#2 2016年12月20日 17:13:23
- てつてつ
- メンバー
Re: 楽園での永遠の命の希望を捨てるということ。
海外奉仕さんこんにちは
現役で海外奉仕しておられるということで すばらしい自己犠牲の精神だと思います どの部分かはわかりませんが ものみの塔がまちがいであることに気づきつつあるのですね
自分も607年が協会の偽りであることがわかってからやめるまで一年以上毎日悩みましたから
それと同時に楽園での永遠の命の希望や復活の希望を捨てたと思うのですが
これは逆で むしろものみの塔にとどまり続けることにより
(テモテ第二 2:26) …そして彼らは,悪魔の意志に仕えるべくその者に生きながら捕らえられていたことを知り…とあるように
悪魔に生きながらとらわれているのであり 聖書の希望は得ることはできないと思います
聖書が本当であれば 607年をもととする1914年の偽りの教理を教え続けている大いなるバビロンからでることにより はじめてマイナスの状態からゼロのスタートラインに立つことができると思います
自分はやめた瞬間にずっとどんよりと暗かった心がいっぺんに快晴になりました 今まで友達だと思っていた人たちから冷たくされるのはつらいですけど 自分は正しいことをしているという「本当かどうかはわかりませんが」思いは保てています よろしければ自分のサイトも見てください
編集者 てつてつ (2016年12月20日 17:36:21)
オフライン
#3 2016年12月20日 21:48:24
- 海外奉仕
- メンバー
Re: 楽園での永遠の命の希望を捨てるということ。
てつてつさん
ありがとうございます。てつてつさんも葛藤を覚えながらも自分の良心の声に従って行動され
たのですね。楽園での永遠の命の希望を捨てることにはならないという点、勇気づけられまし
た。てつてつさんの中で永遠の命の希望はより強いものになっていますか?
お恥ずかしながら、私自身、カトリックやプロテスタントなどキリスト教主要宗派がどのよう
な教えであるかさえわかっていません。サタンの存在や宇宙主権の論争、楽園での永遠の命、
復活の教えなど、すべてにおいてエホバの証人の教義しか思い浮かばないのです。これはこれ
で問題ですよね。みなさんはどうですか?
編集者 海外奉仕 (2016年12月20日 21:49:44)
オフライン
#4 2016年12月20日 22:18:14
- てつてつ
- メンバー
Re: 楽園での永遠の命の希望を捨てるということ。
海外奉仕さん 書き込みありがとうございます
てつてつさんの中で永遠の命の希望はより強いものになっていますか?
おはずかしながら しばらく前までは(テモテ第二 3:16) …聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。
は そのまま信じていたのですが 最近は聖書の一部の記述はあやまりだと考えるようになりました 一例として ノアの大洪水でもし地球のすべてが水におおわれたとしたら南極の氷は一度全てとけるので現存する氷は5000年以上前のものは存在しないのではないでしょうか それが70万年以上前の氷が現存するのです それで聖書のノアの洪水の記述がまちがいでありさらにはそれに言及しているイエスキリストの記述もまちがいなのではないかと考えるようになりました しかしエルサレムの滅びの年が前607年でないことに関連した記述や年代は信用できると思います それで聖書が全部が全部真実ではないという考えから永遠の命の確信は否定はしませんが確信もできない保留状態みたいな感じになっています あとそれでも聖書には役に立つ記述は多いと思っています
編集者 てつてつ (2016年12月20日 22:19:46)
オフライン
#5 2016年12月20日 23:02:41
- モトシモベ
- ゲストユーザー
Re: 楽園での永遠の命の希望を捨てるということ。
海外奉仕さん
はじめまして。モトシモベと申します。
自分が立てたスレッドを放置したまま人のスレッドに首を突っ込む不届き者ですが、ご容赦ください (笑)
ここにいらっしゃる方は、エホバの証人をやめられ、それと同時に楽園での永遠の命の
希望や復活の希望を捨てたと思うのですが、相当精神的にショックなことでは
なかったでしょうか。どのように立ち直ったか、現在の心境を教えてください。
有限である人生に恐怖は感じませんか?
精神的ショックについて:
うすうす「この組織はおかしい」と思っていたので、精神的ショックはありませんでした。
むしろ自分の直感が正しかったことに、思わず自画自賛したぐらいです。
意識的にフェイドアウトし、すべての特権を手放し、今は集会を完全に欠席しています。
組織のために身を粉にして働いていたときより、心身共に健康な状態です。
心境の変化:
有限な人生なのだから、悔いのないように生きる。
来世や楽園の永遠の命が不確かなのだから、今しかできないことをする。
やらなかったこと、できなかったことへの後悔が残らないよう、自分の気持ちに正直であれ。
リハビリには二年ぐらいかかりましたが、少しずつ、そんな風に思えるようになってきました。
今でもまだ、道半ばです。
最大の変化として、身の回りの「良い」ものに対して、素直に、そして心から「良い」と思えるようになりました。
少なくとも組織に束縛されていたときより、物事を積極的に捉えることができます。
自由の広さに圧倒されますが、大きく道を踏み外さないでしょうし、まぁ悪い気はしません。
有限である人生について:
自分の人生がいつか終わることへの恐怖が、まったくないといえば嘘になります。
どうあがいても人生なんて致死率100%の道のりです。
どなたかも書いていましたが、どうせ死んだ後のことなんて死ぬまで分からないんです。
分からないことをアレコレ悩んでも仕方ないですし、今は悩み続けるより自分の思いを正しく昇華させることに時間を充てたいと考えています。
もちろん組織に交わらなかったら辿っていたであろう人生より、人生の選択肢は狭まっています。
たとえ人より遅いスタートでも、スタートしないまま人生を終えるより何倍もマシです。
なんでも望みどおりになる訳ではありませんが、夢も諦めなければ潰えることはありません。
以上、思いつくままに書いてみました。
すべてわたしの主観ですので、海外奉仕さんの参考になるかどうかはわかりません。
身近に会衆のご友人がいるかどうか、職場がJW関係者の企業かどうか、ご家族との関係性など、様々な要因で左右されるでしょう。
組織の過ちに気づきながら、組織に身を費やす生活は大変かと思います。
わたし自身、形ばかりですが組織に籍を置きながら、こんな背教サイト(これ、褒め言葉ですよ)に出入りしています。
お互いに良いタイミングで、腐った組織とその束縛に折り合いがつけられるといいですね。
それまで心身のバランスを崩されぬよう、ご自愛下さいませ。
#6 2016年12月22日 00:41:52
- 海外奉仕
- メンバー
Re: 楽園での永遠の命の希望を捨てるということ。
海外奉仕さん 書き込みありがとうございます
てつてつさんの中で永遠の命の希望はより強いものになっていますか?
おはずかしながら しばらく前までは(テモテ第二 3:16) …聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。
は そのまま信じていたのですが 最近は聖書の一部の記述はあやまりだと考えるようになりました 一例として ノアの大洪水でもし地球のすべてが水におおわれたとしたら南極の氷は一度全てとけるので現存する氷は5000年以上前のものは存在しないのではないでしょうか それが70万年以上前の氷が現存するのです それで聖書のノアの洪水の記述がまちがいでありさらにはそれに言及しているイエスキリストの記述もまちがいなのではないかと考えるようになりました しかしエルサレムの滅びの年が前607年でないことに関連した記述や年代は信用できると思います それで聖書が全部が全部真実ではないという考えから永遠の命の確信は否定はしませんが確信もできない保留状態みたいな感じになっています あとそれでも聖書には役に立つ記述は多いと思っています
てつてつさん、ご自身の考えを教えていただきありがとうございます。
とても物事を論理的に考える方なんですね。
私もその点見習いたいと思います。
エホバの証人の世界だけしか知らずに死んでいくなんてもったいなさすぎですよね。
エホバの証人であれば、ものみの塔以外の本を読むことにさえ抵抗がありますから・・・。
組織の中はすごく窮屈で、理念は素晴らしいものであるにもかかわらず、逆に自分を出せない表面的な
関係に嫌気がさします。
オフライン
#7 2016年12月22日 00:51:17
- 海外奉仕
- メンバー
Re: 楽園での永遠の命の希望を捨てるということ。
はじめまして。モトシモベと申します。
自分が立てたスレッドを放置したまま人のスレッドに首を突っ込む不届き者ですが、ご容赦ください (笑海外奉仕 さんの発言:ここにいらっしゃる方は、エホバの証人をやめられ、それと同時に楽園での永遠の命の
希望や復活の希望を捨てたと思うのですが、相当精神的にショックなことでは
なかったでしょうか。どのように立ち直ったか、現在の心境を教えてください。
有限である人生に恐怖は感じませんか?精神的ショックについて:
うすうす「この組織はおかしい」と思っていたので、精神的ショックはありませんでした。
むしろ自分の直感が正しかったことに、思わず自画自賛したぐらいです。
意識的にフェイドアウトし、すべての特権を手放し、今は集会を完全に欠席しています。
組織のために身を粉にして働いていたときより、心身共に健康な状態です。)。
そうなんですね。心身共に健康な状態でなによりですね!!
もちろん組織に交わらなかったら辿っていたであろう人生より、人生の選択肢は狭まっています。
たとえ人より遅いスタートでも、スタートしないまま人生を終えるより何倍もマシです。
なんでも望みどおりになる訳ではありませんが、夢も諦めなければ潰えることはありません。
そうですね。このJWという活動は、この世での経験とか経済的な基礎とかそういったものをすべて
ぶち壊しにしますよね・・。本当につらいところであります。
でもあきらめたくないですね。きっとJWの窮屈感から抜け出せば、自由が待ってて何だって出来て
しまうのではないかと思います。
モトシモベさんは、今は何か調べられている宗教などはありますか?
オフライン
#8 2016年12月22日 08:17:09
- てつてつ
- メンバー
Re: 楽園での永遠の命の希望を捨てるということ。
モトシモベさんは、今は何か調べられている宗教などはありますか?
きっと 海外奉仕さんは 協会がいつわりなら真の宗教はなに? という気持ちじゃないかなと思うのですが 良心の危機の445ページにその答が書かれていると思います自分のサイトにも少し書いていますのでよかったら見てください
きっとJWの窮屈感から抜け出せば、自由が待ってて何だって出来てしまうのではないかと思います。
窮屈感からは抜け出せますが 自由がまっててなんだってできるわけではないと思います 組織の中にいれば言われたとおりのことをしていれば周りがみとめてくれますが 実社会は実力が全てですから 実力がなければだれからも相手にされずホームレスになってもだれも見向きもしてくれないという厳しい面もあるとおもいます
編集者 てつてつ (2016年12月22日 08:48:53)
オフライン
#10 2016年12月24日 01:38:03
- モトシモベ
- ゲストユーザー
Re: 楽園での永遠の命の希望を捨てるということ。
海外奉仕さん
でもあきらめたくないですね。きっとJWの窮屈感から抜け出せば、自由が待ってて何だって出来て
しまうのではないかと思います。
てつてつさんがバランスの取れた考えを書いてくださっていますが、安易に「自由」の響きに惑わされて本質を見誤ると大ヤケドすることもあることも忘れないでください。
今の海外奉仕さんには、ふたつの自由を行使する権利があります。
ひとつは「組織から出る自由」、もうひとつは「あえて組織に残る自由」です。
どちらの自由を行使するにしてもメリット・デメリットを検討し、ご自身の心の声に耳を傾けた結果として、ご自身の責任のもとで決定しなければいけません。
いずれの自由を行使するとしても海外奉仕者さんは時として悩み、時として選択を失敗したように感じることもあるでしょう。
でもそれは、世間の誰もが辿っている道のりでもあります。
たとえ問題が起きたとしても、それが自分の選択の結果であると自覚していれば、リカバリーする責任を果たすべく奮闘できるはずです。
自分の心の声を無視して、自由の権利を正しく行使しないまま一生を終えるとしたら、人生を終えるその瞬間に残るのは後悔だけです。
死後の命も復活も地上の楽園の希望もないとしたら、それこそ死んでも死にきれないでしょう。
それ以上に怖ろしいことはないと、わたしは考えています。
これは自分に向けた言葉でもありますが、正しい自問自答を繰り返し、賢明な決定ができるといいですね。
モトシモベさんは、今は何か調べられている宗教などはありますか?
この掲示板で、わたしの信仰のスタンスは明言しないようにしていますが、いわゆる「真の宗教がある」というJW的思想は既に捨てています。
ここからは海外奉仕さん以外の、掲示板を読んでいらっしゃるであろう、声なき現役さんへ向けた言葉です。
組織が提供する自由は「条件付きの自由」であることに対して、この世が提供する自由は「無制限の自由」です。
前者の自由を手に入れるための条件は、ものみの塔聖書冊子協会という組織が敷くレールの上を進むことにあります。
それに対して後者の自由は自分で選択して掴み取る自由で、そこに制限はありません。(もちろん法に触れるような行為はいけませんけれども)
なにか制限があるとすれば、それは自分で自分に課してしまう限界によるものです。
両者の自由を比較したときに、人間が秘める無限大の可能性に挑戦できるのは後者の側の自由です。
いったん組織の枠からはみ出して思考できるようになると、自分の前には道が無限に広がっていることに驚かれることでしょう。
JW的には「狭い道」と「広い道」の二極論で考えるように訓練されていましたが、世の中そんなに単純なものではありません。
結局のところJWの提唱する「狭い道」も、人が選択できる無限の道のひとつでしかないからです。
もし人が特定の「狭い道」しか歩めないとしたら、そんなのは自由でもなんでもなく、ただの束縛です。
深い愛情に富む父親がいるとして、かわいい我が子に何を望むでしょうか。
我が子を愛するあまりに一挙手一投足を24時間監視し、ガラスの檻の中で一生を終えることを望むでしょうか?
それとも広くて自由な世界に、自分の力で力強く羽ばたいてほしいと望むでしょうか?
答えは明白です。
ものみの塔聖書冊子協会が教えている神さまは、子どもを束縛する毒親のような神さまですよ。
#11 2016年12月24日 12:04:41
- 海外奉仕
- メンバー
Re: 楽園での永遠の命の希望を捨てるということ。
海外奉仕さん
この掲示板で、わたしの信仰のスタンスは明言しないようにしていますが、いわゆる「真の宗教がある」というJW的思想は既に捨てています。
ここからは海外奉仕さん以外の、掲示板を読んでいらっしゃるであろう、声なき現役さんへ向けた言葉です。
組織が提供する自由は「条件付きの自由」であることに対して、この世が提供する自由は「無制限の自由」です。
前者の自由を手に入れるための条件は、ものみの塔聖書冊子協会という組織が敷くレールの上を進むことにあります。
それに対して後者の自由は自分で選択して掴み取る自由で、そこに制限はありません。(もちろん法に触れるような行為はいけませんけれども)
なにか制限があるとすれば、それは自分で自分に課してしまう限界によるものです。両者の自由を比較したときに、人間が秘める無限大の可能性に挑戦できるのは後者の側の自由です。
いったん組織の枠からはみ出して思考できるようになると、自分の前には道が無限に広がっていることに驚かれることでしょう。JW的には「狭い道」と「広い道」の二極論で考えるように訓練されていましたが、世の中そんなに単純なものではありません。
結局のところJWの提唱する「狭い道」も、人が選択できる無限の道のひとつでしかないからです。
もし人が特定の「狭い道」しか歩めないとしたら、そんなのは自由でもなんでもなく、ただの束縛です。深い愛情に富む父親がいるとして、かわいい我が子に何を望むでしょうか。
我が子を愛するあまりに一挙手一投足を24時間監視し、ガラスの檻の中で一生を終えることを望むでしょうか?
それとも広くて自由な世界に、自分の力で力強く羽ばたいてほしいと望むでしょうか?答えは明白です。
ものみの塔聖書冊子協会が教えている神さまは、子どもを束縛する毒親のような神さまですよ。
モトシモベさん、ご返信ありがとうございます。
自由に関するお話ありがとうございます。私の今後の人生を考える上でとても役立ちます。
肝に銘じたいと思います。
疑問に思いますのは、せっかく大いなるバビロンであるJWから抜け出たのにもかかわらず、みなさん真理に
たどり着くことができないのでしょうか?聖書をこれまで神の書として真剣に研究を行い、そしてその結果、
JWが間違いであるということがわかり抜け出たはずです。ですから、より神との関係で精錬されたのでは
ないでしょうか?
もしその点、ご意見があれば教えてください。これを読まれている他の方からのご意見ももしよろしければ
お願いいたします。
オフライン
#13 2016年12月24日 12:43:58
- Chimera
- ゲストユーザー
Re: 楽園での永遠の命の希望を捨てるということ。
私なりの今のスタンスは「~かもしれない」色んな答えがあっていいと思うようにしています。
私も、その意見に賛成です。
#14 2016年12月24日 12:49:05
- Chimera
- ゲストユーザー
Re: 楽園での永遠の命の希望を捨てるということ。
これを読まれている他の方からのご意見ももしよろしければ
お願いいたします。
あなたが本当に神を求めておられるなら道は開かれるでしょう。
#15 2016年12月24日 13:01:02
- Chimera
- ゲストユーザー
Re: 楽園での永遠の命の希望を捨てるということ。
コリントの信徒への手紙二 13章13節
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」
#16 2016年12月24日 13:55:00
- てつてつ
- メンバー
Re: 楽園での永遠の命の希望を捨てるということ。
海外奉仕さん 書き込みありがとうございます
疑問に思いますのは、せっかく大いなるバビロンであるJWから抜け出たのにもかかわらず、みなさん真理にたどり着くことができないのでしょうか?聖書をこれまで神の書として真剣に研究を行い、そしてその結果、JWが間違いであるということがわかり抜け出たはずです。ですから、より神との関係で精錬されたのではないでしょうか?
これは 大変難しい質問ですよね 協会をやめてから ほかのキリスト教の教会に移動してそこでの聖書の教えに満足しておられる方もいますし
もう聖書も宗教もコリゴリだという方もいると思います
また自分みたいにいまだ分からずどっちつかずでふらふらさまよっている人もいるかと思います
聖書をこれまで神の書として真剣に研究を行い、そしてその結果、JWが間違いであるということがわかり抜け出たはずです
自分はエルサレムの滅びの年が607年でないという部分を調べていてこのあたりの聖書の記述と考古学上の年代が正確に一致していることに感銘を受け より一層聖書は神の書だと確信し ものみの塔はまちがいだと確信してやめました
ですから、より神との関係で精錬されたのではないでしょうか?
この部分は海外奉仕さんが聖書は神の書ですべて真実で調べていくならやがて必ずパズルがとけるように 完全な真理に到達するという現在の考え方を表しているのかなと思いますが
自分も協会やめた当初はそうおもっていたのですが 残念ながら 調べていくうちに 聖書のある部分はまちがいであると考えるようになりました
一例として この掲示板で最近討議されたノアの大洪水はなかった またそれに言及しているイエスキリストの記述の部分もまちがいだと思うようになりました
他には たとえば 海外奉仕さんは 江戸時代の農民でもしかしたら寺子屋程度にはちょっといったかもしれない人が 英語ですばらしい長編小説を書いたといったら信じますか?
4福音書の筆者は マタイ マルコ ルカ ヨハネといわれていますが 彼らは聖書によると無学な普通の人とよばれておりこれは文盲を表す言葉といわれています(使徒 4:13) …さて,ペテロとヨハネのおくすることのない話し方を見,またそれが無学な普通の人であることを知った時,彼らは不思議に思うのであった…
当時彼らがふつうにしゃべっていた言葉は アラム語かヘブライ語だといわれていますので それがいきなりギリシャ語で福音書を書き上げるということは江戸時代の文字の書けない農民が英語で長編小説を書いたと信じることと同じかと思います
では 海外奉仕さんは福音書の筆者がイエスの使徒ではなく元々ギリシャ語の読み書きできる高学歴の知識人であるとしたら福音書についてどう感じになりますか
というわけで ものみの塔がまちがいでやめるところまでは正しいかと思いますが そのあとは個人個人が調べて自分の納得する道を歩むしかないと思います
他の書き込みで海外奉仕さんも現在良心の危機を読んでおられるということですが がんばって読みきってくださいね
編集者 てつてつ (2016年12月25日 06:34:27)
オフライン
#17 2016年12月24日 14:00:33
- モトシモベ
- ゲストユーザー
Re: 楽園での永遠の命の希望を捨てるということ。
海外奉仕さん
昼下がりの日本からこんにちは。
街はクリスマスイブに向けて慌ただしいですが、いいお天気ですよ。
疑問に思いますのは、せっかく大いなるバビロンであるJWから抜け出たのにもかかわらず、みなさん真理に
たどり着くことができないのでしょうか?聖書をこれまで神の書として真剣に研究を行い、そしてその結果、
JWが間違いであるということがわかり抜け出たはずです。ですから、より神との関係で精錬されたのでは
ないでしょうか?
回答になるか分からない漠然としたイメージになりますが、わたし個人の考えを書いておきます。
たぶん海外奉仕さんは「真理」という言葉に惹かれて、JWと研究を始めることに同意されたのではないでしょうか。
おそらくJWとして過ごすうちに組織の偽善に気づき、そこには「真理」がないことに落胆され、組織の「真実」を探求する過程でこの掲示板に辿りつかれたものと推察します。
たどった過程は異なりますが、わたし自身も組織に漂う「真理の匂い」に惹きつけられてバプテスマに至り、やがて組織の嘘に落胆したひとりです。
組織に惹かれて「真理」だと確信に至った経緯が、そこに交わる人の数だけ存在します。
そうである以上、組織から出た後の方向性が、そこから脱出する人の数だけ存在するのは不思議なことではありません。
ですから脱塔後の思想やたどり着いた思想が真理であるかを論じるより、もっと重要なことは身も心も組織の束縛から解放され、最終的に「偽りにまみれた組織から出る」ことです。
その後それぞれが信仰を追い求めれば良いのであり、各人の自由に任された信仰の道は無限に広がっています。
もし脱塔した後もひとつの真理にたどり着き、ひとつに結び会わされることを求めてしまっては、脱塔する意味が大きく損なわれてしまうでしょう。
この掲示板に集い、真摯に投稿する多くの方々も同じです。
同じ釜の飯を食ったもの同士でなければ理解できない心情を共有すること、異なる宗教的背景を持つ投稿者がお互いの信条や心情を尊重し合うことに意義があります。
そこには脱塔後の信仰や思想、その正しさを立証しようとする強い意識が介入する余地はありません。
仮にそのような強い意識が介入するのであれば、それは自由を阻害する障害であり、排除すべき心の障壁です。
もっとも大切なのは、すべての人が「真理」にたどり着いたかどうかよりも、さまざまな学びの過程から正しい愛し方を学んだかどうかにかかっていると、わたしは考えています。
コリント第一13章でパウロが述べたとおりです。
13 たとえわたしが人間やみ使いの[いろいろな]ことばを話しても,愛がなければ,音を立てる[一片の]しんちゅうか,ただ鳴り響くシンバルとなっています。2 そして,たとえ預言[の賜物]を持ち,すべての神聖な奥義とすべての知識に通じていても,また,たとえ山を移すほどの全き信仰を持っていても,愛がなければ,何の価値もありません。
どれほど美麗な言葉や信仰の業で飾りたてても、そこに心からの愛がなければ、すべては神の目に不快な騒音なのです。
#20 2016年12月24日 21:22:25
- 海外奉仕
- メンバー
Re: 楽園での永遠の命の希望を捨てるということ。
海外奉仕さん 書き込みありがとうございます
他には たとえば 海外奉仕さんは 江戸時代の農民でもしかしたら寺子屋程度にはちょっといったかもしれない人が 英語ですばらしい長編小説を書いたといったら信じますか?
4福音書の筆者は マタイ マルコ ルカ ヨハネといわれていますが 彼らは聖書によると無学な普通の人とよばれておりこれは文盲を表す言葉といわれています(使徒 4:13) …さて,ペテロとヨハネのおくすることのない話し方を見,またそれが無学な普通の人であることを知った時,彼らは不思議に思うのであった…
当時彼らがふつうにしゃべっていた言葉は アラム語かヘブライ語だといわれていますので それがいきなりギリシャ語で福音書を書き上げるということは江戸時代の文字の書けない農民が英語で長編小説を書いたと信じることと同じかと思います
では 海外奉仕さんは福音書の筆者がイエスの使徒ではなく元々ギリシャ語の読み書きできる高学歴の知識人であるとしたら福音書についてどう感じになりますか
てつてつさん
ありがとうございます。確かにてつてつさんがおっしゃられることも一理あります。単純に、私は、
神によって聖霊に導かれて記したのだから、普通を超えた力により、記述能力がアップしたと
考えていたと思います。
オフライン
#22 2016年12月24日 21:32:36
- 海外奉仕
- メンバー
Re: 楽園での永遠の命の希望を捨てるということ。
海外奉仕さん
昼下がりの日本からこんにちは。
街はクリスマスイブに向けて慌ただしいですが、いいお天気ですよ。海外奉仕 さんの発言:疑問に思いますのは、せっかく大いなるバビロンであるJWから抜け出たのにもかかわらず、みなさん真理に
たどり着くことができないのでしょうか?聖書をこれまで神の書として真剣に研究を行い、そしてその結果、
JWが間違いであるということがわかり抜け出たはずです。ですから、より神との関係で精錬されたのでは
ないでしょうか?回答になるか分からない漠然としたイメージになりますが、わたし個人の考えを書いておきます。
たぶん海外奉仕さんは「真理」という言葉に惹かれて、JWと研究を始めることに同意されたのではないでしょうか。
おそらくJWとして過ごすうちに組織の偽善に気づき、そこには「真理」がないことに落胆され、組織の「真実」を探求する過程でこの掲示板に辿りつかれたものと推察します。
たどった過程は異なりますが、わたし自身も組織に漂う「真理の匂い」に惹きつけられてバプテスマに至り、やがて組織の嘘に落胆したひとりです。組織に惹かれて「真理」だと確信に至った経緯が、そこに交わる人の数だけ存在します。
そうである以上、組織から出た後の方向性が、そこから脱出する人の数だけ存在するのは不思議なことではありません。ですから脱塔後の思想やたどり着いた思想が真理であるかを論じるより、もっと重要なことは身も心も組織の束縛から解放され、最終的に「偽りにまみれた組織から出る」ことです。
その後それぞれが信仰を追い求めれば良いのであり、各人の自由に任された信仰の道は無限に広がっています。
もし脱塔した後もひとつの真理にたどり着き、ひとつに結び会わされることを求めてしまっては、脱塔する意味が大きく損なわれてしまうでしょう。この掲示板に集い、真摯に投稿する多くの方々も同じです。
同じ釜の飯を食ったもの同士でなければ理解できない心情を共有すること、異なる宗教的背景を持つ投稿者がお互いの信条や心情を尊重し合うことに意義があります。
そこには脱塔後の信仰や思想、その正しさを立証しようとする強い意識が介入する余地はありません。
仮にそのような強い意識が介入するのであれば、それは自由を阻害する障害であり、排除すべき心の障壁です。もっとも大切なのは、すべての人が「真理」にたどり着いたかどうかよりも、さまざまな学びの過程から正しい愛し方を学んだかどうかにかかっていると、わたしは考えています。
コリント第一13章でパウロが述べたとおりです。
新世界訳 さんの発言:13 たとえわたしが人間やみ使いの[いろいろな]ことばを話しても,愛がなければ,音を立てる[一片の]しんちゅうか,ただ鳴り響くシンバルとなっています。2 そして,たとえ預言[の賜物]を持ち,すべての神聖な奥義とすべての知識に通じていても,また,たとえ山を移すほどの全き信仰を持っていても,愛がなければ,何の価値もありません。
どれほど美麗な言葉や信仰の業で飾りたてても、そこに心からの愛がなければ、すべては神の目に不快な騒音なのです。
モトシモベさん
ご返信ありがとうございます。
仰られることはわかります。
しかしながら、私たちは過去において、「真理」を求めていたのではないでしょうか。
そして、JWの世界でやっと見つけ、救いに至ったと思ったにもかかわらず、その期待は
失望へと変わり、脱塔することになります。
ですから、私たちは「真理」を依然として必要とし、「真理」がなければ本当の意味では
救われないのではないでしょうか。
主観の数だけ、信仰があってよいというのは、真理を見つけることができない状況での
次善的な考え方であり、妥協であるとも思えるのです。
結局、人間は救われないという結論にたどりつき、そこで諦める、それが人間に課された
試練ということでしょうか。
誰が自分を作ったのかもわからず、どんな目的で生きているのかもわからず、結局は
朽ちていく存在ということです。
オフライン
#25 2016年12月24日 22:24:54
- 海外奉仕
- メンバー
Re: 楽園での永遠の命の希望を捨てるということ。
昨年NHK で放映された「かぶき者 慶二」で晩年の前田慶二が「生きるだけ生きたら、後は死ぬだけ」と言っていました。このセリフ、当時の私の状況で聞いたとき何か心の底にストンと落ちました。これが現実。時間は待ってくれない、子どもは瞬く間に大きくなる…真理を探求するのも大事だと思いますが、生活の中で他にも大切なこともあります。全てに時間を費やす余裕は私にはありません。何を大切にするかは人それぞれで良し。一生懸命生きたら後悔は無い(少ない?)と思います。これは妥協になりますかね?
妥協になるとは思いますが、あくまで悪いという意味ではありません・・・。
いずれ死ぬという制約下の中でのベストを尽くされているという意味で良いと思います。
ただ、伝道の書3:11にも書かれているように、人間には永遠を思う心がおかれているの
ではないでしょうか・・。だから、永遠がないということはとてつもなくせつないこと
だと思うのです。愛する家族や友人との永遠の別れなど、本当に苦しいのではないで
でしょうか。
オフライン