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#26 2019年05月30日 06:30:53

ひよりタニタクミ
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

幼子には災いでしたが、そこまでしないとファラオは民を去らせなかったのです。十分な警告が与えられていたのです。

殺された子供は災難でしたが、私はそのような善悪の区別のつかない幼子達は天国に行ったと思います。

イエスは、「神の国はこのような者たちのものである」と語り、子どもたちを抱き上げ、祝福されたからです。その中にエジプトの幼子もベツレヘム周辺で殺された二歳以下の幼子も入っていると思います。

これを言うとオウムのポアを思い出す人もいるかもしれません。殺されても天国だから殺してもいいのだと。しかし、そのような事を言っているのではありません。




犯人が社会に不満があっても、罰として人殺しをする権利はありません。命の与え主だけが命を奪う事ができ、その権限があります。



仰天さん。おはようございますm(_ _)m



なるほど、命の与え主だけが、その命を奪う権限を持つ。

たとえば、工作などでも、作ったこどもが何度も修正したけれどやっぱり出来上がりが、自分に納得いかないから作品を棄ててしまう。

でも他のこどもには、どれ程劣悪な作品で不愉快に思えても、本人の了承もなく勝手に作った作品に手を付けてはならない。

と、こういうことでしょうか?

作品が、命を持ち意識のあるこどもと言う生き物であっても。
創造者だから、命を奪う権限を持つ。

そして、それらのこどもは天国に行ったことでしょう


【さらに言えば、イエス・キリストも同じスタンスでこども達を抱き寄せ祝福された訳ですね】

↑ここはJWと大いに異なった印象です。イエス・キリストがこども達を抱き寄せ祝福されたのは、こどもの持つ謙遜さ、こどものような心を持つものが神の王国に入ることができる、との教えにJWは繋げていたと記憶します。


話を戻して、ではこどもと言う存在は親の行いによって命を長らえたり奪われたりする、儚く無力な人身御供のような印象を受けますが、


仰天さんがそういう感覚で書いてるのではない事は解ります。


JWは復活によって赤子も甦るという教えでしたが、考えてみると、赤子の復活とは、親も共に復活するのか疑問ですしシングルマザーの可能性もあるわけで、天国に行って親と再会している、と考えるのは、復活よりも心暖まるものがありますね(^-^)


私も子を亡くしていますから、そういう信心は心を救われるものです。

#27 2019年05月30日 21:58:51

ほい
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

仰天さん、お返事ありがとうございます。

いろいろと調べるために時間を割いてくださったと思います。まずはお礼申し上げます。

申し訳ないのですが、月末で多忙なため、恐らく週明けにならないと落ち着いて返信できなさそうです。もう少しお待ちください。


ひよりさん、こちらもお返事遅くなりました。

面白い視点だと思いますが、残念ながら私は聖書の独自解釈にあまり関心がないため、ご期待に応える返信はできそうにありません。すみません。

#28 2019年05月31日 13:43:20

ゆり
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

仰天さん

>ゆりさん
大丈夫ですよ^_^
ほいさんは多分、真面目に質問しておられると思います。
ジョエルさんも誠実な対応をされる方ですし、そのような方とはお話をしてもいいかなと思っています。

そうですね。(^-^)

#29 2019年05月31日 22:05:44

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ひよりタニタクミ さんの発言:

仰天さん。

私の親は、私がレイプされたときに妊娠しなかったことを喜びました。でも私は、レイプによりあろうことか、マゾヒスティックな感覚を身に付けてしまいました。(単なる暴力ではなく、JWであることゆえの迫害とも言える理由でレイプされたのでそう言えるのですが)

レイプの苦しみや痛みに耐えるために替わりの感情として死にも匹敵する恥辱に対処しようと脳が、殉教的喜び、自虐的喜び、等のアブノーマルな悦楽の記憶へと、改変させようとしたということです。


それで、現在の私の大抵の精神的苦痛は普通の人の何倍も平然としてやり過ごせる、マゾヒスティックな特質には自分も、驚くほどです。


私はステファノ殺害の際に、ステファノに石打ちの痛みや死の迫る恐怖を取り去ったのは、実は私自身の経験した脳の機能の効力だったのだろうか?と、


思うことがあります。


ステファノを死に際して苦痛を和らげたのは、一種の脳内麻薬、と言う可能性もあると思います。イエス・キリストの死の際にも、イエスはヒソプに染み込ませた酸いぶどう酒を拒んでいましたが、既に死の恐怖はステファノ同様の安らかな心境だったと思います。


イエス・キリスト、ステファノとは全く逆のパウロを悪夢に悩ませた殺害記憶は、逆に加害者としての責め苦としてパウロに生きてるうちに決して安寧を与えないことで、常に、【罪の重み】と【キリストの赦し】をリアルに手紙に書き記させるために、必要な苦しみだったのではないか


と私は考えています。


このように考えてみると、加害者の苦悩と言うのは、被害者が被った命の重さを生涯負い続けると言う、死よりも苦しい心境ではあるまいか?


であれば、被害者として死んでいく者の理不尽さを御家族は無念に思い、哀しみは癒えず、自分も跡を追いたいと思う気持ちも当然の感情ですが、その死はある意味で意義ある死、尊厳死であるとも思います。


イエス・キリストの死の意味は、この辺りにあったのでは?と思います。


詰まり、理不尽な死を受けてきた多くのこども達を含めた、膨大な犠牲者の御家族の思い、哀しみの禍根をキリストの死は、そこで断ち切る。


ここで、キリスト教に一石を投じるほどの発言を致しますが、
(それほど大それた事を言おうとしていると自覚しています)


ここには、


神自ら、神が自分自身を【赦す】と言うこと

これは、聖書に反するあまりにも酷い言い草ですが


神のしてきた殺害、数多くの死者への弔い、



それらの残虐性の赦しは神自身が自分を赦す必要があった。
まず、神自身が自らの加害意識に対して、自分の罪を償っていたのではないでしょうか。

このために、キリスト教が育まれてきたのではないでしょうか?

そんな風に思えました。

この考えは、どう思われますか?


殉教の死の際に、神の所に行ける、神に会えるという思い、最後まで忠実を保ったという思いは、ある意味で脳内麻薬のような喜びと心の平安を与えたと思います。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6、7)



パウロも肉体を離れて神のもとに行く事を望んでいます。


「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」(第二コリント5:8)




コリントの信徒への手紙二/ 05章 08節
わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。


パウロについてですが、パウロのような大迫害者、罪人の中の最たる者が救われたという事は、わたしのような者を救って下さったキリストはあなたをも必ず救って下さいますと伝える事ができ、神の愛を示せると思います。どんな人でも悔い改めるなら救われるのですから。

もちろん、その経験は手紙を書く際にも活かせたと思います。

そのような恵まれた環境にいたパウロが全てを捨ててキリストに仕えたという事はイエスの復活の信憑性が増すと思います。

それと、奇跡を信じない人々は、イエスの死後に弟子達の間でキリストの復活を信じる何らかの出来事が生じてそのような信仰が生まれたとしますが、その何らかの出来事が何か、信仰がなぜ生まれたのか説明できません。

素直に復活があったと考えたほうが自然だと思います。

また、奇跡を認めない人は、古代には病気は悪霊によるものだと考えられていたので、悪霊を追い出したとは、実際に追い出したのではなく、何らかの医学的な治療行為を行ったのだとか、精神的な病の者に適切なアドバイスをして癒した事だと考えます。(だいぶ前に読んだ本の記憶からですので少し違う部分もあるかもしれませんが)

そして、それらの人々は、パンと魚を増やしたというのは、本当は多くの人が弁当を持っていたのだが、隠していて、1人の人が出したのをきっかけに皆も持っているものを出して持っていない者にも分け与えたのだとか解釈します。

それも不自然な解釈だと思います。


キリストの復活に関してですが、弟子達が遺体を盗んで隠したのなら、自分達でついた嘘のために、※嘘と知りながら  自ら迫害される道を選んだ事になり、全く意味がありません。

殺されそうになった時に、復活が嘘であったなら、すぐに、あれは嘘でした、イエスの遺体ならここにありますと白状すれば自分と愛する家族や仲間も死ななくて済んだのです。

迫害を恐れて部屋に鍵をかけて隠れていた臆病な弟子達が大胆にキリストの復活を伝える者に変えられたという事は、文字通り復活があったとしか思えません。

ある者は、復活したキリストに会ったというのは、幻覚を見たのだと言います。しかし幻覚は、同時に多くの者が見るものではありません。

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」(第一コリント15:3-6)


また、墓は重い石で塞がれて封印もしてあり、武装したローマ兵の見張りが夜中も見張っていました。
もし、弟子達が盗みに行ったとして武装したローマ兵がいるのにどうできるでしょうか?

万が一遺体を盗み出せても先ほどのように、自分でついた嘘のために嘘と知りながら復活を主張した事になります。何の得にもなりません。

番兵はそんなにドジなのでしょうか。盗まれた兵には厳しい処罰があるはずですが何の処分もありません。復活があったと考えるほうが道理にかなっているように思えます。

また、旧約、新約問わず、民衆を支配するためにでっち上げたという説もありますね。

しかし、誰も聞いた事もないような話をいきなり出して、これが正しいのだから従うようにと命じて、誰が信じるでしょうか。

今回は取り上げませんが他にも他の神話からのパクリ説もありますがもちろんそんな事はないと思います。

さて、話を戻してと。

被害者の家族が無念に思い後追い自殺するのも尊厳死で、キリストの死もそれにあたるという事ですか?

>詰まり、理不尽な死を受けてきた多くのこども達を含めた、膨大な犠牲者の御家族の思い、哀しみの禍根をキリストの死は、そこで断ち切る。

>神自ら、神が自分自身を【赦す】と言うこと
>神のしてきた殺害、数多くの死者への弔い、

>それらの残虐性の赦しは神自身が自分を赦す必要があった。まず、神自身が自らの加害意識に対して、自分の罪を償っていたのではないでしょうか。


まず、神が加害意識を持ち、自分の罪を償ったという考えは聖書の教えでは否定される事ではありますが、神が天使長ミカエルを代わりに贖いにしたのではなく、万物の創造者である神(イエス)自らが贖いになられたという点では、自ら責任を取られたとも言えるとは思います。

神は被害者の家族の気持ちもお分かりになり、救済の道を備えられました。罪を犯した者にもその道は開かれています。

イエスは汚れなき神の小羊であり、罪はありません。

ひよりタニタクミ さんの発言:

なるほど、命の与え主だけが、その命を奪う権限を持つ。

たとえば、工作などでも、作ったこどもが何度も修正したけれどやっぱり出来上がりが、自分に納得いかないから作品を棄ててしまう。

でも他のこどもには、どれ程劣悪な作品で不愉快に思えても、本人の了承もなく勝手に作った作品に手を付けてはならない。

と、こういうことでしょうか?

造り主に権限があるのは同じですが、棄ててしまうのとは違うと思います。
滅びに至る者は、自ら神から離れて滅びを選んでいるのです。神は人が滅ぶのを望んではおられないでしょう。

命は毎日どこかで奪われています。自然死でも事故死でも病死でも。

神は、吹き込まれたいのちの息を取り去る事も、霊を取り去る事も心臓のポンプを止める事もおできになりますがそのようにはされません。

皆を愛しておられるからです。


ひよりタニタクミ さんの発言:

JWは復活によって赤子も甦るという教えでしたが、考えてみると、赤子の復活とは、親も共に復活するのか疑問ですしシングルマザーの可能性もあるわけで、天国に行って親と再会している、と考えるのは、復活よりも心暖まるものがありますね(^-^)

私も子を亡くしていますから、そういう信心は心を救われるものです。

エホバの証人の教えでは楽園での復活までは亡くなった子供や家族とは会えませんが、本来のキリスト教では、キリストの再臨前でも死んだらすぐに天のパラダイスで家族と再会できます。
(パラダイスは信仰者が行く天国の前の喜ばしい待機所のようなもの、不信仰者の行くハデスは最終的な裁きであるゲヘナの前の待機所です。)


生きてるうちにハルマゲドンが来なくても、寿命で死んだら神を信じて聖霊によりイエスを主としているなら天の国ですから救われますよね。(o^^o)

#30 2019年05月31日 22:37:51

青樹
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

タニタクミは 嘘つき ! 笑
性根の 腐った いじめっこ !

#31 2019年05月31日 22:48:47

ひよりタニタクミ
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

青樹 さんの発言:

タニタクミは 嘘つき ! 笑
性根の 腐った いじめっこ !


青樹さん。



ハイハイヾ(・ω・ヾ)



御自由に私を罵倒してくださいませ、
私もあなた様のような方は、
レイプ犯と同列と思うことで御許し致しますです。


今、仰天さんの含蓄に富んだ文章を味わっています。



そこを邪魔なさる青樹さん、私の関心を惹きたいのに
小学生並みの言葉しか思い付かないのも語彙のない
幼児性の抜けない御方ですねウフフ(笑)

#32 2019年05月31日 23:21:40

ひよりタニタクミ
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

キリストの復活。


キリストの遺体を包んだと言われる、聖布が有名ですね



奇跡。それは人間にとっては驚きですが、


驚くことが奇跡のひとつの目的では?とも思いました。









百聞は一見にしかず



と言う東洋の諺もありますが。





(パラダイスは信仰者が行く天国の前の喜ばしい待機所のようなもの、不信仰者の行くハデスは最終的な裁きであるゲヘナの前の待機所です。)



この教義は興味深いです(^-^)

仰天さんの書き込み、少し深く考えてみます。

取り敢えず私の想いを酌んでいただき感謝申し上げます。

正式な御返信はよく考えた上で改めて、させていただきます。


ありがとうございますm(_ _)m

#33 2019年05月31日 23:33:03

ひよりタニタクミ
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

今後。

私を罵倒する方は、
私のなかでその方を
レイプ犯と思わせていただきます。

我こそは是非レイプ犯と思われたい方、
どうぞ御自由に書き込みくださいませ。

御自分がレイプ犯に思われるのが
御好きな嗜好と思われますよ。

#34 2019年06月01日 07:35:19

ひよりタニタクミ
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

仰天 さんの発言:

殉教の死の際に、神の所に行ける、神に会えるという思い、最後まで忠実を保ったという思いは、ある意味で脳内麻薬のような喜びと心の平安を与えたと思います。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6、7)



仰天さん。


おはようございますm(_ _)m



昨夜から一晩中、仰天さんの言葉を咀嚼していました。

まず、キリスト教は【死の意味】をよく考えて説明している。
と思います。

宗教とは【死の恐怖】を和らげる阿片(痛みを感じないようにする麻酔薬と言う意味で私は今、使っています)のような目的が、あると思っていました。





しかし、仰天さんの信心に寄れば、





パウロも肉体を離れて神のもとに行く事を望んでいます。


「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」(第二コリント5:8)

そのような恵まれた環境にいたパウロが全てを捨ててキリストに仕えたという事はイエスの復活の信憑性が増すと思います。



↑ここですが。キリスト教に於ける【死】とは【神のもとに行く】事である。これは、どちらかと言うと他宗教の【悟り】や、【解放】とは少し意味合いが異なる印象を受けます。
どちらが善い悪いの問題になれば、論争になるのでそれは望みませんが。

【死んだあとにこそ、幸せな状態が待っている】

キリスト教の世界観は【死してヒトは新たに生きる】
これがテーマかな?と思いました。そして、その世界観の大前提が、【キリストの復活】を信ずるか否か?でしょうか。


キリストの復活。これが多くの人に、《あったか無かったか?》
との物議をかもしてこの真偽をめぐって、歴史は動いてきたのかも知れませんね。


キリストの復活の根拠は、仰天さんに、沢山挙げて頂きました。
ひとつひとつ、考えました。キリスト教における復活は教義の【要(かなめ)】と言える部分ですから、自分がそれを信ずる
為に充分に心に嘘をつかずに、正直に考慮すべき問題だと感じます。

それと、奇跡を信じない人々は、イエスの死後に弟子達の間でキリストの復活を信じる何らかの出来事が生じてそのような信仰が生まれたとしますが、その何らかの出来事が何か、信仰がなぜ生まれたのか説明できません。

素直に復活があったと考えたほうが自然だと思います。

また、奇跡を認めない人は、古代には病気は悪霊によるものだと考えられていたので、悪霊を追い出したとは、実際に追い出したのではなく、何らかの医学的な治療行為を行ったのだとか、精神的な病の者に適切なアドバイスをして癒した事だと考えます。(だいぶ前に読んだ本の記憶からですので少し違う部分もあるかもしれませんが)

そして、それらの人々は、パンと魚を増やしたというのは、本当は多くの人が弁当を持っていたのだが、隠していて、1人の人が出したのをきっかけに皆も持っているものを出して持っていない者にも分け与えたのだとか解釈します。

それも不自然な解釈だと思います。


キリストの復活に関してですが、弟子達が遺体を盗んで隠したのなら、自分達でついた嘘のために、※嘘と知りながら  自ら迫害される道を選んだ事になり、全く意味がありません。

殺されそうになった時に、復活が嘘であったなら、すぐに、あれは嘘でした、イエスの遺体ならここにありますと白状すれば自分と愛する家族や仲間も死ななくて済んだのです。

迫害を恐れて部屋に鍵をかけて隠れていた臆病な弟子達が大胆にキリストの復活を伝える者に変えられたという事は、文字通り復活があったとしか思えません。

ある者は、復活したキリストに会ったというのは、幻覚を見たのだと言います。しかし幻覚は、同時に多くの者が見るものではありません。

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」(第一コリント15:3-6)


また、墓は重い石で塞がれて封印もしてあり、武装したローマ兵の見張りが夜中も見張っていました。
もし、弟子達が盗みに行ったとして武装したローマ兵がいるのにどうできるでしょうか?

万が一遺体を盗み出せても先ほどのように、自分でついた嘘のために嘘と知りながら復活を主張した事になります。何の得にもなりません。

番兵はそんなにドジなのでしょうか。盗まれた兵には厳しい処罰があるはずですが何の処分もありません。復活があったと考えるほうが道理にかなっているように思えます。

また、旧約、新約問わず、民衆を支配するためにでっち上げたという説もありますね。

しかし、誰も聞いた事もないような話をいきなり出して、これが正しいのだから従うようにと命じて、誰が信じるでしょうか。






これらの物的証明根拠は、【復活が無かったなら】あり得なかった事象なので結果的に【復活はあった】と結論するに至る理論であると思いました。でも信じるには充分な情報だと感じます。






さて、話を戻してと。

被害者の家族が無念に思い後追い自殺するのも尊厳死で、キリストの死もそれにあたるという事ですか?

造り主に権限があるのは同じですが、棄ててしまうのとは違うと思います。
滅びに至る者は、自ら神から離れて滅びを選んでいるのです。神は人が滅ぶのを望んではおられないでしょう。

命は毎日どこかで奪われています。自然死でも事故死でも病死でも。

神は、吹き込まれたいのちの息を取り去る事も、霊を取り去る事も心臓のポンプを止める事もおできになりますがそのようにはされません。

皆を愛しておられるからです。



この最後の一文ですが。出てきましたね。
神は【皆を愛しておられる】この教えが、多くの人を魅了して止まないキリスト教の強みと言いますか、絶対的説得力になり得る
神の感情の部分と感じます。




エホバの証人の教えでは楽園での復活までは亡くなった子供や家族とは会えませんが、本来のキリスト教では、キリストの再臨前でも死んだらすぐに天のパラダイスで家族と再会できます。
(パラダイスは信仰者が行く天国の前の喜ばしい待機所のようなもの、不信仰者の行くハデスは最終的な裁きであるゲヘナの前の待機所です。)


生きてるうちにハルマゲドンが来なくても、寿命で死んだら神を信じて聖霊によりイエスを主としているなら天の国ですから救われますよね。(o^^o)



本来のキリスト教、伝統ある歴史古きキリスト教の教義には、
JW時代には触れる機会もなく、JWの教えを自分で納得もせずに、バプテスマを受けた過去を思うと、この仰天さんの結論部分は、JWが言っていた、既存のキリスト教は【偽りのキリスト教】と言う決め付けに対して、JWは恥じなければならない。

と思いました。


少なくとも、仰天さんの言葉はJWを頭から批判したり、否定
は全く、しておられません。
これは、偏狭なJWには見倣いたい手本であるなと感じ、この謙虚さに感銘を受けた、と申し上げたいです(^-^)


ありがとうございますm(_ _)m

#35 2019年06月03日 05:28:10

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ひよりさん、嬉しい感想を述べて頂き感謝します。(^_^)


ほいさんのお返事もお待ちいています。

#36 2019年06月03日 05:29:36

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

「平和を願う祈り」 アシジの聖フランシスコ

神よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛を
いさかいのあるところに、ゆるしを
分裂のあるところに、一致を
迷いのあるところに、信仰を
誤りのあるところに、真理を
絶望のあるところに、希望を
悲しみのあるところに、喜びを
闇のあるところに、光をもたらすことができますように。

神よ、わたしに、
慰められるよりも、慰めることを、
理解されることよりも、理解することを、
愛されるよりも、愛することを
望ませてください。

自分を捨てて初めて自分を見いだし、
ゆるしてこそゆるされ、
死ぬことによってのみ、永遠のいのちによみがえることを
深く悟らせてください。

#37 2019年06月03日 06:09:39

山のアザミ
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

仰天さん

おはようございます

素晴らしいpoemを掲載して下さいまして
ありがとうございます

  心が洗われるようです

  ゚+.゚(´▽`人)゚+.゚

#38 2019年06月03日 06:26:41

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

アザミさん、おはようございます。

とてもいい祈りですよね。

この前、銀座の教文館に行った時にその祈りの言葉の書かれたカードを購入してきました。(^o^)

#39 2019年06月03日 07:08:58

山のアザミ
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

そうですね

   私も毎日 読めるように

   美しい 少し大きめのカード作り

   一番目につく場所に貼ることにします

  今朝は 早々に

   希望  見いだしましたよ

   嬉しいです

    (*´꒳`*)

#40 2019年06月03日 12:59:51

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

紹介したブログの中から、エホバの証人関連の記事を紹介します。



クリスチャン、カトリック、モルモン教、エホバの証人 違いはなに? どれが真理? | バイブル+真理スパイス Asafu
https://ameblo.jp/estersmile/entry-12335766635.html

#41 2019年06月03日 13:05:17

ほい
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

仰天さん、遅くなりましたが返信させていただきます。

仰天 さんの発言:

ほいさんに誠実さを感じていますと書いたところ、表向きはエホバの証人を演じているので誠実とは程遠いという事を言っておられました。

これは、JWのご両親の為を思っての事だと思いますが、確認なのですが、ほいさんは神がおられても残酷な神様のように思うので、そのような神様なら滅ぼされる事を選びますと書いておられました。

二世として育って来られても、神はおられると思って心から感謝していた時期もあられたのでしょうか?
それとも、神に感謝しなさいと教えられてきたものの神を身近に感じる事なく感謝する気持ちもほとんどなかったのでしょうか?
それによって同じ聖書の話を聞いても違ってくると思うのです。

一言で説明するのは難しいですが、JWとしての活動に青春と20代は捧げました。
命の与え主という創造者への感謝の気持ちも持っていましたし、その方が実在するなら、今でも親に感謝するのと同様に感謝しています。
ただ、事あるごとに「エホバが祈りを聞いてくださった!」と神を身近に感じられる兄弟姉妹ほど感性豊かではありません。

仰天 さんの発言:
ほい さんの発言:

私としては、残虐な民への裁きということ自体は否定するつもりはないのですが、人の心を知ることができ、個別に裁く能力を有している神であれば、異民族や某都市の住民すべてを一律で滅ぼすというような暴挙を選ぶ必要性はないのではないかと感じます。

確かに、ノアの洪水を史実として見た時には、一律で滅ぼされた事になりますが、確かな箱舟の建造期間は分かりませんが、相当長い期間があり、その間にノアと家族達は周りの人々に警告し続けたはずですから、悔い改めて箱舟に入る事もできたはずです。
ヨナ書を見るとニネベの人々は悔い改めて助かっていますし、ヨシュアの遣わした斥候をかくまって助けたラハブとその家族もカナン人の中から助かっています。それに、降伏してきたギブオン人も仲間になりました。在留外国人も律法で守られています。

ですから、全部が全部一律で滅ぼしたとか、暴挙だとは言い切れないと私は思います。

その考え方だと、ハルマゲドンで人類の99.9%が滅びると信じているJWの教義も(理論上は)筋が通ることになります。
また、確かにごく一部に救われた異邦人などもいたわけですが、それは全体の人数から考えると圧倒的に少数ですし、救われる(保護される)絶対条件はエホバへの無条件な服従です。
そうする決意をするに足る証拠や情報が十分に与えられていたかは分かりませんし、そのような選択肢が個々の人すべてに与えられていたのかも聖書の記述のみだと甚だ疑問です。この条件はやはり過酷だと思います。

仰天 さんの発言:

確かに現代人の感覚で見ると残酷だと感じるのが普通だと言えます。
しかし、現代の感覚という時点でフィルターがかかっていると思います。
神は創造の時から、神から離れるなら死ぬ事を警告しておられました。
聖書の言う罪とは、戦闘員であるという事には限られません。旧約の時代は神の奇跡や力を直接に目の当たりにできた時代です。その点で現代の感覚と同じではないと思います。老人、女性、子供でも明らかに神を認めず反抗していたなら、処罰を受けたでしょう。
神から離れた人類全てを神は滅ぼす事もできましたが、それでも神は救済の道を備えられました。

どの時代に生きていたとしても、その時代の価値観というフィルターがかかるのは当然です。
神が聖書のみを通して人類を教え導くというのであれば、それらのフィルターにかかったとしても納得の理解が得られるような書物にされるべきではないでしょうか。神は全知全能なのですから。しかし、残念ながら聖書の内容はそれには程遠いと感じざるを得ません。

「神から離れた人類全てを神は滅ぼす事もできましたが、それでも神は救済の道を備えられました。」と言われますが、これだと、たくさん人を殺しても、本来殺すこともできた人を何人か見逃したら愛があるということになります(もちろん仰天さんがそう言っているとは思いませんが)。
救済の道を備えたからといって、残虐行為が正当化されるとは思いません。

すいません、アブラハムに関す部分は時間の関係ではしょります。

仰天 さんの発言:

見てきましたように、神による裁きは、テロによる無差別殺人とは異なります。

信じない者は滅びると言われますが、信じるなら救われるのです。

神を認めてイエスの贖いを認め、感謝して生きるだけで永遠の命なのです。何も難しい事はないです。それは自由意志で選ぶ事ができます。特にカルト性は感じません。
カルトというのは偽りの宗教に見られるのであって、真の神がカルトであるはずがないのです。

カルトの意味をどのように考えておられますか?

信じるに足る十分な根拠を与えておられれば、またそれだけの魅力があれば信じることはできると思います。実際に信じておられる人も少なからずいるでしょう(教義の若干の相違はあれクリスチャンの割合は各宗教の中で一番多いわけですし)。
しかし、逆の見方をすれば人類の半数以上は信じられないと思っているわけです。その原因の一つはそれだけの根拠がない、疑問の答えが得られないなどの理由でしょう。これらの人も神に反抗する人たちと同様に滅ぼされるわけです。この考え方は極めて排他的、反社会的でありカルトの傾向があると思います。
真の神はカルトではないというのは、まるでJWの主張のようでやや辟易します。

昼休みが終わったので、残りの返信はまた後ほど。

#42 2019年06月03日 18:28:43

てつてつ
メンバー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ほいさんこんにちは
>これらの人も神に反抗する人たちと同様に滅ぼされるわけです。この考え方は極めて排他的、反社会的でありカルトの傾向があると思います。
真の神はカルトではないというのは、まるでJWの主張のようでやや辟易します。

自分は申命記関連の部分は当時の宗教指導者たちが自分たちの利益誘導のためヤハウェのみ運動とエルサレムのみでの崇拝にするために 以前の神話を編纂して作り上げた物語だと思いますので 当然 排他的 カルトの傾向になると思います

以前にも紹介しましたがこの件の自分のサイトです

編集者 てつてつ (2019年06月03日 18:42:49)

オフライン

#43 2019年06月03日 20:35:11

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ほいさんへの返信より先になりますが、


てつてつさんの意見は単に近代自由神学の意見をそのままを信じただけですよね。

まぁ、私のは古代からの伝承や保守的な見解を信じたものですが。

結局は、聖書を信じるか疑って見るかでしょう。

申命記 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/申命記

発掘された聖書の本が正しいとは限りませんし。

#44 2019年06月04日 05:53:18

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

文書資料仮説も長く言われてきましたが仮説に過ぎず、近年では否定されてきています。

申命記が宗教指導者の利益誘導のために書かれたという考えも仮説に過ぎず何ら証明されたものではありません。





Wikiより





『旧約聖書』は断続的かつ長い期間に渡り、立場の異なる多くの人々や学派のようなグループが関わり、何度も大きな増補・改訂・編纂が行われ、その過程はかなり複雑なものであったとも推測されるが、異論もあり、いまだに定説を見ないのが現状である。聖書の記述には誤りが無いと信じるプロテスタントの福音派は、旧約聖書は聖書記者によって書かれた時から正典としての権威を持っていたと認め[13]、申命記4:2「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また減らしてはならない」という記述等から、増補・改訂はなかったとする。一方、自由主義神学(リベラル)では聖書は段階的に正典化されていったとする[14][15]。

四資料仮説   
編集
詳細は「文書仮説」および「高等批評」を参照
歴史的キリスト教会が、モーセを記者であるとしてきたモーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)に関しては、それを否定する四資料仮説が19世紀より唱えられ、リベラル派の旧約聖書学の標準学説として知られている[16]。ただし、この四資料仮説はあくまで仮説に過ぎず、細部に至るまで完全に合意されたものではない。近年においては、例えば日本基督教団出版による創世記注解がこの仮説に立たないと明言するなど、プロテスタント主流派(メインライン)においても退けられつつある[17]。

#45 2019年06月04日 05:58:39

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

聖霊の続唱
聖霊の降臨



聖霊来てください。あなたの光の輝きで、
わたしたちを照らしてください。
貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方。
やさしい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。
苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め。
恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。
あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、
だれも清く生きてはゆけない。
汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方。
固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。
あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。
あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、
終わりなく喜ぶことができますように。
アーメン。


「聖霊の続唱」(カトリック中央協議会)

#46 2019年06月04日 06:09:44

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ルワンダの虐殺は単なる人間同士の争いで、神の裁きとは無関係なのです。

その、フツ族とツチ族の間の恨みを消す事ができるのは主の力以外にはありません。

ルワンダ―大虐殺・・・加害者と被害者の和解の奇跡 | バイブル+真理スパイス Asafu
https://ameblo.jp/estersmile/entry-12444587029.html

#47 2019年06月04日 06:43:19

アノニマス
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

聖書を理解したいから、色々な解説書や哲学書に頼る。教会も宗派があり答えは一つではない。人の歴史書とも合わない。神は残酷であり聖書は自分が理解できないのでウソっぱちである。...ということにならないように。

マタイ7章7節にある求め、探し、たたき続けるのは聖書の事です。そして設問として、王国と神の義を第一に求めよ、です。

#48 2019年06月04日 06:45:25

山のアザミ
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

おはようございます

   \\٩( 'ω' )و//

仰天さん  ルワンダの記事掲載感謝します。

  凄いですね、目の前で赤子の我が子を切断されるなど、大変な恐ろしい状況を経験し、      目の前のその本人を許すなんて!

  なんて強く心が綺麗で……

真に神を現実の存在として生きていらっしやるからこそ、

こんな信じられらない虐殺者を許せるのでしょうか?

  いくら考えても、不思議でしかありません。

  仕事いく前だからこれで…


  お時間作ってゆっくり考えます。

   (´-`).。oO(何故だろう?)

#49 2019年06月04日 13:02:18

ほい
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

返信が遅くなりすみません。
最近忙しく、昼休みくらいしか時間が取れなくて…。

仰天 さんの発言:
ほい さんの発言:

色々書きたいことはあるのですが、とりあえず一点だけ一番気になった部分に焦点を絞って質問します。

仰天 さんの発言:

ですから、潔白で善良なファラオを神がかたくなにしたのではなく、最初からかたくなで反抗的なファラオと神が対峙される事によって、さらにファラオがかたくなさを示したという事なのです。
そして、イスラエルを長い間奴隷として過酷に扱っていたファラオにエジプトの民は賛成していたのです。イスラエルなどは奴隷として扱っても当然だと思っていたでしょう。中には、そのように思っていないエジプト人もいたのではないかと言われるかもしれません。しかし、全体的にエジプトの民がファラオに賛同していなければ神が裁きを下す事はないはずです。それでも神は、エジプト人が生き残るようにされ、憐れみを示しておられます。エジプト人が悔い改めるならば裁きは免れる事ができたわけです。神の力を目の当たりにしながらも反省するどころか、より反抗的になったのですから、言い逃れはできないでしょう。

ほい さんの発言:

この解釈には強い違和感を持ちます。

まず、当時のエジプト人にファラオの決定に異議を唱えることが許されたとお考えでしょうか?表立ってそのようなことをすれば死刑になってもおかしくないのではないでしょうか?
それを賛同していたと一括りに論じるのはかなり乱暴だと思いますがどうでしょう?

異議を唱える者は家臣の中にはいました。

出エジプト記/ 10章 07節
ファラオの家臣が王に進言した。「いつまで、この男はわたしたちを陥れる罠となるのでしょうか。即刻あの者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてはいかがでしょう。エジプトが滅びかかっているのが、まだお分かりになりませんか。」


死刑にはなっていませんが、民衆は異議を唱える事は難しかったかもしれません。
しかし、家臣と民衆の大半が反対したなら状況は変わったかもしれません。それは分かりません。

ファラオですから簡単に聞く耳を持つとは思えませんが。
エジプト人の中にもイスラエルを可哀想だと思う人ももちろんいたでしょうが、

恐れて異議を唱えられなかったとしましょう。しかしそれは結局は自分達だけがよければいいという考えであり、大部分の者がイスラエルを奴隷として虐げる事に賛同していたと見られてもおかしくはないと思います。

現に、エジプトの民はイスラエルの男子を溺れさせて殺しています。

出エジプト記/ 01章 22節
ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」

個々のエジプト人が全くの無実だったとまでいうつもりはありません。
しかし一個人としての人間の能力は微々たるもので限界があります。
仰天さんの理屈だと、現在進行形で起きている世界中の社会問題に対してデモ・抗議活動に参加していない人は同様に罪を背負っていることになるでしょう。
しかし、現実は皆自分の生活、家族を養うことに精いっぱいで、それ以上のことができるほど余裕はないというのが実情ではないでしょうか。
理想は何とでも言えますが、限られた能力、体力、時間、資金力などの中では取捨選択をするしかなく、そのことを罰せられるのは過酷だと思います。

仰天 さんの発言:
ほい さんの発言:

また、エホバはエジプト人の長子を皆殺しにしていますが、これはどのように説明されますか?
仮に仰天さんがおっしゃる通りエジプト人が全体としてイスラエルの虐待に賛同していた(黙認していた)として、そのことを理由に直接関係のない子どもたちを皆殺しにするという処罰は正当化されるのでしょうか?
これら子どもたちには「悔い改める」機会さえ与えられなかったのでしょうか?

雹の災いの時ですが、神を恐れて家畜としもべ達を避難させたエジプト人は助かっています。出エジプト9:20


十の災厄がエジプトに臨んだわけですが、早い段階で神の力を認めて反省し、イスラエルを去らせておけばほとんど被害はなかったでしょう。
しかし、神の力を見ながらファラオはモーセとアロンの言う事を聞き入れませんでした。

災厄の後にファラオは「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。 あなた達を去らせよう。」と表面だけ言いましたが、災厄がなくなると約束を破り強情さを示しました。


出エジプト記/ 09章 34節
ファラオは、雨も雹も雷もやんだのを見て、またもや過ちを重ね、彼も彼の家臣も心を頑迷にした。


そのような事が何度も繰り返されて、神の奇跡を直に見てもファラオは悔い改める事はありませんでした。
イスラエルから約束のメシアが出るのですから、エジプトでヘブライ人が消滅させられるなら人類の救いに関わります。

それでも強情なファラオに対して最後の災いとして出されたのが初子への災いでしたが、その災厄までには時間がありました。それまで全ての災いが実現していたのですからイスラエルを去らせるなら回避できたわけです。

幼子には災いでしたが、そこまでしないとファラオは民を去らせなかったのです。十分な警告が与えられていたのです。

これは答えになっていないと思います。
ファラオに責任があるのは分かりますが、決定権のないエジプト人、はたまたその子供たちが処罰の対象になるのは理解できません。

仰天 さんの発言:

殺された子供は災難でしたが、私はそのような善悪の区別のつかない幼子達は天国に行ったと思います。

イエスは、「神の国はこのような者たちのものである」と語り、子どもたちを抱き上げ、祝福されたからです。その中にエジプトの幼子もベツレヘム周辺で殺された二歳以下の幼子も入っていると思います。

これを言うとオウムのポアを思い出す人もいるかもしれません。殺されても天国だから殺してもいいのだと。しかし、そのような事を言っているのではありません。そこまでしなければ頑ななファラオはイスラエルを去らせなかったのです。神はそのようになる前から十分な警告を与えました。

オウム真理教は真理などではなく、永遠の命を与える事はできません。
子供達は最大の災難から最高の祝福へと変えられたと私は思います。

殺された子供たちは天国に行ったと解釈するのは自由です。しかし逆に言えば、そうとでも考えないとこの神の残虐性を説明できないということになります。
そして、聖書自身は、殺されたエジプトの長子たちが天国に行ったとは一言も述べていません。

そもそも神が全能なのであれば、長子皆殺しなどの酷いことをしなくても、ファラオを滅ぼす、イスラエルの開放を武力で阻止しようとするエジプト人だけを滅ぼすということもできたのではないでしょうか。
直接の当事者ではない人を、しかも子供たちを殺す理由はどこにあるのでしょうか。
どう考えても全く理解できません。

仰天 さんの発言:
ほい さんの発言:

もしこれらの行為が正当化されるのなら、今朝川崎で起きた痛ましい襲撃事件も正当化されるのかもしれません。
残念ながら犯人が死亡したので動機の解明が困難になることが懸念されますが、もしかすると現在の日本社会に対する不満、怒り、恨みがあったのかもしれません。
こんな日本社会を作ったのは政府ですが、現在の日本は民主主義ですから、古代のエジプト以上にそんな政府を選任した責任は国民にあるということになります。
であれば、そんな日本人を罰するために彼らの子どもを殺すことも、エホバがエジプト人の長子を皆殺しにしたことを考えれば何の問題もないのかもしれません。

仰天さんの主張はこのようなものなのでしょうか?
私には到底受け入れられません。

犯人が社会に不満があっても、罰として人殺しをする権利はありません。命の与え主だけが命を奪う事ができ、その権限があります。

神による上に立つ権威の法による裁きである処刑以外で、不満があれば殺していいというのは、明らかに殺すなかれという教えに反しています。

神は命の与え主だから、その命を奪う権限もあるというお答えです。
しかしその理屈だと、親による子の虐待も正当化され得ることになります(理論の話なので、親は創造主ではないという逃げはここではなしです)。
子供が幼いときは、その命は完全に親の扶養に頼っているわけですが、だからと言って親は子を虐待してもいいのでしょうか?
子が親の虐待の不当性を訴えることは許されないのでしょうか?

同じように神がいくら創造主であるからといって、正当な理由の説明もなく、人の良心や道徳心に反するような虐殺を行われた(そして将来にも行う)ことを私は到底支持できません。

仰天 さんの発言:

もちろん、これらの意見を押し付ける気はありませんが、ほいさんの考えの参考になる点があるなら幸いです。

上記の私のコメントも仰天さんの信仰を否定する意図はありません。

ただ、原理主義的に聖書の記述すべてを信じるという姿勢は、あまりにも多くの矛盾と問題を抱えており、やはり私には納得できそうにありません。

#50 2019年06月04日 18:29:44

ひよりタニタクミ
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

仰天 さんの発言:

自分を捨てて初めて自分を見いだし


仰天さん。

こんばんはm(_ _)m


この仰天さんの一文を意義深く考えてみました。
(仰天さんの意図した意味に程遠いと思いますがすみません)




私は、
アメブロの科学的聖書解読ブログの
定期的読者(フォロワー)でもあります。

どんな聖書の見方でも
誰かのお考えを自分に取り入れるときに、
私は自分と言う、厄介な自我をいったん、
黙らせます。

脳に取り入れても、それを自分の思いの中に受け入れるか?
これには多くのフィルターがかかっています。

そのフィルターになっている、JW時代の刷り込みや、
学校で受けた教育や、自分の生きてきた時に経験した
道程をも乗り越えて、産まれた時にあった(はずの)、
【乳を慕う赤子の気持ち】をイメージします。

自分が本当に嬉しく思うのは、
長いこと失われていた自分と対峙する、
その良い機会として、自由に多角的に、
聖書を考慮する行為であることです。

聖書をどんな風に理解したいと思うのか?
そこにあるのは、味覚(文章を味わい脳の栄養源)
を満足させる、思考上の楽園が今現在脳の中に実現している。

と感じます。

それは、JW時代によく揶揄された【御花畑】的思考とは異なるもっと、個性豊かな生き物が平和に共存するノアの方舟のなかで大洪水から保護されつつ、新天地を待つノアの家族。


何処に行き着くのかは未知数の日々。
のような当て土ない旅路をゆく日々。

自分を捨てて初めて自分を見いだし

それが今、【JWを辞めた自分】が見いだした【自分】
それを日々見詰めていく人生なのかな?とも思います。



仰天さんは今の御自身の心境について
どう思われますか?

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