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#301 2020年01月16日 16:12:53

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

ひとつのことがはっきりしている。神によって聖別され、ユダを救い、栄光へと導くよう運命づけられたメシアとしてヨシヤを見た申命記史家は明らかに、どのようにこうした歴史的破局が起こったのかを説明することに当惑し、ヨシヤの死にそっけない、不可解な言及だけを残した。メシアになるつもりであったこの王の夢はメギドの丘で容赦なく沈黙させられた。何十年もの精神的復興と夢のような希望は見たところ一夜にしてつぶれた。ヨシヤは死に、イスラエルの民はエジプトによって再び隷属させられた。

そしてすべてが終わった。四○○年のユダの歴史が火と血の中で終わった。誇り高いユダ王国は完全に荒廃させられ、経済はだめになり、社会はばらばらとなった。何世紀にもわたって支配してきた王朝の最後の王は拷問にかけらバビロンで監禁された。彼の息子たちはすべて殺された。ヤハウェ崇拝のための唯一正当な場所であるエルサレム神殿は破壊された イスラエルの民の宗教と民族としての存在はこの大災害の中で終わるはずだった。しかし、奇跡的にどちらも生き残ったのである

というわけでヤハのみ運動派の期待を一身に背負ったヨシアはなんとあっさり死んでしまい そのあとバビロンによって国ごと滅ぼされてしまい 宗教も民族も滅びるはずだったのですが なんとこれから先にまた新しい歴史解釈がはじまるわけですね cry

編集者 てつてつ (2020年01月16日 16:18:42)

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#302 2020年01月16日 16:22:00

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

355ページあたり

古代イスラエルの全物語と、聖書の歴史の構造を理解するために、私たちはヨシヤの死で止まることはできないし、エルサレムと神殿の破壊、それとダビデ王朝の崩壊で立ち止まることはできない。バビロニアによる征服に続く数十年の間、ユダで何が起こったのかを調べ、バビロンにおける捕囚民の間で起こった進展を調査し、捕囚後のエルサレムで起こった出来事を詳述することはひじょうに重要なことである。これらの時代と場所において、モーセ五書と申命記史書のテクストは大規模な付加と修正を受け、実質上最終形態と言える段階に到達した。その一方で、イスラエルの人々は、第二神殿のユダヤ教とひいては初期のキリスト教の土台を形作った、共同体の組織と礼拝の新しい様式を、紀元前六’五世紀にバビロンとエルサレムで発達させた。私たちが歴史的資料と考古学的証拠から再現することができる、ユダ王国征服後の一世紀半に起こった出来事と過程はそれゆえ、ユダヤ・キリスト教の伝承がいかに現れたかを理解する上でひじょうに重要である。聖書の物語を続ける前に、私たちは自由に使える聖書の資料における重要な変化に注目しなければならない。荒野での放浪の終わりからバビロニアによるエルサレム征服までのイスラエルの歴史を語る申命記史書は突然終わる。他の聖書の著者があとを引き継ぐ。破壊後のエルサレムの状況はエレミヤ書の中に描かれ、一方、エゼキエル書(捕囚民の一人によって書かれた)はバビロニアにおけるユダの被追放者の生活と期待についての情報を提供している。連続する捕囚民の波がエルサレムに戻った際に起こった出来事はエズラ記とネヘミャ記の中に、それと預言者のハガイとゼカリヤによって報告されている。これはまた、私たちが私たちの物語の中で用語を変えなければならない時でもある。つまり、ユダ王国はペルシア帝国のアラム語名での属州イェフドに、そしてユダの民、すなわちユダの人々はこれからイェフディームあるいはユダヤ人となるのである。

編集者 てつてつ (2020年01月16日 16:25:11)

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#303 2020年01月16日 16:41:01

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

族長への神の約束から、出エジプト、征服、統一王国、分裂した二王国を経て、最後にエルサレム神殿での律法の書の発見までのイスラエルの物語を伝える、ョシャの統治の問に作り上げられた偉大な聖書のサガはすばらしく、情熱的な作品であった。それはなぜ過去の出来事が未来の勝利を意味するのかを説明し、申命記の宗教改革の必要性を正当化し、もっとも実際的には、ダビデ王朝の領土的野心を後押しすることを目指した。しかし、ョシャはユダを回復しようとした矢先にファラオによって倒された。彼の後継者たちは偶像崇拝と狭量な陰謀に後戻りした。エジプトは再び沿岸を占有し、そしてバビロニア人がすぐにやって来て、ユダの国家としての存在に終止符を打った。救済を約束した神はどこにいたのか。古代近東の他の大部分の国家は甘んじて歴史の評決を受け入れ、肩をすくめ、彼らの崇敬を勝者の神へと移しただろうが、申命記史書の後代の編集者たちは白紙に戻してやり直したのである
紀元前五九七年にエルサレムから捕囚として連れ去られた王で、バビロンにおけるユダの人々の共同体の指導者であったヨャキンは、ダビデ王朝の来るべき回復への最後で最善の希望を示すことができたのであろう。しかし、一人のダビデ家の後継者が神の約束を成就するだろうという、以前は議論の余地がなかった信念は、まさに起こったばかりの破局に照らして、もはや当然のことと考えられることはできなかった。実際、先立つ数十年間の歴史的出来事を再解釈しようとする必死の要求は、ヨャキンの祖父であるョシャの治世の状況に完全に合わせられた、長く待ち望んだ救済の瞬間がどうして実現することができなかったかを説明するため、最初の申命記史書の改訂の原因となった。アメリカの聖書学者であるフランク・ムーア・クロスはかなり以前に、捕囚の前と後における歴史意識の違いを反映する、申命記史書にある二つの明確な編集あるいは版を識別した。聖書学ではDrtとして知られている初期の版は、私たちがすでに論じたように、もっぱら王の宗教的、政治的目的を推進するために、おそらくョシヤの治世に書かれたものであった。クロスと彼に追随する多くの研究者たちによれば、最初の申命記史書であるDrt1は、国中の偶像崇拝を行う高台の大破壊とエルサレムでの最初の国家的な過越祭の祝いを述べる個所で終わっていた。その祝いは、モーセの偉大な過越祭の象徴的な再演であり、ヤハウェの下での奴隷状態から自由への解放を記念し、そしてファラオ・ネコによる新たな支配からのユダの解放を期待する祭であった。実際、最初の申命記史書はモーセの最後の言葉からヨシュァによって導かれたカナン征服、新しい律法の授与、そしてヨシャによる約束の地の新たな征服を物語る。それは神による救済と永遠の喜びで終わる物語であった。
しかし破局が襲った。何世紀にもわたる努力と希望は無駄であったことが判明した。ユダは再び、かつてイスラエル人が解放されたところのあのエジプトによって奴隷にされた。それからエルサレムの破壊が続き、それには神学的な大打撃も伴っていた。すなわち、申命記主義的信仰の土台である、ダビデヘの、エルサレムにおける彼の王朝の永遠の統治というヤハウェによる絶対的な約束が破られたのである。ヨシャの死とエルサレムの破壊は申命記史書の著者たちを絶望へと投げ入れたにちがいない。この神聖な物語はこの暗黒時代にどのようにして維持されることができたのか。一体その意味は何であったのか。やがて新しい解釈が現れた。ユダの貴族階級l最初の申命記史書を作ったまさにその人々をひょっとしたら含むlがはるかかなたのバビロンに定住させられた。移動というショックは徐々に消え去っていったが、なお歴史というものの必要性があった。実際のところ、イスラエルの歴史に対する緊急性はさらに大きくなったのである。捕囚となったユダの人々はすべてのものを失った。申命記主義的思想に大事なものすべてをも。彼らは家、村、土地、先祖の墓、首都、神殿、そして四世紀にわたるダビデ王朝の政治的独立さえ失った。書き直されたイスラエルの歴史が捕囚民にとって彼らのアイデンティティを再主張するための最も良い方法であった。それは彼らに、彼らの祖先の士地、荒廃した首都、火災で失われた神殿、王朝の偉大な歴史への結びつきを与えることができたのである。だから申命記史書は更新されなければならなかった。この第二版はほぼ第一版に基づいていたが、二つの新しい目的を念頭に置いていた。最初に、それは物語の結果、すなわち、ヨシヤの死から破壊と捕囚までを簡潔に語らなければならなかった。第二にそれは、神のダビデヘの無条件で永遠の約束を、エルサレムと神殿の破壊とダビデ家の王たちの追放に調和させることがいかに可能かを説明するために、全体の物語の意味を理解しなければならなかった。そしてさらに固有の神学的問題があった。つまり、どうしてヨシャの偉大な正義と敬度さが暴力的で残虐なエルサレム征服を防ぐには無力であったのかということである。従って、紀元前五六○年のバビロンでのョヤキンの出獄を報告する結びの節(王下二五・二七’三○)を持った、Drt2として研究者には知られている特徴的な版が現れた(五六○年というのはもちろん、Drt2が作られた可能な限り最も早い年を意味する)。ヨシヤの死、最後の四人のダビデ家の王たちの統治、エルサレムの破壊、捕囚についての扱い方はほとんど電報で伝えるような簡潔さを示している(王下一三・二六’二五・一二)。最も顕著な変化は、ヨシヤ王に向けられていた大きな希望にもかかわらず、なぜエルサレムの破壊が避けられなかったかを説明しているところである。Drt1への挿入個所において、第二の申命記史家は以前のダビデヘの無条件の約束にひとつの条件を付け加え(王上二・四、八・二五、九・四’九)、初期のテクストの至るところに破壊と捕囚の避けがたいことへの不吉な言及を挿入した(王下二○・一七’一八)。より重要なことは、第二の申命記史家が、正しい王であるヒゼキャとヨシャの間に統治し、ユダの王すべてのうちで最も悪い者として描かれるようになった申命記主義的運動の大敵マナセに責任を負わせたことである。


第二の申命記史家はあらゆる彼のひねりや説明をもってしても、希望のない未来で物語を終えることはできなかった。だから彼は、イスラエルの歴史に関する七書の編集をバビロンでのョヤキンの出獄という簡潔な物語で終えたのである。
「ユダの王ヨャキンが捕囚となって三十七年目の第十二の月の二十七日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨャキンに情けをかけ、彼を出獄させた


ダビデの家系からの、すなわちあの地、あの首都、あの神殿と結びついていた王朝の最後の王がまだ生きていた。もしイスラエルの民がヤハウェに忠実であるなら、ダビデヘの約束はこれから先も回復されることができるのである

編集者 てつてつ (2020年01月16日 16:51:28)

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#304 2020年01月16日 17:00:31

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

ユダの捕囚民の集団にエルサレムへの帰還を許可するキュロス王の勅令は、ユダに残った人々あるいは捕囚民の苦しみに対する同情によって促されたものではほとんどなかっただろう。むしろそれは、ペルシア帝国の権益に役に立つことを意図した計算ずくの政策として理解されるべきである。ペルシア人は、各地の集団の、より広大な帝国への忠誠を確実にするための方法として、各地の祭儀を容認し、奨励さえした。キュロスと彼の息子カンビュセスは神殿援助し、彼らの広大な帝国の各地に追放された人々の帰還を促進した。彼らの政策は各地の忠実なエリートに自治権を与えることであった 多くの研究者たちは、ペルシアの王たちが、エジプトに接したイェフドの戦略上重要で、不安定な位置ゆえに、イエフドでの忠実なエリートの出現を促進したことに同意している。この忠実なエリートはバビロニアにおけるユダヤ人の捕囚民の共同体から採用され、ペルシアの行政当局と密接な関係にある高官によって率いられた。彼らは主として社会的、経済的に高い地位の個人であり、同化に抵抗し、ほとんどおそらくは申命記主義的思想に近かったであろう家系であった。帰還者はイェフドでは少数者であったが、彼らの宗教的、社会経済的、政治的地位、それに彼らがエルサレムの中と周辺部に集中していたことは彼らに彼らの数をはるかに超える力を与えた。彼らはおそらく一世紀前に発布された申命記の法典に共感していたその地方の人々によっても支持されていただろう。歴史的構成物と預言者の作品という豊かな文学的コレクションを用いて、そして彼らが支配していた神殿の人気ゆえに、帰還者たちはイェフドという属州の全住民に対する権威を確立することができた。彼らを窮地から救い、未来におけるユダヤ教の発展を可能にしたものは、(一世紀前の北王国でのアッシリア人の政策とは違い)バビロニア人が征服されたユダヘ外国人の被追放者を再び定住させなかったという事実であった。しかし、ダビデ王朝が舞台から突然消えたということはどういうことか。なぜ王国が、王家からの人物を王として、復興されなかったのか。エズラ記によれば、本国帰還者を率いた最初の二人はシエシュバッァルとゼルバベルで、両者はイェフドの「長官/総督」﹇知事﹈として述べられている(エズ五・一四、ハガ一・二。古い神殿の宝物を持ち帰り、新しい神殿の基礎を築いたシエシュバッァルは謎の人物である。彼はヨダの首長」(エズ一・八)と呼ばれ、それゆえに多くの研究者は彼をダビデ家の王位への後継者の一人であり、おそらくヨャキンの息子でさえあった、歴代誌上三章一八節のシェンアッァルと見なした。紀元前五一六年に神殿建築をやり遂げたゼルバベルもまた明らかにダビデの家系の出であった。けれども彼は一人ではなく、祭司イエシュァとともに働いた。神殿完成の後、ゼルバベルが聖書の記事から消えていることが重要である。彼がダビデ家出身であることがユダにおいて救世主に関する希望を起こさせ(ハガ二・二○’一三)、それがペルシア当局に政治の場にいる彼を呼び戻すよう動かしたというここの時点から、ダビデ家はイェフドの歴史において何の役割も果たさなくなった。同時に、捕囚において指導的地位へと上り、そしてまたイェフドに残った人々の間でも重要な役割を演じた祭司は、集団のアィディンティティを維持するその能力ゆえに、その重要性を保った。だから続く数十年の間、イェフドの人々は二重の体制によって導かれた。政治的には、ペルシア当局によって任命され、ダビデ王家とはまったく関係のない知事によって、宗教的には、祭司によって。王権という制度を欠いて、今や神殿がイェフドの人々のアイデンティティの中心になった。これはユダヤ人の歴史において最も重要な転換点のひとつである。

編集者 てつてつ (2020年01月16日 17:03:28)

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#305 2020年01月16日 17:13:48

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

捕囚後のエルサレムにおける祭司エリートの主要な職務のひとつは、復活したいけにえと清めの儀式を実施するだけでなく、共同体を結合し、辺り一帯にいる民族に対して共同体の規範を決定するための文学作品と聖書を継続的に作り出すことであった。研究者たちは長い間、五書の祭司資料(P)が概して捕囚後のものであり、それはエルサレムの神殿共同体において祭司が重要な存在となったことと関係していると示してきた。同様に重要なことは、五書の最終的な編集もこの時代から始まることである。聖書研究者のリチャード・フリードマンはさらに一歩進み、「モーセの律法」を最終的にまとめた編集者は、「天にいます神の律法の書記官」(エズ七・一三と具体的に述べられているエズラであったと提案している。エルサレムに戻った捕囚後の著者たちは、バビロニアによるエルサレム破壊を説明するだけでなく、新しい神殿を取り巻くイェフドの共同体を再統一させる必要もあった。彼らは人々により良い、より繁栄した未来への希望を与える必要があった。つまり、近隣の集団、特に北と南の集団との関係という問題に対処し、共同体内の問題に関する懸案を取り扱う必要があった。上記の点に関して、捕囚後のイェフド共同体が必要としていたものは、ユダ王国後期に必要されていたものと似ている。両者とも、約束の地の小さな部分に過ぎないが、イスラエル人の精神的、政治的中心としてひじょうに重要であった、わずかな領土に住む小さな共同体であったことである。どちらも外国人という敵対する隣人によって囲まれていた。どちらも、彼らの領域の外にあった近くの領土を要求していた。どちらも内外の外国人との問題に直面し、共同体の清浄と同化の問題に関心があった。それゆえに、王国後期におけるユダの教えの多くは捕囚後の時代のエルサレムの人々の耳には異質ではなかった。ユダが中心であり、隣人よりも優れているという考えは確かに紀元前六世紀末と五世紀におけるエルサレム共同体の意識の中に響き渡っていた。しかし、例えばダビデ家の没落とある帝国の下での生活のような他の状況は、捕囚後初期の著者たちに古い考えを作り直すことを余儀なくさせたのである。出エジプト記の物語は捕囚の、そして捕囚後の時代において際だった重要性を獲得した。偉大な解放の物語はバビロンにおける捕囚民に対する強い魅力を持っていたにちがいない。聖書研究者であるデヴィッド・クラィンズが指摘するように、王ジプトでの束縛はバビロンでの彼ら自身の束縛であり、過ぎ去った出エジプトはこれから起こる出エジプトになるのである」。確かに、エジプトからの脱出の物語と捕囚からの帰還の記憶との間にある主題の著しい類似点は、両者の叙述の形成に影響を及ぼしたと思われる。帰還者たちは脱出のサガを読むことで、彼ら自身の苦境を反映する鏡を発見したのである。テル・アビブ大学の聖書研究者ヤイル・ホフマンによれば、どちらの物語も私たちに、どのようにしてイスラエル人が彼らの土地を離れ、外国に向かったのか、どのようにしてイスラエルの地が、その地を去り、神の約束ゆえに戻ってくることを期待された者たちに属するとみなされたのか、どのようにして国外追放での困難な時代の後に、去った人々が故国に戻ってきたのか、どのようにして帰還者たちが戻る途中、危険な砂漠を横切らなければならなかったのか、どのようにして故国への帰還がその地の人々との争いを引き起こしたのか、どのようにして帰還者が約束された故国の一部分だけに何とか定住をなしとげたのか、そして、イスラエル人とその地の人々との融合を避けるために、どのような手段が帰還民の指導者たちによってとられたのかを物語っている。同様に、偉大な人物となり、繁栄する国を確立するために、メソポタミアから約束の地カナンに移住するアブラハムの物語はきっと捕囚と捕囚後の時代の人々の心に訴えたであろう。族長物語におけるカナン人からのイスラエル人の分離についての力強いメッセージもまた捕囚後のイェフドの人々の態度に合っている。けれども、政治的、民族的観点からすれば、捕囚後の共同体にとって最も深刻な問題は南にあった。ユダ滅亡後、エドム人が、エドム人の地であるイドマャとしてすぐに知られることになる、征服された王国の南の部分、ベエル・シェバの谷とヘブロンの丘に定住した。「私たち」(属州イェフドの捕囚後の共同体)と「彼ら」(南の丘陵地のエドム人)との間に境界線を引くことが最も重要であった。それゆえ、ヤコブとエサウの物語にあるように、ユダが重要な中心であり、エドムは従属的であり、未開であることをはっきり示すことが絶対に必要であった。
祭司資料に属する、ヘブロンの洞窟にある族長たちの墓の伝承もまたこの背景で理解されるべきである。イェフドの共同体は滅ぼされたユダの王国の領土の一部分だけを支配し、その時イェフドの南の境界線はベト・ツルの町とヘブロンの町の間を通り、後者は境界線の外側にあった。イェフドの人々は王国時代におけるヘブロンの重要性を覚え、彼ら自身の時代にそれが彼らに属していないことをひどく残念に思っていたにちがいない。ヘブロンに民族の創始者たちである族長の墓を置くという伝承は、南の丘陵地への彼らの強い愛着をさらに深めることになっただろう。その物語が古かろうとなかろうと、そして伝承が本当であろうとなかろうと、それは祭司資料の著者たちの心に大いに訴え、彼らによって族長物語の中で強調されたのである。しかしながら、創世記の最後の編集者たちは単なる比嶮に満足しなかった。彼らはどれほどイスラエルの人々の起源が文明世界のまさに中心にあったかを示したかった。それゆえ彼らは、彼らの周りの未発達で、教養のない地域に現れたより劣った人々とは違い、イスラエルの民の偉大な祖先はウルという国際的で、名高い都市の出身であったことをほのめかしている。アブラハムがウル出身であることはばらばらの二つの節でのみ言及されているが(P資料である創二・二八と三一)、彼の物語は北シリアにあるアラム人の都市ハランにもっと重点を置いているように思われる。しかしその簡潔な言及でさえ十分であった。アブラハムの出生地としてのウルは、一般に思われている民族の先祖の故国としてひじょうに大きな名声を与えたであろう。ウルはひじょうに古く、そして学問の場所として有名であっただけでなく、それは、紀元前六世紀中期にバビロニア人の、あるいはカルデア人の王ナボニドゥスによって宗教センターとして再建された時代に、全地域的に大きな名声を得た。それゆえ、アブラハムが「カルデアのウル」で生まれたことへの言及はユダヤ人に古くからの有名な文化的起源を提供しただろう。要するに、聖書の編集における捕囚後の段階は、私たちが本書の大半で論じてきた七世紀というより早い段階での主要テーマの多くを繰り返したのであった。これは二つの時代の間の類似した現実と要求のためであった。もう一度、イスラエル人は、彼らが神の約束によって彼ら自身のものと考えた土地の大部分を支配することなく、大きな不安の中、エルサレムに集められた。もう一度、中央当局は人々を一つにする必要があった。そしてもう一度、彼らはそのことを行った。多くの災難、宗教的難題、前途に横たわる政治的な運命のいたずらに直面しつつ、イスラエルの民にとってのアイデンティティと精神的なよりどころの主要な源として機能することができるような仕方で、聖書の歴史的核を見事に作り直すことによって行ったのである。

というわけで この時代の聖書筆者はスターウォーズなどの長きに渡って続いている映画などの脚本家よろしく状況を見ながら必要に応じて内容を変えていったのだと思います cry

編集者 てつてつ (2020年01月16日 17:18:47)

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#306 2020年01月16日 17:35:43

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

あとがき あたり

ユダヤの人々、すなわちユダヤ人は、彼らの神への独特な信仰を持つ共同体として地中海の至るところで知られるようになった。その中心には単に共有していた律法の体系と犠牲の規定だけでなく、遠いウルでのアブラハムの呼び出しで始まり、捕囚後の時代でのエズラとネヘミャによる神殿共同体の復興で終わる国の歴史についての物語があった。王政の放棄とギリシア・ローマ世界の至るところへのユダヤ人の四散により、神聖なヘブラィ語聖書のテクストは紀元前三、二世紀、ギリシア語に徐々に翻訳され、エルサレムの神殿の近隣を越えて住んでいたイスラエルの家の人々すべてにとって、共同体のアイデンティティと手引きの主要な源となった。出エジプトと約束の地の征服のサガ、王や英雄の神話が提供することができない仕方で、共同体の一人一人にとっての連帯と希望という共有の展望を提供した

紀元前一世紀、マカバイ家のハスモン朝の王たちが結局は王家内の小競り合いへと凋落し、ローマに従属する王であるヘロデがユダヤで権力を握った時、聖書は困窮した共同体をひとつに結び付ける力、そして中心的な書物として現れた。解放とヨシュアによる征服の物語は紀元前一世紀と紀元一、二世紀の間、その地の専制君主とローマの大君主に対する大衆の抵抗運動に、感情に訴えかける特別な力を与えた。古代世界のどこでも、このように力強く、共有されたサガが生み出されたことはなかった。ギリシアの叙事詩と神話は比職と実例によってのみ語った。メソポタミアやペルシアの宗教的叙事詩は宇宙の秘密を提示したが、この世の歴史も、生活への実用的な指針も提示しなかった。へプライ語聖書はどちらも提示し、あらゆるユダヤ人が家系と民族の歴史の両方を確認することができる物語の枠組みを提供した。要するに、ヨシヤの時代に最初に具体化されたイスラエルのサガは、全共同体の男、女、子供、富める者、貧しい者、そして貧困者を含む、世界で初めて、ひじょうに明確に表現された民族的、社会的契約とな紀元七○年の第二神殿破壊とキリスト教の出現によって、聖書の独自な力は自らを、単にすばらしい文学作品、あるいは古代の法や知恵のコレクションではなく、形成的な本質を持つものとして示した。それはラビのユダヤ教のミシュナやタルムードにおいて常に拡大を続ける詳述の土台であり、形成過程にあったキリスト教の「旧約聖書」として認識された。精神上アブラハムの家系であるという意識と束縛からの出エジプトという共通の体験は、ローマ帝国や地中海世界中至るところで、たえず増大していく共同体ネットワークにとって共有される考え方となった。未来の救済への希望は、消えたこの世のダビデ王朝にもはや結び付いていなかったが、ユダヤ教の預言者的、メシア的期待の中に、そしてイエスがダビデの家系に属していたとするキリスト教の信仰の中で生き続けた。何世紀も前にメシアとなるはずであったョシャの痛烈な死は、歴史の中を生き続けることになる思考様式を与えたのである。ヘブラィ語聖書は続く何世紀にもわたって、数えきれない共同体に、連帯とアイデンティティの比類のない源を提供することになった。古代の記憶、断片的な歴史、それに書き直された伝説という宝庫から集められた聖書の物語の詳細は、地中海東海岸の小さな地の出来事の客観的な年代記としてではなく、一民族にとっての神意がどんなものであるかについての時代を超えた表現としての力を持っていた。ちょうどカール大帝の臣下が彼を新しい征服者ダビデとして敬意を表したように、そしてオスマン帝国のスルタンであるスレイマンの部下が彼の中にソロモンの知恵を見たように、ひじように異なる文化的背景にある他の共同体が自らの苦闘を聖書におけるイスラエルの苦闘と結びつけようとした。中世ヨーロッパの農民の共同体は、ヘブライ語聖書のイメージや英雄たちを彼らの戦いの旗印として、終末論的な反乱を起こした。ニュー・イングランドの清教徒の移住者たちは自らを、荒れ野をさまようイスラエル人とまで思い、新たに発見された牧草地や森に約束の地をlサレム、ヘブロン、ゴシェン、ニュー・カナンという名を与えてl再現した。彼らの誰もが聖書の叙事詩的作品が真実であることを疑わなかった。へプライ語聖書が共同体の生活におけるその力強い働きから切り離され、詳細に分析、研究され始めたときになって初めて、神学者や聖書研究者はそれに何か別のことを要求し始めた。一八世紀から、まったく正確で、実証できる歴史への啓蒙主義的な探求において、聖書の歴史的事実性が、現在もそうであるように、激しい論争となった。研究者たちは、七日間の創造と自然発生的な奇跡は科学と理性によって納得いくように説明されることができないということをはっきり理解し、彼らが聖書において「歴史的」であると認めるものとそうでないものを選別し始めた。聖書のテクストに含まれている異なる資料についていろいろな理論が現れ、考古学者たちは、聖書における特定の部分の歴史的信頼性を証明あるいは反証する証拠について論じた。けれども、聖書の全体性と、実際にその歴史性は、紅海の分離、エリコの壁を倒した角笛の音、ダビデによる石投げ紐の一投でのゴリアト殺害のような何らかの特定の出来事あるいは人物の忠実な歴史的「証明」に依るものではない。聖書のサガの力は、それが、人々の解放、抑圧への継続的な抵抗、社会的平等への探求という時代を超えた主題についての、人を動かさずにはおかない、一貫した物語的表現であることに由来する。それは、あらゆる人間の共同体が存続するために必要とする、共有する起源、経験、運命についての深く根ざした感覚を雄弁に表現している特定の歴史的観点から見て、私たちは今、聖書の叙事詩的サガは最初、滅亡の前数十年における小さなユダ王国の人々や捕囚後の時代にエルサレムにあったより小さな神殿共同体が直面した圧力、困難、難題、希望への応答として現れたことを知っている。実際、私たちの聖書理解にとって考古学の最も大きな貢献は、王国時代末期のユダや捕囚後のイェフドのような小さく、比較的貧しく、周辺的な社会が、そうした短い期間にこの不朽の叙事詩の主要な輪郭を生み出すことができたという認識なのかもしれない。こうした認識はひじょうに重要である。というのは、聖書に述べられている考え、イメージ、出来事がいつ、そして何のために巧みにまとめあげられるようになったのかを私たちが認識する時だけ、私たちは人間の歴史においてまさに最も影響力のあるこの文学的、精神的創造物の真の特徴と存続し続ける力を最終的に正しく理解することができるからである。

これでこの本は終わりです ある人たちにとってはこんなもん全部ウソダー mad と一蹴されるかもしれませんが自分にとっては大変役に立った一冊でした kiss

編集者 てつてつ (2020年01月16日 17:42:46)

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#307 2020年01月16日 20:33:39

めぐママ
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Re: 聖書という書物について

てつてつさん        ありがとうございました。
途中から 忙しくなり 読めてない部分があるのですが  また読み直せるのでありがたいです。

akameさん   のくださった 史料。脳が 物語を紡ぐ  と言うのが面白くて  以前  ヒトが 夢を見るメカニズム について BSの番組でみたのと同じです。
「あなたの知らない脳」  デイヴィッド ・イーグルマン
「意識は 傍観者である」 ももう一度読み直してみると   違った面白さが あるのでは?と 楽しみです。

茂木健一郎  の 「脳と 仮想」  とか出て来たので 読みます。
今日は 暖かいので 散歩がてらに ちょっと 丘の上まで歩き  崖の 危険な 場所など 避難する際に 渋滞になると予想されている箇所 が 道路拡張工事  立ち退きの家など  古い家が取り壊されるのを見ていました。  疲れた。
これから 小さい子達 がお風呂から出て来るのを 受け取り ドライヤーで乾かす役目です。
今日は早く寝ますね。

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#308 2020年01月18日 08:09:32

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

仰天さんのトピ♯419>マザールの発見

杉本さんによる 図説 聖書考古学にいくらかでてますね

63ページあたり

発掘者のE・マザールは、これが「ダビデの王宮」だったと主張している。建物の規模から大型の公共建造物であることが確実であり、「ダビデの町」の一番高い所、石垣の上に位置していること、時代が前一○世紀であることなどが理由である。また、イスラエルの王宮建築では「原アイオリス式」と呼ばれる特徴的な柱頭が使われていたことが知られているが、それと同じものがこの近くから見つかっていた。王室の役人の封泥も多数出土しており、これらもこの地区と王室の深い関係を示している。もちろんこれだけでは、この建物を「ダビデの王宮」と断定するには十分でないかもしれない。建物の全体像がまだわかっていないので、これが要塞や倉庫など、まったく違う性格の公共建造物だった可能性も完全には否定できないからである。しかし、現時点でも、前一○世紀の「ダビデの町」にこのような大型の建物が存在したことは確実であり、強力な首都の存在を示すものとなっている。


強力なダビデ王国の存在を否定するI・フィンケルシュタインは、鉄器時代の土器編年を八○年ほど引き下げ、これまでソロモン時代のものとされてきた大型建築を伴う層は実はアハブ時代のものだと主張した。
ところが、大半の考古学者は、他の遺跡との関連からこの土器編年の見直しは無理だとしている

オマケ 杉本さんのネットにあったの

というわけで同じ遺跡を見ても解釈は色々あるようですので個人個人で判断するしかないと思います cry

編集者 てつてつ (2020年01月18日 08:34:54)

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#309 2020年01月21日 13:10:32

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

マザール 聖書の世界の考古学
ちょっと見てみました もっと聖書は絶対正しいんだーと原理主義ぽい人かなと思いましたが 少なくともこの本では普通の考古学者のように思えました フィンケルシュタインの本は一冊まるまる自分の主張している論議にそって書いてあり 小説みたいでワクワク感がありグイグイ引っ張られように読めるのですが「その分個人の解釈が多いかもしれません」それぞれの遺跡はどうこうと書いてあるだけなのでちょっと物足りない気がするのですがこれはこれで好感のもてる本かなと思いました

94ページあたり
創世記、特にその前半部分は、原著者がイスラエル民族の初期の歴史を系図的な物語によって再構成しようとしたものだと思われる。創世記の伝承には、パレスチナの人々が何世代も語り継ぎ、イスラエル人によって採用されたたいへん古いものが含まれていると考えられる。そのいくつかは前3000年紀の出来事を反映しているかもしれない。創世記と初期青銅器時代を結びつける試みは、かならずしも荒唐無稽なものではないだろう。最も興味深い関連性は、死海東岸近くで発見された初期青銅器時代の5つの遺跡と創世記14:18-19にある5つの「平原の都市」の物語である。このうち、少なくとも2つの都市は城壁で囲まれている(パブ・エッ・ドウラとヌメイラ  てつてつ>ソドムとゴモラだったのではないかといわれている都市のことだと思います)。これらの都市が破壊され、数世紀間放棄された事実を、この物語の考古学的証拠として取り上げる学者もいる78)。おそらく5つの都市を滅ぼした災害は口頭で伝承され、前1000年紀までに創世記の著者によって最終的な形に編集されたのだろう。また、原因謹的な解釈をとる学者もいる。初期青銅器時代の遺跡のいくつかは地上に露出した廃虚となり、死海東部の諸都市の遺跡もアラッド、アイ、ヤルムトと同様、何世紀もの間むきだしのまま放置されていた。今日でも、いくつかの遺跡の城壁は部分的に露出している。この地に住み廃虚を目にした後の人々が、平原の都市アラッドに対する戦争(民数記21:1-3)やアイの制圧(ヨシュア記8章)といった原因謹的伝説を作りだし、パレスチナの古代先住民族を表わすために「レフアイム」や「巨人」(創世記15:20,申命記2:11,20、ヨシュア記13:12、その他)といった用語を用いたのかもしれない。


230ページあたり
I.フィンケルシュタインは、鉄器時代第1期における中央山地の定住のプロセスと中期青銅器時代第Ⅱ期におけるこの地域の同様な現象の類似性を指摘している。フィンケルシュタインは、中期青銅器時代第Ⅱ期の定住民が後期青銅器時代に牧畜民や半遊牧民にならざるをえなくなった後、鉄器時代第1期に状況の変化を利用して定住生活に戻ろうとしたのだと主張している54)。この解釈は、エジプトの資料でハビル、シャスとして知られる後期青銅器時代のこの地の非定住民からイスラエル人が出てきたとする説と結びつけることができる55)。この説はイスラエル連合の多くの起源を説明することができるかもしれないが、これではヤハウェ信仰を始め、エジプトでの奴隷生活、出エジプト、シナイ山、モーセの役割等の伝承を担ったこの連合の中核グループのアイデンティティーは解明されない。現状では、考古学はこの問題に何ら答えることができないのである。

編集者 てつてつ (2020年01月21日 13:16:20)

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#310 2020年01月28日 11:34:48

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

最近 麻原おっさん地獄という 本読んでみたのでちょっと気になるところ抜き出して感想かいて見たいと思います
この本は 田村さんというオウム真理教の元信者で特に教祖に信頼されてボディガードしていた方ですが ほかの信者さんとともに逮捕されてそのあと施設に入れられてなかなか社会復帰できない状態になっていたのを小松さんというお寺の住職さんが弁護士の方に自分の寺の施設を利用していただいて何かの助けになれたらということで田村さんをひきとって彼の援助をしているうちに麻原の本当の姿や信者さんの考え方 を教えてもらって書いた前半の部分と寺に来た当時はまだ全然田村さんのマイコンがとけていませんでしたが住職さんとの問答で変わっていく様子が後半の部分に書かれています

目次

編集者 てつてつ (2020年01月28日 11:44:19)

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#311 2020年01月28日 12:04:13

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

221ページあたり まだ解けていなかった田村君のマインドコントロール


ここをみると話し合いでは田村さんのマイコンはとけず 結局小松住職が新しい田村さんの教祖となることでオウムよりはましな考え方に導けたのではないかということです 証人で言うといくら組織の間違いを指摘しても脱しきれない方に牧師さんが新しい教師となることによりいくらかまともな考え方に導けるのではという感じかなと思いました

編集者 てつてつ (2020年01月28日 12:29:52)

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#312 2020年01月28日 13:39:05

ラハム
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Re: 聖書という書物について

てつてつさん、
興味深い話をありがとうございます。
ちょっと長いファイルですので、あとでゆっくり読ませていただきます。

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#313 2020年01月28日 14:25:50

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

ラハムさんありがとうございます ぜひ読んでみてください

中沢牧師さんも最初は現役証人さんに組織のここがこのように間違いなんですよと説明できれば脱会させることができると思っていたがそうではなかったといってましたが この例もそのようなパターンの一つかなと感じました

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#314 2020年01月28日 14:36:37

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

あとちょっと興味深いなと思った部分に

江戸時代、日本の寺院では、多くの地獄絵図が造られた。私は今まで、これは、ただ単なる勧善懲悪のためだと思い込んできた。つまり、「悪いことをすると地獄に落ちるぞ。もしそれが恐ければ、善いことをしなさい」という教えのために、地獄絵が見せられたと思い込んでいた。しかし、今初めて気がついたのであるけれども、地獄絵図を見せることは、そんな道徳的な問題で解釈されてはならないのだ。このことは、もっと深く宗教的な問題として理解されなければならないことだった。すなわち、住職たちは地獄絵を信徒に見せて、地獄の存在を意識に植えつけたのである。それはとりも直さず、そのことによって、結果的には極楽世界を信じさせるためだったのである。そして、大抵の場合、この恐ろしい地獄絵図によって、多くの信徒が極楽の存在を信じることができたのである。麻原彰晃もおおむねこの手法を用いたのである。地獄のアニメを使い、密閉した部屋に閉じ込め、数時間もぶっ通しで信徒にそれを見せつけたのである。多くの信徒たちはそのことによって、いつしか地獄の存在を信じるようになったのである。それと同時に、信徒たちは悟りの世界である大涅槃界の存在を信じるようになったのである。こうして、オウムの信徒たちの宗教心は醸成されていったのである。

とあるように住職さんは悪いことすると地獄で罰せられるから悪いことするのダメだよという勧善懲罰的なものかなと思っていたのがいやこれは極楽を信じさせるためのものなのだと思うようになり オウムでも多用されていたようだと書かれていました

証人たちもハルマゲドンの恐怖の劇やビデオをみせられて脅されて楽園にいくために組織にしがみつくように教えられているのは同じかなと思いました cry

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#315 2020年01月28日 14:46:25

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

あと興味深いなと思ったのは 田村さんの信者時代の思考で証人たちと似ているかなと思いました

18ページあたり 信者には肉や魚は食べてはいけないと教えているのに教祖やその家族はたくさん平気で食べている様子をボディガードの時に近くで見たときに

麻原教祖や家族が凡人と同じような食生活をしていることに私はむしょうに腹が立って、上司のサマナに率直に質問しました。「麻原尊師や、尊師の家族が肉や魚を食べることは許されることなのでしょうか」この質問に対して、そのサマナは次のように答えたのです。「それは君が尊師にマハー・ムドラーをかけられているのです。マハー・ムドラーとは『試し』という意味です。尊師はわざと戒律を破り、その破戒の姿を君たちに見せて、君たちが尊師に帰依し続けられるかどうかを試しているのです。もし君たちが尊師の破戒の姿を見ても、尊師に対する絶対帰依の心が変わらなければ、君たちのステージが高い証拠となるのです。逆に、もし君たちが尊師を疑うようであるならば、君たちの尊師との霊的パイプは細いままで太くならないことを意味しているのです」この言葉を聞いて、私は疑った自分を恥ずかしく思いました。しかし今から思えば、なぜもっと疑わなかったのか、悔やまれてなりません。

きっと現役証人さんも組織のおかしな行動や教えをみても自分が奇妙な教えにもついていけるか試されているのだと考えて思考を停止してついていっている方もいるのではないかと思いました cry

編集者 てつてつ (2020年01月28日 14:47:01)

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#316 2020年01月28日 14:50:24

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

麻原教祖のあの太りようを見ていると、とても聖者のようには見えませんでした。あのぶくぶくしたお腹を見ていると、俗物の塊そのもののように思えたのです。それで、そのことを率直に上司のサマナに尋ねたのです。すると、そのサマナはこう答えたのです。「尊師があのように太っておられるのは、君たちの悪いカルマを一身に背負っておられるからだ。シャクティーパットのイニシエーションによって、君たちの眉間から悪いエネルギーを受け取り、君たちの体内に霊的エネルギーを注ぎ込んだ結果、君たちの体内の霊的エネルギーの通る管は太く丈夫になったけれども、そのかわりに尊師の体内には悪いエネルギーが充満してしまったのだ。それであのように太ってみえるのだよ。何百人、何千人の汚れを背負った表れなんだ。その証拠に尊師の顔はむくんでいるでしょう。それに尊師は気功の修行もしておられるんだ。丹田にぐっと力をいれると、仙人のようにお腹が膨むのです。この気で尊師のお腹は膨れておられるのだ。尊師の体には気がみなぎっておられるのだ」こうして私の疑いはことごとく圧殺されてしまいました
それでいつしか私もまた麻原教祖の言う如来の胃袋を信じるようになったのです。つまり、できるだけたくさん食べて、如来になれることを夢見るようになったのです。それで、麻原教祖と一緒にレストランに行き、「好きな物を好きなだけ食べなさい」と言われると、二、三人前を注文し、必死で食べたのです。食べることが苦しいと言うと、麻原教祖はこのように言うのです。「君たちが苦しむのは食欲の煩悩を断ち切るためなのだ。どんどん苦しめばもはや食べたいという煩悩はなくなる。煩悩を遮断するために、この苦しみを味わうべきだ。だから残さず食べなければだめだ。それに残すと餓鬼のカルマを積むことになるから、絶対に残しては駄目なのだ」私は麻原教祖の教えを信じ、たくさん食べることの苦しみは食欲の煩悩を消すための大切な修行なのだと思って、残さず食べるようにしたのです。確かにたくさん食べて、そして食べすぎると苦しくなり、「もう一生食べなくてもいいや」
と思って、食欲の煩悩を断ち切ったように思いました。しかし数時間経つと、また再び空腹になるので、何かしら変だとは思っていたのです。それにしても如来の胃袋などという教えが仏教の世界にあるのだろうかと、つくづく疑問に思います。今にして思えば、如来の胄袋の教えは、麻原教祖の食べ放題の食生活をただ正当化するためのものではなかったかと思います。自分一人がバカ食いをしていたのでは、サマナや信徒からいつかはバケの皮を剥がされてしまうことを恐れた麻原教祖は、むしろバカの大食いこそが解脱のステージの高い証拠だと主張し、如来の胃袋なる教えをデッチ上げたのではないかと思います。それに、私たち譽備の者や運転手だけに肉や魚などのご馳走を食べさせたことの裏には、いざという時に私たちを麻原教祖の思い通りに利用するためという意図が隠されていたと思います。そうすることによって私たちに恩を売り、私たちにペコペコさせ、私たちを絶対服従させようとしたのです。私たちを愛犬のような犬にしてしまおうと考えていたのだと思います。餌を与えて、私たちを麻原犬にしようとしたのだと思います。他のサマナには与えられない恩を受けている以上、その恩を感じない者はいないからです。麻原教祖に特別に可愛がられた私たちは麻原の番犬なのですあのままでは、私はきっとサリンの実行犯にされてしまっていたと思います。このことを思い出すと、今でも全身に身震いが走ります。麻原教祖や、麻原一家が、肉や魚をたらふく食べていることは、私たち警備の者や運転手など極く限られたサマナしか知らないことだったのです。私たちは麻原教祖や裏ワークについて、その知り得たことを他のサマナに言うことを固く禁じられていたからです。それぞれの部所に配属された者は、そこで知ったことを他のサマナに喋ってはならないと、麻原教祖によって厳禁されているからです。ですから、麻原教祖や一家の破戒の生活ぶりについては、多くのサマナや信徒たちには全く知らされていなかったのです。サマナ並びに信徒の皆さん、君たちが信じている麻原教祖は普段、肉も魚も食べていたのです。それも信じられないほどたくさん食べていたのです。サマナの親子の皆さん、麻原教祖の家族たちは煩悩に満たされた生活をしていた事実に、どうか目を向けて下さい。

編集者 てつてつ (2020年01月28日 15:00:30)

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#317 2020年01月28日 15:05:09

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

全国各地で行われたオウムのコンサートの最終回が千葉の浦安で行われた後のことです。打ち上げパーティーとして、特定の幹部とコンサートに出演した愛人の三人娘たちを集めて、秘密の食事会が開かれたのです。
その時に参加した女性サマナの中には加藤智子(上祐史浩広報部長の美人ドライバー)も含まれていました。麻原教祖は大勢の女性サマナや幹部たちに囲まれて、食事会を楽しんでいました。部屋の外で警護している私の耳にも麻原教祖の楽しそうな声が聞こえてきました。「この次はフランス料理を食べさせてあげよう」この食事会の前後にも、毎週のように、都内のアジトでは秘密の食事会が開かれていました。それは麻原教祖に特別に寵愛されていた三人の娘のための食事会だったのです。この三人は歌を歌ったり、導き(勧誘)をしたりしているクマーラの会。つまり新しい信徒を獲得するための会の三人チームでした。しかし、この三人娘の本当の姿は、麻原教祖の最も新しい愛人だったのです。三人とも十九歳から二十代前半の若くて美しい女性でした。彼女らは第二サティアンを住居とし、麻原教祖に特別に溺愛されていたのです。一般のサマナたちはこの三人の愛人がどこに住んでいるか知りません。第六サティアンかどこかで皆と一緒にゴロ寝していると思っていたのです。しかし、これは秘密にされていたのですが、この三人の愛人は第二サティアンの三階の麻原教祖の自宅に住んでいたのです。もともと、第二サティアンは麻原教祖の本居地でしたが、そのすぐ近くでサリンなどの毒ガスの製造を始めたので、毒ガスを恐れて第六サティアンに本居地を移しました。しかし、第六サティアンに移った後も、第二サティアンの三階は麻原教祖の自宅とされていました。その第二サティアンの三階の麻原教祖の自宅にこの三人の愛人は宿泊していました。三人はいつも清潔な服装をして、一般の現世の環境と変わらない生活をしていたのです。


今にして思えば、麻原教祖が自分の可愛がる愛人や最高幹部にだけは魚や肉を食べ放題に食べさせて、恩を売っていたものと思います。「他のサマナとは違い、お前たちを特別に可愛がっているのだ」そんな意識を植え込み、それと同時に自分自身の食欲を満足させていたのです。魚や肉を食べたいという食欲の煩悩にどうしても打ち勝つことができなかったのだと思います。
サマナや信徒の皆さん、これが麻原教祖の実態なのです。

編集者 てつてつ (2020年01月28日 15:08:40)

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#318 2020年01月28日 15:26:50

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

70ページあたり 安い混合ウイスキーを飲ませてイニシェーションという

麻原教祖の傍らでは、三女のアーチャリーがサットヴァ・レモンの粉やグレープフルーツの粉をポリタンクに入った水に溶かしていました。水は石油用のポリタンクに入れられていましたので、このポリタンクにサットヴァ・レモンやグレープフルーツの粉を入れて、かき混ぜていたのです それから、傍に置いてあったジャンボ・ボトルのウイスキーをそのポリタンクに注ぎ込みました。それはサントリーのトリスとオーシャン・ウイスキーでした。
私は酒問屋に勤めていたことがあるので、酒のことは少々分かるのですが、なぜこんな安い酒を使うのだろうと不思議に思いました。なぜもう少し高級なウイスキーを用いないのだろう。なぜこんな一番安いウイスキーを使うのだろうと変に思ったのです。アーチャリーはこうして混合ウイスキーを完成させると、次に麻原教祖がこのポリタンクの蓋を取って、そこから息を中に吹きかけ、修法を完了させました。すると幹部たちがこのポリタンクから数十のワイングラスに混合ウイスキーを注ぎ込みました。

そのあと信者たちに新しい信者を何人連れてこれるか一人ずつ決意表明させて

「うん、期待しているぞ」と言い、これでお開きということになります。
そうするうちにワイングラスが一人一人に配られ、教祖は、「これはイニシエーションである。乾杯!」と音頭をとり、それを一気に飲み干します。私たちも、乾杯と言って、一気に飲み干しました。こうしてブロック長のイニシエーションは終わりました。各ブロック長はそれぞれ帰路についたのですが、誰もが普段は酒を断った生活をしていましたので、わずかなウイスキーでも皆フラフラになってしまいました。ある者は真っ赤な顔になり、「おお、エネルギーが上がってきたぞ」と叫びました。またある者は、「体が温まってきた。さすがに尊師のエネルギーはすごい」と叫びました。皆、それぞれに酔っぱらって、千烏足になって帰途についたのです。そしてブロックに帰ると、各ブロック長はこう説法したのです。「私たちブロック長は、尊師によって特別のイニシエーションを受けた。それはとてもとても気持ちのいいイニシエーションだった」この説法を聞いた多くの信徒たちは、もっと修行をして、早くステージを高め、ブロック長になって特別のイニシエーションを受けたいと思うようになったのです。このように一昨年はウイスキーによるイニシエーションだったのですが、第二章で詳しく述べるように、昨年頃からはLSDなどの幻覚剤を使ったイニシエーションに代わっていきました。今にしてみれば、ウイスキーにせよLSDにせよ、酒や薬によるイニシエーションは真の宗教体験ではないのですが、その当時は自分の意思というものがなくなるように仕向けられていたので、こんなばかげたイニシエーションを真剣に受け止めてしまっていたのです。



今思うと、あのブロック長制度が廃止された時、幹部の誰一人としてその廃止に反対する人はいなかったのです。すべてのサマナが麻原教祖の意のままに操られる人形でしかなかったからで「尊師がお決めになったことですから、従いましょう」と言うばかりだったのです。いくら下の信徒が、「この制度は良いから続けましょう」と言っても、通じる教団ではないのです。この教団では、上に行けば行くほど、自分の意思というものがなくなり、腋抜けになっていくのです。ステージが上がれば上がるほど、麻原教祖の奴隷になっていくのです。

編集者 てつてつ (2020年01月28日 15:29:26)

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#319 2020年01月28日 15:41:51

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

警備に就いた私たちは、第一章に述べてきた通り、麻原教祖と共にしばしばファミリーレストランに行きました。ファミリーレストランでは、麻原教祖が食べる物を注文し、それをレストランから車に運び、幹部に手渡すのです。すると幹部が車の中にいる麻原教祖にドアを開けて手渡します。私たちは車の外から食べる様子をうかがっているのですが、食べ終わると、幹部がドアを開けて皿を受け取り、レストランまで返しに行きます。時折、その皿が私に手渡されて、私がレストランまで返しに行くこともありました。警備の者の中には、麻原教祖の使った割り箸を大切そうにポケットに入れて持って帰る者もいました。ある日、私は幹部から手渡された皿を見て、「ああ、これは尊師がいま使ったばかりの皿なのだ」と考え、それに触れることができただけで歓喜の思いに包まれていました。尊師の温もりが伝わり、エネルギーが伝わる思いだったのです。その時、皿の上に残っている米粒を見て、「これはイニシエーションだ!」と、思わず心の中で叫んだのです。私は誰にも見られないようにして、その皿の上に残っている米粒を指ですくい上げて食べたのです。その時、私は思念していたのです。「尊師のエネルギーが入っているこの米粒を食べることによって、私は解脱したい。尊師、どうか私を解脱させて下さい」さらに私は、誰にも分からないようにして、麻原教祖の使った割り箸やスプーンをペロペロとなめ回しました。それにまとわりついている麻原教祖のエネルギーを頂くために、私はスプーンがピカピカになるほど、ペロペロとしゃぶったのです。その時の私は、誰にも勝る優越感にひたり、恍惚としていました。本当の歓喜の絶頂に入っていたのです。しかし今にしてみれば、私は自己暗示をかけたにすぎなかったのです。スプーンをあんなになめ回したのに、何の効果もなかったからです。今では、あの時のことを思い出すと吐き気がします。そして、「何であんなことをしてしまったのだろう」と激しく後悔しているのです。

編集者 てつてつ (2020年01月28日 15:42:08)

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#320 2020年01月28日 15:52:54

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

その頃、私は軍事訓練に疑問を持ち、「なんで出家者がこんな訓練をしなくちゃならないのですか」と質問したのです。すると幹部は、「麻原教祖は私たちを試しているんだ。色々なことをさせて、私たちが本当に帰依しているかどうかを試しているんだ。これはマハー・ムドラーなんだ。尊師の指示で軍事訓練をしているのだから、私たちはこれは修行なんだと思わなくちゃならないんだ。それに、この軍事訓練は選ばれた者だけに許された修行なんだから、尊師に選ばれたことを喜ばなくちゃならないんだ」こんな幹部との会話を思い出しながら、私は軍事訓練を修行なんだと自分に思い込ませたのです。私たちは道に迷って、どこを歩いているのか分からなくなったけれど、この幹部の発言で、誰もが活を入れられ、とにかく雪の中を歩いたのです。夕方の六時に出発した私たち一行は、朝方の四時まで歩き続けたのです。本当ならば、ちゃんと出発した位置に戻れるはずだったのですが、道に迷った私たちはそれを断念し、山の下のほうに見える街の明かりを頼りに下山し、ようやく元の位置に戻ったのです。下山の途中で一般道路に出ることになった私たちは、自衛隊員のような迷彩服を着用していましたから、誰が見ても異様な光景だったので、銃は雪の中に隠して下山したのです。後で車でそこに向かい、銃を持ち帰ったのです。今にして思えば恐ろしい限りです。あの時は、最初は疑問を持っても、次第にその疑問のことは忘れ、軍事訓練が楽しくなっていったのです。そして、さまざまな悪事に没頭していったのです。今の私には明確に分かります。軍事訓練は麻原教祖の計画した日本の武力制圧のために、私たちを兵隊とするためのものだったのです。私たちが平気で人に銃弾をあびせることができるようにする武闘訓練だったのです。私たちをテロリストにしようと企んでいたのです。私はあの頃は、別に人殺しをしたわけじゃないのだから、サバイバル訓練は悪い事じゃない、かえって自慢してもいいものだと考えていたのです。しかし今は、「その考えはとんでもない間違いだ。あれは人殺しの練習じゃないか」と考えています。本当に練習だけで終わってよかったと思っています。かえすがえすも悔やまれることばかりです。

編集者 てつてつ (2020年01月28日 15:53:17)

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#321 2020年01月28日 16:01:11

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

ポアとは、来世に幸福な世界へ魂が導かれることです。ですから、私たちサマナはいつポアされてもいいと思っていたのです。いつ麻原教祖にポアされても、それはむしろ望ましいことだと考えていたのです。ある幹部はこんなふうに言っていました。「飛び降りたら死ぬと分かっている高い所で、麻原教祖からここから飛び降りろと言われれば、私は飛び降ります。私は尊師の命令であれば喜んで死にます」私たちサマナはポアされることを恐れるどころか、いつポアされてもいいと思っていたのです。こんな現世よりも来世のほうがいいと思っていたのですから、早くポアされることに何の不安もなかったのです。それにどうせ現世はあと三年も経てばなくなると私たちは信じていたのです。ハルマゲドン(世界最終戦争)が必ず起きて、すべての人は死ぬのです。現世に執着しても、あと三年ですべては終わりだと信じていたのです。ですから、ホームレスたちの悪業ぶりを見ていると、「ポアされたほうがいい」と自然に考えたりしたのです。この人たちも、麻原教祖によってポアされれば、地獄に落ちることはあるまいと考えたのです。今のままではきっと地獄に落ちるだろうから、ボアされればそれがこのホームレスたちの救いになると思ったのです。自分も含めて、あらゆる人がポアされることは良いことだと信じていたのです。来世のことを信じない一般の人々からすれば、こうした考えは全く理解できないことだと思います。しかし、すべてのサマナたちは来世の存在を信じているのです。来世には地獄もあれば大涅槃界もあると信じているのです。そして、麻原教祖によってポアされれば、その魂は地獄に落ちることはなく、より上の世界に行くことができると信じているのです。地下鉄サリン事件が起きた時、最初はそれがオウムが起こした事件だとは考えませんでしたしかし、たとえそれがオウムが起こしたとしても、「死んだ人々の魂は、麻原教祖によってポアされたのだからよかった」と、その時は思ったのです。大半のサマナはそう考えているし、今でもそう思っているのです。でも、私は今、麻原教祖にこう言いたいのです。「麻原教祖、あなたは法廷で、堂々と自分の行ったことを言うべきです。『自分は地下鉄サリン事件や松本サリン事件などの一連の事件で、多くの魂をポアしました。ポアしたことは正しいのだ』。このように言うべきです。考えがあってやったことなのでしょうから、その考えを述べて頂きたいのです」実際、この麻原教祖の言葉を大半のサマナは待っているのです。そうすれば、多くのサマナはこう考えるでしょう。「一連の殺人事件は警察のデッチ上げだと言われてきたけれど、やはり本当はポアだったのだ」そして、事実を知ることにより、麻原教祖の隠された野望に気づくようになると思います。「麻原教祖は宗教を利用して、この日本を支配しようとしたのだ。自分と家族を敬まわせて高慢にも日本人をすべて奴隷にしようとしたのだ」こうして多くのサマナは脱会するでしょう。しかし、麻原教祖はこんなことを堂々と法廷で述べるはずもありません。自分のことしか考えない人ですから。サマナの皆さんの気持ちなどどうでもいいと考えているのです。サマナの皆さん。君たちが麻原教祖を捨てなくても、教祖の側から君たちを捨てることになるでしょうサマナの皆さん、君たちがオウムを離れたくない理由は痛いほど私には分かるのです。私にとっても、オウムでの生活は悪しきにせよ、日々の体験や知り合った友人たちとの思い出は、貴重なものになっているのです。今でもこうした思い出は私にとっては大切なものです。でも、オウムという教団を離れたって、このような生活ができるのです。私は今は慈照寺のリハビリセンターで同じような楽しい生活をしているのです。ですから、君たちもオウムを離れて、こうした所を探せば必ず見つかるはずです。

編集者 てつてつ (2020年01月28日 16:01:35)

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#322 2020年01月28日 16:17:42

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

サマナの前にほとんど現れなかった麻原教祖

サマナたちが何よりも欲しいものは、豊かな食べ物や美しい衣類やきれいな部屋ではなく、麻原教祖の説法でした。麻原教祖と直に会って、導いてもらうことだったのです。しかし、麻原教祖はそんなサマナの願望など全く意に介さず、サマナたちの前に姿を現すことはほとんどありません。サマナたちに説法を施すことなどほとんどなかったのです。オウムのことを知らない人々からすれば、麻原教祖はサマナたちと寝食を共にし、毎日のようにサマナたちに説法を施し、サマナたちをマインドコントロールしていたと考えるでしょう。しかしそうではなかったのです。サマナが麻原教祖に説法を求めると、麻原教祖はいつもこんなふうに返事をしていました。「私はたくさんの法を知っている。しかし今君たちに話をしても理解できないだろう。君たちはステージが低い。君たちと話をしていると、君たちのカルマが私の中に入ってきて、私が苦しくなる。だから、もう少し修行をして、ステージを高めなさい。そうすればその時に説法してあげよう」このような麻原教祖の言葉に対して、サマナは誰一人として疑問を抱かないのです。疑問を抱くどころか、かえってこう反省するのです。
「私たちのステージが低いばかりに、私たちのカルマを背負って尊師は苦しんでおられるのだ。だから、私たちはもっと修行に励まなければならない。修行してステージを上げれば、尊師は私たちの前に現れて、私たちに説法してくれるだろう」こうして、麻原教祖がなぜサマナたちの前に現れないのかという疑問は消えてなくなるのです。サマナたちはそうした疑問を捨てて、ひたすら修行に励むのです。そしてその修行の一環として、ワークに専念するのです。印刷物を作ったり、ラーメンを作ったりするワークが修行であると麻原教祖が言うものですから、サマナたちはワークを修行だと思い込んで、ワークに打ち込んでいくのです。さらに、サマナたちは、前に述べたように、修行の決意文を読み上げさせられます。決意文は約十五分かかつて読み上げるのですが、千回読み上げると、記憶できたかどうかのテストを受けるのです。もし記憶できなければ、サマナたちはさらに何千回もその決意文を読み上げるのです。サマナたちは麻原教祖からこう教えられています。「君たちがこの決意文を記憶していれば、死んだ後、来世にどこに行くのかを決められる時、その記憶に基づいて上級の世界に導かれることになる。この決意文を記憶していなければ、君たちは三悪趣(地獄、餓鬼、畜生)に落ちるだろう。しかし、この決意文を記憶していれば、君たちは上級の世界に行くだろう」

こうして決意文を十五分かけて読み上げ、しかもそれを一千回も繰り返すのですから、サマナたちはこの決意文以外のことは次第に考えることができなくなります。耳からは麻原教祖の声が聞こえ、教祖の声に合わせて発声を繰り返していくと、頭の中には決意文以外のことは何もなくなります。決意文の主旨は、「尊師に帰依するぞ。救済のためには手段を選ばないぞ」というもので、サマナたちは自然に麻原教祖の奴隷と化し、犯罪者予備軍として訓練されていったのです。サマナたちは決意文を読み上げることが修行であり、この修行をすればステージが高まり、そうすれば麻原教祖に会って説法が聞けると本気で思っていました。その修行で、本当はステージを高めるどころか、人間としての尊厳を失い、単なる奴隷となり、犯罪者になるための訓練を受けているということも知らずに、サマナたちは麻原教祖に会いたい一心で修行に没頭していくのですしかし当の麻原教祖にしてみれば、サマナたちは既に全財産をオウムに寄付してしまったので、もはや無一文で、無用の長物でしかなかったのです。麻原教祖からすれば、信徒が出家する時点ですべての財産をオウムに寄付させることが一番大事なことだったのです。魚は釣り上げる時が大事なのです。そして、釣った魚に餌はやらないとでもいうように、麻原教祖はサマナたちにほとんど会おうとはしません。時には、「体調が悪い。Q熱リケッチャに罹った」などと仮病を使って、サマナたちから遠ざかっていたのです。麻原教祖は第六サティアンで寝泊まりしていましたが、そこは一般のサマナからは隔離された居住空間でした。起床すると、妻の松本知子を第六サティアンに残したまま、麻原教祖は長女のドウルガーと三女のアーチャーリを連れて、第二サティアンか富士山総本部に移動しました。第二サティアンには三人の若い愛人がいましたし、富士山総本部には石井久子がいましたので、麻原教祖はこうした女性たちと一緒に楽しい時を過ごしていたのです。決してサマナたちには会おうとはしなかったのです。サマナたちに対しては、ただ録音テープと決意文を渡し、それを一千回、一万回、何十万回と読み上げさせていたのです。麻原教祖からすれば、お金を吸い取ってしまって、出し殻のようになったサマナは、もはや会うに値しない者たちだったのです。サマナたちが解脱したい、救われたいという宗教的願望を持っていることなどは、麻原教祖にとってはどうでもよいことだったのです。麻原教祖はサマナたちをアリンコのようにしか考えていなかったのです、サマナたちは麻原教祖に絶対的に服従すべき虫けらなのです。この虫けらたちが平気で人を殺すことができるように仕向けていたのです。麻原教祖の命令に絶対に従う兵隊を作ろうとしていたのです。
サマナたちは解脱したいと思い、麻原教祖に会いたいと思っているのです。それに対して麻原教祖はサマナを兵隊としてのアリンコにしたいと思っているのです。両者の思惑は全然異なっていたのです。ですから、麻原教祖がサマナに会うわけがないのです。.そこで麻原教祖が考え出したことは君たちが修行して、ステージを高めたら会ってあげよう」というものだったのです。しかし、その修行というものは、実際にはアリンコになることなのです。つまり、「アリンコになったら会ってあげよう」ということだったのです。アリンコとは、麻原教祖の命令に絶対的に従う兵隊のことです。その命令とは平気で人を殺すことなのです。サマナたちは、解脱を真剣に求め、修行をしているつもりなのに、実際には平気で人が殺せるようになる訓練を受けているのです。サマナの皆さん、一日も早くこのことに目覚め、アリンコとなることをやめて、人間の尊厳を取り戻して下さい。麻原教祖の私生活を見てきた私は、このことがはっきりと分かるのです。サマナに会うことをせず、毎日愛人に会ってばかりいた人が、何で教祖なのでしょうか。

編集者 てつてつ (2020年01月28日 17:47:00)

オフライン

#323 2020年01月28日 16:26:10

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

逮捕された後

二度目の接見の時は、青山弁護士は今度は紙に書くのではなく、口頭ではっきりと言いました。「完全黙秘を続けて下さい」それに対して、私は次のように言いました。「いろいろなオウムの悪事が露見して、皆が色々と喋り出しているではないですか。ですから事実を言うべきなのではないですか」すると、青山弁護士は、「事件について警察に一言でも喋ることはグル(尊師)を裏切ることになります。一言でも漏らすことは大悪業になります。無間地獄(八熱地獄の最下底の地獄)に落ちることになります」その時、私は、私が逮捕される直前のファックスのことを思い出しました。そのファックスは、麻原教祖の三女アーチャリーよりのメッセージという体裁をとっていましたが、本当は麻原教祖のものであることは明白でした。なぜこのような体裁をとっていたかというと、麻原教祖が発信したとなると、教祖の居場所が警察に分かってしまうからです。「もし君たちが逮捕されても、一言も喋ってはいけません。完全黙秘を続けて下さい。これは無言の行に当たるのです。ですから完全黙秘は修行なのです。そして、この無言の行に徹すれば君たちのステージが上がります」このような意味のファックスを受け取って、私たちはそれを読み終えると、すぐに破って捨てました。これは秘密のメッセージだったからです。その時、私は、ステージが上がるものなら、早く逮捕されて無言の行に挑戦してみたいと思ったくらいなのです。青山弁護士に、「完全黙秘を続けて下さい。もし一言でも喋れば大悪業を犯すことになり、無間地獄に落ちることになります」と言われた時、私はそのメッセージを思い出していたのです。前回の接見の後は、一日は完全黙秘に徹しました。しかし翌日、私は警察の取調官に事実を喋り出していました。そこで青山弁護士に尋ねたのです「警察は正義のためだから喋りなさいと言っています」すると青山弁護士はこのように言いました。「正義には二つあります。一つは警察の正義であり、もう一つはオウムの正義です。警察の正義というのは、警察がデッチあげ、作り上げた正義です。それに対してオウムの正義には真理が伴っているのです」そこで私は再度、青山弁護士に尋ねました。「それでは、逃亡しているサマナたちは、なぜ出頭しないのですか。堂々と出てきて正義と真理を主張すればいいのではないですか。なぜ隠れているのですか」これに対して青山弁護士はこう答えました。「彼らは修行中なのです。逃亡していることが、修行なのです」この言葉を言う時、さすがに青山弁護士も庇理屈だと分かり、自分でも苦笑いしていました。私はその時、この人に哀れみを感じてしまいました。「この人には、もはや自分の意思というものがない。ただ麻原教祖の言いなりになっているだけだ。麻原教祖の奴隷になってしまっている」このように私は感じて、青山弁護士に何とも言えない哀れみの気持ちを抱いたのです。しかし、青山弁護士が三回目の接見に訪れることはありませんでした。彼自身が、接見に来たところを逮捕されてしまったからです。そして奇妙な縁とでも言うのでしょうか。青山弁護士は私のすぐ隣の独房に入れられたのです。その独房からは、以前のような威風堂々たるものはなく、蚊の鳴くようなか細い声で、看守と喋っている青山弁護士の声が聞こえてきました。あのエリート大幹部の実態はこんなものだったのかと、つくづくがっかりさせられました。


青山弁護士は自ら志願して取調室に出向くことはありませんでした。「弁護士だったら、もう少し正義感というものがあって然るべきだろう。もう少し知っていることを喋るべきだろう!」と腹立たしく思うこともありました。彼は取調官から催促されれば喋るものの、自らが志願して語ろうとはしなかったのです。はがゆい限りでした。青山弁護士の初公判(十月十八日)での発言を聞いていても、何かしら中途半端なものを感じます 彼は、一方ではオウム教団が犯した数々の犯罪を知っており、それを反省しているのだと思います。しかし他方では、麻原教祖への絶対帰依という宗教心を反省できないでいるのです。彼はこの二つの方向に分裂し、苦悩しているのです。彼がこの苦悩から救われるためには、麻原教祖を否定することが必要なのです。しかし今のままでは、彼は麻原教祖を否定する方法を持っていないのです。麻原教祖を否定するためには、私たちがいるこのリハビリセンター(駆け込み寺)と交流を図る以外にはあり得ないと思います。


私は公判に臨んだ時に、このように発言しました。「麻原教祖を死刑にして下さい!」私がこのような発言をした理由は以下の通りです。その当時までに松本サリン事件や地下鉄サリン事件など多くの凶悪犯罪がオウムの手によって実行され、その結果、多くの犠牲者が発生したのです。その犠牲者の遺族の方々の「深い悲しみと怒り」に思いを馳せると、どうしても麻原教祖を許し難く思われ、それであのような発言をしたのです。でも、今私が、「麻原教祖を死刑にして下さい」と発言している理由はそれだけにとどまりません。私の今の気持ちの中では、その遺族の人たちの無念の気持ちへの思いと同時に、サマナたちのこともあるのです。マインドコントロールされて、いまだに目の覚めないサマナたちを覚醒させるためにも、「麻原教祖を一日も早く死刑にして下さい」と言いたいのです。こうしたサマナたちは、「麻原教祖は七年後には獄中から出てオウムに帰ってくる」という麻原教祖の予言をまだ固く信じているからです。サマナたちの麻原教祖によるマインドコントロールを解くためには、麻原教祖が死刑になってその予言が外れることが一番効果的だと思います。ですから、私は麻原教祖が一日も早く死刑になることを切に望んでいるのです。

編集者 てつてつ (2020年01月28日 16:31:58)

オフライン

#324 2020年01月28日 16:46:18

ラハム
メンバー

Re: 聖書という書物について

てつてつ さんの発言:

ラハムさんありがとうございます ぜひ読んでみてください

中沢牧師さんも最初は現役証人さんに組織のここがこのように間違いなんですよ、と
説明できれば脱会させることができると思っていたが、
そうではなかったといってましたが 、
この例もそのようなパターンの一つかなと感じました

そのとおりだと思います。
わたしも三年以上大野教会で、家族や知り合いを
JWから脱塔させ、救出したいという方々とお会いしてきました。
それらの人たちがたいてい最初に行うことは、
組織の誤りや矛盾点を指摘してしまうことなのです。

組織について、真実を知りたいとか、脱出したいと考えている人には、
組織の誤りや矛盾点を指摘することは有効だと思います。
事実、わたしはその一人でした。

しかしながら、信じ切っている人や、組織のとどまり続けたい人は、
矛盾点や誤りを指摘されると、サタンや悪霊からの誘惑と解釈し、
いまは、邪悪な天使でしたね…、
組織が警戒するように警告しているとおりになったと、
思い込むことになるのだろうと思います。
事実、家庭聖書研究の最初からこうしたことが扱われていました。
だから、救出作戦はかえって混乱を招くことになってしまいます。
それに、わたしには信じがたいことですが、矛盾や誤りに満ちた組織にいて
幸福だと感じている人も少数ながらいるのです。
また、他のトピックで書き込んでおられるラッピーさんのように
家族の必要で組織にとどまらねばならないこともあります。

JWはなることのほうがやさしくても、
清く去ることの不可能な宗教だと思います。

ですから、現在のわたしは、誰か聞いてくる人がいれば、
必要に応じて情報を提供できるようにしておこうという方針です。

掲示板ですが、ときどき大炎上になることもありますが、
カルト宗教について正確に知りたいという人にはとても有効な手段だと思います。

カレブさんに感謝しています…。

オフライン

#325 2020年01月30日 10:44:37

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

たもさんの カルト宗教やめました 続編読んでみました もう証人ネタはダメだめだろうと思っていたのですがなかなかよかったです

サンプル

コミニュティで預言者ヤコブをやっつけるのが爆笑でした kiss

編集者 てつてつ (2020年01月30日 11:31:45)

オフライン

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