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#226 2020年01月05日 15:54:18

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

134ページあたり エルサレム会議で決まったことは守られたかについて


この教令が会議において発布されたということは、如何なる付加的義務も負わせられなかった、というパウロの確固とした主張によって排除される(ガラテャ二・六

しかし、使徒行伝は如何に教令発布を会議と結び付けるのであろうか。少なくとも、納得の行く推測に到達するためには、どこにおいてこの規定は意味があるのか、と問わなければならない。それ故、それはどこで創作されたのであろうか。明らかにそれは実際、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との共同生活を可能ならしめているようである。異邦人は、ユダヤ人が自分たちとの交際によって汚されることのないように、ユダヤ教の清浄規定を厳守しなければならないのである。すなわち教令は、混合教団で成立したのである


さて、この争いと教令の間の関係を、次のように推測することができる。すなわち、この衝突は会議の決定の欠陥を、つまり混合教団の共同生活のための規則の欠如を明るみにもたらした。この欠陥を補うために、パウロが与り知らず賛成しないままに、しかしペテロの権威によって守られつつ、教令が起草されかつ発布された。他の仮説によれば、教令はエルサレム会議の前にすでに決定され、アンティオキアに送られていた。これは、まさに会議を誘発するものであった。すなわち、アンティオキアで不和が生じ、それは今や除去されねばならなかった。しかし、教令の設置をこのように考えることに対して、重々しい疑念がある。そうであれば、パウロはそれについて沈黙することができたであろうか。彼は、このように争いの誘因を、ペテロに’そしてヤコブに対してではなくl押し付けることができたであろうか。教令には歴史的後日談がある。それは、広範囲にわたって普及した。後代において、教会が主として異邦人キリスト教徒から成立し、律法をめぐっての闘争が徐々に消えていくにつれ、律法はもはや祭儀的規則としてではなく、倫理的命令、すなわち偶像礼拝、殺人、不品行の禁止として理解された。その中において、大罪と小罪の区別が描かれている。積極的な面によれば、禁止は「黄金律」によって補われた。教令は、この新しい言い回しにおいて、新約聖書の若干の写本に採用されたのである。


130ページ

一般的に言って、使徒行伝一五章は、再び一方的にエルサレムの指導的役割に調子を合わせている。しかし実際には.ハウロは、命令の受領者ではなくて、交渉の相手なのである。使徒行伝とガラテャ人への手紙が互いに相違する箇所では、ガラテャ人への手紙に徹頭徹尾優先権が与えられる。明らかに、ルヵは会議について一貫した資料を所有していたのではなく、拡散した報告から一つの像を作るように試みたのであろう。

編集者 てつてつ (2020年01月05日 16:16:03)

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#227 2020年01月05日 17:55:31

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

みなさんこんにちは きんたやさんのブログに以下のことが書いてありました 本当ならいいですね kiss

「とても驚くようなニュースです。日本の仲の良いPIMOの友人から電話をもらいました。去年、日本の「シラカワ」会衆で5人の長老と6人の援助奉仕者が全員「覚醒」したということです。それらの人たちは会衆に伝えなくてはということで木曜の夜にそうしました。そして全員が立場を降りました。会衆は90人強ですがその夜は65人が出席していたということです。息を飲む人、泣く人もおり皆とても感情的になりました。こんな話は過去聞いたことがありません。」

情報の真偽は分かりません。「去年」とありますが、つい最近の出来事なのかもしれません。英語圏の人たちも多大な関心を寄せておりコメントも多数ついていますが、皆さらに事実確認を待っている段階です(事実でなければこの記事は取り下げます)。正確な情報をお持ちであったり心当たりがある方は教えてください。

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#228 2020年01月06日 09:53:37

めぐママ
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Re: 聖書という書物について

てつてつさん        おはようございます

それと似たような事 東京方面で 10年以上前に ありました。 会衆内の 著名な 長老が 通常通りに プログラムを 立派に 果たし 祈りで終わった。  その後  マイクを取り
「  皆さんにお知らせします。  今日を最後に 私達家族は jwの組織を 去ります。    。。。。」
のようなあいさつをしたそうで その後  混乱して 会衆に別のかたが 派遣されたそうです。
巡回監督でさえ餌食になるから 怖いね〜   と言って教えてくれました。

聖句を印刷してある 綺麗な お花の写真のポストカードを制作しておられる 兄弟  文字の フォントの仕事 かグラフィックデザイナー
のかたの息子さんは 必要で 地方に 出ておられましたが 呼び戻されて 任命されたのは 東京の  なんとか 区  大都会の中の会衆でした。 カードを 巡回の姉妹に頂いて 綺麗だったので 注文して 何年間か 交流があり  御本人様  父親兄弟から 直接 お手紙で消息を聞きました。
こうした     きんたやさん  のニュース のように   断絶 宣言  ができる ご家族は  恵まれていますね。
地道に  増えて欲しいです。   
断絶でも 自然消滅でも  いい。   何万人も 増えて欲しい。
そういう   現象  ムーブメントが   あってほしい。

さやかさん  ふうに  呟きます

こちらでも 会衆が消えて 合併していたり  立派な父親とそのご家族が消え  倉敷 水島 方面 は  大きく変わりました。 その頃は  なにやってるの?  と思ったけど 人のことに口出しは  厳禁だし その話題を口にする 僕のきょうだいはたしなめられていた。

年末に  わたくしに いつも 記念式に誘う 姉妹が電話をしてきて  巡回区をまたいで 大きく変化した 会衆の名前も  変えたと 教えてくれたけど ???
会衆名が    ・・・   
皆さん 苦労が絶えないようです。


きょうだい   兄弟と書込みしたのに何故か 兄妹となっていた。

編集者 めぐママ (2020年01月06日 12:14:19)

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#229 2020年01月06日 10:03:23

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

>会衆内の 著名な 長老が 通常通りに プログラムを 立派に 果たし 祈りで終わった。  その後  マイクを取り「  皆さんにお知らせします。  今日を最後に 私達家族は jwの組織を 去ります。    。。。。」
のようなあいさつをした

すばらしいですね 自分も最後の割り当てのときにこのようなことをしようかと思いましたが その直前に断絶の話し合いが長老とできてそれきり集会にはいかなくなりましたので機会はなくなりました 「わりあては長老に交代してもらうようにお願いしました」

編集者 てつてつ (2020年01月06日 10:03:43)

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#230 2020年01月06日 10:36:15

めぐママ
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Re: 聖書という書物について

いいではないですか。  努力をされたのですから。  その後 てつてつさん      のブログ を 見つけて この掲示板へと     みちびかれた 〔 この言葉も懐かしい  〕
この不思議な  ムーブメント  を起こされたのですから。 立派ですよ〜

感謝しているひとは  多いですよ。
  今  富士山  の魅力について映像を見ながら 考えています。

学生時代 先生が   何故 人気なのか? その姿が  裾野 が広くて  安定しているから。  だと。
実際登るときは ゴツゴツ 岩 が崩れてきたり  思ってたのとは違っても 頂上から 太陽  景色を見て 感動する。  湧き水も 豊か。

大爆発して 今の 姿を 失っても   人々の心に 永遠に受け継がれるでしょう。  映像 保存の 技術  進んでるから。
地球侵略されて 富士山 爆破されても  「お前たち! こんな素晴らしい山 持ってないだろう!!!」   と さけぶこともできる。


富士山 裾野で栽培される  水かけ菜  のお漬け物  ほんの一瞬の  収穫です。 湧き水を引き入れて  栽培するもの。  ベテルに近い  会衆の姉妹から 送って頂いたことがあります。 京都の壬生菜  よりも  フレッシュ で シャキッと 。日持ちはしない。  すごく美味しいですよ。
研究生のかたが  旅先であった 鱒の寿司  を送って下さいましたが これも 風味の良い 日本の 保存食

てつてつさん        いい所に  お住まいですね。

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#231 2020年01月07日 11:05:37

めぐママ
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Re: 聖書という書物について

がっつだぜpart2 さんの発言:

長くなりましたが、では「赦す」「許す」ことがなぜ重要で高度な業なのか。これがカオスの本質だと
思います。ちょっと譬えるにはふさわしく無いかもしれませんが、アクセルとブレーキみたいなもので
遊びの部分と言うか、何というかゆとりの部分というか、可能性というか、エントロピーというか
そういうものなのではないかと思います。神は無限の存在なので、常に可能性を孕んでいる。
そしてその事が神の本質であるように思います。

忘れてならないのは無限の可能性を秘めた存在ならば時空にも干渉できるという事です。
これ以上は今は書くのを控えます。

以上、いかがでしたでしょうか。アノニマスさん、ご助言ありがとうございます。



この意見  考えました。 昨年 死刑 の執行がありました。
中国人死刑囚は 執行されたのに  南米 ペルー?だったか?  は6人もの 人を殺したのに (しかも 計画的に ) 無期懲役。
南米は カトリック信者が多いし
ローマ教皇が死刑反対論者  だから  その事を考慮したのかな? 政治的な理由で。 三権分立ではなくなっているんだ!!!やっぱり  とか、ふと 思いました。

エントロピー  は  興味深いです。  ゆとり  遊びの  部分を失って  ガチガチになると視野が狭くなる。  聖戦だ!  神の裁きは  常に正しい!  インディオを皆殺しは ご意志だった!  原子爆弾を落としたのは 神慮による導きだった  という乱暴な 結論に 誘導されます。

何事も  創作には  ノリシロ  が必要ですね。   のりしろ

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#232 2020年01月07日 18:50:01

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

それですね。のりしろ。聖句でも神は怒ったままではなくニネべの町から引き返した
という記述があるので、思い止まって引き返すという、無生物にはないファジーな部分
と言うのでしょうか、情動が重要な意味を持つのだと思います。創世記でもカインに対して
「なぜ顔を伏せたままなのか」という聖句がありますが、私的に考えますと、怒りに任せた
ままではなく思い止まって引き返すという、ワンランク上の知的な働きが求められていたと
思います。

機械はやっぱりやめたと自主的に放棄することはできないので、これこそが命が命である理由
ではないでしょうか。

#233 2020年01月07日 19:05:23

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

光の元にあるものは全て光の法則の元にあると思いますが、光を産み出した存在は
自分自身には縛られない・・・無限の自由と、そしてそれを制御する力ですね。
サタン=悪もまた神から生み出された。悪は常に生み出される、それこそがカオスで
あり、その常に産み出されることが、無限の力を示すものであると思っています。
だから制御が必要であり赦しが重要なのだと・・
平たく言いますと「ま、いいか」という事なのです・・・^^

私の言葉ではうまく表現できませんが、このあたりの話は、他の方で仏教に詳しい方が
きっと天才的な閃きと丹念な情報収集で説明されるかもしれません。

#234 2020年01月07日 19:13:50

がっつだぜpart2
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

ちょっとカインの話の部分、補足します。
アベルは確かに歓ばれましたが、カインこそ試練が与えられ、「ま、いいか・・」
「自分が至らなかったせいだ」「アベルの良いところを取り入れよう」と
考え、悪の道から引き返せばアベル以上の人物として大成したと思います。

こういう見方は倫理面からの見方なのですが・・・

聖書はいろんな複合的な要素を背景として書かれていますので、これが正解!というのも
難しいです^^

#235 2020年01月07日 19:33:52

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

ガッツだぜさん

おっしゃりたいことはなんとなく 解ります。 ひかりを生み出した方  存在? 法則?   仏教の考えで 何か読みました。  難しい!
言葉に出来ませんが。

昨夜  HN の??さんについての言われていましたが あの方に そんな文章は書けないと思いますよ。

そっとしておきましょう   それが一番です。

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#236 2020年01月08日 06:59:16

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

てつてつさん        おはようございます。
親睦トピックで  ラハムさん が  お返事を下さいました。   ヨセフ という 重要な 人物に 台詞がない 理由  その意図は 筆者  にしか解らないですが   それを読んだ  ひとりの  牧師さんの   想い  についての  こと 。
また  その感想 を あちらに書きました。   流れの都合で。



すみません   話しの 腰を折って。

前の 話題に戻して下さい。

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#237 2020年01月08日 08:23:56

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

ぜんぜん大丈夫です たぶん自分の書きたいことはほぼ終わったと思いますので だれでも何でも書き込んでください kiss

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#238 2020年01月08日 14:28:26

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

破綻した神キリスト  アーマン

11ページあたりから

もしもこの世に全能にして愛なる神が存在するのなら、何ゆえに世はかくも仮借無き苦痛、筆舌に尽くしがたき苦難に満ち満ちているのだろうか?人はなぜ苦しむのかという問題は、ずっと昔から私に付きまとってきた。若き日の私が宗教に考えを向けるようになったのはそれゆえであり、星霜を重ねた私が信仰に疑問を抱くようになったのもまたそれゆえである。そしてついに私が信仰を失うに至ったのもまた、その問題ゆえである。本書はこの問題のいくつかの側面について、ことにそれが聖書においてどのように取り扱われているかについて、考察を加えようとするものである。聖書の書記たちもまた、この世の苦痛と悲惨の問題に取り組んでいたのだ。


私は熱心に聖書の学習に取り組みlその多くを暗記してしまった。とくに新約聖書は初めから終わりまで一字一句違わず暗唱できるほどになった。聖書学と神学に関する免状をもらってムーディを卒業すると(当時のムーディは学士号を出していなかった)、次にイリノイ州にある福音派キリスト教の学校であるホィートンに行った(ここはビリー・グラハムの母校でもある)。そこでギリシア語を学んだ私は、新約聖書を原語で読めるようになった。そこで私は、新約聖書のギリシア語写本の研究に生涯を捧げたいと考えるようになり、長老派の学校であるプリンストン神学校に行くことにした。そこの有能な教授陣の中に、アメリカ最高の文献学者であるブルース・メッガーがいたのである。このプリンストンで、私は神学修士の学位「牧師になる修業」を取り、そしてついに新約聖書の研究によって文学博士号を取った。このような略歴を書いたのは、つまり私がガチガチのキリスト教徒であり、キリスト教の信仰に関しては隅から隅まで知り尽くしていたということを示すためである 結局はその信仰を失うことになるのだが

私はもはや教会にも行かず、教えも信じず、自分のことをキリスト教徒とも考えていない。なぜそんなことになってしまったのかが本書のテーマである。
私の前著『握造された聖書』に書いた通り、研究すればするほど、聖書に対する強い信仰が揺らいでいった。聖書は(ムーディ聖書研究所時代の私が確信していたような)言葉自体に霊感の込められた神の無謬なる啓示などではないということに徐々に気づき始めたのである。むしろ聖書は実に人間的な書物であり、いたるところに人間の手が加えられた痕跡が残されている 矛盾や不一致や誤謬や、個々ばらばらの書記たちの個々ばらばらの見解に満ち満ちているのだ。なぜならそれらの書記たちはそれぞれに国も違えば時代も違う、執筆の動機も理由も違えばその対象たる読者も違う。そしてその読者の欲求もまた全然違っているのだから。とはいうものの、私が信仰を捨てたのは聖書が抱える諸問題のゆえではない。これらの諸問題は要するに、聖書に対する私の福音派的な見解は批判的吟味には耐えられないということを示すにすぎない。福音派を辞めた後も私は依然としてきわめて敬虐なキリスト教徒であり続けた。だがいずれにせよ最終的には私はキリスト教を棄てざるを得なくなった。それは簡単なことではなかった。それどころか、私は足をぱたぱたさせて泣き喚きつつ、何とか信仰にしがみつこうとしたのである。

編集者 てつてつ (2020年01月08日 14:37:25)

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#239 2020年01月08日 14:42:17

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

私を最も感動させたのは聖歌でも式文でも説教でもなく、会衆の祈りだった。聖公会祈祷書から引いてきたものではなく、この礼拝のために書かれたもので、通路に立つ一人の平信徒が朗々たる声で読み上げた。彼の声は、洞窟のような教会の広大な空間に響き渡った。「あなたは暗闇の中にお出でになり、世界を変えました」と彼は言った。「どうか再び、この暗闇の中にお出で下さい」。この言葉はこの祈りの反復句として、深く高らかな声で数回繰り返された。頭を垂れてこれを聞き、そして考えているうちに、私はいつしか涙を浮かべていた。だがそれは喜びの涙ではなかった。不満の涙だった。神が幼いキリストとして暗闇の中に降臨し、世に救いをもたらしたのなら、なぜ今の世界はこんなありさまなのか?なぜ神は再び暗闇の中に降臨しないのか?この苦痛と悲惨の世界において神はどこにいるのか?なぜこの暗闇はこれほどまでに圧倒的なのか
この心のこもった善意溢れる祈りの根底には聖書のメッセージの精髄がある・聖書の記者たちにとって、世界を創造した神は愛と力の神であり、信者を苦しみと悲しみから解放し、救済をもたらすためにこの世に介入するその救済はあの世ではなく、われわれが今生きているこの世でもたらされるのだ。族長たちの神は彼らの祈りに答え、自らの民のために奇蹟を起こした。『出エジプト記』の神はエジプトで奴隷にされていた自らの民を救った。イエスの神は病人を癒し、盲人に光を与え、足萎えを歩ませ、飢える者を満たした。この神は今、どこで何をしているのか?彼は暗闇の中に降臨して世界を変えたというのなら、なぜ今もなお世界は何一つ変わっていないのか?なぜ病人は今もなお筆舌に尽くしがたい苦痛に苛まれているのか?なぜ今もなお先天性欠損症の子供が生まれるのか?なぜ幼い子供が誘拐され、強姦され、殺されるのか?何百万もの人間を飢えさせ、恐ろしく苦痛に満ちた生と恐ろしく苦痛に満ちた死をもたらす旱紘はなぜ起こるのか?

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#240 2020年01月08日 14:49:21

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

19ページあたり

長年の間、神義論を論じてきた哲学者や神学者は、この世の苦しみを説明するためにはこれを解決せねばならないという一種の論理的問題を考案した。この問題とは、それぞれは正しくとも互いに矛盾する三つの命題である。以下の三つだ。

神は全能である

神は愛である

この世には苦しみがある

この三つを同時に真とするにはどうすればよいのか?もしも神が全能であるなら、望むことは何でもできるはずである(ゆえに苦しみを取り除くこともできるはずである)。もしも神が愛であるなら、人間にとって最も良いことをしてやりたいと望まれるだろう(ゆえに人間を苦しめようとは思わないだろう)。にもかかわらず、依然として人は苦しんでいる。以て如何と為す?ある思想家はこの命題のどれかを否定する。例えば、神は実際には全能ではないとかこれはラビ.クシュナーの『良き人々に悪しきことが起こる時』で提示される答えである。クシュナーによれば、神は人の苦しみを終わらせるために介入したいと望んでいるが、その手は縛られている。だから神は人の隣に立って人生の苦痛に耐える力を与えてくれはするが、苦痛それ自体を止めることはできないというのである。だが他の思想家にとっては、この考えは神の力を制限するものであり、すなわち神は実際には神ではないと言うに等しい また、神は愛ではない、少なくとも月並みな意味での愛ではないと論ずる者もいる。これは多かれ少なかれ、人々が被る恐るべき苦難は神がもたらしたのだという考え方であるエリ・ウィーゼルもこれに近い考えであり、彼は神が自らの民にもたらした苦痛のゆえに、怒りを込めて神に有罪を宣告する。だがこれに反対する者もやはりまた存在し、彼らはもしも神が愛でないのなら、もはやそれは神ではないと主張する
そこで、第3の命題を否定したがる者もいる。実際にはこの世界には苦しみなど何もないと主張するのである。だがこういう人は圧倒的な少数派であり、あまり説得力を持たない。われわれのほとんどは、たんにダチョウのように砂の中に頭を突っ込むよりも、ありのままに世の中を見る方を選ぶからだ。この問題に取り組む人のほとんどは、この三つの命題はいずれも真であり、ある種の情状を酌量するなら三つを同時に真とすることができると考えたがる。例えば、次の二つの章で詳細に見ていくことになるが、へプライ聖書の預言者たちの古典的な観点によれば、神は確かに全能でありかつ愛である。にもかかわらずこの世に苦しみが存在する理由は、神の民が律法に背き、神の意志に反しているからだ。神は自らの民を自らの許に立ち帰らせ、義なる生活をさせるために彼らに苦しみをもたらすのだという。この種の説明は、苦しむのが悪人である限りうまく機能する。だが悪人が栄え、神の前で義たらんとする人が際限のない苦痛と耐えがたい悲惨に苛まれるとしたらどうだろう?義なる人の苦しみをどう説明すればよいのだろう?そのためには何か別の説明が必要だ(例えば、すべては死後に帳尻が合うようになっているのだなどという説明lこれは預言者たちの間には見当たらないが、他の聖書の書記たちの間に見出すことのできる見解であるl等々)。

編集者 てつてつ (2020年01月08日 14:50:04)

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#241 2020年01月08日 14:57:38

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

22ページあたり

彼らの間で最も人気のあった解は、たぶん、今日のわれわれの(西洋)世界に住むほとんどの人の考えと同じものであろう。つまり自由意志である。この見解によれば、この世界に甚だしい苦痛が満ち満ちているのは神が人間に自由意志を与えたからだ。自由意志によって神を愛し、従うのでなければ、われわれは単にプログラムされたことを実行するだけのロボットにすぎない。だがわれわれは自由意志によって愛し、従うがゆえに、また自由意志によって憎み、背きもする。これこそが苦しみの源泉である。ヒトーフーもホロコーストもイディ・アミンも、世界中の腐敗した政府、そして政府の内外にいる腐敗した人間たちもlこれらすべては自由意志によって説明しうる。
確かにこれは啓蒙思想の偉大な知性が導き出した答えではある。例えばラィプニッッは、この世界をあり得べき最善の世界にするためには人間は自由でなければならぬと論じた。ラィプニッッによれば、神は全能であるがゆえに望みのままにいかなる世界をも創造しうる。そして神はまた愛であるがゆえに、当然ながらあらゆる可能世界のうちの最善のものを創造しようと望む。それゆえにこの世界は被造物に選択の自由が与えられたこの世界はあらゆる可能世界のうちの最善のものなのである。この見解に反対する哲学者もいる。なかでも最も有名で、最も辛辣で、そして最も滑稽なのはフランスの哲学者ヴオルテールだ。彼の不朽の小説『カンディード』では、1人の男(カンディード)が、この「最善の世界」において無意味かつ無作為の苦難や悲惨の数々を体験した結果、子供の頃から教え込まれたライプニッッ的な考えを捨て、より現実的な見解を採用することになる。つまり、われわれにはこの世に起こることの理由など解らないのだから、生きているうちにできるだけ楽しんでおくことが最上であると。『カンディード』は今なお読む価値のある小説だ機知に富み、気が利いていて、そして救いがたい

もしもこの世界があり得べき最善の世界であるのなら、これより悪い世界とはどのようなものなのか?いずれにせよl学生たちは驚いていたがl神が人間に自由意志を与え、人間がそれを悪用したがゆえに苦しみが生じるのだという説明は、聖書の伝統においてはほとんど顧みられない。聖書の記者たちは、もし自由意志がなかったらどうなるかという可能性については何も考えていないl間違いなく彼らはロボットを、それどころかプログラム通りに動く機械など何であれ知りもしなかった。だが彼らは、なぜ人は苦しむのかについて自由意志以外の理由をたくさん考え出している。


実際、苦しみの原因は自由意志であるという現代の標準的な説明の問題点を挙げることはかなり容易なことだ。確かに、エチオピアの(あるいはナチス・ドイツやスターリンのソヴィエト連邦でも、あるいは古代のイスラエルやメソポタミアでも良いが)政治的謀略がもたらした苦しみの場合なら、人間がせっかく与えられた自由意志を悪用した結果だと言うこともできるだろう。だが、旱魅はどうか?旱越は別に、誰かが雨を降らせないようにした結果ではない。あるいはまた、ニューオリンズを襲ったハリケーンはどうか?一夜にして何十万人もの命を奪う津波は?地震は、土砂崩れは、マラリアは、赤痢は?いくらでも挙げることができる。それだけではない。すべての苦しみの背後に自由意志があるという主張は、少なくとも理論上は、いろいろ問題を孕んでいる。神が自由意志を与えたと信ずるほとんどの人は、また死後の世界を信じている。おそらく、死後の世界の人もまた自由意志を持っているだろう(死後にロボットになるわけでもないだろうからね)。にもかかわらず、死後の世界にはもはや苦しみはない(とされている)。地上において自由意志の正しい使い方を知らなかった人が、天国に行ったからといってどうやってそれを使うことができよう?実際、もしも神が素晴らしい贈り物として人間に自由意志を与えたのなら、なぜそれを行使するのに必要な知性を与えなかったのか?自由意志を正しく行使しうる知性があれぱ、われわれは誰もが幸福かつ平和に生きていけたのに。そんなことはできなかったと言うことはできない。なぜなら神は全能なのだから。それだけではない。神は時に、人間の自由意志による決断に対抗する形で歴史に介入するlたとえば、神は出エジプトの際にはエジプトの軍を壊滅させたし(彼らは自由意志によってイスラエル人を弾圧していた)、イエスの時代には荒野にいた大群衆に食物を与えた(人々は弁当も持たずにイエスの話を聞きに行くことを自由意志によって選択したのだ)。あるいはまた、イエスを殺すというローマ総督ピラトの自由意志による邪悪な決断に対抗して、傑刑のイエスを復活させて見せた もしも神が時折、人の自由意志に対抗するために介入することがあるのなら、なぜもっとしばしばそうしないのか?というより、いっそのこといつもそうしないのか?結局のところ、その答えは謎であるとしか言いようがない。なぜ天国では自由意志を正しく行使することができるのに地上では駄目なのか。なぜ神は自由意志を行使するのに必要なだけの知性を人間に与えなかったのか。なぜ神は自由意志の行使に対抗する時もあれば、しない時もあるのか。われわれはその理由を知らない。そしてこれは由々しき問題である。なぜなら、その答えは謎だと言って問題に答えた気になっていたとしても、そんなものは答えでも何でないからだ。自由意志という「答え」は、結局のところ、すべては謎だという結論に到達するのだ。

編集者 てつてつ (2020年01月08日 15:02:34)

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#242 2020年01月08日 15:08:45

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

26ページあたり

すでに述べておいた通り、本書を書く上での基本的な目標は苦しみの問題に対する聖書の答えを探求することだ。これは以下のような多くの理由によって、きわめて重要な仕事であると思う。

1.多くの人は、慰安、希望、霊感の源として聖書に頼っている。たとえそうでない人にとっても、聖書は西洋文化と文明の根本にあり、世界とその中におけるわれわれの位置について考える際の基盤となっている(これは信者であるか否かを問わないと思う。聖書はわれわれが考える以上に、われわれの思考を特徴づけているのである)。
2.聖書には、なぜこの世界に苦しみがあるのかという問題についての多様な解が含まれている。
3.これらの解の多くは互いに矛盾し合っており、また今日のほとんどの人々の見解とも矛盾している。
4.大多数の人々はl「聖書信者」のみならず、普通にその辺を歩いている、聖書といえば何となくありがたいような気はするがとくに何の思い入れもないような人もl苦しみの問題に対して聖書がどう答えているかということを全然知らない。

長年、私は苦しみの問題について多くの人と語り合ってきたが、その反応には驚かされた。まず多くの人は、率直に言って、そもそもそれについての話自体を嫌がる。彼らにとっては、苦しみについて語ることは排便の習慣について語るようなものであるらしい。それは確かに存在し、誰もが避けて通るわけにはいかないものであるにもかかわらず、カクテル・パーティの場で話題にするには好ましからざるものなのである。また別の人々はlこういう人もやはり多いのだがlこの問題についてすでに単純かつそれらしい答えを持っており、そもそも何がどう問題なのか全然解っていないようだ。たぶん、この第1章を読んでおられる方の多くがこういう人であろう。こういう人は、私がこの世界にあるすべての苦しみについて語ろうとすると、すぐさま私にメールしてその理由を説明したいという誘惑に駆られる(それは自由意志のせいだ、苦しみはわれわれを鍛えるためにあるのだ、時に神はわれわれを試されるのだ、等々)。また別の人々は1才気煥発な私の友人たちなどはlなぜそれが私にとって宗教上の問題であるのかを理解してはくれるが、自分自身の問題として考えることはない。彼らの非常に高逼かつ玄妙な見解によれば(そしてこれらの友人たちの言うことはつねに高逼かつ玄妙なのだが)、宗教的信仰はすべてを説明する知的システムではないのである。信仰とは神秘であり、この世の神性を体験することなのであって、一連の問題に対する解を期待してはならないというのだ。私はこの見解を心から尊重するし、いつの日かこれに同意できたらと願ってもいる。だが今はまだ同意できない

編集者 てつてつ (2020年01月08日 15:09:34)

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#243 2020年01月08日 15:16:35

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

33ページあたり

苦しみの問題を論ずるのに、まず始めにホロコーストを取り上げないということが可能だろうか?ホロコーストこそ、人類史上最も忌まわしい、人間性に対する犯罪である。ナチスの殺人機械の犠牲となった人々の数を引用するのは比較的容易だが、それによって生み出された悲惨の痛ましさとその規模を想像することはほとんど不可能だ。600万人のユダヤ人が、たんにユダヤ人であるという理由で冷血に殺害された。地球上のユダヤ人の実に三分の一が抹殺されたのである。そしてユダヤ人以外の500万人lポーランド人、チェコ人、ジプシー、同性愛者、宗教的「異端者」、その他。総計1100万人が殺された。


だが古代世界にも枚挙に暇のないほどの虐殺があり、ありとあらゆる悲惨な苦しみがあったl敵軍による征服、捕虜虐待、拷問。旱魅、飢饅、悪疫、伝染病。先天性欠損症、幼児の死、子殺し、等々、等々。このようなことが起こった時、古代の記者たちはそれをどう説明したのか?最も一般的な説明の一つlそれはヘブラィ聖書の多くのページを占めているlは、多くの現代人の目からすればあまりにも単純で、不快で、退嬰的で、完全な間違いに見えるだろう。つまり人が苦しむのは神が人を苦しめたいと願ったからだというのである。ではなぜ神は人を苦しめたいと願ったのか?人が神に背いたからだ。古代イスラエル人は神の力を一途に信じており、多くの者はこの世に起こるすべの事象はことごとく神がおこしていると信じていた。神の民が苦しんでいるなら、それは彼らが道を踏み外していることを神が怒っているからである。苦しみは罪に対する罰なのだ。このような見解はどこから来たのか、そして聖書のコンテクストの中でそれをどのように説明できるだろうか?苦しみとは罪に対する罰であるというこの「古典的」な解釈を理解するためには、その歴史的背景に関する情報を吟味する必要がある。

編集者 てつてつ (2020年01月08日 15:17:23)

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#244 2020年01月08日 15:22:26

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

43ページあたり

この選民の神学lすなわち、神がイスラエルの民を選民とし、彼らと特別の関係を結んだという神学lに照らして、古代イスラエルの思想家はものごとが計画や期待通りに行かない時、どう考えただろうか?イスラエルが時に敵軍に敗北したり、悪政が敷かれたり、経済が破綻したりするという事実をどのように理解しただろうか?神の選民が飢饅や旱越や疫病に苦しむという事実をどのように説明しただろうか?苦しみをどのように説明しただろうかl国家的な苦難のみならず、個人的な苦しみを、例えば飢えたり大怪我をしたり、子供を死産したり、生まれた子供に先天的に欠陥があったり、身を削るような貧困や損失に苛まれた時には?もしも神が全能なる創造主であり、イスラエルの民を選んで選民とし、成功と繁栄を約束したというのなら、そのイスラエルが苦しむという事実をどのように説明できるだろう?最終的に、北王国は異邦人の手で完全に滅ぼされた。もしも神が彼らを自らの選民としたのなら、なぜこんなことが起こるのだろう?さらに150年後には、南王国も同様に滅ぼされた。なぜ神は約束通り守ってくださらなかったのか?当然ながらlそして熱烈にIイスラエルの民の多くはこれらの問いを投げかけた。この問いに対して最もよく繰り返される答えは、預言者とよばれる思想家集団の提唱したものである。彼らは異口同音に言う、イスラエルの国が苦しむのは、民が神に背いた結果である。それは神罰としての苦難に他ならないのだ。イスラエルの神は慈悲の神であるばかりではない。彼はまた怒りの神であり、民が罪を犯せば、その報いを受けるのである、と。


預言者たちの文書すなわち預言書は、今日において聖書の中で最も誤解を受けているものだ。その理由の多くは、預言書が一般にそのコンテクストを無視して読まれがちであるという点にある。今日の人の多く、とくに保守的なキリスト教徒は、預言者の文書をまるで水晶球を見つめて今の世にこれから起こる出来事を予言する「予言者」の言葉のように読んでいる。だが、預言者たちが実際に語っていたのは2000年も前のことなのだ。だからそんな読み方は聖書に対するこのうえなく自己中心的なアプローチだと言える(ここに書かれているのは全部私についてのことだ!)。だが、聖書の記者には各人のコンテクストがあり、ゆえに当然ながら各人の計画があった。そして彼らのコンテクストとアジェンダはわれわれのものとは全く別のものだったのである。預言者たちは今のわれわれのことなど気に懸けたりはしていない。彼らが気に懸けていたのは自分たちのこと、そして彼らと同時代に生きる民のことである。当然ながら、預言書を「今の時代の出来事を予言した書」として読む人のほとんどは(預言書には中東戦争が予言されている!彼らはサダム・フセインを予言していた!彼らはハルマゲドンの到来を告げている!)、特定の詩句や条だけを切り取って読み、預言書全体を纏めて読むことはない。預言書を初めから終わりまで通読すれば、それが当時の人々のために書かれたことは明白だ。実際、彼らはしばしば、それが書かれたのはいつかlたとえば、どの王の治世の下かlということを示し、彼らが伝えようと意図した歴史的状況を読者が理解できるようにしている。

編集者 てつてつ (2020年01月08日 15:28:20)

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#245 2020年01月08日 16:03:18

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

64ページあたり

イスラエルの苦難を神罰と考えた預言者は、アモスとホセアだけではない。実際、これはすべての記述預言者がつねに繰り返す観念なのである。彼らの預言した対象が北のイスラエル王国であろうと、南のユダ王国であろうと、あるいは彼らの預言した時代がアッシリアの勃興する紀元前8世紀であろうと、バビロニアの撞頭する6世紀であろうとl否、時代と場所を問わず、彼らの主張はつねに同じなのだ。ペ-ジを捲っても捲っても、預言書は恐るべき警告に満ち満ちている。曰く、神に従わぬ民に対して神は苦難と災いをもたらす、飢饅、旱魅、疫病、経済破綻、苛政、そして最も頻繁に繰り返されるのは敗戦である。神はありとあらゆる災いをもたらす。自らの民の罪を罰し、真なる神に立ち帰らせるために。もしも民が神に立ち帰れば、そこで苦難は終わる。もし立ち帰らないなら、さらに悪化する。ここでは、すべての預言書を残らず紹介していくよりも、最も有名な2人の言葉を簡単に論じるだけに留めたい。その2人とはイザャとエレミャである。いずれもエルサレム出身で、いわゆる「大預言者」であり、その力強い修辞は2500年を経た現在においてもなお感動的である。だが忘れてはならないのは、彼らが、そしてすべての預言者が語りかけていたのはあくまでもその当時の人々だということだ。彼らはその当時の人々に主の言葉を伝え、神に立ち帰るよう促し、そうしなかった場合に人々を待ち受ける恐るべき運命を説いていたのだ。この2人の預言者はいずれも仙年に及ぶ長い宣教歴を持っている。両者とも、預言したのは北王国ではなく、南王国である。だが彼らの基本的なメッセージは、北の同業者とさほど変わらない。神の選民が神の道から外れている、ゆえに恐るべき艱難が待ち構えているというのだ。神とは、彼らにとっては罰する神である。


だが同時に彼らの見解には明らかな問題がある。ことに、歴史上の多くの人々がそうしてきたように、この見解を一般化して一種の普遍的原理としてしまう時、その問題はとりわけ深刻なものとなる。われわれは本当に、神は罪に対する罰として飢鐘をもたらすなどと言いたいのだろうか?エチオピアに飢饅をもたらしたのは神なのか?武力紛争を起こすのも神か?ボスニァで起きたことも神がやったのか?疫病や伝染病をもたらすのも神なのか?全世界で3000万人の人間を殺した1918年のインフルエンザを惹き起こしたのも神なのか?マラリアで1日に7000人の人間を殺しているのも神なのか?AIDSを生み出したのも神なのか?私はそうは思わない。たとえこの預言者的見解を「選民」、すなわちイスラエルの民だけに限ったところで、どうなるだろう?中東の政治的・軍事的問題は、イスラエルを神に立ち帰らせようとする神の試みなのか?神は自分のメッセージを民に伝えるために自爆テロを起こさせ、女子供の命を犠牲にしているのか?たとえそれを古代イスラエルだけに限ったところで、何も変わらない。われわれは本当に、無垢な人々が飢え死にさせられたのは(何にせよ、餓死という罰はどんな罪に対しても重すぎるが)、民の罪に対する神罰だと言いたいのか?アッシリア人とバビロニア人の苛酷な弾圧は本当に神のやったことだと?軍を起こさせ、妊婦の腹を割き、幼子を岩に打ちつけたのも神だと?この見解の問題点とは、それが言語道断かつ非道であることのみならず、また偽りの安心と偽りの罪悪感を生み出すことにもある。もしも罪の結果として罰がやってくるなら、そしてこの私にはこれっぽっちも苦しみがないなら、何とありがたいことに、私は義なる者であるということになるのか?失業したり、交通事故で子供が死んだり、妻が強姦され殺された隣人よりも義なる者であると?また逆に、私が甚大な苦悩に打ちひしがれているなら、それは神が私を罰しているのか?子供が障碍を持って生まれてきたら、経済が破綻して食べ物も買えなくなったら、そして私が癌になったら、全部私のせいなのか?この世界の苦痛と悲惨には、他の説明が必要であることは間違いない。そしておいおい明らかになるように、聖書自体の中だけに限っても、他の説明があるlそれも数多くある。だがそれらの検討に移る前に、まずこの苦しみに対する預言者的見解が、預言者以外の聖書記者にどのように影響したかを見てみよう

編集者 てつてつ (2020年01月08日 16:08:36)

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#246 2020年01月08日 16:22:53

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

79ページあたり

『筬言』のほとんどの部分は、人が熟考し咀噌すべき簡潔な知恵の言葉からできており、大部分は(例外もある)それと判るパターンはない。気軽に読めて、文学的コンテクストや物語の流れなどに頭を悩ます必要もない。なぜならほとんどの部分にそんなものは存在しないからだ。だが驚くべきことに、『筬言』は預言書とはその性格を全く異にするものであるにもかかわらず、その基本的な観点において両者は同一なのである。すなわち、神の前で義とされる生き方は報われるが、邪悪な者や神に背く者は苦しみを味わうという見解だ。これは神が罪人を罰するというよりも、そもそも神の定めたこの世界の仕組みがそうなっているからである。つまり正しい生き方をする者は幸福になり、悪人は苦しむという仕組みだ。このことは『筬言』全体に何度も繰り返される


93ページあたり

ここまでわれわれは、苦しみに対するいわゆる古典的見解がいかに支配的なものであるかを見てきた。神の民の苦しみは神に背いた結果としてもたらされるという観念は、大小の預言書全体に見られるのみならず、伝統的なイスラエルの「知恵文学」含筬言』)や歴史書(すなわち「五書」と申命記的歴史書)にも見られる。のみならず、それは実際にはさらに深く、古代イスラエルの宗教の中枢にまで食い込んでいるのだ。今日では、われわれの西洋世界(とくに私の住むアメリカ南部)の多くの人々は、宗教とは信仰の問題だと考えている。確かに宗教には崇拝の儀式があり、人の生活習慣にも影響を及ぼすが、その中心部分においては、宗教とは神やキリスト、あるいは救済、あるいは聖書等々について何をどう信ずるのかという問題であると。だが古代イスラエルにおいてはl古代世界のほとんどすべてがそうであるようにl正しい信仰を持つかどうかというのは宗教の主たる問題ではなかった。宗教の枢要は、いかにして神を正しく崇拝するかという問題にあったのだ。そこでは正しい崇拝とは、神が定めた通りに聖なる儀式を執り行なうということなのだ

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#247 2020年01月08日 16:41:39

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

96ページあたり

かれこれ100年以上前から学者たちの間では明らかとなっていたことだが、「イザャ書』の仙章から弱章までは、それ以前の羽章(のほとんど)を書いた同じ記者の作品ではあり得ない。この前半部分はアッシリアがこれからユダ王国を攻撃しようとしていた状況を前提にしているlつまり書かれたのは紀元前8世紀だ。一方仙章から弱章までは、南王国がすでに滅んで人々が捕囚とされた状況lつまり紀元前6世紀半ばの状況を前提としている。おそらくこの両者は預言書として似たような主題を持っていたため、後世の誰かが両者を同じ巻物に纏めたのだろう。のみならず、彼はさらに別のコンテクストで書かれたさらに後の預言者(第3イザヤ)の文書までをも、同じ巻物の弱章I船章として採り入れた。第2イザヤは先輩の預言者たち同様、イスラエルの民の被る苦しみは神に背いた罪への罰であると見なしている


第2イザャを理解する上で重要なことは、ここで神が言及しているのは明らかにイスラエルの民だということだ。捕囚の辱めを受け、そしてわたしの僕」(捌章8)と呼ばれる民である。後にも「あなたはわたしの僕、イスラエル。あなたによってわたしの輝きは現われる」という一節もある(紛章3)。このことがなぜ重要なのかと言えば、初期キリスト教徒が第2イザャのいくつかの条を、他ならぬ救世主イエスに対する言及だと考えたからである。イエスは全人類のために苦しみを受け、蹟罪をもたらしたと考えられたのだ。実際、新約聖書浮かべずにはいられない


この力強い条を解釈する際に、重要となる点がいくつかある。その第1については先の章ですでに述べたlイスラエルの預言者とは水晶球を見つめて遠い未来を見透す予言者ではないということだ(イエスの出現は第2イザャから500年も先の話である)。彼らはあくまでも同時代を生きる人々に対して神の言葉を語っていたのである。第2に、この条のどこを見ても記者が未来のメシアについて語っていることを示すものは何もない。まず、この条にはメシアなる言葉は一度も登場しない(実際に聖書本文を御覧いただきたい)。さらにこの「僕」の苦しみは過去形で語られており、未来に起こる事柄ではない。このような点に照らしてみれば、キリスト教以前のユダヤ教の解釈者の中に、この条が未来のメシアを予言したものだと考えた者が一人たりとも存在しなかったのも当然だ。(キリスト教以前の)古代ユダヤ教には、メシアが他者のために苦しむなどという観念は全く存在しなかったlそれゆえに、ユダヤ教徒の圧倒的大多数はイエスがメシアであるという観念を拒否したのである。メシアとは栄光と力に満ちた存在でありlたとえば、強大な王ダビデのようにl神の民を統治するのだ。一方イエスはどうか?まさにメシアの対極に位置する、傑刑に処せられた犯罪者である。最後に、もう一度要点を繰り返しておく。第2イザヤの記者は、苦しめられた「僕」とは誰かを明瞭に述べているのだ。それはイスラエル自身、とくに捕囚されたイスラエルであると(狐章8、棚章3)
だが言うまでもなく、キリスト教徒は最終的にこの一節はメシアであるイエスを予言したものであると考えるようになった。このことについては後述するが、当面の問題は第2イザヤが自分自身の歴史的コンテクストの中で何を語ろうとしていたのかということだ。この条が「わたしの僕イスラエル」に言及しているとして、その全体が意味するところは何か?他の預言者たちと同様、第2イザヤもまた罪には罰が必要であると考えていた。神の僕イスラエルはバビロンに捕囚され、敵の手によって恐ろしい苦しみを受けた。この苦しみが贈罪をもたらした。神殿に捧げられた動物犠牲が罪に対する贈いをもたらすように、イスラエルの捕囚もまた蹟罪をもたらしたのである。イスラエルは他者の罪ゆえに苦しんだ。イスラエルを擬人化し一人の「主の僕」とするメタファーによって、第2イザヤは捕囚の人々が他者の身代わりとなって苦しめられたことを示しているのだ。これによって民は赦され、神との正しい関係を回復し、約束の地に帰還することができる。言い換えればこの一節の論理とは、苦しみに対する古典的な理解に基づいている。すなわち、罪には罰が必要であり、苦しみは神に背いた結果だという理解だ。


第2イザヤが語っているのは捕囚のイスラエルであり、その主旨はイスラエルに与えられた捕囚という神罰によって、神と民とは和解できるというものだ。にもかかわらず後のキリスト教徒は、「苦難の僕」とはメシアのことであり、この一節はイエスの傑刑を予言したものに他ならないと考えた。キリスト教徒がイエスの傑刑の物語を語る時、そして後の福音書記が傑刑の際に起きたことを記述する時、彼らは「イザヤ書』開章(そしてたとえば『詩編』朗章)のような条を念頭に置いていたということを思い起こさねばならない。ここに登場する「苦難の人物」の記述が、キリスト教徒の語るイエスの受難の物語を潤色したのだ。その結果、元来はイスラエルの象徴だった「苦難の僕」が、その苦難の間「羊のように」沈黙していたと書いてあれば(「イザャ書』開章7)、イエスもまたその裁判の間沈黙していたことにされた。「苦難の僕」が「死んで罪人のひとりに数えられた」(弱章岨)とあれば、イエスもまた2人の罪人と共に傑刑に処せられたとされた。僕が「軽蔑され、人々に見捨てられ」(記章3)たとあると、イエスもまた民から見捨てられ、ローマ兵から廟られたとされた。僕が「打ち砕かれたのはわたしたちの答のためであった」(弱章5)とあれば、イエスの死も蹟罪をもたらすと考えられた。僕が「富める者と共に葬られた」(弱章9)とあれば、イエスもまた富裕なアリマタャのョセフによって葬られたとされた。僕は苦難の後に雪辱され、主が「彼の生涯を末永く延す」(記章岨)とあれば、イエスもまた死から復活したとされた。新約聖書の傑刑物語が「イザャ壹認章にあまりにもよく似ているのは偶然ではないlこれらの物語の記者たちは、その話を書く際に『イザャ書』の苦難の僕の話を念頭に置いていたのだ。ここにはわれわれの研究にとってとくに重要な含意があるl罪と苦しみの関係に関する古典的見解は、たんにヘブライ聖書のページのいたるところにあるだけではない。それは新約聖書の理解においても中心的な役割を果たすのである。何ゆえにイエスは苦しみ、死なねばならなかったのか?神が罪を罰するためだ。第2イザヤはイエスの恐ろしい受難と死を理解するための見取り図を初期キリスト教徒に与えた。つまりこれは他者のために引き受けた苦しみだったのだと。イエスの死を通じて他者は神との関係を正しく為し得たのだと。つまりイエスの死は罪に対する犠牲だったのだと。


使徒パウロも、だいたい似たような見解を持っていた。パウロは言リントの信徒への手紙二で次のように述べている。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」(言リントの信徒への手紙二略章3)。言-マの信徒への手紙』では、パウロはさらに詳細に語っている。曰く、神の怒りはあらゆる人間に注がれる、なぜならあらゆる人間は罪人だからである。だがキリスト自身が他者のために血を流すことで、蹟罪をもたらした


パゥロにとっては、神が自らの民に永遠の救済を与えるしくみは比較的単純なものだったl罪には罰である。キリストは自らその罰を受けた。ゆえに、キリストの死は他者の罪を蹟うことができる。この蹟罪観のすべては、苦しみに対する古典的理解に根差しているl罪は罰としての苦しみを必要とするという理解だ。さもなければ神は思いのままにただ人を赦せば良いのだから、キリストが死なねばならない理由もなかっただろう。つまり、蹟罪と救済に関するキリスト教の教理は預言者的見解、すなわち人が苦しむのは神に背いた罪に対する神罰であるという見解に根差しているのだ。


つまり蹟罪に関するキリスト教の教理は、なぜこの世に苦しみがあるのかという疑問に対する古典的見解の一種の変形版に基づいている。預言者たちによれば、今、ここにある現世の苦しみは、神に背く者に対する神罰である。後のユダヤ人の一部、そして後のキリスト教徒の多くは、罪に対する裁きとしての苦しみは現世ではなく死後に与えられると考えるようになるのだが、この変化については第8章で論じる。今のところは、キリスト教徒が考え出した贈罪観を押さえておけば十分だろう。つまり、キリストの死の贈罪のおかげで、罪への罰として死後に与えられる永劫の責め苦は回避できる。キリストが自らの身に罰を引き受けてくれたからなのだ。

編集者 てつてつ (2020年01月08日 17:16:25)

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#248 2020年01月08日 17:24:54

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

150ページあたり

この自由意志弁明は、まさに神義論誕生の時点にまで遡るものだ。なぜならこれこそ「神義論」という言葉の生みの親であるⅣ世紀の博識家ライプニッッの見解だったのだから。近代における神義論の問題とは、この世界の状況を見る限り、どうすれば全能かつ愛なる神が存在すると信じられるのかということだ。だが古代(へプライ聖書と新約聖書を含む)においてはこれは決して問題とはならない。古代のユダヤ人やキリスト教徒は、神が存在するか否かと問うことはないのである。なぜなら彼らにとって神の存在など自明の理だったのだから。彼らが知りたいと願ったのは、この世界の状況を見た上で、どのように神を理解し、どのように神と関わるかという問題だった。苦しみが神の存在への信仰を揺るがすか否かという問題は完全に近代のものであり、啓蒙思想の産物なのだ。啓蒙思想の(そして啓蒙思想以後の)神義論は、近代の世界観に由来している。例えば、この世界は原因と結果の閉鎖系であり、多かれ少なかれ一連の自然「法則」に従って機械的に動いているlそれは厳密な意味では(現代の物理学その他によって明らかとなったように)法則とは言えないが、少なくとも自然の振る舞いを高い確度で予測する指標となる。現代の哲学者はこのような近代的世界観を前提としているので、彼らの神義論論争は聖書の文書に見られるものとは全く異なっているし、あえて言うなら苦しみの問題について考えるほとんどの人間の記述や思考とも全くの別物になっている。読者諸君が現代の神義論者の論文を読んだことがあるかどうかは存じ上げないが、注目すべきものであることは間違いない。それらは精確かつ哲学的示唆に富んだ、深い考察と難解な術語に満ち満ちた、細部まで考え抜かれた解説によって、苦しみの存在と全能かつ愛なる神の存在がどうして両立しうるのかという問題を解き明かそうとしている。正直に言えば、われわれのほとんどにとってこうした論文はたんに訳が判らないのみならず、生き地獄のような現実の生活から遊離したものだI例えば第一次世界大戦の塑壕戦の生き地獄、第二次大戦の強制収容所の生き地獄、あるいはカンボジアのキリング・フィールドの生き地獄。私はケン・スリンのような学者に同意するl彼は、論敵であるどの神義論者よりも有能だI彼によれば、悪の問題を説明しようとする試みの多くは、究極的には道徳的に破綻してしまうという。また私は、テレンス・ティリーのような神学者に共感すら覚える。ティリーは言う、信仰者たるものは神義論を単なる知的な企てに過ぎないとして拠棄せねばらならないと。苦しみの存在を知的に正当化しようとする試みは、この問題に対する取り組み方として誤っている。苦しみとはたんに知的に説明すればそれでよいというものではない。各個人がそれに対してどう反応するかなのである。テイリーとは違って私はキリスト教信者ではない。だが私は、純然たる知的営為として苦しみの問題に取り組むのはどこか間違っていると思う。苦しみには生きた人間としての反応が必要だ。とくにその大部分は、いわゆる「自然的」な出来事l保険会社は皮肉にもこれを「天災」と呼んでいるがlによるものではなく、人間自身が引き起こしているものだからだ。しかもそれを引き起こす人間とはナチスやクメール・ルージュのように別の時代や遠い場所にいる人間だけではない。それは向かいの家に住んでいる人であり、隣のビルに勤めている人であり、店で見かける人であり、われわれが投票した人であり、われわれに品物やサービスを提供する会社を経営する人であり、世界中の労働者を搾取している人なのだ。結局のところ、私には神義論と呼ばれる哲学的問題は解決不能である。だが同時にまた、いわゆる自由意志弁明は、時には不毛な哲学論争に堕す一方、時には力強く現実的なものともなる。人間は他者を傷つけ、抑圧し、苦しめ、拷問し、暴力を揮い、強姦し、手脚をもぎ、そして殺す。究極的にはこれらすべての背後に神がいたのならlそしてその神こそ、地上のあらゆる悪の原因であったのならlおそらく、われわれに為し得ることはほとんどないだろう。だが私はそんなことは露ほども信じない。人間が人間に与える苦痛は、何らかの超自然的な存在によって引き起こされたものではない。人間はその自由意志によって他者を害し、傷つけるのだ(たとえ神が存在しなくとも、自由意志は確かに存在する)。ゆえにわれわれは、抑圧、拷問、殺人を止めさせるために自ら介入し、できることは何でもしなければならない。この場においても、また日常的に残虐行為が行なわれている発展途上国においてもである。そしてまた、このような人間の自由の濫用の犠牲となっている人々を助けるために全力を尽くさねばならないのである。

編集者 てつてつ (2020年01月08日 17:26:06)

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#249 2020年01月08日 17:29:36

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

153ページあたり

私のようないわば「棄教」を体験したことのある人なら、それがいかに感情的な苦悩を伴うものとなりうるかをご理解いただけるだろう。その危機を乗り越えた今だから、それをユーモラスに思い起こすこともできるようになったが(友人の一人は、私が「再生派」から「再死派」になったなどと言う)、その最中においてはこの上もないほどの心の痛手となった。かつての私はハードコアな福音派キリスト教徒だった。若い頃からファンダメンタリストの聖書研究所に通い、福音派の教養大学に通い、多くの教会に通っていた。それが今では全くの不可知論者である。聖書は完全に人の手で作られたものだし、イエスは1世紀の黙示思想のユダヤ人で、傑刑には処せられたが復活はしていないし、神学の究極の問題は人間には答えられないと考えている。神が存在するかどうか、私は知らない。とはいえ私は無神論者ではない。なぜなら神など存在しないと明言するには(無神論宣言だ)、今の私などはるかに及ばない豊富な知識が(そして厚かましさが)必要だからだ。神が存在するかどうか、この私にいかに知り得ようか?私は他の人々と同様、ただの人間にすぎない。ただ私に言えるのは、もしも(もしも!)神が存在するなら、それは福音派だった頃の私が信じていたような種類のものではないということだ。



だが、他にどうすれば良かったのだろう?あなたなら、あるいは誰であれ、自分の信仰と矛盾する事実に(あるいは少なくとも、事実であると思える事柄に)直面した時、どうすることができるだろう?その事実から目を逸らし、そんな事実など存在しないと喚き、死にもの狂いで無視するか?だがもしも自分自身に対して、そして自分の理解する真実に対して正直になろうと努めるなら?自分の信仰に対して知的誠実さを以て向き合い、また行動においても誠実でありたいと願うなら?われわれの誰もが たとえ不可知論者であっても 自分の考えが誤りであったと判ったなら、その考えを変えなくてはならないと私は思う。だが実際にそうすることには非常な苦痛が伴うこともある。私の苦痛は、多くの点に現われた。なかでも辛かったのは、今や私は近しい人、親しい人の多くとl家族や親友たちとすらl見解を異にしているということだ。かっての私はこれらの人々との間に親密な霊的紐帯があった。共に祈り、生と死の大きな問題について語り合いながら、みんなが同じ考えを持っていると確信することができた。だが信仰を捨てた今ではもはやそんなことは無くなってしまった。友人や家族は私に対して疑念を抱き、どこか具合でも悪いのか、なぜ突然変わってしまったのか、なぜ「暗黒面」に落ちてしまったのかといぶかった。多くの人はたぶん、私が勉強のしすぎでおかしくなったのだとか、悪魔の罠にはまったのだとか考えていたのだろう。身近な人から、サタンの春属になったと疑われるのは気分の良いものではない。


ついに不可知論者になった当時の私の苦痛のもう一つの側面は、この苦しみの問題とさらに深く関わっている。それは同じく私の胸裡深く根差したもう一つの態度に関わるものだ。それは今もあり、手放すことはできない。むしろこの場合は手放したくないものだ。信者であった頃にはそれが問題となるなど想像もしていなかった。その問題とはこうだ 私はこれまで素晴らしい人生を送ってきた。それに対して圧倒的な感謝の念を抱いている。言葉にできないほど幸福だと思う。だが今の私にはその感謝の念を表明する相手がいない。これは私の心の奥深くにある空虚感、感謝したい相手がいないという空虚感だ。それを埋める適切な方法は見当たらない。

編集者 てつてつ (2020年01月08日 17:35:17)

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#250 2020年01月08日 19:16:25

またい
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

dearてつてつ
あけましておめでとう
いつもありがとう
北陸あれてますね
神は、試練与えない今年もよろしくお願いします

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