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#251 2020年01月09日 08:30:53

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

またいさん 書き込みありがとうございました 昨日は大荒れでうちのボロ屋がひっくりかえるかと思いました kiss
またよろしくお願いします

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#252 2020年01月09日 09:11:47

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

161ページあたり

われわれはすでに、聖書にある苦しみに関する二つの説明を見てきた。ある時には苦しみは罪に対する神罰としてもたらされる。そしてまたある時には人間の罪の帰結として生じる。ではここで第3の解を見よう。聖書の記者によれば、時には苦しみに肯定的な側面がある場合がある。時に神は、悪を種として善をもたらすことがある。それはもしも悪が無ければ存在し得なかった善である。このような理解においては、苦しみは時には救済をもたらすものとなる。このような教えが最初に登場するのは『創世記』の、飢謹と飢えを語る長い一節だ。

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#253 2020年01月09日 09:39:54

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

190ページあたり

「死なない程度の不幸なら、何であれ当人を強くする」などという諺が真理であるとはとうてい信じられない。それが真理ならよいのにとは思うが、不幸にもそうではないのだ。多くの場合、命までは奪わない程度の不幸でも、人を重度の障碍者にし、生涯に及ぶ深刻な後遺症を残し、精神的・肉体的健康を破壊するそれも永遠にだ。われわれは決して苦しみというものを気軽に考えてはならないと思う自分の苦しみであろうと、また他人の苦しみであろうと。私がとくに何よりも激烈に反対するのは、誰か他人の苦しみがわれわれを救うためのものであるという観念だ。この世に満ち満ちている苦痛を認識することによってわれわれはより高潔な人間となると説く人もいるが、率直に言って不快で忌々しい考え方だと思う。確かに、自分自身の苦しみならば場合によっては当人をより強く、優しく、慎み深い人間にするということはあるかもしれない。だが他者の苦しみが、われわれをより幸福にしたり高潔にしたりするためだというようなことは絶対にないのだ。


他人が重病に苦しんでいるおかげで私は自分の健康を感謝することができるなどと考えるのは残忍なことだ。飢えている人間がいるから自分はこの食事に感謝できると言うのはこの上なく自己中心的で冷淡なことだ。周りの人間が次々と死んでいくのを目の当たりにしているだけになおいっそう生きていることがありがたいなどと言うのは、子供のまま大人になった人間の自己中心的な戯言だ。場合によっては、私自身の不運が何か良いことを生み出すかもしれない。だが私は、食べ物がない人もいるのだからという理由で、自分に食べ物があることを神に感謝する気にはとうていなれないのだ。

それゆえに、この世に苦しみがある理由はこれとは別に違いない。あるいはたぶん、結局のところ、理由など何もないのかもしれない。実際、そこに理由などないというのが、次の章で採り上げる聖書の記者たちの答えである。答えがないというのが答えなのだ。

編集者 てつてつ (2020年01月09日 09:40:32)

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#254 2020年01月09日 13:12:04

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

240ページあたり

歴史的に見て、キリスト教の発展にとってlそしてある時期のユダヤ教の発展にとってもl最も重要な見解は、ヘブラィ聖書の最後の書物にも、また新約聖書の多くの書物にも見出すことができる。現代の学アポカリプティシズム者はこの見解を「黙示思想」と呼び慣わしている。この名称およびその基本思想については、この章の後の方で説明する。だがまずその前に、この黙示思想の出所を指摘しておく必要がある。この思想はまず、なぜこの世に苦しみが存在するのかという問題への伝統的な解答、つまり苦しみとは罪に対する罰であるという預言者的解答に満足できなくなったユダヤの思想家たちの間に芽生えた。黙示思想家は、神の意志を遵守しようとしている神の民の方が、よりいっそう苦しみに襲われるという事実に気づいていた。そこで、その理由を説明しなくてはならなかったのである。


言うまでもなく、預言者たちは既成の答えを用意していた民が苦しんでいるのは、神が無力で選民のために何もできないからではない、むしろ神が全能であるがゆえなのだ。この苦難を自らの民の上にもたらしているのは神自身であり、それは民が神に背いたためである。もしも民が神の道に立ち帰れば、神の愛顧を取り戻せる。その時、苦難は終わり、民は再び平和と繁栄を取り戻す。預言者たちはそう教えた。紀元前8世紀のアモスもホセアもイザヤも、紀元前6世紀のエレミヤもエゼキエルも、いや、いつの時代のどの預言者もだ。これこそが預言者的見解である。だが、この預言者的見解が歴史によって否定されてしまった時、いったい何が起こるのか?イスラエルの民が預言者の言葉に従った時神に立ち帰り、偶像や異教の神々の崇拝を止め、神がモーセに与えた律法を遵守し、悪行を悔い改め、義を行なうようにした時、いったい何が起こるのか?苦しみに対する預言者的解答の論理で行けば、その時こそ事態は逆転し、生は再び善きものとなるはずだ。歴史的な問題点とは、民は実際に何度も神に立ち帰ったのだが、その苦難の生活には全く何の変化もなかつたということだ。実際には、彼らが神の道に立ち帰ったがゆえにかえって苦しむことさえあった。異教の強国は、イスラエルの民が神から与えられたモーセの律法を遵守しようとしたがゆえに、彼らを圧迫したのだ。であるなら、苦難をどう説明すればよいのか?民は罪ゆえに苦しんでいるのではない今やむしろ、義のゆえに苦しんでいるのだ。預言者的解答はこの問題に対処できない。そこでこれに対処するために生まれたのが黙示思想の解なのだ

編集者 てつてつ (2020年01月09日 13:15:23)

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#255 2020年01月09日 16:47:17

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

250ページあたり

この考え方が最初に明示されたのは、マカバイ戦争の時代に書かれたとある書物だ。それはへプライ聖書の中で最後に書かれた書物、『ダニエル書』である。


ダニエルは紀元前6世紀、バビロン捕囚とペルシア王国の時代に生きたとされる。だが学者たちの見解は、この書物が書かれたのはその時代ではないという点で一致している。一つにはこの書のかなりの部分がアラム語や後期へプライ語で書かれているからだこれは紀元前6世紀よりもはるかに後の時代を示している。さらに重要なことに、この書物のシンボリズムの多くは、アンティォコス・エピファネスとその過酷な政策を暗示しているのだ。ゆえにこの書は通常、紀元前2世紀半ばのものとされる この書の第1部、すなわち1章から6章はバビロンに捕囚されたユダヤ人ダニエルとその3人の友人たちの物語だ。彼らは異国でさまざまな冒険をするが、つねに超自然的な力によって守られている。そして第2部にはデニエルのヴィジョンが記されている。古代イスラエルにおける黙示思想の攪頭に関心を持つ者にとって、とくに興味深いのはこの第2部だ。なかでも最も重要なのは、7章で語られるヴィジョンだろう。そこではまず「天の四方から風が起こって、大海を波立たせた」ダニエル書』7章2)。それから4匹の恐ろしい獣が次々と海から現われる。「第一のものは獅子のようであったが、鷲の翼が生えていた」(7章4)。これは最後には人間のようになる。第2の獣は「熊のよう」で、口から3本の牙が生えている〔訳注l新共同訳では「三本の肋骨を口にくわえていた」〕。そして「これに向かって、『立て、多くの肉を食らえ』という声」がする(7章5)。第3の獣は豹のようで、烏の翼があり、四つの頭がある。そしてこの獣には「権力が与えられた」(7章6)。それからグー王ルは第4の獣を見て「ものすごく、恐ろしく、非常に強い」と言う(まるで他のがそうではないかのようだ)。この獣は「巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった」(7章7)。さらにこれには岨本の角があったが、さらにもう1本生えてきて、そのために3本が引き抜かれる。....

このヴィジョンと天使によるその解釈をどう理解すべきか?学者たちは昔から『ダニエル書』7章こそはユダヤの「黙示録」の最初の事例の一つ(あるいは、まさに最初の事例そのもの)と見なしてきた。「黙示録」とは文学ジャンルの一種で、マカバイ時代から人気が出始め、その後も最初はユダヤ人、そして最終的にはキリスト教徒の間で大人気となった。今日でも、ほとんどの人は少なくとも一つの黙示録を知っているlヨハネの黙示録』、すなわち新約聖書の最後の書だ。『ダニエル書』7章のヴィジョンと同様にヨハネの黙示録』もまた現代人の目には実に奇妙なものに映る。だが古代の読者にとっては全く奇妙でも何でもなかったはずだ。「ヨハネの黙示録』もまた数ある黙示録の一つとして、お馴染みの文学的伝統に則っているからだ。このジャンルがわれわれの目に奇妙なものに見えるのは、われわれが古代の黙示録を読むのに慣れていないからにすぎない。だが今もなお黙示録の多くは現存している(聖書には入っていないが)。アダム、モーセ、エリヤ、エノク、バルク、イザヤ、ペトロ、ヨハネ、パウロ、その他の人々の名によって書かれた黙示録が現存しているのである。

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#256 2020年01月10日 07:56:26

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

黙示録とは、預言者が自分の見たヴィジョンを記述する文学作品だ。このヴィジョンはほとんどつねに、解釈困難な奇怪なシンボリズムによって示される(たとえば恐ろしい獣など)。だが必ずそばに天使のような解釈者がいて、解釈の鍵を提供してくれる。ある黙示録では、預言者が天の領域に上げられ、そこで見たものが地上で起こることに反映される(言ハネの黙示録」の一部にもこの構造がある)。あるいはまた、預言者の目の前に一連の出来事が示され、これが一種の歴史的時間軸に沿って未来に起こることであると解釈される含ダニエル書』7章がそれだ)。へプライの記述預言者たちがそうであったように、黙示録の預言者もまた同時代の人々に語っているl決して水晶球を覗き込んで何千年も先の未来を見ているのではない。ほとんどの場合(すべてではないが)、黙示録の預言者は匿名で記述しているIそして過去の有名な宗教的人物の名を借りるのだ。これは彼らの書に一種の信綴性をもたらすl天の秘密を明かされるのに、神に最も近い人々、すなわち古の偉人たちほどふさわしい人々があろうか?それゆえにこそ、すでに述べたようにモーセやエリヤ、果てはアダムによって書かれたと称する黙示録が存在しているのだ。そして後にはイザヤ、ペトロ、パウロの名によって書かれた黙示録も登場することになる。過去の有名人を黙示録の著者に仕立て上げることの利点の一つは、その建前上の著者から見た未来の出来事というのは実際の著者の時代にはすでに過去のものとなっていることだ。すなわち、建前上の著者の「予言」は、確かに当たったということになるl予言通りのことが確かに起こったのだから!その点から見れば、まさに『ダニエル書』は黙示録だ。この書はマカバイ戦争の時代に匿名の著者によって書かれた。当時はアンティオコス・エピファネスが神殿を稜し、ユダヤ人に律法を守らせず、従わない者を迫害していた。奇怪なシンボリズムに満ちた『ダニエル書』のヴィジョンは天使によって解き明かされる。このヴィジョンは紀元前6世紀の預言者から見た「未来」の出来事だとされている。だが実際にはここに書かれた「未来」の出来事のほとんどは、紀元前2世紀の実際の著者にとってはすでに過去の出来事なのだ。このような偽予言の利点は、本物の著者が次に起こること、すなわち自分自身の時代から見た未来の出来事に筆を転じても、そうは見えないということだ。つまり著者はある時点までは歴史的にすでに起こってしまったことを書いており、次に自分がこれから起こって欲しいと期待する未来のことを書く。だが読者は、そのすべてを未来の予言として理解してしまう。そしてそこに書かれたことのすべてがこれまでのところはまさに書かれたとおりに実現している(それは当然だ。著者は過去に起こったことを知っているのだから)ことからして、これから先の予言も必ず実現するに違いないと考える。

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#257 2020年01月10日 08:15:30

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

280ページあたり

パウロを完全に理解するには、彼が骨の髄から黙示思想家であったことを認識することが重要だ。事実、パウロはおそらくイエスの信徒となる以前から黙示思想家だった。パゥロの神学に最大の影響を及ぼしたのは、彼自身の黙示思想的な世界観なのだ。その神学l苦難についての観念に根差す神学lを理解するためには、彼の黙示思想とはいかなるものであったのかを理解する必要がある。そのためには、いくつかの歴史的背景を押さえておかねばならない。


私はもう少し正確な答えを出すことが可能だと思う。誰かが死から復活したと信ずるに至ったユダヤの黙示思想家にとって、それは何を意味するのか?思い起こしていただきたいが、黙示思想家は、この世は宇宙論的な悪の勢力に支配されていると考えていた。理由は解らないが、この悪の勢力は事実上、好き放題に地上に惨禍をもたらすことができる。だが一方、間もなく神がこの状況に介入し、悪の勢力を滅ぼすし、地上に善の王国を建て、以てその名の辱めを雪ぐ。そしてこの時代の終わりl新時代の到来直前lには、死者が復活して裁きを受ける。もしもファリサイ派ユダャの黙示思想家としてのパウロがそのように信じていたのなら、もうすでに人が復活したと信ずるに至った彼は、どう考えるだろうか?復活が起こるのはこの時代の終わりだとするなら、その神学的結論は確実かつ重要だ。もしも誰かがすでに復活したのなら、死者の復活はもうすでに始まっているのだ!われわれはまさに世の終わりに生きている。この時代は今まさに終わりつつあり、新時代が到来しようとしている。終わりは始まっているのだ。パウロはまさにそう考えていた。パウロにとってイエスの復活とは、たんに神が義人の雪辱を果たしたというだけのことではない。それはまさに待ち望んだ歴史の終わりが間近に迫っていること、人類はまさに終末を生きていることをはっきりと示す徴なのだ。苦痛と悲惨に満ちたこの邪悪な時代はもうすぐ終わるもはや残された日々は数えるほどしかない。苦痛も苦難も死も存在しない完壁なる神の王国が間もなく出現するのだ。

パウロ書簡は、すべては計画通りに進んでいると断言する。「キリストにおいて死んだ者」は永遠の褒美を逸してしまったわけではない。むしろ彼らはキリスト再臨の際に最初に褒美をもらう者となるのだ。このことは、終末時に起こることをきわめて視覚的に描写したパウロの記述にはっきり表明されている。主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たち﹇すなわち死者たち﹈より先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。(『テサロニケの信徒への手紙こ4章15-17

驚くべき一節である。ここでは、強調しておくべき点がいくつかある。第1に、パウロ自身、この大変動が起きる時には自分はまだ生きていると考えていたらしい(彼は「わたしたち生き残っている者」の中に自分自身を含めている)。第2に、この一節全体がわれわれの生きるこの宇宙は三層から成るという古代の宇宙論(三層宇宙論と呼ばれる)に基づいている。まず、われわれ人間が今生きている層、平坦な大地がある。その下には死者たちのいる層(すなわち冥府)があり、そしてわれわれの上には、神そして今やキリストの住む層がある。この理解によれば、キリストはかってわれわれと共にわれわれの層くだにおり、それから死んで下層に降った。だが彼は復活してわれわれの層に戻り、それからわれわれの上の層に昇った。だがもうすぐここに戻ってきて、その時にはわれわれの下の層にいる者たちが上げられ、そしてわれわれもまた彼らと一緒に上げられる。空中で主に会うために。これがパウロの考えていたことなのだ全く古代人の考えそのものと言う以外にない。われわれの世界は実は丸く、それは諸惑星から成る太陽系の一つの惑星にすぎず、その太陽系の中心である太陽もまた銀河に存在する何十億という星の一つにすぎず、その銀河もまた何十億と存在する他の銀河の中では中くらいの大きさのものにすぎないのだ、などというようなことをパウロは知るよしもない。われわれの宇宙論においては、このように文字通り上がったり下がったりするようなことはあり得ない。神が「上」に、死者が「下」にいるというようなこともない。われわれの宇宙は、パウロのそれとは全く異なるものだ。われわれが惑星地球について知っていることをもしも彼が知っていたなら、いったい彼はどのような黙示録的メッセージを考え出していたか、想像もつかない

編集者 てつてつ (2020年01月10日 08:21:35)

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#258 2020年01月12日 14:59:15

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

298ページあたり

ヨハネの黙示録』は世界の終わりに起こる破局、そしてその後に到来する栄光に満ちたユートピアのような神の王国を記述している。そしてその記述のうちのどれ一つとして、見たところまだ実現していない。だからここ2000年間の読者たちが、この本はこれから先に起こることを述べたものだと解釈してきたのも無理はない。だがこの書をきちんと読めば、記者は遠い未来、たとえば別世紀のことなどに何の関心も抱いていないのは明らかだ。彼が象徴的に言及しているのは、彼自身の時代に起こることなのだ。すでに述べたように、古代の黙示録に見られるヴィジョンは天使的同伴者によって解釈される。ヨハネの黙示録』もそれ以外ではない。二つほど例を挙げよう。17章で、神の怒りの鉢を持った天使の一人が預言者を荒野へ連れ出し、世の終わりに登場する神の大敵のヴィジョンを見せる。かの有名な「バビロンの大淫婦」だ。この女は緋色の獣に跨っているが、この獣には七つの頭と皿本の角がある(同様に岨本の角のあった「ダニエル書』の第4の獣を思い起こされよう)。女は黄金、宝石、真珠で身を飾り立てているlすなわち途方もなく裕福である。「地上の王たち」はこの女と「みだらなこと」をする。彼女は手に「忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れ」に満ちた杯を持っている。そしてその額には「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」という「秘められた意味の名」が記されている。そしてこの女は、「聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血に酔いしれている」17章6)。この忌まわしきもの、神の大敵とは誰か、あるいは何か?まず注目すべきは、彼女は都であるとはっきり記されていることだーバビロン。ヘブライ聖書に親しんでいる人は、言うまでもなくバビロンの都が神とその民イスラエルの究極の敵であることをご存知だろう。だがこの預言者にとって、神の敵となる都とは何だろう?彼が執筆していた1世紀の終わりには、歴史上のバビロンはもはや脅威でも何でもなかったのだ。ここに出てくる「バビロン」は、他の王たちと「みだらなこと」をしているという。すなわちこの都は、他の王国との間にスキャンダラスで破廉恥な罪深い関係を持っている。最も重要なのは、この獣の七つの頭はこの都を治めた7人の王を示すが、同時にまたそれは「この女が座っている七つの丘のことである」とも記されていることだ(17章9)。鋭敏な読者なら、これだけでこの女の意味するものがお解りだろう。古代世界において七つの丘の上に築かれた都とは?ローマの都だ(「ローマの七つの丘」についてはお聞き及びだろう。つまり「七つの丘の上に築かれた都」といえばローマの枕詞なのだ)。そしてこの解釈を裏打ちするように、預言者は告げられる、「あなたが見た女とは、地上の王たちを支配しているあの大きな都のことである」(Ⅳ章肥)。記者の時代、すなわち1世紀において世界を支配していた都とは?ローマ、もしくはローマ帝国だ。これは神の大敵であり、キリスト教徒を迫害している(彼女は彼らの血を飲んでいる)。これは神によって打倒される敵である。これこそヨハネの黙示録』が攻撃対象としている敵なのだ。
もう一つのイメージを見よう。過章にはもう1匹の獣、すなわち海から上がってくる獣が登場する(これもまた、「ダニエル書」の第4の獣を思わせる)。そしてまたもや、これは10本の角と七つの頭があると記される。この獣は地上に対して恐るべき力をふるう。その頭の一つ(すなわち統治者の一人)が「致命的な傷」を負うが、その後で治ってしまう。地上の民のすべてがこの獣を拝むが、獣は「大言と冒濱の言葉を吐く」(「ダニエル害』の獣に後から生えてきた角を思い起こしていただきたい)。さらに「獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つ」。もしもこれがⅣ章の獣に似ていると思われるなら、その通りと申し上げよう。これもまたローマなのだ。だがここでは、この獣は「人の数字」を持ち、その数 獣の刻印は666であるとされる。この666の数字を持つ反キリストとは誰か?

だが古代の知恵ある読者なら、これが誰であるかをたやすく特定していただろう。ギリシア語やへブライ語のような古代の言語ではアルファベットの文字は同時に数字としても用いられていた(一方われわれは、ローマの文字とアラビアの数字を用いている)。アルファベットの最初の文字が1、次の文字が2、以下同様。つまり言ハネの黙示録』の記者は、その人物の名前に用いられた文字を合計すれば666になると述べているのだ。ある意味では、これは深遠な象徴を秘めている。完全数、すなわち神の数字は言うまでもなく7だ。7より1少ない数が6.つまり6は「人間」の数字なのだ。その6が三つあるというのは、神の完全性から程遠い者を指す。すなわち、神から最も遠い者を示す数字だ。だが、それは誰か?17章に登場した七つの頭と皿本の角をもつ獣がローマなら、この13章の獣もまたそうだろう。そしてこの獣は聖者たちの大敵だ。ローマの中でキリスト教徒の大敵とされた者は誰か?キリスト教徒を最初に迫害した皇帝は、言うまでもなく皇帝ネロである。さて、ローマ東部一帯に広まっていた噂によれば、ネロはやがて死から復活し、かつて生きていた時以上の惨害を世界にもたらすという。この獣が「致命的な傷」を負いながら復活するとされていることと符合する。だが何と言っても決定的なのは獣の数字それ自体だ。ヘブライ文字で「皇帝ネロ」と書き、各文字を足し合わせれば、答は666なのだ。

というわけで大いなるバビロンとはローマ帝国
666があらわすものは暴君ネロでさやかさんではないようですね kiss

編集者 てつてつ (2020年01月12日 15:06:17)

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#259 2020年01月12日 15:15:33

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

来なかった終末と黙示思想302ページあたり

この待ち望んだ終末がいつまでたっても来なかった時、黙示思想の世界観はどうなったのか? マルコによる福音書』では、イエスはその弟子の中に「神の国が力にあふれて現われるのを見るまでは、死を味わうことがない者がいる」と述べた(9章1)。「その日、その時」は誰も知らないとしながらも、万物の終わりは「この世代が過ぎ去る前」に来ると述べていた(過章釦)。パウロもまた、主が審判のために天から降りてくる時、自分自身は「生き残っている者」の中にいると考えていた。ヨハネの黙示録』の預言者ヨハネは、イエスが「すぐに来る」と言うのを聞き、自らも「主イエスよ、来てください!」と祈る。にもかかわらずイエスが来なかった時、いったい何が起こったのか?

だがそれから何日、何週、何ヶ月、何年、ついには何十年もの間、待てど暮らせど終わりは一向に来る気配がない。信仰が歴史そのものによって否定された時、いったい何が起こるだろう?この時に起こったのは、イエスの信徒たちが彼のメッセージを捻じ曲げたことだ。ある意味では、黙示思想的希望は一種の神聖な時刻表として理解することができる。そこでは歴史のすべては二つの時期に分割される。悪の勢力に支配されるこの邪悪な時代と、悪が滅ぼされ神が人々を統治する未来の時代だ。だが終末が期待通りに来なかった時、イエスの信徒の一部はこの時間的二元論(今の時代と未来の時代の二元論)を、下の世界と上の世界という空間的二元論に変容させたのだった。別の言い方をすれば、彼らはこの時代と未来の時代への黙示思想的期待という水平的二元論(なぜ水平かというと、すべてはこの地上という同じ地平において起こるからだ)を、下の世界と上の世界の対立という垂直的二元論に変容させたのである。つまり、叶えられなかった黙示思想的期待という灰の中から、天国と地獄というキリスト教の教義が立ち上がってきたのだ。黙示思想はまさに古代における神義論であり、もしも善にして全能なる神がこの世を支配しているなら、なぜこの世はかくも苦痛と苦難に満ちているのかという問題への解だ。すなわち神は実際にこの世を完全に支配している。だから将来において悪の勢力を駆逐し、この時代に神の側にいた者(すなわち苦しんでいた者)を雪辱し、その支配権を再確認する。なぜ今の世においては邪悪な者が栄えているのか?悪の側にいるからだ。なぜ義なる者が苦しむのか?善の側にいるからだ。だが神は来たるべき時代においてこの褒美と罰を逆転させる。最初の者が最後となり、最後の者が最初となる。高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。だがいつまで経ってもそれが起こらずl世界が変容しないのを見て、キリスト教徒は審判とはこの地上において将来の破局の中で起こるのではないと考えるようになった。むしろ審判は各自の死後に起こるのだ。審判は近い将来に起こる出来事ではなく、つねに行なわれているのだ。各自の死の瞬間に。生前に悪魔の側にいた者は永遠の罰を受ける。地獄の炎の中で永遠に悪魔と共に生きるのだ。生前に神の側にいた者はその褒美として神と共に天の至福の中で永遠に生きる。この変容された見解においては、神の王国とはもはやこの地上に実現する未来の王国ではない。それは今、天において神が支配している王国なのだ。神が雪辱し民を裁くのは各自の死後であり、この悪の世界が変容されるのではない。


後のキリスト教徒は、死後の魂が向かう場所としての天国と地獄の教義を詳細に発展させた。このような教えは聖書の中にはほとんど登場しない。へプライ聖書の記者のほとんどは、仮に死後生を信じていたにしても、死後にはすべての人間が、悪人も義人も等しく、陰府で陰のような存在になるのだと考えていた。新約聖書の記者のほとんどは、死後には復活した肉体を得て来たるべき神の王国に入ると考えていた。キリスト教の天国と地獄の観念はこの復活の観念の発展形だが、大きく変容を遂げているlイエスと初期の信徒たちの期待が外れた以上、避けて通れぬ変容ではあったのだが。

編集者 てつてつ (2020年01月12日 15:17:06)

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#260 2020年01月12日 15:21:44

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

そもそも黙示思想は、苦しみの最中にある人に希望を与えるために生み出されたものだ。どうみても対処のしようのない苦しみ、救済的な意味合いの全く見られない苦しみ、人間の肉体のみならず、感情的・精神的実存の核の部分をも痛めつけるような苦しみ。黙示思想がもたらす希望は、究極の善に対する希望だ。たとえ今は悪の勢力が猛威をふるっていたとしても、そんな時代はいずれは終わる。この世で痛み、惨めさ、苦しみを味わっている人々は全員が雪辱を果たす。神が介入し、この歪んだ世界に再びその善の力を行使する。悪は最後に勝つことはできない。最後に勝つのは神なのだ。死が結末なのではない。未来の神の王国こそが結末なのだこれらはいずれも力強く感動的な教義だと思う。だが同時に認めざるを得ないが、この黙示思想は、私には受け容れることのできない類の神話的観念に基づいている。聖書の記者たちのような古代の思想家にとって、世界の終末は三層構造の宇宙論に基づく予言だった。天に住む神は地上の支配権を放棄しているが、もう間もなく地上に降臨し、天上の世界をこの地上世界に実現すると。だが、実際には空の上に神などいない。だから神が地上に「降臨」することも、またわれわれを「上げる」こともない。もう一つ認めざるを得ないのは、現在こそ世の終わりの時代だという熱狂的な期待はこれまでに何度も何度もlというかつねにI期待はずれに終わってきたということだ。現に苦しんでいる者にとっては間もなくすべてが変わる、現在の悪は滅ぼされる、自分たちが正統な報酬を受けられるという期待は大きな希望となる。だがこの待ち望まれた終末は決して来なかった。そして今後も来ることはないl何らかの理由で人類が存在を止める時まで。


このような見解には問題もある。最も明らかな問題は、これまでのこの種の予言のすべては’一つの例外もなくl議論の余地もないほど完壁に外れているということだ。もう一つの問題は、我こそは未来を「知っている」と考えている者はえてして自己満足に陥りがちであり、自分の見解を批判的に検証したりしないということだ。排他的な狂信ほど危険なものはあまりない。さらにもう一つの問題は、すべてのものが最終的には超自然の介入によって正されるのだということを「知る」ことは、一種の社会的自己満足が生ずるということだ。つまり今、ここにある悪に自ら対処しようという気が失せてしまう。なぜならそれらはいずれ、われわれよりもはるかに有能な誰かが対処してくれるのだから。だが、世界とそこに満ち満ちた問題への対処法として、苦難を前に独善に陥るというのは決してよいアプローチとは言えない。もっとよい方法があるはずだ。

編集者 てつてつ (2020年01月12日 15:23:02)

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#261 2020年01月12日 15:44:01

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

だが結局、私は苦しみの問題について最終的には聖書に同意することを認めざるを得ない。私が同意するのは、コへレトの言葉』に示される見解だ。この世にはわれわれに理解できないことなどごまんとある。この世の多くの出来事には意味などない。時には正義などどこにもないこともある。物事は計画や予想の通りにはならない。悪いことは数限りなく起こる。だが人生には善いこともある。人生に対する解とは、生きているうちにそれを楽しめということだ。なぜなら生は傍いものだから。この世は、そしてこの世のすべてのものは、懐く、移るいやすく、すぐに消えてしまうものだ。われわれは永遠に生きるわけではないl永遠どころか、長くすら生きられない。だからわれわれは人生を十全に、可能な限り、できるだけ長く楽しむべきなのだ。これこそがコへレトの言葉』の著者の考えであり、私も同意する。人生は一回限りだ。聖書にそう書いてあると言っても、学生たちは信じられないという顔をするlだが本当なのだ。これこそまさに言へレトの言葉』の教えであり、また他の偉大な思想家、たとえばヨブ記』の韻文対話篇の記者などもこれに同意している。だから私は結局のところ、聖書思想家と言えるのかもしれない。いずれにせよ人生が一回限りだからといって、絶望したり意気消沈したりする必要はない。むしろ逆だ。人生は喜びと夢の源泉でなくてはならない束の間を生きる喜び、そして自分にとっても他者にとってもこの世界をより良いものにしていこうという夢である。

人は偏狭である必要も、人種差別をする必要もない。われわれの法律も習慣も、性別や性的指向に基づいて差別をするよう定める必要はないのだ。何としても強調しておきたいのは、われわれは是が非でも、この世界を われわれの住む世界を われわれにとってこの上なく快適な場に変えていくべく全力を尽くさねばならないということだ。われわれは愛し、愛されるべきだ。人間関係を広め、親しい関係を楽しみ、家族を大切にすべきなのだ。金を稼ぎ、遣うべきなのだ。それも多ければ多いほど良いのだ。美味い食事と酒を楽しむべきであり、外食し、身体に悪いデザートを注文し、グリルで肉を焼き、ボルドーを呑むべきなのだ。街を歩き、庭仕事をし、バスケットボールを見、ビールを呑むべきなのだ。旅をし、本を読み、美術館へ行き、芸術を見て音楽を聴くべきなのだ。良いクルマを運転し、良い家に住まねばならないのだ。セックスし、子供を作り、家庭を作らねばならないのだ。人生を愛するためにできることは何でもせねばならないそれは贈り物であり、そしていつまでもあるものではないのだ。
だがわれわれは同時に、この世界を他者にとってもこの上なく快適な場に変えていくべく全力を尽くさねばならない入院している友人を見舞い、地元や海外への支援に寄付をし、地元で炊き出しのボランティアをし、自分の政治家としての未来よりも世の苦難に関心を持っている政治家に投票し、無睾の民に対する暴力的な抑圧に反対すべきなのだ。この世こそがすべてなのだ。われわれは人生を十全に生き、また他の人々も同様に大地の恵みを楽しめるように手助けせねばならない。結局のところ、われわれは人生の諸問題に対する究極の解決など得られないのかもしれない。なぜという問いに対する答えは判らないのかもしれない。だが、苦しみに対する解答がないからと言って、それに立ち向かうことができないということではない。それに立ち向かうと言うことは、可能な限り世の苦しみを緩和し、人生をより良く生きるべく努力することなのだ。

ここまででこの本は終わりです 結局聖書の述べる悪いことが存在する理由 自由意志「証人もこれかと思います」もふくめてさまざまな理由はどれも納得できるものではないということと結局はアーマンさんもわからないけど人生は一度きりなので一生懸命努力して楽しんで生きてね kiss という感じかと思いました

編集者 てつてつ (2020年01月12日 15:47:21)

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#262 2020年01月12日 15:52:35

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

オマケ 訳者あとがき

幼い頃から筋金入りのキリスト教徒として育てられ、思春期の内に福音派(アメリカのプロテスタントの中でも原理主義的傾向で知られる宗派)の「霊的再生」を体験し、長じては新約聖書を専門とする宗教学者となったアーマン。この経歴を見る限り、彼が妥協を許さぬ筋金入りのキリスト教徒であるということは想像に難くありません。事実、若き日のアーマンは、聖書に書いてあることはすべて正しく、一字一句に至るまで神の霊感によってできているのだという「逐語霊感説」を固く信じていました。聖書の言葉を正しく知りたいと熱望するあまりギリシア語を学び、聖書写本研究の道に入ったのです。その彼がキリスト教を棄て、自ら「不可知論者」を名乗るようになったのは、まさに「神義論」のゆえでした。「神義論」という用語は17世紀に哲学者ライプニッッによって造られたもので、「神の正当性」を問う議論を指します。キリスト教の言う「全能」かつ「慈悲深い」神が実在しているなら、何ゆえにこの世界には苦しみや悪が存在するのか。キリスト教の経典である聖書では、この問題に対してどのような解答が与えられているのでしょうか?「聖書」と一口に言っても、そこにはさまざまな書が含まれており、ゆえにこの問題についても互いに相矛盾するさまざまな解答がいくつも混在しています。それらの解答のひとつひとつを丹念に調べ上げ、それが現代人にとってどのような意味を持つのかを考察することが本書の主要テーマです。その地道な作業の果てに、アーマンはついに棄教に至ったのでした。聖書の説く「苦しみの理由」は、どれをとっても現代人アーマンの知性と良心を共に満足させるものではありませんでした。そこに如何なる神学的理由があったとしても、無事の人々がこの世で被る苦しみはあまりにも過酷すぎると彼は考えます。神の民であるはずのユダヤ人が被ったホロコーストは別世紀の人類が体験した巨大な難難でしたが、同様の「民族浄化」の悲劇はその後も何度も繰り返されました。カンボジアで、ルワンダで、ボスニァで。そして今もなお、ダルフールで、チベットで、それは続いています。このような苦難の意味について考え抜いた結果、彼は「もはやキリスト教の神を信じることはできないと悟り、不可知論者となった。不可知論者である私には、神が存在するかどうか『判らな運。だがもしも存在するなら、その神はユダヤⅡキリスト教が主張するような能動的かつ強力にこの世に介入する神ではないということは間違いない」。豊富な学識と真塾な学問的良心を備えた当代随一の聖書学者が、真の「神の言葉」を求め、半生を賭して研究に打ち込んだ末に辿り着いたのが「不可知論」であったというのは全く皮肉な話ですが、我が国よりも遙かにキリスト教の影響力の強い合衆国においてはこの事実は多くの人にとって衝撃的であったらしく、本書の原書は発刊後ただちにタイムズ紙のベストセラーに躍り出ました。

翻訳者として、本書を読んでいて最も興味深く感じたのは、7章と8章で語られる「黙示思想」の流れでした。現在のキリスト教はある意味、イエスという人物を素材として使徒パウロが造り上げた宗教ですが、よく知られているように、そのパウロは実際にはイエスと会ったこともないばかりか、生前のイエスの活動や思想にはほとんど無頓着でした。つまり現在のキリスト教の教義の基盤となったパウロの思想はイエス自身の教えとはずいぶん異なるものだったのですが、その彼の思想がどこから来たのか、彼は何を信じ、何を考えていたのかということが、本書によって臨場感豊かに解き明かされます。彼にとっては、その後のキリスト教自体の発展はおろか、2000年後の今日においてまだこの世界が存続していること自体、あり得ないことだったのです。キリスト教の長期的な存続そのものがその始祖たるパウロの思想と相容れないとは、これまた痛烈な皮肉です。現在のキリスト教は、その成立の時点ですでに根源的な矛盾を内に抱え込んでいたと言えるかもしれません


というわけで関心ある方はぜひ購入してしっかり読んでみてください kiss

編集者 てつてつ (2020年01月12日 15:55:04)

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#263 2020年01月12日 16:31:09

めぐママ
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Re: 聖書という書物について

ありがとうございました。
ライプニッツ  の「神義論」義父は  この事を 言っていたのです。  哲学書 全部読んでいました。  あなたの言う 神が 全能であるなら  何故  ビアフラで 飢えた子供を放って置くのか? あんなに痩せて お腹だけが膨れた子 あなたは 見ましたか?
と諭してくれましたが  洗脳が どうしょうもないと判ると  見守ってくれていました。 本当に 申し訳ないです。

ところで ストローマン  の定義  wikiの説明を  書き込んでいただけますか?

ちょっと  ちっちゃい子に  「ホットケーキ! 食べたい!」攻撃されているので。

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#264 2020年01月13日 00:49:11

iris
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Re: 聖書という書物について

てつてつさん、ものすごく面白かったです。

各教会はこういう講座をもっと開くといいですね

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#265 2020年01月13日 08:51:54

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

irisさん>てつてつさん、ものすごく面白かったです。

いや自分はirisさんに てつてつは ものみの塔だけではなく聖書も否定する大悪魔だ! devil
と怒られると思ってビクビクしてコピペしてたのですが cry

>各教会はこういう講座をもっと開くといいですね

そんなことしたら信者さん信仰失って教会ガラガラになって商売あがったりになっちゃいますよ   kiss


追伸

自分がこの本読んで興味深かったと思ったところは このトピの257の

第2に、この一節全体がわれわれの生きるこの宇宙は三層から成るという古代の宇宙論(三層宇宙論と呼ばれる)に基づいている。まず、われわれ人間が今生きている層、平坦な大地がある。その下には死者たちのいる層(すなわち冥府)があり、そしてわれわれの上には、神そして今やキリストの住む層がある。この理解によれば、キリストはかってわれわれと共にわれわれの層くだにおり、それから死んで下層に降った。だが彼は復活してわれわれの層に戻り、それからわれわれの上の層に昇った。だがもうすぐここに戻ってきて、その時にはわれわれの下の層にいる者たちが上げられ、そしてわれわれもまた彼らと一緒に上げられる。空中で主に会うために。これがパウロの考えていたことなのだ全く古代人の考えそのものと言う以外にない
という部分もその一つでした

ものみの塔の説明は ライブラリーの第三の天見ますと

では,パウロが見た「第三の天」とは何でしょうか。聖書に出てくる「天」は,空を指すことがあります。(創 11:4; 27:28。マタ 6:26)人間の支配権を指して使われることもあります。(ダニ 4:20-22)神の王国による支配など,神の支配権を指すこともあります。(啓 21:1)パウロが「第三の天」を見たとは,どういう意味でしょうか。聖書は,強調したり強さを表わしたりするために,言葉を3回繰り返すことがあります。(イザ 6:3。エゼ 21:27。啓 4:8)パウロは「第三の天」と述べることにより,イエス・キリストと14万4000人の共同支配者によるメシア王国の支配が最高度に優れたものであることを強調していたようです。
とありますので 全然違いますね cry

編集者 てつてつ (2020年01月13日 11:10:24)

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#266 2020年01月13日 11:21:07

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

発掘された聖書  以前に自分のブログにあげた部分とかぶっている部分があります

まえがきより

古代エルサレムと、聖書を生み出した歴史的状況についてのこれらの新しい理解は大部分、考古学による最近の発見のおかげである。出土品は初期イスラエルの研究を根本的に変え、例えば族長の放浪、エジプトからの脱出、カナン征服、ダビデとソロモンの輝かしい帝国などの有名な聖書の物語の歴史的根拠に重大な疑いを投げかけてきた。

本書は新しい考古学的観点から古代イスラエルの物語とその聖なる書物の誕生を語ることを意図している。私たちは最近発見された証拠によって、聖書の中で言及されている最も有名な出来事や人物が、思いがけなく異なる役割を演ずることになる場合もある、新しい古代イスラエル史を構築するつもりである。けれども、私たちの目的は結局のところ、単なるディコンストラクションではない。それは、聖書がいつ書かれたのかだけではなく、なぜ書かれたのか、そしてそれはなぜ今日も影響力があるのかについて、研究者のサークルの外ではいまだにほとんど知られていない、ごく最近の考古学的洞察を共有することである。


聖書の世界がひじょうに身近になり、入念に探究されるようになったのは、古くからではない。私たちは今、発掘を通して、イスラエル人と彼らの隣人たちがどんな作物を育て、何を食べ、どのように町を建設し、誰と貿易をしたのかを知っている。聖書に出てくる数十の都市や町の場所が割り出され、発見された。最新の発掘方法と実験室での広範なテストが、古代イスラエル人と彼らの隣人であるペリシテ人、フェニキア人、アラム人、アンモン人、モァブ人、エドム人の文明の年代を定め、分析するために使用されている。少数の例であるが、聖書テクストに出てくる個人と直接関係する可能性がある碑文や印章が発見されている。しかしそれは、考古学が聖書の物語を細部のすべてにわたって事実であると証明しているということではない。それどころか、聖書の歴史での多くの出来事は、記述されている特定の時代に、あるいは仕方で起こらなかったということが現在明らかである。聖書において最も有名な出来事の中には明らかに起こらなかったものがある
考古学は、私たちが聖書の背後にある歴史を偉大な王たちや王国というレベルと日常生活の様式の両面において復元することを手助けしてきた。以下の章で説明されるように、私たちは今、聖書の中の初期の作品とそこでの初期イスラエル史に関する有名な物語は特定可能な場所と時代、すなわち紀元前七世紀のエルサレムで最初に体系的にまとめられた(そして主要な箇所においては書かれた)ということを知っているのである。

編集者 てつてつ (2020年01月13日 11:26:41)

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#267 2020年01月13日 13:49:23

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

49ページあたり

実際、聖書はまず第一に、いつ族長たちが生きていたかを正確に特定することを助けるような、年代に関わるひじょうに多くの具体的な情報を提供している。聖書はイスラエルの最も初期の歴史を族長たちからエジプト、出エジプト、荒れ野でのさすらい、カナン征服、士師の時代、そして王国の確立という起こった順番に物語っている。それはまた、計算できる具体的な年代への手掛かりを提供している。最も重要な手掛かりは、神殿建築がエルサレムで始まったソロモンの治世の第四年の四八○年前に出エジプトが起こったという列王記上六章一節の記録である。さらに、出エジプト記一二章四○節は、イスラエル人がエジプトで出エジプトの前の四三○年間奴隷であったことを耐えたと述べている。イスラエル人がエジプトに向けて出発する以前、カナンにいた族長たちの重なる生涯を考慮し、二○○年と少しを加えることで、私たちはアブラハムのカナンに向かう最初の出発として紀元前二一○○年頃という聖書の年代に到達する。


しかし、その編集はいつ起こったのか。聖書のテクストは、その最終的な編集時期を絞り込むことができるいくつかの明瞭な手がかりを示している。例えば、繰り返し言及されるラクダが挙げられる。族長たちの物語にはラクダ、たいていはラクダの群れがたくさん出てくる。しかし、ョセフが兄弟たちによって奴隷に売られた物語においてのように(創三七・二五)、ラクダはまた隊商貿易において使われた荷物運搬用の動物として述べられている。私たちは今、考古学的調査によって、ラクダは二千年期後期以前に荷物運搬用の動物として家畜化されてはおらず、紀元前一○○○年の後しばらくするまで古代近東においてその用途で広く使われてはいなかったことを知っている。そして、ヨセフ物語における「樹脂、乳香、没薬」を運ぶラクダの隊商というさらに印象的な細部の描写は、紀元前八’七世紀のアッシリア帝国の監視の下で繁栄した、富をもたらすアラビア貿易の主要産物を明らかによく知っていることを示している 実際、アラビアと地中海との間の主要な隊商路で特に重要な貨物集散地である、イスラエルの海岸平野の南にあるテル・ジェメ遺跡での発掘は、七世紀になってラクダの骨の数が劇的に増えたことを明らかにした。その骨はほとんどもっぱら成長した動物のものであり、このことは、それらがその地方で育てられた群れからではなく(そうであれば若い動物の骨も発見されるだろう)、荷物運搬用の移動する動物からのものであることを意味している。実際、正確にこの時期、アッシリアの資料はラクダが隊商で荷物を運ぶものとして使われたことを述べている。ラクダが文学的物語での付随的な細部として含まれるほどにひじょうにありふれた風景の特徴となったのはその時代においてのみだった。


これらの一致しない細部は単に初期の伝承への後代の挿入なのか、それともそれらは、それら細部と物語の両方が後代のものであることのしるしなのか。多くの学者、特に「歴史的」族長たちという考えを支持する者たちは、それらを付随的な細部と見なした。しかし、トーマス・トンプソンが早くも一九七○年代に述べていたように、テクストにおける都市、近隣の民族、それによく知られている場所への具体的な言及は、族長物語を完全に神話的な民話から区別するまさに特徴である。それらはテクストの年代とメッセージを特定する上でひじょうに重要である。言い換えれば、こうした「時代錯誤」は年代を定め、族長の物語の意味と歴史的背景を理解する上で、古代のベドウィンを探したり、あるいは族長の年齢や系図を数学的に計算するよりも、はるかに重要なのである。だから、ラクダ、アラビアの物品、ペリシテ人、ゲラルという組み合わせは、創世記の族長物語で言及されている他の場所や国々とともに、ひじょうに重要である。すべての手がかりは、聖書が伝えるところの族長たちが生きてた時代よりも何世紀も後の編集時期を指し示している。これらの、そして他の時代錯誤的な事柄は、族長物語が集中して書かれたのが紀元前八、七世紀の時代であったことを示唆している。

続く章でかなり詳細に見るように、ユダは紀元前八世紀までいくぶん孤立した、人口が希薄な王国であった。それは領土、富、軍事力において北のイスラエル王国ととても比較できるものではなかった。読み書きの能力はたいへん限られ、その首都であるエルサレムは小さな、遠く離れた丘陵地にある町であった。しかし、イスラエルの北王国が紀元前七二○年にアッシリア帝国によって滅ぼされた後、ユダは人口がひじょうに増え、複雑な国家制度を発達させ、その地域における重要な勢力として現れることになった。それは古くからの王朝によって支配され、イスラエルの神を祀る最も重要で、古くから続く神殿を持っていた。従って、八世紀末と七世紀に、ユダはそれ自体の重要性と神の運命についての独自な意味を発展させた。ユダはまさにその生き残ってきたことを、ユダがイスラエル全地を支配すべきであるという族長時代からの神の意志の証拠として理解した。唯一生き残ったイスラエル人の国家として、ユダは現実的な意味で自らを、アッシリアの激しい攻撃を切り抜けたイスラエル人の領土とイスラエル人住民の当然な相続人として見た。必要とされていたのは、この理解をユダの民とアッシリアの支配の下散り散りばらばらになったイスラエル人の共同体の両方に言い表す力強い方法であった。それゆえ、ユダをセンターとする汎イスラエル的考えが生まれた

それゆえ、族長物語は、ユダが決定的な役割を演じたイスラエルの敬虚な「前史」として見なされなければならない。それらは、国のまさに初期の歴史を描き、民族的な境界線を明らかにし、イスラエル人は外部の者であり、カナンの土着の人々の一部ではないことを強調し、北と南の伝承を含むとはいえ、結局のところ、ユダの優越性を強く主張している。北王国のイスラエルで七二○年の滅亡の前におそらく編集された、族長物語のE文書という明らかに断片的な証拠において、ユダ族はほとんど何の役割も演じていない。しかし、紀元前八世紀末そして確実に七世紀までに、ユダはイスラエル民族で残されたものの中心であった。この点において、私たちは族長物語の中のJ文書を、一○○○年以上も前に生きていた歴史的人物の生涯についての正確な記録としてよりはむしろ、イスラエルの民の統一を再定義しようとした文学的な試みとして第一に見なすべきである

編集者 てつてつ (2020年01月13日 14:22:30)

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#268 2020年01月13日 15:43:14

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

出エジプトはあったのか

81ページあたり

聖書の記事によれば、イスラエルの人々はまる四○年間いろいろな場所をあちこち移動し、野営しながら、砂漠やシナイ半島の山々を放浪した。たとえ逃れたイスラエル人の数(テクストの中では六○万人として与えられている)があまりにも誇張されているとしても、あるいはより小さな人々の集団を表すとして解釈されることができるとしても、テクストは最も苦しい状況の下で多くの人々が生き延びたことを描いている。彼らの一世代の長さにも及ぶシナイでの放浪についてのいくつかの考古学的痕跡が明らかなはずである。しかし、北の海岸沿いにあったエジプトの砦を除いて、ラメセスニ世と彼に近い前任者たちと後継者たちの時代から、たった一つの野営地あるいは居住跡もシナイ半島においていまだ確認されていない。そうした試みがなかったわけではない。聖カタリナ修道院の近くの、伝統的にシナイ山とされている場所周辺の山岳地帯を含め、半島のあらゆる地域で繰り返し行われてきた考古学的調査(付録Bを見よ)は否定的な証拠だけをもたらしてきた。たった一つの土器片さえなく、建造物もまったくなく、たった一つの家さえなく、古代の野営地の痕跡もまったくなかった。

イスラエル人の放浪についての記事の中で言及されている他の居留地や民族についてはどうなのか。聖書の物語は、いかに「ネゲブに住む」カナン人であるアラドの王がイスラエル人を攻撃し、彼らのうちの一部を捕虜とし、イスラエル人がすべてのカナンの都市を滅ぼすために神の助けを訴えるほど彼らを怒らせたかを物語っている(民二一・一’三)。ベエル・シェバの東にあるテル・アラドの遺跡でのほぼ二○年にわたる徹底的な発掘は、約二四エーカーの規模の大きな初期青銅器時代の都市と鉄器時代の砦の遺構を明らかにしたが、その場所は後期青銅器時代に明らかに放棄され、いかなる遺構もなかった。同じことがベエル・シェバの谷全体にも当てはまる。アラドは後期青銅器時代には単に存在しなかったのである。

同じ状況はヨルダン川の向こう側の東方でも明らかである。放浪するイスラエル人はカナンへ行く途中、彼らが領土を通り抜けることを妨げようと試みたアモリ人の王シホンの首都へシュボンの町で、戦わざるを得なかった。古代のヘシュボンがあったアンマンの南のテル・へスパンでの発掘は、そこに後期青銅器時代の都市、ひとつの小さな村さえもなかったことを示した。ここはそれだけではない。聖書によれば、イスラエルの人々がョルダン川の東側の台地に沿って移動していた時、彼らはモアブだけなく、エドムとアンモンという十分発達した国家からの抵抗にも直面した。けれども私たちは今、後期青銅器時代のヨルダン川の東側の台地には人があまり住んでいなかったことを知っている。実のところ、聖書の物語で王によって統治された国として言及されているエドムを含むこの地域の大部分ではその時代、人々は定住さえしていなかった。簡潔に言えば、考古学は私たちに、イスラエルの人々が戦うようなエドムの王たちはそこにはいなかったことを示している

パターンがもう明らかになってきただろう。出エジプトの物語の中で言及されている場所は実在する。二、三の場所はよく知られ、もっと早い時代やもっと後の時代、すなわち、聖書物語のテクストが最初に書き留められた時であるユダ王国成立後には明らかに人が住んでいた。歴史的な出エジプトを探し求める人々にとっては不幸にも、これらの場所は、それらが荒れ野でのイスラエルの人々の放浪の出来事において舞台となったと伝えられているまさにその時代、人は住んでいなかったのである。

編集者 てつてつ (2020年01月13日 15:46:00)

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#269 2020年01月13日 16:35:29

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

ヨシュアたちによるカナン侵攻は本当にあったのか  99ページあたり


聖書の中で、エジプトの境界の外にいるエジプト人は報告されておらず、カナンでの戦いのいずれにも彼らは言及されていない。それにもかかわらず、その時代のテクストや出土品は、エジプト人が統御し、その地方の出来事を注意深く見ていたことを指し示す。カナンの都市の諸侯ヨシュァ記では強力な敵と述べられている)は、実際のところ哀れなほど弱かった。発掘は、この時代のカナンの都市が、私たちが後の歴史で知るような種類の一般的な都市ではなかったことを示している。それらは主に、王と彼の家族、それに官僚という彼のわずかな側近たちの住まいとなる、選ばれた者たちにとっての行政上の拠点であり、農民たちはそれを取り囲む地方一帯に散らばり小さな村に住んでいた。典型的な都市には、宮殿、神殿複合体、それに他のわずかな公共の建物、おそらく高官の住居、宿屋、他の行けがあった。しかし、都市に壁はなかった。征服物語で述べられている手強いカナンの都市は要塞によって守られてはいなかったその理由は明らかに、その行政区全体の安全をしっかりと管理しているエジプトゆえに、大規模な防護壁の必要性がなかった、ということであった。大部分のカナンの都市に要塞がなかったことには経済的理由もあった。カナンの諸侯によってファラオに支払われる重い貢ぎ物の賦課のため、地方の小さい支配者たちは記念碑的な公共の仕事に従事する資力(あるいは権威)を持っていなかったのかもしれない。実際、後期青銅器時代のカナンは、数世紀前の中期青銅器時代において繁栄した社会の単なる影であった。多くの都市は見捨てられ、他は小さくなり、定住人口の総数は一○万を大きく越えることはなかっただろう。この社会の小規模さを示すひとつの実例は、エルサレムの王によってファラオに送られたアマルナ書簡の中での、ファラオが「その地を守るために」五○人の男を提供すべきだとの要求である。この時代の軍隊のひじょうに小さな規模は、好戦的な隣人であるシケムの王による攻撃から都市を守るために、一○○人の兵士を派遣するようにファラオに頼んだメギドの王によって送られた他の手紙によっても確認される。


エリコはそうした最も重要なもののひとつであった。私たちがすでに示したように、カナンの都市は要塞化されておらず、崩れ落ちる壁はなかった。エリコの場合、紀元前一三世紀にはいかなる種類の定住の痕跡もなく、紀元前一四世紀と定められる、それよりも早い後期青銅器時代の定住地は小さく貧弱で、ほとんど重要ではなく、要塞化されてはいなかった。それにまた、破壊のしるしがまったくなかった。イスラエルの軍勢が壁をめぐらした町の周りを神の箱とともに行進し、彼らが戦いの角笛を吹くことでエリコの巨大な壁を崩壊させたという有名な場面は簡単に言うと、ロマンティックな妄想であった
考古学と聖書との間の同様な相違は、聖書によれば、ョシュアが彼の巧妙な待ち伏せを実行したとされる古代の遺跡アイでも発見された。研究者たちは、エルサレムの北東にある高い丘陵地の東側面に位置するキルベト・エッ・テルの大きな丘を古代の遺跡アイと見なした。ベテルのちょうど東にある、その地理的位置は聖書の記述にぴったりと合致した。その遺跡のアラビア語での現代名エッ・テルは「廃嘘」という意味で、これは聖書でのヘブライ語名アイの意味とだいたい同じである。そしてその付近のどこにもそれに代わる後期青銅器時代の遺跡はなかった。一九三三年から一九三五年の間、フランスで訓練を受けたユダヤ教徒でパレスチナ人考古学者であるユディト・マルヶト・クラウスがエッ・テルで大規模な発掘を行い、後期青銅器時代のカナン崩壊の一○○○年以上も前の巨大な初期青銅器時代の都市の多数の遺物を発見した。後期青銅器時代におけるひとつの土器片も、あるいはそこでの定住についての他のいかなるしるしも発見されなかった。一九六○年代のその遺跡での新たな発掘も同じ見方を提出した。エリコのように、イスラエルの人々によって征服が行われたと考えられる時代に定住はまったくなかった。

編集者 てつてつ (2020年01月13日 16:40:57)

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#270 2020年01月13日 16:53:03

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

イスラエル人とは何者か 124ページ

考古学が示唆するように、もし族長と出エジプトの英雄物語が後の時代に編集された伝説で、もしヨシュァの下でのカナンの統一的な侵略について説得力ある証拠がまったくないならば、私たちは、古くからの民族であるというイスラエル人の主張についてどう判断すべきなのか。自らの伝統を共通の歴史的、祭儀的な出来事にまでたどるこの人々は何者なのか。もう一度、考古学はいくつかの驚くべき答えを提供することができる。土器、家屋、穀物倉庫を伴う初期イスラエル人の村の発掘は、彼らの日々の生活と文化的連続性の再現をより容易にする。そして考古学は驚くべきことに、それらの村に住んでいた人々が、イスラエル人と呼ばれるようになった民族的アイデンティティを徐々に発展させただけのカナンの先住民であったことを明らかにしているのである。


147ページあたり

安全と経済状態が良くなれば、正反対のプロセスが機能する。かつての遊牧民が定住性の共同体を興すか、あるいはそれに加わり、二つの部分からなる、あるいは二種の特徴を合わせ持つ社会の中で専門的な役割を担うことになる。この社会の一部分は農業を専門とし、他は羊と山羊の伝統的な牧畜を続けるのである。この型は、最初のイスラエル人は誰だったのかという問いに対して特別な意味を持っている。それは、中東社会の二つの構成要素である農夫と遊牧民は、たとえそれら二つの集団の間に時には緊張状態があっても、いつも互いに依存する経済的関係を維持してきたからである。遊牧民は穀物や他の農産物を手に入れるために安定した村の市場を必要とし、一方、農夫は肉、乳製品、皮革の定期的な供給のために遊牧民に依存している。しかしながら、交換に関して両者は完全に同等ではない。村人は生きるために彼ら自身の生産物に頼ることができるが、一方、牧畜遊牧民はもっぱら彼らの家畜の群れの生産物だけで生存することはできない。彼らは肉とミルクの高脂肪な食物を補ってバランスを保つ穀物を必要とする。取り引きできる村人がいる限り、遊牧民は畜産業に集中し続けることができる。しかし、穀物が畜産物との交換で手に入らない時、牧畜遊牧民は自分自身でそれを生産せざるを得ない それが明らかに高地での突然の定住の波を引き起こしたことである。後期青銅器時代、特に高地と砂漠の周辺に牧畜遊牧民の大集団が存在していたことは、カナンの都市国家および村が交換できる十分な剰余穀物を生産することができる限りにおいてのみ可能であった。これは、エジプトがカナンを支配していた三世紀間の状況であった。しかし、紀元前一二世紀に政治体制が崩壊した時、その経済的ネットワークは機能することをやめた。カナンの村人はその地での必要最低限の生活の糧に集中せざるを得なくなり、彼らが彼ら自身のために必要としたもの以上の、かなりの剰余穀物をもはや生産しなかったと推測することは妥当である。それゆえ、高地と砂漠の周辺の牧畜民は新しい状態に適応し、彼ら自身の穀物を生産しなければならなかった。すぐに、農業の要件は季節的移住の範囲縮小を引き起こすことになっただろう。それから家畜の群れは、移住の期間が短くなるにつれ縮小されなければならなくなり、農業に注ぎ込まれる努力が増えるとともに、定住化への恒久的な移行が起こったのだろう。ここで私たちが述べているプロセスは、実際のところ、聖書に記されていることと正反対である。すなわち、初期イスラエルの出現はカナン文化崩壊の結果であり、その原因ではないということである。そしてイスラエル人の大部分はカナンの外から来たのではなく、その中から現れたのである。エジプトからの集団的な脱出はなかった。暴力的なカナン征服はなかった。初期イスラエルを形作ったのはその土地の人々、つまり、青銅器・鉄器時代に高地にいた人々と同じであった。最も皮肉なのは、初期イスラエル人は彼ら自身そもそもカナン人であったということである!

ヨルダンで行われている考古学調査は、アンモン、モアブ、エドムの領土における定住史が初期イスラエルのものと概して似ていたことを明らかにしてきた。私たちはョルダン川以西の高地における典型的な鉄器時代第1期のイスラエルの村についての考古学的な描写を取り上げ、それをほとんど変えることなしに初期モアブの村の描写として使うことができるだろう。これらの人々は同じ種類の村、同様な家に住み、同様な土器を使い、ほとんど同一の生活様式で暮らしていた。しかし、私たちは聖書と他の史料から、ヨルダン川以東の鉄器時代第1期の村に住んでいた人々はイスラエル人にはならなかったことを知っている。代わりに、彼らは後にアンモン、モアブ、エドムという王国を形作った。それでは、初期イスラエルを形作った人々の村には彼ら自身を隣人から区別した何か特有なものがあるのだろうか。私たちは、彼らの民族性と国民性がどのようにして明確な形を取ったのかについて語ることができるのだろうか。今日、過去においてと同じように、人々は多くの異なる仕方で自らの民族性を説明する。すなわち、言語、宗教、服装の習慣、埋葬の慣例、複雑な食物タブーによって。最初のイスラエル人となった高地の牧夫と農夫が残した簡素な物質文化は彼らの方言、宗教儀式、服装、あるいは埋葬の慣例についてはっきりと指し示すものをまったく提供していない。しかし、彼らの食習慣についてひとつのたいへん興味深い細かなことが発見された。高地にある小さな初期イスラエル人の村々での発掘から発見された骨はひとつの重要な点でその地域の他の部分にある定住地と異なっている。つまり、豚の骨がまったくないということである。初期の高地の定住地から集められた骨は確かに豚の遺物を含み、同じことはそこでの後代の(鉄器時代後の)定住地にも当てはまる。しかし鉄器時代、すなわちイスラエルの王国時代を通して、豚は高地では料理されず食べられず、あるいは飼育さえされなかったのである。同じ時代である鉄器時代第1期の海岸にあったペリシテ人の定住地からの比較のためのデータは、発見された動物の骨の中に驚くほどの豚があったことを示している 初期のイスラエル人は豚肉を食べなかったが、(どうにかこうにか大ざっぱなデータから私たちが語ることができる)ヨルダン川以東のアンモン人とモアブ人と同じく、ペリシテ人も豚肉を食べていたのである 豚肉禁止令は環境的あるいは経済的理由だけで説明されることはできない。実際にはそれが、ョルダン川以西の高地の村人の間にあった固有の、共有されたアイデンティティについて私たちが持っている唯一の手がかりかもしれない。ことによると、原イスラエル人は、単に彼らの敵である周りの人々が豚肉を食べたという理由だけで食べることをやめ、自分たちを異なる者として見始めたのかもしれない。特徴的な調理法や食習慣は、民族的境界線が形作られる際に根拠とされる習慣のうちの二つである。一神教、それに出エジプトと契約の伝承は明らかにかなり後代になって出てきたのである。詳細な律法と食物規定を伴って聖書のテクストが組み立てられる五○○年前、イスラエル人は、完全に明らかにはなっていない理由で豚肉を食べないことを選んだ。現代のユダヤ人が同じことをする時、彼らは、考古学的に証明されたイスラエルの民の最も古い文化的習慣を続けているのである。


しかしながら、今私たちが知っているように、イスラエルの立派な士師についての聖書の感動的な描写は、それがいかに力強く、人の心をつかんで離さないとしても、初期鉄器時代にカナンの丘陵地で実際に起こったこととはほとんど関係がない。考古学は、カナン高地の遊牧民の中での複雑な社会的変質が、罪と救済という後代の聖書の概念よりもはるかに大きく、イスラエル誕生における最も大きな形成力であったことを明らかにしてきた

編集者 てつてつ (2020年01月13日 17:19:10)

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#271 2020年01月14日 07:47:58

めぐママ
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Re: 聖書という書物について

おはようございます。

第三の天

の説明が  洞察の 注解 よりも   この世界が  三層構造になっている という説の方が 納得いきました。
akameさん   三太郎さんの おっしゃって  いたことが 解らなくて 何度も 振り返って読みました。  買い求めていた本 昔の本も  段ボール箱から出てきたので  調べてみようと思います。 

友人が  なにやら 陰謀論を見たらしく 電話して来たので  ここでの情報を伝えました。 脳は 受容器  とか  量子コンピュータの時代になるとか 。JWから離れたつもりでも 何か 神は 目的を持たれるかた  人格を持っている  とかの  そのモノサシ  いっかい  取っ払うようにして  考えてみよう!

後日  ありがとう  もつと 話をしておけばよかった   貴女は 只者じゃない   と言うから

「只者ですけど・・・」     と答えました。

確かに  ここの  先輩方々は   只者ならぬ    雰囲気。

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#272 2020年01月14日 19:18:51

めぐママ
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Re: 聖書という書物について

てつてつさん       #227の シラカワ会衆 の話は フェイクニュースだそうです。 拡散しないでと 撤回しているそうです。 なんのためか 手が込んでいますが  背教者は作り話をしていると 信者を情報操作するためのプロパカンダ ですね。
ほら やっぱり 真理を捨てた 背教者は ウソつきだという演出。 忍者も 徳川かた と 秀吉かた双方  やとわれて 噂を流したり  民の 気持ちを探るために変装して 薬売りになったりしていました。
茶席での  限られた人だけの会話も  盗聴されないように  探り合いですね。
忍者が  天井の上から 息を潜めて聞いている。

こちらに来て  すぐご近所に 甲賀さん  百済さん   というお家があり  ドキッとしました。

ということで シラカワ会衆  の話はない。  でも 似たような事は  あちこちであります。


なかのっち さんの YouTube  今日は 大丈夫だけど  組織も 断末魔の叫びを上げているようです。 
組織の 崩落とともに 訴訟  セラピー 業界が動くと思います。  詐欺も多い。

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#273 2020年01月14日 19:24:43

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

めぐママさんありがとうございます しばらく前の中野っちさんのブログにでていましたね 注意したいと思います

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#274 2020年01月15日 09:33:14

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

ダビデとソロモンの時代について 154ページあたり


最近まで多くの研究者たちは、統一王国が本当に歴史的だと見なされうる、聖書における最初の時代であったということに同意してきた

それにもかかわらず、かつてダビデとソロモンの物語の歴史的根拠を支えた考古学的柱の多くが最近疑問視されている。ダビデの「帝国」の実際の範囲は激しく議論されている。エルサレムでの発掘は、エルサレムがダビデとソロモンの時代に大都市であったという証拠を提出できないでいる。そして、ソロモンによるとされていた重要な建造物は現在、妥当に思われる考えとして、他の王たちと関係させられている。それゆえ、証拠の再考はとてつもない意味合いを持っている。というのは、もし族長たちが存在せず、出エジプトがなく、カナン征服もなく、そしてダビデとソロモンの下での繁栄した統一王朝が存在しなかったのなら、モーセ五書とョシュァ記、士師記、サムエル記で述べられているような聖書にある初期のイスラエルがそもそも存在していたと私たちは言うことができるのか、ということである。


フランスの研究者であるアンドレ・ルメールは最近、ダビデ家への同様な言及が死海の東で一九世紀に発見された、紀元前九世紀のモアブの王メシヤの有名な碑文にも見つけ出されると提案した。それゆえ、ダビデ家はその地域全体で知られていたのである。このことは明らかに、エルサレムにおいてユダ王朝の創始者となったダビデという名前の人物についての聖書における記述を確証しているそれゆえ、私たちが抱える問題はもはやダビデやソロモンが単に実在したかどうかではない。私たちは今、ダビデの軍事的大勝利とソロモンの大建築プロジェクトについての聖書にある大雑把な記述が考古学的証拠と一致するかどうかを見なければならない。

編集者 てつてつ (2020年01月15日 09:40:52)

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#275 2020年01月15日 09:45:54

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

164ページあたり

最近の高地における考古学的調査は、だいたいエルサレムから南に向かってネゲブの北の端まで広がる高地の南部を占めるユダの、他に類のない性質について重要な新証拠を提供している。それは、荒涼とした地形、困難な通信、乏しくひじょうに予想できない降雨といった均質的な環境のまとまりを形作っている。広い谷があり、近隣地域との自然の陸路を持つ北の丘陵地とは対照的に、ユダはいつも農業的には重要な存在ではなく、北を除くあらゆる方角を取り囲む地理的障壁によって近隣地域から分離されている。東と南において、ユダはユダ砂漠とネゲブという乾燥地帯と隣接している。そして、肥沃で繁栄しているシェフェラの山麓の丘陵地帯と海岸平野の方向である西側において、中央の尾根は突然下がっている。ヘブロンから西に旅をするなら、三マイルちょっとの距離で険しい岩の斜面を一三○○フィート以上も下らざるを得ない。エルサレムとベツレヘムの西にあたるさらに北では、斜面はもっとゆるやかであるが、それは深い峡谷によって分離された一連の狭く長い尾根からなっているので、越えることはさらに困難である。今日、エルサレムからベツレヘム、ヘブロンまでの平らな中央高原は道が縦横にあり、広い範囲で耕作されている。しかし、これらの活動を十分可能にするため、岩の多い土地を切り開くことに集中的な労働で一○○○年かかった。青銅器時代、そして鉄器時代初期、この地域は岩だらけで、深い低木林と森で覆われ、農地に使える開けた土地はほとんどなかった。イスラエルの定着の時代、ほんの一握りの常置の村が設立された。つまり、ユダの環境は牧畜民の集団にかなりよく適していたのである。紀元前一二’二世紀のユダの定着システムは一○世紀にも発展し続けた。村の数とその規模は次第に大きくなったが、システムの性質は劇的に変わらなかった。ユダの北において、広い範囲にわたる果樹園とブドウ園が高地の西側斜面で発展した。ユダでは、その地形の険しい性質のため、それらは発達しなかった。考古学的調査に基づく限り、ユダは、比較的常住人口を欠き、まったく孤立して、推測されるダビデとソロモンの時代にに至るまで、そしてそれを過ぎてもひじょうに辺境的であり続け、主要な都市型のセンターも、村落、村、町というはっきりとした階層もなかった。


エルサレムは幾度も発掘され、特に、エルサレムという都市の最初の中心部であるダビデの町でヘブライ大学のイガル・シロの指揮の下、一九七○年代と一九八○年代に青銅器、鉄器時代の遺跡を集中的に調査した期間があった。驚くべきことに、テル・アビブ大学のデヴィッド・ウシーシュキンが指摘したように、そこでの、そして聖書にあるエルサレムの他の地域での現地調査は紀元前一○世紀の居住についての重要な証拠を提供することができなかった。大建築のしるしだけではなく、単純な土器片も見当たらなかった。他の遺跡で紀元前一○世紀の特徴を示している型がエルサレムではまれであった。研究者たちの一部は、エルサレムでの後代の大規模な建築活動が初期の都市のしるしすべてを一掃してしまったと論じている。それにもかかわらず、ダビデの町での発掘は、中期青銅器時代と、鉄器時代における後の時代からの印象的な発見を明らかにした。ただ紀元前一○世紀からはなかった。この否定的な証拠の最も楽観的な評価は、紀元前一○世紀のエルサレムが広さの点でかなり限られ、おそらくせいぜい典型的な丘陵地の村でしかなかったというものである。この控えめな評価は、約二○の小さな村と、多くが移動する牧畜民である数千の住民から成る、その時代のユダにおける他の地域のかなり貧弱な定住パターンとうまく調和する。実際、人があまり住んでいないこのユダという地域とエルサレムという小さな村が、南の紅海から北のシリアまで広がる大帝国の中心になりえたことはまったくありそうにない。最もカリスマ的な王でさえ、そうした広大な領土の征服を達成し、支えるために必要とされる人と武器を整えることができただろうか。短期間でさえ、富、人員、戦場で大軍を支えるのに必要とされたであろう程度の組織に関する考古学的なしるしはまったくない。たとえユダの比較的少数の住民が近隣の地域に素早い攻撃を開始することができたとしても、一体全体どのようにして彼らはダビデの息子ソロモンの広大で、さらにもっと野心的な帝国を管理することができたのだろうか。

編集者 てつてつ (2020年01月15日 09:52:09)

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