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#51 2019年12月23日 23:38:36

アノニマス
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

おじゃまします。アノニマスと申します。#45の誰が福音書を書いたのかについてあくまでも自分の感想ですが、使徒2;5-6、16;1-2  ローマ16;22で推察すると信者の中にはギリシャ語が使える人が結構いたと思います。筆記者と一緒に福音書をまとめたのではないでしょうか。

#52 2019年12月24日 00:05:20

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

てつてつ さんの発言:

4福音書について

マタイによる福音書
マルコ福音書と通称Q資料と呼ばれる今日では失われたイエス語録資料をつなぎあわせ、それに独自資料を加えて編集したもの。著者はギリシャ語を第一言語とするユダヤ人キリスト教徒。むろん使徒マタイではありえない。非ユダヤ人キリスト教徒とする学説もドイツの学者などの一部では主張されているが、とても無理。執筆年代はマルコより後で、エルサレム崩壊を知っているのだから、七○年より後。二世紀はじめごろの普及状態を考えれば、どんなに遅くても九○年。執筆場所は不明。シリアのどこか(アンティオキア?)という説はまったくの想像にすぎないが、当たらずと言えども遠からずか。

マルコによる福音書
最も古い福音書。伝統的には使徒行伝一五・三七ほかに出て来るマルコが著者とされてきた。近代聖書学においてはそれを疑う学説が強いが、積極的に疑う根拠はない。しかし、ペテロの弟子だったというのは、あてにならない。少なくとも福音書の中身を読む限り、とてもその可能性はない。ギリシャ語が下手なこと、内容等々からして、パレスチナ出身のユダヤ人キリスト教徒であるのは確か。学界では非ユダヤ人キリスト教徒とする説もはやっているが、根拠はない。執筆年代、場所は不明。しかし、エルサレム崩壊を知らないのは確実だから、七○年以前であるのは確か。五○年代か六○年代である。七○年代以降に書かれたなどとする「学」説は、何でもいいから想像をたくましくしようという以外の意味はない。

ルカによる福音書
マタイと同様、マルコとQ資料、それに独自の資料を組み合わせて書かれた。やはり七○年から九○年の間。明瞭にパレスチナの事情を知らず、ユダヤ教についても、マタイやパウロのような内在的知識は持っていない。ギリシャ語を第一言語とする。従って、どこかのヘレニズム都市のギリシャ系文化人でキリスト教徒になった人物。伝統的には、パウロが「同労者」と呼んでいるルカ(ピレモンニ四節)が著者であるとされてきた。私もそうだと思う。近ごろドイツやアメリカなどで、この著者はパウロを知らない人物である、という学説がはやっているが、かなり無理な説である。使徒行伝の著者と同一人物。

ヨハネによる福音書
正体不明の著作。おそらく、もともとの著者の作品を、その流れに属する他の人物(弟子?)が編集した、という学説が正しいだろう。原作はもしかすると未完の作品。かなり独得で、正統派の流れとは異なる思想を展開している。グノーシス思想に相当近い。それに対し、編集者はこれに正統派教会の視点から手を加えた。執筆年代、著者、著作の場所等、一切不明。しかし、内容からして、マタイ、ルカとほぼ同時期と考えるのが妥当だろう。ただし、残っている写本からして、遅くも九○年代。


も塔は福音書の マタイ マルコ ルカ ヨハネ がそのまま筆者だと教えてますからね cry

田川さんの見解から見ていきましょう。

マタイについては福音書記者とは認めていませんね。
次にマルコによる福音書ですが、田川さんはマルコがペテロの弟子というのは否定しています。そして学会では非ユダヤ人が筆者とする説もあるが、そうではなくてユダヤ人が記者だと書いています。

マルコが書いたという事を疑う人もいますが積極的に疑う根拠はないと書いています。


書物としての新約聖書
P335-6 にはこう書いています。


キリスト教の長い伝統では、この人物は使徒行伝12:12などに出てくるヨハネと呼ばれるマルコと同一人物であろう、と信じられてきた。とすれば、エルサレム在住の、キリスト教の発足時にはまだおそらく若かった人物で、その母親マリアは最初期のエルサレムのキリスト教会のかなり有力な人物であったらしい。おそらくはバルナバが彼をヘレニズム世界に向かう宣教活動にひっぱりだした(12:25,13:5)。しかし、第一回伝道旅行でおそらくパウロと衝突して、途中からひきかえしてしまう(13:13)。それが原因で、バルナバ自身も第二回伝道旅行の時にはパウロと判れ、マルコと共に別の伝道旅行に出発する(15:36以下)。もしもこの人物がマルコ福音書の著者であったならば、そのギリシャ語のくせも大いに理解できるというものである。



さらに、






「新約聖書訳と註」の第一巻、マルコ福音書のP853でこう結論しています。


このマルコがこの福音書の著者であるという指摘は、現存の文献では最も古くさかのぼっても二世紀初めまでしかさかのぼれないが、しかし、二世紀には広く広まっており、その点ではまったく異論もなかったのだから、すでに一世紀後半にはそのことは十分に広く知られていたものであろう。そして現に、この人物がこの福音書の著者であることを否定する積極的な理由は何一つない。それにもかかわらず比較的最近の聖書学では、これを否定する傾向が強い。(私も若いころは学会の主流に抵抗する勇気がなかったから、その意見にくみしていた。どうもすみません)。しかしこのマルコがこの福音書を書いたということに反対すべき根拠は、本当に、何一つないと言ってよい。むしろ、この人物ならばいかにもこの本を書いただろうな、と思えるふしは多い。


つまり、田川さんはマルコが書いた事は否定していません。


次はルカによる福音書です。


書物としての新約聖書P175


ギリシャ語を第一言語とする。従って、どこかのヘレニズム都市のギリシャ系文化人でキリスト教徒になった人物。
伝統的には、パウロが「同労者」と呼んでいるルカ(ピレモンニ四節)が著者であるとされてきた。

私もそうだと思う。

近ごろドイツやアメリカなどで、この著者はパウロを知らない人物である、という学説がはやっているが、かなり無理な説である。使徒行伝の著者と同一人物。



※ ここでも、伝統的にルカが著者であるとされており、「私もそうだと思う」と述べています。


最後が、ヨハネによる福音書


>もともとの著者の作品を、その流れに属する他の人物(弟子?)が編集した、という学説が正しいだろう。
〈中略〉

>内容からして、マタイ、ルカとほぼ同時期と考えるのが妥当だろう。


覚えていて欲しいのは、田川さんは元々の著者の作品をその人(福音書記者)に近い人物(弟子?)がまとめたという考えをしているという事です。

つまり、私の言った福音書記者は使徒か使徒に非常に近い人物だと思いますというのと基本的に変わらない意見です。


ヨハネが書いたか、ヨハネが口頭で述べたものを弟子がまとめたかのどちらかであっただろうというのが私の考えなわけですが。


これは、ペテロが口述してシルワノによって書き送った事、大統領が手紙を秘書に書かせる事の例えを用いて以前にも述べました。




ペトロの手紙一/ 05章 12節
わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。

#53 2019年12月24日 00:11:18

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

てつてつ さんの発言:

アーマンさんのキリスト教成立のなぞを解くを見ますと

紀元一世紀に、パレスチナの田舎で、下級の農民だったということはどういうことか、いくつか分かっている。一つには、彼らはほぼ確実に文盲だった。イエスは、明らかに読むことができたという点で、極めて例外的だった(『ルカ』四章十六‐二十節)。しかし、彼が書くことができたことを示す証拠は何も残っていない。古代には、読むことと書くことは別個の能力だった。従って、文字を読むことはできても書くことができなかった人間は大勢いた。識字率はどれくらいだったのだろうか?ローマ帝国では、文盲率は非常に高かった。最高時でも、人口のたった十パーセントしか読み書きができなかった可能性もある。しかも、その十パーセントは、閑階級であり、つまり教育を受ける時間と金に恵まれた上流階級だった(また、仕事上、読む能力が求められた奴隷や使用人が、読む訓練を受けていた)。それ以外の人間は、幼い時分から働き、教育を受ける時間も費用もまかなうことができなかった。イエスの弟子が文字を書くことはおろか、読むことができたことを示唆する記述すら、福音書にも『使徒言行録』にも見当たらない。事実、『使徒言行録』には、ペトロとヨハネが「無学」であると書かれている(四章十三節)。「無学」とは、古代では文盲を指す言葉である。イエス同様、ガリラヤのユダヤ人であるイエスの弟子は、アラム語をしゃべっていたはずである。田舎出身の彼らは、おそらくギリシャ語の知識が皆無だっただろう。たとえ知識があったとしても、かなりいい加減なものだったに違いない。なぜなら、彼らは、その日暮らしのアラム語を話す文盲の農民と共に生活していたのだから。端的に言って、イエスの弟子はどのような人びとだったのか?彼らは文盲で、アラム語をしゃべる、ガリラヤの下層階級の農民だった。ならば、福音書記は誰か?彼らの身元は伏せられているが、福音書にはいくつかの手がかりが残されている。福音書から分かることは、私たちがイエスの弟子について知っていることと完全に食い違う。福音書の作者は高学歴で、ギリシャ語が堪能なキリスト教徒であり、おそらくパレスチナには住んでいなかった。

というわけで イエスの12弟子たちが書いた可能性はかなり低いと思います



132ページ

しかし、たとえばヨハネが年を取ってから福音書を書いた可能性はないのだろうか?若い頃は文盲のアラム語を話す日雇い労働者だったが網を張ることができる年になると、彼は漁師になった老年になって福音書を書いたのではないか?その可能性はあると思う。つまり、イエスが復活した後、ヨハネは一念発起して学校に行き、読み書きを覚えたのかもしれないという意味だ。彼は、読み書きを初歩から学び、ギリシャ語を身に付け、完全にものにした。高齢になる頃には、作文技術を習得し、福音書を書くまでになった。そのようなことが果たしてありうるだろうか?その可能性はかなり低いだろう。ヨハネを始めとするイエスの弟子は、イエスの復活を目の当たりにした後、読み書き以外のことで頭が一杯だった。人びとを改宗させ、教会を運営しなければならないと考えていたのである

アーマンさんの言うようにイエスの弟子たちは本当にパレスチナの下級の農民だったでしょうか?
また、文盲でしたか?


ヨハネの家には大勢の人が集まり礼拝していた事が聖書には書いてあります。また、女中がいた事から大きな家で裕福な家庭だった事も分かります。(使徒12:12、13)

ナザレはガリラヤの小さな町で田舎でした。
エルサレムに住んでいる人々はガリラヤ地方を田舎者、無学な者として馬鹿にしていたところがありました。
ナザレから良いものが出るははずがない、ガリラヤからメシアなど出ない、ナザレ派、ナザレ人の一派という表現も聖書にはあります。
つまり、田舎者として蔑んでいたわけです。「無学な普通の人」というのも文盲だったのではなく偏見によるものだったわけです。

弟子たちは貧しいその日暮らしだったでしょうか?

引用


ペトロとアンデレが「網を捨てて従った」ことと、ヤコブとヨハネが網の手入れをしていて、主イエスから招かれたときに「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」ことです。ペトロとアンデレは「湖で網を打って」いました。彼らは舟と網を持っていたのです。ヤコブとヨハネは網と舟の他に雇い人までいました。この4人は、それなりの財産を持っていたのです。舟と網があり、まして雇い人までいたということは社会的階層から見るとかなり上で、いわゆる経営者の部類に属するのであって、貧しい人たちとは言えません。



無学な人と言うと

「教養」のない人のように見られています。彼らは「普通」の人であることには違いありませんが、わたしたちが想像する「無学」ではないのです。カファルナウムの会堂で律法を、しっかりと学んでいたのです。会堂には「ベイトセフェル」、「ベイトミトラッシュ」と言う律法を教える学校があった


とありました。

イエスの足跡 -ガリラヤ湖の人々 1- 新松戸幸谷教会
http://1059ch.sakura.ne.jp/asiato/j/j-g … ople1.html

もう一つ挙げておきます。

教会で聖書を学ぼう! | ライフチャーチ
http://lctokyo.org/083545/




ゼベダイの子ヨハネとあるように、福音書記者とされるヨハネの父ゼベダイは雇い人がおり、息子が漁師を辞めても困らないくらい安定していました。
網元であったゼベダイは同時にファリサイ派の律法学者であり、カファルナウムなどガリラヤの都市の地方最高法院議員であった可能性も言われています。

なぜならヨハネはユダヤ人社会の最高権力者=大祭司=最高法院議長と知り合いだったからです。彼の手引きでペトロでさえ秘密裁判の現場である大祭司の屋敷に潜入することができたからです。

8/28今週の一言 – 日本バプテスト連盟 泉バプテスト教会
http://church.izumi-baptist.org/8%EF%BC%8F28今週の一言/


弟子たちが漁師ではあったもののかなり裕福であった事が分かりました。

教育を受ける時間も費用もまかなえない下級農民だったというバート・D・アーマンさんの説には無理があるように思えます。


ゼベダイの子ヨハネは、漁師であっただけでなく同時に祭司でもあった可能性がありますから、「無学なガリラヤの漁師」という見方は適切でありません。〔教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー『ナザレのイエス』星野泰彦訳(春秋社)〕


P291

祭司はその職を、年二回、毎回一週間の交代制で行っていたのです。職務が終わった後は、祭司はそれぞれの土地に帰っていました。彼が、祭司の職のほかに、生活のための職業を持っているということは特別なことではなかったのです。
それに加えて、ゼベダイはただの漁師ではなく、多くの雇い人を抱えており、息子が職業を放棄しても困ることはなかったことが、福音書からも読み取れます。
ゼベダイが祭司であり、同時にガリラヤ湖のほとりに土地財産を持っており、漁業で生計を立てていたということは充分にあり得ることなのです。



という事です。


下の記事ではヨハネによる福音書を書いたのはヨハネか長老ヨハネかの両方の可能性を示しながらもヨハネまでヨハネ福音書が遡れる事を説明しています。
(つまり、使徒か使徒に非常に近い人物が書いたという私の見解、田川さんの筆者の弟子がまとめたという見解とも共通します。)


ヨハネ福音書の講話と注釈(前編)
http://koinonia-jesus.sakura.ne.jp/john … unity1.htm


さて、漁師だった弟子たちが貧しい農民ではなかった事は分かりましたが、マタイはどうでしょうか?

>マタイは収税吏だったとされているが、どの程度地位が高かったのか、はっきりしない。税収を確保するため、当局に直接雇われた徴税請負人だったのか、家々を回って、税を徴収する小役人だったのか分かっていないが、おそらく後者であろう。


アーマンさんは自己の見解に合わせてマタイも文字は書けなかったと判断してはいますが、もちろんそれは確かな根拠があるわけではありません。


他の福音書記者同様に、伝承通りにマタイが書いた事を否定する要素はありません。


これで、田川さんが認めているマルコとルカ以外の他のマタイとヨハネによる福音書の2つ、つまり四福音書全てが否定できる要素はないと言えるのではないでしょうか。

#54 2019年12月24日 08:44:53

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

仰天さんよく調べていただきありがとうございます 確かにそのような可能性もあると思いますが 現時点ではお互いの主張のはっきりした証拠はないようですのでこれ以上はわからないかなという感じです

あと自分はわからないのは彼らが日常使用していた言語がアラム語だと思いますし 誰かに伝えたいと思って本を書くのならまずアラム語で書いて近しい人たちに伝道に使うと思うのですがそれを最初からギリシャ語で書く意味がわかりません

変な例えで申し訳ありませんが日蓮をメシアだと思った弟子たちが日蓮の伝記を英語で書いて日本でひろめようとするようなものでちょっと不自然かなと思います cry

あと聖書についての質問さんにも意見を聞いてみたいので質問してみます

編集者 てつてつ (2019年12月24日 08:51:16)

オフライン

#55 2019年12月24日 10:32:00

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

てつてつ さんの発言:

あと自分はわからないのは彼らが日常使用していた言語がアラム語だと思いますし 誰かに伝えたいと思って本を書くのならまずアラム語で書いて近しい人たちに伝道に使うと思うのですがそれを最初からギリシャ語で書く意味がわかりません

変な例えで申し訳ありませんが日蓮をメシアだと思った弟子たちが日蓮の伝記を英語で書いて日本でひろめようとするようなものでちょっと不自然かなと思います

この点に関しては、一般的には当時の公用語がギリシャ語だったという説明がありまして、私もそうだと思います。

ギリシャ語しか理解できないユダヤ人もいましたし、ヘブライ語を読めないヘレニズム世界の人々の為にも公用語であるギリシャ語を用いて書いたのは自然だと思います。

ローマも元々はラテン語でしたが多くの人は公用語であるギリシャ語を用いていましたからユダヤ人の言語も変わりつつあったのでしょう。
また、広く広めて行く事を考えて共通語のギリシャ語を用いたのだと思います。

使徒たちは旧約聖書からの引用を七十人訳から行っています。


七十人訳は紀元前3世紀中葉から前1世紀の間に成立しています。


転載します。

イエス様が話された言葉はアラム語で、弟子たちはおもにヘブル語でしたので、「なぜギリシャ語?」というご質問は大変興味深いものです。

新約聖書がおもに弟子たちにより書かれたのは紀元50年から紀元120年とされていますが当時の聖書の世界を考察する必要があります。

すなわち、舞台背景はギリシャ・ペルシャ時代からローマ帝国へと転換していましたが、文化的には、それ以前におけるマケドニアのアレキサンダー大王による東方遠征の影響を受け、広大なヘレニズムの世界が展開されており、ギリシャ文化とペルシャ文化の融合が進む時代でもありました。ローマ帝国の言語はもともとラテン語でしたが、多くの地域においてはラテン語よりもギリシャ語が公用語あるいはlingua franca(リンガ・フランカ--言語を異にする人々の間で共通的に使用される外国語)としての地位を保っていました。またユダヤ人自身もこの世界に拡散し、ギリシャ語しか解せないユダヤ人もいましたし、ヘブライ語を読めないヘレニズムの世界(ギリシャ語圏)の在外ユダヤ人のため旧約聖書(ユダヤ教聖典)のギリシア語訳聖書、いわゆる七十人訳聖書((Septuaginta--セプトゥアジンタ)も紀元前3世紀中葉から前1世紀の間に成立していました。

弟子たちは聖書の教えがひとりユダヤ世界だけに閉じ込められることなく、より広い地域で読まれ、確かに後世に伝えるためにギリシャ語を選んだものと思われます。すなわち、現代では学術論文やグローバルな資料が英語で著されるようなものと考えてよろしいでしょう。なお、聖書に使用されるギリシャ語はKoine Greek(コイネーギリシャ語)といい現代ギリシャ語の基礎となっています。コイネーとは「共通の」という意味です。
(参考文献: 大辞泉、ブリタニカ国際百科事典、Website:wiseGEEK)


https://www.nishikobe-kyokai.or.jp/chfaq/chfaq00033.htm

七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)の価値についてはこちらをどうぞ。

https://www.scrollpublishing.com/cgi-bi … fe41f62465

#56 2019年12月24日 15:34:39

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

福音書の著者は誰なのかについて、てつてつさんからご質問がありましたので、愚考を述べさせていただきます。

まず、話題になっている田川健三氏の「書物としての新約聖書」ですが、これは一般向けの読み物です。なかなか面白いものです。にもかかわらず、長すぎますし、値段が高すぎます。出版社も本当は出版したくなかったんじゃないでしょうか。書かれていることは、田川氏の個人的見解として読めばよろしいものです。根拠の乏しい独断と偏見が随所にみられますが、そこは田川節として鑑賞すべき本だと思います。

田川氏はフランスのストラスブール大学で宗教学博士の学位を取得している、日本では珍しいフランス系の学者です。聖書学というと、日本ではドイツ、イギリス、アメリカが中心なので、フランス系は傍流という位置づけでしょうか。

田川氏の博士論文をもとに書かれたのが「原始キリスト教史の一断面 福音書文学の成立」(1968年、勁草書房)です。マルコの福音書について書かれたものです。こちらは専門家向けなのでしょうが、今読むと論証が甘く、現代でも田川氏のマルコ福音書に対する見解はあまり受け入れられていません。

次にしばしば話題になるアーマン氏ですが、彼の著作は数冊ほど日本語に翻訳されていますので、田川氏以上に有名かもしれません。アーマン氏は自分のことを歴史家と呼んでいます。聖書に対しても、信仰者には厳しい見解が目立つ人です。キリスト教にたいする特別な思いもない多くの日本人には、アーマン氏の主張は素直に受け入れやすいのですが、聖書信仰の強いアメリカでは抵抗が強く、絶えず攻撃されています。毎日嫌がらせのメールが大量に来るそうです。そのため、アーマン氏の著作は信仰者の反論を想定してかなり緻密な内容になっています。いっぽう、たくさんの著書があるせいか、同じことの繰り返しが目立ち退屈な面もあります。

さて、福音書の著者ですが、基本的には誰が書いたかわからないのですが、どのような人が書いたのかというのはある程度推理できます。まず、マルコによる福音書について田川氏の推理を見てみましょう。

「最も古い福音書。伝統的には使徒行伝一五・三七ほかに出て来るマルコが著者とされてきた。近代聖書学においてはそれを疑う学説が強いが、積極的に疑う根拠はない。しかし、ペテロの弟子だったというのは、あてにならない。少なくとも福音書の中身を読む限り、とてもその可能性はない。ギリシャ語が下手なこと、内容等々からして、パレスチナ出身のユダヤ人キリスト教徒であるのは確か。学界では非ユダヤ人キリスト教徒とする説もはやっているが、根拠はない。執筆年代、場所は不明。しかし、エルサレム崩壊を知らないのは確実だから、七○年以前であるのは確か。五○年代か六○年代である。七○年代以降に書かれたなどとする「学」説は、何でもいいから想像をたくましくしようという以外の意味はない。」

最後の一文が田川節です。余計なことを言わずにはいられない人なのでしょうか?

まとめると田川説は、マルコ説を疑う理由がないが、ペテロの弟子というのは疑わしい。パレスチナ出身のユダヤ人。執筆年代は50年代か60年代、執筆場所は不明

では、アーマン氏はどのように推理しているでしょうか?アーマン氏の「The New Testament : A historical introduction to the early Christian writings」(日本語訳はありません。アメリカの大学の新約聖書学の教科書です。)の117,118ページには、要約するとこのように書いています。

匿名の、パレスチナ以外の、ギリシャ語を第一言語とする、異邦人。執筆年代はローマ軍によるエルサレム陥落の年である70年以降。

ふたりの意見は全く違いますね。もちろんアーマン氏の見解の方が主流の見方です。田川氏の見解を支持する人は少数でしょう。しかし、アーマン氏の意見が正しいと決まっているわけではありません。そちらの方がもっともらしいというだけです。もっともらしいとする理由はこのようなものです。

1.    なぜマルコではないのか?
マルコ説は伝承をもとにした説だから。根拠としては弱い。伝承では、マルコはペテロの通訳となっているが、ペテロにそのような通訳がいたことは“使徒”に書かれていない。マルコ福音書の中のペテロは愚かな発言をし、イエスに絶えず批判されている。マルコはありふれた名前なので、仮にマルコだとしても、どのマルコかは不明。名前がわかっただけではあまり意味がない。匿名の誰かとした方がよい。
2.    なぜパレスチナ以外の人なのか?
パレスチナの地理に詳しくなく、地名の間違いがある。例えば、マルコ5:1では“一行は湖の向こう側に着き,ゲラサの人たちの地域に入った。”とありますが、湖と訳されているギリシャ語はthalassēs(タラッサ)で、海です。つまり、マルコはガリラヤ湖を海と誤認している。ルカでは正しくlimnēn(リムネー)という単語を使っています。これは湖という意味です。またゲラサも意味不明の地名なのです。
3.    なぜユダヤ人ではないのか?
ユダヤ人の習慣にうといから。例えば、マルコ7:3,4には、“パリサイ派の人をはじめユダヤ人は皆,父祖たちからの伝統を固守し,手を肘まで洗わなければ食事をせず,市場から戻ったときには,体に水を掛けなければ食事をしない。”とありますが、“ユダヤ人は皆”というのは間違いです。
4.    なぜ70年以降なのか?
著者は、エルサレムの神殿の破壊をすでに知っていると思われるから。例えば、マルコ13:1,2には“イエスが神殿から出ていく時に,弟子の1人が言った。「先生,見てください。何と見事な石と建物なのでしょう」。しかしイエスは言った。「この立派な建物を見ているのですか。石がこのまま石の上に残って崩されないでいることは決してありません。”とあり、実際に神殿は床面を除いて破壊されました。信仰者ではない歴史家はこれを“事後預言”と見なします。つまり福音書を書いた時点で、すでに起きていることを、その前にイエスが預言したかのように創作していると見なすのです。

マルコの福音書の著者は誰なのかはわかりません。マルコと呼んでもかまいませんが、どのマルコかは不明です。ギリシャ語を話す異邦人(マルコはローマ人の名前)で、書かれた年代(イエスの死後40年くらい)から言って、イエスのことを直接は知らない人で、さまざまな伝承(多くはアラム語。そのためマルコ福音書には、タリタ・クミ(5:41)やエファタ(7:34)、エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(15:34)などアラム語のセリフが出てくる。)をもとに、ギリシャ語で福音書という新しい文学ジャンルを生み出した創造的な人物です。

マタイ、ルカ、ヨハネの福音書についても、著者は不明です。

ルカについて、田川氏は、「近ごろドイツやアメリカなどで、この著者はパウロを知らない人物である、という学説がはやっているが、かなり無理な説である。」と述べていますが、傍流のフランス系学者の言いそうなことと、笑う部分です。

#57 2019年12月24日 21:40:07

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

聖書についての質問さん もう一本の記事もあったのにすぐに大変ご丁寧な書き込みありがとうございました

>マルコ福音書の筆者はマルコではない可能性のほうが高い

了解です


あともう一つお聞きしたいのですが 新約聖書という書物の 229ページ以降にヘレニストと呼ばれる「ギリシャ語を話すユダヤ人のクリスチャンたち」グループが出てきて その教えが今日キリスト教と呼ばれる教えであって エルサレムにいる12使徒のグループと対立しており それゆえにイエスの教えを12使徒グループがうけついでいるのならそこにギャップがあるようなことが書かれていると思います ここでいうヘレニストという人たちが新約を書いたのではないでしょうか あとパウロたちの思想はこのヘレニストのグループと近く 12使徒グループの考え方と違ってむしろ対立しているのではないでしょうか どこだったかは忘れたのですが
(ガラテア 2:12) …ヤコブのもとからある人たちが来るまでは…

このヤコブのもとからきたある人たち というのが12使徒グループで パウロが割礼と律法を守らせようとしている偽使徒だと非難している人たちだと聞いた事があります

これも忘れたのですが イエスの教えというのは律法については守るべきというスタンスで12使徒たちも同じだったかと思います


仰天さん>つまり、私の言った福音書記者は使徒か使徒に非常に近い人物だと思いますというのと基本的に変わらない意見です。

それで 仰天さんの 使徒か使徒に非常に近い という表現が12使徒たちのグループのことを表しているのなら 彼らのグループは 福音書は書いておらず 対立するパウロをはじめとするヘレニストと呼ばれるグループの人たちが書いたのではないでしょうか


うまく考えがまとまらずとりとめのない文章になりましたが また何かお知りの事ありましたら書き込みお願いします

追伸

仰天さん>また、広く広めて行く事を考えて共通語のギリシャ語を用いたのだと思います。

世界布教のことを考えてギリシャ語で書いたという線はあるのでしょうか?

編集者 てつてつ (2019年12月24日 23:33:26)

オフライン

#58 2019年12月26日 09:35:55

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

ネット見てますとイエスからエルサレムにいた12使徒までのキリスト教を「原始キリスト教」と呼んでパウロたちがそれ以外の広い地域で広めたそれ以降の福音書を含むキリスト教は「初期キリスト教」と呼び教えが違うようです
パウロの活躍と使徒の時代の終り

パウロの布教方針は、エルサレム教会の方針と対立した。エルサレム教会の最高指導者ペトロは他の使徒とともに逮捕され、代わりに指導者になったのが、イエスの異母兄または従兄などと考えられている小ヤコブだった。
長老ヤコブを中心とするエルサレム教会は、禁欲主義の下に財産を共有して生活するユダヤ人の信仰共同体的な集団であり、エルサレムを離れた布教活動には積極的でなかったと見られる。しかし、パレスチナ以外の各地に離散したギリシャ語を話す国際的なユダヤ人キリスト教徒が積極的な伝道を行い、異邦人の信者が増加していった。...

パウロとヤコブは、信仰内容やイエスに関する捉え方、洗礼の概念などを巡って、互いに譲らずに対立した。ヤコブは、いわばキリスト教イエス派が持っていたヘブライ主義を保ち、ユダヤ教の伝統を守ろうとした。これに対し、パウロはユダヤ教の民族文化を脱した普遍的な宗教を目指していた。

田川さんの本でも 64ページ

ともかく、妥協なしに、ユダヤ教を徹底して克服しないと気がすまない。信仰によって救われるのであって、律法によってではない、ということはとことんまで貫ぬこうとした。だからまた、割礼、食事の規則など、ユダヤ教の要素がキリスト教会にはいりこむことに対して強硬に闘った。それは彼にはどうしても許せなかった。そういった実践的なことについては少しぐらい妥協してもいいのに、と思えるのだが、決して妥協しようとしなかった。そういう人物が、しかも同時に、旧約聖書の絶対的権威に常にしがみついているのだから、矛盾もはなはだしい。その点ではパウロはユダヤ教超ラディカリストと言ってもいいくらいの存在であった。

232ページ
これに対し十二使徒グループは彼らのように熱心にエルサレムの外にまで出て行って宣教活動をしているわけではない。というより、そもそもたいした宣教活動は行なっていない。また、七章二’五三節の長いステパノの演説は、実際にステパノがこの殉教の時になしたものであるかどうかはわからないけれども(殉教に際してここまで理路整然とした長広舌をふるうことは不可能であろう)、少なくともへレニストグループの主張をまとめたものであることは確かであろう。使徒行伝の他の部分に出て来る十二使徒グループやパウロの発言や演説とは明らかに特色を異にしている。そしてこの演説において、使徒行伝の中で最もラディカルにユダヤ教に対する批判が展開されているのである。そういうラディカルさは十二使徒グループには見られない。特に決定的なのは、この時にエルサレムのユダヤ人の主たる勢力によってヘレニスト・グループのクリスチャンが弾圧され、ステパノが殉教の死をとげ、他の者たちはエルサレムに居られなくなって、亡命したのに(おそらく多くはパレスチナの外に出て難を逃れた、使徒行伝二・一九)、十二使徒を中心とする「へプライ人」グループはまるで何ごともなかったようにエルサレムに居続け、その宗教活動を持続しているのである。従って、両グループの間には、そもそもキリスト教理解をめぐって相当大きな違いがあったと考えざるをえない。

本書の課題ではないから詳しく述べる余裕はないが、この後キリスト教はあっという間に地中海世界に広くひろまったのであるが、その担い手はヘレニストたちであったと考えられる。つまり、我々が新約聖書を通して知っている初期キリスト教のほとんどは、ヘレニストによって形成されたものであって、十二使徒グループのキリスト教ではないのである。もちろん、ヘレニスト・グループも最初の頃は十二使徒グループから相当程度のものを継承しているだろうけれども。


というわけで 自分はイエスが教えたであろう原始キリスト教の教えはかなりの部分12使徒グループの消滅とともに失われ イエスにあったこともないパウロが「幻でイエスからの啓示をうけたと主張する自己申告のみの根拠」解釈したキリスト教が今日の自分たちの知るキリスト教かなと思いました

まあこの過程を神様の神慮だと考えるのは自由だと思いますが 多分イエスの考えではないと思いますし パウロの個人的な解釈 神学じゃないかなと思いました というわけで新約聖書とはパウロたちヘレニストグループによって最初からギリシャ語で書かれた物で12使徒グループの教えとは違うと思いました

たとえは悪いのですが日蓮正宗の方が釈迦から一気に日蓮までワープして彼の著書の御書を釈迦の教えと同じものだと思っているのと似ているかなと思いました

編集者 てつてつ (2019年12月26日 09:58:35)

オフライン

#59 2019年12月26日 10:46:53

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

てつてつさんの質問というのは、新約聖書を書いた人たちは使徒たちとは関係の薄いギリシャ語を話すパレスチナ以外の人で、思想的には使徒たちと対立していたのではないか、というものと理解しました。

ひとことでいうと、それで正しいと思います。

初期のクリスチャンはどのような人たちだったでしょうか?主にエルサレムにいるユダヤ人たちが最初のメンバーだったでしょう。使徒たちはユダヤ人を主な対象に伝道活動をしていたようですが、ユダヤ人たちは、新しく奇妙な教え(刑死した男が救い主)を受け入れることはなく、使徒たちの活動はあまり成功しなかったようです。

そこへ、パウロが現れます。パウロはよそ者の新参者で、イエスのことを知らず、使徒たちとはほとんど関係がありません。使徒たちに従属しているわけでもなく、自分はイエスから直接使徒に任命されたと主張しています。使徒たちからすれば、到底容認できない主張ではないかと思われます。

パウロは長期間にわたる伝道旅行(主にギリシャ語圏)を開始します。これはパウロ自身の発案で行われ、大成功をおさめました。パウロはキリスト教が世界宗教になる基礎を作ったわけですが、パウロの死後、パウロのような大規模な伝道活動が行われたという記録はありません。パレスチナ以外の初期のクリスチャンは実体としてはパウロの弟子なのです。そのあと、キリスト教は組織的な伝道活動によってではなく、主に口コミで広まっていったと考えられます。

パウロは自分が設立した教会へギリシャ語で手紙を書きます。あて先がギリシャ語圏だからですね。その手紙は、ギリシャ語圏で広く回覧されて、パウロは予想もしなかったと思いますが、聖典となっていったわけです。新約聖書の中で一番数が多く、年代的に最も古いのもパウロの手紙です。

初期のキリスト教を考えるうえで、決定的に重要なこと70年に起こりました。ローマ軍によるエルサレム陥落と破壊です。この時エルサレム教会も消滅したようです。ユダヤ人キリスト教徒の多くは死亡し、これ以降キリスト教の歴史でエルサレムがシンボル以上の重要な役割を果たすことはなくなりました。ユダヤ教的なキリスト教が神殿の破壊とともに力を失ったのです。また、ユダヤ教自体も変わっていきます。

70年以降、クリスチャンは異邦人かギリシャ語を話すパレスチナ以外に住んでいるユダヤ人が大半を占めるようになります。彼らは、エルサレムの破壊という歴史的な惨事に加え、様々な迫害を受けるようになります。そのようなクリスチャンを励ます、信仰を強める、といった目的で、最初の福音書であるマルコの福音書がギリシャ語で書かれたと推測されています。最初のマルコの福音書に触発され、次々と様々な福音書が各地で書かれて行きます。その中から、3つの福音書が聖書に採用され、広く読まれるようになるわけです。福音書には生身のリアルなイエス像はほとんど描かれていません。福音書の作者はイエスを知らない人たちだからです。

要約すると、初期キリスト教は統治体のようなものはなく、各地で独立した宗教活動をしていたわけです。その中で傑出していた人がパウロで、使徒たちとはほとんど無関係に宗教活動をしていました。パウロのような人が各地にいて、様々な論争や対立があったと思われます。しかし、70年のユダヤ社会の崩壊によって、キリスト教の主流は非ユダヤ人でギリシャ語を話す人たちになり、その人たちが現在の新訳聖書におさめられている文書を作り出していったのです。それで新訳聖書はギリシャ語で書かれている。

世界伝道を目指してギリシャ語で書かれたという訳ではないでしょう。

新約聖書の中で、ヤコブの手紙というのがあります。イエスの兄弟で、エルサレム教会の中心だったヤコブを語った偽名文書ですが、これはパウロ的なキリスト教に批判的な、使徒たちの思想を受け継いだ人の作品と考えられています。使徒たちの思想がうかがわれるのがヤコブの手紙ではないでしょうか。
“私の兄弟たち,誰かが自分には信仰があると言っても,行動が伴っていないなら,何の価値があるでしょうか”というのはパウロ的な信仰義認論を批判しているのです。

#60 2019年12月26日 11:25:29

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

てつてつ さんの発言:

新約聖書という書物の 229ページ以降にヘレニストと呼ばれる「ギリシャ語を話すユダヤ人のクリスチャンたち」グループが出てきて その教えが今日キリスト教と呼ばれる教えであって エルサレムにいる12使徒のグループと対立しており それゆえにイエスの教えを12使徒グループがうけついでいるのならそこにギャップがあるようなことが書かれていると思います ここでいうヘレニストという人たちが新約を書いたのではないでしょうか あとパウロたちの思想はこのヘレニストのグループと近く 12使徒グループの考え方と違ってむしろ対立しているのではないでしょうか どこだったかは忘れたのですが
(ガラテア 2:12) …ヤコブのもとからある人たちが来るまでは…

このヤコブのもとからきたある人たち というのが12使徒グループで パウロが割礼と律法を守らせようとしている偽使徒だと非難している人たちだと聞いた事があります

これも忘れたのですが イエスの教えというのは律法については守るべきというスタンスで12使徒たちも同じだったかと思います


仰天さん>つまり、私の言った福音書記者は使徒か使徒に非常に近い人物だと思いますというのと基本的に変わらない意見です。

それで 仰天さんの 使徒か使徒に非常に近い という表現が12使徒たちのグループのことを表しているのなら 彼らのグループは 福音書は書いておらず 対立するパウロをはじめとするヘレニストと呼ばれるグループの人たちが書いたのではないでしょうか


うまく考えがまとまらずとりとめのない文章になりましたが また何かお知りの事ありましたら書き込みお願いします

追伸

仰天さん>また、広く広めて行く事を考えて共通語のギリシャ語を用いたのだと思います。

世界布教のことを考えてギリシャ語で書いたという線はあるのでしょうか?

最初に考えないといけないのは、12使徒グループの中のある人々と12使徒との考えは違うという点です。

>イエスの教えというのは律法については守るべきというスタンスで12使徒たちも同じだったかと思います

という事ですが、イエスや弟子たちはユダヤ教の世界にいた人々でしたから基本的に律法に従っていました。
十分の一の捧げ物の重要性、身を清める事などをイエスは説いていますが、イエスの十字架と復活以降は十分の一の規定はありません。
イエスは、手を洗わずに食べる事は人を汚さないと言い、安息日に癒したりと必ずしも律法を守っていたわけではありません。

割礼や動物の犠牲を捧げる事や食物規定、安息日をクリスチャンが守るのが重要ならそれはユダヤ教であってキリスト教ではないでしょう。

キリストの贖いも無意味になります。ですから、律法重視の12使徒というのは違うでしょう。


伝統的なユダヤ人が割礼を重視するのは分かりますが、ユダヤ教の元にいない異邦人がユダヤ教の規定の中にいないのは当然で、聖書によると割礼を受けていない異邦人クリスチャンにも聖霊が注がれたのですから、パウロの述べる通り、律法はキリストに導くための養育係だと言えるでしょう。


パウロはエルサレム教会の使徒たちから承認されており、パウロの手紙も諸教会で読まれていました。


ペトロの手紙二/ 03章 15節
また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。


ここでは、ペテロは愛する兄弟パウロと述べて、パウロが神からの知恵に基づいて書いたと認めていますから単なるパウロの主張だけではありません。


ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 09節
また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。


使徒の主立った人たちはパウロの異邦人への伝道の必要、神からの恵みを認めています。

それは使徒言行録からも分かります。

使徒言行録/ 09章 15節
すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。



ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 12節
なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。

ここを見てもペテロ(ケファ)は異邦人と交流するのは汚れとは考えていない事が分かります。

この、ヤコブの元から来た人々というのは、使徒のいるエルサレムから来たというプライドの高い人々で、異なる福音、違った霊、別のイエスを伝えて混乱させていたようです。
古代イスラエルにも偽預言者がいたようにエルサレム教会の中にもそのような偽りを語る人々が紛れ込んでいたのでしょう。
そのような人々に対してパウロは偽使徒だと指摘したのであって、当然の事ですが12使徒を非難しているのではありません。


当時、どのような事があったかは推測するしかないわけですが、次のような事だったと思います。

http://mamorumutumi.way-nifty.com/blog/ … fcbca.html

てつてつさんの言う、ヘレニストが福音書を書いたのであり使徒が書いたものではないという点ですが、まず、使徒が書いたものもありますがルカは使徒ではありません。

パウロは福音書は書いていませんが復活のイエスから啓示を受けて異邦人への使徒となり他の使徒たちから承認されています。

田川さんの本でも、ヘレニストとは、もちろんユダヤ人キリスト教徒であり、(P231)「ヘレニスト・グループも最初の頃は十二使徒グループから相当程度のものを継承している」わけです。

パウロもアラム語を用いている事から(マラナタ等)アラム語を話していたユダヤ人キリスト教徒である使徒と無関係にヘレニストが書き上げたという事はありません。


また、
>世界布教のことを考えてギリシャ語で書いたという線はあるのでしょうか?

という事ですが、ユダヤ人は元々ヘブライ語でしたが、イエスの時代には公用語のアラム語に変化していましたので、時代がギリシャ語を公用語にしていた時期なら、ギリシャ語を用いて書くのは自然ではないでしょうか。

例えば、タガログ語と英語の分かるフィリピンの人が多くの人に知ってもらいたいと思うなら一部の人しか理解できないタガログ語より英語で書くのではないでしょうか。

#61 2019年12月26日 11:50:57

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

聖書についての質問さん 大変わかりやすくご説明ありがとうございました 自分が今まで見聞きしたのと大体一致しているかなと思いました

あと>初期のキリスト教を考えるうえで、決定的に重要なこと70年に起こりました。ローマ軍によるエルサレム陥落と破壊です。この時エルサレム教会も消滅したようです。ユダヤ人キリスト教徒の多くは死亡し、これ以降キリスト教の歴史でエルサレムがシンボル以上の重要な役割を果たすことはなくなりました。ユダヤ教的なキリスト教が神殿の破壊とともに力を失ったのです

の ユダヤ教的なキリスト教 という表現も興味深かったです 多分これが本当の最初の原始キリスト教だっただろうと思います

編集者 てつてつ (2019年12月26日 11:51:36)

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#62 2019年12月26日 12:00:18

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

仰天さん>割礼や動物の犠牲を捧げる事や食物規定、安息日をクリスチャンが守るのが重要なら...

多分イエスはこうした律法の規定を否定することはなく単に神殿に巣くってる悪徳僧職者たちやそのとりまき また律法の真意を理解することなく自分たちに都合のよいように解釈している人たちを非難しただけなんじゃないかなと思います それで12使徒の教えも割礼と律法は守りつつイエスの教えをそれに加えて伝えるという感じだったんじゃないかなと思います つまりユダヤ教的キリスト教だったんじゃないかなと思います cry

編集者 てつてつ (2019年12月26日 12:03:03)

オフライン

#63 2019年12月26日 12:09:03

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

聖書についての質問 さん
ありがとうございます。

別トピで 創世記のところ、  akameさん が紹介されていた
特定の信条の 対象に対する 尋常を超えた熱意
判断能力が失われる
という言葉で検索したら
広島大学の近藤良樹  さんの論文を見つけました。

信じることの認識論的二重構造
「信」 にひそむ  「疑」
ひとは 何を根拠にして信じるのか
不動の「信念」 の動揺

逮捕されても 否定し続ける 政治家
性的な被害を訴えた ジャーナリストを 叩き続けた おかしな人々

お手本が  あのヒトたちだから  やり通せると思ったのか?

「定義 付けられない」  とか オカシナこと言って  応援するから スジを読めない 国民は マンマと騙される。

ジャーナリズムについても  近藤先生は 書いておられます。

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#64 2019年12月26日 12:15:22

モトシモベ
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

横入りにて失礼します。

聖書についての質問 さんの発言:

そこへ、パウロが現れます。パウロはよそ者の新参者で、イエスのことを知らず、使徒たちとはほとんど関係がありません。使徒たちに従属しているわけでもなく、自分はイエスから直接使徒に任命されたと主張しています。使徒たちからすれば、到底容認できない主張ではないかと思われます。

この説明、とても腑に落ちました。
パウロ以前とパウロ以後の毛色の違い、旧約聖書と新約聖書の違い以上に、以前から疑問だったのです。

現代にキリストの教えを忠実に守るクリスチャン(JWのように「自称」ではなく)は存在すると思いますか?

また(JWの教えのように)キリストは本当に「旧約聖書で預言されたメシア」だったと思いますか?

更に質問を重ねて申し訳ないのですが、聖書についての質問さんの見解を聴いてみたいです。
JWが提唱したBC607年と1914年の嘘は明確にされていますが、この辺りがキリスト信仰の根幹に切り込む取っかかりになりそうな気がしています。

年末の慌ただしい時期ですから、お時間のあるときで構いません。

#65 2019年12月26日 12:19:52

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

学生時代、 「修道院」  朝倉文市  著   講義をする先生の著作だからみんな仕方なく買いました。  なんのことだか解らなかったから  レポート提出後  街の古本屋さんにあふれていました。 カルトに入ったので 捨てましたが  真面目に読めばよかった。
考古学好きな友人は優秀だから ちゃんと読んでいたらしい。
研究生 の時に  年代計算  組織のあり方を 調べて 辞めたわ!  と言ってました。
原始キリスト教  カッパドキア とか世界中の ことさら不便な地に築かれた 僧院を取材した本です。
日本でも 投入堂  とかありますが  厳しい自然の中に  孤立して  不思議な 修道院

オフライン

#66 2019年12月26日 12:43:46

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

てつてつ さんの発言:

仰天さん>割礼や動物の犠牲を捧げる事や食物規定、安息日をクリスチャンが守るのが重要なら...

多分イエスはこうした律法の規定を否定することはなく単に神殿に巣くってる悪徳僧職者たちやそのとりまき また律法の真意を理解することなく自分たちに都合のよいように解釈している人たちを非難しただけなんじゃないかなと思います それで12使徒の教えも割礼と律法は守りつつイエスの教えをそれに加えて伝えるという感じだったんじゃないかなと思います つまりユダヤ教的キリスト教だったんじゃないかなと思います cry

それなら、旧約聖書で預言されていた成就もメシアもいないというただのユダヤ教の一派でとどまりユダヤ教に吸収されて自然消滅したでしょう。

それならキリスト教としての意味はありません。

もちろん、てつてつさんがどう考えても大丈夫ですが。


以下は転載です。



ペテロはイエスと生活を共にし、重要な機会にはすべてその場にいた生き証人であり、キリストの昇天以後を託された最重要人物であった。彼の言葉には、その人柄からみて偽りが全く無く、証人としてこれ以上ないと言える人物であった。

だから以下に述べるパウロがどんなに才能があって優れていたとしても、事実としてのイエス・キリストが確固として存在しなければ、全くそれは空しく絵に描いた餅となる。その目的にペテロは完全である。
付け加えるなら、独身を貫いたパウロと違ってペテロは妻帯しながら各地を巡回した。だから私は生き返ったドルカスと共に歩んでいる。

対するにパウロはその真逆である。最初、彼はイエスとその弟子たちを、自分を神と名乗る冒とく者、不思議を行って大衆を扇動する危険な一派だと見なしていた。だから真のユダヤ教を守るために、イエスとその弟子たち異端者たちを根絶しようと人一倍熱心に活動し、実際、ステパノを殺害した時の証人でもあった。
それだけでなく、さらに迫害の手を外国にまでも広げようとしたその時、ダマスコを前にして天からの強烈な光によって打ち倒され、
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」(使徒の働き9章)と強制的に神に召されてしまった。敵対者にして迫害者No.1であったパウロを、神権で持って宗旨替えさせたのである。これはペテロと大違いだ。

この二人はしばらくして、ユダヤ人社会にはペテロが、異邦人社会にはパウロがと、互いの伝道するエリアを棲み分けるすることになった。
ペテロの属したエルサレム教会は、すぐに主の兄弟ヤコブがペテロを抜いて指導者となり、ペテロは都エルサレム以外のユダヤや少し足を伸ばして巡回するようになる。ユダヤはローマに反逆し、A.D.70に亡ぼされ、世界に散らされると同時にエルサレム教会も消滅した。

こうして最終的に残ったのはパウロの異邦人キリスト教会であり、もしパウロなかりせば、ユダヤ教の新興一派的なイエス派は、割礼を厳守するユダヤ教の中に取り込まれて消滅していたことだろう。しかしそうならなかったのは、最高度の律法学を学んでいたパウロが、ユダヤ教と決別した「信仰義認」の神学を打ち立てたからである。パウロはそのために神が備え、強制的に引き立てた人物であって、全世界対応にして最もユダヤ教を知る最適で完全な人物であった。

ペテロにしろパウロにしろ、神の計画はどんなに完全であるのかを、この二人を通して見るのは、誰も一致するところだろう。

対照的なペテロとパウロ - ケパとドルカス
https://blog.goo.ne.jp/capha_dorcus/e/0 … bd27ca8fec

#67 2019年12月26日 14:23:01

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

聖書についての質問 さんの発言:

福音書の著者は誰なのかについて、てつてつさんからご質問がありましたので、愚考を述べさせていただきます。

聖書についての質問さんは謙遜して自分で愚考と書いておられますし信じない人の一般的な見解ですので不思議ではないのですが私の視点からの意見です。


聖書についての質問 さんの発言:

さて、福音書の著者ですが、基本的には誰が書いたかわからないのですが、どのような人が書いたのかというのはある程度推理できます。まず、マルコによる福音書について田川氏の推理を見てみましょう。

「最も古い福音書。伝統的には使徒行伝一五・三七ほかに出て来るマルコが著者とされてきた。近代聖書学においてはそれを疑う学説が強いが、積極的に疑う根拠はない。しかし、ペテロの弟子だったというのは、あてにならない。少なくとも福音書の中身を読む限り、とてもその可能性はない。ギリシャ語が下手なこと、内容等々からして、パレスチナ出身のユダヤ人キリスト教徒であるのは確か。学界では非ユダヤ人キリスト教徒とする説もはやっているが、根拠はない。執筆年代、場所は不明。しかし、エルサレム崩壊を知らないのは確実だから、七○年以前であるのは確か。五○年代か六○年代である。七○年代以降に書かれたなどとする「学」説は、何でもいいから想像をたくましくしようという以外の意味はない。」

最後の一文が田川節です。余計なことを言わずにはいられない人なのでしょうか?

田川節というのはよく田川さんに対して言われる表現ですが、最後の「学」説は、何でもいいから想像をたくましくしようという以外の意味はない。

という言葉は外れてはいないと思います。
主流の学説といっても、日本の聖書学者だけを検索してみても、司祭や保守的な牧師も何名も聖書学者の中に入っています。
学問的に考える場合は信仰とは区別するわけですから信じない人のあるグループの中で多くの人が否定的な見解でも、それ以外の聖書学者の中には保守的な学者も多数おり、本文批評家の中にも様々な意見があるでしょうから「説」に過ぎないわけです。






聖書についての質問 さんの発言:

まとめると田川説は、マルコ説を疑う理由がないが、ペテロの弟子というのは疑わしい。パレスチナ出身のユダヤ人。執筆年代は50年代か60年代、執筆場所は不明

では、アーマン氏はどのように推理しているでしょうか?アーマン氏の「The New Testament : A historical introduction to the early Christian writings」(日本語訳はありません。アメリカの大学の新約聖書学の教科書です。)の117,118ページには、要約するとこのように書いています。

匿名の、パレスチナ以外の、ギリシャ語を第一言語とする、異邦人。執筆年代はローマ軍によるエルサレム陥落の年である70年以降。

ふたりの意見は全く違いますね。もちろんアーマン氏の見解の方が主流の見方です。田川氏の見解を支持する人は少数でしょう。しかし、アーマン氏の意見が正しいと決まっているわけではありません。そちらの方がもっともらしいというだけです。もっともらしいとする理由はこのようなものです。

これはそうですね。アーマンさんの意見が『主流』とされていても正しいというわけではありません。

では、もっともらしいとされる理由を見てみましょう。


聖書についての質問 さんの発言:

1.    なぜマルコではないのか?
マルコ説は伝承をもとにした説だから。根拠としては弱い。伝承では、マルコはペテロの通訳となっているが、ペテロにそのような通訳がいたことは“使徒”に書かれていない。マルコ福音書の中のペテロは愚かな発言をし、イエスに絶えず批判されている。マルコはありふれた名前なので、仮にマルコだとしても、どのマルコかは不明。名前がわかっただけではあまり意味がない。匿名の誰かとした方がよい。

「伝承だから根拠としては弱い」との事ですが否定する根拠にはならないと思いますね。


パピアスは2世紀の教父であり、使徒ヨハネの弟子で、2世紀前半に南フルギヤ地方のヒエラポリスの司教でしたが、福音書についての情報をよく収集しています。
彼は、マルコ福音書が実際にペテロが語った説教材料であったと告げており、マルコがペテロの「通訳」であったこと、ペテロによってイエスについて宣べ伝えられたことをマルコが正確に書きとめたと書いています。
これが本当ならマルコ福音書はイエスの生涯を目撃したペテロの証言をもとにしているわけです。

ペテロにそのような通訳がいたことは“使徒”に書かれていない
との事ですが、その使徒12章では、牢獄から助け出されたペテロが真っ先に向かったのはマルコの母の家だったとありますし、ペテロはシルワノのような優秀な助手に書かせたりしていますから通訳がいてもおかしくはないでしょう。






聖書についての質問 さんの発言:

2.    なぜパレスチナ以外の人なのか?
パレスチナの地理に詳しくなく、地名の間違いがある。例えば、マルコ5:1では“一行は湖の向こう側に着き,ゲラサの人たちの地域に入った。”とありますが、湖と訳されているギリシャ語はthalassēs(タラッサ)で、海です。つまり、マルコはガリラヤ湖を海と誤認している。ルカでは正しくlimnēn(リムネー)という単語を使っています。これは湖という意味です。またゲラサも意味不明の地名なのです。

古代では湖や大きな川も時に海と呼ばれる事もあったようです。ガリラヤ湖はガリラヤの海とも呼ばれましたし死海も湖です。

ですから海と呼んでいても誤認とは断定できません。
さらに、ゲラサも意味不明な地名という事ですが、ルカによる福音書にもゲラサは出ています。


引用です。

「ゲラサ人の地方」は、ガリラヤ湖の南東に広がる地域です。ゲラサという町がはるか南東にあります。マタイによる福音書においてはこの地は「ガダラ人の地方」となっています。ガダラという町は湖のもっと近くにあります。ゲラサとかガダラという町のある地方に主イエスの一行は到着したのです。この地域は通常デカポリス地方といって、この地図にもそのように書かれています。デカポリスの「デカ」は十という数字、ポリスは町、都市という意味のギリシャ語です。つまり「十の町の地方」という意味です。


http://www.yokohamashiloh.or.jp/reihai/ … 1011mf.htm


リベラル派も用いる新共同訳の巻末の地図にもゲラサは出ていますし、聖書協会共同訳にも新改訳2017の地図にも出ています。






聖書についての質問 さんの発言:

3.    なぜユダヤ人ではないのか?
ユダヤ人の習慣にうといから。例えば、マルコ7:3,4には、“パリサイ派の人をはじめユダヤ人は皆,父祖たちからの伝統を固守し,手を肘まで洗わなければ食事をせず,市場から戻ったときには,体に水を掛けなければ食事をしない。”とありますが、“ユダヤ人は皆”というのは間違いです。



ユダヤ人ではない人に対して、ファリサイ派の人をはじめとして伝統を守るユダヤ人は皆という流れで説明しているだけでしょうから、信仰の篤いユダヤ人は皆という事での解説でしょう。
皆が信心深い者だったはずはないでしょうから。
マルコ福音書にはギリシャ語でクセがあり、マルコが慣れないながらもギリシャ語で書いたとすれば頷けます。
ですから、それだけでユダヤの習慣に疎いとはならないと思います。


聖書についての質問 さんの発言:

4.    なぜ70年以降なのか?
著者は、エルサレムの神殿の破壊をすでに知っていると思われるから。例えば、マルコ13:1,2には“イエスが神殿から出ていく時に,弟子の1人が言った。「先生,見てください。何と見事な石と建物なのでしょう」。しかしイエスは言った。「この立派な建物を見ているのですか。石がこのまま石の上に残って崩されないでいることは決してありません。”とあり、実際に神殿は床面を除いて破壊されました。信仰者ではない歴史家はこれを“事後預言”と見なします。つまり福音書を書いた時点で、すでに起きていることを、その前にイエスが預言したかのように創作していると見なすのです。

当然ながら、信仰心のない人ならそのようにみなすわけですが、そのように見なしているだけではないでしょうか。
推測するしかないわけですから。






聖書についての質問 さんの発言:

マルコの福音書の著者は誰なのかはわかりません。マルコと呼んでもかまいませんが、どのマルコかは不明です。ギリシャ語を話す異邦人(マルコはローマ人の名前)で、書かれた年代(イエスの死後40年くらい)から言って、イエスのことを直接は知らない人で、さまざまな伝承(多くはアラム語。そのためマルコ福音書には、タリタ・クミ(5:41)やエファタ(7:34)、エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(15:34)などアラム語のセリフが出てくる。)をもとに、ギリシャ語で福音書という新しい文学ジャンルを生み出した創造的な人物です。

マタイ、ルカ、ヨハネの福音書についても、著者は不明です。


確かめて来る事はできませんから、不明としていたほうが無難なのはありますね。





聖書についての質問 さんの発言:

ルカについて、田川氏は、「近ごろドイツやアメリカなどで、この著者はパウロを知らない人物である、という学説がはやっているが、かなり無理な説である。」と述べていますが、傍流のフランス系学者の言いそうなことと、笑う部分です。

笑う部分でしょうか?
ルカ(とされる人物)がパウロを知らないとリベラル派の人たちがしている理由というものもマルコ同様、筆者が地理に疎いとかではなかったですか?

#68 2019年12月26日 14:26:30

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

仰天さん>それなら、旧約聖書で預言されていた成就もメシアもいないというただのユダヤ教の一派でとどまりユダヤ教に吸収されて自然消滅したでしょう。それならキリスト教としての意味はありません。

田川さんの本の252ページあたりから

第一の点については、最初期のキリスト教についてはその思想の全容が明らかでない以上、断片的に知られていることから推測する以外にないが、おそらく最も重要な要素の一つが神殿批判であっただろうと思われる。ス
テパノ演説においても、その結論部分は神殿批判を中心としている(七・四六’五○)。ディァスポラのユダヤ教といってもいろいろな傾向があったと考えられるが、個々の思想は別として、その現実的実態としては、もはや神殿を必要としない宗教となっていた。パレスチナにおいてはまだまだ神殿の権威は高かったけれども、ディァスポラでユダヤ教信仰を保っていこうとすれば、神殿なしで宗教活動をする以外になかったからである。そのユダヤ教は、必然的に、律法の学習を中心として、その上に、ヘレニズム世界全体に通じる思想を構築するものとなった。こういう事情からして、ディアスポラ出身のユダヤ人の中には、神殿宗教というものに対してかなり厳しい批判を持つ者が相当数存在したと考えられる。ステパノ演説の神殿批判はその空気を反映したものであろう。ステパノ演説は、この神殿批判を結論に置き、全体として、いかにユダヤ民族の歴史が神を裏切る歴史であったか、ということを強調しているだけのものであって、鋭いユダヤ教批判ではあっても、特にキリスト教的な色彩はないと言ってよい。最後にほんの一言、イエスが殺されたことに言及しているが、それもイエスの名前を上げることもせず、それぞれの時代の先駆者であった預言者たちがユダヤ民族によって弾圧されてきた、その最近の例の一つとして言及しているだけである。この演説で見る限りでは、その頃のヘレニストでキリスト教徒になった者がキリスト教とどういう接点を持ったのかというと、神殿批判という点だけと言っていいくらいである

おそらく彼らは、ディアスポラからパレスチナに出て来てキリスト教徒の存在を知り、キリスト教徒があがめているイエスという人物が非常に鋭く根底的な神殿批判者、ユダヤ教批判者であったことを知って、それに共鳴して自分たちもキリスト教徒になったのではないだろうか。だから彼らのキリスト教は、彼ら自身がディァスポラのユダヤ教出身であるだけに、厳しいユダヤ教批判を中心としていた。ユダヤ教がいかにへレニズム世界に通用する宗教たらんとしても、やはりそこには無理があるので、すべての人々に通じる宗教を目指す時、おのずとユダヤ教批判にむかっていったのであろう。だから彼らは、まだ多くの点でユダヤ教の伝統の中にとどまり、神殿崇拝とも結びついていた十二使徒のキリスト教よりも、よほど明白にユダヤ教批判を打ち出していたものと考えられる。だからこそ、まず彼らがエルサレムのユダヤ教支配層による弾圧の対象となったのであり、また、彼らの弾圧に際して十二使徒グループの方は彼らと同調することを避け、ぬえ的行動を取ってエルサレムで生き続けようとしたのである。しかし、以後ヘレニズム・ローマ世界にキリスト教を広めていったのは、主としてこの流れである。パウロがキリスト教に共鳴して改宗したのも、彼らのラデイカルなユダヤ教批判という点で共鳴したからであろう。


というわけでヘレニストたちは原始キリスト教の神殿批判の部分に共鳴してキリスト教になったのではないかと思います それに対して「十二使徒グループの方は彼らと同調することを避け、ぬえ的行動を取ってエルサレムで生き続けようとした」とあり ぬえとは妖怪でこわい表現ですが迫害に対して いいえボクちゃんたちはほぼほぼユダヤ教ですよー的な感じで避難しようとしたのではないでしょうか cry


あと続けて
第二に、以上と関連することであるが、彼らが生れたてのキリスト教にギリシャ語を導入した。これがキリスト教というものの以後の運命を決定する。もしもキリスト教が主としてアラム語の宗教にとどまっていたならば、これほどの巨大な宗教にはならなかったであろう。キリスト教をギリシャ語の宗教として育てていったのが、このヘレニスト出身の人々であった。当時のローマ帝国支配下の世界で、彼らは、みながみなというわけではないにせよ、ちょっとした経済人であった。そもそもディアスポラ出身でエルサレムに来て滞在しているという事実そのものが、その経済力と活動範囲の広さを示している。そのことは同時に、彼らが相当な知識人たることを保証する。加えて、広い世界の経験がユダヤ教に対する内在的な批判に鋭さを加えていたと思われる。だから彼らはユダヤ教の批判的克服としてのキリスト教を構築することに熱心であり、しかもそれは理論的にもかなりな高レベルのものでありえた。こういったさまざまな点において、パレスチナのアラム語を話すキリスト教、「十二使徒」を中心としたキリスト教では、とても太刀打ちできなかったであろう。こちらはまだ半分、半分どころか大部分、ユダヤ教の中に足をつっこんだままだったのだから。

とありますので 当時のわりと裕福な知識のあるギリシャ語を話す人ユダヤ人たちの間に流行ったので広まったのではないでしょうか

仰天さん>それなら、旧約聖書で預言されていた成就もメシアもいないというただのユダヤ教の一派でとどまりユダヤ教に吸収されて自然消滅したでしょう。

聖書についての質問さん>初期のキリスト教を考えるうえで、決定的に重要なこと70年に起こりました。ローマ軍によるエルサレム陥落と破壊です。この時エルサレム教会も消滅したようです。ユダヤ人キリスト教徒の多くは死亡し、これ以降キリスト教の歴史でエルサレムがシンボル以上の重要な役割を果たすことはなくなりました。ユダヤ教的なキリスト教が神殿の破壊とともに力を失ったのです

確認のしようもないかもしれませんが12使徒たちの原始キリスト教はこのようにして滅びてしまったようです

編集者 てつてつ (2019年12月26日 14:52:26)

オフライン

#69 2019年12月26日 15:15:07

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

てつてつ さんの発言:

田川さんの本の252ページあたりから

第一の点については、最初期のキリスト教についてはその思想の全容が明らかでない以上、断片的に知られていることから推測する以外にないが、おそらく最も重要な要素の一つが神殿批判であっただろうと思われる。ス
テパノ演説においても、その結論部分は神殿批判を中心としている(七・四六’五○)。ディァスポラのユダヤ教といってもいろいろな傾向があったと考えられるが、個々の思想は別として、その現実的実態としては、もはや神殿を必要としない宗教となっていた。パレスチナにおいてはまだまだ神殿の権威は高かったけれども、ディァスポラでユダヤ教信仰を保っていこうとすれば、神殿なしで宗教活動をする以外になかったからである。そのユダヤ教は、必然的に、律法の学習を中心として、その上に、ヘレニズム世界全体に通じる思想を構築するものとなった。こういう事情からして、ディアスポラ出身のユダヤ人の中には、神殿宗教というものに対してかなり厳しい批判を持つ者が相当数存在したと考えられる。ステパノ演説の神殿批判はその空気を反映したものであろう。ステパノ演説は、この神殿批判を結論に置き、全体として、いかにユダヤ民族の歴史が神を裏切る歴史であったか、ということを強調しているだけのものであって、鋭いユダヤ教批判ではあっても、特にキリスト教的な色彩はないと言ってよい。最後にほんの一言、イエスが殺されたことに言及しているが、それもイエスの名前を上げることもせず、それぞれの時代の先駆者であった預言者たちがユダヤ民族によって弾圧されてきた、その最近の例の一つとして言及しているだけである。この演説で見る限りでは、その頃のヘレニストでキリスト教徒になった者がキリスト教とどういう接点を持ったのかというと、神殿批判という点だけと言っていいくらいである

おそらく彼らは、ディアスポラからパレスチナに出て来てキリスト教徒の存在を知り、キリスト教徒があがめているイエスという人物が非常に鋭く根底的な神殿批判者、ユダヤ教批判者であったことを知って、それに共鳴して自分たちもキリスト教徒になったのではないだろうか。だから彼らのキリスト教は、彼ら自身がディァスポラのユダヤ教出身であるだけに、厳しいユダヤ教批判を中心としていた。ユダヤ教がいかにへレニズム世界に通用する宗教たらんとしても、やはりそこには無理があるので、すべての人々に通じる宗教を目指す時、おのずとユダヤ教批判にむかっていったのであろう。だから彼らは、まだ多くの点でユダヤ教の伝統の中にとどまり、神殿崇拝とも結びついていた十二使徒のキリスト教よりも、よほど明白にユダヤ教批判を打ち出していたものと考えられる。だからこそ、まず彼らがエルサレムのユダヤ教支配層による弾圧の対象となったのであり、また、彼らの弾圧に際して十二使徒グループの方は彼らと同調することを避け、ぬえ的行動を取ってエルサレムで生き続けようとしたのである。しかし、以後ヘレニズム・ローマ世界にキリスト教を広めていったのは、主としてこの流れである。パウロがキリスト教に共鳴して改宗したのも、彼らのラデイカルなユダヤ教批判という点で共鳴したからであろう。


というわけでヘレニストたちは原始キリスト教の神殿批判の部分に共鳴してキリスト教になったのではないかと思います それに対して「十二使徒グループの方は彼らと同調することを避け、ぬえ的行動を取ってエルサレムで生き続けようとした」とあり ぬえとは妖怪でこわい表現ですが迫害に対して いいえボクちゃんたちはほぼほぼユダヤ教ですよー的な感じで避難しようとしたのではないでしょうか cry


あと続けて
第二に、以上と関連することであるが、彼らが生れたてのキリスト教にギリシャ語を導入した。これがキリスト教というものの以後の運命を決定する。もしもキリスト教が主としてアラム語の宗教にとどまっていたならば、これほどの巨大な宗教にはならなかったであろう。キリスト教をギリシャ語の宗教として育てていったのが、このヘレニスト出身の人々であった。当時のローマ帝国支配下の世界で、彼らは、みながみなというわけではないにせよ、ちょっとした経済人であった。そもそもディアスポラ出身でエルサレムに来て滞在しているという事実そのものが、その経済力と活動範囲の広さを示している。そのことは同時に、彼らが相当な知識人たることを保証する。加えて、広い世界の経験がユダヤ教に対する内在的な批判に鋭さを加えていたと思われる。だから彼らはユダヤ教の批判的克服としてのキリスト教を構築することに熱心であり、しかもそれは理論的にもかなりな高レベルのものでありえた。こういったさまざまな点において、パレスチナのアラム語を話すキリスト教、「十二使徒」を中心としたキリスト教では、とても太刀打ちできなかったであろう。こちらはまだ半分、半分どころか大部分、ユダヤ教の中に足をつっこんだままだったのだから。

とありますので 当時のわりと裕福な知識のあるギリシャ語を話す人ユダヤ人たちの間に流行ったので広まったのではないでしょうか

仰天さん>それなら、旧約聖書で預言されていた成就もメシアもいないというただのユダヤ教の一派でとどまりユダヤ教に吸収されて自然消滅したでしょう。

聖書についての質問さん>初期のキリスト教を考えるうえで、決定的に重要なこと70年に起こりました。ローマ軍によるエルサレム陥落と破壊です。この時エルサレム教会も消滅したようです。ユダヤ人キリスト教徒の多くは死亡し、これ以降キリスト教の歴史でエルサレムがシンボル以上の重要な役割を果たすことはなくなりました。ユダヤ教的なキリスト教が神殿の破壊とともに力を失ったのです

確認のしようもないかもしれませんが12使徒たちの原始キリスト教はこのようにして滅びてしまったようです

という事は、てつてつさんの考えでは、神殿を批判したイエスに単に共鳴した人々がクリスチャンになってイエスは何もメシアとしての証明としての奇跡も行わなかったけれどもユダヤ人キリスト教徒やギリシャ語を話すキリスト教徒が増えて、迫害をものともせずに殉教の死を遂げていったという事ですか?

12使徒を含めて。

パウロも熱心なファリサイ派でキリスト教徒を迫害していたのに神殿批判だけで共鳴して恵まれた環境を自ら捨てて命の危険な道に改宗したと。

他の多くのクリスチャンたちも神殿批判に共鳴して死んでいったと。

???


キリスト教が滅んだと言うのなら、アブラハムに約束された

「あなたの子孫によって、 地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」(創世記22:18)

という神の約束はどうなったと言うのでしょう。

アブラハムの子孫、ダビデの家系からメシアが出て異邦人含む全ての国民が祝福されるという約束です。


神殿宗教を批判したというのも腐敗したユダヤ教を批判したのであって神殿自体の批判ではないと思いますが。

そのイエスの情報も福音書から読んでるわけですよね。


また、イエスや使徒は律法を重視したというのがてつてつさんの見解ですが、律法主義を否定したのがイエスではなかったですか?

#70 2019年12月26日 15:54:31

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

めぐままさん、てつてつさんへ

意外と著者は証拠を残しているものだと思います。ちょっとした言葉の隅に見え隠れします。
突拍子も無いと思われると思いますが、お目汚しに・・・
ルカやマルコに書かれたイエスの説法の音響に関する説明でものみの塔の主張です。
音響技術者としてのイエス

音響技術について古代ギリシャではよく知られていたのですが、ユダヤ人はどうなの?
という疑問と、もしかしてルカ書やマルコ書の著者は音響技術者?という疑問が残ります。
大会に音響が必要なように。
ぜひご感想をお聞かせください。あ、すみません、私ごとですが2日ほどこちらの掲示板が
見られません。ゆっくりで構いません。

#71 2019年12月26日 16:21:25

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

ユダヤ人クリスチャンは行方不明になり消えて行きましたが聖書にあるように異邦人クリスチャンへと継承されて世界宗教となったのでした。





使徒言行録/ 11章 01節〜
さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。
そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。 「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。

その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。

そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、 わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』

すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。 こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。

そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。 すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。

彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。

あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』

わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。

そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。

こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」

この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。



ヨハネによる福音書/ 10章 16節
わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。



ほかの羊とは、もちろん、JWの言うような地的クラスの大群衆ではなく、異邦人クリスチャンの事です。

#72 2019年12月26日 16:30:31

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

つまりは〜

いつも同じパターンのような気がします。 カルトの間違いを 説明している掲示板に それぞれ 時間の経過と共に 聖書に対する見方が変化してきたひとたちが 気持ちや、調べた事を書き込んでいる訳です。
真面目な 学究肌のかた  シリアスなシーンを思い出してるかた  ユーモアたっぷりのかた
カルトは懲り懲りだけども 神さまを信じている  いや 神などいない
カトリック教会は 雰囲気いいですよ〜
ボランティアで 子ども食堂手伝っています
施設に慰問するから、プレゼントを準備しているの~
でもね もう聖書を 神の言葉とか言ってぜんぶ史実とは思わないわ

それそれでいいじゃないですかね

追いかけて行って 
「信仰を維持すべきです!」
「 神の裁きにあったらどうするんですか?」

不粋 です。

オフライン

#73 2019年12月26日 16:32:35

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

聖書否定の根拠が弱い点を指摘されると不粋ですとかまるで議論にならないわけです。

しかも、あなたとは話していないので。

#74 2019年12月26日 16:40:20

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

ガッツだぜ  さん
音響効果  の記事は 現役でカルトにしびれていた頃 本気で読んでいました。
建築をなさるかたには 興味があるでしょうね。
現在の オペラハウスには  水 の反響よりも 別の方法ですね。

オフライン

#75 2019年12月27日 07:42:07

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

めぐママさん 書き込みありがとうごさいます アルプス乙女来ましたので てつてつさんのネコのひたいほどの庭にとりあえず植えてみました 早く食べたいなー kiss

1577400088_img_20191226_160252.jpg


シセイさん>もしかしてルカ書やマルコ書の著者は音響技術者?という疑問が残ります。大会に音響が必要なように。ぜひご感想をお聞かせください

ちょっと自分にはわからないです cry

編集者 てつてつ (2019年12月27日 07:46:27)

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