあります。これでは厳しく感じる人はサタンの手先ということですね。無茶苦茶な決めつけです。」
「エホバの基準じゃなくて、統治体の好きな基準だろう。タイトパンツをはくなとか、髭はダメとか、アフリカ人でもアフリカ風の髪形はダメで白人風の髪形にしろとか、いつもネクタイをしろとか、アメリカの保守的な白人の基準そのものだよ。」
「JWの基準とは一昔前の保守的なアメリカ中流白人の基準で、聖書とは何も関係ないということです。」

「8節のオラフ兄弟の体験談が面白い。“兄弟は,エホバの証人は聖書の高い基準に従って生きていると説明しました。すると,クラスの数人の女子たちはむきになって,自分たちとセックスさせようとしてきました。それでもオラフ兄弟は誘惑に負けませんでした。”とある。オラフというのは北欧の名前だから北欧の話なんだろうけれど、北欧の女の子はこんな感じなのか?この記事を読んで、若いJWの中には北欧で奉仕したいと思った人はけっこういるよ。」
「恐らくタトーを入れ、鼻にピアスをつけた、とんでもない不良少女ですよ。」

「8節ではさらに“先生たちは,人から一目置かれるために大学に進学するようにと言ってきました。進学しなければいい生活は送れないとも言われました”とある。JWが罪悪視しているセックスと高等教育がセットになって出てくるとは、よくできた体験談だ。できすぎているので、かえってウソくさいね。」
「最初の話では、オラフ兄弟は貧困層の通う底辺の高校にいて、周りは社会から落ちこぼれたような人たちばかりという印象ですが、次の話では大学進学に圧力をかけられるわけですから、進学校にいるのかと思ってしまいます。複数の人の話をつなげて一人の人物の体験談に仕立て上げたと感じます。」

「10から12節が“仲間と仲直りする”です。 マタイ5:24からの引用ですが、創世記にあるヤコブとエサウの話が中心です。11節では“ヤコブは仲直りするためにどんなことをしたでしょうか。まず,エホバに真剣に祈りました。また,エサウにたくさんの贈り物をしました。”とあります。」
「正しくない。創世記32章では、ヤコブはまずエサウへ使者を送っている。32:6.7で、“やがて使者たちはヤコブの所に戻ってきて,こう言った。「お兄さまのエサウに会いました。あなたに会おうとしてこちらに向かっています。400人の人たちが一緒です」。 ヤコブは非常に怖くなり,不安になった”。とある。ヤコブはエサウが部下を連れて襲撃するつもりと誤解する。」
「その後で、不安のあまり一生懸命に祈ります。そして贈り物を持たせた召使を先に出発させます。ヤコブは自分の安全を最優先して、出発しません。襲われるとしたら召使になります。ひどい主人です。」

「創世記33章でヤコブはエサウと出会う。ヤコブは7回もひれ伏して、全く意気地のない詐欺師らしい卑屈な態度に出る。」
「33:4には“するとエサウはヤコブに走り寄り,抱き締めて口づけした。2人は泣きだした。”とあります。エサウはいいやつですね。」
「中東の地位のある男性は走ることなどしない。“走り寄り,抱き締めて口づけした。”というのは、イエスの“放蕩息子のたとえ”の父親と同じ行動。強い愛情表現だよ。」
「その後、エサウは“どうして私の所に,人と家畜の群れを来させたのですか”と、ヤコブの贈り物など全く気づいていないことを示します。」

「要するに、エサウは部下を連れて初めからヤコブを迎えに行った。エサウはいわば“聖なる野人”でヤコブのような狡猾な詐欺師とは全く違うキャラクター。母親のリベカは、創世記27:44、45でヤコブに“あなたの兄さんの怒りが収まるまでしばらくそこにとどまるのです。あなたに対する兄さんの怒りが静まって,あなたのしたことを忘れたら,私は人を遣わしてあなたを呼び戻します。”といっている。リベカは母親だけあってエサウは一時激しく怒っても、いつまでも根に持たない性格の男だと知っている。」
「二人が仲直りしたのはヤコブの策略のせいではなく、エサウがもうすでに過去のことは水に流してくれたからですね。ヤコブの祈りなど仲直りとは無関係です。」

「11節に“ヤコブは,謙遜さと敬意を示すことによって,エサウと仲直りすることができました。”とあるけれど、執筆者が聖書をぜんぜん理解していないことがわかるね。」
「聖書を子ども向けの道徳の本と思い込んでいるのですよ。」
「古代の人もエサウがなぜ詐欺師のヤコブに“走り寄り,抱き締めて口づけした。”のか理解しがたかったようだ。それで、エサウは本当はヤコブの頭に嚙みついたけれど、ヤコブの頭があまりにも固くて、歯が痛くて泣いたのだという説が唱えられたりした。」

「13から18節は” 仲直りするためには”です。 まずは祈りだそうです。次に、14節では” 私は進んで間違いを認め,謙遜に謝り,仲直りしようとするだろうか。”と自己分析することが勧められています。」
「これは加害者に向けのようだけど、そうとは書いていない。被害者でも間違いを認めなくてはいけないのか。子どもの時に性的虐待を受けた人は、どんな間違いがあるというのかな?なぜ性的虐待をした男と仲直りしなくてはいけないの?」
「一般論として仲良くするのはいいことですが、問題となるのは個別具体的な出来事です。具体的な問題には触れず、一般論しか言わないので中身のない空虚な記事となるわけです。」

「15節に“ヤコブがエサウと会った時に,どちらが正しいかを問題にしていたなら,どうなっていたでしょうか。結果は全く違っていたことでしょう。ですから,私たちは仲間の兄弟姉妹と仲直りをする際に,謙遜さを示すことが大切です。”と聖書の話とは無関係なことを言っている。力関係の点で、ヤコブはひたすら卑屈にふるまうしかなかっただけ。ヤコブの行動は謙遜さではなく、恐怖からきている。一方、エサウは昔のことを根に持たない性格の男だっただけだよ。」
「正しくないのはヤコブです。イサクの目がよく見えないことを利用して、長子の祝福をだまし取ったのです。議論の余地などないことはヤコブもわかっています。わかっていないのはJWですね。」
「16節に“どちらが正しいかをはっきりさせることよりも,仲直りすることの方が重要なのです。”といっているからね、善悪は問題ではなく、表面的に友好的であればいいというJWの価値観がここでも出てくる。」

「17節にジベール兄弟が娘と仲直りしたという話が出ていますが、関係が悪くなった理由については触れられていません。ただ誠実に穏やかに話し合ったら、仲直りできたとあるだけです。そういうこともあるし、そうでないこともありますよ。体験談は何も意味しません。」
「今週も、ものみの塔の記事は怪しげでご都合主義的な聖書の解説とそれに基づいた見当違いのお説教と具体性のない真偽不明の体験談が主な内容だったね。」

#1358 2022年03月04日 16:08:33

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバに導きを求める人は,良いものに不足しない(1)”で、2022年の年句である詩編34:10の意味を学ぶ、という内容です。」
「この週からものみの塔の新年度なわけね。こうやって新しい年度をいつものように迎えることをJWはどう思っているのかな?」

「北の王と認定したロシアが戦争を始めたので、JWは盛り上がっているようですよ。」
「JWのホームページにも“ロシアがウクライナを侵攻 聖書が予告していた出来事ですか”という記事を早速出しているね。戦争が起きたら、聖書の予告通りと、はしゃぎまわるJWの姿は異様だ。」
「そこにはウクライナには12万9千人のJWがいると書いてありましたが、ウクライナは18から60歳の男性市民の出国禁止と総動員令が出されています。戦争非協力のJWは反逆者扱いされそうで心配です。」
「統治体は戦争が起きることを聖書から読み取り、あらかじめ避難する指令を出していたのかと思えば、全くそんなことはない。いつもの事後解釈。」
「ホームページにはウクライナのJWをいたわる言葉はありません。ウクライナがロシアの支配下になれば、ウクライナでもJWは刑務所行きになる可能性が高いですよ。何もしないJWですが、ウクライナ軍の頑張りに期待していると思います。」

「記事の話に戻るけれど、“エホバに導きを求める”という訳は解釈を入れすぎ。“エホバを求める”だよ。“導き”なんて言う言葉は元のヘブライ語にはない。」
「詩編34:8-22は知恵についての詩じゃないですか?詩編34:11に“私の子たち,来て,聞きなさい。エホバへの畏れを教えよう。”とありますが、格言1:7の“知識はエホバを畏れることから始まる。”と同じ思想です。」
「“私の子たち”と言った呼びかけは、先生が生徒に呼びかけるときの表現で、知恵文学の表現。詩編34は7までが感謝の詩で、それ以降は知恵を褒めたたえる詩。」

「詩編34の冒頭には“ダビデによる。アビメレクの前で気が狂ったふりをし,追い出されて去った時。”と説明がありますが、これは後の編集者による創作です。それなのに、この記事ではそれを真に受けて、1,2節でその状況を説明しています。」
「詩編の状況説明は、詩編が編集された時、その詩がどう理解されたかを示すもので、詩の起源を示すものではない。詩編の半分はダビデが書いたことになっているけれど、本当の作者はダビデではない。」

「“アビメレクの前で気が狂ったふりをし”とありますが、そんなことありましたか?」
「ダビデがいろいろウソを言ったことを“気が狂ったふりをし”と表現しているのだろう。サムエル記ではアヒメレクと表記されているけれど、アヒメレクがダビデにどうして一人なのかと質問したら、ダビデはサムエル一21:2で“王からある指示を受けたのですが,『おまえに与えた任務と指示について,誰にも何も話してはいけない』と言われました。私はある場所で部下たちと落ち合う約束をしています。”とウソを言う。ダビデはウソなど平気な男というわけだ。」
「でも、ダビデは神に選ばれた偉大な王ということになっているので、後世の人はダビデを嘘つき呼ばわりできないのですね。」

「ダビデが気が狂ったふりをしたのはガトのアキシュ王の前。サムエル一21:13に“それで彼は家来たちの前で気が狂ったふりをし,拘束されても,狂人のように振る舞った。門の扉に印を付けたり,顎ひげによだれを垂らしたりした。”とある。詩編の編集者は聖書をあまり読んでいないことがわかる。ダビデは大した役者だね。」

「3節に、ダビデは“食べ物が少ないことや洞窟に隠れなければならないことについて,文句を言うこともありませんでした。それどころか,この洞窟に隠れている時に,美しい詩編 34編を作ったと思われます。そこには,この記事の主題聖句である次の言葉が含まれています。「エホバに導きを求める人は,良いものに不足しない」。”とありますが、“良いもの”を食べ物のことと解釈しているようです。全然違いますよね。」
「ここでは“良いもの”とは知恵だね。知恵についての詩だから。」

「詩編34:10の初めに“力がある若いライオンも,飢えに苦しむことがある。”とあるのですが、これは比喩的表現なのに文字通りに解釈して、JWは食べ物の詩と思っているようです。」
「西暦前2世紀ごろの70人訳やシリア写本ではライオンではなく“金持ち”になっている。この方が意味が通じるので、元は“金持ち”だったと主張する人も多い。“苦しむ”と訳されているヘブライ語の動詞は動物には使わないこともその根拠になっている。一方、これと同じ表現がヨブ4章にあるし、なんとバビロニアの詩にあることも知られている。」
「詩編34は各節の最初の文字がヘブライ語のアルファベット順になるように作られている技巧的な詩ですが、バビロニアもそうなっているのですか?」
「アッカド語だけれどそうなっている。詩編34:10は当時の先進国バビロニアの詩を真似したようだ。それで“ライオン”がやはりオリジナルではないかという考えもある。聖書本文がどうだったのか、はっきりしないということはたくさんある。これもそのひとつということね。」

「ライオンだとすると、ライオンは強くて傲慢な人間の比喩ということでしょうか?」
「知恵のある人は神に頼る、愚かなものは自分に頼る、というのが知恵文学のよくあるテーマだね。ライオンは神を敬わず、自信過剰で、自分で何でもできると思い込んでいる人の比喩。バビロニアの詩でもそうなっている。」

「4節に“現代のエホバの証人も,食べる物や生活必需品などが足りなくて困るということがあります。”と認めています。JWは詩編34:10をエホバの証人は食べ物に不足しないと解釈しているわけですから、この不一致を説明するのが5節以降のようです。」
「4節で“最近のパンデミックの状況下では,こうした経験をしている兄弟姉妹が増えています。”と言うのは事実だからいいとしても、その後の“また,「大患難」が近づくにつれて,私たちは一層難しい時期を経験することになります。”というのはいただけないな。JWはいつも信者に恐怖心を植え付けてコントロールしようとする邪悪な宗教ということだ。」

「5から9節が“私は何も不足しない”です。 ここは詩編23の話になります。23:1の“エホバは私の牧者。私は何も不足しない。”が取り上げられます。」
「この聖句の解釈が6節にあるけれど、“ダビデの幸せは,お金や物に依存してはいませんでした。ダビデはエホバから与えられているもので満足していました。ダビデにとって一番大事だったのは,エホバからの祝福や保護だったのです。”とある。貧乏でも信仰があれば幸せということなの?そんなことは言っていないよ。」

「詩編23は、神は理想な羊飼いであると言っているだけじゃないですか?」
「羊飼いは、羊たちに休息を与え、さらに食料と水を与え、体力を回復させる。これが23:2、3の“導かれて青々とした牧草地に寝そべり,水の豊かな場所で憩いを得て,力を取り戻す。”だね。さらに羊飼いは羊たちを導き、野生動物から守る。それが23:4に“あなたが共にいてくださるから。あなたの棒とつえによって安心できる。”とある。」
「つまり、大事なのは生存に必要な物資と休息、正しい導きと保護。これを神が与えてくれるので、“私は何も不足しない。”と言っているわけですね。JWは物も休息も正しい導きも保護もないわけで、全てが不足しています。」
「お金と信仰どちらが大事か、なんていう問題設定は旧約聖書にはないよ。お金も信仰も両方大事で、両者は対立するものではなく、ヨブのように、神に忠実なものは神が富と子孫を与えてくれることになっている。」

「7節はその教訓で“ダビデの言葉から,お金や物に対してふさわしい見方をすることの大切さを学べます。私たちは持っている物を活用することができますが,それを生活の中心にしてはいけません。”です。詩編23とは無関係で、的外れの教訓です。」
「極度の貧乏でない限り、ほとんどの人がそうしているよ。でもJWは極度の貧乏が多いということかな。」

「7節は、突然ルカ21章の話に飛びまして、1世紀のエルサレム包囲の時のクリスチャンの話になります。過去のものみの塔の記事を引用して、“彼らは……畑と家を後にし,家から持ち物を取り出すことさえしませんでした。エホバが保護してくださり,支えてくださると確信し,大切に思える他のどんなものよりもエホバの崇拝を優先したのです”と断定しています。」
「これは笑えるね。自分たちの主張の根拠として、自分たちの過去の記事を持ち出すとは。要するに他に根拠がないということだね。」

「7節で“イエスは,エルサレムが「陣営を張った軍隊に囲まれる」時が来ると警告していました。”とあります。ルカ21:20からの引用ですが、“陣営を張る”という日本語はないと思います。」
「”陣営を構えた軍隊”でしょう。英文はencamped armiesなので、直訳するとキャンプしている軍隊。そこからテントを張った軍隊を連想し、”陣営を張った”という珍訳になったんじゃないの。普通は単に”軍隊に囲まれる”と訳されている。キエフが心配だ。」

「1世紀のイエスの弟子たちがどう行動したかは、信頼できる資料がないのですよね。」
「4世紀に書かれたエウセビオスの教会史によると、戦争直前にエルサレムからペラという異邦人の町に逃げたことになっている。しかしこれが本当かどうかはわからない。本当だとしても、難民として細々と暮らしたのだろう。その後のキリスト教の発展には何も貢献はしていない。」

「9節で“エルサレムがローマ軍に囲まれる5年前,パウロはヘブライ人のクリスチャンに対して,次のような貴重なアドバイスを与えました。「お金を愛するような生き方をせず,今あるもので満足しましょう。”とあります。パウロのアドバイスはローマ軍とは関係ありませんよね。」
「信者に貧乏生活を強いるために無理やり無関係ないものを結び付けている。難民生活をするなら、一番頼りになるのはお金だよ。でもロシアのお金は暴落しているからダメだよ。」

「10、11節が“それで満足します”です。 10節ではテモテ一6:8の“ですから,食物と衣服があれば,それで満足します。”、11節では、申命記2:7の“この40年間,エホバ神はあなたと共におり,あなたは何にも不足しなかった。”が取り上げられています。現状に満足し、文句を言うなと言いたいようです。」
「JWであるということは、虚しい楽園幻想を抱きながら、一生困窮にあえぐということだね。」

「11節に“40年の間,エホバはイスラエル人に食べ物としてマナを与えました。服も擦り切れなかったので,イスラエル人はエジプトを出た時に着ていた服をずっと使うことができました。(申 8:3,4)”とありますが、エジプトを出た人は例外を除いて途中で死んで、カナンの地に入った人は荒野で生まれた人ばかりです。その人たちの子どもの時の服はどうしたのでしょうか?死んだ人の服を短くして着せた?もしそうなら死んだ人は裸にされて埋められた?」
「神様は子どもが生まれるたびに素晴らしい子ども服を天から降らせたんじゃないの?」
「複が擦り切れなかったというのは後世の人からの批判に対する弁解ですよ。」
「まあそうだね。イスラエル人は40年荒野にさまよったって?その間に服もサンダルもボロボロになったはずだよね。一体それはどうしたの?エジプト人の商人から買ったの?とバカにされたんだろうね。それに反論するために、奇跡物語を作り出したと思うよ。」

「12,13節が“エホバが必ず助けてくださると信じる”です。 13節で“マゴグのゴグ,つまり諸国家の連合体がエホバに仕える人たちを攻める時,私たちは命の危険を感じるかもしれません。”と、恐怖心をあおっています。JWであることは一生恐怖に苦しめられるということですよ。」
「マゴグのゴグが諸国家の連合体という奇妙な解釈は最近できたもの。この解釈もいずれ世界の情勢に合わせて変わるよ。信者の引き締めを狙って、こんなことを言うのだろう。」
「13節に“でも,私たちは信仰の目で,天使の大軍が周りにとどまり,助けようとしてくれていることを見ています。諸国家はこの様子を見ることができません。信仰がないからです。”とたわごとを言っています。完全にカルト宗教の世界にぶっ飛んでいますね。」

「13節の最後は“天の軍勢が私たちを助けに来る時,諸国家は非常に驚くことになるでしょう(啓 19:11,14,15)。”とある。JWは天使軍団が救出してくれることを信じて、最後の時を迎えるわけだ。こんな妄想的な記事を書いている人はけっこう危ない人だね。」
「引照聖句はそんなこと言っていますか?啓示19:14には“天の軍勢が,白くて清い上等の亜麻布の衣服を着て,白い馬に乗り,この方の後に従っていた。”とありますが、天使の軍勢とは言っていません。」
「天使は馬に乗ったりしないよ。啓示19:8に“花嫁は,輝く,清い,上等の亜麻布の衣服を着ることを許されました。”とある。花嫁の服装は天の軍勢の服と同じなので、花嫁と天の軍勢は同じものと見なせる。花嫁とは子羊であるイエスの花嫁で、普通は教会を指す。また啓示17:14には“彼らは子羊と戦いますが,子羊は主の中の主,王の中の王ですから,彼らを征服します。子羊と共にいる者たち,招かれ,選ばれた忠実な者たちも,征服します。”とあって、子羊であるイエスに忠実な者たちがイエスと共に征服するといっている。つまり、天使ではない。」

「14節からが“将来に備える”です。 14節には“お金や物に対してふさわしい見方を持つことが必要です。”とあります。これが将来に備える最も重要なことのようです。奇妙なことに、JWにとって最重要な問題は経済問題のようですね。」
「16節に具体的な例が出ている。“雇い主に大会のための休暇を願い出たり,集会に欠かさず出席し,奉仕にもっと出るために,仕事の時間を調整してほしいと頼んだりするには,信仰や決意が必要です。もしかすると,雇い主に願いを受け入れてもらえず,首になってしまうかもしれません。そうなるとしても,エホバが私たちを見捨てることなく,生きていくのに必要な物を与えてくださる,ということに信仰を置くでしょうか。”とある。失業することを恐れず、大会や集会に来いということだ。」
「他人の寄付で生活している宗教貴族はなんとでも言えます。こんな記事を真に受けていたら、JWは皆野たれ死にします。軽く聞き流しましょう。」

#1359 2022年03月05日 09:55:26

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

「何もしないJW」

JWは「何もしない」ことが中立だと勘違いしていますが、「何もしない」のも十分に政治的選択だということを分かっていません。

非差別人種の偏見問題の改善に取り組みノーベル平和賞を受賞した人は、このような問題に中立など存在しない、中立を装う偽善者たちは何もしないでいる状態を選択することで為政者たちを支持している、と語りました。

JW宇宙なんたら問題では「何もしない」のはアクマを支持しているの同じで中立は存在しないと教えられた記憶がありますが、自分たちは中立でいられると勘違いしているお花畑思考のJWって変ですね。

#1360 2022年03月07日 08:03:23

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ご無沙汰しております
ひとつ、議論になってしまった案件があり知恵をお借りできればと思います。
あるだけ寄付をせよの根拠として引用されるルカ21:2(やもめの寄付)ですが
私のみならず皆さんもイエスは批判しているようにしか読めないことと思います。(ルカ20:47, 21:6 を参照)
JWの出版物以外でこのやもめの寄付行為を称賛している神学者、宗派はあるのでしょうか?
調べ方が悪いのか見当たらず質問させていただく次第です。
お分かりの方、ぜひともご教示いただけますようよろしくお願いいたします。

#1361 2022年03月07日 16:18:10

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

万年研究生 さんの発言:

あるだけ寄付をせよの根拠として引用されるルカ21:2(やもめの寄付)ですが
私のみならず皆さんもイエスは批判しているようにしか読めないことと思います。(ルカ20:47, 21:6 を参照)
JWの出版物以外でこのやもめの寄付行為を称賛している神学者、宗派はあるのでしょうか?
調べ方が悪いのか見当たらず質問させていただく次第です。
お分かりの方、ぜひともご教示いただけますようよろしくお願いいたします。

やもめの寄付の話は奇妙なものです。やもめは持っているもの全てを寄付したそうですが、これからやもめはどうやって暮らしていくのでしょうか?飢え死にするしかないでしょう。

この奇妙な話をキリスト教では、およそ次のような話と理解してきました。

1.    寄付の価値は寄付の額ではなく、どれだけ残しているかで判断されるべきだ。少額でも残額ゼロなら非常に価値がある。あるいは寄付の価値は自己犠牲の大きさで測るべきだ。
2.    どれだけ寄付したかよりも、寄付をした時の気持ちや動機が重要だ。
3.    寄付の額は収入に応じたものであるべきだ。
4.    慈善行為は重要だ。額の問題じゃない。

イエスの発言は“この貧しいやもめは,彼ら全てよりたくさん入れました。あの人たちは皆,余っている中から寄付を入れましたが,この女性は乏しい中から自分が持つ生活費全てを入れたからです。”なので、1以外は、書かれていないことまで含んだ解釈です。人気があるのは2の解釈でしょうか。

新共同訳『新約聖書注解』にはこう書かれています。

“3-4節 最小銅貨2個がだれよりも、沢山入れる金持ちたちよりも沢山入れたことになるというのは、金の額に一喜一憂する祭司たち、そして弟子たちという教会指導層には、よい戒めとなる。乏しい中から持っている生活費を全部入れたやもめは、金に信頼をおかず、神に信頼しているということで、イエスにほめられるのである。神への信頼心なしに、生活費を全部献げることはできないものである。”

ここでは、やもめは神を信頼し、イエスによって褒められた模範的人物とされていますが、これがよくある解釈です。しかし金の額に一喜一憂する教会指導者層に対する戒めというのは珍しいです。JWにこの解釈をぶつけたら面白いでしょう。

この聖句をもとに、普通の牧師は、献金することはよいことだ、額ではなく気持ちが大事だ、神を信頼し神に身をゆだねる態度が大事だ、それは献金の額にあらわれる(結局、献金の額は大事だ。)という話を教会でしていると思います。

要するに、貧しいやもめ=イエスが褒めた信仰心のある模範的人物、という評価は聖書の通俗的な理解としてごく普通のものであり、世界各地で、そのような解釈に基づいた説教がなされていると思います。組織宗教にとってお金は不可欠ですから。

しかし、このやもめがどのような気持ちで寄付したのかは聖書には書かれていません。私の想像では、神を信頼しているからというより、生きることに絶望して有り金全て寄付してから、死ぬつもりだったというものです。生ぬるい話は福音書には似合いません。

イエスはこのやもめを見倣おうとか、神の王国に入るのはこのような者だ、とは言っていません。単に“よりたくさん入れました。”と言っただけです。寄付したやもめ=模範的人物という公式は成立しません。

通常の解釈は、ルカ20:47の“また,やもめたちの家から奪い取り,人の目に留まるように長い祈りをします。このような人たちは,それだけ厳しい処罰を受けます。”というニセモノの信仰心とは正反対の真の信仰心の例として、ルカ21:1-4の貧乏なやもめの話があるというものです。そのため寄付したやもめ=模範的人物という解釈になるのです。

しかし、実際はやもめの話は“やもめたちの家から奪い取り”の実態を具体的に示したもので、イエスはやもめの行為をほめているのではなく、むしろ嘆いているのです。

ルカの福音書は神殿がローマ軍によって破壊され、略奪された後に書かれたもので、このやもめの神殿のために全財産寄付した行為は、全く無意味に終わったことを皆が知っていることを前提にしているわけです。

当時の神殿は単なるサイズの大きな宗教施設ではなく、外国の支配者と結託し、ユダヤ人を抑圧し搾取する宗教的社会的経済的政治的複合体です。甘言を弄して、貧しいやもめに全財産を寄付させるよう仕向けてきた宗教指導者に対するイエスの怒りが、ルカ21:6の“あなたたちがいま見ているこれらの物についていえば,石が石の上に残らずに崩されてしまう時が来ます。”という言葉にあらわれています。

実際はそこまで神殿は崩されていないことをルカは知っていたと思われますので、ルカの創作ではなく、これはイエスの言葉でしょう。

#1362 2022年03月08日 07:24:25

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問様

丁寧に解説していただきありがとうございます。
単純な非難からのイエスの発言というものではないのですね。
いつも分かりやすい解説していただき助かります。

JWの皆さんは統治体のTV伝道番組でこれまでも洗脳度合いが高まってきただけでなくZoomなる個人用TV伝道装置を用いて
ますますカルト度(狂信度)が上がってるように感じます。
外に出てどうでもいい他人と短時間でも触れ合うのは幾ばくかのブレーキになるのですね。

#1363 2022年03月11日 13:08:09

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“イエスの弟から学ぶ(2)”で、ヤコブ書からJWとして使えそうな聖句を選んで、その教訓を学ぶという内容です。」
「イエスの弟ヤコブの資料はほとんどないから、執筆者は想像で好きなことを書いている。そんなことを学ばされるなんてJWはつらいね。」

「カトリックはイエスの弟ではなく、いとことしていますよね。プロテスタントは弟としています。」
「JWはアメリカのプロテスタントの流れをくむ一派だから、ヤコブは弟だね。」
「プロテスタントの創始者のひとりでもあるルターは、ヤコブ書は藁一本ほどの価値もないといっていませんでしたか?」
「プロテスタントはパウロに影響が強いけれど、ヤコブ書はユダヤ教的でパウロを批判している。ルターがつまらないものと考えるのも無理はない。」

「“イエスの弟”という本が松柏社から出ていますが、どんな内容ですか?」
「“ヤコブ ヨセフの息子 イエスの弟”と書かれた骨箱が見つかり、その真贋を巡る話が前半の内容。贋作と思うけれど、イスラエルでは裁判まで行われて、結論は判断不能だった。その続編が“神々の捏造”(東京書籍)で、古代遺物にいかに捏造が多いかが書かれている。」

「2節に“ヤコブには兄のイエスを尊敬できる理由がたくさんありました。”とあります。ヤコブはイエスを尊敬していたと思いますか?」
「困った兄と思っていたでしょう。イエスは長男だから、父親亡き後は家族の生活を支えるという重要な使命があるのに、それをせず、その負担はまじめなヤコブが担ったのだろう。訳の分からないことを各地で言って歩いている兄を尊敬するはずはない。」

「3節に“イエスの親族は,「[イエス]は頭がおかしくなってしまった」と考えました。ヤコブもそう思った1人だったかもしれません。”とありますが、そうだったのでしょうね。」
「ヨハネ7:3、4に“それでイエスの弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに入りなさい。そこにいる弟子たちも,あなたが行っていることを見るためです。公に知られることを求めながら,物事をひそかに行う人はいません。行っていることを人々に見せなさい。」”とある。弟たちはイエスに、ガリラヤにいないでユダヤに行って奇跡を見せたら、と挑発しているんだ。弟たちは、イエスを家族にとっては何の役にも立たない、救世主気取りの身勝手な男と思っていたよ。」

「4から7節が“ヤコブのように謙遜さを保つ”です。 5節で“後には,1世紀の統治体の成員として喜んで奉仕しました。”と歴史をねつ造しています。」
「1世紀も統治体があったというのがJWの主張だからね。その嘘を繰り返し信者に叩き込むのだろう。JWは独自に進化して、キリスト教とは別種のエホバ教になっている。」

「5節で“ヤコブはいつイエスの弟子になったのでしょうか。イエスは復活した後,「ヤコブの前に,それから全ての使徒たちの前に現れました」。(コリ一 15:7)イエスと会ったことは,ヤコブにとって転機となりました。”とあります。ヤコブはイエスのことを信じていなかったけれど、復活したのを見てイエスを信じるようになったということですね。これって褒められることですか?」
「奇跡を見て信じるなんて何も褒めることじゃないよ。」

「5節には“西暦62年までに,聖なる力に導かれて,天に行くよう選ばれた人たちに宛てた手紙を書きました。”とあります。ヤコブの手紙のことですが、違いますよね。」
「ヤコブ書は手紙ではないけれど、ユダヤ人のために書かれた。ヤコブ1: 1に“神と主イエス・キリストの奴隷であるヤコブから,各地に散っている12部族へ。”と言っている。2:21で“私たちの父祖アブラハムは”と言っている。」
「ヤコブ2:2に“例えば,上等な服を着て金の指輪を幾つもはめた人と,汚れた服を着た貧しい人が,皆さんの集まりに来たとします。”とありますが、“集まり”と訳されている語はシナゴーグなんですよね。」
「シナゴーグはマタイ12:9では“イエスはそこを去ってから,会堂に入った。”と“会堂”と訳されている。ユダヤ人の集会場だ。ヤコブ2:2の“集まり”は会堂なわけで、ユダヤ人を対象にした文書ということがわかる。」

「これはイエスの弟のヤコブが書いたものですか?」
「違うね。ギリシャ語で書かれているけれど、大変洗練されたギリシャ語で、文章の質はパウロよりも優れていて、新約聖書の中では1か2位と評価される。作者は教育水準が高く、30歳ごろまで大工をしていたユダヤ人が書いた文章ではない。内容もパウロの信仰義認説を誤用した人を想定していて、パウロの書簡がかなり流布していた時代に書かれたとみることができる。イエスの弟ヤコブは早くに殉教しているので時代的に合わない。」
「イエスの弟なら、弟しか知らないエピソードがあるべきですよ。ヤコブの手紙にはイエスとの関係はほとんどありません。イエスキリストという言葉は挨拶の1:1と大して意味を持たない2:1の2回しか出てきません。」
「その部分を取り除くと、キリスト教の文書とはわからなくなる。昔、ヤコブの手紙は元々ユダヤ教の文書だったけれど、2か所イエスキリストを挿入することで、キリスト教の文書にしたという説があったくらい。」

「6節で“ヤコブは謙遜だった。なぜそう言えるでしょうか。”とあるのですが、祭司長たちのようではなかったからというのが答えのようです。全然答えになっていません。」
「謙遜な人物に仕立て上げたいという意図はよくわかるけれど、説得力はない。イエスを受け入れれば謙遜と言っているだけ。でも、福音書に描かれているイエスの弟子たちは謙遜じゃないよ。」
「7節が教訓で、“誇りを退け,エホバからの教えを喜んで受け入れる。”のだそうです。パリサイ派の人たちは“誇りによって心が固くなっていたので,神の聖なる力によって示されたはっきりとした証拠を信じることができませんでした。”と主張しています。」
「JWも、JWが歴史をねつ造し、教義がいいかげんで、数々の予言を外してきたダメな宗教であるという、はっきりとした証拠を信じることができないのは、誇りによって心が固くなっているからなんだろうね。」
「自分たちの教えを“真理”と呼んでいますからね、傲慢の極みです。」
「単に頭の中が単純なだけだと思うけれど、まず謙虚になる必要があるのはJWだよ。」

「8節以降が、“ヤコブのように上手に教える”です。 この記事の主な内容の部分です。8節では“ヤコブは上手に人を教えることができるようになりました。「ヤコブの手紙」を読むと,そのことが分かります。”とありますが、本当ですか?」
「この記事ではヤコブの素晴らしいところが4つ挙げられている。9節でまず“ヤコブは難しい言葉を使ったり,複雑な説明をしたりはしなかった。”といっている。これはあっている。ヤコブ書は全部で108節あるけれど、54節は命令形だ。実践的な教訓を並べたもので、わかりやすいものばかり。でもそこには一貫した論理や神学はなく、特にキリスト教的と言えるものはほとんどない。」

「でも、中には難解な表現もありますよ。ヤコブ3:6の“人の一生*”という部分ですが、訳注には“直訳,「誕生(起源)の車輪」”とあります。これって難解すぎて、意味不明ですよ。」
「こんな用語が出てくるというのは、ヤコブ書の作者がガリラヤの大工の息子の無学なヤコブではないことの証拠の一つになっている。同じ3:6に“舌は不正で満ちています。”とあるけれど、協会共同訳では舌は“不義の世界を成しています。”とある。こちらの方が直訳。“不義の世界”とは何のことを言っているのか、これも難解。要するにヤコブはインテリというわけ。」

「10節が“学べること: シンプルに説明し,聖書から教える。”ですが、具体的には“例えば,聖書を学んでいる人に対して,「私ならこうする」と説明することはしません。そうではなく,学んでいる人が聖書中の例を調べ,エホバの考えや気持ちを理解するよう助けることができます。”と洗脳の仕方を説明しています。」
「答えを誘導しつつ、あたかも自分で見つけたように思わせるというテクニックを使えという指示だね。カルトらしくていいね。」

「11節が“ヤコブは現実的な見方をしていた。”です。これはヤコブ書が道徳的な勧告を主な内容としているからですね。」
「それから学べる点は、11節によると“私たちと聖書を学んでいる人は,多くの場合,学んだことを実践するのに難しさを感じます。(ヤコ 4:1-4)良くない習慣を捨て,キリストのような人格を身に着けるには時間がかかるかもしれません。それでも,ヤコブに倣って改善できる点を勇気を持って伝える必要があります。”とある。要するに研究生にJWの細々した禁止事項を守らせるよう圧力をかけ続けろという指示だね。」
「ヤコブ書と全然関係ないのがすごいですね。」
「聖書は組織の主張の権威付けに使われるけれど、ここではそれさえもできていない。一見関係がありそうな話をつなげているだけ。」

「13節が“ヤコブは自分に対して正しい見方を保った。”です。その根拠が薄弱です。根拠は“仲間のクリスチャンのことを「私の愛する兄弟たち」と呼びました。”と“またヤコブは,自分は間違いをしないと思わせることもしませんでした。”の2つだけです。」
「滅茶苦茶甘い基準。それならほとんどの人は“自分に対して正しい見方を保った”と褒めてもらえるね。」

「14節が学べることなのですが、研究生に対する対応の仕方を言っています。“私たちは間違いをしないと思わせてしまうなら,学んでいる人は,神の基準に従って生きるなんて自分には無理だ,と思ってしまうかもしれません。”とあります。」
「余計な心配だよ。まともな研究生なら、JWが間違いをしないなんて思わないよ。執筆者は、研究生はJWのことを聖人のように崇めているものだととんでもなく誤解しているんじゃないの。」

「15節は“ヤコブは人々の心を動かす例えを使った。”です。ヤコブ書には比喩的表現は多いですね。」
「その具体例として“ヤコブ 3:2-6,10-12を読む。”となっているけれど、なぜ3:1は飛ばすのかな?3:1を飛ばすと、それ以下の意味が分からなくなるよ。」
「そこには“私の兄弟たち,皆さんの多くが教える人になるべきではありません。教える私たちは,より厳しく裁かれるからです。”とありますね。これはJWにとって不都合ですね。それで無視したんですね。都合のいいところだけを取り出すというのがJWの聖書研究ですから。」
「全てのJWが研究生を教えることを目指しているわけだから、ヤコブ3:1に反した行動をしている。」

「16節が学べることですが“上手に例えを使う。”です。たとえで語るのが好きなJWですが、へたな例えが多いということでしょうか?」
「17節に執筆者一押しのたとえの例が示されている。ヤコブ1:22-25だ。」
「そこには“神の言葉を聞いても実践しない人は,鏡で自分の顔を見る人に例えることができます。 その人は自分を見ますが,そこを離れると,自分がどのような人かをすぐに忘れてしまいます。”とありますね。そんなに素晴らしい例えですか?」
「聞いても実践しないことを、鏡を見る人に例えるのはそれほど良くない。聞くことを見ることで説明するのも問題。意味も分かりにくいでしょう。」

「17節には“それは,聖書を自分に役立てるには,読むだけでなく行動する必要があるということです。”と解説しています。へんですね。まず“神の言葉”を聖書と誤解しています。1世紀には聖書などは確立していません。ヤコブは“聞く”と言っていますが“読む”とはいっていません。細部がいい加減ですね。」
「“ポイントは何でしょうか。鏡を見て直すべき所に気付いても何もしないなら,それは愚かなことです。同じように,聖書を読んで人格を変えなければならないこと に気付いても何もしないなら,それは愚かなことです。”とさらに解説している。この解釈の問題点は、“自分の顔”と訳されているギリシャ語は“生まれつきの顔”ということを忘れていること。」
「それは真実の自分という意味でしょうか?」
「鏡を見て真実の自分を知るけれど、鏡から離れるとそれを忘れ、実際以上に素晴らしい自分の姿を思い浮かべる。自己欺瞞、つまり自分を自分でだましながら生きていることの例えならいいけれど、聞いても実践しないことの例えではないでしょう。」

「18節には“良い例えを思い付かない場合には,「ものみの塔出版物索引」を調べてみてください。「例え」の見出しの中に,使えそうな例えを幾つも見つけることができるでしょう。”とあります。早速見てみました。“偽りの宗教は近隣の毒物汚染のよう”、“偽りの宗教は偽札のよう”とあります。自称・唯一の真の宗教らしい素晴らしい例えですね。」
「素晴らしい例えなので、これを看板に書いて、JWの家の前に立てて欲しい。」

#1364 2022年03月18日 15:39:48

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“イエスの涙から学べること (3)”で、うつ状態の信者を叱咤激励して、さらに組織のために働かそう、という内容です。」
「ここで想定しているのは、家族の死と伝道での無関心のようだけど、これを同列に並べるという価値観がすごいね。」
「2節に、裕美姉妹の“伝道で会う人たちが無関心なので,がっかりすることがあります。時には涙ながらに,本当に真理を求めている方にお会いすることができますように,とエホバに祈ることもあります。”とありますが、まだまだ未熟者ということですね。」
「JWに無関心なのが当たり前。多くの人が無関心ということは世の中にはまともな人が多いということで、喜びこそすれ、泣くことはないよ。」

「5から9節が“友のことを考えて涙を流した”です。 ラザロの死んだときの話です。“イエスは,マリアや人々が泣いている様子を見て,「涙を流し」ました。(ヨハネ 11:32-36を読む。)”とあります。このイエスの涙は感動ものですか?」
「ヨハネ11:6に“ラザロが病気だと聞いても,同じ所にさらに2日とどまっていた。”とあるように、イエスはラザロが死ぬのを待っていた。復活させるためには死んでもらわなくてはいけないからね。ラザロはイエスが奇跡を行うための道具として使われたという状況。」

「ヨハネ11:33に“イエスは,マリアが泣き,一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見ると,心の中でうめき,苦悩した。”とありますが、協会共同訳では“憤りを覚え、心を騒がせて”となっています。どちらが正しいのでしょうか?」
「この部分をどう訳すべきは昔から論争になっていた。ルター以来ドイツ系の学者は、このときイエスは怒ったという解釈が主流。11:25でイエスは“私は復活であり,命です。私に信仰を抱く人は死んでも生き返ります。”と言ったにもかかわらず、周囲の人間が嘆き悲しんでいるので、彼らの理解のなさに怒っているというわけだ。英米系の学者ではイエスは同情したという解釈が多い。」
「同情したという方が現代人には受け入れやすいですね。」
「でも、こういう場合は受け入れにくい方が元の意味ということが多いね。初め受け入れにくいものだったので受け入れやすいものへと改変されるというのが自然な流れ。」

「6節で“イエスがこの時,涙を流したのはなぜでしょうか。”と問いかけていますが、その答えは、なんと、“聖書に対する洞察”からの引用です。」
「この執筆者にとって、“洞察”は絶対的な権威なのだろう。でも、実際は古臭い文献をあさって、JWにとって受け入れ可能なことだけを寄せ集めたものにすぎない。」

「”洞察”では” イエスはご自分の友ラザロが死んだため,またそのためにラザロの姉妹たちが悲嘆に暮れているのを見て,『うめき,涙を流されました』”と説明しています。凡庸な人間が”洞察”を書いたというのがよくわかりますね。」
「イエスはラザロを助けるとこができたはずなのに、意図的にしなかった。それなのにラザロが死んだことで泣くのはへんだね。」
「イエスが泣くのを見て、ユダヤ人たちは11:36で“見なさい,本当に愛情を抱いていたのだ。”というのですが、ヨハネでは“ユダヤ人たち”というのはたいてい悪役で、この発言も間違った発言という理解でいいのですよね。」
「そうだね。イエスが涙を流したのは、ラザロの死を悲しんだわけでも、ラザロに対する愛情でもない。そんなことで泣くのは平凡な人間で、ヨハネのイエスは神と同等の存在。一個人の死に対してではなく、この世界が死と悲しみに満ちていること身近に感じて悲しんだと解釈した方が、ヨハネのイエスらしい。」

「7から9節が、学べる点です。7節は“エホバは私たちの気持ちを分かってくださる。”です。急にイエスからエホバに変わります。エホバ教らしいですね。」
「イエスの話だったんじゃないの?エホバなんて関係ないのに、無理やり押し込んでくるとはあきれる。」

「8節は“イエスは私たちの愛する人を復活させたいと思っている。”ですが、拡大解釈の典型ですね。」
「ラザロは特殊な事例。それを一般化はできない。聖書のどこに“イエスは私たちの愛する人を復活させたいと思っている。”と書いてあるの?」
「8節には“ですからあなたも,愛する人が復活することを確信できます。”とあり、復活幻想を根拠もなく押し付けています。」
「ヨハネの福音書の主なテーマはイエスとは何者なのかということ。ラザロの復活の話は、イエスは“復活であり命である”ことを示すためのお話で、ラザロのようにみんなが復活しますという主旨の話ではない。」

「9節が” 私たちも深く悲しんでいる人を支えることができる。”です。” イエスは,マルタやマリアと一緒に涙を流しただけでなく,2人の話に耳を傾け,優しい言葉を掛けました。”とありますが、そうしましたか?」
「まず、泣いているマリアに対しては“ラザロをどこに横たえたのですか”と言っただけ。これが優しい言葉?その後墓に行って“石をどけてください”という。これが優しい言葉?かなりぶっきらぼうな対応だ。」

「9節では、妻を亡くした長老の話が出てくるのです。“妻を亡くした後,私は助けてもらう必要がありました。”とあります。相当落ち込んだようで、“私が身の回りのことを自分ではできないと感じる時には”とあり、日常生活にも支障が出ていたようです。奥さんを亡くした男ってこんな風になるのですか?」
「人それぞれでしょう。でも逆の、夫を亡くした妻の場合だと、今まで以上に元気になるというケースの方が多いと思うよ。」

「10から14節が“隣人のことを考えて涙を流した”です。 ルカ19章にある、エルサレムの近くに来た時にイエスが涙を流したという話についてです。」
「この時の状況を、執筆者は誤解している。10節で“エルサレムに近づいた時,人々が集まってきてイエスを王として認め,自分の外衣をイエスの前に敷いていきました。これは非常に喜ばしい出来事でした。”といっている。違うよ。」
「ルカ19:36では“イエスがオリーブ山を下る道路に近づくとすぐ,大勢の弟子たちは皆喜び,・・・”とあり、喜んでいるのは弟子たちだけです。この当時弟子たちがどれくらいいたかは不明ですが、せいぜい数十人というところでしょう。そして19:39で、パリサイ派の人たちが“先生,あなたの弟子たちを叱ってください。”と冷ややかに反応します。寂しいイエスのエルサレム入りです。」

「マルコと比較すれば、ルカのイエスのエルサレム入りが非常に寂しいものだったことがわかる。マルコ11:8では“多くの人は自分の外衣を道路に敷き”とあり、11:9では“前を行く人も後に続く人もこう叫び続けた。”とあり、弟子たちだけではなく、不特定多数の群衆がイエスを迎え入れていることになっている。」
「ルカではエルサレムの人たちはイエスを王として歓迎しなかった。そこでイエスは涙を流した、ということですね。」

「イエスはルカ19:42で、“あなたが,平和に関係することをこの日に見分けていたなら”と言っている。“この日”とはイエスがエルサレムに来た日のこと。そのあとイエスはエルサレムが包囲され破壊されると言う。最後に19:44で“あなたが,検分されている時を見分けなかったからです”という。それはイエスを王として迎え入れなかった事への裁きという意味。」
「ルカが書かれたのはエルサレム攻囲戦の後ですよね。ルカはエルサレム滅亡はイエスを王として適切に迎え入れなかったことの報いと理解したわけですね。」
「イエスはこの日エルサレムの悲惨な運命は定まったとして、エルサレムのために涙を流したとも言える。」

「11節では“イエスが人々から歓迎されたのに涙を流したのはなぜでしょうか。イエスは,ほとんどのユダヤ人が王国の良い知らせを退ける,ということが分かっていました。”とありますが、全く見当違いのことを言っているのですね。」
「11節に“あなたが住んでいる地域の人たちは,王国の良い知らせにどんな反応を示していますか。真理を教えようと一生懸命に努力しても,耳を傾ける人はほとんどいないかもしれません。”とある。イエスの涙を強引に現代JW に関連付けているのがおかしい。それにJWのよく変わる教義を“真理”と呼ぶのは、笑われるからやめた方がいいよ。」

「12節から、学べる点が挙げられます。初めは“エホバは人々を気遣っている。”です。イエスの話なのにまたもやエホバ登場です。」
「13節が” イエスは伝道を一生懸命に行った。”で、これはまだいいよ。でも14節の” 進んで調整する。”はへんだろう。イエスは伝道を調整していたの?」
「13節の上の挿絵の説明に” イエスに倣って,伝道の予定を調整する。”とあり、脚注には” イエスは夜の時間にニコデモを教えた。私たちも相手にとって都合の良い時間に聖書を教える。”とありますので、ニコデモの話を想定しているようです。」
「ニコデモが夜に勝手にイエスの所にやって来たのだよ。執筆者は、ニコデモはイエスとメールのやり取りをして、イエスの都合の良い時間に訪問したと思っているのかな。」

「イエスの挿絵の隣が、夜の10時10分に、コンビニの店員に聖書を教えているという写真です。これはあり得ませんよ。店員はクビになります。」
「これは韓国のコンビニじゃないかな。夜は暇なんじゃないの?でも雇い主に見つかったらまずいよね。こんなことを模範例と出すくらい、JWは常識のない人ということだ。」

「15から19節が“エホバの名のことを考えて涙を流した”です。 ルカ22章の話です。問題はそこではイエスは涙を流していないことです。イエスが涙を流したと書いてあるのはヘブライ5:7で“キリストは,地上で生きていた間,自分を死から救える方に祈願を捧げ,願いを伝えました。大きな声で叫び,涙を流しながら・・・”とあるだけです。」
「福音書でその時イエスは涙を流したと書いているものはない。」

「16節に“イエスがゲッセマネの庭園で祈っていた時に涙を流したのは,神を冒瀆したと人々から見られることが非常につらかったからでしょう。”とありますが、強引な推測です。」
「16節には根拠となる聖句が1つもないね。」

「17節からが学べる点です。まずは“エホバは私たちの祈願を聞いてくださる。”です。でも聞くだけで、何もしてくれないですね。」
「一人一人の祈りを実現させていたら、宇宙の秩序が乱れてしまうよ。」
「18節が“イエスは私たちの気持ちを分かってくれる。”です。“エホバは,出版物や動画や話を通して,また長老や兄弟姉妹を用いて助けを与えてくださいます。”といい加減なことを言っています。」
「JWの出版物や動画など神様とは関係ないよ。ニューヨークにいる人間の作品でしょう。」

「19節が“エホバは私たちに「神からの平和」を与えてくださる。”です。祈るとそうなるのだそうです。聖書にそう書いてあるから間違いありません、ということのようです。」
「“ルース姉妹”というのが出てくるけれど、元の単語はLuzだよ。これはルツあるいはルーツとカタカナ表記すべきじゃないかな。」
「Ruthをルースとせずにルツと過去の記事で訳しているので、ルツとはできないのですよ。」
「一度デタラメなことをすると、次々とでたらめなことをせざるを得なくなるという例だね。」
「年代のインチキなんかはその典型例です。前607年と嘘をついているので、JWの古代の年代は歴史の本とずれまくっています。いまさら修正できません。」
「高等教育を否定したくなるのがよくわかるね。」

#1365 2022年03月25日 15:38:29

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“記念式に出席するのはなぜですか(4)”で、記念式に出る理由を信者に叩き込む、という内容です。」
「記念式に出席する理由がわからないという信者が増えたということなの?数ある宗教儀式の中でもJWの記念式ほど無意味でつまらないものはないからね。」
「今年はZOOMではなく、王国会館に集まってするそうです。」
「今年の参加者が激減しました、という事態は何としても避けたいということだろうね。」

「4,5節が“天に行くよう選ばれた人たちが出席するのはなぜか”です。 あくまで自称・天に行く人ですが。」
「4節に“イエスは使徒たちに対して,新しい契約と王国契約について話しました。”とあるけれど、“王国契約”とはルカ22:19の“それで私は,天の父が私と契約を結んだように,あなたたちと王国のための契約を結び”から来ているようだ。でも、この訳はおかしいよ。」
「協会共同訳では“だから、私の父が私に王権を委ねてくださったように、私もあなたがたにそれを委ねる。”です。だいぶ違いますね。」

「ルカ22:14-38はイエスの死を前にした弟子たちへのお別れの言葉。別れの言葉には、ある決まった形式があって、イエスの言葉もその形式にだいたい沿っている。22:29は、イエスの死後、イエスの仕事を継承するように言う部分。そして22:32では、シモンペテロを“立ち直った後は,兄弟たちを力づけなさい”と弟子たちの指導者と指名する。」

「つまり協会共同訳の方が、イエスの言葉の性質を考えると適切ということですね。」
「JW訳はいつものことだけど自分たちの教義に合うように訳している。でも王国契約とは笑えるね。神が王国をイエスに委ねたように、イエスの死後は弟子たちに委ねるとイエスは言っただけ。」

「4節には“これらの契約のおかげで,使徒たちを含む14万4000人が天で王また祭司として仕えることができるようになりました。”とありますが、ルカには144000人なんてでてきません。」
「無関係な聖句をつなぎ合わせて独自の教義を作るのがJW。144000人も千年統治も啓示に突然出てきたもの。そんなものはイエスもパウロも知らないよ。」

「5節に“天に行くよう選ばれた人たちが記念式に出席したいと思う理由は,ほかにもあります。この式に参加するなら,自分の希望についてじっくり考えることができるのです。”とあるのですが、これって深い意味がありそうです。」
「組織は記念式で飲み食いする人を頭のおかしいニセモノと思っている所がある。それで本当にあなたは天に行く人なのか、じっくり考えろという指令だね。」
「そんな人がじっくり考えると、自分は天に行くはずじゃないと思い直しますか?」
「ありえないね。そんな人がじっくり考えるとますます自分は選ばれた特別な人間と確信するよ。」

「6から13節が“ほかの羊が出席するのはなぜか”です。 この記事の主要部分です。」
「確かに、飲み食いしないほかの羊は出席しなくてもいいような気がするね。」
「6節には“ほかの羊も見守る者として記念式に出席することから喜びを味わいます。”といっています。“見守る”役のようです。それならZOOMで見守りましょう。」

「7節には“ほかの羊も,自分の希望についてじっくり考えます。そして,記念式の話を楽しみにしています。”とあり、“イザヤ 35章5,6節,65章21-23節,啓示 21章3,4節などの預言が実現する時のことについて考え,期待に胸を膨らませます。”だって。おかしいね。」
「記念式の話など聞き飽きました。何も楽しみじゃないです。聖書にはそもそも地上のパラダイスで永遠に暮らすなんていう思想はないですよ。」
「“ほかの羊”なんて、イザヤ書に出てこないよ。文脈や時代の違いを無視して、聖句を組み合わせて、奇妙な独自の教義を作り上げただけ。」

「8節には” ほかの羊は,別の理由でも記念式に出席したいと思っています。天に行く人たちを愛し,支えたいと思っているのです。”とあります。これは自称・天に行く人である統治体を支えなさいということですね。」
「8節によると、それは聖書に預言されていたらしいね。聖書は何でも預言しているわけだ。」

「9節で“ゼカリヤ 8:23を読む。この預言は,天に行く兄弟姉妹に対するほかの羊の気持ちを表しています。「1人のユダヤ人」と「あなたたち」という表現はどちらも,天に行くクリスチャンのうち地上に残っている人たち全体を指します。”とトンデモ解釈をしています。」
「そこには“その時,あらゆる言語の国々から来た10人の人が,1人のユダヤ人の長い服をつかむ。”とあるけれど、“10人の人”は他の羊で、“一人のユダヤ人”が天に行く人をあらわすと解説している。何の根拠もないね。ユダヤ人はユダヤ人でしょう。いつからユダヤ人が天に行く人をあらわすようになったの?」

「地上組と天上組のことを言っているような聖句を探したら、ゼカリヤ8:23が見つかったということですね。そして根拠もなく結びつけたようです。」
「“その時”とはどんなときかというと8:22に“多くの人々や強い国々が,大軍を率いるエホバに仕えるため,エホバに恵みを求めるため,エルサレムにやって来る。”とある。今はそんな時じゃないし、そんな時は来そうもないね。」

「9節では“ほかの羊は,天に行く人たちを「しっかりつか[む]」,つまり深い愛情を示し,”とありますが、ウソですよね。」
「“しっかりつかむ”が深い愛情?違うよ。それは哀願する動作だよ。イザヤ4:1の“その日,7人の女性が1人の男性にすがって言う。「私たちは自分のパンを食べ,自分の服を着ます。ただ,あなたの名前を名乗らせてください。・・・”と同じ動作。」

「10節では“ エゼキエル 37:15-19,24,25を読む。”とありまして、“この預言には,2本の棒が出てきます。1本は「ユダの棒」で,天に行く人たちを表しています。(古代イスラエルでは,ユダ族から王が選ばれました。)もう1本は「エフライムの棒」で,地上で生きる希望を持つ人たちを表しています。”と解説しています。どんなものでも二つのグループが出てきたら、一つは地上組、一つは天上組を指す聖句と執筆者は思い込んでいるようです。」
「ユダは南王国、エフライムは北王国のことで、それが統一することを預言したものというのが普通の解釈。JWもそれはわかっているはずなのだけどね。」

「11節では“マタイ 25:31-36,40を読む。”とありまして、“この例えに出てくる「羊」とは,終わりの時に生活していて,地上で生きる希望を持っている正しい人を表しています。”というJWならでは珍解釈です。」
「要するに、“羊”とはJWのことで、それ以外は“ヤギ”なんだ。」
「マタイ25:31-41の話には羊とヤギと最も目立たない人が出てきます。それぞれが何をあらわすのかというのが、解釈の難しいところですが、JWは羊で、最も目立たない人は天に行く人という解釈みたいですね。」
「天に行く人は、記念式で一番目立つ人でしょう。全く逆だよ。おかしいよ。」
「英文ではone of the least of these my brothersです。最も目立たない人という訳は翻訳者の解釈が相当入った訳ですね。」
「中学生でも“最も小さな者”と訳するよ。なぜそうしないのかわからない。」

「12節では、“例えば,関心を示す人たちを記念式に招待するため に,世界中で大々的なキャンペーン活動を行います。”と、他の羊たちに指令を出しています。」
「13節の下に“記念式の時期に備えていますか”と言う囲みに、記念式の前、夜、後でなにをするか、細かな指示が出ている。」
「今年は記念式を絶対成功させるぞという意気込みのあらわれですよ。しかし、記念式だけでなくその前後までマニュアル化していますね。」
「記念式の後では“関心を示した人を訪問し,「いつまでも幸せに暮らせます」の冊子で聖書レッスンをするよう勧める。”とある。記念式はイエスがどうのこうのというより、信者獲得の重要な手段のひとつなんだね。気合を入れてやれということだ。」

「記念式の前では“記念式の時期に補助開拓ができるかどうか,よく祈って考える。”とあります。記念式を使って、補助開拓の勧めをしています。記念式と補助開拓なんて何も関係ないですよ。」
「記念式の夜では“早めに会場に行き,招待に応じてやって来た人たちや,不活発な兄弟姉妹を温かく歓迎する。”とある。“不活発”と分類された人を記念式に誘いなさいということだね。それを期に活発なJWにさせようということだ。こう見ると、記念式はJWにとって欠かせないツールであることがよくわかるね。」

「14から16節が“私たち全てが出席するのはなぜか”です。 今度は全員に向けてです。これは付け足しですね。」
「13節で終わるわけにはいかないのだろうね。」
「出席する3つの理由が出ています。“私たちは,エホバとイエスが示してくださった愛に感謝している。”、“私たちは贖いという贈り物に深く感謝している。”と“イエスに従いたいと思っている”からだそうです。」
「要するに、感謝と服従ということね。これらはどんなことにも使える便利な理由。逆に言うと、その程度の理由しか思いつかなかったということ。」

「17から19節が“記念式に出席することは私たち全てのためになる”です。 目先の利益に訴えても、出席させようということですね。」
「ここでも3つのことが出ている。3という数字にこだわっているね。」
「“エホバといっそう親しくなれる。”、“イエスに倣いたいという気持ちになる。”と“神にずっと愛されたいという気持ちが強まる。”の3つですが、どれも真実ではないですね。」
「記念式に何十年も出つづけた人でもそのような変化は現れていないよ。」
「記念式がそんなに素晴らしいものなら、これほど記念式に来るように圧力をかけなくても、自然に集まるはずです。」
「この記事を読んでも、その他大勢は、自宅で自分の好きなものをのんびりと飲み食いしながらZOOMで記念式の様子を眺めるだけで十分だ、としか思えなかったね。」

#1366 2022年04月01日 15:56:20

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“時間を有効に使ってください(5)”で、組織の活動に専念するために時間を無駄にするな、という内容ですね。」
「時間の使い方について、小学生に言うような細かい指示が並んでいる。余計なことに関心をもたないように、信者の生活を厳しく管理するのがカルトだからね。」
「4月から王国会館での集会が再開されるところもあるようですが、これも信者を監視・管理するという目的がありますね。」
「組織は寄付も期待しているよ。男性はスーツを着るのだろうけれど、太りすぎで着られない人もいるんじゃないの?その場合はどうするのかな?」

「1節で“仲間の兄弟姉妹と一緒に過ごすのは,本当に楽しいことです。”と、いきなり価値観の押し付けをしています。そうじゃない人もたくさんいますよ。」
「でも、一緒に過ごすのは苦痛ですとは言えないからね。本音が言えず、建て前だけの組織は息苦しいよね。」

「その後に、“私たちはエホバ神と一緒に過ごす時間を一番大切にしています。”とあります。具体的には“エホバに祈り,聖書を読み,エホバの目的や性質についてじっくり考えること”のようです。JWはそんな時間は大切にしていませんよ。大切にしてほしければ、奉仕時間に入るようにしたらいいのです。」
「JWは伝道してなんぼの世界。エホバと過ごす暇があったら伝道して、新しい信者を獲得して来い、が組織の本音だよ。」

「3節で“レクリエーション よりも大事なものがある,ということを覚えておくようにしましょう。(格 25:27。テモ一 4:8)”とありますが、引照聖句はそんなことは言っていません。信者が楽しく過ごすことを組織は嫌っているようですね。」
「格言25:27には“蜂蜜を食べ過ぎるのは良くないし,自分の栄誉を求めるのは栄誉なことではない。”とある。蜂蜜をレクリエーションの比喩と思ったの?」

「協会共同訳では“蜜を食べ過ぎることも/誉れの上に誉れを追い求めることも良くない。”となっています。だいぶ違いますね。」
「元のヘブライ語に近いように訳したのがJW訳。それでも原文は“栄誉なことではない”ではなく“栄誉”とあるだけ。」
「否定形にはなっていないけれど、意味が通るように否定形に変えたのですね。」
「それでもおかしな文なの。これは2行でひとまとまりで、同じことを言葉を変えて繰り返すという文章形式。1行目は蜂蜜をたくさん食べるのはよくないという意味だけれど、2行目は原文通りだとその1行目に対応していない。2行目の文が後の時代に変えられたと見なし、1行目と2行目が対応するようにしたのが、協会共同訳。」

「5,6節が“生き方を賢く選び,優先順位をきちんと定める”です。 5節に“進路指導の先生やエホバの証人ではない親族は,大学に進学して良い仕事に就くよう勧めるかもしれません。でも,そうした道を選ぶなら,たくさんの時間を奪われてしまうでしょう。”と、ここでも反高等教育の宣伝をしています。しつこいですね。」
「時間の有効活用にからめてくるとは、考えたね。でもそれが説得力を持つのは、間もなく終わりが来るという場合だけ。重なる世代の教義からわかるように、そんな切迫感はない。若い人はこれから長い人生を送るので、長期的な視点から進路を考えないと、後で泣くことになる。」

「5節では“エフェソス 5章15-17節を読んでじっくり考えることは助けになります。(読む。)”とあり、その中に“賢くない人ではなく賢い人のように歩み,時間を有効に使ってください。今は悪い時代だからです。”とあります。この記事のタイトルになっているものですね。」
「これもかなり解釈が入った訳。脚注に“または,「良い時を買い取って」”とある。これが直訳に近い。協会共同訳では“時をよく用いなさい。”だけど、新改訳の“機会を十分に活かしなさい。”の方が適切だろう。」
「あらゆる機会で賢い人のように歩みなさいと言っているのですね。」
「JWはこの聖句を現代ビジネスマン向けの時間有効活用のためのアドバイスと勘違いしている。」

「そもそも賢く生きるための知恵はどうやって得るのでしょうか?JWの出版物を勉強すると、知恵を得るどころか、乏しい知恵をさらに失いそうな気がします。」
「知恵は神から来る、神から与えられるというのがエフェソスの作者の考え。エフェソス1:8に“神はその惜しみない親切を私たちに豊かに示し,知恵と理解力をふんだんに与えてくださいました。”とある。1:17では“皆さんが,主イエス・キリストの神,栄光に輝く父から力を与えられて賢くなり”とある。何かを勉強したら知恵がつき、賢くなるとは言っていない。」

「5節では“今が「悪い時代」であり,サタンの体制が間もなく終わろうとしていることを忘れてはいけません。”と、若者は進学や就職をあきらめて、人生を無駄にするカイタク者になることを勧めています。これは100年以上前から続く組織のダマシ文句です。」
「エフェソス5:16は“悪い時代”と言っているだけで、“終わりの時代”とは言っていない。勝手に“間もなく終わろうとしている”と拡大解釈をしているだけ。」
「100年間のスパンで見ると、時代はよくなったと思いますよ。100年前より、健康で長生きし豊かになったし、自由や権利もより多く認められ、差別や偏見も減った。」
「豊かな社会になったので、JW予備軍の暇な専業主婦が数多く存在し、JWみたいに週3日程度働くだけでも、生活できるようになった。JWのような宗教は豊かで自由で寛容な社会という土壌でよく成長する植物なようなものでしょう。」

「7から14節が“エホバと過ごす時間を最大限に活用する”です。 この記事の主要部分ですね。5つのアドバイスが出ています。7節で“祈ったり,聖書を勉強したり,じっくり考えたりすることは崇拝の一部であることを覚えておく。”とありまして、そのためには8節で“できるなら,静かな場所を選ぶ。”とあります。」
「8節で“イエスの手本 を考えてみましょう。地上での宣教を始める前,イエスは荒野に行き,40日間過ごしました。(ルカ 4:1,2)”とあるけれど、ルカ4:1に“聖なる力によって荒野のあちらこちらへ導かれて”あるように、静かな荒野に行くことを自ら選んだのではないよ。」
「イエスのお手本に見倣うためには聖霊によって導かれないといけないですね。」

「ここに出ているフランスのJWの話が泣けるね。“姉妹は,夫と一緒に小さなアパートに住んでいて,誰にも邪魔されない静かな場所を見つけることがなかなかできません。姉妹はこう言います。「それで,私は毎日公園に散歩に行きます。・・・”とある。雨や雪の日はどうするのか心配になる。」
「ところが、8節の上にある写真は、広々とした部屋でポテトチップスを食べながらテレビでサッカーを見ているというものです。経験談とあまりにも違いすぎます。」
「悲惨なJWの生活は滅多に写真やイラストには登場しない。ものみの塔は嘘をまき散らすプロパガンダ雑誌ということ。」

「9節に“それでもイエスは,エホバとの友情を保つために時間を取りました。日が昇る前に「静かな場所」に行き,エホバと自分だけの時間を過ごしたのです。(マル 1:32-35)”とあります。JWは“エホバとの友情”が大好きですが、そんな言葉は聖書にありませんよ。」
「引照聖句のマルコ1:35に“朝早くまだ暗いうちに,イエスは起きて外に出,静かな場所へ行って,祈りを始めた。”とある。マルコではイエスが祈るシーンがあと2つあるけれど、いずれも危機に面した時で、祈りは神に危機を乗り越える力を求めるもの。友情なんて関係ないよ。」

「この時の危機とは何ですか?」
「マルコではイエスはカペルナウムで大成功をおさめる。これが危機なの。この地にとどまっていればイエスは安全であり、多くの人から尊敬される。しかしイエスには果たさなければならない使命がある。この地にとどまっていればそれが果たせない。イエスは祈った後、イエスを探しに来たシモン達に“どこかほかの所,近くの町に行きましょう。そこでも伝道するためです。私はそのために来たからです。”と告げる。」

「11節がJW流の聖書理解がよくわかって面白いです。マタイ26章で、弟子たちは祈っていなさいとイエスに言われたのに、寝ていたという話です。それが12節で祈りの“良い時間帯を選ぶ。”という話になります。マタイ26章の話が矮小化され、小学生向けのわかりやすい教訓へと変えられています。」
「12節の上に、祈りながら寝てしまったという女性の写真がでている。寝る前でなく、もっと早い時間に祈りなさいという小学生向けの教訓になっている。それをいい年をした大人たちがまじめな顔で学ぶというわけだ。喜劇なのか悲劇なのか?」

「13節が“気を散らされないようにする。”で、“研究者によると,集中したいと思っている時に,スマートフォンが近くにあるだけでも,気を散らされてしまうようです。”と、いつものインチキ引用をしています。どんな研究者がどんな研究をしてこう言う結論になったのかがわからないので、何とも言えませんね。」
「その後に、“心理学の教授も,「目の前のやるべきことに集中できず,心ここにあらずの状態になってしまう」と述べています。”と続くけれど、いったい誰なのかわからないね。単なる個人の意見のような気がする。」

「要するに、集会や大会ではスマートフォンの電源を切りなさいと言いたいのです。でも、上から命令したとは思われたくないのですよ。あくまで専門家の意見に従った方がいいですよという程度で収めたいのです。輸血拒否で死亡しても、個人の選択ということですます組織ですから。」
「恐らく統治体の老人がしゃべっている時に誰かのケイタイが鳴って、統治体の老人が激怒したことがあったんだよ。それでこんな記事が書かれた。統治体の老人へのゴマすりだよ。」

「15から19節が“エホバと一緒に過ごすことは私たちのためになる”です。 実利実益に訴えないと信者は従わないということですね。4つの“ためになる”が出ています。」
「よい決定ができる、上手に教えられる、信仰が強まる、エホバへの愛が深まる、の4つだけど、要するに、ますますカルト宗教にはまって、抜け出せなくなるということ。」

「15節に“聖書には,「賢い人たちと共に歩むと賢くな[る]」とあります。(格 13:20)ですから,知恵の源であるエホバと一緒に過ごすなら,もっと賢くなることができます。”とありますが、ウソですよ。」
「それが本当だとすれば、長年JWをやっていれば、そうでない人よりも相当賢くなければならない。でもそんな事実はないよ。引照聖句の格言13:20の後半は“愚かな人たちと関わり合うと苦しい目に遭う。”だけど、JWはここでいう“愚かな人たち”じゃないか。JWにかかわりあうと苦しい目に遭うよね。」

「17節に“自分で聖書を勉強することです。「信仰は聞いた事柄から生じ」るからです。(ロマ 10:17)”とあり、確かに引照聖句には“信仰は聞いた事柄から生じます。キリストについての言葉を聞いて信仰を持つのです。”とあるのですが、協会共同訳では“信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです。”となっています。いったい何を聞くのでしょうか?キリストについての言葉?それともキリストの言葉?」
「両方ともありうる。どう解釈するかで訳も変わるということ。いずれにしてもJWはキリストではなくエホバについて聞くので、信仰は生じないわけだね。」

「18節に“学んだことをじっくり考える必要があります。 詩編 77編の作者のことを考えてみましょう。”とあります。“この人は,エホバが行ったことや,エホバが示してきた憐れみや思いやりについてじっくり考えました。(11節)”と言っていますが、77:11は“私はヤハが行ったことを思い出す。昔あなたが行った驚くべきことを思い出す。”でして、憐れみや思いやりなど出てきません。」
「詩編77に出てくるのは出エジプトの話で、77:14に“あなたは真の神。驚くべきことを行う。人々に強さを明らかにした。”とあるように、神の偉大さ、強さを思い出している。イスラエル人にとって神は、優しい女性的な神ではなく、敵をぶち殺す偉大な戦士としてイメージされることが多い。」

「詩編77:11に“ヤハ”とあるのはヤハゥエの略ですよ。神の名前はエホバじゃなくてヤハゥエということにJWは気づいて欲しいですね。」
「JWはヤハゥエの証人と改名するよりも、聖書の方を改ざんすることを選ぶだろうね。」

#1367 2022年04月02日 10:26:23

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

おそらく解釈を考える係の人は気づいていると思うんですけどね。

洞察 さんの発言:

西暦1千年紀の後半に、ユダヤ人の学者はヘブライ語の子音本文に記されていない母音を表わす符号体系を導入しました。そして、神のみ名に関しては、そのための正しい母音記号を打つ代わりに、アドーナーイ(「主権者なる主」の意)、またはエローヒーム(「神」の意)と言うべきであることを読者に思い起こさせるために他の母音記号を打ちました。

「正しい母音記号」てなんなの、とつっこみたくなりますが、子音だけのヘブライ語にニクダー(母音符号体系)が考案されたのと同時期に作られたMT(マソラテキスト)以降、YHWHにつけられた母音記号は「正しくない」と言っていることになります。


でも、エホバなる発音はそこからきています。

アドナイ(主)のつづりはADNY、アーレフ(A)、ダレッド(D)、ヌン(N)、ヨッド(Y)の四字です。これを「アドナイ」と読ませるには、ア行のアーレフには「ア」の記号、ダレッドには「オ」、ヌンには「ア」、末尾のヨッドは英語のYと同じでそれ自体が「イ」と読ませる代用母音です。


これを神名四字のYHWH、ヨッド、へー、ヴァヴ、ヘー、につける(あてる)とどうなるでしょうか。

アドナイの「ア」の母音記号は複合シュヴァといって喉音にしかつきません。厳密には喉を擦らせるア”のような音です。

これがヨッドにつくときは有音シュヴァというあいまい母音に代わるルールがあるので、イェになります。

「オ」の記号がヘーにつけば「ホ」です。これは簡単です。

3つ目の「ア」がヴァヴにつけば「ヴァ」ですね。

末尾のへーは英語のHと同じで最後の音をそのまま伸ばします。

そこからイェホヴァーという発音が生成されます。この経緯を知ってか知らずか、メジャーな聖書では1611年のキングジェームズ訳でJehovahが使われて知られるようになりました。


でもこれは、そのように読ませる目的ではなく、洞察さんにもちゃんと書いてあるように、YHWHがでてきたらアドナイと読みなさいよ、といういわば当て字のフリガナなので、それは彼らとしては「正しくない」はずなのです。


洞察 さんの発言:

一般に、ヘブライ語学者は、「ヤハウェ」を最も適切な発音として支持しています。


これも洞察さんに書いてある通りで、紀元前のギリシャ語訳写本にも字訳また音訳を試みているものが一部発見されていて、イアウェ、イアーベのようになっています。初期キリスト教の著作にも類似した音訳があるそうです。

#1368 2022年04月08日 15:58:21

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバが行うことは全て正しいと信じていますか(6)”で、エホバ=組織だから組織の言うことはすべて正しい、というかなり怖い内容です。」
「カルト色の強い記事だね。こんな記事が出るということは、エホバって本当はとんでもない神様じゃないの? というまともな疑問が信者の間に結構生まれているということかな?それならいいことだよ。」
「それに加えて、統治体の老人のいうことは納得がいかないという信者も増えているということですよ。」
「統治体の老人は動画によく登場するけれど、彼らの多くは太りすぎで、少しも魅力的じゃないし、知性もカリスマ性もない。日本語の吹き替えだとわからないけれど、くだらない冗談や駄じゃれも言うことがあり、バカじゃないかと英語圏の人なら思うよ。」

「3から6節が“聖書を読んでいる時”です。 聖書にへんなことが書いてあっても、エホバが正しいと言っています。」
「3節に“聖書を読んでいると,人々に対するエホバの扱い方やエホバの決定に関して,疑問を感じることがあるかもしれません。”と言っている。それがまともな大人だけれど、JWにはまだまともな大人がいるということかな?」
「疑問を感じる例として、民数記15章にある安息日に薪を拾ったら死刑という話が出ています。これは酷い話ですよ。それなのに人殺しのダビデはお咎めなし。これに対する弁解が4から6節です。」

「民数記15章は相互に関連のない5つの規則が羅列されていて、安息日に薪を集めるなという話は32から36節。15:32の“イスラエル人は,荒野にいた間に,安息日に薪を拾い集めている人を見つけた。”で始まる。これは物語の始まり方で、律法には不適当。例えばルツ記は“裁き人が裁きを行っていた時代に,飢饉が起きた。”が始まりの文。その後ルツとナオミの物語が続く。」
「つまり、民数記15:32-36は相当後の時代の挿入ということですね。」
「15:32の文はこの出来事が起きたのは作者から見て遠い昔のことであるという書き方。JWでは民数記の作者はモーセで荒野にいる間に書いたことになっている。もしそうなら“イスラエル人は,荒野にいた間に”とまるで他人事のようには書かない。後世の挿入だよ。」

「4節が弁解その1で“聖書には全ての情報が載せられているわけではない。”です。でもこれは弁解になっていません。聖書に書かれたことから判断するしかないわけで、書かれていることがひどい話であれば、ひどい話と判断するしかありません。」
「書かれていないことをご都合主義的にあれこれと推測して、やっとエホバのすることは正しいと確信できるということかな。頼りない神様だ。」

「4節に“エホバは全ての事実を知っていて,それに基づいて判断を下します。人間とは違い,うわさや偏見などによって判断を狂わされてしまうということはありません。(創世記 18:20,21,申命記 10:17を読む。)”とある。引照聖句がへんです。」
「創世18:21に“私は下っていって確かめます。私に届いた叫び通りのことが起きているかどうかを知りたいのです。”とある。」
「これはソドムとゴモラの話ですね。」
「この聖句は神が全知全能ではないことを示している聖句だよ。下って確かめないとわからないわけで、頼りない存在ということ。最後に神が下って確かめたのはいつのことなんだろうね?」

「旧約の神に対する見方は統一していなくて、この部分は神人同型的な見方なわけですね。」
「申命10:17も“皆さんの神エホバは (略) 賄賂を受け取りません。”とあるけれど、ここでは賄賂を受け取るかどうかが問題になるくらい人間的な神様ということ。宇宙の創造者からあまりにもかけ離れていることに気づいて欲しいね。」

「4節は“聖書を読んでいて,疑問に思う点の答えが今は分からないとしても,エホバについてよく知っているなら,「エホバが行うことは全て正しい」ということを確信できます。”と結んでいます。カルト的ですね。」
「今わからないとしてもエホバを信じましょう、いずれわかります、というJWがよく使う詭弁だね。そうやって健全な疑問を封殺するのがカルト。こんな宗教はすぐ辞めよう。」

「5節の弁解その2は“人は不完全なので,正しく判断できないことがある。”です。“不完全”はなんにでも使えるJWの大好きな弁解です。それを裏付ける聖句は引用されていません。」
「英文ではOur sense of justice is tainted by imperfection.で、私たちの正義の感覚は不完全さによって汚されています、で日本語訳はだいぶ表現を和らげている。」
「不完全だからという言い訳は自分たちだけに適用し、他の宗教には適用されないというダブルスタンダードがあります。」
「1節に“宗教の面でも,指導者たちが悪いことを行っているために,神への信仰を失ってしまった人たちがいます。”と書いているけれど、それは不完全だから仕方がありませんとは絶対に言わないよね。」

「5節の下の囲み記事では“私たちは不完全なので,エホバの決定を理解できないことがあるかもしれません。見方が間違っているのは私たちであって,エホバではないのです。”と断言しています。」
「理解できなくても正しいと妄信する。これがJWの正しい態度ということ。いつか集団でとんでもないことをしそうで怖いね。こんなことを堂々と書いているとJWは危険なカルト集団とますます思われるよ。」

「6節の弁解その3が“エホバには自分の決定に関して人間に説明する責任はない。”です。これって正しい旧約的な神に対する見方じゃないですか?」
「神のすることはあまりにも不可解だから、そう考えるしかないということだね。これは先ほどの神人同型的な神とは全く異なる神に対する考え方になる。人間の理解をはるかに超えた存在としての神だね。複数の異なる神に対する見方が混在しているのが聖書だということをJWも理解して欲しいね。」

「7から14節が“指示を受けた時”です。 組織から変な指示を受けても無条件に従えということです。この記事が一番言いたいことですね。危険なカルトまっしぐらです。」
「7節に“組織の中である程度の責任を委ねられている人について,「エホバの指示に従っているのだろうか,それとも自分のやり方に従っているのだろうか」と疑問に思うことがあるかもしれません。”とある。当然の疑問だよね。JWに対する指示は全てアメリカに住む肥満体の老人の指示にすぎないと、長年JWをやっていれば思うよね。」

「8節ではJWの何の根拠もない主張が列挙されています。まず“現代,エホバは「忠実で思慮深い奴隷」を用いて,ご自分の組織の地上の部分を導いています。”とあります。つまり統治体のことですね。」
「統治体が神に用いられているという証拠はなにもない。言ったもの勝ちなのか?」
「8節で“この奴隷は1世紀の統治体と同じように,世界中のエホバに仕える人たちを見守り,会衆の長老たちに指示を与えています。”と歴史をねつ造しています。」
「1世紀に統治体など存在しない。聖書には統治体という言葉も出てこない。」

「4節に、エホバについて“人間とは違い,うわさや偏見などによって判断を狂わされてしまうということはありません。”とあります。つまり人間の判断はうわさや偏見によって狂わされることを認めていますよ。5節では“人は不完全なので,正しく判断できないことがある。”とハッキリ言っています。それなのに単なる人間に過ぎない統治体に盲目的に従うなんておかしいですよ。」
「この記事の展開から言って、人間の判断は必ずしも信用できない、絶対視するのは危険です、となるべき。ところが、統治体や長老の判断には盲目的に従いましょうと来る。おかしいね。」

「9節で具体的な話になります。“例えば,最近では王国会館をいっそう有効に活用するために,多くの会衆や巡回区が再編成されています。それで,長老たちから,別の会衆に移動してくれないか,と頼まれるかもしれません。”とありますが、これは王国会館売却から派生した問題です。」
「“王国会館をいっそう有効に活用するため”と言っているのは不誠実だね。現金が必要だから不動産を売って金に換えています、と言うべきだろう。」

「9節では“エホバは長老たちを信頼していて,こうした決定を行う責任を委ねています。ですから,私たちも長老たちを信頼する必要があります。”といっています。しかし、王国会館の売却という問題は長老レベルで決められませんよ。」
「組織の上の決定を長老は実行するだけだろう。それを長老の決定と責任のもとに行うかのように書いているのは、いつものことだけど不誠実だ。」
「こう書いておけば、信者の不満は長老に向けられ、統治体まで及びません。そのおかげで統治体は信者のことを愛する善人というイメージを保てるわけです。」
「そういう仕組みを知らない信者が会衆の問題を統治体に直訴などするわけだ。正義の統治体のおじいちゃんに言えば理解してくれるはずだと思ってね。実際はそう言った酷いことは統治体の承認のもとで行われているのにね。」

「10節にはカルトらしいことが書かれています。“私たちは,長老たちの決定を支持する必要があります。その決定が,私たちが願っていたものとは違うとしてもそうです。なぜでしょうか。支持することによって,エホバに仕える人たちの一致を守ることができるからです。”とあります。長老の独裁体制こそがJWの理想のようです。」
「長老には絶対服従せよ、長老に逆らう奴は分派活動をしていると見なして排斥だということだね。でもJWの長老のような、本来権力など無縁な小人物に権力を持たせるとろくなことをしないものだよ。」

「12節から排斥の話になります。長老を支持して、排斥に文句を言うなということです。こんなことをわざわざ取り上げるということは排斥について相当不満が出ているということですね。」
「14節で“排斥はエホバが取り決めたものであり,会衆のためにも罪を犯した人のためにもなる,ということを覚えておく必要があります。”とある。排斥された人の家族はこう思って耐えるわけだ。JWを続けるということは悲惨だね。」

「15から18節が“今エホバを信頼するなら将来に備えることができる”です。 JWの一つ覚えである終末論を振りかざして、理解できない指示でも従えと、組織に絶対服従を求めています。」
「15節に“なぜなら,大患難の時には,従いにくく理解に苦しむような指示を受けるかもしれないからです。”とある。なぜ大患難のとき理解に苦しむ指示が出てくるのかな?大患難の時こそみんなが理解し納得できる指示を出すべきだろう。」
「統治体は自信がないのですよ。本当に大患難が来たら、あの頭の悪そうな統治体の老人が的確な指示など出せるわけありませんよ。新型コロナウイルス問題に対しても、家庭菜園を作って食糧難に備えろと言ったとか。」
「でも15節では“そうした指示に今進んで従っているなら,大患難の時にも同じようにできるでしょう。”とあるから、大患難が来る、来ると信者を脅して、今でもよくあるバカバカしい指示に無条件で従えということじゃないの。統治体は大患難などあり得ないことを理解しているよ。大患難は恐怖で信者をコントロールするための手段として利用しているだけ。」

「“従いにくく理解に苦しむような指示”という訳ですが、英文とは相当違います。」
「英文ではstrange, impractical, or illogicalだね。”奇妙な、実際的でない、あるいは不合理な”指示。これってJWの教義の特徴そのものだから、JWなら違和感がなく従えるよ。だから”従いにくく”という訳は間違いだね。」

「17,18節が楽園についての話です。JWの想像上の楽園での暮らしは最近変わりましたよね。今より悲惨な生活みたいです。」
「18節で“大患難の後片付けをして地球をパラダイスに変えていくためには,多くのことを行わなければならないでしょう。初めのうちは不便なこともあるかもしれません。”だって。その不便な点を詳しく書いて欲しいね。車は使えるのかな?」
「想定される70億人以上の死体処理の方法が気になりますね。穴を掘って埋めるというのは効率が悪すぎますよ。巨大な焼却炉を作って、そこへ次々と死体を投げ込むしかありません。そうなると石油が必要ですが、どうするのでしょうね。」
「間もなく統治体から“従いにくく理解に苦しむような”指示が出るんじゃないの?1000年間嫌な仕事をし続けるというのが、JWの夢見る楽園のようだ。」

「最後の19節で“そして,エホバから責任を委ねられている人たちを信頼することも大切です。”とこの記事で一番言いたかったことが繰り返されています。常にだれかの命令に従うというのがJWに唯一許された生き方のようです。」
「指導者に無条件に従う。これはカルトの特徴だから変わることはないよ。そんな人生が嫌なら、さっさとJWを辞めよう。」

#1369 2022年04月15日 14:21:01

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ 賢い人たちの言葉を聞きましょう(7)”で、末端の信者は上からの指示に黙って従えという、よくある内容です。」
「先週の組織には無条件に服従というひどい記事の続編だね。今度は長老だけでなくJWの先輩にも絶対服従ということかな?」

「主題聖句は格言22:17ですが、どういう意味ですか?」
「格言22:17から24:34が1つの塊で、12の格言があるけれど、そのうち10はエジプトの有名な“アメン・エム・オペの教訓”から来ている。22:17から21はその序論的な部分。22:17は“アメン・エム・オペの教訓”の第1章にそっくりの文があるのだけれど、生徒に一生懸命勉強しなさいと賢者である先生が言っているという意味。JWはここで言う賢い人ではないよ」

「格言22:20は“私はこれまであなたに/助言と知識を書かなかったか。”とありますが、協会共同訳では“私の判断と知識による三十句を/あなたのために書かないことなどありえようか。”です。新改訳では“私はあなたのために、勧告と知識についての三十句を書いたではないか。”です。“三十句”がJW訳にはありません。見落とした?」
「“三十句”は“アメン・エム・オペの教訓”が30章からなっていることから、“アメン・エム・オペの教訓”のことを指していると解釈される。」
「JWはそれが不都合なので隠ぺいした?」
「そういう可能性はあるね。一方、“三十句”の元のヘブライ語をどう読むかについていろいろ意見があり、JWはいつものごとく独自の解釈をした結果なのかもしれない。でも最近の訳は“三十句”となっていることが多い。」

「格言22:21に賢い人の言葉を聞く理由として“それは,あなたが真実で確かな言葉を知って,あなたを遣わした人に正確な報告を持って帰るためである。”とありますが、この意味は?」
「王から派遣された役人の仕事のことを言っている。王の言葉を正確に伝え、その返事を正確に王に伝えなくてはならないけれど、そのためには勉強が必要ということ。格言22章が想定している状況は、現代のJWとは全く違うので、JWに適用できないよ。」

「4節で” 伝道の書 7:9を読む。”とあります。そこには” 腹立ちは愚かな人の胸にとどまる。”と書いているのですが、日本語としてへんな表現です。」
「元の英文ではlodgeだから、“腹立ちは愚かな人の胸に宿る”だろうね。」

「6,7節が“助言を退けた人”です。 ソロモンの子レハベアムとウジヤ王が取り上げられています。」
「レハベアムは年長者の助言を退けたけれど、列王一12:15に“こうして王は民の言ったことを聞き入れなかった。エホバがそのように事を運んだのである。エホバが,シロの人アヒヤを通してネバトの子ヤラベアムに伝えた言葉の通りになるようにしたのだった。”あるよ。」
「レハベアムが助言を退けたのは、エホバのせいだったのですね。エホバってろくでもない神様です。現代人ならレハベアムに責任はないと判断しますよ。」
「その結果、聖書によるとイスラエルは二つの国に分裂し、衰退していくわけだけど、これは神様のせいということになる。しかし、聖書では神の責任は問われず、王の責任となる。不条理な世界だね。」

「それに対して、後に現れる預言者たちはイスラエル人が律法を守らないから、神が怒っているというように神との契約に基づいた解釈をするわけですね。」
「一神教の元では、全ての出来事の究極的な原因は神にあると考えるしかない。不幸なことばかりのイスラエル人からすれば、それは神のせいということになる。憎まれるだけの存在になり下がった神を救うために、預言者が独自の解釈をし、神は悪くない、悪いのはイスラエル人です、と主張するようになる。」
「それも時代が進むとリアリティを失って、新たに悪魔なるものを作り出し、世界は悪魔と神の闘争の舞台で、なぜか今は悪魔が優勢で、そのため自分たちは不幸だけれど、間もなく神が逆転勝利し、自分たちは幸せに暮らすという思想が出てくるわけですね。JWはその段階の宗教ということです。」

「6節にあるレハベアムの話の結論が、“私たちが受ける助言やアドバイスも,受け入れやすいものばかりというわけではないかもしれません。とはいえ,その助言やアドバイスが聖書に基づいているなら,私たちはそれに耳を傾ける必要があります。”というのはへんだ。」
「レハベアムは聖書に基づいた助言を受けたことはないですよ。年長者の助言があっただけです。」

「7節がウジヤ王の話で、その結論は” 私たちはどんな立場にあるとしても,聖書に基づく助言やアドバイスを退けるなら,エホバを深く悲しませてしまうことになる,ということです。”だけど、これもへんだよ。」
「ウジヤ王は、祭司たちの制止を振り切って、神殿に入って香をたこうとしたのですが、突然重い皮膚病になるわけです。そのことに対して歴代二26:20は“エホバが彼を打ったのである。”と説明しています。どこにも悲しんだなんて書かれていません。」
「神様は悲しむかな?すぐ腹を立てて制裁を加えるだけじゃないの。」

「ところで、歴代二26:23にはウジヤ王は“王たちのものだった野原の墓地に葬られた。”とありますが、列王二15:7では“「ダビデの町」に父祖たちと共に葬られた。”となっています。いったいどこに埋葬されたんでしょうか?」
「歴代誌の方は、ウジヤ王の病気をやたら強調しているから、その話の続きとして、ウジヤ王は王たちの墓にではなく、野に葬られたことにしたのだろう。病人差別だね。ヨセフスの“ユダヤ古代誌”では、“彼の庭園にひっそりと”埋葬されたことになっている。」

「8から11節が“助言を受け入れた人”です。 まずヨブとモーセが登場します。9節に“ある時,モーセは腹を立て,エホバに敬意を示しませんでした。その結果,約束の地に入ることができなくなりました。(民 20:1-13)”とありますが、これは違いますよ。」
「引照聖句はモーセとアロンが岩から水を出したという話の部分だけれど、民数20:12で、神様は“あなたたちは,私に信仰を示さず,イスラエルの民の目の前で私を神聖なものとしなかったので,私が与える土地にこの会衆を連れて入ることはない。”と言っている。しかし、これは意味不明。具体的に何を怒っているのかがよくわからない。」
「それで昔から、モーセがイスラエル人に不平を言ったからとか、岩を杖で打ったからとか、“私たちがあなたたちのために水を出さないといけないのですか”とあたかも自分の超能力で水を出すかのように語ったのがいけないとか、いろいろ言われてきたわけですね。」
「そうだけど、結局モーセの罪の本質は一体何かというのは不明。でも怒りっぽい神様というのは言えるね。」

「申命記1:37で“(皆さんのことでエホバは私にも怒り,こう言いました。「あなたもそこには入らない。”とモーセは言っています。ここではモーセはイスラエル人のせいで自分も約束の地に入れなかったと言っています。民数記の話と違いますね。」
「申命記4:21でも“エホバは皆さんのことで私に怒り,私がヨルダン川を渡ることも,エホバ神が皆さんに授ける良い土地に入ることもない,と誓いました。”とある。民数記と申命記では歴史観が違うので、なぜモーセが約束の地に入れなかったのかについて異なる理由をあげているということ。」

「11節に統治体のメンバーだったカール・クラインの話が出ています。模範的な例としてです。でも、そんな立派な人じゃないですよ。」
「カール・クラインというと、“良心の危機”の282ページにある、“この時、確かカール・クラインがこんなことを言った。――時々使うこんな手がある。ある教義についてしばらくの間黙っておいて、それから変更を加えるとあまり目立たない。”という文章を思い出すね。」
「これは、自分たちの体面を守ることしか関心がない不誠実なカルト宗教のリーダーそのものですね。JWという宗教の本当の姿がよくわかります。」
「カール・クラインの身の回りを世話する係だった人が、クラインは完全にアル中で、アマレットというイタリアの甘いリキュールをオートミールにかけて毎朝食べていたと語っている。JWの統治体にまともな人はどれくらいいるのかな?」

「12から14節が“助言を受け入れる上で何が助けになるか”です。 3つのことが出ています。最初は謙遜であることです。JWに要求されることナンバーワンは謙遜です。」
「12節で“自分には当てはまらないと思えるような助言を受けたり,年下の人から助言を与えられたりすることがあるかもしれませんが,謙遜であるなら,そうした助言を受け入れて当てはめることができます。”とあるけれど、自分に当てはまらない助言と思えば無視するのが普通でしょう。他人の言うたわごとをいちいち聞いてなんかいられない。」
「それだと、謙遜じゃない、と非難されるのがJWなんですよ。」
「12節で“人は自分のことを客観的に見ることができないので,誰かから助言してもらわなければ,成長することはできません。”とカナダの長老が言っているけれど、他人の見方がそれ程信用できるの?大抵は一面しか見ていない偏ったものだよ。だから人の意見に左右されずに、自分が正しいと思うことをすべき。」

「13節では“助言をエホバが愛してくださっている証拠と考える。”とあります。事実に反します。助言は偏見や悪意からなされることがしばしばあります。」
「JWによくある、助言という形のいじめだね。」
「14節が“助言の仕方ではなく,内容に注目する。”ですが、過大な要求です。大嫌いな人から偉そうに助言を受けたら、内容が正しくても拒否ですよ。」
「こういう時こそ、私は不完全ですから、そんなことは無理です、と言おう。」

「15,16節が“自分から助言を求めるなら良い結果が得られる”です。 16節にどういうときに助言を求めるべきか3つの例が出ています。おもしろいのは2番目の“服を買おうと思っている独身の姉妹は,年長の姉妹に率直な意見を求めることができるでしょう。”というものです。そんなことまで相談しないといけないのがJWのようです。」
「女性蔑視の統治体の老人たちは独身の姉妹は自分で適切な服を選ぶ能力がないと思っているのだろう。」
「年配のみすぼらしい女性にファッションの相談をするなんてJWでもあり得ません。」
「それで16節の上の写真に登場している“年長の姉妹”は青い服に黄色いアクセサリーという何やらおしゃれな人にしているわけだ。」

「英文では a pair of slacksを買おうと思っているとあります。スラックスって古臭い言葉じゃないですか?」
「執筆者は相当高齢だね。翻訳者もスラックスという古臭い語を避けて“服”にしている。写真を見ると、いわゆるタイトパンツというものだね。」
「統治体のお腹の出っ張ったモリスがタイトパンツはゲイの服だからダメと言ったのを、この姉妹は知らないようですね。」

「slackは“ゆるい”とか“たるんだ”という意味。スラックスという言葉を使う時点でどういう服装がよいか示しているよ。執筆者は50年前の服装を最高と思っている老人だろう。」
「この文章を読んだ年長の姉妹は、若い姉妹の服装チェックにますます熱心になることは間違いないです。」
「この記事のせいで、迷惑な助言がJW内にますますはびこるわけだ。」

#1370 2022年04月22日 14:31:37

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“あなたの助言は「心を喜ばせる」ものですか (8)”で、長老は助言と称する嫌がらせを気楽に行うな、という内容です。」
「また助言についての記事か。JWは助言するのが大好きな宗教ということだね。」
「長老の助言って、聖書から適当に拾ってきた聖句を読んで、無理やりこじつけるとか、エホバを待ちましょうとか、許しましょうとか、なにも役に立たないものばかりですよ。長老の助言を聞いてよかったという話は滅多にないです。」
「それは長老の個人的な能力不足というより、JWという宗教に問題があるからだよ。」

「1節に“しばらく集会に来ていない姉妹を2人の長老が訪問しました。1人の長老が,集会に出席することの大切さに関する聖句を幾つも紹介しました。”とあります。牧羊訪問というやつです。2節で“私は,姉妹のことを考えるのではなく,当てはまる聖句のことばかり考えていました。”と反省しています。単なるバカが長老をしているとしか思えません。」
「長老は信者を宗教拡張員として働かせることしか関心がないということだね。」
「まじめに助言したところで、恨まれ嫌われるだけです。助言とはそういうものですよ。」
「長老はこの記事にのせられて、助言をもっとしようなどと思わないことだね。」

「5から7節が“どんな動機で助言を与えるべきか”です。 愛が大事らしいのですが、実際は不純な動機から助言を与えることが多いということですね。」
「長老という小権力者は権力をふるうこと自体が目的化して、余計な助言を偉そうに繰り返し、平信者から反感を買うことが結構あるのだろう。」

「6節で“パウロはためらうことなく助言を与えました。でも,彼らに宛てた手紙の中で,まずは彼らの忠実な働きや愛に根差した労苦や忍耐について述べ,彼らが迫害などの大変な状況の中でも本当によくやっていることを褒めました。(テサ一 1:3。テサ二 1:4)”とありますが、ずれたこと言っていると思うのですが。」
「引照聖句は、手紙の冒頭部分で、手紙の送り先に挨拶を送っているもの。そこでは親しみを込めて挨拶をし、同時にこれまで受けたことに対する感謝やねぎらいや、ほめ言葉を書くのが普通の書き方。」
「パウロはその当時の常識に従っただけということですね。」
「協会からの手紙だって、白々しく親愛なる兄弟姉妹とか、クリスチャン愛をこめて、などと書いているだろう。それと同じ。単なる形式だよ。」

「6節で“パウロは,テサロニケの兄弟たちを心から愛していました。だからこそ,彼らに宛てた2通の手紙の中で,良い助言を与えることができたのです。”とありますが、テサロニケ二の方はパウロの名をかたった偽名文書ですよ。」
「テサロニケ一ではイエスの再臨はすぐに起こることになっているのに、テサロニケ二になるとだいぶ先になっている。これはキリストの再臨が遅いと文句が出てきた後の時代に書かれたということ。しかもパウロ的でないことが書かれている。例えばテサロニケ二2:11に“そのため神は,彼らが欺きの影響を受けて偽りを信じるままにします。”とあるけれど、これはパウロのいう神とは違う神だね。」
「イエスの再臨の時に不法なものが偽りを行うけれど、神はそれを放置するということですね。」
「そうじゃないよ。JW訳がおかしいの。協会共同訳では“それゆえ、神は惑わす力を送り、彼らが偽りを信じるようにされるのです。”だけど、こちらが正しい。パウロの神はこんなことはしない。」

「8から10節が“本当に助言する必要があるか”です。 不必要な助言が多いということですね。」
「そうなのだろうけれど、8節に“「性急に話す」ことがないよう注意するのは良いことです。(格 29:20)”はへんだね。引照聖句を誤解している。」
「そこには“性急に話す人を見たか。愚かな人の方がまだ望みがある。”となっています。性急に話す人は愚かな人より望みがないと言っているだけです。性急に助言をする長老は絶望的なダメな男ということですね。」
「考える前に思いついたことをしゃべってしまう人間を矯正するより、愚か者を訓練する方がまだ可能性があると言っている。この聖句を使うということは、そういうことだよ。」

「9節に服装や身だしなみに対する助言が出ています。パウロは“ふさわしいものやふさわしくないものについて,細かな規則を作ることはしませんでした。また,クリスチャンには聖書の基準の範囲内で個性を発揮する自由がある,ということを認めていました。”とあります。服装に関するくだらない規則を作って、平信者を苦しめる長老が結構いるということですね。」
「それはしょうがないね。大まかな方針を示しただけとしても、必ず極端に解釈する人が出てくる。JW自体、白か黒かという思考の宗教だから、物事はほどほどがちょうどいいというような常識が働かない。」

「9節では“テモテ第一 2:9,10を読む。”とあるのですが、そこには“女性は,慎みと健全な考え方が表れた,きちんとした服装をすべきです。”とありますが、訳がへんですよ。JW的に偏向していますよね。」
「“健全な考え方が表れた”というのは誤訳。英文では“soundness of mind”(心の健全さ)となっている。英語訳は元のギリシャ語を訳すときに利用した辞書の最初にそう出ていたから、それを使ったのだろうけれど、心の健全さでは意味は不明だ。」

「元のギリシャ語はギリシャ哲学の用語ですよ」
「そう。ギリシャ哲学での言葉の使い方を調べると、この言葉が具体的に意味していることが分かる。激情に左右されないこと、自分をコントロールできることを“心の健全さ”と呼んでいることが多い。たいていの聖書はそれを考慮して訳語を決めている。協会共同訳では“控えめに”となっている。」
「しかし、素人集団が辞書を片手に訳したJW訳はそうなっていないということですね。機械的に辞書の最初に出ている訳語を採用して、それをもって字義訳と言っていたわけですね。」
「しかも日本語訳では、元のギリシャ語の意味は影も形もなくなって“健全な考え方があらわれた”となっている。悲惨だね。」

「テモテ二2:9で“凝った髪形”と訳していますがこれも誤訳ですよね。英文では“hair braiding”ですから、髪を編むという意味ですよ。」
「日本語訳者は髪を編むのがなぜいけないのか理解できなかったので“凝った髪形”と勝手に訳したんだろう。髪を編むのを嫌うのは文化の違いだね。聖書の基準というのは古代の地中海世界の基準に過ぎないということだね。」

「そもそもテモテへの手紙はパウロが著者ではないですよ。」
「内容はキリスト教の組織が出来上がっている時代のもので、教会創設期のパウロの時代のものではない。」

「女性は二流の人間なので黙っているべきという根拠として、テモテ一2:13,14に“アダムが最初に造られ,その後にエバが造られたからです。また,アダムは欺かれませんでしたが,エバはすっかり欺かれて違反を犯しました。”と言っていますが、これはパウロの思想じゃないですよ。」
「ローマ5:14に“それでも死は,アダムからモーセに至るまで,王として支配しました。アダムの違反と同様の罪を犯さなかった人に対してもです。”とある。違反を犯したのはアダムでアダムが悪いといっているよ。エバなんか問題にしていない。」

「創世記3:17では“あなたが妻の言ったことに従い,『食べてはならない』と私が命じた木の実を食べたので,あなたのせいで地面は災いを被った。”とあります。神様だって、アダムのせいだと言っています。」
「アダムが先に造られたから、女は静かにすべきだなんて2000年前だって説得力ないよ。女性蔑視の作者が屁理屈をこねているだけ。」

「10節に“あることに関して2人のクリスチャンが異なる判断を下すとしても,そのどちらも聖書の基準に沿っている,ということがあります。”と書いているのですが、おかしいですよ。」
「聖書の基準なるものがいい加減だからね。だから意見が違ったとしても、二人とも正しいということにして喧嘩をするな、ということだよ。」

「11,12節が“誰が助言を与えるべきか”です。 長老だからと言って、誰にでも助言を与えるのは控えろということのようですね。」
「11節に“結婚している姉妹や未成年の子供に助言が必要な場合,長老はまず家族の頭と話し合うことでしょう。”といっているね。夫や父親の顔を立てろということかな?前時代的な家父長制を前提としているのがJWというわけだ。」

「13から18節が“どうすれば良い助言を与えることができるか”です。 この記事の中心部分です。4つのことが出ています。最初は“よく話を聞く。”で、次は“兄弟姉妹の様子をよく知るようにする。”です。要するに個人情報の収集に努めよということですね。」
「15節に“長老は,兄弟姉妹のことを気遣い,理解し,助けたいと思っていますが,兄弟姉妹がそのことを感じ取れるようにする必要があります。(格言 27:23を読む。)”とあるけれど、引照聖句がおかしいよ。」
「そこには“自分の羊の群れの様子をよく知っておくべきである。羊をよく世話しなさい。”とありますね。一見よさそうですけれど、これは文字通りの羊のことですね。」
「その後に、“富はいつまでも存続することはなく,王冠も代々ずっと存続することはないからである。”が続く。要するに格言 27:23は牧畜業の勧めだよ。牧畜業は堅実だけど、商業によって得られた富や地位は長続きしないといっている。現代人には関係ないね。」

「17節が“辛抱強く親切である。”、18節が“失敗から学ぶ。”です。最初から、長老の助言は失敗することを想定しているのですね。この点に関してはなぜか現実的ですね。」
「18節に“兄弟姉妹は,誰かから傷つくようなことを言われたりされたりしても,その人が自分のことを愛してくれていると分かっているなら,許しやすく感じることでしょう。”とあり、心ない助言で傷ついても許すことを求めている。とんでもない助言をしても、結局は許されるとしたら、バカな長老が失敗をから学ぶことはないよ。」

「18節の下に“親の皆さんへ”というか囲み記事があります。親が子どもにする助言について助言しています。長老に対する助言とほぼ同じことをいっていますね。」
「でも、“親は,決して子供に厳しく接してはいけません。”とあるのには驚いた。その理由として“子供も「神の羊の群れ」の一員なのですから,優しく接する必要があります。(ペテ一 5:2。エフェ 6:4)”だって。笑えるね。」
「引照聖句はエフェソス6:4で“父親は,子供をいら立たせないようにし,エホバが望む指導と助言によって育ててください。”です。昔の引照聖句とは違いますね。」

「“エホバが望む指導と助言”というのは、格言23:13,14の“少年を懲らしめるのを控えてはならない。むちで打つ場合,彼は死なない。彼をむちで打つべきである。彼を墓から救うためである。”というものでしょう。子どもをムチでバンバン叩くことをエホバという神様は望んでいるよ。」
「格言13:24の“むちを控える人は子供を憎んでいる。子供を愛する人は懲らしめを怠らない。”もエホバが望む指導です。昔はよくこの聖句は使われていました。」
「ヘブライ12:6には“エホバは愛する人を矯正するからだ。ご自分が子として迎え入れる人を皆むち打つのである。”とある。聖書は神の言葉だけあって一貫しているね。神様はむちでたたくことを強く望んでいるよ。」

「ところが、体罰は虐待と非難される非暴力的な時代になって、方針を変えたのですね。聖書の言葉も賞味期限切れになるわけですよ。」
「それなら、輸血禁止も賞味期限切れにすべきだろう。子どもが病気になり輸血が必要で、子どもが輸血をしたいと言ったら、親はどう助言するのかな?」
「今の命より永遠の命が大事です、エホバの望むことをしましょうと、愛をこめて優しく、おとなしく死ぬように言うのですよ。」
「JWからの助言は必要がないことがよくわかるよ。」

#1371 2022年04月29日 13:25:48

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“イエスに倣ってほかの人の必要を優先する(9)”で、自分を犠牲にして組織のために働けという内容です。」
「また自己犠牲の要求ね。JWは絶えず自分を犠牲にすることを求められる気の毒な人たちということね。」

「JWには、憲法13条で認められている、自分の幸せを追求する権利は認められていないようです。」
「憲法13条は“すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。”だけど、聖書にもJWにもない精神だね。」
「JWでは何が幸福かは組織が決めます。一生懸命伝道したら幸福です。なぜならエホバが喜ぶからです。といった感じで、個人の自由はありません。」
「以前は楽園が間もなく来るから、楽園が来たら好きなことをやってね、と言っていたのに、今では楽園が来ても膨大な仕事をこなさなくてはならないと変更した。JWは楽園が来ても個人の幸福を追求することはできないわけだ。そんな所は楽園と呼べないよ。」

「1節は“聖書には,神の民がイエスの指導の下でエホバに仕えるために「喜んで自分を差し出す」ということが預言されていました。(詩 110:3)現代,まさにその通りになっています。”で始まりますが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「そこには“あなたが軍勢を指揮する日に,あなたの民は喜んで自分を差し出す。”とあるけど、それをJWがすすんで伝道に参加することの預言と解釈しているわけだ。バカバカしいけれど、信者は納得するのかな?」
「その後に“あなたが率いる若者たちは神聖さで光り輝く。”とあります。高齢化が進んだ今のJWにあっていませんから、信者も半信半疑でしょう。」
「かつての若者は一度も光り輝くことなく、哀れな老人になったからね。」

「4から8節が“イエスの手本に倣う”です。 4つのことが出ています。最初が“イエスは疲れていた時にも人々を助けた。”です。」
「これは、疲れたことはJW活動を休む理由にならないぞ、という組織からの脅しだね。疲れた時は何よりも休養だよ。まずそれを言って欲しね。JWが早く死ぬのも無理ないね。」

「4節に“それは,今では山上の垂訓として知られています。(ルカ 6:12-20)”とありますが、それはマタイですよ。ルカは平地の垂訓です。」
「ルカ6:17に“イエスはその人たちと共に下りてきて,平らな所に立った。”とあるから、山から下りたことになっている。場所だけでなく、イエスの教えもマタイとルカではかなり違う。それでマタイと区別するために平地の垂訓と呼ぶことがあるね。」

「5節が“家族の頭もイエスに倣っている。”で、父親は疲れ切っていても家族の崇拝を休むなと言っています。そんなことイエスは言っていませんよ。」
「父親は家族の頭と言っているのはパウロや偽パウロ書簡であって、イエスはそんなことを言っていない。マタイ10:34,35で“私が地上に平和をもたらすために来たと考えてはなりません。平和ではなく,剣をもたらすために来ました。分裂を生じさせるために来たのです。息子が父に,娘が母に,嫁がしゅうとめに逆らいます。”とイエスは言っている。」
「イエスの教えはラディカルなものだったわけですが、後継者たちがそれをより社会的に受け入れやすい保守的なものへと変えていったわけですね。」
「イエスは父親の責任とか家族仲良くなんてことは言わないよ。イエスは母親や弟や妹の面倒を見ることはしていない。」

「5節の上にある写真は父親が疲れ切って仕事から帰ってきた後、家族の崇拝をしているという内容ですが、この家族は郊外の一戸建てに住み、父親はワイシャツにネクタイという格好です。アメリカのJWの代表的な職業と言えば窓ふきなどの清掃業じゃないですか?実態に合いませんよ。」
「JWは窓ふきの仕事もスーツにネクタイという服装でしているんじゃないの?」

「6節が“イエスは自分の時間を惜しみなく与えた。”で、JWも時間を惜しまず組織のために働けということです。」
「6節に“聖書には,「[ヨハネが殺されたこと]を聞いたイエスは,独りになるために,そこから舟で静かな場所に向かった」とあります。(マタ 14:10-13)私たちは親しい人を亡くすと,独りになりたいと思うことがあるものです。”とあるけれど、違うね。」

「マタイ14:1,2で“その頃,地域支配者ヘロデがイエスの評判を聞き, 家来たちに言った。「これはバプテストのヨハネだ。生き返ったのだ。だから強力な行いができるのだ」。”とあります。つまりマタイ14章の冒頭ではヨハネは既に死んでいますね。」
「つまりマタイ14:3-12はそれ以前の話なわけで、時系列が乱れている。マタイ14:13の“それを聞いて”は14:2のヘロデの家来たちの発言を聞いてということ。イエスは身の危険を感じてヘロデから逃げようとしたということ。」

「本来なら14:2の次は14:13で、14:3-12は話が脱線したという部分ということですね。」
「14:13のギリシャ語の接続詞はde(しかし、そして、さて)だけど、これは脱線した話を元に戻すときにマタイが使うもの。」

「7節は“長老たちもイエスに倣っている。”で、長老たちも自分を犠牲にして働けと言っています。」
「“例えば,医療上の緊急事態が発生すると,医療機関連絡委員会の兄弟たちは仲間を助けるためにすぐに駆け付けます。”とあるけれど、輸血をしないように圧力をかけるため?大きなお世話だよ。これがそんなに素晴らしいことなら、JWもどんどん宣伝したらいいよ。JWになると、ど素人の長老から医学上のアドバイスが得られます、とね。」

「9から16節が“人の助けになりたいという気持ちを強めるには”です。 4つ出ています。最初は、10節の“自分を分析する。”です。」
「どう分析するかというと“介護施設に住んでいる兄弟を訪問したり,集会の時に年配の姉妹を送迎したりするよう頼まれたなら,どう反応するだろうか。大会会場の清掃や王国会館のメンテナンスに,進んで参加しているだろうか。”と自問するそうだ。これらは滅多に実行されないので、こんなことを書いているということかな?」
「コロナ下で介護施設には訪問できませんけれども、そうでなくても集会に来られなくなった人は忘れ去られるのみです。年配の姉妹の送迎をするような若いJWはだいぶ前にどこかに消えました。なんでもタダでこき使おうとするのが問題です。」
「王国会館を売却して、集会に行きにくくしたのは統治体でしょう。そのしりぬぐいを末端の信者にさせようとするのはおかしいよ。」

「11節が、2番目の“心からエホバに祈る。”ですが、おもしろいのは12節の“国によっては,援助奉仕者は長老よりも数が少なく,年齢層も高くなりつつあります。”という部分ですね。」
「援助奉仕者とは昔の“奉仕の僕”のことだろう。名前が悪いよ。長老補佐とか副長老と名称を変えたら、なり手が増えるかも。」
「英文では“middle-aged or older”(中年あるいはそれより高齢)とはっきり書いています。日本語訳ではそれをごまかしていますね。でもJWから若い人が消えつつあるということで喜ばしいですね。」
「そんな年齢でも長老になれないということは、いろいろ問題のある中年男か、あるいは長老になるほどのバカではないというとかな。」

「それでも、12節では“組織が拡大を続けているので,兄弟姉妹の助けになれる若い兄弟たちがますます必要とされています。”と強気の発言です。」
「高齢化が進んでいるので、高齢者に代わる若い兄弟たちがますます必要とされます、とは言えないわけだ。」

「13節が、3番目の“ほかの人の必要にいつも気を配る。”で、ヘブライ13:16が引用されていて、“これはとても良いアドバイスでした。それらのクリスチャンは,パウロからの手紙を受け取ってから数年後,家や仕事やクリスチャンではない親族を後にして,「山に逃げ始め」なければならなかったからです。”とあります。これはJWではヘブライ書はパウロが西暦61年に書いたものとしているからですね。」
「ヘブライ書は手紙でもないし、パウロが著者でもない。書かれた年代はもっと遅い年代。」

「13節の上に挿絵があって、“ユダヤのクリスチャンはヨルダン川の向こう側にあるペラという町に逃げた。その町に先に逃げてきていたクリスチャンが,到着したばかりの仲間に食べ物を配っている。”とありますが、根拠となる文献が書かれていません。」
「そんなことをJWに望んでも無理だろう。エウセビオスの“教会史”に書いてある。でも到着したばかりの仲間に食料を配ったなんてことは書かれていない。執筆者のご都合主義的な推測だ。」
「ペラは山の中ではないですよね。13節で、マタイ24:16を引用して“「山に逃げ始め」なければならなかったからです。”と言っていますが、合っていません。」
「そういう細かいことは気にしないのがJW。」

「エウセビオスが“教会史”を書いたのは300年頃です。ローマ軍によるエルサレムの破壊から200年以上も後です。どれくらい信用できるのですか?」
「そこには“戦争前に、啓示を介してその地の敬虔な人々に与えられたある宣託によって、都を離れペレアのペラという町に住むように命じられた。”とある。そんな宣託があったのかどうかは怪しいけれど、ペラに移住した話は、エピファニウスの本にも出ている。でもペラはペレアではなくデカポリスにある。どこまで本当かはわからないね。」

「ペラに移住した人たちはその後どうなったのですか?」
「何の資料もない。歴史から消えた。天にでも行ったんじゃないの。」
「他のユダヤ人たちが民族の命運をかけてローマ帝国と戦争をしている時に、イエスの弟子たちは安全な所に逃げて行った。ユダヤ人からすれば裏切り行為なわけで、戦争が終わったからといってノコノコとエルサレムに帰れませんよ。」
「ローマ帝国との戦争以降は、イエスの弟子たちに対するユダヤ人からの憎悪や軽蔑はさらに増していき、1世紀末にはユダヤ人共同体から排除される。JWも同じような運命をたどるかも。」

「15節が、4番目の“近づきやすい人になる。”です。そう簡単に人間は変わりませんよ。」
「要するに、この記事で勧めていることは、自分を分析し、気を配り、近づきやすい雰囲気を作るということかな?でも人を助けるにはそれだけでは不十分でしょう。」
「人を助けるだけの知恵やお金、時間、体力が必要です。それに全く触れないのは、JWの教えが現実性のない空理空論ということですね。」

「17節が“ほかの人の必要を優先することの良い結果”です。 最近は組織の言うとおりにするとこんないいことがあるよ、と利益誘導をすることが多くなりました。」
「でも、その良い結果とは“ほかの人の必要を優先する姿勢は,周りの人にも伝染します。”ということだって。しかし、周りの人に伝染するとは限らないだろう。この根拠となっているのは、ある長老の体験談だけ。」
「JWで起こりそうなのは、誰かが他の人を助けると、周りはそれにただ乗りするというパターンです。親切な人だけが苦労することになると思います。少しも伝染しません。」

「最後の18節で“現代,多くの人たちは自分中心の考え方をしています。でも,エホバに仕える人たちはそうではありません。”と偏見丸出しのことを言っているけれど、JWが自己中心的でないという根拠は何もないだろう。JWはJWの利益が最優先で、JW以外の人には全く冷淡だ。」
「最後に“イエスの手本に倣うようできる限りのことを行うなら,エホバに喜んでいただくことができ,幸せになれるのです。”と、幸せを押しつけています。個人の幸せは人それぞれ違うことがわからないようで、嫌気がします。」

#1372 2022年05月03日 15:02:05

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

原始エルサレム教会の信者たちが西暦70年の第一次ユダヤ戦争時にどうしたのかは、新約聖書にも、初期キリスト教の著作にも書いてなくて、200年以上経った後にエウセビオスがペラに逃げたと湧いて出た話のように書いていますが、同じエウセビオスによれば、いったんは逃げたユダヤ人クリスチャンはその後もエルサレム教会に所属し続け、第二次ユダヤ戦争でユダヤ人がエルサレム出禁になるまでの数十年間に初代主教のヤコブを含めて15人の主教がいたとして名前を挙げているらしいですが、同じユダヤ人からの憎悪がさらに激しくなった所へのこのこと戻って普通に教会活動していたんでしょうか。


教会史家のエウセビオスが「キリスト信仰発祥の地、最古の原始教会としてのエルサレム教会をリスペクトする意味合いで書いたエピソード」なのかどうかも含めて、どこまで本当なのかよく分からない話ですが、”背教”した時代のキリスト教の人が書いたことでも、都合のいい所だけは事実のように扱い、しかも自分たちが勝手に考えたエピソードまで付け足すところがJWクオリティですね。

#1373 2022年05月06日 14:15:34

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“「古い人格」を脱ぎ捨てることは可能です (10)”で、新しくバプテスマを受ける人向けの記事で、JWの要求事項があれこれと書かれています。」
「これからバプテスマを受けるのはJWの子どもくらいでしょう。その場合は本人の意向など無視だよ。それなのに、さらにいろいろ要求するとはひどいね。」
「バプテスマを受けるハードルをタテマエだけでも高くして、バプテスマのありがたみを高めようという意図ですよ。」
「若い皆さん、バプテスマだけは避けましょう、と言いたい。」

「1節に“エホバの証人と聖書を学び始める前の生活はどんなものだったでしょうか。 思い出すのも嫌だという人も少なくありません。”とあります。JWになる人はやはり社会の底辺であえいでいる人が多いということでしょうか。」
「そういう人は失うものがないから、気楽にJWになれるかもね。」

「3節に“私たちがバプテスマを受ける前に,「古い人格とそれに伴う習慣を脱ぎ捨て」るよう努力することを求めています。(コロサイ 3:9,10を読む。)”とありますが、違いますよね。」
「コロサイ3:9,10には“古い人格とそれに伴う習慣を脱ぎ捨て, 新しい人格を身に着けましょう。”とあるけれど、これからバプテスマを受ける人に向けて書かれたものじゃない。聖書には、バプテスマを受ける資格なんてどこにも書かれていない。この記事に書かれているのは、8人の老人が仕切っている怪しげな組織の要求に過ぎない。」

「コロサイ3:10に“新しい人格は,それを与えてくださる神の性質に沿って,正確な知識によって新しくされていきます。”とあります。新しい人格は神から与えられるもので、この記事のようにバプテスマを受けるために身に着けておくというものじゃないですよ。」
「しかも、新しい人格も身に着けたらそれで終わりというものではなく、日々新しくされていくものだよ。」

「協会共同訳では“古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着なさい。”となっていますが、人格ではなく“人”のほうが正しいのですよね。」
「“人格”というのは近代的な概念で、聖書時代にはないよ。」

「4から7節が“「古い人格」 とは何か”です。 4節に“自分中心で,怒りっぽく,感謝の気持ちがなく,自慢します。 ポルノや不道徳な映画や暴力的な映画を好んで見るかもしれません。”と古い人格を説明しています。」
「たいていの人には当てはまらないよ。JWのバプテスマを受ける人はよっぽど人格に問題がある人が多いということなんだろうね。」
「映画のことをしつこく言ってますから、映画好きの人が多いようですね。」
「6節に“エホバが,良くない考え方や習慣を除き去るよう私たちに命じているのはなぜでしょうか。”とあるから、古い人格とは、要するに“良くない考え方や習慣”というのがJWの見解なのだろ。その代表がポルノというわけで、性的なことを過度に罪悪視するJWらしいね。」

「4節の下にある挿絵が、古い人格を捨てるとはどのようなことかを説明しています。タバコ、酒、賭博、暴力的なゲームを後にして立ち去る男性が描かれていますね。旗も描かれていますがあれは何でしょう?」
「レインボー・フラッグだろうね。レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの旗。JWはそういう人たちが大嫌いということだね。」

「アメリカのベテルなどではアルコールの問題が深刻だと聞きます。統治体のモリスが高級ウィスキーが大好きなことは有名です。酒は脱ぎ去った古い人格じゃありませんよ。」
「酒はJWに許されている数少ない気晴らしだ。一般の人よりJWが酒に依存するようになるのは当然だね。でもタテマエでは酒はよくないのだろう。」

「7節にカルトらしいことが書かれています。“サタンが支配する世界や罪の影響を受けている古い人格を身に着けたままでいるか,エホバに形作っていただいて可能な限り良い人になるかのどちらかを選ぶ必要があります。”と、サタンかエホバかと、いつもの白黒論法を展開しています。」
「ありうる選択肢として、1)サタンもエホバも存在しない、2)サタンだけ存在する、3)エホバだけ存在する、という可能性も考えた方がいいよ。サタンもエホバも存在するというのが一番確率が低いでしょう。」

「8から17節が“古い人格を「脱ぎ捨て」るには”です。 この記事の主な部分です。8つの古い人格を脱ぎ捨てる方法が書かれています。」
「9節では“聖書を使って自分を分析する。”とあるけれど、聖書は自分を分析するための道具じゃないよ。本当に自分を分析したいのなら別のものがいいよ。」
「9節には“エホバはいつでも助けてくれます。それも,あなたにとって一番良い方法で助けてくれるのです。”と事実に反したことを平気で書いています。」
「JWの大好きな体験談でも、食べ物に困っていたら誰かが食べ物をくれた程度の話が多いよね。普通の人間の方が助けてくれるよ。」

「10節が“エホバの基準が一番良いものであることを確信する。”です。ここで登場するのがイーリー兄弟の話です。10代の頃はいっぱしの悪党だったけれど、バプテスマを受けてJWになったら、“心が安らかで良心も清い状態”になったという話です。」
「それはよかったね、としか言いようがない。でも、体験談は何かを証明するものではない。このような体験談は他の宗教でもたくさんある。JW特有のものではない。また、バプテスマを受けてJWになったために、精神状態が悪化したという事例もたくさんあるはず。」
「エホバの基準というのは、ニューヨークに本部のある怪しげな組織の基準に過ぎません。それを一番良いものだと確信している人は、要するにだまされやすい人ということですね。」

「11節が“エホバが憎むものを憎む。”だけど、JWには憎しみが必要ということね。」
「自分たち以外は憎むのがJWの基本的態度です。」
「11節に“それで,ノアの時代の邪悪な人たちを滅ぼしました。”とあるけれど、違うでしょう。ノアの家族と箱舟に載せた動物以外は皆殺しというのが聖書の話だよ。」
「パンダの赤ちゃんもおぼれ死んだはずです。なぜ邪悪な人たちだけを死なせなかったのでしょう?」
「神様はそういう細かな作業が苦手だったのか面倒くさかったのか、どちらかじゃないの。それで皆殺しにした。旧約聖書の神様はそんな性格だよ。JWとしては、ノアの話は寓話としたほうがいいのにね。」

「11節では“また,エホバは預言者マラキを通して,罪のない配偶者を裏切って離婚しようとたくらむ人を憎む,と言いました。”とわざわざ離婚問題を取り上げています。これからバプテスマを受けようという人は離婚するなということでしょうか?」
「そうかもね。でも聖書では離婚は認められている。それなのにマラキだけが離婚を強く非難しているのだけどね。」
「例外的なマラキをわざわざ持ち出しているのですね。」

「例えば、創世記21:12で“あの子とあなたの女奴隷についてサラが言っている事を不愉快に思ってはいけない。彼女の願いを聞き入れなさい。”と神はアブラハムに言っている。彼女とはサラのことで、サラは“あの女奴隷とあの子を追い出してください!”と要求した。つまりハガルとその子どもを追い出せと言っているのだけれど、神はそれを認めている。」
「アブラハムが一方的にハガルと離婚することを神は肯定しているわけですね。」

「11節で、マラキ2:13-16が参照聖句となっていますが、訳が悪いのか意味がよくわかりません。2:15は“しかし,そうはしない人がいた。聖なる力の残りを持っていたからである。その人は何を求めていたか。神の子孫である。だから,あなたたちも自分の内面の傾向に気を付けなさい。”ですが、何ですかこの文章は?」
「マラキ2:15,16は訳が難しい所なんだよ。協会共同訳では“主は、肉と霊を持つただ一つのものを造られたではないか。そのただ一つのものとは何か。神の子孫を求める者ではないか。あなたがたは、自分の霊に気をつけるがよい。”で、新改訳では“神は人を一体に造られたのではないか。そこには、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、自分の霊に注意せよ。”となっている。新改訳が一番いいね。JW訳は問題外。」

「その後のマラキ2:16ではエホバが“私は離婚を憎む”と言うのですが、この訳はどうですか?」
「正しくは“彼は離婚を憎む”なの。それを“私”と主語を変えて訳している。これが伝統的な訳だね。本来のヘブライ語をそのまま生かすと、“彼は憎み、離婚する。”という訳になる。新改訳では“妻を憎んで離婚するなら”と訳しているけれど、この訳がいいね。」
「エホバは離婚を憎むとは言っていないわけですね。それなのに主語を勝手に変えて訳することが行われている。」
「旧約聖書の中には何を言っているのかよくわからない文があって、その場合意味が通るように変えるわけだ。写本のミスとみなすわけだね。でもそれが正しいかどうかはわからない。」

「13節が“良くない考えを退ける。”、14節が“話す言葉に注意する。”、15節が“きっぱりとした行動を取る。”、16節が“間違った欲望と闘い続ける。”、17節が“助けを求めてエホバに祈り,自分の力ではなく聖なる力に頼る。”で、これらを実行すると、古い人格を脱ぎ捨てられるようです。」
「興味深いのは16節だね。そこにはマウシリオ兄弟の話が出ていて、“若い頃から同性愛行為をしていましたが,やがてエホバの証人と出会い,聖書を学び始めました。そして,生き方を変え,2002年にバプテスマを受けました。”とある。同性愛の人をJWは排除していないことを示したのだろう。」

「ものみの塔の2011年11月号の“性に関する10の質問とその答え”で、“真のクリスチャンが同性愛者を毛嫌いすることは決してありません。”といっています。嫌っているのは同性愛行為と主張しています。」
「児童性的虐待は嫌っていると主張するけれど、性犯罪者を保護し、警察にも通報しないのがJWだから、そうなのかもね。」

「17節にナビハ姉妹の話が出ています。“たばこをやめるために1年以上闘い,ようやくやめることができました。”とあり、バプテスマを受けるならタバコをやめるようにということですね。」
「この姉妹は元麻薬の売人で、刑務所内でJWと出会ったらしい。JWにはこういう人が多いのかな。こういう人でもJWとして戸別訪問させるのは、一般の人から反発を招くような気がする。」

「この姉妹がタバコをやめられたのは、“何よりも,やめられるよう絶えずエホバに祈ったことです”と言っているのですが、薬物依存の問題をあまりにも安易に考えていませんか?」
「この記事では麻薬のことは何も言っていない。麻薬常用者だったという可能性も高い。麻薬の問題は祈ったくらいで解決できないよ。JWの問題は適切な専門家に相談させずに、祈ればなんとかなると誤ったことを言って、症状を悪化させることだね。」

#1374 2022年05月13日 14:03:49

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“バプテスマを受けた後も「新しい人格」を身に着ける努力を続ける(11)”で、イエスに倣えといいながら、実際は組織の言いなりになりましょう、といういつもの内容です。」
「先週は古い人格で、今週は新しい人格ね。」

「3,4節が“「新しい人格」とは何か”です。 新しい人格を身に着けた人は“エホバに倣った考え方や行動をします。さらに,聖なる力が生み出すものを表し,考え方や感じ方や行動が聖なる力に導かれるようにします。”とあります。要するに組織の命令を聖なるものと思い込んで、忠実に実行するロボットになるということですね。」
「そして“さらに,聖なる力が生み出すものを表し,考え方や感じ方 や行動が聖なる力に導かれるようにします。(ガラテア 5:22,23を読む。)”と続く。この文中に“聖なる力”が2回出てくるけれど、英文ではGod’s spirit(神の霊)とholy spirit(聖霊)だよ。翻訳者は日本のJWから霊というものを排除し、アメリカのJWとは違った宗教を目指しているようだ。」

「読むように指定されているガラテア5:22の訳も“聖なる力が生み出すものは”ですが、英語版では“the fruitage of the spirit(霊の果実)”です。霊=聖なる力という公式は成立しませんよ。日本のJWだけの特殊な思想ですね。」
「このようなことは他の国でもきっとあるよ。教義を多少変えても、統治体に表立って逆らわなければ問題ないとされるのだろう。」

「霊の実の中に、JW訳では“信仰”が入っているのですが、協会共同訳では“誠実”です。信仰は間違いですか?」
「誤訳だね。霊の実では、“愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰, 温和,自制”と、人とどうかかわるかに関する倫理的な徳目を並べている。この中で信仰だけが仲間外れの概念となる。信仰ではなく誠実か忠実と訳すべき。」

「3節で“例えば,エホバやエホバに仕える人たちに愛を示します。”と“愛”について説明しています。JWの理解では、愛は自分たちの仲間限定ということがよくわかります。」
「自分たちとそれ以外の人たちとの間に線を引いて、自分たちの側にいなければ敵視するというのがカルトだよ。JWもそのような宗教ということ。」

「4節では“新しい人格を身に着けるためには,ガラテア 5章22,23節やほかの聖句に挙げられている性質をどれも身に着ける必要があります。”と無茶な要求をしている。これは誰も実行できないから、誰も新しい人格など身に着けていないという結論になる。」
「そういうことで、今週はここで終わりでいいんじゃないですか。」
「過大な要求を信者にして、罪悪感や無力感を抱かせるのがカルトのやり方。そして組織に依存させるわけだね。」

「5から15節が“どうすれば新しい人格を身に着けられるか”です。 5節で“コリント第一 2:16を読む。新しい人格を身に着けるためには,「キリストの考えを知」る必要があります。”と言っていますが、へんですよ。」
「その聖句は新しい人格とは何のつながりもない。“つまり,イエスの考え方について学び,それに倣う必要があるということです。”という結論に持って行くために執筆者が勝手に結び付けているだけ。」
「コリント一2:16は“私たちはキリストの考えを知っています。”ですが、英語訳ではwe do have the mind of Christ.です。mindを“考え”と普通は訳しませんよね。」
「協会共同訳では“私たちは、キリストの思いを抱いています。”だ。こっちの方がいいね」

「5節の前に“イエスの考え方に倣うなら,イエスのような人になることができる。”と説明している挿絵があるのですが、先週の古い人格を脱ぎ捨てるの続編みたいな挿絵です。」
「先週では、上着を脱ぎ捨てていたけれど、今週の挿絵ではスーツを着ている。新しい人格を身に着けようと思えば、スーツを着る必要があるというメッセージだね。」
「JWの服装に対する考え方は、1950年代アメリカの白人ビジネスマンをモデルにしているということですね。」
「このJWスタイルはいつまでも変えないでほしい。真夏でもネクタイをして伝道していれば、JWのバカバカしさが一目でわかる。」

「6節に“愛情深いお父さんであるエホバは,地上で永遠に生きる希望を持つ人たちが,1000年間をかけて完全な人になれるようにしてくださいます。(啓 20:1-3)”とあるのですが、聖句の誤用ですよ。」
「そこには“1000年が終わるまで竜がもはや人々を惑わさないようにした。”とあるけれど、その間に人間が完全な人になるなんてどこにも書いていない。JWが考えた教義だよ。記事の中に、必要もないのにさりげなくインチキ教義を紛れ込ませて、信者の頭に刷り込ませるという作戦だよ。」

「7節から、見習うべきイエスの4つのことが出ています。愛、平和、親切、善良さです。それぞれについて自問するように求めています。」
「その質問が的外れだよね。9節に“ほとんどの人に喜ばれないとしても,あるいは反対されるとしても,伝道を続けるだろうか。人々を弟子とする活動にもっと多くの時間を用いることができないだろうか。”という質問が出ているけれど、これはなんと愛に関する質問なんだ。これは単に、無給の宗教拡張員としてもっと働きますか、という質問に過ぎないよ。」
「でも、組織も伝道活動が多くの人に喜ばれていないことを理解しているようで安心しました。」
「それでも伝道=迷惑行為とはならず、伝道=愛の行いというJW公式は変えないようだね。」

「10節に“イエスは平和をつくる人でした。”とありますが、そうとは言えませんね。マタイ10:34、35には“私が地上に平和をもたらすために来たと考えてはなりません。平和ではなく,剣をもたらすために来ました。 分裂を生じさせるために来たのです。息子が父に,娘が母に,嫁がしゅうとめに逆らいます。”とありますよ。」
「その聖句は無視ということだね。」

「イエスの時代では父母を敬えというのが常識的な見解なのに、イエスは、その逆のことを自分はもたらすと言っているわけですから、社会を変えようとしていると読めますね。」
「イエスのオリジナルの主張はかなり過激なものだったと推測される。それを弟子たちが多くの人に受け入れやすいように和らげてしまい、かなり改変されたものが福音書にイエスの言葉として書かれた。それで、イエスのオリジナルの発言を復元することが重要な研究テーマになっている。」

「11節に“相手が謝ってくるまで何もしないだろうか。それとも,相手が悪いと思える時にも,自分の方から仲直りしようとする だろうか。”と自問せよとあります。全く嫌になります。自分が悪くなくても、謝らなくてはいけないみたいです。」
「でも統治体は自分たちの数々の失態について謝らないよ。平和のために卑屈にふるまえというのは末端の信者だけ。ひどいダブルスタンダードだ。」

「12節に、イエスが親切だった例として、マタイ15章のフェニキア人女性に対する振る舞いが出ています。“女性の大きな信仰を見て,親切に娘を癒やしました。”とありますが、この場面のイエスは親切じゃありませんよ。」
「マタイ15:26に“イエスは答えた。「子供たちのパンを取って小犬に投げ与えるのは正しくありません」。”とある。イエスはフェニキア人女性を子犬にたとえている。これって現代人から見ればかなりひどい発言だし、癒したのは親切心というより、フェニキア人女性に言い負かされたから。」

「その女性は、イエスの発言を受けて“そうです,主よ。けれど,小犬も主人の食卓から落ちるパンくずを食べます。”と言い返していますね。子犬だってパンくずを食べるように、自分たちも癒しを受けていいのでは、と言ったわけですね。」
「イエスは一本取られたと思ったけれど、そうは言えないので“素晴らしい信仰です!”と胡麻化しただけだよ。その時イエスは相当飲んでいたんじゃないの。」

「13節に“家族や友人に本物の親切を示すためには,助言を与えなければならないこともあります。”と、うさん臭いことが書いています。JWは助言と称して、他人に干渉するのが大好きなだけです。」
「13節で“家族や友人が間違ったことをしていることに気付いたなら,勇気を持って注意するだろうか。”と自問するように言っている。“間違ったこと”というのがJW基準での間違ったことにすぎない。つまりJWの偏った正義感を振りかざして、それを他の人に押し付けろというわけだ。常識のあるJWならそんなことはしない方がいいことぐらいわかるよ。」
「相互に監視しあうのがカルトじゃないですか。」
「本物の親切を示すためには、家族や友人の悪行を密告しなくてはなりませんと書いていないのが不思議だね。」

「14節に“善良な人は,どうすれば人の助けになれるかということをいつも考え,それを実行します。”とありますが、そんな人はいませんよ。そんなことを言っていたら、JWに善良な人は一人もいないことになります。」
「これは誤訳というより、てきとう訳かな。“The quality of goodness becomes evident by the effect it has on others. It is an active quality that we can manifest by doing helpful deeds.”という結構長い2つの文なのに単純化している。ここでの論点は善良さの質(quality) なのに、訳文では質という言葉さえ出てこない。翻訳者には難しすぎる英文だったので、自分で適当に創作したように見える。」

「14節には“正しい動機で善いことを行う必要があります。”とあるのですが、ハルマゲドンで滅ぼされたくないからJWでいる、というのは正しい動機なんですか?親が激怒するからJWでいる、というのも正しい動機なんですか?」
「それを正しくない動機と言ったら、JWのほとんどが正しくない人になってしまう。恐怖がカルトを支える原動力というのは常識だ。JWも恐怖をあおり続けて150年もちこたえた。」

「16,17節が“どうすれば新しい人格を良い状態に保てるか”です。 どうも人格=服のようです。16節には“この“新しい服”を良い状態に保つ必要があります。”とあります。服は毎日着ていれば数年でダメになりますよ。JWの新しい人格もバプテスマを受けて最初の数年間だけしかもたないということですね。」
「よい状態に保つ方法と言っても、書かれているのは“努力する”、“諦めない”の二つだけ。要するに、それ以外のよい状態に保つ具体的な方法は執筆者には思いつかなかったということだね。」

「17節の例えがくだらないです。“例えで考えてみましょう。お気に入りの服が破れてしまった場合,それをすぐに捨ててしまうでしょうか。そんなことはしないはずです。”とあります。破れの程度によっては、すぐ捨ててしまう場合もありますよ。」
「貧乏なJWの一つしかないスーツが破れてしまったケースを想定しているんだよ。捨てたくても捨てられないから、みっともなくても直して着るしかない。悲しいね。」
「スーツを破れたのを機に、スーツを強制するJWをやめるのがベストですよ。」

#1375 2022年05月20日 14:23:41

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“あなたはゼカリヤが見たものを見ていますか (12)”で、ゼカリヤ4章の幻を取り上げるものの、組織のために文句を言わず死ぬまで働けという、いつもの内容です。」
「最初の4節はエズラ書が取り上げられているけれど、ペルシャ帝国の時代は、バビロニア帝国の時代に引き続いてJWが歴史を捏造しているので、古代史に多少の知識がある人はついていけない。」
「JWという自称・真の宗教は歴史を捏造しないと成立しませんから。」

「2節に“紀元前537年,バビロン捕囚から帰還した人たちの第1陣が,南のユダ王国の首都だったエルサレムに到着しました。”とあるけれど、なぜ前537年に帰還したとするのか何の根拠もない。」
「前607年にエルサレム滅亡という噓の歴史とエレミヤの70年の整合性を保つために、前537年に決めただけです。」

「3節に“ユダヤ人は神殿の再建を始めましたが,すぐに激しい反対に直面しました。周辺の国々の人たちが,「絶えずユダの民の士気をくじき,建てる意欲を失わせようとした」のです。(エズ 4:4)”とある。これだとユダヤの“周辺の国々の人たち”の多くが神殿再建に反対したかのように誤解を与える。反対したのはサマリア人だよ。他の人々はユダヤ人の神殿には何の興味もない。」
「引照聖句のエズラ4:4では“それで,その土地の人々は絶えずユダの民の士気をくじき”とありますが、日本語訳がへんですよ。英文では“Then the people of the land were continually discouraging  the people of Judah”で、“the people of Judah”が“ユダの民”なら“the people of the land”は“その土地の民”とすべきですよ。」
「反対するものが大勢いたという印象を与えたいのだろう。反対されることが真の宗教の証拠だとJWは思っているようだから。」

「“その土地の人々”の元のヘブライ語はアム ハーアーレツで、しばしば”地の民”と訳される言葉ですよ。」
「その単語は旧約聖書では70回くらい出てくるけれど、いろいろな意味で使われている。エズラではユダヤの地に住む非ユダヤ人、特にサマリア人を指す。」

「3節に“紀元前522年にアルタクセルクセスがペルシャの王になりました。*”とある。*には“何十年も後,ネヘミヤが総督だった時代に王だったアルタクセルクセスは別人で,ユダヤ人に対してとても親切でした。”とある。どんな本を参考にしたのか知らないけれど、意味不明だね。」
「“洞察”でアルタクセルクセスの所を見てみると“エズラ 4章7節を皮切りに,「アルタクセルクセス」として言及されている支配者は,バルディヤかガウマータのどちらかです。その支配はわずか7か月間(西暦前522年)続いたにすぎませんでした。”と説明しています。」
「歴史ではアルタクセルクセスⅠの在位は前465-424で、エズラ記の時代と合わないので、勝手に別の王に変えたわけだ。」
「聖書が史実通りと主張するために、年代を変えたり、王の名前を変えたりと歴史の方を変える必要があるのですね。聖書には歴史上の間違いが多いですからね。」

「エズラ4:6に“アハシュエロスの治世の初めには,ユダとエルサレムの住民を訴える書状を記した。”と、アルタクセルクセスの前の王を“アハシュエロス”としているけれど、これはクセルクセスのヘブライ語訳。つまりクセルクセスなの。」
「確かに協会共同訳では“クセルクセスの治世下”となっています。JWはエズラ記の矛盾をごまかすためにクセルクセスと訳したくなかったのですね。」

「歴史ではダリウス1世→クセルクセス一世→アルタクセルクセス一世という順。ところがエズラ書4章ではクセルクセス一世→アルタクセルクセス一世→ダリウス1世となっていて、おかしなことが書いてあるというのが一目瞭然なわけだ。」
「それでアハシュエロス→バルディヤかガウマータ→ダリウス一世として、おかしさがよくわからないようにと胡麻化したわけですね。でもアハシュエロス=クセルクセスと知っていれば胡麻化されないわけです。」
「JWは聖書をなんとか史実に合わせようと、姑息なことをしているということだね。」

「6から8節が“反対に直面する時”です。 ゼカリヤ4章のランプ台と2本のオリーブの木の幻の話で、その結論は反対されてもJWを続けろというものです。ゼカリヤと何の関係もないですよ。」
「8節に“ですから,反対に直面するとしても諦めてはいけません。勇気を出してください。エホバが共にいて聖なる力を与えてくださるのですから,何も恐れる必要はありません。”と言っている。古代の神殿再建では神様は力を与えてくれたかもしれないけれど、現代のJWに力を与えてくれるとは聖書のどこにも書いていないよ。」

「古代の話を無条件に現代のJWに当てはめるというのが、ものみの塔の執筆方針です。それだけです。」
「6節に“ゼカリヤが,「これらのものは何を表しているのでしょうか」と尋ねると,天使はこう答えました。「『軍隊によるのでも,人間の力によるのでもなく,私の聖なる力によるのである』と大軍を率いるエホバは言う」。”とあるけれど、これはゼルバベルへの言葉とゼカリヤ4:6にある。だからJWとは何の関係もない。」

「6節の上にランプ台の挿絵が出ています。この絵は正しいのですか?」
「ローマにある皇帝ティトスの門のレリーフに、戦利品としてローマ軍に持ち去られるエルサレム神殿の燭台が描かれている。それに基づいた絵だね。でもゼカリヤ書にあるランプ台とは違うと思うよ。」
「ゼカリヤ4:2に“台の上には7つのランプがあります。7つです。台の上にあるランプには7本の管が付いています。”という部分ですが、各ランプに7つの管がついているという意味じゃないですか?全部で49の管があるという構造ですよ。挿絵では7つしかありません。」
「7は聖書の中では完全数だから、7の7倍あるとしたほうがオイルが途切れることなく注がれるということをよりあらわす。挿絵では7本しか管がないけれど、たくさんの管を描くのが面倒だったからじゃないの?」

「9から12節が“変化を経験する時”です。 ゼカリヤ4:8-10を取り上げます。10節に“天使はどういう意味で,ユダヤ人は「[総督]ゼルバベルの手に下げ振りがあるのを見て,喜ぶ」と言ったのでしょうか。”とあります。“下げ振り”という訳でいいのですか?」
「元のヘブライ語の訳は難しい。ゼカリヤ4:7に“彼が頭石を持ってくると,「素晴らしい! 素晴らしい!」という叫び声が上がる”とあるけれど、この石のことという解釈が有力。つまり神殿の完成を示す儀式で、最後に据えられる石のこと。英語の聖書ではthe chosen capstoneと訳しているものがある。“下げ振り”という訳はギリシャ語訳の“錫の石”に基づいた訳。」
「10節の下に挿絵が出ていますが、これは間違いという可能性が高いということですね。」

「そもそもゼカリヤ4:10全体が訳するのが難しい。JW訳では“小さな始まりの日を軽く見たのは誰か。民は,ゼルバベルの手に下げ振りがあるのを見て,喜ぶ。エホバの7つの目もそれを見る。その目は地上全体に行き届いている。”となっているけれど、これだと何を言いたいのかよくわからない。」
「協会共同訳では“誰がその日をささいなこととして蔑んだのか。/彼らは喜び/ゼルバベルの手にある下げ振りの石を見る。/これら七つのものは/すべての地を巡る主の目である。”となっていますが、これも前半と後半のつながりがよくわかりません。」

「10節に“エホバが再建された神殿を喜ぶのであれば,ユダヤ人も同じように喜ぶべきでした。”とあるけれど、エホバが喜ぶとは書いていないよ。民が喜ぶとあるだけ。」
「その後“エホバにとって重要だったのは,再建された神殿でご自分の基準を満たす崇拝が行われることです。”と続きますが、その根拠となる聖句はありません。」
「執筆者の創作だね。」

「11節は現代のJWの話に変わります。“特別全時間奉仕を長年行ってきた人が割り当ての変更を経験することがあります。また,一定の年齢になると,それまで大切にしてきた奉仕の立場から離れなければならなくなるかもしれません。”と、リストラされても、不平不満を言うな、という悲しい話です。」
「12節で“組織の決定によって何かの変化を経験するとしても,その理由についてあれこれ考えないようにしましょう。”と言っている。組織の衰退がリストラの原因だけど、JWは真の宗教として発展し続けるという建前だから、考えないように言っているのだろう。」
「よくない方向に変化した場合、どうしてだろうと考えるのが普通です。何を考えるかまでコントロールする宗教っておかしいですよ。」

「12節に“「昔の方が良かった」と思うのではなく,良い面を探すことができるようエホバに助けを求めて祈りましょう。(伝 7:10)”とあるけれど、JWの実感としては昔の方がよくて、今は衰退期ということなんだ。それから引照聖句は、よい面を探そうとは言っていない。」
「伝道7:10は“「昔の方が良かった」と言ってはならない。そのように言うのは知恵のあることではないからだ。”ですが、これは伝道の書の思想では、昔と比べて新しいことなどなにもないからですよね。」
「伝道1:10で“何かについて「これは新しい」と言えるだろうか。それはずっと昔からあった。私たちの時代よりも前からあった。”と言っている。だから、昔の方がよかったというのは知恵のあることではないわけだ。」

「JWのような終末論宗教は、昔はよくて、今はひどい時代だと言い続けています。やっぱり知恵がない宗教ということですね。」
「12節にまとめとして“ゼカリヤが見た幻から,前向きな見方を持つことの大切さが分かります。”とあるけれど、これは初めから用意していた結論だね。この結論に導くためにゼカリヤの幻を利用しているだけだ。」

「13から16節が“指示に従うのを難しく感じる時”です。 14節に“この幻の中で,天使はゼカリヤに対して,2本のオリーブの木は「2人の選ばれた者」を表していると述べました。つまり,ヨシュアとゼルバベルのことです。”とゼカリヤの見た幻を説明した後、“ユダヤ人は2人から与えられるどんな指示にも信頼を置いて従うべきでした。”とかなり危ないことを言っています。」
「カルト丸出しの指導者に対する盲目的服従の要求だね。そして現代のJWも統治体に盲目的に従えという結論に持っていくわけだね。」

「いきなりそうなるとまずいと思ったのか15節で“現代,エホバは私たちを導くために聖書を用いています。”とワンクッション入れます。一応聖書を読むことを勧めています。」
「でもその結論は“エホバが教えてくださっていることを時間を取ってじっくり考えるなら,エホバからの指示に従い,伝道活動を最後までやり遂げることができるでしょう。”だよ。無給の宗教拡張員への道しかないようだ。」

「16節でやっと“忠実で思慮深い奴隷”の登場です。“時には,奴隷から与えられる指示をよく理解できない と思うこともあるかもしれません。”と、不可解な指示が出ることをあらかじめ言っています。でも“神の民は,理解できないような指示を与えられることがありましたが,それに従った時,命を救われました。(裁 7:7; 8:10)”と言っています。理解できない指示でも従うのが正しいJWということです。」
「引照聖句では“エホバはギデオンに言った。”とある。でも統治体の8人はギデオンのように神様の声を聴けるわけじゃないよね。そんな統治体の理解できないような指示に従うと、ろくな結果にならないことは、長年JWをやっている人はわかるよね。」

「16節の質問は“「忠実で思慮深い奴隷」からの指示をよく理解できないと思う時,それに従う上で何が助けになりますか。”です。答えは“ユダヤ人がヨシュアやゼルバベルから与えられた指示に従った時,どんな良い結果になったかを考えることができます。”というものです。つまり結果が大事ということです。ということは、統治体の指示に従った時、どんなひどい結果になったかを考えると、従わない方がいいということになりますね。」
「数年前にロシアに抗議の手紙を実名入りで送れというのがあったけど、どんな良い結果になった?ロシアが世界中のJWの個人情報を集めるのを助けただけ。」

「16節に“また,忠実で思慮深い奴隷は感染症対策の面で慎重すぎる,と感じることもあるかもしれません。”とあります。これはそんな意見が寄せられていたということですよね。」
「コロナによるJWの死亡者数は2万数千人。高い死亡率だということを知らせれば、“慎重すぎる”という批判は引っ込むよ。でもそれは統治体の無能と組織が神に守られていないことを示すのであまり言いたくないだけだよ。」

「最後の17,18節が“ゼカリヤが見たものを見る”です。 まとめですね。16節で終わらせることはいけないようで、2節分水増ししただけです。」
「18節に“ゼカリヤが見たランプ台と2本のオリーブの木の幻は,私たちにとっても,大いに助けになるものです。この記事で考えた通り,それは問題に立ち向かうための力や変化に順応するための喜びを得ること,また,理解しにくく思えるような指示に従順に従う上で必要な信頼を培うことに役立ちます。”とまとめているけれど、ゼカリヤの幻からはそんな教訓はくみ取れないよ。」
「力、喜び、信頼が太字になっていますね。この3つが得られると言いたいのでしょうが、そんなことはありません。結論は、いつもと同じで、無給の宗教拡張活動をもっとやれ、ということですから、無力感、苦しみ、不信感が得られるだけです。」

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