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#1251 2020年11月20日 16:45:33

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

質問さんいつも興味深い書き込みありがとうございます
>「再び、アサ王が登場。15節には、“100万人の大軍がエチオピアから攻めてきたのです。”とある。歴代二14:8の“やがて,エチオピア人ゼラハが100万人の軍勢と300両の兵車を率いて,攻めてきた。”に基づいているのだけれど、こんな史実はないよ。」
「100万の軍隊にどうやって命令を出すんでしょうか?食料や水は?100万人が並ぶだけで広大な空間が必要です。また、100万の軍勢に対して300両の兵車は少なすぎます。歴代誌の作者の空想戦記ですね。」

前に読んだ 秦さんの南北分裂王朝の一文を思い出しました57ページ


歴代誌下一四・八以下によれば、あるとき、ゼラハは100万 -ヨセフスでは九○万です-の軍勢と戦車三○○両を率いて遠征してきます。もちろん、砂漠の中の遠征を考えれば、100万」とか「九○万」の数は、誇張もいいところです。
アサは彼らをユダの西部の町マレシャの地で迎え討ちます。彼の軍勢はゼラハのそれよりもはるかに劣るものですが、彼らは神により頼んだために勝利します。しかし、劣勢の軍勢が大軍勢を相手にした戦いの詳細や、100万の敵兵が打ち砕かれたことから予想される壮絶な戦闘場面や累々たる屍の山の記述はどこにもないのです。そんな数の戦闘などははじめからなかったからです

編集者 てつてつ (2020年11月20日 16:59:32)

オフライン

#1252 2020年11月22日 08:11:10

サルガタナス
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

先生の締めの言葉良かったです。
我々現役に対する愛情や気遣いがありました。
一方ものみの塔記事からは我々をロボットや兵隊代わりにして、こき使いたいという下心が見えます。
文章も傲慢幼稚で愛がありません、筆者に新しい人格が無い事は明らかです。
結局JWはパリサイ人のようになったと思いました

#1253 2020年11月27日 15:32:11

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“姉妹たちの支えになりましょう(39)”です。姉妹たちをこき使うために、多少の敬意を示せ、という内容です。」
「21節まであるよ。力が入っているね。」

「2節に“また,女性の支えになるよう聖書が勧めているからです。例えば,使徒パウロはローマの会衆に,フォイベを「迎え入れ,何でも必要な援助をして」ほしいと伝えました。(ロマ 16:1,2)”とあります。これはへんですよ。パウロがフォイベを援助してほしいといったのは、女性だからじゃありません。」

「引照聖句のローマ16:2に“フォイベは私や他の多くの人を助けてくれました。”と説明している。か弱い女だからじゃない。」
「ローマ16:1に“皆さんに,ケンクレアの会衆の奉仕者である,私たちの姉妹フォイベを紹介します。”とあります。“会衆の奉仕者”とは何ですか?」
「ギリシャ語はdiakonosで奉仕者という意味があるけれど、このギリシャ語から英語のdeaconという言葉がつくられ、その意味はカトリックでは助祭(司祭の補助)、プロテスタントでは執事(牧師の補佐)という意味。」
「JWでいうと昔は奉仕の僕、今は援助奉仕者ですね。」
「1世紀のキリスト教が女性差別的でなかったということで、フォイベはある種の役職についていたと考えられる。JWにとってそれは不都合なので、“会衆の奉仕者”と意味不明な訳にしている。」

「2節に、パウロは“クリスチャンになってからは,イエスに倣って女性の尊厳を認め,親切に接しました。(コリ一 11:1)”とあります。引照聖句はそんなことは言っていません。」
「“キリストに倣っている私に倣ってください。”とあるだけだね。パウロは生前のイエスのことをほとんど知らないし、興味もない。」

「パウロの女性に対する態度はどのように評価できますか?例えば、コリント一11:3で、“女性の頭は男性であり”といっています。これは当時の男性としては当然の思想ですか?」
「これは、その後の11:5で、“女性が祈ったり預言したりする時に頭を覆わないなら,自分の頭を辱めることになります。”と続く。つまり、コリントの女性には祈ったりするときに頭を覆わない人が出てきたということ。これはパウロの影響と思われる。パウロは男女平等的な考えを教えたので、そういう女性が現れたと思われる。」
「しかし、当時の普通の男性であったパウロからすると、それは行き過ぎだ、と感じたのですね。それをやめさせる理屈として、女の頭は男という序列論を展開した。」
「これは全く説得力がない理屈。仮に女の頭は男であったとして、なぜ女性の頭を覆うの?理解できないな。当時の習慣を、キリスト教的に正当化するのは無理がある。パウロもその辺はわかっているので、その後の11:13で、“皆さん自身で判断してください。女性が頭を覆わないで神に祈るのは適切なことでしょうか。”と、理屈ではなく、社会通念に訴えている。」

「3節に“ある聖書事典にはこうあります。「イエスは女性を侮辱したり,軽んじたりするようなことを一切言わなかった」。”とあります。なぜ参考文献を明かさないのでしょうか?他人の研究成果を借りるわけで、参考文献を明らかにして、その人に敬意を払うのがルールですよ。JWは無断で人のものを借りていいと思っているようですね。」
「JWはこの世のルール無視だね。これは、“the International Standard Bible Encyclopedia”のWomanの項目からの引用だ。JWはこの世のものではないのに、この世の書籍を参考にして、ものみの塔の記事を書いていると知られたくないのだろう。」
「JWの出版物からの知識だけでは、薄っぺらな記事しか書けないわけで、聖書について論じようと思えば、この世の専門家の知恵を借りるしかないわけですよ。当然、その種の本を勉強すべきですね。」
「正論だけど、正論が通らないのがカルトだよ。一般の信者は、事実上、この世の聖書辞典や注釈書を読むことを禁じられているだろう。それなのに、ものみの塔の執筆者が実はその種のものを参考にしているなんて、まずいよね。あまり知られたくないよ。」

「5から9節が、“姉妹たちを思いやり,深い気遣いを示す”です。5節では、“誰もが,仲間たちと一緒に楽しく過ごすことを必要としています。”とあります。これは仲間外れをやめろ、ということですね。低レベルのJWが多いということです。」
「5節にジョーダンという姉妹の話が出ている。“私は独身なので,会衆に居場所がないように感じることがよくあります。”とあるけれど、7節で、“先ほどのジョーダンはこう言っています。「兄弟姉妹が私のコメントを褒めてくれたり,奉仕に誘ってくれたり,気に掛けてくれたりするとすごくうれしいです」。”そして18節で、“ある兄弟が車のメンテナンスについて教えてくれたのです。ジョーダンはこう言っています。「兄弟姉妹は私の安全のことも考えてくれているんです」。”とある。こう見ると、ジョーダンは独身の姉妹ということで、結構ちやほやされているように思えるけどね。多分ほとんどは創作じゃないかな。」

「6節ではイエスを見倣おうということで、ルカ10章のマリアとマルタの話が出ていて、“マリアは気兼ねなくイエスの足元に座って教えを聞きました。*”とあります。脚注では“ある参考文献にはこう述べられています。”と言って長々と引用しているのですが、これも引用元を隠していますね。」
「この参考文献は、“The IVP Bible Background Commentary : New Testament. (1993)”だよ。」
「この執筆者は、いろいろな本を勉強して、この記事を書いているようですが、それを公にはできないのでしょうね。」

「それから、この元の文は“Mary felt welcome to sit at his feet as a disciple. *”で、マリアは弟子として話を聞いていた、といっている。女なのに弟子?と疑問に思う人がいるから、わざわざ脚注をつけている。その辺が日本語訳だとわからなくなっている。」

「8節に、“イエスに倣って姉妹たちのために時間を取りましょう。簡単な食事に呼んだりレクリエーションに誘ったりできるかもしれません。”とありますが、イエスはそんなことしていません。」
「イエスとその弟子たちは、悪く言えば、乞食の集団みたいなもの。マルタとマリアの家に行ったのも、食事を恵んでもらうためだよ。そのお返しにイエスはありがたい話をした。マルタとマリアのために、わざわざ時間を取ったわけじゃない。」

「8節の最後に“エホバへの奉仕を第一にするなら,いつまでも幸せでいられるのです。(マタ 19:12)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「“天の王国のために結婚しない人もいます。”という聖句だよね。そもそも、エホバ・ファーストだと、幸せになるという証拠はどれほどあるの?その逆の証拠はたくさんあるよね。」

「10から14節が、“姉妹たちを高く評価する”です。10節に、“男性であれ女性であれ,自分の能力が認められたり行ったことを褒められたりすると元気が出ます。反対に,見過ごされているように感じるとがっかりします。”とあります。まあ、そうなのですが、そんなにいつも自分のことを認められたり、褒められている人なんかいますか?」
「いないよ。だから周りの人の評価なんてあてにならないものと思い、気にしないこと。自分が正しいと思うことをするだけだよ。」
「ところがJWにとって正しいことは、組織が決めるのです。自分では判断できないのです。そのため周囲の評価を絶えず気にして、不安と恐怖でいっぱいという精神状態ですよ。」
「それがカルトのやり方。判断能力を奪い、何事も組織に依存する人間をつくろうとする。」

「10節に出ている70代の姉妹は、“兄弟姉妹が褒めてくださるので,頑張ることができています。”と言っています。となると、誰も褒めてくれなければ、やる気を失うということです。」
「他者の評価に依存していればそうなる。長老はそういうJWをせいぜい褒めてあげればいいじゃないか。」

「11、12節は、新約聖書の中で女性が果たした役割が出ています。」
「最初に出ているのが、“イエスは,忠実な女性たちが「自分の持ち物を使って」仕えてくれていることに心から感謝していました。(ルカ 8:1-3)”なのが笑えるね。これは寄付のおねだりだ。」
「本当は“忠実な女性”ではなく裕福な女性ですよね。」

「12節に“イエスは復活した後,まず最初に忠実な女性たちの前に現れました。”とあるけれど、これは当たり前だよ。11節に“使徒たちはイエスが逮捕された時,逃げてしまいましたが”とあるように、使徒たちは逮捕を恐れてたぶんガラリアに逃げた。復活の話は女性たちが広めたんだよ。」
「イエスの死から復活にかけての話は、弟子たちのダメっぷりが強調されて、対照的に女性や異邦人が目立つように書かれていますね。これは史実ですか?」
「史実というより、神学的な理由からだよ。マルコによると、イエスの十字架を背負ったのは、弟子ではなく、よそ者のキレネのシモン。イエスが死んだとき誰がイエスは神の子だと告白したかというと、弟子ではなくローマ兵。誰が遺体を引き取り葬ったかというと、弟子ではなくアリマタヤのヨセフ。これらのことを見ていたのは、弟子ではなく、女性たち。」
「イエスが復活したと告げられたのも弟子ではなく女性たちですね。」
「最後のものが最初になり、愚かとされる者に神の知恵があるとされる。そういった逆転した世界を意図的に描いているわけ。女性を尊重していたから、女性が活躍しているというわけではない。」

「13節に、“姉妹たちはエホバのために素晴らしい奉仕を行っています。例えば,建物の建設やメンテナンス”とあります。建設やメンテナンスが最初に来るのも意図的ですよね。」
「年配の姉妹にメンテナンスを学ばせるという記事は前にもあった。若い男性が不足しているJWでは、女性にも通常男性の仕事とされることをやらせようということだね。」
「あれだけ伝道を強調しているくせに、“開拓者や宣教者として奉仕している人もいます。”と来るのは“外国語のグループのサポート,ベテルでの奉仕,災害救援,出版物の翻訳”の後です。」
「伝道は、特別な能力のない人間がやることという組織の本音がうかがえるね。組織運営上、実際に役に立つ技術や能力を持っている人が欲しいのは当たり前。そういうものを持っていない人は、せめて伝道でもやって組織に貢献してね、ということだよ。」

「15から19節が、“姉妹たちの味方になる”です。愛のないJWの世界が垣間見えます。15節に、“開拓奉仕をしながら組織の他のプロジェクトに参加している人の場合,開拓者なのにあまり奉仕に出てこないと言われた時に,事情を説明してくれる人が必要かもしれません。”とあります。まじめに働いていても批判される、嫌な組織です。」
「意味不明だね。自分で説明するのはだめなの?普通はそうするよね。」

「16節に、マルコ14章の、ある女性がイエスの頭に高価な香油を注いで、周囲から怒られるけれど、イエスが弁護したという話しが出ています。“女性はつぼの口を割り,イエスの頭に注ぎ始めた。”とあるのですが、なぜ壺の口を割るのですか?」
「当時の香油の容器は首の部分が細長く作られて、使う時に、その首の部分を折るようになっていたということ。」
「この話も、イエスの埋葬の準備をしたのが女性であり、弟子たちは何もしなかったというものですね。」

「17節に、信者でない夫のいる姉妹に対して“会衆のある人たちは,どうして夫にもっと強く言えないのかと批判します。”とあるけれど、どうしてこういう連中を放置しておくの?他人の家庭のことを批判するなんておかしいよ。」
「JWにはそのような常識はありません。他人の家庭問題に首を突っ込んでは、無責任な批判を浴びせます。」
「これの対処法は、“他の人たちの前でその姉妹が本当によくやっていることを話し,褒めるなら,批判的な話を終わらせることができるかもしれません。”だって。ちがうだろう。よく事情も分からないのに、他人のことを批判するなと、厳しく言えばいいんだよ。」
「未信者の夫ということで、JWの夫よりも稼ぎがいいのですよ。それで妬まれているだけじゃないですか?この種の批判は、貧乏なJW姉妹たちのガス抜きなんですよ。それを止めたら、ガス爆発事故が起こるかもしれません。」

「最後の20,21節は、“どの姉妹にも支えが必要”です。でも、20節では、“会衆には熱心に働く姉妹たちが大勢います。ぜひそうした姉妹たちの支えになりたいと思います。”とあります。やっぱり、熱心に働く姉妹だけが援助の対象ということのようです。」
「そういった姉妹の支えになるのは、なんといっても稼ぎのいい夫だ。本当に姉妹たちのことを心配しているなら、JW以外の男性でも結婚してよい、と教義を変更し、そういう結婚相手を紹介する仕組みを作ればいいんだよ。」

#1254 2020年11月28日 08:37:03

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

質問さんいつも興味深い書き込みありがとうございます

フォイベを「迎え入れ,何でも必要な援助をして」ほしいと伝えました。(ロマ 16:1,2)”とあります。これはへんですよ。パウロがフォイベを援助してほしいといったのは、女性だからじゃありません。」

「引照聖句のローマ16:2に“フォイベは私や他の多くの人を助けてくれました。”と説明している。か弱い女だからじゃない。」
「ローマ16:1に“皆さんに,ケンクレアの会衆の奉仕者である,私たちの姉妹フォイベを紹介します。”とあります。“会衆の奉仕者”とは何ですか?」
「ギリシャ語はdiakonosで奉仕者という意味があるけれど、このギリシャ語から英語のdeaconという言葉がつくられ、その意味はカトリックでは助祭(司祭の補助)、プロテスタントでは執事(牧師の補佐)という意味。」
「JWでいうと昔は奉仕の僕、今は援助奉仕者ですね。」
「1世紀のキリスト教が女性差別的でなかったということで、フォイベはある種の役職についていたと考えられる。JWにとってそれは不都合なので、“会衆の奉仕者”と意味不明な訳にしている。」

自分はフォイベが執事という考えははじめて聞きました

ティンデルの聖書注解みたらそう書いてありましたありがとうございます

フィベは「女執事」(RSV・新改訳欄外注別訳参照)で、「ケンクレヤの会衆の間でその職に就いているキリスト者同胞」(NEB)であった。教会に関しては、その語は、男性名詞でも女性名詞でも、「執事」と訳すべきである。執事の職務が男女どちらによっても行われたことは、Iテモテ3.11から分かる。そこでの「婦人たち」(RSV。新改訳「婦人執事」)は、「執事たち」と理解すべきである

女性も執事「援助奉仕者」になれると聖書に書いてあること認めたら証人のこうした事は男だけという教理が崩れちゃいますね cry

編集者 てつてつ (2020年11月28日 08:46:02)

オフライン

#1255 2020年12月04日 15:34:35

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“あなたに託されているものを守り……なさい(40)”で、真理とそれを人に伝える務めを託されているので、さぼらずにしっかりやれ、という内容です。」
「真理とは、よく変わるJW の教義のことでしょう。」
「間もなく終わりが来るという教義は150年間変わりありません。」
「確かに、それはこれからも変わりそうもないね。」

「2節に“2テモテ第一 6:20を読む。”とあります。そこには“テモテ,あなたに託されているものを守り”とあるのですが、何を託されたかというと、“人類に対する神の目的についての正確な知識を託されたのです。”と説明しています。そんなことは書かれていないのですが。」
「テモテ一の中で、具体的な指示が書かれているのは、例えば4:11-13で、“これからもこうした命令を与え,教え続けてください。あなたが若いからといって,誰にも見下されないようにしなさい。かえって,言葉や振る舞い,また愛,信仰,清さの点で,忠実な人たちの手本となってください。  私がそちらに行くまで,朗読と説き勧めることと教えることに励んでください。”とある。」
「つまり、信者を教え導くことと模範的な生活スタイルを守るということですね。」

「3から5節が、“貴重な真理を託されている”です。3節では、“エホバは私たちを愛し,聖書の貴重な真理を正確に理解できるようにしてくださいました。”といきなり問題のある文章で始まります。」
「それなら、なぜ聖書の解釈がコロコロ変わるのか説明して欲しいね。少し前に、イナゴとか北の王とかの解釈変更があったよね。それから、古代史の年代についてウソをつき続けているのはなぜなのか教えて欲しいね。」
「その理由は2節にあります。“聖書の真理が貴重なのは,エホバがそれを「正しい態度を持つ」謙遜な人だけに明らかにしているからでもあります(使徒 13:48)。”だそうです。そういう謙遜な人は、“エホバが真理を教えるために今,用いている 経路を認めます。(マタ 11:25; 24:45)この真理は自分の力では決して理解できないものです。”とあります。地上の神として統治体に絶対服従することが必要なようです。」
「その統治体の解釈がコロコロ変わるのはなぜなのかということの答えになっていないね。」

「引照聖句の使徒13:48は、“そして,永遠の命を得るための正しい態度を持つ人は皆,信者となった。”とあります。協会共同訳では、“そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。”となっています。どちらが適切なのでしょうか?」
「JW訳は意図的な誤訳だね。“永遠の命を得るように定められている”のほうが正しいけれど、そうすると、救いがあらかじめ決定されているという予定説を支持するように読める。JWは死ぬまで組織に尽くした人だけが救われるという教義なので、そう訳すると不都合だよね。それで、自分たちに都合の良いように訳した。」

「もう一つの引照聖句は、例のマタイ24章の“忠実で思慮深い奴隷”のたとえ話ですが、エホバが今用いている経路とのことを言っているわけではありませんよね。」
「もちろん、今の統治体のことを言っているなんて言う解釈は、統治体のご都合主義的解釈の典型だね。これは全ての人に向けて言っている話。ポイントは“主人が来て,そうしているところを見るなら,その奴隷は幸せです。”で、主人に与えられた仕事を忠実に賢明な仕方で行えば、祝福がある。そうでなければ、“泣き悲しんだり歯ぎしりしたりします。”という結果になるということ。」

「それから5節に、“エホバが私たちに託してくださった素晴らしいものは,ほかにもあります。エホバがどんな方か,どんな目的を持っているかについての真理を人々に教える務めです。”とあります。伝道しないといけないみたいですよ。」
「英文では、”務め”ではなくprivilege(特権)なんだけどね。日本のJWだけ、義務として滅私奉公しなくてはいけないようだ。つらいね。」

「5節の最後に“神と共に働けるというのは何と光栄なことでしょう。(コリ一 3:9)”とありますが、これは聖句の誤用ですね。」
「そこでは“私たちは神と共に働く者だからです。皆さんは,神が耕している畑,神の建物です。”とあるけれど、まず“わたしたち”というのはパウロとアポロのことで、今のJWを指しているわけではない。“神と共に働く者”という訳も問題だ。これだと神と同等の存在かのようで非常に傲慢不遜な言い方だ。神は共に働く人間を必要としない。協会共同訳のように“神の協力者”くらいに訳すべき。」

「6から8節が、“託されているものを守りましょう!”です。6節には、託されているものを守らなかった人たちが出てきます。」
「6節の、“デマスは当時の体制を愛して,パウロと共に奉仕するチャンスを捨ててしまいました。(テモ二 4:10)”は問題がある。テモテ二4:10の“今の体制を愛して私を見捨て”という訳がおかしい。“体制”ってなんなの?ローマ帝国の体制のこと?普通は、“この世を愛し”と訳するよ。」
「殉教した人をあらわすのに、当時は“この世を愛することなく”と言った表現が使われているので、“この世を愛し”とあると殉教の危険に恐れをなして、という意味であると、読み取れるということでしたね。」

「“フゲロとヘルモゲネは,パウロのように迫害されてひどい目に遭うのではないかと恐れ,伝道をやめてしまったようです。(テモ二 1:15)”とあるけれど、これは根拠の乏しい推測だ。引照聖句は、“あなたも知っているように,アジア州の人たちは私から離れていきました。その中にフゲロとヘルモゲネがいます。”とあるだけ。しかも、この日本語訳がへんだ。英語版では、“all the men in the province of Asia”で“アジア州の全ての人達”だよ。」
「情けない誤訳ですね。それとも翻訳者が、全ての人たちが離れていくなんてありえないと勝手に判断したのでしょうか?協会共同訳でも、“アジアにいる者たちは皆、私を離れて行きました。”とありますね。でも、そんな事実はあるのですか?」
「ないよ。キリスト教はローマ帝国の東側でまず広まって行った。アジア州にはエフェソスがあり、キリスト教の拠点の一つだったところ。」

「7節には、“サタンは私たちに,エホバから託されたものを捨てさせようとします。どんな手を使ってくるでしょうか。例えば,エンターテインメントやメディア”とあります。相変わらずのカルトな主張です。」
「8節に、ダニエルという坊やが、“1日に15時間もゲームに使うようになりました。”とあるけれど、これもサタンのせいなのね。ゲーム機を作っているソニーや任天堂はサタンの支配下にあるとみていいわけだ。」
「ごく少数しかいない極端なケースをとりあげて、それを一般化するというのは詭弁の一種ですよね。」
「そうだね。滅多にいないようなまれなケースが出てきたときは、注意しなくてはいけない。たいていおかしな主張がその後に続く。」

「9節以降は、“真理を手放してしまわないために”です。5つの具体的な指令が書かれています。JWの真理は早く手放したほうがよい人生を送れると思いますけど。」
「その2つ目が、“自分を訓練する。”だけど、その具体例が、11節の、“長い1日が終わって疲れ切っている時に集会に行くには,力を振り絞らなければならないこともあるでしょう。”なんだ。“自分を訓練する。”とは、退屈で無意味な集会に参加するよう自分を鍛えることなんだね。ZOOM集会になってよかったね。」

「13節は、“識別力を働かせる。”ですが、その例は、“例えば,レクリエーションやエンターテインメントを賢く選ぶことが必要です。”なのです。」
「この記事は小学生向け?信者を子ども扱いして、信者の私生活をとことん管理する宗教だというのがよくわかる。」

「15節に、“私たちはテモテのように識別力を働かせて,背教者が広める危険な偽の情報も見分けなければなりません。”とあります。背教者とJWが一方的に呼んでいる人たちは、ニセ情報を広めていますか?」
「ニセ情報を広めなくてはならないほど清廉潔白な組織だとJWは自分たちのことを思っているの?叩けばいくらでもホコリの出る組織でしょう。本当のことを言うだけで、JWは真の神の組織などではなく、社会的に有害な宗教団体と多くの人が簡単に納得できる組織だよ。」
「いわゆる背教者がウソつきなら、簡単に反論できます。本当のことで批判されるから、信者に、見るな、聞くな、信じるな、とカルト丸出しの指示を出しているのです。」
「世界を組織と外部とに二分し、外部情報に強い警戒心を持たせるのはカルトの特徴だね。それに組織から離脱した人間からの情報に接することを禁じるのもカルトの特徴。」

「15節で、“そのような話を広めているのは,「考え方が腐敗して真理を認めなくなった人たち」だからです。”と根拠のない誹謗中傷をしています。この言い方はひどいですね。」
「JWも落ちぶれたということ。自信も余裕もない。自分たちで一方的に背教者と決めつけ、考え方が腐敗していると非難する。みっともないね。」
「作り話とか嘘という言葉を繰り返しますが、具体的にそれは何かについては何も語りません。」
「文書だと証拠に残るからね。あれはウソだと書いたのに、後で本当という証拠が出たら盲信している信者だって動揺するだろう。でも、ビデオでは、レットが児童の性的虐待は背教者の嘘だというウソをいっていた。」

「17節が、“すぐに対応できるようにしておく。”ですが、その具体例が、18節に“インターネットを使う時や,テレビや映画を見る時に,どの“非常口”を通って逃げるかを前もって考えておくのは良いことです。”とあります。」
「見てはいけないものを見て楽しんでいる時に、誰かが部屋に入ってきたら、素早く画面を変えられるようにしておくということだね。小学生ならちゃんとそれくらい考えているよ。」
「そういうことではないですね。要するに、その種のものは見るなということだと思います。でも、そういう命令を出したくないので、回りくどい言い方をしているのだと思います。」

「最後の19節では、“私たちはこうした貴重なものを守らなければなりません。そうすれば,良心に痛みを感じることはありません。充実した毎日を過ごせます。”とあります。忙しいだけの無意味で空虚な毎日を過ごせます、のほうが本当じゃないですか?」
「“良心に痛みを感じることはありません。”は笑えるね。実行不可能なことをあれこれ要求し、良心の痛みを感じるようにさせているのが組織でしょう。」

#1256 2020年12月11日 15:07:58

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“バプテスマを目指して進歩するよう助ける(パート1)(41)”で、研究生にさっさとバプテスマを受けさせろ、という内容です。」
「研究生のいないJWは今週も来週もお休みしていいね。でも、元の英文はHow to Conduct a Bible Study That Leads to Baptism(バプテスマにつながる聖書研究の仕方)で、だいぶニュアンスが違うよね。」

「2節に統計が出ていまして、過去4年間では、毎月平均1000万件の聖書研究に対して、バプテスマ数は年平均28万件だそうです。“では,どうすればもっと多くの人がバプテスマを受けるよう助けられるでしょうか。”と言っていますから、この数字には組織は不満のようです。」
「聖書研究がバプテスマにつながる確率は2.8%ということ。圧倒的多数の聖書研究なるものは組織からすれば無駄ということだね。」
「28万というバプテスマ数も少なすぎますよ。信者数850万として、死亡率とJWを辞める率をそれぞれ1%としますと、年に17万人が減少しますので、実質増加数は11万人です。そうなると増加率は1.3%に過ぎません。」
「中身も問題だ。寄付が期待できる豊かな国の信者が減少し、寄付が少なく費用のかかる貧しい国で信者が増加している。」

「3節には、“世界各地の支部は統治体からの指示で,どうすればもっと多くの人が進歩してバプテスマを受けるよう助けられるかについて調査しました。”とあります。珍しく科学的アプローチです。その結果、“学ぶ人がバプテスマに向けて着実に進歩するのに必要なことを5つ”わかったそうです。」
「素晴らしいね。でも調査の方法が重要で、調査すればいいというものではないよ。」

「引照聖句の格言11:14に“助言者が多ければ成功する。”とありますが、そうとは決まっていませんよ。多すぎるのも問題です。」
「助言者が有能であることが前提の聖句だね。問題は助言する人が必ずしも有能ではないことだよ。イザヤ47:13に“あなたは助言者が多過ぎて疲れ果てている。”とあるけれど、これはバビロンの没落について述べている部分。バビロンには多くの助言者がいたけれど、有能な助言者はいなかったというわけだね。」

「4から6節が、一つ目の“毎週行う”です。4節では、“多くの兄弟姉妹は,玄関先での研究を行っています。”とあります。そんなものを研究と呼んでいいのですか?」
「こんなものを聖書研究とカウントしているから、バプテスマ率は3%を切ることになる。」
「その後に、“聖書への関心を高めるには良い方法ですが,”とありますが、そんなことはないでしょう。」
「これは誤訳で、Although this is a good start for developing interest in the Bible(聖書への関心を高める出発としては良いですが)といっている。最初の段階では玄関先でもよいけれど、いつまでもそれではダメということ。当たり前だけどね。」

「それで、6節では、“まずは,玄関先で研究する時間を延ばしてみましょう。”とあります。そして“少し長い時間学ぶことに慣れてきたら,どこかに座って話すのはどうか,提案してみましょう。”と言っています。」
「これはfoot in the doorテクニックだ。JWのような個別訪問のセールスマンが使う方法で、初めにドアに足を入れ、それがうまくいったら、体を入れるというセールスマンのテクニックから来た言い方。いきなり大きなことを要求するよりも、最初に小さなことを要求し、それがうまくいった後で、本来の大きなことを要求した方がうまくいくというもの。」
「ということは、JWは初め玄関先でわずかの時間でもよいから聖書を勉強しましょうといい、それがうまくいくと、時間の延長を提案し、そしてそれがうまくいくと家の中でもっとじっくりやりましょうよと、本来の要求をしてくるというわけですね。その方がいきなり要求されるよりも、断りにくいですね。」
「だから、ほとんどの人は、JWが来たら、話を聞かず追い返すわけだ。」

「7から9節が、二つ目の“毎回予習する”です。教える側がよく予習することを求めています。当然とはいえ、いろいろ忙しい中、お疲れ様です。」
「8節で“予習の際,自分が聖書を教えている人のために具体的にエホバに祈りましょう。”とあります。JWは聖書を教えていますか?教えているのはJWの出版物ですよ。」
「教えるのはせいぜい聖句でしょう。文脈から切り離した標語のようなものとして、JWの教義を補強するために用いることが多い。しかも、誤用も多い。」

「9節で、教える人は研究生と一緒に予習して、予習の仕方を見せなさいとありまして、その方法が、“質問の答えを探し,後で思い出せるように大事な部分に短く印を付けるように教えましょう。”です。相当知的レベルの低い人が対象のようです。」
「10歳未満の何もわからない頃にバプテスマを受けさせようということかもね。これは、何も考えるな、答えは文書の中にあるから見つけるだけでよい、という教育法だね。」
「思考力ゼロのJWはこうして出来上がるのですね。」
「真理は我々が知っているので、自分の頭で考えることは必要ない、と指導するのはカルトの特徴。」

「10,11節は、三つ目の“毎日エホバとコミュニケーションを取るよう教える”で、要するに、11節にあるように、“聖書を毎日読む(エホバの言葉を聞く)ことと,祈る(エホバに語り掛ける)こと”です。」
「キリスト教の国なら、エホバに祈るというのは抵抗感があると思うね。エホバ、エホバと繰り返すうちに、エホバというインチキネームに慣らさせていくというJWの戦術なのだろう。」

「12,13節が、四つ目の“エホバとの友情を育てるように助ける”です。12節では、“どんなことを話し合っている時でも,エホバがどのような方かに注意を向けてください。愛や親切や思いやりといった,エホバの素晴らしい面が分かるように助けるのです。”とあります。」
「エホバよりイエスのことを学びたいと言ったらどうするの?」
「エホバの方がイエスより偉いとか何とかいうじゃないですか。」
「エホバなる神様の残虐な所とか、不公平な所とか、女性差別的な所とか、同性愛者を差別している所とか、民族差別的な所とか、指摘されたらどうするの?」
「エホバのすることはすべて正しいのです!と興奮してまくし立てて、おしまいじゃないですか。」
「そうすると、研究生は、こういうことを聞いてはいけないのだな、と理解するね。質問していいことと悪いことの区別がついてきて、JWに不都合なことは考えないようにする習慣が身につく。これでバプテスマへ一歩近づくということかな。」

「14から16節が、五つ目の“集会に来るよう誘う”です。集会に来させて、集団で圧力をかけようということです。」
「14節に、“聖書研究で学べるのは全体の半分で,残りの半分は集会に行くと学べる,と教える人もいます。”とある。こういうことを言うのがカルトなんだよね。近づかない方がいいよ。」
「自分たちのところでしか真理は学べないというのはカルトですからね。カルトは自分たちだけが正しく、真理を独占していると主張します。」
「ところが、不思議なことに、聖書の真理が薄っぺらな雑誌と怪しげな集会から学べるなんて、とても素晴らしいと思う人もいるんだよ。」

「15節に、“初めて集会に来た人は,ほかの宗教の集まりでは経験できない素晴らしい時間を過ごせたと感じるでしょう。(コリ一 14:24,25)”とありますが、引照聖句があっていませんね。」
「コリント一14:24には“しかし,皆さんが預言している時にクリスチャンではない人や普通の人が入ってきたなら,”とあるよ。ますます怪しげなカルトと思われる。」

「ここでいう預言は旧約でいう預言とは違いますよね。」
「コリント一14:29,30に“預言者の場合は2人か3人が話し,ほかの人たちはその意味を理解するように努めてください。しかし,座っている別の人が啓示を受けたなら,話していた人は黙ってください。”とある。ここからわかるように、預言とは、突然の啓示、あるいは洞察のこと。未来を予測することとは関係なく、キリストの教えに関する自分なりの理解やその応用が頭の中に閃いて、思わず口にしてしまう。そういったことを預言といっているようだ。」

「15節には、“集会では,自分のお手本にできそうな人や,進歩してバプテスマを受けるよう助けてくれる人と知り合うこともできます。”とあります。そういう人もいるかもしれませんが、その逆の人も大勢いますよ。生きているのか死んでいるのかよくわからない人、明らかに精神が病んでいる人、薄気味悪い笑顔でなれなれしく近づいてくる人などなど。」

「この記事からは本気でバプテスマを増やすぞ、という意気込みが感じられなかったね。もっと大事なことに触れないとダメだろう。六つ目は、インターネットなどで“エホバ”と検索しないように注意するとこと。これは優先順位高いよ。」
「それなら、七つ目は、エホバの証人に対する非難はすべて背教者の嘘であると教えること、というのはどうでしょうか。」
「“良心の危機”などを有害図書に指定するのも大事でしょう。どうしてそうしないのか不思議だね。」

#1257 2020年12月12日 08:32:26

サルガタナス
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

先生、いつもありがとうございます。

私はエホバより前にイエスを知りたいと考える事は正しい事だと思います。
なぜなら我々はイエスを通してのみエホバについて祈り学び近づけるからです。
創世記から啓示まで全てイエスの教えや生き方に当てはめて学び考える事が必要で、イエスとエホバの教えや考えは宇宙創造の時から一貫して同じだと認めイエスの教えに反する事は例え旧約聖書に書かれていた事でも全て否定すべきだと思います。
なぜなら現代の我々は古代の人と違いすでにイエスキリストの教えや愛を知っておりエホバはもっと大きな愛で我々を愛していると学んだからです。
イエスが話された私ではなくエホバだけが善良なのだという言葉に信仰を持つべきなのでしょう。
つまり私の信仰はJW組織と決定的に違う道を行くものになりました。

#1258 2020年12月18日 15:36:26

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“バプテスマを目指して進歩するよう助ける(パート2)(42)”で、先週に続き、研究生にバプテスマを受けさせるための5つの方法という内容です。」
「2週続けて、バプテスマ特集ということは、よっぽどバプテスマ数が足りないということなんだろう。JWの夫婦が子どもを4人産んで、その子ども達にムチで懲らしめながら無理やりバプテスマを受けさせれば、JWは一世代ごとに倍増する。バプテスマ数の不足はこれで一気に解決するのに、なぜそうしないのか不思議だね。」
「終末宗教はそれができません。信者数増加のためには、終わりが来るとあおって新規獲得に全エネルギーを向けるしかないのです。」
「JWは伝道という新規獲得キャンペーンに専念しないといけないので、結婚も子づくりもよくないこととされるわけだ。」

「1節には、“救われて永遠に生きるためには,バプテスマを受けることが必要だからです。”と断言しています。ということは、JWの教義では、世界の99.9%の人は間もなく滅びるということですね。しかもJWはそれを望んでいるわけです。こんな宗教をのさばらせておいてよいものでしょうか?」
「危険な宗教と考えて弾圧する国もある。たいていの民主主義国家は信教の自由が保障されているから、のさばらせておくしかない。それでも児童保護の観点から、大会で子どもに恐怖をあおる不適切な映像を見せたことにより罰金を科した国や児童性的虐待に適切な対処をしないことによって税制上の有利な扱いを取り消す国はあるね。」

「JWの期待に反して、終わりの日は来そうにもないですよ。たいていの人はその前に寿命を全うし亡くなるわけです。JWの教義では、バプテスマを受けなくても、それらの人は復活するのです。バプテスマを受ける必要はありません。」
「となると、JWとしては本当に終わりの日がまもなく来ることを証明しなくちゃ。こんなつまらない記事を書いている場合じゃないよ。」

「4から6節が、一つ目で“聖書に語らせる”です。4節に、“家などで聖書を教える時は,話し過ぎてはいけません。”、“知っていることを全て説明しようとしてはなりません。”と言っています。」
「たくさん教えるとぼろが出るからね。余計なことは言うなというありがたい指示だね。」

「5節では、“学んでいることについて話すよう勧めてください。”と言っています。黙っているのはダメで、積極的にしゃべらせるようにするというものです。そのためにはあれこれ質問をするのだそうです。」
「その例として“聖書のこの言葉からエホバの性格についてどんなことが分かりますか。”という質問がでている。この質問が本当に好きだよね。この質問はやめた方がいいと思うけれど。」

「例えば出エジプト記29:10-15で罪の捧げものに関してエホバが指示を出しています。“雄牛を会見の天幕の前に連れてきて,アロンとその子たちが雄牛の頭に手を置く。 エホバの前,会見の天幕の入り口で,雄牛をほふる。雄牛の血を指で取り,祭壇の角に付ける。残りの血は全て祭壇の基部に注ぐ。 腸を覆う全ての脂肪,肝臓の付属物,2つの腎臓とそれに付いた脂肪を取り,祭壇で焼いて煙にする。 ただし,雄牛の肉と皮とふんは宿営の外で火で燃やす。これは罪の捧げ物である。”というものです。エホバは宇宙の創造者のくせに、この細かすぎる指示はなんですか?」
「これは巨大企業の社長なのに、社員食堂の調理師に、パン粉はあれを使えとか、油の温度は180度でなくてはいけないとか、キャベツは必ず添えろとかトンカツの作り方を細かく指示しているようなものだね。そんなことよりほかにすることがあるだろうと株主総会でいじめられそう。」
「ここからわかる性格はどんなものでしょうか?」
「細部にこだわりすぎる強迫的な性格かな。あるいは、細部に至るまで自分がコントロールしないと気がすまない、管理統制が大好きな独裁者的性格だね。古代イスラエル人はお気の毒だね。こんな神様に愛されて。」

「6節に、“これは“自分の”研究だから,ほかの人にさせるわけにはいかない」などと考えてはいけません。”とあります。」
「研究生が司会者と個人的に強く結び付くことを警戒しているのだろう。自分の親しい司会者が不活発になったら、研究生もやる気をなくすからね。」
「“毎週研究ができるように取り計らいましょう。”とありまして、自分の都合が悪ければ他の人に代わってもらっても、研究を休むなということみたいです。」
「一度研究を休むと、それを期に止める人がいるという調査結果が出ているのかも。やめますという、きっかけを与えないということだね。」

「7から9節が、二つ目の“熱意と確信を込めて教える”です。8節に“研究の際,その人と同じような問題を乗り越えた人のことを話してあげましょう。”とあります。経験談が好きですね。」
「その経験談は本当なんですか?と聞かれたらどう答えるのだろうね。」
「1割くらいは本当じゃないですか、と答えるのが正直な答えですよ。」
「経験談の真偽を尋ねてくるようでは、バプテスマの見込み無しだろうけどね。」

「9節に、“学んだことを家族や友達に話すよう勧めましょう。”、“聖書を学びそうな人を誰か知らないか尋ねてみましょう。”と、研究生を通して、さらに研究生獲得を図るように指示しています。」
「ネットワークビジネスのマネだね。紹介者一人に500円くらい出さないとダメだろう。」

「10,11節が三つ目の“会衆の兄弟姉妹と親しくなるよう助ける”で、10節では“会衆の中に,何でも話せるような友達をつくれるよう助けてください。”とあります。」
「JWである限りの条件付きのニセの友達ね。」
「孤独な人、人間関係に飢えている人は多いですから、そういう人はインチキとわかっていても、JWのお友達になりましょうという誘いに逆らえないのですよ。」
「結婚詐欺とわかっていても、交際を続けてしまう人みたいだ。悲しいね。」

「11節に、親しくする理由が出ていて、“そうすれば,エホバを愛するよう助けてはくれない人たちと親しく付き合わないようにするのは,それほど難しくなくなるでしょう。(格 13:20)これまでの友達に相手にされなくなったとしても,エホバの組織の中に本当の友達がいることを実感できます。”とあります。しっかり計算していますね。」
「JWになることは、これまでの人間関係を断ち切ることが必要なのね。これもカルトの特徴だね。」
「そうやってその人の人間関係を破壊してしまうわけです。」
「それまでの人間関係を破壊し、孤立化させてしまえば、JWの新しい現実を受け入れやすくなる。」

「引照聖句の格言13:20は“賢い人たちと共に歩むと賢くなり,愚かな人たちと関わり合うと苦しい目に遭う。”とあります。ひょっとしたらJWは自分たちのことを“賢い人たち”と思っているのでしょうか?どう考えても“愚かな人たち”だと思うのですが。」
「JWは自己評価が異常に高いということだね。JWと共に歩んだら賢くなんかならないし、悲惨な老後を迎え、“苦しい目に遭う”のは明らか。」

「12,13節が、四つ目で“献身とバプテスマを目指すよう励ます”です。12節では、“毎週聖書研究を行うようになって数カ月がたち,集会にも来るようになっているなら,聖書研究がエホバの証人になるよう助けるためのものだ,ということを理解してもらう必要があります。”と、ある程度進んだら、バプテスマを受けるように露骨に圧力をかけろという指示です。」
「聖書研究なるものは、実はJW養成の手段に過ぎないことを、研究生に明らかにする段階に来たということね。この段階でバプテスマに躊躇するようだと、研究打ち切りね。親切そうに話しかけてきたJWは手のひらを返したように冷淡になる。」

「14から16節が、五つ目で“学んでいる人の進歩を時折分析する”です。」
「英文では“PERIODICALLY EVALUATE THE STUDENT’S PROGRESS”で、定期的に研究生の進歩を評価する、だよ。“時折分析する”じゃない。研究生は生徒で、JWは教師という関係ということ。教師として生徒がどれくらい進歩したかをしっかり評価せよというわけだね。」
「日本語翻訳者はその辺をあいまいにしたかったんですよ。studentを“学んでいる人”と訳すくらいですから。」

「15節で“一番大事なこととして,エホバの証人になりたいと思っていますか。”とあるよね。英文では“Most important, does he want to become one of Jehovah’s Witnesses?”で主語がheで男なんだ。使われている写真は黒人女性が学んでいるというものなのに、おかしいよ。」
「sheにすべきですね。」
「こういうのを無意識な男性中心主義という。JWは女性のほうが圧倒的に多いにもかかわらず、執筆者の頭の中では女性は排除されているのだろう。」

「16節では「研究の予習をしているだろうか。集会に行きたいと思っているだろうか。悪い習慣をやめただろうか。間違った宗教からもう離れただろうか」。答えが全て「いいえ」であれば,研究を続けても進歩することは期待できないでしょう。とあります。ということはひとつでも「はい」なら、続けてよいということですね。」
「他の宗教を信仰し、集会にも来ないし、悪い習慣もやめないけれど、きちんと予習はするという人なら、研究は続けるわけだ。緩い基準だね。」

「16節に、“学んでいる人が聖書の教えを真剣に受け止めず,当てはめようとしないなら,その人との研究を続けるべきでしょうか。”とあります。進歩のない人は研究を打ち切りなさいということのようです。」
「それはタテマエだね。どうせ他に研究生なんか見つからないのだから、研究なるものに付き合ってくれるだけで感謝感激じゃないの。こんな記事を真に受けるJWなんかいないでしょう。」

「最後の17節の質問が“テモテ第一 4章16節によると,私たちは聖書を教える時にどんなことを意識すべきですか。”です。そこには“これらのことを粘り強く行いなさい。そうするなら,あなたは自分自身と,あなたの言葉に耳を傾ける人たちを救うことになります。”とあります。テモテは偽パウロ書簡というわけで、これはパウロの思想ではないですね。」
「人間を救うのは神の業であって人間の業ではない。パウロの思想はガラテア2:16の“人が正しいと認められるのは律法に従った行いによるのではなく,イエス・キリストへの信仰による”というもの。パウロによると、救われるための唯一の要件はキリストへの信仰であって、バプテスマじゃないよ。」

#1259 2020年12月25日 17:16:49

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバは組織を導いている(43)”で、エホバの3つの面を1世紀と現代から学ぶというものですが、結局は組織の指示に従えという内容です。」
「今夜はクリスマスイブだけど、JWにはクリスマスも正月もない。つまらないね。」
「JWにあるのは終わることのない徒労だけです。」
「“エホバは組織を導いている”というのが今週のテーマだけど、そういう聖句はないよね。」

「4から10節が、“神は不公平ではない”です。5節に、“聖なる力に助けられてすぐに伝道を始め,短い間に何千人もの人が良い知らせを信じるようになりました。(使徒 2:41; 4:4)”とあります。2:41では3000人、4:4では5000人で合計8000人が改宗しています。この数字は信用できますか?この当時エルサレムの人口は10万人もいないと思います。」
「当時のエルサレムの面積と建物から推定すると、6から7万人程度でしょう。第一次世界大戦後で人口が急増した1922年の国勢調査でも、エルサレムの人口は62578人。」
「使徒5:14では“そして主を信じる者が,男性も女性もますます増えていった。”とあり、急激にクリスチャンが増加していったような印象ですが、誇張ということですね。」
「3世紀になってもクリスチャンはローマ帝国全体ではごく少数と推定されている。4世紀になった時点でもローマ帝国の7から10%がクリスチャンにすぎないと推定されてきた。」

「ということは、当時のローマ帝国の人口はおよそ6000万人ですから、300年間にクリスチャンの数は400万から600万程度に増えたということですか?」
「ところが、その推定は、当時の文献や古代の都市遺跡を発掘して、発見された教会跡の数や広さに基づくもの。キリスト教は都市を中心に信者を獲得していった。農村部は人口の80から90%を占めていたけれど、そこにはキリスト教はほとんど普及しなかったことを考慮すると、クリスチャンの推定人口は200から300万人と減る。」
「単純計算で1年間に1万人ずつ新しい信者を増やしていったのですね。」

「Rodney StarkがThe rise of Christianity (1996)という本で、西暦40年に クリスチャンが1000人いたと仮定して、10年毎に40%増えるとすると、西暦300年には600万人になると言っている。」
「本当ですか?今EXCELで計算してみます。西暦300年には、約630万人になりますね。10年毎に40%増えるというのは1000人のクリスチャンが1年では、平均40人の新しい信者を獲得すればいいということですね。100人なら4人。」
「この本が書かれた1996年の段階ではモルモン教は10年毎に約43%増加していた。」
「要するに、クリスチャンの増加数は超自然的な力が働いた驚異的なものではなく、成功している新興宗教と同程度ということですね。」
「クリスチャン数を300年で300万人とより現実的なものに見積もると、10年毎に36%の伸びでよい計算になる。モルモン教よりも増加率は少なかっただろう。」

「使徒たちの活動にあるように西暦40年で約10000人もクリスチャンがいたとすると、10年毎に36%の増加だと西暦300年で2965万人になります。ローマ帝国の半数がクリスチャンという非現実的な数字ですね。」
「信者は指数関数的に増加するので、初期値が多すぎると実体と合わなくなる。“使徒”の数字は誇張だね。」

「6節に、“わずか数十年の間に,「天の下の至る所で」良い知らせを伝えたのです。(コロ 1:6,23)”とありますが、これも実態に合わないわけですね。」
「文字通り、知らせただけなんじゃないの。西暦40年で1000人のクリスチャンがいたとして、10年で40%の増加とすると、西暦100年では7500人程度しかいないことになる。」
「初期クリスチャンは伝道に熱心ではなかった?」
「聖書の中で、非ユダヤ人にたいする伝道の記録はパウロを除くと極めて少ない。パウロの愛弟子のようなテモテでさえ、伝道して歩いたという記録はない。初期クリスチャンが伝道に熱心だったとか、統治体があったとかは、JWの創作にすぎない。」

「9節に“2011年には,ニューヨーク市の人通りの多い場所で試験的な取り組みが始まりました。最初の1年間で,本が10万2129冊,雑誌が6万8911冊配布され,4701人が聖書研究を申し込みました。聖なる力の助けがあったことは明らかでした。”とありますが、聖なる力の助けがあったことは少しも明らかじゃないですね。」
「“明らかでした。”という表現はJWでは何の根拠もない時に使われる。」
「以前の記事で、聖書研究からバプテスマにいたるのは3%もないことが示されていました。仮に3%とすると、パプテスマ数は141人です。17万冊の書籍と雑誌の配布した結果がこれなら、極めて非効率ということです。」
「配布された書籍や雑誌の多くはごみとしてすぐに捨てられるのだろう。ニューヨークで、JWの雑誌が欲しければ、ごみ箱をのぞいてみればいいわけだ。」

「11から13節が“エホバは秩序と平和の神”です。11節では“統治体はエルサレムで一致して働き,会衆の秩序と平和を守りました。”と歴史をねつ造しています。」
「こうやってウソを何度でも繰り返すと、本当になると思っているのかも。1世紀に統治体なんて存在しないよ。統治体なんて、聖書のどこに書いてあるの?」

「13節で、こう自問せよとあります。“私は会衆の一致と平和に貢献しているだろうか。教え導いている人たちに従っているだろうか。みんなから信頼されているだろうか。会衆で任されている責任をしっかり果たしているだろうか。時間をきちんと守り,進んで人を助けているだろうか。”です。」
「要するに秩序を乱すな、命令に従えということだけど、“時間をきちんと守り”が入っているのが面白いね。JWは時間を守れない人が多いということ?」
「集会での祈りがやたら長くて嫌がれている人がいますね。祈りは30秒以内でまとめて欲しいです。」

「14から16節が“エホバは私たちを教育し,必要なものを与えてくださる”です。14節に、“エホバはご自分に仕える人たちを教育することに大きな喜びを感じています。(詩 32:8)”とありますが、引照聖句に喜ぶなんという言葉はありません。」
「その後に“そのためにはエホバからの教育が欠かせません。(ヨハ 17:3)”とあるけれど、これだって引照聖句と一致しないよ。」
「ヨハネ17:3は“永遠の命を得るには,唯一の真の神であるあなたと,あなたが遣わされたイエス・キリストのことを知る必要があります。”ですね。“知る”というのがポイントですね。」
「創世記4:1は“さて,アダムは妻エバと関係を持ち,エバは妊娠した。”となっているけれど、協会共同訳では“さて、人は妻エバを知った。”なの。」
「つまり、“知る”とは単に知識を得る以上のことを意味するということですね。」
「神を知る、キリストを知るとは神やキリストの知識を取り入れること以上のことを意味している。ところがJWでは聖書レッスンを何回か受ければ神を知ることができると安易に考えている。」
「難しいことを言わず、単純な解決策を与えてくれるのがカルトですから。」

「“エホバは1世紀のクリスチャン会衆を用いてご自分に仕える人たちを教育しました。(コロサイ 1:9,10を読む。)”も問題があるね。」
「コロサイ1:9の“皆さんがあらゆる知恵と,聖なる力による理解力を得て,神の意志についての正確な知識を十分に持ち”の部分ですか?会衆によって知識を得るわけではないですよね。」
「ここは祈りの部分だからね。あなたの意志が理解できますようにと神に祈っているわけ。なぜなら神について知るには神の助けが必要だから。JWのように、みんなで勉強したらわかるということは想定していない。」

「14節には“イエスが約束していた「援助者」である聖なる力も,重要な役割を果たしました。(ヨハ 14:16)”とありますが、ヨハネ14:16は“私は天の父にお願いします。父は別の援助者を与えて,あなたたちと共に永久にいるようにしてくださいます。”とあります。これも訳に問題がありますよね。」
「“援助者”は英語ではhelperと訳されているけれど、これはおかしい。元のギリシャ語paraklētonは法律用語で、法廷で援助するよう呼ばれた人という意味。つまり弁護人。協会共同訳では“弁護者”と訳している。この言葉は新約聖書では5回出てくるけれど、そのうち4回はヨハネ。ヨハネの聖霊に対する考え方がわかる言葉として重要なので、よく考えて訳して欲しい。」

「ヨハネ14:17は“それは真理を伝える聖なる力です。”と言っていますが、英文ではthe spirit of the truth(真理の霊)となっています。全然違います。霊をなんでも聖なる力と訳すのは無謀ですね。霊は力ではないですよ。」
「ヨハネ14:6で、イエスは“私は道であり,真理であり,命です。”といっている。それを受けて、14:17でイエスが去った後“あなたたちと共に永久にいる”別の弁護者を“真理の霊”と呼んでいる。前後のつながりがあるんだよ。」
「霊は力というのは旧約聖書初期の思想ですよね。JWはそこで停止しているということですね。」

「ヨハネでは聖霊は本質的には姿を変えたキリスト。それがわかるのが、ヨハネ14:16、17で、協会共同訳では“私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。”となっている。」
「ヨハネ14:26の“しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。”も聖霊は本質的にキリストであることを意味していますね。イエスのかわりに教える存在ということですね。」
「ヨハネではキリストも聖霊も、父から送られる、両者とも真理と関連付けられて、両者とも弟子たちに留まり、両者ともこの世から拒否される。このようなことから、ヨハネでは聖霊は姿を変えたキリストと想定されていると解釈される。」

「このような思想は他の福音書やパウロにはないのですね?」
「ない。パウロは霊の実とか霊の贈り物と言っているけれど、これは“霊”を旧約的な、信者に対して神から与えられる特別な力という意味で使っている。ルカも旧約的な意味で使っている。バプテスマのヨハネの父親ゼカリヤについて、1:67に“父親のゼカリヤは聖なる力に満たされて,こう預言した。”とある。旧約の預言者と同じだね。」
「主流のキリスト教はヨハネ的な聖霊観を受け継いだのに対し、JWは旧約的な聖霊観にとどまっているという大きな違いがあるわけですね。」
「JWは終末思想と旧約聖書中心の宗教ということ。」

「15節に、“エホバは,「最後の日々に」あらゆる国の人たちが比喩的な山に集まり,神の道について教えられることを予告しました。(イザヤ 2:2,3を読む。)この預言は今まさに実現しています。”と、とんでもないことを書いています。」
「イザヤの預言は現代のJWとは何の関係ないよ。イザヤ2:1には“アモツの子イザヤがユダとエルサレムに関して見た事柄。”と書いてある。旧約の預言は21世紀のことではなく、預言者の同時代あるいはせいぜい次の世代の時代のことを言っている。」

「16節に“また,これからも,聖書とエホバの組織から与えられる出版物を読んで研究しましょう。”と言っています。」
「本当は、研究ではなく、教えられたことを盲信しましょう、だね。」
「“集会で心のこもったコメントができるように,また割り当てをしっかり果たせるように,聖なる力の助けを求めて祈りましょう。”とあります。集会でのコメントって聖霊の助けが必要なほど難易度が高いのですか?小学生レベルですよ。」
「“心のこもった”という点に力点があるんだよ。他に誰もコメントしないので仕方なく嫌々するコメントや、書いてあることを棒読みするだけのコメントが多いので、統治体は憤慨しているんじゃないの。」

#1260 2020年12月31日 16:47:24

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

知り合いで、心がJWから完全離脱した彼が、
「JWの聖書研究は答え合わせだ」と言ったのを思い出す。

最近、40年来の知り合いで現役長老がやって来ると、
わたしの部屋に置いてある酒を飲みたいというので、
さかなも出してやり毎週飲むことが多くなった。
それはそれでいいのだが、彼が地元会衆の公開講演に誘ってくれた。
要するに、彼自身が話すので聞いてみないかということなのだ。
わたしはもう、18年ぐらいはものみの塔研究、
公開講演に参加していないと思う。
20代前半からの旧友だから聞くぐらいはいいかと思った。
参加すると言っても、言わずと知れたコロナ騒ぎで
ネット上の参加でしかない。

だが、聞き始めてみると、
どこかで聞いたことがあると思い始めた。
わたしも現役時代は100回ぐらい講演しているし、
同じ内容を何度か扱ったこともあった。
彼の話を聞いているうちに
わたしもそれを二度ぐらいしていることを思い出した。
若いころと比べると話し方がうまくなったなあという印象だ。

だが、不思議な気持ちにもなった。
何だか物足りないというのか幼稚というのだろうか、
そのように感じているわたしがいることに気が付いた。
どうしてそのように感じるのかあれから考え込んでいる。

せっかくだから、答え合わせのものみの塔研究も参加した。
聖書についての質問さんが扱ってくれた記事だ。
特に9節は大きな疑問だった。

わたしが現役だったとき、現在のJWが使用しているような
カートという出版物を展示するアイテムはなかった。
だから、自分で考えて音楽の譜面台を使うことにした。
これを三つ持ち歩いて、雑誌や書籍を展示していた。
風が強いと倒れてしまうのが難点だったし
寒い日は体の芯まで冷えて辛いものがあった。
現在のように見張り番はいなくて、一人で立っていた。
おっと、わたしの場合は座り続けただなあ…。

孤独との戦いだったと思うし、
記事に記載されているように印刷物を受け取る人は、
ほとんど現れなかった。

たぶん、1995年前後だっただろう。
わたしは二つの警察署に道路使用許可書をもらいに、
直接出向いていたので、上記のことはよく記憶している。
2011年ごろニューヨーク市で試験的な取り組みが始まっただなんて、
わたしたちや、過去のJWたちがずっと前から行ってきたと、
とても強く指摘したいと思うのだが…。

オフライン

#1261 2021年01月01日 16:41:56

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。大晦日ですが、そんなことは関係ないのがJWです。次回のものみの塔は、“神に仕える人になるよう子供を育てる(44)”で、エホバ、マリアとヨセフ、そしてイエスからの話をもとに、子どもをJW になるよう洗脳しろという内容です。」
「新規会員の最大の候補者といえば、判断力のないJWの幼い子どもたち。彼らをどれだけJWに留めるかによって、JWの未来が決まるよ。」
「JWは子どもがやめる率が高い宗教ですよ。そのため信者の増加率が低いのです。くだらない禁止事項が多すぎますし、要求も過剰ですから当然の結果です。」

「そうだとすると、子どもはJWにしない方がいいよね。子どもがJWになってから、やめると、忌避とかいって口も聞いちゃいけないという狂った規則があるだろう。そうなるとJWの親は寂しい老後を迎えることになる。」
「子どもにはバプテスマを受けさせない方が、長い目で見て良好な親子関係を保てるということですね。組織の言うことの逆をすれば、よりよい人生が送れるというのはJW150年の歴史が示していますね。」
「そうなると、1節に、“私たちにできる一番良い決定は,愛情深い天のお父さんであるエホバに仕えることです。”とあるけれど、その逆の決定するのが一番良い決定ということだね。」

「4から7節が“エホバの手本”です。4節に“エホバは,素晴らしい人たちをイエスの親として選びました。”とあります。」
「その手本から何を学べというの?自分の親を選べないのが人間だよ。選べるなら誰もJWの親を選ばないよ。」
「その素晴らしい親であるヨセフは早死にしていますよね。これっておかしいですよ。」
「ヨセフでさえ守ってもらえなかったとなれば、普通のJW をエホバが守ってくれるはずがないよね。無責任な組織に扇動されて、治安の悪い国に女の子が奉仕活動と称して出かけていくのが、いかに危ないことかJWは理解すべきだよ。」

「5節に“エホバがイエスの親として選んだのは,裕福な人ではありませんでした。”とあります。これは貧困層の多いJW向けですね。JWの子どもは自分の親が宗教にかまけて、ろくに働かず、そのため子どもに必要なものも買ってもらえなくても文句を言うなというメッセージですよ。」
「日本語訳がよくないね。執筆者の意図を理解していない。英文では“Note that Jehovah did not choose wealthy parents for Jesus.”(エホバはイエスのために裕福な親を選ばなかったことに注意してください。)と、イエスが貧乏な親のもとで育ったことをわざわざ注目させているのに、そこは無視しているね。」

「ヨセフはイエスが生まれたころは貧しかったかもしれませんが、有能な職業人として成功し、7人の子どもをちゃんと育てるだけの収入があったのかもしれません。貧困家庭かどうかは不明です。」
「執筆者としては、話の展開上、なにがなんでもイエスは貧困家庭に育ったことにしたいんだよ。しかし、当然のことながら貧困は子どもに良い影響を与えないよ。格言30:7,8に“神よ,私は2つのことを願い求めます。私が死ぬ前にかなえてください。 偽りやうそを私から取り除いてください。私を貧しくも裕福にもしないでください。”とある。」
「JWである限りこの2つの望みはかなわないですね。」
「格言大好きなJWがどうしてこういった常識的な価値観を持てないのか不思議だね。」

「“ヨセフはナザレで大工として働いていました。家の隣に小さな作業場があったのかもしれません。”とありますが、単なる推測ですね。」
「イエス時代のナザレの村の発掘調査が行われた。人口は400人程度と推定されている。その程度の規模の村で大工仕事なんかそうないよ。もっともあり得るのは、ヨセフの主な仕事は農業で、副業として大工仕事もしていたということ。考古学は役に立つね。」

「6節の下に、マリアが幼いイエスに文字を教えているという挿絵がありますが、これはあり得ないでしょう。」
「古代イスラエルの田舎の大工の妻が読み書きできるとは思えないね。JWの想像する聖家族は非現実的だ。」

「7節では、“聖書のアドバイスに従うよう優しく教えることによって,子供をこれからの人生に少しずつ備えさせることは可能です。(格言 2:1-6を読む。)”と言っています。“優しく教える”のだそうです。」
「引照聖句に“優しく教える”なんてどこにも書いていないよ。格言の基本的な思想は格言1:7の“知識はエホバを畏れることから始まる”で、英語では“The fear of Jehovah is the beginning of knowledge.”で、神に対する恐怖(fear)が最初の一歩。子どもに恐怖を叩き込め、それが正統的なJWの思想でしょう。」
「そうですが、そういうことを言うと、世間、JWの言うサタンの世から叩かれますし、それを真に受けて子どもを殴り殺すJWも出てきましたから、そう言わなくなったわけです。」
「サタンの世の方が児童保護に熱心だよね。」

「その次に“例えば,親戚の誰かがエホバに仕えるのをやめた場合,エホバから離れないことの大切さを,聖書を使って子供に教えることができます。”とあります。“親戚”というのが、今のJW を反映しています。」
「今子どものいるJWはJWの2世、3世で、親戚もJWという人が多いのだろう。逆に言うと、JW一族以外で新しくJWになる人はまれということだね。」
「そういう家庭の子どもですと、親戚の誰かがJWをやめたら、うらやましいな、自分もやめたいと思ってしまうので、子どもをしっかり管理統制せよということですね。」
「英文では、“to remain loyal to Jehovah(エホバに忠実であり続ける)”なのに、“エホバから離れないこと”と訳している。これは、翻訳者は、子どもは信じていなくても離れさえしなければいい、と思っているからだろう。」

「8から11節が“ヨセフとマリアの手本”です。9節に“セフとマリアは,家族でエホバを崇拝する習慣をきちんと守っていました。ナザレの会堂で行われていた集会に毎週出席し,エルサレムに毎年行って過ぎ越しの祭りを祝っていたことでしょう。”とありますが、集会に毎週行ったとは聖書には書かれていません。ヨセフ一家を模範的なJW家族にでっち上げています。」

「子ども時代のイエスについてはルカにしか出てこない。子ども時代のイエスについて、信頼できる資料は、誕生に関するものも含めてなかったようだ。イエスは30歳ごろ、いきなり完成した人間として現れる。それまでどうしていたかは不明。あとから、そんなすごい人なので子どもの時もすごかったはずだという推測から、様々な伝説がつくられていった。」
「ルカだけが、その種の話の一つを福音書に含めたわけですね。」
「マルコ、ヨハネはイエスの誕生話や子ども時代の話には無関心で、イエスがバプテスマを受けるところから福音書は始まる。マタイは誕生話を載せているけれど、旧約の預言の成就という観点からその話を含めただけで、子ども時代に関心はない。」

「10節に、ヨセフとマリアから学べることとして、“子供にしてあげられる 一番素晴らしいことは,エホバを愛するよう助けることです。そして,研究し,祈り,集会に出席し,伝道に参加する良い習慣を守るよう教えることも,本当に大切です。”とあります。子どもの時から、JWの修行をさせよということです。」
「JWの子どもは、楽しい子ども時代を一度も経験することなく、未来のJWとして無意味なJW修行を延々と繰り返すわけだ。集会で居眠りしても、ムチで叩かれなくなっただけ、すこしはましになったけどね。」

「福音書を読む限り、イエスとその他の家族が強い絆で結ばれていたということはないですよね。」
「マルコ3:31-34が参考になる。そこでは“さて,イエスの母親と弟たちがやって来て,家の外に立ち,ある人にイエスを呼びに行かせた。 イエスの周りには人々が座っていて,「お母さんと兄弟たちが外で呼んでいますよ」と言った。それに対してイエスは,「私の母また兄弟たちとは誰ですか」と言った。”とある。イエスの家族はイエスに直接会えなかったようだ。ある人を介してイエスに会おうとしている。しかし、イエスは拒絶しているようだ。イエスの家族はイエスを理解せず、母親の世話をしないイエスを非難していたというのがもっともありそうだね。」

「10節の最後に“子供がこの古い体制の終わりを生き残って新しい世界に入るのに必要なのは,エホバとの強い絆です。お金や物ではありません。”とあります。これはエホバかお金か、どちらかを選べという白黒論法です。エホバとお金もそれなりに得られる生き方を選択できないのがJWの辛いところです。」
「だからカルトなんだけどね。常識的な生き方を許さない。」

「JWの子どもがJWをやめて新しい人生を送るのに必要なものは、やはりお金ですか?」
「そうでしょう。JWの親から離れて暮らすには、まずお金を貯めること。そして仕事を確保すること。JW以外の人間関係を作るようにすること。その中にはJWから脱出するのを助けてくれる人もいるかもしれないしね。」
「車の免許はあったほうがいいですよね。」
「就職を考えればね。開拓奉仕をするのに必要だとか言って、親の金で自動車学校に行かせてもらえばいい。」

「11節の下に“目標にできる?”という囲み記事があります。若いJWの目標にすべきことのリストなのですが、その中に“ベテル見学に行く。”があるのは意外でした。」
「今のコロナ問題の最中にこんなことを書くなんておかしいよ。この記事が出るころにはコロナ問題は終息していると思っていたのかもね。」
「ベテル見学は、全てに筋書きがあって、見学者向けの偽物を見せられるだけの北朝鮮観光のようなものです。ベテル見学は必ずしも子どもにいい影響を与えませんよ。」
「ベテル見学というのは工場見学のようなものなんじゃないの?」
「国によってかなり違いがあるみたいです。ある国のベテルは壁に写真が飾ってあって、見学者はそれを見て終わりだそうです。」

「コロナの影響で倒産したかもしれないけれど、Bethel coach toursというアメリカの会社が、アメリカでベテル観光を募集していたね。日本の海老名訪問を含む8日間のツアーは2050ドル(およそ21.5万円)だ。東京観光がメインのようだね。JWとは関係のない会社とFAQで言っている。」
「当然、JWには手数料という形でお金が行くわけですね。ベテル見学を勧めるわけです。」
「アメリカではベテルのガイドにチップを払うのも普通のようだ。ガイド経験者によると1日で100ドル稼ぐこともあったようだ。ベテルの人にとっては大金だね。チップをはずむと、わざわざ見学者をごみ箱のところに連れて行って、大量の酒瓶が捨てられているのを見せて、これがベテルの実態ですと教えてくれる素敵なガイドもいたそうだ。」

「12から18節が“イエスの手本”です。13節にイエスは“ヨセフから大工の仕事を一生懸命学んだことでしょう。”とあります。でもイエスは大工らしいところが少しもないですよね。」
「福音書を読む限り、大工らしいところはなく、むしろ漁業に詳しい。たとえ話でも大工の経験を踏まえたものはない。」
「訳としては、大工ではなく石工でもいいのですよね。」
「そうだね。イエスのいた地域は木材は乏しく、石を建築の材料にすることが多かった。」

「イエスの手本は、15節によると“イエスは,杭に掛けられて死ぬ最後の瞬間まで,エホバの望まれることを行い続けました。”ということのようです。強調されているのは、服従ということですね。」
「JWでは、イエスは忠実な天使の一人に過ぎないという教義だろう。過激なキリスト教団体がなくてよかったね。あったらテロの対象になっちゃうかもよ。」

「子どもは、16節で“親に従う。”、17節で“誰に仕えるかを決める。”、18節で“エホバの望まれることを第一にする。”のだそうです。結局、JWの子どもにはエホバ以外の選択肢はないようです。」
「17節で“ヨシュア 24:15を読む。”とあるよ。そこには“もしエホバに仕えることが良くないと思えるなら,川の向こうで父祖たちが仕えた神々であれ,今住んでいる土地のアモリ人の神々であれ,誰に仕えるかを今日自分で選びなさい。”と選択することを言っている。JWの子どもにもエホバ以外の選択肢を示すべきだよ。」
「17節では“エホバに仕えることに決めるのです。”とありますから、JWの子どもにはそれ以外の選択肢はないのです。」
「そこを何とかするには知恵が必要だ。JWの子どもは賢くないといけないね。」

「18節に“エホバに従い,エホバの望まれることを第一にする人は,「成功し,賢く行動でき」ます。”とあります。そういう事実があるなら、それを示せばいいのです。そうすればJWという人生を喜んで自発的に選びますよ。」
「せいぜいあるのは、エホバのおかげでこんなに幸せ、というような真偽不明の体験談だね。」
「18節に“お金や物を得ることを生活の中心にする人は,「多くの苦痛を身に招きま[す]」。(テモ一 6:9,10)”とあって、相変わらずの貧乏礼賛ですが、聖句の誤用じゃないですか?」
「テモテ一6:9は“しかし,裕福になろうとする人たちは”とある。家族のために一生懸命働く人のことじゃないよ。信者には極貧の生活をどうしても送って欲しいようだね。」

「19と20節が“あなたはどうしますか”です。20節で“イエスに倣って,優しい天のお父さんエホバに仕えてください。そうすれば,毎日の生活は充実した,楽しいものになるでしょう。”と根拠のない約束をして終わりです。」
「あなたはどうしますかと聞かれたら、賢いJWの子どもは、やめる日を指折り数えながら、本音は隠して、もちろんエホバファーストで行きたいと思います、とニヤニヤしながら言えばいいんだよ。」

#1262 2021年01月08日 15:48:26

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“キリストの命令を守るよう助ける(45)”で、研究生と不活発な人をどう扱うか、という内容です。」
「不活発な人に対する記事が増えているね。こんな記事に惑わされず、不活発な人はそのまま不活発でいて欲しいね。」

「3から7節が“守るように教える”です。キリストの教えを守るように教えるとはどういうことかを説明するのに、4節にへんな例えが出ています。」
「自動車学校の例えだね。“自動車教習所の教官は,交通法規を守るよう生徒を教えるためにどんなことをするでしょうか。まずは教室で,どんな法規があるかを教えます。でも,どのように守るかを教えるには,ほかにもしなければならないことがあります。路上教習の際に助手席に乗り,学んだことを実践できるように助けるのです。この例えから何が分かるでしょうか。”だって。些末なことだけど、自動車学校で教える人を“教官”とは呼ばないよ。国立学校なら“教官”と呼んでいいけど、民間の自動車学校で“官”という言葉は使えないよ。」
「JWの翻訳者にそのような知識はないのですよ。」
「この例えから何がわかるかというと、4節に“学んだことを毎日の生活で実践するよう教える必要があります。”とある。要するに、その程度のことを言うために、自動車学校の話を長々と書いたわけだ。」
「交通法規は守らないと、捕まりますし、事故を引き起こすかもしれません。守る必要性ははっきりしています。しかしJWの規則はそうではありません。」
「これを書いた人は、いい例えだなと、自己満足しているのだろうけれど、でも、この例えだと、キリストの教えも交通法規程度のものなのだという印象を与えてしまうかも。交通法規はみんな厳密には守っていない。制限速度が50キロだと60キロぐらいは平気で出す。キリストの教えを交通法規に例えるのは不謹慎ですと、日本支部に誰か文句の電話をして欲しいね。」

「5節に“聖書研究の時,私たちは神の求めていることを教えます。でも,それだけでは十分ではありません。”とありますが、実際は神の求めていることではなく、統治体が求めていることを教えているだけです。」
「“聖書の基本的な教えを学校や職場で,また自由な時間にどのように実践できるか,実例を示しましょう。”とあるけれど、要するに校歌は歌うなとか、学校行事には参加するなとかJW独自の禁止事項を守らせようという訳ね。この辺でまともな研究生はやめるね。」

「6節に“人々を弟子としたいという気持ちが育つよう助ける必要があります。”とあります。学んでいるだけでなく、伝道せよ、ということです。」
「伝道を嫌がるようだと、バイブルレッスンは打ち切り?貴重な研究生がいなくなるよ。」
「7節では“ほかの人も聖書を学んだらいいと思いませんか。”と、誘導する質問をするようアドバイスしています。そして“パンフレットを上手に紹介できるように一緒に練習しましょう。”とあります。」
「いわゆるサラミ戦術を使えということだ。サラミソーセージを薄く切るように、小さな譲歩を相手から引き出すことを積み重ねて、大きな譲歩を勝ち取るという戦術。」
「伝道することは良いことだとまず同意させる。小さなスライス一枚です。その後小刻みに伝道までのステップを進めていくわけですね。」
「これはJWがよく使う手だね。小さなことに同意させ、次々と様々なことに同意せざるを得ない状況にもっていく。ズルいやり方だね。」

「8から12節が“会衆の一人一人にできること”です。8節に“神を愛することと隣人を愛することです。(マタ 22:37- 39)学んでいる人に,この2つのおきてを守るよう教えるなら,伝道するよう助けていることになります。”とあります。これは笑えますね。」
「神への愛と隣人愛が伝道活動に矮小化されるというのがJWらしいね。しょせんJWは無給の宗教セールスマンを養成することを主目的とした宗教ということだ。」
「JWの隣人愛は伝道活動だけというのもきちんと教えて欲しいです。災害があった場合、救援活動はJWだけを対象にし、JW以外は無視しますし、一般の人を対象にした慈善活動は一切行いません。」
「しかし、別の団体や政府からの援助は遠慮なくもらうのがJW。そして、集会などでは、援助してくれた団体や政府をサタンの支配下にあると言ったりする。」

「10節で“学んでいる人が進歩する上で,何が大きな助けになりますか。エホバの証人の集会に出席することです。”と、集会参加が出てきます。お決まりのパターンです。」
「9節で、自動車学校の話を持ち出して少し変化を加えているけれど、結局は伝道、集会参加という結論になる。読まなくてもわかっていたけどね。」
「10節では、集会で“また,教えている人は学んでいる人に,その人と同じような状況にいる兄弟姉妹を紹介することができます。”とあり、学んでいる人と似た境遇の人を紹介せよと言っています。」
「11節がその具体例で、“一人で子供を育てながら聖書を学んでいる女性は,ある姉妹が自分と似た状況にあることを知ります。その姉妹が一生懸命に努力して幼い子供たちを連れて集会に来ているのを見て,心を動かされます。”とある。でもね、子どものいるシングルマザーがJWになってはいけないよ。余計な苦労をするだけ。」
「子どもがかわいそうです。良心のあるJWはそういう人を勧誘するのをやめて欲しいです。」

「11節に、たばこをやめる話が出ていて、“兄弟は,エホバへの愛が強くなるにつれて,エホバが命じていることに従いたいという気持ちも強くなった,と話します。(コリ二 7:1。フィリ 4:13)”とある。引照聖句のコリント二7:1は、“体と精神のあらゆる汚れを除き去って自分を清め,神への畏れを抱いて神聖さを完成させていきましょう。”とあるけれど、たばことは関係ないよ。拡大解釈だ。」
「そこはコリント二6:14から7:1までがひとまとまりですよね。6:14が“クリスチャンではない人と結び付いてはなりません。それは不釣り合いな関係です。”で、クリスチャンでない人との結婚問題を扱っている部分です。そのまとめが7:1です。」
「コリントの手紙一では偶像に捧げられた食べ物について取り上げられていた。パウロはそのことを想定していたかもしれないけれど、たばこなんて当時は存在しない。だから全く念頭にない。」

「1973年から、JWでは喫煙者はバプテスマを受けられないことにしたんです。その時のものみの塔の記事“神の裁きが行なわれているこの時代に神の会衆の清さを保つ”でもコリント二7:1がその根拠となる聖句として使用されています。」
「これは1970年代ごろからアメリカで反喫煙の動きが強まってきたのを受けての処置で、聖書とは関係ない。」
       
「11節には“若い女性は,同世代の姉妹がエホバの証人として生き生きしていることに気付きます。そして,どうしていつもあんなふうに幸せそうなのか,もっと知りたいと思います。”とありますが、逆のケースもあるでしょう。」
「どうしてあんなに不幸そうなのか、もっと知りたくなる場合だね。」

「13から18節が“不活発な人を助ける”です。集会に誘う、心から歓迎する、不安を和らげる、の3つのことが書かれています。」
「14節にイエスを見捨てて逃げた使徒たちのことが取り上げられて、不活発な人になぞらえているけれど、これは相当悪意があるね。」
「不活発な人という概念は聖書に基づかないJW独自の概念ですから、聖書に登場する人たちと比較などできません。不適切です。」
「恐怖のあまりイエスを捨てて逃げた使徒たちとは違って、不活発な人は一時的な感情ではなく、正当な理由があって不活発になったということをこの執筆者は思いつかないのだろうね。」
「昨年15分以内の奉仕時間でも不活発と見なさないというルールを作りましたから、JWには不活発な人はもはや一人もいないだろうと思っているのかもしれません。」

「14節で、“イエスは使徒たちを見限ったりしませんでした。自分を見捨てた使徒たちのことを「私の兄弟たち」と呼びました。”とある。これはマタイ28:10にあるけれど、“私の兄弟たち”が使徒を意味するわけではないよ。」
「マタイでの“兄弟たち”という言葉の使い方を見ますと、対象者はかなり広いですね。マタイ12:49,50に“そして,弟子たちの方を手で指して,言った。「見てください。私の母と兄弟たちです! 天にいる父の望むことを行う人が,私の兄弟,姉妹,母なのです」。”とあります。たとえ話の中ですが、マタイ25:40“王は答えます。『実のところ,これら私の兄弟のうち最も目立たない人の1人にしたのは,それだけ私にしたのです』。”などがあります。」
「マタイでは、イエスに付き従う人すべてがイエスの兄弟なの。使徒に限定しているわけではない。」
「“私の兄弟たち”はエルサレムにいる弟子たちのことを言っていて、彼らにガリラヤに行くようにと言っているということですね。」
「マタイ27:55に“多くの女性たちが,離れた所で見ていた。ガリラヤからイエスに同行して仕えていた人たちである。”とあるように、マタイを読むとかなりの人がイエスと一緒にガリラヤからエルサレムに来たようだ。彼ら全体を“私の兄弟たち”と呼んでいるわけで、11人の使徒に限定しているという根拠はないよ。」

「16節で“イエスは,弱くなっていた使徒たちを力づけるため,集会に招きました。”には笑えます。イエスって集会の勧誘活動もしていたんですか?」
「イエスを昔アメリカによくいたテントで説教をする野外伝道師と思っているんじゃないの。」
「16節で“実際に来てくれるまでには,何度も誘う必要があるかもしれません。”とあります。これだからしつこいJWと言われるわけです。」
「JWを続けるには、嫌がっている相手の気持ちを少しも気にしない鈍感さが必要だという教えだね。」

「19、20節が“託された務めをやり遂げる”です。19節には“人々を弟子とする活動はいつまで続くのでしょうか。この体制が終わる時までです。”とあります。間もなく終わります、とは言っていません。」
「その点を強調しないとJWらしくないね。少し弱気になっているのか?」
「JWのシナリオでは国連がJW以外の宗教を攻撃するというありそうもないことがまず起こることになっていますが、このバカバカしい教義を変えないと100年後でも、終わりの終わりは続いていることになりますよ。」
「まもなく新しい光がさすよ。」

「19節に“「永遠の命を得るための正しい態度を持つ人」を探すために,自分の時間や体力や資産を喜んで用います。”とあります。伝道活動のためには資産を投げうたなくてはいけないようです。そんなこと言ったら誰もJWになりませんよ。」
「でも英文ではWe gladly give of our time, energy, and resourcesだけど、最後のresourcesは“資産”ではないよ。誤訳だ。資産に相当する英語はassetかproperty。」
「時間、エネルギーと来ていますので、resourcesは資源という意味ですが、この場合はモノですか?」
「JWになったために、先祖代々受け継いできた資産を失ったJWはけっこういるだろうね。でも誰かの損失は誰かの利益であるというのが世の中の仕組み。JWが失った分、世の中の誰かが得をしたよ。JWも図らずもこの世に貢献している。」

#1263 2021年01月15日 15:32:57

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“勇気を出しましょう エホバが助けてくださいます(46)”で、パウロの経験から、エホバは助けてくれるから、危険をいとわず組織のために働けという内容です。」
「パウロは助けられたかもしれないけれど、それが全てのJWに当てはまるわけではない、という当たり前のことに執筆者は気づかないのかな?」

「1節に“「エホバは私を助けてくださる。私は恐れない」。(ヘブ 13:5,6)西暦61年ごろ,使徒パウロはこの言葉をユダヤに住むクリスチャンに宛てて書きました。”とあります。これは正しいですか?」
「ヘブライ書の著者はパウロではない。ヘブライ書には著者の名前が出てこない。もし著者がパウロだとしたら、なぜ名前を隠す必要があるの?それに歴史的状況が一致しない。」
「ヘブライ2:3の“この救いについては,主が最初に語り,主の言葉を聞いた人たちが確かなものとして私たちに伝えました。”ですね。ヘブライの著者も読者も第2世代のクリスチャンということですね。」
「パウロは、ガラテア1:12で“私はその知らせを人から受けたのでも,教えられたのでもありません。イエス・キリストから啓示されたのです。”と言っているように、自分はイエスからの超自然的な啓示を受けたことを絶えず強調している男だよ。ヘブライ2:3のようなことを言う男じゃない。」

「3から7節が“イエスや天使たちを用いて”です。3節に“パウロは,「こんな仕打ちにいつまで耐えられるだろうか」と思ったかもしれません。”、4節に“パウロはその保証の言葉を聞いて,父親の腕に抱かれた子供のように安心したことでしょう。”と、単なる推測を書き連ねています。」
「これって“研究記事46”とあるよ。研究記事なら、お涙頂戴的な推測をあれこれ付け加えるなよ、と言いたいね。その他にもこの記事では単なる推測が幾つかある。」

「4節に“その夜,「主イエス」がパウロのそばに立って,こう言いました。「勇気を出しなさい! あなたは私についてエルサレムで徹底的に知らせてきました。同じようにローマでも知らせなければなりません」。(使徒 23:11)”とあります。“使徒”を読むと、イエスはパウロを特にひいきにしているようで、パウロが苦境に立つと何度も現れますね。」
「例えば18:9,10では“その上,ある夜,主イエスが幻の中でパウロに言った。「恐れないで,語り続けなさい。黙っていてはなりません。 私はあなたと共におり,誰もあなたを襲って危害を加えたりはしません。この町には私の民が大勢います」。”とあるね。」
「いずれも夜ですよね。夢じゃないですか?」

「幻覚かも。入眠時幻覚や出眠時幻覚はありふれた現象だからね。」
「入眠時幻覚は眠りに入る前に見る幻覚で、出眠時幻覚は目が覚める前に見る幻覚のことですね。」
「オリバー・サックスの“見てしまう人々 幻覚の脳科学”に、出眠時幻覚を何度も経験する人の話が出ていて、自分を見下ろす天使や死神の幻覚を見ている。出眠時幻覚は、目を開けて明るい部屋の中で見えるものであり、非常にリアルに見えるという特徴がある。そして大抵は苦痛や不安を引き起こす。パウロはそう言った幻覚を見やすい人かもね。」

「5節には使徒27章の航海の話が出ていて、挿絵にもなっています。どれほど史実性があるのですか?」
「あまりないと思うね。“使徒”に出ている航海と難破の話はホメロスのオデュッセイアをもとにしていて、使徒の著者もそれを隠していないんだ。単語や表現が同じものがある。例えば、27:41が有名。そこでは船のことをnausと呼んでいるけれど、新約聖書ではここ以外に使われていない単語で、これはホメロスが使っている単語。」
「ストーリが似ていますよね。オデュッセイアでは女神が安心するように言うのですが、“使徒”でも同じで、ただそれが天使に代わっているだけ。」

「使徒27:2“私たちは,アドラミティオンからの船に乗って出発した。”とあるけれど、これはアドラミティオンを母港とする船に乗ったという意味。これはパウロの航海と何も関係ないことなのに、わざわざアドラミティオンという地名を入れている。古代のギリシャ人ならその地名がどこにあるかすぐわかったはず。」
「トロイ地方ですね。ホメロスのイリアスの舞台です。わかる人にはわかるようにホメロスに意図的に言及しているわけですね。」

「オデュッセイアはその続編。使徒27,28章はそのオデュッセイアの話を借りている。」
「ストーリの類似性は、パウロとオデュッセウスはどちらも木片を持って島に泳ぎますし、
両島の住民は平和に暮らしているように見えますし、オデュッセウスもパウロも神と間違えられています。オデュッセウスとパウロはどちらも、それぞれの島で最も重要な人物から最高の栄誉を受けていますし、どちらも出発時に豪華な贈り物を受け取ります。これらの出来事に続いて、オデュッセウスとパウロの両方が最終的に目的地に到着します。」

「島にたどり着いた後のパウロがパウロらしくないのもオデュッセウスの話をベースにしているから。」
「それまでのパウロは機会があれば伝道していたのに、船の中でも、島に着いた後でも伝道活動をしていません。3か月のあいだ休んでいたようです。確かにパウロらしくないですね。」
「島で神に間違われても抗議することなく、神として扱われることを許しているのもパウロらしくない。」
「それまでは神に間違われると、パウロもペテロも強く否定していました。確かに人格が変わっています。」

「使徒27章の史実性は高くないのは次のような点からわかるよ。27:1に“アウグスツスの部隊の士官であるユリウス”とある。“アウグスツスの部隊”は不適切な訳で、協会共同訳の“アウグスタ大隊”の方がよい。この部隊は88年以降存在が知られているけれど、パウロの時代に存在していたかというと疑わしい。パウロが航海について意見を言う場面があるけれど、囚人で船乗りでもないパウロが意見をいうことは考えにくい。」
「パウロが話の主人公だから、見せ場を作っているのですね。」
「27;11に“しかし士官は,パウロの言葉ではなく,船長や船主の言葉に従った。”とあり、まるで100人隊長が決定権を持っているように見えるけれど、実際は航海についての知識もないし決定権もない。嵐の説明が東地中海の気象パターンと合致しないし、乗組員の行動が不自然など史実とは思えない点が多くある。」

「6節に“イエスは,パウロを助けたのと同じように,私たちのことも助けてくれます。”とありますが、違うでしょう。」
「パウロは特別でしょう。聖書の登場人物に生じたことがなぜ21世紀の怪しげな宗教の信者のJWに生じると思うのかな?」
「その根拠として“例えば,弟子たち全てにこう約束しています。「私は体制の終結までいつの日もあなたたちと共にいるのです」。”を挙げています。でもイエスは奇跡的に介入してあげるよ、とは言っていません。“共にいる”といっているだけです。」

「7節に“例えば,天使たちは,私たちが「王国の良い知らせ」を「あらゆる国や民族や言語」の人たちに伝える時に支援してくれます。(マタ 24:13,14。啓示 14:6を読む。)”とあるけれど、引照聖句はそんなことは言っていない。」
「読むように指定されている啓示14:6には“その天使は,地上に住む人々,すなわち,あらゆる国や民族や言語や種族の人々に伝える,永遠の良い知らせを携えていた。”とあるだけで、JWを支援するとか助けるとは言っていません。」
「その次の啓示14:7で、天使は“神を畏れ,神をたたえなさい。神による裁きの時が来たからです。”という。“永遠の良い知らせ”というのは、“裁きの時が来た”ということ。これはJWの活動と関係ないよ。」

「8から14節が“高い地位にいる人や当局者を用いて”です。パウロがローマの軍司令官、総督やローマの士官に助けられたという話しが出ています。そして、13節で“エホバは,良いと思う時には,強力な聖なる力を使って,ご自分の望むことを高い地位にいる人たちに行わせることがあります。”と言っています。」
「取り上げられている話は“使徒たちの活動”からだけど、ルカによる福音書と使徒は著者が同じで、この2つの書は反ユダヤ・親ローマで一貫している。“使徒”では、パウロを迫害しているのはユダヤ人で、ローマ人はパウロを保護しているよい人たちと描かれている。」
「エホバがローマ人たちを用いてパウロを救ったのではなく、“使徒”の著者の政治的姿勢ゆえにそのように書かれただけというわけですね。」
「“使徒”が書かれた目的の一つは、ローマ当局に対しキリスト教の政治的無害性をアピールするということ。ルカではイエスの処刑に関してユダヤの支配者に批判的だし、“使徒”でもパウロの主な迫害者はユダヤ人とし、ローマ当局に対する批判は避けている。」

「実際は、パウロはローマ人にも迫害されたわけですね。」
「コリント二11:24,25で“ユダヤ人たちからむちで39回打たれたことが5度, 棒で打ちたたかれたことが3度,石を投げ付けられたことが1度,難船したことが3度あり,一昼夜海上を漂ったこともあります。”とパウロは言っている。棒でたたかれたというのはローマ人によるもの。使徒16章に、フィリッピでパウロとシラスが棒で打ち叩かれたあと、牢獄に入れられるも、地震が起きて、牢番がバプテスマを受けたという話しがでているだけ。“使徒”では後の2回は省略されている。」

「フィリッピで、パウロたちはローマ市民であると主張し、町から去るように頼まれるのですが、ローマ市民であることをどのように証明したのですか?書類か何かを見せるのですか?」
「それは不明だね。まずローマ市民であるということを当局に訴えたという事例はほとんど知られていない。ローマの政治家で哲学者、文筆家として有名なキケロがシシリー島の市場で打ち叩かれた時、自分はローマ市民だ、と主張したという記録が残っているけれど、それ以外は“使徒”に書かれている話だけ。」
「この時なぜパウロは初めからローマ市民と主張しなかったのでしょうか?」
「それも不明だね。フィリッピでの話は信者向けの物語だからじゃないの。水戸黄門の印籠と同じで、最初から出せばいいわけだけど、そうするとお話が成立しないから、話の最後に出す。」

「16から19節が“仲間の兄弟姉妹を用いて”です。まずはパウロの話です。16節に、“アリスタルコとルカがカエサレアで一緒に船に乗ってくれた時,パウロはこうした勇敢な仲間たちを与えてくださったことについて,エホバに心からの感謝の祈りを捧げたことでしょう。(使徒 27:1,2,20-25)”とあります。アリスタルコスは引照聖句に出ていますが、ルカはでていません。」
「JWは“使徒”の作者をルカとしている。引照聖句は“さて,私たちが船でイタリアに向かうことが決まると”とあるように“私たち”章句だからじゃないの。」

「“私たち”章句というのは、パウロの伝道旅行は通常は3人称で語られているのに、突然一人称に代わる章句のことですね。4か所ありますね。」
「古代以来、これらの章句の存在がパウロの同労者で医者であるルカが“使徒”の著者であるという根拠になっていた。」
「ところが、“私たち”章句を巡って、いろいろな論争があったわけですね。もともと旅行記があって、それをもとにパウロの伝道旅行を書いたという「旅行記」資料仮説とか、それを否定する意見などなど。」
「“使徒”の著者自身が旅行記事の真実性の証人であることを示すための文学的な操作じゃないかな。“使徒”の著者は実はパウロのことをあまり知らない人なんだよね。」

「17節の引照聖句の使徒28:14に“そこで兄弟たちに出会い,頼まれて7日間一緒に過ごし,その後,ローマに向かった。”とありますが、協会共同訳では“こうして、私たちはローマに着いた。”となっています。JW訳は間違いですか?」
「文語訳でも“而して遂にロマに往く。”となっている。これは、その後の28:17に“私たちがついにローマに入った時,パウロは兵士の監視の下に1人で暮らすことを許可された。”とあるからなんだ。つまりローマに着いたのが14と17の2回になるのを防ぐための変更だね。動詞の時制を未完了過去時制とするわけだ。」
「本当は14でローマに着くとあるわけですね。そうすると矛盾が生じるので、“向かった”ことにして、17で着いたことにした。そんなのありなんですか?」
「訳としてはダメだよ。でも翻訳で聖書の矛盾を解消してしまうことはよくある。」

「19節で“会衆には,病気だったり愛する人を亡くしたりしてつらい思いをしている兄弟姉妹がいますか。”と問いかけています。そういった兄弟姉妹を援助するようにということのようです。」
「“その人のためになることを言ったり行ったりできるよう助けてください,とエホバに祈ることができます。”とあるけれど、いちいち祈らないと助けられないのかな?」
「JWでは伝道、集会、聖書研究が優先します。困った兄弟姉妹を助けても時間が入りませんし、お金もかかったりしますので、相当祈らないとできないのかもしれませんね。」
「相変わらず、JW以外の人には全く無関心だね。」

「最後の20節で“私たちの多くが経験しているように,エホバはご自分に仕える人たちに聖なる力を与え,仲間の兄弟姉妹を助けるよう動かすことがあります。”と書いています。これを見て、私もこのような経験をしましたとコメントする間抜けな人が出てきそうで楽しみです。」
「“私たちの多くが経験しているように”とあるから、そのようなコメントを誘導しようとしている。聖霊の力が働いたかどうか判断する客観的な基準がない以上、言ったもの勝ちだからね。」
「みんなで真偽不明の体験談を披露しあって、JWには聖霊の力が働いている組織であることを納得するわけです。」

#1264 2021年01月16日 14:22:06

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん いつも興味深い書き込みありがとうございます このトピとは関係ありませんが 先日より仰天さんと話し合っている件で 仰天さんのトピで自分が書き込んだ#1953の

てつてつ さんの発言:

>てつてつさんのブログからですが、混合宗教がスタンダード(標準)だったという事はありません。

ブログのリンク先と同じですが 自分はこれらからヨシア以前は混合宗教がスタンダードだったと思っています

発掘された聖書297ページ

それゆえ、皮肉なことに、最も純粋にユダ的であったものがカナン的な異端とされた。宗教的な論争の領域において、古いものが突然異国のものとされ、新しいものが突然正当なものとされた。回顧的神学の驚くべき作品とただ呼ばれることができるものの中で、新しい中央集権的なユダ王国とエルサレムを中心としたヤハウェ崇拝が、いつもあるべきであった仕方としてイスラエルの歴史の中に読み込まれた。

についてご存知のことやご意見ありましたらまた教えていただけるとうれしいです
自分の考えは主に フィンケルシュタインの「発掘された聖書」 や フリードマンの「旧約聖書を推理する」からですが きっと質問さんも読まれておられることと思います

細かいことは忘れましたが 「発掘された聖書」の方はイスラエルがもともと北と南が一緒だったことはなく 北のイスラエルの方がはるかに栄えていたのでアッシリアが目をつけて滅ぼし金品を強奪したのちにそのおかげで田舎だった南のユダ王国が経済発展をとげその機会にもともと混合宗教だったユダ王国のヨシア王の時代あたりに「ヤハのみ運動」というイデオロギーで反対派を粛清しそのイデオロギーの元となったのが申命記や申命記史書であり それらはそうした目的のために編纂されたというものだったかと思います

「旧約聖書を推理する」の方はもっと突っ込んでアロン系祭司たちばかりがいい目を見て自分たちは冷や飯食わされていた シロ系祭司であったエレミヤやその一派が申命記や申命記史書を編纂して自分たちに有利に事を運ぼうとしたというものだったかと思います

それで質問さんにお聞きしたいのは 主に混合宗教がイスラエルのスタンダードだったのかエホバ一神教が最初だったのかと申命記及び史書は上記のような目的で編纂されたのかということです

編集者 てつてつ (2021年01月16日 18:28:48)

オフライン

#1265 2021年01月18日 15:47:36

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

てつてつ さんの発言:

それで質問さんにお聞きしたいのは 主に混合宗教がイスラエルのスタンダードだったのかエホバ一神教が最初だったのかと申命記及び史書は上記のような目的で編纂されたのかということです

難しい質問ですね。昨日まで行われていた大学入学共通テストよりもはるかに難しいです。

1.    主に混合宗教がイスラエルのスタンダードだったのかエホバ一神教が最初だったのか。

この問題は考古学的な調査が明らかにしていると思います。古代イスラエル人が住んでいたと思われる地域からは大量の土偶が見つかっています。素焼きの焼き物で、多くは女性像です。年代は西暦前8から6世紀が多いようです。これらがどのように使われたかはわかりませんが、豊作、子孫繁栄、あるいは安産の女神として、あるいは家の守り神として崇拝されていたと推定されています。一般のイスラエル人にとって、偶像崇拝は当たり前で、多神教的な世界に住んでいたと言えます。

また西暦前8世紀頃の碑文や陶片に書かれた文書の中に“彼のアシェラ”という文言が見つかっています。彼はヤハウェつまりJWの言うエホバのことなので、ヤハウェ(エホバ)の妻を指していると解釈できます。フェニキアでは、最高神エルの妻がアシェラです。聖書の神は複数の名前を持っていますが、その一つがエルです。

申命記16:21に、協会共同訳では(JW訳は勝手な改変が多く、聖書について議論する際には使えません)、“あなたは、自ら造った、あなたの神、主の祭壇の傍らに、いかなるアシェラの木像も立ててはならない。”とあります。申命記が“アシェラの木像”を禁止しているのは、禁止しなくてはならないほど“アシェラの木像”が一般的だったからと言えます。アシェラも普通に崇拝されていたのでしょう。申命記は、ヨシア王の時代、西暦前640年から609年の間に書かれたものと推測されています。

イスラエルの神は本来エルと考えられています。イスラエルという名前の中にエルが含まれていることからも明らかです。イスラエルの本来の意味は“エルは戦い給う”で、初め、イスラエルはエルを戦いの神として崇拝する集団だったのでしょう。

創世記33:20には、ヤコブが“そこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと呼んだ。” (協会共同訳)とあります、“エル・エロヘ・イスラエル”は“イスラエルの神エル”と言う意味です。このようにエルが初め崇拝されていたわけですが、後に”ヤハウェ・エロヘ・イスラエル“(イスラエルの神ヤハウェ)となったのです。これは宗教習合(シンクレティズム)が起きたからです。宗教習合とは異なる神が同一のものとされていくことです。これはよくある現象で、エジプトではテーベの神アメンと太陽神ラーが習合してアメン・ラーになっています。

政治的な話をすると、北のイスラエル王国も南のユダ王国も真に独立していた時期は短く、大国の支配下である期間がほとんどでした。古代では、大国の支配下にあるということは、その大国の神を敬わなければなりません。つまり古代イスラエルはヤハウェだけを崇拝するということが許される政治状況にはなかったのです。大国の力が弱まった時、例えばヨシヤ王の時に、ヤハウェのみの宗教が可能だったにすぎないわけです。

てつてつさんの質問の“主に混合宗教がイスラエルのスタンダードだったのかエホバ一神教が最初だったのか”ですが、民衆レベルでは混合宗教が普通の在り方で、一時期国家宗教のレベルで一神教が成立したにすぎないという答えになります。

2.    申命記及び史書は上記のような目的で編纂されたのか。

“上記のような目的”というのは、てつてつさんによると“もともと混合宗教だったユダ王国のヨシア王の時代あたりに「ヤハのみ運動」というイデオロギーで反対派を粛清しそのイデオロギーの元となったのが申命記や申命記史書であり それらはそうした目的のために編纂された。”また、“「旧約聖書を推理する」の方はもっと突っ込んでアロン系祭司たちばかりがいい目を見て自分たちは冷や飯食わされていた シロ系祭司であったエレミヤやその一派が申命記や申命記史書を編纂して自分たちに有利に事を運ぼうとした。”という目的です。

申命記は伝統的にはモーセが著者とされてきましたが、実は違う、というのはてつてつさんもご存じの通りです。

ヨシヤ王は宗教改革に取り組みますが、その多くは申命記に沿ったものでした。その申命記は西暦前621年に突然発見されたものです。これはモーセが書いた申命記が何百年間も隠されていたというより、ヨシヤ王の時代になってから誰かが申命記の原型を書き完成後、モーセの著作が突然発見されたという芝居をうったのだろうと推測されているわけです。

申命記の強調点は“祭儀の集中化”と“祭儀の浄化”です。そこからは、宗教の国家統制を図り、それまで普通であった異教的な要素を排除し神殿を浄化するというのが、申命記の書かれた大きな目的だというのがわかります。また申命記にはレビ人に対する配慮が多く書かれていることから、レビ人の利益を図ることも申命記の目的とされています。申命記の作者はレビ人と推測されています。

また申命記は王権の制限が示され、王はレビ人である祭司のもと申命記法に忠実に従うことが求められています。申命記17:18,19には“王国の王座につく時には,レビ族の祭司が保管するものを巻物に書き写し,自分のためにこの律法の写しを作らなければなりません。それを手元に置いて,生涯ずっと読まなければなりません。”(JW訳)とあります。ここからは王をレビ人祭司の影響下に置くという目的がうかがわれます。ヨシヤ王はそうでした。

さて、てつてつさんの質問に戻りますが、“もともと混合宗教だったユダ王国のヨシア王の時代あたりに「ヤハのみ運動」というイデオロギーで反対派を粛清しそのイデオロギーの元となったのが申命記や申命記史書であり それらはそうした目的のために編纂された。”というのは、そういう言い方もできるかなと思います。申命記の強調点は“祭儀の集中化”と“祭儀の浄化”ですから、地方の祭司の切り捨てや反対派の粛清は当然含みます。しかし「ヤハのみ運動」と申命記の関係はあまりないのではと思います。

また、“「旧約聖書を推理する」の方はもっと突っ込んでアロン系祭司たちばかりがいい目を見て自分たちは冷や飯食わされていた シロ系祭司であったエレミヤやその一派が申命記や申命記史書を編纂して自分たちに有利に事を運ぼうとした。”と言うのはそういう面もあったと思います。申命記はアロン系の祭司の優越を認めていません。常にレビ人が強調されています。これはアロン系が独占している祭司の地位を全てのレビ人に開放するという意図からでしょう。

「旧約聖書を推理する 本当は誰が書いたか」という本ですが、著者は聖書学者として有名なフリードマンで、よい本ですね。最近改訂版が出され、主張が少し変わっています。申命記などの作者はエレミヤとその書記バルクと推定していましたが、改訂版ではバルクが中心的な役割を果たしたとしています。

申命記の作者が期待したヨシヤ王は西暦前609年にメギドでエジプト軍の矢を受けてあっさり死亡してしまいます。申命記の作者たちはさぞ落胆したでしょう。その後ヨシヤ王の子どもや孫が王になりますが、改革はすべて廃止され、元に戻ります。祭司は血筋が重視され、アロン系が独占していきます。

その後まもなくユダ王国は滅亡し、エルサレムの神殿は破壊されます。ダビデの子孫は永遠に王座に就くという神とダビデの契約が成立しなくなります。その時点で、申命記や列王記などの歴史書は史実に合わせるために書き加えられることになります。

#1266 2021年01月19日 07:38:34

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん 大変わかりやすい説明ありがとうございました

>政治的な話をすると、北のイスラエル王国も南のユダ王国も真に独立していた時期は短く、大国の支配下である期間がほとんどでした。古代では、大国の支配下にあるということは、その大国の神を敬わなければなりません。つまり古代イスラエルはヤハウェだけを崇拝するということが許される政治状況にはなかったのです。大国の力が弱まった時、例えばヨシヤ王の時に、ヤハウェのみの宗教が可能だったにすぎないわけです。

レーマの 申命記史書 82ページには

前七世紀の最後の数十年間に、アッシリアの権力構造が消滅することによってシリア・パレスチナ地方に一時的な真空状態が生じたこと(それはほんのわずか後にエジプトによって再び埋められることになるのだが)は、ヨシア王か彼の顧問官たちが何らかの政治的、祭儀的な再編事業を行ったという仮説にある程度の信憑性を与える。祭儀、権力、徴税(聖所は税務署でもあった)をエルサレムに集中化しようという企ては、この文脈の中では歴史的に大いにあり得ることであったろう

とありますので 「ヤハのみ運動」はこのわずかな期間に生じた歴史的あだ花だったのかもしれませんね
ただこの特殊な状況の説明が古今東西人類のかなりの部分に絶対的事実として大きな影響を与えているのが恐ろしいです cry

というわけで申命記から歴代誌まで大筋でストーリーがつながっていることが以前はものみの塔で教えられた通り何人ものバラバラの人が長い期間にわたって別々に書いているのに一致しているのはエホバ神の導きがあった証拠ですといわれたとおり信じていたのですが 関係している本読むとこれらの著者は一人またはそれに属するグループのようでそれだったら納得という感じです

旧約聖書を推理する 135ページ

一九四三年、ドイツの聖書学者マルティン.ノートが、申命記と前期預言者のこれら六書との間に強い統一性があることを示した。偶然にしては、申命記とこれらの書のある部分の語法は似すぎていた。ノートは、これが漫然とした文書の集成ではなくて周到に配列された一つの作品である、ということを証明したのである。それは一つの連続した物語、彼らの土地におけるイスラエルの民の歴史に関する話を流れるように述べていた。それは一人の著者によるものではなかった。そこには何人もによって書かれたいろいろな章節があった(ダビデの官廷史やサムエルの物語など)。にもかかわらず、完成品は一人の人間の作だったのである。


あと質問さんの考える 聖書についてはこの本は読んでおいたほうがいいよという本ありましたらまた教えていただければうれしいです「読めるかどうかはわかりませんが」
以上またよろしくお願いします


追伸

あと面白いなと思ったのは

(列王第二 18:1‐4) …そして,イスラエルの王エラの子ホシェアの第三年に,ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となったのである。2彼は治めはじめたとき,二十五歳で,エルサレムで二十九年間治めた。そして,彼の母の名はアビといって,ゼカリヤの娘であった。3そして,彼はすべてその父祖ダビデが行なった通りに,エホバの目に正しいことを行ない続けた。4高き所を除き,聖柱を粉々に砕き,聖木を切り倒し,モーセの造った銅の蛇を粉々に打ち砕いたのは,彼であった。そのころまでイスラエルの子らは引き続きその[蛇]のために犠牲の煙を立ち上らせていたのである。それは蛇の銅像と呼ばれていた…


のヒゼキヤがモーセの作った銅の蛇を打ち砕く記述ですが 自分がものみの塔で教わったところによるとこの蛇が偶像崇拝的に用いられるようになったため壊されただったと思いますが 旧約聖書を推理するによると銅の蛇はアロン派祭司たちにとって目の上のタンコブまたは商売敵だったのでシロの祭司たちの強力な営業ツールだった蛇を打ち砕いたのではないかということでした

287ページ

アロン派祭司団にとって、アロンでなくてモーセを亀鑑とするレビ人らは敵だった。モーセの威光にまつわるもので、ユダ国内でもっとも目障わりなのは何だったか。青銅の蛇、「ネホシタン」である。


質問さん>その後まもなくユダ王国は滅亡し、エルサレムの神殿は破壊されます。ダビデの子孫は永遠に王座に就くという神とダビデの契約が成立しなくなります。その時点で、申命記や列王記などの歴史書は史実に合わせるために書き加えられることになります。

推理する 180-

なぜまだ未来に希望があったのか。律法がヨシヤのもとで再び見出され、今やそれがかってないほど実行されるであろうから。申命記家の主テーマー忠誠・律法・一元化・ダピデ契約のすべてはヨシヤ一身に体現された。その矢先、ヨシヤがエジプト勢の矢に難れた。ヨシヤ、この申命記史の頂点をなすヒーロー、は死んでしまった。その22年後、申命記的史書は悪い冗談、いや、いっそ愚かしくみえた。バビロニア勢がユダを潰滅させ捕囚としてしまったのだ。「不滅の」王国は終焉し、「玉座から絶たれることはない」はずの一族が玉座から絶たれた。「ヤハウェが名を置かせる」所は焼け落ちた。さらに、「今に至るもなお」存すると謡われた諸物ももはや無かった。では、ヨシヤで頂点に達する、この明るく希望に溢れた歴史の曼茶羅はどうしたらよいだろうか。版を改めよう、と誰かが決意した。


まず、この記者は捕囚の意味そのものを掘り下げた。木に竹を接いだように、バビロニア勢がユダを征服し捕囚としたというオチを最後にチョコッと付けて、能事終われりとは彼には考えられなかったlそれではまるっきりの尻切れトンボになってしまうだろう。逆に、彼は捕囚の可能性を匂わす文章を史書のあちこちに挾んで、征服と捕囚が今や一篇の骨子となるようにした

つづいて捕囚の記者がしたのが、件の史書を遡ってすでに篇中にある王国滅亡のしかるべき理由を探すことだったヨシア以前に生起していた何かある事、悪虐非道にすぎてヨシヤの改革の試みもとうてい相殺するまでに至らなかった何か、を。見つけた。それはョシヤの祖父マナセ王の物語のなかにあった。Dtrlの物語によると、マナセは父のヒゼキヤ王がやり遂げたあらゆる〃善き事〃を元の木阿弥にしたという。マナセは高き所を再建し・女神アシラ像を設立し・神殿の境内に異教の神々への祭壇を立てる。これは、Dtrlでは、ヨシヤについて物語るための恰好の伏線となった。なぜなら、つづく二つの章で、ヨシヤがもう一度これらすべてを正すからである。彼は高き所をズタズタにし.アシラ像を焼き・異神の祭壇を粉砕する。だが、この度は、新版のDtr2の作者はマナセの罪とその罪の報いとにたっぷり筆を遣った。


では、史謹は以上でジ・エンドだったのか。バビロニアとエジプトへの民の流転をもって、まだ名の知れぬこの人物は、契約の期限切れと民族の終焉と看倣したのだろうか。とんでもない。彼は一条の光明を残しておいたのである。彼の原文への挿入のなかには、ヤハウェが慰れみあり許しある慈悲の神であることを想起させるセンテンスがあった。これは聖書の世界では破格の創見だったとは言えない。JもEもすでに、イスラエルの神は寛仁大度であると描いていたのだ。ョシヤ時代のDtrlもまた然り。そこでDtr2の作者は、民がヤハウェのもとに帰り。悔い改め・異神を棄てるなら彼らの神は水に流してくれるであろう、と読者に強く訴えた。こうして彼は、史書に過去を語らせただけでなく、未来への希望も盛り込んだのである。

編集者 てつてつ (2021年01月19日 14:14:56)

オフライン

#1267 2021年01月22日 06:48:12

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん またはどなたでも知っておられる方にお聞きしたいのですが

旧約聖書を推理するの本の 221ページに

小生が神学者を志したのは、聖書を科学的に扱うことに関心を抱いたからでした。洵に迂潤なことながら、小生にもおいおい判ってきたことは、神学教授たる者もまた教え子に福音教会の司牧職への準備をしてやる実際的な仕事があるということ、そして、小生はこの実務を果たしているというより、むしろ、当方のあらゆる留保にもかかわらず、小生の受講生をしてこの職に耐え得なくしつつあるということでした。


とありヴェルハウゼンが辞任したとあるのですが これは彼が真摯に聖書を調べた結果 聖書が神様が書いた本ではなく 人間が編纂した結果であると確信したので 自分が神学校の教授にとどまることや また教え子に福音教会の司牧職を紹介することが良心的にできなくなって辞職したということなのでしょうか

アーマンさんなんかも神学校の教授だったようですが自分が聖書が神様の本ではないと確信した後に棄教したようですが

編集者 てつてつ (2021年01月22日 06:54:49)

オフライン

#1268 2021年01月22日 16:25:00

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“あなたは進んで自分を正しますか(47)”で、組織に不満を持つのは、組織ではなくあなたが悪いので、正すようにという内容です。」
「児童性的虐待とか奇妙な聖書解釈や組織の不正を正すほうが先だろう。そういう事には全く触れず、末端の信者の些細な問題を取りあげて、罪悪感を抱かせようとしている。」

「3から8節が“神の言葉によって自分を正す”です。3節に“心は信用できず,正しい方向に導いてくれるとは限りません。(エレ 17:9)”とあります。引照聖句のエレミヤ17:9は“心はほかのどんなものよりも信用できず,必死になる。誰がこれを知り得るだろうか。”です。意味不明です。誤訳じゃないですか?」
「“必死になる”が誤訳だね。英語では desperate。日本語訳の問題だ。協会共同訳の“治ることもない。”が正しい訳。desperateには“治る見込みがない、絶望的”という意味があるけれど、日本語翻訳者はそれがわからなかったのだろう。」
「その後に、“ですから,神の言葉を使って自分自身を調べる必要があります。”と続くのですが、おかしいですよ。」
「エレミヤは“誰がこれを知り得るだろうか。”といっている。つまり神しか知りようがないということ。聖書を勉強したら、どうして自分の心がわかるのかな。」
「それで、“レントゲン装置を使うと物の内側が見えるように,聖書を使うと私たちの内面を見ることができます。”とあります。」
「それだと聖書はまるで魔法の本みたいだ。具体的に聖書をどのように使うとどのように内面が見えてくるのかを説明しないと、何の説得力もない。」
「抽象的で具体性に欠けるのがものみの塔の記事ですから。」

「3節に“聖書の教えや,教え導く役割を与えられている兄弟たちからのアドバイスを当てはめるには,謙遜でなければなりません。”とあるけれど、“教え導く役割を与えられている兄弟たち”は英文では“God’s representatives”(神の代理者)だよ。これは統治体のことだね。」
「日本語訳者は統治体の老人が神の代理とは信じていないのですよ。」

「4節がサウル王の話です。サウル王というと謙遜でない人の代表としてJWでは扱われています。“指示に従わなかったのは大したことではないと考え,責任を部下たちに押し付けて,自分を正当化しようとしました。(サム一 15:13-24)サウルは以前にも,同じようにしたことがありました。(サム一 13:10-14)”とあります。」
「サムエル一15章は、神様のアマレク人全滅命令に従わず、羊と牛を持ち帰ったという話だね。この神様の命令は異常だよ。何も疑問に思わず、乳幼児から家畜まで殺す方が問題でしょう。」
「旧約聖書の倫理観は服従こそ最高の美徳であるというものですね。」
「ヒトラーの命令に従ってユダヤ人を殺しまくっていたナチス親衛隊やポルポトの命令に従って同じカンボジア人を殺しまくっていたクメール・ルージュこそ、旧約聖書の求める人間たちということだ。」
「JWは殺人まではしていませんが、組織に命じられるまま排斥された家族を捨てています。」

「一方、サムエル一13章はサウルが勝手に全焼の犠牲を捧げて、サムエルに怒られたという話し。サムエル一13:14には“しかしもう,あなたの王国は長続きしません。エホバはご自分の心にかなう人を見つけます。エホバはその人を,ご自分の民の指導者に任命します。”とある。これはサウル王はクビだという宣言だよ。それなのに15章では、何事もなかったかのように、サムエルはサウルにアマレク人全滅命令を出している。おかしな展開だ。」
「サムエル一13章のサウルが勝手に全焼の犠牲を捧げた話は後からの挿入ですよ。それでストーリーに乱れが出てしまったのでしょう。」

「サムエル一の15章では、アマレク人は全滅し、ただ家畜だけが生け捕りにされたことになっているけれど、アマレク人はまた後で出てくる。全滅などしていないよね。話に一貫性がないよね。」
「サムエル一の30章に出てきますね。30:1,2には“ダビデと部下たちは3日後にチクラグに戻った。南部とチクラグはそれより前にアマレク人に襲撃されていた。アマレク人はチクラグを攻め,火で焼き, 女性たちとそこにいた全ての人を,若者も年寄りも,捕虜として連れ去っていた。”とあります。殺されたアマレク人がゾンビとなって襲ってきたのでしょう。」
「それから、サムエル二の1章では、サウル王にとどめを刺したのはアマレク人の若者となっている。」

「4節では、サウル王のことを“残念なことに,心が傲慢になっていたのです。”とありますが、サウル王はそういう評価でいいのですか?」
「歴代誌一10:13、14では“こうしてサウルは死んだ。エホバの言葉に従わず,エホバに不忠実だったからである。また,霊媒師に相談し, エホバに尋ねなかったからである。”と評価している。サウル王は宗教にあまり関心がなかった人だね。それで勝手に宗教儀式を自分でやって、サムエルに怒られる。それから契約の箱に対しても、取り返そうともせず、ダビデと違って全く無関心だった。これがサウルの低評価の原因じゃないのかな。」

「8節に“神の言葉 聖書は鏡のような働きをします。(ヤコブ 1:22-25を読む。)”とあります。引照聖句と合っていないと思います。」
「ヤコブ1:23,24には“神の言葉を聞いても実践しない人は,鏡で自分の顔を見る人に例えることができます。その人は自分を見ますが,そこを離れると,自分がどのような人かをすぐに忘れてしまいます。”とあるだけだね。神の言葉は鏡のような働きをするなんて書いていないよ。」
「ヤコブは聞くだけで実践しない人を、鏡から離れてしまうと自分の顔のことを忘れてしまう人のようだと言っているだけですね。」
「執筆者はこの聖句を誤解しているよ。もちろん統治体の誰もこの聖句を知らないので、訂正もされないわけだ。」

「9から13節が“仲間の言葉に耳を傾ける”です。JWにはろくな仲間がいないことが多いような気がしますが。」
「10節に“聖書には,「忠実な友は傷を負わせ[る]」とあります。(格 27:6)”と書いてあるけれど、これは訳がへんだよ。忠実な友は傷を負わせる?そんなことないよ。」
「英文の“The wounds inflicted by a friend are faithful, But an enemy’s kisses are plentiful.”を“忠実な友は傷を負わせ,敵はたっぷり口づけをする。”と訳したわけですね。」
「英文の方はまあまあだけど、日本語訳は相変わらず酷い。忠実な友は傷を負わせるのではなく、友による傷は真実、だよ。協会共同訳は“愛する人の与える打ち傷は真実/憎む者の口づけは偽り。”となっている。」

「10節には“自分の言葉や行動が神の正しい基準に沿っていないと仲間から指摘されると,最初は傷つくかもしれません。しかし,腹を立てたり文句を言ったりしてはなりません。”とありますが、神の正しい基準ではなく、組織の理不尽な基準に沿っていないと仲間から指摘されるので傷つくし、腹が立つのですよ。」
「相互に監視しあうのがカルト組織だ。誰かが違反行為をすればすぐに密告し、自分の得点とする。そして忠告という名のいじめを繰り返す。文句を言うと、謙遜じゃないとさらにいじめられる。」

「11節に“また,ソロモン王もこう述べています。「年を取っているのに愚かで警告を受け入れない王よりも,貧しくても賢い子供の方がよい」。(伝 4:13)”とあるのですが、“子供”と訳するのはどうですか?」
「元のヘブライ語は子どもから若者までを指す。文脈から判断するわけだけど、次の4:14は“彼は,その王の治世には貧しい者として生まれたが,牢屋から出て王となった。”で、“彼”は“貧しくても賢い子供”を指すと通常は理解される。年取った王に代わって王となった人物。それを考えると子供じゃなくて少年か若者。英語の聖書でも新しいのはyouth(若者)としているものが多い。昔の聖書は子どもとしているのが多い。JW訳は時代遅れなんだ。」

「12節にパウロがペテロを叱責したけれど、“パウロを恨んだりはしませんでした。それどころか,後にパウロのことを「愛する兄弟」と呼んでいます。(ペテ二 3:15)”とあります。ペテロの手紙の作者はペテロじゃないですよね。キリストのことを知らない人ですよ。」
「ペテロ一2:22-24にキリストの死について書かれている。“キリストは罪を犯さず,欺きを語ったこともありませんでした。”とあるけれど、これはイザヤ53章からの引用で、しかもギリシャ語の70人訳からのもの。この作者はキリストの死について自分の言葉で語ることができないので、イザヤ書から引用して一般的なことを述べている。イエスに関してはそれだけ。その生涯や教えなど知らないようだ。だからペテロじゃないよ。」

「ギリシャ語訳から旧約を引用するなんて言うのはギリシャ語を母国語とする人ということですよね。」
「ペテロニ3:16に“パウロはどの手紙の中でもこれらのことについて述べていますが,中には理解しにくい箇所もあります。無知で不安定な人たちは,そうした箇所や聖書のほかの部分を曲解し,滅びを身に招いています。”とある。これはパウロの書簡集が広く流布して読まれていることを前提とした言い方で、そのようになるのは2世紀以降だね。」
「ペテロ二はキリストの再臨の遅れが問題になっている時代ですから、2世紀ごろですよね。」
「JWも同じように終わりの日が来ないという問題を抱えているので、“エホバにとって1日は1000年のようであり,1000年は1日のようです。”とか“神は,一人も滅ぼされることなく,全ての人が悔い改めることを望んでいるので,皆さんのことを辛抱しているのです。”とか“しかし,エホバの日は泥棒のように来ます。”などペテロ二からしょっちゅう引用する。JWにとって、ペテロ二は利用価値が高いものになっている。」

「13節に、アドバイスする人へのアドバイスが出ています。“仲間に話す前に,こう考えましょう。「私は『正しさにあまりにこだわって』いないだろうか」。(伝 7:16)正しさにあまりにこだわると,エホバの 基準ではなく自分の基準で人を判断してしまい,厳しい見方をしがちです。”とありますが、これも聖句の誤用でしょう。」
「伝道7:16は“正しさにあまりにこだわってはならない。賢くなり過ぎてはならない。どうして自分の身を滅ぼすのか。”だけど、過度な正義や賢さは死を招くといっている。それは7:15に“私はむなしい生涯の間に全てを見た。正しい人が,正しいことを行っていても死んでいき,悪人が,悪いことを行うにもかかわらず長生きする。”という観察から得られた教訓。賢さも過度になると人生の虚しさを知ることになるだけというのが伝道の書の作者の意見。」
「旧約聖書では正しい人は長生きするということになっていませんでした?」
「出エジプト20:12では“父と母を敬いなさい。そうすれば,あなたの神エホバが与える土地で長く生きられる。”とあるし、申命記4:40では“あなたは,私が今日命じる神の規定とおきてを守らなければなりません。(略)あなたの神エホバが与えてくださる土地で長く生きるためです。”とあるね。でも、そんなことはないと伝道の書の著者は言っているわけだ。」

「14から16節が“神の組織からの指示に従う”です。この記事の最重要部分ですね。」
「14節はJWの組織を賛美している節だけど“過去に下した決定に調整が必要かどうかにいつも気を配っています。「今の世のありさまは変わっていく」ので,神の組織も状況の変化に対応していく必要があるからです。(コリ一 7:31,脚注)”と、教義変更について言い訳しているよ。」
「“今の世のありさまは変わっていく”という訳は誤訳ですよ。これから誤訳のコリント一 7:31を教義変更の言い訳に使うつもりですね。」
「協会共同訳では“この世の有様は過ぎ去るからです。”だね。paragó は“変わる”ではなく“過ぎ去る”という意味。パウロは間もなく終末が来ることを信じていた人。しかし終末は来なかった。終末カルトのJWとしてはその辺をごまかすために訳を変えたのだろう。」

「15節は“会衆の合併や王国会館の売却”の言い訳です。“こうした工夫によって得られた資金は,王国会館がいっそう必要とされている地域での建設プロジェクトに使われています。”とありますが、信用できませんね。」
「それはそうだ。JWの資金の流れは全く不透明だからね。」
「透明性のない組織では大規模な不正が行われていると見なすのがこの世の常識です。」
「“こうした調整にみんなが協力しています。それは本当に立派なことです。”とあるけれど、そんなに協力している?」
「売却に不満を持つ人、王国会館が遠くなったので、集会に行かなくなる人はいますよ。そういう人が結構いるので、みんな協力していますなんて書いているのですよ。」

「16節では“私たちはエホバのために働いており,エホバはご自分の組織を導いておられます。”といって“(コロサイ 3:23,24を読む。)”とあるわけだけど、このコロサイの訳がひどいね。」
「“何をしていても,人のためではなくエホバのためにするように,自分の全てを尽くして行いましょう。皆さんは,報いとしてエホバから財産を受けることを知っています。主人であるキリストに一生懸命仕えてください。”とありますね。エホバが2回、キリストが1回でてきます。本当はすべてキリストを指すのですよね。」
「エホバ、エホバと言って、最後に突然“キリストに一生懸命仕えてください。”はおかしいと思わないのかな。それなら当然最後もエホバになるべき。“主”は勝手にエホバに変えたけれども、最後の部分はキリストとあるので神を畏れぬJWといえども変えられない。そのためへんな文章になっている。ひどい聖書だね。」

「16節には、“ダビデ王は良い手本を残しました。”といって寄付の話が露骨に出ています。組織は相当お金に困っているようですね。」
「“私たちが寄付をする時も,エホバから頂いたものを捧げているにすぎません。”とある。寄付をもらう側がこんな傲慢なことを言っていいのかな?寄付するお金は天から降ってきたものじゃないよ。」
「汗水働いて得た貴重なお金ですよ。感謝がない組織ですね。」
「支部に電話をかけて確かめたらいいよ。私たちの寄付は本当に“エホバから頂いたものを捧げているにすぎません。”なのですか、これが組織の見解なのですか、とね。」

「最後の17,18節が“狭い道を歩み続ける”なのですが、狭い道をかろうじて歩いているのは、組織じゃないですか?」
「そういう自覚があればいいけれど、なければ、まもなく道から転落という事態がおこりそうだ。」

#1269 2021年01月22日 20:41:34

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

てつてつ さんの発言:

聖書についての質問さん またはどなたでも知っておられる方にお聞きしたいのですが

旧約聖書を推理するの本の 221ページに

小生が神学者を志したのは、聖書を科学的に扱うことに関心を抱いたからでした。洵に迂潤なことながら、小生にもおいおい判ってきたことは、神学教授たる者もまた教え子に福音教会の司牧職への準備をしてやる実際的な仕事があるということ、そして、小生はこの実務を果たしているというより、むしろ、当方のあらゆる留保にもかかわらず、小生の受講生をしてこの職に耐え得なくしつつあるということでした。


とありヴェルハウゼンが辞任したとあるのですが これは彼が真摯に聖書を調べた結果 聖書が神様が書いた本ではなく 人間が編纂した結果であると確信したので 自分が神学校の教授にとどまることや また教え子に福音教会の司牧職を紹介することが良心的にできなくなって辞職したということなのでしょうか

アーマンさんなんかも神学校の教授だったようですが自分が聖書が神様の本ではないと確信した後に棄教したようですが


ヴェルハウゼンは19世紀を代表する聖書学者です。モーセの5書は、モーセが書いたものではなく、異なる人物によって異なる時期に異なる場所で書かれた別々の文書を寄せ集め編集したものという文書仮説で世界的に有名です。

昔、教文館から「近代旧約聖書研究史―ヴェルハウゼンから現代まで 」という本が出てましたが、この本の題名にあるように近代旧約聖書研究の創始者のような人です。

ヴェルハウゼンの辞表の文は有名です。科学的に聖書を研究したくて神学部の教授になったのですが、同時に牧師の育成という仕事もあるわけです。彼は自分が神学部で教えることは、牧師の育成に役立つどころか、むしろ有害であると悩み、それが彼の良心に重くのしかかってきたと言っています。そして、ゲッティンゲン大学の神学部を1882年に辞職しました。

しかし、1885年に別の大学で東洋言語学の教授として迎え入れられ、1889年にはもといたゲッティンゲン大学の哲学部の教授になっています。

アーマンさんはそれから100年後の人です。ヴェルハウゼンたちのおかげで、聖書は人間の書いたものということを堂々と神学部の学生に教えることができるほど自由になり、自分の良心に反することを教えなくてもすむようになったので、辞職する必要はなくなったのです。

#1270 2021年01月23日 14:52:54

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

やっぱりそうだったのですね
普通の良心ある人なら耐えられないと思います cry

ありがとうございました

編集者 てつてつ (2021年01月23日 14:53:33)

オフライン

#1271 2021年01月29日 15:32:21

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“将来を真っすぐ見つめましょう(48)”で、過去の無意味なJW人生を振り返ることなく、これからも同じように無意味なJW人生を歩め、という内容です。」
「過去のことを考えるのが悪いことのように書いているけれど、自分の人生を考えるためには過去を振り返る必要があるのは当たり前だよ。」
「当たり前のことが当たり前じゃないからカルトなわけです。過去を振り返って、JWであることを悔やむという当然の結論になったら組織が困るじゃないですか。」

「アメリカの掲示板で見たけれど、中年男性JWの投稿で、JWのため低学歴低収入で、家賃の支払いさえ心配しなければならない貧乏生活を送っているのだけど、高校の同級生だった人のことをたまたま知ったというわけ。そいつは勉強もできずさえない高校生だったにもかかわらず、大学院まで行き、今では高収入の専門職で立派な家に住み高級車に乗っている。自分がJWでなければ、きっとそいつと程度の人生をおくれた、少なくとも家賃の支払いを心配しないような人生をおくれたはずと、無駄なこととはわかっているけれど、どうしても思ってしまうという内容。」
「悲しくなりますね。JWという宗教がもたらした悲劇ですね。」
「そういう人がたくさんいるので、過去を振り返らず、未来を見つめようなんて言う記事を学ばせるんだろうね。4節で“この記事では,過去のことばかり考えないために注意するべき3つのわなを取り上げます。”とあるよ。」

「5から8節が“昔に戻りたいという気持ち”です。これが最初の罠です。昔を懐かしむ老人JWが多いのでしょう。組織はそれさえも許さいないわけです。」
「JWの大半を占める老人たちがまだ若かった時代は、JWの数も増え、会衆には活気があふれ、体罰で泣き叫ぶ子どもの声も高らかで、ハルマゲドンまであと少しと本気で思っていたわけだよ。そう思って、組織に言われるまま低学歴低収入で奉仕や集会へと駆け回った結果、今は健康に不安を抱えるみすぼらしい貧困老人。当然、昔に戻りたい、と思うだろう。でも、それは組織批判につながるから、そういうことはダメだといっているわけだ。」

「5節には“ソロモンは,「『昔の方が良かった』と言ってはならない」と書きました。”とあります。どういう意味ですか?」
「それは伝道7:10だけど、伝道1:9、10では“この地上に新しいものは何もない。何かについて「これは新しい」と言えるだろうか。それはずっと昔からあった。”といっている。新しいものは何もないのだから、昔の方がよかったというのは知恵のあるものではないという主張だ。」

「6節で、“昔に戻りたいという気持ちが強くなると,良いことしか思い出さなくなり,つらかったことは忘れてしまうことがあるからです。”といっていますが、伝道の書とは関係ないですね。」
「記憶は選択的だからね。全部を思い出すわけではない。PTSDなどは、過去のつらい体験を忘れたくてもどうしても思い出してしまい、そのたびに苦しむ。」
「この記事が言うように、いいことだけ思い出せればいいのですが、そうではないですよね。」

「6節で民数記11:5にある“エジプトでただで食べていた魚が本当に懐かしい。”という荒野をさまよっていたイスラエル人の発言に対して、“しかし,イスラエル人は本当に「ただで」こうしたものを食べていたのでしょうか。決してそうではありません。”と言っているけれど、疑わしいね。」
「エジプトではナイル川や水路にたくさんの魚がいます。それをイスラエル人は捕まえて、“ただで”食べていたんじゃないですか。」
「この記事の執筆者は、都会育ちで、魚は魚屋で買って来るものと思っているんだよ。」
「エジプトの魚料理はフライですか?」
「ぶつ切りにして、下味をつけて、油で揚げる。これが古代から現在に至るまでのエジプトの魚の食べ方。」

「イスラエル人は魚だけでなく、“それに,キュウリやスイカ,ネギ,タマネギ,ニンニクもだ。”といっています。これらはエジプトの貧しい人たちの食べるものなのですか?スイカなんてぜいたく品じゃないですか?」
「大昔のスイカは楕円形であまりおいしくなかったと思われる。スイカの主な用途は水分補給。」
「スイカは英語ではwatermelonですね。」
「スイカは日陰の涼しい場所に置いておけば数週間から数カ月間保存が効くため、エジプト人は水分を貯蔵するためにスイカを栽培するようになったようだ。旅をするときも水筒代わりに持っていったようだ。」
「イスラエル人がスイカを懐かしむというのは、荒野の中ではそれだけ水が足りなかったということですね。」

「旧約聖書の中で、スイカが出てくるのは、この民数記11:5だけ。はじめはここで使われているヘブライ語abattichが何を意味しているか分からなかった。後に農民に対する指示が書かれた古代の文書が発見され、そこにはabattichは重ねず、一つ一つ置きなさいと書いてあった。当時のスイカの皮は傷つきやすかったので、これはスイカを指す言葉ということになった。」
「挿絵を見ると、スイカは赤くないのですが?これは正しい?」
「JWにしては珍しく正しい。古代の文献では黄色と書かれている。後の時代の品種改良の結果、赤くなり甘くなった。おいしいスイカは神様のプレゼントじゃないよ。」

「7,8節に体験談が出ているのですが、これが2004年の記事の再利用です。3代目会長のノアの妻で、その死後1年で再婚した女性の体験談ですよ。」
「少し前に写真付きで出ていたよね。でも7節にあるノアからのアドバイスの中で“…‥”で省略されている部分がある。そこは“思い出は喜びを与えてくれるだろう。”なんだ。将来をまっすぐ見つめるべきだというこの記事の趣旨に反するので省略したのだろう。こういった詐欺的な引用はJWの得意技だね。」
「8節の引用部分ですが、“エホバへの全時間奉仕に携わった63年余りを振り返ってみますと,”で始まるのです。過去の人生を振り返っているのに、“将来を真っすぐ見つめる点で本当に素晴らしい手本です。”と結論付けているのですが、奇妙です。」
「今のJWには、もはやいいお手本が見つからないようだね。」

「9から11節が“怒りの気持ち”です。これが2番目の罠です。例として“ある姉妹は会衆の姉妹から,お金を盗んだと言われましたが,それは事実ではありませんでした。”という話しが出ています。」
「証拠もなく他人を泥棒扱いした姉妹は謝罪したとある。それなら許すしかないね。なるべく距離をとり、接触を避けることによって、自分の怒りが静まるのを待つ。」
「11節に“やがて,姉妹は怒りの気持ちを捨てることができるようになりました。自分が人を許すなら,エホバに許していただける,ということを理解したからです。”とありますが嘘くさいですね。」
「エホバなんて持ち出さなくても、多くの人は怒りの気持ちに対処しているよ。」
「しかし、たいした証拠もなく他人を泥棒呼ばわりするというのは相当問題のある人ですよ。」
「簡単に言うと人権感覚の欠如だね。JWには人権もプライバシーもない。」

「10節に“エホバは必ず私たちの心の傷を癒やしてくださいます。(啓 21:3,4)”とありますが、引照聖句に書かれていることは、遠い未来の話です。何の慰めにもなりません。」
「啓示21:4に“神は人々の目から全ての涙を拭い去ります。もはや死はなくなり,悲しみも嘆きも苦痛もなくなります。”とあるけれど、ずっと先のことだね。問題は今どうなのかなんだけど、なにもしてくれないわけだ。」

「12から17節が“自分を責め過ぎる気持ち”です。これが3番目の罠だそうです。偽善的ですね。組織は信者が罪悪感を抱くように誘導していますよ。」
「JWは律法主義だからね。誰もすべてを守れないほど膨大な規則を作る。そうすれば誰もが罪人になるしかない。そういう仕組みを知らないまじめな人は自分を責めてしまう。」
「組織は信者の生活の隅々までコントロールしようとしていますから、規則や禁止事項は減ることはありません。増える一方です。」
「それが効きすぎて、JWの中には自分はダメだ、JWを続ける意味がない、と思って、うつ病になったり、不活発になる人が出てきたので、今頃自分を責めすぎるなという記事を書いているんじゃないの。」

「15節でも過去の記事を再利用しています。“ある兄弟は「聖書は人の生き方を変える」のシリーズの経験に心を動かされました。”とあります。その兄弟は16節によると“若かった頃,ポルノ中毒から抜け出そうと必死に闘いました。でも,最近またポルノを見るようになってしまいました。”とあります。」
「またポルノの話し?JWにとってポルノ問題は宇宙的な大問題みたいだね。ポルノ中毒で自分を責めすぎているなんていう事例はいいから、児童性的虐待をして自分を責めすぎている人の事例はないの?」

「16節で、ポルノ中毒の兄弟は“『自分はだめな人間だ。エホバが愛してくださるはずはない』と思うことがあります。”といっています。この人の問題はポルノよりも強い自己嫌悪でしょう。自分で自分を愛せない。」
「まず“ポルノをやめられない=ダメな人間”という考え方を変える必要がある。でもそれはJWでいる限り難しい。まずJWをやめることを勧めるね。」

「ポルノなんて、ふつうは飽きますよね。若い時からずっとポルノ中毒というのはある種の病気じゃないですか?」
「この場合は自己診断で中毒と言っているだけ。実態は違うかもよ。アメリカの研究では、宗教に熱心な人ほど、その実際の程度に関係なく、自分をポルノ依存症と思い込む傾向があるらしい。」
「つまり、普通の人だと病的と思わない程度でも、宗教に熱心な人ほど自分は病的だ、中毒だ、と思い込みやすいということですね。宗教に熱心だと損ばかりですね。」
「普通の大人はポルノぐらいで罪悪感を抱かないよ。ただポルノに熱中しすぎて、生活に支障が出てくれば、何とかしなくてはと思うだろうね。」
「それでも宗教に熱中しすぎて、生活に支障が出ているJWに比べれば、ましです。」

「ポルノの有害性を盛んに主張するのは、アメリカではキリスト教右派Christian rightと呼ばれる人たち。保守的な福音派とカトリック教徒が中心メンバー。中絶、避妊、性教育、ポルノ、安楽死、同性愛、進化論などに反対し、外交政策ではイスラエルを熱心に支持している。」
「トランプ前大統領を支持していた人たちですね。JWと価値観が似ていますね。」
「アメリカのようなキリスト教右派がいない日本のような国では、ポルノはほとんど社会問題とはならない。」

「最後の18,19節は“新しい世界を見つめる”です。まとめとして、“昔がどれほど良かったとしても,将来の新しい世界の方がもっと良いのです。”、“許すことにするなら,エホバへの奉仕に打ち込めます。”、“自分を責め過ぎると,エホバに喜んで仕えることが難しくなります。”と書いています。」
「無給の宗教セールスマンの活動の妨げにならないように、実現しそうもない将来を見つめて、ひどい扱いを受けても許し、自分を責めすぎるなということだね。視野の狭い感情を失ったロボットのような人間が組織の理想の人間なんだろう。」

「19節で” 私たちには,永遠に生きる希望があります。”そして、“聖書は,その時が来れば「以前の事柄は思い出されることも……ない」と述べています。(イザ 65:17)”とありますが、イザヤ65:20では“100歳で死んだ者も少年と見なされるのである。”とあるように、イザヤの言う新しい天と地は人間が永遠に生きるなんていっていません。長生きするようになるといっているだけです。JWの言う楽園とは違いますよ。」
「その次に、“エホバに長年仕え,年を重ねてきたとしても,新しい世界では若返るのです。(ヨブ 33:25)”といっている。引照聖句のヨブ33:25には“彼の肉体を若い頃よりも元気にし,彼を活力にあふれた若い日々に戻そう。”とあるけれど、これはヨブの友人のエリフのせりふ。神の約束でも何でもない。」
「虚しい希望を持たせるための、JWによくある聖句の誤用ですね。」
「JWを確実に待っているのは、厳しい老後だよ。健康に気づかい、貯金に励もう。どうしてこういう常識的なアドバイスができないのかな?」

#1272 2021年01月29日 18:54:50

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

シンクレティズムの話が少し前に出ていましたが、頭のいいギリシャ人哲学者やユダヤ人神学者が考えてきたのは(新約のアテネ人みたいな暇つぶしの知的道楽てやつでしょうかね)誰かが何かの宗教的行為をするときに、その「対象」は何なのかをどう定義するの、そもそも定義できるの、というお題です。


誰かが部屋にいて祈っている(ように見える)とします。

エホバの証人なら「エホバ」に祈っている、と言うでしょうし、メリケン系プロテスタントなら「聖書の」神に祈っている、になるんでしょうか。

ヤコブみたいなのが現代にいたら木切れを集めて庭先に祭壇作って「エルエロヘイスラエル」て言うでしょうけど、スーツとネクタイでエホバの証人の集会に来ないと「同じ神」を崇拝しているとみなされないどころか、おそらく審理事件になります。

「エホバ」を発声するか念ずるかして祈れば対象は「エホバエロヘイェダエホバ」(エホバの証人の神エホバ)になるなら、「シンボル」で区別する偶像崇拝と大して変わりはありません。まず教典ありきで区別する「聖書の」神も似たようなものですが。

もともと多元的だったのが「同じ神」になったり、「同じ神」が広まるにつれて地域ごとのオリジナル性がでたり呼び方にバリエーションができたりとか、神の習合や分割はメソポタミアのアシュタロテやカナンのバールのように普通にあることです。


日本に入ってきているキリスト教は亜流のJWを含めて聖書信仰系が多いですが、「聖書の」神を信仰している訳ではない人(そう公言するルーテル系の方がいましたが)には、一神教か多神教(または混合宗教)か、の区別はもうあまり意味をなさなくなっている印象があります。


「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」(ヨハネ福音4章24)

#1273 2021年02月03日 05:12:52

ガッツだぜ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

キリスト教はイエスが神。ユダヤ教とは決別している部分もある。
身体に欠損がある者を厳しく差別してきたのが旧約。
むしろそういう者が救われるべきであると説いたのがイエス。
ユダヤ人のみが救われるのが旧約、イエスは善きサマリア人
について説いた。
イエスが神でなければキリスト教としてそもそも意味が無い。

#1274 2021年02月03日 05:45:01

ガッツだぜ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

疑点さんもおっしゃっていたように、放蕩息子の譬えは人にいらぬ争いを
招きます。人間はそれほど高尚な生き物ではないので、正当な評価を受けられ
ない場合、疑心暗鬼になります。
猿の実験でもそうですが、不平等は我慢できても不公平は我慢できない。

放蕩していたのが帰ってきただけで、一番上等な晴れ着と一番肥えた羊で歓迎
された弟は、初めは恐縮していてもやがて父の特別な愛を感じ兄を侮るようになる。
兄は自分の立場に不安を感じ弟に脅威を感じ、殺意を向けるようになる。
最悪殺し合いです。
人をダメにし、いらぬ争いを起こさせるのに、これ程良い方法はないでしょうね。
正しい評価を与えるのは重要な事です。

アベルとカインも「実話なら」族長継承権争いでカインが嵌められ、初めからアベルが
勝つように仕組まれていたと思います。アベルに伝えられていた情報がカインには
伝えられていなかった。恥をかかされた訳ですが、荒れ地を耕す長年の苦労を踏み
にじったのだから殺されても仕方ないようなひどい仕打ちだったのでしょう。

跡目争いではよく聞く話です。疑点さんの疑問もその通り。偽善で片づけたくない
ですね。

末っ子のダビデが兄弟を差し置いて王になったりしたところで、すぐに滅亡するのが
関の山、一体何度失敗したら学ぶのでしょう。
ヨセフのせいで兄弟間に争いがおきたり、モーセが兄のアーロンを処刑しても
モーセも断罪される。兄弟姉妹の争う話ばかりでいい加減うんざりしますね。

その点、イエスと弟は非常に仲が良く、イエス昇天後、弟も殉教した。
マリアは誰か一人を猫可愛がりするのではなく、とても冷静過ぎて怖いくらいです・・

#1275 2021年02月03日 11:33:06

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ガッツだぜ さんの発言:

放蕩していたのが帰ってきただけで、一番上等な晴れ着と一番肥えた羊で歓迎
された弟は、初めは恐縮していてもやがて父の特別な愛を感じ兄を侮るようになる。
兄は自分の立場に不安を感じ弟に脅威を感じ、殺意を向けるようになる。
最悪殺し合いです。
人をダメにし、いらぬ争いを起こさせるのに、これ程良い方法はないでしょうね。
正しい評価を与えるのは重要な事です。

どこかの大学の神学部の教授の人も、イエスの教えは逆説的な要素があり、短絡的にその通りに戒律や倫理にしたら人間関係ぐちゃぐちゃになる、みたいなことを講義で教えていましたよ。

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