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#401 2020年01月12日 09:02:40

仰天
ゲストユーザー

Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

マタイによる福音書/ 11章 28節
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。


※ 誰のもとに行くべきですか。


ヨハネによる福音書/ 14章 06節
イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。


※ イエスが単なる天使や人間に過ぎないなら自らを真理と述べる事はされなかったでしょう。





ヨハネによる福音書/ 14章 09節
イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか。




イザヤ書/ 09章 05節
一人のみどりごが私たちのために生まれた。/一人の男の子が私たちに与えられた。/主権がその肩にあり、その名は/「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
イザヤ書/ 10章 21節
残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が力ある神のもとに。



※ 「力ある神」という称号はYHWHに対して用いられています。

#402 2020年01月12日 09:25:52

仰天
ゲストユーザー

Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

使徒言行録/ 02章 21節
しかし、主の名を呼び求める者は皆、救われる。』




使徒言行録/ 09章 05節
「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。



使徒言行録/ 09章 14節
ここでも、御名を呼び求める人をすべて縛り上げる権限を、祭司長から受けています。」

使徒言行録/ 09章 15節
すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名(イエスの名)を運ぶために、私が選んだ器である。

使徒言行録/ 09章 16節
私の名(イエス)のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に知らせよう。」


使徒言行録/ 09章 21節
これを聞いた人は皆、驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼ぶ者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」




使徒言行録/ 15章 14節
神が初めに心を配られ、異邦人の中からご自分の名を信じる民を選び出された次第については、シメオンが話してくれました。






使徒言行録/ 19章 17節
このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名を崇めるようになった。




使徒言行録/ 22章 16節
さあ、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を呼び求め、洗礼(バプテスマ)を受けて罪を洗い清めなさい。』」



※旧約時代のユダヤ人はYHWHの証人でしたが、新約時代からのクリスチャンはキリストの花嫁であり、キリストの証人です。



クリスチャンはYHWHを発音してその名を伝えていましたか?

主イエスの御名をクリスチャンは呼び求めて伝えているのです。



ルカによる福音書/ 21章 12節
しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の名(イエスの名)のために王や総督の前に引っ張って行く。

※ クリスチャンは誰の名による迫害を受けますか?

エホバですか、イエスですか。

#403 2020年01月12日 09:52:05

仰天
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Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

マタイによる福音書/ 18章 20節
二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」


※ イエスは、ご自分の名前で集まるなら、共におられると言われました。

クリスチャンは誰の名によって集会を開くのでしょうか。エホバですかイエスですか。

#404 2020年01月13日 19:08:44

仰天
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Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

最近 10 年間の考古学的調査の進展:南レヴァントの場合

The Advancement of Archaeological Research in the Southern Levant over the last Ten Years
杉本 智俊 Tomotoshi SUGIMOTO
キーワード:南レヴァント、ダビデの町、シロアムの池、メギドの礼拝堂
Key-words: Southern Levant, City of David, Pool of Siloam, the Megiddo prayer hall


南レヴァントは聖書の背景となった地として知られてお り、観光行政ともあいまって積極的な発掘調査が行われて いる。特にイスラエルでは、1948 年の建国以来マサダ(Masada)やハツォル(Hazor)など大規模な発掘調査が 積極的に行われ1)、ヘブル大学やテル・アビブ大学の考古 学研究所が設立され、現在でも活発な活動が行われている。

西欧各国はそれぞれの研究所を構えて長期プロジェクトを 運営しており2)、日本隊も調査に加わっている3)。
政府考古局はこれらの調査を運営支援する他、国内の全地域を体 系的に踏査し、遺跡分布地図を作成しており、それに応じ て各プロジェクトを統制している。調査結果は、最終報告 が単行本として出版される他、初期報告が Israel Exploration Journal, £Atiqot 等の学術雑誌に掲載されてい る。

個々の調査はそれぞれ固有の意義を持ち、情報を蓄積す る上で重要だと思われるが、そのすべてにまんべんなく触 れることはここでは難しい。

そこで本論ではここ 10 年間 の調査の内、現在の南レヴァント考古学の方向性を典型的 に反映する 2 つの分野 4 つの調査について紹介し、その意 義を論じたい。

#405 2020年01月13日 19:09:57

仰天
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Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

「ダビデの町」の調査

ひとつめは、エルサレム「ダビデの町」の発掘調査である。「ダビデの町」は現在のエルサレム旧市街の南に位置 する小さな丘で、エルサレムで最初に居住が始まり、イスラエル統一王国初代の王ダビデが首都を置いた場所だとされている。
古代のエルサレムは現在の町によって完全に覆われており、政治的問題や土地所有の複雑さから大規模な発掘調査 を行うことが難しい。これまでもかなりの数の発掘調査が 行われてきたが4)、調査が細かく分断されていたため、青 銅器時代や鉄器時代のエルサレム像には不明な点が多かった。しかし、エルサレム建都 3000 年記念に向けて 1990 年代から観光整備が行われ、特に「ダビデの町」で組織的な発掘調査が行われたことで、イスラエル王国時代の首都の様子が解明されてきた。また、別の組織による発掘調査で「ダビデの王宮」と考えられる建築も発見されている。こ れらの成果は、今後ダビデ王朝やイスラエル王国の歴史を 理解する上で大きな意味を持つものである。

1. 「ダビデの王宮」らしい建物の発掘

ダビデはイスラエル 12 部族を統一し、エルサレムを中心に南レヴァントに強力な王国を築いた王として聖書に記されている(IIサムエル記 8 章)。ところが、1990 年代になると、聖書学の分野でも考古学の分野でもダビデの実在性や強力さを疑問視する主張がなされるようになった。聖書学では、俗に「ミニマリスト」と呼ばれる学者たちによって、旧約聖書はすべてバビロニア捕囚以降に創作されたもので、それ以前に関する記述には一切歴史的価値は認められないと主張されるようになった5)。
考古学でも、ダビデの首都があったはずのエルサレムでほとんど大型建築が知られていないことから、同様な主張をする者が出てきた6)。

当然このことはイスラエル王国の歴史を考える上で 決定的に重要な事なので、1998 ~ 2001 年には聖書文学会 が「聖書と考古学におけるエルサレムに関する協議会」7) を計画し、その成果は A. G. Vaughn and A. Killebrew, Jerusalem in the Bible and Archaeology: The First Temple Period, Brill, 2003 として出版された8)。

しかし、 この書は両論併記で、明確な方向性を出すことができない でいた。

#406 2020年01月13日 19:11:09

仰天
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Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

このような状況を一変させたのが、E. マザール (Mazar)による「ダビデの王宮」らしい建物の発見であ る。マザールは、ダビデの町の一番高い部分の東側(G地区)で 2005 年から発掘調査を開始した(地図 1、写真 1)。

ここにはこれまでも高さ 10m 以上ある石垣状の「階段状 遺構」(前 12 ~ 11 世紀)が知られており、ダビデが攻め落とす前にエルサレムに住んでいたエブス人の「シオンの 砦」を支える石垣だったと一般に考えられてきた。この石 垣の上部は、すでに 1920 年代にマカリスター(R.A.S. Macalister)によって調査され、目立った遺構が見つから ないので放置されてきた場所だった。ところがマザールが 再調査をしたところ、マカリスターが掘り残した部分から「ダビデの王宮」と思われる大型の建物が検出されたので ある。

この建物は幅 3m の壁で囲まれており、東西方向の壁は 調査区の端から端まで 30m にわたって貫通していた(図 1)。今後調査区を広げるとさらに長い壁になるものと思わ れる。
また、南北方向にも同じような壁が少なくとも 7m 以上続いていることが確認されている。これらの壁と関連 して、入口と思われる部分、敷石の床、塔、小部屋等も検 出されている。共伴する土器からこの建物は前 10 世紀、 すなわちダビデ時代のものと考えられ、漆喰で覆われた床 下からは前 12 ~ 11 世紀の土器が出土している。
発掘者のマザールは、この建物が「ダビデの王宮」だっ たと主張している。建物の規模から大型の公共建造物であ ることが確実であり、ダビデの町の一番高い部分、石垣の 上に位置していること、時代が前 10 世紀であること等が 理由である。

また、イスラエルの王宮建築に特徴的な原ア イオリス式柱頭がこの周辺からすでに発見されていたこと や王室の役人の封泥が多数出土していたことも、この地区 と王室との深い関係を示している9)。

もしこれが本当に「ダビデの王宮」だとすると、イスラ エル史理解のために大きな意味を持つため、この同定には 慎重な学者も当然いる。その点はマザールも認識しており、 2005 年の調査の初期報告はすみやかに刊行され(Mazar 2007)、2006 年から 2007 年にも半年間連続的に発掘調査 が行われた。

この建物が他の機能をもった建物である可能 性は捨てきれないものの、現時点でも前 10 世紀の「ダビ デの町」にこのような大型の公共建造物が存在したことは 確実であり、強力な首都の存在を示すものとなっている。

#407 2020年01月13日 19:12:46

仰天
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Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

2. 防御・水利施設の発掘 ダビデ時代のエルサレムが頑強な要塞都市だったことは、最近の別の調査からもあきらかになっている。


1995 年からイスラエル考古局の R. ライヒ(Reich)と E. シュ クロン(Shukron)が、エルサレム建都 3000 年記念のた めにエルサレムの水源であるギホンの泉周辺の発掘調査を 行い、強力な水利施設と防御施設を発見したからである(Reich and Shukron 1999)。

これまでの理解では、エルサレムの水は、城壁の外にあるギホンの泉の水を地下トンネルを使って城壁の内側に導 き、「ウォーレンの竪穴」10)と呼ばれる自然の岩の亀裂から汲み上げたと考えられていた。包囲戦に備えるためであ る。

ところが今回の調査で、この水利施設はより大がかり で、地下トンネルの終点は自然の岩の亀裂ではなく、人工 的に作られた大型の水溜だったことが判明した(図 2)。
この水溜の横には、ひとつの壁の幅が 3m ある塔が立って いたことも確認された(写真 2)。1 つ 1 つの石は長さ 1m を超すような巨石が使われている。城壁の内側から地下ト ンネルに入った人は、この塔と水溜の上に出、そこから水 を汲むようになっていたと考えられる。また、水源の泉自 体の周囲も大型の塔で囲まれていた。こちらはさらに太い 幅 4m の壁でできており、建築の規模は 15 × 17m であっ た。

これら一連の施設は、土器や建築様式から判断してダビ デより 6 ~ 700 年前の中期青銅器時代に造られたものだと 考えられるが、発掘者たちはダビデ時代まで継続使用され ていたと主張している 11)。

これらが前 8 世紀の土器を含む 土で覆われていたためで、それまで地表に出ていたと考え られるからである。この塔の上部ではすでに中期青銅器時 代の城壁が K. ケニヨンによって検出されており、今回の 水利施設と一体の構造になっていた。さらに南側のE地区(地図 1)でも、それに続く城壁が 80m にわたって Y. シ ロ(Shilo)によって確認されている(Shilo1984)。

これらはダビデが建設したものではないが、ダビデ時代(前 10 世紀前半)にもその首都エルサレムを守る巨大な防御 施設として機能していたことが知られるのである。

これまで南レヴァント考古学では、中期青銅器時代には 強力な城塞都市が形成されたが、後期青銅器時代になると 一般に城壁は用いられなくなったとされてきた 12)。

この地 域がエジプトの支配下にはいり、城壁の使用が認められな くなったからである。しかし、最近の研究では、これまで 後期青銅器時代の城壁がないとされてきたエリコ(Jericho)やへブロン(Hebron)でも中期青銅器時代の城 壁が継続使用されていたことが示されており(Chadwick 2005; Peleg and Eisenstadt 2004)、

このエルサレムの例も 同じ傾向を示すものと言える。実際このように巨大な塔や 城壁は破壊するのも困難で、町に居住がある限り上部構造 を建て直して継続使用したと考えるほうがはるかに論理的 だと思われる。
これまでダビデ時代のエルサレムの様子は考古学的にほとんど知られておらず、上述のようにその存在さえ疑問視 する研究者もいたが、ここ 10 年間に「ダビデの町」で行われた考古学調査によって統一王国時代のエルサレム理解 は飛躍的に進み、そのように極端な立場は不可能になった と言えよう 13)。もはや情報がないとしてイデオロギー的な議論が交わされるだけでは不十分で、これらのデータを説
明できる考古学的モデルを構築することが求められるようになったのである。

#408 2020年01月13日 19:17:53

仰天
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Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

キリスト教関連遺跡の調査

1. ローマ時代の「シロアムの池」の発掘
ここ 10 年間に大きな進展のあったもうひとつの分野は、キリスト教関連遺跡の調査である。

たとえば、「ダビデの 町」の南端では 2004 年にローマ時代のシロアムの池が発 見され、調査が進んでいる(地図 1)。

シロアムの池は、イエス・キリストが生まれつきの盲人 を癒した場所(「ヨハネの福音書」9:1-7)として有名である。

また、前述の中期青銅器時代の防御施設を最終的に作 り変えたヒゼキヤ王(前 8 世紀末~前 7 世紀初頭)が、ギ ホンの泉から新たに地下水路(ヒゼキヤ・トンネル)を掘 った最終地点としても知られており、これまでも観光客は この水路を歩いて小さな池まで行くことができた。

しかし、 今回の調査でこれまで存在した池はビザンツ時代のシロア ムの池で、イエス時代(やおそらくそれ以前)のシロアム の池はそのさらに南側にあったことがわかったのである。

この池は排水パイプの工事の最中に偶然見つかったものであるが、その後すぐにギホンの泉周辺の調査をしていた考古局のライヒが緊急発掘を開始し、現在も調査は継続し ている。調査は土地所有の関係で池の東半分に限定されて いるが、長辺 75m の矩形の人口池であったことが判明し た(写真 3)。短辺の長さは、西半分が調査されていない ので確定できないが、隅の角度から池は若干台形になって いたと思われる。
池の周囲は 5 段ずつ 3 段階に上るように なっており、水面の高さによって池の大きさを変えること ができたようだ。
この池には二時期あり、第一期のものは漆喰張りで作ら れ、第二期のものは石造りの階段になっていた。第二期の 石の下にある漆喰からはアレキサンドロス・ヤンナイオス の硬貨ばかりが出土した。ヤンナイオスは、セレウコス朝 から独立を勝ち取ったハスモン王朝最後の王(前 103 ~ 76 年)で、その後南レヴァントは混乱期に入り、前 37 年 ヘロデが王位についた。
このため、この池の第二段階はハ スモン王朝末期からヘロデ治世の初期に作られたものと思 われる。また隅の角にあった広場からは、紀元 70 年に第二神殿が崩壊し、ユダヤ人が離散する直前の第一次ユダヤ 反乱期の硬貨が出土した。ユダヤ反乱最後の年「第 4 年」 のものも含まれていたので、この池はエルサレム陥落時ま で使用されていたと思われる。
その後この池は土砂に埋もれ、その存在さえ忘れられて しまったと考えられる。ビザンツ時代(紀元 4 世紀)にキ リスト者たちが「聖地」に教会を建てられるようになった 時、ヒゼキヤ・トンネルの終点をシロアムの池の場所と判 断し、池を作り直してその上に教会を建てているからであ る。しかし、イエス時代(紀元 1 世紀)に使われていた池 が、今回発見されたものであることは確実である。
この池の発見に伴い、シロアムの池周辺の調査が行われ、 これら 2 つの池(ローマ時代、ビザンツ時代)とエルサレ ム神殿があった北側の丘(現在「黄金のドーム」がある「神殿の丘」)を結んでいたローマ時代の道路も発見される こととなった。

この道路は「神殿の丘」に向かって階段状 に上っていた。このような道路はこれまでも「神殿の丘」 の近くで一部知られていたが、今回の発見で新約聖書時代(紀元 1 世紀)に「ダビデの町」と「神殿の丘」がどのようにつながっていたのかが復元できるようになった。

その 後、2007 年になってこの道路にそって排水路も検出され ている 14)。

現在もこれらの道路や排水路の調査は継続されており、 「神殿の丘」と「ダビデの町」をつなぐ古代の道路を復元 することが計画されている。

そうすると、神殿の丘の近く からシロアムの池まで歩いてきて癒しを体験した盲人と同 じ経路を観光客や順礼者も追体験できるようになる。

紀元 1 世紀のエルサレムは、ユダヤ人にとっても第二神殿を失 う直前の重要な時期であり、その様子を復元することには 意味があるが、このようにキリスト教的色彩の強い遺跡の 調査・復元にイスラエル政府考古局が積極的に関わることは、これまであまり例がなかったことであろう。


2. メギドの礼拝堂の発掘 キリスト教関連遺跡の調査でもう一つ注目に値する成果は、メギドの礼拝堂の発掘である。


この礼拝堂は、コンス タンティヌス帝がキリスト教を公認する(紀元 313 年)前 の建物と考えられ(紀元 3 世紀)、まだ迫害下にあった「地下教会時代」のキリスト者たちがどのような信仰を持 ち、教会を形成していたかを知る資料として非常に興味深 い。

この礼拝堂遺構は、イスラエル北部エズレルの谷にある 青銅器時代、鉄器時代の遺跡で名高いテル・メギド(Tel Megiddo)の南西に位置していた。刑務所の拡張工事をす るため事前調査を行ったところ、この遺構が中庭から発見 され、2003 ~ 2005 年までイスラエル政府考古局によって調査が行われたのである。
現在は調査も終了し、報告書も 出版された(Tepper and di Segni 2006)が、刑務所とい う立地もあり、一般公開は検討中である。

現地はアラビア語でアル・ラジュン(ヘブライ語ではオ トナイ)と呼ばれており、ラテン語のレギオ(「軍団」の 意)から来ていると考えられる。周辺からはローマ軍関係 の遺物が以前から知られており、文献資料からもここにロ ーマ第二軍団アライアナと第六軍団フェラッタの本営があ ったことが記録されていた。今回検出された建物もローマ 軍の宿営の一部と考えられる。
礼拝堂のあった建物は、この地区で最も高くなった部分 (Q地区)に位置しており、20 × 30m の規模だった。建物は廊下を中心に 4 つの部分に分けられていた(図 3)。

東側部分は、他の部分より床が 50cm ほど低くなっており、 4 ~ 6 の部屋とパン焼き窯が検出された。北側部分と南側 部分にも複数の部屋があり、居住空間だったようだが、残存性状況はよくない。礼拝堂は西側部分で検出され、5 × 10m の大きな広間となっていた。
入口は東側で、床には モザイク装飾が施され、部屋の両側に天井のアーチを支え る土台が据えられていた。また、このアーチの真下には 2 つの四角い石が床に埋められていた。周囲のモザイク装飾 の配置から考えて、これは聖餐台の基礎だと思われる。
モザイク装飾は聖餐台の四方に施されており、東側と西 側のものは比較的小型で幾何学模様になっていた。

しかし、 北側のものの中央には初期キリスト教徒の象徴であった魚 が 2 匹メダリオンの中に描かれており 15)、さらにその北側 に白黒のテッセラで奉献碑文が記されていた(写真 4)。


日本語訳すると、「ポルピュリオス(とも呼ばれる)ガイ アヌス、百人隊長、私たちの兄弟が、贈り物として自分で 経費を負担してこれ(モザイク)を敷いた。ブロウチウス が、この作業を行った」となる。


このように信仰を告白し、 共同体に貢献するローマ将校がいたことは、『新約聖書』「ルカの福音書」7 章 5 節や「使徒の働き」10 章 2 節など にも例を見ることができるが、キリスト教禁制下でこのよ うな行為が行われたことは驚きである。

また、ここにすで に会衆が存在したことは、「私たちの兄弟」という表現か ら理解される。さらに南側のモザイクにも 2 つの奉献碑文 が記されており、アケプトゥスという人物と 4 人の女性の ことが記憶されている。これらの碑文と遺構は、当時のキ リスト者共同体の性格や組織を研究する上で貴重な資料と なるであろう。


この建物の使用時期は、土器、硬貨、碑文の書体から発掘者によって 3 世紀初めから末までとされている。4 世紀 の初めにキリスト教が公認されると「聖地」イスラエルに はエルサレムの聖墳墓教会、ベツレヘムの聖誕教会など多 くの大教会が建築されることになるが、それ以前の教会は目立った建物を建てることができず、考古学的にも確認す ることがむずかしい。
けれども今回発見された例は、その 中でも比較的落ち着いていた時期には、キリスト者たちが 確立した組織を持ち、聖餐式などの儀式を行い、礼拝行為 専用の建物を建てていたことを示している 16)。

また、これ まで知られていたドゥラ・ユーロポスやカペルナウムの初 期教会堂遺構と異なり、この建物は軍隊という公の組織の 中にあった点も注目に値する。
これまでイスラエルでは、フランシスコ会などの教会組 織がキリスト教関係遺跡の調査を行うことはあったが、イ スラエル政府考古局がこのように積極的にキリスト教関連 の遺跡やローマ・ビザンツ時代の遺跡調査に取り組むよう になったことは新しい傾向だと言えるであろう。この他に もシロやヤティルの教会堂遺跡の調査、デカポリス都市ヒ ッポスの発掘なども行われており、同時代の考古学に対す る関心が高まってきている(Eshel et al. 2001; Segal et al. 2006)。
ローマ時代以降の南レヴァントに関しては大量の文書・碑文資料が存在するため、これまで考古学的には軽視されることが多かった。しかし、プロセス考古学以降、考古学が歴史学とは異なった視点を持つ独立した学問として確立 されたため、イスラエルでもこのような調査がなされるようになったものと思われる。
また、1948 年のイスラエル 国建国当初、考古学はユダヤ人とこの地域の結びつきを確 認するため民族主義的視点から行われることが多く、キリスト教やイスラーム教関係の遺跡は軽視されることが多か った。しかし、本論で紹介したようなキリスト教関係遺跡 の調査は、現在のイスラエル考古学がそのようなイデオロ ギーから解放されつつあり、方法論的により成熟したもの になっていることを示すものであろう。

#409 2020年01月13日 19:27:17

仰天
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Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)


1)ハツォルは Y. ヤディン(Yadin)の指揮で 1955 ~ 69 年に発掘 され、この調査の参加者からその後多くのイスラエル人考古学 者が生まれた。マサダもヤディンのもとで 1963 ~ 65 年に多数 のヴォランティアを動員して発掘され、ほぼ全体像があきらか にされた。
2)例えば、アメリカは William F. Albright Institute for Archaeological Research, フランスは Ecole Biblique et Archéologique Française de Jérusalem, ドイツは Deutsches Evangelisches Institut für Altertumswissenschaft des Heiligen Landes.

3)1990 年から 2004 年まで日本聖書考古学発掘調査団がエン・ゲヴ 遺跡の調査を行った。また、現在も立教大学、天理大学、同志 社大学、慶應義塾大学等によってテル・レヘシュ遺跡の調査が 継続されている。
4)1990 年代以前の調査に関しては、Geva 2000 参照。
5)「ミニマリスト」でないほとんどの聖書学者は、旧約聖書が最終 的に編集されたのは捕囚期後だとしながらも、それらは完全な 創作ではなく、それ以前からの文書記録や口伝伝承に基づいて記されたと考えている。

6)たとえば、I. フィンケルシュタインは(Finkelstein)は、ダビデ・ソロモンの統一王国は貧弱で、実際にイスラエルが確立されたのは、北王国イスラエルが 100 年ほど後のアハブ王の時代 (前 9 世紀)、南王国ユダに至っては北王国が滅びた後の前 7 世 紀以降のこととした。この主張のため、フィンケルシュタイン は南レヴァント全体の土器編年を約 80 年引き下げ、これまでソ ロモン時代とされてきた統一規格の大型城門などを伴う層をす べてアハブ時代とした。これには批判が多い(註 8 の新刊紹介参照)。

7)英語名は、Consultation on Jerusalem in Bible and Archaeology. )筆者による新刊紹介(杉本 2005)も参照。
9)今回の調査でも「ショビの子シェレミヤの子イェフカル」の封泥が見つかっている。イェフカルは、エレミヤ37:3 によると、ゼデキヤ王から預言者エレミヤに遣わされた使者だった。

10)イギリス人の軍人であった C. ウォーレンが発見したことから、このように呼ばれる。 11)後期青銅器時代のエルサレムに居住があったことは、これまでもアマルナ書簡の一部がエルサレムから送られていることや同 時代の墓がダビデの町に対面するオリーブ山の中腹で検出され ていることから知られていた(Saller1964)。また、前述の「階 段状遺構」は一般に鉄器時代I期(前 12 ~ 11 世紀)に年代づ けられるので、中期青銅器時代からダビデ時代(前 10 世紀)ま でエルサレムが継続していたことは確実である。
12)たとえば、マザール 2003: 155 参照。 13)ダビデを創始者とする王家の存在を否定することは、すでにダン遺跡から「ダビデの家」碑文が出土して以来困難になっていた。 14)イスラエル政府考古局のホーム・ページにおける発表 参照。

15)十字架がキリスト教の象徴として確認されるのは紀元 5 世紀以 降で、それ以前は魚や錨が用いられることが多かった。「イエ ス・キリスト、神の子、救い主」(Ιησους Χριοτος ΘεουΥιος Σωτηριος)という信仰告白の頭文字を並べると、Ιχθυς(「魚」の意味)となるからである。

16)実際エウセビウスは、すでに 2 世紀には「すべての町に大きな
教会堂があった」ことを記している(Eusebius of Caesarea 1957)。






杉本 智俊 慶應義塾大学

#410 2020年01月13日 19:31:27

仰天
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Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

#411 2020年01月15日 10:01:01

仰天
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Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

Wikiより転載



テル・ダン石碑は、1993年から1994年にイスラエル北部、テル・ダンでの発掘調査で発見された石碑である。壊れているが、発見された複数の石片を組み立てたところ、フェニキア文字で書かれた、祝勝の碑文が彫られていることが分かった。この石碑はアラム・ダマスカスのハザエル王によって紀元前9世紀後半に残されたものとされている。また、この石碑はダビデが聖書以外で初めて文献として確認されたものでもある。[1] この石碑の発見は数多くの論議を醸したが(中には模造品か否かについての論議も)、現在は広く「正銘の石碑である」とされており、また「ダビデ王朝とダマスカスのアラム王国を参照している」とされている[2]。現在はイスラエル博物館にて展示されている[3]。

石碑の発見   
石碑は1993年に右図中破片Aを、1994に同図中破片B1及びB2を、テル・ダンにて、アブラハム・ビラン (en:Avraham Biran) によって発見され、それぞれ1933年と1935年に大学の同僚のヨセフ・ナヘフによって発表された。[4]

#412 2020年01月15日 10:02:56

仰天
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Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

内容の概要   

紀元前9世紀後半、ハザエル王の翼下にあったアラム王国は、レバント地方の中でも力をつけていた王国であった。ハザエル王が中心都市としていたダマスカスからわずかおよそ110キロメートルのダン(=テル・ダン)は、その手に落ち得た。これは次の考古学的証拠から生まれたものである:残留したイスラエル人は紀元前8世紀まで文献上現れる事は無く、紀元前843年にはダンがハザエル王の下のダマスカスの影響下にあった事も分かっている。[6]

また、碑文には、碑文の著者であるハザエルが起こした彼の敵に対する戦争、つまり「ダビデ家」に対する戦争について記されている。碑文中の二人の敵の名前は部分的にしか読めなかったが、ビランとナヘフによって復元により、アハブの子、イスラエルの王であるヨラムと、ダビデ家ヨラムの子であるアハジアであるとされた。この認識に対して、学者たちの意見は真っ二つに分かれた。[7] ハザエルはまた、碑文中で彼の父の日にイスラエルが彼の領土に侵攻してきた事と、ハダド神がイスラエルに対抗する為に彼を王とした有様をも碑文で語っている。さらにハザゼルは70の王を一千の戦車(馬車)と馬で破った事を述べた。そして最終行では、恐らくサマリア、に対する戦をしようかと持ちかけている側面もある。サマリアとは、すなわちイスラエルの王たちの首都である。[7]

#413 2020年01月15日 10:04:05

仰天
ゲストユーザー

Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

下記の文書はビランとヨセフが発表したものである。点は現版通り文字を区切りを示しており、空欄の四角括弧部分は読解不能を、中身のある四角括弧部分はビランとヨセフによって復元されたものである。

1.[ ]א]מר.ע[ ]וגזר ]
2.[ ]אבי.יסק[.עלוה.בה]תלחמה.בא--- ]
3.וישכב.אבי.יהך.אל[.אבהו]ה.ויעל.מלכי[ יש]
4.ראל.קדם.בארק.אבי[.ו]יהלך.הדד[.]א[יתי]
5.אנה.ויהך.הדד.קדמי[.ו]אפק.מן.שבע[ת---]
6.י.מלכי.ואקתל.מל[כן.שב]ען.אסרי.א[לפי.ר]
7.כב.ואלפי.פרש.[קתלת.אית.יהו]רם.בר[אחאב.]
8.מלך.ישראל.וקתל[ת.אית.אחז]יהו.בר[יהורם.מל]
9.ך.ביתדוד.ואשם.[אית.קרית.הם.חרבת.ואהפך.א]
10.ית.ארק.הם.ל[ישמן ]
11.אחרן.ולה[... ויהוא.מ]
12.לך.על.יש[ראל... ואשם.]
13.מצר.ע[ל. ]

下記の翻訳文はローレンス . J . ミキテュークによって各行毎に翻訳された英文を、本稿執筆者が和訳したものである。

1.[ ]...[ ]そして切り[ ]
2.[ ]私の父は行き、[ ]そして[...]に対して戦った
3.そして私の父は死の床に伏した。父はそのまた[父ら]に会いにいった。今、イ[ス]/ラエル王の支配は侵入した。
4.私の父の支配していた土地の中に。[しかしその後]Hadad神が私を王にしたのだ。
5'.そしてHadad神が私の前を進み、ゆくべき道を教えてくださる。So I went forth from [the] seven[...]/s
6'.of my rule,そして私は[7]0もの王たちを殺した。その王たちは数[千もの馬]/車
7. と数千もの騎兵を操っていた。 [そして私は殺した...]雄羊の子供[...]
8. イスラエルの王、そしてまた私は殺した[...]ヤフーの子供[... 王]/様
9. 王はダビデの家柄である。そして私は[彼らの街を崩壊し変わり果てた]姿にしてしまった。
10. 彼らの土地を[荒廃させ ...]
11'. others And[...そして...王になった]
12. 全イス[ラエル...そして私は横たわった]
13'. siege against [...]
[5]

#414 2020年01月15日 12:51:57

仰天
ゲストユーザー

Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

聖徒ルカ
聖徒ルカは、考古学者や歴史家が始めに手がける執筆者として良く知られているので、私もルカから始めることにしました。またルカの執筆は新約聖書の約四分の一を占めているので(ルカの福音書、使徒の働き)、ルカについて調べれば新約聖書全体の真実性を知るたすけになると思ったからです。

ヨーロッパの学者たちは、約150年前聖徒ルカの歴史的記録を否定しました。ルカの全執筆を否定したその頃の学問的主張とは; ルカの言及している幾つかの地域、場所、当時の支配者達に関する証拠がないことでした。しかし前世紀における考古学遺跡発掘とその結果は、優れた歴史家であるルカと、彼の執筆したニ書(ルカの福音書、使徒の働き)は権威ある歴史の記録である、と証明されたのです。

ウィリアム・ラムジーは偉大な考古学者の一人として知られています。 彼は19世紀中期、ドイツでは有名な歴史学専門校で学び、このように教えられました: 新約聖書は紀元200年の半ば頃に書かれた宗教論であり、一世紀の歴史の記録ではない。 この教えを固く信じていたラムジーはルカの歴史的記録を反証しようと意気込んで小アジアに赴き特別な物的証拠の発見に励みました。数年にわたる現地調査の結果、聖書と一世紀の歴史について見解が一変してしまったラムジーはこのように言いました:

ルカは第一級の歴史家である; 彼の供述は信頼できるだけでなく、真に歴史的感覚を備えた最も偉大な歴史家の一人である。1
ルカの正確な供述は、名前と歴史的重要人物を確かな時間系列で証明しています。さらに数多くの地理的領域と、テサロニケのアムピポリス、エペソの会堂管理者についてと、公共のミニストリー、サイパスでの審議、そしてマルタの“島の首長”について言及しています。またルカはイエスの最初のミニストリーについてと“アビレネの国主ルサニヤ”など、正確なタイトルも上げています。ルサニヤがカルキスの支配者であった時期は紀元前30−40年であったという記録から、学者たちはルカの信頼性を疑っていました。しかし、発掘された記述の年代はテベリオの時代(紀元14−37年)、神殿の献納物に“アビレネの国主”ルサニヤの名が記されています(アビレネはダマスカスの近く)。ルカの詳細な説明と歴史の一致は今日の非宗教的学識会を唖然とさせました。2

パウロがアカヤの地方総督ガリオの前に引き出されたと言う使徒の働きの記録は、考古学が再び立証しました。デルファイで発見された皇帝クラウデオの供述書がこのようにいっています:“私の友でありアカヤの地方総督でもあるルシアス・ユニオス・ガリオ...”  パウロがその地を訪れたのは紀元51年と記録され、また歴史家もこの供述書の年代を紀元52年と判断しています3

使徒の働きの後半、パウロと共に働いていたエラストがコリントの財務係りに任命されています。1928年、考古学発掘隊はコリントの劇場で次のような碑文を発見しました、“造営官として帰還後、エラストは自費で道路を築いた。” 敷石が敷かれたのは紀元50年、財務係の称号は造営官です。4

他の一節で説明しているマルタ島の“最初の島人”と称される首領ポプリオとその変わった称号を、学者たちは歴史的真実性に欠けると判断していました。しかし、最近の発掘からポプリオに“最初の島人”と言う称号があった事実が明らかにされました。5

ルカは他の箇所でテサロニケの統治者をギリシャ語“politarchs”(“市の統治者”)と言っています。この不調和な名はルカの記述の信頼性をさらに立証しました。なぜなら、約20に及ぶ記述が“politarch,”古代テサロニケの指導者の称号“として使われ、この称号がギリシャで使われた形跡は発見されていないからです。6

最後に、聖徒ルカがフィルギアのイコニオムと記しているところから、域世紀にわたりルカの信頼性が疑問視されて来ました。学者たちの判断は、歴史家キケロの文書までさかのぼり、イコニオムはルカオ二アであってルカの言うフィルギアルは間違いである、従ってルカの使徒の働きは全巻にわたって信頼性がないと主張しました。しかし、何が起きたと思いますか?1910年、ルカの記述に相反する証拠を探すため発掘を続けていたラムジーが “フィルギアの都市イコニアム” と書かれた碑文を発見したのです。7 1910年以来、多くの考古学的発掘はルカの記述の真実性を確証してきました!

聖徒ルカの記述と調査の検討を続けてきた著名な歴史家A.N.シャーウィン‐ホワイトの声明: ルカの記述した33にのぼる国名と、54に及ぶ都市と9島の名は全て正確であった。8

使徒の働きの史実性は抗し難く...基本的史実性から否定しようとする試みは全くばかげている。9



https://www.allaboutthejourney.org/japa … t-luke.htm

#415 2020年01月15日 15:13:32

仰天
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Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

新約聖書のルカの福音書や使徒の働きに記述されている古代の町々は、考古学によって現在のどの町かわかっています。「ルカが書いた名前、32の国々、54の町、9つの島は、間違いなく書かれているのです。」10

考古学は聖書について多くの間違った理論の誤りを証明しています。たとえば、モーセの時代、書くことはまだ発明されていなかったので、モーセがモーセ五書(聖書の最初の5つの書物)を書くことはできなかったと今も教えている大学がいくつかあります。けれども、考古学者は黒の石板を発見しました。「そこには楔形文字でハムラビ法典が詳しく記されていました。それはモーセの時代以降のものでしょうか。そうではありません。それはモザイク時代前のものであり、それだけではなく、アブラハム前(2000B.C.)のものなのです。モーセの時代より少なくとも3世紀も前のものなのです。」12

他の主な考古学上の発見としては、1974年に北シリアでエブラ銘板が発見されることによって、初期のアルファベット文字の存在が確証されたことがあります。これらの14,000にものぼる粘土の銘板はアブラハムの時代より何百年も前の2300B.C.であったと考えられています。12これらの銘板に記されている土着の文化は創世記12-50章に記録されている内容と類似しています。

考古学は聖書が歴史的に正確であることを確証し続けています。




https://www.studentinjapan.com/a/Bible215.html

#416 2020年01月16日 06:01:42

仰天
ゲストユーザー

Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

子よ、私の教えを忘れず
私の戒めを心に保て。
あなたには長寿と命の歳月が与えられ
平和が増し加わる。
慈しみとまことがあなたを捨てることはない。
それらを首に結び、心の板に記しておけ。
あなたは神と人の前に
好意と良い成果を得る。
心を尽くして主に信頼し
自分の分別には頼るな。
どのような道を歩むときにも主を知れ。
主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
自分を知恵ある者などと思わず
主を畏れ、悪から離れよ。
それはあなたの体の癒やしとなり
あなたの骨の潤いとなる。
(箴言 3:1-8)

#417 2020年01月16日 15:27:22

仰天
ゲストユーザー

Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

そうです、ラハムさん、イエスはヤハウェ、父なる神もヤハウェ、聖霊なる神もヤハウェです。

また、てつてつさんの紹介しておられる本の内容は、聖書に対して否定的な考古学者の側の見解に過ぎませんから証明された事実であるかのように信じ込むのは危険だと思います。

#418 2020年01月16日 17:44:37

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

神は全能なり。時空、宇宙の法則にも縛られない。という事は・・・
否定も肯定もできない。私はただ耳を傾け熟慮するのみ・・・
どうぞ書いてください^^
自作自演スレッドというタイトルではありますが・・・
神は二種のはかりを憎まれるとありますが、まさに私の状態・・・
もうわからなくなりました。

#419 2020年01月16日 22:32:53

仰天
ゲストユーザー

Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

特集:古代イスラエル 消えた王国 2010年12月号 ナショナルジオグラフィック NATIONAL GEOGRAPHIC.JP

批判派の最先鋒(せんぽう)は、イスラエルのテルアビブ大学の考古学者イスラエル・フィンケルシュタインだ。彼を筆頭として、「低年代説」(ダビデ・ソロモン時代のものとされる遺跡や出土品ははるかに後代のものだとする立場)を唱える研究者は、イスラエル国内と周辺で見つかった多くの考古学的な証拠を基に反論する。聖書考古学者たちは過去数十年、ハツォル、ゲゼル、メギドで「ソロモン時代の」遺跡を発掘してきたが、フィンケルシュタインによれば、これらはダビデとソロモンの時代よりも100年ほど新しい、紀元前9世紀のオムリ王朝の王たちが建てたものだという。
フィンケルシュタインによると、ダビデの時代のエルサレムはせいぜい「丘陵地帯の村」程度の規模で、ダビデは貧しい野心家にすぎず、「棍棒(こんぼう)を手に雄叫びを上げる500人ほどの軍団」を率いていた程度だったという。
マザールの発見について聞くと、「むろん、ダビデの王宮などではない!」と頭ごなしに怒鳴った。「いや、努力は認めるよ。とても感じのいい女性だし、好感をもっている。だがこの解釈は、何と言うか、ちょっと単純だね」
とはいえ、今のイスラエルの考古学界では、低年代説のほうが旗色が悪くなっている。マザールの他にも近年、二人の考古学者が相次いで注目すべき発見を発表した。その一人はエルサレムにあるヘブライ大学のヨセフ・ガーフィンケル教授。エルサレムの南西30キロにあるエラの谷で、ダビデの時代に築かれたと考えられるユダの都市の一画を発見したという。エラの谷は、若い羊飼いのダビデがゴリアテを倒したと聖書に書かれている場所だ。
もう一人、米国カリフォルニア大学サンディエゴ校のトーマス・レビ教授は、死海の南にあるヨルダンのヒルバト・アッナハスで、8年前から広大な銅山遺跡の発掘を進めている。レビの推定では、ここで銅の採掘と精錬が行われていたのは主に紀元前10世紀。聖書によれば、当時この地域にはダビデと敵対していたエドム人が住んでいた。銅が大規模に生産されていたとすれば、ダビデとソロモンの時代には、すでに高度な経済活動が営まれていたことになる。
「この銅山がダビデとソロモンのものだった可能性もあります。金属生産の規模からすると、古代の国家ないしは王国があったと考えていい」とレビは主張する。
レビとガーフィンケルは、数多くの科学的なデータを基に自説を展開している。二人の主張が裏づけられれば、聖書に記されたダビデとソロモンの物語が史実である可能性が高まり、エドム人の登場が紀元前8世紀だとするフィンケルシュタイン一派の主張が否定される。「彼らもこれで終わりね」とマザールは溜飲(りゅういん)を下げる。

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magaz … /_02.shtml

フィンケルシュタインの説を気に入って彼の書いたものを信じ込む人もおられるようですが、フィンケルシュタインの見解にはかなり無理があると言えるでしょう。
聖書なんて嘘だ! と考えたい人はフィンケルシュタインやバート・D・アーマン等に容易に同意するのでしょう。
長い間、懐疑的な考古学者たちに疑われていたルカは信憑性が確認されました。ルカは優れた歴史家です。
アーマンの言う幻覚説もほとんど有り得ない仮説に過ぎません。(具体例を挙げて指摘済み)
イエスの復活は多くの目撃証人が存在し、復活以外の多くの奇跡もイエス様が神の子、メシアであるという事を証明しました。それゆえに多くの人々が命をかけて従ったのです。
考古学的に何の信憑性もないモルモン教や他宗教、偽メシアや他の新興宗教の教祖とは比べ物になりません。
フィンケルシュタイン、アーマンその他の人の『仮説』は証明されていませんが、聖書を否定したい人は共鳴したのでしょう。
単にアーマンと同じような心境にあり、その見解が自分にとって合ったものだと感じたに過ぎないと思います。

#420 2020年01月18日 07:10:19

仰天
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Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

ヌジの粘土板



1925年から1931年にかけて、アメリカ東方研究所(The American ?Schools for Oriental Research)はチグリス川の東にあるヌジで発掘を行い、その結果、紀元前1500~1400年のものとされる二万枚の粘土板が発見されました。これらの粘土板は中近東における聖書の族長時代の生活様式を知るのに重要な情報を提供してくれます。
ヌジ板の中には結婚契約書もあり、不妊の妻が子供をもうけるために、夫にそばめを与えるのを義務づけているものもありました。それにより、創世記16章でアブラハムにそばめを与えたサラの行為や、創世記30章でヤコブにそばめを与えたラケルの行為が当時の生活様式を反映していたことが分かります。また、もし男が妻をめとるための持参金をもっていない場合、その代わりに男は妻としたい女の父のもとである期間仕えることも出来たと記されていました。その様にヤコブは創世記29章18節で、ラケルのためにラバンに仕えました。また、当時、家庭の守神、あるいはテラフィム(テラピム)は相続権の権利証書としての役割を果していました。この事実は創世記31章19、30節で、ラバンの家のテラフィムが盗まれたときのラバンのあわて様を説明してくれます。19世紀後半のドイツの自由主義の聖書学者らは、モーセ五書は伝説的なものであると論じていました。そのうちの一人の学者(Julius Wellhausen)は「聖書の族長の物語からは族長に関する歴史的な情報を得るのは不可能である。」と語りました。しかし、ヌジ板の発見は創世記が、族長時代の生活を正確に記録していることを証明したのです。

#421 2020年01月18日 07:11:42

仰天
ゲストユーザー

Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

エブラ王宮の図書館

1975年に北シリアで、イタリヤの調査隊によって、2万枚以上の粘土版やその断片が発掘されました。そのうちの一枚に、創世記14章2節に書かれてある5つの都市の名(ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイム、ベラ、)が記されていました。聖書の記録以外で、それらの都市の名が記録されていたのはこの発見が初めてです。批判的な学者らはそれまでそれらの都市を伝説上の架空の町であるとしていました。





モアブの石碑

1868年にディボン(トランス・ヨルダン)で発見された記念碑。この石碑にはモアブの王メシャが紀元前835年にイスラエルに対して起こした反逆が成功したことを記録されています。聖書には、メシャの謀反は2列王記3章4~5節に書かれています。考古学によって掘り出された情報量と聖書の信頼性との間には正比例の関係があるようです。その情報が部分的で限られているときには、その知識が聖書の信頼性を否定しているかのように見えることがあります。しかし、その知識が増大するにおよんでは、その知識は聖書の信頼性を確認することになります。

(以上の考古学的な資料は、アメリカ、テキサス州にあるアベリン・クリスチャン大学のビル・ハンブル(B.J.Humble)教授の研究発表「考古学と聖書」に基づくものです。

#422 2020年01月18日 12:17:07

仰天
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Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

詩編/ 014編 001節

指揮者によって。ダビデの詩。

愚か者は心の中で言う「神などいない」と。

彼らは堕落し、忌むべきことをした。善を行う者はいない。

#423 2020年01月18日 12:34:01

仰天
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Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

キリスト教は信じるに値するか
http://mamorumutumi.way-nifty.com/blog/ … -bf95.html

#424 2020年01月19日 08:22:19

仰天
ゲストユーザー

Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。
どの民族の人であっても、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
神は、イエス・キリストを通して御言葉をイスラエルの子らに送り、平和を告げ知らせてくださいました。このイエス・キリストこそ、すべての人の主です。
あなたがたは、ヨハネが洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事をご存じでしょう。
つまり、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。イエスは、方々を巡り歩いて善い行いをなし、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒やされたのです。それは、神が共におられたからです。
私たちは、イエスがユダヤの地方とエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木に掛けて殺しましたが、
神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。
しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活された後、食事を共にした私たちに対してです。
そしてイエスは、ご自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、私たちにお命じになりました。
イエスについては、預言者も皆、この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」
(使徒言行録 10:34-43)

『聖書 聖書協会共同訳』より引用

#425 2020年01月19日 14:24:05

仰天
ゲストユーザー

Re: Chimera元証人自作自演スレッド(レッドカードのお知らせ)

イザヤ29:16

ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった。」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言えようか。


イザヤ45:9

ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、「何を作るのか。」とか、「あなたの作った物には、手がついていない。」などと言うであろうか。

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