ログインしていません。

#1551 2024年12月27日 14:13:23

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“「人々という贈り物」に感謝を表す(42)”で、平信者は組織内の役職者に感謝を示せという、内容です。」
「役職者に感謝を示せという記事がないと誰も感謝しないということかな?役職者不足の組織だから、役職者になれば感謝されて、承認欲求が満足されますよ、長老を目指しましょう、と言いたいのかも。」

「2節に“パウロによると,イエスは天に行った後,「人々という贈り物」を与えてくれました。(エフェソス 4:7,8を読む。)パウロが説明しているように,それは会衆をいろいろな面でサポートするためです。(エフェ 1:22,23; 4:11-13)現代,「人々という贈り物」には,援助奉仕者や会衆の長老や巡回監督が含まれています。”とあります。先週もありましたが、“人々という贈り物”は誤訳です。恥ずかしいです。」
「正しくは“人々に贈り物を分け与えられた。”で、詩編68:18の誤った引用に基づくもの。キリストは信者に様々な贈り物をくださったという主旨の聖句。」

「エフェソスの作者はパウロではないですよ。エフェソスはパウロの名をかたった偽名文書です。」
「コロサイ書を基に、その内容を改変したもの。でもコロサイも偽名文書なんだよね。エフェソスの作者はそれを知らず、コロサイの語句や表現を真似している。コロサイの作者にだまされた。」

「コロサイの書き出しは“神の意志によってキリスト・イエスの使徒となったパウロと,私たちの兄弟テモテから,コロサイにいる,キリストと結ばれた聖なる人たち,忠実な兄弟たちへ。”ですが、エフェソスの書き出しは“神の意志によってキリスト・イエスの使徒となったパウロから,エフェソスにいる,キリスト・イエスと結ばれた忠実な聖なる人たちへ。”です。そっくりです。」
「エフェソスでは発信者はパウロ一人にしている。これはエフェソスこそパウロの考えを反映していると思わせるためだろう。その他に二つの書簡には似た部分はたくさんある。」

「3節に” 私たちはみんな,そうした兄弟たちが大切な責任を果たせるようにサポートすることができます。”とあります。平信者は援助奉仕者や長老や巡回監督をサポートしなくてはならないようです。平信者は要求が多すぎて、疲れ切っていますよ。」
「3節にはさらに“また,そうした兄弟たちや「人々という贈り物」を与えてくれたイエスにどのように感謝を表せるかを考えます。”とあって、サポートするだけでなく、感謝することも平信者には強要されている。カルトらしいね。」

「4から7節が“「役立つ仕事を行う」援助奉仕者”です。 援助奉仕者の仕事を列挙し、その重要性を強調しています。6節には“ボリビアのベバリー姉妹はこう言っています。「集会を十分に楽しむことができるのは,援助奉仕者の兄弟たちのおかげです。集会中に歌ったりコメントをしたり話を聞いたりビデオや画像から学んだりできるのは,援助奉仕者たちが働いてくれているからです。兄弟たちは集会の安全を見守り,ビデオ会議システムでつながっている人たちを気に掛けています。集会後には率先して清掃を行い,会計をまとめるのを手伝ったり,必要な文書を手に入れられるように手配してくれたりします。本当にありがたいです」。”とあります。これらの仕事を援助奉仕者は率先してしなさいという指示ですね。疲れ切ってしまいます。」
「若い人なら集会が終わったらさっさと帰りたいよ。女性蔑視のJWだから、清掃などは女の仕事で、男はしなくてよいと言えばいいのに。男性信者は喜ぶよ。」

「7節で“私たちは援助奉仕者の働きをありがたいと感じているかもしれません。でも,聖書は「感謝を表しましょう」と勧めています。(コロ 3:15)”とあります。引照聖句は援助奉仕者とは何の関係もありません。」
「それはいつものこと。聖句は本当はどうでもいい。」

「7節で、クシシュトフ兄弟は“カードやメールを送る ようにしています。聖句を書いて,自分にとって兄弟の働きがどのように力になっているか,またどんなところに感謝しているかを伝えるようにしています”と言っています。パスカル兄弟は“最近,私たちは祈りの中で,会衆の援助奉仕者の兄弟たちへの感謝を伝えたり,兄弟たちを助けてくれるようにお願いしたりするようにしています。”と言っています。こういうふうに書かないと感謝の表し方がわからない信者がいるのでしょうね。現金を渡して感謝を表すのはだめなのでしょうか?現金が一番喜ぶでしょう。」
「援助奉仕者ごときにはカード、メール、祈りで十分ということ。」

「8から11節が“「皆さんの中で一生懸命に働[く]」長老たち”です。 今度は長老に感謝ですね。8節に“1世紀において,長老たちは会衆のために一生懸命働きました。(テサロニケ第一 5:12,13を読む。テモ一 5:17)”とあります。読むように指定されている聖句には“兄弟たち,次のことをお願いします。皆さんの中で一生懸命に働き,主に仕えつつ皆さんを監督し助言を与えている人たちに,敬意を払ってください。”とありますが、この訳はヘンじゃないですか?」
「問題となるのは“監督し”でしょう。協会共同訳では“導き”だね。元のギリシャ語には両方の意味がある。どちらが良いかは辞書的には決められず、テサロニケ一が書かれた当時の信者の組織がどうだったかを知る必要がある。」

「JWみたいに中央集権的な命令系統が出来上がった組織なら、監督がよいですし、もっと緩やかな組織なら導くがよいというわけですね。」
「テサロニケ一が書かれたのは50年前後で、新訳の中では最も古く、初期のキリスト教の様子がわかる手紙。パウロが会衆を創設したばかりのころで、きちんとした組織などなかった時代。この頃は信者を監督をするための人材も規則も整備されていない。」

「9節には長老の仕事が出ていまして、“伝道を熱心に行い”、“裁く”、“神の羊を世話する”とあります。長老は伝道を熱心に行わないといけないとは知りませんでした。伝道など平信者のすることという態度の長老がいますけど。」
「タテマエとして書いているだけ。巡回監督が来た時だけ真面目にやっているふりさえすればよい。」

「10節に“エホバは,私たちが牧者の手厚い世話を受け,「もはや恐れることもおびえることもなくな[る]」と預言していました。(エレ 23:4)”とありますが、聖書の誤用ですね。」
「現代のJWのことを言っているのではないよ。」

「10節で、母親が重病になったヨハンナ姉妹が“私は自分の気持ちを伝えるのが得意ではありません。でも,ある長老が辛抱強く私の話を聞いてくれました。その長老とはまだあまりよく知り合っていなかったのですが,一緒に祈ってくれて,エホバに愛されていることを確信させてくれました。兄弟が何を言ったかはあまり覚えていませんが,とても安心したことは覚えています。エホバは本当にぴったりのタイミングで兄弟を遣わして私を助けてくれました。”と言っています。長老ならこうしなさいという指示ですね。」
「このケースでは長老が話を聞いて、祈るだけで効果があったようだけど、いつもうまくいくわけじゃないよね。でも長老にできるのはその程度だからそれ以上は期待するな、ということかな。」

「11節では長老に感謝しなさいと言っています。ヘンリエッタ姉妹は“兄弟は本当にいい長老だと思います。兄弟のような長老がいてくれて,本当にうれしいです。いつもありがとうございます。”と言い、セラ姉妹は“それで感謝を伝えるために,カードを書いたり,食事に呼んだり,一緒に奉仕に出掛けたりできます。”と言っています。」
「援助奉仕者とは違って、食事に誘えとある。長老になるとタダ飯にありつけるようだ。」

「12から15節が“会衆を力づける巡回監督”です。 12節に“エルサレムにいる長老たちはイエスの指導の下,パウロやバルナバなどの兄弟たちを旅行する監督として遣わしました。(使徒 11:22)”とあります。これはウソですね。巡回監督なんか聖書的根拠はありませんよ。単なるJWの制度です。」
「引照聖句は“その話がエルサレムの会衆に伝わり,バルナバがアンティオキアにまで遣わされた。”とあるだけ。バルナバが監督として遣わされたなんて書いていない。この聖句を巡回監督の根拠とするのは、無理があるね。パウロが巡回監督だなんて、何を根拠にそんなことを言うの?パウロは使徒なんじゃないの?」

「出エジプト1:6の“やがてヨセフは死に,兄弟たちとその世代の人々も皆死んだ。”という聖句を重なる世代の根拠としたJWですから、自分たちに都合が良ければどんな聖句でも自分たちの主張の根拠にしてしまうのですよ。」
「JWに言わせれば、パウロとバルナバが史上初の巡回監督なわけだ。パウロがウソはやめろと怒っているよ。」

「14節で“巡回監督が訪問すると,会衆はどのように力づけられますか。”と誘導的な質問をしています。力づけられない会衆だってありますよ。」
「おそらく報告書には、巡回監督の訪問で全ての会衆が力づけられ、奉仕活動が150%増加したとあるんだよ。執筆者は実際の会衆のことなど知らない。」

「14節で、トルコのある兄弟が“今までたくさんの巡回監督が訪問してくれましたが,近づきにくいとか忙し過ぎるという印象を持ったことはありません。”と個人の感想を述べています。“このように,巡回監督たちに親しみや愛情を感じている兄弟姉妹は少なくありません。”とありますが、これは何の根拠にもなりません。」
「巡回監督とその妻の悪口なら良い評判の100倍もあるよ。それを無視しているだけ。」

「15節には“巡回監督を食事に招待したり,巡回訪問中の野外奉仕に参加したりすることも良い方法です。”とあります。食事を平信者に強制的に割り当てる会衆が多いと思いますよ。そうしないと巡回監督を食事に招待する人がいないからです。」
「強制しておいて、あなたの自由意志で決めましたというのがJW。」

「さらに“あなたが優しい言葉を掛けたり,ちょっとしたプレゼントをしたりする時,巡回監督は自分の祈りが聞かれたと感じることがあるかもしれません。”とあります。言葉だけでなく、ちょっとしたプレゼントが必要なようです。」
「現金のことかな?巡回監督は定年があるから、それまでせっせとお金を貯めないと悲惨な老後になる。組織の衰退が進むと、巡回監督という制度が突然廃止されるかもしれないしね。」

「15節の下には“奥さんたちのことも忘れないでください”と言う囲み記事があります。奥さんたちに感謝せよと言っています。女性に対する配慮とは珍しいです。」
「平信者は援助奉仕者、長老、巡回監督とそれらの妻に感謝しなくてはならないわけだ。こんなに感謝ばかりさせられる平信者はつらいね。さっさとやめよう。」

「そこには、ある姉妹の発言が出ていて、“奥さんたちは,自分の夫をエホバに貸しているようなものです。エホバはそうした姉妹たちのことを娘のように大切に見ていると思います。”とあるのですが、これこそ個人の感想です。何の意味もありません。こういうふうに思えという指示なんでしょうね。」
「別の姉妹は、“奥さんたちは、自分の夫を組織に貸しているようなものです。組織はそうした姉妹たちのことを夫の人質として大切に監視していると思います。”と言っているよ。」

「最後の16,17節は“私たちには「人々という贈り物」が必要”です。 16節に組織の本音が出ています。“「人々という贈り物」として奉仕できる兄弟たちが世界中でもっと必要とされています。”とあります。これを第1節に持ってくるべきでした。16節までまじめに読むJWはほとんどいません。」
「でも、17節には“イエスが「人々という贈り物」である兄弟たちを与えてくれたことは,終わりの時代に私たちのことを導いてくれている証拠です。”と力強く言っている。イエスが必要な兄弟を与えてくれるようだから、間違っても援助奉仕者や長老になろうなんて考える必要はないよ。」

#1552 2025年01月03日 14:24:34

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回の2025年最初のものみの塔は、“疑いの気持ちに負けないために(43)”で、JWであることに後悔や疑問を持っても、楽園を夢見て貧乏JWを続けなさい、という内容です。」
「この記事によく出てくる言葉は“穏やかな気持ち”。必要なものはエホバが備えてくれるとは言わず、エホバに頼れば“穏やかな気持ち”になれると言っている。これでは信者は励まされないね。」

「1節に“中年の兄弟の中には若い時に,世の中でキャリアを積むのではなく王国の活動を優先するという生き方を選んだ人がいます。でも家族を養うのに苦労していて,自分の選択は本当に正しかったんだろうかという考えがよぎるかもしれません。”とあります。組織も信者のキビシイ現実を理解しているようですが、具体的な援助については何も言っていません。」
「英文ではWith the family budget now stretched to the limitで、家計が限界に達している、という意味。”苦労していて”はJWの窮状をかなりごまかした言い方。物価上昇と景気後退に苦しむ国が増えて、生活が破綻しつつあるJWは増えているよ。」

「1節では、あなたも“これまでエホバのために頑張ってきたことに意味があるんだろうか”と考えたことがあるかもしれません、と言っています。英文ではHave the sacrifices that I have made for Jehovah been worth it?で、エホバのために払ってきた犠牲は価値があっただろうか?ですよ。犠牲という言葉を避けていますね。」
「進学をあきらめ、安定した給料の良い仕事をあきらめ、結婚をあきらめ、子どもを持つことをあきらめ、自分のしたいことをあきらめてきたのがJW人生。払った犠牲に見合ったものは得られていないよ。そう思わせないために楽園幻想を振りまくわけだ。」

「3から6節が“疑いの気持ちを取り除くためにできること”です。 3節では“疑いの気持ちを取り除く1つの方法は,聖書から答えを見つけることです。”と言っています。答えは聖書にあるようです。」
「4節で“テサロニケ第一 5:21を読む。聖書には「全てのことを確かめ」るようにと書かれています。”とあるけれど、5節では“そして,エホバが用意してくださっているいろいろな調査ツールを使って詳しく調べることができます。”とあるわけで、結局組織に誘導されて、組織に都合の良い結論にたどり着くだけだね。」

「“エホバが用意してくださっている”はおかしいですよ。エホバは何もしません。」
「英文ではthe extensive study tools that Jehovah’s organization provides.で、エホバの組織が用意したツールと言っている。それをエホバが用意したというのは誤訳だけど、翻訳者にとってエホバの組織=エホバなんだろう。」

「引照聖句には“全てのことを確かめてください。立派なことを行い続けてください。”とありますが、文字通りすべてのことを確かめろという意味ではありませんよ。JWは文脈を無視して聖書を引用することをやめられないようです。」
「テサロニケ一5:19,20に“聖なる力の働きを妨げてはなりません。預言を軽く扱ってはなりません。”とありその後に“全てのことを確かめてください。”と来る。霊的な賜物に対して確かめなさいと言っている。霊感を受けていないJWには関係ない聖句。」

「引照聖句の後半の“立派なことを行い続けてください。”は誤訳ですよ。笑ってしまいます。」
「英語のJW訳では“hold fast to what is fine.”で、良いものを堅持しなさい、という意味。全てのことを確かめた後、良いものは大事にしましょうと言っている。日本語翻訳者は文のつながりがわかっていない。協会共同訳では“すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい。”となっている。」

「6節では“エホバが語り掛けてくれている言葉を集会で聞くこともできます。集会に毎回出席するなら,話やコメントを通して,疑問に思っていたことの答えを見つけられるかもしれません。”とあり、集会に毎回出席することを求めています。」
「これも英文とは違うね。We also “hear” Jehovah speaking to us at our meetings.だから、集会でエホバが語り掛けるのを”聞きます。”だよ。集会で語られることは神の声なんだね。カルトそのもので驚いたね。翻訳者は英語力はないけれど、多少常識があるので、”聞くこともできます”に変えたね。」

「7から9節が“エホバは本当に気に掛けてくれているんだろうか”です。 7節に“エホバは自分のことを本当に気に留めてくれているのだろうかと思ったことがありますか。”とあり、この問題を扱います。8節に“サムエル第一 16:6,7,10-12を読む。”とあり、そこはエッサイの8人の息子の中から末っ子のダビデが選ばれたという場面です。選ばれた理由として“ダビデの心の中を見ていて,エホバを本当に愛する人であることを知っていたからです。”と言っています。」
「サムエル一16:12には“その子は血色が良く,美しい目をしていて,姿がりりしかった。”とあるので、ダビデは見た目もよかった。一方後に様々な問題を起こすわけで、神が本当に心の中を見て選んだのか、疑問だね。」

「エホバは心の中を見るかもしれませんが、組織は外見を見て判断します。」
「建設奉仕に申し込む際に全身写真を送れ、と要求する支部があるそうだ。これって見た目で判断するということだよ。組織が特に嫌うのは太りすぎの人らしい。JWで太っていいのは統治体だけ。」

「9節では“エホバがぴったりのアドバイスをくれた,と感じたことがきっとあるでしょう。”とあり、“はい”と言う答えを誘導しています。」
「そんな経験は一度もなくても、ありませんとは言ってはダメということね。それでJW全員がピッタリのアドバイスをもらった経験があることになってしまう。」

「9節では“エホバのアドバイスに従って行動し,良い結果になるのを経験すると,エホバが本当に気に掛けてくれているということを確信できるようになります。”とあります。JWの多くはエホバのアドバイスなるものに従った結果、貧困、離婚、親子の断絶、様々な病気や怪我等々という問題を抱えているわけです。その人たちは良い結果を経験していないので、確信できないわけです。」
「1節にあるように犠牲は大きく、得たものは少ないのがJW人生なので、確信など持ちようがない。当然やめる人が増える。」

「10から13節が“以前の決定は正しかったんだろうか”です。 この記事の中心部分ですね。10節に“あの時チャンスをつかんでいたら,もっと余裕のある暮らしができたんじゃないか」と考えるようになるかもしれません。”とあります。経済問題がJWの信仰を揺るがす問題のようです。多くの国では物価も上昇して生活が苦しくなって、奉仕や集会どころじゃない信者が増えているのでしょうね。」
「特に組織の言いなりになって、たいして働かず、困ればエホバが助けてくれると信じてきたJWにはお金の問題で行き詰まる人が多いのだろう。当然、以前の決定は正しくなかったと言いうことだね。」

「11節は、詩編73の話になります。“一見成功しているような人たちを見て,エホバに一生懸命仕える生き方をむなしく感じました。ネガティブな思考になって「一日中思い悩」みました。(詩 73:13,14)”とあります。“思い悩む”という訳はおかしいのでは?」
「協会共同訳では“日ごと、私は打たれ/朝ごとに懲らしめを受けた。”だね。元のヘブライ語に思い悩むという意味はないよ。」

「12節で“詩編 73:16-18を読む。詩編作者はエホバの聖なる所に行き,その穏やかな場所で物事を冷静に考えることができました。”とあります。そこには“あなたは確実に悪人を滑りやすい土地に置く。滅びに陥れる。”とあります。悪人は滅びると思って慰めを得たということですね。嫌な奴です。」
「なぜ詩編73:19まで読むことにしないのかな?“悪人は急に破滅する。突然に終わりを迎える。恐ろしい結末を。”とあるよ。でも現実は違うことがすぐわかるね。」

「伝道の書7:15に“私はむなしい生涯の間に全てを見た。正しい人が,正しいことを行っていても死んでいき,悪人が,悪いことを行うにもかかわらず長生きする。”とあります。必ずしも善人が報いられ、悪人が罰せられるわけではないことを認めています。」
「伝道の書では、詩編や格言にあるような善行には良い結果、悪行には悪い結果という通俗道徳を否定している。旧約の中でも相当後期の作品だね。JWの思想は伝道の書より昔の思想だね。」

「12節では“エホバに仕えることを優先する生き方が一番良いということを理解し,穏やかな気持ちになりました。”と詩編73を説明しています。穏やかな気持ちの元の英語はpeace of mindで、心の平和です。」
「詩編73は悪人が栄え、善人が苦しむのはなぜか、と問うわけだけど、答えは出ず、ただ悪人は滅びると考えて慰めを得、自分は神と共にいると考えて心の平和を得るという内容。穏やかな気持ちではなく心の平和として欲しかったね。」

「13節は現在のJWに向けてのメッセージです。“神に仕えていない人たちは,そうした宝を持っていません。あるのは,この世の中で得られるものだけです。将来の希望がないので,今の生活で成功するしかありません。一方,エホバは私たちの想像をはるかに超える素晴らしい将来を約束してくれています。”とあります。JWはこの世ではみじめな一生だけれど、想像上の未来では素晴らしい人生を約束されているから、穏やかな気持ちになれるというわけですね。」
「それを説明したのが13節の下にある窓ふきの老人が楽園の生活を想像しているという写真だね。この写真は多くのJWを暗い気持ちにさせると思うよ。生活の困難さに対して組織が示す解決策は、楽園を思え、しかないわけだからね。空想への逃避。」

「アメリカではJWの代表的な職業は窓ふきのようです。以前もJWがレストランの窓ふきしながら、窓越しに贅沢な食事をしている人をうらやましそうに見るという写真がありました。」
「この窓ふきの老人の楽園の想像図というのが、夫婦で手押し車いっぱいの果物を運んでいるというものなの。本当にそういう生活を望んでいるなら、今でも田舎で農業を始めれば実現するよ。」

「ヘンなのは服装です。妻はブラウスに長めのスカートです。農業をするのにこの服装ですか?楽園では誰がこの服を作っているのですか?」
「JWの楽園ではそういう服装に関する規則があるんだよ。それを破ると石打の刑。」

「14から17節が“自分はエホバの役に立てているんだろうか”です。 エホバではなく、組織に役立っているだろうかという疑問ですね。エホバは誰の助けも必要としません。」
「組織にとって役立たずの人は、霊性が低いとかいちゃもん付けられて、会衆から見捨てられるから、それは切実な問題だね。」

「14節では“エホバに仕えている人たちの中には,高齢だったり,体調が優れなかったり,体が不自由だったりして,思うようにエホバに奉仕できないと感じている兄弟姉妹がいます。”とあります。間もなく組織から使い捨てにされる人たちです。」
「本当は今ごろ楽園で元気に暮らしているはずだった人だよね。カルトに騙された人生だったけれど、人生をやり直すには遅すぎるということはないよ。」

「15節に“エホバは,できることが限られているとしても,ベストを尽くしてご自分に仕える姿を見て喜ぶ,ということを詩編作者は知っていました。(詩 37:23-25)”とありますが、引照聖句にはそんなことは書かれていません。ベストを尽くすことが大事というのは聖書の思想ではありません。アメリカ人の思想です。」
「引照聖句には“正しい人が見捨てられるのを見たことも,その子供たちがパンを探すのを見たこともない。”とあるよ。その聖句が正しいのなら、正しいJWは老後のことや子どものことを心配する必要は全くありません、となぜ書かないのかな?」

「16節では“体が思うように動かなかったとしても,忠実に仕えることができるようエホバは助けてくれます。(詩編 92:12-15を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「詩編92:12に“正しい人は”とある。正しい人が主語で、“年を取っても衰えない。元気ではつらつとし”とある。正しい人は“体が思うように動かなかった”ということはない、と言っている。聖句の誤用だね。」

「英文ではHe can help you to thrive spiritually even though you may be struggling physically.ですから、肉体的に苦労しているとしても、霊的に成長できるよう助けてくれます、と言っているわけで、日本語訳とだいぶ違います。」
「spirituallyとphysicallyを比べて、後者が衰えても、前者は成長し続けると言いたいようだけど、翻訳者は霊が嫌いだからね。」

「17節では他の人と比べるな、と言っています。“マリアはとても高価な香油をイエスの足に注ぎました。(ヨハ 12:3-5)一方で,貧乏なやもめはごく小額の小さな硬貨2枚を神殿に寄付しました。(ルカ 21:1-4)イエスは信仰を表したどちらの女性のことも褒めました。”とあります。これはへんですね。イエスはマリアをほめていません。“マリアをそのままにしておきなさい。”とイエスは言っていますが、マリアは偉いとか見倣えとは言っていません。貧乏なやもめに対しても同じです。」
「貧乏なやもめに対してイエスは何も言わず、弟子たちに“はっきり言いますが,この貧しいやもめは,彼ら全てよりたくさん入れました。”というだけ。ほめたりしていないよ。ほめたとするとイエスはJWのように貧乏人からも金を巻き上げる悪徳宗教家に過ぎないことになる。」

「最後の18節で“疑いの気持ちを取り除くように努力していきましょう。”と言っていますが、まともな知性がある人ならそれは無理ですね。」
「JWが正しければ、今頃楽園で暮らしているはずで、生活の苦労なんか味わうこともなかったはず。年老いたJWの多くは、今JWをやめると、今までの人生を全否定することになるから、騙された!と苦い思いを抱えながら、JWを続けているだけでしょう。」

#1553 2025年01月10日 14:22:42

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“不当な扱いを受けた時に心に留めておきたいこと(44)”で、不当な扱いを受けた時の対処法を学ぶ、という内容です。」
「JWは組織からも、仲間からも不当な扱いを受けることが多いからね。対処法といっても、我慢して、耐えて、祈るくらいでしょう。読まなくてもわかるよ。」

「2節に“今の世の中では偏見や不平等や抑圧がよく見られるので,不当な扱いを受けても私たちは驚きません。(伝 5:8)”とあります。“偏見や不平等や抑圧がよく見られる”のはJWの方ですよ。女性差別、性的少数者差別、奇妙な階級制度、信者を抑圧する様々な禁止事項の多さはJWの特徴です。」
「この引照聖句は場違いだね。そこには“もし,貧しい人が虐げられ,辺りで公正や正義が侵されているのを見ても,そのことで当惑してはならない。高官は,さらに位の高い者の監視下にあり,その位の高い者の上にはさらに位の高い者がいるからだ。”とあるけれど、これは政府の役人の腐敗をいっているもの。官僚制度がいかに腐敗しやすいかを言っているわけで、世の中全般のことを言っているわけではない。」

「2節では“兄弟姉妹から不当なことをされると深く傷つくかもしれません。もちろん,反対者たちとは違い,兄弟姉妹はわざとひどいことをしようとは思っていません。でも,完璧ではないので失敗してしまうことがあります。”とあります。わざとではないがひどいことをしてしまう兄弟姉妹の方が問題ですよ。自然にふるまうと他人を傷つけるということじゃないですか?」
「いつも正しいことをしていると確信している独善的なバカはJWに多いのだろうね。でも“完璧ではない”から仕方がないということのようだね。その理屈が正しいなら全ての人は完璧じゃないから、殺人も性犯罪も仕方がないのだろうね。」

「4節に“私たちは正しいことが行き渡る時代が来るまで待つ必要があります。でもそれまでの間,エホバは私たちが不公正なことを経験するとしても上手に対処できるよう助けてくれています。”とありますから、楽園が来るまで仕方がないというのがJWの基本的な態度のようです。」
「問題に直面した時のJWの正しい態度は、エホバを待つ、でしょう。なにもしないで耐えるだけ。でも統治体は裁判闘争を繰り返し、エホバを待つことはないけれどね。」

「5から8節が“不当な扱いにどう反応するかに注意する”です。 エホバを待つのが正しいJWの態度ですから、自分で何とかするのはいけないみたいです。6節に“私たちは不当な扱いを受けた時,自分の力でなんとかしようとして,間違ったことをしてしまうことがあります。”と警告しています。」
「裁判に訴えていいのは統治体だけで、それ以外の信者は泣き寝入りするべきということのようだね。」

「6節にはアブサロムの話が出てきます。“アブサロムは妹のタマルが異母兄弟のアムノンにレイプされた時,激怒しました。”とあります。そして、“だが,自分の力でなんとかしようとするべきではありませんでした。アブサロムにはそうする権限はありませんでした。”と言います。ではどうすればよかったのかは、この記事では何も言いません。」
「サムエル二13:21に“ダビデ王は一部始終を聞き,非常に怒ったが,アムノンを責めるようなことはしなかった。長男であるアムノンを愛していたからである。”とある。ダビデのダメっぷりがここでも炸裂だ。こんな男をなぜ王にしたのか理解できない。エホバって最低だね。」

「最高権力者の王が何の処罰もしないのなら、アブサロムは泣き寝入りするしかないというのがJWの見解でしょうか。」
「これはJWに多い性犯罪の犠牲者に向けられた文章でしょう。被害に遭っても、自分の力で何とかしないでください、逮捕・処罰する権限のある警察に直ちに通報してください、と読めるよ。」

「ダビデが何もしなかったせいで、アブサロムはアムノンを殺します。アブサロムは後にダビデに反逆し、戦死します。エホバを待っているとろくなことにはなりませんね。」
「長老なんかはダビデ以上に無能だろうから、会衆内でなにかあったら逮捕・処罰する権限のある警察に通報しよう。」

「7節では“不公正なことをしている人が罰を受けていないように見えると,正しいことを行うことに意味があるのだろうか,と感じるかもしれません。”と、悪事を犯しても罰を受けない人がいることを認めています。表面的には善人ぶることが上手なJWですから、JWにはそういう人は多いでしょう。」
「性犯罪者の長老が何の処罰も受けず、長老として偉そうに振舞っているのを見ると、被害者は絶望するよね。そういう悪人は間もなく滅ぼされると信じて我慢するのがJWなのだろう。」

「7節では詩編73が出てきますが、詩編73の作者は“悪人は急に破滅する。突然に終わりを迎える。恐ろしい結末を。”と言っています。JWもそれを信じて、我慢するわけですね。」
「詩編73は悪が栄えるのを見て、信仰の試練を受けている人の詩だけれど、そう思う以外の解決策は思いつかなかったようだね。」

「8節はアルベルト兄弟の体験談です。“アルベルト兄弟は,会衆の基金からお金を盗んだと誤解され,非難されました。その結果,長老ではなくなり,会衆の多くの人からも誤解され,敬意を失いました。”とあります。JWによくある冤罪事件ですね。」
「アルベルト兄弟は“怒りが込み上げ,がっかりしました。”と言っている。当然の反応だ。このときJWを去るべきだったね。ところがなぜかそうしなかったようだ。」

「この話の結論は“兄弟の例から,ひどい扱いを受けた時に怒りの気持ちを放っておくなら,どんな危険があるかがよく分かります。”という奇妙なものです。ひどい扱いをした人に対する非難は一切なく、被害者を責めています。」
「性犯罪でも、犯人より被害者を責めるのがJWだからね。その点は一貫している。」

「9から13節が“イエスの手本に倣う”です。 9節に“イエスはこのように本当にひどい扱いを受けましたが,仕返しをしたりせず,忍耐しました。”とあります。要するに、耐えろということですね。」
「無力な立場であれば、それ以外の選択肢はないからね。でも今のJWは耐える以外の選択肢はあるよ。」

「10節では“ペテロ第一 2:21-23を読む。イエスが残してくれた完璧な手本は,私たちが不公正に対処する上で役立ちます。”とあります。引照聖句に“キリストは罪を犯さず,欺きを語ったこともありませんでした。”とあるのですが、この訳はヘンですよ。」
「JWの英語訳ではHe committed no sin nor was deception found in his mouth. で主語はキリストではない。これはイザヤ53:9の“何も間違ったことをしておらず,欺きを語ったこともないのに”の引用だから。でも翻訳者はそのことを知らないので、Heをキリストと訳してしまったのだろう。」

「11節では“ちょっとしたことであれば見過ごしましょう。”とあります。また“でも,ひどい扱いを受けている人を守ったり,私たちの信条や真理について正しく伝えたりするために,話す必要がある場合もあります。”とも言っています。」
「でもマスコミには“私たちの信条や真理について正しく伝えたりする”ことをしていないよ。女性JWがグアテマラで殺された時、日本支部は本人が勝手に行ったと語ったよ。体罰について質問された時は、体罰を推奨したことはないと言ったよ。非難されたらウソを言って、その場をごまかしましょう、となぜ言わないのかな?」

「11節の下には逮捕され、裁判を受け、刑務所にいるという3枚の写真がありますが、国家的な迫害を想定しているようでおかしいです。」
「JWゆえに刑務所送りになるような国にいるJWはJWの1%にもならないでしょう。不必要に恐怖心と危機意識をあおっている。無知無学な信者はこの写真を真に受けて、脅えながら暮らすのだろうね。」

「12節が結論です。“イエスのように,「正しく裁く方に自分を委ね」ましょう。”とあります。JWらしくていいですね。簡単に言えば何もせず、エホバを待つと言って済ますわけです。」
「“全てをエホバにお任せするなら,怒りや憤りの気持ちを募らせずに済みます。”とあるけど、統治体はあちこちで裁判を起こしているから、怒りや憤りの気持ちを募らせて毎日を過ごしているということかな?」

「14,15節は“神の憤りに任せましょう”です。 14節に“ローマ 12:19を読む。”とあります。その聖句は“愛する皆さん,復讐してはなりません。神の憤りに任せましょう。「『復讐は私がすることであり,私が報復する』とエホバは言う」と書いてあるからです。”というものです。」
「15節がその解説だけど、“「私が報復する」というエホバの約束を信じているなら,エホバが一番良い方法で問題を扱ってくれるという確信を持ってエホバに任せることができます。”とある。エホバを待つという一見無気力な態度の背後には、エホバの報復を信じるという復讐感情があるとは知らなかった。JWは恐ろしいね。」

「エホバは復讐してくれるかもしれませんが、被害者は被害の回復、補償、謝罪を求めているわけです。それについてはエホバには何もしてくれないということですね。あまり役に立ちませんね。」
「復讐してくれると言っても、いつとは書いていないからね。もしそれが自分の死後だとすれば、何もしてくれないのと同じだ。」

「16から19節が“善によって悪を征服し続けましょう”です。 これはローマ12:21からの引用です。その後、“山上 の垂訓の中でイエスも,「敵を愛し続け,迫害する人のために祈り続けなさい」と言っていました。(マタ 5:44)”とあります。“迫害する人のために祈り続けなさい”は太字になっていて、この部分を強調したいようです。敵を愛するのは難しいですが、祈るくらいならできますからね。」
「敵を愛し、迫害する人のために祈れ、という部分の結論は、マタイ5:48で“ですから,あなたたちは,天の父が完全であるように完全でなければなりません。”というもの。マタイの解釈によれば、敵を愛し迫害する人のために祈れ、というのは、それができたら完全だ、つまり倫理的に完成するという究極の目標ということ。」

「不完全な人間にそれを要求するのは無理がありますね。」
「でもJWはできるのだろう。」

「17節にイエスは“ローマの兵士たちに罰が与えられることを願うのではなく,こう祈りました。「父よ,彼らをお許しください。自分たちが何をしているのか知らないのです」。(ルカ 23:34)”とあるのですが、この祈りの部分は初期の重要な写本にはなく、後から書き加えられたという疑いの強い部分ですよね。」
「例えば協会共同訳では、この部分は〔  〕でくくられている。この意味は、“新約聖書においては、後代の加筆と見られているが年代的に古く重要な個所を示します。”と説明されている。つまりこの祈りは後代の加筆と見ている。」

「JWではローマ兵のためにイエスは祈ったと解釈しているようですが、ローマ兵に責任はないですよ。」
「ルカ23章では、ピラトは“この男がどんな悪事をしたというのか。死に値することは何も見つからなかった。それで,彼を懲らしめてから釈放する。”という。しかし、“それでも群衆は引き下がらず,イエスを処刑するよう大声で要求した。”とある。イエスの処刑に責任があるのはローマ人ではなく、ユダヤ人というのがルカの立場。この祈りは文脈に合わないね。」

「18節は体験談で“祈ることが助けになりました。”というものです。そうやって被害者は許すことを強要されるわけです。」
「何を祈ったかというと、“怒りの気持ちを捨てられるよう助けてください”というもの。加害者を早く罰してください、とは祈れないようだね。祈りは許し専門のようだ。」

「最後の19節でも” でもどんなときも,祈ってエホバに頼ることをやめないでください。”と言っています。それ以外に不当な扱いに対する対処法はないようで、悲しいです。」
「そんなわけで、JWに相談しても、祈ってください、以外の助言は期待できないということ。全く役立たずだね。」

#1554 2025年01月17日 14:24:28

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“神に仕えた人たちが残した言葉から学ぶ(45)”で、組織に服従していれば成功し、永遠の命がもらえるという、誰もまじめに受け取らない内容です。」
「エホバに従うといっているけれど、実質的には組織に従うということだからね。永遠の命とは関係ないね。」

「2節に、モーセ、ダビデ、使徒ヨハネの“3人が残した言葉について調べ,そこからどんなことを学べるかを考えます。”とあります。どんな言葉を残したのか楽しみです。」
「この記事はかなり幼稚な内容で小学3年生程度のレベル。面白そうなものと言えば、体験談かな。」

「3から8節が“長く生きていける”です。 モーセの話です。3節に“ヨブ記もモーセが書いたと思われます。”とありますが、違うでしょう。」
「“洞察”には“ユダヤ人の学者たち,および初期クリスチャンの学者たちによると,筆者はモーセ。”とある。大昔の学者の意見を取り入れただけ。学問は進歩するということを知らないようだ。現在でヨブ記の著者はモーセだという学者はいない。」

「モーセは実在したかどうかも不明の人です。」
「実在したとしても、聖書の著者ではない。旧約聖書は主にヘブライ語で書かれているけれど、ヘブライ語はカナン地方の方言のようなもので、カナン定着後の時代に書かれたもの。」

「5節が“モーセは何と言ったか。(申命記 30:19,20を読む。)”です。その中では“あなたは生きるために,命を選ばなければなりません。あなたもあなたの子孫もです。すなわち,あなたの神エホバを愛し,神の言うことを聞き,神にしっかり付くのです。”とあります。神から神を愛するよう命令されるという奇妙な状況ですね。」
「奇妙じゃないよ。ここで言う“愛する”とは、服従するということだから。」

「申命記が書かれたのは相当後の時代で、もちろんモーセが作者ではありませんよ。」
「申命記のヘブライ語は前7から6世紀のもので、その時代に書かれたのだろう。古代イスラエルでは、律法は神がモーセに与えたものという建前があったから、新しい律法もモーセが書いたことにする必要があったわけだ。」

「申命記は全体がモーセの遺言として編纂されていますね。」
「申命記はモーセが死ぬその日に起きた出来事が書かれているというありえない設定だけど、それによって、モーセの別れの言葉としての重みを申命記にもたせているわけだ。」

「5節には“イスラエル人はエホバから素晴らしい見込みを与えられていました。エホバが約束していた土地で長く生きることができるのです。しかも,そこは美しくて肥沃な土地でした。”とありますが、そんなに素晴らしい見込みでしたか?その土地は既に人が住んでいて、その人々を殺戮し、土地を暴力的に奪わなくてはならないというものですよ。単なる侵略行為です。」
「神様なら、海の中に新しい島をつくり、そこにイスラエル人を住まわせることぐらいできるはず。そうしないのは人間を殺すのが大好きだからじゃないの。イスラエル人がカナンの住民を殺すのをゲーム感覚で楽しんでいたのかも。」

「過去のキリスト教国はこの旧約聖書の話を持ち出して、自分たちの侵略行為を正当化してきました。イスラエル人の侵略行為を褒めたたえるJWの倫理観は狂っています。」
「アメリカ人は先住民を殺しまくったけれど、それをイスラエル人のカナン征服になぞらえて正当化してきた。JWもアメリカの歴史を美化する右翼的な歴史観の持ち主ということ。」

「6節に“でも,イスラエル人はエホバに従いませんでした。それで,アッシリア人やバビロニア人に征服され,捕囚にされました。”と、歴史を単純化していますが、因果関係は反対ですよ。」
「イスラエルの宗教指導者は自分たちの悲惨な運命の原因を自分なりに考えた。その結論は、自分たちは神の言うことを聞かなかったから神に罰せられたのだというもの。そういう歴史観を申命記史観という。それは申命記から列王記まで貫く歴史観となっている。国家の盛衰に対する政治的経済的軍事的分析は古代の宗教指導者にはできないからね。」

「7節が結論です。“どんなことを学べますか。従うことは命につながるということです。”とあります。服従こそ最大の美徳というわけです。そして“エホバに従うなら,パラダイスとなった地球で,たった数百年ではなく永遠に生きることができるのです。(詩 37:29。ヨハ 3:16)”と楽園幻想の大安売りです。」
「楽園幻想の根拠としている聖句はJWの言うような楽園の約束じゃないよ。詩編37:29には“正しい人は地上に住み続け,そこで永遠に暮らす。”とあるだけで、JWのバプテスマを受けて、JWの雑多な規則に従い、伝道・集会・建設工事・寄付などなどを死ぬまで行ったら、楽園に行けるとは全く言っていない。」

「訳もヘンです。“地上に住み続け”ではなく“土地を受け継ぎ”ですよ。土地を受け継ぎ、所有すると言っているだけです。JWは天に行く人を想定しているから、その対比で“地上に住み続け”という珍訳になるわけですよ。」
「JWの英語訳では“The righteous will possess the earth”で、土地を所有するという意味。“地上に住み続け”と言う意味ではない。またthe earthは不適切で、the landとするのが普通。JWの教義に合うように改変している。」

「“永遠”も問題です。無限の時間という概念は古代イスラエルにありません。非常に長い時間をさすだけです。」
「“永遠に暮らす。”ではなく、ずっと暮らす、程度の意味。おとぎ話の最後の決まり文句に、二人はいつまでも幸せに暮らしました、というのがあるけれど、そんなニュアンス。JW訳にだまされるな、ということ。」

「もう一つの根拠としている聖句はヨハネ3:16ですが、“独り子に信仰を抱く人が皆,滅ぼされないで永遠の命を受けられるようにしました。”とあるだけで、地上の楽園なんか出てきません。」
「結局、JWの楽園を根拠づける聖句はないね。」

「9から14節が“あなたは成功する”です。 ダビデの話です。11節に“ダビデは何と言ったか。(列王第一 2:2,3を読む。)ダビデはソロモンに,エホバに従うなら成功すると言いました。”とあります。12節が結論で、“従うことは成功につながるということです。”とありまして、服従こそ最高の美徳というものです。」
「ダビデの言葉はソロモンに向けられたもので、現代のJWとは何の関係もないけれど、JWという宗教では、とにかく従っていれば、永遠の命と成功が手に入ると主張しているということはわかった。」

「13節が体験談です。反高等教育のプロパガンダです。まず“モザンビークに住むカルメン姉妹は,高い教育を受けることが成功の鍵だと考えていました。それで,建築を学ぶために大学へ行きました。”とあります。“朝の7時半から夕方の6時まで学校にいました。”と言っていますが、そんな大学がありますか?」
「10時間半も大学にいるの?通学時間を含めると12時間以上になるでしょう。そんな大学あるかな?」

「それで、“長老たちや母親から良いアドバイスをもらい,エホバに全時間仕えるために大学をやめることにしました。人生の中でも本当に良い決定ができたと思います。後悔はまったくありません。”というものです。こんな過酷な大学では誰も卒業できませんよ。」
「組織は信者が大学に行くのを嫌っているようだけど、低学歴の統治体が大卒の人間から内心バカにされていると被害妄想に陥っているせいかな?」

「40年後はどうなるかというと、大学時代の友人たちは建築家として活躍し、家族にもお金にも恵まれ、老後についても何の心配もなく暮らしているのに対し、カルメンは開拓者として結婚もせず、子ども持つこともなく、低賃金のパート労働を長時間し続けたおかげで体はボロボロですが、病院に行くお金もなく、これからどうやって生活していこうかと不安におびえて暮らしています、ということになりますよ。」
「今の高齢JWがそうでしょう。JWの生き方は、間もなく終わりがくることを前提とした極めて短期的な見通しのもとに成り立っている。ところが、終わりは来ないわけで、40年後のことを考えると悲惨な結果しか待っていない。」

「15から19節が“[これ]ほど,うれしいことはありません”です。 使徒ヨハネの話です。17節に“ヨハネは何と書いたか。(ヨハネ第三 4を読む。)ヨハネはエホバに従うことから味わえる喜びについて書きました。”とあります。ヨハネ三4は“私の子供たちが真理に従って歩み続けているのを聞くことほど,うれしいことはありません。”というものです。」
「ヨハネ三は“年長の者から,愛するガイオへ。”で始まる。使徒ヨハネとは名のっていない。作者が使徒ヨハネという根拠はないよ。」

「18節が結論で“どんなことを学べますか。忠実でいることは喜びにつながるということです。(ヨハ一 5:3)”というものです。」
「今度は忠実ね。ヨハネ三の作者はガイオが自分に忠実だから喜んでいるだけで、そのことから忠実であれば喜びにつながるという結論はでてこない。」

「19節が体験談です。“ドミニカ共和国に住むレイチェル姉妹は,エホバという魅力的な神について他の人に教えられるのは本当に素晴らしいことだと感じています。”とあります。そして“この喜びは言葉では言い表せません。どんな努力や犠牲も払う価値があります。”と言っています。こんなウソくさい話をわざわざ持ち出してくるということは、レイチェルみたいな人がほとんどいないからですよ。」
「エホバが輸血を禁じていることを教えるのも喜びなのかな? 輸血をしたら長生きできる人を死なせる教えだよ。それでも“この喜びは言葉では言い表せません。”なの?危険な宗教だ。」

「最後の20、21節が“神に仕えた人たちの最後の言葉から学ぶ”です。 まとめです。この記事も、いつものように組織が言いたいことに使える聖句を選んで並べて、ウソくさい体験談を加えて、もっともらしい話をつくったというものでしたね。」
「最後の21節は景気がいいよ。“そうするなら,私たちの行うことは全て成功します。そして,命を得て「長く生きていけ[ます]」。しかも永遠にです。(申 30:20)また,愛する天のお父さんエホバに喜んでもらうことができ,喜びを味わえます。”というもの。組織に従っていると、成功、永遠の命、喜びが得られるのだそうだ。景気のいい話だね。」

「子どもでもおとぎ話と思いますよ。」
「だからエンディングは、JWはいつまでも、いつまでも幸せにくらしました、となる。」

#1555 2025年01月24日 14:34:28

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“援助奉仕者として奉仕することを目標にできますか(46)”で、組織は人手不足なので、若い男性JWは援助奉仕者を目指しなさい、という内容です。」
「女性はどんなに有能でも援助奉仕者にはなれないのがJWだよね。女性は出席する必要はないね。」

「現在、援助奉仕者は高校生くらいの年齢の人がなるものとなっています。特に組織に反抗的でなければ、男なら誰でもなれる雑用係です。そうはっきり書けばいいのに、何やらたいそうな立場の人のようにこの記事では書いているのが笑えます。」
「長老マニュアルの33ページには“長老たちは,17歳から19歳の兄弟たちが意欲的に努力し,援助奉仕者の資格を身に付けるよう,援助してください。”とあるから、17歳が適齢期のようだ。長老がしたくない雑用をさせるにはいい年齢ということだね。」

「人手不足が続くと、そのうち、中学生の援助奉仕者が誕生しますか?。」
「そうなっても女性の活用は拒否するのだろう。女性差別的な組織に未来はないよ。」

「4、5節は“援助奉仕者にはどんな役割があるか”です。 4節に“援助奉仕者は聖なる力によって選ばれた兄弟で,会衆の長老 を助けるために大切な仕事をたくさんしています。”とあります。“聖なる力”が選ぶなんておかしいですよ。英文では聖霊です。」
「普通のキリスト教では聖霊は単なる聖なる力ではない。だから聖霊が選ぶという言い方が成立するけれど、日本のJWでは聖なる力にすぎないわけで、電力や磁力のようなものと想定している。その聖なる力が選ぶという高度な意思決定を行うことはできない。」

「だから英文ではHoly spiritとしているわけですが、その辺のことが理解できない翻訳者はなんでも“聖なる力”としてしまうわけです。」
「エフェソス4:30に“また,神の聖なる力を悲しませてはなりません。”とあるけれど、ここでは聖霊は悲しむことがあると想定されている。聖なる力と訳するのが不適切なのは子どもでもわかる。JW英語訳でもholy spirit、聖霊だ。聖なる力なんてバカな訳はやめよう。」

「JWの日本語訳で、聖霊を聖なる力としたため、他のまともな訳とかなり違ったものになっています。カルトらしい聖書です。」
「例えばテサロニケ一1:5は、協会共同訳では“私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからです。”だけど、JW日本語訳は“皆さんに良い知らせを伝えた時,私たちはただ単に言葉を述べたのではなく,聖なる力の助けにより語りました。”となっている。JW日本語訳は“力と聖霊”が“聖なる力”になっている。」

「JW英語訳でもwith power and with holy spiritです。でも聖霊を聖なる力と訳しているので、このまま訳すると、“力と聖なる力”になるので、これはおかしいということで、単に“聖なる力”にしたわけですね。ひどい訳です。」
「聖書は神の言葉なんて本気で思っていないことがよくわかる。自分たちの都合で勝手に省略している。聖なる力と訳しているのがそもそも根本的な間違い。」

「6から8節が“なりたいと思うのはどうしてか”です。 6節に正解がありまして、“エホバは,あなたが愛の気持ちから行動するなら喜んでくれます。”とあります。愛が正しい答えです。」
「もし援助奉仕者になろうと思ったのはなぜですか、と尋ねられたら、エホバや会衆の兄弟姉妹に対する愛の気持ちからです、と答えなさいということね。」

「7節に“誇りや野心の気持ちから努力を払うとしても,エホバがそれを喜ぶことはありません。”とありまして、援助奉仕者になろうと思ったのが、早く長老になって気に入らない人間を排斥したいからとか、援助奉仕者でないと結婚もできないから、というのはダメということです。」
「JWでは本音は隠していい子のふりをしていると、早く援助奉仕者になれるということだね。」

「9から13節が“どうすれば意欲を高められるか”です。 9節に“エホバを愛し,仲間に仕えたいとは思っているものの,援助奉仕者が行う仕事をしたいとまではなかなか思えないかもしれません。”とあります。援助奉仕者の仕事が魅力がなく、なり手がいないという現実がわかりますね。」
「なり手がいないから、こういう記事が書かれるわけだよ。この記事を読んで援助奉仕者の成り手が増えればいいね。」

「9節では“兄弟姉妹のために奉仕することからどんな喜びを味わえるかを考えてみましょう。イエスは「受けるより与える方が幸福である」と言いました。(使徒 20:35)”とあります。援助奉仕者になって、会衆に仕えると、今より幸福になるそうです。」
「誰もそんなこと信じないね。それから“受けるより与える方が幸福である”とイエスが言ったことになっているけれど、そのセリフは福音書の中には出てこない。」

「10節では“マルコ 6:31-34を読む。”とありまして、“イエスは愛に動かされて「多くのことを教え始め」,「午後の遅い時間」までそうしました。(マル 6:35)イエスがそうしたのは義務感からではありません。人々を愛していて「かわいそうに思った」ので,ぜひ教えてあげたいと思ったのです。”とあります。疲れても教えろという教訓です。」
「マルコではイエスは民衆の友として描かれるけれど、ルカでは違うよ。人々がイエスの話を聞こうと集まってきた時、イエスはどうしたかというと、ルカ5:3、4には“イエスはそのうちの1そう,シモンの舟に乗り,陸から少し離すよう求めた。それから腰を下ろし,舟から群衆に教え始めた。話し終えると,シモンに言った。「沖に乗り出し,網を下ろして漁をしなさい」。”とある。」

「冷淡なイエスですね。人々と距離をとるように船に乗り、陸から離す。話が終わったら沖へ遠ざかって、魚とり。教えることに熱心とは言えません。」
「ルカでは、イエスは民衆に親近感を示すことは少ない。むしろ民衆を避けるイエスが描かれている。JWはこちらの方は引用しないけどね。イエスは福音書によってかなり違う。」

「11節に“イエスが自分のことよりも他の人のことを優先したのはこの時だけではなく,地上にいた間ずっとそうしました。(マタ 4:23; 8:16)”とイエスを持ち上げていますが、引照聖句にはそんなことは書かれていませんし、イエスが公的な活動をしたのはせいぜい3年程度です。」
「“地上にいた間ずっと”というと赤ちゃんの時からということ?こんな適当なことを年に数回書くだけで、他人の寄付で安楽な生活が保障されている執筆者はいい身分だね。」

「12節に“自分には大した才能はないと感じるとしても,がっかりしないでください。全ての人に,会衆の仲間を助けるのに役立てられる良いところがあります。”とありますが、これは自分は能力がないといって援助奉仕者を辞退するのは許さないぞ、ということですね。」
「高校生程度がやれるものだから、能力不足なんて辞退する理由にはならない。辞退するなら違う理由を考えなさいということだね。」

「14から20節が“どんなことに取り組めるか”です。 14節に“テモテ第一 3章8-10,12節に挙げられている資格を考えてみましょう。(読む。)”とありまして、そこに出ていることを一つ一つ取り上げます。最初は“真面目で[ある]”です。“この表現は,「尊敬に値する」,「威厳がある」,「良い評判を得ている」と訳すこともできます。”とあるのですが、この訳でいいのですか?」
「真面目なんておかしい。協会共同訳では“気品があり”となっている。JWは高校生を援助奉仕者にするつもりだから、子どもとそう変わらない高校生に当てはめにくい訳は選ばなかっただけ。」

「15節では“二枚舌を使わ[ない]”と“貪欲に不当な利益を得ようと[しない]”です。“仲間のクリスチャンのつながりを利用してお金を稼ぐようなことはしません。”とあります。こういうJWが結構いるということですね。」
「仲間のJWに怪しげな商品を高値で売りつけるとか、JWを雇って不当に安い賃金しか払わないなんて、JWの世界ではよくあることでしょう。」

「16節では“多量の酒を飲ま[ない”と“やましいところのない良心を保[つ]”です。」
「多量の酒を飲まない、は一部のJWには難しいでしょう。酒でつらいJW生活の憂さ晴らしをしている人は結構いるよ。」

「17節で“「その仕事にふさわしいかどうか……試され[る]」必要もあります。つまり,与えられた責任をしっかり果たし,信頼できる人であることを証明することが必要です。”とあります。具体的には“会衆には10代前半かそれより若い兄弟たちがいますか。その兄弟たちは,個人研究の良い習慣を持っているでしょうか。集会でよくコメントをし,定期的に伝道に参加しているでしょうか。もしそうなら,年齢や状況に合った責任や仕事を委ねるようにしましょう。”とあります。小学生、中学生を訓練して、高校生になったら援助奉仕者にし、雑用を押し付けるつもりです。」
「17節には“このように訓練された兄弟たちは,10代後半になるまでに援助奉仕者としての資格を満たすことができるでしょう。”とあるから、高校生で援助奉仕者にして、JW活動から抜けられなくして、大学進学など考えないようにするという作戦かも。」

「17節の下には、マイクを持っているネクタイを締めた子どもの写真があります。マイク係をまじめにやれば援助奉仕者になる資格があるようです。」
「マイク係は女性にはできない特別な能力を必要とする仕事というのがJWの見解でしょう。マイク係を軽んじてはいけません、マイク係から将来の統治体が生まれます、と書いて欲しかったね。」

「間もなく終わりが来る、というのがJWの公式見解ですから。将来の話はありません。」
「JWの見解では、この写真のマイク係の子どもは高校を卒業することなく、その前に楽園に行くわけだ。悪い大人にだまされないようにと願うね。」

「19節に“「1人の妻の夫で[ある]」。エホバが定めた結婚に関する基準にしっかり従うことも大切です。エホバは,結婚は1人の男性と1人の女性の間にある絆であることを教えています。”とあります。これは一夫多妻を禁じているという意味ですか?」
「これはそうとも解釈できるけれど、それに加えて離婚した後再婚した男性はダメという意味もあるという解釈もある。」

「20節が“子供を従わせ,家庭を立派に治めている”です。“家族の崇拝を毎週行い,妻や子供たちと一緒にできる限り奉仕に参加しましょう。”とあります。結局、伝道時間が平均値以上なくてはいけないなんてことは出てきませんでした。」
「組織もやっと任命の条件として伝道することなど聖書で求められていないことに気付いたのかも。」

「最後の21節には“まだ援助奉仕者として奉仕していないなら,この記事の内容についてよく考え,エホバに祈ってください。”とあります。何か重大なことを決める時には祈りが大事ということですね。」
「真剣に祈った結果、まだ援助奉仕者の責任を担うには未熟すぎるという結論が出ました、と援助奉仕者になるのを断ればいいということだね。」

「来週は長老を目指せというありがたい話です。」
「来週も女性は休んでいいね。」

#1556 2025年01月24日 16:34:14

1,000時間奉仕者
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

今週の晩の集会で、支部からの公式のアナウンスとして
「援助奉仕者の最年少は18歳、長老の最年少は21歳」
という年齢が明確に発表されました。

日本国内だけの限定か、世界的にそうなのかは
分かりません。

#1557 2025年01月31日 14:35:22

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“長老として奉仕することを目標にできますか(47)”で、組織は人手不足で、今では誰でもなれるから、援助奉仕者は長老を目指しなさい、という内容です。」
「長老となるための資格について説明しているけれど、それらは努力目標ということで、組織に従順であれば誰でも男なら長老になれるみたいだね。粗製乱造された長老が将来問題を起こして、さらにJWになる人が減るという悪循環に陥る気がするよ。」

「長老という中間管理職がいないと組織が回っていかないという現実がありますからね。長老不足なら、かなり問題のある人でも長老にさせますよ。」
「数が足りていても、高齢者ばかりだと仕事はすすまないしね。能無しでも動き回れる若い長老が必要なのだろう。組織の未来は暗いね。」

「3節に“テモテ第一 3章1-7節とテトス 1章5-9節に載せられている資格を満たしている必要があります。(読む。)この記事では,長老として働く上で求められている次の3つの点について学びます。会衆の人や会衆外の人から良い評判を得ること,家族をしっかり世話すること,会衆のために進んで働くことについて考えます。”とあります。」
「よい評判が最初に来るわけだ。アメリカではJWの長老が結構逮捕されて、地元の新聞で取り上げられている。評判を気にせざるを得ないわけだ。」

「4から9節が“良い評判を得る”です。 4節ではテモテ3:7の“会衆外の人からも良い評判を得ているべきです。”を取り上げます。” エホバの証人ではない人たちに,私たちが信じていることを非難されることがあったとしても,行いや正直さの点で疑いが持たれるようなことがあってはなりません。”とあります。」
「今の長老たちの世間からの悪評を気にして、まず良い評判が長老になるための最初の基準なんだ。JWは正直でよい人という評判を何としても得たいという思いが伝わってくる、情けない文章だ。」

「それなら“私たちが信じていることを非難されることがあったとしても”と言うのも情けない態度です。JWの“真理”と称する教義を正当化する努力を初めから放棄しているように見えますね。」
「今さら奇妙でおかしな宗教という評判は覆せないというあきらめじゃないの。それでおかしな宗教ですが信者は正直でよい人という評判をえて、マイナス評価を少しでもプラスの方に持って行こうという、よい人アピール作戦だ。」

「戸別訪問という迷惑行為をやめたら、多少評判はよくなると思います。」
「それでカート奉仕に変えているんでしょう。」

「6節が“人をよくもてな[す]”なんですが、“人をよくもてなす人は,巡回監督や訪問講演者といった,仲間のために一生懸命働く人たちや,経済的に厳しい状況にある人など,いろいろな人のためにできることを行います。”とあります。力点は巡回監督をもてなせ、ということですね。」
「6節の下の写真の説明は“人をよくもてなすクリスチャンの夫婦は,旅行する監督と妻を温かく迎える。”というもの。巡回監督をお金をかけてもてなさないと、長老には任命されないよと教えてくれている親切な文章だ。」

「7節が“お金を愛さ[ない]”ですが、お金に執着せず、巡回監督のおもてなしにお金を惜しまず使いなさいということですね。」
「逆にいうと、もてなすお金のない人は長老に任命されにくいということだ。結局、JWでもお金は大事だね、というわけだ。」

「9節が“「健全な考え方をし」ている人”なのですが、これは訳がヘンじゃないですか?協会共同訳では“慎みがあり”ですよ。」
「この単語は新約の中では2回しか出てこない超レアな単語で、意味を確定しづらい。もう一か所は同じテモテ一2:9で“女性は,慎みと健全な考え方が表れた,きちんとした服装をすべきです。”というもの。」

「テモテ一2:9は服装について言っていますから、” 健全な考え方が表れた”という訳はおかしいです。派手過ぎないきちんとした服装をすべきというだということですよ。」
「服装が考え方を表すものだという思想は古代にないでしょう。それはいかにも現代的だね。時代を無視するのがJW訳だ。協会共同訳では“女は折り目正しく、控えめに慎み深く身を飾りなさい。”となっている。」

「テモテではテモテにしか出てこない特殊な単語が結構ありますよ。テモテはパウロが書いたことになっていますが、パウロの書簡と語彙の点で違いすぎます。」
「テモテとテトスは牧会書簡というのだけれど、この中で使われている単語は個人名を除くと848種類で、そのうち306は他のパウロの書簡には一度も出てこない。ところがそれらは2世紀のキリスト教関係の文書にはよく出てくるものなの。牧会書簡の作者はパウロではないし、書かれた時期は2世紀頃と推定されている。」

「10から12節が“家族をしっかり世話する”です。 家族全員がよいJWでなければ長老になれないようです。家族を強圧的に管理統制することを求めています。11節には“父親であるなら,未成年の「子供をよくしつけて従わせているべきです」。”とあります。」
「子どもの人権など認められず、奴隷がたくさんいた社会のルールを現代に適用すると、子どもの虐待という問題が生じる。しつけと称して子どもに宗教を強制するのは現代では犯罪的な行為でやめよう。」

「12節には“「ものみの塔」1996年10月15日号21ページ6-7節を参照。)”とあり、そこには“長老の家庭に未成年の子供が幾人かいて,その子供たちが次々に霊的な面で病気になって問題を抱えるとしたら,その長老はもはや「自分の家の者をりっぱに治め……ている人」とみなされないかもしれません。”とあります。あいまいな書き方ですが、子どもがJWの勉強を拒否するとか集会に来ないと、その父親は長老になれないようです。」
「そういうわけで、何としても長老になりたい父親は子どもたちを無理やり信者に仕立て上げようとするわけだ。嫌がる子どもには体罰が吹き荒れるね。宗教という虐待だ。」

「そういえばテモテ一3:3には“暴力を振るわず”とあるのに、この記事では触れられていません。」
「これは不都合と思って、無視したね。恣意的な引用はJWらしくていいじゃないか。」

「ここでは触れられていませんが、子供が大学に進学すると、長老を下ろされることもあります。家庭をよく治めていないということのようです。」
「それは国によってかなり違うようだ。それって聖書に関係ない規則だからね。ヨーロッパでは普通に大学に行く国が多いようだ。日本や韓国では子どもは大学に行かせないというルールが徹底しているようだ。アメリカは地域差が大きいみたい。」

「長老マニュアルの40ページに“長老や援助奉仕者の資格の再検討が必要かもしれない状況”の中に“30. 本人や同居している家族が高等教育を強く望んでいる場合”がありますよ。」
「それを柔軟に解釈する地域と厳格に解釈する地域があるということ。多くの人が大卒なら、子供が大学に進学する度に長老から降格させていたら、長老の成り手がいなくなる。」

「13から16節が“会衆に仕える”です。 13節が“分別があ[る]”ですが、具体的には“長老になったなら,会合に参加する機会があります。そういう時,聖書に書かれていることに反していない限り,大多数の人の意見を進んで支持するでしょうか。”とあります。これがJWの分別のある態度のようです。」
「大した証拠もないのに排斥という意見が多数なら、冤罪と思っても排斥に賛成しなさいということだね。長老の多数を握れば、やりたい放題のことができるのがJWの会衆のようだ。それで数ある会衆の中にはカルトの上を行くスーパーカルトみたいな会衆がどうしても出現する。」

「14節に“長老に任命されるためには,イエスのように謙虚な人になり,エホバから与えられるどんな割り当ても喜んで果たすことが大切です。”とあるのですが、サギ的な文章です。」
「エホバは割り当てなんか与えない。与えているのは会衆の長老でしょう。愚かな人間と神を混同させようとしている。」

「16節は“神の信頼できる言葉にしっかり従[う]”ですが、これはテトス1:9の“神の信頼できる言葉にしっかり従った教え方をしなければなりません。”からの引用ですが、訳がヘンですよ。」
「JW英語訳はholding firmly to the faithful word as respects his art of teachingなので、神の信頼できる言葉ではないよね。しかも力点は信頼できる言葉に従うで、教えることではない。」

「協会共同訳では“教えに適った信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。”です。」
「そういう意味だよ。」

「テトスへの手紙が書かれた時代にはまだ新約聖書は成立していません。ここで言う信頼できる言葉は聖書のことではないですよ。」
「強いて言うなら、パウロや使徒の言葉という意味でしょう。そこから外れたいい加減なことを教えるな、と言っているわけだけど、JWの日本語翻訳者はわかっていない。」

「16節で“聖書や聖書に基づく出版物を真剣に学びましょう。”と言っています。JWの出版物は聖書並みの権威があるわけで、カルトらしいですね。」
「翻訳者はそういわれることを気にしているね。英文では“our publications”で私たちの出版物とあるだけ。それなのに“聖書に基づく出版物”と勝手に言葉を付け加えている。」

「聖書を学んでいるという幻想を維持させるためですね。」
「JWの長老なんだから、聖書ではなく、607とか1914という年代の根拠とか、重なる世代の意味や誕生日を祝うことがなぜ悪なのか、などのカルトの教えを熱心に学べばいいんじゃないの。」

「最後の17,18節が“努力を続けてください”です。 17節に“でも,エホバもエホバが導いている組織も完璧であることを求めてはいない,ということを忘れないでください。”と、急にトーンダウンです。あれこれ基準を述べたけれど、真剣には受け取る必要はないよ、と言っているようなものですね。」
「長老が不足しているという現実に合わせる必要があるからね。実際の宗教組織を運営するには聖書なんか考慮してられないことがしばしばある。」

「17節の下の囲み記事には“兄弟たちの資格に関して考慮する時,長老たちは分別を示し,「正しさにあまりにこだわ」らないように気を付けます。”とあります。もっと基準を緩めろという組織からの指示ですね。」
「“分別を示し”とあるけれど、JWの分別とは原理原則にこだわるな、空気を読め、長いものに巻かれろ、といった態度のことを指すようだ。」

「衰退する組織は人材が流出するだけで新しい人は集まらず、それが衰退を早め、さらに人材が集まらないという悪循環に陥ることがよくわかります。」
「その場合、集まる人材はそれ以前より相当質が落ちる人材となるわけで、衰退に拍車がかかることになる。十代の援助奉仕者、二十代の長老が多くなると、JWも末期的だ。」

「最後の18節では“援助奉仕者の兄弟たち,努力を続けてください!”とあります。援助奉仕者には長老を目指すようますます圧力が高まるということですね。」
「船長にしてくれると言われても、それが沈む船ならはさっさと逃げるよ。援助奉仕者はいかに援助奉仕者をやめるかを考えよう。」

#1558 2025年02月07日 14:19:09

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“イエスがパンを与えた奇跡から学べること(48)”で、ヨハネ6章をもとに、組織の言うとおりにしていると楽園でおいしいものがたくさん食べられるよ、という内容です。」
「少数の食料で大勢の人を食べさせたという話から、どんな教訓をJWが引き出すのか楽しみだね。奇想天外なばかばかしいこじつけがあれば面白い。」

「3から5節が“奇跡によってパンを与える”です。 3節には“そこには約5000人の男性に加え,女性や子供もいました。1万5000人分ほどの食事を用意する必要があったかもしれません。”とありますが、正しいのですか?」
「JW訳だと“約5000人の男性がいた。”とある。後でイエスは群衆によって王に担ぎ上げられそうになるけれど、5000人の男性がいればかなりの戦力になるから、その伏線ともいえる。1万5000人は単なる推測。」

「3節には“アンデレは「ここに大麦のパン5つと小さな魚2匹を持っている少年がいます。でも,これほど大勢では何になるでしょうか」と言いました。”とありますが、“小さな魚”で正しいですか?」
「ここで使われているギリシャ語はopsarionで、他の福音書ではichthus。後者を魚と訳して、opsarionを小魚と訳し分けるか、両方とも魚とするかの2つの選択肢がある。JW訳は”小さな魚”と別の単語にするわけだけど、一貫性がなく恣意的。」

「ヨハネで魚が出てくるところは21章です。21:9に“弟子たちが岸に着いた時,炭火の上に魚が置いてあり,パンもあった。”とありますが、ここで使われているのはopsarionです。なぜか小魚とはしていませんね。」
「その一つ前の21:8に“しかしほかの弟子たちは,魚でいっぱいの網を引きながら,小舟でやって来た。”とあるけれど、ここではichthus。ヨハネは魚を表す2つの単語を厳密に区別して用いていない。となると、”小さな魚2匹”ではなく”魚2匹”の方がいい。JW訳はダメだね。」

「4節では“それから,パンと魚を与えてくれたことに感謝して天の父に祈りを捧げました。”とあり、“私たちもイエスの手本に倣い,一人でいる時もそうでない時も食事の前に感謝の祈りを捧げましょう。”と言う指令が続きます。」
「4節の下には食事前に祈りを捧げている3枚の写真がある。その1枚はアジア系の女の子が学校給食の前で祈っているというもの。こんなことをしているとカルト信者と思われて、辛い思いをするからやめよう。」

「4節には“余りが出るほどだったので,イエスは無駄にしたくないと思い,かけらを集めるようにと命じます。そのようにして,後で使えるようにしたのかもしれません。私たちもイエスのように物を無駄にせず,賢く使うようにしたいと思います。”とあります。小学校の道徳の教科書みたいです。」
「これは出版物が減ったことの言い訳かも。組織はかつて大量に出版物を配布していたけれど、ゴミとして捨てられるだけだった。資金不足で出版物を減らしたのではなく、資源の無駄なので、出版物を減らしましたということにしたいのかも。」

「5節には“それで人々はイエスを「王にするために捕らえ」ようとしました。”とあります。イエスは山に去っていくわけですが、“周りからの圧力があっても政治に関わることはしませんでした。ここから私たちは大切な点を学べます。”と、JWは政治にかかわるなという話に持って行きます。」
「イエスのしたことは極めて政治的なことだよ。神の王国を語ることは現実の政治体制を否定すること。ただイエスは暴力革命のようなことを支持しなかっただけ。」

「6節で“問題を解決してくれそうな人を支持したり,その人に投票したりするようにと言われることはあるかもしれません。そのように政治に関わるよう圧力をかけられる時,イエスの手本を思い出すことができます。”と、選挙での投票禁止を指示しています。」
「イエスの時代に選挙での投票なんてないよ。ないものを禁止できるわけない。投票禁止は聖書とは関係のない、JWルール。」

「7から11節が“パンの意味”です。 7節ではマルコ6:52の“先ほどのパンの意味を把握しておらず,まだ心が鈍くて理解できなかったのである。”を引用して、弟子たちはパンの奇跡の意味を理解していなかったと言っています。」
「どうしてマルコに話が飛ぶのか不思議だね。ヨハネでは理解していないのは群衆で、弟子が理解していなかったとするマルコとは違う。」

「9節で“イエスは,人々が一時的な食欲を満たすことを一番に考えていると指摘します。”とありますが、そこまで言っていませんよ。」
「ヨハネ6:26でイエスは“はっきり言っておきますが,皆さんが私を捜しているのは,奇跡を見たからではなく,パンを食べて満足したからです。”と言っているだけで、食欲第一とまでは言っていないね。英文ではtheir priorityだから、”彼らの優先事項は・・・”でしょう。」

「10節が結論で、“「永遠の命を受け」るには,神が遣わした人に信仰を持つことが必要です。”とあります。でもこれは誤訳ですよ。英文では“God’s representative”で、神の代表者です。これは統治体を暗に言っているわけで、統治体に信仰を持たないと永遠の命はないと言いたいようです。」
「統治体崇拝をどんどん推し進めようとしているのが今の組織なのに、“神が遣わした人”と訳するとそれが伝わらないね。翻訳者はそれがわかっていないのか、統治体に逆らっているのか、どちらなんだろう?」

「11節もヘンなことが書かれています。“そして,モーセの時代には自分たちの先祖に食物となるマナを与えられたと言います。(ネヘ 9:15。ヨハ 6:31。詩編 78:24,25を読む。)人々が文字通りのパンをもらうことばかり考えていたことが分かります。”とありますが、空腹でパンを食べたがっているわけではありませんよ。」
「ヨハネ6:29には“私たちがあなたを信じられるよう,あなたはしるしとしてどんな奇跡を見せてくれますか。”とある。空腹だからではなく、イエスを信じられるようしるしを要求している。」

「ヨハネが書かれた時代のユダヤ人の間には、もしメシアが到来したら、モーセの時代と同じように天からマナが降ってきて、食べることができるという考えが広まっていたようです。それでマナの話が出てきたのですよ。」
「人々はイエスが本当のメシアかどうかを知りたかった。それで更なるしるしを欲しがっているという設定。空腹で死にそうという訳じゃないよ。」

「12から15節が“私たちにとって一番大切なこと”です。 ここからがJWに対する指令です。12節には“私たちにとって一番大切なのはエホバとの絆だということです。”とあるのですが、英文をだいぶ変えていますね。」
「エホバのとの絆ではなくour spiritual needs(霊的な必要)。この記事では食べるパンではなく霊的なパンの重要性を言いたいわけで、エホバの絆という訳の分からないことの重要性を言いたいわけではないね。」

「ここまでの記事でエホバの絆なんて一度も出てきていません。それが一番大切なものだとしたら、ここまでの記事は何だったのかと思いますよ。」
「翻訳者はそういうことまで考えて訳していない。霊という言葉は使いたくないので、エホバとの絆でごまかしたのだろう。」

「13節で“私たちはそうした物に対して正しい見方をする必要があります。”と、ぜいたくを非難しています。」
「子どもにアイスクリームを買うお金があったら、寄付しなさいという宗教だからね。ぜいたくは敵だ!欲しがりません、楽園までは、というスローガンを心に刻めということ。」

「13節で“パウロはその点について当時のクリスチャンに宛てた手紙の中で強調しました。シナイ山の近くでイスラエル人に起きた出来事について話し,「彼らのように悪い事柄を行おうとしてはなりません」と警告しました。(コリント第一 10:6,7,11を読む。)”とあります。そして“西暦70年のユダヤ人の体制の終わりが近づいていたからです。”とあるのですが、これはヘンですね。」
「コリント一10:11には“これらの出来事は,今の体制が終わる時に生きている私たちへの警告として書かれたのです。”とあるけれど、これはエルサレムの破壊によって示されるユダヤ社会の終わりを言っているわけではない。どこにそんなことが書いてあるの?今の体制が終わり、新しい神の王国が来るとパウロは素朴に信じているんだよ。」

「コリントという都市はユダヤ人の町ではなく、パレスチナから遠く離れたギリシャ人の都市ですよ。エルサレムが滅びようと関係のない都市の人に向かって、ユダヤ人の体制の終わりを警告なんかしませんよ。」
「この記事は間違いが多いね。思い込みで書いているとしか思えない。」

「13節には“私たちも今の体制の終わりが近づいているので,パウロの警告を真剣に受け止める必要があります。”とありますが、英文ではWe now live near the end of a system of things(今の体制の終わりちかくに生きている)で、正しく訳していません。終末論カルトですから、終わりが近づくなんていい加減な訳はダメですよ。」
「終わりが近いなんて恥ずかしくて言えないのだろう。終わりが近いという根拠を示して欲しいと言われたら、607、1914、重なる世代などインチキな年代や教義に触れざるを得なくなる。」

「14節は楽園幻想です。パンの奇跡と何の関係もありません。“聖書によると,神が地上に対して望んでいることの中には,みんなが上質の食べ物を楽しむことが含まれています。”とあります。パンダを撫ぜながらパンや果物を食べているイラストがあればいいのに、なにもないです。」
「結局、食べ物にこだわっているのはJW。」

「14節では“イザヤ 25章6-8節によると,神の王国の下ではたくさんのおいしい食べ物があります。また,詩編 72編16節では,「地上には穀物が豊かに実り,山々の頂でも豊作になる」と書かれています。”とあるのですが、これらの聖句はJWのいう楽園での生活を言っているものではありません。」
「イザヤ25章は25:2に“あなたは都市を石の山に,防備された町を崩れゆく廃虚にしました。外国人の塔はもはやなくなり,二度と建て直されません。”とあるように、敵の都市の壊滅を喜ぶ章。引用されている部分は、それを祝って祝宴を開いている様子を想像したというものだね。そして25章は、25:10に“モアブは自分の場所で踏みつけられる。肥やしの山の上で踏みつけられるわらのように。”とあるように、隣国のモアブの破滅を願って終わる。JWの楽園とは無関係。」

「詩編72は表題が“ソロモンについて。”とあるように、栄華を極めたとされるソロモン王の時代を理想化した詩ですよ。」
「引用されている詩編72:16の後半には“王の収穫物はレバノンの木々のように素晴らしく”とあるよ。JWの収穫物が豊かに実るということではない。」

「毎回繰り返される、文脈無視のいい加減な聖書の引用は執筆者の知的レベルの問題なのでしょうか?」
「適当に聖句を拾って、もっともらしい話を作るというのがJWが過去140年間やってきたことで、それが当然と思っているのでしょう。」

「15節は復活幻想です。“将来復活が起きる時,イエスの奇跡によってパンと魚を食べた人たちに会えるかもしれません。”とあります。パレスチナまで行ったら会えるのでしょうか?楽園では飛行機はないようですから歩いて行くのですか?」
「誰かが集会で、“復活の話を本来無関係なパンと魚の奇跡の話につなげようとした執筆者の努力に感動しました。”、とコメントして欲しい。」

「15節では“新しい世界では,復活してくる人や生まれてくる子どもたちのために,信仰を強める教育プログラムが準備されることでしょう。”とあります。楽園でも子どもは新しく生まれてくるようです。人口は無限に増えるわけですね。」
「JWの楽園では結婚もあるし、出産もあるようだ。そういうことにしたのは、結婚なし、子供なしの老いたJWでも希望を持てるようにしようという統治体の愛に満ちた温かい配慮だよ。」

「最後の16節では“次の記事ではヨハネ 6章をさらに考えます。”とあります。」
「来週はヨハネ6:53の“人の子の肉を食べず,その血を飲まない限り,自分の内に命を持てません。”を扱い、これは主の記念式とは無関係だから、記念式で飲み食いするなと言いたいようだ。」

#1559 今日 14:14:56

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“永遠に生きるために必要なこと(49)”で、JW流の主の晩餐を擁護する内容です。」
「頭のおかしい人以外は、誰も飲んだり食べたりしないという奇妙な儀式のことね。この記事では、JWの儀式はヨハネ6:53の“人の子の肉を食べず,その血を飲まない限り,自分の内に命を持てません。”に反する、という批判に答えようというわけだ。」

「4から6節が“命のパンとイエスの肉”です。 4節に“イエスが続けて語った次の言葉に人々はさらに衝撃を受けたことでしょう。「人の子の肉を食べず,その血を飲まない限り,自分の内に命を持てません」。(ヨハ 6:53)”とあり、これについて5,6節で、これは比喩的な意味と説明しています。」
「文字通りに解釈する人なんかいるの?いないよ。2節も使う必要ないね。」

「5節で“イスラエルに与えた律法の中でもそれを禁じました。血を食べる人は「除かれ」る,つまり死刑にされることになっていました。(レビ 7:27)”とあります。これって間違いですよ。」
「レビ17:25には“あなたたちでも外国人でも,死んでいた動物や野生動物に引き裂かれた動物を食べた場合は,自分の服を洗い,水を浴びなければならず,夕方まで汚れた人とされる。その後,清くなる。”とある。死んだ動物は血抜きをしていないから食べることは禁じられていた。しかし食べた場合は服を洗って水浴びすれはいいわけで、死刑になるわけではない。」

「JWも輸血した人は、服を洗い水浴びすればよいとすれば、律法にかなった教えと歓迎されますよ。」
「律法ではやたらと死刑にすることになっているけれど、それが本当に実行されたかは疑問視されている。JWもそれを見倣ったらいいよ。」

「5節では“イエスは人々に律法を守るよう教えました。(マタ 5:17-19)”とあります。これも問題です。引照聖句には“律法から最も小さな文字1つや文字の1画が消え去るよりも,天地が消え去る方がまだ早いでしょう。”とありますが、これはマタイの思想ですよ。他の福音書ではそんなことは書かれていません。」
「律法をどう扱うかは福音書の中でも一致はない。たとえばマルコ7章に食事の前に手を洗うことについてのパリサイ派との論争があるけれど、7:19に“こうしてイエスは全ての食物を清いものとした。”と、イエスは律法にある食物規定をひっくり返す。マタイは律法順守主義者で、マルコ7章の話はマタイ15章に出てくるけれど、律法にあうように書き直している。」

「マルコ13:18には終わりの日の災厄について“それが冬に起きないように祈っていなさい。”とありますが、並行記事のマタイ24:20では“逃げるのが冬や安息日にならないように祈っていなさい。”と安息日のことが付け加えられています。安息日のことを気にしているのがマタイということがわかります。」
「マタイはマルコをもとにして書いているけれど、逃げる時に安息日だったら律法に反すると気づき、逃げるのが安息日にならないように祈ることを付け加えたのだろう。それだけマタイは律法順守を気にしているユダヤ教的な人ということ。でも歴史上のイエスがそうだったかどうかはわからない。」

「7、8節は“2つの場面の違い”です。 この記事の中心的部分です。7節に“クリスチャンと言われる人たちの中には,「イエスはヨハネ 6章53節で自分の肉を食べ血を飲むようにと言った時,主の晩餐で行うべきことを教えていた」と主張する人たちもいます。”とあり、そして“主の晩餐に出席する人全員が回されてきたパンを食べぶどう酒を飲むべきだ,と言います。”と問題を提起します。」
「まあ、結論はわかっているけれど、“クリスチャンと言われる人たち”と言う表現は自分たちこそが真のクリスチャンでその他はニセクリスチャンだという悪意を感じさせるいやらしい表現だね。」

「元の英文ではSome religious peopleで、“クリスチャンと言われる人たち”ではないです。翻訳者が悪意に満ちた人間ということですよ。」
「“宗教的な人の中には・・・”と言う意味だけど、翻訳者はJW以外は悪魔の手先で宗教じゃない、と子どもの時から叩きこまれた人なのかも。」

「8節でヨハネ6:53と主の晩餐の時に言ったことの2つの違いを述べます。“1つ目は,イエスがそれぞれの言葉をいつどこで語ったか,という点です。”とありまして、32年と33年と違いがあるといっています。そして“2つ目は,イエスがどんな人たちに対して語ったか,という点です。”とありまして、一般の人々と11人の使徒という違いがあるといっています。それで、“この2つの違いを考えただけでも,「イエスはヨハネ 6章53節で主の晩餐で行うべきことを教えていた」という主張が間違いであることが分かります。”と言う結論です。」
「いつだれに対していったかを問題にしているけれど、JWは聖書に書かれていることを、いつだれに言ったかを全く無視して、現代のJWに当てはめるよ。なぜこの問題だけそれにこだわるのか不思議だね。一貫性がない。」

「翻訳に問題があります。英文ではThese two differences alone undermine the claim・・・ですから、間違いであると断言してはいません。」
「主張を弱める、くらいの意味でしょう。」

「主の晩餐の時、使徒しかいなかったから、飲み食いしていいのは天に行く人だけということにはなりません。この場合、使徒は信者代表のような立場で、イエスの言葉は信者全員に向けられたものと理解しますよ。でもJWだけはそう考えないわけです。」
「ルカ22:19でイエスは“このことを行っていき,私のことを思い起こしなさい。”というけれど、使徒たちだけが行えという意味ではないよ。この言葉は信者全体に向けられていて、使徒たちは信者の代表としてイエスの言葉を聞いたという設定。」

「ヨハネ6:53は主の晩餐とは無関係、そんな聖句は無視して、主の晩餐今まで通りだ、というJWの結論は最初からわかっていますが、その根拠は怪しいということですね。」
「ヨハネ6:53は、普遍的な原則でしょう。大勢の人に向かってイエスは語ったことになっている。すべての信者は、キリストとの関係の象徴として、またキリストの犠牲を思い出す手段として、飲み食いに参加するよう求められている。人間を2つの階級に分けて、天上組だけが飲み食いし、地上組はただ見ているだけなんてことはJWの奇妙な教義に過ぎない。」

「9から14節が“あなたにも関係がある”です。 人類は天上組と地上組に分かれるというJWの教義の説明です。9節では“新しい契約は全人類と結ばれるのではなく,「神の王国」に入る比喩的な「イスラエル国民」と結ばれるものです。(ヘブ 8:6,10; 9:15)”とあります。なぜかヘブライ書に跳びます。」
「イエスと新しい契約を結ぶのは144000人だけで、それ以外は無関係というのがJWの奇妙な教義。ヘブライ8:10の“エホバはこう言う。『これが,そうした時代の後に私がイスラエル国民と結ぶ契約である。”のイスラエル国民が啓示に出てくる144000人だなんて、JW以外には到底思いつかない解釈だね。」

「イスラエル国民という単語は比ゆ的に解釈するのに、144000人は文字通り解釈するなんて一貫性がないです。」
「JWはほとんどの聖句を比ゆ的と解釈し、現代のJWに無理やり当てはめるけれど、144000人は比ゆ的な数とは認めない。奇妙だね。」

「比ゆ的なイスラエル国民が144000人しかいないのは少なすぎます。」
「聖書では出エジプトの時点でイスラエル人は200から300万人いたことになっている。まだ国ができる前でもこの人数だよ。国民となればもっと多いはず。何かヘンだ、と感じて欲しいね。」

「10節では“イエスは主の晩餐の時,「小さな群れ」について述べていました。その時,イエスと一緒に部屋にいた忠実な使徒たちが,「小さな群れ」の最初のメンバーになりました。(ルカ 12:32)”とあります。こんどは“小さな群れ”です。でも引照聖句のルカ12:32は主の晩餐とは関係ありません。」
「主の晩餐で飲み食いしていいのは天に行く少数の人だけと言いたいようだけど、小さな群れが実は144000人とすると、今度は多すぎる。小さな群れと呼べるのは多くても100人以下じゃないの。」

「144000人だけが天に行き、主の晩餐で飲み食いしてよいというJWの教義を守ろうと必死なわけですね。」
「いずれ144000という数字は、比喩的な数字ですと変更されるよ。こういう記事が出るのは、JWの儀式においても飲み食いする人が増えているという問題があるからでしょう。それから元カトリックのJWから見ればJWの儀式は納得できない、聖書に反しているという意見が多いのだろう。」

「11節はヨハネ6章の話です。“むしろこの時,全ての人に永遠に生きる見込みがあることについて言っていました。こうあります。「このパンを食べる人は永遠に生きます。そして,私が与えるパンとは私の肉 であり,人類が生きるためのものです」。(ヨハ 6:51)”とあります。だからヨハネ6章は少数者のための主の晩餐とは無関係と言いたいようです。でも訳がヘンじゃないですか?」
「英文ではthe life of the worldなのに、” 人類が生きるためのもの”と訳している。へんだよ。JWなら”世の命のため”と訳して欲しい。協会共同訳では” 世を生かすために”となっている。」

「翻訳者には”世の命のため”は受け入れられなかったのでしょう。世は間もなく滅びる憎むべき対象ですから。」
「ヨハネ3:16をJWの英訳ではthe worldなのに、“神は,自分の独り子を与えるほどに人類(the world)を愛したのです。”とインチキ訳をしているぐらいだからね。滅茶苦茶だね。」

「それなのに次の3:17では“神が自分の子を世に遣わしたのは,彼が世を断罪するためではなく,世が彼を通して救われるためです。”となっています。なぜ人類としないのでしょうか?滅茶苦茶です。」
「ヨハネでは世を救うためにイエスは来たのであって、神がこの世を滅ぼすという終末思想を否定している。JWには理解しがたいので、訳も滅茶苦茶になるのだろう。」

「12節では他のクリスチャンを攻撃します。“自分はクリスチャンだと言う多くの人たちは,ただ「[イエス]を信じ」て救い主と考えるなら救われる,と思っています。(ヨハ 6:29,「聖書協会共同訳」,日本聖書協会)”とあります。突然自称・世界で一番正確な訳であるJW訳以外の訳が出てきて驚きました。」
「でもこれはインチキ引用だよ。協会共同訳では“神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。”となっている。どうしてすぐばれるウソを書くのか不思議だね。」

「英文ではKing James Versionです。欽定訳ですよ。」
「翻訳者はKing James Versionの意味が分からなくて、適当に聖書協会共同訳としたのかも。そんなことを気にするJWはいないから、ウソはばれないと思ったね。翻訳者もけっこう悪いやつだね。」

「13節で“イエスは単に人々の願いをかなえるために地上に来たのではありません。人々はイエスが教えたこと全てを受け入れ,従うことで,イエスの「もとに来る」必要がありました。(ヨハ 5:40; 6:44)”とありますが、引照聖句のどこにも“従うこと”と言う言葉は出てきません。」
「従うことが必要だと言っているのは組織だね。カルトが信者に求めることは盲目的な服従。」

「15,16節はまとめです。 16節には“「ほかの羊」と呼ばれている人たちは,毎年主の晩餐でパンを食べぶどう酒を飲むことはありませんし,そうすべきでもありません。(ヨハ 10:16)”と、間違ってもお前たちは飲み食いするなとくぎを刺しています。」
「“他の羊”が天上組以外の人類の99.9999%の、パンにもワインにもあずかることのできない被差別民のことを指していると言っているのはJWだけ。」

「この記事の影響で今年の記念式で飲み食いする人が減ったら、統治体はガッツポーズをするわけですね。」
「減らなかったら、もう統計を取るのをやめるね。」

クィック投稿

メッセージを書いて送信してください。

Board footer