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#26 2018年03月23日 21:56:45

Jay
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

Takさん
アドバイスありがとうございます。

「エホバの証人に関連する事柄全てを切り落としたいので、そのためには離婚しかないのかと・・・。」おそらくこの言葉を極端だというように理解されたのだと思います。その通りだと思います。極端です。エホバの証人が家の中から悪影響を及ぼすものを一掃したり、世の人と交渉をできるだけ持たないようにしたり・・と同様の極端さなのかもしれません。しかし、例えばタバコをやめたい人、麻薬をやめたい人、悪習慣を断ち切りたい人・・・時間がかかるにせよそうした人たちがしなければいけないのは「全てを絶つ。そばに置かない。近寄らない」ことではないでしょうか?

実は書き込もうとして削除した文があります。このようなものでした。
「非信者のご主人たちは証人の奥様達とどのような思いで接しているのでしょうか。どのように気持ちの整理をつけて夫婦関係を継続できているのか聞いてみたいです。」

でも削除しました。理由はやはり私の立場とは大きく異なると思ったからです。ご主人たちの中には集会や大会に行ったことが方もおられるかもしれませんし、研究もされたかもしれませんがエホバの証人と深く関わっているわけではないでしょう。対して私の場合は約35年どっぷりと浸かっていたわけです。なので家内の言動や思いの動きがどのようにエホバの証人の教えに基づいているのか分かってしまうのです。

この状態ではエホバの証人と距離を置くことや関係を絶つことができなくなってしまうと感じているのです。家内の言動の背後にある事柄を思い巡らしてしまうということは彼らの教えを思い巡らすということにになってしまうからです。今既に相当なストレスを感じています。

私:「今は思いが高ぶっているので離婚を望んでいるとしか言えない。分からないがもしかすると時間が経てば夫婦生活を継続するに必要な忍耐ができるまで自分の思いが落ち着くことがあるのかもしれない。しかしそうだとしても程度の違いはあれ忍耐が強いられ続けることに変りはない。あなたは僕がその忍耐をし続けることを願うのか?」

家内:「あなたを苦しませることは望まない。幸福になってほしい。離婚も考えなくてはいけないのかもしれない、でも離婚はしたくない。どうしていいか分からない・・・。」

私:「僕も離婚したいわけではない。でも離婚しないということは心離れた状態でエホバの証人のそばに居続けることであり、忍耐し続ける覚悟をしなければならないということ。それを譲歩とするならば、あなたはどのような譲歩をしてくれるのか?エホバの証人であり続ける、離婚はしたくない・・・そこにどのような譲歩があるのか? 一方は忍耐し、他方はほぼ現状のまま。これはフェアではないのでは? 夫婦というのは一方の犠牲の上に成立するものなのか? それはなんかおかしくないか?」

家内:「おかしいと思う・・・。」

あくまでやり取りの一断片にすぎませんが、Takさん(そして皆さん)ならこの後どの方向へ話し合いを進めどこに落とし所を見つけようと思われるでしょうか? 私自身色々なシナリオを想定し、まさに押したり引いたりしながら落とし所を模索しています。

編集者 Jay (2018年03月23日 22:07:15)

オフライン

#27 2018年03月24日 06:25:13

てつてつ
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

jayさんこんにちは

>「エホバの証人に関連する事柄全てを切り落としたいので、そのためには離婚しかないのかと・・・。」おそらくこの言葉を極端だというように理解されたのだと思います
>今は思いが高ぶっているので....

もしかすると時間が経過すると落ち着いてきてまたいくらか考えがかわるかもしれませんよ この年で独り身になるのはかなりつらいと思います 男やもめにうじがわくなんてことわざもありますしね 自分はもし家内がいなくなったら絶対こうなると思います cry

オフライン

#28 2018年03月24日 06:49:01

Jay
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

てつてつさん、
Takさんにも言葉をいただきましたが、確かにその通りであろうことは重々承知しています。なんとか気持ちを落ち着かせて時間をかけてみます。
自分自身の中で複数の自分が異なる意見を持って四六時中議論している感じです。この議論が沈静化すれば気持ちも落ち着くのかもしれません。変な例えですみません。

オフライン

#29 2018年03月24日 12:17:58

エホバ松蔵
ゲストユーザー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

Jay さん、こんにちわ。

まずは別居することをお勧めします。その後は成り行き次第ですが、別居することによって離婚を拒否していた相手も離婚に応ずるようになることがしばしばあります。

離婚する場合、問題となるのは経済問題です。もし夫婦二人とも収入があるのならそれほど問題は起こりません。しかし、Jayさんが働いて収入があるが、奥様が無収入の場合だと、トラブルになりやすいのです。このような場合、一方的に別居することはやめてください。法律用語でいうと、「悪意の遺棄」となりかねません。つまり相手を悪意を持って捨てたとなりますと、離婚請求自体が困難となりますし、慰謝料の請求という事態を招きかねません。

奥様が無収入な場合、別居しても、婚姻費用負担義務がJayさんに残りますので、最低限の生活費を奥さんに払う必要があります。あくまで最低限です。多すぎるとお金目当てに離婚しないということになりかねません。というわけで、生活費の負担をふくめた話し合いで別居に踏み切ってください。

エホバの証人の特徴は、非妥協的なかたくなな態度です。一緒に暮らせば、妥協を強いられ、我慢を強いられるのはエホバの証人ではない側です。一方的に犠牲を払わされるのはエホバの証人ではない側なのです。その我慢、犠牲に見合う何かがあれば、夫婦関係を続けていくことが可能でしょうが、Jayさんの場合はいかがでしょうか。

奇妙な宗教に取りつかれた女とこれから死ぬまで一緒に暮らすのか、それとも新しい人生にチャレンジするか、という人生の分かれ道です。人間は保守的な動物で、慣れ親しんだ不幸に安んじてしまいがちです。なぜ離婚しないのか、離婚したほうがよっぽどましな人生を送れる可能性が高いのに、と思う夫婦はたくさんありますが、慣れ親しんだ不幸の方を選ぶ人は多いですね。

私はエホバの証人の女が大嫌いです。そういう人間の意見として、お聞きください。

#30 2018年03月24日 15:06:00

Tak
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

Jayさんへ
私の拙いコメントを読んでくださりありがとうございました。私は適切なアドバイスは出来ませんし、答えも分かりません。でも私自身の経験や考えで少しでも役に立つことがあればうれしいです。もうコメントをすることもないので静観しようかなとも思いましたが、Jayさんのコメントを読んだとき、その真剣さやとても他人事ではないような気持ちでいろいろ考えさせられました。そこで自分のことを伝えようかなと思います。

今現在の自分自身
会衆では何の肩書きもない一人の平信徒です。今は以前よりも元~という兄弟たちも増えたので、会衆の人も”無職の”兄弟たちへの違和感も減ったように思います。それとも単に高齢化のせいかもしれません。
私自身集会や奉仕が楽しいなんて一度も思ったことはありませんし、大会なんてわざわざ有給をとって自分の楽しみのためにいっているような形で参加しているなんてアホらしくてしょうがありません。とうの昔に辞めていても良かったのかもしれませんが勇気がなかったのか、もともと飄々とした性格のために機を逸したのか正直よく分かりません。結婚後もずっと続いているのは妻の影響です。でもだから良かったとも悪かったとも言えず複雑な思いです。
ただ物心がついたときにすでに集会に参加して、いままでいろいろな経験をして、いろいろな人にあって(もう既に亡くなった人たちも含め)、いわば自分の中には「日本のエホバの証人」の歴史が刻み込まれているなと思うようになりました。でもそれは年鑑に載せられるような日本の兄弟たちの歴史というようなものではなく、記録に残らないような普通の日本のJWが日常経験するJWの出来事を追っているような感覚です。
私が平均寿命ぐらいまで生きるとしたらたぶん日本のJWの歴史もとりあえずの結果を見ることが出来るかなと思っています。(年齢構成を考えれば明らかです)そして実際知りたいこともあります。もともと考えることも好きですし、いろいろ分からないことの結果を知る、結末がわかるというのは時間もかかりますがかけるだけの価値のある面白いことだとも思います。仮にJWをやめることがあってもこのことは続くと思います。

妻のこと
妻は開拓者です。十代のころは父親がJWになり王国を第一にしたため家族で大変苦労しましたが、他の人を助けたり、家族そのものがのびのびした雰囲気だったのでその影響か今でも他の人に良くしているのは本当に尊敬できます。妻の再訪問のアッシーとして付き合うこともあります。奉仕に出るのはいやですがそういう時は家でもしないような深い話も結構出来ますので夫婦のコミュニケーションになるのかなと思います。妻は霊的に不真面目な自分に対しては今は何も言いません。それぞれのことはそれぞれの責任と割り切っているようにも見えます。

Jayさんのコメントに対して

Jay さんの発言:

私:「僕も離婚したいわけではない。でも離婚しないということは心離れた状態でエホバの証人のそばに居続けることであり、忍耐し続ける覚悟をしなければならないということ。それを譲歩とするならば、あなたはどのような譲歩をしてくれるのか?エホバの証人であり続ける、離婚はしたくない・・・そこにどのような譲歩があるのか? 一方は忍耐し、他方はほぼ現状のまま。これはフェアではないのでは? 夫婦というのは一方の犠牲の上に成立するものなのか? それはなんかおかしくないか?」

人は自分と他の人とを比べるときに自分の”内面”と他人の”外面”を比較します。つまり自分と相手を比較するときはそもそもはじめからフェアに比較してなんていないわけです。でもこれは悪いことではなく当たり前のことです。でもこれに気づかないのでほとんどの人は自分と他の人と比較して悩みます。「あの人はあんなに○○なのに自分は××だ・・・・」 人間て面白いです。
夫婦の間のことで、まして直接危害を加えられたわけでもないのにどちらがより忍耐をしているかという考えは判断基準にしないほうが良いと思います。忍耐や我慢は「自分のほうがよりたくさんしているな」と双方が思っているぐらいで実はフィフティーフィフティだと思います。

Jay さんの発言:

例えばタバコをやめたい人、麻薬をやめたい人、悪習慣を断ち切りたい人・・・時間がかかるにせよそうした人たちがしなければいけないのは「全てを絶つ。そばに置かない。近寄らない」ことではないでしょうか?


この例えを見たときに真剣に悩んでいる様子がとても伝わりました。でも同時に言葉にならない妙な引っ掛かりも感じましたのであえて突っ込まさせてください。
悪い習慣を断ち切りたいと思うときになぜそれを断ち切りたいかの理由はいろいろあると思います。でもただ周りに迷惑をかけたくないとか自分はただただこの悪いことに嫌気がさしたという理由ならば、その理由は正当なものでももしかしたら問題の本質から外れた状態で問題を解決するかもしれません。それでも解決すればみんなそれでよいことになり、それ以上問題に踏み込みません。
もう一歩進んで語弊があるかもしれませんが、そもそもそれらの悪いとされていることは断ち切るほど悪いことかというと実はそうでもない一面があります。(日本ではそういう議論は嫌われますが世界では今でも論争になっています)
細かい説明は省きますが、私が言いたいのは「~といった悪い習慣を断ち切るにはその習慣に関連したことすべてを断つべきだ」というのは社会全体に当てはめるには正しいですが、個々の人に当てはめるときはやはり個々の状況に応じて丁寧に対処するというのが正しい判断だと思います。
別の例としてJWの中で「背教者にはあらゆる形であれ一切離れているように」と言われています。このことも組織としては正しいですし守られたい人もいます。でも本当に正しいかと言われればやはり?です。今のようないろいろな情報が手に入る時代ではむしろ協会は情報をオープンにして丁寧に説明をすべきです。そうして離れる人がいたとしても結果は良いものになるはずです。(WTとしては絶対ないと思いますが・・・)つまり個々のケースでほかの人が関係しているときは明確な線引きはしないほうが納得できる答えになるのではと思います。
ちなみにWTと個人の間には契約関係があります(バプテスマの時の宣言です)ですから本来WTと個々のJWには情報の非対称性はあってはいけないことだし、インフォームドコンセントとインフォームドチョイスは大切なことなのに全然なされていません。   すいませんちょっと脱線しました・・・

奥様について
Jayさん”自身”の書いた二人の会話を見て正直いい夫婦だなとも思いました。このような奥様を悲しませてはいけないのではないかと率直に思います。

正直今のJW信者の置かれている状況でこれから「霊的なこと」だけを中心にして幸せになるのは無理だと思います。みんなが本当に楽しみにしていることは霊的なことと全く関係のないことばかりです。(17日の特別集会でみんな何が楽しみかといえば明日の日曜日に集会がなくなって何をしようかということで話の内容なんかどうでもいいといった感じでした。協会もいかがなものかと思いますが成員もしたたかですね。)そういう楽しみで幸せを感じている人だけが「とりあえず霊的なことを第一にしている」ように見せているのでしょう。

今後組織がより先鋭化するか世俗的になっていくか分かりませんが、今後JW夫婦は幸せになるために「霊的なことを抜きにした」部分の夫婦関係に目を向けておかないといけないと思います。参考になりますか。

~ではなくて・・・といった説明ばかりで、ちゃんと説明できていませんがなにか伝わればうれしいです。結論が出ないのは苦しいですが、どのような結論が出ても苦しい時間が続くのは一緒なのでくれぐれも性急に判断せずお二人でよく話し合っていただきたいと思います。

ものすごく長くなってごめんなさい。読んでくださってありがとうございました。

オフライン

#31 2018年03月24日 17:58:20

Jay
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

エホバ松蔵さん、初めまして。
貴重なアドバイスありがとうございます。

ご指摘の「経済的課題」は離婚を実行する上で解決しなければならないものであることは双方とも認識しています。なので離婚という方針が決定したとしても今すぐにということは無理でしょう。準備期間が必要だと思っています。

だらだらと今の状態を継続させるのではなく、方針が明確になればそこに向けるのではないかと・・・、行くべき方向に向けてギアを入れ舵を切れるのではないか、という意味で「さあこれから自分たち二人はどこに向かう?」という話し合いでもあるわけです。「経済的課題」の対処法も含めて。

いずれにせよ後悔ない決定をしたいです。離婚するにせよしないにせよ。「後悔しない決定」など無理な願いであろうこともわかっています。そんな理想論を掲げても実際の人生や生活においてはそんな理想論などほぼ通用しません。

同時に私たち二人が今おこなっていることの一つは「思い出の品を一掃する」ことです。皆さんにはとても奇妙に映ることだと思います。しかし当人は真剣です。どういうことかと言いいますと・・・。

結婚してから今までの歴史を一度清算しよう。写真や物などすべて処分することによって、結婚した時、何も持っていなかった時の状態に立ち返ってみよう。スタートラインにもう一度立てるかもしれない。結婚生活を続けるのであれば、「継続」ではなくて「再スタート」しよう。もちろん記憶を消すことはできない、であれば記憶だけで十分じゃないか、モノなんて必要ない。
そのスタートラインにもう一度立てた時、「一人はエホバの証人、もう一人はそうではない」という状態で二人の歴史を新たに作っていけるかもしれない。

このアイデアは「一度離婚して他人となった後、もう一度偶然街で出会って付き合いが始まり結婚したいと思ったら本当のやり直しができるのに・・」と話し合った時に出たものです。それをバーチャルにはありますがトライしてみよう、となったわけです。

不思議なものですが写真や物を処分する過程での寂しさは感じますが、処分してしまうと何か思いが軽くなった気がするんです。家の中の物が少なくなっていくと荷が軽くなる感覚さえ覚えます。結婚指輪も処分しました。本当に生活必需品と仕事に必要なもの以外は処分しました。家内自身も「物は所詮物なんだね」と言っています。ということは思いにおいては大きくは変わっていないのかもしれません。記憶はあるわけですから・・・。しかし、いろいろと絡みついている余計なものを削ぎ落としたところでじっくり話し合い考慮することは意味があると私たち二人は考えています。

アドバイスにあった別居のことも話し合っています。なのでこの「物処分」は、文字通りの別居をする前の段階としての家庭内別居、家庭内別居する前の段階としての「物処分」です。

奇妙な行為ではありますが、効果はあるようです。確かに思いに影響が及びますから。離婚しないのであれば少なくとも過大な忍耐を苦しみを伴うものにしたくはない、そうしないための苦肉の策です。「何を馬鹿なことしているのか」というツッコミは覚悟しています。でもやり直そうとなった時に指輪を買い直すのって悪くないと思いませんか?

編集者 Jay (2018年03月24日 18:52:35)

オフライン

#32 2018年03月24日 18:48:08

Jay
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

Takさん、ありがとうございます。
ここまでお時間を取っていただきアドバイスをくださったことに感謝いたします。

おっしゃっていただいたこと、本当に気づかされることが多くあります。相手に対して自己中心的だと言いながら、実のところは自分自身が自己中心的である事、何事も一線を引いて白黒つけるのではなくふさわしい落とし所があるはず、という事などです。

Takさん御夫婦のお話をしてくださった事もうれいい限りです。ありがとうございます。

前のコメントにも例えで書きました、自分の中には何人もの異なる自分がいて意見をぶつけている、と。本当にそんな感じなんです。中には極端な意見をいう者がいたり、いやまあまあと取り成す者がいたり、性急な者がいたり冷静な者がいたり、と言った感じです。ですのでTakさんご指摘のポイントとアドバイスに「その通りだなあ」と感嘆している者もいるわけです。

自分の中のある者はこのように考えています。
「ビジネスの商談や交渉ごとにおいてははじめから妥協案を提示する事は賢くない。相手の提示案、こちらの提示案、話し合いによってその中間点に合意点を見つけるのであれば最初に提示する案は極端であって良い。話し合いはそこから始まる。」(もちろんバーチャルな極論です)
これによると、離婚する、全てを断ち切る、というのは交渉の席に最初に持ち出す案なのかもしれません。対して相手は、証人であり続ける、離婚もしたくない、です。話し合いはこここからです。

Takさんのアドバイスは中間点、合意点を見つけるのに大変参考になります。

今思っている事は、まず自分自身がエホバの証人との関わり方及び立ち位置を「極論的にではなく実際的にどうするのか」を理論的にも感情的にも整理していかなければならない、という事です。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ではダメですね。ましてやこれを家内に当てはめるのは乱暴ですね。家内に申し訳ない思いです。

Takさん、ご面倒でなければこれからもコメントいただければ嬉しいです。このフォーラムでTakさんや皆さんと交流がもてる事を本当に貴重で有意義であると感謝しています。

頂けるコメントで冷静になる事ができています。決して性急にならず刹那的な決定をする事のないように時間をかけたいと思います。これからもよろしくお願いいたします。

オフライン

#33 2018年03月24日 19:28:21

エホバ松蔵
ゲストユーザー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

Jayさんは、文面をみるかぎりですが、とても潔癖な方のようですね。

全く信仰心がなくても信者のふりをすることや、まったく愛情がなくてもよい夫婦のふりをすることを、何の苦痛もなくできる人がいます。Jayさんはそのような方ではないのでしょう。今更自分の性格は変えられません。奥様の性格も変えられません。夫婦で生き方や考え方が大きく違ってしまった以上、Jayさんの性格なら、あいまいで中途半端な選択肢は無理ではないでしょうか。

思い出の品を夫婦でともに処分するというのは、大変いいことです。知らない者同士が結婚するまで、様々な段取りや手続きがあります。夫婦が他人同士になるにも様々な段取りや手続きが必要なのです。夫婦を結びつけるものとして、共通の思い出があります。共に過ごしてきた、二度と帰らない時間の重みです。しかし、思い出では共に暮らしていけないのも事実です。過去に縛られると前に進めません。

「処分してしまうと何か思いが軽くなった気がするんです。」とJayさんは書いています。とてもいい兆候です。

「いろいろと絡みついている余計なものを削ぎ落としたところでじっくり話し合い考慮することは意味があると私たち二人は考えています。」とJayさんは書いています。とても賢明な判断です。

過去のしがらみを断ち切ったところで、夫婦が向きあい、それでも共に暮らす必要があるのかを問うてみる。これは離婚に至るまでの必要な段取りだと思います。それでも夫婦であり続けたいと思うなら、離婚を思いとどまればよいのです。

その後、家庭内別居、本当の別居と段階を経ていけば、納得のできる結論が得られやすいでしょう。

エホバの証人の女が大嫌いな私としては、さっさと離婚しろといいたいところですが、夫婦のことは他人にはうかがい知れない複雑な事情もありますし、人それぞれ、自分の性格に合った仕方で物事を進めるのがよいのでしょうね。

Jayさんの今後の人生が、より幸せなものになるよう、祈っています。

#34 2018年03月24日 21:08:55

Jay
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

エホバ松蔵さん、
自分は潔癖だとは思っていません。むしろ不器用な変人です。B型ですし。
なので周りがこうだから自分も・・、という風にはできません。音楽も映画も流行にはわざと目を背ける性格です。好きでもないのに「自分も好きだ」と言って仲間にしてもらおうとは昔も今も決して考えません。故に、「自分が納得したい」となってしまうのでしょう。ジタバタしているのはそうした面倒な性格故なのです、きっと。

そうはいっても自分たちがしている事を肯定してもらえるのは、嬉しいものです。ありがとうございます。

今しばらくジタバタしつつ、決して急がず、私のそして私たちの方法で双方が納得できる結論を見つけていきたいと思います。もちろん皆さんの引き続きの助言やコメントを糧とさせていただきながらです。冷静さを取り戻し、違った角度から俯瞰する為の大きな助けになっています。

ところで全く話は変わりますが、こうしたフォーラムで用いるハンドルネーム、ユニークなものが多いですが、皆さんどのように決めておられるのでしょうか? そのネームには何らかの思いやメッセージが込められている場合もあるのではないでしょうか? もちろん全てがそうとは言いませんが・・・。
私が用いているJayというのは特に意味はありません。ただ好きなミュージシャンのファーストネームを拝借しているだけです。

で・・・エホバ松蔵さん、そのハンドルネームを用いられた理由ってお伺いしてもよろしいでしょうか? 私には「エホバ待つぞう」に見えたのです。見当違いでしょうか? 「エホバの証人の女が大嫌い」と書かれていたので間違いだとは思います。でも、もし女性だけではなくエホバの証人全般が嫌いなのであればネームにエホバという名前を含めることも躊躇すると思うのですが、何故? すみません、アドバイス頂いているのにこんなこと聞いてしまい申しわけありません。変人の戯言としてスルーしてくださって結構です。お詫びいたします。

オフライン

#35 2018年03月24日 21:55:36

Jay
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

Takさん、追記です。
ご自身のことを書いてくださりありがとうございます。そうした記述が親しみと共感を得るために肯定的に働くのは私にとっても同じです。

私も集会を楽しんだことは一度もありません。集会での他の人の祈りを聞くときその中に「この楽しい集会・・」という表現があったときには、心の中で「そんなことない・・」とツッコミを入れていました。同意していないわけですから祈りの後「アーメン」とは言えないのも仕方ありません。確かに言ってませんでしたし。
大会も同様です。あんな苦痛を強いられる時間は楽しいわけがありません。先日話し合いの中で家内に言われました「ずいぶん前だけど大会で体調を崩し救護室で寝ていたことがあったよね。やっぱり違和感とストレスを感じているんだな、ということははその頃からわかっていた。」と。ほとんど忘れていた記憶がそれで戻りました。確かにそんなことがありました。幕張メッセでした。昔の話です。

奉仕も楽しかった記憶は皆無です。義務以外の何物でもありません。「真理は自由にする」と言っている割には不自由だなあ、楽しくないなあ、なんか違うぞ・・・という思いは当初からずっとあったわけです。

しかし、時が経つにつれ僕になり、長老になり、奉仕監督になり、運営委員として大会に携わり・・・いろいろとしました。でも今思えば「心そこにあらず」でしたね。

疑問を持ちつつも証人として証人との付き合いは続いていたのですが、まあ徐々に心的体力も落ちていき他の人に任せるようになっていきました。

編集者 Jay (2018年03月25日 05:29:23)

オフライン

#36 2018年03月25日 09:17:36

エホバ松蔵
ゲストユーザー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

Jayさん、日曜の午前はいかがお過ごしでしょうか。

「潔癖」というのは、中途半端に妥協せず、自分が納得するまで完全なものを追い求める姿勢をいいます。

「なので周りがこうだから自分も・・、という風にはできません。音楽も映画も流行にはわざと目を背ける性格です。好きでもないのに「自分も好きだ」と言って仲間にしてもらおうとは昔も今も決して考えません。故に、「自分が納得したい」となってしまうのでしょう。」

とJayさんは書いておられますので、私には潔癖な方に見えますね。

夫婦関係に限らず、人間関係は中途半端に妥協することによって成立しているわけです。というわけで「潔癖」な方は、どうしても生きづらさを感じることが多くなります。「不器用な変人」とJayさんは自分のことを言っていますが、納得できます。

しかし、今さら、それを変える必要はありません。そういう自分を肯定してください。もしそうでなければ自分が自分でなくなると思ってください。ある障害のある方は、もし自分の障害がなくなったら自分が自分でなくなるから、障害がなくなればいいとは思わない、とおっしゃっていました。とても感心したものです。

自分が生きたいように生きる、これが一番幸せな生き方です。その結果が悪くても、自分の生きたいように生きた結果なら、納得できるでしょう。たいていの人はそのようには生きられないのですが。

「エホバ松蔵」のハンドルネームですが、何か問題があっても、エホバの証人は、「エホバを待つ」といって、何にもしないことを思い出し、エホバの証人に対する皮肉をこめて、つけたものです。あなたは単なる「エホバ松蔵さんだね。」という人がエホバの証人に多い、という悪意が込められたものです。かっこよく言えば、エホバを待っていても無駄だよ、まず自分で何かをすることが大事だよ、そうすれば、あと少しの幸運に恵まれればうまくいくよ、というメッセージを込めたものといえます。

Jayさんは自ら行動しようとしているわけですから、エホバ松蔵ではないわけです。大変すばらしいことです。

Takさんの#34の投稿の中に、

「奥様について
Jayさん”自身”の書いた二人の会話を見て正直いい夫婦だなとも思いました。このような奥様を悲しませてはいけないのではないかと率直に思います。」

とありましたが、人によって評価が違うものなのだと改めて思いました。私は典型的なエホバの証人の女が言いそうなことだと嫌悪感でいっぱいになりましたね。夫に対する感謝が全くない。夫の気持ちを理解しようとしない。自分の生き方を夫に合わせる意志がない。しかし、自分の要求だけは主張する。都合が悪くなると沈黙する。

わたしがJayさんなら、こんな女はさっさと家から追い出して、泣き面をかくところを見てみたいと思いところですが、そんなことはせずに、円満な決着を迎えるとよいですね。それでも時間はかかります。焦りは禁物です。

#37 2018年03月25日 11:03:59

Jay
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

エホバ松蔵さん、コメントありがとうございます。

ハンドルネームの由来、なるほどと思いました。ご説明いただき感謝します。
横道に逸れますが、私もエホバの証人独特の語彙が好きではありません。「エホバを待つ」、「エホバのご意思」、何かあれば「エホバだね〜」・・・等々です。いや正確に言えば単に好きではない以上ですね、生理的にダメです。そうした言葉を使ったこともないですし、聞くのも嫌です。

「潔癖」についても納得です。確かにそうかもしれません。
不器用ゆえに損な目にも多くあっています。例えば、放っておけばよい他人の揉め事を見て見ぬふりができずに言葉を挟み、気が付いたら自分が揉め事の当事者になってしまっていたり。正義を振りかざしているつもりは全くないのですが、そのような経験は多くしています。これらは世渡りの不器用さゆえだと思っていましたが、潔癖さも関係していたのかもしれませんね。

また私の家内との会話に関してですが、一つの事象に対して違った見方があるというのも事実でしょう。どちらが正しいとも間違っているとも言えないと思います。各自の知識・経験・考え・信条・・・はすべて異なりますから、全く同じ観察結果に至ることの方が稀なのかもしれません。私にとってはどちらのご意見も貴重なものです。ありがとうございます。

エホバ松蔵さんのコメントからはプロフェッショナル感をすごく感じます。プロのカウンセラーのような・・・実際にカウンセラーに接した経験はないのですが・・・。相談者に近づきすぎず、かといって離れすぎることもなく絶妙の距離を維持しながら、厳しくもあり時には肯定もし・・・なんか重厚感を感じます。にもかかわらず、「エホバの証人の女が大嫌い」という立ち位置とコメントのギャップが興味深いです。全くの私見ですが。

>>自分が生きたいように生きる、これが一番幸せな生き方です。その結果が悪くても、自分の生きたいように生きた結果なら、納得できるでしょう。たいていの人はそのようには生きられないのですが。

この言葉も重いですね。本来であれば「自分の生き方以外の生き方をすることは無理」だと私は思っています。一つ前の私のコメントはアップ後しばらくして(誤解を招く心配を感じたため)内容の一部を削除しました。そこには実家の家族に死について書いていました。閲覧カウンターを見ていましたので、何人かの方には削除前にその部分も読んでいただけたかと思います。身近な人の「死」を目の当たりにすると、死だけではなく生について、ひいては「生きていること」について考えることを強制されます。(考えない人も中にはいるかもしれませんが・・・)考えのいく先は「自分は自分でしかない」であり「生は有限である」というものでした。

すみませんまた横道に逸れました。しかし、この点においてもエホバの証人が唱える聖書の解釈と「人生の目的」とは相容れないと今改めて気付かされました。きっと「一部のエホバの証人」は生きたいように生きているのかもしれません。その他多勢に関してはなははだ疑問ですが・・・。

編集者 Jay (2018年03月25日 11:56:38)

オフライン

#38 2018年03月25日 22:57:22

Jay
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

今日も家内は集会へ、私は家に、という感じでした。

公開講演では筋書きからの話を時にはロボットのように、時には得意がって話すのを聞かされ・・・、ものみの塔の討議では、記事を朗読し、質問し答える。でも実際には「はい質問です・・。ここにはなんと書いてありますか?それが答えです。」「はい、ここには・・・と書いてあります。」「はい正解です。次に進みましょう。」のような進行です。そもそもこのやり取りは討議なんてものでは決してありません。自分の意見を挟むことは良しとされません。全くもって茶番です。大の大人がこんな小学生のような茶番に真剣に参加しているのは滑稽です。言い過ぎでしょうか? ちなみに私はものみの塔の司会を通算で約7年間していました。集会での茶番の司会者でした・・・。(悲)

ものみの塔の記事を実際に使って、節ごとに自由に心からの思いと意見をぶつけ合う「討議」ができたら面白いでしょうね。突っ込みどころ満載ですから、集会では避けて通っていたポイントが浮き彫りになるでしょう。オンラインでの「ものみの塔」記事バーチャル討議・・・あれば参加します。茶化すためではなく真剣に討議するために。

(注)討議 ー ある事柄について意見を述べ合うこと。「討議を重ねる」「対策案を討議する」

編集者 Jay (2018年03月25日 23:02:25)

オフライン

#39 2018年03月26日 10:49:01

Tak
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

Jayさんへ
コメントを読んで正直ほっとしました。
冷静に時間をかければどのような結果になってもその結果にしっかり向き合えるのではないかと思います。

ちょっと雑感なんですが・・・
Jayさんや松蔵さんのコメントで、御自分の好き嫌いをはっきりおっしゃっていたのはとても良いことだと思います。
生活していくうえで好きでもないのにしなければならないこともあります。ほんとうは好きでもないのに頭の中でそれを否定して、そのうち自分が「自分はこれが好きなんだ」と本気で(勘違いという意味で)考えたりする人もいます。本心のモニタリングが出来ない状態です。その究極がプロの詐欺師ということになると思いますが、普通の人ならば頭で考えていることと、心で感じていることのミスマッチが続けば心身の不調になると思います。
「自分はこのことを好きでしているんだ」と自分の心を欺くより「しなければならないからしているけど自分は本当はこれが嫌いだ」と自分のこころをきちんとモニタリングできているほうがその活動に身が入らないとしても精神的にはむしろ健全ではないのかなと思ったりもします。
JWの集会や出版物はそういった心のモニタリングをさせないための仕掛けがちりばめられているようです。これがいわゆるマインドコントロールということなのかもしれません。そのことに気付かず心身のバランスを崩している人を見ると複雑な気持ちです。まあそういう人はもともとそういう人なのかもしれませんが・・・

ものみの塔の記事の討議のことについても書かれていましたが、協会の出版物は突っ込みどころは満載ですが、深く研究したり議論するには内容が薄すぎです。周りの成員も誠実な方たちだとは思いますが深い討論なんて出来ませんし、集会の本当の目的は深い研究の対極ですね(みなさん分かっていると思います)。例えばこの掲示板のほかのスレッドなどの議論を見るとたくさんの調査や深い洞察がなされていて、とても勉強になります。

また脱JWされた方でもJW的思考、価値観から抜けられないために空回りしているようなコメントも見られます。自分の培った価値観やフレームワークというものは当たり前すぎて自分で意識しないこともあってそこから抜け出すのは容易ではありませんが、いろいろな人の意見を聞いて自分の価値観を客観視出来るようになることは大切なのではないかと思います。もしそれが出来ればどのような状況でも冷静になれるのではないかと思います。

またコメントさせてください

オフライン

#40 2018年03月26日 12:22:01

Jay
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

Takさん、コメントありがとうございます。

>> 集会や出版物はそういった心のモニタリングをさせないための仕掛けがちりばめられている。

おっしゃる通り色々な仕掛けがあると思います。組織の構成や大会、巡回大会、巡回訪問、牧羊、正規開拓、補助開拓、奉仕時間の報告等々、全てが仕掛けだと思います。「集まること」や「宣べ伝える」ことが一世紀当時行われていたことは聖書に記されているにしても、あとはほぼ全て(家から家の伝道も含め)エホバの証人が独自に考案したシステムです。全て仕組まれた仕掛けと言って過言ではないと思います。

>> 頭で考えていることと、心で感じていることのミスマッチが続けば心身の不調になる。

本当そうですね。多く証人は心に蓋をしているのでしょうか? 蓋を仕切れない人が心を病んでしまうのでしょうか? 辛いでしょうね。でも自分の心の声に耳を傾けてしっかりと頭を働かせれば色々な矛盾や問題が見えてくるはずです。であるなら、「心に蓋をし、かつ頭も働かせない使わない」のが問題意識を持たないエホバの証人なのでしょうか・・・。

>> 協会の出版物は突っ込みどころは満載ですが、深く研究したり議論するには内容が薄すぎです。

これもご指摘の通り! 内容がほぼないので「お題」としてしか使えないですね。

Takさん、ここまで自己考察が及んでいるにも関わらずTakさんがエホバの証人として留まれる秘訣は何でしょうか? 誤解しないでください。皮肉とかではないです。もしそこに秘訣というか何かあるのであれば、私がその方法によって家内との夫婦関係を維持できるのではないと思ったゆえです。

オフライン

#41 2018年03月26日 16:35:54

Tak
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

実は自分でも今朝のコメントを書きながら「では自分はなぜJWとしてとどまり続けてきたのかな?他の人から質問されたならなんて答えようかな、まあそんなこともないかな。」と思っていたのでちょっとびっくりです。

答えは・・・自分では分かりません。あえて言うなら私は”変わった人”だからだと思います。もう少し詳しく言うとJWだからということではなく人間として”変わり者”だからなのだと思います。でも私自身は自分では今でもまったく普通の人間だと思っていますが、妻が「この人は変わっている」とか「頭がいいのか悪いのか分からない」とか「こんな不真面目で好き勝手な人間がこうやってのうのうと生きているのが理解できない」と褒めているのかけなしているのか良く分からないことを毎日のように言われているので、たぶん一般的な見地からして自分はかなり飛び出した人間なのではないかと思います。

実は私は奉仕の僕や開拓者は経験しましたが、長老は経験したことはありません。まだ30代だったころ話の流れで推薦や任命について個人的に長老に聞いてみたことがありました。その時の答えは長老たちの間で意見が一致しないということだったのです。いいとか悪いとかではなく決められないみたいでした。
10代の頃から会衆内で(奉仕に来ないと怒られたり、割り当てでがんばっても”努”しかもらえないなど)いびられてもけろっとして、勝手に自分の方法で難しい割り当てでもほいほいこなしていますので、長老たちから見てもどう扱っていいのか分からないのだと思います。この組織は決められたことを決められた仕方で上司の喜ぶようにして、なおかつ大変そうにしないとなかなか褒めてもらえない組織なので私の行動はことごとく逆なでするようなものです。でも私のモットーは失敗してもしなくても自分の好きなようにさせてもらって自分の満足できる結果が得られれば褒めてもらえなくても、なにか推薦されなくても全然構いませんし、べつにエホバを喜ばせようなんてこともまったく考えていませんでした。周りのごく普通の兄弟・姉妹の助けになればなおうれしいなというぐらいの考えでした。(それは今でも変わりません)

でも一般の世の中では逆に私のような人は放って置かないですね。日本では出る杭は打たれますが、出すぎた杭はだれも打たないようですね。学生時代も先生は私のことをかなり期待されていたようでしたし、仕事場でも新人時代からかなり大きい仕事を任されたりしました。(私の仕事は一応学歴と資格が必要な仕事です。それ以上は身ばれするのでご勘弁を)今でもパートタイムの立場でずっと同じ仕事を続けていますが、正社員になって科長をやってほしいと頼み込まれたりもします。丁重に断りましたがでも高く評価してくれていることはやはりうれしいですし、ありがたいことだと思っています。
職場やいわゆる世の人から見れば私はもっとできるのにもったいないなと思われたり、一方会衆の人からは家族を養いながら霊的なこともやっている兄弟と思われたりしていますが、実のところ私自身昔から変わっていないのは「自分は自分の納得できる方法で自分の好きなことを自由にしたい。その自由のためならしばらくの苦労もいとわないし自分の評価や面子は全然気にしない」ということが芯になっているように思います。全時間の仕事をやめたのも別に開拓奉仕をしたかったからではなく、自由を求めてフリーの立場になって、可能だから開拓奉仕をしようかなというものです。(でも奉仕はまじめにしましたし時間も入らなかったことは一度もありません。ミッションとしてはきちんと果たしたつもりです。)いまだにJWでいるのも、JWは制限が多いものの今は自分の自由を侵すほどのものでもないし、もし今後やめなければならないほどのことがあればそのときはそのときかな、妻とのこともあるので自分から今爆弾をしかけるのはどうかなというのが本心かもしれません。

ネット時代になっていろいろな情報が入ってきて、人によってはとても動揺したり離れていく人もいますが、私としては子供のときから教理のことはかなりクールに見ていたのでそのような”背教的”な情報を見ても驚きよりも”やっぱりそうか”とか”なんだそんなちっぽけな理由なのか”といった程度です。(一応、子供~10代のころはかなりJWの勉強はしました。かなりといっても実はそう多いものではありませんが・・)「良心の危機」の本を読んだときは、あの時はなぜあのような発表や取り決めの変更があったのかなといった長年のたくさんのなぞが解けてとてもすがすがしい気分にもなりました。要するにエホバの証人的信仰や認識なんてもともとないのですかね。よく分かりません。いずれにしても組織の裏が見えてきても別に自分の自由が侵されるわけでもないし、組織の裏事情を知っていれば「奇妙な提案」も全然奇妙でもないし逆にこんな風にすればもっと効果的にお金が入りますよと提案したいくらいです。(笑)
(ちなみに最近海老名駅周辺の地価がかなり値上がりしているようですね。はたして統治体は海老名ベテルの土地を狙っているのでしょうか、楽しみです。)

人によって考え方は違いますが、私は人生の目的というものはべつになくても構わないと思っています。あってもいいですが人生の目的があったとしてもべつにない人より幸福になるわけでもないのでなくてもいいと思います。少なくとも「人生の目的探し」のためだけに自分の人生の貴重な時間を使ってはいけません。例えて言えば人生の目標といった頂上に向かって険しい崖を上るというイメージではなく、目の前を平原がパ~と開いて、それぞれの人が目的地は未定ですがそれぞれの人らしい仕方で一歩一歩いろいろな方向にくねくねしながらも着実に歩んでいるようなイメージです。自分の死ぬときにいるところが目的地(destination)で、自分の人生もベストではないけどまんざらではなかったなと思えるような歩みをしたいなと思っています。何が正しいとか間違っているとか、何が良くて何が悪いとかそんなことはどうでもいいような気がします。JWであるとかないとかもあまり関係ないのかもしれません。又、結婚とはその広い広い平原の中で、ある特定の時期に人生を一緒に歩んでいる人がそばにいてくれることだと思います。感謝できますね。

どうですか。私がなぜ組織にとどまっているか全然答えになってませんね。私の意見はあまり参考にならないと思いますが、もしJayさんや他の人の何かの”ヒント”になってくれればうれしいです。

編集者 Tak (2018年03月26日 16:48:59)

オフライン

#42 2018年03月26日 17:02:24

ラハム
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

Tak さんの発言:

実は私は奉仕の僕や開拓者は経験しましたが、長老は経験したことはありません。

Takさん、書き込みありがとうございます。
貴重なお話として読ませていただいています。
上記の部分、わたしと同じだなあと親しみを感じました…。

オフライン

#43 2018年03月26日 21:07:39

元信者
ゲストユーザー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

TAKさんのスタンスはわかりましたが、カルトの教えを世に広めて家庭を崩壊させたり、信者の人生を大きく左右することについての責任は、感じないのですか。

#44 2018年03月26日 21:16:07

Jay
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

Takさん、コメントありがとうございます。全てを「腑に落ちる答え」として読ませていただきました。

エホバの証人に対して文句ばかりを連ねるわけでもなく、まして不平を並べるわけでもなくこうした思いを伝えてくださることに敬意を表したいと思います。

さてこうなると私自身の別観点からの正直な思いも整理しなければならないですね。やってみます。

私も冷静になってみれば信仰など初めからなかったのだと思います。むしろ「終わりが間もなく来る」と主張するJW の主張に乗っかってみようか、という感じに近かったですね。自分が犠牲にしなければいけない時間や思いをある程度見極めながら、無理することなく乗っかってきたのだと思います。なので正規開拓は考えたこともありませんし一度もしたことがありません。

結構自由気ままに言動を取っていました。研究生の時も、司会者はほとほと手を焼いたと思います。司会者は3回変わって4人に及びました。全員長老でした。研究生の期間も長い方だったと思います。足掛け5年だったでしょうか。
奉仕の僕になるのにも時間がかかりました。「こうすれば僕に推薦できる」と言われても「そうですか・・僕は別にいいです。」みたいな態度を取っていましたから。でも引っ越して会衆が変わって僕になってから色々責任が増えてきました。

周りに対しては常にどこかで「この人たちはやっぱり変わってるなあ・・。共感できる部分はないなあ。」と冷めた目、冷めた態度でを持っていました。家内からも時あるごとに「あなたがエホバの証人であることが不思議だ」と言われてもいました。まあ周りの長老や巡回監督に媚びを売ることもなかったですし、私自身規格外(Out of Standard)な存在だったと思います。

そして・・・誤解を恐れずあえて表現するならば、そもそもが「ギャンブル」みたいなものなのです。終わりが間も無く来る? 聖書の真理は絶対だ? エホバの証人は唯一の神の組織だ? 復活があり楽園がある、今の世の中においても霊的な楽園を享受できる? わかった、そこまで言うなら乗っかってみようじゃあないか。その報いを得るために差し出さなければならないのはある程度の思いと時間だな? 結構。
で、自分の時間と思いを掛け金のように差し出してのギャンブルがスタートしました。掛け金が無駄になるか、ジャックポットを引き当てられるのか、これは誰にもわかりません。

こんな感じでしたね。なので基本としてはこのギャンブル感覚を継続させればいいわけなのですが、今何で色々悩んでトラブっているのか?

ギャンブルのディーラーがルールを変えてきたこと、ディーラーが不正をしていることが見えてきたこと、ギャンブルそのものが崩壊してきたと感じたことと、「実家の家族の死(自殺)」です。(この出来事は自分の人生観(?)を根底から揺さ振りました。)

今はギャンブルのディ−ラーのイカサマを指摘したい思いなのです。

と同時に「放蕩息子の例え」も検証してみようという皮肉たっぷりの思いもあります。組織からしばらく離れ、集会にもいかない、誰にも会わない、でも罪を犯すわけでもない・・・・期間はわかりませんがこの状態をしばらく続けた後、その時に住んでいる地元の集会にひょっこり顔を出す。さてどうなるか。放蕩息子が帰ってきたように迎えられるのか? それとも敬遠されるのか? 見てみたい思いがすごくあります。なので家内には「ここはしばらく放蕩させてもらう」という言葉でも話しています。

いつものように大幅に脱線してしまいました。しかし、Takさん、コメントに感謝いたします。自分の思いが日を追うごとに整理できてきていると感じています。

編集者 Jay (2018年03月27日 00:04:15)

オフライン

#45 2018年03月27日 13:08:35

Tak
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

元信者さん
読んでくださりありがとうございました。

元信者 さんの発言:

カルトの教えを世に広めて家庭を崩壊させたり、信者の人生を大きく左右することについての責任は、感じないのですか。

「責任」というのは「組織の責任」ということでコメントします。
私もこのことはよく分かります。私も被害者だと思うこともあります。組織が相手ならどうしようもないとか、これは答えのないことだとか、しょせん自己責任なんだからそれぞれの問題だと言ってしまうことも出来ますが、でもそれも正論ではあっても何か無責任な釈然としないような思いです。一生癒えないような傷を負う人もいますが、やはりつらいです。
外国では「組織の提案にしたがって行動したことの責任は組織はとりません」みたいな事を責任ある立場の人が公に言ったそうですが、日本でもきちんと言ってくださいよと言いたい気持ちです。

でもちょっと冷静に考えて、それなら組織を解散させるとか制裁を加えるとか責任者を罰すればよいかと言えばそれは間違いであり、してはいけないことだと思います。なぜならそれをすることで一番被害を受けるのは組織ではなく一般信者だからです。(現にWT訴訟のペナルティーのつけは末端の会衆に来ましたよね。)

例えば日本でもし「今日からWTはなくなります」となったらどうなるでしょうか。WTが信者に与えてきた圧制からは開放されますが彼らはどこへ行けばよいのでしょうか。元JWだった人が世話をして社会復帰を助けるのでしょうか。JWを知っている人なら彼らの世話は誰がしてもだめなことぐらいわかると思います。JWの真の問題点は、彼らはJWの教えで苦しんでいるのにJWの考えの枠組みから抜け出せていないことが問題なのです。そのままにすればJW難民問題というもっと厄介なことになるのです。社会保障の問題もあるので、日本政府としても監視はしてもそう簡単には手を出しません。

今でも世界に目を向けると、あの独裁政権はけしからんから経済制裁しろとかほんとうに空爆したりしますが、結果苦しい思いをしているのはいつもその国の国民ですし、難民問題が時間差で始まっています。良かれと思って徹底的にやることはたいてい前より悪い結果になるものです。歴史が証明しています。

でも朗報もあります。世界中で人権問題に目を向けて、今まで入り込めなかった領域まで踏み込んで個人を救済するようになっています。それが報道されて他の被害者も声を上げるようになっています。昔では考えられないことだと思います。今のWTへの訴訟問題もその流れがあると思います。そのような外部からのボトムアップ的な助けはこれからも増えていくと思いますし、効果的だと思います。

また会衆内の雰囲気も昔に比べればずいぶん変わりました。子供に対しても昔のような強烈な要求はずいぶん減ってきたと思いますし、進路の問題でもそれぞれのことはそれぞれの責任でというふうに変化しています。(ただそのことがモラトリアムといった将来への別の心配にもなっています。)また協会の偏った提案も上手にスルー出来ています。
解決しなければならない、でも答えが分からないということはたくさんありますが皆が関心を持ってゆっくり時間をかけていけばある程度の被害は続きますが、確実によい方向になっていくのかなと思っています。

ちょっと無責任な発言のように捉えたかもしれませんが、今私が考えていることです。読んでくださりありがとうございました。

オフライン

#46 2018年03月27日 13:25:01

iris
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

Jayさん、Takさん、初めまして。
元JWでないにもかかわらず、大きな顔をして長年この掲示板に居座っていますirisと申します。

Jayさんも奥様もたいへんお辛い毎日かと拝察いたしております。どうかお二人が納得できる答えが見つかりますように。

Jayさんはエホバの証人になったことをギャンブルに例えておられますね。
私は20代でカトリックの洗礼を受けましたが、やはり「賭ける」という感覚でした。「神がいるのかどうかなんて誰にもわからない、でも自分はカトリックの物語に乗っかって生きるほうに賭けよう」という決心をしたのです。

こちらの掲示板にはものみの塔の教理を文字通りの事実であると信じていた方が多く、また福音派のような聖書を文字通りに信じる信仰こそが正しいキリスト教信仰であるとお考えの方が多いようで、私のような信仰は不誠実であると非難轟々です。
しかし、エホバの証人の中にも同じような信じ方をなさる方がおられることを知り、新鮮に感じました。

私もカトリック教会のあり方に疑問を持つようになれば、教会を離れるでしょう。そのときにもし夫が熱心なカトリックであったなら、さぞ面倒なことになると思います。エホバの証人の御夫婦であればなおさらでしょう。
どうかJayさんと奥様が新しい幸せを見いだすことができますように。

Takさんはとても優秀なので、組織でもお仕事でもすぐに本質が見えてしまうのでしょうね。
科長と見込まれるほどの腕をお持ちですから、フリーのお仕事と開拓奉仕をなさっていても、いろいろな意味でゆとりがあったのでしょう。
ただ、誰もがTakさんのように隠された本質を掴めるわけではありません。ミッションの成果は良い実なのか悪い実なのか、私もそこが気になります。

オフライン

#47 2018年03月27日 15:00:54

Jay
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

irisさん、初めまして。

ヘブライ11:1
信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり、見えない実体についての明白な論証です。

よくこの定義が「明日の朝、太陽が東から昇る」ことに使われることがあります。そうですね、私たちはそれが当たり前と思っていますし、その通りのことが期待通り確かに起きます。しかし実のところそのシステムの全てを理解しているわけではないでしょう。なぜ正確に地球が自転しながら公転しているのかなんて誰も説明できていないと思います。(私が知らないだけで、もしかするとできているかもしれませんが・・。)なので「保証された期待」なのでしょう。保証されてはいるものの所詮「期待」でしかありません。しかし同時に期待とはいえ「保証されている」とも言えるのです。なので「明日の朝、太陽が東から昇る」ことを信じるのは信仰と言えるかもしれません。

では復活は保証されているでしょうか?そんなわけないでしょう。聖書の記述以外に(聖書で言うところの)復活の実例はないはずです。なので保証されてはいないと言えます。となると復活は「単なる期待」です。

では神の存在はどうでしょうか?実際に神を見た人はいません。イエスは神を体現していたかもしれませんが、神そのものではありません。現代においては誰一人神を見たものはいません。では神の実体の真偽を論証することなど果たしてできるでしょうか? それも明白に。もし仮に「明白に論証」できていれば神の存在を誰も否定できないはずです。全ての人は 信じるしかありません。でも実際はそうではないわけです。故に、神の存在はまだ「明白に論証されていない」ということになります。

となるとこの聖句にある「信仰の定義」をどう適用すればいいのでしょうか? 期待はあるが保証されているとは決して言えない「復活の希望」。論証しようとはするが明白なものにはなり得ていない「神の存在」。ということは・・・?

この二つの命題はこの「信仰の定義」を適用できる対象とは言えず、無理やり信仰の対象にしようとするならば相当摩訶不思議な状況になってしまうのではないかと思うのです。

なので「信仰」とは「結果が出るまで本当にそうなるのか(or そうなのか)どうかは全くわからない命題に対して『必ずそうなる(or そうだ)』という全きの確信(全幅の信頼)を置くこと」的なものになってしまうのでは? これに人生をかけるのは、私にはどうしても究極のギャンブルのように思えてしまうのです。

オフライン

#48 2018年03月27日 16:31:03

Tak
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

Jayさんへ

Jayさんが人生のいろいろなことを抱えながらでも自分らしい人生を歩みたいというエネルギーを感じます。
ちょうどギャンブルの話になっているようなので雑感ですが参考までに読んでいただけたらと思います。
ちょっと専門的だったり表現がきついかもしれませんがお許しください。

Jay さんの発言:

なので「信仰」とは「結果が出るまで本当にそうなるのか(or そうなのか)どうかは全くわからない命題に対して『必ずそうなる(or そうだ)』という全きの確信(全幅の信頼)を置くこと」的なものになってしまうのでは? これに人生をかけるのは、私にはどうしても究極のギャンブルのように思えてしまうのです。

最初の「信仰の」部分を、「勉学」、「進路」、「就職」、「結婚」のような言葉に変えてみても意外と当てはまると思いませんか。つまり人生そのものがいわばギャンブル、もうすこしきれいな言い方をすれば「投資」なのではないかと思います。
投資の世界での有名な格言に「卵は一つのカゴに盛るな」と言うものがあります。かごを落としたらすべての卵が無駄になってしまうので別々のかごに入れなさいという教えです。賢明な投資家は大丈夫だろう、値上がりするだろうと思って買い付けますが、必ず投資対象を分散して(リスクヘッジして)投資します。たとえ値下がりするものがあっても最終的に”全体で”リターンを求めるわけです。ポイントは将来の”個々の”リターンは予想できないが、リスクのコントロールはできるということです。

WTに自分の人生をすべてささげているのはちょうどひとつのかごに自分のすべてのものを載せているような状態だと思います。将来のリターンがどうのこうのと言うよりそもそも危険な人生のポートフォリオ(金融商品の組み合わせ)です。
*似たような投資方法が「信用取引」とか「日本の住宅ローン」となります。

WTにすべてささげると言っても自分の人生を構成しているパーツひとつひとつ丁寧に調べてみると、WTととても結びついているようででもよく考えてみると実はそれほど関係のなさそうな、自分独自の選択でどうにかなるものもあります。例えば世俗の仕事はJW活動とは完全に負の相関でトレードオフの関係になっています。だからたくさんの兄弟たちは悩みますがでも見方を変えるなら自分の決断で世俗の仕事のウェイトをちょっとずつ自分の都合のいいように変化させれば意外と人生のポートフォリオは改善すると思いませんか。言うのは簡単で行うのは難しいと思うならばそれは世俗の仕事にJW活動を絡めていつも考えているその考え方が変わらないからだと思います。
世俗の仕事以外にもJW活動ときっちり分けて考えてもよい大切な人生のパーツがあります

勉学や進路
本来の夫婦関係
子供たちのこと
趣味、娯楽
親族との関係
お金
健康
JWでない人たちとの関係

などが思い浮かびます。よーく考えてみればこれらは本来自分で決めるべきことであって、組織からとやかく言われることではありません。余計なお世話です。他にもいろいろあると思いますが、WTと言うひとつのかごにすべてを載せてしまってどうしようもないと思えるようでしたら、ちょっと見方を変えて、自分の人生のポートフォリオはたくさんのかごがあって、JWというのはちょっとおおきいかもしれないけど単なるひとつのかごにすぎず、自分の人生には他にも管理しなければならないたくさんのかごがあるんだ、そしてトータルでプラスになればいいかなと時間をかけてみるのも良いのかなと思います。

ちなみに私の人生のポートフォリオでは現在JWは「塩漬けの株」となっております。(笑)

参考: 塩漬け株
上がると思って買った株が予想に反して下がってしまい、処分すると損失が出るため売るに売れなくなり、ずるずると長期間保有している株。

オフライン

#49 2018年03月27日 21:51:12

Jay
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

Takさん、コメントありがとうございます。

まさに言わんとするポイントをまとめてくださったように感じました。
「人生をかけるのは、私にはどうしても究極のギャンブルのように思える。」と書きましたが、その言葉のままではあるのですが、これはあくまで一般論であって私はこのようにはしませんでした。

Jay さんの発言:

自分が犠牲にしなければいけない時間や思いをある程度見極めながら、無理することなく乗っかってきたのだと思います。なので正規開拓は考えたこともありませんし一度もしたことがありません。

このような感じです。ですので仕事も好きな仕事をしましたし、好きな旅行をしたり、好きな時に好きなところへ引っ越したりもしました。そうした個人的な分野だけでなく、僕や長老としても結構自由気ままにやっていた方だと思います。二世ではなかったからかもしれません。基本誰からも強制されることはありませんでしたし、強制されても応じませんでした。「あなたはその選択の結果に責任を持ってくれるのか?」と詰め寄ったこともありました。
問題発言かもしれませんが、こうも考えています。「趣味」って基本的に余暇をあてますよね、時間的にも経済的にも。なのでこれが無駄になってもダメージは受けません。また次の「無駄」な趣味に意気揚々と向かってさえいけます。これぐらいの感じでJWをやればどうでしょうか?もちろん余暇以上の投資は必要かもしれませんが、人生すべてを賭ける必要はありません。ダメ元で乗っかってみる・・・。不謹慎なコメントで申し訳ありません。これでは組織の中枢構築と運営は成立しませんね。でもこれぐらいの気持ちであればダメージは小さくおさえられると思います。

Tak さんの発言:

WTととても結びついているようででもよく考えてみると実はそれほど関係のなさそうな、自分独自の選択でどうにかなるものもあります。

おっしゃる通りです。自由意志を行使できる範囲は実は結構広いと思います。そして「リスクヘッジ」です。まさに「Don’t Put All your Eggs in One Basket」の精神でやってました。だからでしょう、猪突猛進タイプのJWからは結構煙たがられていました。

Jay さんの発言:

これに人生をかけるのは、私にはどうしても究極のギャンブルのように思えてしまうのです。

これをもっと表現したかったニュアンスで正確に言うならば「これに人生をかけてしまうなんて、私にはどうしても究極のギャンブルのように思えてしまうのです。」ですね。

リスクヘッジしながら、好きなところに住み、好きな仕事を見つけ、好きな趣味を楽しみ、好きな車に乗り、好きな生き方をすればいいのではないかと思います。JWとして聖書に書かれていることに抵触せずにこれらを行うことは可能です。「犯罪行為」になってしまうことは「自由な選択肢」からは当然ながら除外します。常識としてしないこと、聖書に書かれているからしないこと、これらを差し引いても十分の選択肢が残っています。

ではなぜJWが不自由になっていくのか? それは組織が書き加えたルールであったり、会衆内でまかり通っているローカルルールです。これら加えられたルールをさらに拡大解釈し自分に当てはめて勝手に苦しみ、他の人にも当てはめ苦しめる。そのようになってしまっていると考えます。なので以前書きましたように日本のJWは仏教修行僧のように忍耐の美学を持っていると思うのです。ざっくりした言い方ですが、他の国のJWはもっと自由気ままに生きていると思います。もちろん皆全てではないでしょうし、いい人悪い人変な人の振り幅も極端でしょうけど。日本人のように(色々な意味で)コンパクトにはまとまってはいないと思います。

編集者 Jay (2018年04月02日 09:38:06)

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#50 2018年03月27日 21:59:49

Jay
メンバー

Re: 遅すぎることはないとの覚悟を持って

「ここが変だよ、ローカルルール」というスレッドを立ち上げたら面白いでしょうね。色々な驚きのローカルルールが存在していそうな気がします。

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