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#1151 2020年04月24日 16:54:37

うめおばさん
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

JW少年は、マスクがなかなか手に入らず、手作りマスク使い回しして、薄汚れちゃったんですかね。いつも興味深い記事ありがとうございます。会衆の中で妬みの感情が、渦巻いていた事、実体験していました。

#1152 2020年05月01日 16:31:57

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習にきました。次回のものみの塔は、“エホバはあなたの心を落ち着かせてくださる(9)”で、JW流の不安の対処法を学ぶという内容です。今回の登場人物は、ハンナ、パウロ、ダビデです。ハンナの話が平信徒向けで、パウロの話が長老向けで、ダビデの話が問題を起こした人向けという構成です。」
「ところで、マスクはないの?幾つかあげるよ。知人から50ほどもらった。その人の会社では、だいぶ前にマスクを大量注文していて、ようやく届き始めたそうだ。」

「3から10節が、“忠実なハンナから学べること”です。3節には、“親しい友や親族に傷つけられたことがあるなら,ハンナから大切な点を学べます。”とあります。」
「でも、答えは祈りと集会参加。それが本当なら、JWに不安を抱える人はいないはずだよね。」

「ハンナの悩みは、不妊と夫のもう一人の妻ペニンナのいじめですね。」
「不妊は別だけど、これは神様が一夫多妻制を認めているのが、そもそもの原因だ。」
「でも聖書では、一夫一妻制を理想としていますよ。子孫を残すための必要悪という位置づけでは?」
「確かに、聖書を見ると、複数の妻を持つことはまれだね。でも、イザヤ3:25-4:1に“男性たちは剣によって倒れ,強い人たちは戦いで倒れる。 都市の入り口は嘆き悲しみ,彼女は寂しく地面に座る。その日,7人の女性が1人の男性にすがって言う。「私たちは自分のパンを食べ,自分の服を着ます。ただ,あなたの名前を名乗らせてください。私たちの恥を取り去るためです」。”とあるように、戦争の結果、男性が不足したときは一夫多妻が増えたようだ。」

「5節には、悩み多きハンナは、“ハンナはエホバに祈り,気持ちを全て打ち明けました。”とあります。」
「ハンナは、祈りの内容が聖書に書かれている唯一の女性。ハンナは祈りの女性だね。それを考慮すると、サムエル一1:15の“エホバに気持ちを全てお伝えしているのです。”という訳はダメだね。」
「そこはハンナが祈っているのに酔っぱらっていると誤解され、弁明する場面ですね。協会共同訳は、“主の前に自分の胸の内を注ぎ出していたのです。”と訳していますね。」
「新世界訳の古い版では、“私はエホバの前に魂を注ぎ出しております。”で、これが字義通りの訳。それを“気持ちを全てお伝えしている”と訳すると、祈りに込めたハンナの熱意や必死さが伝わらない。また、酔っ払いと誤解されたことに対して、お酒ではなく、私の魂を注ぎ出しています、という機知に富んだハンナの答えの面白さも伝わらない。」
「新しい新世界訳はJWの素人が訳しているわけで、細かいニュアンスなど気にしていませんよ。」
「英語版では、“I am pouring out my soul before Jehovah.”で古い日本語訳と同じなの。それをアホな日本語訳にかえた。魂(soul)という言葉を使いたくなかったからじゃないの?」
「日本のJWは、勝手に霊とか魂とかを聖書から抹殺しようとしているわけですね。」

「7節に、“ハンナは大祭司エリから,エホバが祈りをかなえてくださいますように,と言ってもらえました。ハンナは幕屋に来ていたので,そのような励ましが得られ,慰められました。”とあり、このことを、8節の“集会に出席し続けるなら気持ちが落ち着きます。”に無理やり繋げていきます。JWにとって、集会は万能薬なんですね。」
「ハンナが幕屋に行ったのは年に1回じゃないの?ハンナを見倣うなら、集会には年一回でいいということになるよ。」
「ハンナを基準にすると、JWは集まりすぎということですね。」

「集会に出席することがストレスになっている人は多いでしょう。」
「それはこの記事も認めています。8節に、“ストレスを感じていても集会に出席するなら,エホバと兄弟姉妹から励ましが得られ,気持ちが穏やかになります。”とありますから。」
「励ましが得られるって?どれくらいの頻度で?聞いたことないよ。」
「JWを辞めてよかったことの第一位は、集会に行かなくてもよくなったことです。」

「ハンナの気分が晴れたのは、自分のできることはやり遂げたという達成感だよ。無力な女性であるハンナは祈ることしかできない。神の幕屋に来て、魂を込めて祈った。もう、やるだけやった、これ以上自分にはできることはないと悟った。それで、澄み切った落ち着いた心理状態になった。幕屋に来たからじゃないよ。」
「できることはやったということですが、その後、サムエル一1:19に“エルカナは妻のハンナと関係を持った。”とあります。こういうことをいちいち書くのが旧約聖書の特徴ですよね。」
「これは、生まれた子どもが神の子どもではないことを読者にわからせるためだと思うね。ハンナとサムエルの話と似ているのはマノアの妻とサムソンの話だけれど、サムソンの場合は、マノアとその妻が関係を持ったという記述はない。これは意図的。」

「10節に、“不安の原因がなくならないとしても,穏やかな気持ちでいられます。”と根拠もなく主張し、“ハンナの例から分かるように,エホバが心を落ち着かせてくださいます。”とあります。」
「全然わからないね。ハンナの悩みの原因は不妊だった。それが妊娠・出産によって解決したという話し。ハンナの例は悩みの原因がなくなることが大事ということでしょう。」
「そうですよね。執筆者はここで考えることを放棄して、エホバが何とかしてくれますという、JWの決まり文句に逃げています。」
「エホバを待つとか、エホバが正すとか、組織も不完全だからとか、そういう決まり文句は、JWの思考を止めるための悪魔の言葉だ。」

「11から15節が、“パウロから学べること”です。長老は勝手に一人で決めるなというのが主なメッセージのようです。」
「“助けを求めましょう。”、“支えが必要なことを認めましょう。”、“聖書から力を得ましょう。”とあるね。さすがに、長老マニュアルをしっかり読めとは書いていない。」
「それは、平信徒のいる集会では言いませんね。」

「15節に、“テモテにすぐ来てくれるよう頼み,「巻物」を持ってきてほしいとも言いました。(テモ二 4:6,7,9,13)何のためですか。「巻物」はヘブライ語聖書の一部だったと思われます。”とあるけれど、“巻物”という訳はへんじゃないかな?原語はbibliaつまり本だよ。」
「協会共同訳では、“また書物、とりわけ羊皮紙のものを持って来てください。”と訳していますね。」
「旧約聖書は“巻物”が多かったので、“巻物”と訳さないと、パウロが持ってきて欲しいものは聖書だったというJWのお話が成立しないからじゃないかな。」
「聖書の英語訳を見ると、booksとしている方が多いですけれど、scrolls(巻物)としているのもありますよ。聖書のことだと解釈すると巻物と訳するようですね。」
「テモテ二4:13で、パウロは、初めにマントを持ってこいと言い、次にbibliaと言うわけで、その重要性は2番目。聖書ではなく、それ以外の本か何かの原稿と考えた方が適切じゃないのかな。」

「16から20節が“ダビデから学べること”で、重大な過ちを犯した人向けです。ダビデってJWお気に入りのキャラクターですね。」
「JWでは、ダビデと言えばバテシバだね。飽きたよ。」
「この記事では、“許しを求めて祈りましょう。”、“矯正を受け入れましょう。”、“同じ過ちを繰り返さないことを決意しましょう。”と3つのことを取り上げ、20節で、“この3つのステップを踏むなら,気持ちが楽になります。”とまとめています。」
「気持ちが楽になるだけで、許されるわけじゃない。3つのステップを踏んで、気持ちが楽になった所で、排斥処分というのがJWでしょう。親切だね。」
「許されるかどうかは、長老マニュアルに則って決めるわけです。でも、長老たちの好き嫌いも処分の結果を大きく左右します。JWでは、日ごろの接待、付け届け、ゴマすりが大事ということです。早速、もらったマスクの一部を長老に寄付しますよ。」

「17節で、“ダビデはやがて,エホバに祈りました。罪を心から悔いて,自分がしたことを全て告白しました。(詩編 51:1-4を読む。)”とある。詩編51の表題には、“ダビデの歌。ダビデがバテ・シバと関係を持った後,預言者ナタンがダビデのもとに来た時。”とあるので、ここで読むと指定しているのだろうけれど、表題と詩の中身はあまり関係ないんだよ。」
「詩編51はダビデの作じゃないということですね。詩の内容は、抽象的で、ダビデと結びつくような具体性はないですね。」

「詩編51の最後の18,19節は、“憐れみを掛け,シオンに善いことを行ってください。エルサレムの城壁を築いてください。 その時,あなたは正しく捧げられる犠牲を喜びます。”とある。これはバビロン捕囚期以降の詩だということを示している。」
「シオンはエルサレムのことですね。エルサレムの回復と城壁の建築を祈っています。また現在は犠牲の儀式が正しく行われてはいないことを示しています。ダビデの時代じゃないですね。」
「ダビデの時代では、シオンは、列王記一8:1に“彼らはエホバの契約の箱を「ダビデの町」つまりシオンから運ぶため,”とあるように、エルサレムの中の“ダビデの町”と呼ばれる一画を指していたにすぎない。それが、時代がたつにつれて、特にバビロニアによってエルサレムが破壊されて以降、シオンはエルサレムのことを指すようになる。そしてシオニズムの語源となる。」
「ということは、詩編51は捕囚期以降の作品で、内容は個人の嘆きではなく、国を失った人々の嘆きですね。それを聖書の編集者が勝手に、有名人のダビデに結び付けた。」

「18節に、“ダビデはエホバからの矯正を受け入れました。エホバはダビデを許しました。(サム二 12:10-14)”とあるのは、あまり正しくないだろう。」
「サムエル二12:14に“しかし,あなたはエホバに対して非常に不敬なことをしたので,生まれたばかりのあなたの子は必ず死にます。”とありまして、ダビデのかわりに罪のない子どもが死ぬというお裁きです。子どもを死刑にするから犯罪者の父親を許すといっているわけで、正義に反しますが、エホバらしくていいですね。」

「最後の21節に、“今の終わりの時代は,もうすぐ終わります。”と懲りることなく終末預言です。このような文を最後の節に入れろと統治体から指示されているんですか?」
「そうでしょう。終わりが来るぞ、というJW最大のセールスポイントが、今でも通用すると思っているんだよ。老犬は新しい芸を覚えられないものなの。」

#1153 2020年05月08日 14:44:11

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバへの愛と感謝がバプテスマにつながる(10)”で、さっさとバプテスマを受けて、組織のために働けという内容です。」
「アベノマスクはいつ届くのだろうね。バプテスマを受ける理由は、愛と感謝ではなく、家族や研究司会者からの圧力や他の研究生に遅れたくないという競争心じゃないの?」
「子どもがバプテスマを受ける場合は、ほとんどがそうでしょうね。お気の毒です。」
「子どもに人生の重大な決定をさせるような宗教にろくなものはないよ。」

「最初の2節で、エチオピアの役人がバプテスマを受けた話をとりあげていますが、“この役人はエホバを崇拝するためエルサレムに行っていたので,エホバを愛していたことは明らかです。”とあります。これはおかしいですね。」
「記事の中で“明らかです。”とある場合は、少しも明らかじゃないということだね。根拠がなく、強弁して、ごまかそうとしているだけ。」
「エルサレムの神殿に行けば、エホバを愛していることになるなら、ユダヤ人の多くはエホバを愛していることは“明らかです”、という結論になりますよ。」
「神殿に行って熱心に崇拝していた人がイエスを殺し、イエスの弟子たちを迫害した、というのがキリスト教の基本的な考え方。イエス以前とはエルサレムの神殿に対する考え方が違うことが、この執筆者はわかっていないね。」

「3節に、“エホバ以外のものを強く愛するとバプテスマを受けるのが難しくなります。”とあります。バプテスマを受けないでいると、エホバ以外のものを愛している人だと、いじめられるということですね。」
「神様を愛しているけれど、組織が嫌いなのでバプテスマを受けたくないという、まともな主張は、認められないということね。」

「囲み記事で、ルカ8:11-15を取り上げています。4つの土がでていて、あなたはどの土か聞いて、それぞれを解説しています。」
「これが奇妙な説明で、笑える内容だ。」
「例えば、よい土の説明が、“聖書レッスンを欠かさず受け,学んだ事柄を実行する努力を続けます。エホバに喜ばれることを大切にします。試練に遭ったり反対されたりしても,エホバについて人々に話すことをやめません。”です。聖書のどこにそんなことを書いていますか?」
「書いてないよ。組織の考えに過ぎない。それにしても過大な要求だね。」

「4節以降からは、“一番大切なエホバへの愛を育てる”です。エホバというのは、要するにJWの神様なわけですよ。JWという組織が作り出した、要求過多のけち臭い神様を愛するのは難しいですよ。」
「JWのバプテスマは、組織に対する献身で、組織に服従しますということだよ。統治体の老人の言いなりになるつもりの人だけが受ければいいということだね。」

「5節で、“一番大切なその愛を抱くことには,どのように考え,行動することが含まれますか。”と問いかけ、その答えが、7つ出ています。それらのことをしないといけないみたいですね。」
「まず6節で、“エホバが造ったものからエホバのことを知る。(ローマ 1:20を読む。啓 4:11)植物や動物の造りに表れているエホバの知恵の深さについてじっくり考えてください。”とあるね。いつもの決まり文句だけど、ローマ1:20には“知恵の深さ”なんてことは出てこないよ。」
「“造られた物を見れば,神が永遠に力を持っていて,確かに神であるということが分かります。”とありますね。知恵はないですね。」
「協会共同訳だと、“神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。”で、こちらの方がいい訳。被造物からわかるのは、神の力と神性となっている。何でもわかるのではなく限定している。」

「“人体の素晴らしい造りを少しでも知るようにしましょう。(詩 139:14)”というのはどうですか?人体は設計ミスと呼んでいいところがたくさんありますよ。」
「詩篇139:14には、“私はあなたを賛美します。私は,驚くほどに素晴らしく造られているからです”とあるけれど、これは古代人の感想に過ぎない。例えば、呼吸器は鳥の方が優れている。鳥は気嚢(きのう)と肺が組み合わされた呼吸器になっていて、空気が一方向に流れていくようになっている。人間は一つの気管を使って空気を出し入れするので効率が悪い。人間はそのため空気の薄い高い山に登るとすぐ呼吸困難になるけれど、鳥の中にはヒマヤラ山脈を超えて渡りをするのもいる。」
「登山が好きな人なら、エホバはどうして効率の悪い呼吸器にしたのですか、と問いたいですね。」
「心臓だって問題がある。心臓病が多いのは、心臓の筋肉に血液を送る冠状動脈が細いので詰まりやすいことが大きな理由。知性のある存在が心臓を設計するなら、もうちょっと余裕を持たせた設計にするよ。」

「7節で、“エホバがあなた個人を深く気に掛けていることをはっきり知る必要があります。”とあります。神様があなた個人を気にかけているって、本当ですか?」
「少なくともグアテマラで殺された日本人女性JWのことは気にかけていないね。新型コロナウィルスで死亡したと、組織が認めた872人のJWのことも気にかけてはいないね。」

「“あなたが今聖書レッスンを受けているのは,エホバが「あなたを引き寄せた」からです。(エレ 31:3)”とあります。いま聖書レッスンを受けている、それこそが神様があなたのことを気にかけている証拠だと主張したいようですね。」
「それなら、平日に暇で家にいる人のことを、一生懸命仕事して普段は家にない人以上に神様は気にかけていることになるよ。おかしいだろう。」
「引照聖句のエレミヤ31:3には、“揺るぎない愛をもってあなたを引き寄せたのである。”とありますが、これはイスラエル人のことを言っているわけで、JWとは何の関係もないですよ。」
「JWの聖書レッスンが神の御業であると思わせようとして、聖句を意図的に誤用していると思うね。」

「9節が“聖書を大切に思う。”です。“聖書を読むための予定を決めていますか。予定を守り,毎日読んでいますか。”と問いかけています。JWにとって、聖書を読むのは仕事なんですね。」
「どんなことでも仕事となると楽しくなくなるね。」
「面白いのは10節で、“聖書の1つの特色は,イエスについて見聞きした人の言葉が収められていることです。”と、普段は軽視しているイエスを持ち上げています。」
「バプテスマ関連の記事だからだよ。エホバ教のJWでも、バプテスマはイエスが命じたことだから、イエスに触れざるを得ない。」
「“イエスがあなたのために何をしたかを正確に記録しているのは聖書だけです。”とありますが、正確かどうかは何とも言えませんよね。」
「4つの福音書の間には調整不可能なほどの不一致がたくさんある。例えば、イエスの誕生の話しはマタイとルカでは大きく違う。両方とも正しいなんてことはあり得ない。両方とも史実としては正しくないだろう。」

「11節が、“イエスを愛する。”です。でも、その理由が、“イエスを愛するようになるとエホバへの愛が育つ”なのです。これは奇妙な理由ですね。」
「JWでは、エホバへの愛が最優先で、イエスへの愛はエホバへの愛に役立つ限りにおいて重要だという位置づけなんだ。キリスト教とは全然違う宗教だということ。」
「“イエスは父エホバに完璧に倣っているからです。(ヨハ 14:9)”とありますが、これはJW独自の解釈ですね。」
「ヨハネ14:9は、フィリッポが“主よ,私たちに父を見せてください。”といったことに対して、“私を見た人は,父をも見たのです。どうして,『父を見せてください』と言うのですか。”というイエスの返答なのだけど、JWは、イエスはエホバを何でもまねしている奴だから、イエスを見たものは神を見たという意味だとイエスは言ったと解釈している。そんなこと、どこにも書いていないだろう。」
「ここではイエス=父という後の三位一体の神につながる考え方が述べられているところですね。」
「しかし、イエスを神様の格下のパートナーと見なすJWはこの聖句を受け入れられない。そこで、イエス=エホバの物まね名人という珍説でごまかしているわけだね。」

「13節、“エホバに仕える人たちを愛する。”です。自分の家族や友人より、組織の人間を愛せということですね。」
「人間を組織側の人、そうでない人と2つに分けて、組織の人間だけを愛し、それ以外を敵視するという人間観を持てということ。このような人間観はカルトの特徴だね。」

「14節が“エホバの基準の善さを認め,それに自分を合わせる。”で、組織の決まりを守れということです。輸血も誕生祝もダメということですね。」
「輸血せずに死ぬ覚悟がない人はバプテスマを受けるなということ。狂信的な人以外はJWには向いていないね。」

「15節に、“エホバは組織を通して出版物を与え,正しいことも悪いことも見分けられるようにしてくださっています。”とあります。出版物にエホバの基準が示されるようです。」
「本当にそうなら、エホバという神様は頻繁に基準が変わる一貫性のない神様ということになるよ。」
「医療分野ですと、昔JWが禁止していたものにワクチン注射、臓器移植があります。途中から変更しました。禁止期間中に無駄に死んだ人のことをエホバは気にかけていないということですね。」

「16節が、“エホバの組織を愛し,支える。”です。エホバの組織って、JWのことなんですよね。その証拠ってあるんですか?」
「ないよ。言ったもの勝ちみたいだね。」
「16節には、エホバ→イエス→忠実で思慮深い奴隷→長老→平信徒という階層構造が、かなり美化した形で述べられています。」
「忠実で思慮深い奴隷はイエスのたとえ話にでてくるキャラクターにすぎないんだけどね。それを勝手に解釈しているのがJWだね。」

「17節が、“エホバを知って愛するよう人々を助ける。”です。要するに伝道活動のことです。“エホバを愛するよう誰かを助けるなら,大きな喜びが得られます。”と嘘くさいことを書いています。」
「伝道時間を報告しなくてすむようになったら、99%のJWは伝道なんかしないよ。」
「伝道活動が大きな喜びだというJWなんて聞いたことないです。」

「17節に、“(ローマ 10:10,13,14を読む。)”とあるけれど、その訳がひどいね。」
「ローマ10:10に、“口で人々に伝える*ことによって救われます。”とありますが、ちゃんと脚注には“または,「表明する」。”とあります。こちらの方が本当の意味ですよね。」
「協会共同訳では、“口で告白して”とある。“人々に伝える”だと、まるで伝道活動をすることによって救われるみたいだ。それはJWの思想で、パウロの思想じゃないよ。」
「ここで使われている動詞はhomologeó(GK3933)ですよ。伝道するというような意味で使われることはないですね。」
「この単語は、“同意する”が基本的な意味。公の場で同意する、公言するという意味もあるけれど、伝道するという意味はない。JWの訳が、自分たちの教義に合わせたインチキなものであるという一つの例だね。」

#1154 2020年05月09日 06:27:17

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

>子どもに人生の重大な決定をさせるような宗教にろくなものはないよ

最近見た サイエントロジーの番組では証人のベテルみたいなところに 12歳から入ることができるとありました 10億年仕えるという誓約書を書いて cry

オフライン

#1155 2020年05月15日 15:16:05

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“バプテスマを受ける用意ができていますか(11)”で、バプテスマの前後にすべきことを細々と指示するという内容ですね。」
「今からバプテスマを受けようなんていう人は、選択肢のないJWの子どもか、宗教以外にすることのない暇で孤独な老人しかいないんじゃないの?」
「過去の統計によりますと、バプテスマ数が最高だったのは1997年の37万5923人ですね。それ以降は減り続けて、2005年には24万7631人にまで減りました。それ以降少し増加し、今は30万人前後ですね。」
「問題は、聖書研究に対するバプテスマ数の割合だ。終わりの日の預言効果で1975年が最高で、22%。現在は3%くらいだ。聖書研究を受けてバプテスマに至る人は100人中3人ということで、信者獲得という観点からは、聖書研究は膨大な無駄ということ。これは、今までの終末論によるビジネスモデルが通用しないことを意味している。」

「2節に、“ルカ 14章27-30節のイエスの言葉を確かめましょう。(読む。)イエスの弟子になることに何が関係するかが説明されています。イエスの弟子になるには,それに伴う「費用」を払う心構えができている必要があります。困難や犠牲を受け入れる,ということです。”とあります。ルカ14:27-30は、塔を建てる場合に前もって費用を計算するというたとえ話ですが、このような解釈はおかしいですね?」
「ルカ14:25-35がひとまとまりだけれど、この部分の結論は33の“持ち物全てに別れを告げない人は誰も私の弟子になることができません”なの。それなら費用を払えるかどうか計算する必要はないわけだ。」
「ルカは、損得計算したら得だからイエスの弟子となりなさいなんて、宗教セールスマンのJWのようなことは言わないですよね。」

「塔を建てる例えの次にくるのが、戦争の例えで、“ある王が別の王との戦いに出ていく場合,まず座って,2万の軍勢で攻めてくる相手に1万の軍勢で立ち向かえるかどうかを協議するのではないでしょうか。 実際,立ち向かえないなら,相手がまだ遠くにいる間に,使節団を遣わして和平を求めます。”とある。要するに、不利なら素早く敵と妥協せよ、ということだけど、こんなことをイエスが言うかな?」
「その後に、“同じように,持ち物全てに別れを告げない人は誰も私の弟子になることができません”という結論が来るわけで、例えとその結論に一貫性がないですね。」

「4から16節が、“献身とバプテスマの意味”です。4節は、“献身とは何ですか。”で、“献身とは,エホバに真剣に祈り,「これからはずっとあなたに仕えるために生きていきます」と伝えることです。エホバに献身する人は,「自分を捨て」ます。(マタイ 16:24を読む。)”とあります。」
「これはへんだね。マタイ16:24は、“私に付いてきたいと思うなら”とあるよ。エホバじゃなくてイエス・キリストの後に従うんだよ。だからクリスチャンという。エホバに従うならクリスチャンじゃないよ。」
「エホバ教のくせにクリスチャンと自称するのがJWのおかしなところですね。」
「それから、“私に付いてきたいと思うなら”といっているわけで、“バプテスマを受けたいなら”といってはいない。パプテスマを受けるための条件を述べた聖句ではない。」

「イエスはバプテスマにあまり関心ないですよね。福音書にはほとんど出てきません。」
「しかも、特殊な使い方をしている。マルコ10:38には“あなたたちは,自分が何を求めているか分かっていません。私が飲んでいる杯から飲み,私が受けているバプテスマを受けることができますか。”とイエスが、ヤコブとヨハネに言う。」
「これは、ヤコブとヨハネが、“栄光をお受けになる時,私たちの1人をあなたの右に,1人を左に座らせてください。”とイエスに頼んだ時の問ですね。」
「ここでは、バプテスマはイエスの来るべき受難のことを言っている。」
「ルカ12:50に“しかし私には受けるべきバプテスマがあります。それが終わるまで私はどれほど苦しむことでしょう。”というイエスの発言も、バプテスマとは来るべき受難のことですね。」
「聖書の中で、バプテスマはいろいろな意味で使われているの。バプテスマとは○○です、と単純に説明できない。」

「5節が、“献身とバプテスマにはどんな違いがありますか。”で、“バプテスマは人前で献身の気持ちを表すこと”とあります。つまり、献身→バプテスマの順ということですね。」
「そんなことは聖書に書かれていないよ。先週の記事に出てきた、エチオピアの役人はバプテスマの前に献身をします、なんて言っていないよ。」
「使徒8:36では、“見てください,水があります。私がバプテスマを受けられない理由が何かあるでしょうか”と言うだけですね。」

「その下に、“バプテスマの時に尋ねられる2つの質問”という囲み記事が出ています。これは2019年に変更されたものですね。」
「その2つの質問によると、“エホバに献身”し、“エホバの組織共に働くエホバの証人になる”わけだ。エホバに献身とは、聖書的根拠のあるなしにかかわらず、自称・エホバの組織の言いなりになるということね。」
「2019年の変更で、聖霊に対する言及が全くなくなりました。」
「イエスの命令はシンプルなもので、父と子と聖霊の名によってバプテスマを施しなさいだよ。それなのに、JWは聖霊を無視するわけだ。」

「6節が、“バプテスマを受けることは必要ですか。ペテロ第一 3章18-22節の言葉を考えてみましょう。(読む。)”です。」
「“必要です。”とあるけれど、1955年までは、他の教会でバプテスマを受けたことのある人(幼児洗礼は除く)は、さらにJWのバプテスマを受ける必要はなかったんだよ。」
「よくある教義変更ですね。そうなると1955年までに亡くなったJWには、JWのバプテスマを受けなかった人が大勢いるわけで、その人は救われない?でも復活するから問題ない?よくわかりませんね。」

「ペテロ一3:18-22の解釈はけっこう難しいよ。ペテロ一3:21には“バプテスマ(肉体の汚れを除くことではなく,健全な良心を神に願い求めること)により,今皆さんはイエス・キリストの復活を通して救われています。”と書いてある。バプテスマにより“今”救われているとはどういうこと?」
「特に説明していませんね。“バプテスマによって救われます。”と単に繰り返しているだけです。説明できないんじゃないですか。JWは、バプテスマを受けてから死ぬまで組織に忠実であれば救われる。少しでも組織に文句を言うと、排斥され、滅びるという恐怖の教えですから。」
「ペテロ一3:21では、バプテスマとは“健全な良心を神に願い求めること”と説明している。こういう使い方もあるわけだね。でも組織に忠誠を尽くすなんて意味はないよ。」

「7節に“第二に,バプテスマを受けることにより「健全な良心」を抱けます。”とあるけれど、これは間違いでしょう。」
「バプテスマは健全な良心を求めていることの表明となると、ペテロ一3:21は言っているのであって、バプテスマを受けたら、内的な変化が生じるなんてことは言っていないね。」

「8節から、“バプテスマは何に基づいて受けるものですか。”で、9節に、“バプテスマは「父と子 と聖なる力の名によって」施される,と言いました。”とあります。」
「この3つの中で、特におかしいのは、14節の“聖なる力”だね。 “聖なる力は,人や神のような存在ではなく,神が送り出す力です。”というのはJWの独自教義だけれど、聖書的には正しくない。」
「JWにとって、聖霊はエホバから出る電波みたいなものですね。でも、聖書では聖霊は人格を持っているかのように描かれていますね。」
「コリント一2:10に、“聖なる力は全ての事柄を明らかにします。神の奥深い事柄さえもです”とある。単なる電波というより探偵のようだ。次の2:11では、“神の事柄も,誰も知るようになっていません。神の聖なる力だけが知っています。”とあり、聖霊は神を“知る”ことができる存在。ローマ8:27には、“心を調べる方は,聖なる力による言葉の意味を知っています。”とある。これは意図的な誤訳で、協会共同訳の“人の心を見極める方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。”の方が正しい。」
「というわけで、聖霊は単なる力ではないですね。」
「このような例はたくさんある。聖霊が単なる力として片づけられないから、初期のキリスト教の指導者は苦労した。結局、三位一体という特殊な概念を生み出さざるを得なかったの。」
「19世紀にアメリカで始まった新興宗教のJWだから、そういった歴史的経緯を無視して、単純化した教えを信者に教えているのですよ。」
「単純で小学生でもわかる教義にした方が信者獲得には都合がいいからね。」

「17,18節が、“バプテスマを受ける前にすべきこと”です。4つのことが出ています。エホバとイエスをよく知る。信仰を持つ。罪を悔い改め,生き方を変える。エホバに献身する。」
「18節に、“その上で,バプテスマを受けたいことを長老団の調整者に知らせてください。調整者は,あなたが幾人かの長老と会合できるようにします。”とある。その結果、ダメということもあるわけね。」
「そうですね。バプテスマはJWになる入会儀式ですからね。長老たちに嫌われていればダメとなります。」
「小学生でバプテスマを受ける子どもがいるけれど、おかしいとは思わないのかな?子どもにこそダメというべき。子どもに人生の重大なことを決定する能力などないことは明らかだろう。」
「JWが嫌になって、辞めた場合、排斥や忌避の対象となり、家族とも最低限の会話しか許されなくなることを理解して、バプテスマを受ける子どもはいないでしょうね。」

「19,20節が、“バプテスマを受けた後にすべきこと”で、聖書を毎日読み,思い巡らす。絶えず祈る。生活の中で神の王国をいつも第一にする。この3つです。」
「最後の“神の王国をいつも第一にする”の意味だけど、20節に、“生活の中で伝道を優先することによってそうできます。”とある。要するに、新しい信者集めを優先するということね。」

「最後の21節に、バプテスマについて“その決定に困難や犠牲が伴う場合もあります。では,それだけの価値がありますか。あります。今の世界で経験する困難は,「つかの間で軽いもの」です。”と、JWになることのマイナス面に触れています。」
「でも、その困難もすぐ終わるからと、根拠のないことを言っている。」
「結局、終末論をあおって信者を集めるというビジネスモデルからの転換は無理みたいですね。」

#1156 2020年05月22日 15:25:37

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“話すべき時と黙っているべき時(12)”で、会衆内で相互に監視し、問題のある人には遠慮なくいちゃもんをつけろ、また会衆内の秘密を漏らすな、と内部統制の強化を狙った内容ですね。」
「守秘義務という言葉は出てこないね。長老は信者やその家族の個人情報を集めるよね。その情報が外部に漏れると、社会問題になる可能性がある。まともな企業では個人情報保護に関する研修をしている。JWも、問題が起きる前に、研修をしたらいいよ。」

「1節の質問が、“伝道3章1,7節はどんなことを教えていますか。”ですが、“話すのに時があり,黙っているのに時があります。”という答えが出ています。本当にそういう意味なんですか?もしそうだとしたら、単なる常識を言っているだけですね。」
「伝道書3章は、まず初めに、“何事にも時がある。この地上の全ての活動には時がある。”で始まり、その後対句が7つ続くという構成。全体で何を言っているのかを考えないと、何事にも時があるという、という意味が分からない。」
「一番良い時が来るまで待てという、消極的人生観を言っているのですか?」
「結婚にも時があると言われ続けて、婚期を逃した人には、この聖句は腹立たしいものだろうね。だまされたと悔しくて夜も眠れないかも。」
「本当はそういう意味ではないということですね。」

「最初の対句は、“生まれる時があり,死ぬ時がある。植えるのに時があり,植えられた物を引き抜くのに時がある。”とある。これは訳がへんで、“生まれるに時があり、死ぬに時がある。”だろう。人間の生死は、人間が決めることのできないもの。植物を植えたり刈り取ったりするのも、人間が決めているように思えるかもしれないが、実はそうではない。何をいつするかは、人間の生死と同じように人間の力が及ぶことではなく、神が決めている。人間が決められると思っているとしたら、それは幻想だ、ということ。」
「そう意味だとして、人間はどうすればいいわけですか?」
「そういうハウツーを聖書に求めるのが根本的におかしいの。生きるとはそういうことだと言っているだけで、それを踏まえて、どう生きるかは自分で考えろと、伝道の書の著者は突き放している。」
「安易な答えを教えてくれるカルトとは違う点ですね。」

「伝道3:7は、“裂くのに時があり,縫うのに時がある。黙っているのに時があり,話すのに時がある”だけど、これは“喪”つまり人の死に関する悲しみのことを言っている。“裂く”とは服を裂くことでこれは悲しみを表現する儀式的行為。“黙っている”のも人の死に直面した時の沈黙。“縫う”、“話す”は喪の儀式の終了を示す行為。これらの時は自分で選ぶことはできないという意味だね。JWの理解とは全然違う意味なの。」

「2節に、“エホバは聖書の中で,話す能力の正しい用い方を教えています。”とあって、聖書はハウツーを教えてくれると、恥ずかしげもなく言っています。」
「どんな偉大な教えも、時間とともに、通俗的な道徳かビジネスマン向けのハウツーに変わっていくという実例だね。」

「3から10節が、“話すべき時”です。囲み記事の中で、エホバについて話す時、「温和な態度と深い敬意を示し」,相手の考えを思いやる。(3節)、重大な過ちを犯しそうな人に気付いた時。そして忠告を与える必要がある時。長老は辛抱しつつ,上手に話す。とまとめています。」
「長老は信者をしっかり指導管理せよということだね。本当はそんなことしたくないんでしょう。嫌われるだけだし、手当が出るわけじゃないしね。」

「5節が、エリとその息子の話です。エリのことを“大祭司”と呼んでいますが、間違いですよね?」
「サムエル記では単に祭司となっているよ。初期の頃は祭司の位などないようだ。王制成立後も、祭司のトップは単に祭司とよばれている。ただ、列王記二25:18に、“護衛官の長は,祭司長セラヤと次位の祭司ゼパニヤと3人の戸口番も連れ去った。”とあり、祭司のトップをその次の位の祭司と区別するときに祭司長chief  priestという称号が出てくる。」

「5節に“エリは息子たちを甘やかし,やんわりたしなめるだけで幕屋での職務をそのまま行わせました。”とありますが、サムエル一4:15には、“エリは98歳で,目が動かず,見ることができなかった。”とあります。こんなエリが息子をコントロールできるはずはありません。甘やかしているわけではなくて、無力なだけです。」
「そうだよね。」
「6節で“エホバに仕える友人や親戚がエホバの基準に背くことをしているなら,その点を指摘しましょう。エホバが任命した人たちに助けを求めるよう勧め,そうしたかどうかを確かめる必要もあります。”と信者に指示しています。相互監視と密告の勧めですね。イやな組織です。」
「密告する対象が友人と親せきとあり、家族とはなっていないのは、JWは家族までも組織に売る宗教だという証拠をこの記事に残したくないからだろうね。」

「7,8節がアビガイルの話です。8節に、“アビガイルはダビデに会った時,勇気を奮い,敬意を込め,説得力のある話し方をしました。自分のせいではないのにダビデに謝りました。正しいことを愛している人という信頼を込めてダビデに進言しました。また,エホバが自分を助けてくださるに違いないと考えました。”とあります。」
「アビガイルは自分の弁舌で、自分たちを皆殺しにするつもりだったダビデを押しとどめた。サムエル一25:24-31はアビガイルの名演説と評価されている。」
「8節に、“誰かが重大な過ちを犯しそうだと気付いたなら,アビガイルに倣い,勇気を奮ってそのことを指摘しましょう。”というのは的外れですね。」
「アビガイルは、生きるか死ぬかの瀬戸際という状況で、自分が生き延びるために必死にダビデに訴えた。普通の人はそういう状況にはならないよ。」

「9節で、“とりわけ長老は勇気を奮い,道を踏み外した兄弟姉妹を正さなければなりません。(ガラ 6:1)”と言っています。悪事を見て見ぬふりの勇気のない長老が多いということでしょうか?」
「無給の中間管理職に多くを期待する方が間違っている。自然と事なかれ主義に陥るのは仕方がない。こうやって組織は衰退する。」

「引照聖句のガラテア6:1に、“クリスチャンとして十分に資格がある皆さんは,その人を優しく正すことに努めてください。”とあります。この訳はおかしいですよ。」
「特におかしいのが、“クリスチャンとして十分に資格がある”だね。元のギリシャ語は“霊”の形容詞形であるpneumatikosで、協会共同訳では、“霊の人であるあなたがたは”となっている。これが正しい。」
「JWは正すのは長老の職務と考えているので、こんな変な訳にしたわけですね。“霊の人であるあなたがたは”とは誰のことですか?」
「クリスチャンすべてのことを指している。パウロは、罪を犯した人を正すのは、全ての信者の役割だといっているの。パウロの時代は、キリスト教が始まったばかりで、組織の職階や規則などはまだない。明文化された規則はないのだから、“資格”なんて言葉は時代錯誤。」

「11から14節が、“黙っているべき時”で、それは、禁令下でどのように活動しているかについていろいろ尋ねられる時。会衆の内密の事柄が関係する時、と出ています。」
「12節に、“私たちの活動が禁止されている国で奉仕している人に会ったとします。どのように伝道し集会を開いているか,詳しく知ろうとしますか。これは舌を制御すべき時です。”とあって、禁令下の国での活動について聞くな、と釘を刺している。」
「スパイ対策ですね。真の宗教ゆえに、迫害に会うのですよ。」
「退屈なJW生活に、少しばかり刺激を与えようという執筆者からの配慮だね。」

「13節が、長老向けで、“長老が結婚している場合には注意が必要です。”と、妻に内密のことをしゃべるなと警告していますね。長老が妻にしゃべり、妻が他の信者にしゃべり、秘密保持がなされないということはよくあることです。」
「秘密保持がなされなければ、誰も重要なことを長老に話さなくなるよ。長老に困ったことがあれば相談するように組織は言っているようだけれど、社会常識のある人なら、守秘義務のない人には知られては困る重要なことは話さない。長老に話すのは他人の悪口くらいだろう。」
「長老が妻にしゃべったからといって罰則はないようです。単なる努力規定ですね。」
「14節が、長老の妻に向けて、“妻は内密のことを話すよう夫に圧力を掛けてはなりません。”と言っています。」
「執筆者は、情報が漏れるのは、妻が圧力をかけるせいだと判断しているようだ。さすが、女性差別的な宗教だ。悪いことは女のせいにする。責任が問われるのは、圧力があろうがなかろうが、個人の秘密を話した夫である長老だよ。」

「15から17節が、“私たちが話す事柄を聞いてエホバはどう思うか”です。ヨブの4人の友人の話です。16節に教訓が出ていて、“第一に,兄弟を批判 すべきではありません。”とあります。それが教訓なんておかしいですよ。」
「ヨブの3人の友人は常識的なことを言っただけなのに、ヨブ42:7で“私について真実を語らなかった”と、神様から叱られる。批判すべきではないのは、神様であって兄弟じゃないよ。」

「17節が、ヨブの友人のエリフの話です。JWはエリフをいい奴と思い込んで、ほめています。でも、エリフは後から追加されたキャラクターという説が有力なんですよね。」
「エリフは、ヨブ記2章の友人紹介の部分にも、42章の友人の処罰の部分にも出てこない。突然現れて、自分の意見を言って、消える。話の枠組みが出来上がった後に、挿入されたように見えるね。」
「ヨブ32から37章を読みますと、エリフっていやな男という印象です。自分をものすごく偉いと持っていますよね。例えば、32:8-10では、“とはいえ人は,神が人の内に与える聖なる力,全能者の息によって,理解力を得ます。 ただ年を取れば賢くなるのでも,ただ年を重ねれば正しい事を理解するのでもありません。それで私の言葉を聞いてください。”といいます。先にヨブと対話した3人は年を取っているけれど知恵はない。知恵は神から来る。年齢なんて関係ない。私は若いけれど知恵がある。だから私の話を聞け、といっています。こんなことを若いJWが長老に言ったら排斥処分ですよ。」
「エリフの話は、滑稽なほど大げさだけど、中身はないの。それで、エリフは、自分を大人物と思っているが実は凡庸な人間のパロディではないかという説がある。でも、この記事の執筆者には偉い人物に見えるんだね。」

「17節の質問は、“エリフの対応からどんなことを学べますか”で、答えは、“エリフの対応から,黙って話を聞くべき時があることを学べます。”です。これがJW流の聖書の勉強です。」
「よく大人がこんなことをしているね。小学3年生程度の道徳の授業だね。」
「偉大な指導者である統治体さまが用意した霊的食物に文句を言う奴は、まもなく滅ぼされます。」

#1157 2020年05月29日 16:32:43

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“熱烈に愛し合いましょう(13)”で、会衆内でもめ事を起こすな、仲良くしろ、という子どもじみた内容です。」
「好みの独身の姉妹がいたら、嫌がれても、しつこく交際を申し込む、ということじゃないのね。」
「熱烈に愛し合うって、ペテロ第一 1:22からきていますが、日本語としてへんですよ。」
「協会共同訳では、“深く愛し合いなさい。”、新改訳では、“熱く愛し合いなさい。”こう見ると、以外にも冷たいJWが一番情熱的だね。」
「3節に、“兄弟姉妹を愛しているなら,仲直りし,不公平にならないようにし,もてなすよう心掛けるということを考えます。”と、JWにおける愛の3要素が出ています。」
「なんか違う気がするな。」

「4から8節が、“仲直りする”です。マークとララの例が出ています。」
「英文では、“BE A PEACEMAKER”で、調停者になれ、という意味だけれど、本文の内容がそうなっていないので、内容に合わせて、“仲直りする”という子どもっぽい訳にしたんだろうね。」
「調停人は第3者として、争いを解決する人ですよね。JW同士の争いなら、長老とか巡回監督の仕事でしょうか。」
「ところが、この記事の実例を読む限り、長老や巡回監督は積極的に調停することはない。あくまでも当事者同士で解決させるという方針のようだ。そうなると、結局強い者がやりたい放題という結果になる。この記事の実例でも被害者がひたすら我慢するだけ。理不尽だね。」
「この組織では、面の皮の厚い恥知らずが得をして、気の弱い人は損をするということですね。」

「マークの話からは、JW流の問題解決法がよくわかるよ。」
「5節に、“マークは,ある兄弟からきついことを言われました。その兄弟は,マークについての悪口を会衆の仲間に言い触らしました。”とあります。」
「JWによくいるタイプだね。」
「マークはかっとなったものの、“後にマークは反省し,仲直りするために謝りに行きました。しかし,兄弟は取り合ってくれませんでした。”とあります。」
「何を謝るの?かっとしたことを?恐らくマークは子どもの時虐められていたはず。いじめっ子に、こんな態度をとれば、ますますいじめがひどくなることぐらいわかるはずだけど。」

「マークは巡回監督に相談したようです。5節に、“巡回監督から,諦めずに努力を続けるよう勧められました。”とあります。役立たずですね。」
「いじめられた子どもが先生に相談し、先生が同じことを言ったとしたら、この教師はやる気のない無能と評価されるよ。この巡回監督は保身しか考えていないクズだね。」
「会衆内のもめごとにかかわりたくないのですよ。6節で、マークは、“謙遜になって兄弟に近づき,良くない態度を取ったことを再び謝りました。反省しもう一度やり直したいと思っている,ということを伝える手紙も渡しました。兄弟が気に入りそうなちょっとしたプレゼントを用意することまでしました。しかし残念ながら,相手の兄弟はマークのことを恨んだままでした。”とあります。」
「負け犬のマークはひたすら下手に出るしか能がないようだ。相手は負け犬マークと思っているから、下手に出ても効果がないどころか、ますますバカにされるだけ。」
「それでも6節には、“仲直りしようと努力し,相手が応じなくても,クリスチャンとして本当の愛を抱いているなら,引き続き兄弟を許します。”とあります。」
「負け犬はそうやって自分を慰めるしかないということ。JW流の仲直りとは、攻撃された側が、ひたすら謝罪し哀れみを乞うということね。」
「悪口を言いふらした兄弟はますます増長するでしょうね。これがJW流の問題解決です。まともな組織ではないです。」

「何の解決策も取ってくれないダメな組織には、もはやいる価値がないことをマークが学んでくれたらいいね。マークは1日も早くJWに断絶届を出すべきだ。」
「それができないから苦しんでいるんですよ。だから何とか仲直りをしたいわけです。」
「負け犬マークには、結局JWは意外と居心地がいいのかもね。」

「7節から、ララの例で、“ある姉妹に無視されました。思い当たることは何もありませんでした。ストレスになり,集会に行きたくありませんでした。”とあります。」
「ララも謝って、プレゼントをするの?」
「8節に、話し合って、解決したかに見えたけれど、“後になって姉妹はまた同じ態度を取るようになりました。とてもがっかりしました。”とあります。」
「マークに比べると、ララのほうがまともだね。」

「ララは、結局、“「寛大に許[す]」のが最善だと思うようになりました。”だそうです。」
「確かにこれで表面的には会衆内の平和は保てるけれど、ララもマーク同様泣き寝入りという結果だ。JWでは“寛大に許す”=泣き寝入り、というわけね。」
「被害者が黙ってさえいれば問題は起きない、というのがJW考えのようです。」
「世界各地で問題になっている児童の性的虐待も被害者が黙っていれば問題にはならなかったからね。この記事から明らかなようにJWには被害者を積極的に救済するという意思はないね。」

「9から13節が、“公平である”で、ルツという姉妹の話が出ています。」
「Ruthのカタカナ表記はルツじゃなくて、ルースでしょう。」
「10節に、ある国から来た人に嫌な思いをさせられ、“その国のことが全部嫌いになりました。その国の人は,兄弟姉妹を含めみんな一緒だ,と思っていました。”とあります。」
「これは単に頭が悪いだけじゃないの。」
「11節では、ルツは“その国のことを取り上げた「年鑑」の経験や報告を読みました。”、“その国の人について前向きな見方をするよう努力しました。”とあります。」
「それで、“やがてネガティブな感情は消えました”だって。嘘くさい話だな。偏見はそう簡単には消えないよ。」
「ヨーロッパやアメリカでは、新しくJWになる人は移民や難民が多いのですよ。そういう人に対する人種的・民族的偏見は相当強いので、こんな記事を書いているのだと思います。」
「JWは、自分たちは特別な存在で、JW以外の人をサタンに支配された、間もなく滅びる人と見ている。こんなひどい偏見はないよ。まずこのような偏見こそ改めるべきなんじゃないの。」

「12節は、サラという姉妹の話で、“サラは高学歴の家庭で育ち,同じような背景の人と好んで交友を持っていました。「学歴の高い兄弟姉妹と一緒にいると安心。そうでない人と一緒にはいたくない」と話したこともあります。”だそうです。」
「これは自然な反応だね、自分と似たような家庭的環境で育った人とは仲良くなりやすい。大卒で裕福なら、そういう人と仲良くなるのが自然だね。でも、それを罪悪視するのがJWなんだよね。」
「13節の結論は、“受けた教育のために自分はほかの兄弟や姉妹よりも上だ,と考えることがないようにしましょう。”です。結局高等教育を受けた人は学歴をひけらかして、他の人を差別するからいけない、と言いたいようですね。これって、すごい偏見ですよね。」
「JWは偏見の塊ということがわかるね。多くの国では大学教育は大衆化し特別なものでないよ。」

「14から18節が、“もてなす”です。14節には、“お茶や食事に招いたり,時間を過ごしたりする時,エホバは喜んでくださいます。(ペテ一 4:8-10)”とあります。」
「引照聖句のペテロ一4:9に“不満をつぶやくことなく,もてなし合ってください。”とある。当時、もてなすことについて不満が出ていたということだね。」
「もてなし合えといっていますね。」
「つまり、ある人はよくもてなすけれど、別の人はもてなさないということが生じて、不満が出てきたということだろうね。人の付き合いは、どの文化でも細かなルールがあって、面倒くさい。だから、同じような家庭環境の者同士で付き合うことになるわけ。」

「巡回監督は、もてなされるだけですよ。聖句に反していますね。」
「ティモテ一3:2に“監督は,とがめられるところがなく,1人の妻の夫で,節度をわきまえ,健全な考え方をし,秩序正しく行動し,人をよくもてなし”とある、テトス1:7,8には、“監督は,神の家の管理人ですから,非難されるところがあってはならず,意地を張らず,すぐに怒らず,酩酊せず,暴力を振るわず,貪欲に不当な利益を得ようとすべきではありません。人をよくもてなし”とある。もてなすのは平信徒だけの務めというわけじゃないよ。」

「JWは基本的にアメリカ文化を背景にしていますよね。アメリカ人はよく家に人を招くようですね。」
「ホームパーティというものだね。よくあるのはポットラックと呼ばれるスタイル。主催者がメインの食事を用意し、ゲストはそれぞれ何か食べ物や飲み物を持ってくる。これは宗教関係の集まりによくあるスタイルだね。」
「主催者が全てを用意するというパーティもあるますよね。」
「その場合は、ワインや果物など結構高価なものを手土産にもっていくのが常識だ。」

「15節から、エディットというやもめの話が出ています。」
「王国会館の建設に携わる夫婦を2週間泊めるようたのまれたけれど、“2週間の予定が2カ月になり,親しい友情を築くことができました。”だとさ。」
「その王国会館は高値で転売されたんじゃないですか?」
「これは、建設労働者のために無料で宿舎を提供させ、組織の負担を減らすという宗教ビジネス上の話しで、もてなすことは何の関係もない。こんな話を持ち出すなんて品がないね。宿泊費くらい、王国会館の転売で利益を得る組織が負担しても、神様は怒らないよ。」

「17、18節がルークの話で、“仲の良い人しか招いていないことに気付きました。”というルークは、“まだ招いたことのない兄弟姉妹を誘うことにしました。”のだそうです。」
「18節に、“とても楽しいひとときになっています。みんなが互いに励まされています。”とあるけど、本当なの?話も弾まず、沈黙がちで、気まずい雰囲気になりそうな気がするけど。」
「ルークはよっぽど社交的なんですよ。まれにそういう人はいます。」
「組織は、会衆内に仲良しグループができて、そのリーダー的な人物が会衆を支配するというような事態を恐れているんだと思うね。」
「それで、もてなすなら、皆をもてなせと圧力をかけているわけですね。」
「カルトは基本的に信者同士の付き合いを好まない。信者は常に組織の方を向いて、組織の言いなりになることを求められる。JWも基本はそうでしょう。」
「組織が信者に望んでいるのは、相互に監視しあうことが可能な、広く薄い表面的な関係のようですね。」

#1158 2020年06月05日 14:47:13

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“北からの攻撃(14)”で、ノエル2:7-9の解釈を変更しました、という内容です。変更することを、JWでは、調整と呼んでいます。歌は、95番“光は明るさを増す”です。」
「そんな歌まで用意しているとは、感心だね。北からの攻撃とはバッタ襲来の話だけど、今まで、JWはそのバッタを自分たちの事と思っていたんだね。」
「そう解釈したのは、JWが社会の害虫とか寄生虫と言われていることとは無関係です。」
「今ごろ、光が増して、バッタ=JWという解釈の間違いに気づいたということね。」

「1節に、JWの創始者のラッセルの聖書研究方法について、“誰かが疑問点を挙げ,そのテーマに関係のある聖句全てをみんなで調べていく,という方法です。最後に結論を記録します。”とあります。素人集団が無い知恵を出しあったのがよくわかりますね。」
「初期の教義は、ほとんどが他の人からのパクりだ。1節に“誠実な聖書研究者たちは聖書の多くの基本的な教えを確認できました。”とあるけれど、他の人の教えを確認しただけだ。」
「その部分の英文は、“those sincere Christian men discovered many fundamental Bible truths”で、確認したのではなく、“多くの基本的な聖書の真理を見出した”、とあります。英文では発見者ですよ。」
「日本語の翻訳者のほうが、JWの歴史をよく知っていたということだね。」

「2節が預言の解釈変更の言い訳です。“1つとして,預言は多くの場合,実現の途上にあるか,実現した後でなければ十分に理解できないからです。もう1つの点として,預言を正確に理解するには文脈を考えなければなりません。”とあります。言い訳としては、お粗末ですね。」
「聖書の預言の解釈はそんなに難しくないよ。書かれた時代に生きていた人は、預言者が何を言っているか、わかったはず。JWは、大昔に書かれたことを現代に適用しようとするから、見当違いのバカバカしい解釈をすることになる。」
「ひとつの預言が古代と現在の2回実現するなんてことは、聖書のどこにも書かれていないわけですよね。基本的な前提が間違っていますね。」

「3節が、“ヨエル 2:7-9を読む。”です。“戦士のように突撃してくる。兵士のように城壁をよじ登ってくる。それぞれが自分の進路から離れず,道からそれない。 押し合うこともなく,それぞれが自分の進路を行く。誰かが矢に撃たれて倒れても,誰も隊列を乱さない。  町の中へ突き進み,城壁の上を走る。家々に上り,泥棒のように窓から入り込む。”とあります。」
「3節には、“この預言はエホバの民による伝道活動の様子を預言的に表すものと考えられてきました。”とある。爆笑ものだね。」
「JWは自分たちを異常なほど過大評価していますね。」
「自分たちのことをちっぽけな新興宗教団体などとは少しも思わず、聖書の中で預言されるほど価値のある重要な役割を担っている集団なのだと思い込んでいる。」

「4から10節が、解釈変更の“4つの理由”です。」
「理由1として、5節に、“「私は北から来る者たち[バッタ]をあなたたちから遠ざけ[る]」。(ヨエ 2:20)バッタが,イエスの命令通りに伝道し人々を弟子とするエホバの証人を表すのであれば,なぜエホバによって遠ざけられるのでしょうか。”とある。今頃気づいたわけだ。」
「理由2は、6節で、“ヨエル 2章25節を考えましょう。エホバがこう言っています。「群がるバッタ,羽のないバッタ,食い荒らすバッタ,食らい付くバッタ,あなたたちの所に私が送り込んだ大軍が食い尽くした年月を,私は埋め合わせる」。バッタの被害をエホバが「埋め合わせる」のです。バッタが王国について伝道する人々を表すのであれば,王国についてのメッセージは被害をもたらすことになってしまいます。”というものです。」
「これは当たっているんじゃないの。JWのメッセージをまじめに受け取ったせいで、人生が狂ってしまったという人は大勢いるからね。」
「理由3は、7節で、“エホバは「その後,私は聖なる力を……注ぐ」と言っています。バッタが任務を終えた後です。バッタが王国について伝道する人々だとしたら,伝道が完了した後に聖なる力が注がれることになってしまいます。”とあります。」
「JWとしては、現在も聖なる力を注がれているという立場だよね。だからこれは自分たちのことを言っているんじゃないという訳ね。」

「理由4が8節以降で、以前の解釈は、啓示9:1-11に出てくるバッタとヨエル書のバッタを同じものであるという解釈に基づいていたけれど、よくよく考えてみると別物だ、と気づいたというものです。わかりやすいように、囲みのなかで相違点をあげています。これも今さら言われてもね、というようなものです。」
「啓示のバッタを、8節で、“天に行く希望を 持つ人々に当てはまるものと思われます。”と解釈している。啓示のバッタ=ヨエル書のバッタなら、ヨエル書のバッタも天に行く希望を 持つJWと解釈するしかなかったわけね。」

「8節で、“バッタは,「額に神の証印がない人々」つまり神の敵たちを5カ月間苦しめます。5カ月はバッタの平均的な寿命です。(啓 9:4,5)”とあります。バッタの平均寿命は本当に5か月ですか?科学に無知なJWの嘘ですよね。」
「飼育下では、ほとんどのバッタは1年程度じゃないの。野生のバッタの平均寿命なんて誰も知らないと思うよ。ほとんどが卵から孵化してすぐ食べられる(その場合、寿命0日)。現在、アフリカや中東で大被害をもたらしているサバクトビバッタは飼育下で3か月くらい。寿命が短い分、短期間で次の世代になり、条件さえよければ20倍以上に増えるので、1年で16000倍以上になる。2週間でふ化するらしいから、平均寿命は1か月もないだろうね。」
「日本では、オープン前の関西国際空港でトノサマバッタが大量発生したそうですね。」
「2007年。約3884万匹いたそうだ。最終的には、バッタの天敵であるカビに感染してほとんどが死んだ。」

「11から13節が、“どんな意味があるか”で、新解釈のお披露目です。11節には、“ヨエルの預言の文脈を調べると,軍隊による攻撃が予告されていたことが分かります。”とあり、バッタはバビロニアの軍隊のこと!とわかったようです。」
「ヨエル書2章のバッタは、“戦士のように突撃してくる。兵士のように城壁をよじ登ってくる。”とあるわけで、誰が読んでもバッタそのものか、軍隊の比喩だろう。これを安物のスーツを着て町の中をうろつきまわるJWのことと、どうして解釈できるの?」
「2009年4月15日号のものみの塔の“創造物に見られるエホバの知恵”の16節に、“この預言は,神の王国の現代の宣明者たちをなんと適切に描写しているのでしょう。いかなる「城壁」のような反対も,宣べ伝える業を止めることはできていません。(略)確かに,クリスチャンの中には,信仰ゆえに処刑され,『飛び来る物の中で倒れた』殉教者もいます。(略)あなたは,たとえ無関心や反対に直面したとしても,イナゴのようにくじけず粘り強く宣教奉仕を行なっていますか。”とあります。今となっては、とんでもないこじつけでした、ということですね。」
「でも謝罪はないね。長年こんなたわごとを押し付けられて、真面目なJWは本来怒るべきだよ。」
「でも、JWの大多数は教義なんかに関心はありませんから。」
「もし2009年に、イナゴはJWのことではなく、古代の軍隊のことですと、当たり前のことを強く主張したJWがいたら排斥されたんだろうね。」

「仮にバッタが軍隊を表しているとして、それはバビロニア軍というのは正しいのですか?」
「まずヨエル書はいつ頃書かれたのか、を確定する必要がある。“洞察”によると、“恐らく西暦前820年ごろにこの書を書いたことになるでしょう。確かなことは言えませんが,ヨエル書がヘブライ語正典の中でホセア書とアモス書との間に置かれていることは,これが早いほうの時代に書かれたことを支持しているようです。”とある。」
「つまり、JWは西暦前820年ごろに、約200年後のバビロニア軍のエルサレム侵攻を予言していて、それが当たった、すごいね、エホバね、と信じようというわけです。」
「ヨエル書はそんな昔の本じゃないよ。ヨエル書には書かれた日付を示す記述はないので、内容から推測するしかないのだけれど、西暦前820年はありそうもない。早くても西暦前700年代だ。その場合、バッタはアッシリア軍ということになる。それから、ヨエル書がアモス書の次に置かれているのは、テーマが重なる所があるからで、年代順に置かれたわけじゃないよ。」
「“洞察”の“ヨエル書がヘブライ語正典の中でホセア書とアモス書との間に置かれていることは,これが早いほうの時代に書かれたことを支持している”というのは全くの見当違いなんですね。」

「ヨエル3:2に“彼らはイスラエルを国々に散らし,私の土地を自分たちで分け合った。”とある。これはバビロン捕囚のことをいっているようだ。そうなると、ヨエル書が書かれたのは、早くて西暦前500年代。」
「ヨエル3:6に“ユダとエルサレムの人々をギリシャ人に売り渡し,祖国から遠くに引き離した。”とあります。これはギリシャとの奴隷貿易のことですね。」
「ギリシャとの貿易が増加するのは、バビロン捕囚期以降で、最盛期は西暦前200年代といわれている。」
「ヨエル書ではギリシャは超大国という扱いではないですから、アレキサンダー大王以前ですね。アレキサンダー大王は西暦前323年バビロンで死んでいますので、遅くとも西暦前400年前後でしょうか。」
「それから、周辺の諸民族に裁きが下るという話しが延々と続くのだけれど、これもバビロン捕囚期以降に書かれたものの特徴。」
「すると、バビロニア軍を表しているというJWの解釈は間違いですね。」
「特定の国の軍隊を指しているわけじゃないと思うね。」

「14から16節が、“復興”で、ヨエル2:28,29の“その後,私は聖なる力をあらゆる人に注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し,老人は夢を見,若者は幻を見る。その時,私は聖なる力を私の男奴隷と女奴隷にも注ぐ。”が実現したのは、“何百年も後である西暦33年のペンテコステの日のことです。”とあります。」
「それは使徒2:16に“これは預言者ヨエルを通して言われたことです。”とあるからね。」
「囲み記事では、“今の時代にエホバは,ご自分に仕える人たちに聖なる力を注いでいるでしょうか。確かに注いでいます。”とあります。その根拠は、“1983年以降,毎年14万4000人をはるかに上回る人たちがバプテスマを受け,エホバの証人になっているからです。”だそうです。理解できませんね。」
「JW以上に信者数が目覚ましく増加している宗教は沢山ある。19世紀にはじまったJWと似た宗教の中で比べても、JWの信者数はそれほど多くないよ。やめる人が多いいからじゃないかな。」

「17節が、“何が変わったか”で、まとめです。“この聖句は,エホバの民による熱心な伝道活動に関する予告ではありません。紀元前607年にエルサレムに攻め込んだバビロニア軍の行動について予告していたのです。”だそうです。」
「607年のインチキ年代は変えるつもりがないんだね。」

「最後の18節は、“エホバはふさわしい時に,「真理を十分に理解できるように導いて」くださいます。”と終ります。なぜ今がヨエル書の理解を変えるふさわしい時なのでしょうね。」
「現代的意味などほとんどない教義変更だったね。もしかしたら、この解釈をめぐって、組織内で争いがあったのかも。」
「それでこの記事がわざわざ書かれた?」
「こんなことよりも、輸血の教義について変更するようにJWの神様は導くべきだよ。」

#1159 2020年06月12日 16:19:15

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“色づいた畑が見えますか(15)”で、伝道のやり方と心構えを教えるという内容です。」
「そのマスクはアベノマスクだね。やっと届いたわけだ。この種の記事もよくあるよね。JWの伝えるメッセージそのものに問題があるわけで、どう伝えるかを工夫してもあまり効果はないよ。」
「JWのメッセージは、エホバなる神様はまもなくJW以外の人類を滅ぼします。滅ぼされたくなければ、JWになって、週2回の集会と伝道活動をし続け、そのためには仕事も辞めます。一方、誕生日やクリスマスなどを祝ってはならず、髪形や服装もJWの規則に従い、結婚相手もJW以外は禁止で、輸血も・・・」
「もういいよ。次に行こう。」

「今週のタイトルは、“色づいた畑が見えますか”ですが、英語版は“How Do You View the Fields?”で、畑が見えるかではなく、どう見ますか、と尋ねています。いつものことですが訳がへんです。」
「それで、3節に“あなたは区域の人々に対してどんな見方をしていますか。収穫できる状態にある人々と見ていますか。”という文がくるんだけどね。」

「1,2節は、“大麦の収穫までまだ4カ月ほどあります。それにもかかわらずイエスは,「目を上げて畑を見なさい。もう色づいて収穫できます」と言いました。(ヨハネ 4:35,36を読む。)どういう意味でそう言ったのでしょうか。”という内容です。」
「2節にある答えは、“イエスは文字通りの収穫のことではなく,人々を集めることについて述べていたようです。”だけど、文字通りの収穫でないことは、聖書を読めば誰でもわかることだよ。小学生向けの記事なの?」

「”もう色づいて収穫できます”、は、英語版では、“they are white for harvesting”です。色づくではなくwhite、白いです。これはおかしくないですか?」
「元のギリシャ語は“白い”となっている。英語版は原文に忠実だけど、日本語版は、白いのはへんだろう、と翻訳者の勝手な判断で、“色づいて”に変えたんだろうね。
「1985年版では、“収穫を待って白く[色づいて]います。”という、超おバカな訳でした。」
「“they”はイエスの話を聞こうと集まってきた人々のこと。その人たちが白っぽい服装をしていたので、白いと表現したんだろうね。白いと表現したことによって、文字通りの麦の収穫ではなく、霊的な収穫のことをイエスは言っていると、あまり頭の良くない弟子たちもわかったんだよ。」

「3節には、本当に収穫可能と見ているといえるための3つの基準がでています。“第一に,緊急性をさらに意識して伝道します。収穫の期間は限られているので,時間を無駄にしません。”とあります。」
「おかしいね。終わりが間もなく来ると言って140年だよ。緊急どころか、JWにとって、収穫の時期は無限にあるようだ。」
「“第三に,どんな人も弟子になる見込みのある人と見て,”とありますが、現実離れした見方ですね。」
「JWは現実ではなく幻想の世界に生きているようだね。」

「5から10節が、“何を信じているか”で、パウロの話です。7節に、“使徒 17:22,23を読む。”とあります。パウロのアテネのアレオパゴスの話です。アレオパゴスってなんですか?」
「裁判所のようなもの。現代のギリシャの最高裁判所はアレオパゴスという。パウロの時代では、宗教に関することも扱っていた。」
「アレオパゴスにパウロを連れて行ったのは、迫害しようというよりは、からかい半分ですね。」
「この話の結末は、使徒17:32で、“死者の復活について聞くと,あざ笑い始める人もいれば,「その話はまた聞こう」と言う人もいた。こうしてパウロはそこを去った。”で、うまくいかなかった伝道の事例なんだけどね。」

「7節では、“アテネの人たちが行う崇拝と聖書の教えとの共通点を探しました。”、“自分が伝えているのは,アテネの人たちが崇敬している「知られていない神」からの知らせである,と話しました。”と言っています。」
「初めは、うまくいったけれど、復活の話でしくじったね。ギリシャ世界では死んだ人が復活するという話しは愚の骨頂、不条理の極みだからね。」
「でも、パウロにとっては、イエスの復活の話を抜かすわけにはいかなかったんでしょうね。」
「7節の最後に“人々を,もう色づいて収穫できる穂と見て,良い知らせの伝え方を変えました。”とあるのは不正確だね。パウロがこの話をアレオパゴスでするきっかけは、使徒17:19に“人々はパウロを捕まえてアレオパゴスに連れていき”とあるよ。無理やりつれていかれたわけで、霊的収穫ができると思っていたわけじゃないよ。」

「8節が教訓で、“パウロのように,よく観察しましょう。”です。“家や車の飾りから分かることがありますか。名前,服装,身だしなみ,言葉遣いから宗教が分かる場合もあります。”と、相手の宗教を探れという指令です。」
「そして“信仰を押し付けるつもりはありませんが,今日はこんなことについてお話しできればと思います。”と薄ら笑いを浮かべながら語りかけるのね。」
「9節で、“相手の考えについて共感できるところを探してください。”とあります。」
「でも、JWは共感能力に乏しい人が多いんじゃないの?一方的に、自分の言いたいことを言うだけでしょう。まともな対話はできない。」
「10節に、“宗教を持っている人でも,自分の宗教の教えを全部信じているとは限りません。”とありますが、これはJWも同じです。JWの教義は頻繁に変わりますし、“重なる世代”など理解不能な教えもあります。」
「でも、多くのJWは気にしていないよ。同じように他の宗教の人も具体的な教えなんか気にしていないよ。」

「11から14節が、“何に関心があるか”です。またパウロの話になります。11節は、“ 使徒 14:14-17を読む。”で始まります。ルステラで、足の悪い人を癒した後、神と間違われたという話しです。」
「“パウロは,人々が共感できる点を基に話を進め,豊かな実りや生きる喜びについて語りました。”とあるね。ここでもJWの苦手な共感がキーワードみたいだね。」
「12節が教訓で、“区域の人々が何に関心を持っているかを見極め,相手に合わせて話す事柄を変えましょう。”で、“この場合も,よく観察しましょう。”です。」
「これも、言うは易く、行うは難し、だ。それができるほど有能ならJWなんかやっていないよ。」

「13節に、“聖書レッスンを勧める際に大切なのは,相手が受けてみたいと思えるように工夫することです。レッスンがどのようにプラスになるのかを示してください。”と、無理なことを要求しています。くたびれたJWが聖書レッスンを勧めても、受けたいなんて思わないですし、本当にプラスになることなんかあるんですか?」
「そう悲観的になることはない。いつの時代でもカモはいる、と有名な詐欺師は言っている。」

「13節に、“壁には教授の証書が飾られていました。女性は教育学の教授でした。”とあります。これって本当ですか?“教授の証書”なんてありますか?」
「英文では、“a certificate on the wall indicating that the woman was a professor who had studied education”。あいまいだね。普通は、学位記だよ。壁に飾っているとすると、博士号の学位記だけど、○○大学教授なんて書いていないよ。」
「無知なJWなので、博士号を授与してくれた大学を勤務している大学と誤解したということですか?」
「ものみの塔に出ている経験談なんて、10%の事実と90%のウソと誇張から成り立っている。まじめに受け取る必要なんかないね。」

「15節からが、“弟子になる見込みのある人と見る”です。15節は、“使徒 17:16-18を読む。”で、またパウロのアテネでの話です。」
「15節で、“パウロはアテネの人たちに伝道しました。偶像を崇拝し,性的に不道徳なことをし,異教の哲学を信じている人に伝道しても無駄だ,とは考えませんでした。”とあるのもいただけないね。パウロはもともとアテネに伝道するつもりはなかったんだから。」
「テサロニケのユダヤ人たちに襲われて、使徒17:15,16で、“パウロに同行した人たちは彼をアテネまで連れてきた。そしてパウロから,シラスとテモテはできるだけ早く自分のもとに来るようにという指示を受けて,去っていった。パウロはアテネでシラスとテモテを待っている間に,町の至る所に偶像があるのを見て,いら立つようになった。”とあります。」
「難を逃れるためにアテネに来ただけ。来るはずのシラスとテモテをアテネで待っているという状況。結局二人はアテネには来なかったようだ。」

「16節で、“パウロは,ギリシャの都市コリントのクリスチャンに宛てた手紙の中で,会衆には犯罪者だった人やひどく不道徳な生活を送っていた人もいる,と書いています。”とあり、そういった人にも伝道しろと言いたいようです。」
「JWは国によっては刑務所にも訪問しているらしいね。その結果、小児性犯罪者がJWになり、出所後JWとして子どもの世話をするなんてこともあるらしいね。犯罪者にやさしいのがJWの特徴かもね。」

「17節で、タトゥーのある女性が集会に出席するようになりましたとあります。でもJWはタトゥーどころか派手な服もミニスカートも許されない集団とわかれば集会に来なくなるでしょうね。」
「“目覚めよ”の2003年9月22日号に“タトゥーをしてもいいだろうか”という記事があるけれど、“クリスチャンなら,異教の信仰や偽りの崇拝を連想させるような印を ― たとえ一時的であっても ― 体につけたいとは決して思わないでしょう。”とあるね。異教起源だからタトゥーはダメという理屈みたいだ。この理屈では納得しないよ。」

「18節では、“区域の人々や個々の人が弟子になることはない,と決め付けないようにしましょう。弟子になる見込みがあると考えましょう。”とまとめています。」
「区域に人からすれば、早々と弟子になることはないと決めつけてもらって、もう来ないで欲しいよ。二度と来るな、これが本音でしょう。」

「19節の最後は、“人々を見限るのではなく,兄弟や姉妹になる見込みのある人と考えるようになります。”です。JWには、これも難しいと思いますよ。人々を、まもなく滅ぼされる人とさげすむことにより、つらく無意味なJW生活でも、なんとか心の安定を保っているのがJWですから。」
「本当に人々を未来の兄弟姉妹と思うなら、もっとJW以外の人を助ける活動をしたら。でも、なんにもしないよね。」

#1160 2020年06月19日 15:16:46

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“聞いて,理解し,思いやる(16)”で、信者同士仲良くしなさい、という内容です。」
「JWは、集会や伝道から遠ざかると、あたかも存在しない人かのよう扱われるんだよね。」
「病気で入院しても、お見舞いどころか、誰もメールも電話もくれなかったということで、JWから覚醒した人がいるくらいです。」
「仲の良かった人でも排斥と組織が決めれば、挨拶も会話もせず、無視する。そんな人たちと親しくなりたいと思わないよ。」

「1節は、サムエル一16章の話で、“「人間は目に見えるものを見るが,エホバは心の中を見る」という点です。”とあります。」
「そうかもしれないけれど、神様が選ぶ人はみな美しい人になっているよ。人間を内面と外面に分けて考えるという発想は旧約聖書には乏しい。神から選ばれる人は見た目も当然よいはず、という思想が強いよ。」
「最初の王であるサウルは、サムエル一9:2では、“キシュには,サウルという若くてりりしい顔立ちの息子がいた。イスラエル人の中に彼よりもりりしい人はいなかった。そして,民の誰よりも,頭1つ分,背が高かった。”とある。長身でハンサムという昔の映画スターみたいな人物として描かれている。次の王であるダビデは、サムエル一16:12では、“その子は血色が良く,美しい目をしていて,姿がりりしかった。”とあり、美少年ぶりが強調されている。」
「旧約聖書に出てくる女性も重要人物は美人と決まっています。外見重視ですね。」

「それから、“心”というけれど、その言葉の使い方は現代と同じものではない。心という言葉の意味として一番多く使われているのは知的活動の中心という意味。」
「つまり旧約聖書では、心は人間の知的な面を指すことが多い。」
「そう。例えば、イザヤ6:10には“心で理解することもなく”とあり、心が理解する主体であると想定されている。列王一3:12には、“私があなたに知恵と理解力のある心を与えるので”とある。心は知恵や理解と結びついている。」

「4から7節が、“よく話を聞く”で、ヨナの話です。ヨナは一度神の命令に逆らったけれど、5節に“祈りを聞いて引き続き預言者として用いた”とあります。それで、よく聞くことが大事だといいたいみたいですが、納得いかないですね。」
「その祈りは、ヨナ2章にあるけれど、魚の中で祈った、この祈りは極めてヘンなもの。5節に、“この祈りから浮かび上がる人物像は,単に任務から逃げた人,というものではありません。ヨナは謙遜で,感謝にあふれ,エホバに従う決意を抱いていました。”というのは全くの誤読。この執筆者はヨナ書を読んだことがないね。」
「ヨナの祈りは、解放を感謝するという祈りですよね。でも、ヨナは魚の腹の中で、解放されていません。奇妙です。」
「感謝の祈りは、無実の者がする。ヨナは無実じゃないよ。この場合、ヨナに求められるのは罪の許しを祈ること。しかし、ヨナは、自分は罪を犯しましたとは一言も言っていない。」
「JWなら排斥処分ですね。」

「祈りの内容もデタラメ。2:2に、“苦難のさなか,私はエホバに向かって叫びました。”とあるけれど、船が嵐にあって船長から神に助けを求めるように言われたのに、ヨナはしなかった。また2:4に“私はあなたの目の前から追い払われた。”とあるけれど、本当はヨナが逃げた。そのほかにもあるけれど、この祈りは、ヨナが罪を悔いてもいないし、反省もしていないことを示している。それを読み取らないといけないの。」
「ヨナ4章でも、ヨナの祈りがありますが、エホバがニネベの人を救ったことに文句を言って、反省などないです。後悔も反省もない点は一貫していますね。」
「ヨナ2章の祈りの最後は、“しかし私は,感謝の声を上げ,あなたに犠牲を捧げます。誓約したことを果たします。救いはエホバから来ます。”だけど、これはヨナは逃げても無駄なこと、神様は自分に与えた任務を果たすまでは死さえも許さないと認識し、任務を果たす決意をしたという意味。ヨナは謙遜さや感謝にあふれてなんかいない。」

「6節に、“「話を聞かずにアドバイスをする,という失敗をしたことがあります。ある姉妹に,『集会でのコメントがもっと良くなるといいですね』と話しました。でも姉妹は実は読むのが苦手で,コメントするにも人一倍の努力が必要でした」。”とありますが、長老のレベルの低さがわかりますね。」
「この姉妹は読字障害あるいは難読症の人。こういう障害のある人は男性が多いのだけどね。一見普通に見える人が、普通の人ができることをできない場合は、何らかの障害の可能性を考えるべきだけど、無知なJWの長老にそんなことを期待しても無駄だよね。」

「7節に、“イゼベルから逃げていた時のエリヤに対するエホバの接し方は参考になります。エリヤがエホバに気持ちを全て打ち明けたのは,何十日もたってからのことでした。”とありますが、なんか違う気がしますね。」
「列王一19:8,9には、“40日間ずっと進み,やがて真の神の山ホレブに着いた。 エリヤはそこにあった洞窟に入り,そこで夜を過ごした。すると,エホバが彼に語り掛けた。”とある。ここでは、神はホレブという山に住んでいると想定され、そこに着くまで40日かかったというだけ。神様がエリヤの気持ちを考えて何十日も待ったわけじゃない。」
「40日は、出エジプト後荒野をさまよったのが40年、モーセがシナイ山でパンも水もなしでいたのが40日、からきた象徴的な数字ですね。」
「荒野といえば40という数字だね。イエスが荒野で断食したのも40日間。」

「8から12節が、“兄弟姉妹のことを理解する”で、ハガルの話が出てきます。9節に、“エホバは,ハガルがサライに不敬な態度を取ったことを見過ごしたわけではありません。でも,ハガルの生い立ちや状況を考慮に入れて親切にしました。”とあります。生い立ちや状況を考慮に入れたなんて、聖書には書いていませんけど。」
「“不敬な態度”という訳は大げさだね。サライは王族なの?disrespect for Saraiなんだからサライに対する無礼な態度、くらいに訳すべきだ。ハガルをいじめているのはサライで、神様ではない。神様はハガルを一貫して保護している。」
「創世記16:6に“サライはハガルを手厳しく扱い,ハガルは逃げていった。”とあるだけですね。」
「8節で“事情を見通せない私たちから見れば,ハガルは意地が悪く当然の報いを受けたまでだ,と感じるかもしれません。”というのは、全く違う。アホな執筆者がそう感じるだけ。」
「ハガルが妊娠すれば、ハガルの地位が上がりサライの地位は下がる。当時としては当たり前ですよ。」
「子どもを産まない女に価値はないというのが当時の常識。だからサライが自分は見下されたと文句を言うのは筋違いだし、妊娠中のハガルをいじめるのは犯罪行為だ。サライこそ罰すべきなの。」
「執筆者の頭の中にはサライ=善、ハガル=悪という単純な図式しかないということですね。」

「10節に“もちろん,「人のことに干渉」したくはありません。”とあるのには驚いた。」
「過剰に他人に干渉するのがJWですからね。」
「頼みもしないのに家に来て、宗教の話をするのは、人のことに干渉しているとは言わないのかな?」
「その次の文で“とはいえ,兄弟姉妹の生い立ちや状況を知るなら,その人が実際にどんな人かを理解することができます。”とあり、生い立ちや状況を知ることを強調しています。」
「個人情報の収集に励めということね。その情報がどのように使われるのかわかったもんじゃやない。JWとは親しくならない方がいいね。」

「10節に、“裕福な兄弟はお金や物を重視している人ではなく,惜しみなく与える人なのかもしれません。”とあります。JWでは、裕福な人=物質主義の悪人という公式があるようです。」
「JWの雑誌や書籍は、そのような見方をあおっているよ。共産主義と似たような発想だね。」
「どのような価値観かということと、どれほど裕福かはそれほど関連がありますか?貧乏ゆえに物質主義ということもありますよ。」
「多くの社会では裕福かどうかは、親からどれだけ資産を受け継ぐかで決まる割合が高い。親が相当数の大企業の株を持っている、あるいは東京に土地を持っているとすれば、その子どもは将来資産家になる確率が高いし、親が無一文なら、どんな価値観を持とうが、その子どもが資産家になる確率は低い。」
「格差の固定化ですね。」
「0円から100万円を稼ぐのは難しい。1億円持っているなら、それを1%で運用するだけで100万円稼げる(税引き前)。それはたやすいこと。富める者はますます富む傾向があるけれど、それは富める者が物質主義者の悪人だからではない。」

「11節は、“その姉妹は,内気で人と関わろうとしない感じでした。”という話しで、12節は、“会衆に話し声の大きな姉妹がいて,品がないと感じていました。”という話しです。その人のことをよく知ったら、もっと理解できるようになりました、というありきたりの結論です。」
「JWでは“内気で人と関わろうとしない”ことはいけないことなんだね。これには驚いた。もともと宗教に関心のある人はそういう人が多いんじゃないの。人間よりも神に関心があるのだから。」
「そういう人をJWは求めていないのですよ。JWが必要としているのは、押しが強く愛想のいい宗教セールスマンです。」
「品のない姉妹も宗教セールスマン向けじゃないから、嫌われるというわけだね。」

「13節からが“兄弟姉妹のことを思いやる”です。ダメなロトの話で、14節に“それでもエホバはロトの失敗だけに注目することはせず,ロトを「正しい人」と見ていました。(ペテ二 2:7,8)”だそうです。これは現代人には受け入れがたいですね。」
「この記事では無視されているけれど、ロトの道徳上の問題点は、創世記19:8の“私には,男性と関係を持ったことがない娘が2人います。2人を差し出しますから,どうぞいいようにしてください。”というトンデモ発言と娘と性的関係を持ったこと。少しも正しい人じゃないよ。」
「でもペテロ二では、ロトが“正しい人”とありますよ。それらの問題はどうでもいいということじゃないですか。」
「ペテロ二2:7には“不法な人々の恥知らずな行いに非常に苦しんでいた,正しい人ロト”とある。これは周りのひどい連中に比べたら、ましなロトという程度の意味だよ。神はダメなロトでさえ救出したのだから、ましてやあなたたちのことは必ず救い出してくれる、というのがこのペテロ二のメッセージで、ロトを正しい人と持ち上げることじゃない。」

「最後の17節では、“どの兄弟姉妹にも温かい思いやりを示しましょう。”とあります。」
「問題のある兄弟姉妹でも、裁いたり、責めたりするなということのようだ。でも、それが大好きなのがJWだよね。」

#1161 2020年06月26日 15:13:58

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“私はあなたたちを友と呼びました(17)”で、イエスの友になるには組織が要求すること実行しなさい、という内容です。」
「13節に、“エホバとイエスが導いている活動を金銭面で支援することによっても,エホバとイエスの友になれます。”と露骨に書いてあるね。これは酷いね。エホバもイエスも、統治体並みにお金が大好きなんだ。」

「1から3節が、イエスの友になるうえでの障害で、3つ出ています。“イエスに会ったことがない”、“イエスと話すことはできない”、“イエスは天にいるので一緒に時間を過ごせない”とあります。
「会ったこともないし話しもできない遠くにいる人と友達になれないよ。ということはイエスとは友達になるのは無理です、という結論しかないよ。」
「そんなことはないみたいですよ。10から14節は、“どうすればイエスの友になれるか”です。お金を払う以外にも友達になる方法があるようです。」

「3節に、“イエスの名によって祈りますが,イエスに語り掛けることはしません。イエスも,私たちがイエスに祈ることは望んでいません。”とある。これはなんなの?なるべくイエスと関わらせたくないという組織の意志の表れだね。」
「その引照聖句は、マタイ4:10で、“その時,イエスは言った。「離れ去れ,サタン! 『あなたが崇拝すべきなのはエホバ神であり,この方だけに神聖な奉仕をしなければならない』と書いてあるのです」。”というものです。これって祈りと関係しますか?」
「この執筆者は、祈り=崇拝と誤解しているね。祈りは、聖書を見ればわかるけれど、嘆きであったり、感謝であったり、疑問をぶつけることであったり、様々なコミュニケーションの一つだよ。イエスに語り掛けることがいけないなら、キリスト教じゃないよ。」

「5から9節は、“イエスの友になるのが大切なのはなぜか”で、JWの独特なキリスト論がわかります。」
「5節に“エホバと親しくなりたいのであれば,イエスの友になる必要があります。”とある。イエスはエホバの格下のパートナーというのがJWの教義だからだね。この節はヨハネを何か所か引用しているけれど、ヨハネの思想はJWとは両立しないよ。」

「ヨハネの福音書では、神とイエスは同等じゃないですか?有名なヨハネ1:1で、新しい新世界訳は、“初めに,言葉と呼ばれる方がいた。言葉は神と共にいて,言葉は神のようだった。”と奇妙な訳になっている部分です。」
「“言葉は神のようだった。”には笑える。英文はthe Word was a godだけど、これは滅茶苦茶な訳。言葉は神Godであると言いたくないのでa godにしたのだけれど、誤訳だし、これでは多神論になる。この訳では、神がいて、もう一人言葉という別の神がいることになるよ。」
「聖書の一貫した主張は、神は一人。JWはそれを無視しているわけですね。」
「日本語の訳者は、“言葉は神のようだった。”とトンデモ訳をすることで、その辺をごまかした。JWは神とイエスの同等性を否定するために、多神論宗教になっている。」

「ヨハネの福音書は神とイエスの同等性で始まり、それで終わる、というものだったんですよね。」
「ヨハネの本当の終わりは20章。21章は後から追加されたもの。20章は復活したイエスを信じないトマスが復活したイエスの傷口を触り、20:28で“それに対してトマスは言った。「私の主,私の神!」”となる。イエス=神ということでヨハネの福音書は終わる。そういう構想の下に書かれている。」

「5節の下に囲み記事が二つあります。一つ目が、“イエスの友になればエホバの友になれる”です。友情とはそういうものですか?ある人と友達になるとそのお父さんとも友達になりますか?あり得ないです。」
「この執筆者は、友達というものをわかっていない。囲み記事の中に、“イエスに信仰を抱き,イエスが命じた通りに行動するなら,私たちはイエスの友になれます。”とあるよね。これだとイエスに服従すればイエスの友達になれると言っているようなもの。でも、誰かに服従することによって、その人の友人にはなれない。ただ召使になれるだけ。こんなこともわからないのか?」
「引照聖句のヨハネ15:14に“私が命じていることを行うなら,あなたたちは私の友です。”とありますよ。」
「命令に従うという条件で友達であると、条件付きの友情をイエスが言うと思う?それはJWの発想。ここでは、イエスは、服従では友情は買えない、友であることを行動で示しなさい、具体的にはお互いに愛し合うということで示しなさい、といっている。」
「それで、次の15:15では、“私はあなたたちをもう奴隷とは呼びません。”というわけですね。服従しているだけなら奴隷です。」
「この記事の執筆者は友人と奴隷の区別がつかない男なんだよ。」

「囲み記事の二つ目が“イエスについてのバランスの取れた見方”というもので、“初期の聖書研究者たちは,キリスト教会の人々と同様,エホバよりもイエスを愛するという間違った態度を取っていました。”とあります。それが修正されたのが、“1919年,聖書研究者たちはエホバを崇拝することとエホバと親しくなることの大切さを理解するようになりました。”とあり、1919年だそうです。キリスト教からエホバ教への変身ですね。」

「1919年というのは疑わしいね。JWは都合の良いように過去を作り変える。2代目会長ラザフォードも3代目会長のノアもイエスを崇拝すべきと言っていたよ。それがはっきりと否定されたのは1954年。オンライン・ライブラリーは日本語版は1970年までだけど、英語版では1950年まである。そこを調べると、ものみの塔1954年1月1日号の読者からの質問に、“Should we worship Jesus?”イエスを崇拝すべきですか?というのがあって、答えはNo! 」
「イエスを崇拝の対象としなくなったのはその頃ですか?」
「実際はもっと遅いと思うね。JWが最初に翻訳した聖書、新世界訳が英語版で出たのは1961年だけど、そのヘブライ1:6は、“But when he again brings his Firstborn into the inhabited earth, he says: "And let all God's angels worship him."”でworship(崇拝する)と訳している。その頃でもイエスを崇拝するというのは問題視されなかったことがわかる。ところが、その後の改訂版で、“敬意を表する”に変えられた。」
「ヘブライ1:6は普通、崇拝するとか、礼拝すると訳しますよね。」
「そうだね。教義上不都合なので、JWだけ訳を変えたということ。自分たちの教義がまずあって、それに合わせて聖書を変えるのがJW。聖書に対する敬意がないのが特徴だね。」

「10から14節は、“どうすればイエスの友になれるか”です。この記事の中心部分です。(1)イエスのことを知る。(2)イエスのように考え,行動する。(3)イエスの兄弟たちを支援する。(4)クリスチャン会衆に協力する。この4つが必要だそうです。(3)と(4)がJWらしいバカげた主張です。」
「10節が、“イエスのことを知る。”だけど、イエスを知るとどうなるかというと、“人に親切に接したイエスに引かれ,尊敬するようになります。”とあるね。イエスは単なる親切なおじさんという評価なのかな?」
「その程度の評価にとどめて欲しい、というのがJWの本音でしょうね。」

「11節が、“イエスのように考え,行動する。”だけど、その例として挙げられているのは、“イエスは自分を喜ばせることよりも,人を助けることを大切にしました。”とある。でもJWは全然人を助けていないよ。他人に寄生しているだけだ。」
「JWで人を助けるといえば、仲間の信者を助けるということです。それ以外の人はまもなく愛と正義の神エホバによって滅ぼされるわけですから、助ける必要はありません。それから、伝道をしています。これに勝る人を助ける行いはありません。これがJWの奇妙な教義です。」

「12,13節が、(3)の“イエスの兄弟たちを支援する。”だ。“イエスの兄弟たち”とは天に行く144000人を指すんだね。記念式で飲み食いする人に金でもあげるのかと思ったら、そうではなくて、まず“王国について伝えて人々を弟子とする活動に十分に参加することです。”とある。理解できないな。そんなことしても、記念式で飲み食いする人の助けにならないだろう。」
「“イエスの兄弟たち”とは統治体のことですよ。統治体を支援せよとは書けないのであいまいにしています。」

「13節に、初めに紹介した“金銭面で支援する”ことが書かれている。引照聖句がルカ16:9で、“この世の富によって友をつくり,そうした物が尽きた時に永遠の住まいに迎え入れてもらえるようにしなさい。”というもの。これはへんだろう。」
「“この世の富によって友をつくり”の“友”はイエスじゃないですよ。普通は貧しい人のことですね。」
「ルカのイエスは貧しい人のことをとても気にかけている。貧し人のためにこの世の富を使いなさいと普通は解釈するよ。でも、JWは慈善活動を一切やらない宗教だから、この聖句も自分たちに合わせて解釈をするのだろう。」
「13節には、“困っている仲間を個人的に助けることもできます。”とあります。仲間限定ですが、個人的に助けてもいいそうです。ですが、優先順位は最後ですね。」

「14節が、“クリスチャン会衆に協力する。”だけど、そこでは“現在,全ての王国会館を無駄なく活用する取り組みがなされています。その一環として,他の会衆と合併し,区域が調整された会衆もあります。”とある。そして“調整に進んで応じる兄弟姉妹のことを,イエスはとても喜んでいることでしょう。”だって。手前勝手な主張だね。」
「王国会館の売却のことですよね。それを“無駄なく活用する取り組み”というわけですか。それでどんなに不便になっても、文句も言わず耐え忍ぶと、イエスの友になれるという、あきれた主張ですね。」
「こういう詭弁を弄するのは、王国会館売却について、本部や支部に文句が寄せられているからだよ。文句言うやつは排斥だと本音を言えないので、イエスの友としてふさわしくない行いです、と思わせたいのだろう。」

「最後の15,16節は“いつまでもイエスと友でいる”で、未来のイエスとの関係を言っています。」
「天上組はイエスのそばでお友達になり、地上組は“イエスに愛され気遣ってもらえます。”とある。しかし、人間が2つの階級に分かれ、片方が片方を支配するなんていうのは、階級制度が大好きなJW独自の教義だね。」
「最後は、“イエスの友と呼ばれるのは本当に素晴らしいことです。”とあるのですが、英文では“What a privilege we have to be called Jesus’ friends!”で、イエスの友と呼ばれるのも“a privilege(特権)”なんです。」
「統治体は特権なるものを信者の前にぶら下げないと、信者が動かないと思っているんだよ。」

#1162 2020年06月26日 17:15:09

ぽんちゃん
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さんはエピソードをいつもどうやって選ばれているのでしょう。気になりますね。
崇拝とは何か。私は共同訳を今読んでいるのですが、マタイ4:10ではイエスは、主を拝み主に仕えよと述べられています。これはサタンが私を拝むならと言ったからかもしれません。しかし、引用された申命記6:13には主を畏れ主に仕えと書いてあります。この違いが少し気になります。

#1163 2020年06月27日 14:44:15

一閲覧者
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ぽんちゃん さんの発言:

聖書についての質問さんはエピソードをいつもどうやって選ばれているのでしょう。気になりますね。
崇拝とは何か。私は共同訳を今読んでいるのですが、マタイ4:10ではイエスは、主を拝み主に仕えよと述べられています。これはサタンが私を拝むならと言ったからかもしれません。しかし、引用された申命記6:13には主を畏れ主に仕えと書いてあります。この違いが少し気になります。


誰に対して話しかけているのか分かりませんが、僭越ながら申し上げますと、この掲示板はぽんちゃんさん個人の落書き帖ではありません。
個人的に気になることがあるのなら、アメブロでアカウントを作りそこに自由に気になることでも愚痴でも言い訳でも好きなように書き込めます。そうすれば誰にも迷惑が掛かりません。
この掲示板は海老名支部の情報部門も含め、毎日数百人が閲覧しています。

#1164 2020年06月28日 19:37:49

ぽんちゃんは
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

タニタクミ そっくりだなぁ
もしかして まさか タニタクミ本人?

#1165 2020年06月28日 21:00:18

ぽんちゃん
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

皆さんが名前をあげられる方は過去ログに集まっているというのも興味深いです。私はサーティさんも気になっております。あとで読んでみます。

#1166 2020年06月28日 23:22:10

私も閲覧者
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ぽんちゃんは さんの発言:

タニタクミ そっくりだなぁ
もしかして まさか タニタクミ本人?


タニタクミは心を病ませているだけで、頭は良い。

ぽんちゃんはその逆。

#1167 2020年06月28日 23:25:31

私も閲覧者
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ぽんちゃん さんの発言:

皆さんが名前をあげられる方は過去ログに集まっているというのも興味深いです。私はサーティさんも気になっております。あとで読んでみます。

類は友、同じ穴のムジナ、、、、

#1168 2020年06月28日 23:57:30

同じ閲覧者
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

私も閲覧者 さんの発言:
ぽんちゃんは さんの発言:

タニタクミ そっくりだなぁ
もしかして まさか タニタクミ本人?


タニタクミは心を病ませているだけで、頭は良い。

ぽんちゃんはその逆。


どちらも不毛・頭を良く見せようとしている点は同じ

粘着気質でかまってちゃん、人格も破壊されている様子も同様

#1169 2020年07月03日 15:08:26

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“「競走を最後まで走り」ましょう(18)”で、JWには引退はない、JW活動を死ぬまでやりなさい、という内容です。」
「似たような記事は前にもあったよね。マンネリJWだね。でも今度は、3節に、“クリスチャンの生き方を長距離走に例えたことも何度かあります。”と長距離走と言っているのが興味深いね。」
「終末カルトなんですから、“今は終わりの終わりです。間もなくゴールです。残されたわずかな距離を、全てを捨てて、全力で走りましょう。”と言わなくていいんですか?統治体も弱気になっていますね。」
「長距離走といったら、楽園が唯一の希望のJWは落胆するよ。60歳以上は、ゴール前に死ぬということだよ。これはJWをつまずかせる記事だ。来週は休んだ方がいいね。そして長距離走ではなく短距離走ですと、日本支部に抗議しよう。」

「3.4節が、“どんな競走か”です。3節に“クリスチャンは,エホバに献身しバプテスマを受けた時からこの「競走」に加わります。(ペテ一 3:21)”とありますが、引照聖句のペテロ一3:21にはそんなこと書いていません。」
「バプテスマにより救われるとあるだけで、バプテスマによって競争に参加するなんてことは書いていない。JWにとってバプテスマは組織の入会儀式で、この組織に一度入ったら、死ぬまで無給で働かなくてはならないというとんでもない競争に参加させられるわけだ。」
「これに近いのはヤクザ組織ですか?」
「一度入ったら抜け出せない。給料はなく自分で金を稼ぎ、上納金を求められる。そして上の命令には絶対服従。組織のためには刑務所にも行くし、命も犠牲にする。JWはやくざ組織とよく似ている。」

「3節で、“クリスチャンの生き方を長距離走に例えたことも何度かあります。(コリ一 9:24。ガラ 2:2。フィリ 2:16)”と、3つの聖句をあげていますが、これは本当に長距離走に関係するのですか?」
「実は、英文では、footrace(徒競走)とあるだけで、長距離走なんて言っていない。引照聖句にも長距離走なんて言葉はない。日本語翻訳者は長距離走にした方がJWの苦労ばかりの先の見えないつらい生き方に合っていると思ったんだろうね。。」

「そもそも古代オリンピックに長距離走なんてないですよね。マラソンは近代オリンピックからです。当時存在しなかった長距離走と訳すのはおかしいですよ。」
「そういう知識はJWの翻訳者にはないのだろう。古代オリンピックにはドリコスという比較的長い距離を走る競技はあった。でも距離は、大会ごとに変わり、190m程度の直線コースを10往復する程度で、約3800m。今だと中距離レースだね。」

「3節に、“ゴールまで走り続けた人に,エホバは永遠の命という賞を与えます。”とありますが、これはJW独自の教義ですよね?」
「死ぬまで競争する、具体的には組織のために集会に出て伝道して王国会館を建設し続けると、驚くべきことに永遠の命がもらえ、そうしないと滅ぼされるというのは、JW独自の教義だよ。普通のキリスト教はそんなことは言わないね。JWの人生は過酷だね。」

「4節には、“長距離走とクリスチャンの生き方は,どこが似ていますか。”と問いかけていますが、こういう問い自体が聖書的じゃないということですね。」
「パウロは陸上競技を比喩として用いているけれど、マラソンのような長距離競技は知らなかったので、そのような競技を想定して、聖書の中で使っているわけじゃないね。」

「5から7節は、“正しいコースを走る”で、5節に“競技で賞を得るには,主催者が決めたコースを走らなければなりません。”とあります。要するに、主催者である組織の決めたとおりに生きなさい、という教えです。」
「6節にあるブライアンの話は典型的なJW的な二分法つまり白黒論法の例だね。」
「“イエスの生き方に倣うよう教えられてきました。しかし10代になると,その生き方が窮屈に思えてきました。”とあります。これは理解できますが、その後どうなったかというと、“やがて,薬物やアルコールを乱用し,不道徳な生き方をするようになりました。(略)そうした生活を続けるために薬物を売り始めました”とあります。麻薬の売人です。この話だと、イエスの生き方か麻薬の売人の生き方かの2つしかないみたいですね。」
「“今はイエスの生き方に倣い,本当に幸せだと感じています。”とあるけれど、この人は、JWの生き方をイエスの生き方と言っている。おかしいだろう。JWの生き方は、無給の宗教セールスマンとして組織の命令に服従するだけの何も考えない生き方。どうしてイエスの生き方といえるのかな?」

「8から12節が、“ゴールに思いを向け続ける”です。競争でつまずいても、“ゴールと賞に思いを向け続けます。”とあります。」
「9節に“つまずいたとしても,立ち上がって走り続けましょう。”とあるけれど、一度つまずいたら、この道は正しいのか、この人たちと一緒に走っていいのか、考え直そうよ。」
「11節に、“まだゴールが見えなくても,自分がゴールし賞をもらっているところをイメージします。そのことが走り続ける力になります。”とあります。まだゴールが見えないと言っちゃっていいんですか?ゴールは目の前、あと一息、と言わないと、信者は走るのをやめますよ。」
「12節に“天での,または楽園となる地上での永遠の命という賞です。”とあるね。こんな子どもだましの賞では走る気力がでないよ。ハルマゲドンの恐怖をあおるほうが、信者を無理やり走らせるには効果的じゃないかな。」

「13から20節、“障害があっても走り続ける”です。なかなか厳しいですね。障害のある人にはJWは向いていませんね。」
「16節に、“あなたは,車椅子や寝たきりの生活を送っていますか。”とあるけれど、“寝たきり”じゃないよ。“Are you lying in a bed”だから、病に臥せっていますか、という意味。」

「16節では、障害のある人は“医師や看護師や親族に信じていることを話して,人々を弟子とする活動に参加しています。”とあります。仕事中の人に宗教のセールス活動はやめて欲しいですよ。」
「医療関係者にはこの記事を見せて、JWの患者に対して警戒心を持つよう注意を喚起すべきだよ。」
「老人や障害のある人を助けようという記事はほとんどないのに、病気や障害があっても奉仕活動をせよ、という過酷な記事が多すぎます。」
「入院しても、だれもお見舞いに来ないような寂しい人が、周囲の人に愛や希望を語っても、説得力がないよ。JWの人はお見舞いに行ってあげようね。」

「17節に“エホバの支えを今まで以上に必要とするあなたを,エホバは決して見捨てません。”とあります。エホバは見捨てないかもしれませんが、組織は、宗教セールスマンとして役に立たなくなった信者は見捨てますよ。」
「18節に、“エホバに仕える仲間の中にも,うつ病や極度の不安に苦しんでいる人がいます。”とあるけれど、JWの精神障害を認めるのは珍しいね。JWは世界一幸福な人達という建前だよね。」
「でも、そういう人はどうすべきかについて何もありませんね。ちゃんと治療を受けなさい、と言えないのですか?」
「言わないよ。精神科に行けば、JWをやめるのが一番の治療法ですと言われると思っている。」

「19節に、“思い通りに動けなかったり,誤解されていると感じたりすることがありますか。そうであれば,メピボセテの手本から励みが得られます。”とあります。メピボセテはサウル王の孫ですね。メピボセテは手本になるようなことしました?」
「見当違いの記事だね。メピボセテは先代の王の孫だから、ダビデからすると危険人物。ダビデに不満を持つ人たちがメピボセテを担ぎ出して、反乱を起こす危険がある。メピボセテはサウル王が死亡した時は幼児で、しかも足に障害があったので、脅威にはならないと思われて、殺されなかった。その辺のことをメピボセテも知っているから、生き残るためにひたすらダビデに恭順しつづけた。それが手本なのかな?」

「19節には、“ダビデに親切にされたことへの感謝を忘れませんでした。”とありますが違いますよね。」
「ダビデは、サムエル二9:7で“あなたはいつも私の食卓で食事をすることになります”といっているが、これは親切な行為ではなく、メピボセテをいつも自分の手元に置いて監視するということ。」
「それに対するメピボセテの反応は、サムエル二9:8に“私が何者だというので,私のような死んだ犬に目を留めてくださるのですか”というもので、ひたすらへりくだっていますね。」
「メピボセテが生き残るためにはこうするしかないからだよ。ダビデは人殺しなんかなんとも思っていない危険な男だよ。単純な感謝じゃない。」

「19節に“エホバが選んだ王を支援するために何ができるか,ということに思いを向けました。(サム二 16:1-4; 19:24-30)”とありますが、違いますよね。引照聖句の最後の19:30の“メピボセテは王に言った。「王が無事に家に戻られたのですから,全部彼のものになっても構いません」。”のことを言っているんでしょうか?」
「これは少し複雑な話で、単純な美談ではない。アブサロムの謀反によって、ダビデがエルサレムから逃げる。その時メピボセテの従者ツィバは食べ物や酒をもって真っ先にダビデのところに駆けつけた。その際ツィバは主人のメピボセテの悪口を言い、それを信じたダビデは、メピボセテの土地をツィバに与えてしまう。」
「ダビデはアブサロムの謀反を鎮圧した後、エルサレムに帰還するのですが、メピボセテがダビデを迎えに出た際に、従者ツィバの言ったことを否定するわけです。」
「つまり、それぞれがダビデに違うことを言っているという状況。ダビデは二人うちどちらが真実を言っているか試すために、土地を二つに分けるといった。」
「ソロモン王の赤ちゃん裁判と同じですね。ソロモン王が、赤ちゃんを半分にすると言ったら、本当の親の方が自分の主張を取り下げたわけです。」
「それと同じように、メピボセテは自分の土地と主張しないで、全てツィバのものになってもよいと言った、というお話。ダビデを支援したかったわけじゃない。でも、その後どうなったかは聖書には何も書かれていない。」

「20節に、再び精神障害のことが出てきます。“兄弟姉妹の中には,極度の不安を抱え,人混みの中でひどく緊張したり,人目が気になったりしてしまう人がいます。”といっています。」
「でも、“人が大勢いる所は苦手ですが,だからといって集会や大会を休んだりはしません。知らない人に話し掛けるのは苦手ですが,伝道に出掛け真理を伝えます。”だよ。脅迫している。精神障害を理由に集会や伝道をさぼることは許さないぞ、という組織の高圧的な姿勢がわかるね。こんな組織にいると症状は悪化するだけだよ。」
「悪化すると自殺だってありえます。自殺したJWはいっぱいいますよ。」
「命を守るために、一刻も早くJWという災害から避難してください、と言いたいね。」

#1170 2020年07月03日 17:02:18

ぽんちゃん
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

私の勝手な解釈ですが、パウロをオリンピックのアスリート選手のように感じています。金メダリストです。スポーツ選手に励まされるように私はパウロにいつも励まされています。
私などスロージョギングが精一杯です。それでも走れるのはとても天から応援されているからです。
一人の罪人が悔い改めるなら、神の天使たちの間に喜びがある
ルカ15:10

#1171 2020年07月10日 14:57:57

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“終わりの時の「北の王」(19)”で、ダニエル書11章25-39節の新しい解釈です。」
「これで何度目の解釈変更なの?約30年前の1981年10月15日号の“支配権をめぐる闘争 ― どのような結末を迎えるか”には、“これらの預言が今日成就していることは,わたしたちが「終わりの時」に住んでいることを示しています。間もなく,キリストは共産主義の「北の王」と非共産主義の「南の王」に終わりをもたらされます。”とあるよ。完全に外れてしまったね。でも、懲りずにまた同じことをしようとしている。」
「それは北の王はソ連と言っていた時代ですね。終末論宗教から脱却できないJWとしては、繰り返し“今は終わりの時代だ”と、あおる必要があるのですよ。そのためのインチキ聖書解釈にすぎません。」
「旧約聖書の預言者というのは、その時代のイスラエル人にむけて、神の言葉をかたっている、というもの。2千数百年後のJWのために語ったわけじゃないよ。ダニエル書を現代に当てはめようというのが、全く非聖書的な行為だね。クリスチャンにとって、ダニエル書の北の王が誰かなんてどうでもいい問題だよ。」

「2節に、ダニエル書を現代に適用する際の、基本的な考え方が出ています。この部分は極めて重要な教義なので正確に訳してほしかったです。」
「“And even though God’s servants make up only a small portion of the world’s population, they are often at the center of major world events.”だね。ここを、“エホバに仕える人々は,世界人口からすればごく少数にすぎませんが,しばしば政府から迫害されてきました。”と訳している。この翻訳者は背教者だ。後半の部分は、“彼らはしばしば主要な世界の出来事の中心にいました。”という、JW中心史観を、高らかに歌い上げている重要な部分なわけで、この部分を、“しばしば政府から迫害されてきました。”と被害者意識をあおるだけの文に変えるなんて許せないね。」

「北の王の問題も、誰が何を言おうが、JW中心史観に基づいて解釈するぞ、という宣言なわけで、ここをごまかすと、その後の展開がわかりにくくなりますね。」
「あまりにも狂信的な意見なので、翻訳者はついていけなかったんだろう。」
「2節で、“その預言に出てくる王たちは,エホバの民に直接影響を与えた支配者や政府を指している,という点です。”と宣言していますが、その根拠が、JWは世界史の中心的存在というJW中心史観なわけです。その部分をごまかすなんて信仰が足りませんね。」
「翻訳者の知性がJWの信仰を妨害しているね。高等教育の悪影響だろう。」

「3節で、“こうした点を踏まえてダニエル 11章25-39節を調べましょう。1870年から1991年まで誰が北の王で,誰が南の王だったかを確かめます。北の王と南の王に関する預言の一部について,なぜ理解を調整する必要があるかも確かめます。”とあります。“調整する”というのは解釈の変更を意味するJW用語ですね。」
「1999年に出版された“ダニエルの預言に注意を払いなさい”という本にもっともらしく書かれたことはウソだったということね。責任者出てこい、と言いたいね。」
「僕の場合だと、北の王といえばジョン・スノウなんですが。」
「ゲーム・オブ・スローンを見たことのない人にはわからないよ。」

「4から6節が、“北の王と南の王を見分ける鍵”です。JWの解釈の基本方針を述べています。“ダニエル 11章の預言の多くはイスラエル国民にではなく,イエスに従う人たちに関係するものです。”と一方的に主張しています。地理的な位置は関係ないと言いたいのでしょう。」
「そう言わないと、JWの解釈に合わないからね。JWの言う王はみな欧米諸国だから、ほとんど同じ緯度にある国で、南とか北なんて言えない。最初から言い訳だね。」
「また“誰が北の王で誰が南の王かは,時代とともに変化してきました。”とあります。これって納得できませんね。これはいつまでも終わりの日が来ないので、そのうちに北の王も南の王も変わっていっただけですね。」
「実際は、預言の解釈と言いながら歴史の後追いをしているだけ。ダニエル7:27では、4番目の王国の後、“王国と,統治権と,天の下の全ての王国の栄光は,至上者の聖なる者たちに与えられました。彼らの王国は永遠に存続し,全ての国の人々は彼らに仕え,従います”となっているのに、そうならなかった。ダニエルの預言は外れた。でも、JWはそれを認めるわけにはいかないので、これから起こる未来の事としているだけ。」

「5節で、“2世紀のある時点から19世紀の終わりごろまでに存在した支配者や政府は,北の王や南の王を指すことはあり得ません。その間,攻撃対象である組織されたエホバの民が存在しなかったからです。”と言っています。JW中心史観宣言です。JWが存在しなかった時代はどうでもいい時代だから無視しようというのです。」
「JW以外の人が聞いたら、笑ってしまうね。自分たちは神から選ばれた特別な人間だと思い込むのはカルトの特徴。」

「6節に“1870年にチャールズ・T・ラッセルと仲間たちが聖書研究会をつくりました。”とある。それで、北と南の王の登場も1870年代からという教義になったようです。」
「ラッセルたちも神の民と認定するわけね。ラッセルの主張は、今のJWの教義と大きく違う異教的なものだけど、それでも神の民なの?理解できない。」
「神の民と認定していませんよ。6節で、“エホバの民の区別がはっきりつくようになったのです。”と断定していますが、英文とはかなり違います。“God’s people could once again be identified!”といっているだけです。」
「この翻訳者はJWの教義をあまり理解していない。ラッセル達をどう評価するかは今の所明確じゃない。それで、“could”を使っている。“once again”を無視しているのも、この文章を理解していないからだよ。」
「この場合は、英語の文法書にある、“推量のcould”ですね。」
「そう。例えば“That could be true”だと、それは真実なのです、ではなく、それは真実である可能性もある、程度の意味。mayよりも可能性が低い場合に使われる。」
「原文は“再び神の民が見いだされたのかもしれません。”と言う意味ですよね。あいまいにしているわけです。」
「この翻訳者は、狂信的な信仰心もないし、JWの教義も疎いし、英文法にも疎い。地方に飛ばすべき。」

「7,8節が“南の王は誰か”で、初めはイギリスで、第一次大戦の途中から英米世界強国になったとあります。」
「イギリスのことを北の王と言っていた時代もある。それが南の王になったのが1960年で、それ以来、南の王はAnglo-American dual powerとなった。でも、たいした根拠はないね。」
「8節に“第1次世界大戦中,米国と英国は強力な軍事同盟を結びました。”とあります。本当ですか?」
「アメリカは、第一次大戦では、初めは厳格な中立政策で、1917年から連合国側で参戦するけれど、イギリスとの同盟は結んでいない。戦後できた、国際連盟にもアメリカは加入しなかった。アメリカの外交方針は孤立政策で、大恐慌のときも、関税を引き上げ、イギリスを怒らせている。この記事の執筆者に“強力な軍事同盟”はいつどこで結ばれたのか教えて欲しいね。」

「9から11節が、“北の王が再び現れる”で、北の王はドイツ帝国だそうです。9節に、“ドイツはアフリカや太平洋の国々を植民地として支配するようになり,英国に対抗する勢力になりました。(ダニエル 11:25を読む。)”とあります。聖句と歴史があっていないと思いますが?第一次大戦の経緯を執筆者は知らないようです。」
「中学生程度の歴史知識でこの記事を書いている。ドイツ帝国の植民地はわずかなもの。また国境を接するフランスを主な敵としていた。イギリスは1904年に英仏協商を結ぶけれど、これは同盟とは違って、中身はあまりないもの。ドイツと敵対関係になったわけではない。」

「ダニエル11:25は、“彼は力と勇気を奮い起こし,大きな軍隊で南の王を攻めます。南の王も戦いに備え,非常に強大な軍隊で応戦します。人々が陰謀を企てるため,彼は立ち続けることができません。”です。“彼”が北の王ですが、ドイツは初めにイギリスを攻撃していません。史実に反します。」
「ドイツ軍の攻撃はシュリーフェンプランに則ってベルギー、フランス北部から開始された。その後はフランス国内で戦線は膠着状態になる。ドイツはイギリスに宣戦布告なんかしていない。イギリスの側が、ドイツに宣戦布告した。一方、ドイツ軍はロシアに対しも攻撃を開始し、ロシア軍に壊滅的な打撃を受け、その後ロシア革命が起きてロシアは自滅する。南の王であるイギリスを攻めたといえるかな?」
「言えませんね。後にドイツ軍は潜水艦でイギリスの船を攻撃しましたけれどね。」

「10節では、“ダニエルは次に,ドイツ帝国とドイツの軍事力がどうなるかを預言しています。”といって、ダニエル11:25の後半と26について、後知恵的に解説しています。」
「そこには“人々が陰謀を企てるため,彼は立ち続けることができません。彼の美食を食べていた者たちが彼を倒れさせます。”とある。これは、“ドイツ帝国の高官のことです。その中には,皇帝に仕えていた将官や軍事顧問が含まれていました。その人たちの支持を失い,帝政は結局終わりを迎えました。”と解説している。史実と合わないよ。」
「ドイツでは、1918年11月3日のキール軍港の水兵の反乱をきっかけに革命が起きました。そして11月11日に休戦条約が調印され、第一次大戦が終結します。」
「当時はロシア革命の影響で、社会主義勢力や共産主義勢力が大きな力を持つようになり、彼らが革命を起こし、自分たちの政権を作るようになった。政府高官が宮廷革命を起こしたわけじゃない。執筆者は中学生程度の歴史知識もないようだ。」
「後知恵的な解説さえ、まともにできないとは恥ずかしいですね。」
「10節には、“この預言通り,第1次世界大戦でドイツ軍は「押し流され,大勢が殺されて倒れ」ました。”とあるけれど、これも違うね。ドイツは軍が崩壊し首都ベルリンが占領されたわけじゃない。戦争終結時、ドイツ軍は戦線を維持していた。つまり“押し流され”ていない。」

「11節は、ダニエル11:27、28の解説です。そこには、“この2人の王は心の中で悪事をたくらみ,1つの食卓に着いてうそを言い合います。しかし,何事も成功しません。定められた時に終わりが来るからです。彼は大量の品々を携えて自分の国に戻り,心は聖なる契約に逆らいます。彼は行動を取り,自分の国に戻ります。”とありますが、その意味は、“ドイツと英国は互いに平和を望むと言っていましたが,1914年に戦争が起き,それまで語っていたことが「うそ」であることが明らかになりました。1914年までに,ドイツの経済は潤い,ドイツは世界第2位の経済大国になっていました。”だそうです。」
「いいかげんだね。単なる一般論に過ぎない。“一つの食卓”とは?“うそ”とは具体的にどういうウソなの?“定められた時”とは?“大量の品々”とは?“聖なる契約”とは?何も明らかにしていない。どうせ事後解釈なんだから、もっときちんと説明すべきでしょう。」
「執筆者の中学生程度の歴史知識では無理なんでしょうね。」

「11節の最後に、“後にダニエル 11章29節と30節前半の預言の通り,ドイツは南の王と戦いましたが,打ち負かされました。”とある。これは第二次世界大戦のことをいっているの?細部については無視しちゃうわけだ。」
「例えば、11:30には“キッテムの船に攻められて,打ち負かされるからです。”とありますが、これは具体的に何を指しているわけですか?ノルマンジー上陸作戦のことじゃないですよね。」

「訳も問題がある。協会共同訳では、“キティムの船隊が攻め入ると、彼は恐れをなして撤退するが、”となっている。JWの訳は、“恐れをなして”がない。撤退でもない。」
「この部分はシリアのアンティオコス4世のエジプト遠征とエルサレム略奪のことを言っているわけで、キッテムの船はローマ軍の艦隊のことです。アンティオコス4世は勝利を目前にしていたのに、ローマの介入で撤退せざるを得なかった。」
「JW訳にあるように“打ち負かされ”たのではなく、“恐れをなして撤退”した。アンティオコス4世その不満と怒りをエルサレムに向けて、神殿を略奪する。それが11:30の後半と31に書かれていること。」

「12,13節が、“2人の王はエホバの民と戦う”で、北と南の王がJWを迫害したと言っています。13節に、“何千人ものエホバの民が強制収容所に入れられ,約1500人が命を失いました。”とありますが、この数字は誇張したものじゃないですか?」
「1975年の年鑑の第三部「ドイツ」には、2000人が強制収容所に入れられ、635人が死亡し、203人が処刑されたとある。1500人が死亡したというのは誇張だね。自分たちの歴史ぐらい正確に書いてよ。」
「ナチスの強制収容所の最大の被害者はユダヤ人です。そのことを完全に無視して、自分たちだけが被害者みたいなことを言っているのにはあきれます。」
「これぞJW中心史観の滑稽な所だね。史実を無視している。」

「13節で、“北の王は,エホバについて人々に知らせる活動を禁止することにより,「聖なる所……を汚し,日ごとの犠牲を除き去り」ました。(ダニ 11:30後半,31前半)”とあるのはこじつけですね。」
「ダニエル11:31では、“聖なる所,要塞を汚し,日ごとの犠牲を除き去ります。”だよ。“要塞を汚し”はどうなったの?都合の悪い所は無視するの?」

「14から16節が、“新しい北の王”で、北の王はソビエト連邦だそうです。15節では、突然啓示12:15-17が出てきて、この預言通りになったと言っています。」
「16節には、“ダニエル 11:37-39を読む。北の王はこの預言の通り,「自分の父祖たちの神を無視し」ました。”とある。11:32から36は無視するのね。ソビエトは無神論国家で軍事大国だったから、“自分の父祖たちの神を無視し”と“要塞の神をたたえ”が当てはまると言っている。ソビエト連邦に当てはまりそうなところをつまみ食いしているだけだ。」

「17,18節が、“2人の王が手を組む”で、17節で、“北の王は1つのことで南の王と手を組みました。「彼らは荒廃をもたらす極めて不快なものを据え」ました。(ダニ 11:31)「極めて不快なもの」とは国際連合のことです。”と断定しています。」
「11:31では北の王はドイツじゃないの?この部分からドイツからソビエトに変身するのね。北の王も、“世代”と同じように重なり合うの?そうしないと国連設立というお話につながらないからだね。」
「18節で、“荒廃をもたらす極めて不快なもの”が国連である理由を述べています。“世界平和を自分たちが達成する,と唱えているからです。”とあります。“荒廃をもたらす”の意味は、“間違った宗教全てを滅ぼす上で大きな役割を果たすのが国際連合だからです。”と説明しています。」
「国連が間違った宗教を滅ぼすというのはJWだけの妄想。これはいつまでたっても実現しないよ。このバカバカしい教義が捨てられない理由は何だろうね?」

「20節によると、来週は、“現在誰が北の王ですか。次の記事で考えましょう。”です。」
「北の王はロシアになっているけれど、本来北の王はある人物を指す。ところがJWではそのことを無視して特定の国家のことと決めつけている。呆れるほどずれているんだよね。」

#1172 2020年07月10日 20:17:38

しろ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん
いつもありがとうございます

この世代の解釈の変更など 研究している頃は誰も教えてくれませんでした。
良心が少しでもあるなら「私たちはこのように聖書の解釈を変更してきました」と組織の誤ちを伝えると思います
高齢で年数の長い信者さんは この解釈の変更を 知っているにもかかわらず
隠して宣教できるのはなぜ?
人を騙して平気なのでしょうか?
「聖書の登場人物は素直に自分の誤ちを認めている」と教えながら
自分達は誤ちを隠しながら組織へ誘導していき、人生を狂わせる。偽善者。
腹立たしいです。

#1173 2020年07月11日 16:18:10

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

適当な事後解釈は後で何度でもどうにでも変えられるから、本当に植え付けたいのはJW中心史観なんでしょう。


歴史(そして聖書予言)の中心にいるのはワレワレである、という思想はメリケン共和党を支持しているキリスト教右派のコアな方たちと同じで(系統が同じ)、JWは終末カルト宗教ごっこで人間関係や家族関係を壊すくらいですが、あちらは国家間の関係をこじらせます。


アメリカ由来の過激で狂信的な思想をお勉強させられていることに気づいてもらうためにも、ちゃんと訳してほしかったですね(それでも気づかないと思う)。

#1174 2020年07月11日 19:46:38

とおりすがり
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

「解釈の変更」を間違いを犯し誤導してしまったとはまるで考えてなくて、ただ単にアップデートしたに過ぎないとの認識なんですよね。統治体も洗脳済信者も。組織はタッキングとか都合の良い例えを言い訳に使ってましたね。
現役の時は私も「これはタッキングなんだ」と納得していたんです、「騙している」という感覚はなかったんですよね。お恥ずかしい話ですが。

#1175 2020年07月11日 20:38:57

しろ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

アップデートですか…騙しているとか、隠しているという感覚はないんですね。
誠実な信者の方々は自分が被害者であることにも気付いていないのですね。
どうか洗脳から解けますように。

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