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#1301 2021年04月09日 15:27:01

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“女性の頭は男性で[す] (6)”で、アホな夫でも妻は従え、問題を起こすなという内容です。」
「性差別を聖書から正当化しようとしているわけだけど、現代とは全く違った社会制度だった大昔に書かれた文書を神の言葉と神聖視することに無理があるね。」
「現代に聖書を生かすとしたら、一字一句にこだわるのではなく、基本的な精神にこだわるべきです。」
「その方がおおらかで幅のある宗教になれるけれど、JWには無理だよ。」

「1節に、結婚しようと思っているJWの女性は相手の男性について、“この兄弟が家族の良い頭になると思えるのはどうしてだろう。エホバに仕えることを生活の中で第一にしているだろうか。そうでないとしたら,結婚後にエホバとの絆を保つよう家族を助けてくれるだろうか”と考えなさいとあります。こんなことを考えて結婚したらダメですよ。」
「結婚に当たっては、この人と結婚したら自分は幸せになれるかどうかを考えるべき。幸せになれるなら、それ以外は大した問題じゃないよ。」
「JW的に正しい選択より自分にとって良い選択を、ということですね。」
「JW的に正しい選択が幸福につながらない悪い選択ということがよくある。例えば進学に関する選択だ。JW的に正しくなくても幸福につながる良い選択を選ぶべき。それを許さないのがカルトなんだけどね。」

「3から7節が“クリスチャンの妻はどんな問題にぶつかるか”です。文化の問題が出ています。4節は男女平等的な文化、5節では女性蔑視的な文化を取り上げ、その中で暮らすJW女性の声を紹介しています。」
「アメリカのような国では、JWは女性差別的で問題だし、南米やアジアの国では、JWは家にいるべき女性を伝道と称して町の中をうろつかせることが問題なようだね。どこかの国みたいに女性差別的だけれど、適度に女性の自由も認めるという国がJWに向いている。」

「8から11節が“進んで従うのはなぜか”です。8節に“クリスチャンの妻が夫に進んで従うのは,エホバからそうするよう求められているからです。(エフェソス 5:22-24を読む。)”とあります。そして“エホバが求めている通りにすれば,必ず自分のためになります。”といっています。」
「聖書に書いてあることは絶対正しいし、良いことだというわけだ。でも必ずしもそうじゃないでしょう。」
「例えばアルコール依存症の暴力亭主の場合はどうすればよいのでしょうか?そんな夫でも従うのが聖書的には正しい?」
「JWだとそうだろう。エフェソス5:24は“妻も全ての面で夫に従うべきです。”といっている。JWでは夫の暴力は離婚の理由にならないよね。あざだらけで骨折していても、エホバが求めている通りにするのが自分のためになるらしいよ。」
「JWは聖書的正しさのためには、幸福かどうかは無視ですね。だから不幸になる。」

「パウロは女性の従属性を主張しているけれど、当時の社会状況に合わせているだけで、現代に生きていたらそうしなさいとは言わなかったと思うよ。」
「パウロは、ガラテア3:28で“ユダヤ人もギリシャ人もなく,奴隷も自由民もなく,男性も女性もありません。”といっていますが、社会革命を目指しているわけではないので、現状維持的だったわけですね。」
「1世紀もクリスチャンになるのは女性が多かったようだ。その場合、夫はまだクリスチャンではない。パウロとしては夫もクリスチャンになって欲しいので、夫に従えという説教になる。また、クリスチャン女性に対する不当な評価を避けるためにも、社会通念に合わせた主張になる。」
「パウロの伝道戦略や信者と周囲の人との摩擦を避け不必要な迫害を避けるという観点から、当時の社会状況に合わせた主張になったということですね。」
「現在は“男性も女性もありません。”と言うパウロの理想を実現すべき時代で、夫と妻の関係について宗教が細々と介入すべきではないでしょう。」

「引用されているエフェソスは、偽パウロ書簡ですよね。本当の作者はパウロではない。」
「エフェソス1:1に“神の意志によってキリスト・イエスの使徒となったパウロから,エフェソスにいる,キリスト・イエスと結ばれた忠実な聖なる人たちへ。”とあるけれど、作者はパウロではないし、あて先もエフェソスではなかった。シナイ写本やバチカン写本など重要な写本に地名はない。つまりエフェソスという地名は後からの挿入。コロサイをもとにして、改変した部分が多いのだけど、コロサイも偽パウロ書簡だから、ニセ・ニセパウロ書簡だ。」

「この記事で引用されているエフェソス5章などは、コロサイ3章をもとにしていますよね。」
「コロサイ3:18では“妻の皆さん,夫に従ってください。それは主に従う人にふさわしいことです。”と簡単に書いている。しかしエフェソスではコリント一11:3の“全ての男性の頭はキリストであり,女性の頭は男性であり,キリストの頭は神です”を援用して、妻が従うべき理由を書き加えている。エフェソスの作者はコロサイ3:18では不十分と考えたんだろう。」
「エフェソス5:23では“夫は妻の頭だからです。キリストが会衆という体の頭”となっていますから、コリント一をかなり改変していますね。キリストは男の頭から会衆の頭になっています。」
「それは、コリント一7:32-34の“結婚していない男性は,どうすれば主に喜ばれるかと,主の事柄に気を使います。 一方,結婚している男性は,どうすれば妻に喜ばれるかと,世の事柄に気を使い,2つに分断されます。”に見られるような、結婚に否定的なパウロの見解をエフェソスの著者は修正したかったからと考えられている。夫婦関係は会衆とキリストの関係のようなものであり、会衆に所属している夫婦はキリストに喜ばれる存在で、パウロの言うようにクリスチャンは結婚かキリストのどちらかを選ばないといけない存在ではない、と修正している。」

「9節で“エホバが自分の大切な娘たちに女性の尊厳が傷つくような命令を与えるはずがありません。”といっていますが、そんなことはないですよね。」
「旧約聖書の神様は徹底した女嫌い。祭司は男だけ。レビ15:19では“女性は月経のために血の流出がある場合,7日間汚れている。その女性に触れた人は夕方まで汚れた人となる。”とある。生殖の仕組みを作ったのは神様なのに汚れているなんておかしいよ。しかも、その女性に触れた人も汚れるなんて、女性の尊厳を酷く傷つけているよ。」
「民数記5章には、夫が妻の浮気を疑った場合に祭司の所に行って苦い水を飲ませるというバカバカしい浮気判定法があるのですが、その逆のケースについては何の規則もありませんし、妻が無実とされた場合の補償もありません。女性の尊厳を傷つけています。」
「こういうのはたくさんあるから次に行こう。」

「10節に“妻は,完全でない夫に従うことによって,頭という立場を定めたエホバへの愛と敬意を示せます。”とあります。JWの妻はこう思ってアホな夫の横暴に耐えるしかないということですね。」
「JWの妻は夫に従うのは宗教的な修行と思うしかないね。そうすることによって神を賛美しているのです、と屈折した価値観を持つしかないわけだ。」

「11節に“進んで許すなら,夫に従いやすくなるでしょう。”とあります。JW倫理の典型です。」
「人間関係に上下関係をもち込み、下の人間が上の人間の横暴や過ちを許すべきだとする。上の人間にはお咎めなし。被害者を救済するのではなく、被害者に寛大さや許し求めるのが倒錯したJW倫理。」

「12から22節までが“聖書中の手本から何を学べるか”です。イエス、アビガイル、マリアが取り上げられて、ものみの塔によくある話が続きます。聖書の内容と教訓があまり一致しないのもいつものことです。」
「14節に“賢い夫も,妻にある程度の権限を与えます。”とある。笑えるね。夫と言うだけでそんなに偉いのか。妻が働いてくれるおかげで生活ができている夫婦はたくさんあるでしょう。」
「執筆者は古代の家父長制度の夫婦を頭に思い描いていますね。」
「引照聖句に格言3:15があって、有能な妻は“召し使いの女性たちにも割り当て分を与える。”とある。ここで想定されている家族は裕福で使用人をたくさん雇っている家族。現代のJW夫婦の参考にはならないよ。古代の裕福な夫婦ではなく現実のJWの夫婦に基づいて論じるべきでしょう。」

「16節はアビガイルを扱っています。“アビガイルの夫のナバルは,自分勝手で高慢で恩知らずな人でした。それでもアビガイルは,結婚を終わらせて楽な道を行こうとはしませんでした。”とありますが、へんですよ。」
「古代の女性がそう簡単に離婚なんかできないよ。ここでは現代人と混同しているんじゃないの。」
「離婚しなくても、ナバルは都合よく死にましたよね。」
「サムエル一25:37、38に“朝になり,ナバルの酔いがさめると,妻アビガイルはあったことを伝えた。すると彼の心臓はまひし,彼は石のように動かなくなった。約10日後,ナバルはエホバに打たれて死んだ。”とある。現代なら、アビガイルは夫殺しで逮捕されるよ。聖書ではショック死したように書いているけれど、恐らく毒殺だよ。」
「アビガイルはその後すぐにダビデの妻になりますからね。ナバルの死によって、最も得をした人物が犯人という可能性が高いです。」
「アビガイルは25:3で“機転が利く美しい人”とあるし、勇敢で行動力もある。酔っぱらっている夫を殺すなど簡単だったろう。」

「JW訳の“心臓はまひし”はおかしいですよね。麻痺したら10日間も生きません。」
「文字どおりは“心臓は彼の中で死に、石のようになった。”なんだけど、現代の医学的知識を前提に解釈したのがJW訳だね。心臓が血液の循環を担っていて、それが停止すると死ぬというような知識は古代イスラエルにはない。サムエル一17:32に“ダビデはサウルに言った。「あの男のせいで士気が下がることがありませんように。”とあるけれど、文字どおりは“心臓を失うことがないように”と言っている。」
「心臓は勇気などを作り出す所という理解なわけですね。」
「そうだとすると、“心臓は彼の中で死に”はすっかりおびえてしまったと解釈することができる。“石のようになった”のも恐怖でおびえた姿を現しているとも読める。」
「つまり、心臓まひで、石のように動かなくなったというJWの解釈は現代的過ぎて疑わしいということですね。」
「ゴリアテは石に打たれて死んだけれど、ナバルは心臓が石のようになって死ぬというわけで、作者のユーモアかもしれない。」

「18節で、アビガイルの話から学べることとして、“エホバへの愛と敬意があるので,聖書に沿わない方法で結婚を終わらせようとはしません。”といっています。見当はずれな教訓ですね。」
「アビガイルの教訓は、バカな夫に従っているだけだと悲惨な目に合うから、自分で考え行動せよ、だろう。夫の名前はナバルだけど、“愚か者”という意味だからね。」

「20節では、イエスの母マリアを取りあげて“聖書の言葉をよく知っていました。バプテストのヨハネの母エリサベツとの会話の中で,ヘブライ語聖書の表現を20以上使いました。(ルカ 1:46-55)”と、マリアが聖書に詳しい女性と言っています。」
「ルカのその部分は会話じゃないよ。“マニフィカト”と呼ばれる詩。サムエル一2章にあるハンナの詩をもとに、12以上の聖句をちりばめて作られている。当時のマリアは十代前半の無学な娘。こんな詩がつくれるわけがない。福音書の作者がつくったんだよ。“マニフィカト”はバッハの曲が有名で、クリスマスシーズンになるとよく演奏される。」

「20節では“エホバの天使は,マリアがヨセフと婚約していたにもかかわらず,まず ヨセフではなくマリアに現れ,神の子を産むことになるということを直接伝えました。(ルカ 1:26-33)”とありますが、それはルカをもとにした場合で、マタイでは違いますよね。」
「マタイをもとにすれば、ヨセフがマリアの妊娠を知って、婚約解消をしようと思っていたら天使が現れた。マリアについては何も触れていない。マタイとルカを二つ合わせれば、マリアの方が先に天使が現れて、その後ヨセフという順序だろうけれど、福音書は独立したものなんだよね。」

「21節はマリアの話しから夫が学べる事なのですが、“妻が夫より高い教育を受けているとしても,家族で聖書を学ぶことをはじめ,崇拝の面で家族を引っ張るのは夫の責任です。”とあります。低学歴の夫はつらいですね。」
「JWは女性の方が多いので、高学歴の妻と低学歴の夫という普通ならあまりない組み合わせもけっこう生じるのだろうね。もし低学歴の夫が漢字の読み方を間違えていたら、妻は黙っているのがJW的には正しいのかな?」
「低学歴の夫はフリガナ付きにしています。」
「低学歴の夫が“お母さんは英語でマザーで、おばあちゃんは英語でババーだよ。”と子どもに教えたら、妻は黙っているのがJW的には正しいのかな?」

#1302 2021年04月09日 15:55:45

ガp2
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

全くもってJWに対する指摘はその通りだと思います。
ルカ書、ヨハネ書からしかまだ読み取れてないのですが、だからイエスは
JW的律法学者を舌鋒鋭く叱責、または諭したのだと思います。
良きサマリア人の譬えや妻を離縁する夫に関する譬えは自分勝手で暴力的な
DV気質でありながら神を讃えるとうそぶく者に「愛がなければ意味が無い」
事を示すと思います。

wikisourceマタイ書口語訳より

19:3
さてパリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして言った、「何かの理由で、夫がその妻を出すのは、さしつかえないでしょうか」。
19:4
イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、
19:5
そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。
19:6
彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。
19:7
彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。
19:8
イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。
19:9
そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。

当時の律法学者がかたくなに守っていた律法を未だに現代人に押し付けるJWは、神を信じると言っておきながら
実は神を信じていないようです。彼らが信じているのは「組織」です。

#1303 2021年04月16日 14:53:46

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“会衆で長老に与えられている権限を理解する (7)”で、頭を覆うことに関する規則の確認など姉妹たちの服従の仕方に関する話が主な内容です。」
「JWが女性に求めるのは従順と服従だからね。それ以外の能力を発揮したい女性はJWをやめるしかないよ。」

「3から7節が“姉妹たちに対する正しい態度”です。 エホバ、イエス、パウロも女性に敬意を払ったといった内容です。女性蔑視の長老が多いということでしょうか。」
「7節に“姉妹たちが兄弟たちより劣っているというのは聖書の教えではありません。”とある。そうは言っても、性別によって、特定の役割を押し付ける、特に女だからこうすべき、あれはダメと決めつているだろう。そういうことが問題なの。」
「男か女かは何を持って決めるのか、JWの見解を知りたいですね。」
「生物は複雑で、色々な性があるよね。性染色体の性(XXかXY)、外性器の性、内性器の性(子宮か精巣か)、心理的な性(女と考えるか男と考えるか)など。これらが一致しない場合、JWは何をもって男か女か決めるのだろうね?心理的な性は無視するということだけは、はっきりしているね。」

「8,9節が“兄弟であれば誰もが姉妹たちの頭なのか”です。 8節に“姉妹たちの頭はキリストです。(エフェソス 5:23を読む。)”とあります。」
「エフェソス 5:23には“姉妹たちの頭はキリストです。”とは書いていないよ。」
「“夫は妻の頭だからです。キリストが会衆という体の頭であるのと同様です”とあるだけですね。キリストが会衆の頭なので、姉妹の頭でもあるという推論でしょうか。」
「8節に“親と一緒に住んでいない独身の姉妹についてはどうでしょうか。引き続き親に敬意を示しますが,父親はその姉妹にとって頭ではありません。”とあるね。この記事では誰が誰の頭なのかを明確にしたいという意図があるね。」
「80歳の父親(要介護2)と一緒に住んでいる50歳の独身姉妹は父親が頭という訳ですか?しかし、別居していたら違うわけですね。」
「別居している20代の姉妹が排斥処分になっても、JW親の責任ではないと言いたいのだろう。長老でも降格しなくていいということかな。問題のある子どもは自己保身のために、さっさと別居させようということだね。」

「9節で姉妹たちに権限がないのは“会衆の秩序を守るためです。”と言っています。引照聖句にテモテ一2:12があるのですが、そこでは“女性が教えたり男性に権威を振るったりすることを,私は許可しません。女性は静かにしているべきです。”とあるだけで、その根拠については何も言っていません。」
「“秩序を守る”は英文ではkeep good order in his familyなんだけど、女性を男性に従属させるのがなぜgood orderなのかが問題になっているわけで、全然説明になっていない。」
「JWは女性差別主義者で女嫌いだからという本当のことは言えません。」

「9節で“本来であれば兄弟たちが行うことを姉妹が行わなければならない場合には,エホバは頭の覆いをすることを姉妹に求めています。(コリ一 11:4-7)”とあるけれど、頭の覆いをするように言っているのはパウロじゃないの?JWは聖書の一字一句が神様の言葉という立場なのかな?」
「そんなことはありませんよ。自分たちの教義に反するような聖句は無視しますから。」
「コリント一11:6で“女性にとって髪を切ったりそったりするのは恥なのですから”とあるけれど、JWは女性が髪を短くすることを禁止していないよね。この部分は無視しているくせに、頭を覆うことだけは絶対譲れないわけだ。」

「9節でエホバは“ご自分が定めた頭という立場に敬意を示してほしいと思っているのです。”と解説しています。そんなことは聖書にありません。」
「コリント一11章の前半で、パウロは女性が神を覆う理由をあれこれと述べているけれど、どれも意味不明で説得力なんかない。パウロもその辺を自覚していて、11:13で“皆さん自身で判断してください。女性が頭を覆わないで神に祈るのは適切なことでしょうか。”と神を覆わなければならない理由付けを事実上放棄しているんだけどね。」

「パウロが女性の髪を覆うことにこだわった本当の理由は何なのですか?」
「11:5に“女性が祈ったり預言したりする時に頭を覆わないなら”とあるように、当時は女性でも公の場で祈っていた。ところが、男性は、髪を覆わない女性が祈ったりすると、祈り以外のことに気が散ってしまったんじゃないかな。」
「髪の短い、あるいは髪を覆わない女性は当時珍しかったわけですね。」
「コリントでは神殿娼婦がいたけれど、大抵髪が短いか、髪をそっていたようなんだ。また当時は個人の家が崇拝の場所だった。個人の家というのは私的な場所だ。しかし、宗教的集まりは公的な場。パウロとしては公的な場にふさわしい服装や髪型をして欲しいと思っていたけれど、普段のくつろいだ姿の女性や髪を覆わない女性が結構いたと思われる。」

「コリント一11:10に“ですから女性は,天使たちのためにも,頭に権威のしるしを着けるべきです。”とあるのですが、“天使たちのためにも”とはどういう意味ですか?」
「これは意味不明だね。これはコリントの人たちにあてた手紙だから、コリントの人たちにとってわかりきったことは説明されない。“天使たちのためにも”は説明されなくてもわかることなんだろう。しかし、現代人には何のことかわからない。」
「パウロの手紙は全人類にあてた神からのメッセージではなく、文字通り手紙にすぎないということですね。」
「手紙なので、特定の人に対するメッセージなのだけれど、それが聖書に採用されて、後に聖書は神の言葉と言い出す人たちが現れて、さらに現代人に適用されるべきというJWのような人たちが現れるとは、パウロは夢にも思わなかっただろうね。」

「9節の下に“姉妹はどんな場合に頭の覆いを着ける必要があるか”という囲みがあり、3つのケースが出ています。聖書的根拠のあるのは一つだけです。あとの二つは書かれていることを超えた指示ですね。」
「パウロは祈ると預言する場合頭を覆えといっているだけ。あとは拡大解釈だね。」
「JWでは、“本来であれば兄弟に割り当てられる務めを行う”場合と“結婚している場合,夫がいる所で,代表して祈ったり聖書から教えたりする”場合は、頭を覆うという規則です。」
「規則で信者を縛るという点でパリサイ的だね。パウロは新たな律法を造ろうとしていたわけじゃないけれど、JWにはそう思えるんだね。」

「そういう訳でJWの女性は常にスカーフを持たなくてはいけません。ある姉妹はスカーフがなかったばかりに、ハンカチを頭にのせて祈りをしたそうです。」
「ハンカチがなかったらどうしたのかな?」
「その後でJWのバカバカしさに気づいて、JWをやめたとなればいいんですけどね。」
「JWではバプテスマを受けた兄弟がいるかいないかで頭を覆うかどうかが変わるみたいだけれど、そんなことは聖書には書かれていないからね。人間の作った規則に過ぎない。」

「10から13節が“家族の頭と長老たちに与えられている権限”です。 11節に“聖書に「書かれている事柄を越え」ないようにしてほしいとも思っています。(コリ一 4:6)”とあります。」
「聖書に書かれていない規則を作って、信者を縛るのはJWの特徴だよ。よく言うよ。」
「世界各地に、長老が勝手に作った珍妙な規則があるようです。それに対する苦情や問い合わせが本部に来ているのでは?」
「そうだろうね。13節に“一方,エホバが家族の頭には与えているものの長老には与えていない権限もあります。例えば家族の頭は,家族のために決まりを作ってそれを守らせる権限を与えられています。(ローマ 7:2を読む。)”とあるけれど、信者の家庭内のことに長老は口出しするな、それは家族の頭の権限だと読める。」

「引照聖句のローマ 7:2には“例えば,結婚している女性は,夫が生きている間は律法によって夫とつながれています。しかし,夫が死ぬと,女性は夫の律法から解放されます。”とありますが、この場合“律法”はモーセの定めた律法を指していて、夫が決めた家族の決まりという意味ではないですよね。」
「これは当時のユダヤ人女性のことを言っている。ローマ人とちがって、ユダヤ人女性は自分から離婚できなかった。しかし夫が死んだら、律法から解放され、再婚してもいいということ。」
「“夫の律法”という訳が誤解を招くと思うのですが。これは直訳ですよね。」
「そうだね。“夫に関する律法”と訳しておけば、この記事の執筆者みたいな誤解は防げると思うね。」

「14節から“会衆の頭であるキリストに敬意を示す”です。 14節の下に“統治体の役割”という囲みがあって、キリストよりも大きな扱いです。」
「そこでは“巡回監督は会衆の長老を任命します。”とあって、長老が問題を起こしても、その任命責任は巡回監督にあるのであって、統治体は無関係と言いたいのだろう。」

「15節に“姉妹たちは,そうした兄弟たちの指示に従うことによって,キリストに敬意を示すことができます。”とあり、長老の命令はキリストの命令と思って無条件に従わなくてはいけないようです。」
「長老の指示は、キリストの指示じゃないからね。子どもをもっと体罰を加えろとか、スカートが短すぎるとか、未婚の男女が同じ車に乗るなとかという指示に従うのがキリストに敬意を払うことなの?」
「そういった細々した規則を作り、それに違反したと言って制裁を加えるJWのやり方はイエスが非難したパリサイ的なやり方ですが、それを改めるつもりはないようです。」

「15節でマーリー姉妹が“確かに,エホバが定めた頭という立場に対する敬意を深めるには,努力が必要です。”と言っているのには笑えるね。頭に対する敬意は努力しないと生じないことがよくわかる。」
「世の中には、努力しなくても敬意を自然に抱かせるような人は沢山いますが、JWにはあまりいないということですよ。」
「特にJWの男性の中には、そんな人は少ないでしょう。」

「16節でベンジャミン兄弟が“集会では,姉妹たちのコメントからたくさんのことを学べます。”と言っているのには同感ですね。記憶に残るへんてこなコメントは全てJW歴の長い組織を盲信している姉妹たちのコメントです。」
「集会でのコメントはその人の頭の程度がよくわかる点で有益だ。」

「17節の“頭という立場を正しく理解して敬意を示すなら,会衆には平和が行き渡ります。”は、恐ろしいですね。独裁国家の価値観です。」
「JWの価値観は秩序維持を最優先し、自由を抑圧するという点で独裁国家とそう変わらない。」

#1304 2021年04月17日 12:42:29

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さんいつも興味深い書き込みありがとうございます

またまた質問ですけど仰天さんのトピの♯2454で

長谷川さんが

ヨナ書が歴史的事件を描いているとするなら、ここで問題が生じるのである。ニネヴェ(新共同訳ではニネベ)はアッシリア帝国の首都であったが、それが首都として栄えるようになったのは紀元前七世紀になってからであった。ヨナが活動した時代を、列王記下一四章二五節に記されているようにヤロブアムニ世の時代、あるいはその少し前だとすると、それは紀元前八世紀前半ということになる。さらに、ニネヴェが首都として繁栄するようになったころには、北イスラエル王国はすでにアッシリアに滅ぼされて存在すらしていなかったのである

といっているのに対して仰天さんが

紀元前7世紀に首都として栄える以前からシャルマヌエセル1世(前1260年頃)が宮殿を建てて以来、ニネベが首都と見なされるようになったという事は、複数の聖書辞典でも述べられています。
それ故に、首都として繁栄した時には北王国イスラエルが存在していなかったという解説には無理があります。

と反論されているのですがどちらが正しいのでしょうか? ご存知のことありましたら教えていただければうれしいです

オフライン

#1305 2021年04月17日 22:09:54

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

てつてつさんのご質問にお答えします。

仰天 さんの発言:

  紀元前7世紀に首都として栄える以前からシャルマヌエセル1世(前1260年頃)が宮殿を建てて以来、ニネベが首都と見なされるようになったという事は、複数の聖書辞典でも述べられています。
それ故に、首都として繁栄した時には北王国イスラエルが存在していなかったという解説には無理があります。



仰天さんの言っていることの真偽を確かめるには「複数の聖書辞典」の具体名が必要です。それを尋ねるべきでしょう。

世の中の常識としては、もちろん仰天さんの言っていることは間違いで、長谷川さんの言っていることが正しいです。

アッシリアの元の首都はニネベではなくアシュールでした。ニネベの約80キロ南にあります。ニネベが首都になるのはセナケリブ王の時からで、その期間は98年間です(前704から606年)。

その前の王サルゴン2世の時の首都はドゥルシャルキンです。城壁の総延長は8キロに及びます。

北イスラエル王国滅亡は前722年ですから、滅亡後にニネベは首都として発展します。北イスラエル王国が存在した時はニネベは壁もない小規模の町でした。

それを大都市に変えたのがサルゴン2世の後継者セナケリブです。セナケリブは戦争をあまりせず建設工事に力を注ぎます。首都をニネベに移し、2重の壁で防護し、水道を引き、神殿を再興し、大宮殿を建てます。

仰天さんが名前を挙げているシャルマヌエセル1世(前1260年頃)の頃は中アッシリア帝国で(その前は古アッシリア帝国)、前10世紀に小国へと衰退します。聖書によると、その力の空白を利用してダビデがイスラエル王国を築くわけです。聖書に出てくるアッシリアはその後の新アッシリア帝国です。つまり、中アッシリア帝国とは同じ国とはみなされていません。

普通は、ヨナ書は文学作品で、史実とはみなされません。

#1306 2021年04月17日 22:24:09

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

さすが質問さんです 大変わかりやすい説明ありがとうございました

>「複数の聖書辞典」の具体名が必要です。それを尋ねるべきでしょう。

というわけで 仰天さん 「複数の聖書辞典」の具体名をお願いします

オフライン

#1307 2021年04月23日 15:28:54

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“試練に遭っても喜びを失わない(8)”で、ヤコブの手紙を参考に、試練に耐える方法を学ぶという内容です。」
「ヤコブ1:2の“私の兄弟たち,さまざまな試練に遭う時,それを喜ばしいことと考えましょう。”が主題聖句か。JWの人生は試練続きというわけだね。」

「JWはこのヤコブはイエスの異父弟のヤコブとしていますが、それはありえませんよね。」
「ヤコブの手紙というけれど、手紙ではなく道徳的な一連の勧告で、宗教的格言集のようなもの。その内容は特にキリスト教的でもない。つまり、イエスの身近にいたと思わせるようなことは一つも書かれていないし、イエスの言葉の引用だってない。」
「旧約からの引用は多いです。」
「つまり、著者はイエスのことよりも、旧約の方に関心があるようだ。」

「執筆年代は、JWはヤコブが死んだ62年以前と想定しているのですが、パウロに対する批判が含まれていることから、パウロの手紙の後ですよね。」
「ヤコブに成りすましているので、ヤコブの死後で、パウロの思想が相当浸透し、それに対して反発を感じているわけなので、1世紀の終わりごろじゃないかな。」

「3から5節が“1世紀のクリスチャンはどんな試練に遭ったか”です。3節では“ステファノが殺されると,多くのクリスチャンがエルサレムから逃げ,「ユダヤとサマリアの全域に散らされ」ました。キプロス やアンティオキアまで行った人たちもいました。”とあります。使徒たちではなく、なぜステファノが狙われたのですか?」
「使徒6:1に“弟子が増えていたその頃,ギリシャ語を話すユダヤ人から,ヘブライ語を話すユダヤ人に対する苦情が出始めた。”とあるように、エルサレムのキリスト教徒は、ギリシャ語を話すグループとアラム語グループに分裂していて、ギリシャ語グループは地元民の信条や習慣に配慮することなく、自分たちの主張を強く述べ伝えていて、相当反感を買っていたようだ。ステファノはギリシャ語を話すグループのリーダー的存在で、それで狙われたと思われる。」
「“ユダヤとサマリアの全域に散らされ”たのは、ギリシャ語を話すユダヤ人達で、そうでない人たちはエルサレムにいたということですね。」
「ローマ軍に破壊されるまで、エルサレムは初期キリスト教の中心地で、JWが1世紀の統治体があったとウソの主張している所。」

「4節に“初期クリスチャンたちは,さまざまな試練に遭いました。”とあります。主題聖句のヤコブ1:2でも“さまざまな試練に遭う時”といっています。ヤコブは主にどんな試練を想定していたと思いますか?ローマ帝国による迫害ですか?」
「ヤコブを読むと想定している試練は、貧富の格差から生じる社会問題だろう。ヤコブ2:1-13では、貧しい人たちを取り上げて、律法の精神を説いているけれど、2:6には“皆さんを苦しめ,法廷に引き出すのは,裕福な人たちではないでしょうか。”と言っている。ヤコブ5:1-6では富んでいる人に対して警告を発している。5:4では“皆さんが畑の収穫をさせた人たちに支払わなかった報酬が,叫び続けています。”、5:6では“皆さんは正しい人を有罪とし,殺しました。”と言っている。初期のクリスチャンの大多数は貧しい人だけれど、彼らは裕福な人たちから差別され、給料も支払われず、裁判に訴えても裁判官は金持ちに買収され、無実なのに有罪とされる。そんな現実に対する怒りがある。」
「そういう現実を耐え忍べ、喜べというのは納得できませんね。」
「ヤコブの著者は宗教家であって、社会革命家ではないからね。多くの場合、宗教は現状維持的だ。」

「4節に“ローマ皇帝クラウディウスが全てのユダヤ人に,ローマから出ていくよう命じました。それで,クリスチャンになったユダヤ人たちは,家を捨ててどこかに移住しなければなりませんでした。”とありますが、これはクリスチャンに対する迫害ではなく、ユダヤ人に対するものです。それをここに載せるのはおかしいですね。」
「ユダヤ人問題の巻き添えを食っただけだね。ローマから逃げて来たアクラとその妻プリスキラがパウロとコリントで出会うわけだね。」

「6から8節が“クリスチャンの喜びの理由”です。6節では“ルカ 6:22,23を読む。”とあります。そこには“いつでも人々があなたたちを憎むとき,また人の子のために人々があなたたちを締め出し,非難し,汚名を着せるとき,あなたたちは幸福です。 その日には喜び,躍り上がりなさい。天での報いは大きいからです。”とあります。JWの教義では、“天での報い”を受ける人は144000人だけですよ。こんな聖句はそれ以外の人には関係ないですよ。」
「“人の子のために”迫害を受けるとき、幸福といっているけれど、JWはエホバなる神様のために迫害を受けるわけで、全く関係のない聖句。こんな聖句を読ませるのは時間の無駄だ、と誰か日本支部に電話してほしい。」
「これも人間を二つの階級に分けるJWの教義がもたらす奇妙な結果のひとつですね。」
「JWの教義が真実だとすると、イエスや新約聖書の大部分は、大多数の人には無関係という奇妙なことになる。」

「7節に“ヤコブは,クリスチャンが厳しい試練に遭っても喜べる別の理由も挙げています。「信仰の質が試されると,忍耐力が身に付く」と書いています。(ヤコ 1:3)”とあります。これはよくある主張ですよね。」
「“信仰の質”という訳はおかしい。単なる“信仰”だよ。勝手に書き加えるな。」

「ヤコブ1:4が引用されていて“忍耐がその役割を果たす時,皆さんは完全になり,全ての点で健全な……人になります。”と断定していますが、英文では“you may be complete and sound in all respects.”で、断定していませんよ。」
「”may be”だから“かもしれない”という意味だよ。日本語版では訳者が勝手に断定しちゃったんだ。」

「7節では“試練は,鋼の剣を鍛えるのに使われる炎のようなものです。”とあるのですが、なぜか聖句の引用がありません。この種の聖句は幾つかありますよね。」
「例えばイザヤ48:10には“私はあなたを精錬したが,銀のようにではない。苦悩の溶鉱炉の中であなたを試した。”とある。また格言17:3では“るつぼは銀のため,炉は金のため,エホバは心を調べる方である。”となっている。試練を炎に例えているけれど、旧約では試練は試されている、テストされているということ。だから、頑張って試験に合格しなさいということだね。」
「この発想は現代JWには受けが悪いと判断して、聖句の引用をやめたということでしょうか。」
「20節で、神は試したりしないとある。それに矛盾しないように、聖句の引用は無しにしたんだろう。」

「忍耐力がつくから試練を喜べというのは説得力がありますか?」
「喜べないよ。しかし試練が多いのは人生の常。それを嘆くより喜べというのが人生肯定的で健全な態度じゃないかな。でも、こういうことはほとんどの宗教が言っている。」

「9から19節が“喜びを奪いかねない問題を乗り越える”です。3つの問題とその解決策が出ています。」
「最初の問題が“どうしたらいいか分からない。”で、その解決策が“エホバに祈って知恵を求める。”なんだ。これを解決策と呼ぶかな?祈ったって、答えを教えてくれないでしょう。」
「それで11節で、“その知恵を得るには,聖書と聖書に基づく出版物を学ばなければなりません。”とあります。」
「長年JWをやってきた人はもう十分すぎるくらいJWの出版物を読んだでしょう。でも何の役にも立たないから、“どうしたらいいか分からない。”という悲しい状態になる。」
「長年JWをやっている人ほど多くの知恵があるという事実はないですよ。」

「12節に“神の言葉は鏡のような働きをし,自分の直すべきところに気付かせてくれます。(ヤコ 1:23-25)”とあるけれど、これは聖句の誤用だね。」
「そこには“神の言葉を聞いても実践しない人は,鏡で自分の顔を見る人に例えることができます。 その人は自分を見ますが,そこを離れると,自分がどのような人かをすぐに忘れてしまいます。”とありますね。実践しない人を鏡で自分の顔を見る人にたとえているわけで、神の言葉=自分を見る鏡なんてことは言っていません。」

「14節に出ている問題は“疑いの気持ち。”で、“聖書の中に,よく理解できない箇所がありますか。”とあるけれど、JWの教えが理解できないので、疑いの気持ちを持つことには触れないね。」
「エルサレムの破壊が前607年としている歴史の本が1つもないということでJWに疑いを持つ人はいますよね。その他にも、本当に神の名前はエホバなんですか、イエスは杭で死んだのですか、なぜ誕生日を祝ってはいけないのですか、顎髭を生やすのがなぜダメなのですか、児童性的虐待になぜ適切に対処しないのですかとか疑問は尽きませんよ。」
「それに対する解決策は16節で、“疑いの気持ちを晴らし,信仰を強くする。”とある。具体的には“調べて確信する必要があります。(テサ一 5:21)”とある。調べれば調べるほど疑いが強くなるのが普通だろう。」
「ところが、調べるのはJW関係の資料に限定です。それ以外はサタンのものですと言われます。そうやって組織に操作されるわけです。」

「16節ではさらに“なかなか疑いの気持ちが晴れないなら,長老に助けを求めてください。”とある。長老に聞いても無駄だよ。」
「エホバを待つとか、全部理解しなくてもいいとか、組織を信頼しましょうとか適当に言いくるめられて終わりです。」
「JWに疑いがあるのなら、JWに聞くのではなく、第三者の意見を聞くべき。誠実な医師なら自分の診断に疑いを持つ患者には、別の病院でセカンドオピニオンを求めるように言うよ。」
「JWは絶対そんなことは言いません。」

「17節の問題は“落胆の気持ち。”で、その解決策が、18節によると“エホバに頼り,忍耐するための勇気をもらう。”だ。でも、どうやったら勇気をもらえるのかは書いていない。」
「19節には“私たちも,エホバの助けを必要としていることを謙遜に認めるなら,力や勇気を与えていただけます。(ヤコ 4:10)”とあります。謙遜であれば勇気がもらえるそうです。」
「引照聖句は“エホバの前で謙遜になってください。そうすれば,神は皆さんを重んじて*くださいます。”とある。“重んじて*”の脚注には“直訳,「高く上げて」。”とある。これはおかしいね。英語版ではexalt(高める)となっているわけで、普通に訳せば“重んじる”という訳にはならない。ここでは、自らを低くすれば、神が高めてくれるということを言っているわけなので、“重んじる”は不適切だ。」
「高めるというと、天に行くという意味にとられかねないと思ったんじゃないですか。JWでは大多数は天には行かないという教義ですから。その教義に疑いをもたれないように、“重んじる”にしたんですよ。」
「しかも、この聖句は、謙遜を認めるなら勇気をくれるなんて言っていない。いつもの聖句の誤用。」

「20,21節が“神に近づく人は喜びを失わない”です。20節に“試練に遭う時,『神から試されている』と言ってはなりません。悪い事柄によって神が試されることはなく,誰かを試すこともないからです」。(ヤコ 1:13)”とあります。神は試すことをしますよね。アブラハムにイサクを殺せと言ったり、イスラエル人を荒野をさまよわせたりしませんでしたか?」
「ヤコブ書の著者もそのことは知っているだろう。1:14に“人はそれぞれ,自分の欲望に引かれて惑わされることにより,試されるのです”とある。それを踏まえると、神は人間を試すけれど、罪を犯すように試すことはない、悪を犯しそうになったらそれは自分の欲望のせいで、神のせいにするなという意味だよ。」

「最後の21節に“エホバは「変化したりはしません」。(ヤコ 1:17)”とあります。引照聖句は“父は移り変わる影のように変化したりはしません。”とあります。一方、協会共同訳では“御父には、変化も天体の回転による陰もありません。”とあります。だいぶ違いますがどちらが正しいのですか?」
「協会共同訳の方が直訳に近い。でも原文は“変化あるいは天体の回転による陰”となっている。NASBの“no variation or shifting shadow”が原文に忠実な訳。」
「聖書の元の意味を伝えるよりも、わかりやすければそれでいいというのがJW訳ということですね。」

#1308 2021年05月07日 15:53:07

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“若い兄弟たち,信頼される人になりましょう!(9)”で、若い兄弟は“援助奉仕者”になれるよう努力せよという内容です。」
「若い兄弟というのはJWの絶滅種でしょう。相当なボンクラでも“援助奉仕者”くらいにはなれるんじゃないの?」
「長老にどれだけゴマスリができるかでしょう。」
「“信頼される人になりましょう”というのは、要するに長老たちから信頼される人になるという意味だね。」

「3から11節が“ダビデ王に学ぶ”です。 ダビデはJWお気に入りのキャラクターで、今週も登場です。ダビデの話とその教訓にそれほど関連性がないのも、いつものことです。」
「3節が笑えるね。“ダビデは若い時に,人のためになるスキルを身に付けました。”と言ってから、若い兄弟たちは“例えば,個人研究や集会でタブレット などの電子機器をどのように使えるかを知っているかもしれません。そうしたことを年長の兄弟姉妹に教えてあげるなら,きっと喜んでもらえるでしょう。”だって。」
「ダビデの話から電子機器の使い方に飛ぶわけですね。かなり無理がありますね。」

「歴史的には、組織は新しい技術には絶えず否定的だよ。いつも警戒せよという内容の記事を書いて来た。電卓が普及し始めた頃には、電卓を使うと頭が悪くなるといった記事を書いていた。コンピューターやインターネットも否定的だった。」
「それが今やインターネットや電子機器に依存した宗教に変身しました。」
「紙に印刷するより、その方が安上がりだと分かったんだよ。」

「4節に“ダビデは責任感を持って羊を世話していたので,羊を守るために勇敢に戦いました。若い兄弟たちもダビデのように,与えられた仕事を何でも一生懸命に行いましょう。”とありますが、これも無理がありますね。」
「ダビデにとって羊は生きるうえで欠かせない重要な資産。それを守るためには勇敢に戦うよ。しかし、JWから押し付けられる仕事は余計な負担であり無駄な苦労。同列には論じられないだろう。手を抜きながら仕事しているふりだけはする、というのがJWを長くやるコツじゃないの。」

「5節に“ダビデにとって,エホバは神であるだけでなく,親しい友でした。(詩編 25:14を読む。)”とありますが、引照聖句にダビデはエホバの友なんてありませんよ。」
「そこには“エホバは,ご自分を畏れる人を親しい友とし,契約を知らせる。”とあるけれど“親しい友”と訳している聖書はないでしょう。せいぜい“友”だよ。解釈を入れすぎだね。」
「ヘブライ語本文には友に当たる言葉はないです。“エホバの秘密”とあるだけです。それを“親しい友”にしたわけですね。」
「秘密を共有する仲間という解釈に基づく訳だね。直訳すると、“神の秘密は神を畏れるものとあり、彼らに契約を知らせる。”字義訳のNASBではThe secret of the LORD is for those who fear Him, And He will make them know His covenant.」

「6節に“例えば,ダビデがゴリアテと戦うことを申し出た時,サウル王はやめさせようとして,「あなたはまだ少年だ」と言いました。(サム一 17:31-33)その少し前には兄から,無責任だと責められました。(サム一 17:26-30)”とあります。しかし、その前のサムエル一16:18では“私はベツレヘムの人エッサイの子がたて琴を上手に弾くのを見たことがあります。勇敢な強い戦士です。雄弁でりりしく,エホバが共にいる人です”とあります。16章では、ダビデは“勇敢な戦士”とされています。またサムエル一16:21には“ダビデはサウルの武器を運ぶ人になった。”とあり、ダビデはサウル王の護衛役になっています。これはサムエル一17章と全く矛盾していますね。」

「16章でダビデは王の護衛になっているのに、17章ではダビデは羊飼いの少年でサウルと初めて会うかのような会話をしている。これはダビデに関して2種類の異なる資料があって、それが矛盾を気にすることなく並列的に使われた結果だね。」
「サムエル一17:55には“王は言った。「誰の子か調べなさい」。”とあり、ダビデやその父とは16章で既に知り合いなのに、初対面のようなことをいいます。ついていけません。」
「JWはサムエル一の17章だけを取りあげ、16章は無視している。」

「7節で“ダビデの経験から何を学べますか。忍耐する必要があるということです。”とあります。違う気がしますね。」
「ダビデは音楽や詩を作るのに長けていた。一方、石ひとつでゴリアテを倒す技も身に着けていた。同じようにJWの若者は、JWのことは最小限にして、実際に役に立つ技術や専門知識を身に着けよう、そういう教訓だよ。」

「7節には“もしかすると,エホバの証人だという理由で,学校の友達からからかわれることがあるかもしれません。そんな時には,乗り越えるための助けを求めてエホバに祈りましょう。”とあります。“もしかすると”じゃなくて“必ず”です。JWの子どもが置かれている悲惨な状況に対して無知すぎます。」
「それに、多くのJWの経験から、祈ってもなんの効果もない。」

「8節にダビデは“サウルから逃げてフィリスティア人の地方で暮らしていた時,その機会を活用してイスラエルの敵と戦いました。そのようにして,ユダの領土を守ったのです。(サム一 27:1-12)”とありますが、正しくありませんね。」
「特に“ユダの領土を守ったのです。”と言うのは違うよ。サムエル一27:9には“ダビデはその地域を攻めると,男性も女性も生かしておかなかった。羊,牛,ロバ,ラクダ,衣類を奪っては,アキシュのもとに帰るのだった。”とあるように、防衛的なものではなく、無差別な虐殺と略奪を繰り返している。こんなならず者のダビデを模範とするなんて、JWは道徳観が狂っている。」

「9節が教訓で“若い兄弟たちはダビデの例から何を学べますか。エホバや兄弟姉妹のためにできることを何でも行いましょう。”とあります。具体例として、リカルドの体験談が出ています。奉仕活動をもっとやれということのようです。」
「“10代の前半から,正規開拓者になることを目指していました。”とある。親に決められた人生に疑いを持つことなく生きていけるほど頭が悪いということだね。」
「10代はそれまで正しいと教えられたことを疑い、自分なりに答えを見つけようと努力する時期ですよ。そうやって、他人のではなく自分の人生を歩まないと。」
「JWの若者に期待されているのは、服従だけ。余計なことは考えるな、黙って従え。それだけ。」

「11節も教訓で“決定をする前にアドバイスを求めてください。”とあります。そのあと“エホバが長老たちを信頼しているのですから,あなたも信頼することができます。長老はエホバから会衆への「贈り物」なのです。(エフェ 4:8)”と誤訳のエフェソス4:8を引用しています。」
「エフェソス4:8はJW訳では“人々という贈り物を与えました。”とあるけれど、普通は“人々に贈り物を分け与えられた。”と訳する。」
「それから“エホバが長老たちを信頼している”という根拠はありませんよ。」

「11節の上に、長老が若者に助言しているという写真があるけれど、JWの書籍を手に持っている。長老の答えは出版物にあるということだね。」
「それならいいのですが、長老の思い付きで勝手なルールをつくる場合がありますから、相談しないほうがよかったという結果になりかねません。」
「この写真の若者は青いシマのワイシャツを着ているけれど、日本には白いワイシャツ以外は禁止というルールを作ったバカ長老がいるんだよね。」
「この若者は3枚の写真に登場していますが、途中から髪型が変わります。2枚目からは6:4くらいに分けて額を出していますね。」
「となると、2枚目の写真で受けている助言は髪型のことなの?その髪型はエホバを喜ばすことになるでしょうか、なんて言われているのかも。」
「その場合は、宇宙の創造者が私の髪形など気になさるでしょうか?と尋ねるのはどうでしょう。」
「すると、今度は、多くの若い人のつまづかせることがあってはなりませんという理屈を持ち出すんじゃないの?」

「12から14節が“アサ王に学ぶ”です。 最近アサ王はよく登場します。12節に“国から偶像礼拝を除き去るために立ち上がりました。”とありますが、これは問題ですね。」
「歴代誌二14:3に“外国の神の祭壇と高い場所を取り除き,聖柱を打ち砕き,聖木を切り倒した。”とあるけれど、より史実性の高い列王一15:13,14には“アサは彼女が作ったおぞましい偶像を切り倒し,キデロンの谷で焼いた。しかし高い場所は取り除かれなかった。”とあり、アサ王の宗教改革は中途半端なものとして描かれている。」
「12節には“さらに,エチオピア人ゼラハが100万人の軍勢を率いてユダに攻めてきた時には,良い判断をしました。”と100万人の軍勢などありえないのに、相変わらず史実扱いです。」

「13節に“エホバは預言者ハナニを通してアサにこう言いました。”とあるけれど、引照聖句の歴代二16:17には“その時,予見者ハナニがユダのアサ王のもとに来て”とあるよ。」
「預言者ではなく、予見者ですね。間違いですね。」
「予見者seerの方が古い時代のもの。サムエル一9:9に“昔,イスラエルでは,神の導きを求めに行くときに,「さあ,予見者の所に行こう」と言った。今の預言者は昔,予見者と呼ばれていたのである。”とある。それを預言者と間違えるなんて、この執筆者はダメだね。」

「15、16節が“エホシャファト王から学ぶ”です。 この王はあまり取り上げられない人ですが、悪い例のようです。」
「エホシャファト王はアサ王の息子だね。」
「15節で“動機は良かったものの,良くない決定をしたこともありました。その結果,エホシャファトはエホバの預言者から助言を受けました。(歴代第二 18:1-3; 19:2を読む。)”とありますが、イスラエルのアハブ王と同盟を結んだことを非難しているようです。」
「エホシャファト王は南のユダ王国の王。ユダ王国は北のイスラエル王国とは比べ物にならないほどの弱小国家。しかも北のアハブ王は聖書の中では極悪人として描かれているけれど、なかなかの政治家でイスラエル王国を繫栄させた。そのアハブ王と同盟したのでユダ王国は平和が保たれた。」
「聖書の中でアハブ王が非難されているのは異教の習慣を取り入れたからなのですが、別な言い方をすると、宗教に寛容だったわけで、良い王といえます。」
「聖書は宗教原理主義者が書いているので政治、外交や経済は無視して、宗教政策だけで王を評価している。」

「16節が教訓で“助言やアドバイスを受け入れて当てはめましょう。”とあります。JWの教義しか知らない長老の的外れな助言でも受け入れなくてはいけないようです。」
「スポーツが大好きだったラジープ兄弟の体験談が出ている。長老が“テモテ第一 4章8節の原則についてよく考えるよう助けてくれました。”とある。」
「テモテ一4:8は“体の訓練も多少はためになりますが,神への専心はあらゆる面で有益です。”とあります。JWへの専心じゃないですよ。」
「神=組織という公式が出来上がっているんだよ。“神への専心”の元のギリシャ語はeusebeiaで、協会共同訳は”敬虔”となっている。口語訳では”信心”。英語の聖書ではgodliness(信心)が多いね。」
「” 神への専心godly devotion”という訳はJWの解釈が相当入った奇妙な訳ですね。」
「長老は、こんなJW訳聖書を使って、組織に都合の良いアドバイスを与えてくれるということだね。」

「この兄弟は“私はエホバへの奉仕を最優先することにしました。”とあり、今では援助奉仕者だそうです。こうやってJWの若者は好きなことを放棄させられるのです。」
「こんな助言に従うのは、あまりにも世の中について無知か、既に人生をあきらめた無気力状態にあるかのどちらかじゃないの。」
「恐らくその両方です。」

「最後の17,18節が“エホバに喜ばれることをする”です。 18節に“エホバは,終わりの時代に大勢の若い兄弟たちが喜んで自分を差し出すことを予告していました。(詩 110:1-3)”とありますが、引照聖句はそんなこと言っていませんよね。」
「詩篇110:3では“あなたが軍勢を指揮する日に,あなたの民は喜んで自分を差し出す。”とある。まず“終わりの日”なんて言っていないし、民はすすんで軍隊に参加するんだよ。しかも“あなたの民”はJWじゃないだろう。」
「若い人は、この記事に”励まされました。”などと笑顔で言いつつ、JWをやめるための準備を直ちにに始めた方がいいですね。」

#1309 2021年05月14日 15:37:02

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“バプテスマを目指して進歩するよう,会衆全体で助ける(10)”で、研究生がバプテスマを受けるよう、会衆全体で誘導し圧力をかける方法という内容です。」
「昨年度はバプテスマ数が大幅に低下したからね。今年は何としてもバプテスマ数を増加させるぞ、という組織の意気込みの表れだけど、迷惑だね。」

「2節に“『子供は村全体で育てる』という言葉がありますが,この言葉は人を弟子とすることにも当てはまると思います。”とありまして、研究生の司会者一人に任せるのではなく、会衆全体がかかわりなさい、ということのようです。」
「研究生は子どもしかいないの?大人に対しても、子ども扱いしているような言い方だね。謙遜さはどうしたのかな。」

「JWの能力不足は組織もわかっているようで、3節には“聖書を学んでいる人は,進歩し 始めると,いろいろな助けを必要とします。教えている人がその全てを自分でするのは無理です”とあります。」
「3人寄ればソロモンの知恵だね(3人のJWが集まって知恵を出せば、知恵があることで有名なソロモンの知恵に匹敵するという意味のJWのことわざ)。うまくいくのか?」

「5から10節が“研究に参加する場合”です。 他の人の聖書研究に参加する場合のやり方について説明しています。キーワードは準備し、サポートし、経験を話す、です。」
「奉仕時間を確保するためだけに、他人の研究に参加するJWが多いのだろうね。何も準備もせず同席して、お菓子だけ食べて帰る。」
「これは、そういう怠惰で役立たずのJWに向けての記事ですかね。」

「5節の上の写真は黒人男性が研究に参加しているというものだけど、オレンジジュースがその人にはない。白人至上主義者の黒人差別か?」
「鉢植えの陰に隠れて見えないだけですよ。あるいは写真を撮るときにコップがなかったのかもしれません。」
「集会の写真はあと何枚かあるけれど、この黒人青年は全く写っていない。白人ばかり。」
「それなら統治体の老人みたいな肥満体の人も、みすぼらしい貧困老人も写っていません。JWにはそういう人がいないかのようです。単なる宣伝用の写真にすぎませんよ。気楽にいきましょう。」

「6節が問題だ。“学んでいる人についていくらか知るようにしましょう。(格言 20:18を読む。)”と言ってから、“もちろんプライベートなことは教えてもらえないでしょう。”とある。」
「個人情報を組織的に収集することに関して、ヨーロッパの国などではかなり問題視し、規制が強められていますよね。そのようなことに一応配慮しているというポーズですね。」
「個人情報の保護については、国によって法律が違う。JWはそのようなことをきちんと学ぶ機会を設けるべきだよ。」

「“読む”となっている格言 20:18には“相談によって計画は成功する。巧みな指揮によって戦いをせよ。”となっていますが、格言の性質上2つの文は同じことを言っているはずです。初めの文と後の文の対応がへんです。誤訳でしょうね。」
「協会共同訳の“助言によって計画を確かにし/導きによって戦いをせよ。”のように訳してほしいね。助言と導きがちゃんと対応する。」
「日本語訳の問題ですね。英文ではBy consultation, plans will succeed,/And by skillful direction wage your war.となっています。Consultationを相談と訳したのが間違いですね。相談というとみんなで意見を出しあってもらってどうするか考えるというような意味ですよ。」
「Consultationは単なる相談ではなく専門家に相談すること、あるいは専門家の会議という意味で使う。コンサルタントなんて言う言葉は日常的に使うでしょう。助言という訳の方が適切だね。」

「8節に“研究の時に捧げられる祈りは,とても大切です。祈るよう頼まれたなら,どんなことを祈るかを前もって考えておきましょう。”とあります。同席するなら、祈りぐらいしなさいということですね。」
「8節に“名前を挙げて私のことも祈ってくださる時に深い愛を感じました。”とあるから、個人名を祈りに含めよ、そうすれば相手を喜ばせることができるという指示だね。でも、これはたまたま同席した人がそうすれば効果があるわけで、いつも同席している人がやると逆効果だと思うよ。」

「9節は“教える人をサポートする。”とあるのですが、具体的に書かれていることは“話し過ぎたり,教えている人の説明を遮ったり,違う話題を持ち出したりしないようにしましょう。”です。目立ちたがり屋の出しゃばりが多いということですね。」
「自分の有能性を見せようとして、余計なことを言うわけだ。」
「無知な研究生にしか偉そうにふるまえないJWがいますからね。」

「9節に“ヤコブ 1:19を読む。”とある。そこには“皆が,人の言うことに進んで耳を傾けるべきです。すぐに話したり,すぐに怒ったりしてはなりません”とあるけれど、もっとましな訳にできなかったのかな?英文はEveryone must be quick to listen, slow to speak, slow to angerで格言風の記憶しやすい表現になっているよ。」
「協会共同訳は“人は誰でも、聞くに速く、語るに遅く、怒るに遅くあるべきです。”と訳していますね。せめてこのように訳すべきですね。」
「この部分は格言13:3“自分の口を見張る人は自分の命を守り,唇を大きく開く人は破滅する。”を念頭に置いたものといわれる。ヤコブは会衆内の分裂を深く憂慮し、それを防ぐためにこのようなことを助言している。」

「10節が“自分の経験を話す。”なんですが、こういう体験談は繰り返し話していると、どうしても誇張や尾ひれがつくのは避けられないと思うのです。」
「体験談というのはそういうもの。○○の語り部なんて言われる人の話はあまりにもよくできていて、どこまでが本当なのか疑問に思えることが多い。」
「とくに宗教関係の体験談で面白すぎるものはほとんどが信用できないとするのが正しい態度じゃないですか。」
「奇跡話なんかは特にそうだね。」

「11から16節が“学んでいる人が集会に来た時”です。 皆で歓迎して、いい気持にさせるようです。いわゆるラブシャワーですね。」
「ラブシャワーは日本の言い方で、英語ではlove bombing(愛の爆撃)という。」
「爆撃とはすさまじいですね。」
「love bombingは英語版のwikipediaにもあって、そこではLove bombing is an attempt to influence a person by demonstrations of attention and affection.(愛の爆撃は、関心と愛情を示すことによって人に影響を与えようという試み)と定義してある。」
「Love bombingという言葉は1970年代にアメリカの統一教会が使い始めた言葉なんですね。」
「カルトの考えることはどこも同じという事。love bombingはMargaret Singerという人がCults in Our Midstという本の中で紹介し、アメリカでは広く知られる言葉になった。」

「12節が“温かく歓迎する。”ですが、体験談が出ていて“いろんな人があいさつに来てくれたので,とても驚きました。すごくうれしかったので,毎日が集会だったらいいのにと思いました。”とあります。こういう人はJWにならなくても、どこかのカルトの一員になりそうな人ですね。」
「こういう人は社会的に孤立し、誰からも褒められず、関心を払われることもないのだろう。そういう人は集会に来て歓迎されると、やっと居場所が見つかったと感激してしまう。悲しいね。」
「他人から過剰に注目を浴びたがる人もいますよね。そういう人は集会に来ると感激して、毎日集会だったらいいのにと思うのじゃないですか。」
「演技性パーソナリティ障害というのがあるね。こういう人は、注目をひこうとして、不適切な行動をして周囲と問題を起こす。芝居がかった表現や態度をすることが多い。一方、被暗示性が強くて、他人から影響を受けやすいんだ。JWになりやすいかも。」

「13節が“手本になる。”で、“学んでいる人は,私たちの行動を見て,自分が学んでいることは真理だと確信するかもしれません。”とあります。表面的なことしか見られない人はそうかもしれません。」
「集会の時間だけ、模範的な人物を演じるのはそんなに難しくないよ。せめてそれくらいは立派な人のふりをしなさいということだね。」

「15節が“友達になる。”です。“学んでいる人と友達になるなら,その人がバプテスマを目指して進歩するよう助けることができます。”と、友達のふりをして、相手を操作してバプテスマを受けさせろ、という組織の指示です。カルトの怖い点ですね。」
「15節に“学んでいる人と友達になるなら,その人がバプテスマを目指して進歩するよう助けることができます。(格言 27:17を読む。)”とある。この聖句はそんなことは言っていないよ。」
「格言 27:17は“鉄が鉄を研ぐように,人は友を研ぐ。”とあります。研ぐというのはより切れるようにするということですね。」
「鉄と鉄がぶつかり合うような相互の批判的な議論が人格形成を促す、あるいは学生同士批判的に議論し合う事で、一人で学ぶより理解が深まる。そんな意味なんだけどね。」
「JW同士ではめったに生じないことです。」

「15節の体験談が恐ろしいよ。“エホバの与えてくださる友ととても有意義で楽しい時間を過ごせたので,世の友との交友を断つことができました。”とある。カルト宗教以外の人間的関係を捨てさせるわけだ。こうやって立派なカルトの一員が出来上がる。」

「16節には“学んでいる人をもてなしてください。”とあります。食事などに招待するようすすめています。」
「その費用は組織に寄付したとみなせるようにしたら。接待に1万円かかったら、その領収証を寄付箱に入れる。領収証の金額を寄付したとみなす。これなら喜んで接待するよ。」
「JW版見なし寄付制度の創設ですね。絶対実現しませんけど。」
「何でも個人負担で、組織は口先だけ。」

「17から18節が“長老たちにできること”です。 17節では“皆さんが名前を覚えるなら,学んでいる人は気遣われていると感じることでしょう。”と、集会に来た人の名前くらいは覚えろと言っています。」
「年を取ると、名前が覚えられなくなるんだよね。家族の名前でもなかなか出てこなくて、アレとかこコレと言っている長老がいるんじゃないの。そういう長老には酷な話だね。」
「17節では、長老は研究に参加しろと言っています。ナイジェリアの人の話が出ていまして、“学んでいる人はたいてい,参加してくれた兄弟が長老だと知るとびっくりします。ある人はこう言っていました。『うちの教会の牧師はこんなことしてくれません。”だそうです。』
「この場合、長老というのを何か特別偉い人と誤解しているんだろうね。無学無教養で、職業がビルの清掃とは知らないのだろう。」

「18節が“教えている人を助け,励ます。”で、ある姉妹は“長老たちが励ましてくれたり,私の働きに感謝してくれたりすると,とてもうれしくなります。そういう言葉を掛けてもらうと,暑い日に冷たい水を飲んだ時のように爽やかな気持ちになります。”と言っています。芝居がかった言い方ですね。演技性人格障害ですか?」
「そうじゃないけど、他人から影響を受けやすい人だね。長老はマニュアル通りに行動しているにすぎないことぐらい、見抜いてほしいね。」

「19節がまとめです。 “今は誰かに聖書を教えてはいないとしても,学んでいる人がバプテスマを目指して進歩するよう,会衆の誰もが助けになれます。”という文章には泣けますね。多くのJWは研究生なんか一人もいないということですね。」
「泣くことはないよ。今どき、JWの研究生になる人はめったにいないということだから、喜ぶべきだよ。」

#1310 2021年05月21日 15:52:15

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“聖書から力を得るには(11)”で、辛い人生を送っているJW向けに聖書を活用した対処法という内容です。」
「辛い人生を送っているなら、JWをやめる事を勧めるね。」
「いろいろな事情でそうできない人もいますよ。」
「でも聖書は役に立つかな?自分の問題にふさわしい現代の専門書を読んだ方がいいよ。」

「1節は“あなたは今,難しい問題と闘っていますか。会衆の誰かの言葉に傷ついているかもしれません。”とあります。JWの問題というのは、まず会衆内の人間関係のようです。」
「JWの人間としての質があまり高くないことは組織も知っているということだね。」

「2節に、聖書からの学び方として、“次の4つのことを順番に行ってみましょう。(1)祈る,(2)イメージする,(3)じっくり考える,(4)実行する。”とあります。」
「これで効果があるという根拠はあるのかな?恐らく頭の中で考えただけだよ。」
「5節に“聖書を読んでもじっくり考えないなら,それはジグソーパズルのピースをテーブルの上に広げるだけで,組み立てないようなものです。じっくり考えることはパズルを組み立てることに似ています。”とあります。」
「聖書はパズルなの?真面目に言っているのかな?」
「JWはパズルのピースを適当にいくつか選んで、無理矢理くっつけて完成だ、としてきたと言えますね。」
「JWの聖書解釈がまさにそのようなものだね。」

「7から13節が“ダビデ王から学ぶ”です。 7節には“友達や家族に信頼を裏切られたことがありますか。もしあるなら,ダビデ王と息子のアブサロムに関する記述を考えるとよいでしょう。”とあります。裏切り問題の対処法をダビデから学ぶのだそうです。」
「アブサロムはダビデに反逆して王位を奪おうとするけれど、結局戦争になり、敗北し、殺されてしまう。これから何を学ぶの?軍事力の強い方が権力を握るということかな。」
「(1)祈る,(2)イメージする,(3)じっくり考える,(4)実行する、をダビデになったつもりで行うのですよ。8節では“この問題に立ち向かうために助けとなる原則を見つけられるよう,助けてください。”と祈るよう指導しています。」
「その次に、イメージするわけね。」

「9節に“その時,ダビデは重い病気だったようです。(詩 41:1-9)”とありますが、これはウソでしょう。」
「詩篇41は“ダビデの歌”とあるけれど、これは後からつけられたもので、たぶんダビデの作ではないよ。」
「アブサロム謀反の知らせを聞いたダビデは、サムエル二15:14では“ダビデは直ちに,共にエルサレムにいる家来たち皆に言った。「今すぐ逃げましょう。さもないと,アブサロムから誰も逃げられなくなります! 急ぎなさい。”と言ってエルサレムから脱出します。病気のようには思えません。」
「その後の対応も的確で、病人ではないよ。」

「10節で“次に,ダビデがこうした出来事を経験した時にどんな気持ちだったかをイメージしてみましょう。”とあります。“ダビデは,人間不信になったり,ほかの友たちもアブサロムの味方になっているのではないか,と疑ったりしてもおかしくありませんでした。”などとありますね。」
「このアブサロム謀反事件で醜悪なことは、ダビデが側室10人だけはエルサレムに置いてきたことだね。その後どうなったかというと、サムエル二16:22には“アブサロムはイスラエル全体の目の前で,父親の側室たちと関係を持った。”とある。この時、ダビデがどんな気持ちだったかをイメージすればいいんだね。」

「サムエル二20:3には“ダビデはエルサレムの家に戻ると,留守の家の番として残しておいた側室10人を集め,監視付きの家に入れた。食物を供給したが,彼女たちと関係を持つことはなかった。彼女たちは,夫が生きているにもかかわらず,やもめのような生活を送り,死ぬまでずっとそこに入れられていた。”とあります。ダビデの気持ちをイメージします。」
「10人の側室に何の罪があるというのかな?置き去りにするほうが悪いだろう。ダビデの女性に対する態度がよくわかるね。」

「11節には“「ダビデは問題に立ち向かうためにどんなことをしただろうか」と考えてみてください。”とあります。ダビデはアブサロムの謀反に対して何をしましたか?」
「サムエル二15:29に“ザドクとアビヤタルは真の神の箱をエルサレムに戻し,そこにとどまった。”とある。この二人は祭司だけれど、エルサレムで知ったことをダビデに知らせるという仕事をする。フシャイもエルサレムに戻して、アブサロムの側近になり、“あなたは私のために,アヒトフェルの助言が実行されるのを阻むことができます。”と指示を与えている。」
「敵の情報をつかみ、また偽情報を与えて敵の作戦を妨害する。嫌いなJWには同じことをしなさいということですね。」

「それからダビデは外国人の傭兵を抱えていた。これが勝因だね。サムエル二5:18“王と共に出発する家来たち,ケレト人,ペレト人,王に付いてきたガトの人600人の皆が王の前を通り,王は確認を取った。”とある。ここに上げられているのは外国人傭兵部隊。彼らは戦争のプロで、アブサロムの軍は農民からかき集めた素人軍。ダビデ軍が一方的に勝ったようだ。」
「傭兵はお金を払って雇う兵士ですよね。資金力と日ごろの備えが大事という教訓ですね。」
「ダビデから学べることというと、嫌いなJWに対しては、周囲の人間を贈り物攻勢で買収し、味方になってもらうことだね。しかも、日ごろからそうしていることが大事。そのためにはお金がかかるので、宗教にかまけていないでしっかりお金を稼ぐ。」

「12節に“エホバはどのようにダビデを助けましたか。”とあります。詩篇3から試練を乗り越える力を与えたと言っていますが、違いますね。」
「サムエル二には超自然的な介入はほとんどない。ダビデの才覚で困難をなんとか乗り切った。ダビデのような頭のいい悪人には神の助けは必要がないということだね。」

「13節に“「どのようにダビデに倣えるだろうか」と考えましょう。問題を解決するためにすぐに行動してください。”とあります。ダビデと生きている環境が違いすぎて、倣いようがありません。」
「13節には“マタイ18章に記されているイエスのアドバイスを,状況に応じて,直接または原則として当てはめることができます。”と答えが書いてあるよ。結局ダビデの話とはつながらないね。」

「14から20節が“パウロから学ぶ”です。 14節には“エホバに仕えることを家族から反対されていますか。あるいは,エホバの証人の活動が厳しく制限されているか,禁止されている国に住んでいますか。”とあります。そういう人は“テモテ第二 1章12-16節,4章6-11,17-22節を読むと励みが得られるでしょう。”とあります。」
「テモテは偽パウロ書簡で、パウロが著者じゃないよ。」

「今度は(1)祈る,(2)イメージする,(3)じっくり考える,(4)実行する、を投獄されているパウロになったつもりで行うのですよ。」
「20節に何をすべきか答えが書いてあるよ。“試練の下でも忠実であり続けるには,祈ってエホバに頼り,聖書を研究する良い習慣を保つことが必要です。そして,私たちにできる最も重要なことはエホバに栄光をもたらすことだという点を忘れてはなりません。”だそうだ。JW作成のビデオとかは見なくていいみたいだね。」
「結局、試練の下では頼れるのはエホバしかいないということですね。信者に偉そうにあれこれ命令する組織は何もしてくれないということです。」
「命令じゃなくて、提案なんだよ。全ては信者の自己責任。奉仕活動中に強姦されようが殺されようが、組織は関係ない。輸血を拒否して死んでも、組織は関係ない。」

「20節に“私たちもパウロのように,エホバに仕えているという理由で迫害されることになります。(マル 10:29,30)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「“イエスは言った。「はっきり言いますが,私のため,また良い知らせのために”とある。“エホバに仕えるために”なんてことは出てこない。パウロはエホバの証人じゃないよ。」

「21,22節が“聖書中のほかの人物からも学べる”です。これは単なる付け足しですね。」
「21節に“日本で開拓奉仕をしているあや姉妹は,ヨナに関する記述を学んで公共エリア伝道を恐れずに行えるようになった,と言っています。”とあるけれど、本当にヨナ記をよんだのかな?」
「ヨナは模範的な人物ではないですよ。」
「ヨナ3:3,4に“ニネベはとても大きな都市で,歩くと3日かかる広さだった。 ヨナは都市に入って1日歩き,「あと40日でニネベは滅ぼされます」と知らせた。”とある。ヨナは1日しか活動していないし、伝えたメッセージも短かすぎるだろう。ヘブライ語でわずか5語だよ。悔い改めよ、とさえ言っていない。」
「嫌々やらされているという感じが出ていて、JWと似ています。」

「22節に“音声劇や動画や「その信仰に倣う」のシリーズは,聖書の記述を生き生きとイメージするのに役立ちます。”とあるけれど、これが一番言いたかったことじゃないの?」
「JW作成のビデオじゃないですか。それなら20節にもそう書いてほしかったですね。試練のもとで一番役立つのは聖書よりもJWの音声劇や動画です、と言えばいいのに。」

「最後の23節で“サタンが支配する世界で生活していくのは大変なことです。”とあるけれど、JWの生活が大変なのはサタンが世界を支配しているからじゃなくて、奇妙な宗教にかまけてまともに働かないからでしょう。」
「本当はエホバという神が何もしてくれないからですよ。」
「それでも“エホバは私たちを必ず助けてくれます。そして,聖書から力を得るなら,どんな問題にも立ち向かうことができるのです。”と空虚な約束をしてこの記事はおしまいだ。これで励まされる人がいるのかな。」
「もうすぐ、まもなく、近々終わりが来ます、と力強く言ってくれると、多少励まされる人もいるんじゃないですか。」

#1311 2021年05月28日 15:43:11

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“愛は憎しみを耐え忍ぶ力となる(12)”で、カルト宗教と非難されているJWの自己弁護という内容です。」
「JWによると、悪いのは自分たち以外で、自分たちは清く正しいらしいね。」

「JWは自分たちが周囲から憎まれていると思っているようですが、これって自分自身を過大評価していますね。」
「憎まれるほどの存在感はないでしょう。大多数の人はJWのことを知らないし、関心もない。今まで、その無知無関心に付け込んで、善良そうなふりをして人々に近づき、信者を増やしてきた。」
「JWの身近な人以外は、JWの存在にさえ気づいていない人が多いなんて、伝道活動数十年の成果がその程度とは思いたくないですよね。」
「無視されるより、憎まれているほうがましだと思っているのじゃないの。」
「JWを憎んでいるとしたら、JWの子どもたちじゃないですか?」
「そうだろうね。カルトの最大の被害者は子どもたちだ。」

「自分たちが憎まれるのは、2節では“イエスに従う人たちは,世の人々から憎まれます。なぜなら,イエスと同じく、「世の人々のようではない」からです。”と説明しています。”」
「JWはいつからイエスの弟子になったの?イエスが言ってもいないこと規則として定めて、信者に強制しているだろう。JWはジェホーバーの弟子でしょう。」
「“世の人々のようではない”ことを強調したいようで、“政党を支持したり,国旗に敬礼したり,国歌を歌ったりはしません。”とあります。」
「その種のことが問題になりJWが憎まれている国は何か国あるの?数字を示して欲しいな?少なくとも日本は当てはまらない。」

「“敵対する者たち全てをその王国が間もなく滅ぼすことを人々に伝えています。”と、これも憎まれる原因と考えているようです。」
「そんなこと伝えているかな?最近は、カルト呼ばわりされるのを避けるため、耳ざわりのいいことしか言わないでしょう。しかも、まもなく滅びるなんて150年前から言っているわけで、そんなことを真面目に言っても、カルトにだまされている人として同情されるだけで、憎まれることはないよ。」

「3節では“私たちはさらに,神の正しい基準に従って生きているという理由でも憎まれます。”といっています。現実を正しく認識していませんね。」
「児童性的虐待が起きても組織的に隠蔽してきたこと。未だに犯罪者に有利な二人の証人ルールを変えようとしないこと。女性が被害者であることが多い性犯罪を男の長老だけで処理し、女性を排除していること、被害者に謝罪したり、補償したりしないことなどなどで、関係者から憎まれていることがわからないのかな。」

「3節に“多くの人たちは,神によって滅ぼされたソドムとゴモラの人たちがしていたようなひどく不道徳な行いを悪いことだとは思わなくなっています。”とあります。同性愛とはっきり書かないところがずるいですね。自分たちは同性愛者を差別しているから憎まれていると思っているようです。」
「JWが女性差別的で、同性愛者嫌いで、性的なことに異常にこだわるなんて誰も知らないよ。同性婚が法的に認められる国が増えてきて、同性愛者を差別しないと気が済まないJWとしては危機感を持っているのだろうね。」
「これからは同性愛者ということで排斥にすると、社会的に差別団体として問題視されることがありえますよね。」
「幾つかの国でそうなるかも。その場合、組織としては税制面で優遇を受けられないというのが一番嫌だろうね。」

「5から10節が“エホバへの愛”です。 エホバへの愛があれば耐えられるようです。」
「7節では家族からの反対について述べているけれど、“私たちは親族からどう思われるとしても,親族を敵と見なすことはありません。エホバへの愛が深まるほど,人々への愛も深まるからです。”とあるのは、ウソだろう。」
「反対する家族がいると、サタン呼ばわりするのが普通じゃないですか。サタンに支配されているとか、サタンが乗りうつっているとかいって、反対する家族を無視するように勧めます。」
「その結果、その人が離婚されて、生活に困窮するようになっても、JWは誰も責任は取らないし、助けるのは初めだけで、やがて見捨てる。」
「離婚され、母子家庭となり、肉体的にも精神的にもボロボロになって、病気になってもろくな治療も受けられず早死にした女性JWはたくさんいますよ。」
「復活するから使い捨てでもいいということかな。」

「8節に、家族からの反対を受けたジョルジーナ姉妹の体験談が出ています。“母は背教者と連絡を取っていたのです。そして,背教者の考えを持ち出して,私を攻撃してきました。私を侮辱したり,髪を引っ張ったり,首を絞めたり,出版物を捨てたりもしました。”とあります。“背教者”というのは元JWのことですよね。」
「子どもがカルトに入信しそうになった場合に相談できる団体や教会は世界各地にある。しかし、この母親はそのような団体や教会に頼らなかったようだ。その様な団体が暴力をふるう事を勧めることはないよ。結局施設に入れたとあるね。」

「9節では“施設にいた時には,1人の姉妹が私を家に呼んで,聖書の勉強ができるようにしてくれました。”とあります。この施設が問題ですね。JWとの接触を認めているわけですから。そしてJWの勉強を聖書の勉強と誤認しています。だまされていますね。」
「この母親の取った行動は不適切だったね。そのため娘をカルトに奪われた。」
「9節に“母からの反対が始まったのは,私がちょうど聖書全体を読み終えた日でした。それで,これが真理だと心から確信し”とあります。その時、まだ10代ですよ。10代の女の子に聖書の何がわかるというのでしょうね。」
「だから、母親は聖書のことをよく知っている牧師でも頼って、娘と話あってもらえばよかったんだよ。ところがこの母親はいいかげんな施設に送っただけ。」

「11,12節が“兄弟姉妹への愛”です。 兄弟姉妹への愛は試練を耐える力になるそうです。」
「11節で“それでパウロは,約1年後,「テサロニケのクリスチャンへの第二の手紙」の中で,「一人一人がいっそう愛し合うようになっている」と書くことができました。”とあるけれど、テサロニケ二の作者がパウロかどうかは多くの人から疑問視されているし、違うと思うね。」

「その主な理由は終末論が違うからですか?テサロニケ一5:1、2に“兄弟たち,時や時期については,皆さんに何も書き送る必要はありません。 エホバの日が夜に忍び込む泥棒のように来ることを,皆さんはよく知っているからです。”と、終末が突然来ることが強調されているのに、テサロニケ二2:3には“まず背教が生じて,不法の者つまり滅びる者が明らかにされてからでなければ,その日は来ないからです。”と終末の出来事には一定の順序があることが示され、その主な論点は“不法の者”を滅ぼすことになっていますね。」
「テサロニケ一では信者は不意の終末に備えて神の怒りを受けないようにすることが求められている。テサロニケ二では2:2に“神からのものに思える言葉や,口伝えの知らせ,また私たちから送られたかのような手紙により,エホバの日が来ているという趣旨のことを聞いたとしても,すぐに動揺して分別を失ったり,慌てたりしないでください。”とあるように、信者は終末が近いと慌てふためくのではなく、普段通りの生活をすることが求められている。」

「一と二の手紙の間で状況が変化したという説明がよくありますよね。」
「でも、二の作者がパウロと考えるJWは、11節にあるように“1年後”に二を書いたと想定している。短い期間に一と二が書かれたと想定している以上、大きな状況の変化があったとは考えられない。状況の変化があったのなら、パウロはなぜ二で一のことについて触れて説明しないのかという問題がある。」

「よく問題視されるのは、テサロニケ二3:17の“私パウロのあいさつを自分の手でここに記します。どの手紙も,この筆跡で私からのものだと分かります。”と言う文ですよね。」
「まずそれは事実に反する。それから、テサロニケ二はパウロが書いたとすると、それは初期の手紙ということになる。それなのに“どの手紙も,この筆跡で私からのものだと分かります。”と言うのは不自然。作者はパウロのニセ書簡が出回っていた後の時代の人で、自分の偽物を本物らしく見せようと余計なことを書いたと考えると納得がいく。」

「12節に戦時下でつらい体験をしたダニーロ兄弟の話が出ています。」
「恐らくウクライナ人だね。ロシアとの戦闘だ。」
「そこには“でも兄弟たちは,すぐに私たちを列車に乗せ,別の町に逃げられるようにしてくれました。みんなが示してくれた愛は決して忘れません。到着すると,その町の兄弟たちが食べる物を準備し,仕事や家を探す手伝いもしてくれました。”とあります。感動的ですが、このようなことはJWでなくてもありますよね。」
「JWにしか見られないかのような書きっぷりだけど、困ったときにお互い助け合うことは自然に生じる。様々な宗教団体も信者かどうかにかかわらず援助活動をする。しかしJWはJWしか助けないようだ。だから憎まれる。」

「13から17節が“敵への愛”です。 これも憎しみを耐え忍ぶ力になるそうです。13節には“神の聖なる力の助けがあれば可能です。”とあります。」
「14節に夫から反対されていた中東に住むヤスミーン姉妹の話が出ているけれど、夫は敵という理解なんだね。」
「“敵への愛”という部分に出ているわけですから、JWに反対する夫は敵ということです。サタンなのですよ。」
「それならさっさと家から出ていけ!!!と言いたくなるよ。」
「ヤスミーンというのはアラブ人の名前ですか?」
「英語のジャスミンのアラブ名だよ。恐らくレバノンのキリスト教徒じゃないかな。」
「レバノンは約40%がキリスト教徒ですね。JWはキリスト教徒を主なターゲットにしていますからね。」

「15節では“夫が意地悪をしてキッチンに土を投げ込んだ時には,きれいに掃除しました。侮辱されても,穏やかに接しました。夫が病気になった時には,優しく世話をしました。”とあります。台所に土を投げ込むなんて、この夫は子どもっぽいですね。」
「この夫は精神的に未熟で、妻に母親の役割を求めているんじゃないの。自分のことを世話してくれさえしてくれれば満足するタイプなんだよ。」

「17節では“今では喜んで私を集会に送り出してくれます。わが家の雰囲気はびっくりするほど良くなって,穏やかな毎日を過ごせています。”とありますから、この夫は妻がJWであることを認めたわけです。JWからすれば操作しやすい子どもっぽい夫だったわけです。」
「でもこの夫はJWにはなっていないようだ。その点は賢明だね。夫はJWに理解を示し、妻は夫の稼ぎで好きなだけ宗教道楽ができるわけで、宗教ビジネスとしてJWが理想としている夫婦の在り方じゃないの。」
「夫をJWに引き込むと、一度JWになったものの、後でJWに疑問を感じた夫がJWをやめるという場合があります。そのリスクを考えると夫はJWに引き込まないほうがいいですよ。ものみの塔ではそう言えませんが、これは組織の本音じゃないですか。」
「夫がJWになるだけで十分なのに、調子に乗って仕事もやめて貧困夫婦に転落し、寄付もままならなくなるというのは組織としては歓迎できないよね。伝道する人間は今でも多すぎるくらいでしょう。必要なのは金だよ。」

「17節に“ヤスミーン姉妹の例から,「愛は全てのことに耐え,……全てのことを希望し,全てのことを忍耐」する,ということが分かります。”とありますが、この姉妹の行動から愛は感じますか?」
「組織の言いなりに行動しているだけ。夫は敵であり、懐柔し利用する相手とみているだろう。JW活動を認めた夫が仮に病気になっても、集会や伝道を優先するだろう。その時文句を言っても無駄だね。」

「18、19節が“憎まれても喜べる”です。18節に“3つの理由があります。1つ目に,憎しみを耐え忍ぶなら,神に喜んでもらえます。(ペテ一 4:13,14)2つ目に,信仰が試されて強くなります。(ペテ一 1:7)3つ目に,永遠の命という非常に貴重な報いを得ることができます。(ロマ 2:6,7)”だそうです。JWはこれからますます憎まれるだろうけれど、こういう精神で憎まれることに耐えなさいということですね。」
「つまり、JWは精神的にも肉体的にも相当タフな人じゃないと務まらないということだね。普通の人にはJWは無理ということで、自分は普通だなと思ったらJWにはならないし、なっていたらさっさとやめる方がよい人生を送れるということだね。」

「19節に“現代でも,大勢の兄弟姉妹が難しい状況の中で忠実にエホバに仕え続けています。”とありますが、ウソでしょう。」
「JWの統計から推測できるけれど、バプテスマを受けた人の50%はJWをやめている。15分未満でも活発な伝道者と見なすというインチキをしなければ、不活発なJWは相当な数に上るでしょう。JWの子どもでJWに留まるのは3分の1程度。」
「JWの子どもは全員JWをやめて欲しいですけど、自立心も勇気も生きる意欲もない人にはJWで居続けることによって、安定した不幸な生活が送れるので、やめられないのですよ。」

#1312 2021年06月04日 15:48:39

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバは守ってくださる どのように?(13)”で、エフェソス6章の神からの武具の話が主な内容です。」
「2節に“私たちがエホバに喜ばれるようベストを尽くすなら,エホバは私たちのことも愛してくださいます。”とあるけれどJWらしいね。ベストを尽くさないと愛してくれないJWの神様ってヘンな神様と思わないのかな?」
「子どもが勉強やスポーツでベストを尽くしたときだけ、かわいがる親のようですね。」
「JWの教義は、信者は神様のために奉仕活動をしないとハルマゲドンで滅ぼされるというもの。そんな宇宙の創造者がいるかな?」

「4から11節が“神からの武具”です。 エフェソス6:13-17に出ている6つの武具について学びます。」
「6つの武具というと、ベルト、胸当て、履物、大盾、かぶと、剣だね。少し前に大盾を取りあげたばかりじゃないかな。」
「4節に“エホバは,サタンの攻撃から身を守るための武具を与えてくれています。(エフェソス 6:13-17を読む。)”とありますが、それでいいのですか?」
「エフェソス6:11に“悪魔の策略にしっかり立ち向かえるように,神からの武具を全て身に着けましょう。私たちは戦っているからです。人間とではなく,政府や権威,この闇の世の支配者たち,天にいる邪悪な天使の勢力と戦っています。”とある。ここでは信者と霊的な邪悪な勢力とその配下との戦いを想定している。しかし、この記事ではそれとはあまり関係のない職場や学校での話がよく出てくる。論点がずれてるね。」

「5節が“真理のベルト”で、“神の言葉である聖書の真理を表しています。”とあります。“聖書の真理を知っているなら,だまされずに済みます。”とあります。」
「“聖書の真理”というのはJWの教えの別名だよね。本当に“聖書の真理”を知っていたら、JWにはならないよ。」
「真理のベルトを身に着けるのは個人なのですか?エフェソスの会衆に向かって言っていると思うのですが。」
「6つの武具を一人の個人がローマ兵のように身に付けるというより、これらの武具を会衆全体で持つようにという事。組織の在り方を説いている。しかし、この記事では組織の在り方を反省するなんてことは全くない。」

「エフェソスの会衆がしっかり立つためには、まず真理のベルトを身に着けなさいということですね。困難や攻撃を予想し、それに耐えるためにはあくまで真理にとどまり、ウソや偽善を避けろということですね。」
「その点JWはダメだよね。エルサレム滅亡西暦前607年とか神の王国1914年とかウソに固執し、外部に対しては排斥した家族とも通常の付き合いを続けますというウソを繰り返す。真理のベルトではなくウソのベルトを巻いている。」
「エフェソス4:14に“私たちはもう子供であってはならず,波にもまれるかのように翻弄されたり,風に吹かれるかのようにさまざまな教えに振り回されたりしてはなりません。”とありますが、頻繁に変わる教義で振り回されてきたのがJWです。」
「ユルユルのすぐクルクル回るウソのベルトを着けているのがJWということだね。」

「6節が“正義の胸当て”で、“エホバの正しい基準のことです。”とあります。“胸当てが兵士の心臓を剣などから守るのと同じように,正義の胸当ては私たちの心を世の中の悪い事柄から守ります。”とあります。」
「正義と胸当ての関係をあまりまじめに考えるとこじつけ解釈になる。テサロニケ一5:8に“信仰と愛の胸当てを着け,救いの希望というかぶとをかぶりましょう。”とあるよ。ここでは胸当ては信仰と愛で正義ではない。組み合わせに深い意味はない。」
「イザヤ59:17の“そして正義をよろいのように身に着け,救いのかぶとをかぶった。”からきている表現ですね。」
「イザヤでは神が身に着けるわけだけど、エフェソスでは地上の組織が身に着けるという違いがある。」

「JWは正義の組織ではないので、この点でも失格です。」
「様々な不正がまかり通っているよね。児童の性的虐待でも、警察に通報するなと隠蔽し、二人の証人ルールのため被害者は泣き寝入り。とんでもない不正義だよ。」

「7節に“エホバの基準は自由を奪うものだ,と感じる人もいるかもしれません。しかし,私たちが聖書の教えに従って生きるのをやめてしまうことは,戦闘中の兵士が重たいからという理由で胸当てを外してしまうことに似ています。”とあるのですが、JW得意の論点のすり替えです。」
「“エホバの基準”を次の文では“聖書の教え”にすり替えている。“エホバの基準”というとJWが勝手に作った様々な規則のことでしょう。それがあたかも“聖書の教え”と誤認させるようにしている。」

「8節が履物で、“平和の良い知らせを伝える用意として履物を履く”のだそうです。“つまり,王国の良い知らせをいつでも伝えられるようにしておくべきだ,ということです。”と説明しています。」
「8節に“そして家から出られない時にも伝えようとしています。”とある。コロナ下でも伝道しろということだよね。」

「9節が“信仰の大盾”で、“私たちがエホバに対して持っている信仰を表しています。私たちはエホバが全ての約束を果たしてくださることを信じています。”と説明しています。」
「“背教者の教えに動揺したり,私たちの信条に批判的な人たちの言葉におじけづいたりしないよう,私たちを守ってくれるからです。”とある。つまり、自分たちを批判する人に背教者という否定的なラベルを張り、耳を傾ける気持ちは全くない、閉鎖的独善的な組織ということだ。」
「統治体は不完全な人間の集まりで、間違えることもあると一応言っていますが、本音は自分たちは常に正しいと思い込んでいるわけですね。」
「自分たちだけが正しいと主張することと、元信者を背教者などとののしり、接触を禁じるのはカルト宗教の特徴。」

「ここでは“信仰の大盾を持ってください。それによって邪悪な者の火矢を全て消すことができます。”と言っています。これは信仰を持てという意味ではないですよ。」
「エフェソス2:8で、“この惜しみない親切のおかげで,皆さんは信仰のゆえに救われました。この救いは皆さん自身によるものではなく,神からの贈り物です。”と言っている。エフェソスの人は信仰を既に持っていて、救われたと認定されている。」
「“信仰の大盾を持つ“というのは既に持っている信仰を用いて、邪悪なものと戦いなさいということですね。」

「9節で、信仰の大盾を持っていると、“たとえ給料が上がる仕事でも,集会や奉仕などの予定と重なる場合は,それを断ることができるでしょう。”と奇妙なことを書いています。仕事を優先する人は信仰の大盾を持っていないようです。」
「仕事優先するのはダメだなんてJWの勝手な規則の代表例だよ。それぞれの人は色々な事情を抱えて生きているわけで、お金をもっと稼がなくてはならない信者だっているでしょう。こんな駄文を書いて生活している宗教貴族にはわからないのかな。」

「10節が“救いのかぶと”で、“エホバが与えてくださる希望のことです。”と説明しています。“救いのかぶと”をかぶるとは希望を持つという意味ですか?」
「引照聖句にもなっているけれどテサロニケ一5:8に“救いの希望というかぶとをかぶりましょう。”とあるので、そう解釈したんだろうね。エフェソス2:8にあったように、エフェソスの人は既に救われているんだよ。救いの希望を持つという意味じゃないよ。死ぬまで奉仕活動をして、組織の命令に忠実であればハルマゲドンのときに救われるというJWの教えとは違う。」
「自分たちは救われているという確信が敵との戦いの際、かぶとのように信者あるいはエフェソスの会衆を守るでしょう、だから救いのかぶとを身に付けなさい。そんな意味でしょうか?」

「10節に“かぶとが兵士の頭を守るように,救いの希望は私たちの思考力を守ります。”とあるけれど、こじつけだね。突然思考力が出てくるのには驚きだ。かぶと→頭を守る→思考力を守る、という連想だろう。田舎の頭の悪い牧師でもこんなことは言わないだろう。」
「誤訳かと思ったら、our thinking abilityなので、誤訳じゃないですね。」
「10節に“どうすれば救いのかぶとをかぶることができますか。自分の考え方を神の考え方に合わせることによってです。これには,不確かな富にではなく,神に希望を抱くことが含まれます。”とあるけれど、これもこじつけ。いつのまにか働いてお金を稼ぐより、無給の開拓奉仕をしましょう、というような話になっている。」

「11節が“聖なる力の剣”で“神の言葉である聖書のことです。”とあります。これは間違いでしょう。」
「まず英文ではThe sword of the spirit(霊の剣)。日本語訳では霊は”聖なる力”と変えられている。聖書の改ざんだね。」
「聖書を改ざんしているJWには偽物の剣しかないということですね。」
「まぁ、そうだけど、霊の剣は聖書のことではないよ。エフェソス6:17は” 聖なる力の剣つまり神の言葉を手に取ってください。”とあるだけ。」

「その当時存在していたとすれば、いわゆる旧約聖書のことになりますね。」
「“神の言葉”というと通常のギリシャ語表現はho logos tou theou なの。例えば引照聖句のヘブライ4:12は“神の言葉は生きていて,力を及ぼし,どんな両刃の剣よりも鋭く”とあるけれど、この表現が使われている。」
「ところが、エフェソス6:17の“神の言葉”は違うわけですね。」
「そこではrhēma theouが使われている。“言葉”としてrhēmaという単語をわざわざ使っているとすると、聖書じゃない。”言葉”としてrhēmaがどういうときに使われているかというと、例えばルカ3:2だ。」
「“荒野でゼカリヤの子ヨハネは神から言葉を受けた。”とありますね。これは聖書という意味ではないですね。」
「エフェソス6:17の神の言葉は、聖書ではなくて、もっと広い意味の神の言葉という結論になる。」

「11節に“個人研究を行い,神の組織からの訓練を受けるなら,この剣を上手に使えるようになります。”というのは見当はずれですね。」
「霊の剣は霊に由来する剣という意味で、霊がもたらす神の言葉が敵を切り裂くわけで、JWの訓練とは無関係。」

「12から14節が“一人で闘う必要はない”です。 “兄弟姉妹の助けが必要です。”とあります。」
「もともと神の武具について述べているエフェソスの部分は個人ですべてを身に付けることを想定していない。エフェソスの会衆に身に付けなさいと述べている。」

「14節では“強力な天使たちの大軍も,私たちを助けてくれます。”とあります。実際に天使軍団がJWを助けたなんて話は聞いたことありませんけど。」
「一般向けものみの塔2017年No.5 “天使 本当にいる?”の“天使とは”によると、“天使たちは,人間よりも力や知能の点でずっと優れているとはいえ,やはり限界があり,知らないこともあります。”とあるし、“天使たちは,個性,神様に似た特質,自由意志を持つ者として創造されました。ですから,人間と同様,良いことをするか悪いことをするかを選べます。残念なことに,一部の天使たちは,神様に反逆する道を選びました。”とあるよ。そうだとすると、天使はあまりあてにできないね。」

「JWの中でよく知られた都市伝説はこんなものです。大量殺人犯の家を、そうとは知らず、JWの姉妹が訪ねた時、その男は何もしなかったけれど、その直後に訪ねてきたセールスの女性は無残にも殺されてしまった。逮捕後、なぜJWの姉妹を見逃したのかと尋ねられた時、殺人犯はその姉妹の後ろに強そうな男が立っていたからと答えた。それは天使だった!というものです。」
「天使による保護なんて、現実では起こらないので、空想の世界でそれを実現させているだけ。やがて現実と空想の区別がつかないおめでたいJWが出来上がる。」

「14節に“あなたは一人で闘っているわけではありません。エホバの指示に従っているのです。”とあるけれど、実際は霊感を受けているわけでもない、よく間違いを犯す、不完全な人間に過ぎない統治体の指示に従っているだけです。」
「これも現実と空想の区別がつかなくなっている兆候だ。」

「15,16節が“エホバはこれからも守ってくださる”です。 15節に“サタンは確かに強力ですが,王国の良い知らせが世界中の人たちに伝わるのを邪魔することはできていません。それは,エホバが私たちを守ってくださっているからなのです。”とありますが、ウソですね。」
「150年ほど伝道活動をしているけれど、JWの信者数は世界人口の1%にもならない少数で、JWが事実上活動していない国はイスラム圏をはじめとして相当あるよ。それに2020奉仕年度では平均伝道者数は前年比マイナスとなった。JWの言うようにエホバとサタンが戦っているのなら、エホバはサタンより無力という結論になる。」

「16節に“近い将来にはどんなことが起きますか。大患難の際,エホバは2度にわたって私たちを守ってくださいます。”とありますが、JWのいう大患難は起こりそうもないですよ。JWが想定している世界平和安全宣言なんか出ませんから。」
「大患難とかハルマゲドンとかは“啓示”をJW流に独自に解釈したものにすぎない。JWもそれはよくわかっているんじゃないかな。“啓示”に関する本なんか、過去に何度も書かれたけれど、みな書き直されるか廃棄処分になっている。」
「本当に優れた聖書関連の書籍なら100年たっても通用しますが、JWにはそのようなものは一つもありませんね。」

#1313 2021年06月11日 14:59:07

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“「その歩みに……しっかり付いて」いく(14)”で、イエスに倣えといいながら、貧乏なやもめの寄付の話を取りあげて、寄付をもっとしろ、という内容です。」
「主題聖句はペテロ一2:21だけど“しっかり付いてくる”という訳はどうかな?単に“付いてくる”じゃないの。」
「協会共同訳は“その足跡に続くように”です。“しっかり”はJWの勝手な挿入ですね。」
「JWは誠実に訳そうという気がないよね。信者に対して、イエスに倣うだけでは不十分なのです、しっかり付いてくるとここに書いてあるでしょう、と過大な要求するつもりだね。」

「1節に“雪に覆われた危険な山道を何人かで歩いているところを想像してみてください。”とありますが、“山道”という訳もヘンですよ。冬山登山なんて危険すぎます。」
「元の単語は“wilderness”で“荒野”でしょう。日本のJWの方が危険が大きいということで勝手に変えたんじゃないの。」

「2節に“真のクリスチャンである私たちは”とありますが、その根拠なんてありませんよ。」
「自称“真のクリスチャン”にすぎないことはJWだって知っているよ。でも、自分たち以外は“偽のクリスチャン”ということを主張しているわけで、一見おとなしそうなJWだけれど、本当は敵意と悪意の塊だということがわかるね。」

「3から5節が“イエスの歩みに付いていくべきなのはなぜか”です。 3つの理由が出ています。一つ目は“エホバといっそう親しくなれる。”からだそうです。」
「よく理解できないね。エホバという神様については、旧約にいろいろ書かれている。エホバと親しくなりたいなら、旧約聖書だけで十分でしょう。実際、クリスチャンと自称しているくせに、旧約大好きなのがJWでしょう。」
「まあ、そうなのですが、JWは自称・真のクリスチャンですから、イエスに倣うとタテマエとして言わざるを得ないのです。」

「7節に“イエスはお父さんエホバに完璧に倣ったからです。それでイエスは,「私を見た人 は,父をも見たのです」と言うことができました。(ヨハ 14:9)”とあるけれど、エホバ教ならではの解釈だね。」
「ヨハネではイエスは神と一つであるという思想ですから、こういう聖句があるわけですが、JWはイエスは天使の一人とイエスを軽く見るので、そうとは言えないわけです。」
「それで“イエスはお父さんエホバに完璧に倣った”という意味だと、こじつけざるを得ない。完璧に倣ったくらいで、“私を見た人 は,父をも見たのです”なんて言わないよ。」

「7節で“例えばイエスは,重い皮膚病にかかっていた人や,つらい病気に苦しんでいた女性をかわいそうに思って憐れみを示し”とありますが、これはエホバを倣ったのですか?エホバといえば、気に入らない人間を病気にして苦しめたり、殺したりする神様ですよ。」
「レビ記13章に皮膚病にかかった場合どうするか神様が指示をしている。その内容は祭司に見てもらい、13:4、5では“斑点が白く,見た目からして皮膚の下まで及んでおらず,毛が白くなっていないなら,祭司は患者を7日間隔離する。 祭司は7日目にその患者を診る。患部が元のままで,広がっていないようなら,もう7日間隔離する。”とある。それだけなんだよ。」
「宇宙の創造者なら、なぜ皮膚病の治療法を具体的に指示しないのでしょうか?意地悪なのか、知らないかのどちらかですよね。」

「レビ記14章には、皮膚病が治った場合の指示が出ていて、これがバカバカしい。」
「14:7には“それから,重い皮膚病からの清めをしている人にその血を7回はね掛け,その人のことを清いと宣言”するようです。血は鳥の血ですね。」
「こんなことをしているのはアフリカの奥地にいる魔術師くらいだろう。宇宙の創造者の指示とは思えないよね。でもこうするとエホバと親しくなれるんだろうね。」

「8節に、イエスの歩みについていくと“邪悪な世界に気をそらされないように守られる。”とあります。そして“イエスは亡くなる前の晩,次のように言うことができました。「私は世を征服したのです」。(ヨハ 16:33)これはつまり,世の人々の考え方や目標や行動に影響されないようにしたということです。”とあります。違いますよね。」
「イエスが影響されることがなかったから、イエスが世を征服したといったというのがJWの解釈のようだ。そんな意味じゃないよ。」
「単純に、この世の罪やサタンに打ち勝ったという意味ですよ。」
「ヨハネの思想はJWとは大きく異なるので、JWは単純な聖句でも、おかしな解釈をする。」

「10から15節が“どうすればイエスの歩みにしっかり付いていくことができるか”です。(1)福音書の記述を生き生きと思い描く。(2)福音書の記述を生活に当てはめて実行する。とあります。」
「11節に“エホバは,私たちが独り子イエスについて知ることができるように,4つの福音書を与えてくださいました。”とあるけれど、そう言っていいのかな?」
「福音書はたくさんあって、その中からカトリックの偉い人の意見で4つ選ばれたわけですよね。」
「単純に言うとそうだ。そこにエホバなる神の意志が働いていたとJWは主張するの?カトリックを敵視しているのにそんなこと言っていいのかな。」

「今の4福音書を一つの統一した正典として認める見方を確立したのは、エイレナイオスと言う人ですよね。」
「エイレナイオスは2世紀の初め頃生まれて、フランスのリヨンの町の司教だった人。エイレナイオスの前のリヨン司教は177年に殉教している。」
「この人はなぜ4つなのかについては、バカバカしいことを言っていますよね。」
「世界には東西南北という4つの地域があり、4つの方角からの風があるからとか、4体のケルビムがあるからとか、現代人には理解できない理屈を並べている。JWによると、これもエホバの働きのようだね。」

「16から20節が“神殿に来ていた貧乏なやもめ”です。 この記事の中心部分です。まず16節には“記述を生き生きと思い描く。(マルコ 12:41を読む。)”とあります。」
「貧乏なやもめの話をわざわざ取り上げるということは、信者に向かって、自分は貧乏だから寄付はできないという言い訳は許さないぞ、という組織からのメッセージだね。」

「17節では“マルコ 12:42を読む。”とあり、そこには“そこへ,貧しいやもめがやって来て,ごく小額の小さな硬貨2枚を入れた。”とあるのですが、これってすごい意訳ですよね。協会共同訳では“そこへ一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。”です。」
「JWの訳は教育水準の低い人でもわかるようにという配慮なのか、難しそうな所や複雑な部分は単純化してしまう。それで失われるものも結構多い。」
「レプトンというのはパレスチナ地域で使われた貨幣の単位ですよね。それがローマの貨幣の1クァドランスに相当するとローマ人向けに説明しているわけです。その辺のことが全て省略されています。」
「この部分は、マルコの福音書がローマで書かれたとする根拠の一つになっているので、ちゃんと訳して欲しい。」

「18節に“イエスは,このやもめがしたことに感動しました。”とあります。聖書にはそう書いていません。JWの創作です。マルコ12:43では“この貧しいやもめは,寄付箱にお金を入れたほかの人たち全てよりたくさん入れました。”といっていますが、だから感動したとは言っていません。」
「イエスのこの発言を、やもめをほめたものと解釈すると、イエスは強欲な宗教指導者と変わらないことになる。イエスは強欲とは無縁で、決まった住む家もない放浪者だよ。」
「イエスはこのやもめを見倣おうなんていっていません。また、このやもめがイエスの言葉を聞いて、イエスに従うようになったとも書かれていません。やもめは神殿に寄付をしましたが、イエスは神殿に対して好意的じゃないですよ。」

「この話の文脈が大事だね。やもめの話の直前に、“書士たちに気を付けなさい。”の話があって、そこには、“彼らは,やもめたちの家を食い荒らし”という一節がある。そして神殿に全財産寄付する貧しいやもめの話が来て、次にイエスは神殿が破壊されることを預言する。」
「マルコ13:2で“石がこのまま石の上に残って崩されないでいることは決してありません。”といっていますね。その神殿に全財産を寄付することをイエスが感動するはずがないと思いますよ。JWのいい加減な解釈ですね。」
「この文脈を考えると、貧しいやもめの話は、宗教指導者によってやもめたちが食い荒らされている実例だね。イエスは、このやもめをほめているわけではなく、嘆いていると解釈すべきだよ。」

「18節に“この忠実なやもめが,自分が持っているわずかなお金を全て寄付箱に入れたのは,エホバが世話してくださると信じていたからです。”とありますが違うわけですね。」
「統治体のように強欲な宗教指導者にだまされているからだよ。」
「19節では“この女性は,エホバにもっとたくさん寄付できたらどんなに良いだろう,と思っていたことでしょう。”とあります。JWも当然同じ気持ちであるべきということですね。」
「貧乏なやもめが何を考えていたかはわからない。寄付を受け取る側が、自分たちに都合の良いように推測しているなんて、醜悪で滑稽だね。」

「さらに19節では“ここから大切な点を学べます。エホバは,私たちが心を尽くし,自分の全てを尽くしてエホバに仕える時,喜んでくださいます。”と続くのですが、そんなことは貧しいやもめの話からは学べません。こじつけです。」
「イエスは貧しいやもめを見倣おうとか教訓にしましょうなんて弟子に言っていない。統治体のような強欲な宗教指導者だけがそう思う。」
「統治体には肥満している人が多いですが、肥満=強欲と思われがちです。統治体はJWという宗教のイメージを悪くしていますね。」
「統治体は清貧というイメージを保つよう努力すべきだよ。それなのに、動画では肥満体にスーツを着て愛嬌を振りまいている。統治体の姿を一般の信者が見るようになって、JWをやめたくなる人が増えたような気がするね。」

「20節で“エホバが努力を喜んでくれていることについて話して慰めてあげたい人が,誰かいませんか。”とあります。“例えば,年配の姉妹の中には,病気になったり体力が落ちたりして,以前のように奉仕ができないために,後ろめたく思ったり,”と続きます。偽善的ですね。」
「“後ろめたく思ったり”するように、組織が誘導しているわけだよ。信者に罪悪感を抱かせるというのはカルトの常套手段。若い時一生懸命仕えてくれたので、年をとったら好きなことをしていいよ、と愛のある神様は言うよ。」

#1314 2021年06月15日 10:28:19

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ジーザスはキリスト教では新約の後出し予言こじつけでマシーアハにされていますが、ユダヤ教やイスラム教、社会学視点のアプローチでも、エレミヤのような、神殿祭儀に否定的な預言者の一人という位置づけです。


「先生、見てください、なんと見事な組織、なんと立派な世界本部の建物なのでしょう」

「この大きな建物を見ているのか、一つの石もこのまま崩されることなく、他の石の上に残ることはない」


時々、諸行無常ぽいことも仰るジーザス先生ですが、キリスト教史で繰り返し現れては衰退する終末セクトの一つにすぎないものに、時間もお金も、人生のすべてを捧げている人たちを見たら、同じように嘆くでしょうね。


「皆は余りある中から入れている」


どうせいずれはなくなる宗教建造物のための寄付なんて、暇と金を持て余した人らが余った中から入れればそれで十分、褒めているのはこっちかもしれませんね。

#1315 2021年06月18日 14:41:26

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“イエスが亡くなる前に残した言葉から学ぶ(15)”で、イエスの最後の言葉から7つを取り上げ、そのJW流の教訓を学ぶという内容です。」
「杭にかけられたイエスの挿絵があるね。こんなインチキな絵を描いているのはJWだけ。」

「イエスが杭で死んだという根拠はスタウロスというギリシャ語は十字架ではなく杭であるという言語学的な根拠に基づいています。」
「JWには古代ギリシャ語の研究者はいないのに、そのようなことを主張している。でも古代ギリシャ語の専門家はその説を否定している。しかも1世紀には十字架のシンボルは使用されていたという考古学的証拠がある。」
「JWがイエスは杭で死んだことにしたのは1936年ですからね。80年以上イエスは十字架ではなく杭で死んだと言ってきたわけで、今更変えられないです。奇妙なことを教える奇妙な宗教でありつづけるしかないようです。」

「この記事で取り上げられている7つの言葉は、ルカから3つ、ヨハネから3つ、マタイから1つだ。つまり、マルコからは一つもない。マルコが描くイエスの最後はJWとしては無視したいのだろう。」
「マルコ15:34で“午後3時に,イエスは,「エリ,エリ,ラマ サバクタニ」と大声で叫んだ。これは訳せば,「私の神,私の神,なぜ私を見捨てたのですか」という意味である。”とあります。マルコではそれ以外何も言っていません。」
「マルコは一番早く書かれた福音書で、イエスの死の様子は一番本当に近いものじゃないかな。マルコではイエスは絶望のうちに死んだことになっている。」

「マタイとルカはマルコを資料として使用しているわけですが、イエスの死の様子は相当改変したわけですね。」
「ルカでは、イエスは平常心を保ち、周りの人を気遣う。ルカではイエスの最後の言葉は、“父よ,私の命をあなたの手に託します。”で、これはこの記事でも取り上げられているけれど、神と共にいるという安らぎに満ちた言葉になっている。」

「3,4節が“父よ,彼らをお許しください”です。 これはルカ23:34ですね。3節では“イエスは,自分の手と足にくぎを打ち込んだローマの兵士たちのことを言っていたようです。”とあります。本当にローマ兵のことですか?」
「協会共同訳では“〔その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの衣を分け合った。”となっている。カッコでくくられているよね。」
「これは初期の重要な写本でこの部分が欠落していることを意味しているわけですね。JW訳も古い版ではカッコでくくられていました。後の人がこの言葉を削除したということでしょうか?それとも書き加えた?」
「許す対象が誰なのかという解釈と関係してくる話なんだ。文脈から言うと、JWの言うようにローマ兵のようだけれど、新約聖書ではイエスの死に責任があるのはローマ人ではなくユダヤ人。だから許す対象はユダヤ人と理解される。」
「ローマに対して遠慮し、ユダヤ人を攻撃するというのが新約聖書の政治姿勢です。」
「この言葉はもともとあったけれど、後にクリスチャンの間で反ユダヤ主義が高まり、ユダヤ人を許すと解釈されたイエスの言葉が不都合になったので、写本から削除されたと推測されている。」

「4節が“イエスの言葉から何を学べるか。”で、“イエスのように,進んで人を許す必要があります。”だそうです。」
「イエスの特殊な状況での発言を今のJWに直接当てはめるのは無理があるね。」
「4節に” ある姉妹はこう言っています。「許すとは,悪いことを大目に見ることでも,やられっ放しになることでもない,ということに気付きました。”とありますが、違いますよ。JWでは悪は放置し、弱者は被害を受けても泣き寝入りすべきという教えです。」
「それだから、JWは許すことが強調される。被害者が黙っていれば、会衆内には何も問題がないことになるからね。問題が起きれば、加害者ではなく被害者に注意するのがJW。」

「5,6節は“あなたは私と共にパラダイスにいることになります”です。 ルカ23:43ですね。JWでは“今日あなたに言います。あなたは私と共に[王国ではなく]パラダイスにいることになります。”と言ったことになっています。これはJWの教義に合わせるための意図的な誤訳ですよね。」
「協会共同訳では“よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。”だね。これが正しい訳だけど、楽園はこれから来るものと考えるJWにとって不都合なので訳を変えた。」
「目の前にいる人に向かって、“今日あなたに言います”なんていいません。今日なのは当たり前じゃないですか。他のどの箇所でも、イエスもそんないい方はしていません。」

「悪人が“イエスよ,あなたがご自分の王国に入られる時には,わたしのことを思い出してください。”と言った時に、JWとしては、イエスにはこう言って欲しかったと思うよ。“悪人よ、まず聖書を勉強しなさい。それからバプテスマを受けなさい。そして伝道し集会に参加しなさい。寄付も忘れずに。それを死ぬまで続けたら、いつかパラダイスにいるかもしれません。”とね。」
「その後、悪人はがっくりとうなだれ死んだ、となりそうですね。」

「ルカの救済観は、救いは神によって与えられる、というもので、JWのように、死ぬまで組織のために働いてやっと楽園のチケットが得られるという思想じゃない。JWには受け入れがたいだろうけれど、悪人でも、イエスを信じたときに救われる、そういうメッセージの話。」
「受け入れがたいからと言って、聖書を改ざんするのはダメですよ。」
「ずっと改ざんしてきたのがJWの歴史でしょう。」

「6節に“イエスは死の直前に,信仰を示し始めたばかりの犯罪者に憐れみ深い言葉を掛けました。そうであれば,エホバは,ご自分に忠実に仕え,従おうとベストを尽くす人たちに,なおのこと憐れみを示してくださるはずです。”とあります。違いますね。」
「聖書を読む限り、エホバという神様は差別的で、自己中心的で残虐。細々とした律法を与え、守らないと死刑を連発する。」

「7,8節が“見なさい,あなたの子です! ……見なさい,あなたの母親です!”です。 ヨハネ19:26,27です。7節には“その日以降,ヨハネはマリアのこと を自分の母親のように世話しました。”とあります。」
「自分のことをイエスの母マリアと同じように組織が扱ってくれると誤解するJWがいそうで心配だね。」

「イエスの側に母マリアがいたとしている福音書はヨハネだけです。」
「他の福音書は、イエスは死に際して弟子たちや家族からも見放されたとしている。だから母マリアは登場しない。イエスの家族に対する関心はない。」
「それに対してヨハネでは死に瀕したイエスの周りに弟子たちや母マリアが集まっています。全然違いますね。」
「ヨハネは1世紀の終わりごろに書かれた一番遅い福音書で、その時代には聖母マリア崇拝とまでいかなくても、母マリアに対する関心が高まっていたことの反映じゃないかな。」

「8節に“家族や親族から反対されたり,縁を切られたりするとしても,エホバと組織にしっかり付くなら,イエスの約束通り,失ったものの「百倍を……得」ることになります。”とあります。だから、家族の意見など無視してJWになりなさいということのようです。家族を破壊する宗教ということがわかりますね。」
「あの時JWのおばちゃんが我が家に来ることさえなければ、我が家は幸せに暮らしていたはずなのに・・・と恨みに思っている人はけっこういると思うよ。宗教優先のため離婚され、その結果生活に困窮しても、組織は大して援助はしないし責任は取らないよ。」

「9,10節が“私の神,なぜ私を見捨てたのですか”です。 マタイ27:46です。9節に“イエスがこの言葉を語ることによって,詩編 22編1節の預言が実現しました。”とあります。」
「10節では、学べる点として“信仰を試す問題からエホバが私たちを必ず守ってくれると期待すべきではない,ということです。”とある。“私たちも,死に至るまで忠実を保つ覚悟が必要です。”と続く。これはロシアなどで迫害にあっているJWへのメッセージだよ。」
「エホバは何もしてくれないけれど、死ぬまでエホバに忠実でいないさい、ということですね。情けない神様です。」

「マタイ27:46は“エリ,エリ,ラマ サバクタニ”とイエスが叫んだことになっている。でも、エリはヘブライ語だけど、ラマ サバクタニはアラム語。へんなんだよ。JW訳では、マルコ15:34も“エリ,エリ,ラマ サバクタニ”となっているけれど、これはインチキ訳。」
「マルコ15:34は正しくは“エロイ、エロイ、ラマ サバクタニ”です。エリではなくエロイです。マルコとマタイの矛盾を気づかれないようにウソの訳をしたわけですね。」
「エリはヘブライ語、エロイはアラム語。ラマ サバクタニもアラム語。イエスはアラム語を話していたと考えられるので、マルコが正しく、マタイは間違いでしょう。」

「11,12節が“喉が渇いた”です。 ヨハネ19:28です。これも“「聖句が実現するため」 です。その聖句とは,詩編 22編15節です。”とあります。」
「その聖句が詩編22:15かどうかは意見が分かれる。喉が渇いたと言った後、“そこには,酸味の強いぶどう酒がいっぱい入ったつぼが置いてあった。それで人々は,そのぶどう酒を海綿に十分含ませてヒソプの茎に付け,イエスの口元に持っていった。”とある。この部分を重視する人は、詩編69:21の“喉が渇いているのに酢が与えられた。”のことだと言うよ。」

「この言葉から学べることは、10節によりますと“必要な時には,ためらうことなく助けを求めるべきです。”だそうです。」
「無理やりひねり出した教訓だね。こういう断片的な言葉をわざわざ取り上げて、教訓を学ばせるわけだ。」

「13,14節は“成し遂げられた!”です。 ヨハネ19:30です。13節によると3つのことが成し遂げられたそうです。“第一に,イエスはサタンがうそつきであることを証明しました。”と“第三に,イエスはエホバの主権の正しさを示し,”の2つは、JWのこじつけ解釈ですね。」
「それは、14節のマクスウェル・フレンド兄弟の“エホバ,忠誠を保つために,サタンがうそつきであることを示すために,あなたのお名前と主権を立証するために,私はベストを尽くしました”という話しに合わせるためだね。」

「15から17節が“私の命をあなたの手に託します”です。 ルカ23:46です。」
「英文では“Father, into your hands I entrust my spirit.”で、”私の霊“を託する。日本語版では霊は使用禁止みたいで、”命“に変えられている。霊と命は同じなの?」
「他の福音書と違って、ルカでは、イエスの最後の言葉は祈りの言葉で静かに死ぬわけですね。」

「16節にジョシュアの例が出ている。“難病と闘っていた15歳のジョシュアの例を考えてみましょう。ジョシュアは神の命令に反する治療を受け入れませんでした。”とある。輸血拒否して亡くなった少年だね。」
「“目ざめよ”1995年1/22 “ジョシュアの信仰 ― 子供の権利のための勝利”という記事に出ています。少年の死をJWの殉教者として宗教宣伝に使うのはやめて欲しいです。」
「輸血は“神の命令に反する治療”ではないよ。単に統治体の命令に反する治療にすぎない。」
「” 命が危険にさらされる状況で信仰を試されるとしても,エホバに忘れられることはないと信じてエホバへの忠実を保つだろうか。”とあります。信者は輸血を拒否して死ぬ覚悟をしなさいという組織からの命令です。」
「JWは命よりも律法という律法主義者だね。生命尊重という基本的な価値観の欠けた異常な宗教からは一日でも早くやめた方がいい。」

#1316 2021年06月25日 14:22:09

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、” 贖いに対する感謝の気持ちを保つ(16)”で、イエスが苦しんで死ななければならなかった理由について考えるという内容です。」
「ローマ帝国にたて突いたと判断されたからじゃないの?」

「2節に“私たちに贖いが必要なのはなぜでしょうか。モーセの律法から分かる通り,公正に関するエホバの基準によれば,命は命で償う必要があるからです。(出 21:23,24)”とあります。引照聖句がおかしくないですか?」
「これは、争いに巻き込まれて流産した女性の話だよね。そんな特殊例を持ち出されてもね。」
「命には命で贖うというのは人間に対する命令で、なぜ神がそれに拘束されるのかよくわかりません。」
「神は宇宙の主権者らしいけれど、自由はないわけだ。主権者なら自由にルールを変えられるはず。神が“罪は許された。”と宣言すれば済む話じゃないか。それができないのなら主権者じゃないね。主権者論争は負けだね。」

「3節に“イエスは,天のお父さんと私たちへの深い愛に動かされて,自分 の命を進んで差し出しました。”とあります。“死ぬまで忠実を保ったのです。”とありますが、イエスは3日後に復活することを知っていたんじゃないですか?」
「そうだね。例えば、マタイ16:21には“この時から,イエスは,自分が必ずエルサレムに行って長老と祭司長と律法学者たちから多くの苦しみを受け,殺され,3日目に生き返る,ということを弟子たちに説明し始めた。”とある。」

「死んでも3日目に生き返るなら、死ぬまで忠節といっても、たいしたことないですよ。」
「すごい痛い手術をするけれど、3日目には治るからと言われたら、喜んで手術を受ける人はいるよね。それと似ているね。」
「イエスが復活することを知っていたというのは、キリスト教の教義として問題ですよ。復活することは知らなかったけれど、犠牲になったというストーリーにしたほうがイエスに対する感謝が増します。福音書を書いた人はもう一工夫して欲しかったです。」
「同じことはカール・バルトという神学者もいっている。復活は神の自由な行為によるものだったとね。イエスは復活することなど知らずに死んだ。しかし神が死んだイエスを肯定し、神の自由な裁断で復活させたのだ。このほうが宗教としてはいいと思うよ。」
「でも、その考えは三位一体の思想とは両立しないので、正統的なキリスト教からは受け入れられないわけですね。」
「三位一体の思想ではキリストも神と一体だからね。」

「4から8節が“イエスが苦しまなければならなかったのはなぜか”です。 イエスの最後の様子が4節に出ています。」
「4節に“イエスの傷だらけの背中に重い杭を載せて運ばせます。”とあるね。JWは十字架ではなく杭で死んだと主張しているからそうなるわけだけど、地面に埋める部分も含めるとその杭は身長の3倍くらいの長さが必要になる。そんな長くて重いもの運べるわけないよ。」
「十字架刑の場合は、運ばせるのは横木ですよね。それなら持てます。この点だけでも、杭による処刑がありそうもないことがわかりますね。」

「4節では“そばにいた人が代わりに運ぶよう命じられます。(マタ 27:32)”とあるけれど、ヨハネ19:17では“イエスは自分で苦しみの杭*を担いで,どくろの場所といわれる所へ出ていった。”とある。ヨハネだけはイエスが担いだことになっている。」
「ヨハネではイエスの死の悲劇性を和らげたいという意図があるからでしょうか。」
「イエスの死が一番悲劇的に描かれている福音書は、初めに書かれたマルコ。後になればなるほど悲劇性は薄まり、最後のヨハネではイエスは平然としている。」

「“ユダヤ人の支配者たちはイエスをあざけっています。”とあります。引照聖句のルカ23:35に“支配者たちは冷笑しながら言った。”と訳されているけれど、協会共同訳では“議員たち”です。」
「その点は福音書間で一致しない。マルコ15:31では“祭司長たち”。マタイ27:41も“祭司長たち”。しかしヨハネには出てこない。ヨハネでは祭司長たちは過ぎ越しの祭りのために忙しくて、わざわざ処刑現場まで来る暇がないんだよ。」

「“母マリアは涙を流しています。”とありますが、そんなことは聖書のどこにも書かれていません。勝手に想像して脚色しています。子ども向けの記事ですか?」
「イエスの処刑で母マリアが登場するのはヨハネだけ。そこでは“立っていた。”とあるだけ。」

「“イエスの苦しみは何時間も続きます。”とありますが、これもヨハネとそれ以外の福音書では違いますよね。」
「イエスの処刑の開始は、ヨハネでは正午すぎに、他の3つは午前9時と思われる。死亡したのは午後3時ごろ。処刑時間は6時間か3時間のどちらかなので、“何時間も”とあいまいにしている。」

「5節に“イエスにとって,どんな方法で処刑されるかよりも,もっと気に掛かることがありました。それは,どんな罪状で処刑されるかということです。”とありますが、罪状は福音書によって微妙に違いますよね。」
「マルコとルカでは“ユダヤ人の王”、マタイでは“ユダヤ人の王イエス”、ヨハネでは“ナザレ人イエス,ユダヤ人の王”で、“ヘブライ語,ラテン語,ギリシャ語で書かれていた。”とある。」
「イエスはユダヤ人の王を自称した。つまりローマ帝国に反逆したということで処刑されたわけですね。」
「イエスがどんな罪状で処刑されるかが気にかけたというのは、何を根拠にそう言っているのか不明だね。」

「6から8節にかけて、“どうしてエホバは愛する独り子が苦しんで死ぬままにしたのでしょうか。3つの理由を考えましょう。”の答えが出ています。“第一に,イエスはユダヤ人を災いから解放するために杭に掛けられる必要がありました。”、“第二に,エホバはイエスが将来,大祭司としての役割を果たせるように備えさせていました。”、“第三に,重要な質問に対する答えを出す必要がありました。厳しい試練に遭っても神への専心を示せる人間はいるだろうか,という質問です。”とあります。」
「これはJWの新しい教義?1ではユダヤ人を解放するためといっているけれど、イエスの死の意義はユダヤ人限定のものなの?その根拠は示されていないよ。」
「第2のイエス=大祭司というのはヘブライ書だけの思想ですよね?」
「ヘブライ書以外にイエスは大祭司であるなんてことは書かれていない。」

「7節で、イエスは“極度のストレスを経験したので,私たちの必要を理解し,「試練に遭っている[私たち]を助けることができます」。”とありますので、イエスの死は一種のトレーニングだったということですね。わかりやすいですが、キリスト論としてどうですか?」
「JWは小学生でもわかるような話ししかしないわけで、JWが取り上げると、イエスの死の意義も矮小化される。」

「第3も問題ですよね。厳しい試練といっても、3日後に復活すると知っているわけですからね。」
「8節には“イエスは忠誠を保ち,サタンがうそつきであることを証明しました。”とある。JWは宇宙主権論争というのをサタンが提起して、それでどうのこうのといっている。サタンがウソつきであることが証明されたのなら、宇宙主権論争も決着がついたんじゃないの。」
「そうではないようです。JWの教義ではJW一人一人がこの宇宙主権論争に直面しなければならないと言っています。そのためJWは死ぬまで組織に忠誠を保たなくてはいけないのです。」
「年老いてくたびれたJWがそんな重責を担っているとは知らなかったな。」

「9,10節が“ヨハネは贖いに深く感謝していた”です。 使徒ヨハネは偉い、という話しです。」
「9節で“100歳近くになった時,ローマ帝国から危険人物と見なされ,パトモス島に島流しにされました。”と啓示の作者が使徒ヨハネといっているけれど、違うだろう。」
「啓示では作者は単にヨハネと名のっていますね。それが使徒ヨハネと混同されたわけですね。」
「啓示21:14に“都市の城壁には12の土台石もあり,それには子羊の12使徒の12の名前が刻まれていた。”とあるように、ヨハネは何度か使徒たちに言及しているけれど、その一人が自分だなんてことは一度も言っていない。」
「ヨハネの福音書の作者とも違いますよね。」
「文体が違うし、思想も違う。福音書のヨハネは終末論的なものに無関心だけど、啓示は終末論そのものがテーマだからね。」

「11から13節が“贖いに対する感謝を示すには”です。 具体的な指示を出しています。“罪への誘惑を退ける。”と“仲間の兄弟姉妹を愛する。”です。」
「11節の上には罪を退ける様子の写真があるけれど、ポルノ、タバコ、賄賂を退けている様子だ。JWにとって罪の第一はポルノみたいだ。児童性的虐待よりも重大な罪なんだろうね。」
「愛する対象が“仲間の兄弟姉妹”に限られているのがJWですね。」
「贖いに対する感謝が仲間をひいきするという理屈が全くわからない。」

「14から16節が“贖いに対する感謝を深めるには”です。 “贖いに感謝していることをエホバに伝える。”、“贖いについてじっくり考える。”、“贖いについて教える。”の3つをするようです。」
「いつもの集会に参加して伝道しなさい、がないね。」
「3番目の“教える”がそれにあたるようです。16節では、イエスの死の記念式に参加し、熱心に招待することを求めています。」

「16節の最後に“エホバは,イエスについて教えることを私たちに委ねてくださいました。これは本当に素晴らしい務めです。”とあるけれど、英文ではa privilegeで”素晴らしい特権です。”なんだよ。」
「“務め”というのは“義務、責務”ですよ。英語ならdutyです。だいぶ意味が変わっていますね。」
「日本語訳者は“特権”という言葉がJW的な言い回しで嫌いなんだろう。」
「日本のJWはこうしてさまざまな特権ではなく義務を背負わされるわけですね。」

#1317 2021年07月02日 14:35:56

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバはあなたを大切に思っています(17)”で、自分は愛してもらえないという気持ちを乗り越えるにはどうすればよいかを考えるという内容です。」
「今回も精神的に少し病んでいるJW向けの記事だね。最近はその種の記事が多いよ。」
「ところでワクチン注射しましたか?」
「職場でしたよ。副反応は2回目の注射の後、多少だるさを感じたくらいだね。」

「1節は“「エホバはご自分の民のことを喜[んで]」います。(詩 149:4)本当にうれしいことです。”で始まります。この聖句の意味は何ですか?」
「詩編149は“勝利の歌”というもので、イスラエルの勝利を祝っている。詩編149:6-8は“喉を震わせて歌で神を賛美し,手に両刃の剣を持て。 国々に復讐し,人々を処罰するために。 国々の王たちを鎖で縛り,国々の高貴な人たちに鉄の足かせをはめるために。”とある。神はイスラエルに味方し、他の国には復讐してくれるという願望を詩にしたもので、現代のJWとは何の関係もないよ。」

「2節は二人の姉妹の話で、オクサナ姉妹は“子供の頃のつらい記憶に悩まされるようになりました。自分はエホバに愛される資格なんてなかったんだ,と思いました。”といっています。これは恐らく性的虐待のことですよ。」
「子どもの時、性的虐待を受けた人は大人になっても無力感や自己嫌悪に悩まされることが多い。虐待されて、快適で安心できる人間関係を経験することなく育ってしまうと、良好な自己像を形成しにくくなる。“自分は愛される価値のないだめな人間だ。”と思いがちで、自己尊重感も育ちにくい。そのため自殺も多い。本当にかわいそうだ。」
「“子供の頃に同じような経験をした開拓者のゆあ姉妹もこう言っています。”とあり、この記事の隠れたテーマはJWによる児童性的虐待ですね。」
「正面から取り上げて、被害者をなぜ救済しないの?」

「4から6節が“エホバに愛されていない,という気持ちは危険”です。 4節に“エホバから愛されているという確信があると,難しい状況でも心を尽くしてエホバに仕えたいと思うものです。一方,その確信がないと「力が失われ」ます。(格 24:10)”とあるのですが、引照聖句はこんな意味じゃないですよね。」
「格言24:10は” 苦難の時に落胆するなら,力が失われる。”とあるね。協会共同訳では” 苦難の日には心が萎え/力が弱まる。”で、新改訳では” もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。”となっている。」
「かなり違いますね。」
「格言24:10はヘブライ語では5つの単語しかない。文が不完全なの。それを直訳しても意味がわからないので、訳者の解釈が必要となる。」
「新改訳がよさそうですね。」
「その場合、自分の力は、苦難に直面するまでわからない。苦難に直面して落胆するなら、あなたは力が弱いということだという意味になる。」

「6節に、エホバに愛されていないと感じた場合、どうすべきか書かれています。“そのような考えをすぐに払いのけましょう。エホバに助けを祈り求めましょう。”だそうです。」
「それができるなら苦労はしないよね。」

「7から12節が“パウロから学べること”です。 8節にパウロは“自分の至らなさを痛感していましたが,贖いによって覆ってもらえると信じていました。”とある。“贖いによって覆ってもらえる。”とはどういう意味ですか?」
「これは誤訳でしょう。英文はhe had unwavering faith in the ransom.(贖いに揺らぐことのない信仰を持っていました)。翻訳者の交代が必要だね。」

「9節に“パウロは,「自分はエホバに愛される資格がない,エホバが兄弟たちを愛しているのは分かるけど,私のことを愛しているとは思えない」とは考えませんでした。”とあります。それはそうですよ。パウロほど自信家はいませんよ。」
「パウロは、自分のことを一番小さい使徒といった後で、“私はほかのどの使徒よりも多く働きました。”とコリント一15:10で言っている。コリント二11:5では“私は,そちらの優秀な使徒たちと比べて自分に何一つ劣ったところはないと思っています。”といっている。」

「10節に“ローマ 8:38,39を読む。”とあります。その39には“高さも,深さも,ほかのどんな創造物も,主であるキリスト・イエスを通して示される神の愛から私たちを引き離すことはできません。”とありますが、この訳も怪しいです。」
「“主であるキリスト・イエスを通して示される神の愛”はおかしいだろう。日本語訳の問題だね。英文ではGod’s love that is in Christ Jesus our Lordで、” 主であるキリスト・イエスにある神の愛”だよ。翻訳者の交代が必要だ。」

「8:39の“高さも,深さも,ほかのどんな創造物も”の高さとか深さとは何でしょうか?」
「よくわからないね。一つの説は、星を指しているというもの。星を神とする宗教を想定していて、高く上った星も地上から沈もうとしている星も、という意味ではないかという説だね。あるいはキリストと人間の間にある広大な空間のことを言っているという説など、いろいろある。手紙を受け取った側はこの表現で意味が分かったんだろう。」

「11節では、パウロは“真理を知る前は,方々の町でクリスチャンを容赦なく追い回していました。クリスチャンを牢屋に入れたり,処刑される時には賛成の票を投じたりしていました。(使徒 26:10,11)”とあります。引照聖句にそう書いてあるのですが、本当にそんなことをしたのでしょうか?」
「使徒に書いてあるパウロの話は後の時代の創作が多い。引照聖句では、パウロはサンヘドリンの一員であったことが想定されていて、死刑の評決を行ったことになっているけれど、パウロ自身の手紙ではそんなことは書いていない。」

「ローマ支配下で、サンヘドリンが勝手にある人物を死刑にできたのですか?」
「それもはっきりしない。ヨハネ18:31では“そこでピラトは言った。「彼を連れていき,自分たちの律法に従って裁きなさい」。ユダヤ人たちは言った。「私たちが人を殺すことは許されていません」。”とある。これが本当かどうかははっきりしない。」

「使徒26:12,13に“そうした目的で,祭司長たちから権限と委任を受けてダマスカスに旅をしていた時,”というパウロの言葉が出ていますが、これもあり得ませんよね。」
「ダマスカスはローマ支配下のシリアにあって、ユダヤ地方ではない。祭司長の権限はそんなところには及ばない。パウロのクリスチャンに対する迫害は公的なものではなく私的なものでしょう。」

「11節に“もしパウロが,「うちの親はあなたが賛成の票を投じたので処刑されたのです」と若いクリスチャンに言われたなら,どう感じたでしょう。”とありますが、それはありそうもないということですね。」
「当時の裁判制度からするとありそうもない。パウロの迫害はせいぜい鞭で打つくらいじゃないかな。」

「13から16節が、“研究,祈り,交流は大切”です。 この3つをすれば、どんな問題でも解決するというのがJWの教義のようです。」
「13節には“聖書を毎日学ぶなら,エホバの温かさがはっきり分かるようになります。”とあるけれど、そんな人はあまりいないよ。事実に反する。」

「もし聖書を初めから読んだとしますよね。神がいきなりエデンの園に食べてはいけない木を作るわけです。余計なことをするなと思いますよ。その木の実を食べたことが罪なら、罪の究極的な原因は神にあることになります。その後のアベルとカインの人類最初の殺人事件も理解不可能な話です。神はアベルをひいきするわけですが、その理由は説明しません。またアベルが殺されるのを防がなかったのに、殺人者のカインを保護しています。この神に温かさは感じる人なんかいないですよ。」
「創世記では不条理な話が続くよね。それは、神のすることは、人間の考える善悪をこえた、人間には理解できないものという古代の神に対する考え方を反映していている。」

「出エジプト33:19には“私は,好意を示したい者に好意を示し,憐れみを示したい者に憐れみを示す。”とあります。これは神は単なる暴君であって、善でもないし、公平でもないし、正義でもないということですよね。」
「暴君というより、神は善にも公平にも正義にも縛られない予測不可能な存在ということ。神の愛も一方的なもので予測不可能。善人だから神に愛されるなんてことはないし、カインのように殺人者なのに神に守られることもある。JWの考える凡庸で予測しやすいエホバとは違う。」

「13節に” 自分になかなか自信が持てなかった,長老のケビン兄弟は”とあるのですが、これはJW教育の産物ですよ。低い自己評価しかもてないように教えています。」
「厳格なルールを定めて、ルール違反をせざるを得ないようにする。そして恥と罪の意識を持たせる。そこから脱するには組織にますます依存しなければならないと思い込ませる。カルト宗教の特徴だ。」

「13節の下の囲みに、5人の人の体験らしきものが出ています。聖書を読んでよかった、役に立ったというような内容です。」
「人数を増やせば、真実性が増すと思っているんじゃないの。次は10人くらいの体験談になるかも。」

「体験談の中で面白いと思ったのは、ケビンの“聖書を計画的に読んでいるので,エホバに愛されていないという考えにとらわれずに済みます。”です。これって、組織の設けたワナにとらわれていることですよ。」
「英文ではMaintaining a spiritual routine(霊的ルーチンを保つ)だけど、要するに毎日決まったことをして忙しくしているので、余計なことを考えずに済んでいるということだよ。信者を忙しくさせるというのはカルト宗教の特徴。」

「14節は、よく祈るという話しですが、そこではエホバは友達、優しいお父さんとわかりやすいけれど凡庸な神のイメージを強調しています。」
「エホバは友達ということを示す聖句は引用されていないよ。どこにあるのかな?」

「15節は“エホバを愛する人たちとの交流を持ちましょう。”です。“パウロはコロサイのクリスチャンに宛てた手紙の中で,自分を支援してくれた兄弟たちの名前を挙げ,その人たちが「私をとても慰めてくれてい[る]」と書いています。(コロ 4:10,11)”とありますが、コロサイは偽パウロ書簡ですよね。」
「引用されているコロサイ4:10,11には、アリスタルコ、マルコ、ユストの3人の名前が挙げられている。その後にはエパフラス、ルカ、デマスの名前が出てくる。一方、フィレモンへの手紙の最後にはエパフラス、マルコ,アリスタルコ,デマス,ルカが出てくる。」
「フィレモンに出ている人を、コロサイは再登場させたわけですね。」
「コロサイの著者はパウロの真筆らしく見せるために、フィレモンの状況設定を借りたということ。」

「最後の17,18節が“エホバに愛されていることを疑わない”です。 “サタンは私たちに,正しいことをするのを諦めさせようとしています。私たちはエホバに見放されている,楽園には入れない,と思わせようとします。”とあります。すべてサタンが悪い、というのがJWの教義です。」
「そもそも、エホバがJWを選んだという根拠がないでしょう。選ばれていないのだから、見放されることもない。」
「18節では“エホバから離れないなら,「いつも[エホバ]に愛され」ます。”と、エホバの愛も条件付きなことが示されています。」
「JWも自分たちと同じような性格の神を想定しているということだよ。」

#1318 2021年07月09日 14:34:43

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“イエスに従うのを妨げるものがありますか(18)”で、多くの人がイエスに従わなかった4つの理由という内容です。この4つの理由は、多くの人がJWに従わない理由でもあるという主張です。」
「イエス=JWという思い込みだね。JWとイエスの類似点はほとんどないよ。JWはイエスの忠実な弟子と誤って思い込んでいる人だけが、この記事についていけるわけだ。」

「2節にラザロの復活を取り上げて“それなのに,ユダヤ人の指導者たちはイエスがメシアであることを認めませんでした。”とあります。ラザロはマリアとマルタの兄弟ですが、マリアとマルタの姉妹は他の福音書に出てくるのに対し、ラザロはヨハネにしか出てきません。これはラザロの復活はヨハネの創作ということですよ。」
「ラザロの復活が史実としてあったら、他の福音書にも書かれているはずと普通は推測するね。でも書かれていない。ラザロの復活は他の福音書の作者は知らないのだろう。」

「5から8節が“(1)イエスの生まれや育ち”です。 イエスは貧しい大工の息子で、何もないナザレの出身だったことが、イエスに従わなかった人が多かった理由のその一だそうです。」
「そんなこと聖書のどこに書いてあるのかな?5節に“イエスの弟子になったナタナエルも最初は,「何か良いものがナザレから出るだろうか」と言っていました。(ヨハ 1:46)”とあるけれど、ナタナエルはその後すぐにイエスの弟子になっている。ナザレ出身だったことは弟子になることの妨げになっていないよ。」

「考古学的にはイエスの生きていた時代にナザレには人が住んでいなかったというのを聞いたことがありますが、どうなんですか?」
「そうみたいだね。早くても1世紀の後半くらいから人が住み始めたよう。」

「6節に“イエスは,ミカ 5章2節の預言通りの場所で生まれたのです。では,問題はどこにありましたか。事実をきちんと調べもせずに決め付けてしまったことです。”とあります。これはへんですね。」
「イエスが予言通りベツレヘムで生まれたことはイエスの死後50年くらい後に書かれたマタイとルカの福音書にしか出ていない。イエスの出生記録がベツレヘムにあるわけじゃないよ。どうやって調べるの?」
「マタイとルカの話はベツレヘムで生まれたことを除けば全然違います。内容も史実性に乏しく創作物語としか思えません。」
「イエスをベツレヘムで生まれたことにするため、マタイとルカが別々に話を創作した。そのため中身は全然違う。マルコやヨハネはイエスの誕生や子ども時代の話は全くない。」

「7節は現代のJWの話になります。“エホバの証人も,ほとんどの人は裕福ではありません。「教育のない普通の人」と見られています。”とあります。それで“聖書について教える資格はないと思われています。”だそうです。」
「イエスやその弟子と同じと言いたいようだね。」
「また“「アメリカの宗教」と言われることがあります。さらに,イエスを信じていないと言われることもあります。幾年にもわたって「共産主義者」,「アメリカのスパイ」,「過激主義者」といったレッテルを貼られてきました。”とあります。それで“エホバの証人を退けます。”と言っています。」
「JWが他の宗教や政府をサタンの手先とか言って攻撃してきたせいじゃないの?自分たちの発言や行動に問題があったという反省は絶対にないよね。」

「JWがアメリカの宗教というのは否定できませんよ。ロシアのような反アメリカ的な国でそう言われるのは仕方ないですよ。」
「ロシアのような貧乏な国で問題になるのは送金だよ。ロシアで寄付を集めて、それをドルに変えてアメリカに送ることが問題視された。」
「JWの寄付なんて大した額じゃないですよ。」
「そうだけど、ロシアで禁教になる前に、JWはロシアに所有している不動産を売り払おうとした。ロシア政府はそういうJWの行動を見て、宗教をかたってロシア人を搾取するアメリカの宗教ビジネスがJWの本質だと判断したと思うよ。」
「JWも負けずにロシアを北の王と敵視しています。」
「過激主義というのは、信者に輸血を拒否させて殉教者にさせるJWの教義からきている。組織から命令があれば、信者は死を厭わず何でもする危険で過激な宗教と評価されても仕方がないだろう。」

「8節では信仰を妨げられないために、“事実を調べる必要があります。”、“エホバの証人 が教えていることと聖書が述べていることを比較することは重要です。また,現代のエホバの証人の歴史を学ぶことも大切です。”とあります。こんなこと言っていいのですか?」
「もちろんJWが実際に“事実を調べる”ことはないと知っているからさ。組織の言うことを鵜呑みにするようJWを長年教育してきた成果だ。」
「JWの外れた預言の歴史、教義変更の歴史を調べて下さい。またJWの年代が歴史の本の年代とずれていることも調べて下さい、と言ってくれたらいいのですが。」
「クレジットカードで寄付をさせるキリスト教の教会をバカにしていたのに、今はJWもクレジットカードの寄付を推奨していることなんかも調べて欲しいね。」

「9から12節が“(2)イエスは人に見せるための奇跡を行おうとはしなかった”です。」
「9節に、当時の人たちが“自分がメシアであることを示す「天からのしるし」を見せるようイエスに要求しました。(マタ 16:1)”とあるけれど、奇跡としるしは違うものだよ。」
「この記事ではその辺の区別がついていないですね。」
「それから“そうしたのは,ダニエル 7章13,14節を誤解していたからでしょう。”とあるけれど、単なる推測。イザヤ7:14-25では“エホバは皆さんにしるしをお与えになります。乙女が妊娠して男の子を産み,インマヌエルと名付けます。 その子は・・・”とあるよ。こちらの聖句かもしれない。」

「11節は奇跡とは関係のない話が主です。記事に一貫性がないのはものみの塔の特徴ですね。」
「統治体が奇跡を行わなくても、統治体のことをインチキだと疑わないでくださいと続くのかと思ったよ。」
「“王国会館は豪華ではありませんが,清潔で機能的な造りになっています。”という部分は不動産業者向けの宣伝ですか?」
「売却しやすいように、宗教関係以外の用途にも使えますということだね。」

「“現代の多くの人たちは私たちを退けます。それは,エホバの証人の崇拝の仕方はあまりにも簡素で,教えは自分が聞きたいことではない,と思うからです。”という自己評価は当たっていますか?」
「簡素なことは簡素だね。“教えは自分が聞きたいことではない”というのもそうでしょう。終末論も地上の楽園の話も需要はあまりないということだね。」

「12節に“信仰を強くするためには聖書を学ばなければなりません。”とあります。聖書があるので、奇跡はいらないという主張のようです。」
「でも、JWが学ぶのは聖書ではなく、聖句が散りばめられているだけのJWの出版物だからね。やっぱり、統治体がすごい奇跡を行ってくれないと信仰心は強められないよ。」

「13から16節が“(3)イエスはユダヤ人の習慣に従わなかった”です。 まず13節では“イエスの時代,バプテストのヨハネの弟子たちは,イエスの弟子たちが断食をしないことに戸惑っていました。”とありますが、断食は当時のユダヤ人の習慣なのですか?」
「違うでしょう。断食はしたい人がする自発的なもので、しないからと言って非難されるようなことではない。」

「“イエスが安息日に病気の人を癒やすのを見て,腹を立てました。”とありますが、これは本当でしょうか?ユダヤ人たちを故意に悪く見せているような気がします。」
「当時のユダヤ教は無慈悲な律法主義的で、ユダヤ人たちは掟に縛られてがんじがらめにされていたというような解説はよくあるけれど、誇張だよ。多くのラビは律法よりも命が優先すると言っている。まともな人ならそう思うよ。」
「輸血を拒否して無駄に信者を死なせるJWは、極端な律法主義で、イエスが一番嫌う宗教ですね。」

「14節に“人間が作った決まりや伝統を聖書よりも重視した人たちは,エホバと,エホバがメシアとして遣わした方を退けました。”とあるけれど、JWも似たようなものという自覚はないんだね。」
「聖書に書いていない禁止事項をいっぱい作っているのは“人間が作った決まりや伝統を聖書よりも重視”していることですよ。」
「一番バカバカしいのは誕生祝の禁止。歴史的にはキリスト教と違いを出すためにクリスマスを祝うのを2代目会長のラザフォードの時にやめた。その後キリストの誕生を祝わないのに普通の人の誕生を祝うのはおかしいということになり、誕生祝は禁止になったというものだよ。人間が作った決まりに過ぎない。後からそれを正当化するために、異教が起源とかなんとか言い出しただけ。」

「15節ではクリスマスや誕生日のことが出ています。“聖書がはっきり教えていることよりも人間の伝統を重視するなら,神を喜ばせることはできません。”とあります。これも自分たちのしていることが“聖書がはっきり教えていること”ではないという自覚がないですね。」
「誕生日やクリスマスを祝うなとは聖書のどこにも書いていないよ。それが本当に重大問題ならレビ記あたりに書いてあるよ。レビ記なんかは細々しい禁止事項がいっぱい書いてあって、例えばレビ記19:27には“頭の横の毛をそってはならず,顎ひげの端を切り落としてはならない。”とある。こんな細かな禁止事項をもうけているのだから、本当に誕生祝がダメなら、一言それを付け加えるよ。」

「17から20節が“(4)イエスは政治に関わろうとしなかった”です。 17節には“メシアがローマの圧政から解放してくれることを期待していました。”とあります。イエスはそうではなかったのでユダヤ人からしりぞけられたといっています。」
「18節に“メシアが人間の罪のためにまず死ななければならない,ということも預言されていました。(イザ 53:9,12)”とあるけれど、違うよ。引照聖句は“主の僕”の4つの詩の最後の詩の部分。この詩の中の“彼”が誰を指すのかははっきりしない。後にキリスト教ができて、キリスト教の側がこれはイエスを指していると言い出した。それまではメシアが犯罪者として死刑になることが預言されているという思想はない。」

「19節で“現代の多くの人たちは,私たちエホバの証人が政治に関して中立を保つので,私たちを退けます。”とあります。末端の信者はそうかもしれませんが、組織は政治活動をけっこう行っていますよ。」
「一番有名なのは、1992年から2001年まで国連の非政府組織の一員だったことだね。それが新聞にあばかれたら、あわてて脱退した。国連の非政府組織の一員だったのは、国連の図書館を利用するためと弁解したけれど、国連の非政府組織の一員でなくても図書館は利用できるので、多くの人から嘲笑された。」
「その後でも国連に請願活動をしていますよね。またJWの貴重な不動産があるニューヨーク市に影響を与えるためロビイストを雇っています。」

「欧州安全保障協力機構(OSCE)の年次会議には定期的に参加している。そしてブルガリア、ロシア、キルギスタンなどでの宗教の自由を訴えている。これは政治的行為そのもの。政治に中立なんて言うのはウソだね。」
「組織は、政府に影響を与えようと様々な活動を行ってきた一方、末端の信者にはそのようなことは知らせず、どんな不利益を被っても政治的中立を守らせ続けています。」
「JWらしい二重基準だね。」

「20節に“神の王国について教え,エホバの友になるよう助けることほど隣人のためになることはない”というJWの独善的な考えが主張されています。JWは伝道しているので、慈善活動はする必要はないと言いたいようです。」
「多くのJWは形だけの伝道活動をイヤイヤしているだけでしょう。それが最大の隣人愛と本気で思っているJWはいないでしょう。」
「そういう独善的な主張ばかりしているのでJWは嫌われています、とこの記事に書いて欲しかったです。」

#1319 2021年07月16日 14:31:45

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“正しい人にとって信仰を妨げるものはない(19)”で、先週に続いて、多くの人がイエスとJWに従わない、さらなる4つの理由という内容です。」
「JWがいくら伝道しても信者が増えないことへの言い訳だね。でもイエスとJWを同じものとして扱うのはおかしいよ。」

「3から6節が“(1)イエスは人に公平に接した”です。 4節では“預言者イザヤは,メシアが世の人々から受け入れられないということを予告していました。”と言って、イザヤ53:3を引用しています。」
「先週もイザヤ53は出てきた。予告ではなくて、イエスの死後、イエスがメシアであるという聖書的根拠を探したら、イザヤ53が結構当てはまると思われたというだけ。イザヤ53章がメシア預言とはそれまで考えられていなかった。」

「5節に“多くの聖職者は,著名人やお金持ちや知識人を教会員として喜んで迎え入れます。”と言っていますが、JWも同じですよ。でもそんな人がわざわざJWになることは滅多にないだけです。」
「一方“エホバに熱心に仕え,道徳的に正しい生活を送っている人たちのことは見下します。”とあるね。JWがこだわっているといえば、なんといっても性道徳だよ。ポルノ、ポルノとうるさいよね。ところが児童性的虐待で有名になってしまった。」
「“しかし,パウロが言っている通り,神は「見下されている」人たちを選びました。(コリ一 1:26-29)”とあり、見下されていることが神から選ばれた証拠だと考えているようです。」
「犯罪を行って見下されているのとは違うよ。」

「6節では“マタイ 11:25,26を読む。”とありまして、“エホバがご自分の望むことを行うために用いるのは謙遜な人たちだけである”といっています。JWは謙遜であることをとても価値があると思っているのですが、この聖句と謙遜は結びつきますか?」
「“あなたはこのようなことを賢い知識人たちから隠し,幼い子供たちに啓示された”とあって、“幼い子どもたち”を謙遜な人という意味と解釈したのだろうけれど、幼い子どもなんて謙遜じゃないだろう。」
「昔の話ですが、小憎らしいJWの子どもが、うちのお父さんは長老なんだぞ、と自慢したりしていましたよ。」
「知識人との対比だから、幼い子どもたちとは自分の無知を自覚している人といった意味でしょう。」

「JWは自分たち以外を世の人と呼んで差別しています。救われるのは自分たちだけと思っていて、少しも謙遜ではありません。」
「JWは、カルトの常として、自分たちは特別に選ばれた特別な人と過大評価している。」

「7から11節が“(2)イエスは間違った考え方を非難した”です。 9節に“パリサイ派の人たちは,魂は不滅であると信じていましたが,イエスは,死んだ人は眠っていると教えました。(ヨハ 11:11)”とあります。説得力ないですよ。引照聖句のヨハネ11:11は“イエスはこれらのことを述べた後,さらにこう言った。「友のラザロは眠っていますが,私は起こしに行きます」。”とあるのですが、これは単なる慣用表現です。今だって死ぬことを“永眠する”と言ったりしますが、だからと言って死んだ人は眠っていると主張しているわけではありません。」
「イエスは、マタイ7:13で“滅びに至る門は広くてその道は広々としており”といっている。単に滅びるだけで、永遠の責め苦に遭うとはいっていない。マタイ13:48,49で“網がいっぱいになると,人々は浜辺に網を引き上げ,腰を下ろして,良いものを入れ物に集め,良くないものを投げ捨てました。体制の終結の時にもそのようになります。”と言っている。ここでもよくないものは投げ捨てられて死ぬだけ。死後の世界は想定していない。」

「でもルカでは違いますよ。イエスは、ルカ23:43で“今日あなたに言います。あなたは私と共にパラダイスにいることになります。”とJW訳で言いますが、正しくは、今日パラダイスにいる、です。死後天のパラダイスに復活するという思想です。」
「使徒でも、ステファノが死ぬ場面の7:59で“ステファノは,「主イエス,私の命を受け取ってください」と訴えた。”とJW訳にはあるけれど、正しくは“私の命”ではなく“私の霊”で、ステファノの霊は死後イエスのもとに昇って行く、と想定されている。」
「ルカ16章にある金持ちとラザロの話は死後の世界の話ですよ。金持ちは苦しみ、ラザロは死後の世界を楽しんでいます。たとえ話ですが、死後の世界があることが前提となっています。」
「この話は死後の世界に無関心なユダヤ的ではない。エジプトの“セトネカムワスとシオシレの物語”をベースにしていると推定されている。そして、このたとえ話が地獄と天国という思想の聖書的な源となった。」

「9節に“パリサイ派の人たちは,全ては運命と神によって決まると考えていましたが”とありますが、本当でしょうか?根拠は示されていません。」
「実はパリサイ派という人たちがどのような思想を持っていたかはよくわかっていない。パリサイ派の一番の資料は新約聖書といわれる。恐らくヨセフスの“ユダヤ戦記”などが出典じゃないかな。」
「“ユダヤ戦記”の第1巻の286ページには“彼らは正しいことを行うことも行わないことも人間次第であることが多いが、どちらにもヘイマルメネー(運命的な定め)が一枚嚙んでいるとする。”とありますね。」
「そういうわけで“パリサイ派の人たちは,全ては運命と神によって決まると考えていましたが”というのは、単純化のし過ぎで、正しくない。」

「10節に“聖職者は,神は悪人を地獄で罰すると教えます。その間違った教えを使って,人々を自分たちの影響下に置こうとします。エホバの証人は,愛の神エホバを崇拝しており,この教えが間違っていることを暴露しています。”と、地獄という教義を批判しています。それは愛の神エホバがそんなことをするはずがないということのようです。」
「JWも似たり寄ったりだよ。エホバという神様は間もなく人類を皆殺しにするというのがJWの教義だよね。殺されたくなければエホバという神様に仕えなくてはならない、それ以外の選択肢はないという恐怖の宗教だよ。」
「そうだとすると人類の最大の敵がエホバです。どうして愛の神と言えるのか不思議です。」

「10節に“私たちは,人間には自由意思があり,神に仕えるかどうかを選ぶことができると教えています。”とある。JWは自由意志という言葉が大好きだね。しかし、エホバは人間の自由意志を尊重し、神に使えるかどうかを選べるようにはしていないよ。エホバか死かという選択肢しか用意していないというのがJWの教義なんだから。」
「つまり、強盗に銃を頭に押し付けられた状態で“金を出しますか?”と尋ねられて、仕方なくお金を出すと、強盗から“あなたは自由意思に基づいてお金を出した。わたしはあなたの自由意思を尊重した。”と言われるようなものですね。」
「JWの教義をそのまま受け入れると、エホバに仕えるしかないわけだよ。自由意志なんか関係ないよ。」

「12から16節が“(3)イエスは迫害された”です。 イエスが杭を背負っている挿絵がありますが、杭が短すぎます。」
「この絵だと立っているローマ兵の身長くらいの長さしかないよ。一本の杭に磔にされたと主張するなら、まず長さを計算して、その結果に基づいて挿絵を書いて欲しいね。」

「13節に“ユダヤ人の最高法廷は急きょ招集され,裁判は正しい手順を踏まずに進められました。”とあります。イエスは夜に逮捕されましたから、夜中に最高法廷が開かれたことになります。しかもマルコ14:53には“祭司長と長老と律法学者たち全員が集合した。”とあります。全員というと71人のようです。そんなことがあるのですか?」
「夜中に最高法廷が開かれることなどありえない。しかも過ぎ越しの祭りの日だよ。夜中に開かれたとしているのはマルコとマタイだけ。」
「ルカでは22:66で“夜が明けると,民の長老たち,祭司長と律法学者たちが集まった。そして,イエスをサンヘドリン広間に引き出して,言った。”と、朝にしています。」
「ヨハネだと他の三つの福音書とは日付が違うし、最高法廷なんか出てこない。」

「13節に“イエスが 復活すると,これらの悪い裁判官は,墓を警備していたローマの兵士たちに「かなりの枚数の銀」を渡し,墓が空になった理由についてうその話が広まるようにしました。(マタ 28:11-15)”とありますが、賄賂をもらったのはローマ兵なのですか?」
「マタイ27:65では“ピラトは言った。「警備隊を使ってよい。”といっている。ピラトはローマ兵ではなく神殿を警備している人たちを使えと言っている。」
「マタイ28:11では“女性たちが向かっている間に,警備隊の何人かが町に入り,起きたこと全てを祭司長たちに報告した。”とあります。ローマ兵なら祭司長ではなくピラトに報告に行きますよ。」
「この執筆者は基本的なことがわかっていないね。引用されている部分は、マタイの後からの追加部分。イエスの復活の証拠として“空の墓”がマルコに出ている。それに対する反論として、それは誰かが死体を盗んだから、というのがあったのだろう。マタイは、その話は祭司長が広めたウソだとここで反論しているということ。28:15に“それで,この話が今日までユダヤ人の間に広まっている。”とあるけれど、“今日”がいつ頃かは不明だけど。」

「そのウソの話というのが“夜中に彼の弟子たちが来て,私たちが眠っている間に死体を盗んだ”というもので、バカバカしい話ですよ。兵士たちが全員眠っていたのなら、誰が盗んだのかを知るはずがありません。ひとりでも起きていたら仲間を起こして弟子たちを逮捕したはずです。弟子たちが盗んだというなら、弟子たちはなぜ逮捕されないのでしょう?もっとましなウソをつけないのでしょうか。」
「弟子たちはダメな弱虫として福音書で描かれている。それが突然勇気を出して、兵士が眠り込んでいるすきにイエスの遺体を盗み出すという離れ業をするはずがない。こんなうわさがユダヤ人の間に広まるかな?」

「14節に“聖書には次のように預言されていました。(略)ですから,イエスが犯罪者として処刑されたからといって,ユダヤ人はイエスを退けるべきではありませんでした。”とありますが、これも正しくないですね。」
「イエスが死んでから、イエスをメシアと信じる人が旧約聖書を一生懸命探して、これも当てはまる、あれも当てはまると見つけた聖句を、イエスを預言したものと考えるようになったというだけ。」

「15節でロシアの悪口を言っています。」
「ロシアでJWの資産を没収されたのがよっぽど悔しいのだろう。」

「16節で“ヨハネ第一 4:1を読む。”とあります。“預言を何でも信じるのではなく,神からのものかどうかを見極めてください。多くの偽預言者が世の中に現れているからです。”とあります。こんな聖句を信者に読ませない方がいいですよ。」
「まともな人なら、この聖句はJWのことを言っていると思うよね。」

「17から20節が“(4)イエスは裏切られ,見捨てられた”です。 “こうした出来事を見て,ある人たちはイエスを退けました。”と17節に書いてありますが、根拠はありません。推測ですね。」
「18節に“エホバは聖書の中で,メシアが銀30枚で裏切られることを予告していました。(ゼカ 11:12,13)”とあるけれど、これは問題だね。マタイ27:9,10に“この時,預言者エレミヤを通して語られた次の言葉が実現した。「彼らはその人の代価,銀30枚を取った。イスラエル人はその人の代価をそのように定めた。 そして,エホバが私に命令したところに従い,陶芸家の土地のためにそれを与えた」。”とある。」
「マタイではエレミヤの預言と言っているのに、本当はゼカリヤです。手元に聖書がなかったんでしょうかね・」
「エレミヤにはそんな聖句はない。強いて言えばゼカリヤということ。ゼカリヤ11:12,13は“私は,「良いと思われるなら,報酬を下さい。良いと思われなければ,結構です」と彼らに言った。すると彼らは,報酬として銀30枚を私に支払った。 エホバは私に言った。「それを宝物庫に投げ入れなさい。彼らが私を査定したその大層な額を」。それで私は銀30枚を取って,エホバの家の宝物庫に投げ入れた。”というもので、マタイの引用と全然違う。“陶芸家の土地”なんてどこにある?」
「マタイは自分で勝手に聖句を作ったわけですね。預言なんかされていませんね。」

「18節には“預言者ゼカリヤは,「牧者を打ち,群れを散らせ」とも書いていました。(ゼカ 13:7)”とあるけれど、これも問題だね。マタイ26:31に“それからイエスは言った。「今夜,あなたたちは皆,私を見捨てます。『私は牧者を打つ。すると,群れの羊は散り散りになる』と書いてあるからです。”とある。これはゼカリヤ13:7の引用。」
「ゼカリヤ13:7には“大軍を率いるエホバは宣言する。「剣よ,目を覚まして私の牧者に立ち向かえ。私の仲間に立ち向かえ。牧者を打ち,群れを散らせ。私は,取るに足りない者たちに手を向ける」。”とありますね。エホバが価値のない牧者を打ち、その羊たちを殺すという意味ですよ。」
「つまり全く文脈を無視した引用で、この聖句を知っていたからといって、イエスの弟子たちが散り散りになって逃げることを予測できるわけないよ。」

「でも18節には“誠実な人たちは,こうしたことが起きるのを見て,イエスを退けるどころか信仰を強められたはずです。”と断言しています。」
「そんな人はいなかったよ。」

「19節が背教者攻撃です、“そうした人たちは,メディアやインターネットを通して,エホバの証人についての否定的な情報や誤解を招くような話やあからさまなうそを広めてきました。”とあります。具体的にどんなウソなのかは書いていません。こんなこと書いていいのでしょうか?」
「JWのホームページの中の“エホバの証人について”の“よくある質問”を見るとウソあるいは誤解を招くようなものが多いよ。」
「例えば“エホバの証人は自分たちだけが救われると考えていますか”では“そうは考えていません。”とあります。“だれが救われるかを決めるのはわたしたちではありません。それはイエスにゆだねられていることです。”だそうです。バプテスマを受けないと滅ぼされるという教義とどう整合するのでしょう?」
「“エホバの証人は他の宗教を尊重していますか”では“異なる宗教信条を持つ「あらゆる人を敬い」ます。”とあるね。しかし、異なる宗教を持つ人は悪魔サタンの支配下にあると主張していることは書いていない。」

「20節が信仰を保つ方法です。“エホバから託された活動を忙しく行う必要があります。”というのはカルト的ですね。」
「カルトは信者を絶えず何かの活動に駆り立てて、考える暇を与えないようにする。」
「“信仰を抱いているなら,否定的な情報を聞いても動揺することはありません。”というのもカルト的です。」
「よくない情報を聞いた時こそ徹底的に調べましょうというべきでしょう。自分が株を持っている会社の悪いうわさを聞いても、会社を信頼しているからといって何も調べないと、株が暴落して、取り返しのつかないことになる。宗教も同じだよ。」

#1320 2021年07月19日 12:42:23

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

キリスト教だというなら、せめてキリストを信じるかどうか、で話終わればいいのに、(エホバの証人である)「自分」(とその組織)を信じるかどうか、に何が何でもこじつけるのは相変わらずのようです。


もう「エホバの証人」ですらなくて「エホバの証人の証人」みたいになってきましたね。

#1321 2021年07月23日 15:14:47

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“宣教に対して積極的な見方を保ちましょう(20)”で、時間だけ数えていないで真面目に宣教活動をしなさい、という内容です。」
「どういう見方をするかなど、宣教活動の結果に影響しないよ。エホバの意志次第だとどこかで書いてなかった?それってやっぱり建前?」
「この記事が書かれた数か月前の時点では、2021年7月までにコロナ問題も終息し宣教活動が再開されていると組織は予測していたということですね。」
「見事に外れちゃったね。数か月先も見通すことができないダメなJWなのに、終わりが間もなく来るということだけは見通せるわけだ。」

「最初の挿絵が、イエスの弟子たちが家々を訪問して宣教活動をしているというものなのですが、そんなことはしていませんよね。」
「歴史のねつ造だね。1世紀の宣教活動がよくわかるのはパウロの例。パウロは戸別訪問など一度もしていないよ。使徒8:5,6にフィリッポのサマリア伝道の様子が出ているけれど、“フィリポはサマリアの町に下り,キリストについて伝道し始めた。 群衆は皆,フィリポが言うことにじっと耳を傾け,フィリポが行う奇跡を見た。”とある。戸別訪問なんかしていない。」
「大勢の人が集まる場所で、群衆に向かって演説するというスタイルですね。」
「しかも奇跡も見せてくれる。」

「JWは使徒5:42の“そして毎日,神殿で,また家から家へと行って教え”や、使徒20:20の“人々の前で,また家から家へと,皆さんを教えました。”から、1世紀でも戸別訪問していたと主張していますね。」
「家で教えるというの、見知らぬ人の家に行って教えるということではなく、信者の家に関心のある人を集めて教えるということ。」

「2節で1世紀の話が出ていて、“そして弟子の数はその後も劇的に増えていきました。”とありますが、本当でしょうか?」
「1世紀の終わりごろで、クリスチャンの全人数は8,000人以下、そのうちユダヤ人は1000人以下でしょう。エルサレムで爆発的に信者が増えたなんていう史実はない。」

「引照聖句の使徒6:7には“その結果,神の言葉は広まっていき,弟子の数はエルサレムで大幅に増加していった。そして非常に大勢の祭司たちが信じるようになった。”とありますが、これはあり得ない?」
「使徒の史実性は乏しい。ペテロとパウロを主人公にした歴史小説のようなもの。西暦70年のローマとの戦争を描いたヨセフスの“ユダヤ戦記”にはエッセネ派、パリサイ派やサドカイ派のことが出てくるけれど、クリスチャンのことなど何も出てこない。当時は全く少数で無名の存在だったということだね。」

「3節には、ある地域では、“聖書を学びたいと思っている人が非常に多いからです。中には,聖書を教えてもらうために順番待ちをしなければならない人もいます。”とあるのですが、どこなんでしょう?なぜそこへたくさんのJWを送り出さないのでしょうか?」
「アフリカの奥地なんじゃないの?」

「5から10節が“人になかなか会えない場合”です。 5節に“人があまり住んでいない田舎の地域もあります。そういう所では,1軒の家を訪問するために長い距離を移動しても,行ってみたら留守だった,ということもあります。”と書いていますが、これは多くのJWにとってありがたい地域ですよ。移動時間も奉仕時間に含めますので、楽して時間が入ります。途中マクドナルドにでも寄ってコーヒーをゆっくり飲めばさらに時間が入ります。」
「そういうJWが多いから、こういう記事が出ているんでしょう。」

「7節で“訪問する時間を変えてみる。”とあります。理論上はそうかもしれませんが、JWは自分の都合のいい時間に宣教活動をしているわけですから、そう簡単に今までとは違った時間帯へ変えることは簡単にはできません。」
「7節で“「もう一度訪問すると,かなりの人に会えるので驚いています」。 *”とあり、脚注に“関係するデータ保護法に従う必要があります。”と書いてある。日本では、2020年に個人情報保護法が改正され、2022年から施行される。組織的に個人の住所や名前などを集めて保存しておくと思わぬ法的問題に巻き込まれるかも。JWはそれに対して適切な対応をとれるのかな?」

「8節に“ですから,諦めてはいけません。主題聖句には,私たちが持つべき見方が示されています。(伝道の書 11:6を読む。)”とあります。この聖句は諦めるなという意味ですか?」
「“朝に種をまき,夕方になるまで手を休めてはならない。あなたは,どの種が育つか,これかそれか,あるいは両方なのかを知らないからだ。”とある。この部分は人間というのは何も知らない、無知な存在だという思想が背後にある。そうだとしても、どうなるかわからないと消極的になるのではなく、その日その時に最善を尽くせというメッセージだよ。」
「宣教活動とは関係ない聖句ですよね。」
「そんなことを言ったら、聖書のほとんどが宣教活動とは関係ないよ。JWは楽園が来るまで最善を尽くすことなくダラダラ生きるという人生観だから、この聖句はJWとも関係ない。」

「9節が“場所を変えてみる。”、10節が“方法を変えてみる。”です。9節に“人々は公園や市場やビジネス街にいる時の方が,気軽に会話をしたり,出版物を受け取ったりするようです。”とありますが、公園では別の宗教団体も布教活動していることがありますよ。」「JWまで公園のベンチに座っている人に近寄ってくるようになると、公園を管理している市町村や都道府県に苦情が寄せられるようになるよ。そのうち、公園内では宗教活動は禁止ということになるね。」

「11から16節が“人々が関心を示さない場合”です。 12節が“気遣いを示す。”なのですが、その具体例が“関心がありません,と言われた時は,聖書や出版物をしまって,『もしよかったら理由を教えていただけませんか』と尋ねます。”です。これってセールスマンのテクニックじゃないですか。」
「基本的には、大きな要求をして断られる。その後しつこく要求しないで素早く要求を取り下げるという譲歩し、小さな要求をする。という手順だね。“ドアインザフェイステクニック”と呼ばれるもの。」
「すぐ聖書などをしまって、相手に譲歩したと思わせるのがポイントですね。」
「相手は、譲歩してくれたのだから、少しは要求に応じようという気持ちになる。これを返報性の原理という。」

「しかし、理由を言えというのは不適切な発言です。執筆者はあまり宣教したことがないJWエリートじゃないですか?」
「電話でよく生命保険に入れとか投資しろとか勧誘されるけれど、すぐに断るよ。その時相手はなぜですかなんて聞かないし、もし聞かれたら、なぜあなたに理由を言わなければならないの?と問い返すね。もちろん相手は何も言えないよ。勝手に電話してきた人間にすぎないからね。」

「14節が“兄弟姉妹に助けてもらう。”ですが、その実例が“ほとんどの人たちが自分の宗教に満足している田舎の地域”の話で、“できるだけ誰かと一緒に奉仕するようにしました。”とあります。これって二人でおしゃべりしながらダラダラやると、誰も聞いてくれなくてもそれなりに楽しくやれるということですね。」
「生真面目な人とは絶対に宣教活動を一緒にしてはいけないいうことだね。」

「17から19節が“宣教に対して積極的な見方を保つべきなのはなぜか”です。 18節に“誰がやがてエホバに仕えるようになるかは,私たちには分かりません。”とありますが、そんなことないですよ。」
「どんな人がJWになったのかを統計を取ればある程度予測できる。統計を取らなくてもわかるけれど、最大のJW予備群はJWの子どもだよ。その次はJWの子ども以外の家族。子どもをたくさん産めば信者は増えるよ。」
「でも宣教第一で、子どもは邪魔だ、子どもはいらないという宗教です。」
「それがJW衰退の原因だね。」

「“私たちが立派な行動をし,積極的な態度を示しているのを見て,やがて「神をたたえる」ようになるかもしれません。”とありますが、今のJWには統治体をはじめとしてそんな立派な行動を示している人なんかいませんよ。」
「エホバの証人と聞いただけで、多くの人は断るでしょう。否定的なイメージがすっかり定着してしまった国では何をしてもダメだよ。宗教のためなら輸血を拒否して死ねる人だけしか入ってはいけない宗教だ。」
「慈善活動をするわけでもないですし、何か役に立つことをするわけでもない。宣教活動が最大の人類的貢献という教義を変えないかぎり、イメージの向上は無理ですよ。」

「最後の20節で“そして私たちに素晴らしい奉仕の機会を与えてくださっています。この体制が終わる前に,あらゆる国の人々を集めるためにイエスと共に働くという機会です。(ハガ 2:7)”とあります。引照聖句はそんなこと言っていませんよ。」
「“私はあらゆる国を揺り動かす。あらゆる国の貴重なものが入ってくる。私はこの家を栄光で満たす。”とあるけれど、この珍解釈がものみの塔2000年1月15日号“「望ましいもの」がエホバの家を満たす”にあるよ。」
「そこには“では,エホバの家を満たす「望ましいもの」とは何でしょうか。明らかに,人々であるに違いありません。なんと言っても,エホバの心を歓ばせるのは,銀や金ではなく,愛を動機としてご自分に仕える人々だからです。”とあります。“あらゆる国の貴重なものが入ってくる。”を世界中の人がJWになるという預言と解釈しているのですね。」

「ハガイ2:8には“『銀は私のもの,金も私のものである』と,大軍を率いるエホバは宣言する。”とあるよ。どうみても“あらゆる国の貴重なもの”とは人間ではなく金銀の財宝でしょう。」
「“明らかに”があるときは根拠のない推論というJWの法則がここでも当てはまりますね。」

「ハガイはペルシャ時代の人で、第二神殿の建設を促した預言者ですよ。ハガイ2:7は実際はどういう意味なのですか?」
「“この家”とは建設中の神殿のこと。“あらゆる国の貴重なものが入ってくる。”とは、いろいろな国に奪われた神殿の宝物が戻ってくるという意味と普通は解釈される。」
「JWは何でも自分たちに向けられた預言だと考えて、珍解釈をしては、何年か、あるいは何十年かすると、またその珍解釈を変更して、さらなる珍解釈をするという歴史ですから、この解釈もまもなく変わりますね。」

「20節に“私たちは,沈んでいく船に乗っている人たちを助ける救助隊のようです。”とあるのには笑える。自己評価が高すぎるよ。」
「宣教活動に人生を捧げて、今は孤独な貧困老人のJWが、自分のことをこの世の救助隊と主張したら、頭のおかしな人と扱われます。」
「そういうJWは宣教に対して積極的な見方を持ち続けるとろくなことはない、という立派な証人だね。」

#1322 2021年07月30日 14:30:59

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバは力を与えてくださる(21)”で、エホバは苦労を取り除いてくれないけれど、苦労を耐える力をくれるからJWは苦労を嫌がるな、という内容ですね。」
「2節にその苦労の例が出ているけれど、“長い時間働かなければならない人は少なくありません。”とある。これはJWの多くが低学歴無資格なため最低賃金程度の収入しか得られない単純労働についているからだよ。」
「苦労の原因は組織の指示に従った人生の選択をしてきたからですね。」
「“自分には価値がない,という気持ちに苦しめられている人もいます。”とある。これもJWだから。JWは信者に過大な要求をし、無力感と罪悪感を持たせるようにしている。その方がコントロールしやすいからだよ。」

「4から7節が“伝道を続けるための力”です。 パウロとテモテから学ぶのだそうです。」
「パウロについて一般的な話がだらだら続くね。でも6節に“神の力は「人が弱い時にこそ……完全に発揮される」ことを認めていたのです。(コリント第二 12:9,10を読む。)”というのは違うでしょう。」
「コリント二12:9には“それで私は,自分の弱いところについて喜んで誇り,キリストの力が天幕のように私を覆い続けるようにします。”とあります。神ではなくキリストの力です。」
「JWはエホバ教でキリスト教じゃないことがよくわかる。」

「7節に“テモテも体に1つのとげを抱えていました。「度々かかる病気」に悩まされていたのです。(テモ一 5:23)”とありまして、引照聖句には“もう水を飲むのをやめて,胃のため,また度々かかる病気のために,ぶどう酒を少し飲むとよいでしょう。”とあります。この訳はへんじゃないですか?水を飲まないで生きていけませんよ。」
「協会共同訳では“これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる痛みのために、少量のぶどう酒を用いなさい。”だよ。でも、これってへんなアドバイス。旧約聖書では、祭司は宗教儀式をする時は酒を飲むことを禁止されている。こんなことを本物のパウロが言うはずないよ。」

「レビ10:9には“あなたもあなたの子たちも,会見の天幕に入る時はぶどう酒などの酒を飲んではいけない。死ぬことのないためである。”とあります。」
「ローマ14:2で“ある人は何でも食べてよいという信仰を持っていますが,弱い人は野菜しか食べません。”とパウロは言っている。それなのに胃の弱いテモテに野菜ではなくワインを勧めるなんておかしいよ。こんなところからもテモテの作者が偽パウロということがわかる。」

「8から16節が“問題があっても忠実を保つための力”です。 祈り、聖書、仲間の兄弟姉妹、宣教というJWのなんにでも効く魔法の方法がいつものように出てきます。」
「逆に言うとそれ以外は何もないということ。」
「9節にジョニー兄弟の体験談が出ています。“兄弟は忍耐するための力をエホバから与えられました。”とあります。ロナルド兄弟は“エホバに祈って自分の気持ちを全て打ち明けることができました。”とあります。2人とも母親を亡くしています。」
「必死に祈った結果がその程度だと、コストパフォーマンスが悪すぎる。祈る時間を母親の世話に使った方がよかった。神は沈黙し、何もしない。そして人間は耐えることを学ぶ。」

「10節に“聖書から力と慰めを得ることができます。”とあります。聖書ってそんな本ですか?」
「JWなら啓示18:6,7でしょう。“彼女がした仕打ちの通りに,彼女に返報しなさい。彼女が行ったことを2倍にして返すのである。彼女が混ぜて作った飲み物の杯に,2倍の量を入れて彼女に渡しなさい。彼女がおごり高ぶり,甚だしくぜいたくな暮らしをした分だけ,彼女に苦しみや悲しみを味わわせなさい。”とある。この聖句から、いまに見ていろ、この世のアホども、倍返しだ!とJWは力と慰めを得ることができるよ。」
「そうやってみじめな現実から一時的に逃避するわけですね。啓示は復讐願望の強さでキリスト教的じゃないです。」
「JWはその啓示が大好きな点で特殊だね。」

「10節では、ロナルド兄弟が“聖書を毎晩読むことを習慣にしていて,本当に良かったと思います。エホバがどんな方か,またご自分に仕える人たちにどのように愛をもって接してきたかをいろいろと考えます。そうすると力が湧いてきます。”と言っています。エホバって、そんな愛ある神でしたか?」
「そんな神じゃないでしょう。例えばノアの大洪水の話は誰でも知っているけれど、あの話からエホバはどんな神と考えられる?」

「滅茶苦茶な神ですね。創世記6:5,6には“エホバは,地上の人々がひどく邪悪で,考え方全てが常に悪いのを見た。エホバは,地上に人を造ったことを嘆き,悲しんだ。”とあります。それなら邪悪な人を心臓発作でも起こさせて死なせればいいわけです。ところが、世界的洪水を起こして、動物も含めて全員を溺死させるという滅茶苦茶なことを計画します。そのためノアの家族は箱舟づくりなど余計な仕事をさせられるわけです。そして創世記7:23によると“こうして,神は地上の生きているもの全てを滅ぼした。人,動物,地面を動く生き物,空を飛ぶ生き物が全て地上から滅びた。生き残ったのは,ノアと,一緒に箱船の中にいた家族や生き物だけだった。”と言う結末です。全く過剰な殺戮です。」
「目的にたいして手段が全く適切じゃないよ。家にいるゴキブリを退治しようとして、家を燃やしちゃう人みたいだ。」
「乳幼児を含め溺死させるのは残酷すぎます。妊婦も溺死しますので胎児も邪悪なんでしょうか。」
「15節に出てくるロナルド兄弟は洪水で赤ちゃんが流れていく情景を想像しながら、なんと愛ある神だ、力が湧いてくると言っているんだろうか?」

「11節に、夫を亡くした姉妹が長老から“ヨブ記を読んでみるよう勧められたので,そうしました。”とあります。そして“姉妹は自分の見方を調整することができ,夫を失った悲しみに対処する力を得ることができました。”とあります。ヨブ記ってそんな内容でしたか?」
「“調整”というのは変更を意味するJW用語だよね。どう調整したのかな?ヨブ記は義人ヨブが突然不幸のどん底に陥れられるという話。義人がなぜ苦しむのか、というのが主なテーマ。ヨブの友人がきてあれこれしゃべり、ヨブがそれに反論するということが何回か繰り返される。」
「友人の主張は、要するに悪いことをしたから苦しむという応報論ですね。ヨブは自分は悪を行っていないと友人の主張を受け入れません。」
「すると、突然神が現れて、人間如きに何がわかる、偉そうな口をきくなとヨブをしかり、ヨブは平伏し自己否定する、という展開。義人はなぜ苦しむのかという問いは答えられないまま話は終わる。」

「ヨブ40:1,2に“エホバは引き続きヨブに言った。「人が全能者の非を見つけ,争えるのか。神を戒めたいのなら,述べてみなさい」。ヨブはエホバに答えた。「ご覧ください,私は取るに足りない者です。何とお答えしましょう。手で口を押さえるしかありません。”とあります。これが要点ですね。」
「夫を亡くした姉妹は、どんなに不満があっても神に服従するしかないと考えを調整したのかも。」

「13節に“集会は,励まし合うとても良い機会となります。”とありますが、実際はそうなっていません。集会は相互に監視しあうよい機会ですけれど。」
「JWは信者同士の互助会的な側面は極めて薄い。信者の寄付を困っている信者のために使うということはほとんどないでしょう。子どものアイスクリーム代を統治体のトニーおじさんがウイスキーをたっぷり飲めるよう寄付しなさいという組織だ。」

「13節では“長老のピーター兄弟は,夫がエホバの証人ではない1人の姉妹にこう言いました。「こうして姉妹の姿を見るだけで,本当に励まされます。6人の子供に支度をさせて,コメントの準備までさせているんですから」。”とありますが、これは夫がJWでない人だから6人の子育てをしながら宗教道楽に励むことができるわけですよ。」
「6人の子どもがかわいそうだ。母親がJWになったおかげで、質問と答えがセットになった文章を読まされ、文章から答えの部分を拾い上げて答えるだけという退屈な集会を耐えなければならない。」

「14節が宣教で、“私たちは聖書の真理を人に伝えると,相手の反応がどうであれ,爽やかになり,元気が出ます。(格 11:25)”と見え透いた嘘を述べています。引照聖句だってそんなことは言っていません。」
「そこには“惜しみなく与える人は報われ,他の人を爽やかにする人は自分も爽やかにされる。”とあるけれど、その前の11:24に“気前よく与えて,より豊かになる人がいる。与えるべきものを与えないのに,貧しくなる人もいる。”とあるように、物質的な富を気前よく惜しみなく与えなさい、そうすればもっと豊かになるという旧約聖書独自の経済学を言っている所。“他の人を爽やかにする人”というのはJWのつまらない話を聞かせる人という意味ではなく、水をくれる人のことだよ。」

「14節には体験談が出ていて、“心を穏やかに保つ上で一番役に立っているのは,宣教だと思います。”とありますが、心を穏やかに保つ上で一番妨げになっているのが宣教ですという人の方が多いと思いますよ。」
「まれなケースを取り上げて、それがあたかも標準的なことと思わせているね。それから訳に問題がある。“The most stabilizing factor in my life is to get out in the ministry.”(私の生活の中で最も精神を安定させる要因は宣教で外出することです。)だよ。」
「宣教そのものではなく、家にこもっていないで外に出ることが精神安定剤のような働きをしていると言っているわけですね。家にいるとイライラすることばかりというもめ事の多いい家庭なのですよ。」
「コロナで外出できない状況が続いたけれど、どうなったんだろうね。」

「15節では外国語が話されている地域での伝道、16節では介護・医療関係者への伝道、17節では電話や手紙での伝道が体験談という形で取り上げられています。要するにそれらを推奨しているということですね。」
「言葉がわからないとか、病気とか、高齢とか、そんな言い訳は許さない、死ぬまで組織のために働けという、いつもの過酷なメッセージだ。」

「最後の18節には“エホバは私たちを助ける力を持っていて,そうしたいと願っています。では,これからも天のお父さんエホバへの信頼を示していきましょう。”とありますが、本当でしょうか?」
「助ける力があって、そうしたいと望んでいるなら、なぜ助けないの?JWの死亡率や自殺率はそうじゃない人よりも高いと思うよ。」
「エホバには助ける力がないか、助けたいと望んでいないか、あるいはその両方のどれかですね。」

「“天のお父さんエホバ”というのもおかしいね。お父さんならお父さんらしいことをすべきでしょう。よいお父さんは子どもの幸せために自分のできることは何でもするよ。」
「“天のお父さんエホバ”は、話しかけても答えないし、お父さんらしいことは何もしないくせに、父親として敬うことを要求する、ダメな父親のようです。」

#1323 2021年08月06日 11:17:22

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“バプテスマを受けた弟子となるよう,聖書を学んでいる人を助ける(22)”で、研究生をバプテスマまで誘導する方法、という内容です。」
「研究生のいない人は休みということで、オリンピックを見ていていいのかな。」
「JWの楽園にはオリンピックはありません。オリンピックは異教が起源です。オリンピックは過度な競争をあおり、個人崇拝につながります。オリンピックを見ることはエホバを喜ばせるでしょうか?テレビを直ちに消してください。」

「この記事の脚注には“「いつまでも幸せに暮らせます」という新しい本の特色も幾つか取り上げます。”とある。これがこの記事の裏の目的だね。」
「その本の内容は過去のJWの出版物を、さらに簡略化したものです。研究生はみな小学生のようです。」
「動画とリンクさせているのが新しいよ。JWは動画配信業者に特化していくという、これからの方向性が示されている。」

「1節の質問が“1世紀の大勢の人々は,何をするようにと言われましたか。”で、答えは“ペテロはこう答えました。「一人一人,……バプテスマを受けなさい」。(使徒 2:37,38)”なのですが、これは正しくないですよ。引照聖句の要点は、ある儀式を受けることではなく、“悔い改める”です。」
「新約聖書になると外面的な儀式はほとんど重視されない。大事なのは内面、心の中だという認識だ。バプテスマという儀式を重視するのはJWの都合からだね。」
「使徒3章にあるソロモンの柱廊でのペテロの説教では“悔い改めて生き方を変えなさい”と言っていますが、バプテスマを受けなさいとは言っていません。」
「JWとは違って、ペテロにとって、バプテスマを受けることは救済のために必要条件ではないということだね。」

「3から8節が“学んだことを当てはめるよう助ける”です。 3つの目標が書かれています。」
「4節に“目標を定めるよう助ける。”とあるけれど、具体的には“「いつまでも幸せに暮らせます」の本の「次のステップ」という部分を使って,学んでいる人が目標を定めるよう助けてください。”とある。」
「要するに宗教セールスマン向けのマニュアルなのですね。」

「5節に“生き方を変えるよう助ける。(マルコ 10:17- 22を読む。)”とあるけれど、読むように指定されている部分はJWの教えと一致しないよ。」
「裕福な男性が、イエスから全財産を売り払えと言われて、悲嘆して去っていったという話しですよ。貧乏人が多いJWは金持ちに対して、いい気味だ、さっさと滅びてしまえ!と邪悪な満足感を味わう部分ですよ。」
「そういう読み方をJWがするのは理解できるけれど、イエスの話の趣旨はそういうことではない。この男性はイエスに“善い先生,永遠の命を受けるには何をしなければなりませんか”と質問している。つまり、律法主義者なわけ。自分が善いことをすれば永遠の命が得られるという考えに立っての質問。これはJWと同じでしょう。」
「JWはバプテスマを受けて、組織の要求する伝道・集会・出版物の学習等々を繰り返していると、ハルマゲドンを生きて通過できるという教義です。自力救済型宗教です。」

「ここでイエスは人間は自力では救われることは無理だよ、と言っている。」
「マルコ10:26で弟子たちは“いったい誰が救われるのでしょうか”と質問しています。その答えは10:27で“人には不可能でも,神にとってはそうではありません。神には全てのことが可能なのです”とイエスは言っています。」
「救済は神がタダで与えてくれるプレゼント。それ以外は不可能。善行を積めば救われるわけじゃない。JWの伝道や集会などは救済とは何の関係もない。」
「このマルコの部分は旧約聖書的な思想を否定している部分ですね。」
「格言10:22に“エホバの祝福が人を富ませる。それに痛みは伴わない。”とあるように、旧約的価値観では富は神の恵み。それをイエスは否定している。」

「5節に“でもイエスは,この男性に生き方を大きく変えるようにと言いました。なぜでしょうか。その男性に愛を抱いたからです。”とありますが本当ですか?」
「マルコ10:21では“イエスはその男性を見つめ,愛を抱いて言った。「あなたには1つのことが欠けています。行って,持っている物を全て売り,貧しい人たちに与えなさい。”とあるね。これはこの男性が初め“善い先生”と媚びへつらった仕方でイエスに話しかけて、イエスが善いのは神だけだと、やや意地悪に答えることが背景になっている。」
「つまり、全財産売れというのが意地悪な動機からではないことを読者にわからせるために“愛を抱いて言った”という語句を挿入したということですか。」
「イエスは全財産売れなんて、この人以外には要求していないからね。いじめているように見える。そうでないことを示すためだよ。」

「6節に“質問を使って,学んでいる人の見方や考え方を引き出すのは大切なことです。”とあり、研究生にあれこれ質問をして、個人情報を集めるように指導しています。」
「JWとの聖書研究に応じると、個人的なことをあれこれ聞かれることになるということね。いやだね。」
「実例があって“あなたがエホバを名前で呼んだら,エホバはどう感じると思いますか”と質問するそうです。」
「“エホバって誰?私にこと?と感じると思います。”と答えたら、研究は打ち切り?聖書の神の名前はエホバじゃないよ。」
「エホバという名前なんですよ。統治体のトニーおじさんもエホバって言っていますから。」
「“どんなことを祈りたいと思いますか”という例が出ているけれど、“早くハルマゲドンが来て、JW以外の人をぶち殺してほしいと、祈りたいと思います。”と答えたらどう反応するの?」
「ニコニコしながら、そうですねと同意するんじゃないですか。」

「7節に“学んでいる人が自分のするべきことを理解したなら,そうするよう励ますために実例を使いましょう。”とあるけれど、実際に使うのは動画だ。」
「JWは印刷業者から動画制作業者へと変身中なのですよ。印刷関係者はリストラされ、動画制作技術者は大歓迎、となっています。」
「どんなに上手に動画を作っても、動画の実例じゃ、説得力はない。なぜなら目の前に実際のJWという実例がいるわけだろう。実際のJWを見れば、この宗教はダメだ、とまともな人なら感じるよ。」

「8節が“エホバを愛するよう助ける。”で、“エホバが幸福な神で,ご自分を愛する人たちを支えてくださる方だ,ということを理解できるように助けましょう。”とあります。これは無理ですよ。」
「エホバが支えてくれたなんてことはあるの?あったとしても本人がそう思い込んでいるだけでしょう。」
「よいことがあれば、何でも“エホバだ”で片づけるのがJWの思考様式ですから。」
「そこまで洗脳されないと、エホバを愛することは難しいということだね。」

「9から14節が“仲間の兄弟姉妹と知り合えるようにする”です。 JWになると“信仰で結ばれた愛にあふれた家族,という大きな報いを与えられるのです。”とありますが、これはウソでしょう。」
「JWは基本的には宗教セールス活動を行うために組織された集団でしょう。田舎の小さな古臭い会社によくあるような人間関係じゃないの。独裁的なリーダーがいて、不合理な慣習がはびこり、男女差別あり、セクハラあり、パワハラありで、しかも少しも改まる気配がない。“愛にあふれた家族”とは程遠いよ。」

「10節が“学んでいる人と親しくなる。”で、“学んでいる人のことを思っていることが伝わるようにするのは大切です。”だそうです。」
「メキシコのマヌエル兄弟が“私が緊張せずに何でも話せるようにしてくれました。私のことを思ってくれている,ということがよく分かりました。”とあるけれど、JWの聖書レッスンごときで緊張なんかするの?小学生レベルの内容だよ。」
「現在JWになる人は、社会の底辺のろくに学校も行っていない人が多いということですよ。そういう人だから、わざわざ家に来て教えてくれるJWに対して緊張するのですよ。」

「11節で“学んでいる人が進歩しているなら,家に招いてお茶や食事を楽しんだり,一緒にマンスリープログラムを見たりできるかもしれません。”とある。研究生を家に招いて接待するわけだ。JWも大変だね。その費用は必要経費として会衆から出してくれるのかな。ひとり1万円までなら良いとか。」
「儲かっている会社ならそうかもしれませんが、JWはすべて自腹です。」
「つまり、組織は口で言うだけね。」

「12節が” いろいろな伝道者に聖書レッスンに参加してもらう。”です。」
「ドミトリー兄弟が“すでに知っている兄弟姉妹がたくさんいたので,あまり緊張しませんでした。”といっている。JWになる人は緊張しやすい人ばかりなのか?」
「緊張型で人づきあいが苦手な孤立した人ほど、JWから親切そうに誘われると、断れないかもしれませんね。」

「13節が“集会に出席するよう助ける。”で、食事の招待の後は集会の参加が待っているようだ。“集会は私たちの崇拝の一部です。”とある。コロナの前では無力だったけれどね。」
「14節には“「いつまでも幸せに暮らせます」の本のレッスン10を使って,出席したいという気持ちを高めることができます。”とあります。これから研究生の出席率が高まることでしょうね。」
「“出席するようになるまでに時間がかかるとしても,がっかりしないようにしましょう。辛抱強く,諦めずに誘い続けてください。”とある。研究生はしつこい集会参加の要求を覚悟しないといけないわけだ。」

「15から17節が“恐れを克服するよう助ける”です。 JWになるということはとても恐ろしいことのようです。」
「その対処法として、16節は“自分の信仰について語れるよう段階的に教える。”とある。具体的には“「今日学んだことを伝えたら喜びそうな人が誰か思い浮かびますか」と尋ねてみましょう。”とある。誰も思いつかないような気がするね。」

「17節は“エホバを信頼するよう助ける。”です。イエスは弟子たちに対して,エホバは愛の気持ちから必ず助けてくださると述べました。(マタイ 10:19,20,29-31を読む。)とあります。」
「マタイ10:20は“天の父の聖なる力があなたたちによって話すのです。”とあるけれど、へんだろう。聖なる力が話すの?力は話さないでしょう。英文ではthe spirit of your Fatherで聖霊なのに、日本語訳で聖なる力としたことの問題だよ。」

「“学んでいる人が,エホバは自分のことも助けてくれる,と思えるようにしましょう。”とあります。これは洗脳が進まないと無理です。」
「ポーランドに住むフランチシェク兄弟は“新しい職場で集会や大会に出席するための休みを取る必要があった時,エホバの助けを感じました。”とある。本当にバカだね。休暇取得とエホバは何も関係ないよ。職場の規則次第だよ。」
「こういう人は理解できないですね。自分のために神が奇跡を起こしてくれたと思っているのでしょうか?自己中心的でうぬぼれていますね。」
「エホバはロシアでのJWへの迫害にはなにもしないけれど、ポーランドのJWの休暇取得は助けるわけだ。滅茶苦茶不公平な神だね。」

「最後の18節が泣かせます。“今は誰かに聖書を教えていないとしても,ほかの人の聖書レッスンに参加することによって,学んでいる人がバプテスマに向けて進歩するよう助けることができます。”とあります。組織は研究生が一人もいないJWのことを気遣ってくれています。」
「でも仲間から嫌われているJWは 他の人の聖書レッスンにも参加させてもらえないよね。」
「そんなJWですが、JWは“信仰で結ばれた愛にあふれた家族”です。」

#1324 2021年08月13日 13:39:26

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバはいつもそばにいてくださる (23)”で、家族の中でJWは自分だけという寂しいJWの対処法、という内容です。」
「またまた暗い内容の記事だね。JWは世界一幸福な民と宣伝した頃が懐かしいね。」

「孤独感を感じる程度は個人差が大きいと思いますよ。」
「人と付き合うのが嫌いな人もいるし、いつも誰かと一緒にいたいという人もいる。この記事を読む限り、JWは孤独で内気な人が多いようだ。」
「孤独感は精神を蝕みます。場合によっては、自殺につながりますよ。深刻な問題と組織も受け止めて欲しいです。」
「深刻に受け止めたとしても、その対処法はいつもの、祈り、集会、伝道、聖書、仲間や長老に相談するくらいでしょう。JWは信者の精神的な健康には全く無力な組織ということだね。」

「3,4節が“エホバは分かってくださっている”です。 エリヤが天使に救われたという話が出てきます。3節に“エホバはエリヤを助けるためにすぐに行動しました。天使を遣わして,”とあります。」
「天使を使わして助けたのは他にあまり例がないよね。例外的な出来事でしょう。」
「エリヤの話は列王記17章からです。列王記はユダとイスラエルの400年ほどの歴史が書かれていますが、天使が活躍するのはアッシリア軍18万5千人を殺したという血なまぐさい話くらいです。旧約聖書の中の天使は要するに殺し屋ですよ。」
「普段は傍観しているだけというのが神様なのに、3節では“エホバは,ご自分を崇拝する全ての人が幸せになることを願っています。”とある。本当にそう願っているのなら、なぜ行動しないの?」
「だから、願っているだけなんですよ。」

「3節の上にある挿絵でエリヤが毛皮のベストを着ているけれど、これは列王二1:8の“毛でできた服を着て,腰に革帯を締めていました。”に基づいている。しかし、こんなデザインなのかな?」
「ゼカリヤ13:4に“その日,どの預言者も,預言しては,自分の幻のことで恥をかく。そして,毛の職服を着て人を欺こうとしたりはせず”とありますから、毛皮の服は預言者の伝統的な衣装のようです。」
「でも“毛の職服”とは変な訳。預言者に職服なんてないよ。協会共同訳では“毛の外套”となっている。」
「バプテスマのヨハネはマタイ3:4に“ラクダの毛の服を着て,腰に革の帯を締めていた。”とありますから、服装からして最後の預言者というわけですね。」

「マラキ4:5に“エホバの大いなる畏るべき日が来る前に,私はあなたたちに預言者エリヤを遣わす。”とあって、そのため新約聖書ではバプテスマのヨハネがエリヤかどうかが問題になっている。」
「マタイ11:14ではバプテスマのヨハネのことを“そして,皆さんが受け入れるかどうかにかかわらず,彼が,『来ることになっているエリヤ』です。”とイエスは言っていますよ。」
「ところが、ヨハネ1:21では“その人たちは尋ねた。「では何者ですか。エリヤですか」。ヨハネは言った。「そうではありません」。「例の預言者ですか」。「違います」とヨハネは答えた。”とあって、ヨハネ自身は自分がエリヤではないと言っている。どっちが正しいの?」

「4節に“イエスは,弟子たちが信仰で結ばれた大きな家族を得ることになる,と優しく約束しました。”と書いているけれど、組織は本当に自分たちが信者に大きな家族を提供してきたかどうか振り返ってみたほうがいいよ。」
「家族というより、相互に監視し、圧力をかけ、足を引っ張りあう宗教ビジネスの仲間です。」
「組織は信者以外とは付き合うなといっているよね。信者を孤立化させるだけで、それに代わる親密な人間関係を提供するのに失敗している。」

「5から12節が“寂しさを感じる時にできること”です。 4つのことが書かれています。祈るとか聖書を読むとか集会に参加するとかで、これらはなんにでも効果のある魔法の方法のようです。その根拠となるのは真偽不明の体験談です。」
「体験談なんて何の根拠にもならないから、根拠はないと見なしていいよ。」
「信者は家族の中で自分だけで孤独であるというJWの体験談ですが、なんでJWになんかなったんですかね。寂しい思いをしたとして自業自得です。」
「そういう人は家族のしがらみがないので、JWを辞めようと思えばいつでも辞められる。寂しいならJWをやめて、新しい世界に飛び込んでみたらいいよ。」

「10節で友達づくりを勧めているのですが、“年齢や育った環境や経歴が 違っても,学べることはあります。聖書は,「老人には知恵がある」と述べています。(ヨブ 12:12)”とあるのは、老人が過半数を占めているJWの現実を反映していますね。」
「引用されているヨブ12:12は“老人には知恵があると思わないか。長く生きている人には理解力があると思わないか。”とあるけれど、訳がへんだね。」
「“思わないのか”は余計ですよ。」
「“老人には知恵がないのか、長く生きている人に理解力はないのか”ならいいと思うよ。これは問いかけているわけで、老人に知恵があると主張しているわけじゃないよ。」
「知恵のある老人もいれば、ない老人もいますよ。奇妙な宗教の言いなりになり、無駄に年月を重ねただけのJWの老人に知恵なんかありませんよ。」

「10節ではイリーナ姉妹が“会衆の兄弟姉妹は,親やきょうだいのような存在になってくれます。”といっている。本当だったら素晴らしいね。」
「でも一度でもJWの児童性的虐待裁判のことを質問すると、危険人物視され、誰も近寄らなくなります。」

「12節に“エホバは,そうした友達を用いて,あなたが寂しさなどのつらい気持ちと闘えるように助けてくださいます。(格 17:17)”とあるけれど、引照聖句の格言17:17は“真の友はどんな時にも愛を示す。苦難の時に頼れる兄弟である。”の訳がへんだ。」
「協会共同訳は“友はどのような時でも愛してくれる。/兄弟は苦難の時のために生まれる。”ですね。後半の主語が兄弟です。」
「それが普通の訳で、JWのような訳は見たことないよ。JWのように訳すと、友だちは頼れる存在だという根拠になるから、JWとしては便利なのだろう。」

「13から19節が“会衆を家族のように感じてもらう”です。 13節に“全ての人には,会衆を温かく平和な所にする務めがあります。”とあります。そんな務めがあるなんて知りませんでした。」
「14節以下がその務めを果たすための具体的な指示だね。“まずは,会衆に新しく来た人たちを温かく歓迎しましょう。”と、おなじみのラブシャワーだね。カルト宗教らしいテクニックだ。」
「14節に“プライバシーに配慮しつつ,その人の状況を知るようにしましょう。”とあります。JWがプライバシーに配慮するなんて珍しいですね。」
「ものみの塔で“プライバシーを尊重する”という文章が出たのは2019年5月号“虐待の被害者を慰める”以来だ。もっと頻繁に取り上げて欲しいね。」

「15節は“特に長老たち が会衆の人たちに関心を払うなら,会衆のみんなの信仰が強くなります。”と長老に対する指示です。」
「信者が組織に批判的になっていないか、しっかり監視しなさいということだね。長老なんて無給なんだから、そんなに熱心に働く必要はないよ。」
「権力をふるうことに快感を覚える長老がいるのですよ。無給でも、会衆のためと言いながら、自分の権力欲を満たすために頑張るのです。」

「16節に“必要なのはぴったりのタイミングでちょっとした親切を示すことです。”とある。それはそうだけど、相手のことを監視しているわけじゃないから、それは無理でしょう。要求過多なんだよ。」
「17節では、大会では一人ぼっちの人がいるので、“自分の家族と一緒に座るよう誘ってみるのはいかがですか。”とあります。」
「それがうれしい人もいるけれど、迷惑な人もいる。親切の押し売りはやめた方がいいよ。でも、JWから押し売りをとったら、JWじゃなくなるからね。」

「18節に“友達が家に呼んでくれたり,旅行に誘ってくれたりした時,すごくうれしかったです。”というメリッサ姉妹の言葉が出ています。理解できますが、貴重な旅行にあまり親しくない人は誘えませんよ。」
「旅行を楽しむ経済的な余裕がある信者に罪悪感を抱かせようという作戦だよ。信者が楽しい思いをすることをなるべく邪魔するのが組織の方針でしょう。」
「もし旅行に行けば、その時間やお金をなぜエホバのために使わないのですか、それはサタンの罠です、といじめるのが模範的長老です。」
「そうやっていじめられないために、長老に高価なお土産を買えばいいよ。お金はたいていの問題を解決してくれる。」

「19節で“祝祭日などの時に,エホバの証人ではない親族と一緒にいるのは大変だ,と感じる人がいるかもしれません。”とあります。これはJWのばかげた教義のせいですよ。無害な行事を異教が起源とか難癖をつけて、信者が参加することを禁じて、わざと孤立させます。」
「他に見ているJWがいなければ、一緒に参加すればいいんじゃないの。そんなことで宇宙の創造者は人間を罰したりしないよ。」

#1325 2021年08月20日 15:25:23

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“サタンのわなから逃れることは可能です! (24)”で、誇りとどん欲を避けて、組織に絶対服従の人生を送りましょうという内容です。」
「誇りとどん欲を避けるというのは正論のようだけど、これは信者をコントロールするためで、素直に受け取ってはいけない。特にサタンという胡散臭いものをからめてきたときは、眉唾物と思った方がいいよ。」

「1節で、サタンは“私たちのことをじっくり観察しています。私たちがどこに行き,どんなものを好むかをよく知っています。そして,私たちに気付かれないようなわなを仕掛けてきます。”とあります。子どもなら怖くて夜は眠れません。JWは恐怖をあおることによって成り立つ宗教ということですね。」
「大人が子どもを怖がらせて、いうことを聞かせようとする時に話す怖い話と同じレベルの話だね。JWでいるというのは永遠に小学校4年生のままでいるということだ。」

「聖書を読む限りサタンはほとんど出てきません、あまり怖くないです。怖いのはエホバです。すぐ人を殺します。」
「どれだけ人を殺したかで比べると、神が大差をつけて勝ちだね。サタンがどのような思想を持ってどのように行動するかは、聖書にはほとんど書かれていない。」
「抽象的な悪を擬人化したようなものです。」
「この記事で書かれているサタンは、ほとんどが執筆者の想像に過ぎない。」

「4から8節が“誇りというわな”です。 語句の説明によると、誇りは“自分は人よりも優れている,という気持ちです。”とあります。自信に欠けた自己評価の低いJWが多いことの方が問題じゃないですか。」
「人間は常に周囲の人と自分を比較している。そしてささやかな優越感を抱く。JWも同じだよ。」

「5節に“サタンは,私たちがエホバや兄弟たちのことを悪く言うのを見たいと思っています。また,私たちがエホバから与えられている導きに従わずに,自分の方法で解決するしかないと考えることを望んでいます。(伝道の書 7:16,20を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。サタンなんて出てきません。」
「伝道7:16は“正しさにあまりにこだわってはならない。賢くなり過ぎてはならない。どうして自分の身を滅ぼすのか。”だけど、これはJWのことを言っているのじゃないの?」
「誕生日はどうのこうのと理屈をつけて禁止する。これって正しさにこだわりすぎです。明確に禁止されていないことを、これはエホバが喜ばれることだろうかとか勝手に推測して禁止するのは、賢くなりすぎです。」
「伝道7:15は” 正しい人が,正しいことを行っていても死んでいき,悪人が,悪いことを行うにもかかわらず長生きする。”とあって、それを受けて7:16がある。正しいことをしたって早死にする人がいるし、悪人が長生きする事だってある。過剰に正しさにこだわっても失望するだけだ、ほどほどでよい。そんな意味だよ。JW活動もほどほどでいいよ。」

「6節は体験談です。” 仲間の不完全さに腹を立て,もう我慢の限界だ,と感じました。”が、” 会衆の兄弟姉妹を変えようとするのではなく,自分の間違いを謙遜に認める必要があるということに気付きました。”とあります。JW的ですね。」
「この場合“仲間の不完全さ”とは仲間から受ける様々な迷惑、失敗、無理難題などの総称ね。面白い言葉の使い方だよね。特殊な用語がはびこるというのもカルトの特徴だよ。」
「これでは自分が我慢して終わりです。何も改善しません。」
「6節に“天のお父さんエホバは,兄弟姉妹の間違いに気付いていますが,それでも進んで許しています。”とある。勝手な推測だ。なぜ許しているとわかるのかな?ハルマゲドンで焼き殺すつもりかもよ。」

「7節はウジヤ王の話です。歴代誌二26章からです。“ウジヤ王は,香を捧げようとして神殿に入るという出過ぎた行動をしました。エホバは不快に感じ,誇りを抱いたウジヤを重い皮膚病で打ちました。ウジヤは死ぬ日まで重い皮膚病を患いました。”とあります。」
「とても不公平だね。ダビデは数々の罪を犯しながら、罰を受けるのはダビデ以外の人。その息子のソロモンは、列王一11:5では“シドン人の女神アシュトレテとアンモン人の極めて不快な神ミルコムに従った。”とあり、列王一11:7では “モアブの極めて不快な神ケモシュのため,またアンモン人の極めて不快な神モレクのために,エルサレムの前の山に高い場所を築いた。”とある。とんでもない背教者なのに、皮膚病なし。」

「歴王二15:1-7にウジヤ王のことが書かれているのですが、皮膚病になったことは書かれていますが、神殿で香を捧げたことは書かれていません。」
「歴代誌が書かれたのはバビロン捕囚以後で、史実性は乏しい。ウジヤ王が皮膚病になったことに後からもっともらしい話を付け加えた。王が祭司のまねごとをするのはダビデやソロモンの時代では普通に行っている。」

「8節がホセ兄弟の体験です。JWの中で重要人物だったけれど、排斥され、後に復帰したという人です。結論は“誇りの気持ちがあるなら,エホバに用いられることはありません。”です。」
「嘘くさい教訓話。それが本当なら、統治体をはじめ今組織で重用されている人は、誇りの気持ちなどないことになるね。そんなことないだろう。」

「9から14節が“貪欲というわな”です。 語句の説明によると、貪欲は“お金や権力や性などに対する行き過ぎた欲望のことです。”だそうです。ついつい統治体のことを思い出してしまうのは偏見でしょうか?」
「9節はJWが大好きなエデン物語。“エバは自分が持っているものに満足できず,もっと多くを欲しがりました。”とある。エバは貪欲な女というわけだ。子どもでもすぐわかる、わかりやすい解釈だね。」
「この記事ではアダムについては何も言っていません。女性差別です。」
「アダムは創世3:12で“あなたが私に下さった女,その女がくれたので食べました”と愚かな弁解している。どうもアダムは知能が低いようだ。それで責任なし、となったんじゃないの?」

「10節がダビデのバテシバ事件です。“エホバが許して くださったことに本当に感謝したことでしょう。”とお気楽なことを言っていますが、本当でしょうか?」
「ダビデのかわりに、生まれた子どもが死ぬ。神様は赤ちゃんを殺すのが好きだね。サムエル二12:18には“そして7日目,子供は死んだ。”とある。7日間も苦しめたわけだ。殺すならすぐ殺せばいいのに、なぜ苦痛を長引かせる?」
「残虐ですね。」
「それは何とも言えない。たった7日間苦しめただけで死なせた神はなんと憐れみ深いのでしょう、という意味かもしれない。旧約聖書の解釈は難しい。」

「11節に“エホバから与えられている全てのものにいつも感謝しているなら,貪欲と闘うことができる,ということです。(エフェソス 5:3,4を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「5:3で“性的不道徳や,あらゆる汚れや貪欲については,皆さんの間で口に上ることさえあってはなりません。”とあって、5:4で“代わりに,感謝を表しましょう。”といっている。感謝するとどん欲と闘えるなんて言っていない。」
「ここで言う“貪欲”は文脈から言って、性的な貪欲ですよ。」
「恐らくそうでしょう。でもこの記事では11節に“持っているもので,満足しなければなりません。”とあるから、執筆者は所有欲と思っているんだろうね。」

「11節に“新しく聖書を学び始めた人は,エホバがしてくれていることを毎日1つ考えて,感謝の祈りを捧げるように,と勧められます。”とありますが、いかにもJW的です。」
「感謝がノルマになっている。自発的なものではない感謝って、感謝とは言えないよ。」

「12節がユダ・イスカリオテの話です。ユダが任されていたお金は“現代でいえば,世界的な活動のための寄付のようなものです。”とあります。JWは1世紀のクリスチャンに倣っているという神話づくりですね。」
「1世紀にも統治体があったなんて、いっているのと同じだね。」

「ユダは“金箱から盗むようになりました。”とありますが、そう言っているのはヨハネだけです。ヨハネ12:6に“彼が泥棒で,管理していた金箱からよく盗んでいたからだった。”とあります。しかし、他の福音書にはそのような記述はありません。」
「ユダに関しては福音書間の不一致が多い。なぜユダが裏切ったのかという重要な問題でも一致しない。」
「マルコとルカは金銭目的としています。マタイでは銀30枚もらったけれど、後悔して返している。マタイ27:9で“この時,預言者エレミヤを通して語られた次の言葉が実現した。”とあり、預言の成就とされています。つまり、ユダは裏切るように運命づけられていたということですか?」
「ヨハネ13:27に“ユダにサタンが入った。”とあるし、ルカ22:3にも“イスカリオテと呼ばれるユダにサタンが入り込んだ。”とある。ということはユダに責任はないということ?ユダに関する話はかなり混乱している。」

「ユダの裏切りは史実性がないということでしょうか?」
「コリント一11:23で、パウロは裏切りについて触れている。“主イエスは,裏切られようとしていた夜,パンを取り,”とある。裏切りはあったと思われる。しかし、パウロはユダの名前をあげていない。さらにコリント一15:5で復活したイエスは“ケファの前に現れ,それから12人の前に現れた”と言っている。12人にはユダも含まれるはず。パウロはユダが裏切り者とは思っていないようだ。」

「マタイによるとユダは銀30枚でイエスを売り渡すわけですが、これは安すぎると思います。」
「出エジプト21:32に“牛が男奴隷や女奴隷を突いた場合,奴隷の主人に銀340グラム*を渡し,牛は石打ちにされる。”とある。正確には銀30シェケル。つまりイエスの値段は奴隷に対する賠償額と同じことになる。安すぎるので、銀30枚としたのは、預言に合わせるための創作でしょう。」

「14節にルーマニアの夫婦の話が出ています。外国に出稼ぎの話があったけれど、奉仕活動が十分にできなくなるので断ったら、国内でいい仕事が見つかったというものです。” エホバはご自分に仕える人たちを必ず支えてくれます”と妻が語ります。」
「JWの神様は仕事の紹介も知れくれる神様ということ?たまたま仕事が見つかってうまくいったというだけ。こうやって、仕事よりも無給の奉仕を優先させられるわけだね。」

「15,16節が“サタンのわなを避ける”ですが、たいした内容はありません。“エホバに助けてもらうなら,悪魔が仕掛けるどんなわなからも逃れることができるのです。”とあります。」
「要するに神だのみでOKということね。こうやって何事にも指示されない限り自発的に考えない、動かないというJWが出来上がる。」

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