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#1126 2020年02月06日 21:05:19

紫式部
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さま、初めまして。

とても聖書に通じていらっしゃってすごいです!!
私は活字中毒レベルで読書が好きで、聖書の原則を守らなきゃ!と日々苦闘していましたが、記念式でパンとぶどう酒にあずかる者について統治体がブレブレであることなど、夢にも思っていませんでした!汗
貴重な分析ありがとうございます!

オフライン

#1127 2020年02月07日 16:41:19

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“働くのにも,休むのにも「時がある」(49)”で、休みの日でもボーとしていないで奉仕しろ、という内容です。」
「JWは忙しすぎるから、休みを増やそうという話しと思ったよ。仕事をし、集会に出て、奉仕活動もする。忙しすぎて、考える暇がない。」
「でも、そのかわり家事は手抜きですし、子どもも作りません。」

「1節に、“多くの国では,労働時間が長くなり,仕事もきつくなっています。働きづめで,体を休めることも,家族と時間を過ごすこともできず,生きる意味について考える間もありません。(伝 2:23)対照的に,働くことを好まず,働かない言い訳をする人々もいます。”とあるけれど、これはどうみてもJWのことだよね。」
「世間知らずの執筆者はJW以外の人のことを想定して書いたのでしょうが、JWにぴったりあいますね。」
「組織の教えに従順なJWは、低学歴で特別な資格も技術もないため、低賃金の職にしかつけない。その結果、働きづめで、JWであることの意味について考える間もないし、一方、JW2世や3世の中には、JW活動を嫌い、奉仕しない言い訳ばかりを言う人も大勢いるだろう。」

「2節の、“エホバは働くことを良いことと見ています。”には驚きました。この執筆者は聖書を読んだことがないようです。」
「一般常識もないね。旧約聖書では労働は神からの罰である、これがキリスト教の労働観。それに対して、日本では労働は喜びである、なんてことはサラリーマン向けの啓蒙書によく出ている話なんだけどね。」
「創世記では、善悪の木の実を食べた罰として、神様はアダムに労働、エバには生みの苦しみを与えるわけです。働くことがよいことだったら、アダムは罰を受けたことにはなりません。労働は神からの罰であり、苦しみですよ。」

「厳密に言うとそうではないよ。創世記2:15に“エホバ神は人をエデンの園に住ませた。そこを耕させ,管理させるためだった。”とある。“管理させるため”という訳は解釈し過ぎで。“守るため”という意味。人間は、初めから耕し、家畜などを楽園の外にいる敵から守るという仕事をするように作られたという意味。そんなわけで労働は罰ではない。」
「善悪の木の実を食べた結果、労働が苦労多いものになっただけ、ということなのですか?」
「創世記3:17で神様は、“あなたのせいで地面は災いを被った。それであなたは,地面から食物を得るために生涯ずっと苦労する。”と言っている。呪われたのは地面で、労働そのものじゃない。」
「しかし、世の中一般では、労働そのものが神の罰という風に理解されていったというわけですね。」

「その労働観が変わるのが、16世紀に生じた宗教改革。プロテスタントは、労働を隣人愛の表現であり魂の救済につながるものと考えた。この記事の13節に出ている、テサロニケ二3:16の“働こうとしない人は食べてはならない”という聖句がよく引用されるようになるのは、実は宗教改革以降だ。」
「キリスト教国でも、プロテスタントの多い国は経済が発展し、カトリックが多い国は貧乏なことが多いですが、プロテスタントとカトリックの労働観の違いが関係しているというのが、古典的な説明ですよ。」
「それはどこまで本当か、よくわからないね。」
「JWはプロテスタント系なのでしょうが、労働観は神の罰というものじゃないですか?」
「JWの楽園の想像図をみると、多くは誰も働いていない。永遠に飲み食いし消費し続けるというイメージ。アメリカの貧困層の願望の現れだろう。終わりの時代だから仕方なく働いているけれど、楽園が来たら誰が働くものか、というのが本音みたいだ。というわけで、JWでは、労働は喜びではなく、神からの罰という思想だろう。遊んで暮らせる所というのがJWの楽園観だね。」

「6,7節が、“バランスを取る”です。」
「6節に、“イエスは仕事と休息についてバランスの取れた見方をしていました。”とあるけれど、でも組織はバランスの取れた見方をしていないね。信者を意図的に無駄に忙しくさせようとしている。」

「8から10節が“人々は安息日に仕事を休み,エホバを崇拝した”です。」
「8節の、“聖書によれば,エホバは地球を整えるための6日間の後,それまで行ってきた仕事をやめました。”というのはおかしいね。“地球を整えるための6日間”ではないよ。天地創造の6日間。」
「出エジプト20:11では、“エホバは6日間,天と地と海とそこにある全てのものを造り,7日目に休み始めたからである。”とあります。地球限定の6日間というJWの解釈はへんですね。」
「JWは科学的な知見に対して逆らいたくないようで、聖書は科学と一致するというインチキな宣伝をよくしている。科学者の言うように宇宙の始まりが数十億年前という考えを受け入れているので、創世記の創造の6日間は地球限定にしたんだろうね。」

「8節には、“安息日は「完全な休み,……エホバにとって聖なるもの」です。(出エジプト 31:12-15を読む。)安息日には誰も仕事をしては ならず,子供,奴隷,家畜も例外ではありませんでした。”とあります。引照聖句の出エジプト31:14には、“それを汚す人は必ず死刑にされる。その日に仕事をする人は民の中から除かれなければならない。”とあります。こんなことは、ほとんど実行されなかったんですよね。」
「安息日が重視されるようになるのは、バビロン捕囚以降だね。それ以前はそれほど重視されていない。例えば、列王二11:5-9は、祭司のエホヤダのクーデターの場面だけれど、エホヤダはこういう。“皆さんにしてもらうことを言います。次の安息日の当番になっている人たちのうち3分の1は王の家を厳重に見張り,  3分の1は『土台の門』に,3分の1は宮殿護衛の後ろの門にいるようにしてください。交代で家を厳重に見張ってください。  その安息日に本来は非番の2つの組は,王を守るためにエホバの家を厳重に見張ってください。”」
「その後、祭司のエホヤダはクーデターに成功し、アハブとイザベルの娘アタリヤを殺し、エホアシュを王位につけるわけですね。安息日にクーデターを起こしても、聖書の中では全く非難されていませんね。」
「その当時は、安息日の決まりを、祭司でも全く重視していないことがわかるでしょう。」

「10節に、“イエスも弟子たちもユダヤ人であり,モーセの律法の下にいたため,安息日を守りました。”とありますが、そうなんですか?」
「これは、歴史上のイエスと福音書のイエスでは違う。歴史上のイエスはユダヤ人として律法を尊重しただろうね。しかし、福音書で描かれるイエスは、律法に対してかなり否定的だ。福音書が書かれたのは、イエスの死後40年以上後で、その時代のキリスト教徒(多くは非ユダヤ人)のユダヤ人の律法に対する否定的な見解が福音書に投影されている。」
「律法に一番否定的な福音書はヨハネですよね。イエスの敵のことをユダヤ人と呼んでいます。ヨハネ17:19で、“モーセが律法を与えたのではありませんか。”とイエスは言っていますが、これは律法は神ではなくモーセが与えたという意味ですよね。」
「それに対して、ルカが描くイエスはそれほど律法に対して否定的じゃない。」

「11から15節が、“仕事にどのように取り組みますか”です。職場で一生懸命働き、休みの日は一生懸命伝道しろという命令です。」
「11節の、“ヨセフは,働くことについてエホバと同じ見方をしていたので,養子であるイエスに仕事を教えました。”というのはへんだね。ヨセフがどういう見方をしていたかは誰も知らないし、子どもに親が職業訓練を施すというのは、当時としては当たり前のことで、信仰心とは関係ないよ。」

「12節にはパウロのことを取り上げています。働くとなると、必ず出てくるのがパウロです。」
「パウロは通常は1週間のうち6日間は働いていて、安息日だけ宣教活動をしていたようだ。」
「それなら、現代のJWはパウロ以上に奉仕活動をしていることになりませんか?」
「そのとおり。宗教活動のしすぎだ。もっと世俗の仕事をするべきだね。」

「パウロを持ち出して、働くことの重要性を強調するのは、世界各地でのベテルでの大量解雇、会衆の減少による巡回監督の解雇があるからですよ。組織の金をあてにせず、自分で稼げというメッセージが込められていますね。」
「そうだろうね。普通のJWは生き延びるために一生懸命働かざるを得ないわけだから、今更もっと仕事をしなさい、なんて言う必要はない。組織の金で生活してきたJW向けの内容だね。」

「14節の、“終わりの時代の今行うべき最も重要な仕事は,伝道し,人々を弟子とすることです。”とありますが、聖句は引用されていません。」
「それはJWというインチキな組織の意見に過ぎないからだよ。」

「16と17節が、“休息についてどんな見方をしていますか”です。たった2節で終わりです。」
「16節に、“当時も今も,イエスの例えに出てくる裕福な人に似た人は少なくありません。「楽にして,食べて,飲んで,楽しめ」と自分に言う人です。”とあるけれど、知り合いの中に、こんな人は一人もいないよ。滅多にいない人を取り上げて、これが普通の人の態度ですと攻撃する。これぞストローマン論法だ。ウソはやめろといいたいね。」
「この記事の執筆者の周りのJWには、そういう酔っ払いが多いんですよ。」

「17節では、“私たちはイエスに倣い,仕事の休みをただ休息のためではなく,伝道したり集会に出席したりするために使います。”、また“休暇中,旅先であっても,いつもと同じように集会に出席します。会う人に聖書について話す機会を探します。”とある。この通りにしていたら、JWには休みはないことになる。」
「旅行に行くときは、集会用のスーツやネクタイをスーツケースの中に入れておけということですか?貧乏なJWは滅多に旅行なんかしないのに。」
「こんな記事を真に受ける人なんてないよ。これは信者に休むことに罪悪感を持たせようとする作戦だ。カルトは罪悪感と恐怖で信者を支配する。」
「旅行先でのんびりしている信者に、集会に行かないでこんなことしていいのだろうかと思わせるわけですね。いやな宗教です。」

#1128 2020年02月14日 16:43:09

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、”エホバはあなたを自由にする(50)”で、ヨベルに関するJW独自の風変わりな教義を教えてくれるというものです。」
「レビ記のヨベルの他に、別の象徴的なヨベルがあるというのがJWの教義なんだね。」
「昔は、1975年で人類創造から6000年が経過し、そこから1000年間は象徴的ヨベルの年だなんて、今から考えればバカみたいなことを言っていたみたいです。」
「そのことを少しも反省せず、こんな記事を書き飛ばしているわけだ。教義は変わるけれど、進歩はないのがJWだね。」

「3節でレビ記25章のヨベルが出ていまして、50年ごとに土地が返却され、奴隷が解放されるという制度と説明していますね。そんなこと、実際に行われたという記録はあるのですか?」
「ないよ。こんなことが実行されたら、生活は滅茶苦茶になる。」
「なぜですか?」
「ヨベルは50年目だけれど、その前の年の49年目は安息年(7年ごとにある)にあたる。安息年では土地を休ませるため、農業は禁止。ヨベルの年は、レビ25:11,12によると、“その50年目はあなたたちにとってヨベルとなる。種をまいたり,採り残した穀物から自然に生えた物を刈り取ったりせず,剪定しなかった木のブドウも集めない。ヨベルだからである。”とある。つまり50年目も農業禁止。ということは2年間収穫がないということ。飢え死にするよ。」
「でも、レビ25:21には、“私は6年目にあなたたちのために祝福を与え,土地には3年分の作物が実る。”とあります。飢え死にはしないみたいですよ。」
「6年目に3年分実る?そういう事実は聖書のどこにも書かれていないし、ありそうもない。」
「2年続けて農業を中止したら、神様が奇跡を起こしてくれない限り、食べ物がなくなるので、つじつま合わせのための聖句ですね。」

「最初の挿絵の説明に、“ヨベルは喜びの時となった。奴隷だった人たちは家族のもとに,また自分の土地に帰ることができた。”とあり、ヨベルが大変すばらしい制度であったことを強調しているけれど、完全な誤解だよ。」
「最も長くても50年目に土地を返すということは、売買契約の代わりに、最長49年間のリース契約を結ぶというだけですね。」
「そういうこと。契約の形態が変わるだけにすぎない。借金を帳消しにすることと誤解している人が多いけれどそんなことはない。レビ25:15,16に“あなたはヨベルから何年たっているかを考慮して仲間から買うべきであり,仲間は収穫できる残りの年数に従ってあなたに売るべきである。 残りの年数が多ければ買い取り額を増やし,少なければ買い取り額を減らす。仲間が売っているのは収穫の回数だからである。”とある。リース契約が可能な年数と、その土地から得られる収穫量に基づいて、リース代を決めろと言っている。不合理なことを要求しているわけではない。」

「4節に、“裕福な人がもっと裕福になり,貧しい人がもっと貧しくなる今の世界とは全く違います。”とありますが、ヨベルの制度が貧富の差をなくすなんてことはありませんよね?」
「ヨベルは富の再配分は含まれていない。元の所有者に返されるだけ。リースされた土地から、多額の収益をあげて、ますます豊かになる人が出てくることを何も妨げない。リースしてもらう土地の広さに制限はないので、事実上の大土地所有者も出てくるだろう。」

「レビ25:29,30には、“城壁に囲まれた町にある家を売る場合,売却の時から1年の終わりまでは買い戻すことができる。買い戻しの権利は丸1年有効である。しかし,丸1年が過ぎる前に買い戻されないなら,城壁に囲まれた町にある家は代々ずっと,買った人の所有となる。ヨベルの時に返還されるべきではない。”とあります。大きな都市の家と土地は返還の対象ではないわけです。」
「金持ちは、都市の家を買いあされば、財産は無限に増やせるよ、という制度設計。」
「現代と同じように、資産価値のある土地は都市の土地ということですね。貧富の差をなくすことがヨベルの目的じゃないですよ。」
「この仕組みだと投資すべきは都市の土地となり、都市の不動産価格が無限に上がり続けるね。富裕層はますます富裕になるという仕組み。ヨベルは神から与えられた土地をその子孫が維持することを目的したもの。旧約聖書では、カナンの土地を神聖視しているからだ。」
「当然、外国人は対象外ですね。ヨベルでも外国人の奴隷は解放されないようです」
「神様はイスラエル人だけ、えこひいきすると、旧約では決まっている。」

「3節に、“奴隷が望みを絶たれ,いつまでも奴隷のままでいる,ということはありませんでした。エホバは本当に思いやり深い方です。”とあるけれど、これは皮肉でいっているんですよね?」
「本当に思いやり深いなら、奴隷制度をなくしたよ。その程度のこともわからないのかな?聖書は奴隷制度の存続を当然視していて、廃止すべきものという発想はないね。少しも思いやり深くない。」

「5節に、“クリスチャンはモーセの律法の下にはいません。ヨベルの制度に従って奴隷を解放し,負債を免除し,相続地を返す,ということはありません。”とあります。ヨベルが負債を免除すると誤解していますね。」
「ヨベルの年に借金が帳消しになるなら、誰も貸さないか、ヨベルの年の前の年までに全額返すよう契約をするだけ。借金は返すのがあたりまえで、返さなくてよい経済システムは存在しない。この記事の執筆者は経済というものを全く分かっていない。」

「6から8節が、“イエスは釈放を知らせた”で、イエスのことをイザヤ61:1で預言されていた人と言っています。」
「イザヤ61:1は、“エホバが私を選び,温厚な人に良い知らせを告げるようにさせたからである。私は神から遣わされて,心が傷ついた人を癒やし,捕らわれている人に釈放を,囚人に目が大きく開かれることを知らせる。”とある。この“私”がイエスというわけだ。」
「8節にある通り、ルカ4章によると、イエスはナザレの会堂でこのイザヤの部分を朗読します。ルカ4:21で、“皆さんがいま聞いたこの聖句は,今日実現しています。”といいます。イエスはイザヤ61:1の“私”は自分のことだと言っているわけですね。」
「歴史上のイエスはそんなことは言わないと思うね。後の創作だろう。元のイザヤ61:1の“私”は、普通に解釈すればイザヤその人のことを言っている。それが後にメシア的人物のことを指すとされるようになり、初期のイエスの弟子たちが、それはイエスのことだと信じたということ。」

「9から12節が、“自由になる最初の人たち”です。」
「12節の“西暦33年のペンテコステの日に,エホバは使徒をはじめとする忠実な人々を聖なる力によって選び,天に行く希望を与えました。”また、“象徴的なヨベル は,西暦33年にエホバがキリストの弟子たちを聖なる力で選ぶことによって始まりました。そして,キリストの1000年統治が終わる時に終わります。”と続く。これが一番言いたいことでしょう。テストに出るかもしれないから、JWはしっかり暗記しよう。」
「JW独自の教義です。でも、根拠となる聖句がローマ8:2、15-17なのです。根拠となりませんよね。そこでは日付に関して何も言っていません。」
「ローマ8:2には“キリスト・イエスと結び付いた命を与える,聖なる力の律法が,あなたを罪と死の律法から自由にしたからです。”としか書いていない。」

「それから、イエスが死んだのは西暦33年じゃなくて30年ですよね。」
「インチキ年代はJWの特徴だけど、これもダニエル書の一節に基づいた年代計算があって、33年に死んだことにする必要があるからなんだね。JWだけの年代。」
「インチキ年代計算に合わせて歴史をねつ造する。JWの手法です。それで信者はJW以外の本を読むことを禁止されます。」

「13から最後が、“さらに多くの人が自由になる”で、16節に、地上組、別名大群衆あるいは他の羊、はキリストの1000年統治の時に、“最終的に罪から自由にされ,完全になります。”とあります。」
「人間が完全になるのに最大1000年かかるという教義なんだ。聖書的根拠はないね。1000年の間に、少しずつDNAが変化するのかな?それとも神経細胞が変化するのかな?」

「14節は、“地上で生きる希望を持つ人”の話なのですが、彼らは“聖書に反する教えからも自由にされています。イエスは,「真理を知り,真理によって自由になります」と言いました。(ヨハ 8:32)そのような自由を持てるのは,本当にうれしいことです。”とあります。ここって、笑うところですよね?」
「この聖句は、コロコロ変わる根拠の乏しい教義を真理として教えられているJWには当てはまらないね。“聖書に反する教え”に従って、輸血を拒否して無駄に死んだり、排斥された家族を無視・非難し精神的に虐待したり、児童を性的に虐待している信者を二人の証人ルールを盾に隠蔽したりしているのが、JWだからね。」
「JWの教義を知り、その教義によって不自由になりました、というのが実情です。」
「JWの教義はイエスの言う真理じゃないということだね。」

「17節で、イザヤ65:21-23を読みます。“人々は家を建てて住み,ブドウ園を造って実を食べる”という聖句です。挿絵にもなっていますね。」
「楽園の図は相変わらずだね。北朝鮮の宣伝画を思い出すね。このような世界は古代イスラエル人にとっては理想郷かもしれないけれど、現代人なら1週間で嫌になる。まず、この楽園には電気はない。電線が地下に埋まっていないかぎりね。現代人なら、全ての電化製品が使えない世界は耐えられないだろう。」
「当然、洗濯機が使えないので、衣服は手で洗うわけですね。P&Gの洗剤はあるのかな?」
「楽園ではみな裸で暮らすんじゃないの?洗濯なんか不要だよ。」
「それでもシャンプーは必要です。」

「17節に、楽園は“暇な時ではありません。”とあるけれど、そうだと思うね。電気も機械もないので、農業や工業の生産性は極めて低い。長時間労働をしない限り、最低限の食料も日用品も不足する。今の北朝鮮と同じだ。」
「JWと北朝鮮は相性がよさそうです。」

#1129 2020年02月16日 08:20:18

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さんいつも興味深い書き込みありがとうございます 自分はヨベルは実際にあったのだと思っていました でもネット見ますと実際に行われた記録はないとのことでした 確かにちょっと考えてみるとそのようなことが実際あるなら最初に制定された土地制度や文化が永遠に初期のまま繰り返されることになりそのようなことはありえませんね cry


あと
>「インチキ年代はJWの特徴だけど、これもダニエル書の一節に基づいた年代計算があって、33年に死んだことにする必要があるからなんだね。JWだけの年代。」

の赤線の部分のところが良くわからないので知っていることありましたらまた解説お願いします

イエスの死んだ年については ウキを見ますと以下のように西暦30年ころとなっていました

1世紀前半の30年頃に、当時のユダヤ教のあり方を批判し人々に神の教えを説くなどしていたユダヤ人イエスが処刑されたというのは恐らくは[要出典]史実であろう。

ただあと西暦33年という説もあるようで 決着はついてないようです

キリストの死亡日については実は確定的なことがわかっていませんが、新約聖書の記述を見る限り、過越しの祭りの準備の日だということがわかっています。これは、春分の日の翌日で、しかも満月の日に設定されており、曜日を考えると、二つの可能性があります。一つが、No1の方の挙げた、AD30年、4月7日。もう一つがAD33年4月3日です。この二つで決着はついていませんが、現在、どちらかというとAD33年の説が優勢になりつつあるようです。というのは、ルカによる福音書には、キリストが処刑された日の、昼から3時ごろまで全地が暗くなったという記述があります。これが、地中海地方全体にみられた実在の天文現象であることが、古代文献の記述からわかってきたからです。これが起こったのがAD33年なのです。
また、蛇足ですが、ダニエル書の預言を正確に計算すると、キリストはAD32年以後も生きていることが暗示されるので、この点からもAD33年説が整合性があります。(もっとも、ダニエル書の件は、預言の神秘性を信じない人にはただのオカルトです。)
ただ、AD33年説をとると、キリストの死亡年齢や、宣教期間が、伝えられた期間より長くなってしまうので、そこの部分の整合性はわかっていません。いずれにせよ、決着はついていないというのが現状です


追伸
すみません イエスの死んだ年が西暦33年でないとものみの塔にとって都合悪いの意味がわかりました cry

地上の楽園で永遠に生きるの138ページ見ますと

*** 楽 16章 138ページ 13節 神の政府は支配を始める ***
しかし,『メシアが地上に現われたその年は聖書のどこに予告されていたのか』と尋ねる人があるかもしれません。聖書のダニエル書には,「エルサレムを修復して建て直せという言葉が発せられてから指導者であるメシアまでに,七週,そしてさらに六十二週」,すなわち合計69週あると述べられています。(ダニエル 9:25)しかし文字通りの69週ではありません。文字通りの69週はわずか483日,つまり1年と少しにしかなりません。これらの週は69週年,すなわち483年です。(民数記 14:34と比較)エルサレムの城壁を修復して建て直せとの命令は西暦前455年に出されました。 (ネヘミヤ 2:1‐8)それでこの69週年は483年後,つまり西暦29年に終わりました。そしてイエスがヨハネの所に来てバプテスマをお受けになったのがちょうどこの年です。その時イエスは聖霊で油そそがれ,メシア,すなわちキリストとなられました。

それでものみの塔のダニエル書の予言の解説ではイエスがバプテスマを受けて宣教を開始したのが西暦29年ですからそれから3年半活動して殺されたわけですので死んだ年は西暦33年でないと都合悪いわけですね

でも協会の70週の予言解説は土台となる王アルタクセルクセスの第二十年がすでにまちがってますので意味はないのですが

編集者 てつてつ (2020年02月16日 12:03:11)

オフライン

#1130 2020年02月21日 16:40:47

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。新型肺炎感染の危険があっても集会は休むことはないようです。次回のものみの塔は、“エホバをどれほどよく知っていますか(51)”で、JWの2世、3世を対象に、モーセ、ダビデの例を出しながら、いつものように集会、伝道、祈りに励めという内容です。」
「親から奇妙な宗教を押し付けられて、子どもゆえに拒否できず、いろんな事情で大人になってもJWにとどまっているという特殊な人がこの記事の対象なの?」
「そうです。1節は、“あなたの親はエホバの証人ですか。”で始まります。こういう人が対象ですね。」
「この記事では、“何を学べますか”で始まる節が、6、10,13,17,19,21と6つある。それがこの記事の言いたいことだ。わかりやすいけれど、ますます幼稚化しているという印象だね。」

「2節にアンヘリートという人が、“エホバへの奉仕をしていたのは,ただ家族と一緒に行動したかったからです”と言っています。」
「嘘だろう。奉仕活動をしないと、親から、鞭でたたかれる、サタンの子と暴言を浴びせられる、食事も与えられず、無視されるからじゃないの。」
「その後、“天の父エホバと親しくなるには,自分でエホバを知るよう努力しないといけないことが分かりました。”と優等生的な発言をしています。JWの子どもとして生きていくためには、本音を隠し、いい子ぶらなくてはならないことに気づいたのですね。」
「“知ること”を重視するのは、あまり聖書的じゃない。知性を重視するのはギリシャ的な伝統。JWの大好きな旧訳聖書は知識ではなく服従することが重視されている。決まりを守れ、命令されたことに従え、これが主要なメッセージ。JWの普段言っていることだ。」

「5から14節が、“「目に見えない方」を見ていた人”で、モーセの教訓話です。」
「5節に、“モーセは約40歳の時,「ファラオの娘の子」として知られる代わりに,エホバ神に仕えるヘブライ人として歩むことを選びました。”とあるのは不正確だね。」
「出エジプト2章では、モーセはヘブライ人を虐待していたエジプト人を殺害し、そのことがファラオの知るところとなり、ファラオはモーセを殺そうとしたので、ミディアンに逃げた、とあります。そこで羊飼いとして妻を得、子どもをもうけて、それなりに幸せに暮らしていたようです。」
「それなのに、なんと80歳の時に無理矢理召命された。40歳の時は、エジプトから逃げただけ。」

「6節の“何を学べますか”では、“集会に行くかどうかを自分で選ばなければなりません。”で、モーセとは無関係ですが、集会に来いということみたいです。」
「7と8節で、モーセは神様の思いやり、辛抱、謙遜さを見たとある。でも、逆の面も見たことは何も語らず沈黙だ。」
「例えば、出エジプト記の神様は不公平ですよね。30:13、15で、“登録された人は全員,聖なる標準重りで銀5.7グラムを納める。(略)自分の命のための贖罪としてエホバへの寄進をする時,裕福な人も5.7グラムより多く納めるべきではなく,貧しい人もそれより少なく納めるべきではない。”とモーセに行っています。金持ちも貧乏人も同じ銀の量というのは金持ち優遇です。それでJWも金持ち優遇なんですね。」
「出エジプト34:7に、“罪がある人を処罰しないことは決してなく,父の過ちに対する処罰を子や孫やひ孫に及ぼす。”とある。これも滅茶苦茶不公平。ある人の罪の処罰をなぜその人の子孫にまで行うの?」

「10節の“何を学べますか”では、“エホバの望むことを行う1つの方法は,エホバについて人に教えることです。”とあります。聖書レッスンのことみたいです。11節によると、聖書レッスンから、エホバの思いやり、力、辛抱を学べるようです。」
「聖書レッスンというのは、JWの出版物を学ぶことで、聖書を学ぶことじゃない。一方的にJWの教義を押し付けられるだけでしょう。」
「11節で、“正しい心を持つ人に会えるようエホバが導いてくださる時,人々に対するエホバの思いやりを感じます。”とあります。それなら、そういう人にずっと会えない人は、エホバの思いやりのなさを感じます、と言っていいのでしょうか?10年伝道しても、研究生ゼロの人なんか普通にいますよ。」
「それよりも、“人々がエホバについて知って救われるための機会がまだ開かれているのは,エホバの辛抱の証拠です。(ロマ 10:13-15)”の方が面白い。終わりの日がいつまでも来ないのは、エホバの辛抱のせいなんだ。」
「JWからすれば、エホバは辛抱しすぎですね。」

「12節に“モーセはエホバに,あなたのことをもっと知りたいと,敬意を込めて願い求めました。(出エジプト 33:13を読む。)この言葉を語った時はすでに80代でしたが,愛情深い天の父についてまだ多くのことを学びたいと思ったのです。”とあるけれど、文脈を無視し、おかしいね。」
「どんな文脈かというと、33:3で、エホバは、“非常に肥沃な土地に行きなさい。とはいえ私はあなたたちと共には行かない。強情な民だからであり,私が途中であなたたちを根絶やしにすることのないためである。”と言います。神に見捨てられた、と人々は嘆き悲しみます。そこで、モーセは気の短い乱暴な神様に辛抱強く冷静に交渉します。その時の発言が33:13で、“どうか,あなたの道を私に知らせてください。私があなたを知り,あなたの好意を得続けるためです。この国民があなたの民であることもご考慮ください。”なわけです。」
「旧約の神様は“愛情深い天の父”じゃないよ。ここでも、お前たちと一緒にいると、ついついお前たちを皆殺しにしかねないから、一緒に行かないと物騒なことをいっている。極めて危険な神様だから、機嫌を損ねないように、よく知る必要があるだけ。」
「13節で、“何を学べますか。”と問いかけ、“エホバとの友情を大切にしているなら,祈りによってエホバに語り掛けるはずです。”と続きます。モーセの話とは関連ありませんね。」
「モーセって祈ったことあった?大抵は神様と直接会話しているよ。」

「15から21節が、“エホバの心にかなう人”でダビデの話ですが、主にダビデが作ったことになっている詩編からの引用です。」
「“ダビデの歌”という表題がついている詩が結構あるけれど、これは編集の時につけられたもので、ダビデが作者という証拠にはならない。」
「サムエル一16章では、ダビデは琴の名手とされ、サムエル二1章では、ダビデはサウルとヨナタンのために哀歌を歌い、サムエル二22章では、感謝の歌を歌い、サムエル二23章のダビデ最後の言葉は、詩の形式となっています。それで、詩人ダビデのイメージが定着し、多くの詩がダビデ作ということになったんですね。」
「また、表題は後から付けたので、詩の内容と一致しないのも結構ある。例えば、詩編52篇。」
「表題は“エドム人ドエグが来て,サウルに,ダビデがアヒメレクの家に来たと言った時”ですね。」
「これはサムエル一21,22章に書かれている出来事をさす。逃亡中のダビデを祭司アヒメレクが助けたことを、ドエグがサウル王に告げて、怒ったサウル王は祭司たちの虐殺を命じたという話しだけど、詩編52編では、“この人は神を自分の避難所としなかった。自分の豊かな富を当てにした”と信仰心のない金持ちを非難した内容になっている。表題はかなりいい加減なことがわかる。」

「16節で取り上げられているのは、詩編19と139です。17節で、“何を学べますか。エホバが造ったものに興味を持ちましょう。”と続きます。そして、ローマ1:20の“神の見えない性質は,世界の創造以来明らかです。造られた物を見れば・・・”という話しになります。使い古された決まりきったパターンですね。」
「自然界を見ると、神をたたえたくなるかな?自然は残酷で恐ろしいものだろう。例えば、地球の構造上、地震や火山の噴火は避けられない。なんでこんなふうに地球に作ったの?」
「地球型惑星は、金属の核の外側に分厚いマントルがあり、その外側に薄い地殻があるという構造です。高熱のため、マントル内では対流が生じ、それにともない地殻も動き、地震が生じます。動いた地殻の隙間からマントル由来のマグマが上昇し、噴火となります。この構造が変わらない限り、地震や噴火、津波は避けられません。」
「楽園が来たら、地震も火山の噴火もなくなるとJWは信じているんだよね。そうなると、マントルの対流を神が止めるということ?物理法則を変えるわけだ。」

「18節は、詩編18と138を取り上げています。そして、19節で、“何を学べますか。エホバに助けを求めて祈るだけでは十分ではありません。その時々に,エホバがどのように助けてくださっているかに気付くよう努めなければなりません。”と続きます。」
「詩編18は、サムエル二22章の詩とほぼ同じもの。そして、それはサムエル一2章のハンナの詩とほぼ同じもの。そのハンナの詩を基にしたのがルカ1章のマリアの詩。」
「似たような詩が何度も使われるというのはどういうことなのでしょうか?」
「もとになる詩があって、当時広く知られていた。それを詩篇とサムエル記の編集者が自分の作品の中に多少改変して取り入れたということだろうね。福音書のマリアの詩は、旧約を参考にして書かれたということ。」

「19節で、アイザックが、“聖書を学び始めた時から今までずっと,エホバが助けてくださったことがよく分かります。エホバは私を本当に助けてくださいます。”と言っています。この種の発言をどのように理解したらよいのでしょうか?エホバがある人物の人生に何度も介入することなどありえないと思うのですが。エホバは病気の人を治しませんし、事故にあった人を奇跡的に救うわけでもありません。」
「JWの公式教義ではそうなるかもね。だから、ある個人の発言として、神様が信者を直接助けてくれるという幻想をあおっているわけだ。」
「でも、自分の人生に生じたことを神の恵みと解釈して、感謝して受け取るのは、事実じゃないかもしれないけれど、いいことじゃないですか?」
「そうだけど、それはそのような解釈の枠組みを自分が選択したというだけで、それを普遍的な真理として主張すべきものではないし、ましてや他人に押し付けるものではない。」

「20節で、“エホバの性格のさまざまな面をよく学ぶなら,エホバにもっと倣えるようになります。”とおなじみの決まり文句です。」
「それに対する反応も決まりきったもので、旧約の神様は史上最悪のキャラクターだ、というもの。旧約聖書が血なまぐさいのは、神様のせい。怒りっぽくて、短気で、寛容さに欠け、不公平で、人殺しを何とも思っていない。そういう性格」

「22、23節は、“エホバをもっとよく知る”で、これで終わりです。」
「23節で、“エホバをよく知ること以上に大切なのは,エホバを知ってどうするかです。”とあって、6枚の写真で説明している。」
「気になるのは⑤の写真です。“勇気を示し,エホバについて知っていることを話す。”と説明があります。小学生の女の子が学校で先生に証言しているところのようです。」
「JWの子どもはこんな記事を真に受けたらだめだよ。子どもの幸せなど考えたことのないアホな大人のたわごとと思って、無視すればいい。どれだけ子どもにつらい思いをさせるつもりなんだろう。」

#1131 2020年02月28日 16:41:46

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方にマスクをした近所のJW少年が消毒薬をもってやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“親の皆さん,エホバを愛するようお子さんを教えましょう(52)”で、子どもは作るな、もしできたら、子どもをしっかり管理統制し、必ずJWにならせろ、という内容です。」
「英文では、教えるじゃなくてtrain(訓練する)だよ。JWの子ども観がうかがえるね。JWは子どもを作るなという方針には大賛成だね。JWの子どもというだけで、普通の人の10倍くらい不幸だから。」

「3から8節が、“夫婦の決定を尊重する”です。貧乏なJWが子どもを産んで育てるのは大変だ、それでも産むつもりなの、と産まないように誘導する内容です。」
「3節に、“ある文化圏では,結婚したらできるだけ早く子育てを始めることが期待されます。”とある。どうもアジアの国を言っているようだ。」
「旧約聖書では、子どもがいないことは不幸であり、子どもがたくさんいることは幸福と決まっているのですが、その思想はJWにはありませんね。」
「旧約聖書大好きのJWも、終わりがせまっているので子どもは余計なお荷物という終末論カルトの思想を優先しているわけだ。子どもがいなければ、遺産を組織に寄付してくれる可能性もあるしね。」

「5節に、“多くの場合,子供を持つかどうかは結婚する前に話し合うと良い事柄です。”とあります。そして、お決まりのノアの息子の例が6節に出ています。“この3組の夫婦は,結婚してすぐに子供を持つことはしませんでした。”とあります。」
「ということは、ノアの息子たちは避妊法を知っていて、それを実践していたということかな?創世記5:32によると、ノアは500歳になってから子どもが生まれた。創世記7:11によると洪水が起きたのはノア600歳の時。つまり、洪水の時、ノアの子どもたちは100歳未満。創世記の世界では、子どもがいなくても何も不思議じゃない年齢だ。」
「創世記5章を見ると、セツが生まれたのはアダム130歳、エノシュが生まれたのはセツ105歳、ケナンが生まれたのはエノシュ90歳などなど。ノアはレメク182歳の時に生まれています。100歳未満で子どもが生まれるのはまれです。」
「この記事にあるように、ノアの息子たちが意図的に子供を持たなかったなどとは聖書のどこにも書いていないし、避妊法を知っていたとも思えない。洪水の話は、子づくりの参考なんかにならないよ。」

「7節に、“子供を持つか,また何人にするかを決める とき,「費用を計算」するのは賢明なことです。(ルカ 14:28,29を読む。)”とある。このルカ14:28には、“例えば,塔を建てようと思う場合,まず座って費用を計算し,完成させるだけのものを持っているかどうかを確かめるのではないでしょうか。”とあるけれど、これは子育てと関係あるの?」
「ここは弟子となることについての話しなので、関係ありません。普通は、弟子になる前にそのコストを計算しろという意味と解釈されています。」
「その解釈だと、この話の結論であるルカ14:33の“同じように,持ち物全てに別れを告げない人は誰も私の弟子になることができません。”と一致しないよ。」
「それじゃ、どういう意味なんですか?」
「この話は、直前の“自分の苦しみの杭を運びながら私に付いてくる人でなければ,私の弟子になることはできません。”を説明する例えのひとつだけれど、そもそも、その説明になっていないよ。ルカが不適切なたとえを挿入してしまったと思うね。」
「塔の建設の例えの後に、戦争の例えが続きます。イエスらしくない例えです。」
「ここは、すっきりとした解釈が難しいね。」

「8節で、 “短期間に何人も子供が生まれるなら,それぞれの子供を構ってあげるのが難しくなるものです。”とあり、次から次へと子どもを産むなと言っています。」
「子沢山がイケナイ本当の理由は、“このような状態で,聖書を学び,祈り,伝道に出るという習慣が崩れてしまわないでしょうか。集会で集中して学ぶことも難しくなるでしょう。”ということだね。こどもは伝道や集会の邪魔になるからダメということ。」
「“邪魔”というのは仏教用語ですね。」
「修行の邪魔をする悪魔という意味だ。子どもは“邪魔”というのがJW。」

「9から20節が、“エホバを愛するよう子供を教える”です。子どもは本当はいらないけれど、すでにいる人はJW流の洗脳教育をせよということです。」
「10節に、“マノアと,マノアの妻の手本について考えましょう。サムソンを育てた夫婦です。”とある。この夫婦は手本なの?」
「“どのように育てたらよいか,エホバにアドバイスを求めました。”とあります。これが手本にすべき点です。」
「裁き人13章にマノアとその妻のことがでているけれど、マノアは愚か者で、この夫婦はあまり仲が良くないという設定だよ。」
「天使ははじめ妻に現れます、妻はそのことを夫のマノアに話します。マノアは妻の話を信じられなかったようで、13:8で、エホバに“先ほどの真の神に仕える人をもう一度遣わしてください。生まれてくる子をどう育てたらよいかを教えていただきたいのです。”と祈ります。」
「ところが、天使はマノアではなく妻の所に現れる。マノアを無視している。それでも妻はマノアを呼んでくるわけだけど、13:13で、天使がマノアに言ったことは、 “あなたの妻は,私が伝えた物を全て避けるべきです。”で、すでに妻に行ったことの一部を伝えただけ。天使はマノアを嫌っているようだね。」
「マノアはその人が天使だとわかったのは、天使が天に昇ったあとです。間抜けですね。妻は初めから知っています。その後、マノアは、13:22で“私たちは神を見てしまった。きっと死んでしまう。”と騒いで、妻にたしなめられます。バカですね。」
「この夫婦は模範的な夫婦ではない。夫は妻のことを信じていないし、妻は表立って夫に反抗はしないけれど、知っていることをわざと黙っていることで夫を無視している。」

「12節がマリアとヨセフの話です。ルカ2:41の“イエスの両親は,過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに毎年行くことにしていた。”ということで、ヨセフは模範的な人物になっています。」
「でも、ルカ2:43,44で、“祭りの期間が終わって帰途に就いた時,少年イエスはエルサレムに残っていたが,両親はそのことに気付かなかった。 一緒に旅行している人たちの中にいるものと思い,1日の道のりを行って,それから親族や知人の間を捜し始めた。”とある。なんと少年イエスをエルサレムに置いてきてしまった!!しかもそれに気づいたのが1日かかっている。どう見ても模範的な親と言えないよ。」
「12節の“マリアは聖書をよく知っていました。言葉と行動により,神の言葉を愛するよう子供を教えたに違いありません。”は単なる推測ですね。」
「推測を事実であるかのように語るのが嘘の始まりだ。」

「14節から突然、“子供がソーシャルメディアや携帯電話で誰とやりとりしているかということも知っている必要があります。”と話題が変わります。」
「子どもを外部の世界から遮断することが洗脳教育をする上での最優先ということだね。」
「本来なら、JWの中で同年代の友人を見つけさせ、人間関係をJWの中に限定するように誘導していくのが、JWとして望ましいのだと思います。でも、JWの中で友人なんか見つかりませんよ。若い人がそもそもいません。」
「いても、面白みのない、退屈な奴が多いでしょう。そうなるとJWの若者は、JW以外の友人を見つけて、JWから離れていくか、一人ぼっちの社会性のないJWになるかのどちらかということだね。」

「16節に、巡回監督を家に泊めたら子どもがよい影響を受けたという経験談が出ています。現実は、巡回監督を見て失望したという逆の経験談の方が多いと思います。」
「巡回監督を泊めたいという信者が減って困っているのかな?それで泊めたら子どもにいい影響があるよ、嫌わずに泊めてあげてね、とほのめかしているわけだ。」

「17節が、テモテの例を取り上げて、“早くから子供を教え始める。”ことを強調しています。幼いほど洗脳しやすいですからね。」
「19節に、“どうすれば神の言葉を子供に「しっかり教え[る]」ことができますか。繰り返し教え,心に銘記させることによってです。”とある。これがJWの教育方法ね。前近代的で、動物の訓練とそう変わらない。」
「この記事には何人かの体験談が出ていますが、体罰に触れたものはひとつもありません。JWの子育てと言えば、原始的で野蛮な体罰を誰もが思い出すのに、おかしいですよ。」
「そのことはJWの歴史から、消されたんだよ。JWが体罰を勧めたことは一度もありません、というのが公式の歴史になったんだよ。」

「20節で、詩編127:4の“若かりし時の子供は,強靱な人の手にある矢のようだ”を読みます。そして、“矢は素材も大きさもさまざまです。子供も,一人一人が異なっています。親は,それぞれの子供をどう教えたらよいかを見極めなければなりません。”と説明しています。もちろんこんな意味ではないですよね?」
「こじつけだね。矢は戦いで役に立つ武器。つまり自分を守ってくれるもの。子どもと訳されているけれど、文字通りでは息子。女の子は関心の外。“若かりし時の”と限定されているのは、自分が年を取った時には若かりしときの息子はりっぱな成人になっているということ。それで、この聖句の意味は、若い時にもうけた息子は、自分が年を取った時に、自分を敵から守ってくれるありがたい存在だ、というもの。JWの教えとは違うね。」

「最後の21,22節は、“エホバが助けてくださる”です。問題はその助け方で、21節に、“聖書,出版物,子育てを経験した会衆の兄弟姉妹の手本やアドバイスによって祈りに答えてくださいます。”とあります。直接助けることはないようですね。」
「組織を通して助けてくれる、となると、組織にどこまでも服従する必要があるわけだ。」
「22節に、“親の教えをどう受け止めるかは,子供によって異なるでしょう。それでも,エホバを愛する親に育てられて良かったと思っている兄弟姉妹は大勢います。”は納得いきません。統計を示してほしいです。JWの子どもたちが、成人後どれだけJWにとどまっているのか、教えてほしいです。」
「他の宗教に比べると、成人後も同じ宗教に留まる率はかなり低いでしょう。ある統計ではわずか三分の一だ。子どもだけでなく信者は私生活まで高度に管理統制され、犠牲を強いられるだけで、楽しいことも得なことはほとんどないからね。」
「JWの子どもに待っている未来は、すべての夢を捨て、高卒後、無給の宗教セールスマンとなることですからね。」

#1132 2020年03月06日 16:32:50

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に、マスクをした近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。新型肺炎で中止予定ですが、次回のものみの塔は、“行って,人々を弟子としなさい(1)”で、これは2020年度の年句ですが、聖書レッスンを受けているけれど、バプテスマを受けるのをためらっている人をどう扱うか、というのが主な内容です。」
「聖書レッスンからバプテスマを受ける人の割合が極めて低くなっているという現状があるね。今は終わりの終わりという緊急な時なんだから、バプテスマを受けそうにない人は、さっさとレッスンを打ち切れ、ということだよね。」

「1,2節で、イエスの死後の話が、マタイ28:17をもとに語られます。“神を畏れる女性たちは,(略)イエスの遺体に香料と香油を塗るつもりでしたが,墓に着くと,何と遺体はありませんでした。”と1節に書いてあります。これって史実性はどれくらいあるのでしょうか。」
「この女性は、マタイでは“マリア・マグダレネともう1人のマリア”だけど、マルコ16章では、“マリア・マグダレネ,ヤコブの母親マリア,サロメ”、ルカ24章では、“マリア・マグダレネ,ヨハンナ,ヤコブの母親マリア,また一緒にいたほかの女性たち”、ヨハネ20章では“マリア・マグダレネ”となっている。それから、女性たちが墓に来た時、石は入り口から動かしてあったのかというと、マタイでは天使がやって来て転がしたけれど、他の福音書では、すでに動かされていた。女性たちは直ちに弟子たちの所に報告しに行ったかというと、ヨハネではそうしているけれど、他の福音書ではそうしていない。女性たちは、墓であった人に何をすべきと言われたかというと、マタイとマルコでは、弟子たちにガリラヤに行ってイエスと会うことを告げなさいといわれるけれど、ルカでは、“彼がガリラヤにいた時に話したことを思い出しなさい。”と言われるだけ。ヨハネでは別のことを言われる。違いはもっとあるけれど、要するに福音書の記述はバラバラで信用できない。」
「聖書は神の言葉と信じる人は、何とかつじつまを合わせようと、書かれていないことをあれこれ推測して、書かれていないストーリーを作ってきたわけですね。」

「3から7節が、“誰に与えられた命令か”です。3節では、マタイ28:18、19が “行って,全ての国の人々を弟子としなさい。……私が命令した事柄全てを守るように教えなさい”と部分的に引用されます。」
「4節に、“イエスは自分に仕える人全員が伝道してほしいと思っています。伝道するようにという命令は,11人の忠実な使徒だけに与えられたのではありません。”とあるね。全ての信者に与えられた命令とJWは主張したいようだ。」
「当時の女性や奴隷が家から家へ伝道することはありませんよね。」
「エフェソス4:11に“そしてその方は,ある人を使徒,ある人を預言者,ある人を福音伝道者,ある人を牧者また教える人として与えました。”とあるように、伝道者になったのは信者のごく一部でしょう。」
「4,5節によると、そこには女性たちもいたはずだ、その女性たちにも命じている。それから、パウロが“「一度に500人以上の兄弟の前に現れました」。(コリ一 15:6)”と言っていますが、これはマタイ28章の出来事を指していると主張しています。」
「JW得意の推測にすぎない。その方が自分たちにとって都合がいいからね。」

「マタイ28:16,17では、“ところで,11人の弟子はガリラヤに向かい,イエスが会うために指定していた山に行った。  弟子たちはイエスを見ると,敬意を表したが,ある人たちは疑った。”とあります。そこには500人ではなく、少数しかいないように思えます。」
「ポイントは、“ある人たちは疑った。”の“ある人”とは誰か?言及されている11人以外の人なら、山に行った人は11人とその他の弟子ということになる。しかし、11人の中のある人は疑ったなら、そこには11人しかいなかったことになる。」
「協会共同訳は、“そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。”となっています。この訳だと、11人しかいなかったという解釈ですね。」
「ここで言及されているのは11人だけ。11人のあるものは疑ったと解釈するのが自然だね。それから、“ひれ伏す”とは崇拝行為のこと。JWの“敬意を表した”とは違う。」

「5節で、“第二に,復活したイエスはエルサレムの個人の家で,すでに11人の使徒と会っていました。もし,伝道し人々を弟子とするよう使徒だけに指示したかったのであれば,エルサレムで使徒に会った時にその指示を伝えたはずです。”とあって、JWとしては、11人はすでにイエスに会っているのだから、11人のある者が疑うのはおかしいと主張すると思います。」
「エルサレムで会っていたというのはルカの福音書の話。マタイでは、11人はガリラヤの山でイエスに初めて会うという設定になっている。福音書は独立して書かれたもので、それぞれ単独に解釈すべきもの。そうしないと矛盾だらけになる。他の福音書に書かれている話を持ち込むのは、聖書解釈の方法論としておかしい。結論としては、イエスが命令したのは11人の使徒と考えるのが、正しいと思うよ。」

「6節で、“人々を弟子とするようにというイエスの命令は,1世紀のクリスチャンだけに与えられたのではありません。なぜそういえますか。イエスは自分に仕える人に与えた指示の結びに,「私は体制の終結までいつの日もあなたたちと共にいるのです」と述べているからです。”と、現代のJWも終わりの日まで伝道せよ、という結論です。」
「こじつけだね。“あなたたちと共にいる”と言っているだけで、 家から家へ伝道せよ、なんて言っていないよ。“私は体制の終結までいつの日もあなたたちと共にいるのです”という発言は、文学的な技巧の産物なんだ。マタイ1:23に、“「処女が妊娠して男の子を産み,その子はインマヌエルと名付けられる」。この名は訳せば,「私たちと共に神がいる」という意味である。”とある。」
「つまり、マタイの福音書は、インヌマエルで始まりインヌマエルで終わるという構想の下に書かれているわけですね。」
「それで、イエスは最後に、事実上の神となり、弟子たちに神であるイエスは共にいるよ、と言う必要がマタイの福音書の構成上あった。こうやってマタイの福音書は美しく終わる。福音書は、イエスに起きた出来事をただ書いていったわけではない。」

「6節には、“現在,人々を弟子とする活動は大々的に行われています。毎年30万人近くがエホバの証人としてバプテスマを受け,イエス・キリストの弟子になっているのです。”とありますが、不都合なことは隠していますね。」
「現在、JWの年間増加数は10万人程度。ということは30万人がバプテスマを受けて、20万人がJWを辞めているということ。しかも、バプテスマを受ける人のかなりの部分はJWの子どもじゃないかな。弟子とする活動はあまりうまくいっていないね。」

「8から13節は、“どうすれば心を動かせるか”です。まず、8節では、“聖書を教える時は,エホバがその人のことを深く気遣い,深く愛している,ということに気付くよう助けましょう。”とあります。」
「でも、その愛は条件付きだということも教えないとね。」
「9節で、“聖書が教えていること”と“自分を神の愛のうちに保ちなさい”の本で教えなさい、とあります。11,12節は祈りの重要性を教えなさいとあります。」
「12節で、“ある程度の期間,聖書を学んできた人が,異教に由来する祝いに心が引かれているという状況を考えてみましょう。”とある。これはクリスマスや誕生日を祝うことを禁じるJWの指示に抵抗を示す人が結構いるということだね。」
「誕生日はいけないというのは、ケチな組織の考えにすぎませんよ。」
「組織の命令を、神の命令と誤認させるのがJW教育の特徴だね。」

「13節で集会の重要性を教えなさい、といっています。“可能なら,車で迎えに行くことを申し出てください。”とあります。」
「車で王国会館に連れていかれる研究生にふさわしい音楽は、ドナドナだね。」
「ある晴れた 昼下がり 王国会館へ続く道、という歌ですね。ドナ(Donna)はアドナイ(主)の短縮形という説は間違いなんだそうですね。残念だな。」

「14から16節が、“進歩するよう助ける”です。いきなり14節で、“ふさわしい時に,王国の活動を金銭面でもサポートできることをためらわずに伝えてください。”と書いています。寄付は集めませんといいながら、こんなことを書いていいのですか。」
「お金に困っているんだよ。JWは建前と本音が大きく違うことをわかってもらうのにはいいことだよ。英文では、“the privilege of supporting the Kingdom work financially.”で、王国の活動を金銭面でもサポートする“特権”とあるよ。翻訳者はさすがに恥ずかしくてその言葉を削ったんだろうね。」
「15節は、“問題の対処の仕方を教える。”なのですが、会衆の誰かに傷つけられた場合が出ています。この場合は、“傷つけた人を許し,あった出来事を忘れることができるでしょうか。”とあります。被害者泣き寝入りが、JW流のトラブル解決法ですね。」
「被害者は一方的に許すことが求められるわけだ。児童の性的虐待も被害者がまず許すことが求められるわけね。こんな所へ子どもは連れていけないね。」
「16節で、“会衆の兄弟姉妹や巡回監督に聖書レッスンに同席してもらう。”とあります。これで進歩が促されるのだそうです。」
「こうやって“時間を入れる”という作業をするわけでしょう。」
「そのことは研究生には黙っています。」
「研究生は後で、そのからくりを知って驚くわけね。これもJWの建前と本音が大きく違うことの例だね。」

「17から20節が、“聖書レッスンを中止すべきか”で、この記事の最重要ポイントですね。」
「18節に中止を考慮する条件が出ている。“集会にまだ一度も行っていません。記念式にも出席していません。ささいな理由で,レッスンを頻繁にキャンセルします。”だ。」
「19節で、その人が“「聖書を学ぶのはいいけど,エホバの証人になるつもりはありません」と言うかもしれません。”といったら、中止することを勧めています。組織の一員になるつもりがなければ、聖書を学びたいという人でも見捨てるわけです。」
「そういう人は、本当は聖書を学びたいわけではなく、人間的な接触に飢えた孤独な人ということが多いんじゃないの?そういう人の話し相手になってあげることは、JWのインチキ教義を押し付けるより社会的意義があると思うけれど、宗教セールスマンのJWとしては、そういう人を見捨てるのは仕方がないよ。」
「そうはいっても、家から家の伝道活動をするより、たとえバプテスマにつながらなくても、お茶とお菓子つきのだらだらした聖書レッスンをする方を選ぶJWは多いですよ。」
「楽に時間が入るしね。」

「20節で、“進歩するつもりのない人とのレッスンを続けるよりも,「永遠の命を得るための正しい態度を持つ人」を探す必要があります。”と、まとめています。」
「無給で組織のために働き、さらに寄付までしてくれる人をリクルートするという宗教ビジネスの在り方としては正しい態度だね。」

#1133 2020年03月13日 16:27:58

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“あなたも兄弟姉妹の力になれます(2)”で、パウロを支えた3人、アリスタルト、テキコ、マルコを見倣って、他の兄弟姉妹を支えましょうという内容です。他の兄弟姉妹の支えが必要なほど、多くのJWの困難な状況に陥っているようです。」
「かなりマイナーな人だね。有名人は何回も使ったので、マイナーな人を取り上げようというわけかな?マイナーな人は、適当に話を膨らませて、教訓話をでっち上げるのに適しているよね。」
「頭の悪いJWは、それが単なる推測に過ぎないことを忘れて、真実と誤認します。」
「それが、根拠のない推測をだらだらと書く理由だろうね。」

「2節に、“「デマスは今の体制を愛して」パウロを見捨てたのです。(テモ二 4:10)”とあります。この“デマスは今の体制を愛して”という訳はへんですよ。」
「協会共同訳は“デマスはこの世を愛し”だけど、このように訳すべき。JWは知らないようだけど、これは初期の殉教者を表現するときの決まりきった言い方なの。殉教者について語る場合は、この世を愛することなく、死を恐れることなく・・・と続く。デマスは殉教の危険にさらされて、故郷に帰ってしまったという意味なの。」
「JWでは、デマスは遊び好きで、この世の楽しみのため、パウロを見捨てたという風に解釈していますね。」

「3節の“パウロは一緒に働いた兄弟たちが「とても力づけ,助けて」 くれた,と言っています。(コロ 4:11,脚注)”という部分は、非常におかしいね。」
「どうしてですか?コロサイ4:11では、“この人たちだけが神の王国のために私と共に働いており,私をとても慰めて*くれています。”とあって、脚注では、慰めるは、“または、「力づけ,助けて」”となっているのですが。」
「単語はたいてい複数の意味がある。翻訳する時、筆者がどの意味で使ったのかを推理して一つに決める。新世界訳では、“慰める”と決めたんだろう。それなら、それで一貫性を持たせるべき。都合がよければ、この単語はこういう意味もありますと、あたかもその意味で筆者が使ったかのようにいうのは欺瞞的だ。」
「JWに、その種の知的誠実さを求めるのは無理です。」
「JWにとって、聖書はJWの教義を権威づけるための道具に過ぎないからね。」

「4から6節が、“アリスタルコのように揺るぎない愛を示す”です。4節には、“アリスタルコが聖書に初めて登場するのは,パウロが第3回宣教旅行でエフェソスを訪れた時のことです。パウロと一緒にいたアリスタルコは,暴徒に捕まりました。(使徒 19:29)”とあります。」
「アリスタルコスはあと2回パウロの同行者として、使徒に出てくる。それ以上のことは不明だね。」
「5節では、格言17:17、“真の友はどんな時にも愛を示す。苦難の時に頼れる兄弟である”を読むとあります。」
「真の友はどんな時にも金を貸す、と書いていない点で、好感が持てる聖句だ。」

「6節に、“会衆のある夫婦が,私たちを病院に連れて行ってくれました。”という体験談が出ていますが、JWの場合、素直に感動できませんね。」
「自分たちはJWなので、輸血は死んでもしません、と医師に説明するかを確認するために同行したかもしれないからね。」
「困ったときに助けてくれる人はJW以外の方がたくさんいるんじゃないですか?」
「そうでしょうね。でも、JWはJW以外を敵視しているのでそういうことがわからない。」

「7から11節が“テキコのように信頼できる人になる”です。7節に“テキコはローマの属州アジア出身のクリスチャンで,揺るぎない愛を示し,パウロと共に行動しました。(使徒 20:4)”とあります。パウロの使者も務めていたようです。」
「使徒以外にテキコが出てくるのは、コロサイ、エフェソス、テモテ、テトスなんだけど、みな偽パウロ書簡。真正パウロ書簡には出てこない。テキコはパウロの同行者という以外は何とも言えない。」
「9節で、“テキコに倣い,信頼できる友になりましょう。”と呼びかけます。これはいいのですが、引用されているある姉妹の発言が、“助けを申し出てくれた人が約束の時間に来てくれるのか,心配しないで済むと,安心できます”というものです。JWらしい低レベルの話しですね。」
「口ではいいことを言うけれど、実行が伴わない。時間にいいかげんなのもJW的だね。JWの教育のせいで、社会常識が欠けている人が多いでしょう。」
「すぐに不完全だからと開き直るのもJWです。」
「“つまずいたって いいじゃないか 人間だもの みつを”というのをずーとやっているかんじだね。」

「10節は、カルロスの体験談が出ているのですが、“長老たちが話を口外しないことを知っていたので,安心して話せました。”とあります。これは、長老は聞いたことをしゃべるなという警告ですよ。」
「JWの長老は聖職者じゃないから、守秘義務もないのだろう。長老は聞いた話を自分の妻に話し、その妻は仲の良い姉妹に話し・・・という具合に、しゃべるのが普通のようだ。このおしゃべり体質には、統治体も頭を抱えているよ。組織の情報が洩れまくっているからね。」
「そのおしゃべり体質を考えると、11節のジャンナの話しも興味深いですね。“夫が家を出て行ってしまった時,親しい友人たちに話を聞いてもらえたことが力になりました。”とあります。これは親切心からじゃないですね。」
「夫に逃げられたジャンナの話を、JW同士の話のネタにするために、同情を示しながら、根掘り葉掘り詮索しただけじゃないの。夫に逃げられて気が動転していたジャンナは、それを親切心からと誤解していた。JWの妻から逃げた夫は偉いと思うけど。」

「12から16節が、“マルコのように進んで仕える”です。12節の“マルコは裕福な家庭で育ったようですが,生活の中でお金や物を重視しませんでした。”という文章を見たときは、寄付の話につなげるのかと思ったのですが、寄付の話は出てきませんでした。」
「でも、11節の下にある、挿絵や写真は食べ物や水などを差し入れているものだよ。露骨に要求していないけれど、信者はお金の他に物も差し出せというメッセージは明らかだね。」
「でも、マルコが物質的な援助をしていたなんてことは、聖書には書いていませんよ。」
「使徒12:12に“そう悟ったペテロは,マルコと呼ばれるヨハネの母親マリアの家に行った。そこでは,かなり大勢の人が集まって祈っていた。”とあるから、大勢の人が集まれる大きな家に住んでいたことがわかる。それで、裕福な家族という推測がなされている。」
「マルコはユダヤ名がヨハネなんですね。」
「マルコはラテン名つまりローマ人の名前だね。」
「なんでユダヤ人ヨハネがローマ人の名前で呼ばれているのですか?」
「それは謎だね。1世紀のユダヤ人がローマ名を名のることはまずなかった。なぜマルコがヨハネではなくマルコと呼ばれているかはわからない。」

「この記事では、マルコは忠実な弟子のように描かれていますが、パウロと仲たがいしたはずですよ。」
「使徒13:13に“次いでパウロの一行はパフォスから船に乗って,パンフリアのペルガに着いたが,ヨハネは2人から離れてエルサレムに帰った。”とある。このヨハネはマルコのこと。2人とはパウロといとこのバルナバ。パウロはマルコを任務放棄と見なしたようだ。」
「使徒15:37-40にある、“バルナバは,マルコと呼ばれるヨハネを連れていくことに決めていた。 しかしパウロは,パンフリアでマルコが一緒に行動するのをやめてしまったことがあるので,彼を連れていくことに賛成できなかった。そこで怒りが激しくぶつかって,2人は別れることになった。バルナバはマルコを連れて船でキプロスに向かった。パウロはシラスを選び,出発した。”という、けんか別れという事態になるわけですね。」
「パウロはマルコが嫌いなようだね。」
「このあと、マルコは消えてしまいます。マルコの名前が出てくるのは、フィレモン24の“私と共に働く仲間のマルコ,アリスタルコ,デマス,ルカもよろしくと言っています。”です。パウロはマルコを許したようですね。それ以外はコロサイとかペテロ一という偽名文書だけです。」

「12節には、マルコが“ある時は使徒パウロのために,別の時には使徒ペテロのために働き,”とあるけど、これは何とも言えないよ。」
「マルコがペテロのために働いていたという唯一の根拠は、ペテロ一5:13の“バビロンにいる,皆さんと同じように選ばれた女性が,よろしくと言っています。私が愛するマルコもそうしています。”ですね。ここでいうバビロンはローマのことですよね。」
「ここは一種の暗号と考えられている。バビロンはローマのことを指していると解釈されるけれど、“バビロンにいる,皆さんと同じように選ばれた女性”が何を指しているかは不明だ。でも、JWは文字通りバビロンと解釈しているようだね。」
「ペテロの手紙は偽名書簡ですよね。ペテロのふりをして誰かが書いたものです。歴史的価値はないということですね。」
「この聖句をもとに、マルコはペテロの通訳で、マルコの福音書を書いた人という言い伝えが生まれたようだ。」

「16節に、“1世紀に生きていたマルコは,多忙な毎日を送っていました。エホバへの奉仕に関連した重い責任を担っていて,福音書を書く必要もありました。”と見てきたようなことが書いてありますが、疑わしいということですね。」
「福音書は“○○による福音書”と書いてあるけれど、これは後世に付けられたもの。マルコの福音書の著者は、ユダヤ人ではないと思われる。使徒に出てくるマルコが著者ではないね。」

「17から19節が、“兄弟姉妹を力づける”で、これで終わりです。大いに力づけて欲しいです。」
「最後の19節に、“今の体制の終わりが近づくにつれ,世界の情勢は悪化し,生活はますます困難になるでしょう。(テモ二 3:13)しかも,受け継いだ罪や不完全さのために自分で問題を招いてしまうこともあります。”というのは、JWらしい無責任な文章だ。」
「JWが苦労するのは、終わりの時代で、人間が不完全さのため、という理屈ですね。JW自身の責任はどうした、といいたいですね。」
「JWの生活が困難なのは、JWという宗教のせいだよ。JWのせいで、低学歴低賃金の貧乏暮らしで、伝道・集会に時間を奪われ、お互い監視し合う、息が詰まる生活になっているんだよ。」
「その単純な事実から目をそらさせるためにあるのが、“今は終わりの時代だ”、と“不完全だもの 人間だから”という教義なんですよ。」

#1134 2020年03月14日 06:54:51

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん いつも興味深い書き込みありがとうございます

>「JWでは、デマスは遊び好きで、この世の楽しみのため、パウロを見捨てたという風に解釈していますね。」(テモ二 4:10)は自分もそうだと思っていました

ティンデル聖書注解見ますと

デマスはコロサイ4.14において、パウロの身近な同僚の一人として語られている。しかし、おそらくこの時点までに、パウロの要求はあまりに厳格すぎる、と思ってしまったのであろう。しかし、デマスが背教者となったと暗示するものは何もない

とありましたので別に棄教したというわけではないようですね  パウロにタダでこきつかわれて嫌になっただけなのかもしれませんね cry
どうもありがとうございました

編集者 てつてつ (2020年03月14日 14:59:44)

オフライン

#1135 2020年03月14日 07:31:24

フェニックス
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

初めましてですよ。

初めましてなのに、旧約(ヘブライ語)聖書の神について熱い意見交換が述べられていたのでつい書き込み。

あの例の神がどこで生まれた神、どこで生まれた信仰なのかということを考えれば、全ての答えは自ずと出ますよ。

もしも
慈愛が最高スキルな神だったら、エジプト脱出してカナンをとることはできませんよね。
日本の神々やバアルのように、豊作を得意とする神であったなら、やはりカナンを取れません。

戦の神、それも最強の戦の神でなければ、奴隷であったイスラエルは奴隷から抜け出せなかったでしょう。

砂漠に生きた人々の中で生まれた神だからこそ、万郡の神、強く冷酷で僅かな蜜の滴る地を奪い取ることが出来たのですね。

今でも世界見てみればわかるんですけど、あの神様って実は今でも戦には強いでしょ?

旧約の時代には愛や思いやりの神なんてむしろいても邪魔にしかならなかったでしょう。

エホバとしてだけでなく、聖書として見ての話ですけどね。


ところで実は聞きたいことがあって、てつてつさんのGoogle広告からこちらに伺ったのですが。
このエリアの中に、家族を輸血拒否で亡くされた方はいらっしゃいますか?
いたら是非お話を伺いたいのですが。
怪しいものではありません。同じ経験をしたことがある人と接触してみたいと思っただけなのです。
どなたかお仲間がいらっしゃいましたらお声かけ頂けたらと思います。

初めましてな故
ルール分からず失礼がありましたらお詫び申し上げます。

#1136 2020年03月14日 10:12:00

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

書き込みありがとうございます 自分はちょっと知らないです
あと自分は出エジプトはなかったと思います cry

編集者 てつてつ (2020年03月14日 10:18:42)

オフライン

#1137 2020年03月14日 11:01:33

モトシモベ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

>>フェニックスさん

モトシモベと申します。
わたしの方こそ、はじめましてなのでございます。

フェニックス さんの発言:

このエリアの中に、家族を輸血拒否で亡くされた方はいらっしゃいますか?
いたら是非お話を伺いたいのですが。
怪しいものではありません。同じ経験をしたことがある人と接触してみたいと思っただけなのです。
どなたかお仲間がいらっしゃいましたらお声かけ頂けたらと思います。

かなり前になりますが、大ちゃんの担任先生だった方から直接お話を伺ったことがあります。
誠実そうなご老人が、とても苦しそうな表情をされ「あれは辛い出来事でした」と言われました。

今さらエホバの方を悪く言うつもりはない。
ただ、もうエホバは結構。
そんな気持ちだ。

お話を要約するとこんな感じで、とても誠実に生徒さんと向きあっていたような印象の方でした。
だからこそ普通に治療すれば助かるはずだった命を、結果的には見殺しにしてしまった
そんな責任を重く受け止めているような、穏やかながらもきっぱりとした話し方が印象に残っています。

よほど悔しい思いをされたのだろうなぁ……と、わたしなりに感じたことを思い出しましたよ。
その後お話をする機会はありませんでしたが、今ならもう少し先生の気持ちに寄り添うことができたかもしれませんね。

でもフェニックスさんがお話を聞きたいのは、近しい方を輸血拒否でなくされた方とのお話でしたっけ。
あまり参考になりませんね。すみません。笑

#1138 2020年03月16日 07:24:41

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

フェニックスさん>このエリアの中に、家族を輸血拒否で亡くされた方はいらっしゃいますか?
いたら是非お話を伺いたいのですが。

以前にも紹介しましたが 元統治体の一員だったレイフランズさんの2冊目のキリスト者の自由の9章輸血に関する部分は一般に無料で公開されています


あと元証人だった大泉さんが取材して書いた大ちゃん事件の本「説得」なども参考になるかもしれませんね  サンプル

映画にもなったようです

カレブさんも記事として扱っています

編集者 てつてつ (2020年03月16日 07:56:48)

オフライン

#1139 2020年03月16日 10:26:07

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

みなさんに質問ですが 現役のころ学んだ小冊子では輸血の血液のヘモグロビンは24時間くらいは酸素を運ぶ能力がないので主に体内の液体量の拡張にしか役に立たず ならば輸液でも同じ効果がありなおかつ安全である みたいなことを学んだ覚えがあるのですが これは事実でしょうか?


エホバの証人と血の問52-3ページ
149 この件については,医学界においてさえまだ広く知られていないもう一つの面があります。

輸血によって血液の酸素運般能はすぐに強まるのでしょうか。

150 多くの人々はそう考えています。しかし,アネステージャ誌の最近の論説欄は次の意味深い一文を載せました。「保存され,クエン酸に浸された赤血球中のヘモグロビンは,輸血後約24時間たつまでは,体組織に酸素を運ぶことには十分に役立たない,という点も銘記しておくべきである。……したがって,急いで行なう輸血は,主として,初期段階における液量拡張にすぎないものとみなすべきである」。89 オハイオ州立大学の研究者たちは,保存血液内に生じる化学変化がその理由となっていることを知りました。その調査結果によると,10日以上保存された血液は,「輸血直後の酸素運搬には役立たず,むしろそれを悪化させることさえ」あります。また,それらの研究者たちは,24時間たった後でさえ酸素運搬能が普通以下であることを知りました。

編集者 てつてつ (2020年03月16日 10:41:43)

オフライン

#1140 2020年03月16日 10:37:44

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

階段から落ちて捻挫してお休み中です・・・骨折でなくて良かった。この時期病院に行きたくないのに・・・
薬局は一緒ですからね・・・

私もこんなのを見つけました。参考にどうぞ。赤血球とヘモグロビン、輸血に関する論文です。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jj … 2_103/_pdf

#1141 2020年03月16日 10:59:28

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

ガッツさんありがとうございます かなり専門的なので全部理解はできませんが大変参考になりました

参照された文見ますと

液状保存3週目の保存赤血球では, その輸血効率指標は, 新鮮血に比較すると約50%程度にまで低下しており, 輸血されたのち,その保存赤血球の酸素運搬能力が正常赤血球レベルまで回復するのには1週間近くかかる. したがって, 大量輸血を必要とする症例には, たとえ有効期限内の保存赤血球であっても, 長期保存赤血球の輸血は問題が多い.


赤血球保存の基本方法は1940年台に確立され,ほぽその当時の方法が今日まで用いられている1). 赤血球の保存期間は血小板に比較すると桁違いに長く, 不足している血小板成分に比して保存赤血球は供給過剰だといわれている. しかしながら, 保存赤血球の酸素運搬機能が高い, 高品質の赤血球については不足しており, 大量出血の危険が予想される手術例などでは, 病院独自で特別に新鮮血の準備をしているのが現状である. 大量輸血が必要な時に(すなわち, 真に輸血が必要な時に), 保存血小板や保存赤血球が利用できずに,新鮮血を準備する必要があるという事実は, 現行の保存血ではその機能低下が著しく, 本来, 輸血が必須である症例には保存血が使用できないという皮肉なことを意味している より有効な血液成分保存法の開発がのぞまれる由縁である.


新鮮血のTI=0.97に対し, 保存2週目のACD保存血のTI値は0.53であり, この保存血を輸血した場合, その輸血の効果は新鮮血の約55%(0.53/0.97)しか期待できないことを意味している. 次項で述べるように, 保存血の低下している2, 3-DPGは輸血後循環中に正常値まで回復する可能性はあるが, 完全回復までには少くとも数日間の時間を必要とする. その間はTI値は低いままであり, 大量出血が予想される手術例に新鮮血をあらかじめ準備するのも, もっともなことと思われる.


とありますので ものみの塔がいっている保存された血液は酸素運搬機能が低いというのは事実のようですね
新鮮血液ならかなり高くて役に立つようですが 証人的には完全アウトですね cry

編集者 てつてつ (2020年03月16日 11:13:27)

オフライン

#1142 2020年03月19日 14:20:27

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

水曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバはあなたを大切に思っています(3)”で、病気、貧困、老齢で苦しんでいても、組織のために働け、という内容です。」
「エホバの民は幸福な民ですというインチキ宣伝をやめて、現実の問題に目を向けていることはいいことだね。」
「どんな人でも病気、貧困、老齢で苦しむ可能性はありますが、JWの方がその可能性は高いですよ。」
「JWは低学歴低収入が多いし、伝道・集会とJWならではの負担もある。JWゆえに、社会的に孤立し、奇妙な教義を吹き込まれ、恐怖心や罪悪感におびえることもある。これらは病気、貧困、老齢で苦しむ原因となるもの。そんなJWに対して、どんなアドバイスをしているのかな?一日もはやくJWをやめましょう、が最高のアドバイスと思うけどね。」

「3節に、“世界には,人を軽視するサタンの見方が浸透しています。サタンは,人間を価値のない存在であるかのように扱ってきました。”とあります。」
「何の根拠も示されていない。執筆者の妄想だ。でも、組織には、信者を軽視する見方が浸透していて、信者を価値のない存在であるかのように扱ってきました、とは言えるよね。」
「3節には“サタンはいつの時代も世界の商業,政治,宗教を操ってきました。ですから,多くのビジネスマンや政治家や宗教指導者が人間の命や尊厳を軽視しているのも不思議ではありません。”とあるのですが、こういうカルト丸出しの敵意に満ちた主張こそ、大いにやって欲しいです。これがJWの本質ですから。」
「昔は予防接種や臓器移植に反対し、今も輸血に反対し、無駄に信者を殺してきたJWの方が“人間の命や尊厳を軽視”しているだろう。信者をこき使うだけで、信者の福祉には無関心、まもなく楽園が来てすべてを解決するとだましてきたのは、サタンと同じだよね。」

「今回の新型肺炎については、集会の中止など、多少は信者の生命や健康に配慮していますよ。」
「各国の政府が外出を控えろと言っているからでしょう。それにJWが集団感染したら、JWのたださえ低い評価がさらに低くなって、伝道活動なんて行えなくなるよ。」
「一部の頭の悪いJWがこれは過去になかったことだ、終わりの日のしるしだと騒いでいるのには、嫌になります。」
「大いに終わりの日だと騒いでほしいね。騒げば騒ぐほど、何も起こらなかった時の落胆が大きい。それをきっかけにJWをやめる人が出るかもよ。」

「5から8節が、“エホバは私たちを大切に思っている”で、エホバは何もしてくれないけれど人間のことを気にしているみたいだよ、ということが書いています。」
「聖句をあちこちから引っ張ってきて作文しているけれど、論理性も、説得力もない。特に気になるのは7節の“エホバは時間をかけて私たちを教えてくださっています。”という文。」
「この文の本当の主語はエホバじゃなくて、統治体ですよね。エホバは教育活動をしていないようですから。」
「エホバ=統治体と本気で思っているんじゃないのかな。」

「9から12節が“病気になるとき”で、病気の人に対するアドバイスです。聖書を読めば、心が晴れるそうです。アドバイスはそれだけですね。」
「具体的にどこを読めばいいか書いていないのがずるいね。」
「12節には、“エホバがあなたのために聖書に収めた良い言葉を見つけてください。”とありますから、自分で探せ、ということじゃないですか?」
「11節に、ホルヘの体験談が出ている。この人は進行の早いガンになったようだ。“じっくり集中することができなかったため,『詩編』を数節だけ読むことを勧められました。(略) その数節を毎日読むと,だんだん力が湧いてきました。”とあるけれど、詩篇のどこかは書かれていない。具体的に書いてほしいね。」
「具体的に書くと、その部分を読んでも少しも元気にならない、かえって落ち込んだ、という人が出てきて、聖書の権威がガタ落ちするからですよ。」
「病気の人は、聖書よりも、現実の人が書いた闘病記を読むほうが、いろいろな点で参考になるよ。」

「13から15節が、“お金に困るとき”で、エホバの約束を信じろというアドバイスです。14節には、“エホバは,私たち が生きていく上で必要なものと,神に仕え続ける上で必要なものを与える,と約束しています。”と書いています。」
「14節にある引照聖句のマタイ6:33には“ですから,王国と神から見て正しいこととをいつも第一にしなさい。そうすれば,こうしたほかのもの全ても,あなたたちに与えられます。”とあるけれど、これは全ての信者に向けての発言じゃないよ。弟子たちに向けての発言。」
「1世紀の教団は、各地を放浪して歩く弟子たちと彼らに寝る所や食事を提供する一般信者からなるわけですね。弟子たちは、仲間の信者たちを信頼して、生活のことを思い煩うなというメッセージですね。」
「福音書では、群衆と弟子たちと分けていることが多い。そして、誰もが弟子になれるわけではないし、イエスも弟子になりなさいと皆に要求するわけでもない。」

「13節の“自分には何の非もないのに失業してしまうということがあります。”と書いていますが、これはJWには当てはまらないですよ。」
「JWは労働者としてみた場合、給料分働いていないことが結構あるでしょう。できればJWは雇いたくないという社長さんは多いんじゃないの。」

「16から18節が“老齢のためあまり仕えることができないと感じるとき”で、JWにとって老齢問題とは奉仕活動ができなくなることみたいです。それ以外の問題は無視ですね。」
「老人はゆっくり休んでくださいとは、言わないのね。いやな宗教だな。死ぬまでこき使うつもりね。」

「16節に、“高齢になると,エホバに差し出せるものがあまりないと感じることがあります。ダビデも老齢の時にそう感じたかもしれません。(詩 71:9)”とありますが、引照聖句はそんなこととは無関係じゃないですか?」
「詩編71:9は、“老齢の時に私を捨てないでください。衰えていく時に見捨てないでください。”だね。エホバに差し出せるものがあまりないなんて、一言も言っていない。次の71:10は、“敵は私のことを悪く言います。私の命を奪おうとする人たちは共謀し”と続く。これは、年を取った時にも敵から守ってくださいと神に助けを求めているだけ。聖句の誤用だね。」

「17節にジェリーという姉妹の話が出ています。“王国会館でのメンテナンス・トレーニングに参加するよう招かれた”とあります。なんですかこれ?」
「知らないな。トイレ掃除のことではないよね。今まで専門の業者に頼んでいた仕事を、経費節約のため、自分たちでやろうということじゃないのかな。王国会館を高く売り飛ばすための準備作業かもよ。」

「18節には、老人というと定番のルカ21:2-4が引照聖句で取り上げられています。イエスが貧乏なやもめの少額寄付についてコメントする話しです。」
「“イエスが教えた通り,できることが限られていても,またわずかなことしかできないと感じても,エホバは私たちの奉仕を大切に思っています。(ルカ 21:2-4)”とある。イエスが教えたことが、貧乏でも有り金はたいて寄付をしろということなら、イエスはインチキ宗教家ということになる。」
「イエスは、“この貧しいやもめは,彼ら全てよりたくさん入れました。”といっているだけで、このやもめを見倣おうとか、天国は彼女のような人たちのものだ、などとは言っていませんね。」
「イエスは、なんて分不相応な寄付をしているのだ、宗教指導者に騙されて、嘆かわしい、と言っているんだよ。やもめの話の直前のルカ20章に、“律法学者たちに気を付けなさい。”の話があって、そこには、彼らは“やもめたちの家から奪い取り”という一節がある。貧しいやもめの話は、宗教指導者によってやもめたちが食い荒らされている実例として描かれているの。」
「イエスは、このやもめの話のすぐ後には、“あなたたちがいま見ているこれらの物についていえば,石が石の上に残らずに崩されてしまう時が来ます。”と、やもめが寄付をした神殿の崩壊を予言します。」
「貧しいやもめに寄付をするように洗脳している既成の神殿宗教は厳しく裁かれるぞ、ということだね。イエスがやもめの寄付をほめていると読んでしまうと、この話の流れ理解できなくなる。」

「最後の19節が泣かせます。“私たちが今の社会で評価されないとしても,エホバは私たちのことを恥じたりはされません。(ヘブ 11:16,38)”とあります。でも、この文は引照聖句と合っていませんよ。」
「ヘブライ11:16には、“しかし今,彼らは,より良い場所,つまり天と関わりのある場所を切望しています。それで神は,彼らを恥じてはおらず,”とあるけれど、ここでいう“彼ら“は、JWのことではない。ヘブライ11章の前の部分を読めばわかるけれど、アブラハムやサラのことを言っている。」
「翻訳もへんですよ。“神は,彼らを恥じてはおらず,彼らから神として呼び掛けられることも恥じていません。”とありますが、なぜアブラハムたちから神と呼びかけられるのを恥じる必要があるのですか?協会共同訳では、“神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。”です。」
「神様は、旧約ではしばしば、“アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神”とよばれる。そのことを神様は恥じてはいないよ、というのが11:16の言いたいこと。“彼らから神として呼び掛けられること”ではその意味が伝わらないけれど、元の英文はto be called on as their Godで、彼らの神として呼ばれること、という意味で問題ない。日本語の訳者のミスということだね。」
「こんな誤訳をしているようでは、“私たちが今の社会で評価されない”というのは、正しい自己認識ですね。」

「19節の最後は、“病気,お金に困ること,老齢のために落胆するとしても,何も天の父エホバの愛から私たちを引き離すことはできません。”です。長年忠実なJWの末路がこれなんですか?」
「だから、組織の言うことは聞き流せばいいの。それができない、まじめなJWが、悲惨な末路になる。」
「“病気,お金に困ること,老齢のために落胆するとしても,私たちは最も幸福な民です。”と締めくくらなかったので、多少まともになったと思うしかないですね。」

#1143 2020年03月25日 16:30:17

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

火曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週は忙しいので、早めに予習に来ました。次回のものみの塔は、“聖なる力が……証明します(4)”で、JWの教えによると、天に行って支配者となる144000人の話です。記念式が近いからでしょうね。大多数のJWには無関係なので、来週は休んでいいですね。」
「いわば、主の記念式準備号だね。“何を学ぶか*”の所には、“この記事は,「ものみの塔」2016年1月号の記事から取られています。”とあって、4年前の記事の焼き直しだ。確かに来週は集会に出る必要なしだね。」

「ペンテコステの日の出来事に触れた後、2節で“弟子たちは聖なる力によって選ばれた * 最初の人々となり,イエスと共に天で統治するという希望を与えられました。”とあります。これはJWの単なる推測ですよね。」
「何の根拠もない。“*”の所をクリックすると解説があって、エフェソス1:13,14とローマ8:16が出てくるけれど、その二つの聖句には、“聖なる力”は出てくるけれど、天に行くとか、天に行ってキリスト共に統治する、なんてことは全く出てこないよ。」

「最初の挿絵ですが、人間の頭の上にろうそくの炎のようなものが乗っかっているように見えます。何かヘンですよ。」
「2節に、“「炎のような舌」が弟子たちの頭上に現れ,”とあるから、“人間ろうそく”という絵ではなく、頭の上に舌が燃えている絵を描かないとダメだよ。」
「でも3節では、“舌のような炎が頭上にとどまり”と書いています。聖書を無視していますね。」
「これは単なる誤訳。英文では、“a tongue of fire”で“炎のような舌”。それを“舌のような炎”と間違えた。日本支部に間抜けな翻訳者を交代させるよう電話しよう。」

「3から6節は、“聖なる力によって選ばれる時,どんなことが起きるか”です。自分が油注がれたと間違っても思わないようにという組織の警告ですね。」
「5節は、“人が聖なる力によって選ばれる時,どんなことが起きるかということも考えましょう。”で、エフェソス1:13,14が引用されている。訳がおかしいよ。」
「“皆さんも,真理の言葉,つまり救いについての良い知らせを聞き,キリストに希望を抱きました。そして信じた後,キリストにより,約束されていた聖なる力で証印を押されました。”とあります。キリストがハンコを押しているようです。後半部分は、協会共同訳では、“約束された聖霊によって証印を受けたのです。”となっています。かなり違いますね。」
「ここで、パウロは福音を聞き、信じることが救われることになると言っている。救われることを“約束された聖霊によって証印を受けたのです。”という表現で表しているだけ。意味は聖霊を与えられたということ。日本のJWは聖霊を聖なる力と訳すので、おかしくなる。」
「引用されているエフェソス1:13,14は、天に行く144000人の教義とは何にも関係ないですね。」
「144000人が選ばれて天で支配者になるという教義はJW独自のもので、パウロやヨハネはそんな教義は知らないからね。」

「5節の最後に、“聖なる力はその人たちが将来地上ではなく天で永遠に生きることを保証する「しるし」,または誓約となります。(コリント第二 1:21,22を読む。)”とあります。この引照聖句はそんなことを言っていますか?」
「天で永遠に生きるとは一言も書かれていないよ。」

「6節の最後に、“天に行くよう招かれ選ばれた人でも,忠実であり続けなければ報いを受けることはできません。(フィリ 3:12-14。ヘブ 3:1。啓 2:10)”とあります。ということは、会衆の長老に意地悪されて排斥されたら、天に行く資格を失うのですね。」
「神に選ばれても、長老という人間によって簡単に無効化されるとは、情けない神様だね。人間のほうが偉いわけだ。」
「この3つの引照聖句ですが、本文にあるようなことは言っていないと思うのですが。」
「3つの聖句の中で、“天”が出てくるのはヘブライ3:1だけ。そこには、“共に天に招かれている聖なる兄弟たち”とある。天に行く兄弟たちがいるのかと思うけれど、これは誤訳。英文では、“holy brothers, partakers of the heavenly calling”で、天に来るように招かれたのではなく、天的な呼びかけ、天からの呼びかけという意味で、一言で言うと召命を受けたという意味。死んだら天に行く人という意味はない。それから、the heavenly callingではなく、“a”heavenly calling。つまり、3つの引照聖句とも、天に招かれたなんてことは書かれていない。誤訳だらけだね。」

「7,8節が、“自分が選ばれたことをどのように知るのか”です。7節にはローマ8:16の“私たちが神の子供であることを,聖なる力が私たちの精神と共に証明します。”が引用されています。でも、これはクリスチャン全体に当てはまることで、天に行く144000人にしか当てはまらないというのはJWだけの教義ですよね。」
「この聖句でも天に行くなんてことは出てこない。144000人の教義がJWの聖書解釈を奇怪なものにしている。」
「7節には、“エホバは,選ばれた人が天に行くよう招かれていることを,聖なる力によって本人にはっきり示します。”とあって、自分が選ばれたかどうか確信のない人は偽物だということを示していますね。」
「でも、確信があればいいのかな?単に頭のおかしな人かもよ。」

「8節に、“天に行くよう招かれた人は,そのことを全く疑いません。招かれたという自覚をエホバが本人にはっきり持たせるからです。(ヨハネ第一 2:20,27を読む。)”とあります。この聖句も本文とは関係ないですよ。」
「神によって選ばれたとあるけれど、天に行くように選ばれたとは一言もないね。」
「8節には、“もちろん,選ばれたクリスチャンは他の兄弟姉妹と同じように,会衆を通してエホバに教えられる必要があります。”とあり、未来の天の支配者も、地上では組織に服従するよう、くぎを刺しています。」
「つまり、天に行くよう選ばれたと確信していたとしても、現実の生活には何の変化も起こらないということね。ただ年に一回、ただでワインを飲めるだけね。」

「9から13節が、“天に行くのは「再び生まれ[た]」人”で、10節に、“クリスチャンは聖なる力によって選ばれると,「再び生まれ」ます。「上から生まれ[る]」と訳すこともできます。”とあります。これはどちらが正しいのですか?」
「ヨハネ3:3の“再び生まれなければ,誰も神の王国を見ることはできません。”だね。“再び”と訳されているギリシャ語anothenは“上から”という意味もあるけれど、文脈から判断して“再び”と訳されている。イエスのこの言葉を聞いたニコデモが、“母親の腹にもう一度入って生まれてくることなどできません。”と答えているからね。でも、その後イエスは、“水と聖なる力によって生まれなければ,誰も神の王国に入ることはできません。”といって、anothen “上から”生まれるという意味で使っていることを説明している。」
「要するに、anothenというギリシャ語は2重の意味があって、ニコデモは初め間違った意味で理解していたけれど、イエスが修正したという話しですね。でも、この話が成立するにはイエスとニコデモがギリシャ語で会話していなくてはいけませんね。両方ユダヤ人なのに。」
「イエスが話していたのはアラム語。アラム語の“再び”という単語には“上から”という意味はない。その逆もそう。つまり、ヨハネ3章のイエスとニコデモの会話は、ギリシャ語を話す人間の創作で、イエスが言ったことではない。」
「ヨハネの福音書は、イエスとは何者であるかを、福音書の形式で述べた神学書ですよ。」
「だから史実性は乏しいね。」

「14から16節が、“自分は神から選ばれたのだろうか”で、自分が選ばれたかどうかよくわからない人向けの内容です。ここがこの記事のメインじゃないですか?」
「14節によると、“もし,自分が聖なる力によって選ばれたのか確信を持てないなら,あなたは選ばれてはいません。”とある。行いではなく、確信の程度が選ばれたかどうかを決めるみたいだね。」
「それで奇人変人ばかりが天に行くわけですね。確信の程度が重要とするJWの教義では、狂信的な人ほど天に選ばれるということになりますね。」
「神様はそういう人が好きなんだよ。でも、彼らが天で支配者になるとすると、新しい世界は恐ろしい世界になりそうだ。」
「15節では、“聖書には,聖なる力を受けて信仰を示しながらも,天に行く希望を抱かなかった人の例がたくさん挙げられています。”と、あなたはそのような人よりも偉いわけはないから、間違っても天に行く希望を抱くなと、間接的に言っていますね。」

「その例のひとりがバプテスマのヨハネなんだけど、15節で“イエスは,ヨハネより偉大な人はいないと言いましたが,ヨハネは天の王国に入らない,とも述べました。(マタ 11:10,11)”とあるのはいただけないな。ヨハネは天には行かないとは述べていないよ。」
「マタイ11:11に、“これまでに生まれた人で,バプテストのヨハネより偉大な人は現れていません。しかし,天の王国で最も目立たない者も彼より偉大です。”とありますから、論理的に考えてヨハネは天の王国にいないのではないですか?」
「ここで言う天の王国とはなんだろう?この答のカギとなるのが次の11:12。新世界訳では、“バプテストのヨハネの時から今に至るまで,人々は天の王国を目標にしてひたむきに努力しており,それを捉えつつあります。”だけど、協会共同訳では、“洗礼者ヨハネの時から今に至るまで、天の国は激しく攻められており、激しく攻める者がこれを奪い取っている。”で、新改訳では、“バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。”だ。」
「JWの新世界訳だけが全然違いますね。もちろん新世界訳のほうが誤訳ということですね。」
「JW訳は間違い。天の王国はヨハネ以来激しく攻められ、奪い取られているとイエスは言っている。当然、JWが思い描く天の王国のことではない。ここで言っている天の王国は、イエスの地上での活動開始とともに少しずつ作られつつある王国のことなの。」

「その王国では、最も目立たないものもヨハネより偉大なのはなぜですか?」
「マタイ11:2-16は、ヨハネがイエスのことを牢屋で聞いて、弟子をイエスの所に遣わせて、“あなたが,来ることになっている方ですか。それとも,ほかの方を待つべきでしょうか”と質問することから始まる。」
「ヨハネはイエスがメシアだとは、はっきり理解していなかったということですね。」
「そう。しかし、天の王国つまりイエスの活動を実際に見たものは、ヨハネよりもはっきりとイエスがメシアであることを理解する。イエスのメシア性の理解の点で、ヨハネよりも偉大ということ。」

「最後の17節によると、来週は、天に行く希望を持つ人についての記事だそうです。」
「主の記念式準備号の第2弾だね。来週も本文と引照聖句がほとんど一致しない、へんてこな記事になるのかな。」

#1144 2020年03月26日 06:50:27

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さんいつも興味深い書き込みありがとうございます

>協会共同訳では、“洗礼者ヨハネの時から今に至るまで、天の国は激しく攻められており、激しく攻める者がこれを奪い取っている。”で、新改訳では、“バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています

いままで聞いたこともありませんでした

ネット見ると 新世界訳が 意訳で他が字義訳のようですね

ただこの語が実際に何を意味するかは推測の域を出ないようですね ティンデル注解

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#1145 2020年03月26日 12:51:07

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これは私の体である。」また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与え、言われた。「皆、この杯から飲みなさい。」(マタイ福音26章)


聖書の中でもめずらしく、これほど解釈の余地なくジーザスが食べて飲んでね、とシンプルに言っているのに、とにかく信者がその通りにしないように、この時期にお決まりの奇怪なJW聖書解釈を今年もお勉強させられているのですね。

#1146 2020年03月27日 07:29:44

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

元統治体のレイフランズさんも 良心の危機367ページで

天的な希望は信じる者なら誰にでもあるわけではなく、(一九三五年以来)地的な希望ということになった。キリストが表象物のパンとワインについて言った「私の記念としてこれを行ない続けなさい」という言葉は、キリストが贖いの犠牲になったという信仰を持つ者すべてに当てはまるわけではない。これが聖書のどの部分に書いてあるのか。

といってますね cry

編集者 てつてつ (2020年03月27日 07:37:22)

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