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#1 2021年02月06日 11:18:54

1,000時間奉仕者
ゲストユーザー

喩え(たとえ)で言われても…

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今週末の「塔」研究は、復活の確実性についての記事でした。

復活に限りませんが、聖書中の信じられない奇跡について可能性を論じるとき、よく「信じ切って行動した証人たちの命がけの行動」が動かぬ証拠として挙げられます。

「根拠がないこと・薄弱なこと」のために勘違いして命がけで行動する人々にとって、この喩えは意味をなさない気がします。

直近の例がアメリカ大統領選挙後、トランプ敗北を受け入れられない数千の人々が武装した軍人や警察官が待ち構える議事堂に“命がけで” 押し寄せて、そのうち数人が死亡、みたいな事件です。

一世紀の使徒や弟子たちの多くがあれほど大胆に命がけで信仰人生に打ち込めたのは、イエスの復活が紛れもない事実であり、自ら目撃して確信していたからだ、という“証拠” というのが、実に危うい根拠の上に建っているのが分かります。

Qアノンでしたっけ?みたいな好きなこと言う人たちの言説に、あれほどの数の暴徒が簡単に煽られる様子を見るたびに、出版物を渡したり、研究を司会したりするのが憂鬱です。

「こんな喩え、使えねーよ…」と皆さんが思ったダメ論法、他にありますか?

#2 2021年02月06日 15:50:58

ガッツだぜp2
ゲストユーザー

Re: 喩え(たとえ)で言われても…

私の思ったことで良ければ

明日の事を思い煩うなという聖句です。マタイ6:25~34

植物も明日に備え、生き延びるための戦略を練っています。
地上に存在する生物で何の生存戦略も持たない生き物は
いないでしょう。過度に思い煩ってはならないというこの
喩えは精神的に物質に支配されないよう劇的に強調して
書かれていると思いますが、正規開拓一家はいつも貧しく
そのせいで妻が鬱病になってしまいました。
持ち寄りで自宅パーティーに招かれるのですが・・・
誰が何を持ってきたか目をぎらつかせて、持ち寄った物は
しまい込んでテーブルに出しませんでした。

この聖句は実家の稼業を継いだり、親が金持ちで悠々自適ニートで何も
思い煩う必要の無い人のものです。
私のように身ひとつで故郷を出て生き抜いてきた者には何の救いにも
なりませんでした。
まさに実家を追い出されたヤコブのように苦労を重ねマイナスからの
スタートでした。
親の家業を継げる事もなく、本当に各地を転勤し、私の味わった辛酸は
おそらくそれに耐えうる人が何人いるでしょう。
ファーストジェネレーションの苦労はそうでない者には解らない。

常に備え闘わなければ生きられない者には意味を成しません。
ハチドリに飛ぶのを止めよと命令すれば直ちに墜落し蜜を吸う事も叶わない
でしょう。

#3 2021年02月06日 16:40:52

疑点
ゲストユーザー

Re: 喩え(たとえ)で言われても…

1,000時間奉仕者さん、はじめまして。
問いかけの答えになってなくてスミマセン、なのですが。
組織を去って数年経ちますが、相変わらずの論法の繰り返しなんですね。


根拠のない陰謀論を拡散し、トランプを「闇の組織」と戦うヒーロー・救世主と崇めるQアノン。もうこれも宗教ですよね。
自爆でも殺人でも命懸けで何でもするのがビリーバーですから、動かぬ証拠にも何もなりません。確実に証明され確かな事実なら、そもそも「信仰」なんて要らないワケで。


統治たいの油注がれも自己申告に過ぎず、そこからしてオカシイ話なんですけど。
私が高校生でバプった時には
「組織や長老の言うことを鵜呑みにしちゃ駄目だよ、どんな時も聖書と聖書によって訓練された自分の良心に付き従うように」
って、バプ討議の長老から言って貰えましたけれど。今は「統治たいマンセー!」が強まってるようですね。

#4 2021年02月07日 09:48:25

ガッツだぜp2
ゲストユーザー

Re: 喩え(たとえ)で言われても…

もうひとつ。アベルとカインの確執も。

アベルとカインは神への捧げもので争ったわけですが、セトの時には同じ儀式が行われていない。
これって、兄弟を競い合わせる事が憎しみしか産み出さない事を学んだアダムとエバが、同じ轍
を踏まないようそういった習わしを止めたように最近思うようになりました。

アベルを讃えるような教えは無理があると思います。その儀式が正しい事ならセトの時にも
やれば良いではないですか。

こういうのも疑点さんが言っておられたような。

#5 2021年02月07日 10:02:37

ガッツだぜp2
ゲストユーザー

Re: 喩え(たとえ)で言われても…

創世記のはじまり自体がアウトです。

善悪の知識の実を食べたらアウト、でも楽園の中の他のすべての実は食べても良い
聞こえはいいのですが、この他のすべての果実に命の木の実が含まれていますよね。

つまり・・善悪の判断はこちらでするからお前たちはしなくて良い、ただし
お前たちに仕事は与える、そして永遠に生きて命令に従いなさいという事です。

これは使役ロボットですね。

喩えを用いるなら箴言、伝道の書あたりは心に響きますが、創世記は扱いが難しそうです。

#6 2021年02月07日 10:21:00

ガッツだぜp2
ゲストユーザー

Re: 喩え(たとえ)で言われても…

これでこのトピから引っ込みますから最後に

証拠があるから行動したに違いない この論法で思い込みが強化されます。
このほかに以前から思っていたのですが論点ずらしがあります。
追及されると論点をずらして誤魔化す。

モーセが群衆を引き連れてエジプトを出奔したのは乳と蜜の流れる約束の地に導くため。
ところが途中、水は無いわ食べ物はないわ、あげくシナイ山に行ったっきりしばらく
帰って来ない。仕方ないので子牛を拝んだら大量粛清された。

乳と蜜の流れる約束の地に連れて行ってくれると言うから付いてきたのに約束が違う。
それでそれに対し反抗すれば信心が足りないと言う。
そうではなくて、約束が果たされないから反抗したのに、反抗したから約束が果たされないと
論点のすり替えが起きている。

こう書いたら猛烈に罵られましたけどね。

エホバの証人にも同じ事が起きてるんです。この宗教に入信したら世の煩い事から
解放されて幸せになれるはずなのに不幸になる、話が違うと疑問を持てば
信仰心が足りないからだという。
そうではなくて、勧誘された時に聞いていた話と内実が合わないから疑問を持つんでしょ。

#7 2021年02月08日 07:42:40

1,000時間奉仕者
ゲストユーザー

Re: 喩え(たとえ)で言われても…

2000年代初め、記念式が会衆の巡回訪問と重なったため、せっかくだからと式の講話を監督にしてもらいました。

「自分が油注がれた者かどうか、どうすれば分かりますか。あなたは“自分は女だろうか?男だろうか?”なんて迷ったことがありますか。  ないでしょう?  それと同じくらい自分が天的希望を持っているかどうかは疑う余地のないものです」

というのがその巡回監督の説明でした。得意気でした。繰り返しますがそんなに昔の話ではありません。

「この人LGBTで悩んでいる大勢のこと、聞いたことないんかいな?」とあきれたことがあります。

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