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#976 2022年08月21日 15:33:15

匿名
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

ちなみに信じなければ地獄で永遠に生殺しにされると教えるキリスト教の人たちやそういう臨死体験をしたと言いまわる人たちについても猜疑心がかなり強くなっています。悪魔が見せた幻の可能性も高いと感じるようになりました。

そもそも信じるとは何?と感じるようにもなっています。しかも謎が多いのがゼカリヤ14章では千年王国の最中に未信者ぽい人たちが反抗的な振る舞いをして矯正される記述もあります。なので、jwやキリスト教の人たちが述べる信じなければ地獄で永久に生かされ拷問されるとか組織から離れたら滅びるとかが、全く聖書的にあり得ないような気がしてきました。復活してきた諸国民つまり未信者の方々か、艱難を通過して生き残った諸国民つまり未信者の方なのかよくわからない描写です。

いずれにしても、信じなければ地獄行きという思想は間違いでは。なぜなら信じているか否かなど自分ですらわからないのが人間だし。ならば、私俺は神を信じてない、だけど普通に精一杯生きているよと実際に隣人愛などの大義名分を掲げなくとも普通に善良に生きている人たちの方が神目線からすれば嬉しいのでは。jwのように自己犠牲、エホバかサタン、排斥(聖書に排斥の原語は無い、コリント教会のように、恐喝や泥酔や近親相姦を周囲に勧めて教会内の人を罪に巻き込むケースは一時的に教会の交わりを控えさせるようにとの指示、その後一年未満で第二の手紙で反省した人を許しなさいとの指示あり、つまりかなーりゆるい。反キリストに挨拶をかけないとは、かなりの曲者教祖を避けなさいの意味)、1914年、その他諸々の破綻した極端な教えや一文の聖句を切り取って、他人を断罪するやり方がどう考えてもカルトと感じていますし、非常に悪質です。

信じるとは何かということです。本人が信じた気になっているだけではとすら感じさせられたり。DV男はお前をアイシテルと言いながら殴りますよね。しかも本人はなぜか殴っても愛だと思い込んでいたり。しかし客観的に見れば愛してませんよね。イエス様や隣人を愛していますと言いながら、主流派の解釈に納得できない人を徹底的に排斥したり虐めたりするJWやキリスト教会の人たちは本当のイエス・キリストを信じていると言えるのか謎に感じます。

もしかして地獄とはこのような自分自身が偽り者であることに気づいてない宗教人のために用意されているのではとすら考えさせられるほど悪質な雰囲気を感じます。

以上を踏まえた上で普通に善良に過ごしている方々のために地獄が容易されているのではなく、もしかするとパリサイ人のような宗教人たちがそこへ落っこちるのかもしれないとすら考えるようになりました。

#977 2022年08月22日 10:12:06

匿名さんへ
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

考え過ぎじゃないですか?
独善的な宗教指導者ではなく、かなり善良そうな普通の教会員とかもいるでしょうし、無宗教でも良い感じの人とか、仏教その他でも良い人とか、それだと新宗教の人でもエホバの証人の中のそんなに悪くない人とか何でもかんでも救われる事にならないですかね。
宗教にこだわりのない善良そうな人で礼儀正しい温厚に見える人でも、神とか信仰をする持つ人を蔑んだり敵意を抱いている人もいるでしょうし、そのような単純な問題ではない気がします。
まぁ、これは匿名さんの投稿を見て感じた私の考えに過ぎませんからお気を悪くされませんように。
それで気になったのですが、匿名さんはどこを目指しておられるのかなと思いました。何か目指しているわけではなくてただ迷いの中にあるとか、まだ探求中とか、結論は出ているとか色々あるとは思います。お気持ちを教えて下さい。
そして、地獄とかが永遠ではないというのはどのような点からのものなのかを書いて下さるなら嬉しいです。

#978 2022年08月22日 20:18:20

匿名
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

こんにちは自分が感じたことは宗教人ほど人間味の欠落した人が多いという事実です。まずなんでもかんでもすぐ地獄。それの恐怖心で必死にイエス様をのべ伝える。これって結局エホバ教の組織に入らねば滅ぶと何も変わりがないと感じました。しかもエホバも教会もどちらにも癖の強い人もいます。もちろんそうでもない方もいますので、ひとくくりにして嫌って憎んでるわけでもないんですけどね。

ただ、どうもキリスト教徒の方が明らかに人をすぐに裁いたりちょっと考えが違うだけで異端呼ばわりからの理論破綻した教えを無理やり押し付けたり受け入れない人や意見の違う人を排除したりエホバ教だと排斥したり、大体どこもかしこっも大差がないんですよ。

聖書って二元論だけの勧善懲悪では成り立ってないのではと感じさせられる経緯がたくさん書かれてありますよね。例えば、メシアはユダと娼婦の振りした息子の嫁から生まれましたし、ロトも娘と子供作って子孫繁栄してしまってるし、非とされるルールが十戒で決められていますが、それを破ってしまった人の背景や事情は様々であり人が一概にイエス様を信じてないあなたは地獄行きですとか裁けないでしょう。もちろんそれを破っていいとか自分自身が何か後ろめたい生活をしているわけではないし、普通に長年過ごしてますけど、それを今現状で破ってしまっている人に対して地獄行きとかエホバ教のように排斥や汚らわしい悪い人を取り除けとかの二元論で刀を振り回すのがカルト的と考え始めているわけです。教会も極端なところも割と多いです。

ヘブライ語ギリシャ語のオラムとアイオーンにはそれぞれ有限の期間の意味があり、「始まりと終わりのある世」でも使用される原語ですし、いろいろと既存のキリスト教の理屈は崩壊するのではとすら思えます。そもそも第二の死が滅びであると言われる以上、有限の期間裁かれたら第二の死をもって完結するのが聖書の言う「永遠」の有罪と責め苦なのでは。

https://www.blueletterbible.org/lexicon … jv/tr/0-1/

こちらにも三つ目に有限の期間とありますね。エゼキエル16章53節にはソドムの捕虜つまり罪びととは言え、被害者寄りの人たちが復活するとありますよね。しかしユダの聖句ではソドムは永遠の火の刑罰を受けてるとあります。この永遠と訳される表現は、アイオーン。明らかに一定期間ですよね。ヨナ書でも3日だけ魚のおなかにいたことをオラムつまりアイオーン永遠にいたと表現。永遠が覆されて三日で解放される。

アイオーンの言葉には永遠と訳せなくもないですが、有限の期間の意味が明らかに含まれていることは上記リンクの大手サイト辞書にも書き添えられていますし、第二の死をもって罪びとが滅ぶとある以上、復活をして裁かれたら滅んで痛みも消え去るのでしょう。それぞれに長さはあるかもしれませんが。まだまだアイオンとオラムの意味について書ききれないことがありますが、とりあえずこれくらいにします今は。

#979 2022年08月22日 22:52:43

匿名さんへ
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

こんばんは。
匿名さん、聖書の言うアイオーンが限られた期間だけでなく「永遠」も意味する事は、聖書についての質問さんが本当に詳しい方なら説明してくれると思いますよ。(質問さんに振って悪いのですが)m(._.)m
単純に考えて、体は殺しても魂は殺せないとか、「永遠の命」と「永遠の刑罰」が示されているわけですから、永遠の刑罰が一定の期間しか指さないのなら永遠の生命も永続しない事になり、おかしく思います。(マタイ25:46)
そして、「滅びる」という語の「アポルミー」は存在したまま本来の用に役立たなくなっている状態を指していていまして「消滅」を意味していません。
ユダは、生まれないほうがよかったとさえ言われていますね。ある期間だけ罰を受けた後に消滅、つまりエホバの証人の言うような無意識、無存在になって消え去るだけならそこまで言うか疑問です。
そして、キリストは地獄の裁きから人間を救うために来たわけですが、ただ単に消えて無存在になるのならわざわざ身代わりとして来る意味もだいぶ薄れるのではと思いました。
(あくまでも感想ですから匿名さんと議論するとかいう気では特にないですので、意見交換だと思って下さい)
エホバの証人の教えでは死者に意識はない事になっていますが、教会側では、金持ちとラザロのようにハデスの苦しみの場所とアブラハムの懐とも呼ばれるパラダイスに死後に行って分けられるという事ですよね。これは消滅や無意識無存在を意味しません。
ノアの時代の人々やソドムとゴモラの人々、過去に亡くなった人たちは全てハデス(陰府)かパラダイスに行って信仰者と不信仰者に分けられるというのがキリスト教の教理です。
「滅ぼされた」ノアの時代の人々やソドムとゴモラの人々の肉体は滅びても魂は消滅していないという事になります。
ソドムのゴモラの町は滅ぼされましたが、彼らもやがて裁きのために出てきます(マタイ11:24)

第一の死が「絶滅」を意味しないのでしたらどうして第二の死が絶滅を意味すると言えるのかなぁと思います。

マルコ9:48では、地獄では、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがないとありますが、火が消えないのはある期間だけとは思えませんし、「消えることはない」とあります。

黙示録20:14の
「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である」

とあるのは、死が永久になくなり、死にたくても死ねない状態、永遠の刑罰が与えられるからこそキリストが十字架で贖いとなってくださったというのがキリスト教会の理解だと思います。

ですので、匿名さんには悪いのですが『既存のキリスト教の理屈は崩壊する』なんて事は全くないと思うのです。
質問さんにでも聞いてみてはいかがでしょうか?

#980 2022年08月23日 00:02:06

匿名
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

なので、その永遠の刑罰の永遠がそもそもアイオーン、ヘブライ語ではオラームに該当するので、有限の期間なんです。文脈と照らし合わせて第二の死で完結することからも一定期間の裁きと考えられます。それは複数聖句でも示されてることです。まだまだ他にもあります。アイオーンとアラームに関しては英語でたくさん出てきますが気づく人は気づいてます。ただ、今はそこで熱入れて書き込むのがスマホなのでできないのと、また気が向いたら書くかもしれません。ですが、別に解釈は押し付けるつもりはありませんよ。最近も塔に関してかなりいやーな体験をしたので、腹立ってひさびさに書き込んだだけですのであまり気になさらないでください。

また、上で誰でも救われませんか?とありましたが、別に誰でも救われるとは言ってませんし、逆に救われてほしくないとも言ってませんし、むしろ実は救われたら良いやんと思ってますよ。

なんでそもそも救われたらおかしいみたいに命の希少価値をそこまで下げたがるのかが意味不明なんですよね。たくさん拷問されるのが正義みたいなって何か異様なのでは。本当にそういうこと聖書で教えられてるんですかな。

生まれなかった方が良かったと言われてるから地獄で拷問されてるってのは、これまた飛躍してるように感じます。何でその様な極論に至るのかがわかりません。

で、その金持ちラザロも将来的に復活して裁かれる時の話でしょうし、まずキリストは金持ちラザロの前に例え話を多く使ってますし、例え話ではないとも言えないです。しかもこれ実話なら、実話だよとか言ってる教会の人のかなりがいわゆるその金持ちラザロのいう地獄に行くでしょう。アメリカのギラついた牧師や信者たち見てもどっちか言うと金持ちラザロの金持ちですよね。自分ら当てはまってるのに実話だよとか自信満々、まさか自分らがそこに落っこちたらどないしますって話です。黙示録の大いなる都市でキリストが磔にされたなんであるほどやし、信者が磔にしたんでしょう。未信者は磔にてできませんからね。

https://biblehub.com/greek/622.htm

あぽるみー、とりあえず上では滅びるとあるし、存在したまま切り離されるとは書いてないんですよね。久保有政さんがそんなこと言ってた気はします。本当にアポルミは存在しながら切り離すの意味なんですか?

あくまで滅びる、殺す、終わりに至らせるとしか上の有名バイブルハブでは確認できないですね。

また一度存在した人は、神の目線では覚えられるでしょう。その意味で死んで滅んだ人は意識なく命の祝福から切り離されてるのでは。

ソドムとゴモラのレイプ魔は裁きを受けるでしょうけどその中のエゼキエル16で捕虜と表現される比較的罪人だったとはいえまだ許される人たちに関しては、千年王国の間はセカンドチャンスでは。ゼカリヤ14でもエジプト人やったか千年王国中にやらかしてますし。

その意味でも千年王国を信者のみが生き残ってる様には思えませんし、謎が多いですね。まだまだ勉強中です。それを迷いというならそうですが、それで構わないです。人は一生学ぶのですから。

#981 2022年08月23日 06:15:57

匿名3
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

昼夜真夜中、長々と書きまくるのは例のガッツさんですよね。
ご自分のスレッドなんだから、紛らわしい 匿名 などを使用せず、
堂々といつものHNを名乗れば良いのにと思います。
他の人も  匿名  と言うのを盛んに使っており、誤解され大変迷惑です!
本来の名前使えないわけでもあるのですか ?

#982 2022年08月23日 07:12:57

ガッツさん?
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

あの人は、聖書を調べるのは辞めたとか書いてたがまだやっとったんかい。結局なにがしたいんやろか。

#983 2022年08月26日 05:02:44

アノニマス
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

富んだ人とラザロの話とザアカイの話を考察すると気付くことがあります。

#984 2022年08月28日 08:32:08

それなんですが
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

匿名 さんの発言:

あぽるみー、とりあえず上では滅びるとあるし、存在したまま切り離されるとは書いてないんですよね。久保有政さんがそんなこと言ってた気はします。本当にアポルミは存在しながら切り離すの意味なんですか?
あくまで滅びる、殺す、終わりに至らせるとしか上の有名バイブルハブでは確認できないですね。
また一度存在した人は、神の目線では覚えられるでしょう。その意味で死んで滅んだ人は意識なく命の祝福から切り離されてるのでは。



バイブルハブでは失うとか、台無しにされる意味も示していないでしょうか?


「滅び」は「消滅」ではない

http://psalm8934.livedoor.blog/archives/1327470.html

#985 2022年08月28日 16:16:22

トリビアさんへ
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

こんにちは。

言うまでもなくアポルミーはバイブルハブや英語のギリシャ語辞典だけでなく、日本のギリシャ語辞典でも「滅ぼす」、「殺す」、「救うことに失敗する」、「 だけでなく、「なくなる」、「失う」、「無駄になる」等の意味があります。繰り返しますが、


ギリシャ語のアポルミーは滅びるとか失われたとか殺すとか、なくなった、いなくなった状態とか色々指しますが絶滅とか消滅を意味していません。
具体例として、ルカ15章の「失われた羊」、「なくなった銀貨」、「いなくなった息子」等があります。そこでも「アポルミー」が用いられています。辞典で調べるまでもなく、本来の用に用いられず切り離された分離した状態、役に立たない状態であって、決して絶滅する事ではないのです。

陰府の苦しみの場所をJWは否定していますが、都合のいい解釈で偽りです。聖書の地獄の教えに納得できなかったラッセルが地獄の教えを否定して解決したのが始まりです。
消滅説は新しいものでもなく昔からありますが、死んだら無になるというのが受けのいい耳触りのいい解釈なのでしょう。しかし聖書はそのように教えていません。金持ちとラザロの話は例え話とは言えないでしょう。イエスが例えを話された時には個人名は出ていませんが、この話にはラザロという実際の名前が出ています。近くでは誰でも知っている人だったのでしょう。特定の名前が出ている点からして例え話だとは決めつけられず実話の可能性が高いでしょう。

また、第一の死で既に死んでいるのにまたそこで体まで復活させて、第二の死で消滅させるなんてのはおかしな話です。『死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 』

「死」自体も完全な滅びになるのですから、死もなくなる。つまり死にたくても死ねない苦しい状態に未信者はなると思います。
『もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない』というのは神とキリストを受け入れた人ですので矛盾はありません。
『彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者もいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。 』という箇所とも調和しています。そんな死んで無になる程度で済むんなら、「生まれてこないほうがよかった」とか、そもそもキリストが救うために地上に来る必要もないんじゃないか、無になって消えるんならと思いますね。
『神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きに向けて閉じ込められました。 』これも、無意識だとは述べてませんね。第一の死が無にならないのなら、第二の死も消滅とは言えないでしょう。

サタンや悪霊が無になって消えるだけなんて生ぬるい罰ですし、神に従わない人々も同じよう裁きを受けるからこそ、そうならないように警告されているわけで、消滅説なんて、そうであってほしい人の願望か偽教師の述べる耳触りのいい言葉にしか思えません。
レビ記を見ると罪を犯した者を火で焼き殺すように指示がありますから、死後に火で苦しみに遭うのは否定できないでしょう。というわけで、全く永遠の刑罰は否定されていないと思います。


『あなたがたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。』とありますから信者でなくてもクリスチャンに親切にしたなら何らかの報いは得られるでしょうが、基本はキリストを受け入れてないと救いは難しいかと。

ラハブやモーセやダビデは罪を犯したけれども救われたから未信者が地獄に行くというのは短絡的なようなというのも違うと思いますね。なぜなら、
それらの人々は神を受け入れた人々だからです。また、クリスチャンと名乗る人の中からも救われない人々が出る事は、「教師はより厳しい裁きを受ける」とか、「主よ、主よと言う者がみな救われるのではない」という言葉からも分かる事です。そして、騙して悪い動機から富んだ牧師なら裁かれるでしょうが、正しい動機で神に従って祝福されているゆえに裕福なクリスチャンなら金持ちだからという理由で裁かれるという事はないでしょう。ヨブやソロモンの例もありますし。

そのようなわけで、極端な二元論などではないですが、基本的に聖書は神とキリストを受け入れた者が救われるという事を述べています。これは偽クリスチャンでも救われるとか、神を受け入れない単に親切な未信者が救われるという意味ではないのは言うまでもありません。

#986 2022年08月28日 17:14:15

モトシモベ
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

はじめまして。少しだけ感想です。
ギリシャ語がどーのこーのみたいな小難しい話はわからないのでパスします。

トリビアさんの解説を読むと、結局のところ「何も知らない人」が聖書的には無敵ってことになります。
そのくせクリスチャンには「広く宣教するよう」指示してるんですよね。
クリスチャンが指示に従えば従うほど無敵の人が減るジレンマ。。不思議が止まりません。

そんでもってクリスチャンにも「救われる人」と「救われない人」がいるとしたら足の引っ張り合いが発生して選別の嵐が吹き荒れそうです。
そんなこんなをくり返してたら、たぶん判で押したように人畜無害で面白みのないお人形さんしか残らないですよね。
ここにも創造の多様性を謳いながら無個性な集団しか許容しないジレンマが再び発生します。

聖書の神さまって気まぐれで幼稚で、とことんサディズムがお好きなんだなぁと改めて思いましたよ。
なんか趣味が悪ぃな。。ってのが率直な感想です。

#987 2022年08月28日 20:47:22

横からですが
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

モトシモベ さんの発言:

はじめまして。少しだけ感想です。
トリビアさんの解説を読むと、結局のところ「何も知らない人」が聖書的には無敵ってことになります。
そのくせクリスチャンには「広く宣教するよう」指示してるんですよね。
クリスチャンが指示に従えば従うほど無敵の人が減るジレンマ。。不思議が止まりません。

そんでもってクリスチャンにも「救われる人」と「救われない人」がいるとしたら足の引っ張り合いが発生して選別の嵐が吹き荒れそうです。
そんなこんなをくり返してたら、たぶん判で押したように人畜無害で面白みのないお人形さんしか残らないですよね。
ここにも創造の多様性を謳いながら無個性な集団しか許容しないジレンマが再び発生します。

聖書の神さまって気まぐれで幼稚で、とことんサディズムがお好きなんだなぁと改めて思いましたよ。
なんか趣味が悪ぃな。。ってのが率直な感想です。

レビュートピックなので感想は自由ですけど、思ったことを横から少しばかり。


何も知らない人が最強というのはセカンドチャンス説がある場合もあるでしょうが、ないですね。

聞いたことのない人は死後にチャンスが与えられるのなら、伝えないほうがいいじゃんとなりますが、んなこたぁないでしょう。伝えなさいとありますので。やはり生前に神を受け入れたかどうかで死後に裁きを受けるんだとなります。

足の引っ張り合いにはならないでしょう。信じてるフリしてる二世とか、職業牧師や神父とか信じてない形式だけ家の宗教継いだパターンの人が裁かれるんでしょう。聖書を読むと色んなタイプの人々が救われていますし、人間味あふれる様々な人たちでしょう。無個性なんてことはないと思うけど。

聖書の神様が幼稚と見るのも個人の感想として有りですし、それでいいんじゃないでしょうか。

しかしながら、無神論者が全てのものが存在するのは神によるのだという考えは幼稚だとどこかで書いてましたけど、(確か『生命の謎 ドーキンス『盲目の時計職人』への反論』レビュー)見方を変えたら生命も何もかもが偶然に発生したとするのも幼稚だとも言えるのですからね。
聖書の神様が趣味が悪いというようなことはないというわたしの感想でした。

#988 2022年08月28日 21:54:05

モトシモベ
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

横からですが さんの発言:

足の引っ張り合いにはならないでしょう。信じてるフリしてる二世とか、職業牧師や神父とか信じてない形式だけ家の宗教継いだパターンの人が裁かれるんでしょう。聖書を読むと色んなタイプの人々が救われていますし、人間味あふれる様々な人たちでしょう。無個性なんてことはないと思うけど。

その可能性もありますね。
たとえば性格の悪い人から滅ぼされるバトル・ロワイアル形式なら可能性は高いと思います。
ただ長期的には集団としてJWみたいな没個性の方向に行くんじゃないでしょうか。

もっともわたしはJWしか知りませんし個人の感想ですから実際は違うかもしれません。

#989 2022年08月29日 23:25:20

トリビアさん!
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

トリビア さんの発言:

も塔の地獄の教えの否定を指示しているわけではありません。また誰が救われるか否かの点において、誰々がどこどこの人だから未信者だから救われないとは言い切れないと述べているわけです。前にも言いましたが、千年王国中に登場する諸国家は誰なのかも謎ですし、色々とわからないことがありますので、わからなことはわからないで結構です。

未信者というか教会に行ってない人は全て救われないという事なら間違いですが、聖書には、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの(イエスの)名のほか、人間には与えられていないのです。」とあるように未信者でも死ぬ間際にでもやはり神様はおられる、イエス様!と認めたら救われるでしょう。しかし基本的にはイエスを信じる事でしか救われないのが分かります。




トリビア さんの発言:

神を受け入れたという人たちが救われるわけではないという点には同意です。近年はネットでキリスト教流行ってますが、やたらとキリスト受け入れないと地獄だとか騒いでる人が多いので、その状態に違和感を感じるので書いてみました。

世界的なコロナ騒動その他から患難時代が近いと感じているクリスチャンもいるのは事実です。全くそんな事も考えていないクリスチャンもおられますから様々ですが。
神を受け入れたと主張する人でも全ての人が救われないとすれば、神を受け入れていない人々の裁きはより大きくなりますので緊急感から福音を伝えなければとの思いから過度に熱心になっているクリスチャンもいるとは思いますが、これも全体ではありません。地獄ばかり強調して祝福を示さないなら極端ですが、地獄だけはなんとしてでも避けた方がいい所だというのは聖書も示してます。
別に騒ぎ立てて伝える方法だけではないでしょうから配慮は必要でしょうね。しかしもし、その人に聖霊が語らせているなら止める事は難しいですし、実際にどの程度騒いでるのかを見てみないと分かりません。それら熱心過ぎる人を見て全てのクリスチャンが賛成するかは別問題ですね。



トリビア さんの発言:

無になって消えるならキリストがいらないとかレビ記にも罪人を焼いて殺せとあるから、地獄での火の拷問も否定されないと考えるのも個人的な感想に思えます。

魂の無意識、無存在、消滅説はJWだけでなく、JWに影響を与えたセブンスデーアドベンチストの教えでもあります。異端ですね。
地獄は闇ですけど火があるなら暗くはないはずだという主張も稀に見ますが、全体を明るくしない程度の極限に熱い炎とか神は出せるでしょうし否定はできません。
無になるという思想こそが個人的な感想だと思います。



トリビア さんの発言:

偽預言者が火の池にいると描写されてますが、獣の刻印を受けた人達がいるとは書いてませんので、悪趣味でサディスト的な人物やサタンや悪霊たちはアイオーンの長さも異なるのかもしれません。誰でも無限に火の池であぶられるなら公平な裁きにはなりません。

黙示録
『14:9また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、 14:10そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。 14:11そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。

ヨハネの黙示録/ 20章 15節
命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。 』

※ 獣の刻印を受けた人、命の書に名がない人も
『火と硫黄とで苦しめられる』、『火の池に投げ込まれた』とあります。

そして、こうも言えます。ヒトラーでも、法律上は軽い罪の人とか誰でも、同じく消えて無になるだけなら公平な裁きではないと。
かえって、神を退ける被造物は全て同じ罪が用意されているのが公平ではないでしょうか。神から離れるのが霊的死であり、サタンや悪霊と同じ罰を受けないように、なんとしてでもゲヘナの裁きは避けるようにと警告されているのです。でなければ、『目や右手があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがましである。 』なんて事は言われないのです。行く事は恐ろしい、物凄い苦痛、或いは恥辱、後悔の場所だと読み取れます。
マタイの箇所でイエスは2回、地獄は永遠だと示しています。
25:41それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。 25:42おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、 25:43わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』 25:44そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』 25:45すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』 25:46こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」


※ この箇所でも呪われた者たちは「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入る」と示されています。先ほどの命の書に名がない人と同様であり、決して一部の極悪人だけではありません。

ここでは同じギリシャ語が用いられています。
この語は「永遠の、不変の。永遠のいのちに言及する場合、それは神のものであり、したがって、時間の制限に影響されない命を意味する」aiōniosという言葉です。「消滅」という意味とは全く異なります。福音を拒み、罪を続ける人は、生涯の終わりに、永遠の刑罰を受けるということは、イエスの明確な教えです。
永遠の命や祝福は永遠、悪人への裁き(罰)は有限、しかし無になるのは永遠とするのは聖書に反するみことばを薄めた伝え方だと思います。一定期間の刑罰を受けて耐えさえすれば、あとは消滅して苦しくもなくチャラになるなどという事は聖書は示していません。






トリビア さんの発言:

結局の所、人によって解釈は異なるので各自が納得しているならそれでいいでしょう。誰が救われるか否かに関してはやはり人が決めることではないでしょうし、誰々が神を受け入れているか否かに関しても他人が判断できることはないと感じます。また教理にこだわり他人への配慮が無くなる人たちも宗教家やクリスチャンに多いと感じます。エホバ教もキリスト教にもその傾向があるように感じました。でも頼りになる方はキリスト教におられるのも理解してますけどね。

他の方への配慮が無くなるのはよくないと思いますが、教理にある程度こだわるのは当然だと思います。でないと勝手な解釈から色んな教えで逸脱してしまいますからね。いつ心境の変化があるか分からないですから誰が救われるか、羊だ山羊だとか現時点で決めるのはよくないですが明確に神や聖書を否定し続ける人は難しいでしょう。


トリビア さんの発言:

ただ、やたらと「今日伝導した方、仏壇捨てない言ってたから地獄に落ちる」とか涙を流す方がいたので、これって単純にやばくね?こういう考え方になって悲壮感漂ったり情緒不安定になるのは一体なんだろうか、この地獄の教えってかなり変な教理ではと感じたわけです。偶像崇拝の定義もエゼキエル書には心のなかでの偶像崇拝みたいなこと書いてますし、結局仏壇を捨てたから偶像崇拝を断捨離できたわけでもありません。

色々と人間的に問題がある人物はクリスチャンであっても心の中の偶像崇拝者に該当するのではと感じさせられました。とりあえず、これくらいで多分今後書き込みをすることは一旦しばらく無いとは思います。

仏壇も同居で親の所有とかの場合は処分は行き過ぎです。初めて伝道した人に処分までは言わないのが普通ですから、伝えた人とその人の関係性と何回か話したのか、その聞いた人がある程度キリスト教を信じている人で、そのような中での発言か等で変わってきます。

仏壇がその人の所有で、聖書には関心を持っているものの、処分まではしないという事なら伝道した人に同意はできないものの多少は残念に思います。(どのようなケースかはっきりしませんのであれですけど)
一般的な仏教か神道、或いは無宗教だった人が、勧誘されて創価とかの本尊を購入したとかなら、キリスト教や聖書にけっこうな関心を示しているならば、御本尊の処分を勧める気持ちも多少は分かります。もちろん、処分は本人が決める事なので私なら洗礼も考えていない人には言いませんが。

人の良心は様々ですので、その伝道したほうの人は処分までして徹底しないと気のすまないタイプだったのでしょう。クリスチャンでも仏壇で手を合わせるのに抵抗のない方もおられますし、神様との関係の中で自分で決めたらいい事です。

その、涙を流した人が本人に、仏壇を処分しないと地獄に堕ちますよと言ったなら問題ですが、様々な会話の中から、あの人は本当にいい人なのに、そのまま行ったら地獄で裁かれてしまうのは耐えられないという思いからの真剣な思いからの涙であったならば全否定も軽々とはできないと思います。
涙を流した人がいたので聖書の教えである地獄の教理が変なものになるという事はないです。

多少の行き過ぎはあっても他の人を思って涙した人を偶像礼拝者だと感じるのは自由ですが断罪して果たしてイエス様は喜ばれるでしょうか。誰が救われるか分からない、決めるべきではないように言っておられますが少し矛盾に思えます。



トリビア さんの発言:

教理でこだわりを押し付け合うとキリがないですし、実際のところ今はも塔の審理委員会や色々と成員の状態を文書化して記録化していることなどが法律に触れることがないのかなどそちらも知りたいので、またそちらの情報収集のために活用したいかなとは思います。

ただ、もうずっと教理に関しては色々と互いに言い分はあるので合致することはないでしょう。

単なるこだわりではなく、ギリシャ語の意味と用法、その他聖書の全体的な考慮に基づいて、聖書は魂の消滅を述べてはいないという事をお伝えしています。滅ぼすとも訳されるアポルミーは、本来の所有者から離れて用をなさない役に立たない状態を指しており、消滅を意味しません。消滅するなら紛らわしい金持ちとラザロの話など入れるはずがないのです。
ステファノも「私の霊をお受けください」と述べており、パウロも「体という住みかから離れて、主のもとに住みたいと思っています。 」と述べ、肉体を離れたらすぐにイエスの元に行く事を示しています。
義と認められる人が意識があるなら不義者も死後に意識はあります。そして裁かれるのです。

ダニエル書/ 12章 02節
地の塵となって眠る人々の中から/多くの者が目覚める。/ある者は永遠の命へと/またある者はそしりと永遠のとがめへと。

※ 永遠にとがめられるわけですから意識のない状態を示しません。

ローマの信徒への手紙/ 10章 11節
聖書には、「主を信じる者は、誰も恥を受けることがない」と書いてあります。

※ 魂が消滅するのなら恥などかきません。

ヨハネ5:29善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。

※ 裁きを受けるのであって、無になるとは書いてありません。

※ 第二の死であるゲヘナの裁きは片目や右手を失ってでも避けるべき場所です。



トリビア さんの発言:

※誰が救われるか否かに関しては、とりわけ大患難時代におけるクリスチャンや弱者への接し方で決まると思います。ここらへんもある人達は携挙といって大艱難の前、迫害が始まる前に天へ携挙つまり上がるというひともいるし、色々と言い分があるのでしょうし、多分一生議論は終わらないので、する必要はないでしょう!ではまた。

患難期にクリスチャンになる人もいますからね。しかし、聖書は携挙と再臨は分けて教えていますので患難期前携挙説が有力です。
https://harvestwatch.tv/biblestudy/rati … rapture-1/

議論というか本当に患難前ではないのか考えてみる必要があると思いますよ。(関心があるならですが)

#990 2022年08月30日 10:57:19

仰天さん?
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

トリビアさん! さんの発言:
トリビア さんの発言:

も塔の地獄の教えの否定を指示しているわけではありません。また誰が救われるか否かの点において、誰々がどこどこの人だから未信者だから救われないとは言い切れないと述べているわけです。前にも言いましたが、千年王国中に登場する諸国家は誰なのかも謎ですし、色々とわからないことがありますので、わからなことはわからないで結構です。

未信者というか教会に行ってない人は全て救われないという事なら間違いですが、聖書には、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの(イエスの)名のほか、人間には与えられていないのです。」とあるように未信者でも死ぬ間際にでもやはり神様はおられる、イエス様!と認めたら救われるでしょう。しかし基本的にはイエスを信じる事でしか救われないのが分かります。




トリビア さんの発言:

神を受け入れたという人たちが救われるわけではないという点には同意です。近年はネットでキリスト教流行ってますが、やたらとキリスト受け入れないと地獄だとか騒いでる人が多いので、その状態に違和感を感じるので書いてみました。

世界的なコロナ騒動その他から患難時代が近いと感じているクリスチャンもいるのは事実です。全くそんな事も考えていないクリスチャンもおられますから様々ですが。
神を受け入れたと主張する人でも全ての人が救われないとすれば、神を受け入れていない人々の裁きはより大きくなりますので緊急感から福音を伝えなければとの思いから過度に熱心になっているクリスチャンもいるとは思いますが、これも全体ではありません。地獄ばかり強調して祝福を示さないなら極端ですが、地獄だけはなんとしてでも避けた方がいい所だというのは聖書も示してます。
別に騒ぎ立てて伝える方法だけではないでしょうから配慮は必要でしょうね。しかしもし、その人に聖霊が語らせているなら止める事は難しいですし、実際にどの程度騒いでるのかを見てみないと分かりません。それら熱心過ぎる人を見て全てのクリスチャンが賛成するかは別問題ですね。



トリビア さんの発言:

無になって消えるならキリストがいらないとかレビ記にも罪人を焼いて殺せとあるから、地獄での火の拷問も否定されないと考えるのも個人的な感想に思えます。

魂の無意識、無存在、消滅説はJWだけでなく、JWに影響を与えたセブンスデーアドベンチストの教えでもあります。異端ですね。
地獄は闇ですけど火があるなら暗くはないはずだという主張も稀に見ますが、全体を明るくしない程度の極限に熱い炎とか神は出せるでしょうし否定はできません。
無になるという思想こそが個人的な感想だと思います。



トリビア さんの発言:

偽預言者が火の池にいると描写されてますが、獣の刻印を受けた人達がいるとは書いてませんので、悪趣味でサディスト的な人物やサタンや悪霊たちはアイオーンの長さも異なるのかもしれません。誰でも無限に火の池であぶられるなら公平な裁きにはなりません。

黙示録
『14:9また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、 14:10そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。 14:11そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。

ヨハネの黙示録/ 20章 15節
命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。 』

※ 獣の刻印を受けた人、命の書に名がない人も
『火と硫黄とで苦しめられる』、『火の池に投げ込まれた』とあります。

そして、こうも言えます。ヒトラーでも、法律上は軽い罪の人とか誰でも、同じく消えて無になるだけなら公平な裁きではないと。
かえって、神を退ける被造物は全て同じ罪が用意されているのが公平ではないでしょうか。神から離れるのが霊的死であり、サタンや悪霊と同じ罰を受けないように、なんとしてでもゲヘナの裁きは避けるようにと警告されているのです。でなければ、『目や右手があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがましである。 』なんて事は言われないのです。行く事は恐ろしい、物凄い苦痛、或いは恥辱、後悔の場所だと読み取れます。
マタイの箇所でイエスは2回、地獄は永遠だと示しています。
25:41それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。 25:42おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、 25:43わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』 25:44そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』 25:45すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』 25:46こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」


※ この箇所でも呪われた者たちは「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入る」と示されています。先ほどの命の書に名がない人と同様であり、決して一部の極悪人だけではありません。

ここでは同じギリシャ語が用いられています。
この語は「永遠の、不変の。永遠のいのちに言及する場合、それは神のものであり、したがって、時間の制限に影響されない命を意味する」aiōniosという言葉です。「消滅」という意味とは全く異なります。福音を拒み、罪を続ける人は、生涯の終わりに、永遠の刑罰を受けるということは、イエスの明確な教えです。
永遠の命や祝福は永遠、悪人への裁き(罰)は有限、しかし無になるのは永遠とするのは聖書に反するみことばを薄めた伝え方だと思います。一定期間の刑罰を受けて耐えさえすれば、あとは消滅して苦しくもなくチャラになるなどという事は聖書は示していません。

あいも変わらずですね。




トリビア さんの発言:

結局の所、人によって解釈は異なるので各自が納得しているならそれでいいでしょう。誰が救われるか否かに関してはやはり人が決めることではないでしょうし、誰々が神を受け入れているか否かに関しても他人が判断できることはないと感じます。また教理にこだわり他人への配慮が無くなる人たちも宗教家やクリスチャンに多いと感じます。エホバ教もキリスト教にもその傾向があるように感じました。でも頼りになる方はキリスト教におられるのも理解してますけどね。

他の方への配慮が無くなるのはよくないと思いますが、教理にある程度こだわるのは当然だと思います。でないと勝手な解釈から色んな教えで逸脱してしまいますからね。いつ心境の変化があるか分からないですから誰が救われるか、羊だ山羊だとか現時点で決めるのはよくないですが明確に神や聖書を否定し続ける人は難しいでしょう。


トリビア さんの発言:

ただ、やたらと「今日伝導した方、仏壇捨てない言ってたから地獄に落ちる」とか涙を流す方がいたので、これって単純にやばくね?こういう考え方になって悲壮感漂ったり情緒不安定になるのは一体なんだろうか、この地獄の教えってかなり変な教理ではと感じたわけです。偶像崇拝の定義もエゼキエル書には心のなかでの偶像崇拝みたいなこと書いてますし、結局仏壇を捨てたから偶像崇拝を断捨離できたわけでもありません。

色々と人間的に問題がある人物はクリスチャンであっても心の中の偶像崇拝者に該当するのではと感じさせられました。とりあえず、これくらいで多分今後書き込みをすることは一旦しばらく無いとは思います。

仏壇も同居で親の所有とかの場合は処分は行き過ぎです。初めて伝道した人に処分までは言わないのが普通ですから、伝えた人とその人の関係性と何回か話したのか、その聞いた人がある程度キリスト教を信じている人で、そのような中での発言か等で変わってきます。

仏壇がその人の所有で、聖書には関心を持っているものの、処分まではしないという事なら伝道した人に同意はできないものの多少は残念に思います。(どのようなケースかはっきりしませんのであれですけど)
一般的な仏教か神道、或いは無宗教だった人が、勧誘されて創価とかの本尊を購入したとかなら、キリスト教や聖書にけっこうな関心を示しているならば、御本尊の処分を勧める気持ちも多少は分かります。もちろん、処分は本人が決める事なので私なら洗礼も考えていない人には言いませんが。

人の良心は様々ですので、その伝道したほうの人は処分までして徹底しないと気のすまないタイプだったのでしょう。クリスチャンでも仏壇で手を合わせるのに抵抗のない方もおられますし、神様との関係の中で自分で決めたらいい事です。

その、涙を流した人が本人に、仏壇を処分しないと地獄に堕ちますよと言ったなら問題ですが、様々な会話の中から、あの人は本当にいい人なのに、そのまま行ったら地獄で裁かれてしまうのは耐えられないという思いからの真剣な思いからの涙であったならば全否定も軽々とはできないと思います。
涙を流した人がいたので聖書の教えである地獄の教理が変なものになるという事はないです。

多少の行き過ぎはあっても他の人を思って涙した人を偶像礼拝者だと感じるのは自由ですが断罪して果たしてイエス様は喜ばれるでしょうか。誰が救われるか分からない、決めるべきではないように言っておられますが少し矛盾に思えます。



トリビア さんの発言:

教理でこだわりを押し付け合うとキリがないですし、実際のところ今はも塔の審理委員会や色々と成員の状態を文書化して記録化していることなどが法律に触れることがないのかなどそちらも知りたいので、またそちらの情報収集のために活用したいかなとは思います。

ただ、もうずっと教理に関しては色々と互いに言い分はあるので合致することはないでしょう。

単なるこだわりではなく、ギリシャ語の意味と用法、その他聖書の全体的な考慮に基づいて、聖書は魂の消滅を述べてはいないという事をお伝えしています。滅ぼすとも訳されるアポルミーは、本来の所有者から離れて用をなさない役に立たない状態を指しており、消滅を意味しません。消滅するなら紛らわしい金持ちとラザロの話など入れるはずがないのです。
ステファノも「私の霊をお受けください」と述べており、パウロも「体という住みかから離れて、主のもとに住みたいと思っています。 」と述べ、肉体を離れたらすぐにイエスの元に行く事を示しています。
義と認められる人が意識があるなら不義者も死後に意識はあります。そして裁かれるのです。

ダニエル書/ 12章 02節
地の塵となって眠る人々の中から/多くの者が目覚める。/ある者は永遠の命へと/またある者はそしりと永遠のとがめへと。

※ 永遠にとがめられるわけですから意識のない状態を示しません。

ローマの信徒への手紙/ 10章 11節
聖書には、「主を信じる者は、誰も恥を受けることがない」と書いてあります。

※ 魂が消滅するのなら恥などかきません。

ヨハネ5:29善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。

※ 裁きを受けるのであって、無になるとは書いてありません。

※ 第二の死であるゲヘナの裁きは片目や右手を失ってでも避けるべき場所です。



トリビア さんの発言:

※誰が救われるか否かに関しては、とりわけ大患難時代におけるクリスチャンや弱者への接し方で決まると思います。ここらへんもある人達は携挙といって大艱難の前、迫害が始まる前に天へ携挙つまり上がるというひともいるし、色々と言い分があるのでしょうし、多分一生議論は終わらないので、する必要はないでしょう!ではまた。

患難期にクリスチャンになる人もいますからね。しかし、聖書は携挙と再臨は分けて教えていますので患難期前携挙説が有力です。
https://harvestwatch.tv/biblestudy/rati … rapture-1/

議論というか本当に患難前ではないのか考えてみる必要があると思いますよ。(関心があるならですが)


相手にしてくれる人を探して ここに来るとは余程寂しいのですか?

#991 2022年08月30日 11:06:55

モトシモベ
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

ありゃ。
ツッコミの先を越されてしまいましたか。
文章の組み立てが「それっぽい」ですよねー。きっと嬉しくなっちゃったんだな。笑笑

#992 2022年08月30日 11:17:06

ホントだ!
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

スイカズラのゆりという人と仲良くしてたんやなかったん?
捨てられたんか?(´;ω;`)ウッ…

#993 2022年08月30日 12:07:28

体脂肪
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

増えた

#994 2022年08月30日 17:40:56

笑笑
ゲストユーザー

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特殊部隊w

#995 2022年08月30日 18:04:09

それにしても
ゲストユーザー

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匿名=トリビアって誰?
サルガタナス?

#996 2022年08月31日 12:50:38

レビュー
ゲストユーザー

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伝統的なキリスト教の教えといっても何を指しているのか不明であり、マリア重視や十戒の変更とかプロテスタント側からしたら気になる点もありますが基本は正統から外れていない伝統的な教派なら教えの点では問題ないでしょう。
プロテスタントに関しては患難前説や地獄の伝え方の個人の差の問題であって、教理上では問題はないですね。
しかも、この患難前携挙が正統を謳う伝統的なものと何か勘違いしてるようですが、伝統ある教会なら携挙自体があまり話題にもならず、信じていない人さえいる事は言うまでもありません。
それでも神を信じてキリストの神性を認めて十字架の贖いを信じているなら救われるでしょう。伝統的な教理を『盲信』しているから患難前携挙を信じているなどというのは明らかな理解不足です。これは上から目線ではなく、様々な点を考慮して出した結論なのです。患難期中説や後期説の言いぶんも全て調べるなら安易に患難期前携挙説は否定できません。
また、患難前携挙の立場にある人の全てが死後の地獄を見てきた話の全てを信じているのでもなく、(もちろん全て信じている人も中にはいるかもしれないですが)普通は、地獄で悪魔や悪霊が死者を拷問していたとかの話等は、書いてないですし、ある話は信仰を深める点で役に立つ場合はあったとしても過度に重視しないのが平衡の取れたクリスチャンです。聖書外体験信仰は重視せず参考程度です。
伝統的な教え自体に問題があると言っておられますが、問題のあるのは比較的新しい教派にも見られる事で、極端な発想過ぎるでしょう。艱難前携挙とかはネットに増えたクリスチャンからも辟易されている教えなんてのも、要は調べ方が足りないのです。
ネットでのクリスチャンの集まりも様々で、患難前携挙を信じている人々も多く、断定できません。
ネットで陰謀論とか、スピリチュアルから来た人とか雑学系の人は真相を突き止めてやる的な考えから謙遜さが足りない場合も見受けられます。自分は理解したけど教会は分かっていないなどです。患難前携挙の立場の教会側も相当な研究や分析の結果、根拠を示して信じているわけで、「尊重します」と言うなら調べてみるべきだと述べているのです。
私は中期説や末期説の方の書物も何冊か持っていますし、動画も分析しましたが、中期説とかの側の人の言いぶんには間違いがあります。

私もかつては患難後説の立場でしたが公平に分析しますと患難前携挙の可能性が非常に高いのです。昨日もある患難前携挙を否定する牧師さんの動画を見ました。お話も聞きやすく良い人なのでしょう。しかし、調べてみましたと言いながらあまり調べていなかったですね。いくつも指摘できる部分がありましたし、既にその回答は何人かの患難前携挙説の側の牧師さんから出ています。(全く知らないようでした)

その患難前を支持しない人もキリストを受け入れており救われるでしょうが。

患難期には大勢のユダヤ人がキリストを主と認めてリバイバルが起こります。2人の証人も伝えます。
それで大勢の群衆が救われます。患難時代に迫害に遭うのは教会が携挙された後にクリスチャンになった人々です。
患難後説を信じている人は聖徒が黙示録にいるからクリスチャンが携挙されていないとか、ノアの洪水では洪水のただ中で救われたから患難をクリスチャンは経験する、キリストも患難があると言われたではないかとか言いますが、全て回答はずいぶん前から出ています。読んでない、調べていないのでしょうね。
本が一冊書けますので敢えて解説はしませんが。

患難前携挙に辟易しているというネットの人はあまり知りませんが、1人は知っています。輪廻やレプティリアンを信じ、反キリストはトランプで、既に患難時代に入っていると主張している変わった女の人です。(もちろん患難後説の人でもまともな信仰の方はたくさんおられます)

まぁ、トリビアさんは話す気もないようですから、他の読んでおられる方にですが、携挙の時期について調べてみる事をお勧めします。トリビアさんはスルーで結構です。

患難後説を調べた感想だと思ってください。

#997 2022年08月31日 14:17:46

相手にしない
ゲストユーザー

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相手にしなければいい

教文館でゆりさんを待っていたんだよねー

#998 2022年08月31日 15:28:52

それで
ゲストユーザー

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伝統的な教会でも、他の所でも情緒不安定になったり人間的に何か問題のあるクリスチャンの人が何人かいたとしても、それは単なるその人の伝え方の問題であって、聖書の教理を否定する根拠にはならないと思います。
バッハの名曲を演奏の下手な人が弾いて、聞くに耐えないものだとしても、その曲自体が悪いのでしょうか。
それを演奏した人の問題です。キリスト教も同じなのです。

#999 2022年08月31日 18:09:24

モトシモベ
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

それで さんの発言:

伝統的な教会でも、他の所でも情緒不安定になったり人間的に何か問題のあるクリスチャンの人が何人かいたとしても、それは単なるその人の伝え方の問題であって、聖書の教理を否定する根拠にはならないと思います。
バッハの名曲を演奏の下手な人が弾いて、聞くに耐えないものだとしても、その曲自体が悪いのでしょうか。
それを演奏した人の問題です。キリスト教も同じなのです。

正論と正論でサンドイッチされた、ぱっと見はもっともらしい考えです。
集団の中の一定数が特殊思想の持ち主であることも、バッハが巨匠なのも周知の事実。
でもこれは聖書を絶対的な真理と考えるクリスチャンの視点でのみ成立する比較ですよね。

たとえばわたしたちは古事記の記述すべてを事実として受け止めるんでしょうか?
神話パートはあくまでも神話として「まぁ、そんなこともあったかもしれないね」程度に受け止めます。
たぶん日本人の大多数はそういう反応でしょう。

それと同じように聖書すべてを事実であり本当に神の言葉として受け止めるのは正しいのでしょうか?
古事記の一部は神話であり作り話、かたや聖書は全巻が事実であり真理と決めつける正当な理由がありますか?
常に聖書を絶対的真理と考えるクリスチャン思想は、そういう矛盾をはらんでいると思います。

結局「自分が事実だと信じたいから事実」という無理筋の枠を出られないんですよ。

#1000 2022年09月01日 12:36:40

モトシモベ
ゲストユーザー

Re: 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ

こんにちは。

トリビア さんの発言:

宗教家たちは自分たちがいくらか誤りを教えていても神から許容されている事実を考える必要があります。そうすると、自分たちの教えに納得しない未信者さんたちの多種多様な考えに対して苛立って「地獄だ」とか言ったりすることはなくなり、謙虚になるかもね。愛がなければうるさいとパウロも言うように、いつも正論だとか聖書の教理はなんちゃらだと常に鼻息荒く息巻くことは霊の実を反映した特質ではありませんし、クリスチャンの責務ではありません。

その通りだと思います。
わたしも研究司会してた頃は同じようなスタンスで説明してました。
研究中に「最終的に聖書を事実として受け入れるかどうかは信仰の世界なので強制しません」みたいな話を何度もしましたっけ。

結果ひとりも信仰に至らなかった訳ですが、要するにそれが世間一般的な考え方なんでしょうね。
同じような話を常々してた某兄弟は最後に記念式でパンとぶどう酒を盛大に飲み食いして去って行きました。笑
今となってはそれでよかったと思ってます。

信仰の断罪は当然として、押し売り行為も神さまを押しのける僭越さのあらわれです。

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