#1 2017年01月25日 08:08:05
- akame
- ゲストユーザー
根元的疑問諸々
『信仰と懐疑とは互いに相応ずる。それは互いに補い合う。懐疑のないところに真の信仰はない。』ヘルマン・ヘッセ
時には、自分の中で賛否の自問自答を起こすことが、空虚な議論よりも真実に近づくことがあるように思います。
例、原罪について
キリスト教の原罪。人は生まれながら罪にある、神の憤りの下にある、という考えから生じる罪悪感、無価値感。そして、それからの解放という図式が信仰の基本的な要素になります。(教派よる差異はあるでしょうが)
キリスト教の根幹、贖罪の土台になる原罪風景、これこそ疑問の宝庫と言わざるを得ません。(生物学的、内在する比喩的意味や解釈等etc)
なぜならその土台自体、様々な大前提(仮定)に依存しているからです。
『神がいるなら完全であるはず。』
『自らに似せた人間を創造したなら、死ぬようには造らなかったはず』
『人間は元来は不死で、生物連鎖から逸脱した存在であった』
『善なる天使が自ら悪魔に成った』
『人の死は悪であり、敵である』
こうして、原罪から導き出される大きな疑問また論争は、「神を信じない者は(最終的に)生きるに値しない全く無価値な存在である」は本当に納得できるものだろうか?と言う点です。
この点は皆さんの中ですでに整理がついた問題であり、書きなぐりになります事、ご容赦ください。
テサロニケ第二
1:8その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、 1:9そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。
こうした信仰は多数の社会的分断、不条理な断罪の肯定を引き起こしてきたとも考えられます。
先ずは、「原罪風景」をコマ割り分析してみましょう。
#2 2017年01月25日 11:25:28
- akame
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
原罪思想はパウロが提唱して、アウグスティヌスが確立したと言われていますが、現代に至るまで諸派による解釈の差異が大きいのも土台が(推察による仮定)であることを示しています。
http://ameblo.jp/caritas-agape/entry-10786330386.html
ヘブライ11:1にある、「明白な論証あるいは事実」とは遠いように感じます。
しかし、推察を進める為にはとりあえす原罪風景である創世記を確認しましょう。
2:15主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。 2:16主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 2:17しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
3:5それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。 3:6女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 3:7すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
この分析には以下の説明が重要となります。
ローマ5:12
このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。
こうした記述だけでも、実に様々な視点による分析が可能となります。
#4 2017年01月25日 19:48:24
- akame
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
私は少し神議論的(擁護的)な解釈を試みてみます。頭の体操とお考えください。
リッチさん
人の「完全さ」を
「自由意志」に結びつけると、悪も選択できる存在こそ真の完全さを有していたと言える、とのJW的説明になりますが、それにはどのように反証されますか?
ささらさん
昨年はリアルがハード過ぎて、古傷が出ました。少し良くなりましたが、ゆっくり参ります。
命の木について、さすが鋭い。
当然正しい解釈などないに等しいのですが、確かに知識の実を食べた結果(処罰)を無効にする木が当初からあった展開には深淵さより滑稽さを感じます。
回転する劔なども危険になった人間にさらに危険なヒントを教えたようで、なんとも、、ですが
神義論はゆっくり参ります。
#5 2017年01月25日 20:26:17
- akame
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
擁護、と言えど
できれば、印籠(神の究極の権利と自由)は出さないつもりです。はい、終了ですから ^_^;
#6 2017年01月25日 20:45:18
- リッチ
- メンバー
Re: 根元的疑問諸々
「自由意志」に結びつけると、悪も選択できる存在こそ真の完全さを有していたと言える、とのJW的説明になりますが、それにはどのように反証されますか?
エホバの証人が言う、「神は全知全能」という前提と「自由意志が存在する」という前提は並べると矛盾が発生します。
神が全知全能だとするなら当然人間を作る前から、人間を作成すればその人間がどのように行動するか知っているはずであり、どのような環境を作成しても、それは神の意図が100%反映された世界になるのです。
言い換えれば、全知の神はどのようになるかわからない世界を作る事が不可能であるという事です。(これは全能という前提とも矛盾しますね)
なので、「このように世界を作ると人間が必ず禁断の実を食べる」という事を知りながら世界を作るという事は、同時に人間の意思は完全に神によって操作されているという事になるのです。
自由意志の定義は辞書によれば
「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志。」
とあります。
全知全能の神の100%の意思により完全制御された意思は、自由意志の定義と反します。
そして、自由意志が存在する場合、神は人間がどう行動するか知らないということになるため、全知ではない事になります。
そもそも、自由意志自体、全能の存在関係無しに存在が科学的に確認されていないものです。
物理学と論理学的に、自由意志は存在しません。
人は常に環境に多大な影響を受けて意思決定を行っています。
体感した出来事により意思が変化したり、食べ物の成分の影響で意思が変化したり、病気により意思が変化したりします。環境にしばられて変化する意思は自由とはいえません。
オフライン
#7 2017年01月25日 21:05:32
- akame
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
リッチさん
ありがとうございます。
愛により敢えて全知を行使しなかった、との
jw説明も吟味できました。
反証例など上げると、論議に厚みが加わりますね。
#8 2017年01月25日 21:23:20
- イザ 45:9
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
エホバの証人が言う、「神は全知全能」という前提と「自由意志が存在する」という前提は並べると矛盾が発生します。
自由意志の定義は辞書によれば
「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志。」
とあります。
聖書によると、全能者、宇宙の主権者なる支配者、万物の創造者であられる神だけが絶対的な無制限の自由を持っています。(創 17:1; エレ 10:7,10; ダニ 4:34,35; 啓 4:11)
しかし、被造物のすべては与えられた範囲内で行動し、エホバの法に服さなければなりません。(イザ 45:9; ロマ 9:20,21)それゆえ、人間が持つ自由は相対的な自由です。
「善悪を知る木」については、必要があれば書かせていただきます。
#9 2017年01月25日 21:26:12
- akame
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
リッチさん、ささらさん
原罪に関するパウロの説明に、何かお気づきなどありますか?
#11 2017年01月25日 22:01:19
- イザ 45:9
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
テサロニケ第二
1:8その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、 1:9そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。こうした信仰は多数の社会的分断、不条理な断罪の肯定を引き起こしてきたとも考えられます。
申命記 30:19, 20では、「わたしは今日、天と地をあなた方に対する証人として立て、あなたの前に命と死、祝福と呪いを置いた。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も共に生きつづけるようにしなければならない。すなわち、あなたの神エホバを愛し、その声に聴き従い、これに堅く付くのである。[神]はあなたの命、あなたの長い日々なのであり、エホバがあなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えることを誓われたその地にあなたが住むためである」と約束されています。
もし、神が人間の運命を定め、ご自分を愛して命を得るか、ご自分を無視して死に至るかをあらかじめ決めているなら、この言葉は無意味なものとなります。愛の神がそのような理不尽なことをするでしょうか。(詩編 37:28。ヨハネ第一 4:8)
神は、人間に命を選ぶよう訴えかけておられることによって、全知全能の力によってのみ主権を行使するのではなく、被造物を愛し、人間の自由意志を尊重しているのではないでしょうか。
#12 2017年01月25日 22:33:12
- akame
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
イザ 45:9
>自由意志を尊重
それは何百回も聞きましたが、そう思いません。信じないなら滅ぼすなど述べること自体、急迫です。
それより原罪について述べてください。
#13 2017年01月25日 22:43:03
- akame
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
急迫→脅迫
#14 2017年01月25日 23:30:57
- イザ 45:9
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
それより原罪について述べてください。
原罪については教派ごとに様々な見解がありますが、ローマ 5:12の「それゆえ、一人の人を通して罪が世に入り、罪を通して死が[入り]、こうして死が、すべて[の人]が罪をおかしたがゆえにすべての人に広がったのと同じように ―。」という聖句から、アダムの子孫は欠陥を受け継いだために、生まれつき不完全で欠陥のある状態になったということで、説明してもよろしいでしょうか。(詩 51:5; ロマ 5:12)
#16 2017年01月26日 06:14:42
- 一応現役
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
そういえば
罪」という概念を考えだし、それで儲けるという
「最古にして最強のビジネスのアイデア」
それが宗教
という話を聞いたことがありますねぇ。
#17 2017年01月26日 07:56:48
- akame
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
>そもそも、自由意志が現実に実在するという証拠はあるのですか?
JWの集会では決してできそうもない、こうした根元的な問いかけが大切と思います。
そもそも、「自由」や「意志」は哲学的、宗教的、社会的、法的な便宜上その都度定義(仮定)され使用されてきたものでしょう。
普遍的かつ客観的な定義や証拠となると厳しい気がします。
#18 2017年01月26日 08:31:39
- akame
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
一応現役さん
>罪という概念を考えだし、それで儲けるという
よくわかります。
#19 2017年01月26日 09:15:58
- ジョエル
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
「あなたがたはバアルのために言い争うのですか。あるいは彼を弁護しようとなさるのですか。バアルのために言い争う者は、あすの朝までに殺されるでしょう。バアルがもし神であるならば、自分の祭壇が打ちこわされたのだから、彼みずから言い争うべきです」(士師記6章31節)
聖書の著作者が神であるならば、自分の本がツッコまれているのだから、書いた本人が言い争えばよい
と言ってしまっては身も蓋もないのですが、聖書の神を弁護する、という枠にはまらない根元的な問いかけは、自由に考えてみてもいいと思います。
#20 2017年01月26日 12:47:20
- akame
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
>ジョエルさん
現役中から脳内でツッコミと擁護の論争を延々としましたが、既存の神義論を超えたものは殆どないように思います。
聖書にも裏ワザ的ヒントがありますが、その枠内に収めると無理があるように思います。
私的には(この度は)その再確認になるような気がします。
#21 2017年01月26日 15:25:23
- akame
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
>ささらさん
私的には知識としてあります。
余談ですが、
一神教や多神教ですが、その団体等にある支配霊たちが独自に決めたり、合議したりして決めているように感じています。
まあ、厳密な意味でなく、一神教的とか多神教的とかになりますが、
現役時に遭遇した神道系「チャネラー」は多神中の主神崇拝で、一見普通の女性でしたが、霊力が強く、お金を取らず天災以外の予見がほぼ100%的中できたので、ひっきりなしに人が尋ねていたようです。
聖書の神は見事に退けられました。^_^;
#22 2017年01月26日 15:36:28
- イザ 45:9
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
そうなると、結局聖書の神は自由意志を許していない事になります。そしてどうせ意思を縛るのであれば、最初から善悪の知識の木に近づけないようにしておけばいいだけの話なのです。
そもそも、自由意志が現実に実在するという証拠はあるのですか?
リッチさん、人間が持つ自由は制限された相対的なものですから、神のような絶対的な無制限の自由ではありません。神から与えられた限界内における制限された自由です。神の律法の拘束を受けています。(ルカ 11:28; ヤコ 1:25)
例えば、重力、化学反応、太陽の影響、成長などを支配する諸法則について考えてください。数々の道徳律もあります。他の人の権利や行動も人間の自由に影響を与えます。
リッチさんのいう「自由意志」が全てを自分で決める自由という意味でしたら、それはありません。他の人や状況を思い通りにする自由もありません。自分自身の能力ですら思い通りになりません。
神は人間に相対的に自由意志を行使する能力をお与えになりましたが、それは神の律法を無視して無制限に自分で決める自由とは区別すべきものです。
自由の民らしくありなさい。ですが、あなた方の自由を、悪の覆いとしてではなく、神の奴隷として保ちなさい。(ペテロ第一 2:16)
#23 2017年01月26日 16:07:00
- イザ 45:9
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
創世記のアダムの不従順を作り上げた筆者の思惑と後世のパウロの思惑が一致していたかどうかは疑いが残ります。
創世記の記述・・・というか、それを取りまとめた人たちは救世主としてのイエスのことやパウロが考えている、死して後の祝福・・・など思いもよらなかったでしょう。
彼らが切望したメシア像は、キリスト教のそれとはまったく違いますから("^ω^)・・・。
創世記において、人間は「善悪の知識の木」から取って食べたあと、「必ず死ぬ」存在になったため、「定めのない時まで生きる」機会を失いました。(創 2:17,3:4,6,11‐19)
聖書には、創世記以降、再び人間が「定めのない時まで生きる」機会を求める歴史が書かれています。聖書は「命の木」を求める旅です。(啓示 22:1-2)
#24 2017年01月26日 16:52:10
- akame
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
>イザ 45:9さん
例の如くですが、
すみません。
お説は、他の方も既知の内容で、その上での書き込みです。トピの趣旨に沿ってもう少し疑問点と噛み合うようにしていただけると興味が増すのですが、
#25 2017年01月26日 16:56:31
- イザ 45:9
- ゲストユーザー
Re: 根元的疑問諸々
アダムらは、完全な被造物であるという設定なのに、禁断の実を食べるというルール違反を犯すというのが、まず矛盾ですね。
リッチさんの質問がわかりやすいので答えさせていただきますね。
人間の完全性は、人間の領域に限定された相対的な完全性です。人間には倫理的自主性、自分の取る道に関して個人的に決定する権利と責任が与えられています。つまり、人間には自分の選択した結果責任もあるわけです。(申 30:19,20; ヨシュ 24:15)
アダムは完全な者として創造されましたが、創造者によって定められた限界を超えることはできませんでした。アダムが泥や砂利を食べるとどうなりますか。空気の代わりに水を吸ったとしたらどうなりますか。高いところから飛び降りるのはどうでしょうか。
同様に、思いや心を間違った考えで養うままにしたなら、間違った欲望を抱くことになり、ついには罪と死をもたらすことになりました。(ヤコ 1:14,15。創 1:29; マタ 4:4)
リッチさん、「禁断の実を食べるというルール違反」もそう考えれば理解できることがないでしょうか。また、善悪の知識の木の問題については2つ以上の間違った考えがありました。それらをひとつづつ分けて考えた方がわかりやすいと思います。